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2010年1月23日(土)に公開される、ヒース・レジャーの遺作『 Dr.パルナサスの鏡 』。
この作品、イギリスで宣伝が始まったときは、ヒロインのリリー・コールのヌードがやたらと強調されて、「もしかして、『アイズワイドシャット』みたいなテイストなのか?」と、やや引いていたのだが、日本の公式サイトでの宣伝手法は、一転して、ヒース・レジャーと3人のイケメン俳優たちの友情をまず表に出す、完全に女性狙いのものに変わっていて驚いた。
日本ではとにかく、女性を動員しないとヒットにはならないらしい。というか、イケメン俳優4人のネームバリューで、女性を動員してヒットさせようということか。
公式サイトの予告動画の日本語のナレーションを聞いても、ターゲット・オーディエンスが若い女性だということがハッキリわかる。まずは、ヒース・レジャーの未完の遺作をジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルが引き継いだという経緯を語る。実際にこの3人はギャラをヒース・レジャーの遺児に捧げるという無欲さで、この作品に参加した。彼らがヒースに示した篤い友情は、事実として非常に感動的なのだが、この日本向け宣伝動画は、そのあとが悪い。
あろうことかたらたらと粗筋を説明したあげく、「大切な人を守るため、今鏡の中へ」と、陳腐すぎるキャッチフレーズで終わっている。これじゃ、まるでティーンの少女向けファンタジーのよう。どうしてよくある少女漫画的ストーリーの枠に当てはめたような粗筋解説をして、わざわざ映画を観る楽しみを半減させるのか。
こういう「ネタバレ」を宣伝サイドが自らしてくる場合は、実際は物語がそれほどわかりやすくない場合が多い。だって、監督はテリー・ギリアムじゃないの。そんなに一筋縄でいくワケがないと思うのだが。
英語のナレーションを字幕にした 予告動画 は、ずっと成熟している。この作品が「ファウスト」を下敷きにしたものであることをまず伝え、ちゃんと(?)テリー・ギリアム監督の不可思議な映像世界を前面に出したものになっている。あまりナレーションでベラベラしゃべらないし、映像と寄り添う壮大なクラシカルなメロディ――それはロシア風のワルツに始まり、レクイエムめいた合唱に自在に変調する――も効いている。日本語版では、陳腐なストーリー解説に合わせるためか、粋な映像もだいぶカットされてしまった。
どうして、日本ではなんでもかんでもこう、幼稚でないものまで幼稚化させるのか。
英語のナレーションの予告動画を見ると、「 オルフェの鏡 」のエントリーで予想したとおり、この作品、ジャン・コクトー的イメージがそこここに散りばめられている。ギリアム監督が直接コクトーに影響を受けたかどうかはあまり問題ではないと思う。「鏡通過」に代表されるコクトーの「幻視」は、特にハリウッド映画に大きな影響を与え、そこからさらに色々な国のさまざまな人の手によって「翻案」されているからだ。
たとえば、ヒース・レジャー演じるトニーと一緒にしばしば登場する「小さな人」。小人を登場させて、「この世」と「この世ならざる場所」との境界を曖昧にしていくという手法は、コクトーが好んで使ったものだ。
『 悲恋 』では、小人が主人公を死の世界へ導く水先案内人の役割を果たす。『 ルイ・ブラス 』では、小人が正装をして宮殿に仕えていることで、そこが実は「この世のどこにもない場所」であることを強く暗示する。
だから、コクトー作品へのオマージュである『 ロバと王女 』(ジャック・ドゥミー監督)の宮殿でも、「小さな青い人」たちが、普通に働いている。
コクトー作品がときどき、奇妙なほど予言的側面をもつことは、『 双頭の鷲 』のエントリーでも紹介した。コクトーはジャン・マレーとエドヴィージュ・フィエールが演じた詩人と女王を双頭の鷲になぞらえ、一方が死ねば、もう一人も生きられないと書いた。それから何十年もたって、ジャン・マレーが亡くなると(そのときはとっくにコクトーはこの世にいなかったが)、一週間もしないうちに、まるであとを追うようにエドヴィージュ・フィエールが亡くなってしまった。
「鏡通過」が役者にとって縁起が悪いことも、ジャン・マレーが「 私のジャン・コクトー 」の中で書いている。それはメキシコで『オルフェ』の舞台劇を上演しようとしたときのこと。
まず地震が来て劇場が壊れ、芝居は延期になった。劇場を修復し、いざ上演となったとき、オルフェを演じていた役者がいったん鏡を通過し、ふたたび出てくる前に、舞台裏で倒れ死んでしまったのだ。
