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静岡・牧之原市立中学校がネット詐欺被害…表示された連絡先に電話し指示通り操作、学校の口座から送金5/30(土) 静岡県牧之原市教育委員会は29日、市立相良中学校がインターネット回線を使った詐欺被害に遭ったと発表した。同校の通報を受けた県警牧之原署が被害金額などを調べている。市教委によると、同日午後2時頃、学校の事務職員が備品のパソコンを操作していたところ、エラーメッセージが出た。表示された連絡先へ電話し、相手の指示通りに操作した結果、学校の事務用口座から送金された。 職員は電話中に不審に思ってインターネット接続を遮断したが、金融機関に確認すると、送金されていたという。 橋本勝教育長は「再発防止に向け、情報セキュリティー対策の徹底を図りたい」とのコメントを出した。
2026.05.31
37内村鑑三Q&A 山本泰次郎補注「内村鑑三Q&A 山本泰次郎」 その12Q それはエライ事です。 クラークはそのキリスト教を実際にどのようにして教えたのですか。 A クラークは聖書を読むことを教えました。 彼は「イエスを信ずる者の誓約」の冒頭に われらは、聖書は神が人に与えたまえる、言語をもってする唯一直接の啓示にして、かつ輝く未来への、唯一にして完全無謬なる指導者であることを信ずる。 と記していますが、まず英語聖書を生徒各自に与えて、聖書そのものを直接に読ませると同時に、自分でも教室の授業の初めに、音吐朗々と読み上げました。生徒らも必死に聖書そのものを読み、学びました。クラークの伝道は、実は聖書伝道だったのです。札幌バンドのキリスト教は、こうして聖書中心の、いえ聖書唯一の、聖書キリスト教となったのです。 聖書の読方来世を背景として読むべし内村鑑三 聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければわかららない、聖書を単に道徳の書と見てそのことばは意味を為さない、聖書は旧約と新約とに分れて神の約束の書である、而して神の約束は主として来世に係わる約束である、聖書は約束附きの奨励である、慰藉である、警告である、人はイエスの山上の垂訓を称して「人類の有する最高道徳」と云うも、然し是れとてもまた来世の約束を離れたる道徳ではない、永遠の来世を背景として見るにあらざれば垂訓の高さと深さとを明確に看取することは出来ない。「心の貧しき者はさいわいなり」、是れ奨励である又教訓である、「天国は即ち其人の有なれば也」、是れ約束である、現世に於ける貧は来世に於ける富を以て報いらるべしとのことである。 かなしむ者はさいわいなり、その故如何? まさに現われんとする天国に於てその人はなぐさめを得べければ也とのことである。 柔和なる者はさいわいなり、その人はキリストが再び世にきたり給う時に彼と共に地を嗣ぐことを得べければ也とのことである、地も亦神のものである、是れ今日の如くに永久に神の敵にゆだねらるべき者ではない、神は其子を以て人類をさばき給う時に地を不信者の手よりとりかえして之を己を愛する者に与え給うとの事である、絶大の慰安を伝うることばである。 うえかわく如く義を慕う者はさいわいなり、その故如何? 其人の饑渇は充分に癒さるべければ也とのことである、而して是れこの世に於て在るべきことでない事は明である、義を慕う者は単におのれにのみ之をえんとするのではない、万人のひとしく之に与からんことを欲するのである、義を慕う者は義の国を望むのである、而してかかる国のこの世に於て無きことは言わずして明かである、義の国は義の君が再び世にきたり給う時に現わる、「我等は其の約束に因りて新しき天と新しき地を望みまてり義その中に在り」とある(ペテロ後書三章十三節)、而してかかる新天地の現わるる時に、義を慕う者の饑渇は充分に癒さるべしとのことである。 あわれみある者はさいわいなり、その故如何? 其人はあわれみを得べければ也、いつ? 神イエスキリストをもて人のかくれたることをさばき給わん日に於てである、その日に於て我等は人を議するが如くに議せられ、人を量るが如くに量らるるのである、その日に於てあわれみある者はあわれみを以てさばかれ、残酷無慈悲なる者は容赦なくさばかるるのである、「我等においめある者を我等がゆるす如く我等のおいめを免し給え」、恐るべきさばきの日に於てあわれみある者はあわれみを以てさばかるべしとの事である。 心の清き者はさいわいなり、何故なればと云えばその人は神を見ることを得べければなりとある、どこでかと云うに、勿論この世ではない、「我等今(現世に於て)鏡をもて見る如くおぼろなり、然れど彼の時(キリストの国のあらわれん時)にはかおをあわせて相見ん、我れ今知ること全からず、然れど彼の時には我れ知らるる如く我れ知らん」とパウロは曰うた(コリント前書十三の十二)、清き人はその時に神を見ることが出来るのである、多分万物のつくりぬしなる霊の神を見るのではあるまい、其の栄のかがやきその質のかたなる人なるキリストイエスを見るのであろう、而して彼を見る者はちちを見るのであれば、心の清き者(彼に心を清められし者)は天に挙げられしが如くにまた地にきたり給う聖子を見て聖父を拝し奉るのであろう(行伝一章十一節)。 やわらぎを求むる者はさいわいなり、その故如何となれば其人は神の子と称えらるべければ也、「神の子と称へらるる」とは神の子たる特権に与かる事である、「其の名を信ぜし者にはちからを賜いて之を神の子と為せり」とある其事である(ヨハネ伝一章十二節)、単に神の子たるの名称を賜わる事ではない、実質的に神の子と為る事である、即ち潔められたる霊に復活体を着せられて光の子として神の前に立つ事である、而してこの事たる現世に於てなさるる事に非ずしてキリストが再び現われ給う時に来世に於て成る事であるは言わずして明かである、平和を愛し、与論に反して之を唱道するのむくいはかくも遠大無窮である。 ただしき事のために責めらるる者はさいわいなり、その故如何となれば、心の貧しき者と同じく天国は其人のものなれば也、この世に在りては義のために責められ、つぎの世に在りては義のために誉めらる、ただに普通一般の義のために責めらるるに止まらず、更に進んで天国と其義のために責めらる、即ちキリストの福音のためにこの世と教会とにせめらる、栄光この上なしである、我等もし彼と共に死なば彼と共に生くべし、我等もし彼と共に忍ばば彼と共に王たるべし(テモテ後書二章十一、十二節)、キリストと共にいばらのかんむりをかむらしめられて信者は彼と共に義のかんむりを戴くの特権に与かるのである。「我がために人汝等をののしり又せめ偽わりて様々のあしきことを言わんその時汝等は福なり、喜べ、躍り喜べ、天に於て汝等のむくい多ければ也、そは汝等よりさきの予言者をもかくせめたれば也」と教えられた、天国は万事に於てこの世の正反対である、この世に於て崇めらるる者はかの世に於てはずかしめらる、この世に於て迫害らるる者はかの世に於てほめらる、「ある人はあざけりをうけ、鞭打れ、なわめとひとやの苦を受け、石にてうたれ、鋸にてひかれ、火にてやかれ、刃にて殺され、棉羊と山羊の皮を衣て経あるき、ともしくしてなやみくるしめり、世は彼等を置くに堪えず、彼等はあらのと山と地の洞と穴とにさまよいたり」とある(ヘブライ書十一章三十六-三十八節)、是れ初代の信者の多数の実験せし所であって、キリストを明白にあかしして、今日と雖もやや之に類する困厄の信者の身に及ばざるを得ないのである、而かも信者は悲まないのである、信仰の先導者なるイエスは其の前に置かれたるよろこびに因りてその恥をも厭わず十字架のくるしみを忍び給うた(同十二章二節)、信者はのぞみなくして苦しむのではない、彼も亦「その前に置かれたるよろこびに因りてその恥を厭わない」のである、神は彼等のために善きみやこを備え給うたのである、而して彼等は其褒美を得んとてめあてに向いて進むのである(黙示録七章九節以下を見よ)。 かくのごとくに来世を背景として読みて主イエスの是等のことばに深き貴き意味が露われて来るのである、()主は我等が明日あるを知るが如くに明白に来世あるを知り給いしが故に、彼の口より斯かる言辞が流れ出たのである、是れ「我れ未だ生を知らずいずくんぞ死を知らん」と言う人の言ではない、よく死と死後の事とを知り給いし神の子の言である、彼はアルバであり又オメガである、はじめであり又おわりである、今あり昔あり後ある全能者である(黙示録一章八節)、故によみと死とのかぎ(秘密)を握り今ある所の事(今世の事)と後ある所の事(来世の事)とを知り給う(同十八、十九節)、而して斯かる全能者の眼より見て今世に於て貧しき者は却て福なる者である、柔和なる者(ふみつけらるる者の意)は却て地の所有者となる、神を見るの特権あり、清き者は此特権に与かるを得云々、ことばは至て簡短である、然れども未来永劫を透視する全能者の言辞として無上に貴くある、故に単に垂訓として読むべき者ではない、予言として玩味すべき者である。 其他山上の垂訓の全部が確実なる来世存在を背景として述べられたる主イエスの言辞である、而して此背景に照らし見て小事は決して小事ではない、其兄弟を怒る者は(神の)さばきにあずかり、又其兄弟を愚者よという者は集議(天使の前に開かるる天の審判)に干り、又しれものよという者は地獄の火に干るべしとある(マタイ伝五章二十二節)即ち「我れ汝等に告げん、すべて人の言う所の虚しき言はさばきの日に之を訴えざるを得じ」とある主イエスの言の実現を見るべしとのことである(同十二章三十六節)、姦淫の恐るべきも亦之がためである、「若し汝の眼汝を罪におとさばぬきいだして之をすてよ、そは五体の一を失うは全身を地獄に投入れらるるよりは勝ればなり」とある(同五章二十九節)、又ほどこしは隠れて為すべきである、右の手の為すことを左の手に知らしむべからずである、然れば隠れたるにみたまう神は天使と天の万軍との前にあらわに報い給うべしとのことである(同六章四節)、即ち「隠れて現われざる者なく、つつみみて知れず露われ出ざる者なし」とのことである(ルカ伝八章十七節)、今世は隠微の世である、明暗混沌の世である、之に反して来世は顕明の世である、善悪判明の世である、故に今世に隠れて来世に顕われよとのおしえである。 殊に山上の垂訓最後の結論たる是れ来世に関わる一大説教である。(略)主イエスは単に来世を説き給う者ではない、彼れ御自身が来世の開始者である、彼はただにおわりの審判を伝え給う者ではない、彼れ御自身が終末の審判者である山上の垂訓は単に最高道徳の垂示ではない人の永遠の運命に関わる大警告である、天国のかがやきと地獄の火とを背景として読むにあらざれば福音書のはじめに掲げられたるイエスの此最初のみおしえをすら能く解することが出来ないのである。 (以下略)
2026.05.31
23 「去る明治38年に二宮尊徳先生の50年祭が、栃木県今市町の報徳二宮神社で催された。その時、父はそれに参列して、尊徳翁が心血を注がれた遺著約1万巻が相馬の二宮家に蔵されていることを聞いて、その複本を作って報徳教研究者に公開すると同時に、原本に万一のことがあった場合に備えたいと思った。そこで、嫡孫二宮尊親氏にそのことを相談したところ快諾されたので、翌39年1月から筆生20名を雇ってその謄写を開始した。それが満3ヶ年かかって完成したので、総数9,014巻を2,500冊に綴って、この年の11月に同神社へ奉納した。これと同時に、同社境内へ御影石の大鳥居と神饌所と、上記の書冊を貯蔵して希望者に閲覧させるための石造二階建の報徳文庫一棟とを建造して奉納した。」(「黎明日本の一開拓者」p333)報徳文庫(「今市市史」通史編・別編1p372) 二宮尊徳没後「50年祭」のとき、遠州静岡県の報徳社員鈴木藤三郎が、祭典に参列のため今市に来たが、二宮家に尊徳の各種の著述1万巻が残されていることを聞き、この写本を作成して、今市の二宮神社に納め、報徳の教義研究の資料にするべく、「報徳文庫」の設立を計画した。二宮家当主尊親の許可を得て、その筆写事業は原本の保存されていた相馬で行われた。筆生20余人を雇い、明治39年1月から41年(1908)11月までかかって、9,014巻2,500冊の写本の作成を完了、238帙に収めて、今市に送り神社に寄付した。経費7,000余円は藤三郎が個人で負担した。明治42年(1909)5月、神社内に石造の「文庫」建物が創立され、そこに収められた。現在、明治百年記念事業として昭和43年に新築された「新報徳文庫」の二階に収納されている。 相馬において作業を行ったため、用紙を静岡から求め、筆生を集めるのに苦心し、表紙は東京で購入して、製本の職人は仙台から雇うなど、さまざまな苦心の結果が実ったものであった。もちろんそのすべては現在では、刊行された「全集」に収められている。しかし、「50年祭」に行われたこの「報徳文庫」の設立は、今市の報徳運動の歴史にとって極めて大きな事業であった。「報徳物語」(井口丑次著)第2編第1 報徳文庫大観 1 文庫の由来二宮翁遺書1万巻が野州今市の官舎に保存され、戊辰の変に際して遙かに奥の相馬に運ばれ、更に数ヶ所に転々し、相馬家倉庫に納められたる次第については、さきに「報徳物語」第1編で、翁の令孫尊親氏の談話をそのままに掲載した。さらに新たにその全部を写し、これを今市の報徳二宮神社に献納して文庫を設け、保存を図るとともに、公衆の閲覧に便利にしようとする動きのあることを記しておいた。この謄写の件については、いよいよ一昨年の冬結了して、昨春今市に輸送されて、5月30日に献納の祭式があり、文庫は公開された。それ以来篤志者や篤学者が数十里の外から来て、閲覧する者が若干ある。参詣のついでの参観者は、日に月にますます多く、その閲覧する者が大いに学ぶ所あるべきは疑いがなく、単に参観望見する者であっても、この偉大な遺物によって、激励感化されることは少なくないであろう。(略)翁がこのような繁劇多忙の生涯において、このように浩瀚な書類を結集した、その精力の絶大であることは、何人も認めざるを得ないところであろう。実に当文庫の真価は、その内容が閲覧者の知識・道徳に与える功益の外、翁がほとんど一代で、このような大部の書を述作編成及び実行したという事実が、社会人心に深く感ずる点にある。すなわち当文庫はこの点において、他の一般の図書館と異なって、ほとんど一の奇蹟としてこれを永久に伝えるべきものである。次に鈴木氏の献本願文、二宮氏の謄写全書の序、及び大槻氏の謄本事略を掲げて、文庫の由来を明らかにする。 願文(原文はカタカナ表記だが、句読点をつけ、ひらかな表記とした)報徳社徒不肖藤三郎誠恐誠惶謹で二宮尊徳先生の神霊に白(もう)す。恭く惟れば先生畢生唱道し給へる報徳の教義は、洋の東西を論ぜず、人種宗教の如何を問はず、古往今来幾千万歳を経るも、凡そ世界に生存する人類に於て、貴賎貧富男女老幼の別なく、允に克く遵守せざる可からざる要道にして、若し之れ無くば、人道廃頽して民衆安息すること能はざるなり。先生の世に在すや、憂国の至誠外に溢れ、熱血の注ぐところ感奮興起せざる者なく、済世恤民の良法諸州に亙って其効実に顕著なり。而して其実践躬行の跡は歴々として、先生の遺書に存し、其書殆ど万巻を以て算す。然りと雖も之を知る者多からず。知らざれば行うこと能わず。行はざれば世を済ひ民を理すること能はず。是猶名玉を懐中に蔵するが如し。豈痛惜せざるべけむや。是を以て令孫尊親先生の允許を得て、之を謄写せしめ、全部九千巻を得たり。之を二千五百冊と為し、文庫一宇に収め、併せて之を神社に奉納し、衆庶の熟覧研究に備ふ。将来幸に有志の士之を繙き、明晰なる識見を以て。先生の教旨を解釈し、熱誠以て之を世に拡張し、忍耐以て実践して息まざらば、民風頓に興り。富強期して埃つべし。仰ぎ冀くば先生が神霊の冥護に依り、人類必至の要道たる報徳教義の広く天下に普及し、真正なる文明の実を見るを得んことを。 不肖藤三郎誠恐頓首頓首敬て白す明治四十二年五月三十日 報徳社徒 鈴木藤三郎 九拝<二宮尊親氏の「序文」の現代語訳(原文略)>(略)亡祖父尊徳は、生涯、産業を盛んにし、民を救助する事業に粉骨砕身し、大は幕府・諸侯の領内及び旗本の領地が衰廃しているのを興復し小は一村一家の窮貧の回復に至るまで努力すること多年。その間、仕法を行った事跡を書に残したものはほとんど一万巻になります。幸いに志士仁人がひもといて世の中の利益に貢献するところがあれば、尊徳の泉下の霊もまた安らかに眼を閉じることでしょう。このために更にその謄本を別所に所蔵して、たとえ非常の災害があっても原本と写本のいずれかその一つを永遠に存し、人民の観覧の参考の利便を失わないことを欲して、まだ果すことができないことを残念に思って数年がたちました。遠州の人、鈴木藤三郎氏は従来から深く尊徳の遺教を信じ、これを工業に応用して成功するもの一つだけでは足りません。また常に最も遺教の普及に努めています。氏はたまたま二宮尊徳の遺書があるを知って、喜んで速やかにその謄本を野州今市報徳二宮神社の境内に実蔵し、一には保存上の安固をはかり、一につは志士研究の材料に供しようとし、すなわち原書謄写の承諾を予に求めました。予は喜んでこれを承諾しました。以来3年を経て本年本月に謄写が終了し、全部九千巻を二千五百冊となし既に築造の報徳文庫に納めることができました。ああ予の宿昔の希望はここにに始めて達成できました。・・・深く氏の篤い志に感じ、記して序とする次第です。以上。明治41年(1908)初冬 二宮尊親しるす報徳全書謄本事略<大槻吉直氏の「報徳全書」作成の由来の現代語訳、原文略>二宮尊徳先生の世に在るや、一意至誠、興国安民の事業に慎みかしこまって全力を尽くして日もまた足らないとされました。その麗しく立派な徳と良法の恵沢によって地を開き産業を増やし風俗をよくし、人民の生活を安んずるものは数えることができません。そしてその教えや人民の救助に関する書類は積んで棟に充ち、今なお厳存します。ああこの書は、これ皆先生の涙と血とが結晶したものです。(略)報徳社徒鈴木藤三郎君はまた常に先生の遺教を拡張して、国家の元気を発揮しようと望んで努力すること歳月を経ました。明治38年11月二宮尊徳先生の五十回忌日に野州今市の報徳二宮神社において大祭典を行うに当って、遠近諸州の信徒が来って礼拝する者がおよそ3万人。鈴木君もまた来拝し、石造の大きな鳥居一基と神饌所一棟及び境内に檜の木いくらかを寄付し、まさに去ろうとするに際し、たまたま先生が生涯心血をそそがれた遺書がほとんど一万巻が二宮家に所蔵されていると聞くや、こおどりして喜ぶことただならず、すぐに決断し神社境内に報徳文庫を建造して遺書の謄本を宝蔵し、永久の保存及び教義の研究の両益を挙げようとし、すなわち令孫尊親先生にそのお許しを求め、文庫建築の指揮はこれを今市の町の篤志家に委託し、去年既に落成して謄写完成の時期を待ちました。そして謄写の指揮・監督は相馬在住の同志者に委託し明治39年1月にその事業を始め今年今月完成を告げました。全部9,014巻、これを2,500冊とし、236帙(チツ)に収めて今市に輸送し、鈴木君に渡しました。文庫の建築及び謄本一切の費用はおよそ七千金である。相馬の地は、由来東のはての辺境にあって用務は不便で用紙は遠く駿河に仰ぎ、筆生は四五里内外に招いて、製本職工は仙台に、書冊の表紙は東京に求めたために、おのずから事業完成に長い歳月をついやし、したがって多額の費用を要するのもまた止むを得ないところである。しかし事業に要した家屋、倉庫及び諸什器等はことごとく相馬子爵の好意によって3年間無償で借用することを得たのは不便中の便であって、その厚意は実に感激するところである。ここに謄本に関する顛末をおおむね記して後の参考にあてる。(略)将来、有志の士が先生の神前にぬかづき、その清澄な頭脳とその堅実な信念とで先生の足跡というべき遺書をひもとくならば、先生はどのような教えによって衆生を救済したのか、その熱い涙、熱い血のそそぐ所、どのように感化を与えたであろうか。そしてどのように人道、世益に貢献したかを反復、討究して感奮興起、涙が溢れ血が沸き、報徳的活動が各地に勃興するようになれば、すなわち次第に人民は仕事に励み、物産は増殖し、真心からの推譲の徳風が行われ、ついに先生のいわゆる真楽国が実現することを見るにいたるでしょう。想うに鈴木君がこの文庫を神社境内に建設するの意旨もまたここにあるであろう。ああ善なるかな。 明治四十一年十一月 磐州相馬中村 報徳社徒 大槻吉直 花押
2026.05.31
大智禅師偈頌講話 沢木興道 鳳山山居(五) 万象之中独露身 (万象の中独露身) 更於何処著根塵 (更に何れの処に於いてか根塵を著けん) 回首独倚枯藤立 (首を回らして独り枯藤に倚って立てば) 人見山兮山見人 (人山を見る山人を見る)『大智禅師偈頌』のうち、「鳳山山居」八首中の第五首。 まず、「万象の中独露身」これは長慶の言葉である。『従容録』の中に「万象の中独露身、払って独露身か、払わずして独露身か」という問答がある。今ばかりじゃない。昔もそれ位のことでさえも、分らなんだことがある。 万象の中独露身というのは払って独露身か、払わずして独露身か。で、長慶は「万象の中独露身、唯人自ら肯って乃ち方に親し」宗教的体験の上からわれわれの日常生活が、万象の中独露身。天地いっぱい。『正法眼蔵現成公案』の中に「自己を修証するはさとりなり」とある。で、万象の中独露身、天地に、二つのものがなくなる。眺めるものと、眺められるものと二つなくなる。 拝む衆生と拝まれる阿弥陀さんと二つあるとなると、拝む衆生からは売僧(まいす)根性が出ようし、拝まれる阿弥陀は調子づいて来よう。しかし前に一切衆生はない。またその前に阿弥陀はない。救う観音と救われる衆生と二つない、一つになる。寝ておる、その一睡のまどろみの中に、相手もおれば、味方もおる。ご馳走もあれば、ご馳走でないものもある。うまいものもあれば、味ないものもある。酒もある。ものは二つもない。これを『華厳経』には「三界唯一心」という。あるいは唯識唯心、唯心の所現という。だから、心外の諸法は諸法の本なし。こうして見えるものはなんにもない。 それは、心内の諸法ともいえるし、心外に一物もないともいえる。万象の中独露身だから、「更に何れの処に於いてか根塵を著けん」根は六根、すなわち主観である。塵は六塵、すなわち客観である。更に何れの処に於いてか根塵を著けん。主観がない。仏道修行というのは、この主観と客観の二つの尽きるところに道がある。 主観と客観と二つを立てて、阿弥陀さんに賽銭をあげて売僧こくようなつもりで拝んでおる。安心も糞でもない。極楽と娑婆と二つ並べて、「この娑婆は嫌なところでございまして、罪悪深重、五濁悪世、どうぞお救いください」といっても、極楽はないことに決まっておる。二つないところに道がある。それが万象の中独露身、更に何れの処に於いてか根塵を著けん、なんというか、わたしはこれを実あって名のない世界という。これが万象の中独露身である。そしてそれが人間の進む道であり、それが法性真如の世界である。一心真如門。真如は一つ。それが一心二門三大四信五行と転々として来る。 その万象の中独露身、それは何であるか。これが坐禅なんだ。わたしは「坐禅は宇宙の全景を一目に見る法である」とよういう。だが、見るといっても眼で見るのではない。心で宇宙の全景を一目に見る。で、誰やらが「お互いを残りなく解することを、愛の第一義」という。「ウン、それだからお前を残りなく解する」お前を残りなく解するということはどういうことか。 細君と二人で相談して、「お前を残りなく解しておる。俺をどう解しておるか」お前を残りなく解するとは、どういうことか。残りなくといっても、まあ時間的にいって、現在までのところー。それもなかなか容易なことではない。過去にどんなことをしておるか分からん。ましてこれから先どんなことを思うか分からん。どんなことをするか分らん。そうすれば、お互いを残りなく解するということは不可能なことである。 そればかりではない。自己を残りなく解することも不可能である。道元禅師は「自なほ自の落処を知らず、他いかでか他の落処を識ることを得んや」自分というものの成り行きが分らん。ここまで来たのはまぐれ当たりじゃ。来ると決めて来たのではない。沢木さんもこんなところへ来て、こんなことをしようと思いはせん。どうしようかと思っても、なったものは仕方がない。腐れ縁じゃ。 これから先自分が分らん。またこれから先、どうなるか分からん。どんな死にようするか分らん。なにを食って死ぬか分からん。逆とんぼして死ぬやら、汽車に乗って死ぬやら、自動車で死ぬやら、中風で死ぬやら、胃病で死ぬやら、肺病で死ぬやら分らん。また、自分の心理状態がいかに転換するやらこれも分らん。「自なほ自の落処を知らず、他いかでか他の落処を識ることを得んや」だから、お互いを残りなく解することは容易なことではない。そのお互いを残りなく見る。それが即ち非思量、それが坐禅である。それが即ち万象の中独露身である。天地同根、万物一体の理屈じゃ。天地同根、万物一体を実物でするのが即ち禅である。(大智禅師偈頌講話p.19-22)(続く)
2026.05.31

187二宮翁逸話31 翁の苦学 翁は、「報徳記」にあるごとく閑がないので夜分人の寝静まった時とかあるいは山に行って休息の時とかあるいは道を歩く時とかに「大学」を読まれた。その「大学」は今二宮兵三郎氏方に残っておって、余もしばしばこれを見たが、その「大学」の中にある君子というところに「ヨキヒト」という仮名が付けてある。また、「小人閑居して不善を為す」の「閑居」というところに「ヒマ」という仮名が振ってある。また服部家に仕えておられた時に、服部家の息子が学問をするやめに儒者のところへ行くと翁もまた伴をして行って玄関や縁側で待ちながら聴き学問をしたということである。☆「金次郎はこれより朝早く起きて遠い山まで行っては、薪(たきぎ)を切ってこれを売り、夜は縄をなって草鞋(わらじ)を作り、寸陰(すんいん)を惜しんで働き、母の心を安んじ、ふたりの弟を養った。 そして薪(たきぎ)をかる往復にも「大学」の書をふところにして、途中あゆみながら、暗誦(あんしょう)して少しもおこたらなかった。大声で読み上げて道を通ったものだから、行きかう人は驚いて頭がおかしい子だとみなす人もいた。」○これは「報徳記」の記述で、金次郎が薪を背負いながら本を読む銅像はこの記述に由来する。 ちなみに、銅像が開いている「大学」ページには「一家仁 一国興仁 一国興譲 一人貪戻 一国作乱」と書いてある。 「一家が仁の徳を実践すれば、一国全体も仁が盛んになる。逆に一人(国君)が貪欲で道にもとる人間であれば、一国全体に乱が起こるようになる」ということである。
2026.05.31
37内村鑑三Q&A 山本泰次郎「内村鑑三Q&A 山本泰次郎」 その10Q 実に劇的です。その時、北海の空一面に天使の大群が集まって、両雄の闘いをば、息をのんで見ていたことだろうと思います。それでクラークはどんなキリスト教を伝えましたか。 A まず第一に唯一永遠の神エホバを畏れ拝すべきことと、われらの罪を贖うために十字架上に死にたもうた救い主イエス・キリストを信じてその忠実な弟子となるべきことと、キリスト教の教えと精神とに従って清い、義(ただ)しい生涯を送るべきこととを教えました。 下段に署名するS.A.カレッジ(札幌農学校)の生徒は、キリストを彼の命令にしたがって告白することと、十字架上の彼の死に我々の罪のためにあがないを為したもうかの救い主に我々の愛と感謝とを示さんがために真の忠誠をもってすべてのキリスト信徒の義務を果すこととを願いつつ、そして彼の栄光の増進と彼が代って死にたもうた人々の救いとのために彼の御国を人々の間に前進せしめんことを熱心に望みつつ、彼の忠実な弟子となることと彼の教えの文字と精神とに厳密に一致して生きることとを。この時よりのち、神に対しまた相互に対して、厳粛に契約する。そして適当なる機会のある場合には我々は試験、洗礼、入会のためにいずれかの福音主義教会に出頭することを約する。我々は信ずる、聖書は言葉をもってせる神より人への唯一の直接の啓示、光栄ある未来の生命への唯一の完全無謬な指導者であることを。我々は信ずる、我々の憐み深い父、我々の公正にして至上なる支配者にいましたまい、そして我々の最後の審判者にいましたもうべき、ひとりの永遠の神を。我々は信ずる、すべて心から悔いそして神の子を信ずる信仰によっておのが罪の赦しを得る者は、この生涯を通じて聖霊によって恵みゆたかに導かれ、そして天の父の注意深い摂理に護られ、かくしてついには贖われた聖なる者の享受するもの追及するものにあずかる備えをなさしめられるべきことを。しかし福音の招きを受けることを拒むすべての者はおのが罪の中に滅び、主の御前から永久に退けられなければならないことを。以下の誡めは、我々は我々の地上の生涯のあらゆる転変を通じてこれを記憶しこれに服従することを約する。 汝、心を尽くし精神を尽くし力を尽くし思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし。またおのれのごとく汝の隣人を愛すべし。汝、いかなる被造者または被造物のいかなる彫像またはいかなる肖像をも拝すべからず。汝、主なるなんじの神の御名をみだりに用うべからず。安息日を覚えてこれを聖(きよ)く守り、すべて不必要の労働を避け、これをできるかぎり聖書の研究となんじ自身及び他人の聖なる生活への準備のために献(ささ)ぐべし。汝、汝の両親と支配者に服従し、これを敬うべし。汝、殺人、姦婬あるいは他の不潔、窃盗、あるいは欺瞞を犯すべからず。汝、汝の隣人に何の悪をも為すべからず。断えず祈れ。相互の援助と奨励のため我々はここに『イエスを信ずる者』の名のもとに一団体を構成する。そして我々は聖書あるいは他の宗教的書籍文書の閲読のため、会談のため、祈祷会のため、我々が共にする間、毎週一回以上集会に出席することを固く約する。そして我々は衷心より願う、聖霊の我々の心における明白なる臨在が我々の愛を活気づけ、我々の信仰を強め、我々を真理の救いの知識に導きいたらんことを。 S(札幌)にて 1877年3月5日。 <クラーク精神(Clarkii Spirit)>5 「イエスを信ずる者の契約」と4人の信仰宮部金吾は「札幌農学校創立者であるWilliam Smith Clarkの名は、北海道大学が存在する限り、また日本にキリスト教が宣伝される限り、永遠に敬慕の念をもって記憶されるであろう」と自叙伝に記した。日本キリスト教史上最も重要な運動は、クラークが札幌農学校にもたらした。その成文化された最初のものが「イエスを信ずる者の契約」であり、クラークによって書かれ、第一期生全員と第二期生の大半が署名した。これは、神と相互に対しての契約である。アメリカ開拓のメイフラワー号のピルグリム・ファーザーズの契約と同様に共同体創設の構成をもつ。何を契約したか。キリストを告白すること、キリスト教徒としての義務を果し、キリストの栄光を増進するためキリスト教信仰を人々に前進することを願い、彼の忠実な弟子となり、聖書に一致して生きること、そして適当な機会に福音主義教会に出頭することを契約したのである。何を信ずるのか。聖書を唯一の指導書とすること、一人の永遠の神を。イエスを信ずる者は神により護られ救われ、拒む者は罪の中に滅び、神の前から永久に退かれることを。次の戒めを記憶し服従する。1神を愛し、隣人を愛する。2偶像を拝まない。3神の名をみだりに用いない。4安息日を守る。5両親と支配者に服従する。6殺人、姦淫、他の不潔、窃盗、欺瞞を犯さない。7隣人に悪を行わない。8絶えず祈る。相互の援助と奨励のため一団体を構成し、聖書を読み、祈祷等のため毎週1回以上集会に出席することなどが相互に契約された。内村鑑三は、当初この契約は、第一期生からなかば強制的に署名させられたとあるが、むしろ手紙によれば、同室の親友宮部の勧奨が大きかったようである。内村にとってその実際的利益は「宇宙には一つの神」があり、「多数-800万以上-でない」ということで、毎朝四方の神に拝礼したのを止め、途中の神社への祈りを止めることができることにあった。「新しい信仰によって与えられた霊的自由は心と体に健全な感化」を与え「勉学に一層集中」できるようになった。札幌農学校生徒にとって、最初の課題は「安息日を守る」ことにあった。契約では「安息日」は「不必要の労働を避け、聖書の研究と自他の聖なる生活への準備にあてよ」と説かれ、学校の勉強にその日を費やすことはよくないことになる。安息日の遵守が信仰の障害に感じられる生徒が多く、逆に契約者は安息日を固く守り(日曜日の夜12時まで勉強しなかった)、その他の日に集中的に勉学して、むしろ成績で非信仰者を圧倒することによって、自らの信仰の正しさを立証しようと懸命に努力したように思われる。努力の繰返しは彼らの生活態度となっていく。「イエスを信ずる者」の特徴は教会ではなく、聖書を唯一の指導書とし、「絶えず祈れ」であった。内村は宮部家の祝いのテーブル・スピーチでなぜ「かくも長く交友を続けた得」たか語る。同室4年間、毎夜10時の鐘を聞けば独りになって「人の見ざる場所で神に祈」った。その神聖な祈祷を相互に見た。そして相互を信頼したことにあるという。そして広井勇も自分の信仰は特殊だからと、家族の合同の祈祷には加わらず、部屋に鍵をかけて生涯独り祈祷し涙したのである。 内村鑑三は、札幌農学校のピューリタニズムの信仰を土台にしながら、鎌倉仏教の祖師たちが中国渡来の仏教でなく、「日本仏教」を打ち立てたように、欧米のキリスト教信仰でない「日本キリスト教」を創造する困難な道を生涯をかけて実践し続けることになる。マックス・ウェーバーは、「資本主義の精神」はプロテスタンティズムの倫理に由来し、それは西ヨーロッパとアメリカで起ったという。しかし、日本にも直接ピューリタニズムはもたらされたのだ。それは札幌農学校出身者の教育的活動により、日本全国に広まり、日本の近代化合理化に重要な役割を果たした。そして内村鑑三によって創始されたキリスト教の日本化は今も進展中なのかもしれない。
2026.05.30
37内村鑑三Q&A 山本泰次郎補注「内村鑑三Q&A 山本泰次郎」 その11Q 八百万(やおよろず)の神仏を拝する偶像教国日本に育ち、昨日まで儒教道徳によって養われてきた日本の青年たち-特に彼らは皆武士の子弟だったと聞きます(※)が-にとり、それはまさに革命的な大事件だったことでしょう。 A 特にクラークの道徳教育の厳しさに、彼らは驚かされました。クラークは、粗暴に流れがちな上に、性道徳において特に低く、みだれている日本の青年を救う道はキリスト教道徳以外にない、と固く信じていました。着任早々、生徒のための細かい規則や心得の草案を示されると、「ソンナものは要らない。“Be gentleman!”(紳士たれ)でたくさんだ」と一喝してしりぞけてしまいました。 ※ 宮部、内村、新渡戸と広井は武士の子弟であり、士族出身が多かったことは事実だが、「イエスを信ずる者たちの契約」した者たちが、皆武士の子弟というのは誤りである。 ただ士族出身者は入学当時、そのことを強く意識し社会的にも関心があったことは、新渡戸が義父に出した手紙に「当時は岩崎行親と申す人(大阪府平民)と共に同室に住居仕候」など記したり、広井も写真に「高知県 士族 広井勇」と記したことなどからもわかる。また始業式の席上、生徒らに向かって、「節制につとめ、性欲を慎しめ」と訓辞して、黒田長官以下のなみいる人々を驚倒させました。そして直ちに「禁酒、禁煙の誓い」を起草して自ら筆頭に署名し、米国人教師と生徒の全員にも署名させました。彼自身、率先してこれを厳守し、いかなる場合にも、黒田長官の招宴の席でさえも、決して杯に手をふれませんでした。彼はまた日曜日を聖く守るべきことを強く教え、厳しく実行させました。彼はニューイングランドの清教徒(ピューリタン)のキリスト教を、しかもその最も純真な、厳格なキリスト教をそのままに生徒らに伝え、自らまっ先に実践したのです。
2026.05.30
【大相撲】白鵬氏の旧宮城野部屋〝完全消滅〟 部屋OBは怒り心頭「あまりにもひどい仕打ち」5/30(土)大相撲の元横綱白鵬翔氏(41)が師匠を務めていた旧宮城野部屋が〝完全消滅〟したことに、部屋のOBからは不満の声が上がっている。旧宮城野部屋は元幕内北青鵬による暴力問題の影響で、2024年4月から当面閉鎖。力士たちは伊勢ヶ浜部屋が預かる形で転籍した。 先の夏場所では、旧宮城野部屋出身の炎鵬(31)が3年ぶりに十両復帰を果たし、親方になるために必要となる関取通算30場所に到達。日本相撲協会を退職した白鵬氏から年寄名跡を継承した現宮城野親方(元横綱旭富士)は、旧宮城野部屋の力士が親方になる資格を得た場合、その力士に名跡を譲渡して、部屋の復興に協力する考えを示していた。 そうした中、相撲協会は28日の理事会で伊勢ヶ浜部屋に在籍する旧宮城野部屋力士の預かり解除を電撃決定。名実ともに伊勢ヶ浜部屋の力士となった。既存の部屋の継承ではなく、独立して部屋を新設するためには、親方になるより高い条件(横綱大関経験者、三役通算25場所、幕内通算60場所)が必要。白鵬氏の流れをくむ部屋を再興する道筋が事実上、なくなった。 今回の決定に、旧宮城野部屋OBは「なんで炎鵬が親方の資格を取った直後にやるのか。嫌がらせ以外の何物でもない」と憤りをあらわにする。このOBによると、転籍した力士たちは今回の決定を報道で知ったという。「(事前に)何の説明もなされていないのは大問題だと思う。今まで再興を期して、ほかの部屋で泥水をすすりながら頑張ってやってきたのに、あまりにもひどい仕打ちじゃないですか」と不満を訴えた。 部屋の復活へ、いちるの望みが見えた中で下された突然の決定。まだまだ波紋が広がりそうだ。
2026.05.30

