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ちょっと急峻な山がありました。おそらく蒲生岳(→→→こちら)という山でしょう。登山家の田部井淳子によって「会津のマッターホルン」と名付けられているそうです。只見ダム右岸側の道を歩き、只見ダムの放流ゲートが見えるあたりまでやって来ました。左岸側の山並みです。右岸側から見た只見発電所です。ダム下流側をさらに歩いて行くと、山へ登って行く道がありました。「奥会津ただみの森キャンプ場(→→→こちら)」へ行けるのですが、暑さで歩き疲れて、さらに熊も怖いので山の方へ入っていく気は起りませんでした。でもホームページで見るとなかなか設備の充実したキャンプ場のようでした。もう少し進んでいくと、芝生の広場がありました。公園として整備されているようですか、ここでキャンプは禁止でした。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その13) 只見ダム右岸の道を歩く
Sep 26, 2026
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只見ダムの最上流部にあるこの広場には、いくつかの石碑らしいものやお堂のようなものもありました。「石伏(いしぶし)由来の碑」という石碑があり、只見ダムの建設に伴って全戸移転となった石伏集落の歴史と、その際に石伏集落に眠る祖先の墓をここに移設し墓地公園としたということが記されていました。この自然石も墓石なんでしょうね。こちらは「家畜墓碑」という文字が刻まれていました。こちらは先人の霊を供養する供養塔のようです。こちらの建物は、お堂のようです。お堂の扁額には「子安地蔵 藥師如来 弘法大師」というありました。こちらは石伏集落にあった石仏群なんでしょうね。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その12) 石伏由来の碑
Sep 25, 2026
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万代橋を渡って只見ダムの右岸側に出たところにある広場です。この広場にあった石碑です。松尾芭蕉句碑がありました。只見俳句会という団体が建立した句碑ですが、「行く春や鳥啼魚の目は泪」という句は芭蕉が「奥の細道」の旅に旅立った日に詠んだ俳句として知られた句ですが、その下の「はせを」というのは何なんでしょうね。さらこちらにも、くずし字で読めませんが、短歌のようなものが刻まれた石碑がありました。石碑の裏には、「昭和四十九年十一月三日文化の日有志一同建立 皆川成一郎書」とも刻まれていました。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その11) 松尾芭蕉句碑
Sep 24, 2026
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国道252号を只見湖沿いにダムから田子倉ダムに向かって歩いて行きました。対岸を見ててみると、木立があってダム湖を一周する散策道になっているようです。国道252号には街路樹もなく木陰もなく暑い夏の強い日差しの下を歩いていると、道路標識がありました。新潟県の柏崎までは116km。魚沼までは55kmでした。魚沼までは昔の単位で言えば14里でした。ようやく只見湖を渡る橋のところへたどり着きました。橋の袂の広場にあったこの建物は、トイレでした。ここで用も足しておきました。トイレの横にあった只見町の観光案内図です。所々傷んでいるのがちょっと残念。こちらのトラス橋を渡ります。渋い焦げ茶色の塗装がなんとなく落ち着いた雰囲気を感じます。橋の名称は「万代橋」竣工したのは令和元年(2019年)11月。随分新しいなと思いましたが、昭和30年(1955年)12月に開通していた橋ですが、平成23年(2011年)の新潟・福島豪雨で被災したものを復旧したようです。幅員は乗用車がギリギリすれ違えるくらいです。橋の上から、下流側の只見ダムのダム湖です。満水面積は0.8km2。サッカー場は約7,000m2前後の広さがあるので、111面分の広さがあります。只見ダムの放流ゲートと発電用の取水ゲートです。左側の3つのゲートが放流用で洪水時にダムが満水位を越えないようするなどの水位調整するものです。右側はダムから発電用水を取水したり、下流側の河川が干上がらないように水を流すために使われるゲートです。上流側にあるのは田子倉ダム。こちらのダムの堤高は145mです。こちらのダムは岩石と土砂でできた只見ダムと違い、コンクリートで出来ているので、洪水は堤体の上にある放流ゲートを操作して、水位を調整します。そして、水はダムの斜面を流れ落ちてきます。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その10) 万代橋を渡りました
Sep 23, 2026
