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池月橋を渡ったところに洗足池の西岸の入り江に向かった建つ立派な赤い鳥居が建てられています。その奥には石鳥居があります。ここは、洗足池八幡宮とも称される千束八幡神社(→→→こちら)です。なお、「千束」の地名由来は、当地は免田地であったため「千束の稲」を税(年貢)から免除されていた土地だった事から「千束」と呼ばれるようになったとされているそうです。それが「洗足」の名に変わったのは、日蓮聖人がこの池で足を洗ったという伝承によるものです。社号碑には「村社八幡神社」と刻まれていますが、第二次世界大戦後廃止された近代社格制度では、官社と諸社(民社)、無格社に分類される中で、その中の諸社(民社)のうちの府県社・郷社・村社に分けられた村社に格付けされる神社ですが、本当はかなりな由緒ある神社です。ちなみに官社は、祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社。府県社は府、県、北海道の庁から奉幣を受け、郷社は府県、郡、または市から、村社は市町村から奉幣を受けた神社となります。千束八幡神社の由緒(→→→こちら)を紹介した碑文がありました。要約すると、貞観2年(860年)に宇佐八幡宮が勧請され、千束郷の鎮守として創建。承平5年(935年)、平将門の乱を鎮圧するため下向した鎮守府副将軍の藤原忠方が、乱の平定後、この地に土着しこの神社を氏神とした。このの藤原忠方が、のちに日蓮信者となる池上氏の祖といわれています。永保3年(1083年)、奥羽平定に向かう途中の八幡太郎義家(源義家)は、洗足池で禊ぎをして祈願したといわれています。治承4年(1180年)、「石橋山の戦」に敗れて安房に逃れた源頼朝が、再度安房から鎌倉へ向かう途中、この地に陣を構えて諸将の参陣を待ったのだと伝えられています。そのためこの神社は別名「旗上げ八幡」とも呼ばれているそうです。また、「池月発祥伝説の由来」という案内板もありました。源頼朝がこの地で諸将の参陣を待っている時、青い毛並に白い斑点を浮かべ、まるで池に映る月のような姿のたくましい野生の馬が現れたので、頼朝は、この馬を捕らえ、現れた時の姿から「池月(いけづき)」と名付けたとされました。でこの池月は平家物語の中の「宇治川の先陣争い」(→→→こちら)の中で、佐々木高綱が乗っていた名馬といわれています。ただし、この池月、平家物語では黒栗毛の生食(いけずき)として伝わっているようです(→→→こちら)。こちらが、千束八幡人社の社殿です。そして、社殿の横には池月の巨大な絵馬が奉納されていました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その16) 千束八幡神社
Aug 31, 2026
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池月橋は、洗足池西岸の入り江のようになった場所に架けられています。その入り江の奥まで歩いてみました。 また、ここには「新東京八名勝洗足池」の石碑がありました。新東京八名勝とは、昭和7年(1932年)に東京市が周辺5郡82町村を合併し新たに20区を設置して、15区から35区に拡大したことから、報知新聞社が新たに東京市となった20区の中から読者投票によって「新東京八名勝」を選定したものです。新東京八名勝には、この洗足池のほかに、足立区の西新井大師(總持寺)、大田区の池上本門寺、江東区の亀戸天神社、品川区の品川神社、目黒区の祐天寺、板橋区の松月院、そして荒川区の諏方神社が選ばれているそうです。入り江の最奥部にはこのような湧水があり、洗足池に流れ込んでいました。洗足池には、武蔵野台地から滲みだしたいくつもの湧水からの水が流れ込んでいるんでしょうね。この湧水のすぐ近くにあった竹垣で囲まれた日本風の邸宅がありました。この邸宅の門は松風荘門(→→→こちら)として国指定の文化財となっていました。いかにも昭和初期に建てられたような趣のある門ですね。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その15) 松風荘門
Aug 30, 2026
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東京都教育委員会が建てた「東京都指定名勝 洗足池公園」についての案内板です。東京都指定名勝とは、東京都が指定した自然や歴史的な名所のことで、この洗足池公園の他には、清澄庭園や等々力渓谷などがあります。今度は池の西側の歩道を北へ向かって歩いて行きました。、池月橋(→→→こちら)という橋がありました。このような太鼓橋ですが、初代は平成7年(1995年)に架けられた木製の橋だったそうですが、平成28年(2016年)に架け替えられたそうです。対岸の水生植物園から望遠で撮影した池月橋です。木製三連太鼓橋ですが、池の景観に彩を添えているようです。池月橋から東岸に向かって撮影してみました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その14) 池月橋
Aug 29, 2026
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中原街道に面して建てられていた洗足池ボートハウス(→→→こちら)です。ボートに乗るつもりはなかったけど、休憩所にもなっていたので中に入って、テラスから洗足池を池の全景を撮影してみました。そして、こちらがボートの乗り場。30分間の料金は、スワンボート800円、サイクルボート600円そしてローボート400円でした。屋上展望台もあります。そこからの展望です。こちらは中原街道を挟んで正面にある東急池上線の洗足池駅です。多摩川方向へ向かう中原街道の様子です。交通量は多い道ですね。屋上展望台から見た洗足池です。桜の季節や紅葉の季節からだと、きっと綺麗な景色が見えそうですね。池の上にはスワンボートとサイクルボートが浮かんでいました。サイクルボート、親子で乗っているようですが、お父さんの方へ少し傾いているようですね。ズームしてみると、向こう岸、洗足池の上流側にある洗足池弁財天の赤い社殿が見えました。気がつくとスワンボート、かなり進んでいました。このスワンボート、一人で漕いでいるんでしょうかね。ことらはボートハウスに隣接している洗足池の流出口です。ここで池の水位を調節しているんでしょうね。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その13) 洗足池ボートハウス
Aug 28, 2026
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洗足池のすぐ脇を通る中原街道に出ました。中原街道とは、江戸幕府により東海道が整備される前には、相模国と武蔵国とを結ぶ街道だった道で、東海道が整備されると江戸虎ノ門(現在の東京都港区虎ノ門)と平塚中原(現在の神奈川県平塚市御殿で、ここに中原御殿があった)とを結ぶ脇街道とされ、将軍の駿府往還や鷹狩などにも利用されたそうです。現在は、国道1号桜田通りから茅ヶ崎市を結ぶ道となっています。こちらは東京五反田に向かう方向です。こちらは、武蔵小杉を通って横浜方面に向かう方向です。東急バスの車庫もありました。洗足池のほとりあった中原街道改修碑(→→→こちら)が建立されていました。中原街道の千束から田園調布は、急坂が多く物資の輸送や交通の難所であったので、大正6年から12年(1917年から1923年)にかけて。街道を平坦にする改修工事が行われたことを伝えるものです。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その12) 中原街道
