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1963年のきょうビートルズはスウェーデン公演に出発。10月28日まで続けられた公演旅行の間にTV出演もしたそうです。ストックホルムで10月24日に録音された5曲がアンソロジー1に収録されてるみたいです。それから2年後の10月24日はポール作曲の「I’M LOOKING THROUGH YOU」をアビー・ロードのスタジオで録音。11月6,10日にリメイク。さらに11日、ヴォーカルをオーヴァーダビング。この曲はポールが、ブリストルへ公演旅行に出かけたジェーン・アッシャーと別れ別れになったときに書いた曲で、アメリカのステレオ・ヴァージョンには、2箇所で間違ったギターのイントロが入っているそうです。
2007年10月24日
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1965年10月21,22日とアビー・ロードのスタジオでジョンの作曲による「NOWHERE MAN」の録音が行われた。ビートルズの曲としては珍しいことに、ジョンが書いた歌詞は録音中も手を加えられることはなかったそうです。ジョン「ある朝5時間もかけて、すごく意味があって申し分のない歌詞を書こうとしたんだけれど、結局あきらめて寝転がってしまった。そしたら、歌詞も曲も、全部がいっぺんに心に浮かんできて、『NOWHERE MAN』ができたんだ」
2007年10月22日
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今から40年前のアビー・ロードのスタジオで10月20日、ビートルズのポール作曲の「THE FOOL ON THE HILL」のフルートのオーヴァーダビングが行われたそうです。この曲は彼らの映画に使われた。フランスのニースで1967年11月1、2日にポールはさまざまな苦労の末に撮影をした。彼がこの曲をジョンに最初に聞かせたのはその年の3月半ばで、彼らがセント・ジョンズ・ウッドのポールの家で「WITH A LITTLE HELP FROM MY FRIENDS」の作詞をしているときだった。ジョンはポールに忘れないように書き留めておいたほうがいいと勧めたが、それ以上の話し合いはなかった。ジョン「これもいい詞だ。彼には完璧な歌を書く能力があるってことさ」
2007年10月20日
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1963年の10月17日ビートルズは5枚目のシングル盤の「抱きしめたい」I WANT TO HOLD YOUR HANDの録音をビートルズとしては初めて4トラックの機材を用いてアビー・ロードのスタジオで行ったそうです。ジョン「僕らはかなりの曲を共作した。1曲1曲、ぴったり向き合ってね。例えば、『I WANT TO HOLD YOUR HAND』がそうだ。あの曲のコード進行を考え出したときのことは、よく覚えている。僕らはジェーン・アッシャーの家にいて、地下室のピアノを二人いっぺんに弾いていた。まず”Oh,you-u-u got that something・・・・・”というのがあり、そこでポールがあのコードをたたいた。僕は振り向きざま『それだ!もういっぺんやってくれ!』。あのころは、本当にこんな調子で***お互い、鼻面を突き合わせて作曲していたんだ」詩人のアレン・ギンズバーグはニューヨークのナイトクラブでこの曲をはじめて聴いたとき、ある種の啓示を得た。ビートルズの音楽とその革新的なスタイルに、すっかり心を奪われた彼は、立ち上がると踊り始めたのだ***ギンズバーグはそれまで、一度も人前で踊ったことがなかった。この曲によって、ビートルズが黒人社会でも知られるようになったとき、シンガーのテディ・ペンダーグラスは中学生だった。ミュージシャンとして、ペンダーグラスはグループのトレードマーク***髪の毛と服装***以上のものを見て取り、彼らの音楽のオリジナリティを聞き取っていた。自身の音楽的進歩と、パフォーマーとしての成長を促したのはビートルズだったと彼は言ったそうです。B面も同じ日に録音された。SMAPSMAP『君を抱きしめたい(UGAカラオケ楽曲)』ジョン作曲の「THIS BOY」です。
2007年10月17日
