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う~~ん・・・ジョニー・デップの出番が少ない・・・気がする。出番が少ない代わりに、やたらとたくさん画面に登場するシーンがあって、それは『シークレット・ウィンドウ』みたいで楽しいっちゃ楽しいのですけど。1作目と2作目で素敵なおっちゃんぶりを発揮していたジョナサン・プライスの出番が、少ないのも不満。そのせいか、私の視線はひたすらバルボッサ船長、つまりジェフリー・ラッシュ他、おじさん海賊集団に釘付けでした(笑)若い男女はどうでもよろしい!このシリーズの魅力は、いい歳したおじさんたちが、マジメな顔して海賊ごっこをしているところにあるのです。汚くて、騒々しくて乱暴でちょっぴりノータリン、つまり、みんなガキのまんま。でもこれって、男の夢なのかな~。何もかもハチャメチャで生きてみたいっていうのは、ひとつのロマン?まあ、そこが男性の可愛いところですけどね。そのせいか、このシリーズに出てくるおじさんたちは、みんなチャーミングです。久々に見たチュウ・ユンファも、いつになく可愛い(笑)その可愛いおじさんばかりの中で、唯一(本当)、カッコよい男を演じているのが、キース・リチャーズ!!!!ほんっとに、かっこ良いです。ミック・ジャガーが顔が怖すぎて、私、苦手なんですが(音楽の問題じゃないんかい!という突っ込みはなしよ)、キース・リチャーズはビジュアル的にも実は全然オッケー(笑)それが海賊ファッションに身を包んで、ギターもちょっぴり爪弾いてくれちゃって、大サービス。登場人物中、唯一(本当だってば)の大人の男、でした。それにつけても、ジョニー・デップって、本当に背筋伸びてない役が一番素敵に見えるのはなぜなのでしょう。軟体動物のように、くねくね歩いてる方がかっこいい。さっき、日曜洋画劇場で『デスペラード』やってましたが、ラストの目が見えなくなってからが実にいいです。そうだ、『デスペラード』でどうして目がないのに、美形だなあって思えたのか、『ワールド・エンド』をみて判りました。ジョニー・デップ、鼻の形がめちゃめちゃきれいです。この映画、鼻の度アップありますから、是非チェックしてください(笑)
June 10, 2007
『スモーキン・エース』で行き場を失った私のストレスを、どっかんと晴らしてくれたのがこの映画です。もともと銃撃戦より生身のぶつかり合いの方が好みの私です。この映画、ストライクど真ん中でした。毎日通る西鉄天神駅に、これでもかっていうほど、宣伝がぶら下がってて気になって気になって。ろくすっぽよく中身も知らないで、観にいきました。古今東西歴史好きの私ですが、さすがにギリシア史は全部は網羅してませんので、教科書プラスアルファ程度の知識です。それでも一応、ギリシアとペルシアが3度にわたって闘ったことは知っています。この映画(というか原作)の元となったテルモピレーの戦いより、教科書的メインは、その直後のサラミスの海戦(このときの主力はスパルタではなくアテネ)です。なので、このスパルタの300人が戦った話は、よく知らないのです。知らないのですが、それでも、この映画を「テルモピレーの戦い」の映画化と思ったらまずい、ということはよ~く判ります。これは、あくまでもフランク・ミラーのコミック「300」の映画化なのです。ということを頭に叩き込んでおくと、いろいろ突っ込みたいことを忘れて楽しめます。だって、重装歩兵であったはずのスパルタ兵士が・・・半裸だし(笑)「俺たちの職業は戦士だー!」って、そりゃ、スパルタには山のように奴隷がいて、農業工業などなど、産業のほとんどは奴隷が担ってたから、スパルタ人は職業軍人でありえた、とかさ(笑)知ってる上で、映画の中の格好良い台詞を堪能するのは、なかなか笑えます。まあ歴史はともかく。