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2025.10.28
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
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明治35年2月、原料甘蔗運搬専用軽便軌道4マイルの工事竣工、更に39年末、30インチ軌幅の鉄道を布設、初めて機関車による運搬が開始されたが、その以前は、専ら牛車によりて運搬されたものである。

 海路運搬は更に難事であった。最初製糖機械を輸入して、これを本島に陸揚げするに際し、風浪のため、船、打狗港(現在の高雄)に入るあたわず、あるいは澎湖島陰に避難し、あるいは神戸に引返し、何回となく神戸、打狗港間を往復したという実例もある。また船腹の問題もあった。当時内地台湾間は、大阪商船の独占するところ、運賃高く、条件厳しく、専横を極めたものである。後年山本氏が専務取締役時代、たまたまヨーロッパ大戦に遭遇し、船腹の不足、船賃の暴騰、その極に達せるとき、最後の打開策として船舶の建造を決行した。言うまでもなく、会社自身運送力の把握により、海運業者の独占的優位の鋒鋩をくじく積極的手段にして、果然勝利は攻勢をとるものの得るところであった。船舶建造の資本と、航路の経常費とを商量すれば、むしろ損失に帰するであろうとは、近視眼的批難の声に過ぎなかったのである。
 次は衛生問題である。創業の際、飲料水その他の設備に欠陥多かりしため、「ペスト」流行し、台湾地方病たる「デング熱」「マラリヤ熱」も盛んに猛威をたくましくしうした。ことに「マラリヤ」に対する予防法今日のごとくならず、ために全職工が一斉に発熱し、工場作業一時停頓の状態を呈したが、決死的の意気に燃えていた職工は、病熱の間歇時間を各自交代作業するという悲壮なる工場風景を描出するにいたった。現地管掌の任に当たれる山本支配人は、工場緊急の対応策をとると同時に、専門医の招致、下水道の整備等、寝食を忘れるまで苦心されたのであった。
 前述のごとく、機械の故障、原料供給難、海陸運搬の困難、土匪、風土病等の脅威により、第一期の生産額は全製造能力4万担に対し、わずかに18,000担、すなわちその半ばにも達せず、年5朱の配当をかろうじて実行したものの、それは6朱の補助金による配当にして、新興事業の前途、実に憂慮すべき状態であった。ここにおいて、山本支配人は熟慮の結果、先進国の製糖事業の実際を視察し、これによって新計画を樹立すべく決心した。そこで武智氏と相談の上、明治38年6月、技師日比孝一、草鹿砥祐吉、鈴木源吉の3名を帯同、ハワイ糖業視察の途に上った。
 果然ハワイの新式工場は、その規模の宏大さ、設備の精巧さにおいて到底台湾のそれとは比較にならなかった。新式製糖機械の製作をホノルル鉄工場に依嘱し、その据付には練達なるアメリカ人技師を派遣することとなった。明治40年末落成を告げたる橋仔頭第二工場は、その建築において、設備と配置において、台湾新式工場建設に画期的模範をたれ、圧搾能力450米トンに及び、その後勃興せし台湾各製糖会社の多くはこれにならうようになった。
 然るに当時これを目して精巧に失すとし、あるいは高価に過ぐとなし、阻がいと圧迫を加うるものあった。元来児玉総督及び後藤民政長官は、新式大工場主義を把持していたが、新渡戸稲造、堀宗一両氏のごときは従来の赤糖工場を機械化してゆく漸進主義を唱道し、牛馬によって動かす「オハイオ式」もしくは小規模気缶をもってする「ナイル式」等のものより次第に中間的なる改良糖廓に進み、それより当時10万円工場と称する新式小規模の工場が期待されていた。故に山本支配人の進取的大規模的なる措置と相いれず、むしろこれを過激視し、ついに支配人を東京に引き揚げしむるにしかずとする説が台頭し来たり、井上侯にまで申達するものあるに至った。これ海外先進国糖業の隆盛を招来せしは、実にこの新式大工場の賜なる事実を無視せる固陋の見解であった。山本支配人は一歩も主張をまげず、敢然としてこれに反対し、かつ井上侯に説きてその利害得失をつまびらかにし、借すに歳月をもってせば、必ず事実の上において立証すべしと断言した。 