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只見ダムの近くにあったこの建物は、J-POWERの只見展示館(→→→こちら)という施設です。只見展示館は、福島県只見町にある水力発電をテーマにした学習施設です。模型や映像を通じて発電の仕組みを学べるほか、只見ダムの絶景を望む展望台やVR体験も楽しめます。しかし、福島県の山奥の奥会津にこのような水力発電所があり、我々もその電気を使っていると考えると、未だに先の見えない原子力発電所のことも含めて、我々の生活に必要な電力は福島県が生み出してくれていたのだと思うと、福島県には深く感謝しないといけないですね。こちらは展示してあった、発電用の水車の模型です。左側が田子倉発電所(→→→こちら)で使われているフランシス水車(→→→こちら)です。フランシス水車は内側に向かって流れる水を作用させる反動水車で、有効落差にして数十メートルから数百メートルの範囲で適用されるそうです。右側が只見ダム下流約13kmにある滝発電所(→→→こちら)で使われているカプラン水車(→→→こちら)です。カプラン水車はプロペラ状の羽根車(ランナ)の羽根の角度を調整できるもので、フランシス水車では不可能であった有効落差の低い発電所においても効率的な発電を可能とした水車だそうです。只見展示館の建物にある階段を登っていくと建物の屋上から只見ダムの展望台になっていました。展望台から見た只見ダムの堤体です。こちらはダム湖の方の展望です。ダム湖の最上流にある田子倉ダムです。ダムの堤高は145m、堤長は462mの重力式コンクリートダムで、総貯水容量は4億9,400万m3。ダム湖の満水位標高は510mになるそうです。ダム湖の水面にさざ波がたっていました。水鳥が飛び立つところでした。よく見ると小さな鳥の姿が見えているのですが、ズームが十分ではなかったので、わかりにくいですね。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その9) 只見展示館
Sep 22, 2026
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只見ダム(→→→こちら)へ到着しました。石碑には「只見ダム」と刻まれていましたが、陰になって上手く撮影できませんでした。只見ダムは、岩石と土砂を積み上げて造られたロックフィルダム(→→→こちら)です。Jpower(電源開発株式会社→→→こちら)が建設し管理運営している発電用のダムと水力発電所です。只見ダムの貯水池(ダム湖)です。山並みと青い空そして雲が水面に映っていて水の清らかさがわかります。ダム湖の一番上流には、巨大なコンクリートダムが見えました。このダムは同じくJ-POWERが建設し管理運営している田子倉ダム(→→→こちら)です。只見ダムはこの田子倉ダムにある田子倉発電所の逆調整池(放流した河水を平均化して下流への影響を最小限に抑制するための貯水池)として建設されたものです。田子倉ダムの直下流に橋が架かっています。MoMo太郎の目論見としては、この橋を渡ってダム湖を一周してくることにしています。こちらはダムの下流側です。ダムのある只見川は一級河川・阿賀野川水系の支流で、この水は日本海へ流れて行きます。ダムの放流ゲートから放流された水の勢いを緩めるための副ダムと呼ばれる施設です。ダムの放流ゲートの堰柱です。水利使用標識です。河川の水を利用するのには、このように国土交通省の許可を得ないといけないようです。こちらは只見発電所。この下に発電機があるそうです。発電した電気はここから電力の消費地に送られるのですね。こういう水力発電所って、他の発電施設(原子力発電所や太陽光発電所など)に比べれば安全で環境にも優しい上に出力の制御も容易なので、日本の国土には適した発電施設だと思うのはMoMo太郎だけでしょうか。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その8) 只見ダムへやって来た
Sep 21, 2026
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やがて、警報局の施設が見えてきました。この看板には、「この川の上流0.5キロメートルのところに只見発電所と只見ダムがあります。発電所で電気を起こすときや、ダムに貯まった水を流すときは、サイレンでお知らせしますので、そのときは危険ですから河原に降りないで下さい。」といったようなことが書かれていました。只見川の岸から只見ダムが見えました。望遠でダムの放流ゲートを撮影してみました。右岸側は発電した後の水が流れ出るゲートのようです。只見ダムの近くまで来ると、山小屋ロッジ風の建物がありました。歳時記会館(→→→こちら)という施設で、只見町の物産品の直売施設のようでしたが、もう営業はしていないようでした。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その7) 只見ダムの放流警報装置と歳時記会館
Sep 20, 2026