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1965年の10月13日ビートルズはアビー・ロードのスタジオで「DRIVE MY CAR」の録音。ポールが書いていた歌詞をスタジオでジョンがこの歌詞はくだらないと言ったので二人で相談した。ポール「お尻の軽い女の子のことを歌った曲ってことは変わらなかったけど、おかげでメインの歌詞が少しよくなった」最後のヴァースでジョンとポールの歌う歌詞にちょっとした違いがあるそうです。ジョージ・マーティン「これは意図的にやったことじゃなくて、結果的にそうなってしまったんだ。みんな熱中してたし、そんなことには気づかなかったよ。全部終わってからわかったんだが、わざわざ彼らを呼び戻してそこだけ取り直すほどのものでもないと思ったのさ。人生は短いんだから!」ジョージ・ハリスン「・・・・・(ポールは)曲を書くと、自分のパートを全部覚えてスタジオにやってくる。そして(彼は時としてひどく気難しいやつだった)『これをやってくれ』と言う。こっちが何か質問する余裕なんて決してくれやしなかった。[DRIVE MY CAR]では、僕は単純にリフを弾くだけだったけど。知ってるかい、オーティス・レディングの[RESPECT]、あれの一節みたいに、ダーン、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダン、ってギターでリフを弾いたんだ。するとポールが僕のに合わせてベースを弾いた。そんな風にしてレコーディングしていって、その後でリード・ギターのパートを一緒にかぶせたのさ」オーティス・レディング/ザ・ベリー・ベスト・オブ・オーティス・レディング(完全生
2007年10月13日
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1965年の10月12日ビートルズはアビー・ロードのスタジオで「NORWEGIAN WOOD(THIS BIRD HAS FLOWN)の録音。21日にリメイクされたそうです。ジョン「(これを書いたのは)僕さ。でも歌詞はポールに手伝ってもらった。・・・・・付き合ってた女とのことなんだ。でも相手が誰だったかちゃんと思い出せない」ジョンの伝記を書いたレイ・コールマンに拠れば、この女性は『有名なジャーナリスト』だった。歌詞は詩としても芸術性を認められ、古典的なイギリスの詩を集めたアンソロジーにも収められている。ビートルズの曲でシタールが使われたのはこの曲が初めてで、ポップ・ミュージックの録音に使われたのも最初だった。ジョージ・ハリスンはそれを西洋の音階に合わせてチューニングした。(シタールは『HELP!』のアメリカ・ヴァージョンに収録されたタイトル曲の導入部にも使われていたそうです。)ボブ・ディランはこの曲のパロディーをレコード化している。『BLONDE ON BLONDE』に収録されている(4th TIME AROUND)だ。ジョンはこれを知って不信感を抱き、ロンドンでディランがこの曲を目の前で演奏したときには、いたたまれない様子だった。しかし後に、ディランには何の悪意もなかったことを知ったそうです。
2007年10月12日
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ジョン・レノンは誰よりも自由を愛し、自由の国アメリカで暮らしたけれど・・・・・。1975年の10月9日、ジョンとヨーコの間に、二人の初めての子供、ショーン・オノ・レノンが誕生する。ヨーコが身籠ったことを知ると、ひどく狂喜し、朝晩ろうそくをともして、無事に生まれるようにと神に祈り続けたというジョンは、ショーンの誕生と同時に一切の芸術活動、音楽活動をやめてしまうが、その理由を尋ねられたジョンは、『子供以上にすばらしい創造物があると思うかい?』と問い返したそうです。ジョン「僕の気分はエンパイア・ステイト・ビルと同じくらいの高さだ。」オンデンさんのブログに書いてありましたがジョンがそういう感じに見えるのは彼の決して幸せではない子供時代や本人が内気だと言ったことから推測して・・・・・、それに加えジョンの目的は世界一になること。そしてマネージメントや周りの異常とも思える熱狂。(自由を愛するジョンには耐え難いときが多々あったと思う。日本でいえばピンク・レディか。とにかく働いていた期間があった。だからこそ「ヘルプ」という名曲も生まれたのかもしれませんけれど。デビューして数年で目的を達成していたと思う。ジョンは他の誰よりも早くビートルズを辞めたがっていたのではないか)
2007年10月09日
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僕はyuiという歌手のことは知らなかったんですがAブログの女性に教わりました。プロフィールの画像を本人だと思っていたらそれがyuiだったんです。音楽番組のヘイ!ヘイ!ヘイ!を見ていたら「LOVE&TRUTH」が1位だったみたいです。
2007年10月08日
