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ことちゃん・ちーちゃんの通う保育園ことちゃんはこの4月から、妹のちーちゃんはこの9月から自宅近くの公立保育園に通園している昨日、10月24日(金)は、その保育園の祖父母参観日でじじ・ばばに保育園の子供たちの様子を見せてくださった。 (お土産にもらった「くつばさみ」のを包装袋。廃品の紙袋に保母さんたちがデザインした手作りの包装紙) 《百歳のうた》100さいになったらいいな大きなケーキにろうそく100本つけて食べるのさどんどん大きくなるからねそのうちに必ず追いつくよおじいちゃんもおばあちゃんも元気にまっていてね という歌を元気いっぱいに歌って私たちを歓迎してくれた子どもたち。とても素敵な詩ですね。0歳・ひよこ組のちーちゃんたちは、手遊び「げんこつやまのたぬきさん」「むすんでひらいて」「いないいないばぁ」をして遊びました。ちーちゃんはおじいちゃん・おばあちゃんを目で探して、あちこちをキョロキョロ。目を合わせると泣くので、私たちジジババは目をあわさぬように大変でしたが。でも、みんなのびのびとかわいらしい。ことちゃんの3歳組(年少組)は、「スーパーモンキーゴクウ」というリズム遊び。元気いっぱい、いきいきと皆がそれぞれ楽しんでやっていました。この園は、0歳から5歳まで90名の小規模園ですが、それぞれのこどもの成長に合わせた保育をきめ細かにおこなっています。「遊び」を通して、子供たちがどう成長しているか、年齢とともにどのような集団を作れるようになっていくかを、子供たちの姿から感じとることができ、おばばとしては、とても頼もしく安心しました。園長先生のお話によると、最近の園児達はリレーに夢中だとか。先日おこなわれた運動会で、年長組のリレーが、すごい迫力で、みんな楽しくってたまらなく、運動会後も、年中、年少組を巻き込んで、飽くことなくいつまでもリレーごっこをして遊んでいるとのこと。年長のおねえさん、おにいさんの走力のすごさに、ことちゃんたち年少組も刺激され、助けられ、園庭をかけまわっているとのことでした。もし保母さんが、「もうやめよう」と言わなければ、夕暮れ時まで、延々とリレーごっこをして、遊びほうけているとのこと。(このように、夢中に遊べる子どもたち、保育して下さっている園の方針に感動、すごいこと) 昨日の祖父母参観でも、年長の「ぞう組」の子供たちは、「まっかな秋」「パレード」2曲をみんなの前で合唱。(本格的に力強く心をひとつにして合唱できるのに感心。)更に、日頃、取り組んでいる鉄棒と跳び箱を見せてくれました。どの子どもも、軽々と、楽々と鉄棒(逆上がり)や跳び箱(五段or4段)をやっていました。その身体の軽やかさ、しなやかさには感動しました。ちいさい子たちは、年長組のおねえさんやおにいさんの逆上がりや跳び箱に羨望の眼差しで拍手していました。(これなら、ことちゃん、ちーちゃんが就学前に過ごす場としては安心できると納得して園を後にしました。)帰りには、子どもたちが作った「くつばさみ」をお土産に貰いました。(くつばさみとカード)病院や公民館などの集会に出かけたとき、靴を挟んで、一目でわかるようにするモノです名札もついています。ビーズは年長、年中組さんがつなぎました。 (このように、洗濯ばさみで靴を挟みます。孫たちを児童館や図書館に連れて行ったとき、幼い子たちの靴はさみにちょど良い。) ことちゃんたち年少組は、 カードの裏にスタンプを押して、カードをデザインしました。このスタンプは、園児たちが、近所の畑で作っている野菜のオクラを輪切りして、スタンプしたものです。すべてが園児と保母さんたちの心のこもった作品です。小規模園ならではの、きめ細やかな愛情が伝わるお土産でした。保母さんやじじばばがママやパパとともに協力し助け合いながら幼い子供たちを育てていることが感じられる楽しい半日でした ことちゃんの通う保育園は、市立の公立園ですが、園舎おんぼろで暗く汚い。