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アンパンマンを生み出したキャラクター作りの天才、やなせたかしを開花させたのが、手塚治虫と組んだ長編アニメ『千夜一夜物語』であることは、だいぶ世間に認知されてきた。その立役者となったのは、NHKの朝ドラ『あんぱん』だろう。ただし、この作品は史実とかけ離れたフィクションも多い。では、ドラマの主人公ではない、現実のやなせたかし自身は、この時の手塚治虫とのコラボレーションについてどう語っているのだろうか。その代表的なものを、ここでは2つ取り上げることにする。『朝日新聞』2011年1月31日朝刊「人生の贈り物」より 自分にはキャラクターを作る才能があるなんて、まったく思いもしませんでしたが、友人の手塚治虫に「ボクのところは大人向けのものはできないから」と『千夜一夜物語』のキャラクター作りを頼まれたのです。 ぼくは大人向けの短編漫画を描いていたのでアニメのことは何も知らなかったけれど、台本を読んだら「たぶんこんな顔だろう」と簡単に描けちゃったんです。(中略) そのころの僕は代表作もなく、自分の才能に絶望していたのです。ところが、キャラクターがすらすら描けたのでとても楽になりました。(引用終わり)『人生なんて夢だけど』(やなせたかし著)2005年初版発行 自分の才能にはほとんど絶望していて、仲間の誰と比較してもかないません。ところがキャラクターは割とスラスラと描ける。顔とか身体つきが浮かんでくる。そしてごくつまらない端役だと思っていたのが、うまくはまると動き出して重要な役になる。山賊の娘マーディアがそうでした。「面白い! やめられない!」とすっかりはまってしまい、虫プロに行くのが楽しみでしたね。(引用終わり。やなせも驚いたマーディア人気については、こちらのエントリーを参照)そして間近に見た手塚治虫の仕事ぶりについては…(『人生なんて夢だけど』から) 天才手塚治虫の才能には唖然茫然。机を並べて描いたときはあまりの凄さに声もなしで羨ましいなんて僭越なことは考えず、そばにいられるだけで心がときめきました。 愛らしくて魅力的で、絵を描くスピードは百万馬力! 誰も真似できません。 思いがけず『千夜一夜』のスタッフのひとりとして参加したために、稀代の天才手塚治虫の素顔に接することができたのは幸福でした。(引用終わり)その後、手塚治虫の提案により、やなせたかしは名作アニメ『やさしいライオン』を世に出す。これがやなせの「人生と画風を変える作品」となり、もっぱら(売れない)大人漫画を描いていたやなせが児童漫画家として才能を開花させ、それが今私たちがあちこちでさかんに目にする、あのまるっこい『アンパンマン』キャラクター誕生につながっていく。手塚治虫が『千夜一夜物語』でやなせたかしを誘わなければ、やなせは自身のキャラクター制作の才能に気づかなかったかもしれない。その意味で手塚治虫の功績は大きいが、Mizumizuはアンパンマンの「円」を基本にした顔のつくりそのものに、手塚イズムを感じるのだ。言うまでもなく、手塚漫画の基本は「まる」だ。フリーハンドでコンパスで描いた以上にきれいな円を描いたという逸話さえある手塚の天才ぶりについては、藤子不二雄A氏も驚嘆し、絶賛している。彼によれば、自分も藤子・F・不二雄も、そうした技術はついに身につかなかったという。しかし、一人だけ手塚に匹敵する綺麗な円をフリーハンドで描けた天才がいた。それは、石ノ森章太郎。やなせたかしも、テレビのトーク番組で、タクシーの中で執筆していた手塚治虫が、揺れる車内でもきれいな丸い線を描いているのを見て、「バケモノだと思った」と言っている。彼も手塚の「まる」に注目し、魅せられていたのが分かるエピソードだ。幼児向けキャラクターとして驚異的な売り上げを誇るアンパンマンも、そのちょっと上になった子供たちが夢中になるドラえもんも、顔は限りなく「まる」い。しかし、NHKのドラマ『あんぱん』でも繰り返し出てきたように、アンパンマンは最初は「太ったおっさん」の姿をしていた。今のようなマンガチックな「まる」いキャラクターになったのは、やなせが『千夜一夜物語』に参加した以後のことなのだ。手塚治虫に「並外れた天才」と言わしめた藤子・F・不二雄が、手塚の影響下にある漫画家であることは周知の事実だが、ずっと大人向け漫画を描いていた(それゆえ『千夜一夜』の美術監督に抜擢された)やなせたかし最大のヒットキャラクターが、やはり手塚イズムを色濃く映す「まる」い顔をしていること。アンパンマンの造形の変化を年代に沿って追ってみると、これは偶然ではないと思う。あまり指摘する人がいないので、言っておきたい。アンパンマンの顔と、そのパーツが限りなく「まる」くなったのは、やなせが手塚と仕事を一緒にしたからだ、と。
2025.09.21
現在You TUBEで期間限定で配信中の長編アニメ『千夜一夜物語』。朝ドラ『あんぱん』で採り上げられたとたん再生回数が1日10万単位で増加していっているところを見ると、まだまだテレビ――というかNHKのブランド番組の影響力は目を見張るものがある。『千夜一夜物語』は1969年封切というから、56年も前の作品だ。だが、今見ても十分面白い。コメント欄を見ると、そう思った視聴者も多いようだ。最初はやなせたかし設定のキャラクターたちに慣れなかったMizumizuだが、見ているうちに、その唯一無二の雰囲気に大いに魅せられる結果に。(やなせたかしのキャラクターに関してはこちらの記事を参照)オープニングのモノクロの洒脱な作画は今見ても十分にアバンギャルド。だが、ストーリーの最初のほうは、なんだか「オトコの夢、大衆向けエロ路線じゃん」という印象で、実は見るのをやめようかと思ったのだ。それでも奇想天外な展開につられてみているうちに、「いやいや、この作品、実はかなり重層的なテーマを含んでる。やっぱり、さすが手塚治虫」と感想が変わってきた。うわ、スゲー! とショックを受けたのは、バカバカしい「宝比べ」競争のあと、卑怯な手をつかって王様になり上がった主人公がやらかす「圧政」の描き方。「目上の人への挨拶は逆立ちにしましょう」「米と塩を10倍値上げして、ヨモギと唐辛子を10分の1に値下げしなさい」「(逆らう民は)逮捕しなさい。断固、弾圧します」そして元老院メンバーと王の命令を伝える腰巾着との会話「高い塔を作りなさいとのことです」(元老院)「なんの目的に使うんです」「税金を使うためです」(元老院のメンバーが口々に)「そんなバカな」「政治の素人はこれだから困るな」「税法を国民にどう説明すりゃいいんです」「そんな金がありゃ、我々役人の恩給を倍にしてもらいたい」ところが、王の腰巾着に、「反対する者は死刑だそうですぞ。反対意見は?」と強く言われると、メンバー全員「・・・・」と、口をつぐむ。そして、「では、明日から基礎工事を。逆立ち!」と命令され、素直に逆立ちをしていく若くない元老院メンバー。次の場面では、ブリューゲルの『バベルの塔』から着想を得たとおぼしき造形の、高い塔の建設が始まる。次に王が繰り出す命令は…「戦争を始めなさい!」その一言で、軍隊が侵攻を始める。これらが面白おかしく進行していくのだが、Mizumizuには非常に衝撃的だった。これは、まさしく今の腐敗した政治、世界情勢そのものではないか? 日本では今年、米の値段の異常な急騰で国民は窮地に追い込まれた。一方で、採算度外視のハコモノ行政は今も続いていて、それこそ「税金を使うため」ではないかと疑わせる。「戦争を始めなさい!」→そして侵攻。これを見てプーチンを連想する人は多いのではないかと思うが、Mizumizuには、欧米に煽られてドンバスで戦争を始めたウクライナも同じに見える。この痛烈な政治批判こそ、手塚治虫が「漫画で一番大事なもの」だと語った精神だ。エロ、ファンタジー、ギャグと言った娯楽要素をふんだんに入れながら、荒唐無稽に見える話の中に腐敗した権力に対する皮肉を入れてくる。これが手塚治虫だな、と思う。そして、元老院メンバーには声優としては素人の有名人を配したり(だから、この場面のセリフは妙に棒読みでおかしいのだ)、彩色を排したりと、重要な場面を面白く見せる工夫もちゃんとある。さらに、高い塔が崩れたとき、その破片の1つには「Made in Japan」の文字。1969年にはまだメイドインジャパンは世界ナンバーワンではなかったかもしれない。だが、その後、日本の製造業は世界トップにのぼりつめ、世界中に輸出され「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれることになるのだ…そして、バブル経済の崩壊、製造業の衰退が来る。この高い塔の建設から崩壊までは、『千夜一夜物語』以後の日本の隆盛と衰退を予言しているかのよう。そして、今の日本は? 手塚治虫がいた時代の輝きはまったくない。Mizumizuの目には、清朝末期と重なって見える。アメリカには逆立ちを強要されて唯々諾々と従い、中国には徐々に確実に侵食されてなすすべもない。『千夜一夜物語』には他にも視覚的に面白い部分も多々あり、シリアスな人生訓になるようなセリフもあるのだが、やはりMizumizuが「すげぇ」と感じたのは、一連のこの政治批判の部分だ。これが56年前の作品? いやはや…さて、あなたはこの傑作アニメをどう見るのか? 期間限定のYou TUBE配信をぜひ。
2025.09.08
鉄腕アトムの歌が聞こえる 〜手塚治虫とその時代〜【電子書籍】[ 橋本一郎 ]<前回のエントリーから続く>橋本一郎氏が、『週刊少年キング』の新連載を手塚治虫に依頼すべくプロダクション通いを始めてふた月。相変わらず手塚本人に直談判はできずにいたが、年の瀬も押し迫ったころにスケジュール表をのぞくと、「今日は月刊誌が6時まで。それから色紙、新宿へお出かけ。明日は早朝から万博の仕事で大阪」と書かれていた。橋本氏が目をつけたのは「新宿へお出かけ」のフレーズ。さっそくマネージャーに探りを入れると、新宿というのはコボタンという漫画マニアの集まる喫茶店。しかも、明日はどこの締め切りもないので、編集者がくっついてくることはないという話だった。「よし、この絶好のチャンスに勝負をかけてやると、私は気持ちが一気に沸騰しました」(橋本一郎氏『鉄腕アトムの歌が聞こえる』)橋本氏は、新連作に向けて手塚の気持ちを「のせる」べく、どんな話から入り、どうやって新連載の依頼までもっていくか、しっかり事前に戦略を練っている。早めに喫茶コボタンに到着し、ミステリーなど読みながら手塚治虫を待つ。9時すぎに手塚、登場。「自信に満ちた大股で手塚が現れると、不思議なまぶしさがあり、店内にいた7、8人の客に、『あっ、先生だっ』とどよめきが走りました」。(前掲書)コボタンでの予定された仕事を終えたころ、「あれ、橋本氏も来てたんですか」と気づく手塚。「はい、先生をお待ちしておりました」。そこで橋本氏が始めたのは、意外にも「クローン技術」の話から。ちょうど、イギリスでクローン羊が生まれたという話題が世界を席巻していたらしい。手塚治虫もリラックスした様子で、すぐに話にのってくる。このあたりの二人の会話は非常に知性的でおもしろい。そこから橋本氏は永井豪の『ハレンチ学園』の話題を持ち出し、新連載の青写真を手塚に提示していく。漫画の可能性にあくなき挑戦を続ける手塚治虫がいかにも興味をそそられるようなアオリを、ちゃんと会話の端々に散りばめて。詳細は『鉄腕アトムの歌が聞こえる』を読みましょう。一読の価値は間違いなくある名著だ。「分かりました。タイトルが決まったら連絡します」。天真爛漫な笑顔で手塚が答え、マネージャーからタイトルが『アポロの歌』に決まったと橋本氏に連絡があったのは、その2週間後だった。偶然なのか、あえてかぶせたのかは分からないが、『アポロの歌』はオリジナルの漫画版もテレビドラマ版も、大阪万博開催の年にスタートしたことになる。1970年の日本と2025年の日本。ずいぶんと変わった。人間の一生にたとえれば、あの頃はもがきながらも未来を見据えるエネルギーが渦巻く青年期。今は、なんとか滅びまいとあがいている老衰期だ。さて、1970年に話を戻すと、2ヶ月に及ぶ「粘り」ののち、新連載を勝ち取った橋本氏が、他の手塚番の編集者たちに「新連載が始まりますが、よろしくお願いいたします」とあいさつすると、「こちらこそお手柔らかに」といった答えが返ってきた。だが、「内心は、『クソッ、それでなくても多忙きわまりないところに、週刊の連載など突っ込みやがって』と煮えくり返り、ワラ人形に釘を打ち込みたい心境だったに違いありません」。(前掲書)手塚治虫の筆による、新連載への意気込みが『週刊少年キング』に載ったのは1970年4月19日号。「万博開会式の感激をかみしめながら、新連載のタイトルを『アポロの歌』と決めました」で始まるこの文章も名文だ。橋本氏の目論見どおり、「まんがの世界にまったく新しい分野を切り拓いていこうと、大いに意欲を燃やしています」と手塚自身もノリノリになっている。『鉄腕アトムの歌が聞こえる』を読んで思うのは、優れた作品の裏には、必ず優れた仕掛け人の編集者がいるということだ。これは手塚治虫に限らず、巨匠と呼ばれる漫画家の名作のほぼすべてに言えるのではなかろうか。
2025.02.27
【中古】 鉄腕アトムの歌が聞こえる 手塚治虫とその時代/橋本一郎(著者)現在テレビ放映中のドラマ『アポロの歌』。1970年に『週刊少年キング』で連載がスタートした手塚治虫作品だが、この漫画の「仕掛け人」は橋本一郎氏。『鉄腕アトムの歌が聞こえる』『手塚治虫99の言葉』の著者であり、現在はYou TUBEでの配信もされている。ドラマ版の脚本・監督は1991年生まれの二宮健氏。「『アポロの歌』は、自分の礎を築いた手塚治虫先生の作品の中でも、特に心を揺さぶられた一作」なのだという。1790年発表の漫画を1991年生まれの映画人がドラマ化する。才能ある表現者に手塚作品が与える、時を超えた影響の大きさを改めて実感するエピソードだ。さて、その『アポロの歌』だが、『鉄腕アトムの歌が聞こえる』には、この隠れた名作を世に送り出すまでに編集者・橋本一郎がどれほどの忍耐と情熱をもって臨んだかが、余すところなく描かれている。当時、永井豪の『ハレンチ学園』が一世を風靡すると同時に、大人たちから激しい攻撃を受けていた。そんな時代背景のなか、『少年キング』の編集部にデスクとして迎えられていた橋本氏は、少年週刊誌としては後発組で発行部数も振るわなかった『少年キング』の知名度を押し上げるため、とびきりのビッグネーム・手塚治虫を起用し、『ハレンチ学園』路線の漫画を描かせたいと思いつく。「手塚が描けば、かつてないアッパーな切り口の作品になるに違いない。手塚にとっては初めてのジャンルだからリスクもあるが、思い切ってチャレンジしたい」と、編集会議で強く推したのだ。会議では反対意見は出ずに、橋本氏は手塚治虫に原稿依頼に向かうが、そこから実際に連載が始まるまでは大変な困難が待ち受けていた。橋本氏は、「手塚について書かれた本を見ると、すべてといっていいほど、『頼まれた原稿は絶対に断らなかった』とあります。だが、現実はまったく違っていました。何よりもまず、いかに原稿を頼むかが、きわめて大変でした」と書いている。執筆依頼をしたくても、手塚本人に会うのが大変なのだ。手塚身辺には、原稿待ちで殺気立った編集者が幾重にも「無言のバリアー」を張り巡らせて、新参者を入れまいと常に待機している。マネージャーに新連載の話をもちかけても、「××誌、●●誌に加えて、◆◆の仕事や、□□の企画が入っていて」「アシスタント7~8人が3班に分かれて8時間3交替体制を取っているけど、それでも毎日が修羅場で」「これ以上、手塚に無理をさせるわけにはいかなくて」と、困り果てた顔をされる。この「手塚治虫本人に会わせない」作戦で、仕事を頼めないでいた経験をもつ編集者には、ジブリの代表の鈴木敏夫氏もいる。彼は『アニメージュ』時代に、手塚治虫に原稿を依頼しようとして、マネージャーに手ひどくブロックされた苦い経験があり、のちに手塚治虫本人に、「どうしてあんな酷い人をマネージャーにしているのですか」と聞いたところ、「それでいいんです。(あとで文句を言われても)『どうしてボクに直接頼まなかったんですか?』って言えるでしょう」と返されたという。手塚治虫の「愛想のいい安請け合い」を本気にして締め切りを守ってもらえず、悲惨な目に遭った関係者は枚挙にいとまがない。本人に直接、簡単に頼めたら、スケジュールはパンクを通り超えてたちまち破綻してしまうだろう。それで原稿を落としまくったら、いくら才能があっても信頼は地に落ち、漫画家生命は断たれてしまう。頼まれると断れない手塚治虫の性格を見越して、マネージャーや手塚番の編集者が、新しい依頼者を手塚に近づけないようにしていたのだ。そして、手塚治虫本人もそれはちゃんと分かっていた。鈴木敏夫氏は手塚の返しを聞いて、手塚治虫が競争の激しい少年漫画界で長年「生き残って」これたのは、(純粋な漫画の才能以外の)さまざまな「戦略」があったことを理解したのだという。この現実を無視して、「手塚治虫は来る仕事をまったく断らなかったから、いつも締め切りに遅れていたのだ」という偽のストーリーが流布されている。実際には、手塚治虫に仕事を引き受けてもらうには大変な忍耐と根性と、時にはそのための戦略が必要であって、それをクリアすれば手塚は絶対に仕事を断らなかった、が正解なのだ。橋本一郎氏が、新連載を依頼すべく、手塚のもとを訪ねたのは1969年の秋。行くたびに、原稿待ちの手塚番編集者から「また来たのか」と露骨に嫌な顔をされた。だが、すでに過去に手塚治虫と仕事をして、状況を知っていた橋本氏はまったくメゲずに、業界の噂話や新人漫画家の話などをして彼らと溶け込むよう努力したという。橋本氏の努力が実ったのは、通いはじめてふた月が過ぎたころ。手塚治虫本人と直接話せるチャンスがあるという情報をつかむのだ。<続きは次回のエントリーにて>
2025.02.23
2025年1月31日のNHKで、1986年制作の『手塚治虫 創作の秘密』がオンエアされた。この番組はすでに何度か見ているし、You TUBEでも一部が見られる。とはいえ、改めて全編を見ての感想は、超人的なスケジュールをこなす(というか追いまくられる)天才・手塚治虫の日々はしっかりと伝わってくる。が、肝心の「創作の秘密」に関しては、個人的には少し不満があるのだ。これは初見だった1986年にすでに感じていたことなのだが、鈴木光明氏、うしおそうじ氏、永島慎二氏など、実際に「漫画の神様」の仕事ぶりを目の当たりにした、そして驚倒したプロの漫画家たちの証言を思い浮かべると、本当に追い詰められて執筆する手塚治虫の神業ぶりは、「あんなもんじゃないでしょ」と今もやはり思うのだ。この印象を補完するような作品も発表されている。『ブラック・ジャック創作秘話』だ。そこには原稿に食らいつくようにして執筆する手塚治虫のナマの姿が証言をもとに漫画化されているが、あちらのほうが実像に近いのではないかと想像している。テレビ撮影ということで、やはり手塚治虫自身、「撮られている」ということを意識している、ように見える。そして元来のサービス精神を発揮し、「まるで牛若丸のように(うしおそうじの表現)」原稿のあちこちに順不同でペンを入れたり、原稿を回してさまざまな方向からペン入れをするハナレワザの一端は見せてくれている。だが、本当のカミワザの真髄は、見せることを意識した映像には残せなかったのではないかと、そんなふうに思わざるをえない。実際に手塚治虫の神業を見た人たちに、この番組の制作映像の印象を聞いてみたいのだが、残念ながらその多くはすでに鬼籍に入っている。別の論点になるが、この番組が繰り返し再放送されることの意義と醍醐味は、呼ばれるゲストのトークにあると思った。前回、この番組の一部を見て感想を述べていたのは、浦沢直樹。神様の手首の使い方に着目したり、「(ひと仕事終わったと言いながら)『明日の朝までに32ページ(の仕事がある)」』って、あれはありえない(常人では、それだけで到底無理だという意味)」と、神様の短いコメントから、天才の仕事の速さを素早く感じ取ったりと、漫画を描くプロならではの視点が実に面白かった。今回は中田敦彦氏がゲスト。それを迎えるのが池上彰氏。高学歴の二人が「テレビを見ながらって、(ふつう)集中できないですよね」と同じことを言っているのが、あまりにありがちな感想で笑ってしまった。ながら作業はダメだと知っている、さすが高偏差値の優秀なる社会人。お二人の意見は「普通は」正しい。ただし、手塚治虫脳は普通レベルの優秀脳を超えているのだ。鈴木光明氏は、紙に漫画を描きながら、アシスタントにコマ割りを口頭で指示する手塚治虫の姿をみて驚愕している。普通、できませんよ、そんなこと。なんというか、脳の中に部屋がいくつもあって別々の作業を同時にできる…みたいな?また、外国から電話で、「XX(作品のタイトル)のXXページのXXを」と新作の背景を指定する、信じられない神業を目撃した人間もいる。なんというか、脳内にカメラがあって、パッシャパッシャっと撮った記録映像を必要に応じて引き出せる…みたいな?こんなことができる人間、手塚治虫以外にいるんですか? 世界中さがしてほかに一人でも?大いに共感し、「おお、同志よ!」と声に出したくなったのは、中田敦彦氏の「自分史上ナンバーワン漫画は『火の鳥 鳳凰編』。子供のころ読んで、一人の作家が描いたとは思えない、人智を超えた存在の描いた作品だと思った」「あれ以来、いろいろな漫画を読んだが、これを超える作品はない」というようなことを述べていたが、まったく同意。「今の自分は我王だろうか、茜丸だろうかといつも問いかけている」という中田敦彦氏には胸揺さぶられた。同時に、手塚治虫が読者の人生観に与える影響の大きさをまたも目撃したと思った。中田氏がYou TUBEで多くの人を、その知識と教養で魅了しているのも、こうした「精神の姿勢」の賜物なのだろう。『火の鳥』を読んだことがなくて、その人が大人なら、Mizumizuはまずは『鳳凰編』を読むことを勧める。これを読んで感性に引っ掛からないなら、おそらくその人は『火の鳥』向きの読者ではない。誰だったか忘れてしまったが、「演出家が『鳳凰編』をやりたがる気持ちはよく分かる。人間の業が深く描かれているから」というようなコメントを聞いたことがある。MizumizuはNHKの大河ドラマでやってくれないかな、と思っている。というのは、純粋な精神が悪に染まり、邪悪が聖へと昇華する人間の精神の計り知れなさを描いた大河ドラマをMizumizuは過去に一度見た気がするからだ。それは『草燃える』。茜丸=北条義時、我王=伊東祐之(このキャラクターはドラマオリジナル)。松平健と滝田栄の演技も素晴らしかった。Mizumizuは大河好きだったという手塚治虫が『草燃える』の影響を受けたのかと思っていたが、『鳳凰編』のほうが10年も発表が早かった。失礼しました。『火の鳥』を読んだのが遅かったので勘違いした。もしかすると、脚本家の中島丈博氏は『鳳凰編』を読んだのかもしれない。純朴だった義時青年が政治闘争を勝ち抜くうちに人格が変わり、澄み切った無欲な瞳を持つに至った琵琶法師の目を潰す流れは、茜丸の変遷そっくりなのだ。しかも、ドラマオリジナルの重要な女性キャラクター(架空の人物)の名前が「茜」だった。うう〜む。これは…話を番組に戻そう。中田氏をゲストとして迎えた池上彰氏は、いかにもジャーナリストらしく『アドルフに告ぐ』の先見性を挙げていた。今まさに私たちが見ているガザでの惨状。イスラエルとパレスチナの終わらぬ殺し合いを手塚治虫はすでに1980年代に描いている。最近、改めて読み直してみたが、ラストのイスラエルとパレスチナの対立は、「今」を見ているようだ。情報の可視化が1980年代より飛躍的に進んだ「今」だからこそ、読者により深く突き刺さってくるものがある。この作品を世界中の人たちに読んでほしい。けれども、紛争の当事者たちは決して評価しないだろうな。その理由は…書かないでおこう。
2025.02.01
22025年1月29日午後9時ごろ(日本時間30日午前11時ごろ)アメリカの首都ワシントンのドナルド・レーガン空港近くで起こったアメリカン航空旅客機と米軍ヘリの空中衝突事故。日本時間1月31日正午時点で、60余名の乗客・乗員、ヘリに乗っていた3名全員の生存は絶望視されている。また、全米選手権直後のフライトであり、フィギュアスケート関係者が多数乗っていたということで、衝撃が広がっている。だが…Mizumizuが最初に驚き、今はもっと不気味だと思っている事実。それは「乗っていたフィギュアスケート関係者」の実名報道だ。事故直後に伝えられたのは、ワシントン発のタス通信からの情報で、1994年のフィギュアスケートの世界選手権ペアで優勝した元ロシア代表のワジム・ナウモフさん(55)とエフゲニア・シシコワさん(52)が搭乗していたのだという。これを読んで最初に思ったのは、「え? なんでタス通信?」。ロシアの通信社がまっさきに元ロシア代表、現アメリカ在住コーチの名前を挙げたのだ。なんでこんなに早く分かったわけ? 「アメリカの国内線」に二人が乗っていたことを?ならば、すぐにアメリカから他のフィギュアスケート関係者の搭乗名が伝えられるだろうと思った。なんといってもアメリカで起こった事故だし、搭乗者名簿があればすぐ誰が乗っていたのか分かるはずだ。だが、ことがことだけに生死がハッキリするまでは、という配慮なのか、1月31日正午現在、具体的な実名はまだ公式には発表されていない。アメリカのスケート連盟、アメリカン航空の公式サイトおよび公式Xのリリースも当たってみたが、家族や友人への呼びかけと声明ばかりだ。こういうところが、恐ロシアなのだ。この情報の速さ。そして、それを現地国に先駆けて、あえて発表する。日本なんてもちろん、日本国籍の搭乗者がいたかいないかは、「現在確認中」という、お決まりのスローテンポ。一歩も二歩も遅れる日本の情報収集能力に対し、恐ロシアの速さよ。ナウモフ&シシコワは確かにフィギュア界では有名人だ。1994年の世界選手権のチャンピオンということは、佐藤有香がワールドチャンピオンになった幕張で優勝したということだろう(実は、まったく憶えていない)。だが、すでに過去の人で、一般人にとっては「誰? それ」だろう。それなのに、ロシアは情報を的確に素早くつかんでいるのだ。これだけ個人の行動把握が速いのなら、そりゃ、暗殺もできるわな、簡単に。反ロシア政府主義者で国を出たロシア人を震え上がらせるのには、十分な一報だっただろう。「お前らがどこでどう動こうと、分かってるからな」と、暗に知らしめるための実名発表だったのではないかとすら思う。実に恐ロシい。追記:News Channel3 NowのXで、搭乗して犠牲になったと思われる選手とコーチの名前が公表され始めた模様。@Newschannel3now
