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2025.11.28
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

普勧坐禅儀抄話その17

 我々は坐禅というものを何かするためにするのではない。ただ坐禅をすれば坐禅それ自身が途方もなく人間界に宗教的衝動を与えるものである。人々にさえもその通りだからもちろん自分には宗教的つまり仏法、仏の極意にひたっている。いやひたっているのではない。仏法の極意をやっていることになる。他人が見ると、なんだか知らぬが、筋肉をまげて大変な緊張ぶりである。これはボタ餅が7つあれば早く4つ食うように努力するのとは違う。だしあいっこで酒を飲むのに、一升ずつだした酒を一杯でもよけい飲もうと努力するのとはえらい違いである。
 そうすると、こうして坐っているというのは実に得難い気持ちなんである。この気持ちが大切なのである。わたしは一生かかって、高い真理を説くよりも、深いことを考えるよりも、仏祖の教えによって、まっさきに坐ることであると考えた。坐りさえすれば、仏さんよりも丁寧に婆さんが拝みよった。わたしは18歳の時に、わたしの最も尊いことは一生坐禅をすることだと決定できた。
 坐禅は仏法の極意である。自分の形で仏法を具現する、ということが坐禅ということだ。こういう意味から、坐禅の形をたっとぶのである。坐禅は自分の役に立てるものではない。何のため、ということがないのが坐禅なんである。おれは坐禅はしたくないが、月給の種にしようということになると、道楽坊主と一緒になる。月給で坐禅するのならば、なんにもならない。ただ坐禅は坐禅きり、坐禅それ自身が目的であり、彼岸であり、最高価値である。(『禅談』p.329-330)





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最終更新日  2025.11.28 06:20:05


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