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国道252号を新潟方面に向かって歩いて行くと、次の目的地になる「ただみ・ブナと川のミュージアム(→→→こちら)」の看板が見えてきました。ここが施設への入り口です。奥に見えるちょっと変わった三角形の屋根の建物が、ただみ・ブナと川のミュージアムです。「ただみ・ブナと川のミュージアム」は、ブナを中心とした自然環境と、その自然を巧みに利用し暮らしてきた先人の知恵と技術を伝えるため、2009年に開館した施設です。入場料は、「ふるさと館田子倉(→→→こちら)」も両方入館できる共通券が高校生以上310円です。写真は撮影してもいいそうなのですが、個人での利用に限るとのことで、こういうSNSへの掲載は遠慮して、建物の外観だけにしますが、展示内容は充実してました。ブナと川に囲まれた自然豊かな土地での雪国での暮らしに関係する民具などを展示するほか、地域の地形と地質についての解説や展示。只見町のブナの森の自然を再現する植物の再現、本物の熊はいませんが、熊やシカなどの哺乳類の剥製、昆虫標本も展示されていました。さらに、水槽には本物のイワナが泳いでいました。入館料の310円以上の値打ちはある展示でした。こちらの見学の後は、只見ダム(→→→こちら)へ向かって歩いて行くと、建設機械メーカーのえいぎょ所がありましたが、只見町の他、近隣の檜枝岐村(ひのえまたむら)、昭和村などが保有する除雪ドーザーが駐車してありました。町や村が除雪をするのでしょうね。役場職員にはこういう重機を運転できる職員さんがいるんでしょうか。道路の脇にあった大きな木、道路の上まで覆いかぶさるように育っているのが面白くて撮影してみました。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その6) ただみ・ブナと川のミュージアム
Sep 19, 2026
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再び只見線の踏切を渡ります。草に覆われいますが、ちゃんと列車が走っている線路です。この後、新潟県小出行の列車が走って行きましたが、線路脇で地元のご婦人2名が通過する列車に対して、両腕を大きく振っている姿を見かけました。地元の人にからは愛されている鉄道路線なんでしょうね。山の斜面が切り開かれて、スキー場になっていました。結構、駅近のスキー場なので、雪の季節には、車で来るよりも列車出来て、滑るのが楽でいいかもしれません。そういう意味では只見線があって助かりますね。この只見スキー場(→→→こちら)、一枚バーンの小さなスキー場のように思われましたが、スキーヤーの評判はどうなんでしょう。そして国道252号に出ました。国道252号は新潟県柏崎市から魚沼市を経て福島県会津若松市に至る一般国道です。道路の中央には、消雪パイプか通っていて、地下水で雪を溶かすのでしょう。大量の水やエネルギーを使っても、車が通行できるようにすることが必要なほど、住民生活にとって大切な道路ということですね。こういう施設のあるのも雪国ならではですね。こちらは道路脇にあるゴミ収集場所のようです。雪が降ってもゴミが収集できるように、屋根付きになっているのでしょう。こちらは駅前にあった、消火栓です。一段高く設置しているのは、雪で埋もれてしまわないようにとの配慮なんでしょうね。そんな雪国の暮らしを感じる風景を見ながら、町を歩きました。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その5) 雪国の暮らしを感じる
Sep 18, 2026
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三石神社(→→→こちら)のキャラクター(「アテンドル」と呼ぶらしいです)三石縁(みついしゆかり)さんの案内に従って、この用水路脇の道を歩いて行きます。奥会津の只見町、山深い里の雰囲気を感じました。訪れたのは8月初旬でしたが、稲にはもう穂が実っていました。昨年に比べてお米の値段が下がるらしくて、消費者にはうれしいですが、生産者には厳しいことになりそうですね。このような状態が続くと、日本に稲作農家がいなくなって、こういう風景も見られなくなるかもしれませんね。三石神社の鳥居が見えてきました。 この奥、つまり山の中に社殿があるようです。三石神社は、大きな奇岩がご神体として祀られる神社だそうです。3つある岩のうち「三の岩」の岩に5円玉を通したこよりを結ぶと縁結びが成就するといわれているそうです。鳥居の向こうにスキー場のリフトの鉄柱らしいものが見えました。三石神社の由来がありますが、これも貼ってあるシートがかなり傷んでいて、文字も薄くなっていて、わかりにくいですが、要約すると、三石神社は、山中に一の岩、泪岩(なみだいわ)、縁結びの岩の三つの岩を磐座(いわくら・神の鎮座する所)としているところから三石神社と名がつけられたものと推測されます。祭神としては伊邪那美命(いざなぎみこと)、白山姫命(しらやまひめのみこと)、少那彦命(すくなひこのみこと)を祀り、縁結びの神と云われております。平安時代の末期文治年間(1185〜1190)奥州藤原秀衡征伐の大功をたてたため、源頼朝よりこの地を賜った金山谷、横田の坊主山内経俊が、夢枕に立った神霊のおげに導かれて、この地に奉願したと伝えられています。 また、三石神社を国の寺社奉行に登録したのも山内家と云われているそうです。 会津の山の中で、熊さんとは出会いたくないので、この神社への参拝は遠慮したので、詳しくは、福島県只見町の公認キャラクター「三石 縁(みついし ゆかり)」が、福島県只見町の観光スポット「縁結び・三石神社」などをした動画をご覧下さい。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その4) 三石神社
Sep 17, 2026