 一方、総督府の態度いかん。総督府嘱託たる山田熈氏は、その主張たる新式工場主義による目論見書を殖産課長柳本通義氏の手を経て総督に提出したが、これに理解を持たぬ柳本氏は、目論見書を握りつぶしてしまったので、山田氏は直接後藤民政長官にその主張を説き、更に児玉総督に建言して、大いにその信任を得た。柳本氏及びその属僚は上司を無視したという山田氏に対する反感を、新式工場の上に波及せしめ、ついに山本支配人の主張する大規模的工場論をも白眼視するに至った。

 しかも山田氏は積極論者ではあったが、その一徹なる性癖は、山本支配人のカンカンガクガクの直言と相いれず、時にその所説を貫かんとして激論することもあった。ついに山田氏は台湾製糖会社とも絶縁するにいたったのは惜しむべきであった。また

 一方長官後藤氏の即興的性行と、山本氏の論理的風格との相違はひいてその管掌の任にあたる総督府と会社との疎隔を来さずには置かなかった。

 いかなる難局に立つも、微動だもせぬのは、山本氏の精神力であった。事業達成の前途に横たわるあらゆる障害は、その迫力でことごとく圧倒しまったのである。

 山本支配人の高卓なる識見と、果敢なる気魄とは、一時前途を危ぐせられたる製糖会社をして、九鼎大呂よりも重からしむる時期を招来した。大正9年、山本氏が専務取締役時代において、会社は資本金すでに6,300万円に達し、橋仔頭を首とし、阿?、後壁林、車路乾、鳳山、埔里社、台北、東港、旗尾、恒春、湾裡等到るところ壮大なる工場を有し、更に内地精製事業に着手し、神戸、福岡県下荒木村等に工場を建設し、今や台湾製糖のみにて生産年額300万担に達するに至った。

 台湾製糖の特性として、牢記すべきことは、その最初の工場設計は全然我が国人の手になり、操業また他の新事業とその選を異にし、一切外国人の指導援助を受くることなく、終始邦人の手により推進発展をして来たことである。あるいはそのやめ、技術の練磨に多くの時間を費やしたかも知れぬが、独自貴重なる体験を積んで、咀嚼洗練せられて来た技術の力は、また偉大といわねばならぬ。

 科学的方面における業績としては、工場設備の改良、原料甘蔗に対する改善、糖蜜より酒精の製造開始、技術員の指導養成等、幾多の成果を挙げているが、なかんずく、製糖工場の科学的管理法の創定は、糖業全体としての改良進歩に貢献せるところ甚大である。この科学的管理法の創定は、草鹿砥祐吉氏の苦心の研鑽の結果に係るもので、圧搾原料の重量と、その成分とを出発点とし、圧搾甘蔗の搾出汁の搾出歩合を計算し、搾出汁を分析してその糖分、酸分、転化糖分を測定して、原料甘蔗品質の優劣を比較し、清浄操作に要する石灰乳の適量を検覈し、製糖工程の適否を考査する等、科学的製糖技術改善の原理討究にあるのである。これによって、糖業刷新に寄与せるところ極めて多く、後一般にこれが効果を重要視さるるに至ったが、その当時はこれを閑人の余技視し、冷笑したものである。山本氏は、この科学的精神を尊重し、その分析成績に興味と理解とをたもち、これによる技術の進歩は、不屈の研究精神の賜なりとなし、常にこれが達成を激励支援し、しかも部下の失敗は自らその責に任じ、ゴウも譴責的口吻を漏らすことなく、懇ろに各自の自発的研究を奨励した。かくして集め得た技術の総力は、台湾糖業をして異彩を放つに至らしめたのである。

 我が国殖民政策の綱領を体し、現地の資源に立脚して、あらゆる改善を加え、前途の難関を突破して、進取的大糖業の宏基を建設せるは実に鈴木、山本両氏の功績であり、ことに山本氏の終始一貫せる不屈の精神は、近時台頭し来たれる大陸政策に対し、貴重なる教訓と模範とを示すものである。

 山本氏は、明治37年取締役に就任、38年常務取締役に、43年専務取締役に、その年更に糖業連合会長に就任、大正4年製糖事業の功労により、藍綬褒章を授与せられ、同14年会社社長に就任、昭和2年路を後進に開き社長を辞任した。

<この項目終わり>






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最終更新日  2025.10.28 08:20:04


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