2025.01.31
手塚治虫アシスタントの食卓 [ 堀田あきお ]あっと驚く小ネタが散らばっている『手塚治虫アシスタントの食卓』。中でも1、2を争うびっくりネタは、楳図かずおにまつわるものだろう。ある日、堀田氏をはじめとするアシスタントは、手塚先生の仕事部屋の片づけを頼まれる。普段は手塚夫人以外は立ち入り禁止の部屋だ。入ってみると資料の本が床に積み上がり、すごい状態。アシスタントたちが整理を始めると、『新宝島』の初版本だの、ディズニーの原画だの、お宝がザクザクでてくる。「さすがだな~」と言いながら片づけを進めていくうちに、アシスタントの一人が思わぬものを発見するのだ。それはなんと「楳図一雄」と名前が書かれた大学ノート。中身は漫画だった!アシスタントたちは、「楳図さんの子供のころの作品だ!」「すごい大発見だ」と色めき立つ。おそらく楳図一雄少年は、手塚先生に見てもらいたくて自作の漫画を送っていたのだろう。「なんとなく先生の絵に似てんな!」とアシスタントの一人がつぶやく。楳図かずおが手塚治虫の『新宝島』を読んで漫画家を志した話は、今はかなり有名になっている。https://bunshun.jp/articles/-/74668以下、上からの引用(インタビューの一部)ファンの間では有名な「小学五年生の時、手塚治虫の『新宝島』を読んで漫画家になることを決意した」、「しかしすぐに手塚離れを意識し始めた」という一連のエピソードに、今一度掘り下げるべきものがあるように感じました。『新宝島』は戦後漫画の出発点と言われてきましたし、手塚治虫とはまさに日本マンガ史の「正統」ですよね。そこからどのような影響を受けたのか、あるいは受けなかったのか、おうかがいできますでしょうか。楳図 影響はね、受けないように気を付けていたんです。もともと僕は小さい頃から本が好きで、町の中に貸本屋さんが三軒あったけど、全部借りまくって読んじゃったというような子供だったんです。漫画もいっぱい読んでいました。それで、小学五年生の時に近所のお祭りへ行ったら、露店でベーゴマとかビー玉とかいろいろ並んでいる中に、本が売っていた。それが、手塚治虫さんの『新宝島』でした。それまで僕は漫画が好きでただ読んでいただけなんですが、『新宝島』を読んだ瞬間に目覚めちゃったんですよね。「あっ、僕も漫画家になろう!」と思ってしまった。 あまりにも面白いから、『新宝島』だけじゃなくて、『火星博士』だの、『ロストワールド』だの、『来るべき世界』だのと、当時出ていた手塚さんの作品をなんとかして手に入れて、読みまくりました。ところが、友達に「漫画を貸して」と言われて、いやだぁと思ったけど貸してあげたら、後で「返して」と言っても「借りた覚えがない」と言う。子供心に、世の中のいやな面を見せつけられてしまいました(苦笑)。 でも、僕はもうその時、「中学になったらデビューしたい」と思っていたんですよ。そうすると、手塚治虫は面白いけれども、その影響を受けてしまった僕というのは、手塚治虫のコピーになってしまう。それはイヤだなと、子供心に思っちゃったんです。友達が本も返してくれないし、だったら意識して離れよう離れようとしました。だから、手塚治虫は小学校の頃に読んだ漫画しか記憶になくて、『鉄腕アトム』は読んだけれども、たまに似ていると言われることがある『火の鳥』なんかは全然読んだことがないんです。(引用終わり)藤子不二雄がプロになる前、手塚治虫に自作の漫画を見てもらった逸話は有名だが、楳図かずおもそうだった、という話は手塚治虫からも楳図かずおからも聞いたことがない。送った本人ももらった当人も忘れてしまっていたのかもしれない。生前の手塚治虫が、売れっ子になったあとの楳図かずおを評価していたとも思えない。いや、むしろ楳図かずお作品には否定的だったのではないかとさえ思える。だが、アシスタントが楳図少年の漫画ノートを手塚治虫の仕事部屋で「発掘」したということは、手塚がそれを捨てずに長年持っていたということで、なにかしら才能の片鱗を楳図少年に見い出していたのではないだろうか。藤子不二雄Aの『まんが道』から『愛しりそめし頃に…』は、自伝的フィクションの大傑作だが、この中で藤子不二雄Aは手塚治虫の『新宝島』が自分たちの一生を決めたと繰り返し述べている。『愛しりそめし頃に…』の一場面。才野茂(さいのうがしげってる)は藤子・F・不二雄。藤子不二雄Aこと安孫子氏のパートナーにして『ドラえもん』の生みの親。同じく『愛しりそめし頃に…』から。左上の少年が赤塚不二夫、右下が石ノ森章太郎。のちに「ギャクの神様」「漫画の王様」と呼ばれる漫画家になる二人の道を決めたのも手塚作品。彼らが手塚チルドレンだということはよく知られているし、手塚治虫との交流も名高い。楳図かずおは、はやくから意識的に手塚漫画を「読まなくなった」と語っている。それは手塚治虫という絶対的存在の影響から逃れるためだ。また、漫画家になり、作品が認知され出してなお、編集者は楳図の原稿を取りに来てもくれず、自分で送っていたのだとか。そんな扱いでも、「自分の漫画は雑誌の売れ行きに貢献している」という自負が楳図を支えていたと自ら語っている。若いころから天才の名を欲しいままにし、決まった「手塚番」が常にやってきて、遁走すれば追いかけてくる漫画界の一大スター手塚治虫とのなんという扱いの違いか。晩年になって楳図かずお作品は、主にフランスで評価され、それに伴って日本での名声も高まったように思う。完成された楳図漫画は手塚漫画とはまったく違うが、子供時代にわざわざ自作の漫画ノートを手塚治虫に送っていたという事実を鑑みるに、楳図かずおもやはりまごうことなき手塚チルドレンの一人だったということだろう。
2025.01.18
高田馬場の小さな町中華、第一飯店。何の変哲もない店だが案外人気店らしく、お昼時は並んでいる人の姿も見かける。ここの「特製上海焼きそば」は手塚治虫が考案したという触れ込みになっている。もちろん、食べましたとも。「海鮮とキノコの旨味たっぷり」という宣伝にたがわない味。全体の味付けも濃いめで、いかにも昭和風。しかもすごいボリューム。これを食べるときは朝食を抜いて、遅めのランチタイムに行くようにしている(つまり、もうリピートしているのだ)。個人的にはキノコ類が豊富なのが気に入っている。シイタケ、キクラゲ、ストローマッシュルーム…自分ではなかなかここまでキノコ類を入れた料理は作れない。ボリュームが凄くて、食べ終わるころには、「さすがに飽きた。もうしばらくはいいかな」と思うのだが、あ~ら不思議。しばらく経つとまた食べたくなる。『手塚治虫アシスタントの食卓』にも、この店の焼きそばのエピソードが出てくる。店の名前は変えてあったが、テーブルといい、料理といい、イラストは明らかに第一飯店。『手塚治虫アシスタントの食卓』を読むと、手塚プロダクションが高田馬場にきてから、周囲の飲食店がいかに潤ったかがハッキリわかる。なにせ、大勢のアシスタントが会社のお金で豪勢に食べまくっているうえ、関連業者や編集者も押し寄せるから、当然、喫茶店など利用するだろうし(なにせ待ち時間が長い)、いやはや、一人の大天才による「高田馬場飲食店」への経済効果はいかばかりだったのかと。藤子不二雄A&藤子・F・不二雄によるエッセイ『二人に少年漫画ばかり描いてきた』でも、自分の仕事を手つだってくれた駆け出し漫画家に対して、手塚治虫が若いころからお金を惜しまず美味しい食事をふるまっていた様子が日記風に書かれている。藤子不二雄Aは、「(アシスタント代をもらったうえ)こんなにごちそうになってばかりでいいのだろうか」と思ったそうだ。漫画を一大産業にのし上げたのも手塚治虫だし、日本アニメの先駆者となったのも手塚治虫だし、グッズ販売が「儲かる」商売だと世に知らしめたのも手塚治虫のキャラクターだし、アシスタント分業制を採用して漫画の量産に道を拓いたのも手塚治虫だし、のちに大物となる有望な漫画家の卵を編集部に紹介したのも手塚治虫だし、漫画の神様が直接・間接に日本の経済に及ぼした影響ははかりしれない。そして、「グルメブーム」なんてものが起こるはるか前に、こうやって食をつうじて、地元の経済を回していた、というのも業績のひとつに挙げたいくらいだ。
2025.01.15
高田馬場に行くと、青柳の「更科」を買うのだが、同時に絶対寄ってしまう店がある連珍というタロイモスイーツ専門店だ。Mizumizuがタロイモスイーツに初めて出会ったのは、チェンマイ。日本では食べたことのない、重めの独特の食感、控えめな甘み付け。非常に気に入った。日本ではほとんど売られていないのだが、人形町と高田馬場には専門店がある。一番好きなのは、タロイモプリン。二層になっていてタピオカも入っている。こちらはタロイモのロールケーキ。タロイモを使っていないスイーツもある。手前の雪花もち。奥はタロイモボールで、タロイモそのものの風味が一番味わえる逸品なのだが、賞味期限が短く、しかもバラ売りしないで4つセット。すぐに硬くなって風味が落ちる、まさに生菓子なので、なかなか買えないでいる。こちらは「パンナコッタ」といって売ってるお菓子だが、全然パンナコッタではない(苦笑)。練乳を固めてココナッツを振りかけたスイーツ。タロイモは使われていないが、好みの味なので頻繁にリピートしている。ガランとしてるが、そのわりに整頓されていない店内(失礼!)でイートインもできる。「タロイモって何ですか?」と聞いてるお客も多いが、店員さんはあまりうまく答えていない。「台湾のお菓子…」とか(笑)。いや、それは表の看板に書いてあるって。タロイモを知らない方のために書くと、色は紫芋に似ているが、サトイモの仲間。そう聞いて食べると、多分納得できる風味だと思う。そこそこお客は来ているが、やや「そのうちなくなってしまうかも?」感のある店。お店に高級感がないのに、値段が高めなのも、もうひとつ流行らない理由か…タロイモスイーツの魅力、もっと日本人の間に浸透してくれたらな、と思う。
2025.01.12
手塚治虫アシスタントの食卓 [ 堀田あきお ]堀田あきお氏が「あまりに美味しくて」残っていた分を全部食べてしまったというお菓子、「更科」。高田馬場の青柳という和菓子屋のスペシャリテ。手塚治虫のお気に入りだったらしい。確かに、美味しいのだ、この更科。過剰な期待をして食べると裏切られるが、素材の上質感もあって飽きの来ない味。皮のもっちりしっとり感はMizumizu好み。高田馬場に行くたびに買っている。青柳には、手塚治虫キャラにちなんだ創作和菓子もある。コレ↓ 誰だか分かりますか?(笑)ちょっと食べすぎちゃった感はあるが、アトムなのだ。中身は栗餡。手塚治虫先生が亡くなったあとに考案したご当地(?)饅頭といったところ。高田馬場はアトムの生誕地なので。皮はかためで中身がしっかり入っている。古風な和菓子。これまた強烈なインパクトはないが、あれば食べてしまう。ウランちゃんもある。こちらは和三盆を使った餡。Mizumizuにはやや中身の餡子が多すぎる。個人的にはアトムの栗餡のほうが好き。お土産用の包装紙。最初はこんなふうに箱で買ったが、2回目からは自分用だけバラで買っている。高田馬場からは少し歩くが、アトム像の看板があるので分かりやすい。風が強い日に行ったら、このアトムがいなくて、通り過ぎてしまった。小さい店だ。和菓子屋なので、もちろん他にもいろいろある。でも、やはり「更科」が一番。
2025.01.11
手塚治虫アシスタントの食卓 [ 堀田あきお ]数ある「手塚治虫関連本」の中では、やや地味な扱いの『手塚治虫アシスタントの食卓』。手塚治虫って作品も面白いけど、本人もぶっ飛びにオモシロイ――ことを世に知らしめた『ブラック・ジャック創作秘話』ほど話題にはならなかったが、実際に手塚治虫のアシスタントを務めた漫画家が描いた作品ということで、取材から手塚治虫像を独自に組み立てた漫画とは違った醍醐味がある。「食卓」とタイトルにあるとおり、会社の経費で好きなものを食べていいという、手塚プロダクションのアシスタントたちの恵まれた食生活がメインのうらやましー境遇には驚くし、パンツ一枚で原稿を持ってくる漫画の神様のリアルな姿には笑うし、アニメに手を出して(かつ漫画の連載も同時進行で)ヨロヨロになってしまう人間・手塚治虫の仕事にかける情熱と超人的エネルギーには「これで60歳まで身体がもったのが逆に奇跡?」と今更ながら信じられない気分になる。だが、そうした手塚治虫メインのエピソードとは別に、ちょこちょこと出てくる脇役(?)のエピソードが実に効いているのだ。たとえば、チーフアシスタントの福元一義氏。『手塚先生、締め切り過ぎてます!』の著者でもあり、もともとはプロの漫画家(しかも売れっ子だった)。『手塚先生、締め切り過ぎてます!』は、このブログでも何度か取り上げたが、堀田アシスタントから見た、仕事人としての福元氏は、まさにプロ中のプロ。アシスタントを束ね、背景をメインに手塚作品を作画の面で大いに支えている様子には感嘆してしまう。常に複数の締め切りに追われ、ときに感情的になる天才・手塚に対し、福元氏は常に冷静沈着。部下の新米アシスタントが「それ面倒くさい(やりたくない)」とわがまま言えば、「そうか、じゃ、俺がやるか」と責めもせず、淡々と自ら仕事をこなしていく。用意した食事にも手をつけず(というか食べるのも忘れて)仕事をする、その集中力は半端ではない。またマネージャーの松谷氏は、のちに手塚プロダクションの社長になるだけあって、公私にわたって手塚治虫を支えている。手塚治虫から困りごとを相談されれば、「分かりました。なんとかしましょう」と安心させ、原稿が遅れて殺気立つ編集者から手塚を守る防波堤となり、アシスタントたちの不平不満を聞き、手塚治虫が制作に集中できる環境を守り続けている。人当たりがよいので、調整役にはぴったり。ルックスもよいので、夜の街ではモテたという。手塚治虫がしょっちゅう「松谷氏はどこですか?」とキョロキョロしている様子は傍から見ていると微笑ましいが、松谷氏にかかるストレスは大変なものだったらしく、辞表を「お守りがわり」に常に身につけていたのだという。そうした手塚神を支える使徒キャラクターも素晴らしいが、『手塚治虫アシスタントの食卓』でMizumizuが最も感銘を受けたのは、手塚治虫の老いた父君の姿だ。彼については、「厳格な人だった」「息子が漫画を描くのに反対で、やっと漫画家・手塚治虫を認めたのは、晩年。『陽だまりの樹』を描いてからだった」というような話はよく出ている。漫画の神様の父親に対する態度は冷ややかで、対照的に母親のことはほとんど崇拝しているということで、エディプスコンプレックスと絡めて批評する知識人もいたのを覚えている。歴史上の人物を取り上げて、「エディプスコンプレックスのなせるわざ~」などと囃すのが流行っていたときがあるのだ。最近はあまり聞かなくなった。今は発達障害だとか、パーソナリティ障害だとかいうのがはやっている。ま、歴史に名を残すような天才はだいたい奇人だし、普通じゃないですからね。こういう論評、まじめに聞く必要もないだろう。そーゆー意見もあるということだ。手塚治虫によれば手塚父は、「女遊びで母親を泣かせた」そうだが、『手塚治虫アシスタントの食卓』で息子に引き取られた老父は、社交的でファンをもてなす役割を買って出ている紳士。治虫には、「おさむちゃんと呼ばないでください!」とか「そんな恰好で(お客様の前に)でないでください!」などと怒られてばかりいる。息子が「偉くなる」のは父親にとって誇らしいことだろう。だが、「偉くなりすぎる」のは?漫画の神様と呼ばれる存在にまでのぼりつめ、なお不眠不休で仕事をする息子を見守る年老いた父親の、息子を思いやる短い言葉には無力感と寂寥がにじんでいる。どんな言葉かって? それは本書を読みましょう。あまり描かれたことのない、天才・手塚治虫の老いた父親の実像を知ることができる。それが『手塚治虫アシスタントの食卓』を重要かつ稀有な作品にしていると思う。
2025.01.08
年末に宝塚に行ったものの、手塚治虫記念館は年末は閉館(そのかわり元旦から開館)。それでも、外にあるキャラクター像なら拝めるだろう、ということで、散歩がてら宝塚ホテルから行ってみた。花の道にはジャングル大帝のプレートも埋め込んである。そろそろ暗くなってきたので、火の鳥がライトアップでもされているかな? と思ったが、さすがにそれはなかった。階段を下りてすぐのところにあるレオ像を拝む。これ、台座も含めて自宅の庭に飾りたい…手塚治虫キャラクターの中で最も好きな、ジャングル大帝レオ。いろいろなレオグッズを集めているが、その中でもおススメをいくつかご紹介。最近発売されたグッズで、非常に使いやすかったレオのマグカップ。波佐見焼きなのだが、波佐見がこのところ幅広い層に人気だというのも頷ける。それほど重くなく、ハンドル部は持ちやすく、形も完全な円筒形でないところが飲みやすい。たかがマグカップ、されどマグカップ。高級感を追求するのではなく、軽やかでモダンなデザイン性と使いやすさにこだわった逸品。この手のアイテムは売り切れ御免になることが多いが、まだネットで買えるよう。https://www.tezuka-shop.jp/shopdetail/000000002589/ct189/page1/recommend/こちらも気に入っている本革のキーリング。レオもカワイイが、丸っこく平べったい皮革のパーツが握りやすく、つまりバッグに放り込んでも行方不明になりにくい。案外使いやすくてちょっと驚きだった。お次は「ぬいぐるみはお尻だよね」と言って、ぬいぐるみを全部お尻を前に向けて飾ったという「格の違う変態ぶり(注:誉め言葉)」を見せつけた世紀の天才・手塚治虫のお得意のポーズのレオ。ビニール製のこのポーチは塗り薬や飲み薬、リップクリームやハンドクリームなどを入れて愛用している。最近ガチャに登場したレオのカプセルトイ。「すわらせ隊」の名がついている、安定感のある小さな置物。これが欲しくて原宿のガチャまで行ったMizumizu。4種あるアイテムのうち、レオ→ユニコ→アトム→ピノコの順で欲しかったのだが、ピノコばかり4つも連続して出てきて「ムキー!!」と叫びそうになった。周囲の方々が動揺しては申し訳ないので、自制した。Mizumizuはピノコよりチョコラが好きなのだが、チョコラの出てくる『ドン・ドラキュラ』は、ピノコの『ブラック・ジャック』とは人気が雲泥の差らしく、まったく商品化されない。残念だ。『ドン・ドラキュラ』のようなバカバカしい話、大好きなのだが。ついでに美少女チョコラが蝙蝠に変身するところなんて、なかなかエロくてよろしいのだが…あまりチョコラの魅力をつまびらかにすると、ロリコンのヘンタイだと思われるので、やめておこう。意匠が気に入っている眼鏡拭き(トレシー)。古いものだが、ちゃんと役割は果たしてくれる。ジャングル大帝のセル画。バックライトで照らして飾りたいと思って購入したが、適切なものが見つからずに今のところ適当に飾られている。この絵柄は版画にもなっている。欲しいが、高い…「初期手塚」のレオの絵。このポーチはチャックを開くと内側に「全集版」の名場面がプリントしてある。その名場面とはレオが王子としてジャングルの仲間に歓迎されるところ。このあたりの手塚タッチは、冴えまくっている。もうね、原画は国宝級ですよ。だが、その名場面、このポーチの印刷が悪すぎだった。なので、名場面のレオを切り取ってオリジナルのポスターにしたものを、どうぞ。『リーディング音楽劇ジャングル大帝 レオ編』。このデザイン、手塚治虫の描いた「王子登場」の場面のレオを忠実にトレースし、そこにオリジナルのレンダリングを合わせている。素晴らしい力作。で、今年はルネ編が初演となる。再演のレオ編は見ることができたのだが、初演のルネ編は半日でチケット完売になって、入手できず。とほほ。早めの再演、求む。ジャングル大帝レオの新作グッズが出ると、ほぼ間違いなく買ってしまうMizumizu。手塚治虫のキャラクターグッズがいまだにあちこちから次々出るところを見ると、この手の「手塚バカ一代」が結構まだ全国にいるのだろうな。
2025.01.04
宝塚土産の決定版と言えば、やはり乙女餅でしょう(そうなのか?)。手塚治虫先生ご用達という乙女餅、前回、おそるおそる少量の箱を買ってみたのだが、あ~ら不思議。Mizumizu本人が気に入ったのはもちろん、あまり甘いものは食べないMizumizu連れ合いからも「美味しい」と評判だった。きび粉も入っていて、独特の食感。切るのが難しいが小さく切ってゆっくり食べると、じんわりと甘みと旨味が舌の上で広がる。奇をてらわず、飽きの来ない味。今回は二度目で、20個入りを購入。年末に帰省してきた弟たちにも好評だった。日持ちは1週間とか。次も必ず買うでしょう。店がJR宝塚駅に近いのも助かる。
2025.01.03
ベルサイユのばら カレー 3種セット 景品 セット 目録 パネル イベント 新年会 忘年会 結婚式 二次会 宴会 福引 抽選会 ゴルフコンペ ビンゴ大会 グルメ景品 景品ゲッチュ!宝塚と言えば、『ベルサイユのばら』。『ベルサイユのばら』カレーなるものができたという話はネットでゲットしていたのだが、あまり売っているところがない。が、宝塚ホテルにはありました。それも一番無難なバターチキンカレー。『ベルサイユのばら』に影響を受けた(多分、宝塚歌劇ではなく漫画のほうだろうと思っているが)と言っていた大学時代の友人がいたので、彼女へのお土産と自分用に1つずつ購入。手塚治虫記念館は年末は残念ながら営業していなかった(年始は元旦からやるよう)ので、宝塚ホテルのショップにあった唯一の手塚治虫土産、キャラクタークッキーも買いました。それに、宝塚劇場をかたどった付箋。『ベルサイユのばら』カレーはまだ食べていないのだが、以前、新大阪駅の改札の外にあるパントリーという店でアトムカレーが売っていて買ったことがある。もちろん、宝塚の手塚治虫記念館でも買える。で、レトルトカレーなんて全然期待してなかったのだが、このアトムカレーが案外イケたのだ。今回は残念ながら買えなかった。イケたと思っても二度目に食べると、「そうでもないな」と感じたりすることも多々あるので、もう一度ぜひ買って、最初の印象が二度目も通用するかどうか確かめたいのだ。次回は絶対買うぞ。手塚治虫キャラクタークッキーは食べました。一番好きなキャラクターはレオで、次はユニコなのだが、それぞれ1枚ずつしか入っておらず、ややガッカリ。1枚になるか2枚になるかは、ランダムに決まるから選べないと注意書きがショップにあった。まったく普通のクッキー。個人的には好きなタイプのクッキーだが、といって美味しすぎて食べすぎることもないのが逆にありがたいかも(笑)。最近やたらと増殖してる、変に凝ったご当地土産よりよっぽど良い。案外リピートするかも。
2025.01.02
