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『アバター』で楽園のような光景を見、『狼の死刑宣告』で愛するものを奪われた男の堕ちる姿に考えさせられ、『Dr.パルナサスの鏡』で世界一の夢づくり男の想像力を見せ付けられた後で、この映画を観ては、いかん(笑)。これら3つのどれも観る前だったら、もっと14歳の少女に共感できたかもしれない。でも、ピーター・ジャクソンの挑戦には敬意を表するが、あの中間の場所の表現はギリアムに劣る。物語は殺人事件の結末よりも、家族の再生と少女の成長に焦点が当てられているのだが、家族を失った地獄を『狼~』で見せ付けられたあとでは、マーク・ウォルバーグ演じる父親が、復讐に走らなくてよかったね、という感想になるしかない。まったく、復讐を遂げるか遂げられないか、という分岐点は、その後の家族のありようを変えてしまうのだ。くしくもこんなところで、『狼の死刑宣告』で感じたことを再確認することになるとは思わなかった。物語はね、別に奇麗事で進んでいるわけではない。特に、家族を襲った不幸に耐えかね、家を出て行く母親の心境は深い。一度ばらばらになるしか、この家族はひとつになることができなかったのだ。役者の演技は、どれもすばらしかった。が、しかし。多分、ピーター・ジャクソンには不向きだったんだろう。いやその、『アバター』と『狼の死刑宣告』と『Dr.パルナサス』・・・とくにギリアムを観たあとでは、ウリである死後の世界もかすんで見える。タイミングの不幸としか言いようもない。ごめんね、ピーター!
January 31, 2010
まずは・・・完成しておめでとう、テリー・ギリアム。どーしてもすんなり映画を撮ることができない運命にあるギリアム。それでも諦めないあなたが大好きだ。なんだか、ギリアムのいろんな映画を一緒くたにしたような映画だ。自伝的作品とのことだが、その視点でこの映画を思い返すと、人の生涯ではなくて、ギリアムの作品づくりの苦労が映画になっていたように思える。大受けしたり大コケしたり(『バロン』か!?)あれこれ障害がおきたり・・・うまくいっているのかいかないのか、ナゾのギリアムの作品群。しかしそのすべてに共通するのは、夢のような世界感だ。これほどはっきりと、ギリアムが「これは夢だ」と宣言した作品は初めてじゃないだろうか。彼が今までつむいできた夢のような世界。主人公パルナサスが紡ぐ、夢の世界。パルナサスも悪魔のニックもどちらも映画監督である。どちらの夢=映画が見るものを魅了するのか・・・ここで繰り広げられる戦いは、現実の映画界のよう。欲望・セックス・暴力・お涙頂戴・・・それがニックの「夢」なら、それを超える見たこともない世界をパルナサスは紡ごうとする。そこには映画という表現方法への愛情も感じる、というのは言いすぎだろうか。毎度のことだが、ギリアムの世界は、解釈しようとするのは少し難しい。私にできるのはギリアムの映像世界に浸ることだけだ。夢にすらみることのできない、夢のような世界を。細かいところまで行き届く、ギリアムの世界。今回もまた、途中で資金がつきかけて大変だったらしいけど(笑)この人はどこまでも夢のような物語を紡ぎ続けていくのだろう。現代の吟遊詩人のような、映画監督。もう一回みようかな。夢を見たいと思ったとき、ギリアムはちゃんと、夢よりすごい世界を見せてくれる。
January 31, 2010
「こちら」から「あちら」へ行ってしまう男の話である。普通のサラリーマンである主人公ニックは、ある日長男をチンピラどもの手で殺されてしまう。裁判では犯人に極刑を与えることができないと知ったニックは、自らの手で復讐することを決意するが・・・。というのが、あらすじだ。なつかしのチャールズ・ブロンソン(大好き)系の復讐劇というかヴィジランテ物なのだが、昔のものと明確に違うのが、「こちら」から「あちら」へという、劇的なまでの主人公の変貌ではないだろうか。ニックの最初の復讐は、単なる衝動的なものだ。有罪にしたところでたった数年の刑にしかならないと知り、瞬間沸騰で「ならば俺が」と思い込む。思い込むが、銃もナイフも持ったことがないフツーの男ならば、「復讐」という妄想を頭にめぐらし、相手を殺す瞬間を思い巡らし、でも、結局実行できないのがほとんどだろう。