37内村鑑三Q&A 山本泰次郎Q それではクラークはどのようにして札幌農学校の生徒らにキリスト教を教えたのですか?明治9年頃の日本の官立で、公然とキリスト教を教えることはまだ許されていなかったはずですが。 A クラークは黒田の要請に応じて現職のまま札幌農学校の教頭となりましたが、「他人が2年でやるところを、自分なら1年でやってみせる」と豪語しながら、新設の農学校の基礎をすえるために来日しました。彼は横浜に上陸するや、まず英語の聖書50冊ばかりを買い入れました(※1)。※1 ここのクラークが英語の聖書を50冊ばかりを買い入れたという山本泰次郎氏の記述は、誤りであるようで、アメリカ聖書協会の代理人ギュリック博士から30冊を札幌農学校の生徒用にと寄付されたものであるようである。 もう一冊のクラーク聖書http://www.lib.hokudai.ac.jp/koho/yuin/yuin93/yuin2.html 文学部教授 土屋 博 1876(明治9)年8月W.S.クラークが札幌農学校に赴任したとき、 英語訳旧・新約聖書(Authorized Version)30冊を携 えており、やがて時期を見て(おそらく10月頃)、第一期生全員にそれぞれの氏名を記入して分け与えたことはよく知られている。この出来事は、翌年の「イエスを信ずる者の誓約」とともに、日本キリスト教史におけるいわゆる札幌バンドの原点として伝説化されるに至った。30冊の聖書は、クラークが横浜上陸後自ら聖書会社へ出向き、二三のやりとりののち購入したも のだという話は、内村鑑三の講演に由来し、逢坂信忢によって若干の修正を加えられた上で、一般に流布されているが、今日では、多少事実と異なるのではないかと考えられる。クラーク自身の妻あての書簡には、「L.H.ギュリック博士が私を訪ねてきて、私に札幌の生徒用にと英語聖書30冊を呉れました。彼はアメリカ聖書協会の中国と日本担当の代理人です」と記されているからである(太田雄三『クラークの一年』昭和堂、1979年、63ページ)。このギュリックおよび彼の家族とクラークとは、翌年再び会っているので,聖書贈呈に関する書簡の記述は確かであると思われる。また、学生たち一人一人の名前をクラークが書き入れたということは、大島正健によって伝えられてきたが、帰国後のクラークが行なった講演の新聞報道にも同様の記述が見られるので、間違いなく史実であろう。 5 クラーク先生を記念するもの札幌独立キリスト教会の会同 明治10年4月、クラーク先生は先に記したごとく、札幌を去るに先立って「イエスを信ずる者の誓約」を起草し、一期生の有志の者に署名させたが、二期生もほとんど全部が署名するに至った。その後、署名者の約半数は信仰を捨てたが、残りの半数は毎週集会を開き、聖書を研究して信仰を練り、卒業後、明治14年同志相はかって外国の教派と何ら関係のない札幌独立キリスト教会を設立した。爾来クラーク先生の遺業の一つであるこの信仰の一団体は幾多の困難の内に成長発達した。大正元年に内村鑑三氏が独立教会応援のために来札した時、クラーク先生の宗教的な働きを記念すべく、札幌独立キリスト教会の会堂が、大通西7丁目に堂々と建設された。この会堂は永久的耐火建築物で、地下室を有し、建築費はおおむね会員またはクラーク先生を敬慕している人々の寄付により、札幌に縁故があった中條清一郎氏(作家中條百合子の父)の同情ある設計により、工事は義侠心に富む伊藤亀太郎氏の手によって竣工したものである。そして大通りにおける由緒ある教会堂として、札幌市民にも愛慕されている。記念胸像 大正15年5月北大創基50年記念会が挙行されるに当り、札幌同窓会の幹事が発起人となり、広く卒業生、教職員、学生生徒、その他の有志から寄付金を集め、クラーク先生の胸像を学園内に建立し、これを大学に寄付して祝賀の意を表し、また先生の功績を記念することになった。しかもそれがクラーク先生生誕百年に相当し、この記念事業は一層意義を深めた。5月14日、楡影のもとに除幕式が行われた。時あたかもよき春日和で、微風はやわらかくほの暖かく吹きわたり、ちょうど本学創基50年記念式餐宴後であったので、職員の家族も見え、学生生徒も加えると参列者総数3千名と記録されている。第一期生内田瀞(キヨシソウの名は氏を記念している)氏の令孫住友琴子さんが除幕の綱をひき、50年前の人格者が厳然として現われた。あたかも50年式典に特に臨揚された高松宮殿下は岡田文相等と共にお立寄になった。北海道大学最初の胸像はかくて雄大な学園に一光彩を添えた。胸像は銅像で、田嶋碩朗氏作。胴石は福島県産の紅御影、高さ6尺1寸、幅2尺3寸角。文字 W.S.CLARK は先生の自署を拡大したもの。それに先生の遺訓 Boys Be Ambitious が刻記されている。台石の模様はクラーク先生の研究に一新転機を与えたヴィクトリア・レジア(前述)を図案化したもの。台座石は胴石と同地産、高さ1尺、幅3尺6寸5分角。敷石は茨城県稲田産の花崗岩、約240立方尺の石材を有し、16尺2寸平方ある。この記念胸像も大戦の波に呑まれて姿を消したが、昭和23年キリスト教青年会の努力によって再び厳然として現われた。その年10月8日から3日間、北海道大学は象牙の塔を公開して、全くなごやかな和気あいあいたる大学祭をくりひろげていった。8日午前10時クラーク先生胸像再建の記念式典が、全学教職員や学生参列の下に挙行された。この胸像は私が保管していた原型により、彫刻家として令名のある在京加藤顕清氏の手になったもので、北大に在学中の孫の潤子の手によって除幕した。記念碑 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と激励の一語を残し、クラーク先生が終生の思い出とした札幌農学校生徒と袂を別った地、島松に、師を偲ぶ記念碑建立の議が、昭和9年頃有志の間に起った。昭和9年6月15日前北大総長佐藤昌介男爵を始め、新島名誉教授に私も加わり、北大キリスト教青年会汝羊会有志は島松に向い、クラーク先生が馬上から慈愛こもるまなざしで訣別した土地を探った。当時とは地況が変わっているのと、諸種の事情で、明治天皇行在所裏の丘を建設の地と選定し、予定地の標杭が建てられた。その後大戦で、一時この案は案のまま放置されるの止むなきに到ったが、戦後私は「北海道教育界のシンボル、クラーク先生の功績を永く讃うべし」と提唱した。そこで伊藤前学長、福田道副知事が中心になり、BBA(Boys, be ambitious)の運動の一環としてこれが実行にとりかかった。昭和25年秋以来、島松訣別の地と認めらるる道路沿いの地に北大生及び村民の奉仕で、建設基礎工事は進められ、昭和25年12月記念碑は完成した。この碑は彫塑家山内壮夫氏が設計し、碑は7メートル、御影石造りのパンテオン式円柱で、中ほどには山内壮夫氏の手になるクラーク博士のブロンズの浮き彫りがはめこまれ、その下に Boys, be ambitious と横書きし、更に「青年よ大志を懐け」と裏面の碑文とは伊藤前学長の執筆になるものである。恐らく彼は、太平洋上で、日本に行って伝道せよとの、天からの細い、静かな声に接して、ひそかに決意を固めたのでしょう。そして開拓使長官陸軍中将黒田清隆および第一期生の一行と一緒に、御用船玄武丸で品川沖から海路札幌へ向かいました。その船中で、待遇の悪いことに憤懣をいだいていた生徒らは、ある日、甲板上で泥酔の上、放歌乱舞しました。黒田長官は激怒して、函館へ着いたら全部追い返してしまえ、と厳命を下しました。黒田はそれまでも農学校の生徒のことでは非常に苦労して来ました。明治5年(1872年)に開拓使仮学校(明治8年7月札幌学校と改め、9年8月札幌農学校となる)を開設して以来、黒田の期待に反して優秀な生徒が得られず、ある時などは、生徒の粗野放埓な生活を怒って、彼らを一斉に放校してしまったほどに失望に失望を重ねてきました。それだけに、このたびこそは、クラークのような立派な人格者を教頭に迎え、その手で選抜してもらった生徒だから、と大いに希望を託していた矢先きの出来事だけに、黒田は激怒してしまったのです。幸い周囲のとりなしで放逐の事だけは思いとどまりましたが、生徒の徳育のむずかしさをつくづく痛感した黒田は、徳育の一切をクラークに託そうとしました。クラークは徳育の効を挙げるには、道徳の本源である聖書を教える以外に道はない、と答えます。黒田はもちろん同意はしません。クラークは自説を曲げません。同じ折衝を繰り返すうちに、船は小樽に近づき、黒田は止むなく折れて、生徒に聖書を教えることを黙認しました(※2)。 ※2 「船は小樽に近づき・・・生徒に聖書を教えることを黙認した」というのも誤りのようである。黒田とクラークの押し問答は実に開校式の時まで続き、そこで黒田は道徳教育に聖書を用いることを黙認したのである。その後の視察で、札幌農学校の生徒の態度がクラークの道徳的感化と聖書によるピューリタニズム(道徳的純潔性)の浸透により倫理的人間的に著しい効果を挙げていることを確認できたため、全面的に道徳教育についてはクラークに任せると言ったのである。 どうもこのピューリタニズムは、クラーク主義を研究しようとすると、いまだに大きなパワーを持っているように感じられる。感化力をいまだに持っていて働きかけてくる。 それこそがおそらくは クラークの言葉、ビー・ジェントルマン、ボーイズ・ビー・アンビシャスが日本人の心に響き続けているゆえんでもあろうか。 *「札幌農学校」では「玄武丸船上のクラーク博士と黒田長官」を次のように伝える。(P37-41) 選抜された官費生11名は、クラーク博士一行や黒田長官ともども開拓使御用船玄武丸に乗船して、品川沖を出帆した。玄武丸は東北地方の太平洋岸に沿って北上をつづけた。この船は小さな蒸気船で、わずか644トンに過ぎなかった。非常に揺れるので1名『ごろた丸』といわれていた。甲板の中央に光採りがあり、その真下がホールで食堂、談話室ともなっていた。その周囲に一等船室があった。三等室はトモの方にあり、荷物の多い時はそこも荷物の置き場所になっていた。 品川沖を船出するとき、東京湾の風景にあかず見入っていた生徒達も無聊をかこってきて、大量の荷物と同居していた三等室の生徒から、過密な船室内の待遇に不平不満がおこりはじめた。ある日の昼、何人かの生徒が甲板上で卑猥な俗歌を大声でうたったことが発端になって、一騒動もちあがった。彼らのいた場所は、ちょうど黒田長官が食事をしていたホールの真上だった。 すでに開拓使仮学校において生徒達の粗野な行動に苦い経験をなめていた長官は、今度の生徒こそはと大いに信頼し期待しただけに、怒りが爆発した。「こんな生徒ではとうてい成業の見込みはないから函館に着いたら、そこから追い返してしまえ」と極言するほどだった。黒田長官の激しい性格の一面を知っていた随行のものは長官をとりなし、生徒の一人一人を呼んで注意叱責し、航海中の謹慎を命じてなんとかその場はひとまずおさまった。黒田は生徒の前途に不安を感じるとともに、北海道開拓のかなめとして創設されるべき農学校における徳育の必要を痛感したのであろう。黒田はクラークに人物養成の問題に関して意見を求め、専門の学術以外に修身学の教授を請うたのである。 黒田「最高の道徳を生徒たちに仕込んでいただきたい」。クラーク「それでは生徒の精神教育の糧として、聖書を読ませましょう」。黒田「いや、キリスト教はわが国の厳禁するところであるから、聖書の類は一切用いてはなりません」。クラーク「国典については知りませんが、聖書によらなくては徳育は思いもよりません。聖書にまさる心の糧はないと思います。聖書が悪ければ、その徳育の問題にはふれないでおきましょう。」 <クラーク精神(Clarkii Spirit)>2 いかにしてピューリタニズムは札幌に伝わりしか黒田長官から、新たに北海道に創立する学校に特に熟達した教師をと人選を託された在米国特命全権公使吉田清成は面識のあったマサチューセッツ州立農科大学校長クラークに『先生ご自身おいでくださるご意志はありませんか』と相談した。『面白い、行ってやろう』。クラークは農科大学校長在職のまま一年の賜暇(1876年5月20日から1年)を得て、招聘に応じた。その際知人に『日本で新たな学校を設立するには2年は必要でしょう』と言われ、『自分は1年でなし遂げる』と自信を示した。明治9年6月29日クラークはホイラー、ペンハロー2教授を伴って横浜に到着する。一方開拓使は優秀な生徒を「教師到着の節直ちに試業」し募集した。開拓使設置の札幌学校の生徒で進学できる生徒は20名に満たず、文部省管轄下の東京英語学校と開成学校にも開拓使の生徒募集公告が張り出された。その第一の条件は英語での読み書きの能力で、在学期間は4年、卒業後北海道で5年実務従事の義務があり、全て貸費生という条件だった。生徒は7月5日クラークら3人のアメリカ人教師から口頭試問を受け11名合格した。黒田長官とクラークらは7月25日玄武丸で北海道に出発した。生徒は三等室に押しこめられ、風波による船酔いなど憤懣押え難く、土佐ボーイの黒岩・田内らが一等室の頭上の甲板を踏み鳴らし放歌高吟した。黒田長官は烈火の如く怒り、「函館に着いたら全員追い返せ」と航海中謹慎を命じた。側近になだめられ放校処分は免じたが、乱暴な生徒への道徳教育を痛感してクラークに問うた。『今回あなたをアメリカからお迎えしたのは、単に学問を教えて頂くためではありません。生徒を薫陶して北海道の拓殖に役立つ有為な人間に育て上げ、日本のために役に立つ者にしたい、それが私の念願です』クラークは承知したが、徳育のために聖書を使用することの是非について議論となり、決着がつかなかった。クラークは7月始め横浜で英文聖書30冊の寄贈を受けていた。この事情について内村鑑三がアマースト留学中クラークに聞くとこう答えたという。「農学校を建てる事、農学教育を授ける事は決まっていた。長官は私に『先生に特別に頼みたい事はこの学校の徳育教育です。先生はどういう方針で教育されますか』と問うた。『私にはただ一つの道があります。私はキリスト教を教えます』黒田長官『キリスト教はわが国で永い間禁教です。わが国にはわが国の宗教がある。キリスト教はご免こうむりたい』『私の道徳はキリスト教です。それで悪ければ道徳教育は行いません』その問答が繰り返えされた。開校式前夜、長官がクラークを呼んで『先生あなた変えないか』『変えません、私の道徳はキリスト教です』『ではよろしい。教えなさい。然しごく内証で教えてください』(「如何にして基督教は始めて札幌に伝わりしや」)明治9年8月14日開校式があった。黒田長官は、「わが国の農業は多くは老農老圃の実験により慣習にたよるため、進歩がない。そこで今、農学校を設け、教師を海外から求め、育英啓蒙し、農学を一新しようと思う。この目的を達せば北海道だけでなく、全国に普及しよう。これが本官が本校に望む所である」と式辞を述べた。クラークも「青年紳士諸君、君らの母国において、勤労とまたそれより生ずる栄誉の最高地を得んがために努力せよ。常に健康に留意し、食欲を慎しみ、性欲を制する力を養い、従順と勤勉の習慣を養い、学術を研究せよ」と述べた。大島正健は明治9年11月26日の手紙で「クラーク氏は博学秀才で生徒に示すに種々の金言を以てし、深くキリスト教を信じ、当地は固く禁教となっていたが、先生の高説に黒田公も一啄も入れられず。今日に至っては置いて問われなくなった」と報じた。クラークはまず禁酒禁煙の誓約に教授生徒に署名させた。後日視察に来た長官は生徒の態度に満足し、徳育をクラークに一任した。そこでクラークは用意の聖書を生徒に渡し、自室で生徒のために日曜学校を開いて、聖書を教えた。
2026.05.30

37内村鑑三Q&A 山本泰次郎Q たしかに不思議な話です。 ソンナことがはたしてあり得るのでしょうか。 A キリスト教の歴史にはしばしば見られる事実です。 現に札幌バンド-内村らはこう呼ばれていました-および横浜バンド(植村正久らが属していました)とならんで、日本の三大バンド運動の一つとして、あの花岡山の盟約(1876年、明治9年)で知られる熊本バンド(海老名弾正らがこれに属していました)の生みの親のジャームズ・ジーンズは陸軍大尉で、当時熊本英学校の一英語教師に過ぎませんでした。神はしばしば、こうした素人信者、時にはアンナ男が、と世間が驚くような人間を用いて、職業的宗教家の及びもつかぬような驚くべき、偉大な伝道を行わせたまいます。伝道ー人に神の言を伝えて人を救うということは、人間の業ではなく、神の聖旨に出で、神ご自身がなしたもう聖業です。ゆえに神は思いがけない人を思いがけない所に送って、聖霊をその上にそそぎ、彼を神の器として用いて、人の目に怪しとうつるような霊魂救済の事業を成しとげたもうです。これが伝道なるものです。新約聖書の初代聖徒らとその伝道とは、その代表です。これが真の、力ある伝道です。クラークもその神の器として札幌で用いられて自他共にいぶかるほどの大伝道をなしとげたのです。(略) 2012年9月4日北海道大学 3 教育者としてのクラーク先生 クラーク先生が札幌を出発された時に、当時の学生職員等は島松まで見送った。その時別離に際し日本の青年に対して遺された言葉はすなわち彼の有名なる Boys, be ambitious!であった。言葉は簡単であるが、その意は実に深い。「青年よ。汝ら大志を抱き、小成に安んぜず、力の限り努力して、向上発達を図り、国のために尽せよ。」という教訓である。これは単に学術を習得するのみならず、身体の健全を図り、精神の修養を怠ってはならぬという事である。この事は先に記した明治9年先生が札幌農学校の開校式においてなされた演説中にもよくその精神を発見する事ができる。 既に述べた所を見ても、先生はほとんど完全な理想に近い教育家として差支えがないであろうと思う。それは一方学生の徳育、知育、体育等に対して稀に見る所の経綸を有し、着々自分の主義理想としている所を実行して成績を挙げられたのみならず、教育行政家としてもまた非凡なる才能を現わしたのである。実際上第一の校長としてはその基礎を完全にし、かつ一種の特色を作興した。すなわち農業教育の他、国民として欠くべからざる所の諸学科=修身学、心理学、文学等=を授け、また練兵に重きを置いて、歩兵科、砲兵科等を創立当時より実行するようにしたのである。なお研究の精神を学校の生命として、職員学生間にこれを普及奨励したのである。かかる点から見ても決して通常の教育家に期待する事のできないあるものをもっていたのである。学生を指導感化するに際しては自ら先んじてその範を示し導かれたのである。札幌に来られて最初に試みられた所の大改造は、学校に関係する教官学生をして禁酒、禁煙及び賭博と涜神誓言を禁ずる誓約文を起草して自らまずこれに署名し、他の教授学生にも加盟せしめた。第一期の学生等の如きは先生の感化によって全級これに署名した程である。先生は日本の学生の堕落し健康を破るものの最大原因は、全く飲酒と喫煙にありと見抜いて、開校式の式辞においても既にその事について述べられている。それは学生の徳育及び体育にとって最も大切なる改革はこれが制欲である事を認められたに相違ないのである。また先生は学生の勇気を鼓舞するために自ら率先して冬期間手稲山に登ったり、盛んに屋外の運動や植物採集などを奨励し、山野を跋渉してその範を示された。時々学生の寄宿舎を廻り、日中勉強している者、すなわち午後読書するがごとき者は、これを戒めて屋外の新鮮なる空気を呼吸すべく勧告された。なお学生に対して雪合戦を挑むがごとき事さえあった。先生が作られた札幌農学校の学則を見ると、マサチューセッツ農科大学のそれと同じように、農学及びそれに関係ある諸基礎学科の外に、英文学、英語討論、演説法、歴史、心理学、兵式体操等を加えたのである。本邦の官立学校において兵式体操を実際に行ったのは実にこれをもって嚆矢とする。この事が黒田長官の札幌農学校を設立した主旨に不思議にもまたよく符合している。設立当時の覚書の要に 「札幌農学校の設けたるや、その学生を養成して拓殖業務の衝路に当らしめ、殖産興業の実を挙げしむるにあり。すなわち泰西新進の学術技芸を巧に応用せしめ、進んで一国をして学術の効果顕著なるを知らしむるに在り。これを以て学生に自修の精神を重んぜしめ、将来社会に立脚の地歩を強固ならしむるものとす。云々」とある。米国においてもクラーク先生は学者としてよりもむしろ教育家として知られているくらいで、米国人名辞書には米国の教育家としてその伝記が綴られている。 4 宗教家としてのクラーク先生宗教家としてのクラーク先生は米国においてはただ熱心な一信徒であったという事の外は何も聞き及んでいない。しかし札幌滞在わずかに8ヶ月間の先生が、いかにキリスト教の伝道に従事して偉大なる感化を遺されたかということは、最も注目に価すべきことである。クラーク先生は学者であり教育家であって、宣教師ではない一の平信徒に過ぎない。しかるに先生が専門学科教授のかたわら、学生に聖書を教えられたのは、全くこれによって日本の青年が身を修め、徳を養い、国家のために忠実なる臣民となさんがためである。明治9年の頃、官立学校においてほとんど公然とバイブルを学生に、しかも教室において教える事を黙認されたということは、今より考えれば実に不思議の出来事である。そこに天の深き摂理の加わったことを信ぜざるを得ない。黒田長官が学生の品位について非常に心を用いられ、札幌農学校の前身たる東京の仮学校の時代にも生徒の不品行を憤られて全部の学生に退校を命じた場合もあった。しかるに先生と共に黒田長官や第一期の学生等は御用船玄武丸にて品川湾より小樽港に航海の途中、ある時学生等は甲板上で俗歌を唄うなど実に乱暴であったので、これを下の食堂に聞いた黒田長官は非常に怒られ、こんな学生は到底見込みがないから函館から追い返せと命じた。しかし取調べの結果、航海中特に謹慎を命ぜられてその場はとにかく納まりが付いたのであるが、黒田長官の心は穏やかなる事ができない。ここにおいて黒田長官とクラーク先生との間に有名なる徳育問題の問答となった。長官は先生に対し専門知識の外に学生徳育のため修身学をも教えられんことを懇請した。この時クラーク先生は直ちに快諾したが、しかし徳育を施すにはバイブルを用いるにあらざれば、何ら効を奏することはできぬと主張した。長官もまたキリスト教のバイブルを用いることに激烈に反対し、互いに堅く自説をとって譲らなかったのである。札幌へ着かれてから黒田長官は更に深く学生の徳育の必要と、またクラーク先生の人格熱誠に感動され、自説をまげて徳育のことは一切クラーク先生に委ね、ただバイブルを一の文学として、また一の修身学書として教えることを黙認したのである。この時クラーク先生の荷物の内には既に横浜で購入したバイブル数十冊が学生に配布されるべく用意されてあった。クラーク先生は毎朝授業に先だち聖書の講義をなし、また学生をして名句を暗誦せしめ、また彼らのために熱祷を捧げ、次第に彼らを導き感化した。明治10年4月札幌を去られるに先だち、「イエスを信ずる者の誓約」なるものを起草し、学生中有志の者に署名せしめた所、第一期生は全部これに署名し、約一年を経て後第二期生もほとんど全部署名するに至った。先生はまた帰国後も札幌に思いを馳せられ、絶えず、文書をもって彼らを奨励し、特に信仰上の働き、その奮闘ぶりを聞き、この上もなく喜ばれた。伝聞するところによれば先生臨終の際に牧師に語られた言に、「今自分の一生を回想するに何ら誇るに足るようなものはない。ただ日本札幌において数ヶ月間、日本の青年に聖書を教えたことを思えばいささか心を安んずるに足る」と。これをもってみても、いかに先生が熱誠をこめて彼らを教導されたかが推察できる。
2026.05.30

37内村鑑三Q&A 山本泰次郎「内村鑑三Q&A 山本泰次郎」 その6 クラーク先生Q クラークの札幌伝道といえば、日本の伝道史上に特筆大書されている偉大な伝道ですが、彼は宣教師ではなかったと聞きますが。 A ウィリアム・エス・クラークは陸軍大佐で南北戦争生き残りの勇士でしたが、彼はアマスト大学を出てから農学博士となり、当時はマセチューセッツ州立農科大学校長の職にあり、科学者としても一人材として学界の尊敬をあつめていました。しかし宗教のことについては一平信徒に過ぎず、もちろん宣教師とか伝道師とかいう職業的宗教家ではありませんでした。 <クラーク精神(Clarkii Spirit)>2 いかにしてピューリタニズムは札幌に伝わりしか黒田長官から、新たに北海道に創立する学校に特に熟達した教師をと人選を託された在米国特命全権公使吉田清成は面識のあったマサチューセッツ州立農科大学校長クラークに『先生ご自身おいでくださるご意志はありませんか』と相談した。『面白い、行ってやろう』。クラークは農科大学校長在職のまま一年の賜暇(1876年5月20日から1年)を得て、招聘に応じた。その際知人に『日本で新たな学校を設立するには2年は必要でしょう』と言われ、『自分は1年でなし遂げる』と自信を示した。明治9年6月29日クラークはホイラー、ペンハロー2教授を伴って横浜に到着する。一方開拓使は優秀な生徒を「教師到着の節直ちに試業」し募集した。開拓使設置の札幌学校の生徒で進学できる生徒は20名に満たず、文部省管轄下の東京英語学校と開成学校にも開拓使の生徒募集公告が張り出された。その第一の条件は英語での読み書きの能力で、在学期間は4年、卒業後北海道で5年実務従事の義務があり、全て貸費生という条件だった。生徒は7月5日クラークら3人のアメリカ人教師から口頭試問を受け11名合格した。黒田長官とクラークらは7月25日玄武丸で北海道に出発した。生徒は三等室に押しこめられ、風波による船酔いなど憤懣押え難く、土佐ボーイの黒岩・田内らが一等室の頭上の甲板を踏み鳴らし放歌高吟した。黒田長官は烈火の如く怒り、「函館に着いたら全員追い返せ」と航海中謹慎を命じた。側近になだめられ放校処分は免じたが、乱暴な生徒への道徳教育を痛感してクラークに問うた。『今回あなたをアメリカからお迎えしたのは、単に学問を教えて頂くためではありません。生徒を薫陶して北海道の拓殖に役立つ有為な人間に育て上げ、日本のために役に立つ者にしたい、それが私の念願です』クラークは承知したが、徳育のために聖書を使用することの是非について議論となり、決着がつかなかった。クラークは7月始め横浜で英文聖書30冊の寄贈を受けていた。この事情について内村鑑三がアマースト留学中クラークに聞くとこう答えたという。「農学校を建てる事、農学教育を授ける事は決まっていた。長官は私に『先生に特別に頼みたい事はこの学校の徳育教育です。先生はどういう方針で教育されますか』と問うた。『私にはただ一つの道があります。私はキリスト教を教えます』黒田長官『キリスト教はわが国で永い間禁教です。わが国にはわが国の宗教がある。キリスト教はご免こうむりたい』『私の道徳はキリスト教です。それで悪ければ道徳教育は行いません』その問答が繰り返えされた。開校式前夜、長官がクラークを呼んで『先生あなた変えないか』『変えません、私の道徳はキリスト教です』『ではよろしい。教えなさい。然しごく内証で教えてください』(「如何にして基督教は始めて札幌に伝わりしや」)明治9年8月14日開校式があった。黒田長官は、「わが国の農業は多くは老農老圃の実験により慣習にたよるため、進歩がない。そこで今、農学校を設け、教師を海外から求め、育英啓蒙し、農学を一新しようと思う。この目的を達せば北海道だけでなく、全国に普及しよう。これが本官が本校に望む所である」と式辞を述べた。クラークも「青年紳士諸君、君らの母国において、勤労とまたそれより生ずる栄誉の最高地を得んがために努力せよ。常に健康に留意し、食欲を慎しみ、性欲を制する力を養い、従順と勤勉の習慣を養い、学術を研究せよ」と述べた。大島正健は明治9年11月26日の手紙で「クラーク氏は博学秀才で生徒に示すに種々の金言を以てし、深くキリスト教を信じ、当地は固く禁教となっていたが、先生の高説に黒田公も一啄も入れられず。今日に至っては置いて問われなくなった」と報じた。クラークはまず禁酒禁煙の誓約に教授生徒に署名させた。後日視察に来た長官は生徒の態度に満足し、徳育をクラークに一任した。そこでクラークは用意の聖書を生徒に渡し、自室で生徒のために日曜学校を開いて、聖書を教えた。
2026.05.30

37内村鑑三Q&A 山本泰次郎Q ソンナ素人(しろうと)信者がアンナ大伝道をしたということが不思議です。 A たしかに不思議です。第一、内村自身が不思議がっています。彼はアメリカへ留学してアマスト大学へ入学したとき、すぐにクラークを訪れましたが、そのときの印象=初対面です=を次のように太田(新渡戸)稲造(当時、ジョン・ホプキンス大あて学に留学中)あてに書き送っています。 先日、W・S・クラーク氏に会った。 彼は病気だと言っていたが、元気で、陽気だった。 いろいろ面白い話をしてくれた。 氏は宗教家というよりは、むしろ軍人だ。 握手をすませるやいなや、僕に向かって魚やその他について講義を始めた。 グラント将軍に関する思い出は話は実に興味深かった。(5-179)これが自分にアンナ立派なキリスト経を伝えてくれた先生かと、内村が少なからず面食らった様子がよく表れています。内村だけでありません。アメリカ人でさえ、クラークの伝道などということは、頭から信用しませんでした。初対面後間もなく、クラークが死んだことを耳にした内村は、直ちにペンを取って、クラークの偉大さとその功績とを讃える一編の称徳分をつづって〔アウトルック〕誌へ投稿しました。しかしその文は、アメリカ人のごうごうたる非難を浴びただけでした。そのかげには、クラークが札幌から帰米後、海上大学なるものを計画し、その資金調達のため南米の銀鉱開発事業に手を染め、それが失敗して多数の人に迷惑をかけていたという事情もあったようですが、そもそもアメリカ人の目から見れば、クラークのような人に、しかもそんな素人に、ソンナ伝道をすることはもちろん、ソンナ立派な、偉い伝道の成果を挙げ得るなどとは、考えることもできなかったのです。 「宮部金吾」宮部金吾博士記念出版刊行会(昭和28年6月10日発行)P40-55 3 ウィリアム・エス・クラーク札幌農学校創立者であるドクトル・ウィリアム・エス・クラーク(William Smith Clark)の名は、北海道大学が存在する限り、また日本にキリスト教が宣伝される限り、永遠に敬慕の念をもって記憶されるであろう。クラーク先生は、1826年(文政6年)7月31日北米マサチューセッツ州アッシフィールドに生まれ、1848年(嘉永元年)22歳の時アマスト大学を卒業し、次いでドイツ・ゲンッチンゲン大学に留学、専ら鉱物学及び化学を修め、1852年(嘉永5年)26歳で哲学博士の学位を得た。帰米後、母校アマスト大学に15年間化学の教授として勤続された。その間に当時米国において最も完備した化学実験室をつくり、そのため再度ヨーロッパに渡った。1860年(万延元年)南北戦争が起ったため、志願士官として2年間、北軍の兵役に服し、抜群の武勇を現して大佐にまで昇進した。1863年(文久3年)にモーリル法令という議案が国会を通過した。その法令により、米国各州に州立農科大学を設定することになった。マサチューセッツ州では、ボストンに建つことになったが、州立の農科の位置問題に関しては非常な競争が各地に起った。その際先生はアマストをもって最も適当なる地であることを盛んに唱道したばかりでなく、アマスト市民をして、これがために特に5万ドルの市債を起させ、遂に同地に州立農科大学を設定せしめた。これは全く先生の努力の結果である。そして1867年(慶応3年)10月2日開校の際には、先生はその学長として、創立経営の任に当たられたのである。これより11年間、校長としてその職に尽瘁されたが、この期間内、すなわち1876年(明治9年)に日本政府の招聘に応じ、1年間の賜暇を得、在職のまま来朝し、新開の地である北海道に、本邦における最初の農学機関たる札幌農学校創設の大任を見事に果たされ、その基礎を築いたのである。札幌に滞在した期間は、わずかに8ヶ月、しかもその間に遺した所の感化、及び新設された農学校の大方針というものは、今なお先生の面影を止めている。そして先生は州立農科大学を1878年(明治11年)に辞職し、Floating College(浮遊大学、すなわち汽船内において大学の設備をなし、講座と研究をなしつつ、世界を巡洋航海し、各重要地点では上陸し、その国の風物物産を始め、動植物その他の天然資源に至るまで実地に生きた学問をなすを目的とする)を設立する事を発起したのであるが、不幸にして、資金その他の事情によって中断された。かくて1886年(明治19年)3月9日にアマストの邸宅において死去された。先生の一生を顧みるに、先生は卓越せる教育家であり、また非凡な経世家であった。そして経営の才能にとみ、その計画を実行する力量を豊富に有しておられたのである。 一 性質と人格私は札幌農学校の第二期生として明治10年に入学したので、クラーク先生に直接師事したことはないが、多年欽慕する先生の性質、人格、その他逸事等について、あらゆる方面から収集した材料により、その人となりを考えてますます尊敬の念を深からしめたのである。先生が自ら好んで後輩学生などに語られた所によれば、少年の頃から負け嫌いで、非常に勝ち気であった。例えば競技においても必勝を期するため非常な努力と練習とを重ね、常に負けた事がない。またケンカをしても負けた事がなかったというておる。この性質が終生の行動に現われ、何事に対しても成功するまで忍耐し、これを貫き、徹底的に処理されたのである。競争場裡に勝ちを占めんとするその精神が、全生涯を通じて最も重要な部分であった。かかる性質があったために、南北戦争の際には一隊を指揮し、すべての困難に打ち勝ち、武名を高からしめ、戦功を立てたのであろう。またこの精神があったために日本政府の依頼に快く応じて、文化を離れはるばる異郷に来たって永遠朽ちざる功績を遺して行かれた訳である。かかる不撓、奮闘的精神はまたその体格にも現われ、中背でもあるけれども筋骨たくましく、一種冒すべからざる威厳があった。それと同時に親しみやすい温かみと人をひきつける魅力を備えていた故に、教育家としても、士官としても、その学生や部下に及ぼす感化は顕著なるものがあった。最もよく先生のこの性質を現わしたものは垂下せる黒く太き眉の下に輝く碧眼である。時には鋭い眼光は人を射るがごとく、また時には柔らかい温情に満ち幼児をさえ近づき慕わしめる程であった。先生は老年に至るまで子供らしい無邪気な所が残っていて何事に対しても非常に熱心で、時には少しく激こうしやすい程であった。常に諧謔と頓知に富み当意即妙の答えを発することもしばしばであった。また座談に長じ、しばしば青年を集め、あるいは驚異に満てる冒険談、あるいは興味ある経験談、逸事等の物語のうちに、彼らに鞭撻教訓を与えた。青年らは無上に先生を愛墓し、かつ彼らのヒーローとして尊敬した。なお先生は正義を愛し、正義のためには全力を尽くして戦い、妥協を嫌い、否を否として是を是とし、禁酒禁煙の人であった。つまり主義のひとでもあったのである。
2026.05.30
37内村鑑三Q&A 山本泰次郎「内村鑑三Q&A 山本泰次郎」 その5 当時の札幌は草深い田舎で、教会など一つもありませんでした Q 宣教師や牧師とは関係がなかったのですか。A ありませんでした。当時の札幌は開拓早々の草深い田舎町で、人口もようやく2、3千で、教会などは一つもなく、牧師もおらず、函館あたりから宣教師が時々巡回して来るぐらいでした。全くクラークの伝道の結果です。 「宮部金吾」6 札幌懐旧 開拓使本庁 当時において最も豪壮なりしは、米国風なキャピトル式木造2階建の開拓使本庁で、中央に丸い塔が聳えていた。この建物は明治12年1月17日に焼失、仮庁舎として南一条西三丁目旧札幌女学校を使用し、数年の後現今の煉瓦造に変わった。本庁の構内は今の道庁構内よりも広大で、現在の道庁より北へ2町、南、東、西は1町広い、北一条西四丁目の角から西の方へ四丁(266間)、北の方へ5丁(344間すなわち現在北六条の鉄道線路の所まで)、正門は現在の道庁の正門より1町東に当たり北三条西四丁目にあった。土塀が構内の周囲をめぐっていた。西の方には小流があり、道路は無く、ただ塀に沿うて細い踏跡がついていたのみである。この広い構内には、北米から輸入されたリンゴ、西洋梨、桜桃などが区画に従って整然と植え込まれ、果樹園をなしていた。 構内の西北隅に立派な二階建の西洋館があった。これは高位高官の宿泊所に当てられていた。数年の後この建物は北一条西五丁目に移され、道庁長官の官舎に用いられた。 私たちは札幌に着いた翌日、新入生一同この開拓使本庁に挨拶に行った。その日は快晴で、塔の上からの展望は素晴らしかった。西方の峯々あたりには黒々とトドマツが茂り、山腹から渓にかけて濶葉樹の緑で埋っており、また他の方面一帯も原始林で覆われていた。東なる豊平川方面と屯田の方こそ少しく開いていたが、ほとんど奥深い森林の世界で、原生林の幽玄さはひしひしと身にせまった。 札幌の街 明治10年私が札幌に着いた時には、このところは人口僅かに3千、東京に住み慣れた私には小さな淋しい街であった。大通り中心に、南の方が市街地で、北の方には官庁の建物があり、開拓使本庁と札幌農学校が一番に人目を惹いた。 市街地は当時の渡島通の一丁目から二丁目のあたり(現在の南一条西一丁目から二丁目)が中心で、大きな商店が軒を並べていた。大きな商店といっても平屋で、屋根には大きな石が乗せてあり、柾葺は少かったように覚える。これにつぐ繁華な街といえば、狸小路か、沙流通一丁目から二丁目(現在の南二条東一丁目から二丁目)辺の所であったろう。そこでは五十集(いさば)屋が軒を揃え、色々な魚類が並べられ、また鹿の股肉が多量に吊してあった。そして街並は渡島通(南一条)でさえ西八丁目で止り、他の所は西六丁目くらいで止っていた。東本願寺は古い寺であり、現在の南二条西六丁目あたりから見ると、その間には家が無く、ポツネンと本堂が見え、寺への道にはナハソロイチゴが沢山生えていた。当時札幌の街ははずれの西北は一面の桑畑であった。私共在校中は西八丁目には米国風のヤマダモを裂いて作った棒垣があって馬の進入を防ぐためそこに木戸があった。桑園は明治8年、黒田長官が会津の藩士を招聘して開墾せしめ、桑を移植したのに始まっている。藩士一行は春に来て秋帰った。その会津の藩士の記録を読むと皆袴を以て開墾していたと記されている。この桑園の中で今札幌市立病院のある北二条西八丁目のあたりに大きな養蚕室があった。しかし数年続いた失敗に、開拓使でも養蚕事業の継続を中止し、黒田長官が一時有望な事業として奨励した養蚕も取り止めの形となったのである。 札幌農学校と本庁敷地との間には建物がなく、ただ寄宿舎西側の前あたりに御雇米人ダン氏の官舎があったのみで、その他は全部ホップ園であった。 また街の西の方に行くと、現在の南一条西十三丁目あたりから、東西に七八町、南北に二三町の緬羊場があった。多くの小川が街中を流れていたが、今記憶しているものに主なるものが2つある。その一は、今の札幌病院中を通り植物園に入り、更に桑畑の方に流れたものと、なお一つは薄野あたりから豊平館の南を流れ創成川の川しもはその頃物資の運搬上大切な役目をなしていた。茨戸辺から引舟で運んだ物資は、今の製麻会社の辺の川の両側に在った倉庫に入れ、米などがそこへ貯えられた。官庫の北方に信州から移住した上島正という篤志な園芸家がいて花菖蒲や牡丹、芍薬を専ら栽培して改良を計っていた。その後、東皐(こう)園と称して札幌の一名所となった。 当時森林は、現在の植物園のあたりや、桑園の北の方に残っており、農学校の農園の流れに沿うても林地があった。現在の植物園のあたりや、桑園の北の方に残っており、農学校の農園の流れに沿うても林地があった。現在の大学構内には楡の巨木が鬱蒼としていた。ここは始め原生林であり、ことごとく伐採され尽くされるべき運命に置かれていたのであるが、ケプロンその他の御雇アメリカ人たちがそれら巨幹を称えて保存するよう注意されたので、楡の木だけが残され、あるものが今日まで残ったわけである。なお、街の所々にも大樹が保存され、北一条図書館前に現存している巨樹のごときも実に当時の面影の一つである。 札幌につづいて東屯田(南四条より南二十条西八丁目)、西屯田(同じく西十四丁目)のあたりは既に開墾されていた。東北の方では同じく本村あたりが御維新前から開墾されていた。豊平川の沿岸にはドロノキ、ヤナギ類、シラカンバ、シナノキ等の巨幹が亭々と聳えて真駒内までつづいていたが、平岸村通には既に多少の開墾地が見えていた。豊平橋は室蘭街道の国道筋にかかっていたが、始めはごく粗末なものであった。しかしその後ホイラー教師の設計で相当立派なものにかえられた。 偕楽園 それから当時の小公園なりし偕楽園についてちょっと記しておこう。空知通の西端(現在北六条西八丁目)辺より北に小坂を下りると偕楽園に入った。入るとすぐ右にあたり池に面して平家の博物館があった。そこには北海道の天産物やアイヌの作品等が陳列してあり一般の縦覧に供していた。明治13年頃東京芝公園内の開拓使の北海道物産陳列所が廃され、その陳列品の一部がこの博物場へ、他の一部は札幌農学校演武場内の標本室へ分配された。博物館が面したこの池には泉があって、清水が絶えず湧き出で、一方当時屯田兵招魂碑の在った地域(現今伊藤亀太郎氏邸内)に水源をもつ小流と合して、札幌農学校農場と開拓使の育種場との小川となった。博物場の前に物産局所属の製物場の建物があった。ここは化学工業試験所のようなものであった。それより少しく北に進むと、小高くなった所に今も保存されている清華亭があった。これは明治13年6月落成したもので、14年明治天皇行幸の御時、御小憩になって由緒ある建物となった。亭より西方の土手に添うて小さな温室があった。これより先、ボーマー氏は丹精して造り上げた北三条西一丁目の温室と花園が明治11年に札幌農学校へ保管転換されたので、非常に落胆憤慨して開拓使に迫り、この温室を造って貰ったといい伝えられる。これらの建物の外、偕楽園には何物もなく、実に天然の勝地であった。松や桜などが移植せられ、また花壇もあった。その他全体がローンを以て覆われていた。偕楽園の地続きに開拓使の育種場の広い土地があった。その後この土地と施設物全部が札幌農学校へ保管転換され、今日の北大農学部の一部及び理学部等の敷地となっている。育種場は専ら内外の植物の種子や苗を取寄せ栽培して風土に適するや否やを試験したところで、当時育種したドイツタウヒやドイツクロマツの大木が今は植物園内や北大構内に繁茂しており、またケヤキ、クリノキ等も伊藤邸内に残っている。なお偕楽園につづき、育種場内(現在農学部の位置を占む)に競馬場があった。これは雇アメリカ人エドウィン・ダンの意見を徴してつくられた距離440間(48ロング)の楕円形馬場で、明治10年に設置され、明治11年初めて春季競馬を執行、明治20年競馬場が中島遊園地に移るに及び廃されたものである。
2026.05.30
37内村鑑三Q&A 山本泰次郎「内村鑑三Q&A 山本泰次郎」 その4 内村らはクラークの伝道から生れたQ それでは内村らはクラークから直接に教えられたのではなかったのですか。A クラークはその年の4月、すでに8ヶ月の任務を終えて、島松駅まで見送った第一期生らに対し、“Boys be ambitious!”の一語を馬上からのこして、帰国してしまっていました。内村らはこのクラークの伝道によって信者となった第一期生から伝道されたのです。ゆえに内村らは、間接ながら、クラークの伝道から生れた信者です。 北大百年史 (1)開会式における黒田長官の式辞王政維新ノ始首トシテ蝦夷開拓ノ策ヲ御垂問アリ尋(つい)テ旧称ヲ改メ北海道トシ国郡ヲ分チ経界ヲ画シ本使ヲ置キ之ヲ管理セシム爾来茲(ここ)ニ八年黽勉(びんべん)経営物ヲ開キ務ヲ成スノ方漸次緒ニ就ク而シテ農業ハ拓地殖民ノ道ニ於テ将サニ専務トスヘキヲ以テ尤モ本使ノ意ヲ注ク所ナリ顧(おも)フニ我邦ノ農業タルヤ多クハ之レヲ老農老圃ノ実験ニ得法ノ取ル可キ無キニ非ラズト雖トモ徒ニ慣習ニ因仍(いんじょう)シ格致ノ学ヲ講ジテ以テ之レヲ闡明推広スル能ハザルヲ以テ終ニ其進歩ノ効ヲ見ズ故ニ今農学校ヲ設ケ教師ヲ海外ニ聘(へい)シ英ヲ育シ蒙ヲ啓キ以テ農学ノ面目ヲ一新セント欲ス果シテ能ク斯目的ヲ達スルニ於テハ豈独リ一道ニ功アルノミナランヤ将ニ以テ全国ニ普及セントス教員生徒其レ各斯意ヲ体認シ夙夜懈(おこた)ルニ匪(あら)ス成立スル所アリ以テ本使ノ偉業ヲ賛(たす)ケ朝廷ノ盛意ニ副セヨ山ヲ為ル九仞(じんの)功一簣(き)ニ虧(か)ク夫レ一簣ノ功既ニ今日ニ始マル亦願クハ其他日ニ虧クル無ランコトヲ是予ノ深ク本校ニ望ム所ナリ 于時明治九年八月十四日 陸軍中将兼参議開拓長官正四位 黒田清隆 (2)開会式におけるクラークの演説明治9年8月14日教頭ダブルユー、エス、クラーク演説(英文ヨリ訳ス)長官閣下札幌農校ノ長君官員生徒及ヒ其他ノ職員ヨ余ハ昇日ノ国中ニ於テ此最初ノ農校開業ノ盛典ニ与カリ胸裏交(こもご)モ々々自満ト愉快ノ感動無キ能ハス我マサチユセツツ州ノ如キハ教育事務ノ進歩ニ於テ殊ニ有名ナリト雖モ斯ノ如キ学校ヲ有シテ自ラ誇ルニ堪ヘタリシ以来日月未タ十年ニ満タス今日余ハ札幌農校最初ノ教頭ニシテ兼テ又タ余輩ノ相共ニ住スル此世界大球ノ裏面ニ方タリテ遠ク数千里ノ外ニ位イセルマサチユセツツ農校ノ教頭トシテ此席ニ列スルハ余ノ恃ニ享クル処ノ大幸福ト云ヘシ余ノ始テ此国ニ達スルヤ従来開拓使ニ於テ模範ト試験トノ為メニ設ケシ三地ノ大園ハ各々曾(かつ)テ業ヲマサチユセツツ校ニ受ケシ日本紳士ノ管理ニ属スルヲ聞テ余ハ甚タ満足ノ想ヒヲ為シタリ今余ハ該校ニ於テ及第セシ二名ノ紳士ト共に茲(ここ)ニ在リテ之ヲ相均シキ一校ノ基礎ヲ安置セントス而シテ今ヨリ数年ヲ出テスシテ北海道ノ農事ヲ興シ大ニ生産ノ業ヲ開クノコトニ於テ此黌ノ助ケテ勢力アルハ余ノ疑ハサル処ナリ庠序(しょうじょ:学校)学校ヲ設為シ之ヲ保持スルハ公論以て文明政府ノ一大義務トナス然レトモ欧米諸国ニ於テ適宜ノ思慮ヲ農工学術ノ研究場ニ費ヤスニ到リシハ僅ニ近年ニ創マルノミ然ルニ黒田閣下ハ北海道ニ於テ農業大学校ヲ以テ着手ノ第一トナス豈盛挙ト云ハサルベケンヤ希(ねが)ハクハ他日此校ノ偉功ハ自ラ今日公ノ画策ノ卓識タリシヲ表明センコトヲ余輩ハ茲ニ最初ノ教授局ヲ組成サンカ為メニ撰ハレタリ将サニ奮励シテ此貴ムベク且ツ楽シムヘキノ職業ニ於テ余輩ノ分ヲ尽サントス余輩ハ将サニ身親(みずか)ラ模範トナリ又教授トナリテ余輩ノ学生タルヘキ少年ノ心志中ニ於テ人生有用ノ器タルカ為ニ殊トニ適合スヘキ才能ヲシテ勉メテ発開セシメントス黒田閣下ハ夙(つと)ニ身ヲ国事ニ委ネテ黽勉(びんべん)倦マス今日名誉ト官職両ツナカラ無上ノ栄光ト責任ヲ併セ得テ既ニ相当ノ幸福ヲ完フセリ此校中ノ人モ亦何ソ公ノ卓越ナル例ヲ学フ能ハサランヤ一様ノ功徳ヲ行ヒ一様ノ高貴ニ到ランコト天皇陛下ノ政府現今ノ治法ニ於テ一物ノ之ヲ妨クルモノ無キハ余ノ曾テ公ヨリ聞ク処ナリ回想スレハ数百年間暗雲ノ如ク亜細亜ノ国民ヲ包蔵セシ門地ト習慣トノ虐政ヲ斯ノ如ク奇異ニ脱シ得タルコトハ将来教育ヲ受クル処ノ学生ノ胸中ニ於テ必ス大志ヲ叫醒セサル可(べか)ラス少年ノ諸君ヨ君等ノ本国ハ只今大ニ君等ノ至誠至強ナル従事ヲ要スルニ非スヤ君等各宜ク自国ニ於テ勤労ト信任及之ヨリ生ル栄光ノ最上地位ニ適センコトヲ勉メヨ健康ヲ保シ情慾ヲ制シ従順ト勉強ノ習慣ヲ育ヒ時機ノ学フヘキニ遇ハヽ学術ノ何タルヲ論セス力ラノ及ン限リハ其智識ト妙巧ヲ求メヨ如此(このごとく)ニシテ而シテ後チ君等ハ能ク重要ノ地位ニ適スト云ヘシ重要ノ地位ハ常ニ正直ニシテ且ツ聡明剛毅ノ人材ヲ渇望スト雖モ其輩出ハ例シテ此渇望ヲ盈(み)タスニ足ラサルモノ者ハ各国挙ナ然リ豈独リ此国ノミナランヤ余ハ将サニ此演説ヲ終ントスルニ臨ンデ更ニ一言ヲ陳セン今此盛節ノ情形ヲ観ルニ極メテ将来大成ノ非ヲ表スルモノヽ如トシ然リ而シテ若シ札幌農校ヲシテ其幼稚ノ初メニ当リ些少ノ年間倖ヒニ長官閣下ヨリ愛顧ヲ被ムルヲ得セシメハ遂ニ独リ北海道ノ人民ノミナラス日本全国ノ尊敬ト維持ヲ受ケ且ツ之ヲ受ケテ愧チサルニ到ランコト余ノ深ク信スル処ナリ (3)開識社設立許可願 Sapporo,1st Nov.1876.Director H. Dushio: Dear Sir: We all desire to constitute a Literary Society in order to increase on Knowledge, and at the same time to improve our mode of speaking and writing both in English and Japanese, Please give us the permission to do so. Your obedient Pupils Arakawa-Shigehide. Ideta-Ssetaro. Ito-Kadutaka. Kamimura-Yukitaka. Kuroiwa-Yomonoshin. Nakashima-Nobuyuki. Ono-Kanemoto. Sato-Isami. Sato-Shiosuke. Tanouti-Suteroku. Tamaki-Kiosaburo. Uchida-Kiyoshi. Watase-Torajiro. Yamada-Yoshihiro. Yanagimoto-michiyoshi. Yasuda-Nagaaki. Yokoyama-Hikojiro.Director H. Dushio. S.A.College Nov. 1st 1876.*クラークは来日した1876年11月19日に、故郷につぎのような手紙を送っている。「私は今日クラスの生徒に聖書をもって教育する許可をとった。かくして札幌農学校においては、日本において他のすべての政府の学校においては法をもって禁じられていること-聖書をテキストブックとして使うこと-ができる。このことに関して、神は私に黒田長官の理解を得る特別の恩寵を賜った。」 大島正健の思い出によると、第一期生たちはその後ただちにクラークから聖書をもらってこれに親しむようになっている。そしてクラークは、日曜日ごとに「学生やその他の人を集め、聖書を教え」た。しかし「普通の宣教師と違い、実際的宗教だから面白かった。宗教臭い宗教ではなかった」と述べている。クラークは生徒たちに、アメリカのキリスト教が腐敗し形式に流れている現状を説いた後に、こう言ったという。「むかし、聖パウロがキリストの教えを伝道したときに、ユダヤのキリスト教とはまったく違った独立したキリスト教を教え、形式からはなれ、もっとも神に接近し、自由に伝えられるところとして、アンテオケ(シリヤの町)は新しく自由な教育ができた。私はここにアンテオケの宗教(アンテオケの教会はやがて異邦人伝道の教会となり、パウロなどはここから伝道旅行に旅立った)を建てるつもりである」と。
2026.05.30
37内村鑑三Q&A 山本泰次郎「内村鑑三Q&A 山本泰次郎」 その3 内村は3か月の苦闘の末、「イエスを信ずる者の契約」に署名し、翌年6月2日洗礼を受けましたQ 内村らはそのキリスト教攻勢に対してどのような態度をとりましたか。A 第一期生は改宗早々の信者に見られがちな熱狂的な伝道意欲にもえつつ、上級生の権威を笠に着て、猛然と第二期生に改宗を迫り、「イエスを信ずる者の誓約」に署名せよ、と強要しました。これはクラークが起草して自ら筆頭に署名し、第一期生全員がそれに続いた、いわば改宗決意誓約書です。上級生の攻勢は実に激烈で、級友たちは続々と陥落してしまいました。その中にあって、内村は最後まで頑強に抵抗しました。異教邪神を日本に入れることと、それを強要することとに憤激したのです。当時の農学校はもちろん全寮制で、生徒は皆同じ校内に起臥を共にしていましたので、抵抗する下級生の立場がどんなに辛い、苦しいものであったかは想像に余ります。内村は苦しさの余り、ある時は丸山の札幌神社の社前の枯草の中へ身を投げて「神国日本より異教邪神を追い払いたまえ」と涙と共に、八百万(やおよろず)の神々の助けを祈りました。しかし衆寡敵せず、3か月の悪戦苦闘の末、彼もついに陥落して、「イエスを信ずる者の誓約」に署名してキリスト信者となることを誓い、翌年6月2日に洗礼を受けました。 キリスト教に接す私は当時新しい官立のカレッジの新入生だった。そこではニュー・イングランドのキリスト教徒の科学者の努力によって、上級生のクラス全員(当時全校で2つのクラスしかなかった)は既にキリスト教徒に回心していた。『赤ちゃん新入生』に対する2年生の威丈高な態度は世界中同じである。そして宗教的情熱と伝道の精神が加わったとき、彼らが不憫な新入生に与えた印象は容易に想像される。彼らは新入生を襲撃し回心させようと試みた。しかし新入生の中に一人、『2年生の突進』、この場合は懇望ではなく宗教的突進に抵抗するだけでなく、彼らを古い信仰に再び回心させようとさえ考えていたものがいた。しかし、ああ!私の周りの勇者は落ちて敵に降伏されていった。私は『異教徒』、とても憎むべき偶像崇拝者、救い難い木や石の崇拝者として残された。私はそのころ追いつめられた苦しい状況と孤独とをよく覚えている。ある日の午後、私はその地方の守護神となるように政府に認可されたというその地方の異教神殿〔北海道神宮〕におもむいた。神霊の見えない存在を表わす聖なる鏡からいくらか離れて、私は枯れた雑草の上にひれふし、そしていきなり祈り出した。そのとき以来私がキリスト教の神に捧げたいかなる祈りにも劣らない真剣で純粋な祈りだった。私は守護神に祈願した。すみやかに私のカレッジのなかの新しい宗教熱を沈静させることを、そして異国の神を拒否することを頑強に拒むような者どもを罰することを、そして私がいま支持している愛国の大義のためわずかな努力をしている私を助けたまわんことを。祈りを終えて私は寄宿舎に帰った。またも新しい信仰を受けよという最も歓迎しない説得をもって責められた。カレッジの世論は私が反対するにはあまりに強かった。それに対抗することは私の力に及ばなかった。彼らは次に掲げる契約に署名するよう私に強いた。どこか極端な禁酒論者が手に負えない酔っ払いを説得して禁酒誓約に署名させるやり方だった。私はついに屈して署名した。私はしばしば自省した、このような強制に屈しないで踏み止まるべきではなかったのかと。私は当時僅か16歳の少年に過ぎなかった。そして私に「入れ」と強制した少年たちはみな私よりはるかに大きかった。このようにして、ごらんのように、私のキリスト教への第一歩は強制されたものであった、私の意志に反して、また私は告白しなければならないがいくらか私の良心にも反して。私が署名した契約を次のようなものだった。 イエスを信ずる者たちの契約下段に署名するS.A.カレッジ(札幌農学校)の生徒は、キリストを彼の命令にしたがって告白することと、十字架上の彼の死に我々の罪のためにあがないを為したもうかの救い主に我々の愛と感謝とを示さんがために真の忠誠をもってすべてのキリスト信徒の義務を果すこととを願いつつ、そして彼の栄光の増進と彼が代って死にたもうた人々の救いとのために彼の御国を人々の間に前進せしめんことを熱心に望みつつ、彼の忠実な弟子となることと彼の教えの文字と精神とに厳密に一致して生きることとを。この時よりのち、神に対しまた相互に対して、厳粛に契約する。そして適当なる機会のある場合には我々は試験、洗礼、入会のためにいずれかの福音主義教会に出頭することを約する。われわれは信ずる、聖書は言葉をもってせる神より人への唯一の直接の啓示、光栄ある未来の生命への唯一の完全無謬な指導者であることを。われわれは信ずる、われわれの憐み深い父、われわれの公正にして至上なる支配者にいましたまい、そしてわれわれの最後の審判者にいましたもうべき、ひとりの永遠の神を。われわれは信ずる、すべて心から悔いそして神の子を信ずる信仰によっておのが罪の赦しを得る者は、この生涯を通じて聖霊によって恵みゆたかに導かれ、そして天の父の注意深い摂理に護られ、かくしてついには贖われた聖なる者の享受するもの追及するものにあずかる備えをなさしめられるべきことを。しかし福音の招きを受けることを拒むすべての者はおのが罪の中に滅び、主の御前から永久に退けられなければならないことを。以下の誡めは、われわれはわれわれの地上の生涯のあらゆる転変を通じてこれを記憶しこれに服従することを約する。汝、心を尽くし精神を尽くし力を尽くし思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし。またおのれのごとく汝の隣人を愛すべし。汝、主なるなんじの神の御名をみだりに用うべからず。安息日を覚えてこれを聖(きよ)く守り、すべて不必要の労働を避け、これをできるかぎり聖書の研究となんじ自身及び他人の聖なる生活への準備のために献(ささ)ぐべし。汝、汝の両親と支配者に服従し、これを敬うべし。汝、殺人、姦婬あるいは他の不潔、窃盗、あるいは欺瞞を犯すべからず。汝、汝の隣人に何の悪をも為すべからず。断えず祈れ。相互の援助と奨励のためわれわれはここに『イエスを信ずる者』の名のもとに一団体を構成する。そしてわれわれは聖書あるいは他の宗教的書籍文書の閲読のため、会談のため、祈祷会のため、われわれが共にする間、毎週一回以上集会に出席することを固く約する。そしてわれわれは衷心より願う、聖霊の我々の心における明白なる臨在が我々の愛を活気づけ、われわれの信仰を強め、われわれを真理の救いの知識に導きいたらんことを。 S(札幌)にて 1877年3月5日。全文は英語で前述したアメリカ人クリスチャン科学者〔クラーク博士〕によって作成された、彼自身がニュー・イングランドのカレッジのうち最も福音的なカレッジ〔Amherst College〕の一つの卒業生であり、かつてはその教授だった。彼自身の署名に、彼の14人の生徒の署名が続いていた。そして私の級友はその数を30以上に膨張させていた。私の名前は最後か一つ二つかにあったように思う。 <札幌農学校二期生の青春>4 クラーク先生のピューリタニズムとは何か-純潔と努力-「禁酒禁煙の誓約」と「イエスを信ずる者の契約」はクラークの手により成文化されている。第一期生は全員が署名したが、クラーク先生帰国後、一期生3人が脱退する。それは飲酒事件から起こった。佐藤第4信抜粋「初めからの『信ずる者たち』の一人は強い誘惑を心に感じ、・・・私たちの誓約を破り、酒を飲んだのです。この一件の後、キリスト教に対する迫害が始まり・・・集会において祈りが禁じられ・・・討論を重ねたあげく、ついに初めのメンバーのうちの3名、内田・佐藤・安田がもはやキリスト教を信じられないと宣言し、あの契約から彼らの名前を取り除いてくれと願い出たのです」 「クラーク先生詳伝」逢坂信忢の「契約」評釈(p256-)によると、冒頭に我らの罪を救わんがために十字架上に贖罪の死を遂げた救い主イエス・キリストに対する信仰が述べられている。キリスト者は、天の神を信ずる者であるが、実際はキリストを信ずる、そしてそのキリストとはわが罪の身代わりとして死にたもうた神の子イエスキリストを信じる。クラークは契約で最初に述べた。次に「適当な機会が来る時に受洗して福音主義の教会に加わる」ことを約束する。この受洗は「ルビコン」をわたることであった。(略) 「契約」は、モーゼの十戒をベースとするが、異なるところがある。十戒5に「汝の父母を敬え」とあるが、「父母と支配者(rulers)とに従い、かつこれを敬うべし」とする。札幌農学校での聖書による教育が黒田長官の黙認にうちに実行できたことを反映しているのであろう。十戒6は「殺すなかれ」、7は「汝姦淫すべからず」、8は「盗むなかれ」だが、契約では「凶殺、姦淫及び他の不潔なる行為、窃盗もしくは欺瞞をすることなかれ」とする。評釈では「不潔なる行為」とは「自涜」であろうとする。クラーク先生は入校時の挨拶や佐藤らへの手紙でも繰返し性欲の抑制を説かれた。そして現実に第一期生の契約脱退者と第二期生のうち非署名者数人が丸山の売春所に入り浸り、挙句の果て遊ぶ金欲しさに学校の金を盗み、退学処分となる。クラーク先生が懸念された酒と性欲を自制できない者は札幌農学校から堕ちていった。また、契約の特色の一つは「安息日を覚えてこれを聖日とせよ。この日にはすべて緊要ならざる業務を休み、勉めて聖書を研究し、自他ともに聖き生活をなさんことをつとむべし」である。十戒にも「4安息日をおぼえてこれを潔くすべし」とあるが、具体的に日曜日の過し方を述べる。イエスを信ずる者は厳格に守ろうとし、クラーク先生も安息日を守るとはとても大切だと繰返し手紙で教えた。非キリスト者の論難の一つは日曜日に勉強してはいけないということであり、『あんなに日曜日を守り、勉強もせんでいるが必ず我輩らより、成績が悪いにきまっている』(p265)と嘲笑した。ところが、成績が発表されるや、安息日を守る7兄弟が常にトップにあった。・・・イエスを信ずるメンバーは平日に集中して勉強し、日曜日は信仰の養成と体力の回復と友愛の育みにあてた。その継続的習慣は、「栄光」となって表れ、純潔にして常に努力する性格となり、それは彼らの信条となった。
2026.05.30
37内村鑑三Q&A 山本泰次郎内村鑑三Q&A 山本泰次郎 その2 第一期生は新入生を信者たらしめたまえと祈っていたQ いつ、誰から、どのようにして伝えられたのですか。A 札幌農学校の門をくぐった時からです。札幌農学校の新入の第二期生の一行(内村もその中の一人でした)は、1877年(明治10年)8月27日に北海道開拓使御用船玄武丸で品川沖を出帆し、函館を経て9月3日の朝、小樽に上陸し、それから一同馬を連ねて札幌へ向かい、その日の夕刻、農学校に着きました。すでに灯(ひ)ともし頃でした。しかし誰ひとり、出迎える者はいませんでした。意外の感に打たれた新入生らは、ただ校舎の一角の窓から、アカアカと灯が洩れているのに注意をひかれました。これは前教頭クラークの感化によってクリスチャンとなり、その前日の9月2日に洗礼を受けたばかりの上級生(第一期生)らが復習講堂内の一室に集って祈祷会を聞いて、「新入生たちにキリスト教を伝えて彼らを悉く信者たらしめたまえ」と熱心に祈っていたのです。内村らは、知らぬ間に、その火の中へ飛び込んでしまったのです。もちろん彼らは、その瞬間まで、第一期生らの焔に包まれていることなどは、露ほども知っていなかったのです。もし知っていたら、入学などしなかった者も多かったでしょう。 「宮部金吾」P35-36札幌へ 明治10年8月27日、品川より開拓使の御用船玄武丸にて出帆した。玄武丸は644トンの蒸気船で、今日でこそ、小さな船なれ、当時としては鄙には稀な豪華船であった。もっともこの豪華船は非常に動揺しやすく、一名ゴロタ丸の別名を有していたほどである。中央部甲板の下にホールがあり、このホールは食堂兼談話室であった。ホールを中心にして一等室があり、各室とも定員2名、二等は舷側にあって定員4名、ベッドは上下に位置していた。三等室は船首にあって、荷物が輻輳すると積荷はその室にまで溢れて来た。私たちの乗船した時は、幸いに船客が極めて少なく、一行は一等室もしくは二等室をあてがわれた。途中大分荒れて一行にも船酔いを催すもの多く、町村金弥君はその時の船酔いの旗頭であった。8月30日函館に入港、9月2日まで停泊した。9月3日早朝つつがなく小樽に入港、海路は極めて平穏であった。直ちに下船、入船川のほとりの海に面した宿で朝飯をしたためる。当時、手宮はまだ漁村で、入船町のあたりが港の中心であった。食後、馬20頭、鈴の音をひびかせて、いよいよ一同札幌に向かう。国道は海浜に沿い、銭函までは漁村が散点していた。ただ張碓に近い神威古潭(カムイコタン)だけは、まだ道路が未完成で、高い断崖下に岩礫がるいるいしていた。好天に恵まれ、海も静かであったが故、波浪の洗礼もうけないで馬上無事通過。これから道は海にわかれ、鬱蒼たる森林を縫って軽川から琴似(ことに)に向かった。この間、所々に農家が散在していた。一行は遂に渡嶋通り、すなわち南一条から北二条西二丁目の薄暮の寄宿舎に着いた。布団もない荷物を両側に付けた駄鞍にのって来たので、尻は勿論、始めて乗った馬とて体の節々も痛く、気鋭の若者も一同大いに疲労した。玄関はひっそりとして一人の出迎えてくれる上級生もなく、全然空屋のような静けさであった。ただ遠くの室で、何か集会があるらしく、歌の声などが聞こえてきた。後でわかったことであるが、その時、上級生一同は復習室に集まって、ちょうど祈祷会を開いたところであったのだ。まず食事をとり、風呂に入る。2人ずつ既に割り当ててあり、各室のドアーの側に名札が掛っていた。実に偶然といえば偶然、私と内村君は同室になっていたのだ。ほの暗いランプの下で、虫の音を聞くともなく聞いていると、遥けくも来た旅愁を身にひしひしと感じた。当時寄宿舎の規定で、各学年ごとに室をかえ、また同時にコンビネーションもかえることができるようになっていたが、私共両人は室は変っても離れることなく、4年間一緒にいて、最も平和な楽しい生活を共にすることができた。○私たちは札幌に着いた翌日、新入生一同この開拓使本庁に挨拶に行った。その日は快晴で、塔の上からの展望は素晴らしかった。西方の峯々あたりには黒々とトドマツが茂り、山腹から渓にかけて濶葉樹の緑で埋っており、また他の方面一帯も原始林で覆われていた。東なる豊平川方面と屯田の方こそ少しく開いていたが、ほとんど奥深い森林の世界で、原生林の幽玄さはひしひしと身にせまった。内村鑑三 「〔内村君は〕明治十年に我々と同級〔宮部は3月に一級に進んだ。なお、東京英語学校は4月「東京大学予備門」と改称されている〕になった」(「宮部金吾」)「札幌に到りてよりは人生の快楽は一層の趣味を加へ、春夏秋冬に個々特別の娯楽ありて在学四年間は夢幻の裡うちに過ぎたりき、北地の冬の長さは友情の温かさを以て償はれ、夏の短かさは天然物の成長の速かさを以て贖つぐなはる、銭函海岸の介かい拾ひ、小樽手宮の古物発掘、高島海底の魚介の観察、(略)室に帰れば机上博物学書の堆を為すあり、(略)余は余の一生中曾(かつ)て此自由の空気を呼吸せし事あるを感謝す」(「上州の夏」『東京独立雑誌』40号、1899年8月15日)
2026.05.30
37内村鑑三Q&A 山本泰次郎その1 札幌農学校入学前のキリスト教との出会い入信-最初の信仰-札幌農学校における強制的入信とクラークの札幌伝道Q 内村鑑三は17歳で札幌農学校へ入学した時に初めてキリスト教に接したと聞いていますが。A それより5年ほど前に、友だちに誘われて東京の外人居留地(築地あたりと思われます)の教会へしばらく通ったことがありましたが、それは「居留地への日曜遠足」か物見遊山に過ぎず、信仰を求めていたものではありませんでした。キリスト教によって内と外から、すざましい改宗-革命を強いられるに至ったのは、札幌農学校へ入学した時からです。 内村鑑三 万延2年(1861)閏3月23日、江戸小石川蔦坂上の高崎藩主松平右京亮中屋敷に、父内村金之丞宜之(よしゆき)、母やその長男として出生。慶応4年・明治元年(1868 8歳)3月、一家、高崎に引き揚げる。翌年4月から明治4年6月高崎に帰るまで、父の勤務により、石巻・気仙沼に転居。明治4年5月父宜之、高崎藩からの帰藩の要求により、登米県少参事を辞して、高崎へ帰り、鑑三も再び高崎に戻った。高崎藩は、明治3年8月に英語仮学校を設置し、柏原(丹波国)藩士小泉啓二を東京から招いて、英語仮学校を設置していた。鑑三は小泉先生から始めてABCを学んだ。12、3歳頃の高崎の夏の魚釣りの思い出を懐旧の情を込めて語っている。「余の記憶すべき喜ばしき夏は余の十二三歳の時に始まれり、余の家は時に上州高崎にありて余は何時しか殺生の快楽を覚りたれば、夏来る毎に余は其附近の山川に河魚の捕獲に余念なかりき、余の父は余が読書を放棄して、簗(やな)、掬手(すくて)、鉤(つりばり)等の製造修繕に従事するを見て甚だ不興の面を示せしと雖も、余の全心は碓氷(うすい)、烏(からす)両川の水産物に在りし事なれば厳父の些少の叱責の如きは余の省みる処にあらざりし。」「余の魚類界なるものは此等十数種に限られ、長き夏の日に友と互に語るべき事は唯是等有鱗の族に就てのみなりき、曰く何の誰は幸福なり、彼は今日何十目の鰻を得たり、余は残念なりし、余は今日尺余のクキを釣り落としたりきと、鮎と鰷(はや)とは余の夢に上り、鰻と鯰とは余の希望を繋ぎ、魚籃(びく)に溢るゝ雑魚を得んとするより外に余に野心は存せざりき。」「真正の智識は実験を以て始まる、余の天然物の愛は烏、碓氷両川の天然物の観察を以て始まれり。」(「上州の夏」『東京独立雑誌』40号、1899年8月15日)」 明治6年(1873 13歳)3月上京し、旧久留米藩主有馬氏がその邸内に設立した有馬学校(有馬頼威の「報国学社」明治5年8月開業)に入る。報国学社では、英国人教師が英語学を教授していた。内村鑑三は、ここでイギリス人の厳しい女教師から英語を学んで上達した。また、この頃に外国居留地のキリスト教公会堂に日曜日ごとに通うなど、キリスト教に触れている。「How I Became a Christian Out of My Diary」by KANZO UCHIMURA CHAPTER SECOND に、「キリスト教に接す(INTRODUCTION TO CHRISTIANITY)」という次のエピソードが載っている「ある日曜日の朝、私の級友が私に尋ねた。君は僕と一緒に『外国居留地のある場所』(a certain place in foreigners' quarter)へ行きたくはないかと。『そこでは美しい婦人が歌い、長い鬚をはやした背の高い大きな男が高い檀の上で腕をふり、体をくねりながらずいぶん風変わりな姿で怒鳴り吼えるのを聴くことができる。入場は一切無料である』(pretty women sing and a tall big man with long beard shout and howl upon an elevated place, flinging his arms and twisting his body in all fantastic manners, to all which admittance is entirely free)と。それはキリスト教会堂(Christian house)で、当時私には耳新しい言葉で礼拝が行われていた彼の描写だった。私は友人についていった。そしてその場所は私には不愉快ではなかった。日曜日また日曜日、私はこの場所に通った。こういう習慣に伴ってくる恐ろしい結果を知らずに。(Sunday after Sunday I resorted to this place, not knowing the awfully consequence that was to follow such a practice.)」内村鑑三が最初の英語を教わったイギリス人の老婦人(ミス・ピアソン)は彼の教会行きを喜んだ。「東京青山に於て英国女教師某より新訳聖書物語一冊を貰ひ受けし時に余は既にジーザスクライスト(余は当時未だ主の名を日本音に於て知らざりし也)を拝せんとの念を起こした」(「回顧と前進」)とあり、この頃、キリスト教の物語に親しみ、信者の示す親切を楽しんだのだった。
2026.05.30
37「宮部金吾」抜粋 自叙伝4 東京大学時代 1 東京大学へ 明治14年7月11日、学校を卒業して東京への帰省の途についた。その頃、札幌から東京に行くには小樽から汽船で横浜に着き、そこから汽車の便をかりたものだが、私は道南地方の植物景観に接して置きたかったので、陸路函館に行くことにした。札幌から小樽までは汽車に乗り、小樽から余市、岩内、磯谷、潮路(ウショロ)、黒岩、森と旅寝を重ねて函館に着いた。岩内と磯谷の間は有名な難所である雷電峠であったので船の便をとった。和船であったが幸いに静かな日であったので、おだやかな航海であった。後は駅逓から駅逓の旅で、馬子が先頭にたち、後に3,4頭の引馬をして、客はそれぞれその上に乗った。この時の旅行はひとりのことでもあり、かつこんな条件でもあったので、植物はあまり採集が出来なかった。函館から宮城県荻之浜までは船で行き、仙台に出て、当時宮城県庁に奉職していた長兄美勲を訪れ、数日間滞在して、それから人力車で白石、福島、郡山、宇都宮を経て東京に帰った。上野御徒町2丁目15番地の生家では母が次兄文臣と住んでおり、母はことさら自分の卒業を喜んでくれた。 これより先、明治13年の春、明治13年の春、ある日森校長から『話したいことがあるから宅へ来てくれるよう』との伝言があったので、早速その夜、おたずねしたところ、『卒業の上は君を本校の植物学教官にしたい。その準備として、明年卒業後に直ちに東京大学へ送り、植物学をまず2ヵ年専修させ、そのうえ機を見て更に洋行もさしてやるから、そのつもりで健康に充分注意して、よく勉強するように』と申し渡された。私にとってこんな嬉しいことはなかった。これで私の一生の方針がはっきりきまったのだ。私は、その夜、寄宿舎に帰室すると、すぐ内村君から『何かうれしいことがあるな。きっとすばらしくうれしいことがあるにちがいない』と幾度か言われた。堅く校長から口留めされていたが、生涯のこの友にだけは口を割らざるを得なかった。内村君は『よかったな、よかったなあ』と連呼して、私の肩を幾度かたたいてくれた。学校を卒業すると、それが実現され始めたのだ。そして東京遊学に対する長官の了解はあったのだが、東京大学での研究の辞令がなかなか下りず、手続きが面倒であったようで、正式に辞令が下りたのは明治14年11月14日付である。辞令には 東京大学ニ於テ植物学専修申付候事但シ修学中ハ月俸金ノ外別段日常ハ不給候事月俸金拾六 円被下候事とあった。ただし月俸は半分となったから、物価のやすかった当時とはいえ、自家から通ってどうにかこうにか過ごせた程度であった。8月から11月にかけて、私は道灌山を主として東京近郊に数回の採集を試みた。(本引用いったん了)
2026.05.30
23明治36年(1903)の第19帝国議会は奉答文事件でたちまち解散されたが、この議会で藤三郎は、元十州製塩会社社長の井上純太郎と知合いになった。解散前の5月、井上は、藤三郎に発明の才能があることを知って「日本の塩は、ドイツからの輸入塩にけ落とされかかっています。もう3割くらい製塩費を軽減する方法を考えなければ、わが製塩業は全滅してしまう。なんとかいい方法を考えてください」と頼んだ。わが国に外国塩が初めて輸入されたのは、明治26年(1893)で、品質は内地塩の純分が80%に過ぎないのに、外国塩は平均86%以上ある上、価格も安いため、外国塩の需要は激増した。政府は、技師を海の内外に派遣したり、また塩業試験場を設けたが、改善する見込みが立たなかった。そこで最後の手段として、明治38年(1905)に食塩専売法を施行した。井上純太郎の依頼を受け、藤三郎は農商務省の奥健蔵の調査報告を読み、欧米の製塩方法を研究した。その結果、藤三郎は風力を利用して海水を濃厚にする製塩装置(特許7218号)を発明し、明治37年(1904)3月に特許を取った。翌年には、海水を経済的に蒸発させるために、気圧を低くすると低温でも蒸発する理を応用した低圧蒸発缶(特許8726号)も発明した。なお続いて硫酸石灰の付着結晶を防ぐためには、多管内自動掃除装置(特許8734号)を発明した。そのほか、自動製塩機(特許15951号)や、海水導入装置(特許13620号)なども発明した。藤三郎は、直接、製塩に関する発明だけでも、最後まで33件の特許をとったが、明治38年(1905)に福島県岩城郡小名浜に、新しい方法の試験工場として、鈴木製塩所を新設した。機械の運転を始めたのは、明治40年10月であった。この工場は全く独力で建設した試験工場だったが、資本金40万円を投じ、一昼夜に300石、1年に3万石の製塩をする計画で、壮大なものだった。その後も、改良に改良を加えて、完成したのは、明治42年(1909)のことだった。藤三郎はなんとこの時代に、水力ダムを設け、水力発電を製塩工場に使用する構想を持っていたことを「駿河土産」(第1集p214)の著者国府犀東氏が記録している。「◎『岩城の小名浜近く、流るゝ夏井川といえるに水力電気を仕掛け、工事もすでに竣成して、2個の電力併せて1万5千馬力、近所に石灰山もあり、海浜も近くして、アルカリーを製造するには、最も適当の地を得たり。水力電気を純然たる工業用に使うは、これが始めてなるべし』とは、鈴木氏の談。猿橋の水力電気は、7,500馬力、宇治川の計画は、1万馬力、今日にては小名浜の水力発電を随一とせんか。鬼怒川に15万馬力とかの計画ありとかいえど、いまだそのいかんを知らず。」また、「なぜ大胆に一事業のため40万円の試験費を投じたるか」の質問に対して、「私が事業を創始するについては、すべて二宮翁の報徳主義を遵奉している。翁の御歌に、仮の身をもとの主に貸し渡し 民安かれと願ふこの身ぞというのがある。これは翁の根本主義を説明したもので、翁則ち神という大抱負を示したものである。我々の到底及ぶ所ではない。また翁のお歌に、世の中に人の捨てざるなきものを 拾ひ集めて民に与へんというのがある。ある人は「捨てざるなきもの」というのが偉い。「捨てたるものを拾ふ」といえば、何人もするが、「捨てざるなきものを拾ふ」というのは、なかなかできがたいものであると言ったものがある。私はこれに倣うて、世の中の人の捨てざるなき業を 開きはじめて国に報いんと詠んだことがある。翁は「なきもの」といわれ、あらゆる事物に通じた意味を示されてあるが、私は「業」といい、事業だけの狭い意味にした。世人の捨てない事業を開拓し改良して、些少なりとも国家に益したいという微意を現したものである。 したがっていったん見込みをつけた事業に向かっては、40万円でも50万円でも必要に応じて投下することを厭わない。いやしくも国家のためになるべき地形であれば、資産はもちろん、借金してまでもやる覚悟である。その代わり、この事業で何のくらいの利益を得なければならぬとか、損をしてはならぬなどということを考えない。損得はまったくこれを別にし、事業にかかっては鉄砲玉のごとく邁進する。人は事業を計画するに、利益の割合ということを目安とする。私は、利益の有無を眼中に置かぬ。事業が成るか否やというのを主眼としているのである。」
2026.05.30