原作があるわけですから、まったくなんの関係もありませんが、物語といい映像といい、意外にも骨太な演技力のある役者陣といい、『ラスト・サムライ』と『グラディエーター』と『シン・シティ』(そりゃそうだ、同じフランク・ミュラーだし)と、ちょっぴりの『HERO』を、足して割って、小数点以下を四捨五入したような映画です。ポイントは四捨五入するところですね(笑)実にシンプルな仕上がりが、娯楽映画として一級品です。フランク・ミュラーのコミックが原作ですから、ここでコミックの話ができればいいのですが、私、読んだことがありません。ですので、全然関係ない明後日の方角にある小説を連想していて、妙に楽しかったです。だって、古代のペルシアが出てくるんですよ・・・田中芳樹の『アルスラーン戦記』の世界じゃありませんか~~!不死隊(アタナトイ)に戦象部隊に騎馬隊・・・ううむ、あの可愛いアルスラーン殿下も、あんな趣味の悪い格好したのだろうか。ナルサスとダリューンがいたら、この戦争、勝ってるよな~・・・なんて。知らない人には何の感慨もないですね、はい、すみません。それにしても、オタクな映画はオタクな人間に監督させるべし、という私の持論がここでも立証されて、私、非常にご満悦です。ザック・スナイダー監督は、『ドーン・オブ・ザ・デッド』でもこの映画でも、オタクが必ず押さえて欲しいツボを、しっかり外さずにいてくれます。肉弾戦も音楽も映像も!ああっ、あの腕や足や首を切りとばし方、あのマントの翻り方、血の吹き出る様も・・・ううむ、カッコよい!戦士たちがぶつかり合う寸前でスローモーションに、そこで一拍遅れて、おも~いギター音がと入る。スピードが上がってカッコよく血が飛びマントが翻ったところで、再びスローに・・・ここで一気に最大音量でギターが!!!ひいい~~!たまりません!・・・が!こなにカッコよいのに、映画館では隣の席に座っていた女性が、戦闘シーンの大半で顔を背けてました。いや、夜だったためか、やたらとカップルが多かったのですが、女性陣、結構みなさん顔背けてました(後ろの席に座っていたので、よく見えた)。なんで観に来たんだろ、この人たち・・・。とおもいつつ、私は握りこぶしで観てましたが。やっぱりね、こういうバイオレントな映画は必要よ、うん。
June 10, 2007
暴力犯罪が起こる度、暴力を扱った映画の影響が問題視されますが、この手の事件、所詮は起こした人間の心の問題であって、映画自体にはさしたる罪はない、というのは、贔屓目でしょうか。いや、だって、もし映画のせいなら、私は今頃軽く100人くらい殺してるし(笑)私にとって、暴力映画がおよぼす影響は、むしろ逆。この世に暴力映画がなかったら、一体全体、私のストレスはどこでどう解消されるのか・・・とっくに上司をぶん殴ってると思います(笑)で、この映画も予告編で一目ぼれし、この映画なら私のストレスを撃ちはたしてくれるだろう、と思ったのですが。なんと、まじめな映画でした・・・ざんね・・・あ、いやその、驚きました。この映画、タランティーノ作品と比べられてるそうですが、似てるかなあ~。ジョー・カーナハン監督自身は、しいていえば『ジャッキー・ブラウン』に似てるかな、と言ってましたが、観終わった時の感覚は『レザボア・ドッグス』に似てます。この映画をマジメにしているのは、ライアン・レイノルズ演じる若手刑事の存在です。この人と、なぜか(おいおい)レイ・リオッタ演じる刑事の2人だけが、この手の映画にしては珍しく、まともな人たちなんですね。暴力沙汰と権謀術数と我欲オンリーの世界に、普通の感覚の人たちがいるものだから、映画が進むにしたがって、彼らは耐えられなくなっていく。だから、暴力の連鎖は、哀しみしか生まない、という、至極まっとうな結末を迎えるのです。いい映画です。・・・でも、このフラストレーションはやり場がないやんけ!
