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大智禅師偈頌講話 澤木興道偶作 その9【偶作】 寂光明土娑婆界 (寂光明土娑婆界)色裏膠青水上波 (色裏の膠青水上の波)浩浩村歌兼社舞 (浩浩たる村歌と社舞と)負恩者少報恩多 (恩に負く者は少なく恩を報いるは多し) それを下の二句で「浩浩たる村歌と社舞と」といっておる。この浩浩たる村歌というのは、これは田舎の百姓が濁酒(どぶろく)を飲んで歌う歌のことである。別にドレミファという音楽に合うのでもなければなんでもない。ただなんとなしに、節なしで口ずさむ。それが浩浩たる村歌である。 それから「社舞」というのは、お宮さんの太鼓を叩いて踊ることをいう。あるいは盆踊りでもいい。それ故「浩浩たる村歌と社舞」というのは、通常民衆の一切の生活のことである。一切の生活が、どれも悪いということはなんにもない。泣くも笑うも、寝るも起きるも、一切がそれでどれも悪うない。「恩に負く者は少なく恩を報いるは多し」ということは、その身そのまま、これが仏作仏行である。その身そのまま、そのなりでいい。ただ心の持ちよう一つであるということである。同じ坐禅でも、させられるのは、なんでもない話である。 たまたま坐禅するところがあれば、そこには大抵坐禅させられておるやつがおる。後から出欠を取って歩いておる。本山あたりではー。出席簿を持って、坐禅の帳面を持って歩いておる。駒澤大学でわたしは坐禅を必修科にしたが、今日になってみると、えらいことをしたと思っておる。わたしは最初はしたい者にさしておったが、後に出欠を取って必修科にしたところが、しとうてする者はのうなった。ぜひともさせられるから、もうはや、しとうてする者はのうなった。 昔われわれが勉強するのは、大抵勉強しとうてしたが、今の書生は勉強させられる。それは、大抵、勉強嫌いじゃもの。勉強の好きなやつは、滅多に今の書生におらん。それだから碌なやつは出ん。このごろ出るやつはついついと出てしまう。やっと試験さえ通ったらいい。昔の者は勉強の嫌いなやつはせん。好きでやるのだから偉いやつが出ておる。 ところが、この頃は慢性になっておる。勉強嫌いが学生なみ。それで試験、「ウワー、仕方がない」一週間やる。それでもいかんやつは、カンニングをする。そんなことをしても、どうでもこうでも通らんならん。それだから勉強地獄もある。勉強がいやで勉強するんだから学校というものも地獄である。そこで、坐禅もさせられるなら、坐禅地獄、念仏もいやいやさせられたら念仏地獄、坊主もいやいやしておるなら、坊主地獄である。 そうすれば、好きでしておれば、土方でも仲仕でも、そこに浄土があるわけである。それが極楽である。だから、娑婆即寂光浄土というのは、そういう生活をいう。その身そのままだから、「恩に負く者は少なく恩を報いるは多し」である。これは偶作である。大智禅師がとりとめもなくこれを作られた。 だからそこに、人間はどう工夫して生きんならんか、どう生き方が本当か、その一番大切なことがこの一つの偈頌の中に、そっくり出ておる。だから人人は、これは自分のこととして、深く味わわねばならぬ。(大智禅師偈頌講話p.209-211)
2026.09.26
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「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」の本は、初版(2016/12)と「報徳の師父第一集」と附した改訂版(2022/12)がある。静岡県の公共図書館では21館で35冊蔵書となっている。御殿場市2件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 報徳の師父第一集遠州報徳の師父と鈴木藤三郎河津町1件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎東伊豆町1件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 ―報徳の師父第一集森町2件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 -報徳の師父第1集ー遠州報徳の師父と鈴木藤三郎袋井市3件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 