HIROKI NANAMI 5th Anniversary Orchestra Concert “Dearest”【Blu-ray】 [ 七海ひろき ]実は男装の麗人が、かな~り好きなMizumizu。七海ひろきはミュージカル『七色いんこ』(原作:手塚治虫)を見てファンになった。恋人役の有紗瞳も良かった。「二次元原作のキャラを演じて、漫画よりスタイルいいって、ど~ゆ~こと(主役の七海さんへの感想)」「ほぼ原作どおりのコスチューム着て、漫画のキャラクターのイメージ通りになるって、ど~ゆ~こと?(恋人役の有紗瞳さんへの感想)」と驚いたし、舞台狭しと踊ったり、駆け回ったりしながら(あれじゃ、若くないとできない)歌もきちっと歌う、その実力はなかなかのものだった。惜しむらくは、もう一度聴いてみたい、なんなら歌ってみたいと思えるようなメロディーラインの曲がなかったこと。ま、でもこれは作曲者の問題だし、そうそうミュージカルのスタンダードナンバーになるような名曲は生まれるものではないから仕方ない。そう考えると、アニメ『鉄腕アトム』はすごい。♪空をこえて~ ラララ星のかなた~のメロディーラインは、日本人ならほぼ知っている。あの曲を作るにあたって、手塚治虫本人が「日本の伝統的な五音音階にならないように」と注文を出したというが、本当に、天才。日本の「アニソン」文化は、鉄腕アトムに始まったといっていい。で、その七海ひろきと有紗瞳が共演するディナーショーが宝塚ホテルで開催されると聞いて、さっそくチケットをゲットしたのだ。このポスター、カッコよくて大好きだ。会場は満員で、99%は女性。七海ひろきアクリルスタンドを持ってきてテーブルに置いてる人も。後ろにはわりと大げさな機材も持ち込んだ撮影スタッフが。ファンサイトで配信するのだとか…時代はもう完全にコレ。テレビが終わるわけです。食事は無難なコース。これだけの人数分を一度に作るのだから、繊細な火入れだとか、絶妙な味付けだとかは期待できないが、といってガッカリするレベルでもなく、盛り付けはどの皿も均一に美しかった(さすがだなぁ)。隣に座った母娘は「美味しいね~」とめちゃくちゃ盛り上がっていたので、絶品と思ったゲストもいるということだろう。二皿目の舌平目のポーピエットは撮り損ねた。合わせてある野菜はホウレンソウ。舌平目、ホウレンソウのポーピエットって、なんとも凡庸なメニューだ。ポーピエットって、もともと好きじゃない。魚をいじりまわしてまずくするフランス料理の定番。新鮮でない魚をごまかす料理というべきか。パリでも有名ビストロで食べたが、白身魚の身がぱさぱさでボヤけた味のソースでごまかしていた。日本の魚はおいしいので、日本で食べるポーピエットで大きなハズレはないが、やはりね、新鮮でおいしい魚には、重っぽいソースをかけるより、絶妙な火入れ(これはめちゃくちゃ難しい)で塩だけ(塩加減の難しさよ! 食べる側の好みの平均値をいかないといけない)のシンプルな調理こそが最高なのだ。ま、この大人数にそんな料理が出せるわけないので、好みだけの意味のない論評だが。肉料理は、これまた無難な和牛フィレ。神戸に近いとはいえ、肉質はさほどでもない。正直、Mizumizuが山口のスーパーで買ってる山口のブランド牛のフィレ肉のがずっと美味しい。ソースは可もなく不可もなく。量的にはこれぐらいで十分。プレートの大きさに対して寂しい盛り付けだという意見も出そうだが、量より質を確保するほうを選んでいる感じでMizumizuとしては好感持てた。料理については、あまり褒めているとは思えないコメントになってしまったが、スターを呼んで、それなりの人数のゲストを集め、それなりの値段でそれなりに満足感のある料理を出すというホテル側のミッションの難しさを考えれば、十分及第点。デザート。Dearestの文字もきれいな盛り付けだった。パリブレストの味は可もなく不可もなく。ドリンクは何を頼んでもよく、頼めば提供もはやかった(←比較の対象がイタリアになってることに注意)。ショー自体は、コンサートほど聴かせるものではない。そのかわり、「推し」が席近くまで来てくれるという特典(?)がディナーショーの楽しみ。ゲストはみな、盛り上がりながらもお行儀よく接していた。自分たちで楽しい時間にしようという、ゲストのほうの意気込みも感じられるのが、コンサートにはない熱気になっていた。豪華な雰囲気の場所で美味しい料理を食べて、スターの歌や踊りを身近で楽しむ――ディナーショーのコンセプトは十分に納得できたが、いいとこ取りをしようとする分、料理もショーも中途半端になってしまうのは仕方ない。料理だけを堪能したければ、大人数の宴会ディナーではなく、少人数しか予約をとらないレストランに行けばいいのだし、歌や踊りだけが目当てなら、音響の良い、照明設備や舞台装置の整った劇場やコンサートホールでのショーに行けばいい。結構、当たり前の感想で終わった、七海ひろきディナーショー(於・宝塚ホテル)だった。
2024.12.31
宝塚ホテル前回宝塚に来たとき、泊まってみたいと思った宝塚ホテル。今回、ちょうど七海ひろきのディナーショーも同ホテルであるということで一石二鳥だった。ディナーショーといっても昼間の部もあったので、ランチのディナーショーのほうを予約し、宝塚ホテルに前泊することに。宝塚については詳しくないので知らなかったのだが、宝塚ホテルはもともとは宝塚南口のほうにあったのを、宝塚歌劇場の隣に移転し、2020年にオープンしたのだとか。入ってみて、めちゃくちゃ新しいと思ったのは、そのせいだった(無知)。内装は新しいが、どこかクラシカルな乙女チック路線を貫いていて、徹頭徹尾フェミニンなホテルだった。では、その感想を、藤子不二雄Aこと安孫子素雄少年に言ってもらいましょう。藤子不二雄Aの名作『まんが道』のワンシーンなのだが、ここが宝塚ホテルの内装コンセプトとあまりに似通っていてびっくりした。赤い絨毯を敷き詰めた大階段。こんなの、映画『風と共に去りぬ』か三島由紀夫邸でしかMizumizuは見たことない。あ、でも昭和の時代に安孫子少年が見たのはもちろん宝塚ホテルではない。さて、では、どこだったのでしょうか? 知りたい方は『まんが道』を読みましょう。新・宝塚ホテルのロビーには、旧宝塚ホテルに飾られていたという昔の宝塚劇場の緞帳(昭和56年まで劇場で使用)が目立つところに掛かっていた。色褪せてはいるが、歴史を感じさせる名品。廊下も美しかった。カードキーも最新式でエレベーターでも使用するタイプ。シングルルームだったせいか、部屋は狭いが、内装は上品な少女趣味で統一されていた(レースのカーテンは若干、ニトリ・苦笑)。冷蔵庫、セキュリティボックス、湯沸かしのような設備もちゃんと納まっているし、デスク上の壁には大きめのイルミネーテッド・ミラー(化粧用)もあり使いやすい。全身が十分うつる姿見は入口付近にあり、劇場に行く女性客のニーズを満たしている。バスタブはゆったりはしていないが、お湯をためて入ろうという気持ちになるぐらいのサイズ感はあり、しかも清潔だった。アメニティはローラアシュレイで、ここも女性好み(しかし、中年のおっさんが泊まったら? 翌日、体からローラアシュレイのフローラルな香りがただよってくるのか? 笑)。壁掛けになったテレビはYou TUBEも視聴できる。テレビはもはやオワコンだと思っているMizumizu。もっぱらYou TUBEを流していた。朝食つきのプランにしたのだが、残念ながらあまり口に合うものがなかった。バイキングで量と種類は豊富なので、選ぶものを間違えなければ満足できるのかも。Mizumizuは頼まなかったが、卵料理も作ってくれていた。ポーターが部屋まで案内する…ってことはないが、スタッフの対応もよく満足できるサービスだった。値段は(こういうホテルなので当然だが)日によってずいぶん違う。総合的にリピートしても良いと思えるホテル。しかし、川向うには温泉宿もあり、そちらも評判がよいよう。次回(また来る気でいるのだ)どっちに泊まるか、迷うなあ。
2024.12.30
全日本フィギュア、女子シングルの結果は坂本、島田、樋口、千葉という順位になった。採点傾向を見ると、回転不足のうち、軽度のq判定はかなり厳密に適用された印象。また演技・構成点(プログラムコンポーネンツ)は5項目時代に比べて3項目になった現在のほうが選手間に差が「つく」ようになってきている。Mizumizuはかねてから、回転不足や不正エッジを厳しく見るのは、それはそれで構わないけれど、軽度ならば減点は極力抑えるべきだと主張してきたが、昨今の判定を見ると、そうなってきている、と思う。特にイチャモンのようなエッジ判定で。例えば、樋口選手のフリップ。これに執拗につく「!(アテンション)」がMizumizuはずっと気になっている。樋口選手のフリップは、Mizumizuにはインサイドで踏み切っているように見えるのだが、中立くさいとイチャモンつけられれば、それはそれでまぁ仕方ないかもしれない。しかし、例えばショートの樋口選手のフリップには、!がつきながらGOEにマイナスはなく、逆に+1をつけたジャッジも複数いる。加点は抑えられているとはいえ、ジャンプの質自体は評価されていると考えていいだろう。だが、これも何度も言ったが、なぜ樋口選手はショートでフリップにこだわるのか。樋口選手の場合、ループのほうが加点をもらえる。自分ではしっかりインサイドで踏み切っているつもりでも、多くの場合、イチャモン判定がつくのは明らかなので、一度ショートのフリップをループに変えて得点の傾向を見てみたらどうなのだろう。回転不足判定が厳しくなると、不利になるのは島田麻央選手のように、3アクセル、4トゥループを跳べる――あるいは少なくとも、試合で着氷できるレベルに達してきている選手だろう。今回Mizumizuはスマホで演技を見ていたので、細かい部分は見えなかったのだが、島田選手のショートの3アクセルはやや足りない着氷だと思った。逆にフリーのほうがきれいに見えたのだが、判定は逆でショートの3アクセルがq判定、フリーは<判定だった。フリーの<判定は、いくらなんでも厳しくないか? と思ったが、見る方向によっては、かなり足りない着氷だったのかもしれない。判定が正しいかどうかは神のみぞ知るなので、脇に置いておいて、島田選手が3アクセルやその上の4トゥループを跳ぶかぎり、回転不足判定は付きまとうということだ。フィギュアスケート選手のジャンプのピークがいつなのか、それはもちろん個人差があるが、女子選手の場合は体の軽いジュニア時代のほうが跳べる。ベテランになるにしたがってジャンプは重くなり、回転不足が増えてくる。今、島田選手があれだけのジャンプを跳んでも、qやら<やらが付いているという状況を見るに、これから大人になって回り切った3アクセルや4トゥループを跳べる未来が待っているとは、なかなかに想像しがたい。こういう話をするのは、紀平梨花の先例があるからだ。今、坂本選手のポジションにいるのは、怪我さえなければ紀平選手だったかもしれない。しかし、現実は試合にさえ出てこれない状態だ。難度の高いジャンプに挑戦したことが、紀平選手の選手生命に重大な影響を及ぼしたことは否定できないだろう。島田選手の強みは何か? トリプルアクセル? 4回転トゥループ? もちろんそう思っているファンは多いかもしれない。だが、本当は島田選手には隠れた大きな強みがある、とMizumizuは思っている。それはルッツ、フリップの踏み分けだ。今回の全日本、坂本選手のルッツにも千葉選手のルッツにも1つアテンションがついた。どちらもルッツからの連続ジャンプを跳んだ時だ。樋口選手のフリップは何度も話題にしたとおり。その中で、島田選手にはルッツにもフリップにもアテンションなし。地味に見えるが、これは非常に大きなアドバンテージではないか。それからもう1つ。セカンドにつける3T。これも多くの選手が回転不足を取られるが、島田選手はクリアしている。樋口選手は3ルッツからの3Tを跳べる選手だが、2つ目のジャンプは垂直跳びになりやすく、qだけではく、それ以上の<を取られることも、年齢が上がるにつれ増えてきているように思う。もったいない話だ。坂本選手は今回フリーでセカンドに3Tを跳ばなかったが、あれだけ質の高いジャンプを跳ぶ坂本選手でさえ、2つ目の3Tはあやういことがある。だから、島田選手は高難度ジャンプに挑戦するより、1つ1つのジャンプをもっとダイナミックに大きく跳んで、加点を引き出すほうに注力したほうがよいのではないか。今回は失敗したが、成功した島田選手の4Tを見ると、かなり幅も高さもある。大きなジャンプを跳ぶ素質は十分にある。だが、高難度ジャンプに挑戦してしまうと、そこで体力が奪われるから、他のジャンプはどうしても省エネになってしまって加点を引き出せない。加点を引き出すジャンプのほうに、体力を使うべきではないか。もうひとつ、採点の大きな傾向として、演技・構成点(プログラムコンポーネンツ)の比重が、5項目時代よりむしろ3項目時代になって上がったこと。これは多くの観客の予想に反する傾向だと思う。つまりジャッジは、選手間の演技・構成点に、5コンポーネンツ時代より「差」をつけているということなのだ。ジャンプの基礎点だけで順位が決まるのではなく、滑りやつなぎの密度、表現力をより注視しましょうということだ。3つに項目を絞ったほうが、ジャッジも細かく見て採点がしやすいと思う。その結果なのか、あるいはISUの方針なのか、1位と2位を争うトップ選手間にも、以前以上に演技・構成点の差がでるようになってきている。高難度ジャンプを入れると、どうしてもそちらに体力が奪われるから、細かい表現まではできなくなってくる。島田選手が力を入れるべきは、高難度ジャンプより、むしろこちらなのだ。今回のフリーの点をみると、技術点では島田選手が坂本選手を7.31点も上回っているが、演技・構成点で12.65点もの差をつけられた。この点差が妥当かどうかの議論は脇に置いておこう。どのみち妥当か妥当でないかなど、主観が入るから正しい答えはでないのだ。Mizumizu自身はトップを争う選手同士の差は、あまり露骨につけないほうが公平な採点に「見える」と考えているが、一度こういう流れになると少なくとも次のオリンピックまではこの傾向が続く。つまり、フィギュアをジャンプ大会にはしない。ギリギリの高難度ジャンプで攻めるのではなく、すべてのエレメンツをブラッシュアップしたプログラムを披露した選手に高い評価を与える。今季の採点の流れを見ていると、審判団はそう言っている。例えば樋口選手は、3Aも跳べるが、跳ばないほうが強いのだ。成功することもあるが、失敗が多い状態では、高難度ジャンプは武器ではなくむしろ足を引っ張る要素になる。今の採点では、とりわけ。島田選手には正確なルッツ・フリップの踏み分け、高い精度の連続ジャンプのセカンド3Tというアドバンテージがある。だが、つなぎの密度や表現の多彩さでは、坂本選手には遠く及ばない。もちろん島田選手はきれいに滑っている。だが、やはり全体的に滑りが淡泊で物足りない。いや、これはむしろ当然なのだ。フィギュアスケートに味が出てくるまでには長い年月がかかる。といって、ベテランになりすぎても、今度は体力がガタッと落ちるから、そうなるとピークを過ぎた選手ということになる。フィギュアスケート選手の命はやはり、短いのだ。短い選手生命の中でどこに重点を置くべきか。島田選手にはその方向を見誤ってほしくない。
2024.12.27
いやぁ、すごいものを見せていただきました。鍵山優真選手の全日本フィギュアシングル男子フリーのことだ。なんというか、すべてにおいて異次元。ジャンプの質の高さ、スケートの伸び、ステップの巧みさ、きれいなスピン、細かい音楽をとらえる繊細な表現。あらゆる要素をここまでの次元で見せてくれるスケーターが現れるとは。そして、それが日本人選手とは!まず度肝を抜かれたのが4フリップ。高さ、幅、完璧に回っておりてきたあとの流れの美しさ。しかも、力んだところがまったくない。これぞeffortlessの極みだろう。4サルコウはもともと神のごとき完璧さだったが、今シーズンはこの最大の武器に失敗が出て心配したが、神4サルコウももどってきた印象だ。スケートの伸びも素晴らしく、伸びるからこそ、片足をあげて氷についた片足を少し曲げるだけの一瞬の仕草もハッとするほど美しい。姿勢もきれいで腹筋・背筋の強さは並々ならないものがあるのだなと思う。フリーのフラメンコを初めて見たときは、鍵山選手にぴったりと合っているなと感じた。滑りの緩急を堪能したあとに見せてくれる、複雑なステップも素晴らしいの一言。ジャンプもすごいが、質の高い4回転を跳びながら、ここまでディテールにもこだわって表現できるというのは、もう脱帽としか言えない。今季見た中で、間違いなく最高のプログラム、世界王者の滑りといっても過言ではないだろう。コストナーコーチの影響も大きいものがある気がする。見ていて気持ちよくなるようなダイナミックな滑りや細部もおろそかにしない手の動きなどは現役時代のコストナーを彷彿させるところがあった。ここまで素直な吸収力のある選手なら、コーチも教え甲斐があるというものだ。怪我があって心配したが、ここにきて本人の気力、コーチ陣を含めた周囲のサポートがうまく嚙み合っての飛翔になった。鍵山選手が「フィギュアスケートに求められるもの」すべてをここまでブラッシュアップさせて見せてくれるようになるとは、正直想像していなかった。鍵山優真が凄いのは、一歩一歩、すべての要素を確実にステップアップさせてきたこと。ジュニア時代は正直、そこまでの選手という印象はない。世界トップにのぼりつめる天才スケーターは、早くから注目を集めるものだが、鍵山選手は必ずしもそうではなかったと思う(たとえば、宇野選手は初出場の全日本ジュニアで3位、鍵山選手は11位)。だが、やはり、こんなふうに花開くということは、目立った存在でなかったころから、基礎的な訓練を徹底してきたからだろう。それ以外にこの開花は説明がつかない。もちろん、世界選手権ではイリヤ・マリニンという天才ジャンパーが待ち受けている。去年のマリニン選手の異次元のジャンプ構成を見たら、もはや誰も勝てない、マリニン時代が続くだろうと誰もが思ったのではないか。だが、今季のマリニンのプログラムは高難度ジャンプに重点を置き過ぎている。ジャンプ構成はあまりにも高難度かつ多彩だが、表現の部分はずいぶんと小手先で、彼なりの「進歩」が見えない。4回転を跳びすぎて、着氷はギリギリ。もともと回転不足臭いジャンプが多い選手だったが、そこを厳しく取られると点数は伸び悩む。なんであそこまで4回転の「数」にこだわるのだろうか。もっと1つ1つを確実に跳んで、ちゃんと回りきって降りてきてほしい。バック転なんてやらんでいーわ。それよりもっと「滑り」で見せてほしい。鍵山選手の最大の敵はマリニンではなく、実は「自分は世界トップを獲れるかもしれない」と思ったときに生じる自身の「欲」かもしれない。今の鍵山選手は無欲の強さがある。自分には世界王者になる力があり(実際に、ある)、そのチャンスが来たと自覚してしまったとき、金メダルが目の前にぶらさかったとき、今回のような無欲の演技、観客に思いを届けようとするひたむきさが揺らいだときに、鍵山選手にとっての最大の試練が訪れるかもしれない。
2024.12.22
不朽の名作、『ブラック・ジャック』(手塚治虫)。その中でも屈指の名台詞が、これだ。この写真は六本木で開催された『ブラック・ジャック展』で撮ったもの。展示スペースに入ると、まず目に入ってくる正面の窓に、これがどーんと飾られていた。2024年6月30日に放送されたスペシャルドラマ『ブラック・ジャック』でも、ラストにこのセリフの一部を持ってきていた。原作では、このラストシーンの直前に、Dr. キリコが哄笑するコマがある。それを受けて、ブラック・ジャックが「それでも私は人を治すんだ。自分が生きるために」と叫ぶのだ。最初にこのシーンを見たときは、まるっきり映画のワンシーンのようなドラマチックな構図とインパクトのあるセリフに「へへぇええ」とひれ伏したい気持ちになった。「自分が生きるために」――実に、うまい、うますぎる。ブラック・ジャックの叫びが聞こえないかのように去っていくキリコだが、最近になって、気づいたことがある。キリコの哄笑は、「ヒャーッハハハハ ワァハハハハァ」。生きものは死ぬときには死ぬ。お前のやったことは無駄になったな――表面上はそんな勝利宣言にも思えるが、よくよく目を凝らしてみると、この笑い方、実にわざとらしい。無理に笑っているようにも見える。そして、「ハァ」と笑い終わったあとは、キリコは無言になる。ラストシーンでは、キリコの笑い声はなく、吹きすさぶ風の中にブラック・ジャックの叫びだけがある。去っていくキリコの姿は、見ようによっては、うなだれているようにも見える。実は、キリコはこの時、泣いていたのではないか? 最近、Mizumizuはそんなふうに解釈している。キリコが登場する他の物語を読んでみると、キリコは実は「患者が助かるなら、それにこしたことはない」と思っている、まっとうな医師なのだ。ブラック・ジャックの「奇跡の腕」で、助かったはずの命。それが、突発的な交通事故で失われるという不条理。戦場での地獄を体験したキリコは、まともな神経では受け入れられないような悲劇や悲惨な死をいやというほど見てきたはずだ。例えば…なのだが、助かったと思ったとたんに、突発的な攻撃で死んでしまった兵士もいただろう。キリコは不合理に奪われる命を悼む悲しい気持ちを、下品とも思えるような笑いの中に隠して去っていったのではないか。こんなふうに読者が物語に参加できる、したくなる。それが、手塚治虫作品のもつ醍醐味だと思うのだ。ドラマ『ブラック・ジャック』を見逃した方は、TVerであと少しの間、見ることができるので、どうぞ・https://tver.jp/episodes/epthznpv1fブラック・ジャック ミッシング・ピーシズ [ 手塚 治虫 ]
2024.07.03
2024年6月30日放送予定の実写ドラマ『ブラック・ジャック』。放送間近になって、ドクター・キリコが女性に改変されたことが話題になっている。https://news.yahoo.co.jp/articles/080e976183672b4b14c1d94b6fd26d0313f1a6d2(上の記事から引用)キリコについて「なぜ自分で自分の死を決めてはいけないのか。いまだ答えの決まらぬ重い問いを、キリコは理路整然と突きつけ、BJのエゴを暴いてしまう。このドラマにも、絶対にいなくてはいけない存在だった」(引用終わり)ドクター・キリコは軍医として地獄を見た経験から、安楽死を請け負う「死神」になった。個人的には、この設定は外せないと思っている。原作のファンなら、ほとんどがそうだろう。だから、女性に改変と聞いて、「あーあ」と思った部類だ。とは言え、「なぜ自分で自分の死を決めてはいけないのか。いまだ答えの決まらぬ重い問い」という番組プロデューサーの視点も、それはそれであってもいいと思う。ただ…今日本で問題になっているのは、治癒の見込みのない患者(多くは老齢者)に対する過剰な医療介入。苦痛しかない人生を長引かせるだけの治療は、虐待ではないかという考えなのだが、このプロデューサーの「調べてみると、海外で安楽死をサポートする団体には、なぜか女性の姿が多い印象があった。脚本の森下佳子さんと相談しているうち、『優しい女神』のような存在が、苦しむ人のそばにいて死へと導くのかもしれない、と想像するようになった」という言葉の軽さがひっかかる。Mizumizu個人は安楽死は認められるべきだと思っているが、それは「苦しい。こんな人生はイヤ」と訴える人にすべからく、「じゃあ、死んで楽になりましょうね」という話とは違う。人はギリギリまで生きるべきだし、それは長短とは関係ない。そもそも生きることには苦痛が伴う。100%生きてて楽しい、なんて人、いるんでしょうかね?また、この新作『ブラック・ジャック』の女性キリコのキャラクターは、コスプレ感が高く、そのビジュアルもドラマを薄っぺらくしてしまう悪寒がする。「高橋一生はよかったけど、キリコがあれじゃーね」と言われるオチになりそうだ。ただ、見てみないとどんなものか分からないので、その意味で、番組放送前にトレンド入りするほど話題になるのは、よい宣伝になった。視聴者に興味をもってもらい、番組を見てもらうよう誘導するという意味では、成功している。そもそも、手塚マンガの面白さ、その深さを二次創作で凌駕するなんて、ほぼ無理な話。手塚マンガ以上に面白い原作手塚のアニメもドラマも観たことないですから、Mizumizuは。でもね、それでい~のだ(いきなり手塚から赤塚に)。先日、大阪の御堂筋線で見た『ブラック・ジャック』の文庫本を読んでる青年。彼が『ブラック・ジャック』を知って、漫画を読んでみようと思ったきっかけはなんだろう?一番ありそうなのは、アニメではないか。手塚眞が監督した子供向けのTVアニメ『ブラック・ジャック』を、最近になって配信で見たのだが、登場する動物が原作ではほとんど死んでしまうのに対し、手塚眞版『ブラック・ジャック』では、かなり徹底して「死なない」設定に改変されていた。Mizumizuはこの改変が非常に気に入った。特に嬉しかったのは犬のラルゴが死なずにブラック・ジャック一家の一員になっている設定。これは現代の価値観にマッチしているし、そもそも動物が死ぬ映像が苦手で、その傾向が年を取れば取るほど強くなっているMizumizuには、手塚流の非業の死(特に動物)はショックが大きすぎるのだ。。『ブラック・ジャック』作品の持つ切なさ、キツさ、そこに描かれた「生」のはかなさは、もう少し大きくなって漫画を読んで知ればよいことだ。Mizumizuはクリエイターの立場ではないから言えるのかもしれないが、原作への敬意があれば、改変はおおいに結構だと思っている。別の才能のインスピレーションが加わることで、新しい魅力が生まれ、ファン層が広がるのなら、二次創作は成功だと言えるし、「なんだこれ、ひどすぎる」「手塚治虫への冒涜」といった、よくある酷評も二次創作者はバネにすればいい。また、そうした新しい作品をきっかけに、元の作品への興味がわいて、「手塚治虫の『ブラック・ジャック』? 知らないけど読んでみようかな」でもいいし、「手塚治虫の『ブラック・ジャック』? そー言えば昔読んだかな。また読んでみるか」でもいい。また原作が読まれれば、そこで「こんなすごい漫画があったのか」と気づく人が増えるはずだ。その数はなにも爆発的に多くなくてもいい。そうやって名作を「つないでいく」ことが大事なのだ。そもそも、漫画をアニメ化するに当たって、原作者が最も大切だと思う部分を改変され、ハブられたのは手塚治虫が元祖といっていい。1960年の東映動画『西遊記』のこと。この時の経験が、手塚治虫にアニメ制作会社を作らせた。この時の顛末を、それぞれの立場からの考え方の違いを踏まえて、冷静にレポートしている著作が、以下。手塚治虫とトキワ荘 [ 中川 右介 ]
2024.06.23