June 10, 2007
父と早明戦(むかつく!一発で「そうめいせん」が変換できん!)、もっとも、春のオープン戦ですが、観てまいりました。早稲田大卒の父の影響で、私も20年来のラグビー好きですが、所詮私はミーハーなため、試合の見方も選手を見る目も素人のままで、とても通の方には及びません。ですが、今日の試合は、早稲田よ、一言言いたい。なんだ、あのミスの多さは!なんだ、あの単調なゲーム展開は!あげくになんて球出しが遅いんだ!お前ら、体育館の裏に呼び出しじゃ!!!!(激怒)今年の早稲田には頭脳がいない中竹監督も悩みは深かろう・・・年、近いから、なんだか他人事ではなくてねぇ・・・
June 3, 2007
先週は家族行事、先々週は体調不良、やっと三週間ぶりのブログです。体調不良といっても、昏々と眠ってただけなのですが(笑)このところ、疲れとストレスを睡眠で解消する癖がついたようです。てなわけで、いまさら『バベル』(笑)菊池凛子のアカデミー賞ノミネートのせいで、日本編ばかりがクローズアップされていますが、個人的にはモロッコ人兄弟のエピソードがもっとも心に残りました。「一発の銃弾が世界をつなぎあわせてゆく」というようなかっこいい宣伝文句のこの映画、身もふたもない言い方をすれば、モロッコ人兄弟の、ささいな兄弟喧嘩が原因で話が動き出すのです。だからなのでしょうか、映画の中で、彼らだけが悲劇に向かって突き進んでいくのは。アメリカ人夫婦・メキシコ人の子守・日本人親子。わかりあえないもどかしさを抱えているのは皆同じで、哀しみやむなしさは残りつつ、それでもどこか救いと温かみを感じる終わりを迎えているのに対し、この兄弟にだけは何の救いもありません。最後に彼らを見つめる刑事の、やりきれない表情は、きっと私たち観客と同じ思いから出ているのでしょう。イニャリトゥ監督は、この映画を愛や希望を感じさせる終わり方にしたかったのかもしれません。どうあがいても、救うことのできないこの兄弟のエピソードは、映画の冒頭を飾ったにもかかわらず、エンディングは日本人親子のエピソードに譲られています。皮肉な言い方をすれば、モロッコで兄弟が散ることで、日本で一つの親子が絆を取り戻す、そんな見方もできます。この映画をみて、お互いをわかりあおう、思いをきちんと伝えよう、つながろう、と、思うのは簡単なこと。絆、愛、思いやり、優しさ。それらだけが、混乱しずたずたに引き裂かれた私たちをまとめる手段だと私も思う。でも、私はキリスト者でも仏教者でもない。愛が地球を救うといったって、それが簡単に出来ていれば、人間はとっくの昔にエデンの園や極楽浄土をこの世に作っている、と思う。だけど、14歳のころから池波正太郎をバイブルに人生考えてきた私は、そんなのはただの理想論だと突き放す気も毛頭ない。私の大好きな、池波作品からの言葉を二つ。なぜか映画を観ている途中で、ふっと頭に浮かんだのです。『鬼平犯科帳 十四』「浮世の顔」の中の、長谷川平蔵の台詞(中略しながらですが)「人が何かをしでかすことは、必ず、何らかの結果を招くことなのだ。当たり前のことだがね」「その当たり前のことを、人という生きものは、なかなかに、のみこめぬものなのさ」「のみこめていりゃあ、人の世の苦労もねえわけだが・・・・・・」「そのかわり、つまらねえ世の中になってしまうだろうよ」『剣客商売 隠れ蓑』「徳どん、逃げろ」の中の、秋山小兵衛の台詞(こちらも中略)「弥七。人の世の中は、みんな、勘ちがいで成り立っているものなのじゃよ」「お前ほどの御用聞きが、そのことに気づかぬのはいけないよ。いいかえ弥七。それほどに、人が人のこころを読むことはむずかしいのじゃ。ましてや、この天地の摂理(うごき)を見きわめることなぞ、なまなかの人間にはできぬことよ。なれど、できぬながらも、人とはそうしたものじゃと、いつも、わがこころをつつしんでいるだけでも、世の中はましになるものさ」人と人が、そして世界が、理想郷にたどり着くことはおそらく、ない。だから世界は面白い、でも、少しは「ましに」できる。相手にうまく気持ちが伝えきれなかったとき、相手の気持ちをくんであげられなかったとき、私はいつもそう思うことにしている。「どうしてわかってくれないの!?」という台詞を、私は、個人的な人間関係において、自分に禁じている。わかりあえるはずもない。だからこそ必死に伝える方法を探す、そのために心をくだく。わかりあうことではなく、心をくだきあうことが愛なのではないだろうかと、最近思う。相手に理解を求めることほど、人を孤独にするものもない。残念ながら、いまだに仕事ではその境地に至ってませんが・・・。いい加減わかれよ、仕事の進め方くらい(笑)ああっ、だから世界が救われないのか!?
June 2, 2007
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