ところが、タイミングが彼の復讐を可能にしてしまう。タイミングだ、偶然だ、めぐり合わせだ。息子が殺されたのも、偶然あの場に居合わせたというだけ。その犯人をニックが殺したのも、偶然のなせるわざ。偶然の重なりが、ニックを二度と引き返せない道に誘い込んでいく。復讐が復讐を呼び・・・その展開は確かにおなじみのものだ。それでもこの映画が際立つのは、復讐によって変わっていく主人公を丁寧に描写していること。最初に復讐を果たした後の、シャワーシーン。復讐のカタルシスはどこにもなく、あるのは深い後悔だけ。だが怒りと衝動が後悔に変わっても、今度はギャングたちが復讐に燃えて襲い掛かってくる。その復讐心はこちらから見れば理不尽なものだが、根本はニックと同じ心境だ。終わらない復讐の連鎖に、今度はニックは恐怖する。そして、恐怖が絶望に変わったとき、ニックは最後の変貌を遂げる。つまりそれが、「こちら」から「あちら」にだ。父親から復讐者の顔に変わる瞬間、劇的にケビン・ベーコンの演技のベクトルが変わったのを見せ付けられる。何かをそこに置いていった。われわれと共通して持っていたはずの何かを。ワン監督は、ケビン・ベーコンの演技に、さらに風貌の変化を付け加える。高級スーツから、革ジャンに、ナチュラルな髪型からスキンヘッドに。その変化は、決して彼が「あちら」に行こうとしたわけではなく、息子の遺品を身にまとい、頭におった傷のために半端に剃った頭を、完全に刈り上げただけだ。理由は、ある。あるがしかし。そうして現れたのは、ギャングたちと寸分たがわぬ姿だと、当のギャングに指摘される。このシーン、ともにベンチに座ったニックとギャングは、うり二つだ。ワン監督はとにかく目で見せたかったのだと思う。普通の男が道を外れていくサマを。いくつかの偶然と、その偶然の前にニックがとった選択が、いったい彼をどこに連れて行ったのか、監督はすべてケビン・ベーコンの姿で見せた。一時期、この映画のように表裏のある役をやたらと演じていた印象があるが、やはり似合う。ぜひともまたこんな振り幅の大きい役を演じてほしいなあ。余談だが、この人、私と同じ誕生日である。光栄なようなそうでもないような・・・手放しで喜べないあたりはやはりこういう役柄がハマってしまう人だからか・・・。優しくとも酷薄とも取れる奇妙な顔のケビン・ベーコンは、ニック役にぴったりだ。復讐を終えたニックは自宅に戻る。しかし、ビデオの中で家族と笑顔を見せる彼と、復讐を終えて自宅のソファに座るかれはもはや同じ人間ではない。一頭の野獣が、屠る獲物を失い、途方にくれているだけだ。家庭的なリビングにいるギャングのような男、カメラは正面からその姿を撮る。容赦なく撮る。異様な光景に、私たちは悲しみともなんともつかない感情に襲われる。家に帰ってきたはずなのに、もはやそこは、彼には似つかわしくない場所となっていた。復讐は終わることがない、というのは映画で良く聞く言葉だが、本当の復讐とは、帰る場所を決定的に失うということではないだろうか。
January 30, 2010
『マッハ弐』だなんて、トニー・ジャー主演だからいい加減な邦題つけたんだろう、と思っていたら、原題も『オンバク2』となっていた。驚くなかれ、『マッハ』シリーズとは、三島由紀夫の「豊饒の海」並みの壮大な魂の物語なのである!本当だ!ふざけて言ってるんじゃないんだ!本当なんだよ~~!お気楽に観に行くと足元すくわれる映画でございます。前作、復習してからいくとなお良しです。99%は前作と何のかかわりもなく進んでいきますが、衝撃かつ不可解なエンディングに引っかかりを覚え、仏像つながりで途中の不可解なシーンを思い出し、なんとなく前作と関係しているような気がしつつパンフでチェックしたところ・・・。ああっ!主人公の名前が前作とおんなじだ!お分かりでしょうか?親の敵をとるためとはいえ殺生ばりばり、いやそもそも敵をとろうとする考えそのものが、お釈迦様の教えに反している主人公ティンは、幾たびかの輪廻転生を経て、村のオンバクを取り戻す旅にでることで、前世のカルマを解消するわけだ・・・多分!きっと!そういう流れなんだ!さすが仏教国タイ。前作もそうなんだが、お釈迦様の教えが娯楽アクション映画の中にまで息づいている。