大智禅師偈頌講話 沢木興道 鳳山山居(四) 草屋単丁二十年 (草屋単丁たること二十年) 未持一鉢望人煙 (未だ一鉢を持して人煙を望まず) 千林果熟携籃拾 (千林の果熟して籃(かご)を携えて拾う) 食罷渓辺枕石眠 (食し罷って渓辺石を枕にして眠る) 「草屋単丁たること二十年」これが、約二十年大智禅師がこの山の中におられたんだろうという。草屋単丁たること、一人ぼっちで二十年、「未だ一鉢を持して人煙を望まず」よそにも行かなかった。托鉢の代わりに、「千林の果熟して籃(かご)を携えて拾う」まあ籃がようあったものである。「食し罷って渓辺石を枕にして眠る」―。ここにわれわれは凡聖迷悟、悟ったとか、迷ったとか、この山居というものにおいて、悟ったというのは俗物である。その悟りもやめたのが山居である。迷うておるものが俗物、善根功徳もそうである。善悪を超越した、そこが山居。凡聖迷悟、好き嫌い、よしあし、一切のものを超越した世界が、草屋単丁たること二十年、未だ一鉢を持して人煙を望まず。千林の果熟して籃(かご)を携えて拾う。食し罷って渓辺石を枕にして眠る。そこになんの迷悟があるか。つまりこういう生活を、ここに山居という。(大智禅師偈頌講話p.18-18)
2026.05.30

187二宮翁逸話30 翁の手習 翁は今の人のように紙や筆墨で手習をされたのではない。盆の上に酒匂川のごく細かなる砂を入れ、それをならして杉ハシをもって一生懸命に習われたということである。そして習字手本は祖父の銀右衛門が書いてやられたのである。
2026.05.30
AIMタンパク質にアルツハイマー病改善の可能性 原因物質の脳内蓄積抑制を確認 宮崎徹氏の研究グループ5/29(金)AIM医学研究所の宮崎徹所長、前原奈都美研究員らの研究グループは29日、動物の血中に高濃度で存在するタンパク質「AIM」に、アルツハイマー病の原因物質除去を促進する機能があるとの研究結果をまとめ、米科学誌「セル・リポーツ」で発表した。 AIMは体内にたまった老廃物などの「ゴミ」を掃除する機能を増強し、特にネコの腎臓病予防・治療薬として注目されている。この研究では、AIMがアルツハイマー病を引き起こす「アミロイドベータ」の除去を促進するほか、脳内の酸化ストレスを抑える効果を発揮、認知症のマウスの症状を改善することを確認した。 認知症の大部分を占めるアルツハイマー病は、脳内にタンパク質の一種であるアミロイドベータがポリマー(重合体)となって蓄積、それが原因となる炎症で神経細胞が破壊されて発症する。近年、脳内の免疫細胞「ミクログリア」にアミロイドベータを除去する作用があることが報告され、ミクログリアの作用増強に着目した認知症治療の研究も行われている。 宮崎所長らの研究グループは、既にAIMが腎臓や肝臓などの臓器でゴミ掃除を促進する機能を解明しているが、脳内ではAIMがミクログリアによるアミロイドベータの除去を助け、ポリマーの蓄積を防ぐことを突き止めた。 一方、アルツハイマー病の発症や進行は、脳内で発生した活性酸素による酸化ストレスが強く影響する。同グループは最近、AIMに抗酸化作用があることを発見しており、この研究でも脳の酸化ストレス抑制へのAIMの寄与が明らかになった。こうした効果から、アルツハイマー病のマウスの脳内でAIMを発現させると、認知機能の一部が改善することも分かった。 宮崎所長らはこれまで、AIMが動物の体内で産生される老廃物などゴミの掃除を促し、ゴミが原因となって起こる腎臓の慢性炎症を抑えるほか、腎細胞を弱らせる酸化ストレスを低減させる抗酸化作用を持つことも明らかにしている。宮崎所長は「AIMが掃除のターゲットにする対象に、アミロイドベータが含まれることが分かった。AIMの抗酸化作用が脳内の酸化ストレスを低減させる複合的な効果もあり、アルツハイマー病の症状改善につながる可能性が示唆される」としている。
2026.05.29
37「宮部金吾」抜粋 自叙伝町村金弥君 君も苦学生の一人で、官費制度のある学校を求めて、まず工部大学予科に入学しておったところ、たまたま開拓使の札幌農学校官費生募集を聞き、しかも無試験で入学を許可されることを知り、直に応募されたのである。君は真面目なそして沈着な青年であって、つとに修養に努められていた。入舎後間もなく、我々の組織していた立行社へ加入された。君の最も力を入れておった学科は畜産学と簿記であった。卒業の時の第一希望は畜産学であったので、直に真駒内牧場の係を命ぜられ、遂に本道における畜産界の大成功者の一人として知られるに至った。君はまた理財にたけていて、我々の級友中第一番の資産者となって、東京で楽隠居の生活を送った。明治14年7月9日に卒業したが、同月27日に開拓使より御用係その他の辞令を受け取るまで、一同寄宿舎に在って待命していた。ところが、森校長より町村君と私とが呼び出され、茨戸の発寒川沿岸の土地を学校の用地にしたいからその踏査をしてくるようにと命ぜられ、7月25日に出発、茨戸で舟を雇い、発寒川を遡り、沿岸の土地をつぶさに調査し、見取図を添え復命した。その結果この地所は一時学校の所有に帰した。君に関して一つの逸話がある。それは何の罪にもならない話であるから、ここに記録に止めて置くことにする。それは演説法 Declamation の時、君の番で講壇に立って演説を始めたところ、ズボンの前のボタンがすっかり外れていて、何かが見えたので、級友の一同が笑いこけた時、一人が立って自分の前へ手をやり注意をしたため、漸くわかり真赤になり、後ろを向いて前を整えてまず無事に演説を終ったが、その後また君の番が来て講壇に立つこととなった。その時の演題はブルータスの大演説であった。この前の時の失敗に懲りたためか"Romans"と言いながら、右の手で前をさわって見、"Countryman"と言って左の手でまた前を探って見、and lovers! と言ってまた右の手で前をさわって見た。その手の調子がすこぶるrhythmic であったため、一同もまた笑い出したところ、君はまた出ていたのではないかと思い違いをして、そっと覗いたから、大変、級中哄笑、暫時は止まらなかった。
2026.05.29
37「宮部金吾」抜粋 自叙伝P88-87藤田九三郎君も広井君と同じような境遇に置かれ、少年時代から青年時代にかけ苦学しておった。また等しく工学に志して工部大学予科の入学試験を3回も受けたが、ことごとく失敗してしまったので、東京英語学校に入学、その二級の時、札幌農学校官費生に応募したのである。在学中の成績からみると、数学、力学、地形測量図、簿記学、兵式体操等で優良な成績を挙げている。卒業の時の希望は第一が土木工学、第二が農用工学であったので、開拓使では君に工業局土木課詰を命じた。 君は札幌根室間の中央道路予定線の選択と、その道路線に沿い殖民地として適当な土地の調査及びその他重要なる事項の命令を帯びて、明治15年第一期卒業の田内捨六君と共に札幌を出発し、実に言語に絶する苦難をなめ、その任を全うして、同年秋に至りつつがなく帰札することを得た。この旅行中釧路の雌阿寒岳に登りナデシコ科に属する一小草本を採集、土産として持ち帰られた。これは学界に新しき種類であって、メアカンフスマ Arenaria merckioides MAXIMOWICZ と命名された。 今でも覚えているが、藤田君が卒業少し前、ドクトル・カッターに身体検査をしてもらった時、肺部に少し故障があるから、よく気をつけるようにと申し渡され心配しておったが、その後前記の大探検旅行に無理をした結果、肺患の徴候が漸次進行して来たため、終に明治22年7月職を辞し、茨戸太に未開地38町歩余を出願した。家族と共にそこへ移り、鋭意その開発に従事し、数年を出でずして全部開墾に成就したが、明治27年1月21日安らかに最後の息を引き取られた。享年35歳。君は丈高く少しく前に屈み、筋骨逞しく、在校中はすこぶる強健で、雪中の山登り等を最も得意としておった。また第1回遊戯会の時に三段飛(ホップ・ステップ・エンド・ジャンプ)、半英里競争及び袋競争(サック・レース)等にてことごとく一等賞を獲得した。君は好んで頭を五分刈りにしておったため、大入道のように見えたので、級友は君を「入道」または「ニュー君」と呼んでいた。 君の性質は体格とは正反対で、どちらかといえば内気であり、言葉数が少なかったが、内に信実がこもっておった。君は口先よりは実践窮行をもって処世の主義としておった。 君の特性として書き落とすことのできないのは、君の消化器のすこぶる強健であったことである。寄宿舎の食堂の机には4人が一組となっていて、私の組には藤田君と内村君とがいた。朝夕の洋食は盛り切りでどうにも致し方がなかったが、昼飯の和食の時は4人に一つの飯びつと1週間に一度汁物が大鍋に一杯配置されてあったため、君は思う存分に食欲を満足させることができた。 ある年の暮に賄い方が餅を馳走するというので、舎生一同食堂に集まった。その時君は最も多量を平らげた者の一人であった。その食べ方を見ておったが、決して餅を噛まないで、ただそれを食い切っては鵜呑みにするのには驚いた。この胃腸の強健であったことが、君の生命を少なくも両三年は永らえさせた。数度の大喀血で医者がサジを投げてから3年持ちこたえたのは栄養物を大量にとることができたためだと思う。岩崎行親君 君は我々の仲間では最年長者であった。安政4年の生まれであったから、入校当時は21歳であったが、我々の目からはそれ以上の老成人に見えた。それで我々は君に対して「岩崎老人(がんきろうじん)」の尊称を奉っていた。君は厳父が従六位筑前介岩崎政行といわれ、住吉神社の宮司を勤めておられ、王政復古の際に国事に奔走された熱誠愛国の士であった。君は明治の新教育を受けらるる前に京都にて皇漢学を修め、また明治4年東京へ移られてからは専ら漢学を修めていた。かくて君が札幌へ来られた頃には漢学にも国学にも造詣がすこぶる深かった。君は資性剛直、純真着実で熱誠なる人格者であった。ことに憂国の精神に充ちた人であった。前にも述べたように我々入校許可当時、芝口植木屋に合宿中に立行社なる修養団体を組織したが、その発会者並びに社則立案者は実に岩崎君であった。卒業の席次が思わしくなかったのは、君は数学、土木、物理、化学のような学科が不得手であったためで、農学、動植物学、英文等では常に優良な成績を示しておられた。漢学の最優であったことは言を俟たないのである。在校中のみならず、君は終身読書をもって第一の趣味としておられた。同級生中に常に話題となっておったのは、君が夜床に就く時は必ず書物を二三冊、しかも時にはすこぶる厚い本などを持ち込んで、それを読みながら、眠りに就く習慣であった。 卒業に際し君が提出された希望は第一が作物及び果樹栽培で、第二が牧羊であった。そこで開拓使では君を民事局勧業課勤務に命じ、樹芸科担任、牧畜科兼務とした。しかし君の天職は教育事業にあった。明治27年鹿児島に赴任以来、昭和3年4月急逝された時まで、35年間薩南教育界に身を投じ、実にかくかくたる偉勲を建てられたのである。第七高等学校造士館の前庭を飾る君の胸像は、永く君のこの造士館の復興と育英事業に尽くされた功績を讃えてやまないであろう。しかし永遠に君の遺志として記念さるべきものは、恐らく大正10年夫妻相携えて伊勢の神宮に参拝し、君が日本の国体に対して平素抱懐せる赤誠を七言の古詩に作り、これを国体詩と称して敬天塾の学生に与えたものである。
2026.05.29
37「宮部金吾」抜粋 自叙伝P85-86広井勇君 君は同級生中最少年者であったが、恐らく一番世の中の苦痛をなめて来たと思う。君は旧高知藩士廣井喜十郎氏の長男として生まれ、厳父は君の9歳の時逝去され、祖母、母堂と共に貧しき生活をしておった時、たまたま母方の叔父に当る侍従片岡利和氏が郷里を訪れ来たった際、同氏に懇願して上京の志望を遂げることを得た。これは明治5年、君が11歳の時であった。私が君を始めて知ったのは、明治7年東京外国語学校へ入学した時であつた。その時、君は英語学下等第六級丙組に編入されていたが、いつの間にか、君は工部大学校予科へ転入しておった。君はその頃から工学をもって身をたてんと望んでおったことがわかる。叔父の家にそうそう長く厄介になってはおられぬ事情があったので、どこの学校でもよろしいが、官費制度のある学校を探しておった時、札幌農学校の官費生徒募集の議があり、直ちに他の3名の同志と共に出願許可されたのである。 札幌農学校へ来て見ると、その課程中には代数、幾何、地形測量、機械力学、土木工学、製図等の諸学課があったのみならず、その教師の内にはC.E.(土木技師)の学位をもっているウィリヤム・ホイラー教師が数学や工学を教えており、またその後任には、機械工学を専修したピーボディー教師がいたので、充分君の志望を満足せしめることが出来た。生徒時代から製図は特に君の最も得意とするところであった。教師よりの依頼で学校構内の測量図を見事に作製したものが、札幌農学校第四年報のフロントピース(口絵)として掲載されている。この図によって校舎の配置や計画中の樹木園並びに潅木図や温室とその付属花園等の位置が明らかにされている。そしてこれは広井君の青年時代の製作として最も尊い記念物である。この図については後章植物園沿革史に詳記することとする。君の性格中最も著しかったのは、剛毅の性質であって、正義のためなれば師であれ、先輩であれ、忌憚なく直言してはばからなかった。あの時、ドクトル・カッターが講義室に入るや、直ちに講壇の卓上にその引出しの内容が散乱しているのを見て、学生の悪戯と誤認し非常に怒り級生に向って、「かかる行為は決して紳士のなすべきところならず、宜しく予に対し謹謝すべし」といい終るや否や、広井君は直ちに立ちて、「先生一体事の真相を調べずして他人を非難するは、貴国においては、それを紳士的と申しますか、まずよく机をお調べ下さい。」と直言した。かねてドクターがこの机の引出しに錠前をつけてくれと事務所に申し込んであったと見え、要求通り修理が行われておったのを見て、これは職人の仕業と直ちに悟って級生に対し"Gentleman, I beg you pardon!"といって男らしく謝まり、すべてが立派に解決したことがあった。広井君にこの気骨と勇気のあるのを始めて知った同級生は、君に対し少なからぬ敬意を払うようになった。君は無口の方であったが、時に好んで無邪気な諧謔を弄したりした。また何かいかしなことがあると腹を抱えて笑いこけることもあった。君の趣味としては読書が第一であったと思う。時には力以上のむつかしい書物をわざわざ取り寄せて読んだりしていた。第二の趣味としては狩猟であろう。山野を跋渉する時には必ず銃を肩にして出かけたもので、何かしら猟物をさげて得々として帰ってきたものである。卒業の時の希望としては第一は農用工学、第二は土木工学としてあった。卒業後の事は詳伝もあり、人の皆良く知っているところであれば、ここにはそれを省略する。
2026.05.29
38「宮部金吾」抜粋 自叙伝P84 太田稲造君 太田君は南部藩の名家新渡戸十次郎氏の三男として生れ、祖父伝氏は最も傑出した人物で、南部領内における不毛の大原野であった三本木の開墾を計画し、十和田湖より疏水して、この土地をして遂に一大沃野と化するに成功したのである。君の5歳の時、厳父は他界されたので、少年時代は賢夫人の誉れの高かった母堂の膝下に成育された。祖父は明治4年君の9歳の時逝去されたが、生前より君の将来に嘱望され、教育指導のよろしきを得れば、必ず天下に名を成すであろういわれていた。その遺志に従いまた厳父の実弟太田時敏氏が養子に貰い受けたしとの切望により、同年の秋上京することとなった。 次兄道郎氏は明治17年病歿され、また長兄七郎氏は明治22年君がドイツ留学中に死去されたため、君は実家を相続することとなり、新渡戸姓に復帰した。 君が札幌農学校へ入学した時は僅か16歳の青年であったが、年に似合わず思慮分別に富み、頭の働きの機敏さには驚くべきものがあった。特に弁舌に達しており、また何となく気取るとこrもあった。時に諧謔を弄したり、また人をからかうことが好きでもあった。また室内で相撲を取ることを好み、腕節もなかなか強く、私とは好敵手であった。私共2年生の時、相撲のはずみで私の前歯の義歯をひどく打ち、それをいためたので、その夏の休暇に治療を受けるため上京したが、その時に内村君も一緒であった。 こんなに快活であった君が、卒業の2年前頃から憂鬱症に罹り、余り外出もせず、室に籠ってますます読書に耽っていた。それで誰れいうとなく「モンク」というあだ名で呼ぶようになった。この憂鬱症の原因は多読の結果、思想に動揺を来たし殊に神学上の懐疑に陥ったためと知られておった。 学課の内、最も力をこめて勉強されたものは農学であった。それは明治9年、明治天皇が東北地方御巡幸の砌、三本木にて御昼休み遊ばされ、先考の存生中祖父の事業を継ぎ、疏水開墾に尽力せることを聞召され、その功績を嘉し給い、御褒美を賜りかつ子々孫々克(よ)く農事に勤めよとの有難き御諚を忝(かたじけの)うしたので、兄弟三人は共に祖父の遺志を継ぎ皇恩の優渥なるに報い奉らんことを誓ったのである。 太田君の札幌農学校入学を志願されたのも、それがためであり、また在校中農学に最も力を注いだのもそのためであった。第一年級第一学期の農学の成績は一番であったが、学年成績では三番であった。第二年級の学年の成績は一番で、二番は内村君であった。この努力は一つには故郷の老母を喜ばせるためだといっておった。英語に関する学科の優賞はことごとく君の占むるところであった。 11年振りで母堂に面会するのを楽しみに明治13年の夏、札幌を出立し、途中ゆるゆる諸所を見物しながら、何も知らずに盛岡に着いたところ、2、3日前に母堂が他界されたことを始めて知ったので、君の悲嘆失望は譬えようもなかったのであった。 それから札幌への帰途、東京にてはからずも永く求めていたカーライルの「サータス・リサータス」が手に入り、あたかも渇者が水をあえぎ求むるがごとき有様で、それを貪り読んだ。すると、これまでの煩悶憂鬱がさながら雲霧のごとく消え散じ、まるで復活したような気持ちになったと随想録に書いてある。またその頃好んで読んでいた修養書には、プルタークの英雄伝があった。 卒業に際し学校へ提出した希望としては、第一は開墾、第二は作物栽培、特に甜菜栽培としてあった。第一の希望、開墾は優渥なる御諚に従い、祖父の遺志を継ぎ、北海道の開墾事業に関する業務に就きたいというので、これは後年、札幌農学校教授時代に北海道庁技師を兼任し、殖民地選定の事務に関与した時に実現され、北海道の拓地殖民に君の貢献せるところは決してすくなくなかったのである。また第二の希望、すなわち糖業に関しては、明治34、35年頃、後藤新平伯に懇望され、台湾総督府殖産局長兼糖務局長となるに及んで達せられた。この業績は実に台湾におけるサトウキビ農業の基を置き、その政策を確立し、日本をして砂糖について自給自足ならしめたのであって、実に日本糖業の恩人と認められるに至ったのである。
2026.05.29
ウクライナがドローンで対ロシア反撃“加速”AI駆使で戦場は…米テック企業の意図5/28(木)ウクライナは粘り強くロシアへの反撃を続ける。飛躍的な進化を遂げているドローンを駆使しており、最新型には人工知能、AIも搭載されている。実は、ロシアの侵攻直後から、米国のAI関連企業もウクライナ支援に乗り出していた。ただ、戦争でのAI活用は、米国のイラン攻撃でより鮮明となっている。1)ウクライナがドローンで反撃 最新型はAI搭載もウクライナは5月20日夜、ロシアの占領下にある、東部ドネツク州のドローン操縦士訓練施設と、南部ヘルソン州のロシア連邦保安庁司令部を攻撃し、150人を超える死傷者を出したと主張した。いずれもドローンを活用した攻撃とされる。小野圭司氏(防衛研究所主任研究官)は、ウクライナのドローンの飛躍的な進化を指摘する。ウクライナのドローン攻撃は質も量も、この戦争が始まって以来急激に拡大した。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった当初は、年間5000機と言われていたウクライナのドローン生産量が現在では年間300万から600万機とも言われ、この数年間で非常に伸ばした。当初はラジコンのような無人機を使っていたが、今では長距離飛行も可能で、電波妨害にも耐性が備わるなど高性能化している。人工知能を使い自律飛行できるドローンも出てきている。小谷哲男氏(明海大学教授)は、ウクライナ軍のドローン専門司令部に注視する。つい先日、ワシントンでの会議があり、ウクライナの最前線でどのような戦闘が行われているのか、ウクライナ軍関係者も参加していて話を聞いた。オフレコの部分が多いが、ひとつ大きいのは、2年前にウクライナ軍がドローン専門の司令部を作り、陸軍、海軍、空軍などと同じ軍種の一つにドローン部隊を位置づけた。このドローン専門の司令部がドローン作戦について様々な新しい考え方を打ち出してきた。しかも、陸軍や空軍などとも連携をしている。さらに、ウクライナの軍と民間企業は、この4年以上ずっと連携を続けてきて、イノベーションを起こし、ドローンの能力を飛躍的に高めた。加えてAIなども使って司令官の意思決定を支えるシステムができた。ドローンを有効活用できる態勢が整い、目に見える形で効果を上げ始めている。ウォール・ストリート・ジャーナルは、「ウクライナはAI搭載ドローン『ホーネット』や、中距離攻撃ドローン『FP2』などの配備を増やし、ロシアのドローン部隊、兵たん・指揮所・防空システム・倉庫などの標的を攻撃している。その結果、ロシアは前線作戦の支援が困難になっている」と報じた。中でも最新AI搭載ドローン「ホーネット」は、AIを使って目標の識別、分類、優先順位づけができるという。どういうことなのか。小野圭司氏(防衛研究所主任研究官)ロシア側はドローン攻撃を防ぐために様々な手立てを用意しており、その一つが妨害電波による通信の遮断だ。人工知能搭載型ドローンは、通信遮断時にも自律飛行をして目標に近づくことができる。さらに、戦闘車両に草木を巻き付けて偽装した場合も、偽装を見破り、敵の攻撃目標だと判別することも可能だ。一方で、こういった高性能な人工知能搭載型ドローンは高額となり、従来の5倍から10倍とされる。部品点数も増え、部品供給のサプライチェーンも用意しておく必要がある。それでも軍用のミサイルに比べれば価格は100分の1で、費用対効果はまだまだ大きい。2)米AIデータ解析企業がウクライナ支援 見返りは“データ提供”2022年、ロシアによる侵攻が行われた直後にキーウでゼレンスキー大統領とアメリカのAIデータ解析企業「パランティア社」CEOのカープ氏が極秘会談を行い、システムの無償提供を約束。見返りにアメリカのAI企業はウクライナの4年間の戦闘データを入手できることになったと考えられている。さらにパランティア社は「メイブン・スマート・システム」を開発。このシステムは、衛星画像・ドローンの映像・レーダーデータなどを一つに統合。標的を分類して使用兵器を推奨し、攻撃パッケージを即時に生成するとされており、米軍のイラン攻撃に用いられた。その結果、イラン攻撃では作戦開始後24時間で1000以上の標的が設定された。小谷哲男氏(明海大学教授)は、ウクライナでのデータ蓄積がこのシステムに結び付いていると指摘する。もともとはグーグルが関わっていたが、途中でパランティア社に替わった。パランティア社はウクライナでの戦場データを持っており、それが最終的な開発で活かされたことは間違いない。とりわけ、ドローンを多用すると周波数が混線する。その中で、いかに安定的に使うかがウクライナで課題として見えてきて、それが「メイブン・スマート・システム」に反映されていると言われている。小野圭司氏(防衛研究所主任研究官)は、ウクライナと米企業の関係について、ウクライナのITリテラシーの高さを指摘した。開戦当初からアメリカの大手IT企業はウクライナ支援に入っていた。マイクロソフト、Google、オラクルのような大企業も即座に支援を申し出て活動に入り、人工知能関係のスタートアップ企業も、様々な人工知能を提供しウクライナを支援してきた。支援提供を受けても、受けた側が使いこなすことができなければ意味をなさないが、ウクライナにはITの素地があり有効活用できた。ロシアの侵攻が行き詰まった大きな要因の一つだ。3)“AIによる戦争”に警鐘…アンソロピック社は米政府から排除進化するAI戦術だが、戦争への使用に警鐘を鳴らすAI企業も。「クロード・ミュトス」の開発で知られる米アンソロピック社は2025年7月、2年間国防総省に自社のAIモデルを提供するとして、最高2億ドル(約310億円)の契約を締結。ただし、自社AIの使用について、「米国人を対象とした大規模監視に使用しない」「攻撃の実行まで最後に判断する完全自律型兵器については使用しない」という2つの制限を盛り込んだ。これに対し、国防総省側は制限条項の撤廃を要求。両者の意見は食い違い、米政府はアンソロピック社を政府機関から排除するに至った。番組アンカーの杉田弘毅氏(ジャーナリスト/元共同通信論説委員長)は、この攻防について以下のように分析をした。アンソロピック社のダリオ・アモデイCEOは、もともとOpenAIにいた人で、ChatGPTはダリオ・アモデイグループが開発したと言われている。OpenAIは公共目的の組織という形でスタートしたが、アモデイ氏はAI開発においては信頼性や制御可能性を重視したが、開発を急ぐ現CEOのサム・アルトマン氏と対立。アモデイ氏は結局袂を分かち、世界最強のAI企業であるアンソロピックを創設することとなった。アモデイ氏は今年1月『技術の思春期』という長文のブログを発表。その中で「AIは自分の欲望を持っている」「AIは人間を騙す」と指摘している。彼らは自社の実験結果をもとにしたそうした懸念を基に、完全自律型兵器は使わない、国民監視には使わないという2つの制限を決めた。当初、ペンタゴンは彼らを猛烈に批判していたが、アンソロピック社が抜けた後に入ったOpenAIも、基本的にはアンソロピック社が提示した2つの制限と同じような条件でOKとしている。AIの使用に制限を設ける考えが主流になってきているのではないか。アメリカのITコミュニティの中でも特にパランティア社は、「西側の同盟」を企業目的として強く打ち出し、「ウクライナは西側のために戦っているのだから、我々が助けなければ」との姿勢を示す。「だからこそ強権国家の中国とはビジネスをしない」と、中国に非常に厳しい姿勢だ。これはアンソロピックも同様で、アモデイ氏はトランプ政権が中国にエヌビディアの半導体を売ることも批判する。アメリカのITコミュニティには色んな考え方の人々がいて、新しいものをどんどん作って全部使えばいいという人だけではない。日本も彼らの得る結果を分析して、独自のAI開発・使用の制限を考えていく必要がある。こうした中、トランプ大統領はAIの監督監視を強化する大統領令への署名を延期した。小谷哲男氏(明海大学教授)ベッセント財務長官が中心となってこの大統領令を起案した。ミュトス登場の衝撃を受け、今後新しいAIを開発するときは、義務ではないが、アメリカ政府の承認を得るというのが主な内容だ。財務当局からすれば、監視しておかないと大変なことになるというところだが、テック系の人たちからすると、政府の規制が強まるので反対する。トランプ大統領は揺れている段階だ。小野圭司氏(防衛研究所主任研究官)は、「問われるべきは我々のAIに対しての姿勢」と強調する。AIは軍事的な利用だけではなく、民生分野でも利用価値が高い。軍隊なら指揮官、企業であれば経営者のような人たちが、どのように使うのか。単に経営や軍隊の専門家としてではなくて、人間社会として、どのように向き合うのかという思想家的な感性を持つべきだ。さらに、使う人だけに任せきりにするのではなく、社会全体で問うていかなくてはいけない。人工知能を人間社会が抱き込むような形で接していくことが必要だ。(「BS朝日 日曜スクープ」2026年5月24日放送より)
2026.05.29
38「宮部金吾」抜粋 自叙伝 高木玉太郎君 我々の級には文久2年生れの者が3人いた。そのうち高木君が一番兄分で1月生れ、太田君が8月、広井君が9月という順であって、入校当時は皆16歳の青年であった。入学規則によれば、志願者は18歳以上たるべしとなっていたため、願書には生年月日を偽って通過したが、卒業の時には本当の年が判明したので、開拓使の役人共がこれら漸く丁年に達したばかりの青年学士の処分には余程弱ったと聞いていた。しかし皆一様に開拓使御用掛を申し付けられ月俸金30円を給され、それぞれの志望に従って職を与えられた。高木君は頭脳が明晰であった上に勉強を怠らなかったため、終始優秀な成績を挙げておった。君は化学に対し熱烈なる趣味を起し、ペンハロー教師の指導の下に、学課外の時間は化学講堂に入りびたり種々な分析や実験の手伝いをしていたので、卒業の頃にはその学識も上達し、学友をして君は我が校における未来の農芸化学の教授たることを予想せしめたのである。在校中君はドイツ語の独習を始め、また続いてフランス語をも始めた。このドイツ語の学修は卒業後も継続し、遂にはゲーテやユーゴーをその言語で耽読するまでに進んだ。在学中君はまた鉱物の研究に趣味を興し化学講堂に備えてあった米国より取り寄せた頗る完備した鉱物標本につき綿密な研究を遂げた。鉱物の知識と化学の実験上の経験とは君の卒業後における事業の成功の基をなしたものである。高木君の父は幼少の時に死去され、また母は他家へ再婚されたため、祖母の手によりて養育されたので、いわゆるおばあさん育ちで我がままのところがあったが、また年の割りにませていて、頗る常識が発達していた。広井君の追想文によると「まるで生れながらの老人のようで僕らは君を『小爺(こじい)』と綽名したものであった」と。きみ君はまた料理に長じていて同室の広井君がよく猟に出かけ鴨など撃って来ると、その肉は君が化学教室から持ってきた磁器皿(ボースレーン・デッシ)やその他の器具を用いて予てから用意してあった醤油、砂糖などで味を付け、ストーブの上で、うまい鴨の吸い物を作り、出来上がると隣室にいた僕らに呼びかけ(寄宿舎の建物には全部壁がなく板と紙で室が分割されていたのでよく聞こえた)「宮部君ちょっと来たまえ。内村君は来るには及ばないよ。」とやったもので、実に君の性格の一端を窺い知ることが出来ると思う。君はまた物事に細かい始末屋であった。学校よりの支給品は必要の有無にかかわらず規定通りこれを請求して貯めて置いたとのことである。南鷹次郎君 南君は天性人格者であって、学生時代においては頗る真面目な青年で、ひたすら修養に勤めていた。東京芝口の植木屋旅館で内村、太田、岩崎の三氏と私の四人が立行社という修養団体を組織した事は前に述べたが、札幌に着いてからその主義に賛成され入社した者が三名あった。それは南、町村、鶴岩(村岡)の三氏である。明治11年1月頃と記憶するが、この七人で黒ラシャのオーバーコートを着用して記念写真を撮った事がある。寄宿舎生活中南君の逸話として何も伝えるものはない。ただ一つ記憶に残っていることは、ある時寄宿生全体の懇親会を復習講堂で催した時、そこに集った者は必ず銘々隠し芸をなすべきことを幹事より申し渡されたので、多くの者は非常に当惑した。しかし意を決したらしく室にちょっとの間姿を消した。やがて羽織をひっかけた南君が演壇に現われ、「私はこれより長崎のこうもり踊りを演じます」といって、両手を横に延ばし羽を広げた様子をなし、それを前後に動かしながら暫時踊っていたかと思うと、いきなり室の一方の壁に飛び付き羽を収めてチューチューといってそれでおしまい。一同その踊りの手振りに感心し喝采暫くは止まなかった。卒業の年の春、教頭より卒業後の就職に関し希望を申し出るように申し渡された時、南君は第一希望として獣医、第二としては畜産を選ばれた。学校当局は君の人格と学才とを認め、君の希望に従い、将来の獣医学教授たるべき準備として東京駒場農学校にて2年間獣医学を専攻するため、開拓使御用掛の資格のままにて遊学を命ぜられた。学校へ帰って来てもドクトル・カッターがまだおって獣医学を教えており、君は専らブルックス教師の下に農場の仕事に従事しておったので、その方の経験や知識がいよいよ増進したのである。学校としても農学は本校の大黒柱であれば、ブルックス、ブリガム両教師が帰国の後は君をして、その後を引き継がしめ、農学、園芸学の講義や農場の監理を担当せしむることとなったのである。獣医学の方は駒場出身の専門学士が担任することとなった。足立元太郎君 足立君は純粋な江戸っ子で、気が利き、物解りが良く、気さくで、また親切であった。話をするにも「君アレはアーして、アーなったよ」という調子だから、多くの人々は解からないが、私だけには足立君の話は大概察知出来た。君は学課中、製図、兵式体操、動物学等で優等な成績を挙げていた。在校中から昆虫学が好きで盛んに採集をしていた。卒業の時の希望は第一が畜産学で、第二が昆虫学であった。卒業後は養蚕に一身を捧げ、斯業発展のため大いに貢献された。君の記念として永く札幌に残っているものがある。それは君が学生の頃、昆虫を採集するため、今の大学付属植物園、当時の原始林中の楡の幹の樹皮を斧で剥ぎ、その傷口に滲出する液汁に集る蛾や甲虫類を採っていた。それが今でも明らかに残っている。しかしこの傷口から永い年月の間に木材腐食菌がはいり、心材の腐食を起し、近年に至り暴風のあるたびに倒れるに至っては、あまり芳しくない記念である。
2026.05.29
23明治35年(1902)1月31日に、日本精製糖会社の創立以来の社長長尾三十郎が、その主宰していた銀行が前年末に破産したので、会社へ悪影響を及ぼすのをおそれて、社長も取締役も辞任した。藤三郎は、前年10月に渡台し、正月7日に帰京し、初めてこの事情を聞いて驚いたが、どうにもできなかった。明治36年(1903)1月31日の改選で、藤三郎は日本精製糖株式会社の社長に就任した。長尾氏は藤三郎が日本精製糖会社を株式会社にしようとした際に、第三十九国立銀行東京支店長で、国家経済上からも精製糖事業は一日もゆるがせにできないと全面的に協力された。長尾氏が社長となり藤三郎は専任取締役兼技術長だった。長尾氏が社長だったからこそ、藤三郎は安心して1年半もの間、米欧旅行に行き、最新の製糖業の知識や技術さらには米欧の産業革命の実態を知ることができた。長尾氏は、製糖事業における藤三郎の恩人であり、盟友だった。ある意味吉川氏とともにこの人を失ったことが、後に日本精製糖会社の乗取りを許した一因といえるかもしれない。藤三郎は明治36年(1901)3月の第8回総選挙に、井上馨から伊藤博文に紹介され、彼が総裁をしている政友会に入り、郷里の静岡県から選出されて衆議院議員となった。井上馨が伊藤博文に鈴木藤三郎を紹介した手紙が、森町の周智歴史民俗資料館に残されています。明治36年(1901)1月30日付けの手紙で「鈴木藤三郎という者を静岡県候補とするようお願いします。・・・東京に帰る途中、御地へ立ち寄り、ぜひ台下へ一応謁見したいとのことで、添え書きをいただきたいとの事です。なにとぞご多用中であるとは思いますがご引見くださいますようお願い申し上げます。決して人物は不節の者では無いことは保証いたします。」と依頼する内容です。藤三郎は当時の政治家が、新しい産業に対して無理解であると、砂糖消費税問題で痛感したので、自分の手で擁護するの必要を考えたからだった。日露戦争を眼の前に控えたこの第19国会は、12月11日に河野広中議長が、開院式の時の勅語の奉答文中で、桂内閣の弾劾をしたという奉答文事件があって、開会の翌日解散された。翌明治37年(1904)3月第9回総選挙で、藤三郎は再選された。そして、明治41年(1908)3月まで日露戦争中の戦時議会に出席して、国事に尽した功によって勳四等を贈られた。日露戦争中、醤油エキスを発明し、戦地に供給され貢献したことや、それが後の新式醤油醸造法に繋がったことが鈴木農場を訪問した岡田良平氏や著者の国府犀東(こくふさいとう:日露戦争の頃「太陽」の時事評論を担当)氏らに語ったことが「駿河土産」(第1集P221-222)の中で記述されています。『戦時に際して陸軍糧秣廠よりの依嘱もあり、さきに砂糖凝結の実験をなし、方式に従いて、醤油のエッキスを試造したるに、初めて高熱度を用いし為か、豆分と塩分と全く分離して固有の旨味を失い、実験意のごとくならざりしが、ついで低温度にて固結せしめるの方式を設け、ついに原来の味と全く異ならざる固形醤油を造り得るに至りしが、当時戦地に供給せられしはすべてこの醤油なりしなり』とて膳に用いられし醤油がこのものなりと説明せらるゝを聞きゝては、戦役の当時この便利なる固形醤油がいかに我が軍隊を利益したるの多かりしやを憶えざるを得ず。」また、明治41年藤三郎が緑綬褒賞を受けたときの中央報徳会の受章祝いの席で日露戦争中、兵隊の炊飯用の釜の発明をしたことについて述べている。(第1集p185)「私がこの釜の発明を思付いたのは、普通の飯を炊く際に、火を釜底の中央に当るようにするのを見て、二重底にしてパイプの如きもので釜底の中央に火を送るようにした。▲西洋では「パン」は皆商店より配達するのに、日本では戸ごとに飯を炊くのは不思議である。若しこの如き釜で大仕掛に炊いて配達したようにしたらば、経済であると思う。▲この釜は蒸気機関で炊くのだから、蒸気機関を使用している所では、すぐに実行出来るが、その設備にないところでは機関の据付費が600円ばかりを要す。▲この釜で炊けば手数が省けて出来損ないなどということは決してなく、飯もごく甘く出来る。▲陸軍経理学校では、飯をかしぐに従来2円47銭を要したのが、この釜でやってからは、1円04銭で出来るようになった。また連隊のような人の多いところでは半分の費用で出来る。それのみならず飯を炊けば労せずして風呂を立てることができるという徳用がある。」
2026.05.29