Aug 27, 2026
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大田区立洗足池図書(→→→こちら)です。こちらの図書館の外壁に、勝海舟ゆかりの地「周辺散策」という案内板が掲示されていて、次の10カ所の散策ポイントの説明がありました。紹介してみると洗足池図書館御松庵妙福寺勝海舟記念館勝海舟夫妻墓所南洲(西郷隆盛)留魂碑洗足池弁財天池月像千束八幡神社池月橋ボートハウスです。MoMo太郎はこのうちもうお6ヵ所をクリアしているのですが、まだまだ見るべきところがありますね。図書館の近くに看板がありました。勝海舟別邸(洗足軒)跡とありました。勝海舟は、江戸城の明け渡しについて話し合うため、中原街道を経由して、新政府軍の本陣がおかれた池上本門寺へ向かう途中、洗足池付近で休息をとったといわれています。そのときに、洗足池周辺の風景を気に入り、明治24年(1891年)、「洗足軒」といわれる別荘をこの地に構えたそうです。かなり詳しく記されていたので、その内容を紹介します。 勝海舟 (1823~99)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。鳥羽. 伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。 その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。 その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。 明治二十四年 (1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。 池のもに 月影清き今宵しも うき世の塵の跡だにもなし晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。 うゑをかば よしや人こそ訪はずとも 秋はにしきを織りいだすらむ 明治三十二年 (1899年) 七十七歳で没しましたが、「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。 石塔の「海舟」の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。この紹介を書いたのは、公益社団法人洗足風致教会(→→→こちら)という団体。ちなみに洗足池は、都市計画法第8条第1項第7号により都市計画区域に指定されている風致地区になります。風致地区とは都市の風致(おもむき、あじわい、風趣)を維持するため定める地区であり、建設物の建築や樹木の伐採などに一定の制限が加えられるそうです。こちらが、洗足軒があった跡地に建つ大田区立大森第六中学校です。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その11) 勝海舟別邸(洗足軒)跡
Aug 26, 2026
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御松庵妙福寺を奥へ進んでいくと、大きな松の木がありました。こちらの真っ直ぐ伸びた松の木が石塀に囲まれていて、「御袈裟懸松」と刻まれた石碑があり、この松が日蓮聖人がこの松に袈裟を懸けて、池の水で足を洗ったという場所なんでしょうか。このことから「千束郷の大池」と呼ばれていた池が「洗足池」と呼ぶようになったと伝わっています。しかし、この松に袈裟を架けたとすれば、日蓮聖人ってウルトラマンくらい背の高い方だったんですね。日蓮聖人が、袈裟を松にかけて手足を洗ったところ、法華経を守護する七面天女が現れ、日蓮の道中を守護したらしいので、七面天女は、ひょっとしたら「ウルトラの母」?また、こちらにも松の木が。こちらには、「六代目御袈裟懸松」と刻まれた石碑がありました。、日蓮聖人がここに袈裟を懸けたのは、弘安5年(1282年)のことですから、袈裟懸けの松も744年も生き続けて子孫を残していたということでしょうか。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その10) 袈裟懸けの松
Aug 25, 2026
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洗足池のほとりにある御松庵(ごしょうあん)妙福寺(→→→こちら)です。御松庵sは、日蓮上人が池上宗仲の館(池上本門寺)へ向かう途中に洗足池で休憩、老松に法衣をかけて、池の水で手足を洗ったことから護松堂・御松庵として創始したことに始まります。また、妙福寺は、持法院日慈(寛永6年1629年寂)が日本橋馬喰町に創建、明暦の大火(1657)により浅草永住町へ移転、関東大震災で被災し昭和2年(1927)に御松庵と合併して移転したので、御松庵妙福寺という名称になったのです。「立正大師袈裟懸松之霊蹟 日慈上人徳業地 」と刻まれた自然石の石碑があり、こちらは、題目法塔ですね、側面には「御袈裟懸松之霊場」と刻まれていました。「日蓮聖人袈裟掛けの松 由来」についての説明がありました。ということで、袈裟懸けの松を見に行くためにお寺の中に入りましたが、松ではなく見事な竹林がありました。この仏像に水をかけて磨くと御利益がありそうな感じですね。こちらは、妙福寺祖師堂(旧七面大明神堂) です。天保4年(1833年)に建てられた建物で、国の登録有形文化財に指定されているそうです。こちらは、日蓮上人像。日蓮宗のお寺ですから。こちらは子育観音像。結構、色々な仏像がありました。そしてこちらは、馬頭観世音供養塔説明板によると、大田区文化財 馬頭観世音供養塔天保一一年(一八四〇)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものである。光背をつけた馬頭観世音像の下は、角柱型の道しるべを兼ねており、各面には「北堀之内碑文谷道」「東江戸中延」「南池上大師道」「西丸子稲毛」というように、東西南北のそれぞれの方向を示す地名が示されている。この碑文から、もとは中原街道と碑文谷ー池上を結ぶ道との交差する地点に建てられたと推定されるが、民有地に移された後、平成一三年に現在地に移設された。江戸時代後期の民間信仰、交通史を考える上で貴重なものである。昭和四十九年二月二日指定大田区教育委員会古びた石塔が文化財だったとは、ビックリでした。確かに、下には「東江戸中延」や「北堀之内碑文谷道」という文字が彫られていて、当時の道標だったことを伺わせますね。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その9) 御松庵妙福寺
Aug 24, 2026
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勝海舟夫妻墓所の前に広がる桜広場と呼ばれる公園です。ジャングルジムなどの遊具があって子供たちの遊び場にもなっているようです。最近の砂場は、こうのように金網で囲われて、小動物などが入ってこないようにしているのですね。確かに、ネコや犬が入って排泄したりしないようにしているのかも。洗足池の周りには、こちらにも水生植物園がありました。こちらはハスが植えられていました。ハスの花がきれいでした。洗足池の対岸です。池の周りが木で囲われているのがわかりました。ズームしてみると連続アーチの橋があることがわかりました。とにかく池の周りを一周して、あっちにも行かなくては。洗足池から少し離れて、こちらのネオゴシック様式の建物がありました。こちらは勝海舟記念館(→→→こちら)として、国登録有形文化財である旧清明文庫を活用し、令和元年に開館したものです。この日は月曜日で休館のため中に入ることはできなかったのが心残りです。清明文庫とは、東洋思想や仏教思想を普及させる団体として知られていた財団法人清明会(1920年設立)が、勝海舟の没後使われなくなっていた洗足軒(勝海舟の別邸)を清明会の講堂として譲り受け、講堂兼図書館である建物を清明文庫を建設したものですが、昭和10年(1935年)に活動を終えたそうです。その後は、戦後の昭和29年(1954年)、建物は学習研究社の所有になり、編集作業を行ったり教師養成センターとして利用される「鳳凰閣」という施設になりましたが、平成24年(2012年)には大田区の所有となったそうです。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その8) 桜広場と勝海舟記念館(旧清明文庫)
Aug 23, 2026
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こちらが勝海舟夫妻墓所(→→→こちら)です。勝海舟夫妻墓所付近の案内図がありました。こちらが大田区教育委員会が接した勝海舟夫妻墓所の説明板です。勝海舟は、別邸洗足軒を当地に設けるなど、風光明媚な当地を愛していたことから、遺言により明治32年(1899)当地に葬られたそうです。この水盤(手水石)は、勝伯爵家と海舟知己が明治32年5月から寄附金を募り、同年に設置したもので、裏側には寄附者56名の名前が刻まれていて、中には赤松則良や榎本武揚などの名前があるそうです。勝海舟夫妻の墓所がこれです。意外と簡素な五輪塔形状の墓石でした。向かって右が勝海舟の墓、左が妻・たみの墓ですが、名前は刻まれておらず勝海舟室と刻まれています。最初は、勝海舟の墓の実でしたが、戦後になり、妻・たみの墓が青山墓地から同地へと移されたそうです。墓所のいっかくにあったのが、こちらの「東京奠都七十周年記念碑」です。東京奠都(「とうきょうてんと」(→→→こちら)とは、江戸を改め東京とし、日本の都に定められたことで、東京奠都70周年を記念して昭和14年に建てられたこの記念碑には、東京が戦火を免れ発展したのは、海舟と西郷のおかげだと讃えているそうです。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その7) 勝海舟夫妻墓所
Aug 22, 2026
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洗足池のほとりに鳥居がある祠を発見しました。社号碑には「南洲西郷先生留魂祠手墓之碑」とむありました。南洲西郷とは西南戦争で戦死した西郷隆盛のことですね。そして、「留魂」とは?案内板の内容を要約すると、勝海舟が故・西郷隆盛のため、木下川浄光寺(木下川薬師→→→こちら)境内に建立した詩碑と祠をこちらに移設したということです。ちなみに木下川は「きねがわ」と読みます。案内板の記述では、留魂祠(りゅうこんし)一、祭神 南洲西郷隆盛先生一、例祭 毎年九月二十四日由緒明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(一八七七)年の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六年(一八八三年)、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木一-五-九)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二(一九一三)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。南洲会とありました。「留魂」とは、この説明にあるように、「願留魂魄護皇城」(魂魄を留め皇城を護らん)の意味だったんですね。こちらの西郷隆盛(南洲)留魂詩付近の案内図もありました。留魂詩碑と留魂祠以外にも石碑が建立されているようです。また、隣には勝海舟夫妻の墓所もあるようです。こちらが南洲西郷先生留魂祠の全景になります。まず、正面にあったこちらが留魂祠になります。こちらの石碑は、「徳富蘇峰詩碑」です。 昭和12年(1937年)数名の者が計画し、勝海舟門下生の1人であった徳富蘇峰(1863年-1957年)に詩を書いてもらい建てたものです。勝と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を称え、両雄を偲ぶ内容が刻まれています。この碑が完成した際に、隣接する清明文庫(→→→こちら)で記念講演が開かれており、その様子が写真で残されているそうです。この石碑は、南洲先生建碑記留魂詩碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883)に建てたものです。留魂詩が明治12年7月27日に彫刻され、谷中の石工群鶴の元から浄光寺に至る経緯が記されています。なお、勝海舟追慕碑によると当地への運搬建設も群鶴が実施しています。そしてこれが、南洲(西郷隆盛)留魂詩碑(→→→こちら)勝海舟が、親交のあった西郷隆盛(南洲)の死をいたみ、詩とその筆跡を遺すため、三回忌にあたる明治12年(1829)に自費で建てたものです。もとは葛飾区の浄光寺にあったものが、大正2年(1913)の荒川開削工事に伴い当地に移設されました。内容は西郷が沖永良部島の獄中で作った七言律詩で、天皇に対する忠誠心が詠まれています。「願留魂魄護皇城」の文言から留魂詩(りゅうこんし)と称されました。背面には勝の撰文で由来が記されているそうです。こちらの石碑には、詩がきざまれています。刻まれた詩が書き下されたものが記されていました。朝に恩遇を蒙り 夕に焚阬せらる、人生の 浮沈は 晦明に 似たり。縦ひ光を回らさざるも 葵は日に向ふ、若し運を開く無きも意は誠を推さむ。洛陽の 知己 皆 鬼と為り、南嶼の 俘囚 独 生を竊む。生死 何ぞ 疑はむ 天の付与なるを、願わくは 魂魄を留めて 皇城を護らむ。獄中感有り 南洲そして、勝海舟追慕碑というのもありました。大正2年(1913)に勝海舟門下生の富田鐡之助が記したもので、留魂詩碑が建立されてから現在地へ移設されるまでの経緯や、有志による留魂祠が建てられたことが記されてい.るそうです。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その6) 南洲西郷先生留魂祠
Aug 21, 2026
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この案内板を参考に、洗足池のまわりをひと通り歩いてみます。洗足池の北側にあるこの小島は弁天島と呼ばれています。この島へはこの赤い太鼓橋を渡って行くことができます。そして、赤い鳥居があざやかな、弁財天社がありました。洗足池辨財天(厳島神社)御由緒が掲げられていました。こちらによれば、御祭神は市杵島姫命(イチキシマヒメ) その他にも宇賀神、宗像神、弁天様も祀られているのでしょうか。御神徳は、福徳財宝授けの神、音楽、舞踊、芸能上達の神、水神、水路、海上安全の神、交通安全の神、商売繁盛の神、特に水商売繁盛の神と書かれていました。由緒沿革には、創建の年代は、不詳なれど、古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の池中に没してしまっていた。その昭和の初め頃より数多の人々の夢枕に辨財天が出現せられ、この事が契機となって御社殿建立の話が具体化し、多くの人々の尽力によって、昭和九年七月洗足風致協会の手により築島遷宮の運びとなり、以来今日に至る間、多くの参拝者に、右御神徳を授けられている。とあり、夢のお告げで昭和の時代に再建されたということなので、スピリチュアルなパワーが得られそうな神様です。洗足池を右回りに回っていくと、洗足池公園水生植物園案内図がありました。イラストを見ると、ホタルがこの池に自生しているみたいでした。水生植物園には、この木製の八つ橋と呼ばれる橋が池の中に架かっていました。橋の上から対岸を撮影しました。洗足池の水面をカルガモが泳いでいました。カルガモは単独ではなく、やっぱりファミリーでここで暮らしているみたいです。こちらは、池の岸辺にあった「睡蓮の池」と名付けられた施設です。スイレンの花です。5月~10月にかけて花が咲くんですね。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その5) 弁天島と水生植物園
Aug 20, 2026
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東急の線路を越えてからは、この道が清水窪湧水から流れ出た水が流れている道ですね。水はこの下を暗渠になって流れているようです。「桜のプロムナード」(→→→こちら)と表示されていますが、住宅街の道で、桜の木は・・・、見当たりませんでした。洗足池まで250mの標識がありました。こちらの道を行っても洗足池へ行けそうですが、一本、東にそれたこの道を歩いて行くことにします。歩道には、桜のプロムナードの案内板がありました。こちらの道を歩いて行って、この林地の中の道へ入って行きます。左側には林地があり右手には広い公園となっていました。脇には、清水窪湧水からの流路がありました。水量は少ないですが、これが洗足池の水源のひとつです。そして、洗足池に到着です。洗足池(→→→こちら)とは、武蔵野台地の湧き水をせき止めた池で、かつては「千束郷の大池」と呼ばれ、灌漑用水としても利用されていたそうです。「洗足池」と呼ばれるようになったのは、江戸時代に大岡越前が、江戸の町の「やくざ」だった者たちを、堅気にするためこの池で、足を洗わせたことに因んでというのは、真っ赤なウソです。正しくは、日蓮聖人が病気療養のため身延から常陸へ向かう途中に立ち寄った際、この池で足を洗ったことが由来です。池の広さは約4万キロ平方メートルと都内屈指の広さです。大田区の水と緑のオアシスとして市民に親しまれています。洗足池て遊べるスワンボートが向こう岸に係留されています。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その4) 桜プロムナードを抜けて洗足池へ
Aug 19, 2026
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熊本の有明高校、ついに甲子園大会ベスト8まで勝ち進んだのですね。これは熊本地震で被災した熊本県の皆さんへの対戦相手からの優しい忖度の結果でしょうか。それとも審判団の皆さんが有明のピッチャーへのストライクの判定を甘くして大会を盛り上げたい大人の忖度の結果でしょうか。いずれにしても、今日の結果が楽しみです。頑張れ有明高校。清水窪湧水から流れ出た水が洗足池に向かって流れる水路を辿りって歩きました。すこし下り坂になった道になっています。そして、この道の下を暗渠となって、清水窪湧水からの水が流れて行っているのでしょう。というのは、この道の左側も、そして右側も上り坂になっていて、この道が谷底のようになっているからです。この道沿いにあった清水窪小学校は「おおたサイエンススクール」(→→→こちら)となっていて、平成25年度から東京科学大学の教授による特別授業や大学施設での体験学習、大学の留学生との交流会などを実施しているほか、生活科や総合的な学習の時間で、積極的に科学やものづくりなどの理科に関連する内容の授業を行っているそうです。なんか、これからの日本の科学技術を支える人材が出そうな小学校ですね。さらに歩いて行くと、東急の線路に突き当たります。この線路の下を水が流れているんでしょう。線路を跨ぐ跨線橋があったので、跨線橋の上から大岡山駅の方を撮影してみました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その3) おおたサイエンススクール
Aug 18, 2026
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東京都大田区北千束1丁目にやって来ました。住宅街の中に稲荷神社がありました。近くに住んでいると思われる若い奥さんがお参りしていた妙徳稲荷神社。地元の人たちに崇敬されているんでしょうね。そのお稲荷さんと道路を挟んだところに「桜のプロムナード」(→→→こちら)と書かれた案内板が、桜のプロムナードとは、洗足流れや旧内川など、かつて人の暮らしを支えた水の通り道を散策路として整備されたいるそうです。今回は、洗足池の水の流れを、水源から河口までたどる今回の散策のコースになります。そして、洗足池の水源のひとつになる清水窪湧水がここにあります。この鳥居の先に湧水があって、弁財天が祭られているそうです。こちらが清水窪弁財天の祠です。清水窪弁財天についての説明書きがありました。俗称 清水窪辨財天の由来この辨財天社は江戸時代初期の頃、この地の所有者(北千束一の一四の八番地在住)岸田家先祖がこの地にこもる霊気を感じて祀られたものである。当時はうっ蒼とした杉の森で昼でも天日を見ることができないくらい茂っていたそうだ。この地に湧き出す清水は今日でもどんな干天になっても絶えることがない。その昔は白蛇の姿を見たこともあるという。霊気は物すごいまでに強く邪心を捨てて一心に念願すると不思議に叶えられるので遠近各地からの参拝者が絶えない。現在は神格が昇って左の如く祀られている。清水窪辨財天昇格改称天八大龍王神旧大森区史によると、この地は大古大森海岸の入り江の奥にあたり、更に低地にあたる洗足池や小池などは当時の海の名残であると記されている。 庵主清水窪弁財天ではなく、今は「天八大龍王神」という名称なんですね。ここがこの清水窪湧水は、東京の名湧水57選(→→→こちら)に選ばれていたのですね。大田区教育委員会が設置した案内板がありました。