報徳の師父第一集遠州報徳の師父と鈴木藤三郎小山町1件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎富士市1件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎静岡県立農林環境専門職大学2件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 報徳の師父第一集掛川市2件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 新版遠州報徳の師父と鈴木藤三郎磐田市1件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎静岡市2件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 (報徳の師父 第1集)遠州報徳の師父と鈴木藤三郎裾野市1件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎静岡県立中央図書館2件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 報徳の師父 第1集遠州報徳の師父と鈴木藤三郎三島市1件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎菊川市2件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 新版遠州報徳の師父と鈴木藤三郎沼津市1件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎下田市1件遠州報徳の父と鈴木藤三郎湖西市2件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 ー報徳の師父第1集ー遠州報徳の師父と鈴木藤三郎浜松市2件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 報徳の師父 第1集遠州報徳の師父と鈴木藤三郎牧之原市3件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 報徳の師父 第1集遠州報徳の師父と鈴木藤三郎遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 -報徳の師父第1集- 新版藤枝市2件遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 新版(報徳の師父)遠州報徳の師父と鈴木藤三郎💛「風薫る」の最終回のひとつ前でシマケンがりんに看護についての本を書くよう勧める場面が出て来る。そして最終回に出来上がった『実地看護法』が登場する。シマケンの言葉はリンの心に届いたのだ。「いつか僕らはいなくなっても、本は残る」「その本は、あとに続く人の道標(みちしるべ)になる」実に「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」から始まる「報徳の師父」シリーズが「あとに続く人の道標(みちしるべ)」になればいいなあ(^^)「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」目次一 訳注「静岡県報徳社事蹟」(遠州地方)・・・ 2(一)二宮尊徳小伝 ・・・・・・・・ 4(二)報徳の起源 ・・・・・・・・ 12 (三)報徳の大意 ・・・・・・・・ 13(四)安居院庄七の伝 ・・・・・・・・ 15(五)静岡県における報徳の沿革 ・・・・・・ 22(六)遠江国報徳社 ・・・・・・・・ 23(七)報徳遠譲社 ・・・・・・・・ 29(八)報 本 社 ・・・・・・・・ 37二 遠州報徳七人衆 ・・・・・・・・ 43三 福山滝助翁 ・・・・・・・・ 47四 岡田佐平治翁小伝 ・・・・・・・・ 62五 山中家報徳三兄弟略伝 ・・・・・・・・ 82六 鈴木藤三郎(一)鈴木藤三郎君立志画談 ・・・・・・・・ 103(二)米欧旅行帰国後の鈴木藤三郎 ・・・・ 122(三)「ドラマ発明王鈴木藤三郎の報徳」 ・・ 131「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」の構想は何度も試みては中断を繰り返していて、12月17日講演会テキストとして最後の編集にあたっていて、あらあら目次が出来上がって来た。当初は報徳教師荒木由蔵なども資料集に入れるつもりだったが、史料の典拠を確認できず、またページ数がふくれあがってしまうため、資料集としては福山滝助、岡田佐平治、山中家報徳三兄弟に絞った。