大智禅師偈頌講話 沢木興道 鳳山山居(三) 名韁利鎖留不住 (名韁利鎖(みょうきりき)留むれども住(とど)まらず) 晦跡煙霞水石中 (跡を煙霞水石の中に晦ます) 折脚鐺児煎野菜 (折脚の鐺児野菜を煎る) 住山自効古人風 (住山自ら古人の風に効(なら)う) 仏教で大事なことは、この名利を投げ捨てることである。坊主になっても名誉乞食というのがある。これくらい醜いことはない。名誉職を欲しがる。これくらい情けないことはない。これくらい哀れなものはない。あるいはまた坊主もお布施で利を貪る。まあ紙に包んであるから、知れたものじゃ。わたしはそう思う。あの大会社の財閥達の、権利を売るとか、いや権利を取るとか、あれは闇取引きか知らんけれども、それは何百万よこせ、何千万円よこせ、とごそごそ取り合いをする。 まあ坊主で一番金持ちといわれていた人が別荘を持っておったが、一年病気をしたら、別荘を売ってしまった。一番金持ちで、一番悪い者で、凄いことをやって、それだから子分もたくさんあったが、その子分が甲斐性なしばかりで、一年病気したら別荘を売った。まあ哀れなものと思うた。坊主の金持ちといってもしれたものじゃ。名誉といっても、本山の住職になったところがなんというかー。 名誉といって、坊主の名誉ぐらい、どうせ先祖が乞食じゃ。その乞食の末孫、王位を捨てて裸で乞食した釈迦の末孫じゃ。それで名誉がって、「御前様―」といわしたり、紫の衣を着て、先の開いた扇子を持って、昔の貴族の真似をしたりしても、それでまたよかろうわけがない。だから誰が考えたって、この世捨人は、世を捨てたところがよい。社会を捨てたところに値打ちがある。 わたしがよう小寺の和尚というと、腹を立てる人がある。大寺よりわたしは小寺が大好き、それより松茸小屋の方がなおいい。捨てたなら捨てた方がなおいい。なるだけない方がいい。ないような顔をして、二万円ばかり貯めておる奴がある。実に哀れなものだ。実はそれはつまらん話である。それでこれは昔にも例がある。 昔、中国である和尚が山に住しておった。そこへ勅使がたった。それは日本でもある。京都妙心寺の開山、関山国師が岐阜の伊深の麓で牛追いをしておった。その遺跡が今の正眼寺である。そこへ勅使が立った。その和尚山住まいをして、なんやら、松茸小屋みたいなところに、ごもくを寄せて、そこで火を焚き、芋を焼いて食っておった。そこへ、お勅使が立ったところが、一向どうも取り合わん、べったり青洟(あおばな)を垂らしておる。「和尚、洟をかんだらどうか」「この忙しいのに洟をかむどころか」といって芋を食っておった。 勅使がそのことを天子様に申し上げると、ますますご帰依なされて、あの和尚芋が好きだからというので、遠くそのぐるりにいっぱい、天然に生えたように芋を植えて、芋に不自由せんようにして、鹿の天然飼いのような理屈に、和尚を天然飼いにして遠巻きに保護をなされたという話がある。これは近ごろにない、いい話である。 で、これらが「名韁利鎖(みょうきりき)留むれども住(とど)まらず」名誉の絆でも、利益の鎖でもつながれない。それこそ金もいらん。命も要らん。名誉も要らん。「跡を煙霞水石の中に晦ます」ここに人間の眼に当らない。この人間も人に褒められないところ、褒めようと思うとも、褒めるところにいないというのはむずかしい。わたしらぼんやりしておると人を感心させようとする。感心さしてはいかん。誰でも人は感心する。なんやら人が感心するから馬鹿らしい。誰ぞ悪口をいえばいいけれども、誰も悪口をいうてくれん。煙霞水石の中に晦ます。霞の奥に鎮座ましまして、人間の眼に当らん。そうして見ると、あの桃水は偉いものじゃ。わたしらのいう乞食の六とか、手車王とか、こういうのが日本にたくさんあったに違いない。まあ桃水和尚でも誤って面山和尚が書いたから世に出てしまった。そうでないと、あれは知られずにしまった。跡を煙霞水石の中に晦ます。これは一体、地理的な煙霞水石の中でなく、褒めようと思っても褒める場所がない。それは人物が小さいから、褒めるところがある。もう一歩進んだら褒めるところがない。人間が褒めるというのは碌なものではない。人間が感心するというのは、碌なものではない。人間の感心するところもない。これがいわば山居である。山中の生活である。「折脚の鐺児野菜を煎る」これは永嘉(ようか)大師の言葉の中にあるのを、ここに利用した。ここでやれ、鐘を撞かんならんとか、やれ、太鼓を叩かんならんとか、やれ、お経を読まんならんとか、やれ、坐禅の時間が来たとか、それは俗世界である。そうすれば、この山中の生活。それは人間もホントの無人島で生活して見ると面白い。わたしは書生を五人つれて、無人島でキャンプ生活をした。わたしが飯炊き兼講師、それは風が違う。頭は剃らんならんことはない。延び放題。松の木に腰かけて「正法眼蔵」の提唱じゃ。なにもかも人間は体裁でやっておるが、一つ体裁を離れて山居になったらなんでもない。囚われておる。こういう格式は、何色の衣を着んならん、なにをぬかす。それは娑婆の話じゃ。ここには猿や鶴しかおらん。折脚の鐺児野菜を煎る。あり合わせのものを煮る。それはなんぼ山居でも塩もいる。炭もいる。味噌もまたよう使う。それはわたしの友達が山に住まいしておったが、ときどき里へ味噌を法王、醬油を法王というて貰いに行かんならん。醤油がないというと、なんぼ山の中でもどうにもならん。それから銭を貰うて、待っていて買うて、茶飯に入れたり、芋を焼いて、醤油をかけたりして食わんならん。折脚の鐺児野菜を煎る。「住山自ら古人の風に効(なら)う」これは『永嘉集』の言葉を引いて書いておる。住山自ら古人の風にならう。(大智禅師偈頌講話p.15-18)
2026.05.29
187二宮翁逸話29 芋種を囲う譬え 翁は天保8年頃までに小田原の農業部落にほとんど報徳の結社を普及せしめて、これよりは士族にまでも報徳の仕法を及ぼさんとせられたのだが、悲しいかな、大久保公がちょうどこの時亡くなられた。藩の重役は遂に二宮翁を排斥して、「都合あり報徳の仕法は当分畳置く」というので、せっかく設立された当時の報徳社はことごとく解散を命じ、また翁が小田原地方に来られても翁と交際することすらも禁じたのである。そこで報徳熱心の人々は非常に狼狽して翁を訪ねて嘆いたことがある。その時翁は「滋養分の多い物はとかく寒暑にたえがたい。たとえば芋のごときは寒気に当たれば直ちに腐敗する。それゆえに芋種はいたまぬように囲うておかなければならぬ。そのごとく報徳という芋種をどうするかというと蔵に囲うておけばよい。何れまた春も来るであろうからその時は芽を出すに違いない」というて、少しも狼狽せず、従容として道の存するところを説かれたということである。二宮翁夜話巻の2【22】小田原藩で「報徳仕法は、良法には相違ないが、差しさわりがあるので、今般畳み置く」という布達が出た。領民のうち、これを憂いて、先生のもとに来たって嘆く者があった。自分で作った芋を持って来て先生に差し上げた。尊徳先生は、諭(さと)しておっしゃった。この芋のごときは、口腹(こうふく)を養い、必要な美菜であるから、これをひろく植えて、その実りを施そうと願うのはもつともだが、天の運行が冬に向い、雪や霜が降り、地が凍るをどうしようもない。強いて植えれば凍って損じ霜に痛んで、種をも失うようになるであろう。いたしかたがないことだ。これは人の口腹を養う徳がある美物であるから、寒気や雪や霜を凌ぐ力がない。食料にもならない物は、かてって寒気や雪や霜にも、痛まないものである。これは自然の勢いであっていかんとも仕方がない。今日は寒気雪中のときだ、早く芋種は土の中に埋め、藁で囲って、深く納め、来年になって雪や霜が消えるのを待つがよい。山谷原野すべてに雪が降り、水が凍り、寒威が烈しい時は、もはやこれっきり、暖かにはならないかと思うようだが、雪が消え氷が解けて、草や木が芽ばえる時もまた必ずあるであろう。その時になったら囲い置いた芋種を取り出し、植える時はたちまちその種は田畑に満ちて、繁茂すること疑いない。そのような春陽に逢っても種を納め囲わなければ、植えふやす事はできない。農事は春に立ち帰って、草や木が芽立とうとするのを見て種を植え、秋風が吹きすさんで草木が枯れ落ちる時は、まだ雪や霜が降らないうちに、芋種は土中に埋めて、ここに埋めるという記録をして、深く隠して来年の春を待つがよい。道が行われる行れないは天である、人の力ではいかんともなしがたい。この時になっては、才智も役に立たない、弁舌も役に立たない、勇気もまた役に立たない、芋種を土中に埋めるしかない。小田原の仕法は、先君の命によって開き、当君の命によって畳む、皆これまでである。およそ天地間の万物が生滅するには、皆天地の命令による、私に生滅するのではない。春風に万物が生じ、秋風に枯落する、皆天地の命令である。どうして私にしようか。曾子は死に臨んで、予が手を開け、予が足を開け、うんぬんと言った。私もまた同じだ。私の日記を見よ、私の手紙の記録を見よ、戦々兢々として深き淵に臨むが如く、薄氷を踏むがごとし、畳み置きになって私も免れる事を知るやというべきであろう。あなたたちは早く帰って芋種を囲い置いて、来年の春、暖たたくなるのを待ってまた植え弘めるがよい、決して心得違いをしてはならない。慎みなさい、慎しみなさい。二宮翁夜話巻の4【41】尊徳先生の家の召使いが芋種を埋めて、その上に「芋種」と書いた木札を立てた。尊徳先生はおっしゃった。あなたがたは大道は文字の上にあるものと思って、文字のみを研究して、学問と思っているのは間違っている。文字は道を伝える道具であって、道ではない。それを書物を読んで道と思うのは過ちではないか。道は書物ではなく、実行にあるのだ。今、あのところに立てた木の札の文字を見るがよい。この札の文字によって、芋種を掘り出し、畑に植えて作ってこそ食物となるのだ。道も同じく目印の書物によって、道を求め身に行って、初めて道を得るのだ。そうでなければ学問ということはできない、単なる本読みに過ぎない。☆佐々井信太郎氏の「二宮尊徳伝」281ページによると「小田原の仕法は曽比、竹松、三新田、藤曲、御殿場等を始めとし、成功したため遠近に語り伝えられ、これを模範の村として視察するする者が多く感激する人々が多かった。この時に当たって小田原藩の分度を定めて国本を確立すれば上下とも永久に安楽であったが、小田原藩は領民を納税の道具と考え、藩政を制限し、民政を厚くし、農民出身の二宮の教えによって藩政改革をすることを為政者として武士の体面を失わせると分度を定めなかった。ところが飢餓を救われ竹松村など模範的な復興に感激した領民たちは尊徳先生を崇め、先生の教えには耳を傾けるが小田原藩政には軽侮をもってした。天保13年先生が幕府に登用されたのは、小田原藩から先生を敬遠して幕府に推挙したとも称せられる・・・、弘化3年7月16日、小田原領内仕法「故障これ有り畳に致し置き」と伝達し、先生へも通告し、報徳金5千両の返金を通知した。先生は仕法の廃止を嘆かれて、『私の事業はここにいたって極まった。先君大久保忠真侯は小田原藩の領民を憐れむことが親が子を思うようであった。そして私に民を救うよう命じられた。私はいったん命を受けてから、君の仁愛をこの民に及ぼそうと懸命に努めてきたが、当君はまだ幼くこのことを知りたまわない。執政が事を誤って道を廃してしまった。しかし、誰を怨み誰を咎めよう。私の誠心が足らないためである。』と忠真侯の墓に参って合掌し涙を流しておわびした。」とある。
2026.05.29
「宮部金吾」抜粋 自叙伝7 卒業式 私達の卒業式に関しては幸に志賀重たか氏の札幌在学日記(志賀全集第7巻1~3頁)があるので、これを左に紹介しよう。 在札幌農学校第二年期中日記 二千五百四十一年 明治辛巳十四年七月九日 土曜 曇 此日本校四年生の修業全く終り即ち卒業式の典を挙げらる。午前より色々の用意あり校門には国旗、緑門及び球灯等を掛け演武場の内外も亦同様の飾り付けあり。午後一時十五分卒業の式典始まる、号鐘一点全校本科生徒四十五人武装して校前の草原に出で数百名の賓客の前にて練兵運動をなす事十五分、此時や平時練修の如く錯雑せず大に衆客の喝采を得たり、中にも工部大学校地質学教師「ブラウン」氏の如きは拍手して止まざりき、演武終りて生徒少時休息。 一時四十五分号鐘衆生徒演武場の式場に列す、二時衆賓皆列座す、督学課三好笑吾氏接待委員たり、式場東端中央に本庁長官(代理)従五位調所広丈氏西郷に坐し其の右には新校長森源三氏尋で教頭「ブルックス」氏以下「カッター」「ピーボデー」「サンマルス」及び本校事務員数十名、其の左には督学課三好笑吾氏次に「ブラウン」氏「ドン」氏(「ボーマン」氏欠席)以下諸奏任官なり、前面には卒業生内村鑑三、宮部金吾、池田鷹次郎、高木玉太郎、足立元太郎、太田稲造、広井勇、岩崎行親及び町村金弥の十名列す。これに尋で、三年生十五名、一年生二十名、予科生数十名、其他賓客凡そ三四百名あり。 占坐漸く終りて卒業生の演説を始む教頭一人毎に名を呼び其人名及び題目は左の如し。Sweetness after Pleasure(快哉苦後の楽) 足立元太郎 北海農民もは宜しく道徳を奨励すべし(最高なる道徳の準度は北海道農家に緊要なり)広井勇 Principle and Importance of Agriculture(農業は開明を賛く) 太田稲造 農学と植物学との関係(植物学と農学との関係) 宮部金吾 Relation of Agriculture and Chemistry(化学と農業との関係) 高木玉太郎 大洋の農耕〔即ち漁猟の事〕(漁業も亦学術の一なり) 内村鑑三右の六氏邦語或は英語を以て演説し卓々たる議論と滔々たる雄弁を奮はれしは聴客もいと本意ありげに見受けたり、演説終りて班賞を施行せらる。先年迄は一等賞七円、二等賞四円なりしが、本年は班賞すべき学課の夥多なると予科生の賞を増加したるが為めに一等四円、二等二円迄に減少したり、班賞各差あり。班賞終りて従五位調所君祝文を朗読せらる。次に校長本校の沿革を演述せらる。次に祝詞を読まれ卒業生を奨励するの語あり。終りて教頭「ウィリヤム・ビー・ブルークス」氏卒業すべき生徒の名を呼ばる。衆進みて校長森源三君の前に揖す、校長即ち卒業証書を授与し農学士の学位を与ふ、其式殊に厳然たり。新農学士の将さに校長の前を退かんとするや喝采の声と拍手の音は満場を閙して凡そ五分間鳴動して殆ど人をして聾せしむ。嗚呼何んぞ其栄誉の大なる哉、余復たこゝに多言するを要せざるなり。終りて内村氏卒業生に代りて校長に多年教育の厚きを奉謝せらる。尋で御雇教師に奉謝せらる。言、活発覚えず人をして動揺せしむ。尋で三年生及び吾輩を奨励するの語あり、嗚呼氏は耶蘇教の徒なり、故に常に吾輩と仇敵なりしが今日其慷慨悲憤の言辞を以て吾輩を奨励したりしは仇ながらも至誠の到り然らしむる処覚えず感涙を滞ふしたり。次に同級生に向ひ今吾輩は本校の学課を卒業したりと雖も決して温袍に安んずる者に非らず、これより艱難の道に入りぬべし、今日は其艱難の途の門戸なり、諸君よ請ふ安逸に甘ぜず其屍を北海の浜に曝らすの素志を棄つる勿れと謂ひ終りて衆為めに泣き黙焉として前の如く一も拍手するものはあらざりき、賓客も知らずそゞろ涙を流されたるべし、是に於てか式全く終る。8 同級生の思い出前に述べたように我が二期生の組は、最初18名から成り立っていたのであるが、その後私費生が2人加わったので一時20名になった。その私費生は奥田直張という華族の令息とその付添人の川口宗晴君であった。しかし2人共中途退学をした。川口君とは明治5年1月横浜の高嶋学校の火災の節同室におったことが判り、深く奇遇を感じた。川口君はその時避難するためいち早く窓より飛びおりて暫く入院したとのことである。西村規矩君も中退退学し、又後に永井於莵彦、毛受駒次郎、伊藤英太郎、伊藤鰹太郎の四君が退学した。佐久間信恭君は心臓病のため四級時の時一箇年休学をした。なお同級生の2人は卒業試験の結果が思わしくなかったので元級に留まることとなり、一時20名であった第二期生の組が卒業の時はそのその半数に減った。4年間の学業成績を通算して得た成績のよる卒業の順位は左の通りである。内村鑑三 宮部金吾 高木玉太郎 南鷹次郎 足立元太郎太田稲造 廣井勇実 藤田九三郎 岩崎行親 町村金弥これら10名が札幌入学当初の数え年を記してみると、高木・新渡戸・廣井の3君が16歳、内村君が17歳、私が18歳、南、足立の2君が19歳、町村、藤田の2君が20歳、岩崎君が21歳であった。不思議に思われることは、年少者の方が、年長者に比べ、英語がはるかに上達していたことである。これは当時政府の方針が定まらない過渡時代に遭遇し、米国式の教育を受けたからである。第二期生の一大特徴は在校中からそれぞれ一つの学科を選んで、学業の余暇に、これを専修し、これにより国に尽くそうという考えであった。そしてこのクラスのモットーは、わが札幌をしてスコットランドのエジンバラのごとく学芸の淵源地たらしめねばならぬ、この地を"Athens of the North"〔北のアテネ〕たらしむるのが、我らのねがいであると常に論じあった。P76内村鑑三君 内村君は確かに日本の生んだ天才の一人であった。その70年の長き生涯中に我が宗教界、思想界に遺された偉大な感化は、今さらここに、あらためてのべる必要もないと思う。 私は幸い同君の青年時代(17歳より20歳まで)に札幌農学校の寄宿舎で、4年間同室で暮らすことができたので、同君の性格については、よく知り尽くしておった。 同君は武士の家に生まれ、厳格な訓育の中に成長されたので、廉恥を重んぜられ、正直であり、かつ約束は堅く守られた。神仏に対する敬虔の念は確かに厚かった。君はまた友誼の徳の讃美者であり、したがって友情に富み、友人の忠告をよく受けいれる賀量をも持っていた。しかし一方にははなはだ烈しい性質があって、多くの人と衝突喧嘩をしたが、不思議なことには、同室におったにもかかわらず、私とは4年間一度も喧嘩をしたことがなかった。ある時のごときは誰かと喧嘩をして癇癪を起し、ふうふういって室に入るや否や、「宮部、土瓶を割るぞ」と断り、それを床にたたきつけ粉みじんにこわし、ああこれで気が清々したといい、後をよく掃除して、それで満足した様子であった。この癇癪も信仰生活が進むに従い段々と薄らいだ。内村君は頭脳がすこぶる明晰であり、その記憶力の強大なる事は、実に驚くべきものがあった。勉強は規則正しく、その努力も人一倍であったが、試験の成績を見るに、ほとんど各学科にわたり最高点を取らないものはなかったほどで、おそらく札幌農学校開始以来、内村君ほど最優等の成績を取った者は他に一人もあるまいと思う。ある時、植物学の試験があった際、今度こそは僕が最高点を取らねばならぬと一生懸命に勉強したが、試験の成績が発表になったのをみると、僕は93.6点で内村君は100点ではないか、実に驚かざるを得ないのである。内村君は僕らのように試験間際になって、急に勉強をするというようなことは決してなく、試験の丸一週間前には、すべて準備ができていて、授業が済むと一人で散歩に出かけ、歩きながら頭の中で、答案を練って置き、不審なところがあれば、帰ってからノートや本を見るというふうで、大体の準備は平素学期の半ば頃より、始終前の方からの復習を怠らなかった。それであるから試験場に入り、教師が黒板に第一の問題を書くと、後の問題などかえりみることなく、直ちに筆をとり、大きな字で非常な速度をもって、答案を書き始め、いつもその紙数は我々のものの、ほとんど倍はあった。この習慣、すなわち「規則正しい勉強」と「予め準備をして置く」ということは、内村君の一生を通じて常に変らずに保たれた。これは確かに同君の偉業の基をなした要素の一つであったと思う。明治7年に外国語学校に入学された時は4級であった。佐藤昌介君より2組上であり、私よりは6組も上であったのを見ると、当時英語の力が相当にあったのが判るが、内村君の話によるとその頃柔道の稽古をしておったので、ある日強い相手に「締め」の手を掛けられ、ひどく胸部をしめられたために肋膜炎に罹り、一年以上も休学しておったとの事で、明治10年に我々と同級になった訳である。また開拓使の官費生を志願した時、身体検査で引掛ったのは内村君一人である。医者が胸部に何か故障を認めたので、頻りに調べておったが、大したことではなかったと見え、注意だけで無事に通過したので、友人共も安心をした次第である。私どもの級では在学中に各自それぞれある特別の学科を選んで学業の余暇にその研究に努めておった。内村君は動物学を選び、特に水産に興味を持っており、卒業式の演説には邦語で、「漁業も亦学術の一なり」との演題のもとに滔々とその識見を述べられた。漁業に対する水産学はちょうど農業に対する農学の如く一つの科学として発達せねばならぬ。日本の如く水産物に富める国ではその研究をおろそかにすべきではないと力説された。当時我が国は勿論欧米でも未だ頗る幼稚であった水産界の趨勢に対し、実に時勢に先んじた卓見というべきであろう。寄宿舎内では親しい者の間ではよくあだ名で呼び合っておった。内村君のあだ名は「ロン」といっており、卒業後同君より寄せられた多くの手紙に必ずLonと署名してあった。これは Long shank 長脛(ながすね)の省略である。ある人の著書に内村君の「ロン」というあだ名は論客であったからそう付けられたのであると書いてあったが、その当て推量には驚き入る外はない。また同君は世事慣れないところがあり、一見粗野なところもあったので、「不意気」というあだ名も付けられていた。
2026.05.28
「宮部金吾」抜粋 自叙伝6 札幌懐旧 開拓使本庁 当時において最も豪壮なりしは、米国風なキャピトル式木造2階建の開拓使本庁で、中央に丸い塔が聳えていた。この建物は明治12年1月17日に焼失、仮庁舎として南一条西三丁目旧札幌女学校を使用し、数年の後現今の煉瓦造に変わった。本庁の構内は今の道庁構内よりも広大で、現在の道庁より北へ2町、南、東、西は1町広い、北一条西四丁目の角から西の方へ四丁(266間)、北の方へ5丁(344間すなわち現在北六条の鉄道線路の所まで)、正門は現在の道庁の正門より1町東に当たり北三条西四丁目にあった。土塀が構内の周囲をめぐっていた。西の方には小流があり、道路は無く、ただ塀に沿うて細い踏跡がついていたのみである。この広い構内には、北米から輸入されたリンゴ、西洋梨、桜桃などが区画に従って整然と植え込まれ、果樹園をなしていた。 構内の西北隅に立派な二階建の西洋館があった。これは高位高官の宿泊所に当てられていた。数年の後この建物は北一条西五丁目に移され、道庁長官の官舎に用いられた。 私たちは札幌に着いた翌日、新入生一同この開拓使本庁に挨拶に行った。その日は快晴で、塔の上からの展望は素晴らしかった。西方の峯々あたりには黒々とトドマツが茂り、山腹から渓にかけて濶葉樹の緑で埋っており、また他の方面一帯も原始林で覆われていた。東なる豊平川方面と屯田の方こそ少しく開いていたが、ほとんど奥深い森林の世界で、原生林の幽玄さはひしひしと身にせまった。 札幌の街 明治10年私が札幌に着いた時には、このところは人口僅かに3千、東京に住み慣れた私には小さな淋しい街であった。大通り中心に、南の方が市街地で、北の方には官庁の建物があり、開拓使本庁と札幌農学校が一番に人目を惹いた。 市街地は当時の渡島通の一丁目から二丁目のあたり(現在の南一条西一丁目から二丁目)が中心で、大きな商店が軒を並べていた。大きな商店といっても平屋で、屋根には大きな石が乗せてあり、柾葺は少かったように覚える。これにつぐ繁華な街といえば、狸小路か、沙流通一丁目から二丁目(現在の南二条東一丁目から二丁目)辺の所であったろう。そこでは五十集(いさば)屋が軒を揃え、色々な魚類が並べられ、また鹿の股肉が多量に吊してあった。そして街並は渡島通(南一条)でさえ西八丁目で止り、他の所は西六丁目くらいで止っていた。東本願寺は古い寺であり、現在の南二条西六丁目あたりから見ると、その間には家が無く、ポツネンと本堂が見え、寺への道にはナハソロイチゴが沢山生えていた。当時札幌の街ははずれの西北は一面の桑畑であった。私共在校中は西八丁目には米国風のヤマダモを裂いて作った棒垣があって馬の進入を防ぐためそこに木戸があった。桑園は明治8年、黒田長官が会津の藩士を招聘して開墾せしめ、桑を移植したのに始まっている。藩士一行は春に来て秋帰った。その会津の藩士の記録を読むと皆袴を以て開墾していたと記されている。この桑園の中で今札幌市立病院のある北二条西八丁目のあたりに大きな養蚕室があった。しかし数年続いた失敗に、開拓使でも養蚕事業の継続を中止し、黒田長官が一時有望な事業として奨励した養蚕も取り止めの形となったのである。 札幌農学校と本庁敷地との間には建物がなく、ただ寄宿舎西側の前あたりに御雇米人ダン氏の官舎があったのみで、その他は全部ホップ園であった。 また街の西の方に行くと、現在の南一条西十三丁目あたりから、東西に七八町、南北に二三町の緬羊場があった。多くの小川が街中を流れていたが、今記憶しているものに主なるものが2つある。その一は、今の札幌病院中を通り植物園に入り、更に桑畑の方に流れたものと、なお一つは薄野あたりから豊平館の南を流れ創成川の川しもはその頃物資の運搬上大切な役目をなしていた。茨戸辺から引舟で運んだ物資は、今の製麻会社の辺の川の両側に在った倉庫に入れ、米などがそこへ貯えられた。官庫の北方に信州から移住した上島正という篤志な園芸家がいて花菖蒲や牡丹、芍薬を専ら栽培して改良を計っていた。その後、東皐(こう)園と称して札幌の一名所となった。 当時森林は、現在の植物園のあたりや、桑園の北の方に残っており、農学校の農園の流れに沿うても林地があった。現在の植物園のあたりや、桑園の北の方に残っており、農学校の農園の流れに沿うても林地があった。現在の大学構内には楡の巨木が鬱蒼としていた。ここは始め原生林であり、ことごとく伐採され尽くされるべき運命に置かれていたのであるが、ケプロンその他の御雇アメリカ人たちがそれら巨幹を称えて保存するよう注意されたので、楡の木だけが残され、あるものが今日まで残ったわけである。なお、街の所々にも大樹が保存され、北一条図書館前に現存している巨樹のごときも実に当時の面影の一つである。 札幌につづいて東屯田(南四条より南二十条西八丁目)、西屯田(同じく西十四丁目)のあたりは既に開墾されていた。東北の方では同じく本村あたりが御維新前から開墾されていた。豊平川の沿岸にはドロノキ、ヤナギ類、シラカンバ、シナノキ等の巨幹が亭々と聳えて真駒内までつづいていたが、平岸村通には既に多少の開墾地が見えていた。豊平橋は室蘭街道の国道筋にかかっていたが、始めはごく粗末なものであった。しかしその後ホイラー教師の設計で相当立派なものにかえられた。偕楽園 それから当時の小公園なりし偕楽園についてちょっと記しておこう。空知通の西端(現在北六条西八丁目)辺より北に小坂を下りると偕楽園に入った。入るとすぐ右にあたり池に面して平家の博物館があった。そこには北海道の天産物やアイヌの作品等が陳列してあり一般の縦覧に供していた。明治13年頃東京芝公園内の開拓使の北海道物産陳列所が廃され、その陳列品の一部がこの博物場へ、他の一部は札幌農学校演武場内の標本室へ分配された。博物館が面したこの池には泉があって、清水が絶えず湧き出で、一方当時屯田兵招魂碑の在った地域(現今伊藤亀太郎氏邸内)に水源をもつ小流と合して、札幌農学校農場と開拓使の育種場との小川となった。博物場の前に物産局所属の製物場の建物があった。ここは化学工業試験所のようなものであった。それより少しく北に進むと、小高くなった所に今も保存されている清華亭があった。これは明治13年6月落成したもので、14年明治天皇行幸の御時、御小憩になって由緒ある建物となった。亭より西方の土手に添うて小さな温室があった。これより先、ボーマー氏は丹精して造り上げた北三条西一丁目の温室と花園が明治11年に札幌農学校へ保管転換されたので、非常に落胆憤慨して開拓使に迫り、この温室を造って貰ったといい伝えられる。これらの建物の外、偕楽園には何物もなく、実に天然の勝地であった。松や桜などが移植せられ、また花壇もあった。その他全体がローンを以て覆われていた。偕楽園の地続きに開拓使の育種場の広い土地があった。その後この土地と施設物全部が札幌農学校へ保管転換され、今日の北大農学部の一部及び理学部等の敷地となっている。育種場は専ら内外の植物の種子や苗を取寄せ栽培して風土に適するや否やを試験したところで、当時育種したドイツタウヒやドイツクロマツの大木が今は植物園内や北大構内に繁茂しており、またケヤキ、クリノキ等も伊藤邸内に残っている。なお偕楽園につづき、育種場内(現在農学部の位置を占む)に競馬場があった。これは雇アメリカ人エドウィン・ダンの意見を徴してつくられた距離440間(48ロング)の楕円形馬場で、明治10年に設置され、明治11年初めて春季競馬を執行、明治20年競馬場が中島遊園地に移るに及び廃されたものである。
2026.05.28
「宮部金吾」抜粋 自叙伝5 生徒時代のことども官給品その他 明治初代の官立学校中、札幌農学校の官費ほど厚遇を受けたものは他に余り例がないかもしれない。当時生徒一人当りの官費ほど厚遇を受けたものは他に余り例がないかも知れない。当時生徒一人当りの官費は月額16円で、食費が8円、残りを衣類、文房具費等に充てていたようで、我々卒業の節には官費積立金の残余として各自に何十円かを渡してくれた程である。黒田長官はその主義として衣類はなるべく国産品を用いることを命じた。夏服は白地の小倉木綿で、仕立は今日の国民服甲号に似て堅ポケットにベルト締であった。冬服は紺色の小倉木綿に厚い紋羽の裏がついており、同じ型の仕立で、ズボンはコールチン地で温かかった。帽子は黒ビロードのキャップ形で、前にひさしが付いていた。しかし何の徽章もなかった。冬の外套は黒地の厚い本羅紗で、頭巾が付き、それに雨衣、作業服等も渡された。下着は夏冬相当のものが給与され、冬の下衣は白紋羽であった。なおカラー、襟飾り、靴下、手袋、寝巻に至るまで一切のものが支給された。靴には半靴、長靴、上靴等が揃えられた。また課業に必要な文房具や日用品の紙類まで規定により毎週1回支給された。そのうち主なるものを挙げると、講座控用の背革の立派なノート・ブック、筆記用の西洋紙(フールスキャップ、並びに中判)、鉛筆、ペン先、インキ、半紙、塵紙、糸、針等が、請求に応じて支給された。それゆえ、私費で買わなければならぬものは、石鹸、封筒、巻紙、郵便切手くらいなものであった。毎週土曜日には散歩料として金20銭を給与され、なお天長節その他の大祭日等には特に小遣銭が支給され、また長官等が来校の時には更に土産として特別な給与があった。その上、生徒にとり思わざりし収入は農場実習に対し、正課であるにかかわらず、一時間に5銭まで努力に対する賃金として支払われた事である。「武士の子は金銭を愛せず」というふうが多分に残っていた当時の事ゆえ、農場長ブルックス先生はこの点を非常に考慮して、将来農業経営に当って労力に対する報酬を会得しなければならないという考察のもとにこの制度を実行していた。農場実習は1週間に2回あり、1回3時間余りかかったので、生徒の労銀は1ヶ月1円50銭から2円以上になり、これは主に生徒の菓子代になった。ついでに学業成績に対する賞与金について述べてみよう。これは学年の終り、学業の成績に徴し、各学課の一番及び二番の点数を取った者に対し、学則により第一等賞金7円、第二等賞金3円50銭を給与したものである。ただし一人で金20円以上を受くることを得ずとしてあった。多くの学科に最高の点数を取った同級内村君のごときは、ほとんど毎年この制限を受けていた。第一年級の時、私は数学と農学の二等賞を受けたが、その時両学課の一等賞は共に内村君であった。また第二年級の時、私は植物学で二等賞を得たが、一等賞はやはり内村君であった。第三年級の時、私は農学及び園芸学と数学及び図画と博物学でそれぞれ二等賞を得たが、一等賞はやはり内村君であった。第三年級の時、私は農学及び園芸学と数学及び図画と博物学でそれぞれ二等賞を得たが、一等は全部内村君の占むる所となった。ただ兵式体操で自分は一等賞を得た。食事 食事に関しても、黒田長官の意見により、すなわち北海道は米作に適しておらぬため、主として土地の物産で賄っていくようにという訳で、かなり洋食をとる事になり、朝夕二食は洋食、昼は和食であった。朝はパン半斤を三切に切り、それを焼き、バタと砂糖一皿を付け、それに何か肉を一皿添えた。夕食にはその量も多く、スープが添えられ、それに魚及び肉の野菜類とシチューしたものなどが出た。肉といえば鹿肉で、いかに多くの鹿肉が使用されたか、それは左の記録で明らかである。 当校生徒食用鹿肉火腿相製度候に付御地獲猟之品百股程御周旋御贈送相成間敷哉御都合出来候はば一応概略之代償被申越度乍御手数此段及御依頼候也 明治十年 札幌農学校 勇払分署 大久保 芳殿今でこそ鹿肉といえば珍しいが、明治12年までは獣肉といえば鹿肉のみで、他の獣肉は札幌においてさえ求め得る事が極めて稀であった。そして私達の生徒時代には北海道には鹿がおびただしく繁殖し、千歳には鹿肉の缶詰工場さえあったほどである。しかし明治13年の始め本道稀有の大雪があり、そのため鹿がほとんど全滅したので、その後しばらくは鹿肉の缶詰ばかり食べさせられた事がある。料理人-靴屋-洗濯屋等 開拓使は札幌農学校の生徒や御雇教師のため、特に洋服裁縫師、西洋料理人、西洋洗濯屋、靴製造屋等を呼び寄せた。前にも記したが、靴製造のためには、先代岩井新六君が招かれ、寄宿舎の一部に製作所を設けていた。今は三代目の岩井新六君の店が、今井デパートの近隣に栄えている。西洋洗濯屋としては、伊藤辰造君が自分達学生時代に働いていたが、後になって堤君にその株を譲った。生徒各自に麻の大きな洗濯袋が渡されてあって、一週間に一度一定の日に汚れ物をそれに入れ、廊下に出して置くと、3、4日の後、きれいになって室に届けられたものだ。洋服は島田金吾君が勤めていたが、後に代田長兵衛君に譲った。西洋料理は原田伝弥君が東京から呼ばれて、御雇教師やわれわれ生徒の賄いを担当した。彼は後に勢力を得て、豊平館の経営を担当した。理髪は学校と特約のある江戸っ子の床屋が東京庵の西隣にあって、生徒は学校から切符を貰い受けて散髪に行ったものである。 遊戯会 生徒時代の思い出は、冬期中同級の有志4、5人で藻岩山の雪すべりや全校挙げての手稲山登山など、また記念日の隠し芸を始めいろいろあるが、遊戯会など著しいその一つであった。遊戯会はアスレチック・スポーツのスポーツを井川氏が運動会とも言うべき所を辞書を引いて「遊戯会」と訳した事に始まり、この名称は昭和の始めまで続いた。札幌年中行事の書入れのひとつで、雪が消えて、気も浮き立つ5月、これを中心に街の人達はこの会に集まった。第一回は明治11年の春、北二条西三丁目(今の山形屋旅館の前あたり)の道路で行われた。このあたり当時人通りもほとんどなかったが、その路面上にラインが幾筋も真白に引かれた。競技種目はアメリカのカレッジでやっているスポーツの種類と同じで、御雇教師が原案を作ったので、大体今の運動会とほとんど変わらない。ただし農学校であったので、彼らの母校でやっておったのと同じようなポテトレース及びサックレース等が入っていた。サックは農場で馬鈴薯等を入れる麻袋を使用した。第二回は北一条西四丁目(今の北辰病院の前)で行われた。第三回からは構内のローンの上で催された。
2026.05.28