基本、SF好きでは「ない」Mizumizu。今日本ではファンタジーは流行るが、SFは廃れた感がある。それでも、NHKで藤子・F・不二雄の短編SF(少し不思議な物語)がドラマ化されたりと、また徐々に人気が復活する「かも」しれない。で、手塚治虫の『ドオベルマン』だ。これは1970年に「SFマガジン」に発表されたものだという。だが、Mizumizuが読んだのは最近。こちらの電子書籍にて、だ。https://tezukaosamu.net/jp/manga/302.html一読しての感想は、「?????」。なんじゃ、コレ。意味分からない。説明的なわりにはラストシーンが何を意味しているのか、いまいちはっきりしない。多分、宇宙人の侵略を暗示しているのだろうけど、それにしては曖昧だ。「SFマガジン」に描いたということは、コアなSFマニア向けだから、基本SFに疎いMizumizuにはハードルが高かったよう。ドオベルマンの遺作の絵の構図とラストシーンの星空の関連をつかみたくて、それらが絵か描かれている数コマは穴のあくほど見たのだが、直接的な関連は示されておらず、やっぱり分からないままだった。逆に遺作に描かれた複数の〇の位置が、同じ絵なのにコマによってズレてることを発見してしまった。ま、手描きですからなぁ、忙しい手塚治虫なので、ササッと描いたんでしょう、たぶん(だが、後から考えると、同じ絵なのに、〇の位置が見る時間によってズレて見えるのは、「あえて」そうしたのかもしれないとも思った)。ただ、何となく忘れがたい作品なのだ。ラストシーンの星いっぱいの夜空の冷たさが妙に心から離れない。小品だし、昔の作品だし、覚えている人もそうはいないだろう――と思っていたら、実は、いた。2024年6月5日のエントリーで紹介した松浦晋也氏のエッセイでも触れられている。https://news.yahoo.co.jp/articles/dc55cf24410ecb08952a1ed9092f4aa2b3d34e4d?page=5(ここから引用)手塚治虫にも「ドオベルマン」(1970年)という、尋常ならざる速度で絵を描く画家が登場する短編がある。「サンダーマスク」同様に手塚本人が語り手だ。 手塚はある日、コニー・ドオベルマンという外国人の貧乏画家と知り合う。彼は奇妙な絵をものすごい速度で大量に描いていた。手塚は、その奇妙でデタラメな絵画にある規則性があることに気が付く。 ラストで手塚は夜空を見上げ、まさに世界が今までとは全く変わる瞬間に立ち会うことになる。手塚治虫漫画全集の『SFファンシーフリー』に収録されているので、気になる方はどうぞ。(ここまで引用)これを読んで、「あ、やっぱりかー」と解答を教えてもらった気分だ。「まさに世界が今までとは全く変わる瞬間に立ち会う」というのは、松浦氏の解釈だが、素晴らしい。こういうふうに読める読者がいるのが、実は手塚マンガの凄いところなのだ。描いてあるのは、冷たい星の輝く夜空だけ。だが、その前の〇の並んだ絵から想像するに、隊をなしてやってくる宇宙船がまさに、地球に到達した瞬間を手塚が地上から見てしまった、ということなのだ。その後、何が起こるのか? それを考えたうえでで、「世界が今までとは全く変わる瞬間」と解釈してみせる優れた読者。これはまさしく、作家と読者による共同創作だ。「どこからそれらを見るか」の視点の違いがあるから、絵の構図と夜空に関連がないのは当然。松浦氏の文章を読んで、スルスルっと謎が解けた。そういえば、『サンダーマスク』の侵略者も、宇宙空間から見ると〇で描かれていた。ナルホド。答えが分かると、このラストシーン、ジワジワと怖い。夜空のぞっとするような冷たさが暗示する「その後」の物語を、読者が自分で作っていけるようになっている。で、ググッてみると、ブログやX(旧ツイッター)この『ドオベルマン』について書いている人、案外多い。説明的なようでいて、「謎」が散りばめられていて、明確な答えが書かれていないから、想像するしかない。たとえは、こちら↓http://gom47.blog97.fc2.com/blog-entry-104.htmlこの方の疑問に、今はMizumizuはMizumizuなりの解釈で答えられる。1つは物語上の意味ある設定(ある役割をもった機器)。もう1つは、手塚治虫が時々やるという、あるモノを連想させる絵的な「お遊び」。あえて答えは書かないことにしよう。じっくり読めば、多分、Mizumizuと同じ答えにたどりつくはず。「お遊び」については、『手塚番 ~神様の伴走者~』にヒントがある。
2024.06.13
5月8日に放送されたNHKのクローズアップ現代『”AI兵器”が戦場に』。この内容を起こした記事"AI兵器"が戦場に 自律型致死兵器システム開発の現状は - NHK クローズアップ現代 全記録を読んですぐに脳裏に浮かんだのが、手塚治虫の『火の鳥 未来編』。ここでは人類は5か所の地下都市でのみ生きながらえている。支配者として君臨するのはコンピュータ。そして、ささいなコンピュータ同士の対立から2つの都市が戦争になる。「計算」に基づいたコンピュータの判断は絶対で、その命令には人は誰も逆らえないのだ。そして、戦争は2つの都市のみで起こったはずなのに、残りの3つの都市もなぜか同時に爆発して消えてしまう。コンピュータがどういう「計算」をしてそうなったのかは分からない。一瞬の、あまりにあっけない人類の滅亡だ。『”AI兵器”が戦場に』では、以下のように問題を提起している。AIの軍事利用が急速に進み、これまでの概念を覆す兵器が次々登場しています。実戦への導入も始まり、ロシアを相手に劣勢のウクライナは戦局打開のために国を挙げてAI兵器の開発を進めます。イスラエルのガザ地区への攻撃でもAIシステムが利用され、民間人の犠牲者増加につながっている可能性も。人間が関与せず攻撃まで遂行する“究極のAI兵器”の誕生も現実味を帯びています。戦場でいま何が?開発に歯止めはかけられるのか?”究極のAI兵器”とは100%自律的に動作する殺戮機械のこと。人間が判断し、指示する必要がなくなり、「正確な計算」に基づき「効率的・効果的」に敵を倒すことができるようになるというのだ。ヤレヤレ…実に不愉快な話。いや、不愉快ではすまない、ぞっとする話だ。元米国防総省 AIの軍事利用政策に携わる ポール・シャーレ氏「AIシステムは、より多くの任務を果たすことができます。その性能は時間とともに向上しています。機械は民間の犠牲を考慮せず、単に計算をして攻撃を許可・実行してしまいます。結果、人々により多くの殺戮(さつりく)や苦しみをもたらしかねません。人間が命の重さを考えることができなくなれば、向かうのは暗黒の未来です」(以上、『クローズアップ現代』の記事から引用)手塚治虫が常に世に問うてきた「命の重さ」。それを考えることができなくなる、暗黒の未来が来るというのだ。規制を求める声は、当然ある。しかし、かつての核兵器開発競争と同じく、AI兵器の開発競争も、止めることなどできない。ウクライナ デジタル変革担当 アレックス・ボルニャコフ次官「技術革新は私たちが生き残る手段です。ロシアは躊躇(ちゅうちょ)することなく、より致命的な兵器の開発に取り組んでいるのです。いつ、この開発競争が終わるか分かりません。総力戦に向かうことが、人類にとって正しい道だとも思っていません。それでも開発を続けねばなりません。さもなくば、彼らが優位に立ってしまうからです」(『クローズアップ現代』の記事より)「人類にとって正しい道だと思わない。でも、やらなければ敵が先に開発を進め、優位に立ってしまう」――この理屈、この恐怖。それが人類を破滅へと導く。『火の鳥 未来編』が描くのは、完全自律型AI兵器のさらに先に待ち受ける、完璧(だと人間が思い込んでいる)コンピュータが支配する世界なのだ。まさに手塚治虫の「予言」どおりに、世界は進んでいる。NHKは昨夜(2024年6月11日)Eテレでアニメ『火の鳥 未来編』のワンシーンが流れる番組を再放送していた。「なぜ機械のいうことなど聞いたのだ! なぜ人間が自分の頭で判断しなかったのだ」そう誰かが叫ぶのは、遠い未来なのか、あるいはそう遠くない未来なのか。火の鳥(2(未来編)) [ 手塚治虫 ]
2024.06.12
傑作か、駄作か――膨大な手塚治虫の中で、おそらく評価が真っ二つに分かれるだろう作品のひとつに挙げたいのは、『サンダーマスク』。最近見つけた記事で手塚版『サンダーマスク』を傑作認定している人(松浦晋也氏)がいた。手塚治虫の知られざる傑作「サンダーマスク」:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)あまり知られていない作品の中にも「すごい」と感嘆せざるを得ないような作品も存在した。その中のひとつが「サンダーマスク」だった。(中略)私にとって「サンダーマスク」は、まごうことなき傑作である。確かにラストは打ち切り作品らしく早足なのだが、それを補って余りあるオリジナリティーが込められている。変身ヒーローのサンダーマスクと魔王デカンダの対立というテレビ版の構造は、完全に換骨奪胎され、かなりハードなSF作品となっている。それどころか、映画「タイタニック」を思わせるメロドラマでもあるのだ。 物語の語り手は、手塚治虫本人。この時期の手塚作品には「バンパイヤ」に代表されるように手塚本人が時折登場している。手塚が命光一という若者と知り合うところから話はスタートする。(引用終わり)この記事を読んで、「おお、同志よ!」と思ったのだ。Mizumizuは最近になって初めて電子書籍版で読んだのだが、この『サンダーマスク』、相当面白い。手塚作品の中ではマイナーな『サンダーマスク』を、なぜ電子書籍版で買おうと思ったか・・・それは、ガチ手塚(真の手塚マニア)であるyou TUBER某(なにがし)氏が同氏の手塚治虫全巻チャンネルで、珍しくテンション下がりっぱなしの口調で「面白いとはいえない」と評したからだ。ファンがつまらないと言ってる作品、どのくらいつまらないの? と興味をひかれたのだ。【都市伝説】手塚治虫パンデミックを予言!支配者層の闇を暴露? (youtube.com)某氏は、手塚治虫自身もこの作品を気に入っておらず、その証拠にあとがきがあまりにアッサリしていること、書籍化の時に描き直しをする手塚治虫が手を入れていない(らしい)ことを挙げている。本人が駄作だと思ってそうしたのかどうか、Mizumizuは断定できないと思うのだが、「力が入ってない」と思うのは、作品の中身ではなく、講談社全集版の表紙の絵。手塚治虫の元チーフアシスタントが証言しているのだが、この全集版、手塚の力の入れようは並々ならぬものがあり、表紙の絵は新しく描きおろし、金の額縁の着色も、アシスタントに細かくダメ出しをしたそうなのだ。だが、『サンダーマスク』の表紙の絵は、過去に書籍化されたものをアップにしただけ。新しく描き直した形跡はゼロ。あとがきの短さ、全集版に向けての描き直しなし、表紙絵使いまわし――その作品が、今頃になって話題になるなんて、ご本人もびっくりかもしれない。漫画の文庫本には反対のMizumizuだが、電子書籍に関しては、利点があると思っている。それは、スマホと一緒にどこにでも持っていけること。本だとしまい込むと捜して出すのが億劫になる。それに、新幹線や飛行機の中に本を持参するのは面倒だが、電子書籍なら気軽に読める。手塚作品は楽天KOBO電子書籍ストアで安く買えるので、結構最近は買って、新幹線や飛行機の移動中に読んでいる。『レオちゃん』なんて、絵が好きだから、絵本版と電子書籍版の両方を買ってしまった(内容が少し違っていたが)。話が逸れたが、この『サンダーマスク』、Mizumizuにはかなり面白かった。夜中に真黒な大きな手が出てきて、クルマをつぶすところなんてホラーそのものだし、飛行機が乗客乗員ごと石になって落下してくるところ、町全体が石になってしまうところなんて、「山崎真監督の特撮映画で見たい!」と思うような発想だ。人類の敵となるデカンダーの正体も、「うわー、そうきますか」という奇想天外なもの。これがサイエンスフィクションというものですか、と妙に納得してしまう。こういったアイディアが秀逸で、次から次へと出てくるのがスゴイ。山崎真監督の映画で見たい、と思うのは、ラブロマンスもちゃんと入っているからだ。『タイタニック』のようだとは思わなかったのだが、『ゴジラ-1.0』にも、こういうロマンス要素がちゃんと入っていたことを思い出し、「さすが手塚作品、ツボは外さない」と変に感心してしまった。ラストシーンでのヒロインの姿には、悲劇でありながら、ほんのわずかな希望を必ず残す手塚治虫ならではの味わいがある。こういうラストは、他の誰も書けないのではないか。そして、個人的にツボったのは、ところどころにあるギャグ。5回は大笑いしてしまったわ。手塚マンガが好きなのは、ふいうちのように繰り出されるギャグがなんといっても理屈抜きに面白いこと。永井豪が登場する温泉のシーンは、力が抜けたおふざけで、大好きだ。こ~ゆ~のも、描けませんよ、なかなか。ところで、あのダサいサンダーマスクのマスク・・・手塚治虫のアイディアではないらしい。テレビドラマが先行した『サンダーマスク』は、サンダーマスクのキャラクター設定と怪獣のキャラクター設定は別の人がやったよう。テレビ版『サンダーマスク』の権利関係のごたごたが最近やっと解決したらしく、動画があがっているが、エンディングにはサンダーマスクデザイン 上山さとし怪獣デザイン 成田マキホとある。上山さとしって、誰? 成田マキホはウィキペディアに情報がある。手塚版『サンダーマスク』では、デカンダーの姿はドラマとはまったく異なっているが、サンダーマスクのマスクはかなり似ている。似ているが、ちょっと違う。違うのは、手塚版はまさにマスクで口元は普通の人間のそれのように見えること。テレビドラマ版では口元までマスクで覆われている。推測するに、テレビ版のサンダーマスクデザインを手塚作品でも使ってくれるよう制作側が依頼したのではないか。手塚版『サンダーマスク』の中で、このマスクのデザインを手塚治虫がさらさらっと描くシーンがあり、なぜか「デザイン料はいらんぜ」とわざわざ言っているのだ。この不自然なセリフ、ちょっと気になったのだが、テレビ版のキャラクター設定を踏襲したものだとしたら合点がいく。テレビでは上山さとしデザインと出てるんだから、そりゃデザイン料はナシでしょう。手塚版『サンダーマスク』、楽天KOBOで安く買えるので、読んでみて。サンダーマスク|マンガ|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL面白いか、面白くないかは、アナタ次第。
2024.06.05
麻布台ヒルズの大垣書店で開催された、鈴木まもる 『火の鳥』原画展に行った(6/2で終了)。アーチ形のおしゃれな入口の先に細長い展示スペース。広くはなかったが、その分至近距離で見られるのが嬉しい。いや~、これはね、行って良かった。原画の色彩は想像以上に素晴らしい。最近は印刷技術が進んで、原画よりキレイに見えたりするのもあるのだが、鈴木まもるの微妙な色彩の美しさは、やはり印刷では再現しきれていない。特に印象に残ったのは、上の写真の一番右の上に見えるブルーのページ。絵本はもっと暗めの色で、微妙なグラデーションが暗さの中に沈んでしまっている。原画はもう少しだけ全体的に明るく、動物たちの身体のラインがしっかりと見えた。なにげに強烈だったのが、シンプルなこの作品。絵本では裏表紙に使われてる絵。眠る火の鳥の羽と巣が一体化したかのよう。それがシンプルなで線で表現されているのだが、火の鳥の身体は簡略化されている分、生きている鳥のふくよかな量感がよく出ている。そして、巣の質感。一見すると短い線をラフに描いているようで、鳥の巣の「材料」の少し硬めの手触り、そして鳥の身体から出た熱を含んだ温かさが伝わってくるよう。さらに、構図。鳥と巣以外は何もないのだが、上の空間が広いことで、広がっている空を想像させる。鳥と巣を包み込む。この絶妙な空気感…いやぁ、匠の技ですあ…。絵本ではこの空気感が出ていない。下に巻く帯と右上に印刷する定価などの文字とのバランスを考えて鳥を配置しているので、絵そのものは平面的になっている。違いますねえ…絵本の絵と原画。逆に原画を見て、印刷でもうまく再現できているなと思ったのが火の鳥の「目」の表情。表紙では人間の女性の蠱惑のまなざし…といった感じなのだが、飛び立つページの火の鳥の目は、野性的な鳥のそれ。こういう描き分けは、かなりの再現度だと再確認した。いいなぁ、鈴木版火の鳥のお目目。手塚版火の鳥は、時にめちゃくちゃ「性悪な目」になるんですよ。ひっで~罰を人間に与えるときなんて、ね。残念だったのは、展示されている原画数が少なかったこと。麻布台ヒルズでの原画展は終了したが、次は6月26日~7月16日まで千代田区神田神保町2-5 北沢ビル1Fのブックハウスで開催予定のよう。7/5にトークショー(これは大人向け)、7/6にワークショップ(お子様とどうぞ)があるという。トークショーは前回のエントリーで書いたように宝塚で参加したが、面白かったですよ。最初は手塚るみ子氏との掛け合い(?)だが、ノってくると裸足で(なぜ? 手塚るみ子氏はちゃんと靴を履いていましたが)あっちこっち動きながら鳥の巣の話をする鈴木まもる画伯。年代モノの自家製『火の鳥』(COM連載版)も見せてもらえるかも。ちなみに、ボランティアで学校の子供たちに絵本の読み聞かせをやっている友人が、さっそく絵本『火の鳥』を購入して学校へ行ったところ、手塚治虫と聞いた先生のほうが食いついてきたとか。手塚治虫『火の鳥』、さすがに日本中に浸透している。漫画『火の鳥』には早すぎる子供たちも、これからは絵本『火の鳥』がある。いい時代です。<『火の鳥 いのちの物語』原画展>日時:2024年 6月 26日(水) ~ 7月 16日(火)11:00~18:00(最終日17:00まで) 会期中無休会場:ブックハウス1階 ガリバー+鈴木まもるさん&手塚るみ子さんトークショー日時:2024年7月5日(金)18時00分~会場:ブックハウスカフェ2階 ひふみ定員:60名(店舗) 100名(オンライン) 先着順 見逃し配信あり参加料金:2000円 (絵本「火の鳥 いのちの物語」とセットで3000円)☆終了後サイン会あり+ワークショップ <火の鳥の巣をつくろう!>日時:2024年7月6日(土)①11時00分~/②14時00分~会場:ブックハウスカフェ2階 ひふみ定員 各回12組 先着順参加費 1500円(1組=小学生以下のお子さま1名+大人1名)☆終了後サイン会あり
2024.06.04
2024年は手塚治虫『火の鳥』発表から70周年。それを記念する形で実現したのが、日本を代表する絵本作家、鈴木まもるとのコラボレーション。火の鳥 いのちの物語/手塚治虫/鈴木まもる【3000円以上送料無料】この絵本、あちこちのメディアで取り上げられてるので、内容については、そっちをお読みいただくとして。Mizumizuは、あえてこの絵本の技法、そしてその画力の素晴らしさについて書きたい。絵本だから「絵」がキモになるはず。だが、不思議と絵本となると、絵そのものの魅力について語られることが少ないのはなぜなんだろう?まずは色彩構成が素晴らしい。表紙は黄色と赤色を配した、「非常に目立つ」構成。みんなが知ってるマクドナルドの配色もコレね。だから、本屋に並んでいても、パッと目立つはず。そして、表紙に描かれた火の鳥(ニワトリじゃないよ)の線描の美しさ。特に首のたおやかな曲線が色っぽい。線描といいつつ、微妙に色が違い、しかも「パステル併用した?」と思わせるようなカスレに画力を感じる。サイン会で鈴木まもる先生に直接うかがったところ、画材はアクリルのみだという。アクリル絵の具は使ったことのないMizumizu。水彩のような透明感は出ないが、水彩にはない力強さが出て、かつ、これだけ幅広い表現ができるのか。実は、スライドで制作過程を見たときは、遠目にはキャンバスに描いているように見えて、「え? もしかして油彩なの?」と思ったのだ。答えはアクリルオンリーでしたとさ。表紙は火の鳥の永遠の生命力を感じさせるような強い色彩構成だが、物語は漆黒の闇に浮かぶ青い地球から始まる。それから、海から山までを見開きに一挙に収めた、さまざまな生き物たち。画面いっぱいに「その場所に住む生命」を描いて見せるのは、ちょっと「かこさとし」を思い出して懐かしくなった。図鑑的なかこさとしに対して鈴木まもるはもっと絵画的。個々の動物の表現を見ていくのも楽しいページ。それから植物の発芽や動物の子育てをピックアップしたページが来て、次のページをめくると、バーンと飛び立つ火の鳥。ここから火の鳥の「再生」の物語が始まる。「手塚先生は、幼鳥の火の鳥が炎の中から飛び立つ場面は描いても、そのあとを描いてなかった。だから、そのあとの物語を書こうと思った」と鈴木先生。トークイベントでの発言だが、それを聞いて、「そーなのだ。描いてない物語をこちらが作れるようになってるのだ」と心の中で思いっきり頷く。萩尾望都は『新選組』を読んで、自分の中でいくつもの物語を作ったという。全部説明されていないからこそ、こちらの想像力をかきたてる。単に「話が飛んでる。分からない」と思う読者もいるようで、浦沢直樹は、それを踏まえてなのだろう。「(手塚先生は)よくこんなに読者を信頼していると思う。普通ならもっと説明したくなる。この(手塚先生の)数コマで、普通の漫画家は20枚ぐらい描いちゃう」というようなことを言っていたが、描かれなかった物語を作れるか、作れないか。それが手塚マンガを好むか好まないかの分かれ目になるのかもしれない。そして、手塚マンガの二次創作の難しさも実はここにある。自分で別のストーリーを作りたくなる。あるいは、複雑な手塚物語をもっとシンプルな展開にして分かりやすくしようとする。だが、たいていそれは(作り手が情熱をもって取り組んだとしても)凡庸なものになり、あげくガチ手塚から「つまらない。手塚作品の冒涜」などと酷評されるというオチになる。絵についても、そう。それこそ漫画家でも浦沢直樹ぐらいの力量がなければ、「なにこの下手な絵」と言われ、お決まりの「手塚作品への冒涜」というレッテルが待っている。鈴木まもるの『火の鳥』は、この2つのハードルを超えている。炎の中から再生した幼鳥の火の鳥(ここは手塚作品に描かれている)が、巣の中で憩い、成長し、周囲の動物たちに影響を与えていく。世界で唯一の(←自称)「鳥の巣研究家」鈴木まもるにしか描けないストーリーだ。トークイベントで手塚るみ子氏が、「手塚(治虫)がこの絵本を見たら、『これ、アニメにしたいよね』と言い出しそう」と絶賛していたが、そう言われて、「確かに!」と思った。巣の中で休む火の鳥の「静」と踊る火の鳥の「動」の描き分けも素晴らしい。これは踊る火の鳥。鳥の体のふくらみの柔らかなセクシーさ、脚の硬い質感と動きの自然さ――写実一辺倒ではないのに、よく感じが出てる。いや~、うまいな~。だから、この『火の鳥』は、子供に買い与えるというだけのものではなく、絵の勉強をしたい人たちにも、強くオススメしたい本なのだ。水彩画に近いにじみやカスレ、油彩に近いマットな重ね塗りなど、使われている技法は枚挙にいとまがない。で、その鈴木まもる先生が手塚治虫原画を見ての感想が…http://blog.livedoor.jp/nestlabo4848/archives/58371708.html会場には手塚先生の「火の鳥」の原画が展示されていました。これが凄い!今回手塚先生の生の原画を始めて見ましたが、ものすごく美しい。ペンの線とか描き込みとか、「ウワ~~これが原画か!!!」と驚き、舐めるように見てしまいました。さすがの域を超えている。恐ろしい画力。もっと見たい。分かる分かる。Mizumizuも丸善丸ノ内本店の手塚治虫書店コーナーでアトムの原画を見たときは、びっくらしたのだ。ばらばらになったロボットの残骸を片膝をついて嘆くアトムがコマ割りなしで描かれているページで、V字になった背景の構図とか、凄すぎた。こちらのエントリーhttps://plaza.rakuten.co.jp/mizumizu4329/diary/202404270000/で書いたように、1950年代初頭に手塚をしのぐ人気を誇った福井英一は、手塚の画力の凄さに、おそらく最初に気づいた人間の一人なのだ。一流は一流を知る、ということ。悪書追放運動が盛んになった時、やり玉にあがったのが手塚治虫で、それについて藤子不二雄A氏が、「読んでもいない人たちが非難していた」と、珍しく怒りをにじませて語っていたが、この稀代の才能を世の中がよってたかってつぶそうとしていた時代があったとは…。ストーリーテラー手塚治虫についてはだいぶ理解が進んでるが、手塚治虫の画力評価については、まだまだだとMizumizuは思っている。パリのオークションで手塚原画に3500万の値段がついたと知って、「貴重な文化遺産の流出をどう食い止めるか」などと新聞に書かれ、慌てて動き出してるお上の姿は滑稽だ。漫画同様、絵本の絵についても、まだまだ「子供向け」と思い込まれている風潮が強いが、現代美術がエログロや奇をてらった「わけの分からない」オブジェに流れている状況を見ると、絵本の中にこそ、正統派の「絵画の伝統」が受け継がれているのではないかと思うことも多い。こちらは宝塚での鈴木まもるトークイベント会場の写真(始まる前)。トークの前に、「落書き」と言って、手塚キャラを即興で描く鈴木まもる先生。たちまち人々が寄ってきてスマホをパチパチ。だが…!ちょ…、これ、アトム? 描いてるの、このすんごい絵本を描いた鈴木まもる先生、本人だよね?次に描いたヒョウタンツギも、なんか…(以下、自粛)「昔はよく描いたんだけど、描けなくなっちゃった…」と、言い訳っぽいことを言いながら、いったん袖に引っ込み(資料を見に行ったか??)、三度目に描いた「オムカエデゴンス」のイラストはしっかりサマになっていた。アトムはウォームアップでしたか? トークイベントは『火の鳥』のコンセプトから、制作過程のスケッチから、鳥の巣の話にまで及び、非常に面白かった。COM連載当時の『火の鳥』を切って自家製の本にしている現物も見せていただいた。COM連載のって、アレですよね。浦沢直樹が、先を読みたくて読みたくて…でも、ある時から本屋に並ばなくなった…並ばない新刊を待って何度も本屋に通ったという…手塚好きだった鈴木まもる少年は、『火の鳥』に登場する石舞台に触発されて、満天の星のもとの石舞台を想像して野宿覚悟で現地に足を運んだら、日が暮れてから雨が降りだしたという…いいエピソードだなあ。こういう知的好奇心を掻き立ててくれる漫画も減ってしまった。「手塚先生と(鳥の)話をしたかったですね」という鈴木まもる先生の一言には実感がこもっていた。本当に……現在は、講演に展示イベントにと八面六臂の活躍の絵本作家・鈴木まもる。東京の麻布台ヒルズでも5月19日にトーク&サイン会がある。https://www.books-ogaki.co.jp/post/54455このサインがまたアートなのだ。単に「xxxさんへ 鈴木まもる」とだけ書かれるのだろうと思っていたら、なんと!初見の名前の文字を見て、すぐにそれを軽く図案化(茶色マーカーで塗りつぶした部分ね)。そこに文字と一体化した鳥や巣のイラストを細いペンでさらさらっと。えーー、あのしょーもない落書きアトムを描いたのと同じ人ですか? すごっ!このサイン、いただく価値ありですよ。明日の日曜日は麻布台ヒルズの大垣書店へGO!