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中村ゆりさんが亡くなって(→→→こちら)、落ち込んでいたMoMo太郎に職場の女性職員が「大丈夫、中村ゆりか(→→→こちら)がいるから、そちらを応援すれば」と言って慰めてくれました。ということで、これからは、中村ゆりか推しで行くことにしました。ということで、今日も奥会津只見町の旅の思い出をつづります。只見駅から、こちらの神社へお参りしました。社号碑では「村社 瀧神社」とありました。こちらには、近くにある別の神社を案内するキャラクターの三石縁さん。縁結びに御利益がありそうな神社なんですね。後でお参りしてみましょう。こちらは手水舎ですが、下になに石の銘板が。内容は、もともと地元の青年団が神社の神撰田(神様にお供えするお米を育てる田)としていた田んぼが圃場整備(農地の区画整理工事)の際に、その田んぼがなくなっので、その代わりにこの手水舎を寄付したと、いうことのようです。耕地整理記念碑も建てられていました。耕地整理事業は、手水舎寄進のきっかけとなった圃場整備事業の以前に行われた農地の整備工事だったんでしょうね。こちらは只見町の簡易水道事業が竣工した記念の石碑です。瀧神社の由来もありました。記載されていた鉄板が歪んでいるのがちょっと残念です。長いので、要点だけ書くと、新編会津風土記によると、治承四年(1180年)の勧請。御神体は金幣であると伝えられている。旧只見村を流れる只見川は古来より暴れ川として有名で、氾濫によって田畑・家屋が冠水・流失し、人々を毎年のように困らせていた。享保年間(1716~1736年)、相変わらず洪水に悩まされていたため、当時只見村熊野神社の神職であった赤塚伊勢守尹直は只見川の鎮撫を祈願。しかし、熊野の御祭神は戦神であるスサノオ。荒ぶる性質をもっていたためか、暴れ川の鎮撫には一向に効き目が無い。そこで享保十八年七月六日、上ノ原の地(現在のJR只見駅前あたり)に瀧神社を建立した。瀧神社には水神である瀬織津姫命を祀り、荒れ狂う只見川を鎮め、村人の安穏を願ったのだという。その後、明治三十年に約100メートルほど山際の現在地に遷座した。さらに、また石碑がありました。なにが記されているのか、全く判読できませんでしたが、雰囲気から戦争で亡くなられた方々の慰霊碑だと思われます。こちらが社殿。なかなか本格的な雰囲気です。龍の透かし彫物がありましたが、なかなか立派なもののように思えました。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その3) 瀧神社
Sep 16, 2026
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只見駅の駅舎の壁に得かがれた周辺地域の風景画です。結構、精緻に描かれてるので、ちょっと驚きました。この壁画を見ていると、只見駅から少し新潟方面に行くと気になるものがあったので、行ってみることにします。そこには、車庫のような建物とその手前に小さな鋼製の橋のようなものがありました。この橋のようなものは、転車台でした。転車台とは、蒸気機関車のように運転台が1か所しかないような鉄道車両の向きを変える施設です。普通はモーターなどで回転させるのが、これは人力で動かすようですね。只見線は昭和40年代後半ごろまでC11形蒸気機関車による貨物列車が運行されていたので、その名残なんでしょうかね。再び駅前に戻ってくると、只見駅周辺の観光案内図が設置されていて参考になりました。今回は只見川の上流にある只見ダム周辺をウォーキングしてみる計画です。駅の脇にあった歩行者用の踏切があり、その先に鳥居が見えたので、行ってみましょう。踏切の上から駅の方向を撮影してみました。ホームは島式で駅舎からはかなり離れて設置されていました。こちらは新潟県の小出方面の線路です。線路のバラストが草で覆われ、一瞬、廃線となった線路かと思われるかもしれませんが、一日に6本の列車が運行されている現役の線路です。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その2) 只見駅の転車台
Sep 15, 2026
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夏の思い出として、奥会津の只見町に行ってきた思い出を報告します。スタートは、こちらの大きな駅舎の駅からです。只見線の只見駅からです。只見線は、福島県会津若松駅と新潟県魚沼市の小出駅を結ぶJR東日本地方交通線です。時刻表を見てみると、会津若松方面も小出方面も一日3本しか走っていませんでした。これだと、ちょっと利用するのが難しいように思いますね。とはいえ、平成23年(2011年)7月の新潟・福島豪雨により、只見線は小出駅 - 会津坂下駅間113.6 kmが不通となり、もともと赤字路線であったため、地元ではこのまま廃線になるのではないか心配されていたそうです。JR東日本も民間会社ですから、不採算部門は縮小したいと考えるのも当然といえば、当然ですね。そのような中で、福島県と沿線市町が施設と土地を保有しJR東日本が車両を運行する「上下分離方式」を採用して復旧工事をすすめ、令和4年(2022年)10月1日にようやく只見線は11年ぶりに全線で運転を再開したそうです。