監督のウィリアム・ワイラーは、トランボらハリウッド・テンを助けるべく、ハンフリー・ボガードなどと「 第一修正条項委員会
」を結成し抗議活動を行ったが、実らなかったことに落胆していた。
「ローマの休日」をオール・ロケし、セット撮影も、編集もイタリアのチネチッタ・スタジオで行ったのは、赤狩りの魔の手から逃れるためだった。
それは自分の右腕として長年働いてくれたレスター・ゴーニッグが、密告によりブラックリストに入り、ハリウッドを追放されたことで、彼を守る目的もあった。
このいつまでも眺めていたいほど愛おしい、オードリー・ヘプバーンの名作の裏に、硬派なワイラーがいたのだ。
アン王女もグレゴリー・ペックの新聞記者も、お互い嘘をついている。だが、二人ともお互いを裏切らなかった。 真実を誰にも明かさなかった
。
この映画が内包している本当の意味は、作り手たちがこの時、内に秘めていた思いだった
赤狩り/ マッカーシズム・イン・ハリウッド 〜アメリカ暗黒史の映画ファン的考察〜|nobu.hk / 踊る大香港 (note.com)
ウィリアム・ワイラー ( William Wyler, 1902 年 7 月1 日 - 1981 年 7 月27 日 )は、 アメリカ合衆国 を代表する 映画監督 の一人。ハリウッド黄金期に活躍し、 アカデミー監督賞 を 3 回受賞し、数多くの名優を見出した。 ドイツ帝国 のミュールハウゼン(現・ フランス 東部 オー=ラン県 ミュルーズ )出身。
両親ともにユダヤ人です。
1950
年
前後にハリウッドを吹き荒れた
赤狩り
(
マッカーシズム
)に最後まで抵抗している。
裁判官に「あなたは
共産主義
を支持しているか、もしくは関係があるか」と問われた際に、「その言葉をそのままあなたに返そう。『あなたは共産主義を支持しているか、もしくは関係があるか』あなたが答える義務がないのなら、私が答えるのを拒否してもいいはずだ」と抗議したと言われている [ 要出典
]
。
(ウィキ)
修正第1 条 委員会 ( Committee for the First Amendment )は、 1947 年 9 月に 下院非米活動委員会 ( HUAC )の公聴会で ハリウッド・テン を支持する俳優らによって結成された活動団体である。脚本家の フィリップ・ダン 、女優の マーナ・ロイ 、映画監督の ジョン・ヒューストン と ウィリアム・ワイラー によって設立された。
その他の会員には ルシル・ボール 、 ハンフリー・ボガート 、 ローレン・バコール [1] 、 ジュールス・バック ( 英語版 )、 ジョゼフ・コットン 、 ドロシー・ダンドリッジ 、 ベティ・デイヴィス 、 オリヴィア・デ・ハヴィランド 、 メルヴィン・ダグラス 、 ヘンリー・フォンダ 、 ジョン・ガーフィールド [1] 、 ジュディ・ガーランド 、 アイラ・ガーシュウィン [1] 、 ジューン・ハヴォック ( 英語版 )、 スターリング・ヘイドン 、 ポール・ヘンリード 、 キャサリン・ヘプバーン 、 レナ・ホーン 、 マーシャ・ハント [1] 、 ダニー・ケイ [1] 、 ジーン・ケリー [1] 、 イヴリン・キース 、 バート・ランカスター 、 グルーチョ・マルクス 、 バージェス・メレディス 、 ヴィンセント・ミネリ 、 エドワード・G ・ロビンソン 、 ロバート・ライアン 、 フランク・シナトラ 、 ケイ・トンプソン ( 英語版 )、 ビリー・ワイルダー 、 ジェーン・ワイアット が含まれた [1] 。
ボガート、ガーフィールド、ロビンソンは後に自分たちは「騙されて」ハリウッド・テンを支持したとする記事を発表した(ガーフィールドとロビンソンは後にブラックリストに載った)。『 フォトプレイ
( 英語版
)』誌の 1948
年 3
月号にはボガートの「私は共産主義者ではない」( "I'm No Communist"
)という記事が掲載された [6]
。
この記事の中でボガートは自身と他の委員会員はハリウッド・テンの中に実際に共産主義者がいたことに気付いていなかったと主張している。
当時最高のハリウッドスターの 1
人だったボガートは自分のキャリアを守るために売ったものとみなされ、多くのリベラル派や仲間たちから攻撃された [5]
。
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