大田区文化財清水窪湧水(しみずくぼゆうすい)池の長さ20メートル。池の小島の小さな祠(ほこら)には弁財天がまつられている。この湧水は武蔵野台地の端、千束の谷がつきるところにあり、旧村落の頃、この付近一帯を清水窪と読んだのも、この地形のためである。ここから湧き出る水は洗足池の源流となり、かって千束の谷が田畑であった頃、用水として水田を灌漑していた。本区のみならず東京都内に残された数少ない湧水地として貴重である。 昭和50年3月19日指定 大田区教育委員会こちらの小さな滝が清水窪湧水になります。武蔵野台地に降った雨がここに現れているのですね。弁財天の他にも、色々な神様が祭られていました。色んな神様や仏様が集まっているのですね。湧水が溜まって、小さな池ができていて、鯉がのんびりと泳いでいました。ミシシッピーアカミミガメが水面から首を出していましたむ。「そして、清水窪湧水から流れ出た水は、ここから地下に埋められた暗渠へ流れ出ていきます。この水の流れを追いかけて歩いて行きます。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その2) 清水窪弁財天と清水窪湧水
Aug 17, 2026
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今回は、洗足池の水源から末端の河口まで歩いてみようと思い、東急の目黒線と大井町線が乗り入れるここ大岡山駅までやって来ました。大岡山駅はこんな地下構造。MoMo太郎が子供の頃、伯父に連れられてここに来たことがあります。その時は地上駅だったと思います。調べてみると平成9年(1997年)に地下駅になったそうです。そして駅前にあるのが、この東京科学大学です。なぜ、子供の時、伯父に連れられて大岡山に来たのかというと、伯父は東京科学大学、かっては東京工業大学(→→→こちら)と呼ばれていたこの大学の大学院の学生だったので、東京に遊びに来た甥っ子のMoMo太郎を連れてきてもらったからです。当時は、MoMo太郎の一家は、大阪にあった父親の実家で、祖父母や伯父や伯母と一緒に暮らしていました。その中で、よく勉強ができた伯父は、大阪から出てきて、東京工業大学で学んでいたのです。伯父の思い出というと、まだMoMo太郎が幼稚園児だった、ある日、一家で朝ご飯を食べている時に、伯父が突然、みんなの前で「明日、東京の大学の入学試験を受けに行くから、お金を下さい」と言ったのです。「そんなお金はない」と祖父は言ったのですが、その頃は実家は商店を営んでいたので、祖母が店のレジにからお金を取ってきて、「まあ、受けるだけ受けたらいいねん」と言って、伯父にお金を渡したて、そして伯父は東京に行ったのです。今の受験生のように、親も一生懸命に受験に取り組むことから考えると、本当かなと思うような話ですが、子供の教育よりも家業の商売が大切だった、MoMo太郎家だったのです。そして、子供のMoMo太郎は、東京の大学というと、東京大学しか知らなかったので、伯父はずっと東京大学に行っていると、友達に自慢していたのですが、ここへ伯父に連れてきてもらった時、東京工業大学に伯父が通っていたということを初めて知って、ガッカリしたことを覚えています。まあ、MoMo太郎なんかは東京大学は言うまでもなく、東京工業大学も、憧れていた慶応大学さえも入学は許されない学力だったのですから、亡くなってから久ししい伯父ですが、やはり優秀な人だったんだと思います。そういう伯父のことを祖父は、「大学に行って就職するよりも、高校を出たら働いた方が、一生の間に稼げる賃金は多いのに、無駄飯ばっかり食いやがって仕方ない奴だ」と言っていました。しかし、電子工学を専攻していた伯父は、卒業後は電器メーカーに勤めていたいましたが、その後、電子機器を設計する会社を起業して、かなり裕福な暮らしを送っていたので、そういう姿を祖父はどう思っていたんでしょうかね。そんな思い出を考えながら、こちらの大岡山北口から続く商店街を歩いて行きました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その1) 大岡山からスタートです。そして伯父との思い出も
Aug 16, 2026
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ダメージジーンズというのが、定番のファッション・アイテムとしてあるそうです。一般には、ダメージジーンズにするために、生地に意図的な破れ・擦れ・穴あきをデニムパンツに施したものなんですが、昭和生まれのMoMo太郎には、予め穴の開いたジーンズを買うなんて、ちょっとできないので、自然な色落ちや擦り切れにができるように、このジーンズを20年くらい履き続けました。まあ、普段から毎日、ジーンズをはいているわけでもないので、結局20年近くかかったんです。それでもちゃんと穴も開いたし、ようやくダメージジーンズを着ることができるようになりました。これを穿いてお出かけすると、オシャレなイケオジとギャルの皆さんから思われるかな。人気ブログランキング20年かけてダメージジーンズにしました
Aug 15, 2026
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関越道のPAで食べた「冷やしひもかわうどん」(900円税込み)です。この冷やしひもかわうどん、ちよっと値段の割に量が少ない感じ、そして、この平べったくて幅の広い麺も、口の中に入ると、小麦粉の団子みたいな食感で、「うどん」とはちょっと違う感じ、一瞬、ハズレの食事かな思ったけど、夏季限定メニューだったので、挑戦してみたかったし、食欲もあまりなかったので、分量もこれくらいでお腹一杯になったので、まあ、納得ですかね。人気ブログランキング孤独のグルメ 冷やしひもかわうどん
Aug 14, 2026
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鵜の岬国民宿舎周辺を散策してみました。美しい海岸と太平洋の景色がいいですね。海桐が晴れてよかった。碁石ヶ浦と呼ばれるこの入り江です。ここにあったのが「愛と絆の鐘」、鳴らしてみると結構大きな音が響きました。こちらで有名なのはウミウ捕獲場所です。実は、鵜は保護鳥で、1947年一般保護鳥に指定されており、捕獲はできないのですが、この鵜の岬では、鵜飼いのためのウミウの捕獲が日本で唯一許可されており、有名な岐阜県の長良川をはじめ、全国の鵜匠・鵜飼いに海鵜(ウミウ)を供給しているのだとか。しかしながら、公開されている時期と時間が決められていて、もう時間はとっくに過ぎていました。時間は過ぎていましたが、とりあえず行ってみました。このトンネルの先が捕獲場所なのですが、扉は閉じられていました。こちらにウミウ捕獲場の説明がありました。今回は海霧で高萩の高戸前浜や北茨城の二ツ島などの茨城の海岸を楽しめなかったし、ウミウ捕獲場も見学ではできず、やや心残りでした。そんなわけで、改めて茨城の海岸を楽しみにリベンジで訪れたいです。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【了】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その13) 鵜の岬part2
Aug 13, 2026