地元の人達の全員が復旧を望んでいたかどうかはわかりませんが、多くの人が期待していた只見線の復旧ですから、たとえ一日3本しか運行されていなくても、鉄道がつながっていることが大切なのかも知れませんね。ちなみに、福島県と沿線市町が施設と土地を保有していることから、JR東日本が線路使用料を支払うことになっていますが、そのれだけで、施設の保全ができないとすれば、施設の保全に要する費用は福島県と沿線市町の血税が只見線の施設保全に注ぎ込まれることになります。かっての民主党政権下では、「只見線の復旧」は事業仕分けで廃止されていたかもしれませんが。我々が利用している道路は施設の建設も保全も公的な資金、血税が注ぎ込まれています。それと並びで考えれば、鉄道について、その鉄道が必要なら多少の公的な援助があってもいいのではと思うMoMo太郎です。そんな、只見線の只見駅には、駅員さんはいなくて、この売店の店員さんと駅員を兼務しているお姉さんがいただけです。ちなみに、Suicaなどの交通系ICカードも使えないようです。列車を待つ時間が長いせいなのか、待合室には只見町の観光案内や装飾があって、退屈しないようになっていました。駅のトイレの入り口にあった「只見町河井継之助記念館」の紹介看板がありました。只見町が幕末の長岡藩家老の河井継之助(→→→こちら)終焉の地だったんですね。それにしても、只見町から新潟県長岡市まで八十里もの距離があったとは、一里が4キロメートルですから、320キロメートル。日本って広かったんですね。(←←←このボケ、突っ込んで下さいね)只見線についてこんな案内サイト(→→→こちら)もありました。旅行の際には参考になりそうですね。ということで、警視庁鑑識係の仕事を辞めて、呑み鉄旅で人生を楽しんでいる六角精児さんの「只見線のうた」を紹介します。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その1) 只見駅からスタートです
Sep 14, 2026
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すき家の牛カレー(830円税込み)をいただきました。すき家ってカレー以外にも色々メニューがあって食べ飽きないものですが、牛肉がそれなりにあって、牛丼屋さんらしいメニューのように思いました。また、特製辛口ソースが着いているので、途中で味変できるのもよかったです。人気ブログランキングへ孤独のグルメ すき家の牛カレー
Sep 13, 2026
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馬込給水所から坂道を下って、西馬込商店街にやって来ました。馬込という地名は、諸説あるそうですが、このあたりは、平安末期から鎌倉期にかけて、農耕馬がたくさん飼われていたそうです。また、馬込の地は起伏の多い地形で足腰が強く、足が速いため、鎌倉武士用の馬として放牧され、馬込の「込」は牧場の柵を設けていたことから来ているという説があるそうです。そういえば、宇治川の先陣争いで、名馬の誉れ高い池月に乗る佐々木高綱と先陣を争った梶原景季が乗った名馬「磨墨(するすみ)」もこの馬込の地に葬られた場所がこの馬込にあるそうです(→→→こちら)、また磨墨が生まれた地もこの馬込だと伝わっています。国道1号にやって来ました。西馬込駅前にある「太田区立ライフコミュニティ」という施設の敷地の北端にあった「馬込半白節成胡瓜 馬込大太三寸人参 発祥之地」(→→→こちら)という石碑がありました。「馬込半白節成胡瓜」は, ヘタに近い部分が淡い緑で 先の方は白い「半白」のキュウリのことで、 「節成」というのは, 節ごとに雌花が咲いて実がなることを意味しています。「馬込大太三寸人参」は、昭和25年(1950年)に農林省に種苗名称登録された西洋ニンジンの改良種です。長さは10cm(3寸)程度、短い円錐の尻つまり形をしており、根の先が丸みを帯びているのが特徴です。昭和30年代頃まで ニンジンと言えば, 50cm以上もある 細長いものが一般的だったのですが、現在の短いニンジンの先駆けとなった品種です。いずれもこの馬込の地で生まれたんですね。国道1号を渡って、南馬込地区に行くと、かって、人気のあった居酒屋チェーンの「養老乃瀧」(→→→こちら)がありました。そういえば、MoMo太郎がまだ社会人1年生だったころは、昼の時間帯に牛丼を販売していたけど、今はやっていないんでしょうね。その「養老乃瀧」の近くにあったのが、このお堂。夢告観音という石像が安置されていました。観音像の後ろには夢告観音由来が書かれていました。よく見ると、文章の所々が「・・・」となっていたり、観音像で隠れていたりしていますが、なんとなく要約してみれば、馬込(馬篭)牛洗戸(西一丁目)北向稲荷から塚越(西二丁目))に至る中間に、河原栄蔵氏の所有地に昔無名塚があった。村人はそれを観音塚と呼んだ。今は跡方も認められないほど変わって道路となってしまったが、塚には元禄時代に作られたとされる観音像が奉納されていた。明治年間に、取り締まってきた河原氏のもとに収容されるが、一夜河原源蔵氏の夢枕に立ち、元の位置に戻せとのお告げに従って、現地付近に祀ったのは、堂宇の南一丁ほど先に古井戸があることや。西二丁目の合同卜ラっク前徳川時代に村民幕命を布達揭示する高礼場の跡もあったことから推察したというようなことなのでしょうか。馬込周辺については、MoMo太郎も2024年7月25日(→→→こちら)前後のブログで紹介していますが、まだまだ馬込界隈にも色々発見がありそうです。しかし、そろそろ歩き疲れたので、都営地下鉄浅草線の西馬込駅から帰りました。(洗足池探訪コース)【了】人気ブログランキング洗足池探訪(その27) 西馬込駅周辺