本集は「鈴木藤三郎顕彰シリーズ」の第二集の資料編にも相当する。「鈴木藤三郎顕彰シリーズ」は、砂糖王鈴木藤三郎をテーマにしたもので第3集として一番最初に発刊した。次に報徳社徒鈴木藤三郎をテーマとした第一集を刊行した。当時よく「なぜ最初の本が第3集なのですか?」と聞かれたものである。実は森町で第2集のもととなる「鈴木藤三郎を産んだ遠州報徳」のテーマで講演したことがあって、その資料集が 第2集 がシリーズの構成の一部をなしていたので、最初の本を第三集としたのである。第三集を台湾の高雄で印刷するについて大変お世話になった利先生がお亡くなりになって、日本の友人を代表して告別の会(キリスト教式)に出席し、台北に戻ってきたとき、Jさんと夜会食したことがあった。Jさんが「第2集でなぜ過去にさかのぼるのですか?」と聞かれ、「スターウォーズでエピソード、サーガの世界、祖父の世界にさかのぼるようなものです」と答えたら、笑ってそのたとえを喜んでくれた。実は第二集の刊行は森の元気屋さんに托してあり、幻の第2集のものであるが、このたび、袋井市講演会のテーマを「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」としたことから、幾度も試みては断念した鈴木藤三郎シリーズ顕彰第2集の資料編の構想をなんとか実現するにいたった。いろいろと不備はあるのだが、遠州報徳を史料集(読んでわかりやすくするために現代語訳とした)として世に提供することは意義のあることであろう。本資料集が全国の大学図書館・公共図書館で蔵書となることは、実は「報徳記を読む」を補う別集(静岡県における報徳運動)となることにほかならない。本資料集によって日本全国に遠州報徳と山中家報徳三兄弟、その土壌から生まれ出た鈴木藤三郎の「報徳の精神」を顕彰できよう。鈴木藤三郎の「願文」に感動したことから鈴木藤三郎顕彰シリーズは始まった。実に感動こそが人間における本当の事業の推進力にほかならない。
2026.09.25
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「ユマニチュード」という革命 ユマチチュードの4つの柱「3 触れる」その4p.212 ケアする人が仕事で最も使うツールは手です。しかしながら、その手をどう使ったらいいかという授業を受けていません。しかも触診は減り、すぐにCTスキャンや血液検査が行われます。手で相手の体の声を聞く機会はほとんどないのです。 私は機械工のアルバイトをしていたことがあります。機械にヤスリをかけることから習いました。それにはヤスリをどう持つかを学び、慣れなくてはいけません。同じくケアをする人も手の使い方を学ぶ必要があります。 たとえば、看護師ならば背中を撫でて、「あ、ここが痛いんですね」ということを感じなければいけません。ケアの方向がいるも「してあげる」と与える側であれば、手で相手からの情報を感じ取ることができません。ユマニチュードを学んだ看護師のほぼ全員がこう言います。「触れたら相手が喜んでいるか痛がっているのか、わかるようになった」 ケアの最中に患者が叫ぶときがあります。でも、叫び声が出る前に、実は体で「いやだ、いやだ」と10回ぐらい伝えているはずです。しかし、触れ方の研修を受けると、それがわかるようになります。 日本人は幼児のころはともかく、大人になると互いに親密に接触する機会があまりないにもかかわらず、ユマニチュードの触れ方に対して戸惑う人はほとんどいません。理由のひとつは、看護師・介護士は義務感がとても強いからです。「これは仕事です。この人はこういう触れ方をすることによって心地よくなります。ご本人が必要としているのです」と言えば、この重要性を理解し、真面目にそれを実行してくれるのです。 もうひとつは、日本人は触れることへの渇望があるからだと思います。実際、看護師・介護士は患者に触れる、優しく抱くことをすごく喜びに感じています。ほかの国よりもその傾向は強いと思います。「このようにやさしく触れてもいいのだ」という気づきが、従来のケアのあり方を見直すきっかけになっているようです。看護師や介護士の人たちはすごく自由に感じているのです。日本人は触れること、触れられる機会が少ないだけに、それらをすごく大きな贈り物だと感じているのだと思います。フランス発「魔法の」認知症ケア 「ユマニチュード」考案者 イヴ・ジネスト氏 毎日新聞2018年8月20日 東京朝刊 ――ユマニチュードはどのように生まれたのですか。 ユマニチュード(humanitude)は、人間らしさを取り戻すことを意味するフランス語の造語です。具体的には400を超えるケアの技術があり、それらは、「見る・話す・触れる・立つ」に関するユマニチュードの四つの柱=1=を基に考えられています。