2024.05.18
宝塚に行ってきた。お目当てはもちろん手塚治虫記念館。特別展として火の鳥の原画が展示されているし、絵本作家の鈴木まもる先生の『火の鳥』も発売になって、同氏のトークイベントとサイン会がある。これは行かないと!ということで、プランニング。宝塚なので日帰りもできるのだが、体力面を考えて前泊することにした。宝塚は週末はホテルが高いので、新幹線の着く新大阪に泊まり体力温存したうえで、翌朝、満を持して出かけることに(←おおげさ)。事前に新大阪から宝塚の行き方を調べたのだが、複数あって便利のようで、案外面倒だった。というのは、直通だと時間がかかり、乗換ルートのほうが速いのだが、その乗換も複数ある。ネットで検索して調べた結果、一番簡単なのが尼崎で乗り換える方法だという結論に達する。このところ、スマホが外で具合が悪くなることが増えてきた。現地でそんなことになると慌てるので、一番効率よく、時間帯もよく宝塚に行けるルートを紙に手書きするMizumizu。で、当日予定どおりの時間に新大阪駅のホームで網干行き快速を待っていると、真後ろで駅員に宝塚に行く方法を聞いてる女性がいた。駅員が「宝塚行きはこっちのホームだけど、こっちで乗換るほうが…」というような説明をしている。そうそう、直通はそっちなんだけど、こっちの快速のが速いし、乗換も多分向かいのホームなので楽なのだ。駅員の説明に、ちょっと戸惑ったような表情を浮かべる女性。この時間に新大阪駅から宝塚と言ってるということは、宝塚劇場か手塚治虫記念館目的なのは明らか。なので、メモを指し示しながら、女性に、「私も宝塚に行くのでご一緒しましょう」と話しかけた。女性は、いきなり話しかけられて、一瞬びっくりしたよう。でも、メモ書きを見ると納得したようだった。駅員も「ありがとうございます」と行ってしまった。二人で快速に乗り込んで座る。彼女もやはり乗換が面倒だと困ると思っていたらしい。尼崎なら乗換も簡単みたいですと説明する。宝塚に行く目的を聞くと、劇場のほうだという。こちらは手塚治虫記念館だと言うと、「手塚治虫、好きです」と! 『リボンの騎士』『アトム』、それになんと『W3』まで名前が出てくる。え~、『W3』まで見てた? それ、ガチ手塚(筋金入り手塚ファン)じゃないですか。宝塚劇場に行くということは…と思い、『ベルばら』の話をすると、なんと初演に行ったというではありませんか。マジですか? 榛名由梨の時代? Mizumizu「『ベルばら』見にいきたいんですよね~」彼女「やってますよ!」Mizumizu「『フェルゼン編』でしょ~(←なぜかちゃんと調べてる)」彼女「『オスカル編』がイイですか~?」など、初対面なのに話が盛り上がる。彼女は少女漫画にも詳しく、里中満智子、萩尾望都…全部知ってる。少女漫画にとどまらず、手塚直系、石森章太郎『サイボーグ009』まで知っていた。で――「高校ぐらいのときに、いったん離れなきゃと思って」そうそう、当時の少女たちはたいていそうだった。大人になる準備をする時期に、アニメや漫画からは離れなくてはと思うものなのだ。今、『ポーの一族』で国際的な名声を得た萩尾望都も、当時は、「あれ(『ポーの一族』)を描いたのは24歳(←この年齢は記憶ベース)の時だから、そのくらいまでなら読めるのかな」と言っていた。つまり、20歳半ばには読者も卒業するのだろうと。だが、『ポーの一族』は平成に入って少女漫画歴代ナンバーワンの名作に選ばれた。最近になってフランスで出版され、衝撃を持って受け入れられた。そうした流れの中で、日本でいったん卒業した読者も戻ってきて、豪華版など買っている(←Mizumizuね)。あのころが少女漫画ルネサンスの時代だったのだろう。そして、ルネサンス期の少女漫画家を創生したのも、手塚治虫なのだ。池田理代子も里中満智子の対談で、「私たちのころは、みんな手塚先生よね」と話していた。Mizumizuは『リボンの騎士』がなければオスカル様もない…ような気がしているのだが、それについて池田理代子自身が話しているのは聞いたことがない。ただ、オスカルのビジュアル面でのモデルがヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』のアンドレセンだという話は知っている。さて、話が盛り上がって、宝塚に着くと、今後は彼女が道案内をしてくれた。その時に、クラシカルな外観のティールームのそばを通ったのだが、「ここは紅茶がおいしい」「シナモントーストがおすすめ。お好きなら」と教えてくれる。実はホテルでトースト食べてしまったのだ。それも、売れ残りのパンの半切れみたいな情けないトースト。しかも冷めかけ。パンはほかにもあったが、全部「コストコ」の安い冷凍パンを大量に仕入れました…みたいなクオリティで、がっかりだった。で――手塚治虫記念館は予想以上に見ごたえがあり、なかなか上階に行けない。生前の手塚治虫を知る有名人たちの話をビデオで流しているのも、それぞれの「手塚先生」像が面白くて、全部見終わるまで立てない。手塚治虫の実験アニメーションは定評があるが、一番好きな『Jumping』を大きな画面で見ることができて、満足満足。『おんぼろフィルム』は、「ここ笑うところですよ〜」と思ってるところで笑っている人がかなりいて、「うんうん、ここツボだよねー」と、自分の演出でもないのに、勝手にニンマリ(Mizumizuは何度も見てるので笑いませんでした)。肝心の企画展を見る前に、鈴木まもるx手塚るみ子トークイベントが始まってしまうという始末だった。ランチを食べる間もなく参加するMizumizu。トークイベントに続いてサイン会もあり、ひとりひとりに丁寧にサインする鈴木先生。トークイベントも面白かったが、サイン会でも、みな先生と一緒に写真を撮ったりしながら盛り上がっていた。やっと企画展の『火の鳥』原画を見る。六本木であった『ブラック・ジャック』原画展ほど数は出ていなかったが、えりすぐりが出展されていて、「見たかったページ」はほぼ見せてもらった感じ。かの有名な「乱世編 村祭り」(←もうこれ、国宝級ね)の見開きもありました。カラーもあって、『火の鳥』の時代の彩色はアシスタントによるものがほとんどだと思うのだが、夕焼けの空の描写など、なかなかの力量ぶりだった。こんだけの素晴らしい作品群を「マンガは残らない。作者と一緒に時代とともに、風のように吹きすぎていく。それでいいんです」と(石ノ森章太郎に)言った手塚先生…数々の未来を「予言」した大天才だが、ここだけは大ハズシした。ただ…その言葉が「本当の本音」だったかというと…違うかもしれない。図書コーナーで未読の手塚作品を読みたかったが、さすがに夕方になって帰る時間が近づく。入場者はかなり年配の方々(おそらく『鉄腕アトム』直球世代)から親と一緒の小さな子供まで年齢層は幅広い。シニア層の男性は漫画を読み、男の子たちは熱心にアニメの画面に向かっている。大阪の夜、御堂筋線に乗ったのだが、なんと文庫本の『ブラック・ジャック』を読んでいる青年を見た。そーそー、ブラック・ジャックは面白いよね。山口の図書館でも、貸し出しが多くて、なかなか連続で借りられないのですよ。しかし…ストーリーを追うだけなら文庫本でも構わないが、やはり漫画のタッチを味わうには文庫本は小さすぎる。漫画を文庫本にするのは、Mizumizuは基本的に反対。個人的には『MW』を文庫本で買って後悔した。とりあえず、安く読みたかったから買ったのだが、一度文庫本で読むと、もっと大判の同じ作品を買う気になれない。それ以来、漫画の文庫本は買わないことに決めている。帰りの時間が近づいて、ランチ抜きだったので、目の前に「美味しい」シナモントーストのイメージが浮かぶ。もう朝トースト食べたからとか、どうでもいい。もう少し原画を見たり(何度見るのよ)、図書コーナーで本を読みたかったが、空腹に勝てず、ついに記念館をあとにした。こんだけ長く粘る入館者も多分、珍しいだろうな。グッズも買いましたよ、ほぼ1万円。紹介してもらった駅前のティーハウスサラは、満席に近くてびっくりした。オススメされたシナモントーストとアイスティーを頼む。一口食べて…うわっ、美味しいわ、これ。厚切りのパンは外はカリッと、中はもちっと。じゃりついたシュガーの歯ざわりにシナモンの香りがしっかり。朝の切れっぱしトーストとの違いは、なんなんだ。まったく。紅茶は、のどが渇いていたのでアイスにしたけれど、次はやはりポットでいただきたい。もう次に来る気になってるMizumizu。平日の宝塚ホテルが安い時にしよう。で、また次回も1日中手塚治虫記念館で粘りそう。シナモントーストも外せないから、いったん出て再入場パターンかな、いや早めの夕食か。
2024.05.12
現在、You TUBEの「手塚プロダクション公式チャンネル」で限定公開中の『千夜一夜物語』。大人向けアニメラマと銘打った(旧)虫プロダクションの野心作だが、このキャラクターデザインと美術担当にいきなり抜擢されたのが、アンパンマンの作者やなせたかしだ。レア本『ある日の手塚治虫』(1999年)にやなせたかしの寄稿文とイラストが載っていて、それによれば、1960年代の終わり、手塚治虫からやなせに突然電話がかかってきたという。虫プロで長編アニメを作ることになったので、やなせに手伝ってほしいという依頼だった。わけがわからないまま、やなせは「いいですよ」と返事をする。当時を振り返って、やなせは「同じ漫画家という職業でも、手塚治虫は神様に近い巨星、ぼくは拭けば飛ぶような塵埃ぐらいの存在」と、書いている。いくらやなせ氏が謙虚な人だといっても、それはチョット卑下しすぎだろう…と読んだ時には思ったのだが、1969年は、まだアンパンマンが大ヒットする前だった。多才なやなせは詩人として有名だったし、すでに『手のひらを太陽に』の作詞者として知られていたが、漫画では確かに大きなヒットはまだなかったようだ。やなせはアニメの経験などゼロだったから、手塚の申し出は冗談だと思ったらしい。だが、『千夜一夜物語』が始まると、本当に虫プロ通勤が始まる。手塚治虫と机を並べて描いてみて、やなせが「たまげてしまった」のは、そのスピードと速さ。あっという間に数十枚の絵コンテをしあげていくのだが、決してなぐりがきではない、そのまま原稿として使えるような絵なのでびっくりした。(『ある日の手塚治虫』より)完成したアニメ『千夜一夜物語』では、やなせたかしは「美術」とクレジットされているが、キャラクターデザインもやなせの手によるものだ。上はやなせ直筆のイラストとエッセイ。わけわからないまま始めた仕事だが、やってみると案外これは自分に向いているのではないかと思ったという。特に「マーディア」という女性キャラクターは人気で、後年になっても「マーディアを描いて」と頼むファンがいて、やなせを驚かせた。「キャラクター」の波及力に、やなせが気づいた瞬間だろう。『千夜一夜物語』がヒットすると、手塚治虫はやなせに「ぼくがお金を出すから、虫プロで短編映画をつくりませんか」と申し出てくれたという。会社としてお金を出すというのではなく(社内で反対があったようだ)、手塚がポケットマネーから資金を提供したのだ。そうして完成したのが、やなせたかし初演出アニメ作品『やさしいライオン』(1970年)。毎日映画コンクールで大藤賞その他を受賞し、その後もたびたび上映される息の長い作品になったという。こうしたアニメ畑でのキャラクターデザインの仕事がアンパンマンにつながっていったのだと、やなせは書く。『千夜一夜物語』から『やさしいライオン』を経て、やなせのキャラクターデザイン技術は、「シナリオを読めば30分ぐらいでラフスケッチができる」までに向上した。「基本は虫プロで学んだのである」。キャラクターデザインの達人、やなせたかしの飛躍のきっかけを作った手塚治虫。だが、「少しも恩着せがましいところはなく、『ばくがお金を出して作らせてあげたんだ』などとは一言も言わなかった」(前掲書より)やなせと手塚は気が合ったようだ。その後、「漫画家の絵本の会」で一緒に展覧会をしたり、旅行をしたこともあったという。「いつも楽しそうだった」「あんなに笑顔のいい人を他に知らない」「そばにいるだけでうれしかった」と、やなせ。そういえば、やなせの価値観と手塚のそれは非常に似通っている。時に残酷だという批判を受けるアンパンマンの自己犠牲精神は、戦争を通じて経験した飢餓からきたものだというし、「ミミズだって…生きているんだ。ともだちなんだ」という『手のひらを太陽に』の歌詞は、手塚の精神世界とも共通する。戦争は大きすぎる悲劇だが、あの戦争が手塚治虫ややなせたかしの世界を作ったとも言える。『第三の男』ではないが、平和とは程遠い15世紀のイタリアの絶えざる闘争の中でレオナルドやミケランジェロ、つまりはルネッサンスが生まれたように、日本という国を存亡の危機にまで追い詰めた第二次世界大戦があったから、今私たちが見るような手塚マンガが生まれ、次々と新しい人材がその地平線を広げていくことになったのだ。「ぼくは人生の晩年に近づいたが、最近になって自分の受けた恩義の深さに気づいて愕然としている。 漫画の神様であるだけではなく手塚治虫氏自身も神に近い人だったのだ。 どうやってその大恩に報いればいいのか、ぼくは罪深い忘恩の徒であった自分を責めるしかない」(前掲書より)手塚治虫を「神」と呼ぶとき、それは漫画の力量がまるで神様というだけでなく、次に続く人材を「創生」し続けたという意味も含むだろう。藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、里中満智子はよく知られているが、さいとう・たかおだって、楳図かずおだって、手塚治虫がいなければ漫画家にはなっていなかったかもしれない。つげ義春さえ、漫画家になるにあたって「ホワイト」だとか「原稿料」だとかの実際を聞かせてくれたのは手塚治虫なのだ。そして、やなせたかし。今や、やなせのアンパンマンキャラクターは、世界でもっとも稼ぐキャラクターのトップ10に入っている。https://honichi.com/news/2023/11/16/media-mix-ranking/そのキャラクターデザインの出発点が大人向けアニメ+ドラマと銘打った(旧)虫プロの『千夜一夜物語』だったというのは、今ではほとんど忘れられているようだが、まぎれもない事実だ。やさしい ライオン (やなせたかしの名作えほん 2) [ やなせたかし ]
2024.05.07
萩尾望都に漫画家になることを決心させた手塚治虫の『新選組』。作家の藤本義一も好きな手塚作品にこれを挙げていた。萩尾望都は分かるとして、藤本義一が『新選組』を選んだのは意外。ただ、藤本氏は『雨月物語』の現代語訳をやった作家…と考えれば、少しつながるかもしれない。で、今日はちょっとしたトリビアを。現在、手塚治虫『新選組』を原案とする『君とゆきて咲く』が放映中だが、主人公の名前、深草丘十郎。この丘十郎というネーミング、おそらくはあるSF作家から来ている。それは海野十三。日本のSFの始祖の一人と言われている作家だ。手塚治虫は『のらくろ』の田河水泡と海野十三を「ボクの一生に大きな方針を与えたくれた人」だと書いている(『手塚治虫のエッセイ集成 わが思い出の記』立東社より)。海野十三には別のペンネームもあり、そのうちの1つが丘丘十郎なのだ。少年手塚治虫は海野十三の小説を寝食を忘れて読みふけった経験があるという。海野も大阪で頭角を現してきた青年漫画家、手塚治虫のことは知っていて、妻に、「自分が健康だったら、この青年に東京に来てもらい、自分が持っているすべてを与えたい」と語っていたという(中川右介『手塚治虫とトキワ荘』より)。海野は1946年ごろから結核にかかり、1949年5月に51歳で死没する。手塚治虫+酒井七馬の『新宝島』発売が1947年1月。1947年に『火星博士』、1948年に『地底国の怪人』と『ロストワールド』。『メトロポリス』が1949年9月だから、海野が読んでいたのはおそらく『ロストワールド』まで。手塚治虫と海野十三には個人的なやりとりは何もない。それでも海野は、手塚治虫という青年漫画家が自分の影響を受けていることを作品から読み取ったのだろう。手塚治虫が医師国家試験に合格し、東京のトキワ荘を借りるのが1952年。海野が亡くなって3年後だ。もう少し海野が生きていたら、二人の対面もなっていただろう。1950年前後の日本に、SFという言葉はない。SF作家と呼べる人もほとんどいなかった。星新一や小松左京が出てくるのはもう少し先の話だ。手塚作品と海野作品の共通点については、Mizumizuは海野作品を読んだことがないので語ることはできないが、タイトルが、明らかに海野十三オマージュだと気づく作品が多い。『日本発狂』(手塚)『地球発狂事件』(海野)のように。もっとも、猫が重要な役割を果たす手塚作品『ネコと庄造と』のタイトルは、『吾輩は猫である』なんて目じゃないほど猫の生態に精通した作品『猫と庄造と二人のをんな』からだから、手塚治虫という人の博覧強記ぶりには驚かされる。いや、『猫と庄造と二人のをんな』と『ネコと庄造と』は、全然似ているところはない作品なんですがね、話の内容は。ただ、谷崎潤一郎という人の猫に対する愛情と理解の深さは、夏目漱石なんて足元にも及ばない。というか、夏目漱石は明らかに人間に興味はあっても、猫については無知だ。話を手塚版『新選組』に戻すと、この作品、テレビドラマが始まってから初めて読んだのだが、なかなか面白かった。萩尾望都と『新選組』については、このYou TUBE番組が面白い。https://www.youtube.com/watch?v=Z1q21iHz-Y4Mizumizuが惹かれたのは、その様式美。花火を背景にした一騎打ちはそのクライマックス。そのほかにも、下からアングルで描いた橋の下での魚釣りとか、上からアングルで見た階段での襲撃とか面白い構図があちこちに出てくる。物語として惹かれたのは、あまりに「語られないエピソード」が多すぎて、逆にこちらが二次創作してしまう点。例えば、大作は、人並みはずれた剣の技を持ちながら、なぜああも虚無的なのか。彼はおそらく死に場所を求めてスパイとなった(と、頭の中で妄想)。そして、ワザと丘ちゃんに負ける(と想像)。親友の手にかかって死ぬことを選ぶまでに、彼の前半生に何があったのか。長州のスパイだというから、吉田松陰の薫陶を受けたのかもしれない。だが、志を抱いた倒幕の志士と考えるには、彼はあまりに傍観的だ。過去が何も語られないからこそ、自分でそのストーリーを補いたくなる。ここは是非、萩尾望都先生に鎌切大作を主人公に、その生い立ちから丘十郎との出会い。出会ってからの彼の心の揺らぎを描いてほしい。丘十郎の純粋さが鎌切大作の内面をどう動かしたのか。ある意味、大作は丘十郎の純粋さに命を奪われるのだから。丘十郎に海外留学の手筈を整える坂本龍馬のエピソードは、あまりに飛躍しすぎだが、もしかしたら坂本がフリーメーソンと関わりがあったというのがこの突拍子もない展開の背後にあるのかもしれない。そのあたりも語れそうだ。手塚治虫はあとがきで、「時代考証メチャクチャ」「異次元の新選組」と言っているが、時代考証完全無視の異次元時代劇は今大流行りなので、手塚治虫がその元祖だったということか(笑)。あまり人気が出なくて途中で打ち切ったという手塚『新選組』だが、全集を見ると、それなりに版を重ねていて、不人気作品とも思えない。なにより1963年の作品が、2020年代になって歌舞伎になったりドラマになったりしている。ドラマ『君とゆきて咲く』もイケメンがダンスする、異次元・新選組になってる。将来的には、こうした「特別な友情」にキュンキュンする層をターゲットにした、ミュージカルにもなるかもしれない。新選組 (手塚治虫文庫全集) [ 手塚 治虫 ]
2024.05.04
拙ブログでも紹介したテレビアニメ『鉄腕アトム』の「ミドロが沼の巻」(こちら)。有難いことに、現在、手塚プロダクションが期間限定で、この(今となっては)お宝動画を公開してくれている。https://www.youtube.com/watch?v=9lu5yUKfByM併せて、この回を担当した「スタジオゼロ」(1963年5月設立)の鈴木伸一氏が語る当時の様子が面白すぎる。https://www.youtube.com/watch?v=yS4oAjTeSzw藤子不二雄、石森章太郎、つのだじろう…漫画界のレジェンドが、どれだけアニメーターとしてダメダメだったか。それぞれが描いたアトムを紹介してくれているのが嬉しい。「みんなキャラクターのモデルシートなんか見ないの。頭の中に入ってるアトムで描いちゃう」って…笑っちゃう。今となっては笑っちゃう話だが、顔もバラバラ、プロポーションもバラバラのアトムを見た当時の手塚先生のお気持ちはいかばかりかと…と、また笑ってしまう。Mizumizuイチオシのひどすぎるアトム画は、これ↓眉毛が濃すぎるし、左目のまつ毛が眉毛の上に飛び出しちゃってる。まつ毛も太すぎてヘン。腕も太すぎて丸太みたい。もうメチャクチャ。どなたの仕業ですか? つのだじろう先生かな?それにしても、やはり「誰も歩いたことのない道」を行く手塚治虫の影響力はマグマ級だ。鈴木伸一のトークを聞くと、おとぎ話を専門に作るアニメプロダクション(おとぎプロ)をやめて、SFや未来の話をアニメでやってみたいと思ったのだって、手塚アトムの大成功を見たからだろう。鈴木氏はそこに「アニメの未来」そして「自分の未来」を見たのだろう。スタジオゼロに売れっ子漫画家たちが参加したのも、手塚先生を追ってのことに間違いない。やがて漫画家たちは漫画の道に戻り、スタジオゼロで唯一本格的なアニメーション修行をしていた鈴木伸一はアニメーション作家として羽ばたく。現在、トキワ荘で特別企画展『鈴木伸一のアニメーションづくりは楽しい!!』が開催中だ。https://www.kanko-toshima.jp/?p=we-page-event-entry&event=529563&cat=18037&type=event『手塚治虫とトキワ荘』(中川右介)によれば、スタジオゼロに参加するより前、1950年代の終わりごろに石森章太郎も、赤塚不二夫、長谷邦夫とともにトキワ荘でアニメづくりに挑戦している。手塚の名代として東映動画に派遣されたことで動画用紙やセルをたくさんもらった石森は、町の大工に木製三段のマルチプレーン式撮影台を作ってもらい、カメラも買った。本業の合間に、石森が犬の原動画を描き、赤塚がセルにトレース。長谷邦夫が白黒のポスターカラーで彩色した。ところが1秒を描くのに何日もかかり、20秒作ったところでやめてしまったという。やめてよかったのだ。この3人は3人とも、漫画の世界でゆるぎない地位を築くことになるのだから。鈴木伸一 アニメと漫画と楽しい仲間 [ 鈴木 伸一 ]
2024.05.02
手塚プロダクションでチーフアシスタントを務めた福元一義氏。彼の著書『手塚先生、締め切り過ぎてます!』には福元氏自身の手によるカットが掲載されているが、さすがの腕前だ。と、思ったら、彼はプロの漫画家だったことがある。少年画報社で編集者をしていた福元氏だが、もともとイラストを描くのがうまく、手塚番をしていた時も、半分アシスタントのような仕事をして手塚治虫に評価されていた。また、福井英一の急逝にともなって宙に浮いてしまった『赤胴鈴之助』の引継ぎに新人だった武内つなよしを推薦し、ヒットに導いた。こうした実績をあげた編集者時代。それでも、密かに「漫画家になりたい」という夢があり、ずっと習作をしていたのだという。そして、手塚治虫の仕事ぶりを間近に見ていて、ある「勘違い」をしてしまう。(『手塚先生、締め切り過ぎてます!』から福元一義作イラスト)スラスラといともかんたんに描いてる先生を見ていたら、ひょっとするとぼくだって…漫画家・福元はすぐに売れっ子になる。第一作がいきなり大人気となり、翌月には7社から執筆依頼が来た。これを福元は深く考えもせず受けてしまう。だがもちろん、手塚のように速く描けるわけがない。結局、原稿は間に合わず(これを業界用語で「原稿を落とす」と言う)、それ以降、依頼はぱったり途絶える。仕方なくかつて所属していた出版社の温情で、細々と仕事を続けることに。そうやって実績を積んでいくと、また他社からも依頼が来るようになって、講談社から出た『轟名探偵』は、それなりの人気を取ったという。ところが、突如として漫画界に吹き荒れた「悪書追放運動」のあおりを受け、このヒット作が運動のやり玉にあがってしまう。福元にとってショックだったのは、テレビに「悪い漫画の例」として『轟名探偵』の扉絵が大写しになったことだった。さらに、追い打ちをかけるように、夏休みに編集部に見学に来た少年が「轟名探偵は怖いから早くやめてください」と言ったと聞かされた。この件ですっかりモチベーションをなくした福元。子供が生まれて、その将来を心配もしたという。そんな折に、武内つなよしから「マネージャーになってくれないか」と声がかかり、漫画家をやめることに。武内がだんだん仕事を減らしてマネージャーのサポートも要らない状態になったころ、手塚治虫が編集部をとおして「福元氏が作画を手伝ってくれるなら、新連載を引き受けてもいい」と声をかけてくれた。手塚の名前を聞けば、断ることはできない福元氏。新連作とは『マグマ大使』(1965)のこと。こうして彼は天職を見つけた…というわけだ。手塚治虫に憧れて漫画家になる。思ったよりはやく人気が出る。依頼が増えて、原稿を落とす――このパターンにピンときたら、あなたは漫画通だろう。そう、藤子不二雄Aの名作『まんが道』に、同じようなパターンのエピソードがあるのだ。狭い下宿を出て、トキワ荘に移り(この時、手塚治虫が敷金を残してくれたので二人は引っ越すことができたのだ)、急に売れっ子になった藤子不二雄の二人。だが、久しぶりに帰省をしたところ、いきなり「燃え尽き症候群」のようになって漫画が描けなくなってしまう。矢のような催促の電報がくる。なんとか対応しようとする二人。だが、筆は遅々として進まない。そして…まるで終わりのないマラソンに駆り立てられるような「売れっ子漫画家」の人生。延々とトップを走り続ける手塚治虫の超人的なエネルギーが、福元一義の、そして藤子不二雄の大失敗を引き起こしたとは言えないだろうか。だが、藤子不二雄には、トキワ荘の頼もしい先輩・寺田ヒロオがいた。藤子不二雄の原稿が届かないために困り果てた編集部のために、寺田ヒロオは徹夜で別の原稿を描いてくくれたのだという。東京に戻り、寺田の叱責と励ましを受け、手塚治虫からもエールを送られて、藤子不二雄は再起する。その後の二人のとどまることを知らない出世ぶりは、今更ここに書くまでもないだろう。[新品]まんが道[文庫版](1-14巻 全巻) 全巻セット
2024.05.01
前回のエントリーに登場した河井竜氏。(旧)虫プロ社員で制作進行担当だった。入社は(旧)虫プロ全盛期の1963年。彼には新劇の脚本と演出をしたいという夢があり、とうとう2年後のある日、社長の手塚治虫に退社を申し出た。演劇では食えないと、一度は思いとどまるよう説得した手塚社長だが、河井氏の決意は固い。最後は「わかりました! 立派な演出家になってください」と送り出した。劇団を作ったものの、すぐに食えるわけもなく、廃品回収業のアルバイトをする河井氏。すると(旧)虫プロの仲間が200キロもの動画用紙を提供してくれた。さらに河井を驚かせたのは、手塚社長から毎月現金書留が届くことだった。劇団の公演パンフレットには広告も出してくれた。だが、3年後、河井氏は病に倒れてしまう。結核だった。劇団はうまくいかず、お金も底をついていた。結核は法定伝染病。治療費は国から出るが、夢は諦めようと決意を固める河井氏。諦めた自分が、手塚社長から支援を受けることはできないと、「芝居で食っていけるようになったから、もう仕送りは結構です」と手塚社長に電話をした。「あ、そうですか、よかったよかった。河井さん、よかったですね。いっそうがんばってください」「長い間ありがとうございました。本当にありがとうございました」【中古】ブラック・ジャック創作秘話(4)-手塚治虫の仕事場から- / 吉本浩二時は流れ流れて2009年。まさみじゅん氏のブログで、河井氏とともに手塚邸の植栽の剪定に行った話を見つけた。ちょうど『誰も知らない手塚治虫―虫プロてんやわんや』が出版されたころだ。http://mcsammy.fc2web.com/MushuProOB/MushiProOB1.html高齢になった手塚夫人が植栽の管理が大変と聞いて、出向いたのだという。http://diary.fc2.com/cgi-sys/ed.cgi/mcsammy/?Y=2009&M=9&D=13
2024.04.30
手塚治虫著『ぼくはマンガ家』によれば、彼は「誇大妄想的突発性錯乱症」なのだそうだ。それが事実であるということを、めちゃくちゃ汚い絵これまでにない個性的な作画で、あますところなくギャグにした不朽の迷作――それが『ブラック・ジャック創作秘話』だ。【中古】ブラック・ジャック創作秘話(2)-手塚治虫の仕事場から- / 吉本浩二これはホントに面白い。手塚漫画より手塚治虫のが面白いんじゃないかと思えるくらい、面白い。手塚治虫ファンじゃなくても面白い。まだ読んでない不幸な人は、すぐに読むべき。さまざまある手塚先生「錯乱の場」での中でも、もっとも意味不明で、Mizumizuイチオシのシーンは、これ。制作進行担当社員の河井氏に、「もう待てない」と言われて突発性錯乱症スイッチが入る手塚先生。社長なのに、「やめます!」と叫んで、机の下に逃げ込む。しかも頭だけ。行動が猫。ちなみに、この河井氏が(旧)虫プロを辞めたあとのエピソードは、手塚治虫がどれほど思いやりのある人間だったかを端的に示す例。そして、その厚意に応えて、河井氏が手塚未亡人のために取った行動も、素晴らしい。それについてはまた次のエントリーで。誇大妄想入った突発性錯乱の場は、こちら。冷静になったときの手塚先生の弁は、「編集の方から野放しにされたら、半分の作品も生まれなかったですよ」。で、「自由にしてくれ」と言われて、「分かりました!」と野放しにした編集者の原稿は、結局3回連続で間に合わず、その後その編集者が会社を辞めたと聞いて…自分のせいだと思ったとたん、怒涛の責任転嫁…言うことやることメチャクチャだ(苦笑)。ちなみに、なのだが、『神様の伴走者:手塚番1+2』に、その編集者とおぼしき人物のインタビューがあり、本人は「自分が会社を辞めたのは手塚さんのせいではない」と話している。もともとやりたかったことが別にあったからだそうで、本人は手塚治虫含めて周囲の人たちが「手塚番をしながら3回も連続で原稿を落としてしまったので、会社を辞めたんだ」と思っていたことも知らなかった。お次は、のちに松本零士となる松本晟少年の証言から。このシーンには、夜中の「メロン」「ケーキ」「スイカ」などのバリエーションあり。テレビのドラマでも採り上げられて、かなり有名になっているエピソード。さらに…完全に少しイカれたおっさん…手塚治虫「正史」とも言える『手塚治虫物語』では…誇大妄想的突発性錯乱症のコの字もモの字もサの字もなく、仕事にひたすら邁進する手塚像が描かれ…藤子不二雄Aの『まんが道』で、神になったというのに…『ブラック・ジャック創作秘話』では…と、言われて編集者が慌てて手塚先生愛用のユニの2Bを買ってくると…こんな人だとバラされましたとさ。いずれは歴史上の人物として、その一生が映像化もされるであろう偉人・手塚治虫。その際は「正史」に描かれた軌跡だけでなく、こういうぶっ飛びエピソードも入れてほしい。うしおそうじの『手塚治虫とボク』にも、若き日の手塚のぶっ飛びエピソード「手塚治虫の遺言」編もある。このブログでは敢えて紹介しなかったのだが、手塚という人が、スイッチ入ったらいかに「やめられない止まらない」人だったか分かるエピソードだ。ああいった秘話(?)も、漏れなく入れてほしいもの。
2024.04.29
『釣りキチ三平』で有名な矢口高雄が初めて読んで衝撃を受けた手塚治虫作品は、『流線型事件』だったという。その一部始終を『ボクの手塚治虫』で詳しく描いているが、それは藤子不二雄、石ノ森章太郎といった後の巨匠たちが手塚漫画から受けた衝撃と驚くほど似通っている。ボクの手塚治虫【電子書籍】[ 矢口高雄 ]矢口少年は、利発で向学心に溢れた少年で、『流線型事件』にある車のデザイン理論に惹きつけられ、暗記するほど読んだという。内容は凄いのにオサムシなんて、変な名前だと思ったらしい。その矢口少年が、恋をしたかもしれないというのが『メトロポリス』のミッチィ。男にも女にもなるミッチィは、手塚漫画のヒーローの原型となったキャラクターというだけでなく、のちの少女漫画家にも大きな影響を与えたのではないかと思う。というのは、『メトロポリス』を実際に読んで気づいたのだが、昔々Mizumizuが読んでいた少女漫画のそこここに、そのイメージがあるからだ。『ボクの手塚治虫』で、矢口少年が『メトロポリス』を「解説」する場面がある。漫画家・矢口高雄が模写した『メトロポリス』の場面を引き合いに出しながら、少年・矢口高雄が、どこが面白いのかを生き生きと語るのだ。「へ~~、当時の男の子たちは、こんなふうに夢中になったんだ」ということがよく分かる。で、最近になって『メトロポリス』を初めて読んでみた。・・・特に面白くありませんでした。「デッサンをやってない」というのは、初期の手塚に浴びせられた悪評の代表例だが、なるほど、そう言われても仕方がない部分が目に付く。レッド公のプロポーションのデタラメぶりとか、脳が入っているとは思えない頭の形とか、骨格がないとしか思えない(いわゆるゴム人間)ヒゲオヤジとか。ただ、マンガだから、と言えば許容範囲の話で、ちゃんとそれなりに魅力のあるカタチになっているのは、さすが。だから、漫画家に対して、「絵が下手」というのは、あまり意味のない悪口だ。それを言ったら、絵画の世界だって、「下手くそ」な世界的画家はいくらでもいる。漫画のキャラクターの魅力は、デッサンが正確かどうかにあるのではない。しかし、Mizumizuにとって『メトロポリス』は、当時の少年たち、なかんずく漫画エリート少年に与えた影響を紐解く教材としての意味以上のものは見出しにくかった。子どものころに読めばまた別の感想を持ったかもしれないが、残念ながら、Mizumizuは手塚治虫には遅かった子供で、リアルタイムで読んでいたのは、手塚治虫および女手塚こと水野英子に影響を受けて漫画家になった世代の少女漫画家の作品。ただ、『メトロポリス』の後半、ミッチィが「覚醒」して、暴れまわるところには惹きつけられた。特に、人間に虐げられたロボットたちを従えて「メトロポリスへ!」と海の中を行進していくシーンは美しい。この発想は今読んでも衝撃的だ。手塚治虫の少年向けマンガに女の子のファンが多かったというのも頷ける。手塚作品に出てくる少女の多くは、「暴れまわりたい」という欲求を明確に持っていて、時にそれを実践するからだ。こういう少女像を描く男性の少年漫画家は少ない。で、その虐げられたロボット。「壊れるまで働かされる奴隷」のロボットが…これ↑なのだが、これを見て、そっこ~頭に浮かんだのが、鳥山明の自画像。似てませんか? これ。鳥山明は子供のころ、手塚治虫のロボットの模写をやっていたというから、『メトロポリス』のロボットも真似していたのかもしれない。しかし、「壊れるまで働かされる」ロボットって… 売れっ子漫画家のメタファーですか?