Sep 12, 2026
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坂道の先に見えるドーム状の屋根の建造物が見えました。その前に、こちらの「六郎坂」と記された木製の標柱。下の説明には、坂名は、江戸時代後期、この村のために尽した海老沢六郎左衛門の屋敷が坂にそってあったことに由来する。坂下の水路にかかる橋を六郎橋という。とありました。この下っていく坂道が、六郎坂です。しかし、このあたり大きな一戸建て住宅が立ち並んでいますね、ようやく、ドーム状の屋根がある建造物が2基、並んで建っていました。ちょっと見た感じ、女性の乳房を連想してしまうセクハラ体質のMoMo太郎です。これは、東京都水道局が管理する馬込給水所の給水塔でした。調べてみると、構造・形式は、鉄筋コンクリート造り、円形鉄板屋根規模は、高さ、28m 直径、32m 容量、9,000m3建築年代は、第一給水塔(南側)が、昭和26年(1951年)、 第二給水塔(北側)昭和29年(1954年)戦後復興期から高度経済成長へ向かう東京の水需要増加を受けて整備された施設なんですね。この給水塔の役割としては、時間的に変動する水の使用量の変動を調整するとともに、高い位置の水槽に水を貯め、位置エネルギーを使って配水管の圧力を保つことです。この給水塔、昭和の生まれですが、現在でも多摩川浄水場や長沢浄水場から水を引いて大田区と品川区に配水している現役施設です。そして、この間も熊本で大きな地震がありましたが、災害時の給水ステーション(→→→こちら)としても機能しているそうです。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その26) 六郎坂と馬込給水所
Sep 11, 2026
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呑川にかかる道々橋(どうどうばし)です。道々橋(どうどうばし)とは、地元の人以外には読めないような名称ですが、きっと古くからの地名なんでしょうね。大岡山にある清水窪湧水から洗足池を経て、洗足流れをたどってきたMoMo太郎ですが、そろそろ家に帰ろうと思います。この案内板を見ると、この呑川緑道に沿って歩けば、東急池上線の石川台駅まで1.7kmとありましたが、池上本門寺へ向かって、東急池上線の池上駅に行ってもいいようにも思えました。しかし、東急電鉄を利用すると五反田なり蒲田なりで乗り換えがあるので、乗り換えの少ない都営地下鉄浅草線の西馬込駅に行くことにしました。こちらの道を東に向かって歩きます。豊かな緑に覆われた丘が目の前に現れました。急な坂道を登った先の石碑には、子安八幡神社(→→→こちら)の名がありました。さらにきつい石段を上がっていくと、ここが子安八幡神社の社殿です。意外と新しい建物ですね。子安という名前から、安産に後利益がありそうですね。こちらの石碑に由緒が記されていましたが、漢字が多く判読するのが難しそうです。wikipediaから引用すると、、当社の創建は康元元年(1256年、89代後深草天皇の御代)、当地の領主である池上宗仲が武蔵国の池上山(現在の池上本門寺内)に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したことに始まるとされる。その後、天正9年(1581年)には遷座の議により現在の地に転社したと伝えられている子安神社を通り過ぎて、この緩やかな坂道を東に向かって、登って行きます。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その25) 子安八幡神社
Sep 10, 2026
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洗足流れを追いかけて、呑川(のむかわ)に架かる橋のところまでやって来ました。呑川は、世田谷区、目黒区、大田区の3区に跨る延長約14.4kmの二級河川です。流域面積は、3区全体で約1,750haといわれています。というのは、中流域にある養源寺橋から河口までの地域については、下水道のポンプ施設によって、雨水を東京湾まで直接排水する区間となっているため、この流域面積にはカウントされていません。この橋の名称は本村橋です。川のフェンスに呑川緑道(→→→こちら)という看板がありますが、本村橋の上から、下流を眺めてみましたが、川沿いの道を見ても、緑道という雰囲気の植生はみかけないです。元村橋の袂にあるこの暗渠の出口が洗足流れの末端のようです。清水窪湧水からの流れが洗足池を経て、ここで呑川に合流するのですね。呑川、ちょっと変わった名称ですが、その由来は、その昔、牛が誤って川に落ち水を飲んでしまうことがあったからだという説があるそうです。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その24) 呑川、洗足流れの終点
Sep 9, 2026