若いお母さん達なら、きっとその園舎を見ただけで、入園を躊躇するでしょう。でも、保育の内容は、とてもゆったりと落ち着いたものがありいい。子どもの成長に合わせた保育をきめ細かにおこなっている。成長を急がせない。(この子どもたちが、少年、青年へと成長していくとき、伸びやかで朗らかに、真っ直ぐ育つことがとても厳しい現代の日本社会。) さらに、今、国は、幼・保の一元化。保育園の入園契約を園と個人的に結んで子どもを預ける方向をめざしている。(今は自治体が園児を措置している)。これは、すべて保育園を民営化して、経費削減しようとする政府の一環。 幼い子どもたちが、豊かに成長できる場を保障し、幼児保育にたっぷりお金をかけることは、絶対に必要なこと。(この分野で利潤を得ようと民間が参入しても、ろくな事は起こらない。教育や子育てなど、お金いるだけの一方通行。効果がでるのは、数十年先)少子化を解決していく上でも、今、教育や子育ての公的な投資が一番求められていることである。現在のように、母親が働いていないと保育園には措置されないとか、保育料が高すぎて、誰でもが預けられないとか、このような状態ではとても幼い子どもたちが、豊かに育つ環境とはいえない。誰でもが、望めば、無料で、どの地域でも、望む幼児の保育や教育が受けられる。このようなことをすることが緊急に求められている。これは、政治がすることである。莫大なお金を浪費している、現在の資本主義の仕組み、そのようなお金は、未来を背負う子供たちにまず投資されるべきであるのに、個人が独占して、贅沢な飲み食いをして浪費している。それに比べたら、幼児にかける教育、養育の金額などわずかなもの。そのわずかなお金さえ、やりくりして工面できない今の政治、この根っこのところを変えない限り、子供たちの健やかな成長はない。子どもが育つということは、個人の力だけでは出来ないことなのだ。
2008.10.25
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報道の中立性とは何か 昨日10月19日(日)、東海テレビ製作・FNSドキュメンタリー「光と影~光市母子事件 弁護団300日」が再放映されたので見た。 このドキュメンタリーをみて、久々に爽やかな深い感動をうけた。 この報道が深い人間性のところに依拠して、事実を丹念に救い上げようとしているその姿勢に感銘した。 このドキュメンタリーは、1999年4月14日山口県光市で木村洋さんの妻と生後11ヶ月の長女が殺害された。当時18歳だった少年が逮捕され、一審ニ審の判決は無期懲役。しかし、最高裁は、死刑含みで、審理を広島高裁に差し戻した。最高裁の途中段階から、弁護団が差し変わった。それは、起訴事実を争わず、ひたすら情状を主張した旧弁護団らが「死刑含み」の状況に危機感を感じ、この事件を再調査することから始めた。事件の本質は何かを徹底的に究明することにより、事件を解明しよと方針を転換した弁護団が結成された。その21人の弁護士たちの闘いぶりを300日間に及んで記録したものである。 弁護団がその苦闘の調査のなかで、見たものは、加害者の想像を絶する凄惨な生い立ちから帰結される人格、人としての未発達、幼さ。弁護士が、その加害者と人間として関り、加害者の心に波紋を投げかけ、自分の犯したことの意味を理解させようとする闘いのなかで、裁判は進行していく。刑事事件の弁護活動とはどうあるべきか、弁護士はどのような職責を持つべきか、深いところでの問いかけが続けられた。判決は「死刑」となった。その時、理不尽な事件で突然妻と子を失った木村さんは、「自分たちは、これからこの判決を一生背負って生きていくことになる。このような事件が二度と起きないことが、この判決をいかしていくことになる」というような意味のことを記者会見で述べていた。被告弁護団は「この事件の真相、事件の起きた根源を明らかにし、このような事件が、社会で二度と起きないようにしていくことが、弁護団の仕事であり、その意味では、この弁護活動は終わりではない。