2024.04.28
手塚治虫のチーフアシスタントだった福元一義によれば、1950年代、売れっ子すぎて他の漫画家から敬遠されがちだった手塚治虫と積極的に付き合っていたのが福井英一だったという。当時2人を担当した編集者の証言によれば、福井は、「なんであんなに手塚の線はきれいなんだ」「どんな道具を使っているんだ」と聞いたりしていたという。「俺が聞いたことは手塚には内緒だよ」などと口止めまでして。馬場のぼると3人でカンヅメにされたときは、3人で映画の物まねをして盛り上がり、原稿が進まず、それから出版社は漫画家同士を1つの場所にカンヅメにするのをやめたのだという。強烈なライバル意識とやっかみがあったのは、むしろ福井のほうで、酒の席で手塚に、「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ」「金のために描いているとしか思えねえ」などと難癖つけて絡んだりしている。手塚に自分の家で一緒に仕事をしようと持ち掛けたのも福井英一のほうだった。福元チーフはその場にいることになったのだが、二人の仕事ぶりは対照的だったという。福井のほうはキッチリ下絵を入れてペン入れをするオーソドックスなスタイル。うしおそうじと同じタイプだ。福井もうしおもアニメーター出身なので、似ているのかもしれない。手塚は簡単なアタリを入れて、すごい速さでペン入れをしていく独自のスタイル。当然、生産枚数は違ってくる。そのイライラもあったのでしょうが、よほど興奮したのか、ふだんは徹夜がまったくできなかった福井先生が、その晩は完全徹夜をしたのです。障子の外ですずめが鳴く声を聞いてビックリしたら夜が明けていたということで、福井先生自身喜んでいたのですが、最後のセリフは、「もう君とは二度と一緒に仕事しない」でした。手塚先生の超人的な仕事ぶりに、よほどリズムを狂わされたのでしょう。(福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』集英社新書より)【中古】 手塚先生、締め切り過ぎてます! 集英社新書/福元一義【著】酒を飲んで突っかかったと思ったら、一緒に仕事しようと誘っておいて、あげく「もう二度と一緒に仕事しない」とか、言いたい放題(苦笑)。明らかに福井は手塚に甘えている。1950年当時は、「手塚は絵が下手」などと言う先輩漫画家が多かったのだが、ちゃんと手塚タッチの美しさに気づいていたのはさすがの審美眼だが、その創作の秘密を探ろうとしたしたものの、一緒に仕事して、とても真似できるテクニックではないことを知ったのだろう。そこにいくと、素直に「驚倒した」「仰天した」と書いたうしおそうじは素直だ。ちなみに、うしおそうじは、福井英一が亡くなる前に、一度だけ彼に会っている。同じ東京下町の職人の倅同士ということで、すぐに打ち解けたのだが、そのわずか数日後に福井の訃報が舞い込む。電報で知らせてくれたのは手塚治虫だった。これは1953年の記事だが、「中卒」と「医学部卒」とか、書く必要あるのかね? これじゃ福井英一が気の毒だ。ちなみに手塚治虫が入学したのは阪大医学専門部だから、学歴詐称だというヘンな人がいるが、手塚卒業の年に医学部が医学専門部を吸収しているのだから、医学部卒と書いても別に間違いではない。https://www.museum.osaka-u.ac.jp/jp/exhibition/P13/TezukaChirashi.pdf手塚治虫が前代未聞の、年上にサバよむという年齢詐称(笑)をしていたのは事実なので、この記事では26歳とあるが、本当はまだ24歳だ。「この商売の寿命はほんの2年ぐらい」と言っているところを見ると、この頃は、売れなくなったら医者に戻ろうという気持ちもあったのかもしれない。手塚治虫の『ぼくはマンガ家』によれば、福井英一が手塚作品を褒めたのはたった一度。『弁慶』という時代物だった。手塚は歌舞伎の「勧進帳」の舞台を使ってユーモラスに弁慶を描いたそうだ。それを見て福井が「やりやがったな、うめえ」と、うなったのだという。だが、本当は福井は手塚作品を全部揃えて持っていた。それを手塚が聞かされたのは福井の葬儀の席でだった。「なあ、手塚さんよ」と、山根一二三氏がポツリと言った。「あいつは、俺にいつも、手塚がライバルなんだと言ってたぜ。そして、つい最近も『俺は手塚に勝ったんだろうか?』って訊いてた。あんた、気がついていたかい? 奴の家にはあんたの本が全部揃っていたんだ。こんな感じですか?コージィ城倉『チェイサー』より。主人公の漫画家・海徳光市が、隠し持っている手塚作品コレクションを読もうとしている場面。「手塚に勝ったんだろうか?」――この自問、どれだけ多くの人気を得た漫画家がしたことだろう?コージィ城倉も『チェイサー』で、主人公の海徳光市が、商業的成功を第一目標とする「ジャンプ」システムにのることで、子供だましの、自称「おバカ漫画」が大ヒットし、一時手塚作品以上に売れたとして「(俺は手塚に)勝ったのだが…」と言わせている。だが、主人公が一度は「勝った」はずの手塚は、どこまでも彼の先を行ってしまう。それを一番知っているのも主人公自身、という設定だ。現代にも続く正当派スポ根漫画『イガグリくん』と同時期に手塚が連載していたのは『ジャングル大帝』だが、当時は明らかに『イガグリくん』のほうが人気があった。『鉄腕アトム』より『鉄人28号』のがアンケートでは上だったと雑誌編集者が証言しているし、今では初期手塚の代表作と言われているSF大作『0マン』より寺田ヒロオの『スポーツマン金太郎』のほうが、やはりアンケートでは上だった。ちなみに、『ブラック・ジャック』も、アンケートが取れず、編集部がその人気に気づくのは、突然休載になったときに、編集部に抗議の電話が殺到したことがきっかけだった。手塚に勝つ――同時代の人気や作品の売り上げだけの話なら、「勝った」漫画家はいくらでもいるのだ。だが、例えば、ウィリアム・シェークスピアよりアガサ・クリスティのが読まれているからといって、アガサ・クリスティのがシェークスピアより偉大な作家だと言う人はいないだろう。先ごろ、1万円札の「顔」の候補に手塚治虫が挙がったが、漫画家で彼と競った人はいない。そういうことなのだ。
2024.04.27
1954年に起こった手塚治虫の筆禍事件、通称「イガグリくん事件」は当初は漫画仲間以外にはあまり知られていなかった。そして、この「事件」があってわずか数か月後に福井英一氏は過労死してしまう。手塚治虫が『ぼくはマンガ家』で、この「事件」を振り返って反省の弁を述べなければ案外忘れられた話だったかもしれない。正直なところ、そのころのぼくは福井氏の筆勢を羨んでいたのだった。(手塚治虫著『ぼくはマンガ家』毎日ワンズより)この「事件」の現場にいた人間は少ない。まず、チーフアシスタントの福元一義氏。福元氏の『手塚先生、締め切り過ぎてます!』によると、少年画報社でカンヅメになっていた手塚あてに福井英一が電話をかけてきた。その電話を取ったのは福元チーフで、福井英一はその時、「手塚君に話がある。その間、仕事を中断することになるけどいいかな」と言った。どういう話か知らなかった福元だが、心情的に編集者よりというよりは漫画家よりだった彼は、漫画の話でもするのだろうと軽い気持ちでOKしてしまったのだという。午後11時ごろに福井英一は、馬場のぼると一緒にやってきた。「やあやあ」と手塚治虫が迎えるのだが、だんだんと様子が変わってきたという。福元チーフはその時、隣りの部屋にいたのだが、大きな声がやがてヒソヒソ話になったかと思うと、手塚がやってきて「これから池袋の飲み屋に行ってくる」。そのまま手塚得意の遁走をされたら困ると思った福元チーフは「道具はココに置いていってくださいね」。道具があれば戻ってきてくれるだろうと思ってのことだ。つまり、この時点では、福元チーフは福井英一が手塚に「怒鳴り込んできた」とは思っていないのだ。それより仲のよい三人組で、締め切りを放り出してどこかに行かれては困ると、そっちを心配している。夜通しそわそわしながら福元チーフが待っていると、手塚治虫が戻ってきたのは明け方になってから。手塚「いやあ、参った、参った」福元「飲みに行ったんじゃないんですか」手塚「違うんだ、抗議だよ。強引にねじ込まれちゃって」現場にいた福元チーフが見聞きしたエピソードはこうだが、うしおそうじが、のちに現場にいた馬場のぼるから話を聞いたところ、コトはもっと大げさになっている。手塚治虫が『漫画少年』に連載していた「漫画教室」の1954年2月号にわずか数コマ(Mizumizuが見たところでは2コマだけ)のイガグリ君らしき絵に、福井英一が烈火の如く怒り、手塚・福井の共通の友人だった馬場のぼるの家に来て、「俺は今から手塚を糾弾しに行く」とまくしたて、馬場を強引にタクシーに押し込めたのだという。「これは明らかに俺の『イガグリ』だぞ! つまり手塚はこのイガグリを悪書漫画の代表としてこきおろして天下にさらしたんだ! 俺は勘弁ならねえんだ」(うしおそうじ『手塚治虫とボク』より)馬場は頭に血がのぼった福井英一が手塚に暴力でもふるったら、確実にマスコミの餌食になるだろう。自分が身を張ってでも決斗を防がねばと悲愴な覚悟をしたそうだ。そして、福井は手塚に会うやいなや、胸ぐらをつかんで、「やい、この野郎! 君は俺の作品を侮辱した。中傷した。謝れ! 謝らないなら表へ出ろ」と叫んだというのだ。手塚治虫著『ぼくはマンガ家』では、次のように書かれている。ある日、ぼくが少年画報社で打ち合わせをしていると福井英一が荒れ模様で入ってきて、「やあ、手塚、いたな。君に文句があるんだ!」「な、なんだい」「君は、俺の作品を侮辱した。中傷した。謝れ! 謝らないなら表へ出ろ」「いったいなんのことだか、ちっともわからない。説明してくれ」「ふざけるな」記者(Mizumizu注:記者と手塚は書いているが、編集者の間違い?)が、ぼくに耳打ちして、「先生、相当荒れていますからね。池袋へでもつきあわれたほうがいいですよ」そこへ、馬場のぼる氏がふらりとやってきた。ぼくは救いの神が来たとばかり馬場氏も誘い、3人で池袋の飲み屋に行った。綿のような雪の降る日だった。福井英一ははじめから馬場のぼるを伴って手塚糾弾に来たのだが、手塚治虫は、あとからたまたま馬場のぼるが来たのだと勘違いしている。ともあれ、3人は飲み屋に行って、そこで馬場のぼるの仲立ちもあって手塚が福井に頭を下げている。そして翌月の「漫画教室」で、福井氏と馬場氏らしいシルエットの人物に、主人公の漫画の先生がやり込められているシーンを描き、彼へのせめてもの答えとしたのだ。(『ぼくはマンガ家』より)これが「イガグリくん事件」の顛末だが、実際に「漫画教室」1954年2月号を見た中川右介は、そこに書かれたセリフを引用して、くだんの漫画教室はなにも福井個人批判ではなく、「(手塚)自身を揶揄しているよう」だと述べている。こういった表現が福井、馬場、うしお、手塚といった人たちによって、ますますドギツくなっていった。(「漫画教室」より)と、自分の名前も入れている。そのあとに、確かにイガグリ君のような髪形の頭を一部描いたコマも2つあるが、他にも渦巻状の線だけとか、空とか雲とか煙とかだけが描いたコマもある。そして、そういう表現をそのまま真似するのは避けた方がよい、と言っているだけだ。実際に問題となった「漫画教室」を見ていない人たちは、手塚治虫がイガグリくん人気に嫉妬して福井英一だけを中傷したと勘違いしているが、それは事実ではない。手塚はこのイガグリを悪書漫画の代表としてこきおろして天下にさらしたんだ!なんて、どう考えても過剰反応だ。数か月後に酒を飲んで過労死してしまったという事実を鑑みるに、福井英一は、この頃ハードスケジュールに追いまくられ、すでにかなり精神的に不安定な状態だったのだろう。福井英一が亡くなったのは1954年6月。漫画家の死が新聞に大きく取り上げられる時代ではなく、宮城にいた小野寺章太郎少年(のちの石ノ森章太郎)は、手塚治虫からのハガキで福井英一の死を知る。「福井英一氏が亡くなられた。今、葬儀の帰途だ。狭心症だった。徹夜で仕事をしたんだ。終わって飲みに出て倒れた。出版社――が殺したようなものだ。悲しい、どうにもやりきれない気持ちだ。おちついたら、また、のちほど、くわしく知らせるから」と、ハガキにはあった。手塚先生の悲しみが、行間からにじみ出ているようなハガキでした。福井英一は手塚先生の親友でした。ぼくは顔を見たこともないし、ファンレターを出したこともなかったのですが、それでもとても悲しくなりました。(石森章太郎著『マンガ家入門』より)この文面から分かるのは、天才・石ノ森章太郎は、当時、手塚治虫が「筆勢を羨む」ほど人気絶頂だった『イガグリくん』には興味がなかったということだ。もちろん、手塚治虫と福井英一の「(のちに大げさに広まる)確執」など知らない。二人は親友だと思っているし(実際に親しい仲だった)、手塚治虫の悲しみを思って自分も悲しんでいる。そして、漫画家という職業は体を壊すほど厳しく、忙しいものなのかと、不安になったと『マンガ家入門』に書いている。マンガ家入門【電子書籍】[ 石ノ森章太郎 ]
2024.04.25
少年漫画の世界に「週刊誌」が登場するのが1959年。うしおそうじは現役の売れっ子漫画家として、この大きな時代の転換点を目撃した一人だ。『手塚治虫とボク』には、来るべき週刊誌時代に備えてか、出版社側が「(月刊誌で)締切を守れない漫画家」をリストアップし、一斉追放に向けて布石を打ったのではと思われる、ある「懇談会」のエピソードが載っている。前回のエントリーでも紹介したように、下絵をきっちり描き、ペン先をいくつも付け替えて仕上げるスタイルのうしおそうじは遅筆だった。それにうしお自身、絵がうまくないことを自覚しており、驚異の手塚テクニックを目の当たりにしてからは、ますます自分の限界について考えるようになる。遅筆のうしおは「締切破りで悪名高い漫画家」の上位5位に必ずランクされていたが、ナンバーワンの締切破りは手塚治虫その人だった。もちろん手塚が締切を守れなかったのは、遅筆だからではない。仕事が多すぎたためだ。どちらにせよ、締切破りの漫画家は決まっており、1959年ごろのある日、そうした悪名高い漫画家が10名ほど呼ばれて、出版社側と「なぜ毎月の締め切りを守れないのか、その原因を探り、是正を考えよう」というお題目で懇談会が開かれたのだ。締切破り常連のうしおも当然呼び出されて参加したのだが、その懇談会にうしおはなにやら陰謀めいたものを感じ取る。それは、締切破りナンバーワンの手塚治虫が「どこかの出版社がカンヅメにした」といって、ドタキャンしたからだ。うしおの知るそのころの手塚という人は、約束をした以上は、たとえ終わり間際になろうと必ず現れる人だった。それが、最後まで来なかった。そして、締切り破りトップテン漫画家vs出版社の懇談会は、吊し上げをくらった漫画家側「担当者が、うちで出したメシに文句をつけていた」出版社の編集者側「風呂の釜焚きまでやらされた」「子供の送り迎えをやらされた」というような、本来の趣旨とはずれた私怨炸裂のオンパレードになり、2時間かけて何も明快な解決策はないまま終わる。うしおは参加した漫画家たちの、あまりのアホさ加減に呆れている。論客の手塚がいれば、違ったものになっただろう。だが、集まったのは頭脳プレイのできない漫画家ばかりだった。1959年は週刊サンデーと週刊マガジンが発行された年。うしおは後にその流れを鑑みて、この時の懇談会は出版社サイドによる「手こずらせ漫画家一斉追放」のための口実づくりではなかったかと結論づけている。そして1960年、うしおは漫画家を辞めてアニメと特撮の制作会社ピープロダクションを興す。では、手塚をカンヅメにして、懇談会に参加させなかった出版社はどこだろう? うしおはそれについては書いていない。だが、ひとつ言えるのは、週刊誌創刊に向けて、小学館と講談社が熾烈な「手塚獲得作戦」を繰り広げていたという事実だ。やがて到来する週刊誌時代の足音が聞こえてか聞こえずか、児童漫画家の一部楽天家たちは放埓に構え、無為に過ごしていた。そして運命の回り舞台はあっという間に回転して、週刊誌時代が訪れ、時代の波に乗れない児童漫画家たちはたちまち凋落していくのであった。それに対して、あれほど編集者たちのひんしゅくを買い、不倶戴天視されていた手塚治虫は、週刊誌時代を迎えてますます本領を発揮。名実ともに天下を制するようになる。(うしおそうじ著『手塚治虫とボク』より)手塚治虫とボク [ うしおそうじ ]週刊誌時代が到来する前は、手塚より年上の児童漫画家が子供漫画の世界で幅をきかせていた。また、児童漫画家のほかに「大人漫画家」という区別があり、大人漫画家と呼ばれる漫画家たちは児童漫画家たちを下に見ていて、特に手塚治虫を蛇蝎のごとく嫌い、「絵が下手」「話が荒唐無稽」と罵倒しまくっていたのだ。だが、『新宝島』、そしてそれに続く『ロスト・ワールド』『メトロポリス』『来るべき世界』のSF三部作に衝撃を受けた全国の才能ある少年たちが、続々と漫画家という道の職業に足を踏み入れ、頭角を現していくにつれ、手塚の評価は一変する。彼らにとっては、手塚治虫は神だった。神とその使徒たちが成し遂げた日本文化の革新は、明治維新を成し遂げた志士たちの偉業にも匹敵するだろう。大人たちは、戦後子供たちを夢中にさせ、破竹の勢いで世の中を席巻する新しいメディア、マンガを悪書といって糾弾し、焚書までした。それに真っ向立ち向かったのも手塚治虫だった。マスコミ関係者各社を筆頭にPTA、全国子供を守る会、地方自治体の教育機関、母と子供の会など、その手の団体の指弾のスケープゴートとして、決まって名を晒されるのが手塚治虫であった。そして、いちばん呼び出しの多かったのも手塚治虫である。当然のことながら手塚は憤然として、どの吊し上げの席にも出て行った。怖れず臆せず、逃げも隠れもせず、堂々と相手方と渡り合った。単独の時も複数の時もあった。ボクは彼のヒーローキャラの「レオ」のごとき獅子奮迅の働きに心から拍手喝采を送った。(前掲書より)手塚に続く漫画家たちは、手塚が矢面に立ってくれたからこそ、仕事を続けられたという側面がある。事実、手塚と同世代の漫画家の中には、「悪書」のレッテルを張られたことで意気消沈し、漫画家を廃業した者も多い。そして、手塚漫画を読んで育った子供たちは、長じて日本を世界トップの経済大国に押し上げたのだ。「学校の授業よりも何よりも、人生で大切なことを教わったのは手塚漫画」――これは昭和の時代に活躍した某女流作家の言葉。Mizumizuがこれを目にしたのはラサール石井の本が出るよりずっと前だ。そして今――日本のGDPがインドにも抜かれて世界第5位に転落するというニュースが流れている。一億総中流だった国は、もうどこにもない。あるのは明確な格差。そして、海外からの観光客を喜ばせる「なんでもかんでも安い国、ニッポン」。ただただ衰退の一途をたどる日本に、誰もなすすべもない。
2024.04.22
後に「神業」と言われる手塚治虫の仕事ぶり。うしおそうじは1950年代初頭にその凄さを目撃している。現役の売れっ子漫画家から見ても、そのテクニックは想像をはるかに超えたものだった。まずはペンの使い方。うしおは3本のペン先を使い分けていた。きっちり下描きを入れてその上にペン入れをするのだが、太い線と細い線でペン先を替えていく。ペンを替えるから、当然時間はかかる。ところが手塚は、特に大切なメカニックな背景だけは一応ちゃんと下描きを入れるが、顔は丸、手足は2本線というようにラフな下描きを入れるだけ。ペンも1本で細い線を描く時はひっくり返し、あとは力加減で太い線・細い線を描き分けていた。鼻歌まじりに。しかも、どこでも描くことができる。机がなくても。特に記号のような下描きから、驚くべき速さで一気呵成に仕上げる手塚テクニックには「正直言って仰天した」という。もっと驚いたのはペン入れの順番。普通の漫画家はノンブルどおり1コマ目、2コマ目と順番にペン入れをするのだが、手塚は5ページ目の右から2コマ目を仕上げたかと思ったら、今度は3ページ目の下から2段目の左隅、次は6ページ目の一段目の右から3コマ目…というように縦横無尽にペン入れをしていくのだ。まるで牛若丸のごとく跳び跳びに埋めてゆきながら8ページ分描き終わる。仕上がりを見せてもらうと、驚くべきことに整然と、毛ほどの隙もなく完璧に仕上がって文句のつけようもなかった。(『手塚治虫とボク』より)手塚治虫とボク [ うしおそうじ ]ちなみに1955年。まだ週刊誌時代は始まっておらず、この頃は月刊誌時代だが、その当時も手塚治虫は月に10本以上の連載を抱え、なおかつ仲間と付き合い、飲んだり騒いだりしていたという。うしおは手塚の驚異的な量産の秘密は彼の描く速さにあり、なぜそこまで速いのかといえば、それは4ページだろうが、十数ページだろうが、紙に向かった時にはすでにコマ割りは手塚の頭の中で出来上がっていたことだと書いている。通しの吹き出し(セリフ)を全部入れてしまうと、ポイントごとに下描きのラフな記号風のものを描き入れて、その上に超絶テクを駆使してペン入れをする。この「手塚の神業」は業界では有名だったが、あまり一般の読者には知られることがなかったと思う。Mizumizuは小学校ぐらいのときに、漫画家の鈴木光明がアマチュア時代、手塚の仕事ぶりを初めて見たときの驚きを書いた文章を読んでいて、「こんなことができる漫画家がいるのか。本当に手塚治虫というのは別格の天才なんだな」と思ったのを今でも覚えている。手塚作品は読んでいなかったのだが。鈴木光明がその時目撃した手塚の仕事ぶりは、すでにアシスタントを使っていたのだが、自分は原稿を描きながら、口頭でアシスタントにコマ割りを指示する…という信じがたいもの。「こんなことができないとプロの漫画家になれないのかと思ったが、そんなことができるのは手塚先生だけだった」という鈴木フレーズが(多少言い回しは違うと思うが)、強烈に記憶に刻まれている。頭の中でコマ割りが全部出来上がっていて…というだけでも人間離れしていると思うのだが、それを作業しながら口頭でアシスタントに伝えるって…やはり、天才・石ノ森章太郎が言うように、手塚治虫は天才を超えた宇宙人だったのかもしれない。この神業を一般人にも広く知らしめたのが、『ブラック・ジャック創作秘話』というワケだ。[新品]ブラック・ジャック創作秘話 手塚治虫の仕事場から (1-5巻 全巻) 全巻セット
2024.04.21