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洗足流れを辿って歩くと、東雪谷五丁目交差点に出ました。交差点に面して雪谷山長慶寺という日蓮宗のお寺があります。「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目塔です。また側面に「池上末流雪谷山長慶寺」とも刻まれていました。境内はなかなか広かったです。こちらの案内板によると大田区文化財の日蓮聖人坐像があるそうです。読んでみると、この長慶寺は、はじめ荏原郡碑文谷村(目黒区碑文谷)にあって、碑文谷法華寺の末寺であったが、法華寺が不受不施を唱えて幕府の弾圧を受けた際、池上本門寺の末寺にかわったそうです。不受不施(→→→こちら)とは、日蓮の教義である法華経を信仰しない者から布施を受けたり、法施などをしないという宗派のことだそうです。この東雪谷五丁目交差点からは、東海道新幹線と横須賀線の高架橋が見えました。新幹線が走っていくのが、結構、間近に見えるんですね。長慶寺横の細い路地が、洗足流れの暗渠のようです。こちらの新幹線のガード下の抜けて行くと、いよいよ洗足流れの終点になります。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その23) 長慶寺
Sep 8, 2026
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再び、洗足流れに戻って歩いていきます。水路の側壁に穴が開いている区間がありました。おそらく、洗足流れの水路へ雨水が流れ込んで溢れそうになった場合に、この穴からオーバーフローして下水道に流れ込むようになっているのでしょう。このあたりから車道を離れて、住宅街の細い道沿いに水路が引かれています。住宅の間を抜ける細い路地沿いを洗足流れの水路が通っています。このあたり、水路の中に草が繁茂していますが、これは昆虫などが棲みやすくするための配慮か?、それとも管理の手が回らないのか? どちらなんてしょうかね。暑さのせいか、かなりうなだれているひまわりの花壇がありました。桜のプロムナードの案内板がありました。蝉山橋という橋の名称は、このあたりの地名が蝉山と呼ばれていたからでしょうか(→→→こちら)?洗足流れ東雪児童公園という公園があり、木陰にあったベンチでひと休みしました。残念ながらトイレはありませんでした。ここに洗足流れ沿いの低地の稲作農業と洗足流れが野菜の洗い場として使われていたことを説明した案内板がありました。水が濁っていましたが、赤い鯉の姿が見えました。このあたりの水路では、鯉が泳いでいるようですね。洗足流れはこの先から暗渠になっています。暗渠の上の歩道をさらに歩いて行きました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その22) 再び洗足流れを歩きます
Sep 7, 2026
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こちらは小池公園(→→→こちら)と呼ばれています。これは、洗足池の大池に対して、小池と呼ばれていた溜池だからです。洗足池公園と小池公園をめぐるコースを「池のみち」として設定されているようでした。古くは農業用水に使用するために、谷あいの湧水をせき止めてつくった池です。つまり、小池は湧水池で、水源になる川がないそうです。確かに、池の周囲はこのような住宅街となっていて、川があるような様子はなかったです。農業用水の溜池でしたが、昭和9年(1934年)からは釣堀として使われていましが、釣堀を経営していた業者が営業を中止し、数年この池は放置されていたそうです。そのため大田区がこの池を整備することにし、平成19年(2007年)後半から工事が始まり、平成21年(2009年)に公園としてオープンしたそうです。また、整備後の新しくなった池を洗足小池と呼ぶことになりました。釣り堀はなくなったようですが、魚などが残っているのでしょうか?網をもって歩いているおじさんが見えました。池の水はこの水門から流れ出しているようです。「小池流れ」と呼んでもいいような水路を追いかけてみました。小池からの水は住宅に挟まれたこの小さな水路を流れているのでしょうか?しかし、水門の規模から考えて、水路の断面積が小さいので暗渠となって地下を流れているようです。この道路の右側が暗渠となっているのでしょう。しかし、その暗渠の様子が小池小学校のグランドあたりで途切れています。この先も探ってみたのですが、「小池流れ」が「洗足流れ」に合流していることは確認できませんでした。Wikipediaで「洗足小池」を調べてみると、「流れ出しからは暗渠の小川になっているが、洗足流れに合流することなく、合流下水道に落とされている。」とありました。おそらく、想像するに、釣堀として利用されていた時に、底に残された釣り用のオモリの鉛が溶け出したり、整備工事をした時に使われたセメントの影響や底にたまっていたヘドロが流れだすことで、洗足流れやその先の合流している呑川(のみかわ)の生態系への影響が懸念されるからではないかと思います。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その21) 小池公園
Sep 6, 2026