ヴァチカンがアクション映画作ったら、こんな感じになるんだろうか?(←不謹慎)真面目でまっとうな宗教観に満ちた映画ですが、アクションは相変わらずアゴが外れる音が聞こえるくらいハデです。早回しなし!ということですが、おかげさまで動体視力のない私は大変です。特に縛標は、見えん!スローになってるカット以外、まったく見えない!そして前作同様・・・あたってるよ。絶対当たってるよ、あれ。また君たち、寸止めしてないだろう。人間ワザで可能な限界まで頑張っているトニー・ジャーとそのスタッフは、CG技術同様進化をしている。あらゆる武術を詰め込み、時代考証無視の忍者や居合いの達人まであらわれ無茶苦茶ですが、すごければいいのだ、アクションは。さっきまでテレビでやっていた『Mr&Mrsスミス』のアクションが、全部スローに見えてしまう。いいやなによりウソ臭い。本物の重みには勝てないのですな。あのね、だれか、作りませんか?本物の武闘派アクション俳優だけを集めた、アクション映画。ストーリーはなんでもいいからさ。ジャッキーと、ジェット・リーと、トニー・ジャーと、ドニー・イェンと、レイ・パークと、ヴァン・ダムと・・・。ダメ?ねえ、ダメ?きっと、皆、観に行くと思うんだけどあ。
January 17, 2010
拝啓、マイケル・ジャクソン様。35年余り生きてきて、あなたの音楽をほとんど知らずにいたこと、本当にごめんなさい。2010年1月1日、骨の髄まで音楽ファンの姉たちに連れられなければ、おそらく観ることはなかった映画である。なぜかといえば、私は過去、音楽ファンであったことは一度もないし、それでも聞いてきた音楽はボン・ジョヴィを筆頭にハードロックやバンド物が多く、マイケル・ジャクソンは完全にスルーしていたからだ。なんせ、アルバムを聞いたことがない。PVは「スリラー」しか見たことがない。映画に登場した曲のうち、知っていたのは5曲だけだ。私にとって「マイケル・ジャクソン」とは、ただの一度もスターであったことがなかったのだ。そんな私が、心底感動した。なぜって、マイケルから音楽が聞こえてくるんだよ。普通はさ、音楽にあわせて唄い、踊るじゃないか。だけどマイケルは違うんだよ、マイケルに音楽がついていくんだよ、マイケルから音楽が聞こえてくるんだよ。ミュージシャンやダンサーたちは、その音楽を忠実に再現するためにある。だから奏でてるのは、マイケル自身だ。ダンサーたちとのパフォーマンス、別撮りの映像をからめた演出、女性歌手やギタリストとの競演とか、それぞれに感動はしたのだけど、私が一番感動したのは、最後の2曲。「ビリー・ジーン」と「マン・イン・ザ・ミラー」(ちなみに「マン~」は、この映画で初めて知った)。曲がどうとかじゃなくてね、この2曲はマイケルが舞台に一人だけでパフォーマンスするから。この映画、リハーサル映像をつないでいるので、カメラの視点は限定されているし、ライトも不十分だ。とりわけ、この2曲はそう。でも、なんの演出もないこの2曲が、ただ歌い踊るマイケルを映しているだけのこの曲が、マイケル=音楽だということをストレートに感じさせてくれた。それまでの感動がここで頂点に達して、不覚にも泣いた。キング・オブ・ポップと言うけれど、この人は天使と呼ぶ方があっている。とても純粋で、LOVEという言葉を使ってこれほど違和感のない人もいない。LOVE、地球を守ろう、そんな言葉がなんの邪念なく伝わってくる。そんなことは地上に生きる王様にはできない。天使か、神様、でも羽が生えてるように見えるから、やっぱり天使なんだろう。音楽の天使。その方が、きっと似合ってる。この映画、もうすぐDVDが発売される。DVDが出たら、きっともう劇場ではやらないだろうな、と思うこともあり・・・。本日、2度目の鑑賞。やっぱり、泣いた。今度は、もう生きているマイケルを観ることができないことに。もうひとつは、リアルタイムで彼を知ることができていたはずの世代なのに、彼を聞かずにいたことに。2010年、こころから思うことは、本物は、なんとしても、見ること、聞くこと。でないときっと後悔する。
January 9, 2010
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