「宮部金吾」抜粋 自叙伝クラークごけ 1月の末というから札幌では恐ろしい寒い時である。そのある日にクラーク先生は学生を引率して手稲山へ登った。そして樹木の肌に付着している地衣植物を採集したので、学生はあれよこれよと取り集めた。その時にある樹の一丈ほど高いところに珍しそうな地衣が付着しておった。けれども手が届かないので先生は「土佐ボーイ」に取ることを命じた。先生が土佐ボーイといって愛しておった学生は土佐の産、涙香の弟黒岩四方之進氏である。黒岩さんは背が高い、しかし到底これもまた届かないのは勿論であるが、この時クラーク先生は四つばいになって背にあがって取れというのである。いかに貴重な標本であっても師の背に上ることは大いに躊躇したが、先生はきかない。それで靴を脱ぎかけると、それに及ばぬとやられて、遂に恐縮して思い切って師の背に上ってその地衣をとったという話は相当多くの人が知っている事であるが、その内容には相当疑わしいところがある。かくのごとくクラーク先生が札幌付近で採集した地衣は当時 Massachusetts の Amherst College の教授であった地衣の専門家 Tuckerman によって鑑定されたもので、明治12年札幌農学校第3回年報 Third Annual Report of Sapporo Agricultural(1879) の第16ページに Lichens common to the vicinity of Sapporo という表題の下に42種の学名が列記されている。その内に Cetraria Clarkii Tuck. というものがあって、その標本は他の41種と共に現に本学農学部植物腊葉庫に保存されている。これらの地衣については昭和4年に朝比奈泰彦博士が調査され、それについての短報を記述されている(植物研究雑誌第6巻234~253頁)。その内この地衣についてはこの品は1899年 FAURIE が戸隠、那須、妙高等で採取し、HUE が新種として命名した Nephromopsis endoXantha HUE (ウチキアワビゴケ)と称する本邦産大形地衣の美品と外見においては何ら異なっていないが、ただ髄層が白色であることだけが異なっている。折角発見者のために命名された名が nomen nudum に終って消滅することは誠に遺憾であるので、この白髄層という性質をもって N. endoxantha forma Ckakii(TUCK.) ASAHINA と命名し、和名をクラークゴケと名付けたのである。4 学校のことども校舎 明治10年入学当時の札幌農学校は、その敷地が北一条西三丁目の角から北へ132間、東へ102間にわたり、略々四角形をなし、1万3千5百坪を有していた。校舎は北講堂、化学講堂と寄宿舎(事務所を含む)の3建築よりなり、いずれも西洋風な堂々たるペンキ塗木造で、ことに寄宿舎が最も大きく目立っていた。敷地の周囲には土塀をめぐらし、西方には三門があった。この三門を南から見て行くと、まず寄宿舎への門があり、次には事務所の門があり、最北のものは北講堂への門で、平素は閉鎖されていた。南方にはただ一つの化学講堂への門があり、北方には小さい通用門が一つあったのみである。東方は開拓使の官舎用地に接し、通行路もなく、従って門もなかった。北講堂は総二階の建物であり、階下に2教室、階上にも大きな教室が2個あり、その間に細長い室があり、それが物理の機械室に用いられていた。この建物は明治5、6年ごろに建築され、最初は開拓使の御雇外人の住宅に当てられ、明治8年東京の仮学校が札幌へ移転され札幌学校となった時、始めて教室に使用された。従って札幌農学校の開校式もこのところであげられ、その時の記念写真は今でも残っている。化学教室はクラーク先生が来札された後、ペンハロー教師の設計により新築された2階建で、階上には講義室と教師の控室、研究室、器具、機械、標本等の室があり、階下には実験室ランプが1個備えられていた。室には大きな窓が一つ付いていて、机は窓に向って向い合せに置かれた。冬が来ると大きな鋳鉄の薪ストーブが各室に1個ずつ備えられた。このストーブは開拓使の工業所で製作され、薪は一本のまま入るという大型なもので、生徒たちはペンハロー教師の大きな前後に長い頭にちなんでこれを「ペンハローストーブ」などと戯れに呼んでいた。開拓使では始め官費生を50名に制限しておったため、第一期生と第二期生を併せて約34、5名の時にはそれで間に合っていたが、第三期生を募集した時には、当然室の数が足りなくなり、明治11年に2階を増築し、6室が増加された。寄宿舎と廊下で連続して食堂があり、食堂の2階は大きな室で復習講堂と呼ばれていた。そこで舎生の集会があり、講演会なる開識社が開催された。なお食堂に続いて賄方の大きな調理室があり、別の廊下で湯殿と便所に続いていた。事務所は寄宿舎の西北側に在って、校長室、事務室、当直室、小使室等より成り、これより廊下つづきで北側に物置と倉庫があり、南側に靴製造所があった。ここに初代の岩井信六君が多くの徒弟を使い、生徒の靴や開拓使の役人等の靴を製作していた。その徒弟の中には多くのアイヌの青年が混じっていた。札幌農学校初期の時代に更に付け加えて置きたいのは演武場である。この演武場はホイラー教師の設計になり、私達が第2年級の時、明治11年10月6日に落成式を挙げた。その記念写真が今も遣っている。演武場はミリタリー・ホールとも呼ばれ、階上は一つの大きな室で、ただ西北隅に兵器を入れた一小室があった。雨天の際や積雪の時期にはここで兵式教練を行ったのであるが、駈足などをやるとミシミシきしって揺れたものである。階下は玄関の両側に講義室が一室宛あり、それに付属して小さな控え室があった。更にその突き当たりには大きな標本室(ミュージアム)があり、北海道の動植物及び地質、鉱物の標本が数多陳列されていた。この標本の大部分は東京芝増上寺山内にあった開拓使の北海道物産陳列場より移管されたものである。この演武場の塔上に時計台が設置されていた。これが学校の各教室に正確な「時」を一様に報ずるために設けられたものであるが、それはまた同時に札幌市民にも唯一の正確なる「標準時」を告ぐるものとなり、後年札幌市民にとってなつかしい思い出の時計台となったのである。時計は米国へ注文し、明治12年に到着、鐘は東京赤羽工作所に注文し、明治13年の春到着、直ちにこれを取りつけた。この演武場の位置は今の北二条通りの真直にあって札幌農学校敷地の中央に建てられてあった。なお子午線を計って正12時を知るため、ピーボデー教師がその補正を担当した。この仕事に対し、同教師の請求によって、北講堂の側に小さな天文台がつくられて観測に供された。この天文台はその後永い間存在していたが、遂に腐朽して破損してしまった。付記するが北講堂は明治20年に火災で焼失し、その跡に、8教室を有する建物が新築され、階下は予科の講堂に用いられていた。北講堂と演武場の中間に小さな木造の書庫があった。教師と授業 私達が入学した時、クラーク先生は既に半年前札幌を去っていて、当時の校長は調所広丈氏であり(卒業する半年前には森源三氏となる)、教頭はホイラー(WM.WHEELER)先生であった。教官はほとんど全部アメリカ人であったが、横浜から東京の少年時代にもほとんど外人の教師のみについて学んで来たので、私は別に不便を感じなかった。ホイラー先生は土木工学が専門で、数学と土木を担任していた。ペンハロー(D.P.PENHALLOW)先生は化学と植物学と英語、ブルックス(W.P.BROOKS)先生は農学、カッター(J.C.CUTTER)先生は生理、獣医、動物、英語、後には水産をも担当した。ブルックス先生は農場長を兼ねていた。またカッター先生はマサチューセッツ州立農学校を出てからハーバード大学医学部に学び医学博士M.D.の学位を有していた。ホイラー先生が帰国後はピーボデー(C.H.PEABODY)先生が来札してこれに代わり、なお物理学をも担当した。ピーボデー先生はマサチューセッツ州立農学校を3年級の時退学し州立工科大学に入り、その機械工学科を卒業している。入学当時のこれらの先生はほとんどマサチューセッツ州立農学校卒業の新進気鋭の士であった。当時はいずれも独身で、ピューリタン高祖父の開拓精神が身の内になお燃えていて、後年堕落せる享楽的な一部のヤンキーとは全く趣きを異にしていた。そして先生方帰国後の活躍を見るに病のため早世したカッター先生を除いては、いずれも、相当立派な地位についた。ホイラー先生はボストン市で土木会社を建設して大いに信用を博し成功した。ブルックス先生はアマ-ストに帰り母校の教授となり、その就任中ドイツに遊学、PH.D.の学位をとり、更にアマスト州立農事試験場の場長となり、ドクトル・オブ・アグリカルチュアの学位を得た。ペンハロー先生はカナダのモントリオール市のマッギル大学の植物学の教授となり、当時同大学の総長であり又地質学者として有名なサー・ウィリアム・ドウソン(Sir WILLIAAM DAWSON)と協同もしくは単独で、非常に沢山の植物化石に関する論文を発表し、ドクトル・オブ・サイエンスの学位を獲得した。ピーボデー先生は母校マサチューセッツ州立工科大学の教授となり、造船学方面に名声を博した。講義は勿論終始英語で、特別に教科書を用いたものもあったが、これは学校から借してくれた。教室では鉛筆で筆記し、帰ってからその日のうちに学校から与えられたノート・ブックにインキできれいに浄書した。翌日になると先生により授業の初めに当たり、講義の前5-10分、復習を兼ねて質問を受けた。それ故語学に長じていた者には不便はなかったが、語学に堪能でないものは一方ならず悩んでいた。授業は四季を通じて午前8時半始業、午前中は4時間で、午後は主として実験であった。実験は化学、製図、測量、顕微鏡等で、それに農場実習と兵式体操があった。室内実験は午後1時半より3時半に終わり、農場実習は3時間であった。但し1週のうち水曜日と土曜日は午後の実験がなく半休であった。教室では英語の演説法が指導された。英米の有名なる士の演説を暗誦して、態度や抑揚は一々批判された。ある時に私は最優等の成績をとり、「どうしてあの訥弁家の宮部が、語学に堪能でかつ能弁である新渡戸より高点を取ったのか」といぶかられたこともある。なお、時には何週間か前に課題が与えられ、3人ずつ相対し主題を英語で討論し、更に全級の投票によってその可否を決定した。「北海道には農業を奨励する急務か、水産を奨励するが急務か」のごときがその課題の一例である。また original declamation といって自ら英作文を作って各自がこれを演説した時もある。日本人の教師としては当時兵式体操の加藤重任先生(士官学校第一期生)、地質学の工藤精一先生がおり、また漢学の長尾布山先生がいた。特に今考えて見て興味のあるのは、当時既に本校に歩兵科があり、兵式体操をやっていた事で、札幌農学校は日本で始めて兵式体操をやった学校として有名であった。陸軍中尉加藤重任先生が指導に当たり、各個教練、国体教練をやり、級のうちの一人が代わる代わる小隊長になり、その号令のかけかたが、主に体操の点数となった。冬期間狭い演武場の2階にあった体操場では随分苦労したものである。また射撃もやった。射撃場は藻岩山麓の屯田兵村にあり、実弾は一人3発くらいであったと思う。4年級の時には特に兵学が講ぜられた。
2026.05.28
「宮部金吾」抜粋 自叙伝4 宗教家としてのクラーク先生宗教家としてのクラーク先生は米国においてはただ熱心な一信徒であったという事の外は何も聞き及んでいない。しかし札幌滞在わずかに8ヶ月間の先生が、いかにキリスト教の伝道に従事して偉大なる感化を遺されたかということは、最も注目に価すべきことである。クラーク先生は学者であり教育家であって、宣教師ではない一の平信徒に過ぎない。しかるに先生が専門学科教授のかたわら、学生に聖書を教えられたのは、全くこれによって日本の青年が身を修め、徳を養い、国家のために忠実なる臣民となさんがためである。明治9年の頃、官立学校においてほとんど公然とバイブルを学生に、しかも教室において教える事を黙認されたということは、今より考えれば実に不思議の出来事である。そこに天の深き摂理の加わったことを信ぜざるを得ない。黒田長官が学生の品位について非常に心を用いられ、札幌農学校の前身たる東京の仮学校の時代にも生徒の不品行を憤られて全部の学生に退校を命じた場合もあった。しかるに先生と共に黒田長官や第一期の学生等は御用船玄武丸にて品川湾より小樽港に航海の途中、ある時学生等は甲板上で俗歌を唄うなど実に乱暴であったので、これを下の食堂に聞いた黒田長官は非常に怒られ、こんな学生は到底見込みがないから函館から追い返せと命じた。しかし取調べの結果、航海中特に謹慎を命ぜられてその場はとにかく納まりが付いたのであるが、黒田長官の心は穏やかなる事ができない。ここにおいて黒田長官とクラーク先生との間に有名なる徳育問題の問答となった。長官は先生に対し専門知識の外に学生徳育のため修身学をも教えられんことを懇請した。この時クラーク先生は直ちに快諾したが、しかし徳育を施すにはバイブルを用いるにあらざれば、何ら効を奏することはできぬと主張した。長官もまたキリスト教のバイブルを用いることに激烈に反対し、互いに堅く自説をとって譲らなかったのである。札幌へ着かれてから黒田長官は更に深く学生の徳育の必要と、またクラーク先生の人格熱誠に感動され、自説をまげて徳育のことは一切クラーク先生に委ね、ただバイブルを一の文学として、また一の修身学書として教えることを黙認したのである。この時クラーク先生の荷物の内には既に横浜で購入したバイブル数十冊が学生に配布されるべく用意されてあった。クラーク先生は毎朝授業に先だち聖書の講義をなし、また学生をして名句を暗誦せしめ、また彼らのために熱祷を捧げ、次第に彼らを導き感化した。明治10年4月札幌を去られるに先だち、「イエスを信ずる者の誓約」なるものを起草し、学生中有志の者に署名せしめた所、第一期生は全部これに署名し、約一年を経て後第二期生もほとんど全部署名するに至った。先生はまた帰国後も札幌に思いを馳せられ、絶えず、文書をもって彼らを奨励し、特に信仰上の働き、その奮闘ぶりを聞き、この上もなく喜ばれた。伝聞するところによれば先生臨終の際に牧師に語られた言に、「今自分の一生を回想するに何ら誇るに足るようなものはない。ただ日本札幌において数ヶ月間、日本の青年に聖書を教えたことを思えばいささか心を安んずるに足る」と。これをもってみても、いかに先生が熱誠をこめて彼らを教導されたかが推察できる。5 クラーク先生を記念するもの札幌独立キリスト教会の会同 明治10年4月、クラーク先生は先に記したごとく、札幌を去るに先立って「イエスを信ずる者の誓約」を起草し、一期生の有志の者に署名させたが、二期生もほとんど全部が署名するに至った。その後、署名者の約半数は信仰を捨てたが、残りの半数は毎週集会を開き、聖書を研究して信仰を練り、卒業後、明治14年同志相はかって外国の教派と何ら関係のない札幌独立キリスト教会を設立した。爾来クラーク先生の遺業の一つであるこの信仰の一団体は幾多の困難の内に成長発達した。大正元年に内村鑑三氏が独立教会応援のために来札した時、クラーク先生の宗教的な働きを記念すべく、札幌独立キリスト教会の会堂が、大通西7丁目に堂々と建設された。この会堂は永久的耐火建築物で、地下室を有し、建築費はおおむね会員またはクラーク先生を敬慕している人々の寄付により、札幌に縁故があった中條清一郎氏(作家中條百合子の父)の同情ある設計により、工事は義侠心に富む伊藤亀太郎氏の手によって竣工したものである。そして大通りにおける由緒ある教会堂として、札幌市民にも愛慕されている。記念胸像 大正15年5月北大創基50年記念会が挙行されるに当り、札幌同窓会の幹事が発起人となり、広く卒業生、教職員、学生生徒、その他の有志から寄付金を集め、クラーク先生の胸像を学園内に建立し、これを大学に寄付して祝賀の意を表し、また先生の功績を記念することになった。しかもそれがクラーク先生生誕百年に相当し、この記念事業は一層意義を深めた。5月14日、楡影のもとに除幕式が行われた。時あたかもよき春日和で、微風はやわらかくほの暖かく吹きわたり、ちょうど本学創基50年記念式餐宴後であったので、職員の家族も見え、学生生徒も加えると参列者総数3千名と記録されている。第一期生内田瀞(キヨシソウの名は氏を記念している)氏の令孫住友琴子さんが除幕の綱をひき、50年前の人格者が厳然として現われた。あたかも50年式典に特に臨揚された高松宮殿下は岡田文相等と共にお立寄になった。北海道大学最初の胸像はかくて雄大な学園に一光彩を添えた。胸像は銅像で、田嶋碩朗氏作。胴石は福島県産の紅御影、高さ6尺1寸、幅2尺3寸角。文字 W.S.CLARK は先生の自署を拡大したもの。それに先生の遺訓 Boys Be Ambitious が刻記されている。台石の模様はクラーク先生の研究に一新転機を与えたヴィクトリア・レジア(前述)を図案化したもの。台座石は胴石と同地産、高さ1尺、幅3尺6寸5分角。敷石は茨城県稲田産の花崗岩、約240立方尺の石材を有し、16尺2寸平方ある。この記念胸像も大戦の波に呑まれて姿を消したが、昭和23年キリスト教青年会の努力によって再び厳然として現われた。その年10月8日から3日間、北海道大学は象牙の塔を公開して、全くなごやかな和気あいあいたる大学祭をくりひろげていった。8日午前10時クラーク先生胸像再建の記念式典が、全学教職員や学生参列の下に挙行された。この胸像は私が保管していた原型により、彫刻家として令名のある在京加藤顕清氏の手になったもので、北大に在学中の孫の潤子の手によって除幕した。記念碑 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と激励の一語を残し、クラーク先生が終生の思い出とした札幌農学校生徒と袂を別った地、島松に、師を偲ぶ記念碑建立の議が、昭和9年頃有志の間に起った。昭和9年6月15日前北大総長佐藤昌介男爵を始め、新島名誉教授に私も加わり、北大キリスト教青年会汝羊会有志は島松に向い、クラーク先生が馬上から慈愛こもるまなざしで訣別した土地を探った。当時とは地況が変わっているのと、諸種の事情で、明治天皇行在所裏の丘を建設の地と選定し、予定地の標杭が建てられた。その後大戦で、一時この案は案のまま放置されるの止むなきに到ったが、戦後私は「北海道教育界のシンボル、クラーク先生の功績を永く讃うべし」と提唱した。そこで伊藤前学長、福田道副知事が中心になり、BBA(Boys, be ambitious)の運動の一環としてこれが実行にとりかかった。昭和25年秋以来、島松訣別の地と認めらるる道路沿いの地に北大生及び村民の奉仕で、建設基礎工事は進められ、昭和25年12月記念碑は完成した。この碑は彫塑家山内壮夫氏が設計し、碑は7メートル、御影石造りのパンテオン式円柱で、中ほどには山内壮夫氏の手になるクラーク博士のブロンズの浮き彫りがはめこまれ、その下に Boys, be ambitious と横書きし、更に「青年よ大志を懐け」と裏面の碑文とは伊藤前学長の執筆になるものである。
2026.05.28
「宮部金吾」抜粋 自叙伝「宮部金吾」宮部金吾博士記念出版刊行会(昭和28年6月10日発行)P40-55 3 ウィリアム・エス・クラーク札幌農学校創立者であるドクトル・ウィリアム・エス・クラーク(William Smith Clark)の名は、北海道大学が存在する限り、また日本にキリスト教が宣伝される限り、永遠に敬慕の念をもって記憶されるであろう。クラーク先生は、1826年(文政6年)7月31日北米マサチューセッツ州アッシフィールドに生まれ、1848年(嘉永元年)22歳の時アマスト大学を卒業し、次いでドイツ・ゲンッチンゲン大学に留学、専ら鉱物学及び化学を修め、1852年(嘉永5年)26歳で哲学博士の学位を得た。帰米後、母校アマスト大学に15年間化学の教授として勤続された。その間に当時米国において最も完備した化学実験室をつくり、そのため再度ヨーロッパに渡った。1860年(万延元年)南北戦争が起ったため、志願士官として2年間、北軍の兵役に服し、抜群の武勇を現して大佐にまで昇進した。1863年(文久3年)にモーリル法令という議案が国会を通過した。その法令により、米国各州に州立農科大学を設定することになった。マサチューセッツ州では、ボストンに建つことになったが、州立の農科の位置問題に関しては非常な競争が各地に起った。その際先生はアマストをもって最も適当なる地であることを盛んに唱道したばかりでなく、アマスト市民をして、これがために特に5万ドルの市債を起させ、遂に同地に州立農科大学を設定せしめた。これは全く先生の努力の結果である。そして1867年(慶応3年)10月2日開校の際には、先生はその学長として、創立経営の任に当たられたのである。これより11年間、校長としてその職に尽瘁されたが、この期間内、すなわち1876年(明治9年)に日本政府の招聘に応じ、1年間の賜暇を得、在職のまま来朝し、新開の地である北海道に、本邦における最初の農学機関たる札幌農学校創設の大任を見事に果たされ、その基礎を築いたのである。札幌に滞在した期間は、わずかに8ヶ月、しかもその間に遺した所の感化、及び新設された農学校の大方針というものは、今なお先生の面影を止めている。そして先生は州立農科大学を1878年(明治11年)に辞職し、Floating College(浮遊大学、すなわち汽船内において大学の設備をなし、講座と研究をなしつつ、世界を巡洋航海し、各重要地点では上陸し、その国の風物物産を始め、動植物その他の天然資源に至るまで実地に生きた学問をなすを目的とする)を設立する事を発起したのであるが、不幸にして、資金その他の事情によって中断された。かくて1886年(明治19年)3月9日にアマストの邸宅において死去された。先生の一生を顧みるに、先生は卓越せる教育家であり、また非凡な経世家であった。そして経営の才能にとみ、その計画を実行する力量を豊富に有しておられたのである。一 性質と人格私は札幌農学校の第二期生として明治10年に入学したので、クラーク先生に直接師事したことはないが、多年欽慕する先生の性質、人格、その他逸事等について、あらゆる方面から収集した材料により、その人となりを考えてますます尊敬の念を深からしめたのである。先生が自ら好んで後輩学生などに語られた所によれば、少年の頃から負け嫌いで、非常に勝ち気であった。例えば競技においても必勝を期するため非常な努力と練習とを重ね、常に負けた事がない。またケンカをしても負けた事がなかったというておる。この性質が終生の行動に現われ、何事に対しても成功するまで忍耐し、これを貫き、徹底的に処理されたのである。競争場裡に勝ちを占めんとするその精神が、全生涯を通じて最も重要な部分であった。かかる性質があったために、南北戦争の際には一隊を指揮し、すべての困難に打ち勝ち、武名を高からしめ、戦功を立てたのであろう。またこの精神があったために日本政府の依頼に快く応じて、文化を離れはるばる異郷に来たって永遠朽ちざる功績を遺して行かれた訳である。かかる不撓、奮闘的精神はまたその体格にも現われ、中背でもあるけれども筋骨たくましく、一種冒すべからざる威厳があった。それと同時に親しみやすい温かみと人をひきつける魅力を備えていた故に、教育家としても、士官としても、その学生や部下に及ぼす感化は顕著なるものがあった。最もよく先生のこの性質を現わしたものは垂下せる黒く太き眉の下に輝く碧眼である。時には鋭い眼光は人を射るがごとく、また時には柔らかい温情に満ち幼児をさえ近づき慕わしめる程であった。先生は老年に至るまで子供らしい無邪気な所が残っていて何事に対しても非常に熱心で、時には少しく激こうしやすい程であった。常に諧謔と頓知に富み当意即妙の答えを発することもしばしばであった。また座談に長じ、しばしば青年を集め、あるいは驚異に満てる冒険談、あるいは興味ある経験談、逸事等の物語のうちに、彼らに鞭撻教訓を与えた。青年らは無上に先生を愛墓し、かつ彼らのヒーローとして尊敬した。なお先生は正義を愛し、正義のためには全力を尽くして戦い、妥協を嫌い、否を否として是を是とし、禁酒禁煙の人であった。つまり主義のひとでもあったのである。2 学者としてのクラーク先生先生はアマスト大学に在学中、地質学教授エドワード・ヒッチコック(E.Hitchcock)氏の感化を最も多く受けている。したがって地質学、鉱物学、化学等に頗る興味を有し、卒業後特に鉱物学、化学を研究するためゲッチンゲン大学に学び、「隕石の化学的成分」という論文を提出して哲学博士の学位を得た。しかし先生は化学を研究しているうちに、植物学に対しても非常な興味を持ち、ことに植物学と化学との関係つまり植物生理学の方面に余程興味を抱いていた。あたかもこの時、すなわち1850年(嘉永3年)ドイツへ留学の途次、ロンドンに数週間滞在中、ロンドン市外のキュー王立植物園の温室内に、その年初めて咲いたビクトリア・レジアという南米アマゾン河に産する大睡蓮の記事を新聞紙上で読み、これを見に行かれ、その雄大な葉と花を見て、植物界における驚くべき生活現象に直面し、その瞬間一種いうべからざる感動と畏敬の念に充たされた。そしてたといキューには匹敵しないにしても帰国後いつの日か植物園を造り、雄大なかの睡蓮をも植え、植物界の神秘を人々に知らしめたいという希望を起こすと同時に、植物学に対する愛着心と研究心とがますます強烈となったのである。そして1872年(明治5年)「植物学と農学との関係」という演説を試み、その中にキュー植物園で抱いたヴィクトリア・レジアの夢を、アマスト州立農科大学における温室栽培で実現したことを報じている。州立農科大学の創立当時は教官僅かに4人で、校長たるクラーク氏は植物学及び園芸学の教授を兼ね、なお植物園長をも兼ねたのであるが、その当時の園なるものは単に名義のみであって、実際は紙の上に存在していたガーデンに過ぎないけれども、それを光栄としていたことは余程面白い点である。そして先生は時勢に先んじて植物生理学に関する実験を企て、今日ドイツの生理学者をしてその結果を引用させるような有益な発見をしている。この実験は共同研究によって行われたもので、当時他においてあまり見る事のできなかった方法である。これらの研究中左の2つは最も有名なものである。第一は1872年(明治6年)に実験された「植物体における液汁の循環と同液汁の圧力」であるが、この研究方針はすべて先生よって計画され、ほとんど全校一致で学生や助手等がそれぞれ分担を決め、該研究に従事し、かつこれを完成せいたのである。第二は1874年(明治7年)における実験で、それは、なお一層規模の大きなものであって、「植物の生活現象についての観察」であり、これもまたほとんど全校をあげて研究に従事したといってよろしいのである。面白いことには該実験を手伝った人々のうちに札幌農学校の教師になったペンハロー(Penhalow)、ブルックス(Brooks)両先生の名があり、またクラーク先生の長男アセルトン・クラーク(Atherton Clark)氏の名もある事である。この生活現象というもののうちには、ことに植物の盛んに生育している所の器官が外囲の圧力に抵抗していく膨張力を試験したのである。更にまた春季における植物根圧の試験をなし、その他いろいろな現象を研究した。これらに対してハーバート大学の有名な動物学者ルイ・アガシー(Louis Agassiz)は讃辞を呈して左の如くいうておる。「かくのごとき研究をなし、またこれをかく明確に報告し得るものは既にその仕事の報いは受けているのであって、他人からこれに対する讃辞なくても自ら心に満足を感じていると思う。この論文によってアマストの州立農科大学は学界のうちに一つの確固たる位置を占めたのである。学術界においては何か貢献するにあらざれば、その学校は存在の意義を認められないわけだ。該論文は植物生理学に取っては実に驚くべき所の発見である。かくてこの学校が今日までに消費された経費は、これによって全く償われた。」 先生はこの論文によりアマスト大学より名誉博士(L.L.D)の学位を得た。そしてアマストではいかなる方法において先生を記念しているかというと、その農科大学内に堂々たるクラーク・ホールなるものが1907年(明治40年)に建設されて植物学講堂となっている。先生は農学に取って各種の科学はみな密接な関係をもっているが、特に植物学は科学的農学の基礎をなしているものであろうと考えられていた。かつ植物学に対する研究において名をなした人であるので、その遺志を記念すべく、植物学講堂としてこの記念建物が用いられているのである。3 教育者としてのクラーク先生 クラーク先生が札幌を出発された時に、当時の学生職員等は島松まで見送った。その時別離に際し日本の青年に対して遺された言葉はすなわち彼の有名なる Boys, be ambitious!であった。言葉は簡単であるが、その意は実に深い。「青年よ。汝ら大志を抱き、小成に安んぜず、力の限り努力して、向上発達を図り、国のために尽せよ。」という教訓である。これは単に学術を習得するのみならず、身体の健全を図り、精神の修養を怠ってはならぬという事である。この事は先に記した明治9年先生が札幌農学校の開校式においてなされた演説中にもよくその精神を発見する事ができる。 既に述べた所を見ても、先生はほとんど完全な理想に近い教育家として差支えがないであろうと思う。それは一方学生の徳育、知育、体育等に対して稀に見る所の経綸を有し、着々自分の主義理想としている所を実行して成績を挙げられたのみならず、教育行政家としてもまた非凡なる才能を現わしたのである。実際上第一の校長としてはその基礎を完全にし、かつ一種の特色を作興した。すなわち農業教育の他、国民として欠くべからざる所の諸学科=修身学、心理学、文学等=を授け、また練兵に重きを置いて、歩兵科、砲兵科等を創立当時より実行するようにしたのである。なお研究の精神を学校の生命として、職員学生間にこれを普及奨励したのである。かかる点から見ても決して通常の教育家に期待する事のできないあるものをもっていたのである。学生を指導感化するに際しては自ら先んじてその範を示し導かれたのである。札幌に来られて最初に試みられた所の大改造は、学校に関係する教官学生をして禁酒、禁煙及び賭博と涜神誓言を禁ずる誓約文を起草して自らまずこれに署名し、他の教授学生にも加盟せしめた。第一期の学生等の如きは先生の感化によって全級これに署名した程である。先生は日本の学生の堕落し健康を破るものの最大原因は、全く飲酒と喫煙にありと見抜いて、開校式の式辞においても既にその事について述べられている。それは学生の徳育及び体育にとって最も大切なる改革はこれが制欲である事を認められたに相違ないのである。また先生は学生の勇気を鼓舞するために自ら率先して冬期間手稲山に登ったり、盛んに屋外の運動や植物採集などを奨励し、山野を跋渉してその範を示された。時々学生の寄宿舎を廻り、日中勉強している者、すなわち午後読書するがごとき者は、これを戒めて屋外の新鮮なる空気を呼吸すべく勧告された。なお学生に対して雪合戦を挑むがごとき事さえあった。先生が作られた札幌農学校の学則を見ると、マサチューセッツ農科大学のそれと同じように、農学及びそれに関係ある諸基礎学科の外に、英文学、英語討論、演説法、歴史、心理学、兵式体操等を加えたのである。本邦の官立学校において兵式体操を実際に行ったのは実にこれをもって嚆矢とする。この事が黒田長官の札幌農学校を設立した主旨に不思議にもまたよく符合している。設立当時の覚書の要に 「札幌農学校の設けたるや、その学生を養成して拓殖業務の衝路に当らしめ、殖産興業の実を挙げしむるにあり。すなわち泰西新進の学術技芸を巧に応用せしめ、進んで一国をして学術の効果顕著なるを知らしむるに在り。これを以て学生に自修の精神を重んぜしめ、将来社会に立脚の地歩を強固ならしむるものとす。云々」とある。米国においてもクラーク先生は学者としてよりもむしろ教育家として知られているくらいで、米国人名辞書には米国の教育家としてその伝記が綴られている。
2026.05.28
「宮部金吾」抜粋 自叙伝「宮部金吾」宮部金吾博士記念出版刊行会(昭和28年6月10日発行) P37-40 2 札幌農学校札幌を北海道の首府とし、ようやく市街を形成したのは、明治5、6年のことである。明治2年6月、中納言議定鍋島直正を蝦夷開拓総督に、ついで同8月改めて東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)が開拓長官に任ぜられた。更に明治3年5月、兵部大丞黒田清隆が東久世長官の下に開拓次官となった。黒田次官は明治7年8月長官となり、明治15年1月まで在任、開拓使の黒田、黒田の開拓使とうたわれた本道開拓の一巨星である。黒田長官が本道開拓経綸中、特に讃えられるものに2つある。その一は外人の招聘であり、その二は人材の養成である。すなわち彼は開拓使顧問兼頭取として米国農務卿ケプロン将軍を初めとし、実に70有余名、うちアメリカ人40名を招聘し、開拓万般の科学的建設を勇猛果敢に断行させた。いわゆる全額は、当時の国情よりすれば驚異すべき高額であったが、その結果より見れば、実に僅少なる犠牲に過ぎない。かくのごとく知識を広く海外に求め、従来の独善的、島国的根性を離れ、断乎たる新策を行ったところには確かに今日も訓える大きな訓戒がなければならない。しかし、いつまでも他力本願に甘んずべきではない。ここに第二の大きな手が打たれた。すなわち、それは邦人人材の養成であり、留学生派遣と学校の建設の二途である。黒田次官は、明治4年正月、海外視察に赴く時、すでに7名の青年をともなって、かの地に開拓使から留学させた。内に後の、東京、九州、京都の帝大総長となった山川健次郎男〔爵〕の名も見える。その後、前後あわせて30余名を送り出し、更にまた人材養成の根本は、女子にありとの、見解の下に5人の女子留学生を出した。それは16歳を年長とし、最幼、津田梅子9歳の少女であるから驚かざるを得ない。実に驚異に値する開拓使の遠大なるこの抱負も、遺憾ながら、中途で断絶するに至ったけれども、大学男女共学は70年後に実現した。たとえこの第一の方法において成功を見なかったとしても、第二の学校建設においては、それを補填してなおかつ余りある光彩陸離たる成功をおさめ得たのである。ケプロン卿は、開拓使顧問として、北海道の拓殖産業及び教育上に貢献するところが、すこぶる多かった。明治5年に提出した第一年報に「開拓使は科学的、組織的にして、かつ、実用的なる農業を起すがために、全力を傾注せざるべからず。この目的を達するには、東京および札幌の官園に連結して学校を設け、その内において農学の重要なるすべての部門を教授するをもって、最も有効にして経済的なる方法とす。」と建言している。かくて、明治5年4月まず東京芝増上寺内に開拓使仮学校を設けるに至った。これがわが国で拓殖に必要な人材養成を目的とする学校の最初のものである。北門開拓の基地、札幌は、明治2年島判官が創設にかかった時は、人家わずかに2戸に過ぎなかったが、その後着々建設され、人口2,500名を数えるに至ったので、明治8年8月に学校をこれに移し、札幌学校と称した。これらの学校は普通学を授けたもので、その生徒の学力も進んだので、さらに専門学科を設けることとなり、ここに明治9年8月14日札幌農学校の創設となったのであって、これすなわちわが大学〔北海道大学〕の真の前身であり、芽生えであった。 札幌農学校開設のため、黒田次官はその指導経営の任に当たる人物の選定を、時の米国駐在公使吉田清成氏に依頼して、マサチューセッツ農科大学長ウィリアム・エス・クラーク博士を得た。博士はホイラー、ペンハローの両卒業生を伴って来朝し、母校の組織にならって、教則を編み、教育を始めた。クラーク博士がいかなる方針と意気をもって教育に当ったか、これを端的に、かつ正しく知るには、クラーク博士が8月14日の開校式に当って開拓使長官、調所校長に続いて行った演説を見るべきである。すなわち、まず「この最初の農学校の盛典にあずかり、胸裏こもごも自らの満足と愉快の感動なきあたわず」と前置きし、「今より数年を出でずして北海道の農業を勃興し、大いに生産を開くことにおいて、この学校のあずかって力あるべきを疑わざるところなり」と大いに自信あるところを示し、「黒田閣下が北海道において農学校建立をもって着手の第一となす。盛挙といわざるべけんや。ねがわくは、他日、この校の偉功はおのずから今日の公の画策の卓越なりし表明せんことを」と述べ、「わがはいは、まさに身自ら模範となり、また教授となりて学生諸子の心思の中において人生有用の器たるがために、ことに適合すべき才能をして勉めて発揚せしめんとす」と、学生の才能を啓発せんとする、いわゆる自主的教育法を説き、さらに「回想すれば、数百年間、東洋諸国民を多年暗雲のごとく包蔵した階級、門地と因習の暴君の手より、この驚異すべき解放は、将来、教育を受くるところの学生の胸中に必ずや崇高なる志を喚起覚醒せざるべからず」と、維新大業の性格を明らかにしているところに、まさに今日の情勢に大いに似たるもののあることが認められる。かくて、学生を戒めて「君らはよろしく自国において、勤労と信任及びこれより生ずる栄光の最上地位に適せんことをつとめよ。健康を保し、情欲を制し、従順と勉強との習慣を養ひ、時機の学ぶべきに遭わば、学術の何たるかを論ぜず、力の及ばん限り、その知識と熟練とを求めよ。・・・・・・重要の地位は、常に正直にして、かつ、聡明剛毅の人材を渇望す」と説き、「遂にひとり北海道人民のみならず、日本全国の尊敬と支持とを受け、かつ、これを受けて恥じざるにいたらんことを予め潔く信ずるところなり」と結んでいる。この言葉一つ一つを玩味するときに、いかに今日のわれらに、多くの考慮と示唆を与えつつあるかを認めざるを得ない。
2026.05.28
「宮部金吾」抜粋 自叙伝「宮部金吾」宮部金吾博士記念出版刊行会(昭和28年6月10日発行) P32-4 3 札幌農学校生徒時代(明治10年-14年)1 東京より札幌へ官費生応募 東京英語学校一級在学中、明治10年6月14日、開拓使九等出仕堀誠太郎氏が英語学校の我が一級の教室を訪れて札幌農学校の官費生募集の演説をした。堀氏は植物分類学者理学博士中井猛之進氏の厳父で、クラーク先生が校長なりし時米国アマスト市の州立農学校に学び、帰朝してクラーク先生の通訳をしておった。クラーク先生が校長なりし米国アマスト市の州立農学校に学び、帰朝して、クラーク先生の通訳をしておった。氏はその時、初めに北海道の開拓を説き、更に進んで北国の風物を興味深く面白く話され、終りに官費制度の事を詳細に語られた。学費の乏しかった士族の子弟が多かったので、官費であるという点が特に注意をひき、12名も志願する結果となり、時の校長、服部一三氏を驚かす事となったのである。当時、私は前にのべた松浦竹四郎氏の著書や直話で蝦夷(えぞ)を知っており、遥かなるその土地をなつかしく思っていた時の事とて、堀氏の演説で、蝦夷植物の探求心はますます燃え、帰宅して直ちに母に許しを乞うた。私は前年にも志願する資格は有ったが、兄が二人共(長兄美勲は宮城県庁に、次兄文臣は神奈川県庁に勤めていた)不在のため許されなかった。しかしこの年には横浜にいた次兄が農商務省山林局へ転勤になって帰宅しておったので、晴れて札幌遊学を許された。そしてその翌日、喜び勇んで登校したところ、やはり親の許しを受けて内村鑑三、太田〔新渡戸〕稲造の二君が、雀喜して登校してきた。この時からこの三人は生涯にわたる最も親密な友情関係を結んだのである。英語学校の一級、二級の生徒は無試験入学を許されていたので、体格検査を受け、これも無事通過して、私は明治10年7月27日付で「開拓使付属札幌農学校官費生を申付」という辞令を受けた。当時の入学者は次の如くである。 東京英語学校より入学(12名)足立元太郎、藤田九三郎、伊藤英太郎、伊藤鏗太郎、岩崎行親、毛受駒次郎、宮部金吾、永井於莵彦、太田稲造、佐久間信恭、高木玉太郎、内村鑑三 工部大学予科より入学(4名)広井勇、町村金弥、南鷹次郎、諏訪鹿三 長崎英語学校より入学(2名)村岡久米一、西村規矩 計 18名この18名は東京に家があるなしにかかわらず、皆、芝区新橋5丁目の植木屋という開拓使御用宿に集合を命じられ、約一か月間、同処の2階を占領し、元気極めてハツラツたるものがあった。この時、私と内村鑑三、太田稲造、岩崎行親の4人は6畳の間に陣取って四人組を組織し、立行社(身を立て道を行うの意)と名付けていた。藤田九三郎君の遺された日記によれば、8月1日に開拓使より、金10円と服等(上着、ズボン、帽子、シャツ、ズボン下、靴、靴下)を受け取り、2日には雨着、カラー、襟飾り、ズボン吊り等を受け取るとある。8月10日は立行社の仲間と共に芝日蔭町の玉松という写真館で新調の制服を着用して一同並びに各自の記念写真を撮った。私はちょうどその時、17歳6か月であった。なお植木屋に滞在中、開拓使の特別の交渉により、開会前に第一回内国勧業博覧会の縦覧を許され、掛員引率の下に、2台の乗合馬車にて上野の会場へ行った。出品物がだいたい陳列済になった時であったため、ゆるゆる充分に縦覧ができて一同大いに満足した。たまたま一行の一人、足立元太郎君が、日蔭町の古本屋で、A.GRAY著Field,Forest and Garden Botany と CHAPMAN著の Flora of Southern States を買ってきた。この本は純粋な分類学書で科や属の検索表や種類の記載が記してあるが、足立氏は使途が判らず、つまらぬ本を買ったと後悔していたので札幌に来てからそれを譲り受けた。これより先、英語学校在学中、神田の聖堂にあった書籍館に通って植物書を漁っていた私は既にA.GRAY著Lessons in Botany や How Plants Grow を読んでいたので、グレーの本の面白さをよく知っていた。後年これらの本は、私の植物学研究初歩の時代にどれほど、役に立ったかわからない。 「宮部金吾」P35-36札幌へ 笈(きゅう)を負(お)うて〔(史記蘇秦伝から)勉学のために故郷を離れる意味〕、青雲の志を抱き、いよいよ故郷東京に別れを告げ、明治10年8月27日、品川より開拓使の御用船玄武丸にて出帆した。玄武丸は644トンの蒸気船で、今日でこそ、小さな船なれ、当時としては鄙には稀な豪華船であった。もっともこの豪華船は非常に動揺しやすく、一名ゴロタ丸の別名を有していたほどである。中央部甲板の下にホールがあり、このホールは食堂兼談話室であった。ホールを中心にして一等室があり、各室とも定員2名、二等は舷側にあって定員4名、ベッドは上下に位置していた。三等室は舳(とも:船首)にあって、荷物が輻輳(ふくそう:一箇所に集中して混雑すること)すると積荷はその室にまで溢れて来た。私たちの乗船した時は、幸いに船客が極めて少なく、一行は一等室もしくは二等室をあてがわれた。この引率者は幹事であり、予科で英語の教師を兼ねていた井川冽氏である。途中大分荒れて一行にも船酔いを催すもの多く、町村金弥君はその時の船酔いの旗頭であった。8月30日函館に入港、9月2日まで停泊した。蝦夷の関門にいよいよ上陸第一歩をしるし、さわやかな陽の光に、感銘深い永き憧憬の地の初秋を感じた。暇を得て、函館山に上り、さまざまな珍しい植物に眼を惹かれ、また碧血(へっけつ)之碑〔函館戦争で旧幕府軍の戦死者を記念する慰霊碑。碧血とは、「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」(荘子)という中国の故事によるもの〕なども訪れてみた。町は思ったより相当殷賑(いんしん)であったが、やはり東京から来て見ると異郷に渡って来た思いがした。すれちがう女の魚売りの「さかなかはにしかね、さかなかはにしかね」と聞こえる呼び声や、「ぞにもつ、するこもつ」(雑煮餅、汁粉餅)などの看板に遥けくも来た道の遠さが思われた。9月3日早朝つつがなく小樽に入港、海路は極めて平穏であった。直ちに下船、入船川のほとりの海に面した宿で朝飯をしたためる。当時、手宮はまだ漁村で、入船町のあたりが港の中心であった。食後、馬20頭、鈴の音をひびかせて、いよいよ一同札幌に向かう。国道は海浜に沿い、銭函までは漁村が散点していた。ただ張碓に近い神威古潭(カムイコタン)だけは、まだ道路が未完成で、高い断崖下に岩礫がるいるいしていた。好天に恵まれ、海も静かであったが故、波浪の洗礼もうけないで馬上無事通過、なお海沿いに銭函に進み、小坂をあがった所の宿で昼食をとり、鄙びた饅頭を食べる。この饅頭は銭函名物なりし酒饅頭の前身である。これから道は海にわかれ、鬱蒼たる森林を縫って軽川から琴似(ことに)に向かった。この間、所々に農家が散在していた。琴似で始めて屯田の建物らしい建物を見、ぽっかりと人里のあたたかさを感じ、またことに屯田の事務所や小学校などが爽かに眼についた。一行は遂に渡嶋通り、すなわち南一条から北二条西二丁目の薄暮の寄宿舎に着いた。布団もない荷物を両側に付けた駄鞍にのって来たので、尻は勿論、始めて乗った馬とて体の節々も痛く、気鋭の若者も一同大いに疲労した。玄関はひっそりとして一人の出迎えてくれる上級生もなく、全然空屋のような静けさであった。ただ遠くの室で、何か集会があるらしく、歌の声などが聞こえてきた。後でわかったことであるが、その時、上級生一同は復習室に集まって、ちょうど祈祷会を開いたところであったのだ。まず食事をとり、風呂に入る。2人ずつ既に割り当ててあり、各室のドアーの側に名札が掛っていた。実に偶然といえば偶然、私と内村君は同室になっていたのだ。ほの暗いランプの下で、虫の音を聞くともなく聞いていると、遥けくも来た旅愁を身にひしひしと感じた。当時寄宿舎の規定で、各学年ごとに室をかえ、また同時にコンビネーションもかえることができるようになっていたが、私共両人は室は変っても離れることなく、4年間一緒にいて、最も平和な楽しい生活を共にすることができた。