死刑で終わりというのでは、何も解決されたことにならない」と発言していた。 このような類似した悲惨な事件は、その後も次々に起きている。 痛ましい事件の被害者が真に救われる道は何か。 このドキュメンタリーは、事実を坦々と追うことで、被害者が真に救済される道すじはどうあるべきかを静かに語りかけている。とても深い重いドキュメンタリーである。この番組は、平成20年度芸術文化祭で日本民間放送連盟賞・番組部門テレビ報道番組において、最優秀賞を受賞した。 折りしも、余りにも偶然であるが、今日の新聞報道は、大阪の橋下知事が、朝日新聞の社説(橋下知事のタレント弁護士時代のテレビ発言について、橋下敗訴判決を論じた上で、橋下氏の責任を厳しく指摘し、弁護士を返上したらと論説)にたいして、こともあろうに、伊丹市の陸上自衛隊伊丹駐屯基地で開かれた「中部方面隊48周年記念行事の祝辞で、「人の悪口ばっかり言っているような大人が増えると日本はダメになります」と言ったと報じている。橋本徹氏はテレビタレント時代に、この光市母子殺害事件の被告弁護団を「懲戒請求」するようテレビでよびかけ、視聴者を煽っておきながら、自分は「懲戒請求」をしなかったばかりか、「被告弁護団」から名誉毀損で訴えられても、一度も裁判所には出廷せず、敗訴した。弁護士への懲戒をもとめるとは、何という傲慢。「光と影」のドキュメンタリーの被告弁護団の闘う姿を見て、人生の年輪、深さ、社会に対する思いの深さ、橋本弁護士とは、全く質的に違うレベルいる人々ということが分かった。「自分と意見が違う」から「懲らしめ」をと視聴者に呼びかけ扇動する。地裁で「敗訴」となるや、「私の法解釈が誤っていた」などと形式的に謝罪しながら、高裁で争うつもりか「控訴」した。なんという支離滅裂。このような身勝手さを許しているのは誰か。甘ったれるなといいたい。このように甘えさせているのは誰か。テレビに代表されるマスコミである。視聴者である我々だ。選挙民である我々だ。このような風潮は非常に危険である。このようなマスコミのなかにあって、「光と影~光市母子殺害事件 弁護団300日」という番組を制作する人々がいたということは、とても驚きである。
2008.10.20
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日本の典型的なエリートコースを歩んできた青年は、どんな学力をつけて社会に巣立ったか(3)9/28の日記 : 全国学力テストの高得点は真の学力か。(1)9/30の日記 : ある農業青年の学力(2)上記2回の学力問題に続いて、学力の(3)回目。前回がのろまでどじな子ども時代、点数を取ることにおいて振るわなかった青年の話から、一転して、今回は、日本の最高のエリートコースを歩んだ青年の話。 昨夜(5日・日曜日の夜)テレビの「情熱大陸」という番組で、《「よみたん自然学校」の美ら海が教室》というドキュメンタリーを放映した。これは沖縄の読谷村で、幼児教育を個人で立ち上げて実践している青年のドキュメンタリーである。この幼稚園の理念は、このブログでも紹介してきた「森のようちえん」と同じである。美しい海を遊び場として、大自然のなかで、ドラマティクに活き活き暮らしている子供たちがテレビに映し出された。子供たちの自立した集団が、お互いぶつかり合い、知恵を出し合い、切磋琢磨して、日々成長していく姿が力強い。 「よみたん自然学校」の代表者である小倉宏樹さんは現在36歳。灘中学、灘高校、東大法学部(現役で合格)経て商社に就職。退職して、2004年に「自然学校」を理念とした《幼児くらぶ》を設立。現在に至っている。この彼の学歴の華々しさ、要するに彼は、少年期からエリートコースを一直線にひた走ってきた青年である。俗に世間がエリートと羨んでいるコースを歩いてきたひとりである。。 では、世間も羨む「高学歴」を捨て、ほぼ無収入に近いこの幼児教育の世界になぜ飛び込んできたのか。彼はテレビの中で、インタビュアーのそのような質問に、「自分は、与えられたことを、その通りにやりこなすことは、とても得意。