私は大学で体育学を修め、フランスの公立学校で体育教師をしていました。介護の現場に関わるきっかけは1979年、フランス国内の病院で働く看護師らの腰痛対策に取り組んだことです。政府から職員の教育担当として派遣され、患者の動かし方に関する研修を行うのですが、現場で目にしたのは、とてもショッキングな光景でした。当時、暴れる患者を拘束するのは当たり前。動く患者は面倒なので、寝たきりになることをよしとしていました。患者は「重たい荷物」と同じで、移動させるため多くの看護師が腰痛に苦しんでいたのです。私が学んできた体育学では「動くことが健康である」というのが大前提でしたから、強い疑問を感じました。そこで私は、寝たきりの患者を起こすことを決意しました。亡くなるその日まで、人間として他者から見つめられ、触れられ、話しかけられ、自分の足で立つべきだと考えたのです。それを実現するために、同僚とともに患者との関わり方を見直し、さまざまなケアを試行錯誤しながら生まれたのが、ユマニチュードです。 ――導入した病院などから、暴力や歩き回りといった認知症の「行動・心理症状」の軽減も報告されています。 認知症になると、食事や入浴を拒んだり、暴力的になったりといった、理解不能な行動をすると考えていませんか。そうした行動には必ず理由があるのです。認知症は新しい記憶を保つことができなくなる病気です。進行すると、自分がいる場所や、人の認識ができなくなります。認識できる視野も狭まり、すぐ隣で話しかけられても気づきません。そんな状況で、オムツを替えると言って、突然、知らない人の手が下着をはがそうとしたらどうでしょうか。知らない人から手をつかまれたら? 怖く、不安なはずです。認知症の方の視点で考えると、患者の抵抗のほとんどは自然な「防御」なのです。ユマニチュードは、出会いから別れまでを五つのステップ=2=に分け、一連の手順を踏むことでこうした不安を和らげ、相手の心をつかみます。関係を築いた上でケアを行うのです。 現状では多くの場合、こうした行動・心理症状を薬で抑えようとします。認知症者への薬物の過剰な処方が世界的に問題になっていますが、ユマニチュードは薬を減らす上でも大きな成果を上げています。パリのある高齢者専門病院では、ユマニチュード導入前(2005年)と導入3年後(08年)の比較で、抗うつ薬や抗不安薬といった向精神薬の処方が88%も減りました。 ――ユマニチュードの実践施設では、患者の過ごし方も違うと聞きます。 実は私の両親も認知症でした。困ったのは、2人が一緒のベッドで過ごせる施設がないことでした。両親は70年間、毎晩同じベッドで寝ていたので、一緒に寝ないことは考えられませんでした。しかし、病院の伝統として、一つのベッドに1人の人間という「常識」があるんですね。認知症になって施設に入ると、愛する人やペットと過ごせないのは当たり前で、ほとんどの場合は飲酒も禁止です。特に誰も気にしていないようですが、これらは深刻な人権侵害だと私は思うのです。結局、母が亡くなるまで両親は施設に入らず、家で過ごしました。ユマニチュードを実践するフランスの施設では、愛する人と同じベッドで寝ることは、もちろん許されます。ペットと暮らすこともできます。人権は、認知症になっても全く変わらず続きますから。 ――日本の施設も数多く視察していますが、改善すべき点はありますか。 初めて日本に招かれた12年以降、数十の施設を視察しました。ベッドで終日過ごす高齢者は多く、身体を固定するケースも非常に多いと感じました。こうした身体の抑制は転倒を防ぐために行われていますが、逆に本人の立つ能力を奪っています。日本の看護師や介護士が「認知症者の尊厳を重要視していない」とは思いません。みな強い使命感を持ち、優しい心で患者に接しています。ただ、技術が足りないだけなのです。 そのような中、日本でも、6年間で4000人を超える看護・介護の専門職がユマニチュードの研修を受け、20施設以上が本格的な導入を進めています。また、福岡市は16年から、市の認知症対策にユマニチュードを取り入れています。家族介護者を対象にした研修では、介護の負担感が軽減されたという結果が出ており、今年4月からは、市内の小中学校や地域の一般市民への研修が順次始まっています。自治体としては世界初の取り組みです。 ――日本ではまだ「認知症イコール絶望」といったイメージが強いです。 認知症の人が家族を認識できなくなると、家族は愛する人を失ったような悲しみに襲われます。しかし、その人の中に、子や夫、妻を愛した感情は残っています。92歳で亡くなった母は、私が息子だと分からなくなっても、息子を愛する気持ちを忘れることはありませんでした。