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洗足流れに沿って整備された桜のプロムナードを歩いて行きます。洗足流れの水路と桜の並木が整備されて、のんびり散策するのにいい遊歩道が続いています。下流に行くにしたがって、側溝から幅の広い水路に変わっています。この小池橋という橋のところで、桜のプロムナードから外れて、東の方へ住宅街の中に入っていくと、坂道の途中にあったのは、大田区立小池小学校です。さらに、上池台の台地の坂道を登って行くと、住宅街の中に広がる池がありました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その20) 小池へ
Sep 5, 2026
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再び中原街道に戻ってきました。ここから更に、洗足池から流れ出した川の流れを追いかけて行きます。 東急池上線洗足池駅です。この駅の下を洗足池から流れ出た水路が(多分)通っているようです。洗足池駅の改札口は中原街道に面した改札口が一か所のみで、駅の横にあるこのガードを抜けて駅の南側に向かわないといけません。ガードを抜けた先は、洗足池商店街となっています。しかし、商店街を行かず、駅の南側の坂道を下っていくと、東雪谷と上池台の境界にあるこの道を歩いていくことにします。ここで洗足池から流れ出た水がこの側溝の中を流れて行きます。この脇に「この流れは洗足池の水を利用しています」との看板がありました。この水路が「洗足流れ」(→→→こちら)と呼ばれるものです。かつては農業用水として利用されており、洗足用水、池上用水とも呼ばれています。全長1.5 km程の短流で、洗足池を始点として東雪谷と上池台の境界に沿って流下し、仲池上で呑川に合流します。また、清水窪湧水から続いている桜のプロムナードという遊歩道としても整備されています。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その19) 洗足流れ
Sep 4, 2026
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洗足池探訪の途中ですが、ちょっと中休みです。リンガーハットの皿うどん(920円)を頂きました。名称からして太麺のうどんが使われていそうですが、油で揚げたパリパリの細麺が使われているのが、昔からずっと不思議でしたが、本場では太麺を焼きそばのように炒めて出す店もあるそうですね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 皿うどん
Sep 3, 2026
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洗足池西岸から見た池の全景です。池の周りょ歩いていると見つけた「ナツミカン」の木です。確かに、ナツミカンらしい黄色い実が見えました。そして、洗足池北西端にあった無料休憩所です。ここでようやく洗足池の全周を歩いたことになりました。ここでしばらく休んで、さらに洗足池の川の流れを追いかけて歩いていくことにします。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その18) ナツミカンの木
Sep 2, 2026
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千束八幡神社の境内の北東にあった池月像です。洗足池を見下ろすような位置に建てられています。台座には「名馬池月の由来」と題した洗足風致教会が設置した銘板が設置されていました。池月は後に源頼朝の家臣の佐々木高綱に下賜されます。高綱と池月は、源範頼、義経が源(木曽)義仲の軍勢を破った「宇治川の戦」で、頼朝が同じく大田区内の馬込で手に入れた名馬磨墨(するすみ)に乗馬する梶原景季と、先陣争いを繰り広げました。宇治川を渡り先陣争いをしている際、佐々木高綱が梶原景季の乗る馬の腹帯が緩んでいるように見えると言ったため、不安に思った梶原景季が馬の腹帯を締め直した。その隙をついて佐々木高綱が先行し、川の中に張られた大綱を馬に乗ったまま太刀を抜いて断ち切って、敵陣への一番乗りを果たしたそうです。まあ、半ば騙し討ちのようなことで、先陣争いを制した佐々木高綱と池月ですが、この時、先陣争いをした池月と磨墨は名馬として全国に知れ渡ったそうです。その後、平氏征伐の軍功により筑後国の鯵坂庄(今の福岡県小郡市のあたり)に所領700町歩を賜った佐々木高綱は愛馬の池月とともに鯵坂庄に移り住んだそうです。ということで、MoMo太郎が福岡験久留米市に住んでいる時に、その「名馬池月の塚」を訪れていたことを2018年8月15日のブログ記事で報告しています(→→→こちら)。そこで、平成29年(2017年)6月11日に福岡県小郡市で名馬池月塚を撮影した写真を紹介します。下の写真が、名馬池月塚にあった案内板です。こちらが「名馬池月塚」です。こちらが墓石のようです。辛うじて「池月塚」と刻まれた文字が判読できました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その17) 名馬池月について
Sep 1, 2026
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