2026.05.28
「宮部金吾」抜粋 自叙伝 P22- 横浜高嶋学校 13歳(明治5年)の8月下旬、かくて私は始めて家を離れて横浜に遊学する事になった。忠僕に伴われ、お台場を目の前にして小波打ち寄せる品川を後に汽車で横浜に向かった。 新橋-横浜(現今の桜木町)間の京浜鉄道開通式は明治5年12月に挙行されたもので、それ以前は便宜上、乗車を許可していたものと思われ、私が横浜へ行った当時は乗客の始発駅は品川であった。客車は用意されておらず、貨車内のベンチをならべ、別に車窓もなく扉が二尺くらいあけてあった。それでも始めて乗った私には非常に快適なものであり、風を切って進む速さに驚嘆したものである。横浜の学校へ行くようになったのは亡き父の友、神奈川県の高官なる高木氏が保証人となってくれたためで、氏が一切の監督をしてくれる旨を申し出られ、母も安心して手離されたのであろう。それに文臣兄も同氏のお世話で神奈川県属官に採用され、同市戸部町の官舎に引き移っていたからである。高嶋学校は、この前年なる明治4年8月高嶋嘉右衛門氏が欧米の学問をわが国に普及せしめんとて金3万円を投じて設立したものである。敷地として野毛山下のガス局の隣地(今の花咲町5丁目)に約1万坪を下し、そこに生徒数百の名を収容するに足る広大な校舎並びに寄宿舎を建てた。この建築は当時としては珍しい白ペンキ塗りの西洋風の建物で、正面(南北)に13個、側面(東西)に18個の西洋窓があり、かつ広中庭を囲んで廻り廊下があり、これに沿って寄宿生の室が並んでいたが、階上の窓には鉄色に塗った木製の格子が入っていた。なお登 舎と称する平屋建の附属小学校が廊下つづきに本校舎の西北に在った。学校の組織はいわゆる「正則学校」で、初級より英語の教科書を用いて米人の教師から読み方、文典、算術、地理、歴史等を教えられ、まるで米国の学校の観があった。この「正則学校」に対し、慶応義塾のような翻訳式の教法を「変則学校」と称していた。高嶋学校には当時数人の米人がおったが、西洋人の教師の組に入る前に附属小学校の一室で約1ヶ月間日本の先生から英語の初歩の教授を受けた。それから私達の級は始めモーリスという教師に、後にはバラー兄弟に就いた。バラー兄弟は宣教師であり、日曜日には兄のジェームス・バラーの自宅でバイブルクラスが開かれ、私も誘われて1、2度行った事がある。P23- 寄宿舎 高嶋学校在学中、私は寄宿舎にいた。寄宿舎は既に記したようにこの校舎の大部分を占め、居室は畳を敷いた日本間であった。普通一室に舎生2人、大きな室に舎生4、5人いた。寄宿舎には随分多数の生徒がおり、後に知名の士となった人も少なくないと思うが、当時在舎していた者の名簿が手に入らないので残念ながら一向に判明しない。友人として一緒に写真を撮っている者に、横浜豪商の令息添田君と、高嶋家に関係のあった富田君の2人がある。この2人はいずれも通学生であった。日曜日にはよく高木氏の豪華な邸宅や文臣兄の野毛町官舎に行き、いろいろの厚遇を受けた。また居留地のあたりから海岸、桟橋にかけて散歩にも出かけた。時には郊外を散策したが、春早き山野に咲いていたタンポポの紅花や、シュンランの清楚な花は今も心に残っている。しかしまた、急に親の膝下を離れ、大人びた青年達の間に放り込まれたので、自分ながらその時の生活を思い出すと穴にでも入りたい気がしてくる。14歳というのに喫煙の悪癖を覚え、煙草入を腰にさげていた。また芝居の味も知り、ひどい時には代り目代り目に劇場に友達と足を運び、銭湯に行ってもすぐに風呂場に飛び込まず、年上の友だちと一緒に2階にあがって一休みした。ある時には牛肉屋にも出入りした。私の環境はあまり好かったとはいえない。そのままで行けばあるいはませた、ひどく生意気な者ができあがったかもしれないのである。明治7年(15歳)の1月、朝授業が始まって間もなく東北隅教室のストーブから火を発した。折悪しくその教室には授業がなかったので誰も室におらず、そして誰も知らぬ間に天井裏に燃えぬけ、往来の通行人によって燃え上がった火が始めて発見され大騒ぎとなった。各室には石油ランプと石油入のガラスビンが置いてあったので、火の廻りは頗る速く、また無風で小雨が降っていたため、煙が中庭や廊下にモウモウと停滞し、息苦しく廊下にはグズグズしていられなかった。」それに階段は南側と西側のみであって、出口は東側の玄関と小学校へ続く廊下のみであり、下の室は窓が頗る太い鉄格子なので、これを破ることは容易でない。生徒の大部分は僅かな手荷物を持ち、ほとんど身をもって煙が渦巻く玄関から避難した。私の居室は2階の西側すなわち野毛山に面した大きな室で4人おり、私を除いては皆20前後の青年であった。火事となるや一同室に帰り、窓の木製の格子を破壊し、窓の下の便所の屋根に下り、それより更に地上に飛び降りてどんどん避難してしまった。既に火の廻りが速く、煙は玄関は勿論小学校への入口にも満ち満ちて、階下の廊下は歩行困難となっていた。私は非常に困ってしまった。窓から下の屋根に降りてみたものの、小柄であった少年の私にはそこから下がいまだ相当の高さであり、かつ地上には窓から投げ出された本や机の引出しが雑然と打ち重なり、もしその上に飛び降りればケガをすること請け合いである。それで飛び降りることはできず、思案にくれたが、急に思いつき再び室に入り、夜具布団を全部窓から放り出してその上に飛び降りた。おかげで私はケガをしなかったばかりか、おそらく寄宿生中夜具布団を全部出し得たのは私一人であったかも知れない。この室は野毛山から眼下にみおろせる所にあったので、沢山の見物人がこれを見ていた。そして子供(私)が一人便所の屋根の上でまごまごしている様を見て、「早くハシゴを持って行ってやれ」とわめきたてた人もいた由である。ところがそのうちに布団を投げ下ろしてその上に無事飛び降りたので一同やんやの歓声を挙げて安全を祝ってくれたという。私はその夕方野毛町の銭湯に入っている時、得意気になって声高にかく語る人の話を聞いたのである。奇縁とでもいうものか、火事の際の同室の2人までがその後札幌で遭っている。一人は碇山晋君で、後札幌に来り、予科に英語を講じ生徒監となり、また更に後年、その有する語学の才もかわれて横浜居留地の加賀町署長となり、外人にも名署長の名声をはせた。またもう一人は川口宗晴君で、札幌農学校一年目の時、聴講生として入って来たが、一年余で退学の止むなきに至った。高島学校は火事後廃校することとなり、横浜在住の生徒はドクトル・ブラウンが教えていた修文館に転校することとなった。私もそこに転校した。この修文館は老松町上の元の十全病院の隣にあったように記憶する。その3月東京外国語学校英語科の入学試験を受け合格したので、私の横浜遊学はこれで終止符を打たれ、外松金吾は再び宮部金吾に帰って東京の生活に戻ったのである。思えばこれはまた私に非常に幸いであったので、もし私が思慮分別のない生意気盛りを、その上気ままにひとりで横浜の寄宿生活を続けていたら、私はどうなっていたであろう。私はただわきの下に冷たい汗の湧き来たるを覚えるのみである。P26-31 4 東京英語学校 明治7年3月東京外国語学校英語科の試験を受けて合格し、最下級なる英語学下等6級の丁組に編入された。学校は神田一ツ橋に在って、現在の学士会館前に当り、元の商科大学敷地内に位置していた。この外国語学校の英語学の部門はその年の12月に分離して東京英語学校となり。旧校舎の筋向いなる榊原邸に移った。その敷地は開成学校(後の東京大学)の敷地の隣接地である。なお、余談になるが、東京英語学校は明治10年に廃せられ、大学予備門に変った。英語学校の教育方針は全部英語のいわゆる正則主義で、教師は英米人が主となり、下級には邦人が加わり、最下級は邦人のみで担当した。英語学校の学級は一級から六級にわかれ、一級から三級までは一組、四級は甲乙の二組、五級は甲乙丙の三組、六級は甲乙丙丁の四組から成っていた。最下級六級の丁組を振り出しに、各級担任教員監督指導のもとに、毎月もしくは2,3か月ごとに小試験が行われ、その成績の優良なものは抜擢進級せしむる制度であった。 私は先に記したように、入学当時は、六級の丁組にいたのであるが、同年5月には級のもの4,5名と共に丙組に進級、6月には乙組に、9月には甲組に、同月重ねて五級の丙組に、11月には五級の乙組に、翌8年の3月には五級の甲組に、7月には四級の乙組に、10月には四級の甲組に、更に翌9年の3月には三級に、9月には二級に、10年の3月には一級に進んだ。このようにほとんど試験のたびごとに幸いなる進級を続けた。入学当時、同校に在学していた札幌に関係のある士、または知名の士を、明治7年3月発行の「東京外国語学校官員並生徒一覧」により、その若干を採録してみよう。 下等一級-伊藤鏗太郎(札幌農学校第二期生)、柳壮蔵(北大医学部柳教授の厳父)、真崎健 吉(北大医学部真崎教授の厳父)下等二級-橋口文蔵(札幌農学校長をした人)、飯島魁下等三級-中島信之(札幌農学校第一期生)、藤田四郎(藤田九三郎氏の弟、元農商務次官)、加藤高明下等四級-末松謙澄、野村龍太郎(工学博士)、内村鑑三下等五級甲組-土方寧下等六級甲組-田中館愛橘下等六級乙組-石川千代松下等六級丙組-広井勇(札幌農学校第二期生)下等六級丁組-宮部金吾(札幌農学校第二期生)この頃を考えると、教育の制度がちょうど一つの大きな過渡時代にあったように思う。生徒は多く東京で正則教授をしていた神田の共立学校からか、横浜の高嶋学校から入って来た。一級全科目を通じ一外人が算術、読み方、綴り方、地理、歴史等皆英語の教科書を使用してこれを担当していたが、明治9年頃には漢学が課程の中に加わった。また翻訳の組も出来た。私がやったのは、MurryのPhysical Geographyで、割合に早く2月位で卒業と認められた。この組の受持は教諭下条幸次郎氏であった。教師についての思い出は今になっては大分散漫になっているが、その2、3を記してみよう。6級の頃にポート(POAT)がいた。彼は歯医者志望の英人で、米国遊学の徒中を日本に立ち寄っていたものである。私の前歯二本が虫歯になっているのを見て、直してやるから来るようにと誘われたまま、彼を訪問した所、前歯の穴にゴムを埋めてくれた。一通りの治療器具が揃っていて、それがバカに美しく清潔に見えた。5級の甲組にいた時はマッカーサー(MACARTHUR)という酒飲みの英人がいた。商人あがりらしく、数学も加減乗徐くらいしか判らなかったらしい。彼は生徒をよくかわいがり、しばしば生徒に遊びに来ないかと誘いかけた。私は級友と共にそこに算術を教わりに行き、分数のことを聞いたら、「分数?そんなことは判らないさ」と平然と答えた。四級の甲組に進んだ時にはマイヤー(MEYER)というフランス人のふとった教師がおり、彼は私の試験点等評に "A good hard working boy"「宮部君は頗る出精なり」との評を与えてくれた。四級を終った時、彼を中心として撮った記念写真が今私の手許に残っている。その中には穂積八束(後年法学博士、東大教授)、近藤仙太郎(後年工学博士)、松田武一郎(後年工学博士)、伊藤悌蔵(後年控訴院判事)、市嶋謙吉(後年早稲田大学教授)、梅岩誠太郎(後年早稲田大学予科教授)、高木甚平、横井左久、内藤信一郎、鶴見次昌、曾我鼎三郎、山田義容に諸氏がいる。三級の時の教師のフェントン(FENTON)はイギリス人で昆虫学者だった。私が札幌に来た翌年石川千代松君を助手として札幌に蝶類の採集にやって来たことがある。二級の時の教師レーシー(LECEY)はアメリカ人である。彼は金星が太陽の前を通過した時の観測班に加わって来たまま、居残って教師となったので、数学が得意であり、また音楽にも趣味を持っていた。彼は私の点等標に "A model pupil, would make a fine teacher of Arithmetic"なる評をくれた。 一級の教師はスコット(Scott)という米国の教育家で、英作文を教えることが非常に巧みであった。この組に入ってから英作文の上達は飛躍的であったと思われ、それが非常に後年のためになった。スコットは後ハワイの中学校長になっていた。一級の時の同級生中には後年有名になった人も少なくなかった。その中でも抜群なのは穂積八束君や酒井佐保君であろう。穂積君は級中での秀才で何学科でもよくできたが、特に同君の英作文は卓越したものであった。同級生の奇才として根岸錬次郎君がいる。同君は長岡藩士であり、河井継之助や森源三氏の一族であって非常な論客であった。ある時スコット教師はアメリカ人は一般に発音(pronunciation)が良くないがケンタッキー人は正しい。自分はケンタッキー州の産であると言うや否や、根岸君は直ちに"Yes, your pronunciation is very clear" と大音で誉めたので、スコット教師は赤面し、級友一同どっと爆笑した。同君は永らく日本郵船会社のロンドン支店長をしていたが、今は隠退して88歳の高齢をもって東京にかくしゃくとしている。戦前ロンドンを非常に親しみ「おらが村」と呼んでいた。この英語学校時代は慈愛溢れる母の温かき膝下で全く勉学に専念した。学校は一時の油断も許さぬ進級試験制度であったので、夜はうす暗いランプの下で11時すぎまで勉強し、時には深更に及んだ。このためにいささか視力を弱めた。勉学に急がしかったから交友も少なく、多くは御徒町方面から通う連中と往復を共にした位のものであるが、一級上の高田早苗君とは家の近かったため特に親交があり、同君とは竹馬の交を深くし、時には上野の山を散歩し、球投げに仲間の4人高田早苗、梅若誠太郎、伊藤悌蔵の3君と私で撮影した記念写真が残っている。高田君は当時御徒町3丁目にあった母堂の令弟にあたる富田冬三氏の家に身を寄せていた。富田氏は後年農商務省の商工局長まで勤めた人で、旧幕時代から幕命を帯びて洋行をし、また維新になってからも2、3度西洋へ赴き、岩倉大使の欧米巡遊に際しては随伴したという経歴があって頗る時勢に通じていた。したがっていつも高田君に向かって、「何でもこれからは英語を学び、まず世界の大勢に通じなくてはならぬ」と教えていた。高田君と共に富田氏方に世話になっていた梅若誠太郎君は私と同級であった関係から親しく交わった。同君は非常にタバコが好きで中毒のためその頃から手が震えていた。のち文学士となり、宮城県書記官を勤め更に早稲田大学予科の教授となられた。なお球投げの仲間の一人伊藤悌蔵君は、私と同級であって学校の往復によく一緒になった。同君は法学部を卒業され後大審院の判事になった。
2026.05.28
「宮部金吾」抜粋 自叙伝 P12- 1誕生「私が生まれたのは万延元年である。万延元年といえば、正月、安藤信正老中が始めて西洋に我が使節を送り、3月3日井伊大老の桜田門外の変が起った時で、国内では一方に尊王攘夷の論が起り、一方には佐幕開港の議があり、国内騒然としていた時代である。この年、東亜大陸においては、英仏の東洋進出の機が熟し、7月英仏連合軍北京に進み、8月には早くもこれを陥れ、9月には天津条約が成立し、ロシアはウラジオストク東岸の地を得た。植物学の方面ではこの年にロシアの植物学者マキシモウィッチが函館に渡来し、日本の植物に対して徹底的に採集研究し始めたのである。また生物学界を見るに一新紀元を劃したダーウィンの有名な「種の起源」の発表がその前年に当っている。 生まれた日は、閏3月7日、その巳刻(午前10時)に誕生したのである。この時、父42歳、母32歳、その五男として、祖父母、父母、兄姉揃える中に呱々の声をあげた。父の自筆になる金吾誕生記と臍緒並びに産毛が保存されている。文久3年に更に妹なる三女の甲子が生まれたが夭折したので、私は末子として一家の寵愛を一身に集めたものらしく、5歳頃まで母の乳房を求めたそうである。 生れた場所は江戸下谷和泉橋通御徒町で、後に御徒町2丁目15番地となった。これは現在上野広小路松坂屋南側に通ずる青石横町を和泉橋通に出た所から程近く、大震災後は昭和通の道路となってしまった。その頃の御徒町は名の示すがごとくに徒士の人が多く住んでいたが、伊予大津加藤の屋敷があり、また文人、書家、画家等の住める者も少なからず、閑静な住宅地であった。そして我が家は加藤の屋敷の西南隅に面した角屋敷であった。P13- 2祖父の死 4歳の12月6日祖父急逝。この日ちょうど家ではすす払いで、祖父は朝早くより他出、知人の家を一回りして帰宅。既に掃除を終えた一室のみは、コタツの火もいれられ、祖父を待っていた。祖父はそのコタツの上に大きな鮨の皿をのせて、好みのものを食べていたが、突然起った脳溢血のため、そのまま急逝したのである。すす払い当日であり、大工左官その他大勢の手伝い達がいたこととて騒ぎは一層であった。そして江戸式のにぎやかな通夜がその夜行われた。 祖父の慈愛の程は、おさなかりし私の脳裏にも深く刻まれている。ある時はお馬となって私を背にのせ家中を這いまわってくれた。祖父はまた来客が見えると客間に通し置き、居間の方からタバコ盆を下げておもむろに出ていくのを常とした。その時私は三番叟のかぶる烏帽子をつけ、鈴を手に持っていつも祖父の後ろに付いていった。客の前に出ると、祖父は客に「まあまあ待って下さい。これを済ましてから」と手で制しつつ、煙草盆をキセルでたたいて、拍子をとりながら、「トッパヒアロ、トッパヒアロ」と囃し立てた。私は得意になって、それに合わせ舞ってから引き下がった。誰いうとなく、「宮部の三番叟小僧」という名が知人の間にひろまっていたそうである。 P14- 3駿府往還 8歳(慶応3年)の8月、父が駿府紺屋町代官陣屋に赴任したので、家族もこれに従って江戸を立った。もちろん駕籠(かご)の旅である。私は母と共に大きな私用の駕籠に乗った。随分あちらちらで泊ったような気もするが、恐らく四五日のものであったろう。子供心に箱根山の険しかった事、所々母親に手をひかれて歩いた事なども記憶に残っており、湖水や大きな木立(杉)、またお関所などおぼろげながら印象に残っている。父は代官の手附元締であったので紺屋町の役宅は大きかった。庭も広く、中にひょうたんの形の池があった。一方の池は湧水のため、水が極めて清冷で、庭の小石も一つ一つはっきり数えられた。大きな緋鯉が心地よさそうに泳いでおり、時折大きな音を立てて勢いよく跳ねかえった。ひょうたんのくびれの所には小橋がかかっており、またそこに魚の逃げないような塞(せき)がしてあった。一方の池はアオミドロが一ぱいに生じていて、どんよりとよどんでいた。それから水は流れはじめ、その小川にはメダカやフナやコエビがたくさんいて、池を中心とした水辺のあらゆるものが少年の日をゆたかに楽しくしてくれた。役宅は代官陣屋の一番奥のはずれにあり、すぐ近くの小高い所に社(やしろ)があった。社をめぐってこんもりとしげった大木のしげみがあり、季節季節にいろいろの鳥がやってきたが、特に群れてやってきて、盛んに啼(な)いた百舌(もず)の声は今も忘れ難い思い出の一つである。屋敷の裏はうちつづく水田で、裏木戸を開けて畦に出ていくとたくさんのイナゴがいたのも珍しく、またこれを捕らえるのも江戸育ちの少年には楽しい遊びであった。軒から軒へ、繁華な所狭い大江戸から急にひなびた自然に飛び込んだ私は、自然の美しさ、広さ、大きさに心をゆすぶられたのであろう。私はあらゆるものに驚きを感じ、また自然の中の楽しさを非常にゆたかに感じた。後年自然科学に向かった私の意志はあるいはこの時代に知らず知らずしっかりと培われていたのかもしれない。ここで9歳の初春を迎えたが、これが実に明治元年、即ち王政復古の新春である。しかし当時には色々な評が巷を飛び、正月25日私は母等と共に避難のため江戸に帰された。3月すっかり平穏になったので私達は再び駿府に呼び返された。この時は既に記せるがごとく〔明治元年正月2日、徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いに敗れ、海路で江戸に帰城した。正月5日官軍は先鋒総督橋本少将実梁が京都を出発し東海道を下る。2月6日、総督の使番が駿府に来て勅命を伝えた。2月11日、代官は桑名で総督に謁見し、勘定所より勅命を遵守すべしとの許可を得て京都に上った。3月二条城で朝臣を命ぜられ、宮部金吾の父も田上駿府県令のもとで付属元締を拝命した〕、父は朝臣となっていたのである。12月ごろ同地に在住、12月2日に完全な引上をなすべく東京(明治元年7月より江戸は東京となった)に向かって出発。そしてその帰途一同うち揃って江ノ島に一泊したことを記憶している。P16- 4 松浦竹四郎と宮部家 私たちがいまだ駿府の代官屋敷に住んでいた時、松浦竹四郎氏が、明治元年閏4月6日付で京都大総督宮より「急々上京仰付」の命を拝し、京都往復の際、往復とも静岡の役宅に立ち寄られた。ことに御用を果たした帰途には数日間滞在されていった。松浦氏は当時における蝦夷(エゾ)地探検の第一人者であり、また著述家として令名のあった人で、後に開拓使の判官となり、北海道の国境を確立した。明治元年の御召の際にも京都滞在中に「蝦夷開拓基本献白書」を提出申し上げたのである。駿府に滞在中、徒然のままに唐紙にアイヌの絵を数枚書いて残していかれた。そのうちの一枚は今なお北海道帝国大学図書館にあり、一枚は故新渡戸稲造氏に贈呈し、アイヌが昆布を採っている絵のただ一枚が私の手もとに残っている。この絵は非常によくできているため、先年来朝した米国シカゴ大学教授スタールが札幌に来た時、これが複写を熱望され、数枚の複写をとったが、その一つは故河野常吉氏の所に蔵された。松浦家と宮部家とは極めてじっこんの間柄であり、そして江戸下谷の寓居は松浦家にごく近かった関係から、両家のゆききも相当に繁しかった。したがって数多い氏の名著はその都度我が家に寄贈された。このため、書物の中のアイヌや、蝦夷地の草花類や鳥獣などの絵を見ており、子ども心に早くも遠い蝦夷地に対し一種の親しみと憧れを持っていた。なお松浦氏は私に眼をかけられていたらしく、私を養子に懇望された由を、後になって、母から聞かせられた。けれどもこの話は父も母も進まなかったので取りやめになったという。しかし尽きせぬ縁とでもいうか、松浦氏が心血を注いだ北海道に、私は今日まで一生を捧ぐべき研究ひとすじの生活を送り来ったのである。
2026.05.28
23明治35年(1902)藤三郎は、静岡県駿東郡富岡村桃園に鈴木農場を開いた。御殿場線佐野駅(裾野駅)から北へはいった所で、前に黄瀬川の清流を控え、近くに愛鷹、はるかに富士の山々を仰いだ眺望絶景の仙境である。長男嘉一郎が経営に当った。農場の面積は、約百町歩の大農場で、茶園16町歩、果樹園14町歩(桃、柿、りんご、ぶどう、おうとう、みんな、びわ、くりなど)、野菜園12町歩、山林約50町歩があった。牧畜部には、乳牛60頭、馬11頭、鶏500羽などが飼育されていた。11戸の農大家族が農場内に住み、農繁期には男女約100人の農夫や茶師が働いていた。 藤三郎は、商業、工業、植民地農業に報徳の仕法を応用し、非常な効果をあげた。そこでこれを内地農業に応用し、わが国全産業に対する報徳の経営の規範を完成して、尊徳の遺徳に報いたいという念願を起した。明治39年(1906)11月9日藤三郎を会長とする佐野実業会は、冬季大会を静岡県駿東郡佐野町尋常高等小学校で開催した。駿東郡の重立った人々が来会し、協議後、藤三郎と留岡幸助が報徳に関する講話をした。その夜、留岡は藤三郎の鈴木農場に宿泊し、その夜から翌日午前にかけ趣味ある談話を交わした。藤三郎が老後の精神的本陣として経営する農場を一巡し、藤三郎と留岡は、10日午後1時の汽車で帰京している。 国府犀東の「駿河みやげ」(斯民第1編第12号明治40年3月23日号p64-74)に、鈴木農場の概要と藤三郎が入手した経緯についての記載がある。「農場の主任らしい人が、静かに農場の説明を始めた。まずこの地はどこかと問うと、静岡県駿東郡富岡村字桃園という。それより反別などを語ったのを記すに、総反別78町9反1畝13歩 内 田8畝11歩 畑14町7反9畝21歩 郡村宅地1反19歩 山林63町9反2畝22歩 この買入価格は1万8千円であって、それ以来開墾等に要した経費を合計すれば、3万1千円に及んでいる。鈴木氏が語る所によれば、この地はもともと幕臣黒田久綱氏ほか4名が共同して、明治6年頃より開墾し始めたものだったが、黒田氏はその後東宮武官となったが、他の人々はいずれも零落したため、黒田氏の補助によってこの地の開墾を営んでいたが、次第に困窮して事業は振るわず、そうかといってこの地を分割して売却するにも忍びないと、困っていたところから、明治32年駿東郡長の交渉もあって、ついにこの地を買い入れ、開墾に従事することとしたという。」というのが農場入手の経緯です。また「小作人は今10戸を数え、農事の繁忙期には、他から10人を雇った。小作人には、4間半に2間の家屋を建築し、無料で貸与し、鋤鍬の類を与えた。農場の中に5町歩ばかりに、リンゴ、ブドウ、桃、柿等の果樹を栽培している。野菜は小山の富士紡績会社に交渉し、職工の副食に供せしめたところ、会社でも新鮮な野菜を得ることができると喜んだという。製茶は、年1千貫目を産し、一農場でこのくらいの額を生産するものは稀れである。目下、牛舎を建築中で、ここに放牛し、かつ肥料をこれからとろうという計画である。養?、数百羽、その他アヒル、ガチョウ等がある。これが鈴木農場の事業の一端である。」 この「駿河土産」の中に興味深い記事が載っています。著者国府氏らが朝食後、農場を馬でめぐり、南方の丘に馬をつないで、小さな林の中で小さい神祠があってそのかたわらに古い石碣(いしぶみ)あった。『柾薗貞純親王塔』と彫ってある。そのかたわら近くに一碑を建て、鈴木氏がその由来を刻んでいる。『古塔発見記。明治三十七年十月。余初巡視農園。距御嶽神社二町。得一大石于竹林中。抜地五寸。則令人発掘、陰々有文。桃園貞純親王塔七字。或曰此石元在神社境内。或曰昔時有計埋塔者。今不知其何故。然至塔之為神社域中之物。復実不可争也。則更移之于茲云。明治三十八年四月鈴木藤三郎』と。 2011年8月28日裾野市鈴木図書館調査の際に「市史」に移築の記事を見つけ石碑を桃園神社裏手に現存しているのを発見した。
2026.05.28
大智禅師偈頌講話 沢木興道 鳳山山居(二) 截漸人間是与非 (人間の是と非を截漸(せつざん)して) 白雲深処掩柴扉 (白雲深き処柴扉(さいひ)を)掩(おお)う) 当軒栽竹別無意 (軒に当って竹を栽(う)別に意無し) 祇待鳳凰来宿時 (祇(ただ)鳳凰来宿の時を待つ) そのつぎは、人間の是と非、これは山居というものは、山の中に入ったって駄目である。山の中におってもやはり里がある。 熊本に坊主が二人おった。こっちを万日山という、向こうを花岡山という。向こうにおったのが横田曇映という浄土宗の坊さん。こっちにおったのが沢木興道という坊さん。沢木興道という坊さんは、鹿児島へ行ったり、仙台へ行ったり、東京へ行ったり、佐賀へ行ったり、名古屋へ行ったり、そうしてときどきヒョロッと戻って来て、裸で本を読んでおる。冬は裸ではない、夏じゃ。粟飯を炊いてもらって、それを三つに割って、朝三分の一、昼三分の一、ときどき、食い越すこともある。晩にはもう足らんなりだ、 そうすると、向こうの横田曇映がときどきやって来る。「おー、あんたどこへ行っておった」鹿児島へ行った。大阪へ行った。仙台へ行った。「あんた方はガッチョ食い」という。ガッチョという鳥が餌を探しに来る。そのことをガッチョ食いという。また仙台へ行った。鹿児島へ行った。大阪へ行った。名古屋へ行った。「ウン、忙しゅうておらんか。おれらはドン臭い」ドン臭いというのはドン蛙、餌が来たらパッと食う。持って来んと食わん。っそこでどちらが山居か、どちらがいいか、これはどうともいわれん。 春、桜の花でも咲く時分は、それは、だんごも来るし、ぼた餅も来る。すしも来るし、果物も来る。なんでも進上、それはハオハオじゃ。ところが梅雨時分になったら、ダラダラ毎日雨が降る。「アーア、よう降るな。猫の子一匹来やせん。だいぶ腹へったな」そろそろ杖をついて里へ出て来んならん。あるいは夏の日の長いときに「アーア、日も長いな。誰ぞウマイもの持って来んかな」あいにく様でそう都合よう持って来ん、とうとう待ちあぐねて、里へ下りて、信者というか知らんけれども、今日も飯食いに来たというか、お経読みに来たというか、とにかくどんどん叩かんならん。どちらが山か、どちらが里か、わたしはここに分らなくなった。ガッチョ食いが山居か。どちらか分からん。 そうすると、山というものは毀誉褒貶にかかわらず、自分の生活を持っておる。人から褒められたら、竿竹の絶頂へでも登る。褒められんならばなんにもせん。人が好くなら、どんなことでも、逆とんぼでもする。人が好かんなら舌も出さんという。今、人間の是と非とを截慚するということは、ほんとうの自己を持っておることである。それが山居である。山居ということは、地理的の山の中ではない。どんな山の中におっても、やはり社会がある。 そうすれば、山居というものはすべてそうである。ようわたしら褒められるが、急所を間違えておる。あまりありがとうない。そしったって急所を外れておる。そんな人間のぬかすことを相手にしても話にならん。だいたい阿呆ばっかり、そんな阿呆がほめたって、そしったって問題にすることはない。そこに山居がなければならん。 人が笑うから笑う。人が泣くから泣く。人が食うておるから食う。人が喜ぶから喜ぶ。自分がほんとうに嬉しいんではない。自分がほんとうに悲しいんでもない。そうすれば、自分がほんとうに嬉しくて一人で笑うておる。それが山居である。自分が勝手に泣く。つき合いで泣くのではない。そこが山居である。だから、世俗の紅塵飛んで到らず。深草の閑居、到る処無心なるは便ちこれ山。到る処青山便ちこれ家。ここに「人間の是と非を截漸(せつざん)して白雲深き処柴扉(さいひ)を)掩(おお)う」―。「軒に当って竹を栽(う)別に意無し。祇(ただ)鳳凰来宿の時を待つ」軒に当って竹を栽う。軒に竹を栽えるのは、祇(ただ)鳳凰来宿の時を待つ。鳳凰山の土地は、それだから鳳来という字(あざ)になっておる。これは知己を待つ詩である。われわれはなにが欲しいか。人間なにが欲しいか。なんにも要らん。なによりも、かよりも欲しいものは、この知己でなければならん。 あの契沖阿闍梨に 我れを知る人は君のみ君を知る人もあまたはあらじとぞ思ふ という歌がある。卍山(まんざん)和尚に、 心々相通、念々忘せず。 日々相見、何ぞ存亡を隔てんや。 という偈がある。つまり人と人、仏と仏、法と人、これがたった一つである。師匠と弟子、弟子と師匠、欲しいものはこれである。心々相通、念念忘せず、日々相見、何ぞ存亡を隔てんや。宇宙いっぱいの自己と、宇宙一ぱいの彼と。そうすれば、死にもせん、生まれもせん、これがほんとうの信仰というものなんだ。 だから、人間の是と非とを截漸して、白雲深きところ柴扉をおおう。軒に当って竹を栽う別に意なし、祇(ただ)鳳凰来宿の時を待つ。そうしたふうな心々相通のこの鳳凰の来宿の時を待つ。これがまあ山居として、実にその理屈をいわなくとも、人間の是と非を截漸して、そこにいうべからざる道味があるのである。(大智禅師偈頌講話p.11-15)
2026.05.28

187二宮翁逸話28 翁の妻君翁が離縁したのはその先妻で、野州桜町まで死を決してついて行ったのは後妻である。後妻は歌子というて飯泉村の人で小田原のある士族の家に奉公しておったということであるが、この人は14,5歳にしてよく四書を読んだと言い伝えられておる。翁に嫁した時は15歳であるから翁とは大分年齢が違っておったのである。この夫人にできたのが弥太郎すなわち尊行と娘すなわちふみ子とである。☆歌子夫人の顕徳碑が飯泉観音の裏手にある。花屋で花を買い求めて捧げたことがある。飯泉観音に参ってその碑を詣でたとき、歌子夫人は尊徳先生の事業を助けるために観音菩薩が示現されたのであるまいか、そうした想いがわいたものである。服部家では服部家の仕法のため尊徳先生が先妻と離縁したものと気の毒がり、御上女中として雇入れていた「波子」を後妻に勧めた。先生も波子も承知したが、「波子」は当時16歳であった。先生34歳であった。「波子」の父は年齢の相違を恐れて、ご主人の勧誘ではあるがあまりに年が離れていると逡巡したが、「波子」は服部の旦那様の仰せには「金次郎ならばよい」とのお話であるといって結局話がまとまり、文政三年四月二日婚儀が行なわれた。この「波子」こそ後年「歌子夫人」として、内助の功の多かった賢夫人である。
2026.05.28
内村第5信(英文 封書) 東京 宮部金吾あて 札幌より 〔内村書簡全集5〕 p12-14 1881年(明治14年)11月10日 札幌にて親愛なるフランク 40日以上たったが、君から1通の手紙も受け取っていない。君はもう約束を破っている。おお!金吾、カボテン、デコマルよ、急いで札幌の兄弟に手紙を書きたまえ。《失敬》 札幌について以来、君に書き送りたいことがたくさんある。僕自身は自分の仕事を実に愉快につづけている。僕にまかされた仕事-北海道の漁業-は僕ひとりに大きすぎる。300万円以上の一国の生産が僕の支配下にある。月報30円の一官吏がこんな大事業の取り締りに当たるとは。先月26日、石狩川を上下して漁業を視察するため、札幌をたった。対雁(ツイシカリ)に2日間とまり、アイヌのカヌーで川を下り、漁が行われている場所を一つ一つ調べていった。花畔(バンナグロ)に2日間滞在し、それから徒歩で石狩に下った。同地に滞在中、多くの有力な漁師を訪れ、サケ漁についてできるだけたくさん学んだ。またアイヌのカヌーで川を上下した。4日間滞在した後、厚田(アツタ)へ向けて出発し、沿岸の漁業基礎をスッカリ、相当くわしく調査した。何もかもスバラシク楽しく、自分の知識の一番貴重な部分をかためつつあるかのように感じた。12日間の旅行の後、貴重な資料をタップリたくわえて札幌へ帰ってぃた。すでに役所へ出す報告書を書き上げ、目下十勝と東海岸一帯へ向け、旅行すべく準備中である。非常に楽しいとは思わないか。 永らく期待されていた札幌キリスト教青年会がとうとうできあがった。第1回の会合は今月12日に開かれようとしている。キリスト教活動は目下きわめて活発に行われている。最大の難関は、会の経済状態で、われわれが多くの方面から寄付を求められていることは、われわれの教会の活動を一層難しくしている。しかしこれは君も知る通り、秘密にすべき事がらである。 佐藤〔昌介〕君については、ハッキリした事は何もいえない。事実、彼が社交について、あれほど気を使う以上、彼が大なる忠誠をもってキリストに仕え得るかどうか、疑いたくなる。僕はすでに、おついしょうやわいろが官吏生活を左右する重要な要素である事実を、身をもって経験した。「社会に迎合せよ。しからばなんじは万人の人望をかち得べし」とは、僕が今現在生活している社会のモットーである。しかし「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい」〔コリント後書5.16〕と使徒パウロは教えている。そしてこのマムシどもの時代と戦うためのただ一つの道は、「左右にもっている義の武器」〔コリント後書6.7〕によることである。父から、毎日曜日平岩〔愃保〕氏の教会に出席している、との二通の手紙を受け取ったことを神に感謝する。今、僕はいたく勇気づけられ、日に日に神に近づきつつあることを感じる。この全く同じ事を実現したまえる神は生ける神にいまし、僕の全生涯を導きうる神に相違ない。兄弟よ、ドーかたびたび僕の家を訪れてくれたまえ。そして札幌にある君の兄弟に、その父がキリストの一人の善き兵士として教会に迎えられるという、何よりも嬉しいニュースをはやく聞かせてくれたまえ。喜びに酔っている僕を想像してくれたまえ。きたれ!何事でもきたれ!わが祈りをかくも度々聞き届けたもうた神は、常にわがかたわらにいましたもうであろう。A〔足立元太郎〕君はM〔水野〕嬢におぼれている。彼は現代の《深草少将》だ、といわれている。たいてい、いつでも愛人を訪れており、夜非常におそく帰宅するからだ。彼は多分この冬、雪の中に埋められるだろう。たしかに鼻下長紳士だ。彼については面白い話がたくさんある。岩崎〔行親〕、町村〔金弥〕の両君は彼らの「悲哀の源泉」をつれて来た。30円では足りない。実に気の毒だ。しかし結婚当座は大はしゃぎだった。 兄弟太田の眼が目下非常にわるいことを君に報告するのはこの上なく悲しい。彼は現在ほとんど盲人に近く、家にひきこもっている。多分近く東京へ行くだろう。彼のキリスト教観はきわめて混乱していて、いろいろ慰めたが無駄だった。彼のため祈ってくれたまえ。君のお母さん、兄さん、姉さんたち、姪御さんにくれぐれもよろしく キリストにありて君に 最も愛さるる兄弟なる ヨナタン・内村鑑三