母の2年後に94歳で亡くなった父は、介護をする私に毎日「愛している」と言ってくれて、私自身も初めて父に「愛している」と直接伝えることができました。認知症は、介護する家族をより深い人間に成長させてくれる贈り物だと考えています。 聞いて一言 自分や家族がいつか認知症になると想像することは、私にとって恐怖だった。認知症は人間としての尊厳を奪い、周囲の人を疲弊させると思い込んでいたためだ。しかし、ジネスト氏の話を聞き、こうしたイメージは、周囲の無知や不適切な対応によって生み出された誤解であると気付かされた。人は認知症になっても、最期までその人らしく生きることができる。多くの人がこうした考え方を知り、接し方の技術を学べば、「認知症イコール絶望」ではなくなるだろう。 ■ことば 1 ユマニチュードの四つの柱 正面から、同じ目線の高さで、長く見つめる▽ 優しく、歌うように、ポジティブな言葉で話しかけ続ける▽ 手のひら全体で、ゆっくり、包み込むように触れる▽ 1日に計20分は立つ時間を作り、患者が寝たきりになるのを防ぐ --という基本技術。これらを組み合わせて相手とコミュニケーションをとる。 2 5つのステップ 相手と良い関係を築くため、 (1)ノックなどで来訪を知らせる (2)正面から視線を合わせ「あなたに会いに来た」と伝える (3)見る・話す・触れる技術を常に二つ以上使ってケアを行う (4)受け入れてくれたことへの感謝などを伝え、ポジティブな感情を残す (5)また来ることを伝える--といったアプローチ方法。
2026.09.25
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陸上100mで17歳女子が「11秒06」の衝撃 爆発的な加速「正気の沙汰じゃない」中国の逸材が大会新【アジア大会】9/26(土) 愛知・名古屋アジア大会は25日、パロマ瑞穂スタジアムで陸上の女子100メートル決勝が行われた。優勝したのは中国の17歳チェン・ユージエ。11秒06(-0.4)の大会新記録をたたき出し、生中継したTBS系列などで視聴していた日本ファンも衝撃を受けていた。アジアの若き才能が、愛知で驚異的なタイムをたたき出した。チェンはスタート直後から先頭に立つと、グングン加速。後続を引き離し、大会新記録の11秒06。ゴール直後に両手を突き上げ、優勝を喜んだ。動画 20歳以下のアジア記録も塗り替えた。17歳の爆発的なスピードにX上の視聴者も仰天。「これまたとんでもない歴史的な選手になりそう」「17歳で11秒0台とか正気の沙汰じゃない」「まだ17歳とか末恐ろしすぎる」「すごい速さ」などと反応していた。
2026.09.26
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アジア大会 山下一貴が独走金メダル!日本勢2大会ぶりの快挙 35キロ地点で一気に突き放す ゴール後にはスタンドへ笑顔の一礼「ホッとしてます」万雷の拍手に包まれる9/26(土) 動画「アジア大会・男子マラソン」(26日、パロマみずほスタジアム発着) 日本代表の山下一貴が独走で日本勢2大会ぶり7度目の金メダルを獲得した。ゴール直後にはスタンドに向かって一礼し、最高の笑みを浮かべた。タイムは2時間10分49秒。観衆からは万雷の拍手が送られた。 序盤から先頭集団を引っ張る形となった山下。17キロ地点で吉田が先頭集団から脱落する中、懸命に踏ん張った。30キロ地点の上り坂で一気にスパートをかけると、一時は先頭に。その後、インドのバルワルと北朝鮮のハンがペースを上げて3位に交代したが、35キロ付近で3人並走の形となった。 すると一気に北朝鮮のハンを置き去りにし、並んでいたバルワルも突き放した。母国開催で独走態勢となり、じわりじわりと後続との差を広げ、40キロ地点ではバルワルを100メートルほど引き離し、スタジアムに戻ってくると大きな拍手がわき起こった。最後は独走状態でゴールテープを切った。 インタビューでは「ホッとしてます」と第一声を発した山下。「先輩方がメダルを取ってきているので。周りの期待も大きかったので、金メダルを獲得できてホッとしています」と明かし、「今回は優勝を目指していてプレッシャーがきつかった。解放されてめちゃくちゃうれしいです」と表情を緩めた。 山下は2023年の世界選手権代表以来となる日の丸のユニホーム。国際大会で歓喜のゴールとなり、2018年のジャカルタ大会・井上大仁以来となる金メダルを獲得した。
2026.09.26
