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5 万人講から報徳の開拓へ
弘化3年11月浅田は万人講募集のため東へと志し、三河国藤川宿に足を移し、これより遠江(とうとうみ)入りの方針だが好い手づるがない。これを宿の主人にはかったところ、同国長上郡下石田村〔浜松市〕神谷与平治氏は篤き敬神家で、毎年伊勢参宮を欠かしたことなく、その上下の都度常宿とせらるる機縁で推薦した。ソコで道を姫街道にとって本坂峠を越え気賀に出でて、三方原を横断して同家を訪れた。
万人講の申込みは敬神家の頭にはすぐ受け取られて賛成を得た。それから余談に移って、同地方は近来水害や遺作の災厄を蒙って痛く疲弊を来したことを訴えられた。浅田氏はそれには良法があると切り出して、相模に二宮先生出でて、身代を取り直し貧乏人を富ましめ難村衰邑の興復を行いつつあると、その仕法の大要を説いて善種金の話に及んだという。神谷氏は深く耳を傾けてその道の行われんことを期待した。浅田氏去るに臨んで明年某月一人の兄来たってその道を伝えることを約した。そして翌弘化4年の早春に約の如く安居院翁は来訪し、滞留数日に及び、救貧の道、興復の法を講じ、また農事耕種の術を示した(*1)。村民一同感嘆してその説に服し、遂に同3月には下石田報徳社を創立した。これ我が地方報徳の第一歩で結社の先鞭を掲げたものである。(竹松老及び高山老の聞書き)
*1 一説によると神谷与平次は安居院庄七と一緒に伊勢神宮での神楽執行のためおもむき、伊勢神宮で「報徳の教えを村でとり行ってよいか、みくじを引いたところ「大吉」が出たために決心するとともに、その後報徳の教え普及に尽力したという。
「当村ご報の大本は、相州大住郡蓑毛村安居院庄七殿・浅田勇次郎殿信心の発願にて、普く万民のため伊勢太々講厚く御世話ござなされ、道中往辺共に休泊取り定め置き、諸国御取り広め遊ばされ候えども、惜しいかな、遠州においては知る人これ無く、弘め候儀成らざる段、三州藤川宿菱屋長右衛門方にてご内談遊ばされ候ところ、右長右衛門申し候には、遠州浜松在下石田村神谷与平次殿と申す信者これ有り。我ら定宿仰せ付けられ、知音の御方にござ候えば、御立ち寄りご相談遊ばされ候わば、貴君様のご志願成就いたし、遠州筋御取弘に相成るべくよし物語これ有り候故、則ち当村与平次殿方へ2先生御尋ね相成り、段々御志願の旨趣御物語これ有り、並びに相州足柄上郡栢山村二宮金治郎様御発起在りなされ候、報徳善種のご理解これ在り。段々聴聞仕り候ところ、いずれも人道の大本にて感服奉り随気少なからず候につき、ご両人の御伴仕り、 伊勢太神宮御神楽御執行に罷り出、御神前にて御報の善非、当村にて取り行われ候か、御くじを願い候ところ、奇なるかな、善なるかな、大吉の御くじをうかがい、いよいよ決心憤発いたし 報心不動の者わずかに取り結び、善門随従の義定書差出し、?々(そそ)天道人道の正理大本に基き本業余行怠慢無く勤行いたし、驕奢弊風を省き余財を積立、報徳善種金と名付け、窮民撫育致す べき段、前約発願、弘化4年より安政3年まですでに10か年に及び、ますます人心感厚致し、いよいよ以て有難き次第、子々孫々に至るまで忘却これ有りべからず候。」
*2*2 「下石田村報徳連中議定下書」
一 そもそもご報の儀は、相州足柄上郡栢山村二宮金次郎様、四海万民の苦失を歎き、数10年の間肺肝を砕き、御正業遊ばされござ候、光徳によりて諸家様より厚く御頼みに相成り、御仕法中恐れ多くもご公儀様ご用に相成り召し出され、日本第一の御場所日光ご神領荒地起返し方並びに御領私領とも見込み次第手広に取り計らうべく旨ご用仰せ付けられ、専ら御執行有られ、御道徳の余慶過ぎざるの有難さ、下々なる我々までその余滴を汲みて大先生実業の書籍等を得て、悟道大略を深察明弁し、実地正業遑(いとま)なく、数年積立置き候、報徳善種金を以て連中内貧窮の者へ無利足年賦に貸付、仕法相立ち候ところ、去る嘉永3年大洪水にて一同難渋し、種穀を失い渡世に漂い、余儀なく借財出来致し、これに順いて人気自然に変道仕り、貸付の年賦金等閑に相成り、一同の迷惑少なからず、これにより又々心意を砕き、当人行き立ち相成るよう厳法を組立、余荷(よな)い遣わし候ところ、ひときわ立って出精仕り候儀、全くご報のお蔭と一同有難く憤発仕り候、ついては二宮先生日々ご教戒なされ有り候善道、第一窮民撫育荒地そ田おこし返し米穀取倍は申すに及ばず、祝儀愁嘆諸義理取り遣わし、或いは衣食住すべてに至るまで、万端節倹を尽し守分を究め、奢倹を計りて度外の米金相譲り、潤沢利益の減法を立て、自他平等の行事等、或いは道橋の破損を繕い、人馬の通行を能くし候ようの儀は一々か条に顕さず、文言に含んで後鑑となし、ただ今般各位に依りて親子兄弟同様の因を盟約致し、左のか条に相触れ申さざるよう金石にひとしく後代に至るまで違乱有るべからざるもの也。
一 二宮先生報徳の大意は、天地相合して万物生じ、男女相和して子孫生ずるがごとく、貧富相和して財宝を産出し、第一天道人道の弁別して、身を労して心意を労せず、能く分を守り、分外の米財を施譲し、無頼のものを教誡して人となし、或いは人糞・馬糞不浄を引き請け発田に引替え、借財を引き請け無借に引替え 相互に譲り合い御国恩を報ずる大道なれば、よくよく憤発して身を守る事肝要なり。依りてか条左の通り。
(略)
右の条々今般各位の寄する所によって、日月に誓い、親子兄弟同様の因を結び議定書取替し、銘々の所に預かり置き、子々孫々まで違乱これ有るべからざる候、以上
安政3年(1856)9月 与平次(ほか10名連署)
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