うしおそうじ(鷺巣富雄)と言ってもピンとこない人は多いと思う。手塚治虫原作の『マグマ大使』を実写化し、その高い特撮技術で名声を得た人物だが、今の若い世代には『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』など庵野秀明作品の音楽担当鷺巣詩郎の父親だと言ったほうが、とおりがよいかもしれない。うしおそうじは、実弟の鷺巣政安(アニメプロデューサー、演出家)に「自分を引っ張り出してくれたのは手塚さんだ」と語っていたという。交際家として知られる手塚治虫だが、うしおそうじのもとにも、彼はある日突然やってくる。うしおが務めていた東宝で労働争議が激化したことで、うしおは赤本漫画のアルバイトを始めるのだが、自分でも予想外にうしおの漫画は好評を得る。うしおが駆け出しの漫画家としてスタートしたころ、年ではうしおより下の手塚治虫はすでに上昇気流にのって、全国にその名を轟かせる売れっ子漫画家になっていた。うしおは手塚の『ジャングル大帝』を読んで衝撃を受ける。その作者がいきなり自分を訪ねてきて驚くうしお。手塚は『漫画少年』(学童社)の編集者と一緒だった。そして、うしおの作品名を次々挙げて、「うしおさんの作品はよく読んでいます」と言って、うしおをさらに驚かせた。つまり、二人の訪問の目的は、『漫画少年』に連載をしてくれということだった。新しい漫画家を探している学童社に、うしおそうじを推薦したのが手塚だったのだ。うしおの手塚第一印象は「明るい」ということ。そして、その声と語り口に注目している。手塚のリズミカルな話しぶりを聞きながら、ひとつ気づいたことがあった。彼の声量と艶のある発声はあたかもオペラのバリトン歌手を思わせるのだ。それにしても、彼のこの快活な話しぶりは彼の天性か演技か、計りかねていた。初対面のボクにまったく無防備で接するはずはないとみるのが普通だし、決して下衆の勘ぐりとは言えまい。しかし、演技にしては彼はどこまでも自然体であった。いずれにしても、彼のこの天真さは天性と育ちの良さからくるものだろう。(うしおそうじ『手塚治虫とボク』早思社より)手塚治虫とボク [ うしおそうじ ]手塚治虫のトーク力には定評がある。漫画家の社会的地位を高めたのも手塚の知性とユーモアあふれるトーク力によるところも大きいだろう。一時漫画の仕事が減った時も、講演などの仕事依頼が来るので、手塚治虫がヒマだったことはないとチーフアシスタントは話している。手塚のコミュニケーション能力の高さ、その声、語り口の魅力に初対面でいちはやく気づき、こうした文章にしているうしおそうじは、のちに漫画家を廃業して制作会社を興すだけのことはあり、視点が実業家よりだ。うしおそうじが感じた戸惑いは、手塚治虫のトークを聞いた多くの人に共通するのではないだろうか。明るく、快活明瞭で、自然体。だが、どこか本音が見えないようなところもある。本心なのか巧みなウソなのか、分からない。やさしい雰囲気の中に、ふいにドキリとするような毒が混ざる。実は、そうした「つかみどころのなさ」が多くの人が手塚治虫という「人間」に惹きつけられる理由ではないだろうか。うしおは、同じ「漫画家」としての視点からも、手塚治虫の「神業」を記している。手塚に自主カンヅメを提案し、のちに手塚が頻繁に隠れ場所として使うことになる「ホテル・メトロ」を紹介したのもうしおだ。<次のエントリーに続く>
2024.04.20
うしおそうじは戦前、東宝でアニメーションの制作工程を学んだ人だった。そのときの室長が大石郁雄で、芦田巌(別名:鈴木宏昌、芦田いわを)はその門下生だった。その縁で、うしおは芦田とも面識があった。芦田は独立して三軒茶屋にアニメスタジオを持ったのだが、師匠の大石のところに来て話すのは、「生フィルムの入手が困難になった。このままでは零細プロは早晩消滅する」という愚痴ばかりだったという。その様子をうしおは見ていたが、師匠のところでときどき会う先輩アニメーターというだけで、個人的な付き合いはなかったようだ。その後、うしおは労働争議もあって東宝を辞め、漫画家からピープロの社長へと転身を重ねていく。ピープロの経営が軌道に乗ってきた1961年春、アトムが放映開始の2年間になるが、手塚治虫がうしおに突然連絡をしてきて、三軒茶屋まで来てほしいと言う。うしおがさっそく駆けつけると、芦田巌にアニメの肝心なコツを即席に教わりたくて、申し込んだら今日午後1時に来いと言われたので、一緒に来てほしいのだと。天下の手塚治虫が、なんで今さら芦田社長にアニメ即席入門の交渉を?――うしおはあきれ返ったが、手塚の目はキラキラ輝いて真剣そのもの。「じゃあ、とにかく芦田厳にボクから正式によろしく頼むと言って口添えすればいいのですね」手塚はそうだと言う。うしおは手塚に芦田という人間は態度が悪い、相手の目の前でせせら笑うような態度を取るので、そのつもりで会ったほうがよいと忠告する。2人で芦田をたずねると、手塚は自分は本気でアニメプロダクションを興すつもりだが、今、同族会社システムのアニメプロで成功しているのは芦田漫画しかないので、経営のコツやアニメーションの動かし方を教えてほしい。門下生としてこちらに自分が通うと真剣に話をする。その真摯な態度にうしおは脇で胸を打たれるのだが、肝心の芦田はうしおの言ったとおりの態度で、「君みたいな漫画家の頂点に立つ人間がいまさらアニメの一兵卒など務まるわけがない」「漫画家は絵が描ければすぐにでもアニメができるような幻想にとらわれる」「勘違いして、プロダクションを興そうなんて甘い」「アニメーションは絵と同じくらいに撮影の要素を大切に考えない者は失格。鷺巣君(うしおのこと)はそのことをいちばんよく知ってるから独立しても仕事が舞い込むんだ」そんな上からのお説教ばかりで、1時間話し合っても手塚の頼みを聞いてくれるのかくれないのか、いっこうに埒があかない。うしおが手塚に目配せすると、手塚も肝が決まったらしく、芦田に対してきっぱりと、「私の考えが甘かったので、これで失礼いたします」。その語気には、それでも自分はやるという覚悟の決意が込められていることを、うしおは感じ取った。表に出ると手塚は厳しい表情をしていた。それを見てうしおは、彼は必ずやるだろうと思い、無言で手を差し出すと、彼も無言で手を固く握りしめてきた。(うしおそうじ著『手塚治虫とボク』草思社より)その後、うしおのもとには手塚が『鉄腕アトム』の第一話、営業用のパイロットアニメに本格的に取り組んでいるという噂が流れてくる。テレビアニメ『鉄腕アトム』の誰も予想しなかった、恐ろしいばかりのヒットは、日本中が知るところだが、芦田巌はその後どうなったのだろう?芦田巌という名前は今ではほとんど忘れ去られているが、1940年代の後半から1960年代までは、アニメ界では知られた人物だったらしく、大塚康生も芦田の門を叩いている。(以下、大塚康生著『作画汗まみれ』アニメージュ文庫より引用)芦田漫画という会社は社長の芦田巌さんという方が戦前からのアニメーターで、山本(善次郎=早苗)部長とは古い友人という関係で東映動画から仕事が行っていました。実をいうと、私は東映動画に入る前に、そのころ三軒茶屋にあったその芦田漫画に「入れほしい」と頼みに行ったことがありました。そのときに、芦田巌さんが私の絵をみてこういわれました。「きみの絵はアニメーションに向いていないよ、絶対やめたほうがいい…」そういわれて、私はスゴスゴと引き揚げたことがあったのです。(引用終わり)手塚治虫も1947年、東京進出を考えて自作を手に出版社に営業をかけていたときに、たまたま京王電車の駅の電柱に漫画映画制作者の求人広告が貼ってあるのを見て、『新宝島』や自著の赤本数冊をかかえ、そのままその漫画映画のプロダクションに飛び込み、使ってほしいと頼んだという。しかし、「一度、出版界の味をしめてしまうと、報酬その他、割がいいもんだから、けた違いに不利な漫画映画などつくる気になれない。諦めるんだな」と、断られたという(手塚治虫著『ぼくはマンガ家』より)このエピソードは1967年の東京新聞「私の人生劇場」でも手塚自身が語っているが、何というプロダクションだったのかはどちらにも書かれていない。書かれていないが、それはどうやら芦田漫画だったらしく、手塚以外の著者(Mizumizuが見た中では、うしおそうじや中川右介)の本には、1947年に手塚が飛び込み入社志願をして断られたのは芦田漫画だと書かれている。ただ、手塚治虫本人がそう言ったのかどうか、Mizumizuとしては確認が取れない。ちなみに2012年9月の「虫ん坊」では、東京新聞「私の人生劇場」をもとに記事をまとめているので、昭和21年(1946年)となっているが、『ぼくはマンガ家』では、「ぼくが戦後はじめて東京の街を見たのは昭和22年(1947年)の夏だった」とあり、Mizumizuもこちらを採用している。なぜなら『新宝島』が発売になったのが1947年。手塚はその大ヒット作を持って東京の出版社に営業をかけるのだから、1946年ではおかしい。話は戻って、1947年に手塚が飛び込んだ会社がもし芦田漫画だとすると、手塚治虫は、まだ東京進出を果たしていない、駆け出しのころに1回、漫画界の頂点に立ち、アニメに進出する直前に1回の、計2回も芦田に弟子入りを志願したことになる。一時はアニメ界の第一線に立っていた、その芦田厳がその後どうなったのか、実はよく分かっていない。だが、うしおの前掲書には、芦田のその後が書かれている。手塚治虫がアトムのパイロットフィルムを制作しているという噂を、うしおが聞いてからしばらくたって、夕刊記事の三面記事に小さく、三軒茶屋のパチンコ店内で地回りのチンピラやくざの抗争でピストル発射事件があり、客の芦田厳氏にそれ弾が当たったが無事だという記事が載っていた。「ああ、相変わらず賭け事が止まらないのだな」とボクは概嘆した。(『手塚治虫とボク』より)さらに数十年経って、うしおは芦田漫画のあった場所の近くにたまたま行く機会があった。芦田漫画は畳屋にかわっていて、その畳屋の親爺にそれとなく芦田のことを聞いてみると、親爺は物凄い剣幕で怒りだし、畳を斬り落とす包丁を握りしめながら叫んだという。「あんたは芦田と親しいのか。親しいなら、芦田の現住所を教えろ。あいつには借地権の線引きでごまかされたんだ」。
2024.04.17
うしおそうじ(鷺巣富雄)は、1950年代には手塚治虫と並ぶ人気漫画家だった。もう彼の漫画を覚えている人は少ないだろうが、漫画家をやめたのちに彼が手掛けた『マグマ大使』『怪傑ライオン丸』は、日本の特撮黎明期の優れた作品として記憶している人も多いだろう。そのうしおそうじの著作『手塚治虫とボク』は、実に面白い。手塚治虫とボク [ うしおそうじ ]うしおが手塚治虫と一緒に映画を見に行ったり、旅行したりして親しくつきあったのは1950年代前半。手塚が漫画の神様と呼ばれる前だ。そのころの手塚治虫の図抜けた才能を目の当たりにして、うしおそうじは「驚倒した」と言っているが、今日取り上げるエピソードは、うしおが漫画家をやめて制作会社ピープロの社長となり、手塚治虫は(旧)虫プロの社長となって『鉄腕アトム』で一大ブームを巻き起こし、同作が『アストロボーイ』として、アメリカで放映されると決まったころの話。うしおは『鉄腕アトム』が、1話1万ドル(当時のレートで360万)でアメリカに売れたという噂を聞き、手塚治虫に直接電話してお祝いの言葉を述べた。本人はそれだけで電話を切るつもりだったが、手塚治虫が折り入ってお願いしたいことがあり、今からそっちへ行きたいと言う。手塚のお願いというのは、うしおのピープロで『鉄腕アトム』を作ってほしいというものだった。驚いたうしおは「いいですけど、一体どうしたんですか」と聞く。すると手塚はすぐにうしおのもとに駆けつけてきて、こんなことを言ったという。「目下、うちの連中はアトムを作るのは嫌だと言い出したんです。飽きて、もううんざりだと言い、『ジャングル大帝』をカラーで製作したいと言う。体のいいサボタージュ気分が職場に蔓延してボクは困っているんです。そりゃあ、彼らの気持ちは分かるし・・・」「彼らの気持ちも分かるし・・・って、それはちょっとおかしくないですか。ボクはよそながら聞いてますが、虫プロの社員は会社に対して10時と3時にコーヒーブレイクをもうけ、就業中は有線でムーディなBGMを流せと要求して、会社はその要求をのんだともっぱらの噂ですよ」「ええ、その噂は一部本当です」うしおの詰問調の質問に、手塚は不快感をあらわにしたという。「だってうしおさん、ボクは仕事をしているとき、ムーディーなBGMが流れているほうが効率が上がるんですよ」「手塚さんが漫画家として仕事をしているときに名曲がバックに聞こえてくるほうが快適に仕事がはかどるということは分かります。だからといって、虫プロの職場で従業員たちの要求をなんでも受け入れてやる、その考え方は行き過ぎではないですか。」うしおは、虫プロはいまや業界だけでなく、あらゆる産業界でも注目する企業になってしまったのだと話すが、手塚は不機嫌になる一方。手塚治虫には話さなかったが、もっと呆れた虫プロのアニメーターの実態をうしおそうじは聞き及んでいた。本来なら『鉄腕アトム』の絵を描くべきところを、こっそり東映動画のアルバイト仕事をしているという話を何度も聞いていた。彼らはトレース台の下に東映動画の仕事を隠しておき、管理職の姿が見えなくなると、机の上の『鉄腕アトム』をどけて、それを取り出し、アルバイトに精を出しているというのだ。<以上、前掲書からそのまま引用>うしおは手塚治虫の顔色を見て、経営について口出しするのをやめ、アトムの仕事を引き受けている。最初は13本の約束だったが、結局、2年にまたがって39話分も応援をした。うしおそうじの証言は具体的で信憑性が高い。虫プロのアニメーターがあれがしたい、これは嫌だとワガママを言い、しかもこっそり他社のアルバイトまでしていたという話は今ではほとんど聞かないが、当時はどうやら業界内部では有名な話だったということだ。
2024.04.14
橋本一郎『鉄腕アトムの歌が聞こえる』という書籍があるが、著者はYou TUBE動画も開設して、手塚治虫とその時代について様々な証言を行っている。鉄腕アトムの歌が聞こえる ~手塚治虫とその時代~【電子書籍】[ 橋本一郎 ]その中に手塚治虫が率いていた(旧)虫プロのアニメーターの高待遇ぶりを語った動画がある。https://www.youtube.com/watch?v=dwvTatm6Qk88分17秒ぐらいから。(旧)虫プロのアニメーターは凄い勢いだった。東映動画から金に糸目をつけずに雇ってきたうえに、時間外が青天井だったため、とてつもない収入があった。自宅を(都内に)次々新築していき<Mizumizu注:虫プロで3年働くと都内に家が買えたという話もある>、虫プロの駐車場には高級車がずらりと並んでいた。<以上、発言をまとめたもの>これはなんといっても、『鉄腕アトム』の大ヒットとそれに伴うマーチャンダイジングの急拡大がもたらしたもの。 手塚治虫自身『ぼくはマンガ家』(1969年)というエッセイで、次のように書いている。<引用>「アトム」がそれほど話題にならなければ、類似作品も作られなかったろう。「アトム」が儲かるとわかるとスポンサーはどんなに大金を積んでも、どこかにテレビ漫画を作らせようと躍起になった。アニメーターたちの引き抜き合戦が始まり、アニメーターの報酬は、うなぎ登りに上がった。高校を出たか出ないかの若い者が 月々何十万もサラリーを稼ぎ<Mizumizu注:上掲の橋本氏の朝日ソノラマでの月給は、虫プロ全盛の時代に2万弱だったという>、マイカーを乗り回すといった狂った状態になった。<引用終わり>つまり、手塚治虫の『鉄腕アトム』がもたらしたのは、アニメーターバブルだったのだ。安い給料で奴隷労働させたなんて、デマもいいところ。手塚治虫が生きていれば、こんなデマはまかり通るはずがない。丹念な取材に定評があり、『手塚治虫とトキワ荘』の著者でもある中川右介は、以下のように総括している。https://gendai.media/articles/-/75170?page=4<引用>アトムを真似できなかった制作会社『鉄腕アトム』の放映開始は1963年だが、早くもこの年の秋に、3本の子供向けTVアニメが、制作・放映される。虫プロは『鉄腕アトム』を週に1本製作するため、技術面でさまざまな技法を編み出した。それは極力、絵を「動かさない」という本末転倒したもの、ようするに、「手抜き」なのだが、そのおかげで、日本のアニメは「ストーリー重視」になった。この手法はすぐに真似され、1963年秋からTCJ(現・エイケン)の『鉄人28号』『エイトマン』、東映動画の『狼少年ケン』が放映された。「アニメが儲からない」のは、虫プロではなく、この2社のせいである。TCJはテレビコマーシャルの制作会社で、当時のテレビCFにはアニメを使うものが多かったので、アニメ部門があった。『鉄腕アトム』の成功を見て、電通がTCJに発注したのが『鉄人28号』で、TBSが発注したのが『エイトマン』だった。TCJは虫プロと異なり、電通やTBSの下請けとして、安い価格で受注したのだ。このとき、利益の出る価格で受注していればいいのに、コマーシャルで儲けていたので、赤字覚悟で受注した。『鉄人28号』はTCJもアニメの著作権が持てたので、マーチャンダイジング収入があったが、『エイトマン』のアニメの権利はTBSと原作者の平井和正と桑田次郎にしかないので、キャラクター商品が売れてもTCJの収入にならない。『狼少年ケン』はNET(現・テレビ朝日)が放映した。NETは当時は東映の子会社で、東映社長の大川博がNETの社長だ。東映動画も、もちろん東映の子会社である。東映はNETに対し、「東映動画に適切な製作費を払うこと」と指示できる立場にあったが、そうしなかった。それでも東映動画は『狼少年ケン』の著作権は保持していたので、キャラクターのマーチャンダイジング収入は得た。テレビ局と広告代理店は、アニメの利益がキャラクター商品にあると分かると、その権利を得て、一度得ると手放さない。その結果、制作会社は低予算を押し付けられたあげく、著作権も持てず、経営は厳しくなり、社員の給料が安くなる構造が生まれる。これは、別に手塚治虫のせいではないのだ。さらに、東映動画はTVアニメに乗り出すと人員を増やしたが、今度は人件費が経営を圧迫して人員整理をし、労働争議になり、ますます正社員は採用しなくなり、下請け、孫請、フリーランスを使うようになっていく。その過程では、腕のいいアニメーターは正社員だった頃よりも収入は上がった。<引用終わり>東映動画のやり方は、実にエグい。だが、人員整理(つまりクビ切り)をして、正社員ではなく下請けにやらせるという構図は、なにもアニメ業界に限ったことではないし、そうやって東映動画は生き残ったのだ。 一方の虫プロは、テレビ局からの受注減、劇場公開長編アニメ映画の赤字、それに労働争議も重なって倒産した。 アニメーターバブルが弾けた時、多くのアニメーターは収入を減らしただろうが、才能のある一握りだけは、大きな組織を離れることで、逆に収入が上がる。これもよくある話だ。そして、手塚治虫が労働者であるアニメーターに、いかに「甘かった」か。それは、うしおそうじの『手塚治虫とボク』(草思社)に端的な例が書かれている。<以下、次のエントリーで>
2024.04.12
アニメ制作費が安い――この話は今もよく聞くが、それを60年以上も昔の『鉄腕アトム』のせいだと信じている人が、いまだに一定数いることには呆れてしまう。『日本アニメ史』(中公新書 2022年)著者である津堅信之氏は、日本アニメ史 手塚治虫、宮崎駿、庵野秀明、新海誠らの100年/津堅信之【1000円以上送料無料】さすがにそれは「飛躍しすぎ」と結論づけているが、同氏のネット記事https://president.jp/articles/-/57267?page=5のタイトルはアニメ業界が激務薄給になった「元凶」と批判も…『鉄腕アトム』を激安で作った手塚治虫の誤算と、「中身をよく読まない」多くの一般ユーザーを誤解させるものになっている。しっかり中身を読んでみれば、同氏の結論は以下だ。(引用)『アトム』以来半世紀以上を経た現在まで、安い制作費の原因を手塚に押しつけるのは、話を飛躍させすぎている。自社が制作する作品の価値を認識し、それを権利として獲得することは、後続のアニメ制作会社にも課せられていたはずである。そういう後続他社の努力の欠如、もしくは変えられなかった責任を問う声は、なぜか小さい。(引用終わり)まったくの同感…というか、普通に考えたら、当たり前のことではないか? 60年も昔に、誰かが新しい分野を開拓した。不可能だといわれることをやってのけた。そのインパクトはあまりに大きく、新しいビジネス(キャラクター販売、アニソン、メディアミックスへの流れ)が生まれた。その実績は目覚ましいもので、恩恵を受けている後輩たちは枚挙にいとまがない。2024年現在、東京駅近くの地下には主にアニメのキャラクターグッズを売る店がずらりと並んでいる場所があるが、これだって端緒を開いたのはアトムだ。ところが、それをきちんと評価するアニメ関係者はほとんどおらず、逆にアニメーターの過酷な労働や低賃金は、手塚治虫のせいだというトンデモ説はいまだに跋扈している。キャラクターや関連グッズが売れるのは自分たちの手柄。でも、アニメの制作費が安く、アニメーターの待遇が悪いのは手塚のせい?おかしーわ!新しい分野に参入する時、戦略的に廉価設定をするのは、ビジネスシーンではよくあることだ。後続他社の努力の欠如や責任を問う声が「なぜか小さ」く、手塚治虫の死去後に「手塚のセイダーズ」がワラワラ出てきて、声が大きくなっていったのはなぜか。それは、だいたいみんな分かっているハズだ。手塚治虫が生きていれば間違いなく反論しただろう。皆忘れているが、漫画が悪書として「焚書」の憂き目にあった時も、新左翼と呼ばれるトンチンカンな評論家の酷評で漫画家たちが苦しめられた時も、「最前線」に自ら出向いて反論したのは、誰あろう手塚治虫だった。それを、彼がこの世を去り、何も反論できなくなくなったとたんに口汚く攻撃するなんて、実に卑劣ではないか。しかも、アトムに関しては、その過去の状況さえ、悪い方に脚色されている。(前掲ネット記事からの引用)まず、約4年間・全193話放送された『アトム』は、その期間ずっと1話55万円だったのではない。当時の虫プロスタッフの証言によると、話数を重ねる中で徐々に上積みし、最終的には1話300万円程度までになっている。また、1965年10月放送開始のテレビアニメ『ジャングル大帝』では、制作現場に投入される予算は1話250万円で管理された。さらに、『アトム』の当初契約1話55万円は、あまりにも安すぎるとして、手塚には告げない形で虫プロの事務方が再協議し、代理店(萬年社)が1話あたり100万円を補填ほてんして、合計155万円で制作していたとの証言もある。(引用終わり)津堅氏は、日本のアニメ史を俯瞰したうえでの客観的な記述を心がけている。中公新書の『日本アニメ史』には、上記のネット記事には載っていない関係者の証言も多くあり、できる限り幅広い業界人の声を集めようと努力している姿勢は尊敬に値する。今の日本のアニメ業界が抱える問題を語るなら、こうしたマジメな書籍を一読してからにしてほしい。
2024.04.09
今でも時々メディアでお見かけする漫画家ちばてつや。いつどんな話を聞いても、本当に人柄の良い方だなぁと感服する。ちば氏の語る、亡くなってしまった昭和漫画界の巨匠との思い出話は貴重なうえにとても面白いのだが、『あしたのジョー』の初代テレビアニメについて、Wikiには吉田豪氏の丸山正雄氏へのインタビューからの引用として、「虫プロダクションでの制作であったが、社長の手塚治虫は本作品をライバル視していたため、アニメ版の制作にも関知しなかった」とある。だが、これはちばてつや氏の証言によれば、ウソだ。『ある日の手塚治虫』でちば氏は、『あしたのジョー』を(旧)虫プロでアニメ化する企画が持ち上がった時に、「手塚先輩がわざわざ打合せで訪ねてきてくださった」と書いている。工事中で道路に穴があいていて車が通れなかったので、手塚治虫は車を待たせ、穴のあいた道路にわたした板の上を歩いてきたそうで、その時の情景をちば氏がカラーで描いている。その絵の下の、ちば氏直筆の文が以下。危ない板を渡ってくる姿を見てあせったちば氏が「こちらからスタジオに出向きます」と叫んでも、手塚氏は「いやいや、礼儀だから」と言って、ガンとして聞かなかった、とある。『あしたのジョー』が「今だに何度もあちこちで放映され、長い間ファンに愛されている」アニメ作品になったことを、ちば氏が嬉しく思っているのは確かだ。ちばてつやのところに手塚治虫が打合せに行ったことを、インタビュー時には丸山正雄氏が忘れてしまっていただけのことかもしれない。しかし、原作者本人は20年たっても憶えていて、手塚氏の律儀さに恐縮しているのに、「ライバル視していたから関知しなかった」などと、事実と違う話を言いふらすのはいったいどういう了見なのだろう?
