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2026.05.05
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カテゴリ: 坐禅
「永平家訓抄話」澤木興道 4-14

「夜來、長沙、永平拂子頭上に來り宿して眠り、寐語して聲を作すこと、再三、斯の頌を誦す」こういうことは、われわれにでも、古人の偈、古人の説法が、耳鳴りすることがある。また何やら去年読んだ本の一つの偈、一つの説法が耳鳴りしてくることがある。こういうことをつまり、昔の長沙が、道元禅師の御胸のうちに来り宿して眠り、寝言をいうと言われたのである。長沙の、「学道の人真を識らず、祇だ従来の識神を認むるがためなり、無始劫来生死の本、癡人喚んで本来人と作す」という偈が、よっぽど高祖の胸を強く打つものがあったに違いない。そこでいつも耳鳴りしていたのであろう。そこで長沙が自分の胸のうちに宿って再三この頌を誦するとおっしゃったのである。

「仍って永平、聊か其の韻を續ぐ」と、次韻をされるのである。そこで「良久して曰く」良久ということは、今でいえば間を置くというような理屈で、ウッとしばらく間を置いて、これからが、永平道元禅師の続韻の偈である。
「學道は直に須く眞に体達すべし」学道は申すまでもなく、参禅学道のことで、真に体達する、すなわち、仏法の真実に体達するのでなければならない。あるいはこれを法性真如の正体に体達するといってもよいが、つまり本来無自性不可得ということを体達することである。不可得ということを体達するのであるから、仏法というのは恐れ入ったものである。それが仏道修行というと、何か積み上げるようなものならば、それは我だけの話になってしまう。だから不可得、無所得ということを体得することは、なかなかたいへんなことである。積み上げたらそれだけ間違うておる。學道は直に須く眞に体達すべし、といわれるわけがここにある。
 そこでわたしたちは坐禅をすることにしても、それが不可得、無所得ということを体得するのでなければならないので、どうしても只管打座することになるわけである。その只管打座の坐禅はどうするのか。それはただ坐るということである。ただ坐るということなら、何にもならん。「そんなこと馬鹿らしいじゃないですか」と必ずいわれるにきまっておる。事実、馬鹿らしいものである。つまり、そのつまらない坐禅が、只管打座である。(「永平家訓抄話」p.311-312)





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最終更新日  2026.05.05 01:00:05


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