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「技術力のある国」ランキング・トップ15 米誌Jan 8 2023◆1位:日本技術的専門知識スコア:100.0 日本の技術的専門知識のスコアは100.0となり、調査対象の全73ヶ国のなかで唯一満点を獲得した。「イノベーション」「熟練した労働力」「デジタルインフラの発達」でも100.0のスコアを確保したほか、「教育人口」「(物理的)インフラの発達」でも99点台を記録しており、高いレベルを誇っている。 これらの属性を含む「起業家精神」のサブカテゴリ全体では96.9点となり、こちらもドイツとアメリカに次ぐ世界第3位の高さとなった。ランキングを発表したUSニューズ&ワールド・リポート誌は、日本は東洋の伝統と西洋の文化を生活様式に取り入れて融合させており、また、世界で最も識字率が高く、技術的にも最も進んだ国の一つだと評価している。◆2位:韓国技術的専門知識スコア:97.3◆3位:中国技術的専門知識スコア:96.2◆4位:アメリカ技術的専門知識スコア:92.7・日本の産学官を合わせた研究開発費、研究者数は主要国(日米独仏英中韓の7か国)中第3位・日本のパテントファミリー(2か国以上への特許出願)数では世界第1位、・ミディアムハイテクノロジー産業貿易収支比においても、日本は主要国の中で第1位・注目度の高い論文数は中国がカウント法によらず全ての論文種別で第1位(5万4405編)ただし、中国の動向については自国からの被引用の影響も大きい・2位は米国(3万6208編) 3位は英国(8878編) 日本は13位(3767編)
2023.08.14
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【競泳】ガラガラ声の池江璃花子 本命種目・50mバタで銅メダル死守「とにかく取りたかった」9/25(金)体調不良でも戦い抜いた。愛知・名古屋アジア大会競泳女子50メールバタフライ決勝(25日、東京アクアティクスセンター)、池江璃花子(横浜ゴム)が25秒97をマーク。本命種目で銅メダルを獲得した。 前日の50メートル自由形は前日体調不良を理由に棄権。それでも、この日は粘り強い泳ぎで表彰台を勝ち取り、今大会2個目のメダルを手にした。「タイムは置いておいて、とにかくメダルを取りたかったのでうれしい」と安堵の表情を見せた。取材時の声はガラガラ。万全な体調ではなかったが、強い気持ちで耐え抜いた。「あまり上手く泳げずに詰まったところもあった。大丈夫かなと思ったけど、タッチまで絶対にメダルを取ると思って泳いだ。今日は体調を言い訳でずに全力で泳いだ。タイム的には良いわけじゃないけど、今回はメダルを取ること、前回大会よりもいい記録で終わることが目標だったので、どっちも達成できてよかった」と笑みを浮かべた。
2026.09.25
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念共讃裡(ねぐさり)抜粋序第一篇 求法駅長をやめて来いシャンとせぬ心毛一筋の望み後生一大事とは楽屋住まい浄玻璃鏡 ただ念仏して 蚊と暑さに悩まされつつ、河崎の夜はあちらにもこちらにも居眠りが始まります。かすかに一人か二人のご相続しか聞こえません。 和上静かにご出座あって、暫くご相続の後、「私が博多へ行っている時、突然家内と下津のおばあさんとがやって来まして、『兄さんが娘を女郎に売るというので、あなたに知らせずにおいてもと思い、ワザワザやって来ました』という。その値(あたい)75円なり。ハハハハハハ」と面白く朗笑されるように、皆坐睡から覚めて、蚊の食うのも忘れました。「それから家内達がいうのに、『こちらに来るとすぐあなたのことをお尋ねしましたが、誰一人としてあなたを知りません。コラどうした事じゃ、不思議な事じゃ、この長い間に誰一人村田を知らんとは一体どうじゃろう?全体何をしていたのです』と、恐ろしい剣幕。 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏その当時、私はご相続専一にと心がけ、ちょっとの間でも懈怠せむようにと、人様や友達に遇っても何ともいわず、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と頭を下げるだけでしたから、皆がこれが村田じゃということを知らんんだのでしょう。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏その時、私は家内に、ソラ良かろうーというてやりました。家内たちは私にどうぞして売らぬようにさせたいものと、わざわざやって来たのですから、その返事を聞いてポカンとしましてなア。