MM2022のブログ

PR

プロフィール

MW2022

MW2022

カレンダー

コメント新着

天国にいるおじいちゃん@ Re:打席に入る前に、バットを天にかざして、天国にいるおじいちゃんに『力を貸してくれ』(08/24) 天国にいるおじいちゃんについては、 089…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2025.11.21
XML
カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

修証一如  その10

さて慧能禅師からそういわれたが、何とも答えようのなかった南岳が、八年たってからふたたびやってきて、「この前に師が、甚麼物是恁麼来とおっしゃったが、ようようわかりました」「どうわかったか」といわれたから「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」と答えたのです。この似は示すで、説いて一物をしめすもあたらずと読む。南嶽は何しにきたといわれても、これこれだと説いてもあたりますまい、といったのである。これはなかなか面白い言い方で、我々の方でも大和魂は何だ、と問われると、「」敷島の大和心を人問はば、朝日に匂う山桜花」と答える。これも説似一物即不中である。
 帝釈天が菩薩方に天人の花を降らしたら、水の上に雪が降るように、スウーと消えてしまった。須菩提のところに花を降らしたら、べったりひっついたという話がある。これは須菩提には、まだ我執があったことを戒めているのですが、我々の修行にも、修行したというカスが残っておっては、いくら修行してもカスにしかならない。おれはどこそこで何年修行した、公案をいくつ通ったとか、そんなことにベッタリひっついておったら、これも染汚(ぜんな)した修行である。
  悟りとは悟らぬ前の迷いなり 悟りて見れば悟る物なし
 言葉をこえていえば悟りの始めとか修行の終わりというものはない。悟った憶えもない、修行した憶えもないというものである。そうゆけばしめたものだ。蘇東坡の詩にこういうのがある。
  廬山煙雨浙江潮(廬山は煙雨浙江は潮(うしお))
  未到千万感不消(未だ到らざれば千万感消せず)
  到還来無別事(到り得還り来って別事無し)

 わたしも廬山にいったことがある。ゆくまでは、廬山とはどんな美しい山だろう。シナの東林寺、虎渓三笑というのは、どんな寺か知らん、どんな雲所か知らん、白蓮社というたらどんなところか知らんと思った。雲がかかった藩陽湖(ばんようこ)は、雨に包まれた五老峯は、揚子江は・・・・・と、千万の感をもって胸躍らしていた。が、さていよいよいってみる。べつに変わったこともない。しかし変わったことがないといっても、いって見んことにはわからない。いたり得還りきたって別事なし、いってみればどうということはない。もともとどおり廬山は煙雨浙江は潮である。(『禅談』p.240-243)
 坐禅というもの、仏道修行というものも、本当のことをいうと、それは苦労しただけしか千万感消せぬわけである。それにはどうするかといえば、姿勢を正し、形を正し、法の通り坐る。そしてこの生活態度をもって、つまり坐禅を根本として日日夜夜、寝ても覚めても、自己の脚下を反省して、はしの上げ下げにも、造次にも、顛沛(てんぱい)にもこの工夫を怠らず、この修行のあるところ一歩は一歩、二歩は二歩だけ高くなければならぬ。
 そこでそれをいつ得たと、区切りをつけたいと思うが、そういう区切りはつけられるものではない。印可証明を得たという坊さんでも、スベタ女と駆け落ちするようなことが世の中によくあるものだ。そんな崩れ落ちる修行でなしに、この「本」というものを工夫し、実参実究して、この「本」を得て、それが何になるとかならぬとか、悟りがあるとかないとかいうことをやめて、「但本を得て末を愁ふること莫れ」と工夫することがもっとも大切なことである。(『禅談』p.240-243)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2025.11.21 10:40:04


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: