第 1
次大戦にアメリカが参戦し、中西部コロラド州の青年ジョー・ボナム(ティモシー・ボトムズ)は、ヨーロッパの戦場へと出征していった。鼓膜を引き裂くような不快音をたてて落下してくる砲弾が炸裂し、大地がわれる。--
ジョーはいま、<姓名不詳重傷兵第 407
号>として、前線の手術室に横たわっている。延髄と性器だけが助かり、心臓は動いていた。
軍医長テイラリー(エドワード・フランツ)は「もう死者と同じように何も感じない、意識もない男を生かしておくのは、彼から我々が学ぶためだ」と説明した。こうして< 407
号>と呼ばれるようになったジョーは陸軍病院に運ばれた。
出征する前夜のことを、ジョーの意識はかけめぐる--
カリーン(キャシー・フィールズ)は小さくて可愛らしい娘だった。彼女の父親の許しがあって、ジョーとカリーンは残り少ない時間を寝室で過ごす。そして出征の朝。駅には愛国歌が流れ、ごったがえしていた。涙を流すカリーンを抱きしめ、ジョーは軍用列車に乗った。--ジョーはあの時、泥水のたまった穴の底で、砲弾にやられたのだ。
軍医長の命令で< 407
号>は人目につかない場所に移されることになり、倉庫に運び込まれた。かゆかった。腕のつけ根あたりがかゆい。ところが何もないのだ。両手も、両足もないらしい。切らないでくれと頼んだのに。こんな姿で生かしておく医者なんて人間じゃない。--
ジョーは少年時代を思い出していた。
父(ジェイソン・ロバーズ)は貧しかったが特別な釣竿を作るのが好きで、いつも手を動かしていた。そんな平和な家庭にも不幸な出来事が起こった。ジョーが働くようになって間もなく父が死んだのだ。母(マーシャ・ハント)は気丈に耐えていたが、幼い妹たちは床にうずくまっていた。--
顔をおおっているマスクを変える時、あらゆる神経を総動員してジョーはさぐってみた。舌がなかった。アゴがなかった。眼も、口も、鼻もなかった。額の下までえぐられているのだ。ある日、ジョーは何かが額にさわるのを感じた。そうだ、これは太陽だ。あのなつかしい暖かさ、そのにおい。ジョーは、野原で真っ裸で陽の光を浴びていたあの日のことを思いだした。--
ジョーは悪夢のような戦場での体験を思いおこしていた。その夜、塹壕の中で悪臭を放つドイツ兵の死体を埋めていた。その最中に、あの長い砲弾のうなりがのしかかり、強烈な白熱が眼前にとび散り、それきり暗黒の世界にしずみこんでしまった。--
< 407
号>は新しいベッドに移し変えられた。看護婦(ダイアン・ヴァーシ)も変わった。その看護婦はジョーのために涙を流し、小瓶に赤いバラを 1
輪、いけてくれた。やがて雪が降り、看護婦は< 407
号>の胸に指で文字を書き始めた。M・E・R・Y。メリー、…そうか、今日はクリスマスなのか…ぼくもいうよ看護婦さん。メリー・クリスマス!--
クリスマスの夜ジョーの勤め先のパン工場は熱気にあふれていた。皆はダンスを楽しんだ。父はジョーにいった。何もいえないなら電報をうて、モールスだ。頭を使うんだ。--
その日、< 407
号>が頭を枕にたたきつけているのを見た看護婦は軍医を呼んだ。数日して、テイラリーと神父が倉庫を訪れた。頭を枕にうちつける< 407
号>を見た将校は「SOSのモールス信号です。」といった。将校は< 407
号>の額にモールス信号を送った。「君は何を望むのか…」「外にでたい。人々にぼくを見せてくれ、できないなら殺してくれ」上官は愕然とした。そして一切の他言を禁じた。
それに対し神父がなじった。「こんな蛮行を信仰でかばいたくない。諸君の職業が彼を生んだのだ!」一同が去ったあと、 1
人残った看護婦は、殺してくれと訴えつづける< 407
号>の肺に空気を送り込む管を閉じた。しかし、戻ってきた上官がこれを止め、看護婦を追いだしてしまった。倉庫の窓は閉ざされ、黒いカーテンが全てをかくした。暗闇にジョーだけが残された。…ぼくはこれ以上このままでいたくない。SOS、助けてくれ、SOS…その声なき叫びはいつまでもひびいている。
(KINENOTE)
『 ジョニーは戦場へ行った
』(
Johnny Got His Gun
) は、
ダルトン・トランボ
が
1939
年
に発表した
反戦
小説である。
本作は
第二次世界大戦
勃発の 1939
年に発表されたが、反戦的な内容が「反政府文学」と判断され、戦争の激化した
1945
年
、ついに
絶版
(事実上の
発禁
処分)となる。戦後になって復刊されたものの、
朝鮮戦争
時には再び絶版とされ、休戦後に復刊されるなど、戦争のたびに絶版と復刊を繰り返す。
ベトナム戦争
最中の
1971
年
、トランボ自身の
脚本
・
監督
により映画化された。
カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ
、国際映画評論家連盟賞、国際エヴァンジェリ映画委員会賞を受賞。
112分
(ウィキ)
「独裁者」や「殺人狂時代」を作った チャップリン
は共産主義者ではなかったですが、戦争を批判したり平和を主張したことで、
右翼のやり玉に挙げられ最後は米国から追放されました。
チャップリンは共産主義者であることを否定し、代わりに自分を「平和主義者」と呼んだが [267]
[268]
[269]
、イデオロギーを抑圧する政府のやり方は
自由権
を侵害していて容認できないと主張した [270]
。チャップリンはこの問題について沈黙を拒否し、
共産党
員の裁判と
下院非米活動委員会
の活動に公然と抗議した [271]
。
チャップリンの活動はマスコミで広く報道され、
冷戦
の恐れが高まるにつれて、チャップリンがアメリカ市民権を取らなかったことにも疑問が投げかけられ、国外追放を求める声も上がった [236]
[270]
[272]
[273]
。
例えば、 1947
年 6
月に非米活動委員会の委員である ジョーン・E
・ランキン
( 英語版
)議員は、「チャップリンがハリウッドにいること自体が、アメリカの体制には有害なのです …
今すぐ彼を国外追放処分にして追放すべきであります」と発言した [270]
。
同年 9
月、チャップリンは非米活動委員会から召喚状を受け取ったが、証言するために出頭されることはなかった [244]
[274]
[275]
(チャップリンが放浪紳士の扮装で出廷する、と声明を出すと出頭は沙汰止みとなった [276]
)。
(ウィキ)
とにかく アカのレッテル
をはって、進歩的な人や自由主義者を片っ端から弾圧した時代ですから、
「ジョニーは戦場に行った」なんていう反戦小説を書いたトランボはかっこうの標的だったのでしょう。
この映画を劇場で観たころ、テレビの月曜ロードショーで「 黒い牡牛
」(1956年)が放送されて、
解説の荻昌弘がトランプがハリウッド追放中に偽名(ロバート・リッチ)で書いた脚本と述べていたのをよく覚えています。
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