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2025.11.21
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

普勧坐禅儀抄話その10

 精神界のことというものは、非常にわかりにくいもので、悟ったというても、それが悟ったというても、それが悟ったと思うた時には迷っている、という道理もあるし、また悟っておりませぬというて何か物足りない空虚な生活をしている、というのも感心したものでない。それなならばもういい加減にでたらめに世の中のことというものはどうでもいいというても、これも感心したものではない。禅に「禅の三病」ということがある。一つは已到住著(いとうじゅうちゃく)の病といい、もう悟ってしまった、もう坐禅はせぬ、というのである。もしここに悟ったお方があれば、その時には、もはや禅から縁切れのお方なんだ。悟ってしまったらゼロである。これは難しい道理である。実際世の中の奥さん方でも日本一の貞女だ、わたしは貞節を尽してしまった、わたしくらい立派な奥さんはめったにない、こういう奥さんがあればちょっと恐縮する。その反対にこれだけ親切にしても、どうもわたしはいたらない者で、主人を満足させることがどうしてもできない。わたしは料理は下手だし、器量は悪いし、どうもまことにすまぬことでございます、と恐縮している奥さんがあればそれは満点の奥さんである。おれはこれでいいというのと、わたしのようなつまらぬ者でというのでは、妙な食い違いが出て来る。已到住著の病とはもう悟ってしまったということで、世の中にはこんなのが時々ある。臭くって臭くって鼻についてしようがない。
 二つは未到走作の病、おれは悟りたいけれどもどうしたら悟れるだろう、どうしたら悟れるだろうと、悟りが一生涯つきまとってとうとう悟れないで死んでしまう。これは幽霊となって化けてでてこなければしようがない。
 三つは透脱無依の病、これはなあにそう心臓ばかり弱くても仕方がない、どうせ世の中なんていい加減なものだ、そんなに苦しまぬでもよい、悟ったってつまらない、悟らないでも悟ってもどうでもいいから、まあ人並にやってひょうたんの川流れで、のんべbbだらりやればいいのだという。これがまた禅道を悟ったげな、悟ったのかどうか不得要領でわからない変てこなものが世の中にできて、あそこが禅僧洒脱というのだろうかと、めくら千人の世界では存外もてて、お布施をもらっているやつもあるわけである。この三つを標準として、三つの病にかからなくてどうするかということが我々の実際の問題である。そうすればわれの修行ということは、ここにどうでもこうでも何か本当に確実な、確実となというてもそうぴしゃっと数字の問題をあわすような調子にゆくものでもなし、わたしはいつも禅においては、ゼロか満点よりしようがないとよくいうのだが、ゼロか満点、そこで我々どうすればいいいのか。その一つが
  吾は制し難し、故に先ず事を以て遮す 
 となる。我々の魂というものは、どうしようたってどうもしようがないでしょう。本当に自分の心を自由にできるならば、本で読んだら本で読んだ通りに。自分の境涯を作れる。忠臣蔵を読んだならば由良之助と同じになる。しかしなってしまえばいいけれどもなれやしない。感心だけしている。おれはそんなことはできないというようにちゃんときまっておる。村上喜剣などは読んでも愉快だ。足に刺身をはさんで大石にこれを食えという。わたしもやってみたいものだ。それが間違ったというて、良雄の墓前で腹をきる、じつに愉快だ。けれどもこれはやれやしない。(『禅談』p.319-321)





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最終更新日  2025.11.21 06:40:03
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