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こちらの日立市十王町伊師にある伊師浜海岸(→→→こちら)は、環境省による快水浴場百選のほか、日本の水浴場88選、日本の白砂青松百選に選ばれています。周辺は古くからアカウミガメの産卵場所として知られ、太平洋側での「ふ化北限地」とされているそうです。夕方近くになって海霧が晴れてきたので、美しい海と砂浜が撮影できました。この伊師浜に隣接しているのが鵜の岬(→→→こちら)です。鵜の岬ということで、ウミウ(海鵜)のモニュメントがあります。この辺りでは、古くから鵜が捕獲されていたようで、江戸時代の水戸藩郡奉行、雨宮端亭が記した紀行文 「美ち艸(みちくさ)」(寛政年間)の中に伊師浜での鵜捕りの様子が記録されています。当時は鵜を食糧としたほか捕獲した鵜を用いて「徒歩鵜漁(かちうりょう)」を行っていたことが記されています。徒歩鵜漁とは、鵜匠が川の中を歩きながら鵜を操って魚を捕る、日本独自の伝統漁法です。伊師浜を含め、この一帯は国民休養地に指定され、東京ドーム約3個分の広さを誇る敷地があります。その中にあるスイレン池です。スイレンが咲いていました。そしてこちらのゲージは、ウミウ(海鵜)が飼育されていました。金網が邪魔で上手く撮影できませんでしたが、正真正銘のウミウです。こちらは、連続して日本一宿泊利用率の高く予約の困難な国民宿舎「鵜の岬」(→→→こちら)です。昔、つくば市の職場に勤務していた時、同僚と一緒に慰安旅行で、この国民宿舎に宿泊したことがあります。全室オーシャンビューでサービスも充実していました。こちらの国民宿舎に宿泊できなくても、「鵜来来(うらら)の湯十王」(→→→こちら)という日帰り天然温泉施設で温泉は楽しめます。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その12) 鵜の岬part1
Aug 12, 2026
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さくら宇宙公園に向かう坂道の途中で見つけた石碑です。崖にある横穴もなにか意味ありげですね。手前にある三角形の石碑には「奉唱光明真言供養碑」と刻まれていました。仏教的な意味がなにかありそうですね。この石碑には、明治百年記念大東亜戦争徴用馬慰霊碑とありました。戦争で徴用された馬を供養している石碑なんでしょうね。でも、ちょっと不思議な空間でした。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その11) 大東亜戦争徴用馬慰霊碑
Aug 11, 2026
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さくら宇宙公園にあるパラボラアンテナをもう少し見学してみました。アンテナの前には石碑がありました。「日本における国際衛星通信発祥の地記念碑」というのがありました。ここはかって「KDDI茨城衛星通信センター」(→→→こちら)が昭和38年(1963年)から平成19年(2007年)まで設置されていた所なんですね。日本における国際衛星通信発祥の地記念碑昭和38年(1963年)11月23日、米国の周回衛星「リレー1号」を経由した初の日・米間TV中継が、当茨城衛星通信所(当時は茨城宇宙通信実験所:同年11月20日開所)と米国カリフォルニア州の米国航空宇宙局(NASA)地球局との間で成功裡に実施された。このとき米国から送られてきた映像が奇しくもケネディ大統領の非業の死を伝えるところとなり多くの人々に国際衛星通信の有用性を強く印象づけた。KDDI株式会社の前身である国際電信電話株式会社(KDD)と産業界、官界の英知を結集して行われた国際衛星通信の幕開けであった。爾来、当地はインテルサット静止通信衛星などを利用した国際衛星通信の重要な基地局として44年間の長きにわたり極めて大きな貢献をしてきたのであったが、多様化する技術革新の波の中で平成19年(2007年)3月にその使命をKDDIの他の施設に譲り、任務を終えることとなった。この間、当通信所施設のために開発された技術の多くは世界中の地球局の標準になった。ここに当地が日本における国際衛星通信発祥の地であったことを記憶にとどめ、その使命および当所の開発・建設・運用に関係した方々の功績を後世に伝えるため、この記念碑を建立する。平成21年3月吉日この石碑の下には、「初の太平洋横断衛星テレビジョン伝送」 (First Transpacific Reception of a Television (TV) Signal via Satellite, 1963) としてIEEEマイルストーンに認定されたといるそうです。IEEEマイルストーンとは、IEEE(Institute of Electrical and Electronics Engineers)が電気・電子・情報技術やその関連分野の歴史的偉業に対して行う顕彰活動の一つだそうです。そんな重要な歴史的な場所なので、昭和天皇・皇后陛下も行幸されて記念植樹をされていたんですね。改めてパラボラアンテナを見てみました。これら現存する32mアンテナは国立天文台に譲渡・改造され、現在でも国立天文台水沢局VLBI観測所茨城観測局の電波望遠鏡(高萩局・日立局)として、茨城大学を中心に天文観測のために運用されているそうです。このパラボラアンテナ、この下の車輪でサー水平方向に動かしているんでしょうね。残りのもう一基のパラボラアンテナを見に行きました。しかし、ここは関係者以外は立入禁止のようでした。関係者って、「せきかかりもの」という名前の人ってそういないですよね。というわけで、望遠でアンテナを撮影してみました。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その10) KDDI茨城衛星通信センター跡
Aug 10, 2026
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北茨城市から再び高萩市に戻ってきて、さくら宇宙公園(→→→こちら)を訪れました。正式名称は高萩市衛星通信記念公園で、我が国初のテレビ衛星中継受信の地を記念した公園だそうです。ということで、入り口から少し入ったところにあったモニュメント、「幻の名器アルプスホルンかな?」です。これは世界で最初のインテルサット標準地球局として昭和42年(1967年)12月に完成、平成2年(1990年)3月に撤去したKDD茨城第2アンテナの一部、ホルンリフレクター(一次放射器)と呼ばれるものです。電波を効率よく送・受する役目をし、いわば電波の出入口に当たる部分で、細い先のほうに送受信機が接続されていたそうです。重さは約3トンで材質はアルミニウム合金だそうです。また、下にある大きな歯車は、約350トンあるアンテナ可動部を水平方向に動かすものだそうです。茨城第2アンテナは、アポロ計画による人類初の月面着陸の場面をお茶の間に届けたそうです。さくら宇宙公園の中は、一見するとゴルフ場のような芝生の広場ですが、ゴルフは禁止です。その他、アルコールの持ち込み、バーベキュー禁止など色々と禁止事項がありました。こちらにある建物は、茨城大学宇宙科学教育研究センター(→→→こちら)です。どんな研究しているんでしょうかね?公園の中で見えたパラボラアンテナを利用した宇宙の研究でしょうか?こちらの「茨城県北ジオパーク構想 茨城大学宇宙科学教育研究センタージオサイト」という説明板によると、高萩・日立にある口径32mの電波望遠鏡は、太陽系から遥か彼方にある星の誕生を観測します。これらの星の中には、周辺に開店するガス円盤が観測されており、やがて、この円盤の中で惑星が誕生します。とありました。この広い宇宙の中、今この瞬間にも、どこかで星が生まれているんですね。ちなみに、茨城県北ジオパーク構想は立ち消えになっているみたいですね(→→→こちら)。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その9) さくら宇宙公園