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43年前のきょうビートルズは「EIGHT DAYS A WEEK」の録音をアビー・ロードのスタジオで行った。アウトロの編集部分は1964年の10月18日に録音されたそうです。ジョン「作曲は二人でやった。映画『四人はアイドル』の主題歌を作ろうとしていたときに書いたんだ。そのころ、映画のタイトルは『EIGHT ARMS TO HOLD YOU』になっていたから・・・・・」映画用にシングルを書く気でいたのは、もっぱらポールのほうだった。ジョン「運良くそれが、バンバンって調子で書いた僕の『HELP!』になったわけさ」題名はリンゴの発言に由来する。ポール「リンゴは、まるで働きすぎのお抱え運転手みたいな口ぶりで言ったよ。”EIGHT DAYS A WEEK”(1週間に8日)ってね。これを聞いて僕らは言ったんだ。『何だって?それだ!それに決めよう』って」
2007年10月06日
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45年前のきょうビートルズはパーロフォン・レーベルから「LOVE ME DO」でデビュー。ポールが1958年のとある日に学校をさぼってジョンとこの曲を書き上げたそうです。ジョン「この曲の大部分はポールが書いた。16のときか、もっと若かったかもしれない。僕もミドルの部分を手伝ったんじゃないかな」B面はジョンが少し手伝いポールが大部分を書いた「P.S.I LOVE YOU」。ヒットチャート最高17位まで上がったそうです。ジョージ・マーティン「わたしは最後になって『LOVE ME DO』を最高の作品として選んだ。この曲に魅力を与えたのはジョンのハーモニカだ。」ジョージ「ラジオで初めて『LOVE ME DO』を聞いたとき、全身が震えだした。リード・ギターのところを少し聞いたけれど、自分でも信じられなかった。しかし、僕たちの人生でもっとも重大だったのは、これで今週のベスト20にのしあがったことだった。」
2007年10月05日
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もう大分前のことなのでよく覚えていないけどその湯飲み茶碗を買ったのはボタンの花が庭にたくさんあったお寺だったような気がする。そこの住職さんがたいへんありがたい話しをしてくださり、水を打ったようになった。生きたいのに生きられなかった人たちの話だったようだ。パソコンに接続するだけですぐに使え、左右どちらの手にもフィットする光学式 3 ボタン マウス...
2007年10月04日
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今なぜか昔社内旅行へ行ったときのことを思い出した。どうしてそれを思い出したかというと少し前に母親が墓参りに行ったときに湯飲み茶碗を割ったらしく代わりになるものを探していたので自分が土産に買って来ていたものを使われたらいけないと思い見ていたらその湯飲み茶碗を取り出した。なにぶん前のことなので母はすっかり忘れていた。(続く)
2007年10月03日
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1973年の10月ジョンはヨーコのもとを離れ、単身でロサンジェルスに向かう。アスコットの自邸をリンゴ・スターに貸したのもこのころだったそうです。ヨーコは前にこういっています。「ジョンを追い出した理由はいろいろあった。わたしは自分で”どんどん進んでいくタイプ”だと思ってるの。人との交わりに対処するより、どんどん先へ進んでいくというのがわたしのこれまでの行き方だった。一人の女として生き残れたほんのわずかな人間の中にわたしが入っているのは、これが理由なのよ。・・・・・それにジョンと一緒に暮らしていることで、一般の人たちから圧力がかかり、ずいぶんと傷ついたの。ビートルズをばらばらにし、もう一度もとへ戻るのを不可能にした張本人のわたしへの圧力よ。わたしの作品にも悪い影響があったわ。だから、レノン夫人であることから自由になりたいと思ったの。ジョンがロスへ行き、わたしを一人にしてくれるのはいいことだと思ったわ。」
2007年10月02日
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10月1日は39年前[THE BEATLES]の「HONEY PIE」の録音がトライデント・スタジオであった。作曲はポール。オーヴァーダビングが2、4日に行われたそうです。バックの15人のセッション・ミュージシャンによる管楽器のアレンジはジョージ・マーティンがスコアを書いたそうです。ジョージ・ハリスン「『HONEY PIE』ではジョンがすばらしいソロをやった・・・・・ジャンゴ・ラインハルトかなんかのような。目を閉じたままで、ぴったりの音を次々に弾くというね***ちょっとしたジャズのソロを聴いているようだった」ジョン(『HONEY PIE』について聞かれて)「(笑)あの曲のことなんて考えたくもないね」
2007年10月01日
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