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一方、総督府の態度いかん。総督府嘱託たる山田熈氏は、その主張たる新式工場主義による目論見書を殖産課長柳本通義氏の手を経て総督に提出したが、これに理解を持たぬ柳本氏は、目論見書を握りつぶしてしまったので、山田氏は直接後藤民政長官にその主張を説き、更に児玉総督に建言して、大いにその信任を得た。柳本氏及びその属僚は上司を無視したという山田氏に対する反感を、新式工場の上に波及せしめ、ついに山本支配人の主張する大規模的工場論をも白眼視するに至った。
しかも山田氏は積極論者ではあったが、その一徹なる性癖は、山本支配人のカンカンガクガクの直言と相いれず、時にその所説を貫かんとして激論することもあった。ついに山田氏は台湾製糖会社とも絶縁するにいたったのは惜しむべきであった。また
一方長官後藤氏の即興的性行と、山本氏の論理的風格との相違はひいてその管掌の任にあたる総督府と会社との疎隔を来さずには置かなかった。
いかなる難局に立つも、微動だもせぬのは、山本氏の精神力であった。事業達成の前途に横たわるあらゆる障害は、その迫力でことごとく圧倒しまったのである。
山本支配人の高卓なる識見と、果敢なる気魄とは、一時前途を危ぐせられたる製糖会社をして、九鼎大呂よりも重からしむる時期を招来した。大正9年、山本氏が専務取締役時代において、会社は資本金すでに6,300万円に達し、橋仔頭を首とし、阿?、後壁林、車路乾、鳳山、埔里社、台北、東港、旗尾、恒春、湾裡等到るところ壮大なる工場を有し、更に内地精製事業に着手し、神戸、福岡県下荒木村等に工場を建設し、今や台湾製糖のみにて生産年額300万担に達するに至った。
台湾製糖の特性として、牢記すべきことは、その最初の工場設計は全然我が国人の手になり、操業また他の新事業とその選を異にし、一切外国人の指導援助を受くることなく、終始邦人の手により推進発展をして来たことである。あるいはそのやめ、技術の練磨に多くの時間を費やしたかも知れぬが、独自貴重なる体験を積んで、咀嚼洗練せられて来た技術の力は、また偉大といわねばならぬ。
科学的方面における業績としては、工場設備の改良、原料甘蔗に対する改善、糖蜜より酒精の製造開始、技術員の指導養成等、幾多の成果を挙げているが、なかんずく、製糖工場の科学的管理法の創定は、糖業全体としての改良進歩に貢献せるところ甚大である。この科学的管理法の創定は、草鹿砥祐吉氏の苦心の研鑽の結果に係るもので、圧搾原料の重量と、その成分とを出発点とし、圧搾甘蔗の搾出汁の搾出歩合を計算し、搾出汁を分析してその糖分、酸分、転化糖分を測定して、原料甘蔗品質の優劣を比較し、清浄操作に要する石灰乳の適量を検覈し、製糖工程の適否を考査する等、科学的製糖技術改善の原理討究にあるのである。これによって、糖業刷新に寄与せるところ極めて多く、後一般にこれが効果を重要視さるるに至ったが、その当時はこれを閑人の余技視し、冷笑したものである。山本氏は、この科学的精神を尊重し、その分析成績に興味と理解とをたもち、これによる技術の進歩は、不屈の研究精神の賜なりとなし、常にこれが達成を激励支援し、しかも部下の失敗は自らその責に任じ、ゴウも譴責的口吻を漏らすことなく、懇ろに各自の自発的研究を奨励した。かくして集め得た技術の総力は、台湾糖業をして異彩を放つに至らしめたのである。
我が国殖民政策の綱領を体し、現地の資源に立脚して、あらゆる改善を加え、前途の難関を突破して、進取的大糖業の宏基を建設せるは実に鈴木、山本両氏の功績であり、ことに山本氏の終始一貫せる不屈の精神は、近時台頭し来たれる大陸政策に対し、貴重なる教訓と模範とを示すものである。
山本氏は、明治37年取締役に就任、38年常務取締役に、43年専務取締役に、その年更に糖業連合会長に就任、大正4年製糖事業の功労により、藍綬褒章を授与せられ、同14年会社社長に就任、昭和2年路を後進に開き社長を辞任した。
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補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.11.18
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.11.17
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.11.16