Aug 9, 2026
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北茨城市磯原にある北茨城市歴史民俗資料館・野口雨情記念館(→→→こちら)です。北茨城市に生まれ日本三大童謡詩人の一人とされる野口雨情の偉業を顕彰し後世に伝えるために開館された施設だそうです。入り口にある野口雨情(→→→こちら)の銅像です。野口雨情は、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた詩人です。また、前庭には野口雨情の歌碑も建てられていました。こうやって、記念館まであると、さぞかし立派な人物だと思われますが、私生活はかなり成り行き任せの破天荒人生だったようです(→→→こちら)。この記念館の近くにあるのが、野口雨情生家(→→→こちら)です。こちらが生家の全景。明治時代の初めに建てられた木造瓦葺二階建の家屋で、茨城県指定文化財になったているそうです。野口家は水戸藩の確立期に郷士に取り立てられた家で、雨情の父・量平は廻船業を営み、明治32年から明治37年に村長を2期務めたていたそうです。そのような名家らしい家屋の佇まいですね。建物の入り口には、野口雨情生家に関する説明がありました。磯原には、水戸徳川家2代目藩主の光圀公が「歓海亭」と名づけた休憩所があり、その額が生家には保管されていて、野口家の名家ぶりがわかります。そして、野口雨情の年表が掲げられていました。これによると、ここに生まれた雨情は、東京専門学校(早稲田大学の前身)高等予科分科入学したものの詩作に集中するため退学したところ、父の死で故郷に戻り、資産家の娘である高塩ひろと結婚するものの、詩作を続け樺太に渡り、また東京に戻り詩作を発表するものの、北海道に渡り石川啄木と親交を結んだようです。北海道から帰京したが、再び上京、しかし母の死を契機にふたたび郷里にもどり、植林事業、山林管理に携わった。その後、痔の湯治のためにいわき湯本温泉を訪れ、置屋「柏屋」のおかみ、小すみ(本名明村まち)とねんごろになり、そのまま3年半をここで暮らすようになったそうです。そんな生活で、当然、ひろとも離婚し、水戸で中里つると再婚したそうです。その後、童謡、新民謡の創作で有名になり、全国各地を旅していたようです。1945年(昭和20年)に戦火を避けて宇都宮にいた時に亡くなったそうです。ちなみに新民謡とは、大正期後半(1920年頃)から昭和期にかけて、地方自治体や地方の企業などの依頼によって、その土地の人が気軽に唄ったり踊ったりできて愛郷心を高めるため、またその地区の特徴・観光地・名産品などを全国にPRする目的で制作された歌曲のことだそうです。こちらの生家、今では野口雨情のお孫さんが館長を務めておられるそうです。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その8) 野口雨情記念館と野口雨情生家
Aug 8, 2026
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高萩市の高戸小浜海岸から、国道6号を北上して北茨城市磯原までやって来ました。こちらも広くて長い砂浜が続いています。相変わらず海霧が続いていて海がよく見えません。そして、霧の向こうに島影が薄っすらと見えるのが、二ツ島(→→→こちら)。磯原海岸のシンボル的な存在で、干潮時には島に触ることができ、そこで願い事を3つ祈るとそのうちのどれか1つが叶うと言われているそうです。霧がなければ、このようなリンク先の景観(→→→こちら)が見えたのですが、これもMoMo太郎の普段の行いが悪いせい。また機会を見つけて願いを叶えに北茨城市磯原まで行ってみたいです。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その7) 磯原二ツ島海水浴場
Aug 7, 2026
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日本の渚百選の景勝地「高戸小浜海岸」をじっくり見てみました。松岡八景に詠まれている。高戸の帰帆は、「帰帆遥臨高戸浜」、読み下せば、「帰帆遥かに臨む高戸の浜」青い海原の遠くから、白帆に夕日を浴びながら船が高戸の浜へ帰ってくる。そんな風景が見えたのがこの入り江がなんでしょうね。磯遊びに興じている人も幾人か見かけました。こちらの小さな山は明神山というそうです。明神山を覆う松の木。こういう景色を白砂青松と呼ぶのでしょうね。明神山の北側の入り江です。明神山にあった洞窟。立ち入り禁止ですが、よく見てみると、反対側に突き抜けていました。波浪でこのように侵食されたんでしょうか?渚に打ち寄せる波です。こちらも激しく浸食されています。穏やかな海に見えましたが、長い年月でこのようになっていったんでしょう。切り立った海食崖が印象的です。そして、やっぱり津波には注意するエリアなんですね。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その6) 日本の渚・百選です
Aug 6, 2026
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関根川沿いの道を歩いて行きます。ガードレールが黒いのは、夜は見にくいだろうなと思いますが、景観に配慮しているんでしょうね。鎌倉のような観光地だとコカ・コーラの自動販売機もこんなこげ茶色で目立たなくしていますからね。そして高戸小浜海岸(→→→こちら)への標識を発見。標識に従って、ちょっとした丘を越えていく道を歩いて行くと、海が見える場所に到着。ここが高戸小浜海岸、日本の渚百選(→→→こちら)に選ばれている名勝です。日本の渚百選は、大日本水産会などで作る選定委員会が1996年(平成8年)7月10日に発表した100の渚だそうですが、調べてみると、渚百選には海岸だけではなく香川県にある満濃池も選ばれていました。漁業権というのが設定されていて、勝手に海産物を採取してはいけないのですね。「松岡八景」というがあって、それにも選ばれているんですね。この高萩市は、幕末に水戸藩から独立した松岡藩があったところで、史跡や名勝に恵まれた町だったことから、文化年間(1804年~1817年)に当時の領主中山信敬が、水戸藩の儒学者亀里亀章に、竜子山の山頂からの眺望から8つの場所を「松岡八景」として選定して、それぞれの場所に関する詩句を作らせたものだそうです。1833年に水戸藩第9代藩主が徳川斉昭が選定した「水戸八景」よりも前に設定されたてたんですね。色々、ネットで調べてみると、「松岡八景」は、1.竜子の晴嵐 2.二本松の秋月 3.関根の夕照 4.永田の落雁 5.能仁寺の晩鐘 6.天南堂の暮雪 7.荒崎の夜雨 8.高戸の帰帆 の8ケ所だそうです。機会があれば訪れてみたいです。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その5) 高戸小浜海岸へ
