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「あ~、湧いたな~… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2006.01.28
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カテゴリ: カテゴリ未分類
昨日の話を簡単に言ってしまうと、“親になった時に幸せな子どもたちを育てることが出来る、幸せな子どもたちを育てること”が、私にとっての反戦活動だということです。

ちなみに、お母さん達に“どういうお子さんに育てたいですか”と聞くと、“優しい子”とか“賢い子”などと答えが返ってきますが、私はちょっとそれだけでは不充分な気がしています。

“優しい子を育てることが出来る優しい子”とか、“賢い子を育てることが出来る賢い子”という風に、その子どもたちが親になった時のことまで考えないことにはその願いも、一代限りで終わってしまうからです。

特に、平和と言うことを考える時にはそのような考え方は非常に重要です。平和を愛する人が子どもたちに平和の大切さを伝えられるとは限らないからです。
戦争の悲惨さを知っている人は平和を望むでしょう。でも、戦争の悲惨さを知らない子どもに自分と同じ体験を通して平和の大切さを伝えることは出来ません。
その場合は、自分が平和の大切さに気付いたのとは全く違う体験、学びが子どもたちに必要になるのです。

私は、そのような子どもたちを育てるためには
・自分の頭で考え、自分の肌で感じ、自分の意志と責任で行動することができる能力
・言葉だけでなく様々なレベルでの他者とのコミニケーション能力

などというようなことが必要なのではないかと考えています。
そして、私はそのような能力を持った人を“自由な人間”と呼んでいます。

そして、自由な人間は自由な子どもを育てることが出来ます。それは日本語を話す親は、日本語を話すことが出来る子どもを育てることが出来るのと同じ仕組みです。
能力というものはその能力を持った人との関わりを通して伝達されるのです。

悲惨さの体験を通して得た、平和のありがたさは一代しか続かないのです。それが今の日本の状態です。
“単に戦争は嫌だ”という感情論から平和の大切さを説くのではなく、“平和を創造し、その平和を何百年、何千年と継続させるためには何が必要なのか”というもっと本質的な議論が私達には必要なのではないでしょうか。

それと、多くの日本人が勘違いしていることがあります。
それは、“日本は戦争がないから平和だ”と思っていることです。
子どもたちは毎日塾に追われ、受験戦争に苦しんでいます。そして集団自殺する若者、社会に出たくない、家から出たくない若者がどんどん増えている日本のどこが平和なんですか、どこに平和があるんですか。

赤ちゃんの笑顔を見ていると、“ここに平和がある”と思います。子ども達が大勢で走り回り、仲間達と無心に遊んでいる姿を見る時“ここに平和がある”と思います。
でも、日本ではせいぜい、幼稚園までの子どもの中にしか平和を見つけることが出来ません。

思春期の子どもたちの平和はどこにありますか。
大人の平和はどこにありますか。
町の中で平和そうに遊んでいる子どもたちがいない日本という国は、本当に平和な国なんですか。

私は、大人も子どももみんなが笑顔で生き生きと暮らすことが出来る社会が平和な社会だと思っているのですが、違っていますか。

不満を抱えた人たちが戦争を欲しがるのです。

そして、今の日本には不満を抱えた人がいっぱいいます。
どうして、子どもたちはこんなにも不満を抱えているのですか。
心当たりはありませんか。


私達は戦争で毎日人が死んでいるニュースを見て、“日本は幸せだね”と言います。
私は、インドで路上にあふれるほどの路上生活者を見てきました。彼らは路上で生まれ、路上で生活し、路上で死んでいきます。
ある時、私の目の前で一人の老人が倒れました。あの様子ではそのまま死んでしまったでしょう。周囲には大勢の人がいました。でも、誰も大騒ぎはしません。長くその場にいなかったのでその後のことは分かりませんがインドはそういう国でした。
親によってカタワにされた子どもの乞食達が群がってきます。ある時は、雑踏の中で両手、両足を切断されて路上に転がっている乞食を見ました。
お腹の上に空き缶が乗っていました。
誰かが世話をしているのでしょう。(カタワの方が乞食として収入がいいので、子どもが産まれた時自分の子どもの腕を折ったり、切ったりしてカタワにするのです。)

そんな悲惨な生活の中でも子どもたちの目はキラキラしていて、生き生きしていました。私はそういう子どもたちと関わるのが好きでした。
ちなみに私は、乞食のような格好をして歩いていたので、乞食もあんまりしつこく寄ってきませんでした。

でも、そんな子どもたちの中にあってドンヨリした目の子どもたちもいました。それは“靴”を履いている子どもたち、つまり上流の子どもたちです。
そして、その子どもたちは日本の子どもを想い出させました。


それと、私は主義主張で人を分類しません。
右翼か左翼か、戦争反対者か、戦争賛成者か、有名な人か、無名な人かなどということも関係ありません。

私は、単純にその人が自由か、自由でないかで人を分けます。
そして、その人が自由か、自由でないかは“他の人の言葉に耳を傾けているか”、“自分の意見を相手に理解できるように言えるか”、“自分の責任で行動できるか”というポイントで判断しています。

たとえ、戦争反対を叫び、人権運動に熱心な人でも人の言葉に耳を傾けない、対話をしようとしない人の言葉は信じません。
その人が大臣でも、偉い学者でも、宗教家でも同じです。
(洗脳されている人もこれらができません。なぜか、先生達もできません。)

逆に、戦争が必要、体罰が必要という意見の人でも、人の言葉に耳を傾け、きちんと対話に答えてくれる人の話には耳を傾けます。
その人がホームレスでも、犯罪者でもです。

人の話を聞くことが出来る人、相手に分かるように自分を表現できる人の心は開かれています。ですから、そういう人はなかなか洗脳されません。また、付和雷同的に動きません。
ですから、そういう人の言葉には何らかの真実があるのです。

でも、自分のことばっかり考えている人、つまり心が閉じている人はすぐに洗脳されます。そして、そのような人は戦争反対を唱えながら、実際には平和を壊すようなことばかりやります。
知ってますか、人を洗脳するのはとっても簡単なんですよ。

(どうも私はホームレスの人に好かれるようで、時々話しかけられます。仲間の雰囲気を感じるのでしょう。若い頃博多でホームレスのおばちゃんから、“あんたは将来偉くなるよ”と予言されたのですが・・・・)

***********************

どうも、一体何が言いたいのか分かりにくいですね。
でも、言いたいことはすごく簡単です。
子どもたちが、みんな目の前の人ときちんと対話が出来て、目の前の人の苦しみに手をさしのべることが出来るようになれば、その子どもたちが大人になる頃には戦争反対などと騒がなくても、戦争は起きないのではないか、ということに過ぎません。

逆に、いくら戦争反対を叫んでも、自分の子どもを目の前の人ときちんと対話が出来て、目の前の人の苦しみに手をさしのべることが出来るように育てることが出来なければ戦争の危険は高くなるでしょう。

そのためには親子の間の平和から始める必要があるでしょうね。
家庭の中から世界平和が始まると言うことです。


「ホテル・ルワンダ」 という映画を知っていますか。

この映画の主人公ポールのような人を私は“自由な人間”と呼んでいます。





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Last updated  2006.01.28 22:35:45
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