娘を売るということはただごとではありません。何かのお引き合わせでしょう。今更仕方がない。かえって結構な事かもしれん。寺に生まれた者が勤め奉公をするというのは誠に有難い。南無阿弥陀仏。」 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 和上沈痛な面持ちでその当時の様子が、サモ偲ばれるが如く有難く頂かれて、「昔は寺というものは威張ったもので、寺の判がないと旅ができなんだものじゃ。この者はヤソ教信者にあらず。浄土真宗の者なり。という判をおしてやったものですから、威張っておりましたわい。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 その後、娘が売られて四日市から桑名、東京と行って東京で「八ツ橋」という名で出たそうです。-八ツ橋は代々続く名でしてーそれから私が東京へ行った時、八ツ橋を見受けして帰りました。興津で水害に遭い、汽車は通わず、食物はなく、たくさんな荷物を私が肩の前と後ろに掛けましてなあ・・・・・。」と手振り面白く笑いながら語られるように、ツイ「ご法話を聞いて居る時でも口の中ではお念仏忘れんように」とのご意見すら忘れがちであります。「坊主が死ぬと牛になるという事じゃが、はや今から牛かいなーと思いましてなア。一身田(いっしんだ)に来てもなかなかの水害で困難しました。道中いっぱいに水が流れておるなかを、八つ橋が立派な下駄をはいたなり、ジャバジャバと行くのでー。脱いではどうじゃ?といいますと、八ツ橋ごうきに 叔父さんけち7ですな!」と和上面白そうに声を細めて女らしくマネせられる。「と言いましてもなあーハハハハハなかなか贅沢をしておりました。大琴から小琴などとー。それで一遍兄貴のその日暮らしの難儀さを見せてやろうと連れて行きました。南無阿弥陀仏。私は兄弟八人ありまして一番弟でしたのでー」とまた和上の傘屋の話が始まります。何遍聞いても聞きあかぬ和上のお若い時の苦心談。涙なくしては聞けぬのに面白い諧謔につり込まれて、もったいんくも笑ってしまうお粗末さ。「それである傘屋から養子にもらいに来ました時、私が一番末子じゃったので仕方なく、行くことに決めましたら、向う様は、「アンナどもりはいらん。」といいましてなアーハハハハハ。その頃、私はたいしたどもりでしてー。これを私が障子の向こうで聞いておりまして、ヤレヤレ!。と安心しましたハハハハハ」時々唇を動かされてはご相続を忘れぬようにとやるせないお心づかい。「先年もその養子娘じゃった婆が来まして、「あの時、和上さんを養子にもろうておきさえすれば、コンナに貧乏はせなんだじゃろうにー」とエロウ惜しがっておりました。ハハハハ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。それで兄が養子に行くことにんりました。この兄が貧乏していてくれたればこそ、私が念仏門に入らして頂いたのです。もし兄が住職していたら、私は今頃何になっております事やら・・・・・。」有難いその清揚哀亮(しょうようあいきょう)のお声は、一同深法忍(じんほうにん)を得る心地して静まる。「その八つ橋が言いますのに、 私が長らく勤めをしていて、一番気の毒に思いましたのは、ある大家の息子さんが二人も私の為に身投げをしました。この事だけは忘れませんとなアー これを聞いて有難うござんした、南無阿弥陀仏。」と最後の一言は合掌されながら余音嫋嫋と響いて、何のご説明もなしに夜のご縁を終わられましたのは、いまだにあれかこれかと頂かれて、尊い法忍の三昧境に耽るのであります。
2026.02.24
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念共讃裡(ねぐさり)抜粋序第一篇 求法 駅長をやめて来い じめじめと降り続く五月雨(さみだれ)のある夜であります。参詣の方々は悦びに満ちた高らかな、お念仏ご相続をしておられるのに引きかえて、私一人はどうつねってみても、たたいてみても有難くもなければ、嬉しくもなく、ただ泣きたいような気持に乱されて、はてしなき妄念妄執に悩まされておりました。 尊いこの法筵(ほうえん)を汚す大罪人!いまだこの法筵につらなる資格なし!などと何十棒かを打ち込んでは、己れの不法を励ましました。 もう、お出ましになるだとうとだろうと、和上(わじょう)のご出座をねごうていると、一同のお念仏が親を慕う子の叫びのごとく味わわれて、ふけゆく短か夜の河崎に和上を迎える念仏の声がみなぎりました。 