2024.04.05
「手塚治虫の奇跡は、映画やショービジネスの世界ではなく、漫画という繊細で奥深い大衆娯楽によって生み出された。この飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進し続ける風変りな男のおかげで、漫画ははるか僻地の質素な家に住む人々をも夢見心地にさせた」これはローラン・プティの『ヌレエフとの密なる時』(新倉真由美訳)をパクって、『新宝島』から1950年代の「どこでも手塚(どの雑誌を開いても手塚治虫の作品が巻頭カラーを飾っているという意味)」時代をイメージして作った文章だ。変更したのは赤文字の部分。ヌレエフ→手塚治虫、バレエ→漫画、芸術→大衆娯楽に変えただけ。Mizumizuは個人的には手塚漫画は芸術だと思っているが、本人がそう言われるのを嫌ったので、あえて忖度した。【中古】 ヌレエフとの密なる時ある分野の人気のすそ野を爆発的に広げる革命児には似た部分が多い。バレエではヌレエフが手塚のポジションにいると思う。ヌレエフ以前にも偉大なバレエダンサーはいたし、バレエを好んで観る人たちも確かにいた。だが、ヌレエフの登場によって、それまである程度固まっていて、閉鎖的だった「バレエファン」は一挙に様変わりする。手塚治虫以前にも、もちろん売れっ子の漫画家はいた。だが、手塚の「映画的手法」によって、日本各地の少年少女が文字通り「夢見心地」になったのだ。矢口高雄の『ボクの手塚治虫』は、「はるか僻地」で質素な生活をしていた少年が、いかに手塚漫画に魅了され行動したかを生き生きと描いている。手塚作品を読みたいがために、矢口少年は、雪深い山道を何キロも歩いて町の本屋に行く。手塚作品を買いたいがためにきついアルバイトをして、本屋の主人に「このカネはどうした?」などと疑われ、憤慨して自分がどうやってそのお金を作ったかを説明し、そこから本屋の信頼を得ている。ボクの手塚治虫【電子書籍】[ 矢口高雄 ]このファンの熱情は、ヌレエフの公演を見ようと遠くからでも駆けつける新しいバレエファンの心理とダブる。そして、もう1つ、大いなる共通点。再び『ヌレエフとの密なる時』から。今度は改変なして。「驚いたことに、彼の出演料は非常な人気を博していた他の出し物に比べ比較的少なかった。そう、それは本当にささやかなものだった。『僕にとってそれはとても良いことだと思う。だってわかっていると思うけれど、僕は来年も踊っていたいから』それは理にかなっていた。天文学的な出演料を要求し、毎年踊る機会の減っているダンサーたちにとってなんという教訓だろう。この時期ヌレエフは1月から12月まで約250回の公演を行っていた。それはおそらく多すぎた」手塚治虫が原稿料にこだわらなかった、むしろマネージャーに「安くしろ」と言っていた話はよく知られている。ちばてつやの●分の1だったとか、アニメージュの編集長だった鈴木敏夫(現在はスタジオジブリ代表)に「僕の作品は単行本で売れるから、原稿料はいくらでもいい」と言ったとか。単行本で稼ぐから、というのも本当だろうけれど、実際のところ、長い間漫画界の第一線で活躍してきたこの大天才は、原稿料を上げたのちに人気が落ちて、あっけなく切られてしまう(一時的な)流行漫画家の姿をきっと見ていたのだろうと思う。若いころの手塚は、「この商売の人気は2年ぐらい」と言っていたし、売れなくなったら医者に戻ろうとしていた感もある。そのための道も残していた。たとえ人気がなくなっても、原稿料が安ければ頼むほうは頼みやすい。いったん原稿料を上げて、人気がなくなったら「下げますから仕事ヨロシク」と言っても、相手は依頼しようとはなかなか思わないものだ。だったら、最初からお手頃な値段設定にしておいたほうが、競争力を保てる。一種、企業家のような発想で入れ替わりの激しい漫画業界を40年以上も生き抜いたのだ。ヌレエフは非常に公演数の多いダンサーだった。手塚治虫もすごい量産漫画家だった。そしてその対価に大きなものは要求しなかった。「来年も踊っていたいから」というヌレエフの言葉は、「来年も描いていたいから」とすれば、そのまま手塚治虫の言葉だ。むろん、あちこちでスキャンダルを引き起こす奔放なバレエダンサーとそういった問題とは無縁の博覧強記の漫画家の生き方は大いに異なっている。だが、「死の病(当時)」がその体を蝕んでも、なんとか仕事を続けようとしたその執念は似ている。ヌレエフはダンサーとしてキャリアをスタートさせたのち、振付師としても名声を得た。晩年にはクラシックバレエのレパートリーを演奏するオケの指揮も行い、好評を得ていた。亡くなる3か月前、ヌレエフはローラン・プティの公演に指揮者として参加したいと自分から申し出ている。オケの指揮をするヌレエフ、なんて素敵なアイディアだろう!――プティは喜んで了承する。「なるたけ早く仕事に着手して暗譜したいから、急いで楽譜を送って」だが、二人の構想が実現することはない。亡くなる数週間前まで、ヌレエフは創作作品で自らも踊る意欲を持ち続けていた。当然と言えば当然だが、現実に彼にできたのは、楽屋で横になっていることだけだった。それでもヌレエフは楽屋にいて、亡くなる数日前になってようやく病院に戻った。手塚治虫も最晩年まで多くの仕事を抱え、新しい分野の構想や依頼もあった。病院のベッドで、寝かせようとしても必死になって起き上がろうとしたという。彼が亡くなった時、ニュースで速報が流れた。Mizumizuはその瞬間、たまたまテレビを見ていた。「60歳の生涯を終えた」というアナウンサーの言葉に、「えっ? うそ。違うでしょ」と思った。熱心な読者ではなかったのに、ちゃんと年齢のことが頭にあったのは、生年月日による性格占いなどの対象に手塚治虫がよくなっていたからだ。みんな手塚フィクションにいっぱい食わされていた。したり顔で手塚治虫がもって生まれた性格や運勢などを断定していた占い師には、笑ってしまう。ゲーテを想起させるような「手塚治虫最期の言葉」を知って感動するのは、もっと後のこと。「頼むから仕事をさせてくれ」――この最後とされるセリフが、ある種の手塚フィクションでも、あるいは本当の本当でも、それはどちらでもいい。手塚もゲーテ同様、歴史上の人物として語り継がれることになるのだから。ゲーテの臨終の言葉「もっと光を!」については、以下のサイトが詳しい。https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=277
2024.04.02
2021年に「岩下くま」氏がポストした手塚治虫先生との思い出。岩下くまさん(@IwashitaKuma)が7:38 午後 on 月, 2月 08, 2021にポストしました:【手塚治虫先生の思い出】 https://t.co/t6ahX1g3Qz(https://x.com/IwashitaKuma/status/1358726920305692677?t=gtHEiYEO6PQ3OL49O_fF4Q&s=03これは、いくつかの面で傑作漫画だとMizumizuは思っている。まずは、昭和という時代の雰囲気がよく出ている点。「デパート」は令和の今の時代では、縮んでいくパイに四苦八苦している斜陽の産物扱いだが、昭和時代は、消費の花形であり、ステータスだった。そこで催されるイベント、登場する「漫画の神様」。たまたまその日にデパートに行って参加する(参加できる)少女。昭和という時代のおおらかさ、平和なムード、その中での熱気が伝わってくる。それから、手塚治虫の華やかな多才ぶりを実際のイベントを通して巧みに描けている点。目から描き始めて、その場でキャラクターを造形する――これ、案外難しいと思うのだが、そこは多才な「漫画の神様」。トークで盛り上げ、造作もなくキャラクターを描いて見せる。参加者の熱に押されるように、手を挙げまくる少女。だが、突然の指名にかたまってしまう。このときのパニックぶりの絵が秀逸。「岩下くま」氏が漫画のエリートに属する少女だったことは、この表現の巧さで分かる。「うう…」と泣きそうになっている姿など、スクリーントーンをうまく使って、熱にうかされた気分から一挙に暗いパニック状態に落ちてしまった自分をシンプルなタッチで端的に描いている。そして「目の前に漫画の神様がいた、後ろにもやさしい神様がいた」――これは名台詞ではないですか。パニック状態から一転して頬を染めながら、憧れの神様からのプレゼントを受け取る少女の嬉しそうな表情。この話の持っていきかたの巧さも指摘しておきたいポイントだ。そして、手塚治虫先生の人となりを端的に伝えるラスト。それを、たった一コマで見事に描いている。司会「手塚先生、終了時間です」手塚(ノリノリで)「大丈夫です。まだまだ描きますよ」この「まだまだ描きますよ」は、とんでもない多作の天才漫画家が人生の最期まで言い続けた言葉だ。それを思うと、ふと涙が出る。戦争直後に彗星のごとく現れた天才漫画家は、高度成長期の熱気とともに漫画というメディアを一大産業にまで押し上げ、そして昭和が終わるとともに逝ってしまった。手塚治虫がたった60歳で逝き、バブルの狂乱の絶頂を見ず、その終焉とそのあとの長い経済的停滞も見なかったのは、偶然なのだろうか、それとも必然だったのだろうか。手塚治虫が亡くなったのは1989年の2月だが、日経平均株価が最高値をつけたのは1989年12月29日(3万8957円44銭)。2024年2月になってようやくこの最高値を超えたが、それまでに実に34年かかったことになる。銀座の地価が過去最高を記録するのは、バブル末期の1992年(1平米辺り3650円)。これが更新されたのは2017年だ。もっとも、都心の一等地は例外で、Mizumizuの住む荻窪に関していえば、土地の値段はバブル期の最高値にはまだまだほど遠く、今年やっとバブル前まで戻したというところ。だが、土地や株の価格だけが更新されても、昭和バブルの熱狂は今の日本には皆無だ。それ以前の高度成長期といい、あの戦後昭和という時代が放ち続けた熱気は何だったのだろう。まだ日本人はまだそれほど豊かではなかったが、未来に対しては楽観的だった。中村草田男の言う「明治」をMizumizuは知らない。同様に昭和を知らない世代は、「昭和は遠くなりにけり」と、感慨にふける年寄りを、昔のMizumizuのように見ているのか。昭和――あの頃に自分も経験できたかもしれない体験を逃してしまった者としては、こういう実話を読むとたまらなくうらやましくなる。だが、あの頃に思いを馳せることのできる漫画、それもこうした時代の雰囲気や場の熱量、登場人物のパーソナリティまでを十二分に盛り込んだ優れた作品に触れることができるのは、たまらなく嬉しくもある。
2024.03.31
北海道にマンガミュージアムを!大和和紀&山岸凉子展 (hokkaido-life.net)に展示された(らしい)山岸凉子の「手塚先生との思い出」。山岸凉子が紡ぐ、この日のお話は、雪の札幌という背景もあいまって、一種幻想的なシンデレラストーリーのようにも思える。デパートの催事場で漫画の神様の神技に驚き、喜ぶ大衆。必死に声をかける漫画家志望の高校生。多忙にもかかわらず、常識的なハードルを設けたのちに、熱意ある漫画家のタマゴの作品を見てくれる手塚治虫。山岸凉子の兄の態度も素晴らしい。当時は大学生だったということだが、今の大学生よりずっと大人だ。手塚治虫の「予言」どおり、すぐにデビューした大和和紀。デビューまで数年を要したのち、誰もが知る少女漫画の大家となった山岸凉子。その彼女が、「私はあの時の手塚先生のように読者や漫画家を目指す人たちにやさしくできただろうか」と自問するラスト。手塚治虫が「神様」なのは、その作品が漫画のお手本であるということも、もちろんあるが、それだけではない。非常に頭がよく、絵に情熱をもち、かつ優れたストーリーテラーの素質をもつ稀有な若い才能を日本全土から「漫画家」という職業に引き込んだからなのだ。今の漫画を見ても、漫画家には優れた作画の技量だけでなく、幅広い教養が必要だということが分かる。漫画家を目指す若者に、手塚治虫がどれほど親切だったかは、こちらのエントリーでも紹介した。自らの作品と人柄で、漫画家の種を蒔き続けたという業績は、まさに神の名にふさわしい。なお、山岸凉子『手塚先生との思い出』は、【手塚治虫文化賞20周年記念MOOK】マンガのDNA ―マンガの神様の意思を継ぐ者たちで全編が読める。
2024.03.27
好評のうちに幕を閉じた(らしい)『あさきゆめみし』x『日出処の天子』展 ― 大和和紀・山岸凉子 札幌同期二人展この展覧会のもう1つの目的は、「北海道マンガミュージアム」構想を前進させること。北海道にマンガミュージアムを!大和和紀&山岸凉子展 (hokkaido-life.net)かねてから歴史的名作と呼ばれる漫画の元原稿の保存を美術館として行うべきと訴えているMizumizuとしてはもろ手をあげて賛成…と言いたいところだが、地方につくる漫画美術館には課題も多く、一も二もなく賛成とは言い難い。漫画美術館の役割は大きく分けて3つあると思う。1)原画を含めた展覧会の開催2)漫画本の収集3)原画の保存このうち、Mizumizuがもっとも大事だと思うのが(3)だ。数年前、川崎市市民ミュージアムが浸水被害にあって、せっかくの収蔵品が大きな被害を受けたことがあるが、あのミュージアムの場所を見ると、さもありなんだ。自然災害の多い日本で、良好な状態で原画を保存していくための方策にはかなりの予算を必要とする。そこをどうするか。北海道マンガミュージアムは市立ということになりそうだが、有名漫画家頼みの、地方行政による漫画美術館の管理運営は、何十年かのちには行き詰まることがほぼ見えている。手塚治虫記念館であっても、来場者は減少傾向だし、三鷹の森ジブリ美術館でさえ、コロナ禍で二度もクラウドファンディングを行うありさまだ。できたばかりのころは集客も見込めるだろうが、長期的にはそうはいかなくなる。それを見こしたとき、あちこちに小規模なマンガミュージアムというハコモノを作ることが公共の福祉に利するのかは疑問だ。逆に、だからこそ、漫画美術館というのものは、傷みやすい漫画原画の保存をどうしていくかをまず第一に考えるべきなのだ。それは国としてやるべきだとMizumizuが主張するのはそこで、原画さえ確実に保存できれば、漫画本の収集は二の次、三の次でよい。マンガミュージアムに行って漫画本を読まなくても、今は電子書籍もあるし、図書館に収蔵されているものもあるし、以前よりはるかに気軽に漫画を読めるようになっているのだから。展覧会についても、わざわざ新しい「マンガミュージアム」を作らなくても、既存の美術館やイベント会場を利用すればできるはずだ。このごろは頻繁に行われるようになってきているので、そのノウハウは蓄積されてきている。それだって、1990年に東京国立近代美術館で手塚治虫回顧展が開かれ、成功をおさめたことが、この流れの発端であることは間違いない。やはり、道を切り拓いたのは手塚治虫なのだ。1990年当時は漫画はアートとは見なされなかった。手塚治虫自身、「(漫画家は)アーティストになるな」と言っている。石ノ森章太郎が手塚治虫回顧展に向けて奔走したときも、三越デパートでは「大々的なイベントに」と言われ、美術館からは「あまりイベント臭が強いと困る」などと言われている。それも今は昔だ。「漫画なんて読んでいたらバカになる」と言っていた大昔の人々は、手塚治虫の登場によって消し去られた。今は70代ぐらいのシニアもマンガで育っている。漫画を「サブカルチャー」と位置付ける人も、まだ多いが、「サブ」はいずれ取られることになるだろう。浮世絵の評価の変遷をみても、一般庶民の嗅覚のほうが、「これがメインストリームのカルチャー、こっちはサブカルチャー」と区分けして歩く権威ある人々のそれよりも鋭いのだ。
2024.03.26
これをやれる日本人女子シングル選手がいるとしたら、それは紀平選手だと思っていた。2018年にそう書いた(こちら)。だが、日本人女子としては初、世界をみわたしても56年ぶりという快挙をなしとげたのは、2018年当時は予想もしていなかった坂本花織選手だった。これには、ロシアの問題も絡んでいる。ロシア女子に対抗すべく3A以上の高難度ジャンプに挑んできた日本人女子選手は、ケガに泣かされてしまった。そういった背景のあるなか、自分の強みをしっかり伸ばしてきた坂本選手が3連覇という偉業を達成したのは、まさに神の配慮と言えそうだ。勝負は時の運ともいうが、自分でコントロールできない世界のことに振り回されることなく、地道に自身の道を究めていくことの大切さを、坂本選手の奇跡的偉業が教えてくれているように思う。ロシア人が坂本選手を見てどうこき下ろすかは想像できる。「私たちの選手が4回転を跳ぶ時代にトリプルアクセルさえない選手が3連覇など悪夢」「女子フィギュアが伊藤みどり以前に戻ってしまった」などなど…だが、坂本選手が長い時間をかけて磨き上げてきた世界は、観る者を幸福にする。スピード感あふれる滑り、ダイナミックなジャンプ。大人の雰囲気。ロシア製女王生産装置の中からベルトコンベヤで流れてくる、選手生命が異様なほど短いロシア女子シングル選手には、求めるべくもない魅力だ。今回の優勝を決めた要素をあえて1つだけあげるとすれば、それは連続ジャンプのセカンドに跳ぶ3Tの強さだろうと思う。これを回転不足なく確実に決められるのは、長きにわたる世界女王の条件とも言える。もちろん、それは単独ジャンプのスピード、幅、高さがあってこそだ。欠点は、やはりルッツ。これまで見逃されることも多かったが、今回のフリーではEがついてしまい、減点になった。テレビでもばっちり後ろから映されて、見ていて思わず「ギャーー」と叫んでしまった。・・・完全にインサイドで跳んでる・・・ う~~・・・ エッジがインに変わってしまう前に跳ぶことができるのだろうか、彼女? それをやろうとすると跳び急ぎになって着氷が乱れてしまいそう。といって、しっかり踏み込めば、今回のようになる。その状態がずっと続いているように見える。同じく3連覇のかかった宇野昌磨は4位という結果に終わったが、これはある程度仕方がないように思う。宇野選手ももうシングル選手としては若くはない。長いフリーで最初の高難度ジャンプで失敗すると、それが尾を引いてしまう。ジャンプ以外にもあれだけ上半身を、そして全身を使って表現するのだから、一言でいえば体力がもたないのだ。だが、宇野選手のショートは「至宝」だった。肩に力の入ったポーズで魅せる選手が多いなが、上半身の無駄な力をいっさい抜いた、それでいてスピード感あふれる滑りには驚かされる。至高の芸術品をひとつひとつ作り上げていくようなアーティスティックな表現は、ただただ息をつめて見つめるしかなくなる。こうした、「スケートとの対話」の見事さは、浅田真央がもっている孤高の表現力に通じるものを感じる。今回のショートはジャンプもきれいに決まった。宇野昌磨、完成形といったところか。これ以上はもう望む必要もないし、これまで日本シングル男子の誰もが成し遂げられなかったワールド2連覇という勲章だけで十分だ。マリニンの優勝は、当然だろうと思う。4アクセルに4ルッツ、4ループまで装備し、3ルッツのあと3Aを跳んでしまう選手に、今、誰が勝てるだろう? 鍵山選手の成長は見ざましく、すんげー4サルコウに加えて、4フリップまで来た。それでも難度ではマリニンには及ばない。プログラムコンポーネンツでは勝っているが、やはり得点の高いジャンプの難度で勝負はついてしまう。マリニンにはフリップを跳んでほしい。4ルッツ2回に3ルッツ1回。それは素晴らしいが、やはりバランスが悪い。これは他の選手にも言えることだが、ルッツとフリップを両方入れる選手が減ってきている。ジャンプの技術を回転数だけではなく、入れる種類の多さで見るようルールを変えるべきだ。以前も書いたが、ボーナスポイントではなく、すべての種類のジャンプを入れなかった場合は「減点」とするのがよいと思う。それも1点とか2点とかではなく、大胆な減点とすべきだ。すべての種類のジャンプを成功させたときのボーナスポイントとなると、なにが「成功」なのかという判断が難しくなる。Wrong Edgeを取られたら、回転不足を取られたら、それは「不成功」なのか、あるいは軽微なら「成功」とみなすのか、試合ごとの判定によって判断も違ってきてしまう。それよりも、ジャンプの偏りに減点するほうが明解だ。
2024.03.25
日本のみならず海外にも大きなショックが広がった、漫画家鳥山明の突然の死去。鳥山明を育てたとして知られる鳥嶋和彦氏は、かつてインタビューでこのように語っていた。https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/torishima/4鳥嶋氏: ええ、漫画の歴史において手塚治虫さんとちばてつやさんは「別格」。それは僕の中ではかなり確信を持って言えることですね。鳥山明さんだって、あくまでもそうした作家たちの積み重ねの上に成立した、“偉大なるアレンジャー”でしかない。実際、『Dr.スランプ』は『ドラえもん』と『鉄腕アトム』、『ドラゴンボール』は『里見八犬伝』と『未来少年コナン』の変形でしょ。(引用終わり)鳥嶋氏は、鉄腕アトムの影響下にある作品として『Dr.スランプ』を挙げているが、鳥山氏自身は、ドラゴンボールの悟空の髪型にはアトムの影響があるのかもしれないと述べている。鳥山氏は幼い頃、『鉄腕アトム』が好きで、登場するロボットの模写に熱中していたという。こういう体験が無意識の影響になることは多い。個人的には、鳥山氏自身が言うほどには似ていない気がする。アトムの髪型よりずっとオーバーな「角」になっているし、形も「オリジナリティ」がある。その意味で、まさに鳥山氏は偉大な「アレンジャー」だ。元祖アトムだって、5本のまつ毛の、あのかわいいぱっちりお目目は、キューピーちゃんからだと手塚治虫自身が言っているが、「そういわれればそうかな?」ぐらいだ。革新的な功績を成し遂げた天才は、「オリジナリティ」にあふれた人だと思われがちだが、実はそれは正しくない。天才と呼ばれる人間は、その多くが模倣から出発しているし、どのくらい先達の作品を自分の血や肉として採り入れたかが後々、その人の「オリジナリティ」としてモノを言ってくるのだ。これはピカソが若い頃「古典派の巨匠のような絵を描く」と感嘆されたことからも分かる。若くしてそれほどのテクニックを身につけていたからこそ、ピカソは古典的なスタイルを破壊し、新しい様式を創造し、されにそれを破壊しつづけてピカソ・オリジナルの世界を確立できたのだ。鳥嶋氏は言及していないが、鳥山明の『ドラゴンボール』にも、『鉄腕アトム』の影響があることに気づいた人がいる。いまさら鉄腕アトムを読破して驚くドラゴンボールに与えた影響:ムゲンホンダナ(本棚持ち歩き隊!!):SSブログ (ss-blog.jp)実際にアトムを読んでみたら、これはスゲエ漫画だと思い知らされたのである。驚いたのは、今ある少年漫画のヒット作のあれこれを、すでに鉄腕アトムでやっているということだ。浦沢直樹「PLUTO」の元ネタ、「地上最大のロボット」を読みながら思った。空を縦横無尽に飛び回って戦う、これってドラゴンボールじゃん!主題歌の歌詞にも出てくる10万馬力。アトムの前に立ち塞がる敵ロボットは、30万馬力、50万馬力、100万馬力とインフレしていく。戦闘力じゃん!100万馬力の強敵、プルートウのデザインはフリーザの第二形態に似てる!ちなみにドラゴンボールは戦闘力5から始まってジワジワ上がっていき、戦闘力100万越えするのはフリーザ第二形態!これは狙ってやってたのだろうか。(引用終わり)それはともかく――Mizumizuが個人的に面白いと思ったのは、シッポをめぐる手塚治虫と鳥山明の態度の違いだ。鳥山明の場合は、上の画像にあるように、「シッポがないと特徴がない」と編集に言われて、シッポを足したものの、描くときに邪魔でしょうがなく、すぐに尻尾を切るエピソードを考えたのだという。手塚治虫は?Mizumizuが偏愛する『0マン』の主人公リッキーは、シッポのあるリス族の進化した生物なのだが、「この主人公にシッポをつけたのは、かいているうちに急にインスピレーションがわいたのです。漫画評論家のある人によれば、手塚はよくシッポのある人間の物語をかくということですが、たしかにそういえば、なぜかそういうキャラクターにへんな性的魅力を感じて、つい登場させてしまうのです。なにか、性的な異常心理と関係でもあるのでしょうか?」(『0マン』 あとがきより)せ、せいてきないじょうしんりって・・・、テヅカセンセ、ご自分で・・・『0マン』のリッキーも一度、このように↓シッポを失ってしまうのだが、すぐ人工物のシッポを作ってもらって、元の姿になっている。シッポを失ったときのリッキーの嘆き方も、尋常ではなく、愛おしそうに切れてしまったシッポを抱きしめ、「やわらかいフワフワしたぼくのシッポ。さようなら。もう会えないね」と涙をひとつぶながし、「シッポのおはか」まで作っている。シッポが切れてしまって熱にうなされるリッキーの描写は、とても愛おしい。高熱で衰弱している少年の姿が、うるんだような瞳が、漫画的な表現なのにリアルにこちらに伝わってくる。そして、そのあとにくるエピソード――リッキーを助けて自らは重傷を負ったまま立ち去るギャング(じつは元医者)の姿、快復したあとに亡くなった見知らぬ人やシッポのお墓をつくって弔うリッキー、たったひとりで荒野を歩みだすリッキー…この一連の場面、『0マン』の中でも、とりわけ好きだ。鳥山明作品については、読んでないので個人的な感想はなし。手塚治虫の後継者の呼び声が高いのは知っている。明治節にちなんでつけられた「治」。これに「明」を合わせると明治となる。なるほど、これは明治大帝の思し召しでしたか(サヨクはっきょう)。<次のエントリーに続く>【中古】 0マン 2 / 手塚 治虫 / 中央公論新社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2024.03.15
米アカデミー賞でアジア映画初の視覚効果賞を受賞した『ゴジラ-1.0』(山崎貴監督作品)。パニック映画の大げさな特撮シーンが実はかなり好きなMizumizu、この作品は映画館で観た。面白かった。初代ゴジラ映画(1954年)も、テレビ放送を観ている。最高に素晴らしい娯楽映画だった。そのあとの「ゴジラシリーズ」は、さすがにおちゃらけすぎたり、マンネリ化したりして、全部は追っていないが、渡辺謙が出た『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は劇場まで足を運び、楽しんだ。みんな大好きゴジラだが、手塚治虫もゴジラが大好きだった。これは手塚治虫のエッセイ『観たり撮ったり映したり』から、ゴジラにまつわるエピソード。『ウルトラQ』に『W3』が「蹴散らされてしまった」時のエピソードを臨場感あふれる筆致で面白おかしく書いている。イラストが秀逸なんてもんじゃなく、最高。テレビから出てきたゴジラ(と、それをもとにした怪獣たち)が、W3のキャラクターを打ちのめし、それを手塚治虫の実子手塚真(眞)氏が大喜びで拍手喝采。父でありW3の生みの親の漫画家がくやしがっている。ゴジラとあわせて、ウルトラQのスター怪獣(?)がイイ。柔らかめの線で描かれたカネゴンなんて、素晴らしいじゃないですか。このイラスト原画、残っているのだろうか?? 「なんてったってゴジラが最高作」という手塚治虫の眼はさすがに鋭い。1950年代の日本で作られたキャラクターが日米で人気を博し、何度も映画化され、ときには大コケしながらも、アイコン的存在として受け継がれ、ついにアカデミー賞の舞台で伊福部昭の、あの誰もが知るテーマ音楽が流れるというところまできたのだから。ところで、手塚治虫は恐竜にインスパイヤされたと思われる、「ゴジラに似た」キャラを何度も作品に登場させている。Xユーザーの時星リウス@妄想自由人さん: 「手塚治虫先生はゴジラ公開より6年前の昭和23年に『ロスト・ワールド』という漫画にゴジラっぽい恐竜を描いてましたね。 #手塚治虫生誕祭 #ゴジラの日 https://t.co/kYARUbcFRo」 / X (twitter.com)そして、奇しくも(笑)、ゴジラ様と漫画の神様は誕生日が同じなのだ。これ、ネタにしてる人いるよね? と思って検索してみたら、いました、いました。Xユーザーの妖介🐐さん: 「推しの誕生日全然把握しとらんなワイ…11月3日だけは手塚治虫とドルフ・ラングレンとゴジラの誕生日なので覚えてる。 https://t.co/oxITNGopCx」 / X (twitter.com)しかし・・・11月3日は、日本を近代国家へと導いた明治天皇(別名:明治大帝)の誕生日なのですよ、もともとは。それで祝日なのですよ。手塚治虫の本名は手塚治で、「明治節」から取ったのですよ。ついでに、11月3日はさいとう・たかをの誕生日でもあるのですよ。さらに言うと、11月3日は、フィギュアの皇帝「エフゲニー・プルシェンコ」の誕生日でもあるのですよ。手塚治虫も宇宙人などと言われたが、プルシェンコも現役時代は、宇宙人と呼ばれていたのですよ。手塚治虫とゴジラとプルシェンコのコラボマンガは…さすがに見当たらなかった。だれか描いてください。最後に、手塚プロダクション公式サイトの「虫ん坊」からゴジラにまつわるページを。https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201806/column.htmlこれは是非とも『手塚治虫×ゴジラ展』を! 著作権的に微妙ですかね…? そのへんはお話し合いをお願いします。【中古】 観たり撮ったり映したり / 手塚治虫 / キネマ旬報社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2024.03.12
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