Aug 5, 2026
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関根川の河口です。海霧で海が見えませんが、河口です。高戸前浜海岸(→→→こちら)です。この海岸は遊泳禁止ではないようです。広い駐車場とトイレもありました。こちらも広い砂浜が広がっていて、素晴らしい海水浴場のように思えました。海霧が残念でした・・・。高萩の海岸、東京からは遠いですが、多分、海水浴には魅力的な砂浜でしょうね。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その4) 高戸前浜海岸
Aug 4, 2026
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しばらく歩くと、川がありました。橋の親柱にある銘板を見ると、ちょっと崩した字体で読めませんが、Googleマップで確認すると、川の名称は「関根川」というそうです。橋の名称は「しんそなれはし」。漢字では新磯馴橋と書くそうです。川岸に建っているこのアンテナは、新磯馴橋水位観測局というものでした。こういう施設で河川の水位を観ながら氾濫の危険を住民に知らせているんでしょうね。また近くにはこのモニュメントが。この鳥は海鵜なんでしょうかね。関根川を渡ります。渡った先にあったのは、高萩ビーチ太陽光発電所です。看板には、一般家庭薬560世帯分(約2,003千Kw/年)の電気が発電されているそうです。かなりの数のソーラーパネルが設置されています。こういう再生可能エネルギーを利用した施設がこれからも増えていくんでしょうかね。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その3) 高萩ビーチ太陽光発電所
Aug 3, 2026
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高萩駅から海に向かって歩いています。陸前浜街道と呼ばれている国道6号を渡りました。歩道の側溝のグレーチングにあるイラスト。リゾート感があります。2011年の東日本大震災の時の経験から、こういう津波避難場所の表示が気になりますが、避難場所まで1640メートルというのは、津波の時に、鈍足のMoMo太郎が投げ切れるのか、ちょっと不安です。そして、海岸の堤防がある所までやって来ました。堤防を越えて広い砂浜がある海岸に出ました。この日は、残念ながら濃い海霧が発生していて、海か全く見えませんでした。海霧(うみぎり、かいむ)は、暖かく湿った空気が、冷たい海面に接することで生じるそうです。茨城県北部の太平洋沿岸には寒流の親潮(→→→こちら)が流れているので、こういう海霧が発生するのでしょうか。白い砂浜と青い海の風景が楽しめなくて残念です。Googleの地図には「高萩海水浴場」との表示があるのであるのですが、この有明海岸(→→→こちら)は遊泳禁止になっているそうです。海岸に沿って北の方へ向かいました。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その2) 有明海岸
Aug 2, 2026
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茨城県北部の高萩市にやって来ました。こちらがJR東日本常磐線の高萩駅です。高萩市(→→→こちら)は茨城県北東部に位置し、太平洋に面した海岸部と阿武隈山地の山間部からなる市で、市の総面積は193.55平方キロメートル(令和4年1月 国土地理院)でそのうち約85%は山林原野です。人口は24,633人(令和8年7月1日現在)。かっては、常磐炭田の存在により、石炭産業が盛んであり、高萩炭鉱、望海炭鉱などの鉱山が開かれていた町です。現在は、木材加工・パルプ加工等の産業が中心のようで、その他、市内の工業団地には工場が多く立地すしている。農業では水稲のほか、肉牛、乳牛、野菜、花などが生産されています。一方、海に面していますが漁業は盛んではないようです。そんな町ですが、魅力的な観光資源にも恵まれ、またNHK連続テレビ小説「ひよっこ」のロケ地になったり、またNHK大河ドラマ「龍馬伝」のオープニングに登場する土佐の浜に見立てた海岸はここで撮影されたそうです。また駅前には、この高萩出身の長久保赤水(1717-1801)(→→→こちら)の銅像が建てられています。この長久保赤水の業績として知られているのが、この「改正日本輿地路程全図」(通称「赤水図」)を作成したこどす。こちらには、石碑の側面には改正日本輿地路程全図についての解説が書かれていました。この日本地図は比較的正確な、江戸時代としては画期的なもので、地図の縮尺は10里(約40km)を1寸(約3cm)とし、約129万6千分の1の縮図になっています。方位盤は12個、6色刷りのカラー印刷という美しい地図になっています。安永8年(1779年)に大阪で初版が発行されているそうで、地図の大きさは、84×135センチメートル、内題を「新刻日本輿地路程全図」というそうです。ちなみに輿地とは、大地や地球の意味だそうですこの方が、長久保赤水。台座の側面にはこの銅像を建てるのにあたり寄付された方々の名前がありました。もう一方の台座の側面には長久保赤水の生涯と業績についての説明が書かれていました。江戸時代に作成された日本地図といえば伊能忠敬が有名ですが、伊能忠敬を日本地図の完成者とすれば、赤水は日本地図の先駆者と呼ばれ、日本の地理学者として近世史に不滅の足跡を残しています。忠敬は日本中を歩き回って地図を作りましたが、赤水は、旅に出ることもなく20余年の歳月をかけて出身地である赤浜の地で、日本で初めて経緯線の入った日本地図を作り、大阪で発行しました。このことで、それまで一部の支配者のものでしかなかった地図を庶民のものにしたことです。また、赤水地図から42年後に伊能忠敬の実測地図ができましたが、それは国家秘密のため明治時代になるまで世の中に出回りませんでした。そのため、当時の日本地図と言えば、この赤水地図で、明治時代までの約100年間に5版を数えるベストセラーになったそうです。吉田松陰や坂本龍馬などの幕末の志士たちもこの長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」を使っていたんでしょうね。こちらの歩行者用の跨線橋を使って駅の東側に渡ります。高萩駅の全景です。島式ホーム1面2線で、駅舎とホームは跨線橋で連絡していました。小さな駅ですが、高萩駅発着の列車もあり特急「ひたち」も停車します。駅の規模のわりには線路が多いのは、かっては石炭の輸送のための貨物列車のためだったんでしょうか。跨線橋をわたって駅の東側に出てきました。ここから海に向かって歩いて行きました。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その1) 高萩駅からスタート
Aug 1, 2026
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