ヒース・レジャーが亡くなったのも、「鏡を通過」するこの作品を撮っている最中。『ダークナイト』での過酷なスケジュールと役作りで神経をすり減らし、私生活でのゴタゴタもあって精神的にまいっていたという報道はなされてはいたが、『Dr.パルナサスの鏡』予告動画でのヒースの笑顔を見る限り、死に至るほど深刻な問題があったとは、到底信じられない。
もちろんテリー・ギリアム監督は、ジャン・コクトーだけでなく、古今東西に散らばるさまざまなイメージを巧みに取り入れている。そう、独創的な人は、常に幅広い知識人であり、優れた翻案家でもあるのだ。
Mizumizuがまた特に目をひきつけられたのは、英語の予告動画にちらと出てきた、この場面。
この挿絵の右上の部分。なんとまあ、ブリューゲルの「死の勝利」の一部そっくりいただいたものじゃないですか。
下の人物画にもモトネタがあると思う。それがどの作品なのかはハッキリわからないが、ブリューゲルと同じく北方の画家の、おそらくテーマは「東方三博士の礼拝」だと思う。布の質感が北方絵画の特徴を示している。
このブリューゲルの「死の勝利」については、 こちらのエントリー で紹介したが、奇妙なほど、現在のCGで作り上げたファンタジーワールドに似ているのだ。
『Dr.パルナサスの鏡』の小道具にブリューゲルの絵画を忍び込ませたのが監督のアイディアなのか、美術スタッフのアイディアなのかは知らないが、恐らくブリューゲルや ボッシュ といった中世末期の画家の作り出した奇怪なキャラクターは、現代のアーティストにも強く訴えてくるものがあると思う。
いろいろな意味で、観るのが楽しみな『Dr.パルナサスの鏡』。
各国の映画のポスターを紹介した こちらのサイト も興味深い。この独特な映像世界のどの部分をクローズアップして宣伝するのか?
日本はあくまで、スター俳優中心主義。黒と白を基調にして、中心の鏡の中だけに色をちりばめた色彩構成は、とても洗練されている。ちょっと地味かもしれないが、上品なデザインだ。
しかし、ヒロインのリリー・コールと、大注目の配役であるトム・ウェイツの名前さえないというのは・・・ トム・ウェイツが演じる悪魔メフィスト、それだけで胸が高鳴る人も多いと思うのだが。
ここまでイケメン俳優の名前を繰り返すのは、日本だけなのでは。作品の内容や質よりも、まずは、役者の「顔」で観客を集めようという今の日本の風潮をよく表している。
個人的に好きなのは・・・
リリー・コールが抜群に美しいこの1枚。さすがおフランス。リリーの少し獣めいた瞳が印象的だ。ヌードで釣らず、明るい髪によく映えるクリームイエローのドレスを着せているところもオシャレ。指のニュアンスもいい。
やはりヒロインをヒロインとして正当に扱って欲しいものだ。このごろの日本は何でもかんでも女性客狙いのイケメンパラダイス作品ばかりで、憧憬の偶像としてのヒロインがいなくなってしまった。
この作品では、ヒロインが魅力的に描かれているんじゃないか――その部分にも、実はMizumizuは期待している。
しかし・・・
『 ブロークバック・マウンテン 』では、ある意味、ヒース以上の評価を受けた ジェイク・ジレンホール はどうしたのだろう?
ヒースが亡くなったときに撮っていたBrothersは、12月にアメリカで公開されたはずで、日本でも公開予定と聞いたのだが・・・いつ?
ネットでの匿名ファン投稿が口さがなく、心ないのは万国共通だが、ジェイクがヒースの葬儀に表立って参加しなかったことで、英語の掲示板にも、「葬式にも出ないなんてなんてやつ。親友なんてウソだろ」「どうせ仕事だけの付き合い。友情はただの売り物」などとさかんに書き立てられ、気の毒このうえなかった。
実際には、ヒースが急死したときには撮影を中断してNYに行っているし、東海岸から西海岸に移ってヒースのお別れ会があったときも、表にこそでなかったが、行っていたのは明らかだし(街中で写真を盗み取りされている)、オーストラリアでの最後のお別れ会のときも、表に出てきた母親ミシェルにかわってヒースの娘のマチルダの面倒を見ていたのは名付け親のジェイク以外考えられない(マチルダちゃんだけが顔を出さず、他のヒースの家族は全員出席)し、つまりは、アメリカからオーストラリアまでずっとヒースにくっついていた状態なのに、「表に出てこない」からといって、非難されるとは・・・
出てきたら出てきたで、今度はメディアが無遠慮にカメラを向けてプライバシーを侵害するのは目に見えている。「葬儀に出られないほど辛いのでは?」と掲示板に書いたファンが一人だけいたっけ。ああした書き込みが救いだ。
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