2026.05.27
内村第3信(英文封書) 下谷区徒士町 宮部金吾殿行 内村鑑三日記書簡全集5p8小石川上富坂町 内村鑑三ヨリ 1881年(明治14年)9月30日 東京小石川上富坂町にて 親愛なるフランク〔宮部金吾〕君の東京留学〔宮部は卒業と同時に、開拓使から植物学研究のため東京大学へ留学を命じられた〕に大きな可能性があるとの短いたより、うれしく読んだ。君と共に喜ぶ。神は今日までたえず僕らの生涯を導いて下さったが、今度も君に、君の志望をとげることをゆるしたもうた。僕は神に感謝した。君も感謝すべきだ。われわれの肉体と霊魂とを神のみ手にゆだねようではないか。そうすれば失敗することはないだろう。自分勝手に名や富や成功を得ようとせず、すべてをわれらの神のみ手にゆだねようではないか。「たゆまないでいると、時が来れば、刈り取るであろう」〔カラテア書6.9〕から。われわれは今日までに、すでに友人のある者が、自分自身で名誉を得ようとして大失敗したのを見て来た。「低い兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい」〔ヤコブ書1.9〕と聖ヤコブは教えている。ああ!神がかくまで豊かに君を恵みたまうとは、君にとり、君のご両親に取り、君のご家族にとり、僕にとり、また君のまことの友人一同にとり、何たる喜びであろう。君が喜ぶとき、僕は君と共によろこぶ。当然である。しかし兄弟よ、君は喜ぶだけでなく、僕が泣く時、僕と共に泣いてくれなくてはいけない。僕の家庭の面倒は日に日に厄介なことになっていく。ああ!叔父とその子供たちとが、僕が彼らに食わせたり着せたりできるというので、辛い労働をのがれて気ままに暮らそうと、僕の狭い家に押しかけて来るのを見るのは、僕には実におそろしい光景だ。僕の出発の近づいたこと、父の事業の失敗、すでに満員の狭い家にさらに他人(病人-目下は静かにしているが-とその子供ら)が押し入って来たことなど、皆、僕の家庭をすざまじい、おそろしい、不愉快な場所にしてしまった。食事はすすまず、頭はみだれ、いやな光景をさけるため、僕はなつかしい自分のホームを出て、この雨がちの天気の中を、町をブラッキ廻らねばならない。僕はそれですむ。しかし母は、一体どうしたらその場をのがれることができるだろう。暗涙か、後悔か、黙想か。僕が、その光景をこまかにえがかないでも、たやすく想像してもらえるだろう。僕の心は北海道へとシキリに僕をかり立てる。しかし、自分の後にこんな大きな障害を残して行く事になる家の実情が、僕の平和をくらくする。 しかし僕は、喜ぶ時にも泣く時にも、同じく神にたよる。神の道はわれらの道とことなることを信じる。あふるる祝福をたもうた神は、決して、僕を孤立無援のままにすておきたまわないだろう。すべては僕のため善に向かって働くだろう。兄弟よ、僕のために祈ってくれたまえ。僕も君のために祈るから。願わくはこの試みに耐え抜き得る力を与えられ、あらゆるいざないにあう時、それをすべて大なる喜びと見なし得んことを。 君の ヨナタン・内村鑑三二伸 出発は10月3日、九重丸の予定(*)。
2026.05.27
内村第3信(英文封書) 下谷区徒士町 宮部金吾殿行 内村鑑三日記書簡全集5p8小石川上富坂町 内村鑑三ヨリ 1881年(明治14年)9月30日 東京小石川上富坂町にて 親愛なるフランク〔宮部金吾〕君の東京留学〔宮部は卒業と同時に、開拓使から植物学研究のため東京大学へ留学を命じられた〕に大きな可能性があるとの短いたより、うれしく読んだ。君と共に喜ぶ。神は今日までたえず僕らの生涯を導いて下さったが、今度も君に、君の志望をとげることをゆるしたもうた。僕は神に感謝した。君も感謝すべきだ。われわれの肉体と霊魂とを神のみ手にゆだねようではないか。そうすれば失敗することはないだろう。自分勝手に名や富や成功を得ようとせず、すべてをわれらの神のみ手にゆだねようではないか。「たゆまないでいると、時が来れば、刈り取るであろう」〔カラテア書6.9〕から。われわれは今日までに、すでに友人のある者が、自分自身で名誉を得ようとして大失敗したのを見て来た。「低い兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい」〔ヤコブ書1.9〕と聖ヤコブは教えている。ああ!神がかくまで豊かに君を恵みたまうとは、君にとり、君のご両親に取り、君のご家族にとり、僕にとり、また君のまことの友人一同にとり、何たる喜びであろう。君が喜ぶとき、僕は君と共によろこぶ。当然である。しかし兄弟よ、君は喜ぶだけでなく、僕が泣く時、僕と共に泣いてくれなくてはいけない。僕の家庭の面倒は日に日に厄介なことになっていく。ああ!叔父とその子供たちとが、僕が彼らに食わせたり着せたりできるというので、辛い労働をのがれて気ままに暮らそうと、僕の狭い家に押しかけて来るのを見るのは、僕には実におそろしい光景だ。僕の出発の近づいたこと、父の事業の失敗、すでに満員の狭い家にさらに他人(病人-目下は静かにしているが-とその子供ら)が押し入って来たことなど、皆、僕の家庭をすざまじい、おそろしい、不愉快な場所にしてしまった。食事はすすまず、頭はみだれ、いやな光景をさけるため、僕はなつかしい自分のホームを出て、この雨がちの天気の中を、町をブラッキ廻らねばならない。僕はそれですむ。しかし母は、一体どうしたらその場をのがれることができるだろう。暗涙か、後悔か、黙想か。僕が、その光景をこまかにえがかないでも、たやすく想像してもらえるだろう。僕の心は北海道へとシキリに僕をかり立てる。しかし、自分の後にこんな大きな障害を残して行く事になる家の実情が、僕の平和をくらくする。 しかし僕は、喜ぶ時にも泣く時にも、同じく神にたよる。神の道はわれらの道とことなることを信じる。あふるる祝福をたもうた神は、決して、僕を孤立無援のままにすておきたまわないだろう。すべては僕のため善に向かって働くだろう。兄弟よ、僕のために祈ってくれたまえ。僕も君のために祈るから。願わくはこの試みに耐え抜き得る力を与えられ、あらゆるいざないにあう時、それをすべて大なる喜びと見なし得んことを。 君の ヨナタン・内村鑑三二伸 出発は10月3日、九重丸の予定(*)。 *明治14年7月27日付で第二期卒業生に開拓使御用係の辞令受領届出が報告されている。内村鑑三・広井勇・太田稲造は民事局勧業係、宮部金吾は学務局督学課勤務であった。9月26日付で調所札幌書記官から宮部金吾・池田鷹次郎の東京大学駒場農学校での研究に付き照会がなされ、12月5日付けで宮部は東京大学植物学専修のため通学、池田は農務局雇兼務で駒場農学校勤務となった。内村は10月3日に東京を出発、同13日札幌に到着し、開拓使に出仕した。その旅の模様は翌14日付発信の内村第4信に詳しい。
2026.05.27
岩崎行親君と私 「日々の生涯」昭和元年(1926年)11月18日岩崎行親君を私が初めて知ったのは、明治9年(1876年)でありました。その時、私どもは、今の第一高等学校の前身なる大学予備門の最高級にありて、わが国師範教育の指導者なるスコット氏より、初めて教育らしい教育を受けました。その時、私どもは初めて、教育の、外より知識を注入するにあらずして、内なる知能の開発にあることを知りました。岩崎君も私も、他の多数の同級生と共に、私どもの生涯の全部を通して、米国人スコット氏に負うところ、はなはだ多きを忘るることはできません。翌年の明治10年に、岩崎君も私も北海道札幌農学校の生徒募集に応じ、同年秋、海路札幌に行きました。ここに私どもにとり、終生忘るべからざる最も楽しき教育を受けました。札幌において私どもを薫陶してくれました最良の教師は、人なる教師にあらずして、生けるそのままの天然でありました。その時、北海道はまだ造化の手を離れたばかりの国土でありまして、いともうるわしき楽園でありました。私どもはここに青春時代の4年を過ごしました。私はたびたび思います。私が私の子供に施してやりたい教育は、私が岩崎君ならびに他の学友と共に札幌において受けた教育であると。しかし、かかる教育は、今望んで受けることも授けることもできません。その理由は、北海の楽園は失せて跡方なきに至ったからであります。人なる教師はいくらでもあります。人の設けし設備はいくらでも設けることができます。しかしながら壊(こぼ)たれし天然は再びこれを取り返すことはできません。北海道もまた俗人の手ゆだねられて、その汚すところとなり、青年の心を潔(きよ)めその志を高ぬるの能力(ちから)を失いました。今や北海道帝国大学は札幌農学校の継続者として存在しますが、その教育上の威力に至っては、とうてい旧(ふる)い小さい札幌農学校に及ばないと思います。それは大学に有り得ないものが農学校に有ったからであります。石狩平野の処女林、その樹木に巣を作りし鳥類、その木影に咲く雑草、石狩、千歳、豊平の諸流に群らがりし魚類、これらが最良の教師でありました。そしてこれらの物が俗人ばらに取り尽くされて北海道は青年薫陶のための最も良き教師を失ったのであります。位階、勲章に誇るこの世の博士らを幾人連れ来たりても、とうてい天然自然が施すような善き教育を施すことはできません。札幌農学校在学中、私どもは精神的一大事件に遭遇しました。それは、西洋の宗教たるキリスト教の勧誘でありました。私ども同級生20有余人中、半ばはこれに応じ、半ばはこれを拒みました。そして岩崎君は拒みし仲間の一人であり、私は応ぜし者の一人でありました。かくして、はなはだ親密なりし二人の友誼に大なるひびが入りしように見えました。かくして、数年を過ごし、私は東京に出で、明治17年(1884年)に私費で米国に渡り、苦学4年にして帰朝しました。そして、キリスト信者に成りし私がキリスト教国の米国に留学して、一人の友人を作らず、1セントの寄付金を持たずして帰朝したのであります。私は大なる寂しみを感ぜざるを得ませんでした。その時、私を見舞いくれし者は、同窓同級の友、岩崎行親君でありました。君と私とは宗教を異にしましたが、境遇と道徳を共にしました。貧困は、私どもが持って生まれた運命でありました。これに加うるに日本人特有の道徳観念がありました。死すとも外人のパンを食らわずの意気がありました。貧困と日本道徳、この二つの事において、岩崎君と私とは一致しました。そしてこの二つのものが私どもをつないで今日に至りました。友人中岩崎君が最も善く私の日本魂(にっぽんこん)をわかってくれる者であります。それは君自身が日本魂の塊(かたまり)であるからであります。キリスト信者といえば、たいていは日本魂の喪失者でありますにかかわらず、幸か不幸か、私は大切にこれを守って来たつもりであります。私はそれがために、今日外国宣教師や、わが国キリスト信者全体にきらわれます。しかしながら、彼らにきらわるる理由が、岩崎君のごとき人たちに知遇を辱うする理由であります。得失相償うと言いましょうか。私は岩崎君一人を友として持たんためがために、外国宣教師千人に異端者として取り扱わるることを、かえって喜ぶ者であります。北海道成育(そだち)の私どもは、終生北海道を離れずと決心しました。しかるに運命は私どもを駆って、私どもを思わざる所に追いやりました。岩崎君はわが国の南端鹿児島に追いやられ、その終生の業を遂げられました。私はひとり東京郊外に陣を張り、私の宗教をもって、天下を相手に戦いました。そして天は私どもの不遇をあわれんでくださりまして、私ども相応の成功をもって、私どもの努力に報いてくださいました。岩崎君は薩南の健児を養成して、日本改造の基礎を据えられました。私は東京にありてキリスト教の国土化に従事して、これまた幾分成功をもって恵まれました。骨を北海道に埋めずといえども、霊は少なくとも日本全国をおおいました。岩崎君が古希の祝賀を受くると聞いて、私もまた遠からず同一の年齢に達することを知ります。しかし70が100でも問うところではありません。何か少しでも永遠的事業に携わることができて、世に生まれ出た甲斐があるのです。人は裸にて母の胎を出でて、裸にて逝くのであります。貧も一時であり、富も一時であります。位階、勲章もこの世限りの名誉であります。死して死なざるものは、正義によって生きた生涯であります。今より半世紀前に、東京神田一ツ橋外、大学予備門のスコット氏の教室において、初めて君の気品高き容貌に接せし時の事を思い、うたた感慨に堪えません。 百年(ももとせ)の半ばを共に過ごし来て うれし涙にむせぶ今日かな
2026.05.27
札幌県鮑魚繁殖取調復命書ならびに潜水器使用規則見込上申鮑魚(あわび)繁殖の件たるや、わが国諸方において最も難題とするとところにして、すでに農務局水産課および大日本水産界等において取り調べしといえども、いまだ確実なる説明を得るあたわず。わが札幌県下のごとき、南方岩内、古宇の海浜より、北方礼文、里尻に至るまで、至る所これを産せざるなく、年々これを各地に輸出する高は、他府県の遠く及ばざるところなり。 当道旧来習慣の漁法は、方言ヤスをもって、鮑魚の水底5、6ヒロの岩上に来たるを待ちてこれを突き取るものなれば、鮑突き営業者いかに増加するも、繁殖上、非常の妨害なしといえども、明治12年来、潜水器を使用して鮑魚漁に着手する者、日を追うて増加し、すでに古宇郡に、この器械3挺、積丹郡に1挺、高島郡に1挺、総計5挺を使用するに至れるのみならず、新たに該器使用を出願する者、追い追い増加するに至れり。されども潜水器の用たる、海中沈没品を取り揚げ、あるいは大房網および、にしん漁建て網等の使用中、その修繕を施すには、海浜必要の道具なれども、これを用いて、あわび、なまこ等の捕漁に着手するときは、魚種亡滅の憂い無きあたわず。すでに東北諸県下においてその例少なしとせず。ここをもって旧開拓使においては、明治14年8月、第83号をもって、潜水器を使用して鮑魚を漁する者は、深き15ヒロ内において営業することを禁じたり。しかるに爾来、漁夫その非を訴うる者多き、該器械使用規律制定の命ありといえども、鮑魚に至ってはその繁殖の季節および発生のいかん等々を知る者なきにより、ついに右事項実地取り調べのため、明治14年9月4日、初めてその事に着手す。しかして試験所を高島郡祝津村に定む。されども、この試験たる、早くも1ヵ年の日月を要するをもって、わずかに1ヵ月のよく研究し尽くすべきにあらざれども、ここに第一期試験の結果を復命し、余は後日を待ちてこれを上申すべし。 第一 鮑魚繁殖に最も適切なる海底の模様および近傍地形いかに さて怪魚の繁茂するには必ず岩石の水底なり。ゆえに岩石なければ海魚なしと言うも過言にあらざるべし。すでに沙流、阿与路方面において、岩石を水中に投じ、初めて昆布を採収するを得しを見て知るべし。ゆえに鮑の生殖するは必ず岩石の水底にあり、高島郡の海岸たる、東、手宮より西、忍路境に至るまで、みな絶壁の岩石にして、高島、祝津等はわずかにその凹所にあり。海岸石なれば、これに沿いたる海底もまた必ず石ない。かつ絶壁の岩石下には海底必ず深く、その海底の模様おおよそ海岸に似たり。たとえば祝津村ミナシ泊の海岸は、岩石、黒色を帯び、形、びょうぶを立つるがごとし。その水底もこれと同じく、水際よりわずかに3尺にして、8ヒロの深さあり。同村シュマ内の岸には、岩、白色を帯び、その勾配多からざるをもって、8ヒロの海底はおおよそ陸より300間の外にあり。ゆえに鮑魚の繁殖もほぼその海岸の形状をもって知るを得べし。 海岸絶壁にして黒色を帯ぶる岩に沿う所の海底に生殖する鮑魚は、大なれども、少なし。前例ミナシ泊の鮑魚は高島郡中最大の名あり。また海岸の岩低くして白色を帯ぶるときは、その近海に生ずる鮑魚は、形はなはだ小にして、数多し。シュマナイ産のもの、この類なり。右のごとく、深くして暗き水中には大なる鮑を繁殖し、浅くして日光の多く透入する海底に産するものは小にして多数なるは、その原因を知るあたわずといえども、すべて動物は幼き時は成長迅速なるがゆえに、多分の日光と酸素を要するものなれば、海岸近く、激浪、空気を包合し、日光多く透入する所を選むなるべし。 熟達せる漁夫は、海浜の景況を見て直ちにその近海にある鮑魚の大小多寡を知るを得べしという。しかして鮑魚は草木繁茂せる山林に沿いたる海中に多しという。 第二 鮑魚は深き幾ヒロより幾ヒロまでの海底に生息するや 前条すでに鮑魚の生息する水底の景況を述べたり。すなわち海草生ぜざれば鮑魚あるなしと。これをもってこれを見れば、鮑魚生息の区域は、海草の繁茂する海底の区域を定むるをもって知るべし。すなわち一の簡単なる法(石あるいは鉛塊を索して結び、その下面に柔かなる臘および鬢つけを塗り、海底に入る。しかる時は、軟臘に付着するもの、砂あるいは小石なれば、その海底、砂あるいは小石と定む)をもって高島郡海底の模様を探るに、海草の繁茂最も盛んなるは、水際より5,6ヒロの海底とす。8ヒロに至れば、海草大いに減少す。12ヒロ以上に至れば、ほとんど無きがごとし。しかして15ヒロの以上に至れば、おおむね砂地なり。ゆえに鮑魚の最も盛んに生息するは、3ヒロより8ヒロの間とす。もっとも径3分より一寸ぐらいのものは、深さ1尺より3尺の間に多し。その大にそて物産となるべきものは、多く6ヒロ以上の水底にあり。 第三 鮑魚落卵の季節は何月ごろ始まり何月ごろに終わるや この問題たるや少なくとも一ヵ年の後にあらざれば知るあたわずといえども、これを土人に聞くに、8,9月をもって最も盛んなりとす。もっとも1、2、3の3ヵ月を除くのほかは、鮑魚は常にフケル(方言にして、落卵を形容する語なり)ものなりという。 さて落卵いかんを知る前にあたって、すべからく鮑魚の生殖器はいずれにあるや、その卵の形、色、質等を精細研究せざるべからず。しかるにこれらの点に至っては確然たる説なきがゆえに、まず第一に、鮑魚の体中に生殖器の位置を知り、しかる後、その産卵期間における卵子いかんを探らざるばからず。一、ドイツ国生物学ゲゲンバー氏いわく、ハリオチス(すなわち鮑魚)属およびパテラ属においては、雌雄の生殖器は肝臓に附着するか、あるいはこれと近接せる所にありと。二、祝津村において最も熟達せる鮑突き人の言によれば、ウロ(方言にして肝臓を言う。なお紀州熊野近にてワタ(腸の意)あるいはシリ(臀の意)と言うがごとし)は鮑の生殖器にして、現に該魚は清静の時にあたって、深さ8、9ヒロにある水底の岩上の凹所において、黒色を帯びたる水を吐くを常に実現せり。後、これを捕うるに、そのウロ縮小すと。 右の二説ともによく合するをもって、大いに信ずべし。よって意をこの点に注ぎ、試験せしに、左の結果を得たり。 長さ3寸以上の鮑魚を解剖すれば、ウロすなわち肝臓は鮑魚中最大の器にして、図のごとく、鮑魚全体の大半はすなわち肝臓なり。これ中断すれば、真正の肝臓はその中部二分の一を占め、粗なるようかん色を帯び、肝管その内を通過し、肝臓と異ならざることを知る。しかるに(ロ)の部は全く前者に異なり、色、青黒にして、一管の通過するなく、顕微鏡をもってその一部を見れば、倉 質のウロを有する鮑魚は十中八、九を占むるにとどまり、あるいは全くこれを有せざるものあり。しかのみならず、殻径2寸余の大きさに達せざれば、そのウロの上に該質の生ずるなし。これ幼なる時は生殖器の露出することなきによるならん。また漁夫の説に説に、ウロは春季に小にして夏に至って追い追い大を加え、8、9月のころに至ってその極に達す。かつ始め青色なれども、日を追うて黒色を帯び、9月のころに至れば、ほとんど薄黒色に変じ、その倉窩は形円く、セルウオールは十分に熟し、細粒こまやかにして、すでに産卵に達したるもののごとし。ゆえに、ドイツ国生物学士の説および実地漁夫の経験と照合してこれを見れば、前説のあるいは真正に近きを覚ゆるなり。また採収せる鮑20個中におおよそ1個ぐらいづつは、ウロ黄赤色を帯び、これを顕微鏡下に照らし見れば、前条の倉窩なく、膠様質にて無形体なり。これ、あるいは雄ならん。かつその数20分の1におるをもって見れば、下等無脊椎動物にありては、雄は常に少しにして雌は常に多きものなればなり。 第四 発生後何ヵ年にして生殖期に達するや この問題は至極難題なり。何となれば鮑魚の性たる、はなはだ柔弱にして、これを水桶中に養育すれば、わずかに2、3時間を経過すれば直ちに斃死す。ゆえに試みに数孔を穿てる匣内に入れ、海中に浸すといえども、2日間を経れば斃る。ゆえに、その生殖器のいかんを採らんとすれば欲すれば、多分の入費と時日とを要すべし。今ここに陳述するところはただ後学者の参考に供せんためのみ。 実地漁夫の説によれば、鮑魚は鮭魚とひとしく、3ヵ年を経て初めて生殖期に達すると、されども、これ確証なき説にして、決して信ずるに足らざるなり。また古人の口碑によれば、鮑魚1ヵ年に一孔を増すと。これ大いに信ずべきの説なり。いかんとなれば、鮑殻見本中、孔すでに成就するあり。半ば成就するあり、かつ貝類は1ヵ年ごとにその殻の一層を増すものなれば、1ヵ年に1孔を増加すとの説は、やや信ずべきに近し。しかりといえども、孔数をもってその年齢を定むるは、いまだ余のなすあたわざるところなり。何となれば、生まるるや否や、すでに幾個かの孔を有するものあればなり。 前述せしごとく、鮑魚は径2寸5分に達して初めて生殖器の現出するあり。しかして径4寸5分に達して全く熟す。されども何ヵ年にして2寸5分の径に達するやを、いまだ知るあたわず。されども海中の浅所にあるを見れば、2ヵ年より多からざるべしと思考す。よって実際規則を定むるにあたっては、径4寸5分より小なるものを捕獲するを禁ずるをもって緊要とす。その他、取り調ぶべき件あまたありといえども、一々これを陳述せず、余は後日を待って、さらに開陳すべし。 潜水器使用規律について愚意を陳ぜんとす。該器使用規則制定の件は左の四ヵ条の内にあるべし。第一 潜水器使用を禁ずべし第二 年々、期節を定めて使用すべし第三 各郡に繁殖地の区域を定むべし第四 境界を定め、各繁殖場を人民に貸与すべし 第一、潜水器を有害と見なし、これが使用を禁ずべしとは、すでに多くの賛成家ある説なれども、いまだ了解することあたわざるなり。北海道の海浜たるや、至る所岩石多く、したがって水底の景況も絶壁凹凸、あたかも、のこぎり歯状をなすもの多し。ゆえに、たとえ潜水器を使用するといえども、ことごとく海底を探ることあたわず。ゆえに該器をもって海底の鮑魚を取り尽くすは最も難かるべし。されども人あるいは言わん。千葉県下のごときは、すでに取り尽くせし例ありと。これいまだ北海の水底を知らざる人の論ならん。聞くところによれば、安房地方の海底は平坦にして、いわゆるハードパンなるものなるがゆえに捕獲しやすく、したがって取り尽くすは論を待たざるなり。わが北海道にありてはしからず。潜夫の歩行すら困難にして、あたかも絶険の山岳を越ゆるがごとし。しかのみならず岩上の小孔および巉岩(ざんがん)の間に雌伏する鮑魚は、潜夫といえども、これを捕獲するあたわざるなり。 経済上より論ずるもまたしかり。世の文明に進むに従い、新規の発明ありて、先業者を妨ぐるは、その例少なからず。欧州諸国において鉄路建築の際、馬車営業者が苦情を唱え、北英諸州の、にしん漁業者が新製蒸汽漁船使用について難を称うる等、みな同一の理なり。今、鮑突き営業者らの苦情を聞くに、もし潜水器の使用を許されなば、おのれの業を妨ぐるというにすぎずして、必竟愚昧なる嫉妬心より生ずる苦情なり。 現今、祝津村字山中において鮑突き営業者30名あり。一人一日の捕獲平均60個と見なし、総計1,080個を得べし。今30人を使役すれば4挺の器械を使用するを得べし。1挺一日の捕獲平均450個(伴直二郎氏一ヵ年水揚げ帳より取り調ぶ)と見なし、総計1, 800個すなわち30人の鮑突き営業者と同量を捕獲す。さてその難易いかんを察すれば、器械使用者の易き、もとより論を待たず。ゆえに一般の経済上より論及すれば、従来の鮑突き営業者をしてことごとく潜水器を使用せしむるを可とす。第二、鮑魚の産卵期を定め季節中は捕魚を禁ずるは、実際不都合なくして、最も便なる法なれども、わが北海道沿岸において難なきあたわず。鮑魚産卵期はいまだ確知するあたわざれども、今日の場合においては、その季節を発見することは別段緊要にはあらざるべし。何となれば、もし漁夫の言のごとく、その産卵季は7月上旬より9月下旬までとし、その間、漁業を禁ずれば、営業者の最も緊要なる時日を奪い、ほとんど潜水器使用を禁ずるにひとし。 第二、鮑魚の産卵期を定め季節中は捕魚を禁ずるは、実際不都合なくして、最も便なる法なれども、わが北海道沿岸において難なきあたわず。鮑魚産卵期はいまだ確知するあたわざれども、今日の場合においては、その季節を発見することは別段緊要にはあらざるべし。何となれば、もし漁夫の言のごとく、その産卵季は7月上旬より9月下旬までとし、その間、漁業を禁ずれば、営業者の最も緊要なる時日を奪い、ほとんど潜水器使用を禁ずるにひとし。今参考のため、高島郡において一ヵ年、該器を使用するに適したる日数を左に揚げん。〔略〕ゆえに保護説第二条も、他県下においては知らず、わが北海道においては実際施行するあたわざるなり。第三、区域を定むるに二つあり。一は水の深浅をもってし、一は各繁殖所の境界をもってす。水の深浅によって区域を定むるは、実際上施行するにははなはだ難かるべし。前述せしごとく、本道沿海の水底は凹凸定まりなく、この所に深所ありと思えば、かの所に浅所あり。ゆえに旧開拓使の規則のごとき、15ヒロ以内において鮑魚を禁ずるといえども、正直なる漁夫が該規則を遵守せんと欲せば、その不便実に察すべし。いわんや強欲無知の漁夫らが偏僻、無人の海底に漁するにおいてをや。実に規則ありて無きがごとし。ゆえに聖使徒パウロいわく「無律法罪乃死」(*)。犯しやすき律を建つるは罪を顕出するにひとし。ゆえに15ヒロ以外に鮑魚の生息するや否やはさておき、慈恵行政上より見るといえども、旧開拓使潜水器使用規則はその当を得たるものと言うべからず。(略) 右のごとく、潜水器を所々に頒布せば、人民一般の便利となるは実に大なり。漁期に際し投ずべき水底を掃除せんと欲せばこれを雇い、また漁業中、水中にすえおきし網の修繕に用い、または新たに漁場を開かんと欲してこれが根さらいに使用し、または沿海沈没船等のあるときは、貨物を水中より揚ぐるに用いる等、実に潜水器は海浜において必要なる器械なり。すでに石狩川根さらいのごときは、その奏功最も大なり。ゆえに人民もし潜水器の使用を知らば、右等のためにこれを購求するに至らん。しかりといえども漁期に定まりあり。春季、にしん網を立つれば、秋季に至るまでは潜水器の用なし。されどもこれを使用すべき人夫は常に雇いおかざるべからず。ゆえに6、7、8、の3ヵ月間、適宜の法により鮑魚を営ましめば、一つはもって一般の公益となり、一つはもって海中得べからざるの水産物を得るに至るべし。右、小官見込み上申仕り候間、4ヵ条中いずれを御選定に相成り候や御参考に供え候なり 明治14年(1881年)10月 内村鑑三 札幌県知事 調所広丈殿 (1881年10月 1909年1月「1909年櫟林集」) <「櫟林集」採録時の付言> 内村生言う、文は意をなさざるところ多く、今よりこれを見て、他人の作を読むの感あり。されども余は、余の今日の事業に対して、かかる練習を経しを感謝す。書中、載するところの鮑魚の卵子を初めて顕微鏡下に発見せし時のごとき、余は歓懐おくあたわず、感涙、滂沱として下り、直ちに祝津(しずくし)村の四方にそびゆる赤岩山の頂に登り、びょうびょうたる日本海に臨み、ひとり万物の造り主なる真の神に感謝の祈祷をささげたりき。日本官吏の上申書に聖使徒パウロの言を引きしがごとき、けだし歴史ありて以来この公文書を除いて他にいまだかつて無きところなるべし。山と海とを造りたまいし神は、この時すでに27年後の余の今日の小事業あるを知りたまいしがごとし。*1 「律法なければ罪すなわち死す」(ロマ書7.7)
2026.05.27
伊藤一隆を葬るの辞 抜粋 内村鑑三・その日、私はその朝、私が読んで大いに感じたところの詩篇第22篇をもたらして彼をおとづれました。・そして私どもの青年時代よりの習慣として、神聖なる場合には英語を用いるを常としましたゆえに、私は英語をもって全篇を読みました。・真暗闇から真光明へ、最大のコントラストに伴う最大の喜び・・・キリストの苦難が信者の喜びの基である「わが神、わが神、何ゆえにわれを捨てたもうや」の声を発したまいしその苦しみが、われらの平安獲得の因を成した・・・私の感想のありのままを述べました。その時の伊藤の喜びはたとうるにものなく、彼はその病体を床の上に起こし、私の手を取り、感謝を繰り返し、・・・人の救わるるは彼がなす事業に由るにあらず、神の子が彼のために流せし血、人の罪のゆえに甘んじて受けたまいし死の苦しみに因るとの、深い、旧い、強い信仰でありました。・・・キリストは、明治の9年、北海道札幌において、英人デニング、米人クラークをもって青年の彼を捕えたまいました。・・・私は伊藤自身がたびたび言うのを聞きました。 ぼくは、なぜ神が、ぼくごとき者をこんなに恵みたもうか、その事がわからない・・・私はここに私の旧友を葬るの役目に当りまして実に感慨無量であります。彼と共に、共同の友人広井勇の葬儀をおこないてより、いまだ半歳に成りません。今またここに、大島、新渡戸の旧友と共に、彼、伊藤を葬らねばならぬ場合に立ちいたりました。いずれも50年来の信仰の友であります。歩みし道は異なりましたが、目ざす目的は違いませんでした。そして私どもの生涯に少しなりと、この世の進歩、幸福に貢献するところがあったとすれば、それはこの貴き知識の結果でありしことを認めます。広井勇の工学の独特なりしも、伊藤一隆の社会事業の一頭地を抜きん出しも、この知識のたまものであります。そして彼の信仰というが決して新しい、いわゆる合理的の信仰ではありませんでした。常に新しい、ゆえに旧(ふる)い信仰でありました。使徒パウロより今日に至るまで変わりしことなき、キリスト教会通有の信仰でありました。 Jesus lover of my soulLet me to thy bosom fly. (*1)とか、または Just as I am without one pleaBut that thy blood was shed for me(*2)とかいう古い賛美歌に表われた信仰でありました。* 1 わがたましいを(Jesus,Lover of my soul)は、チャールズ・ウェスレーの代表作の讃美歌であり、英国の讃美歌の中で最も有名な讃美歌の一つである。1740年に、「試練の時」にと題して発表されたのが最初である。メソジスト運動に対する迫害に危険の中で作られたという説がある。チャールズ・ウェスレーの回心後まもなく作られ、メソジスト運動の起こってから公になった。 Jesus lover of my soul, Let me to thy bosom fly. While the nearer waters roll, while the tempest still is high.Hide me, O my Savior, hide, till the storm of life is past;Safe into the haven guide; O receive my soul at last.讃美歌273 わが魂を 愛するイエスよ 波は逆巻き 風吹き荒れて 沈むばかりの この身を守り 天の港に 導き給え* 2 讃美歌21 あるがままわれを 血をもてあがない イェス招きたもう み許にわれゆく伊藤と信仰談を交えて、事がここに至りますれば、彼の態度は急に厳粛に成り、何か大問題の彼の中心に触れしを覚えました。忘れもしません、昨年10月初旬、私が北海道旅行より帰りて後、間もない時でありました。彼の病のやや重きよしを聞きましたゆえに、私は彼を彼の病床におとづれました。みやげ話はたくさんにありましたが、彼の最も喜ぶのは聖書でありました。その日、私はその朝、私が読んで大いに感じたところの詩篇第22篇をもたらして彼をおとづれました。そして私どもの青年時代よりの習慣として、神聖なる場合には英語を用いるを常としましたゆえに、私は英語をもって全篇を読みました。そしてそれに私の簡単なる註解を加えました。そしてその要点は次のごとくであったのであります。第一節の「わが神、わが神、何ゆえにわれを捨てたもうや」以下第21節までが、キリスト受難の苦しみを預言したる言葉である、実に悲歎きわまりなしであって、読むに堪えざるものが多い、されども第21節後半部に至って調子は一変する、「なんじ、われに応えたまえり」を前置きとして、後は終わりまで、感謝、歓喜、希望の連続である。絶望の声をもって始まりしこの歌は、希望満々の言葉をもって終わる。 民の裔(すえ)の内にエホバに仕うる者あらん 主の事は代々に語り伝えらるべし 彼ら来りて、こはエホバのみわざなりとて その義を、後に生まるる民にのべ伝えんと、真暗闇(まくらやみ)から真光明(まひかり)へ、最大のコントラストに伴う最大の喜びである、そしてこの事は何を示すか、キリストの苦難が信者の喜びの基であることを示す、「わが神、わが神、何ゆえにわれを捨てたもうや」の声を発したまいしその苦しみが、われらの平安獲得の因を成したのであると思うと、私の感想のありのままを述べました。その時の伊藤の喜びはたとうるにものなく、彼はその病体を床の上に起こし、私の手を取り、感謝を繰り返し、いかにも私が彼の旧い信仰を新たに喚起したかのごとく見えました。すなわち伊藤一隆の信仰は、パウロ、アウグスティヌス、ルーテル、カルビンらの信仰でありまして、人の救わるるは彼がなす事業に由るにあらず、神の子が彼のために流せし血、人の罪のゆえに甘んじて受けたまいし死の苦しみに因るとの、深い、旧い、強い信仰でありました。伊藤一隆は、彼が従事せし水産事業や石油事業や禁酒事業に由って救われんとは毛頭思いませんでした。彼が救わるるの希望の岩は、彼の救い主が彼の罪のために流せし、あがないの血においてありました。もし彼のこの信仰のゆえに、迷信または独断をもって彼をあざける者がありますれば、彼は彼独特の常識、直覚をもって、あざける者の無知、浅薄をあざけりました。キリストの十字架抜きのキリスト教は、わが伊藤一隆にとりては、一顧の価値なきキメーラ(妄想)でありました。 前にも述べましたとおり、見ようによっては伊藤一隆は人生の一のエニグマであります。東京は芝神明前の土木請負業者の家に生まれ、純江戸っ子の性を受け、しかも野卑ならず軽薄ならず、悪しき事にはことごとく反対し、善き事にはことごとく賛成し、富を作るの技両(ぎりょう)を有しながら、これをおのがために使わざりしというのであります。彼はいかなる地位についても有用の人物でありました。死に至るまで、人のために尽しました。彼は日本人として最も有利にその一生を使うた者の一人でありました。何が彼をしてかかる人たらしめたのでありましょうか。彼の受けた教育でありましょうか。彼が交わりし友人でありましょうか。否、否と、彼自身が答えます。否、否と、私ども彼の旧い友人が答えます。神の恩寵が彼をして、かくあらしめたのであります。彼は事業家、活動家でありし以上にキリスト信者でありました。キリスト信者である以上にキリストの召しうどでありました。キリストは、明治の9年、北海道札幌において、英人デニング、米人クラークをもって青年の彼を捕えたまいました。そして終生、彼を手放したまわず、彼をもってそのみ栄を現わしたまいました。私は伊藤自身がたびたび言うのを聞きました。 ぼくは、なぜ神が、ぼくごとき者をこんなに恵みたもうか、その事がわからないと。そしてこれ、彼がすでに病にかかり、万事がすべて不如意の時でありました。生気溌剌たる江戸っ子がキリストの捕うるところと成る時に、伊藤一隆のごとき人物が起こるのであります。私はここに私の旧友を葬るの役目に当りまして実に感慨無量であります。彼と共に、共同の友人広井勇の葬儀をおこないてより、いまだ半歳に成りません。今またここに、大島、新渡戸の旧友と共に、彼、伊藤を葬らねばならぬ場合に立ち至りました。いずれも50年来の信仰の友であります。歩みし道は異なりましたが、目ざす目的は違いませんでした。そして私どもの生涯に少しなりと、この世の進歩、幸福に貢献するところがあったとすれば、それはこの貴き知識の結果でありしことを認めます。広井勇の工学の独特なりしも、伊藤一隆の社会事業の一頭地を抜きん出しも、この知識のたまものであります。私どもは信じて疑いません、伊藤一隆をその青年時代に捕らえし者、すなわち昇天せるナザレのイエスが、日本人多数の霊を捕えたもうまでは、日本に目ざましき根本的の改革の起らざることを。日本のキリスト教会そのものが、伊藤一隆の信仰に立ち帰るの必要があります。彼は死して、私どもをして、彼の代わりてこのことを叫ばしめます。諸君彼の声を聞いてやってください。そして彼の生涯をさらに一層意味あるものと成してやってください。彼は死ぬるまで日本国のためを思いました。彼を弔うの唯一の道は、彼のこの無私無欲の志を立ててやることであります。私は彼に代わりて、ひとえに諸君に願います。 付録伊藤は明治5年、すなわち私より2年前に、札幌において、英国聖公会宣教師デニングよりバプテスマを受けたのであって、いわゆる札幌バンドの内で最初のキリスト信者であった。後に、メソジスト、長老(日基)、聖公会の三派が合同して札幌独立基督教会を作りし時に、彼は聖公会を代表して新教会の柱石の一人となり、死に至るまで、その忠実なる会員また維持者としてかわらなかった。また旧札幌キリスト信者の内で、直接に「聖書研究社」の事業に対し実際的同情を表してくれた、きわめて少数者の一人であった。彼はしばしば柏木聖書講堂の講壇に立ち、単純なる十字架の福音を説き、彼独特の家長的祈祷を捧げてくれた。彼は東京基督教青年会の理事であったが、大正8年(1919年)に、同会が私に対してその講堂使用を断わりし時に、私に同情して理事の職を辞した。彼は多くの事において私の善き相談相手であった。昨年(1928年)6月2日、私どもの受洗第50年記念日に、青山墓地において、M・C・ハリスの墓前において、旧友5人に代わり祈ってくれたのは彼であった。今やこの人逝(ゆ)いて、大なる寂寥を感ぜざるを得ない。 (1929年2月『聖書の研究』)
2026.05.27
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