能力があると思う。就職して、仕事をするときも同様で、与えられたものは、優秀にこなしてきた。しかし、与えられたテーマを自分で考え、問題を切り拓いていく力が全く劣っているということに気付いたから、方向転換した。」と答えていた。 この彼の学力についての反省は、戦後の日本の教育が、生み出した結果の一端を物語っている。幼い時から、与えられたものを覚えこむことを過密に繰り返して、優等生であり続けた人間が、大人になった時、何が自己のなかに育っていないか、何を失ってきたかに気付く。大人になり、自立して生きて行こうとするとき、自己のなかの喪失の大きさに気付く。 今のように、社会が混乱し、困難に遭遇している時、エリートたちには、その困難を切り拓く創造性、エネルギーを求められている。その能力を育ててこなかったものは、リーダーとしての資質を欠くものとして、容赦なく切り捨てられている。生きていくことが難しい時代になろうとしている。実際、30代の青年たちは、今、厳しい選択を迫られている。上昇し続けた高度成長期や、社会が好景気で沸き立っているような社会では、偏差値で人間の価値が測られ、価値の中味は問題ではなかった。受身的に生きていることにこそ、価値があった。 今、自民党に残って、指導的な地位にいる人たちの多くは、政治家2世であるが、あの人々のお粗末な社会認識、見ている世界の偏狭さ。まさにこれは、この歴史の転換点とも言うべき難局に遭遇して、彼らの身につけた知識は、社会を切り拓くエネルギーにならないことを露呈している。 自民党の教育政策は、自己の受けてきた古ぼけた経験主義から一歩もでていない。画一化された教育をどれだけ早く多量に理解するか。詰め込めるか。教育の意味をそこに見出している。全体の秩序を乱すようなものは困るのである。 「よみたん自然学校」の代表者・小倉宏樹さんは、その学力の限界性をいちはやく見抜いて、見切りをつけた。再出発した。子どもとともに、自らも学びなおしている。日々、子供たちと自らも成長している。人らしく生きる知恵を日々蓄積しなおしている。そのさわやかさは、テレビに映し出された顔の表情にいきいきと表れている。 彼は言っている。 この自然学校の子どもたちが、今後、どのように育ち、どのような大人になっていくか、どちらの育ち方がいいか今のところは、まだわからない。しかし、現時点の同年代の子供たちを見れば、自分のまわりにいる子供たちの方がよく育っている、と。 更に、冨士子婆の子育ての体験から言えば、人がどう育つかの優劣や決着は、その子どもが社会に出て、どう生きるか、どんな仕事をするか、どんな家族を築き、どんな子どもを育てるか、という長いスパンが必要だと思える。2世代ぐらい経過してはじめて、何が正しかったか分かるのではないかと最近思っている。 今、国会で予算委員会の質疑応答をやっています。この質問に立っている与党議員の言っていることに耳を傾けてみてください。特に自民党の議員のお粗末さ、これで最高学府を出ている人?という感じですよ。哀れなほど時代から取り残されています。国民が何に苦しんでいるか、歴史は今どんな局面にいるかに、全く思いめぐらすことの出来ない頭脳の持ち主がいかに多いか。その発言には耳を覆いたくなります。これが、学生時代、自称、勉強が出来た人々の成れの果てなのです。前回に書いた農業青年やよみたん自然学校の子供たちの未来に困難があるとしても、必ずそれを切り拓く感性や意志を自らのなかにしっかり育てている。大地深くに根を今張っている。やがて枝をはり、葉が茂り、実をつける。「よみたん自然学校」の活動に興味ある方は、「よみたん自然学校」の理念や活動を、ホームページでご覧ください。(しかし、今の若者たちは、身軽ですね。簡単に退職して転職する。その軽やかさには感心する。社会はその意味でも大きく前進しているのかも。)
2008.10.06
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