暫くして和上静かにご出座あって、丁寧な合掌の後、感慨深げにポツリポツリと、「この山田の駅長をしておられた、古川さんという方がこの間、ここにこられましてな、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏その古川さんが始めてここへ参ろうと思われたのが、また妙ですのやー。あの山田の駅を乗り降りするたくさんの人の中に、大声で南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏と念仏を称えて、この河崎へ往き還りする者が相当にある。それを他の伊勢参宮の人たちが嘲り笑ったり、嫌ったりするけれども、一同、平気で南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏とやっている。それを駅長さんが始終見ていて、ああいう気持ちになられたらー。ああ無我になることができたら・・・・・・と思ってここへ訪ねて来られまして、「どうぞ仏法を聞かせてください。」「それなら、駅を止めてからお出でなさい。」「それはー困りますが・・・・・・。」「困るようならもうお帰りなさい。話は簡単ですのじゃーハハハハ。」「それでも私が駅へ出なければ、家内や子供を養ってゆくことができぬようになります。」「そんな安っぽい仏法じゃごわせんわい!南無阿弥陀仏。」和上暫く瞑目念仏相続の後、「それから十日ぐらいたってから、また駅長さんが見えましてなー。」「もう駅長を止める決心がつけて来ましたから、どうぞお聞かせてください。」「さようかー。それは結構。」南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏「駅長さん!それではなあーここへ晩だけお出なさい。それで晩の6時頃までは、ここに来るまでの時間を待つーというつもりー駅へ出てよろしい・・・・・・それなら駅長を止めんでもよろしいなあー。止めた気持ちで時間を待つー。」南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏「そういうふうでここへ来られるようになりましてなあー。それからだんだん昇進されて今では大阪の運輸局長とやらになって。この間も高等官のピカピカでやって来られました。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」
2026.02.14
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182「報徳物語」井口丑二著より2 桜町広沢平八氏(桜町の属する物部村村長)桜町陣屋跡は、敷地5反5畝歩及び建物とも個人の所有であったのを、先年遠州報徳社で買収して、今市の二宮神社に寄付したのです。家はよほど傾いていたのをおこして手入れをしたのです。家はその後、下野報徳本社が、ようやく今市から買い戻したのですが、敷地も代地を買ってやって、今市と交換しようと計画中です。報徳の仕法は万事命令的で、はなはだ窮屈であったので、維新の政変とともに破壊されて、一時は村民も報徳のご恩を忘れていたが、明治17,8年頃から、遠州の岡田良一郎氏等が来て、毎度講話遊説をしたので、それに呼び覚まされて、始めて報徳結社をしたのが明治21年でありました。それから50年祭のとき、陣屋跡の神社を作り、神園を開いたのであります。報徳文庫を以前横山平太氏が陣屋の裏の田の中に建てて、村内に存する種々の遺書類をぼっしゅうして保管しましたが、明治25年に火災にかかって全焼したので、今は村内に一枚もありません。いわば一所に取り集めて焼き捨てたようなことで、誠に残念でした。翁が与えた家屋は、今100戸くらいは現存しております。それは全くタダで与え、あるいは年賦で貸したので、家は家族の人数、耕作地の多少等によって数等に分かれ、分相応に作りました。たいてい中等農民の家が20両くらいでできたもので、これを5年賦1カ年元恕金で貸し付け、その金をもって翁が一々指揮監督して、家を建ててやったのです。陣屋構内に元工場があったのは、この工事をするのでしたが、その他、農具、肥料、種子まで、あるいは貸与し、あるいは恵与し、撫育保護いたらざるなく、尽くさざるところなしでした。翁の精力は、もとより絶倫でありまして、青木村へ100日以上も通われましたが、3里のところを、毎朝村民の朝飯前に到着したので、後々は村民もこれに恥じて、勉めて早起きをなし、翁の到着前に仕事を始めるようになったそうです。翁はそれから日暮れて帰り、かの泉水(足洗池)でコッソリと足を洗って、晩餐をなし、晩餐後、さらに三カ村を巡回して、村民の勤惰を偵察し、3月、7月、12月の3度、その成績を調べて褒賞を行ったのですが、一つも誤りはなかったと申します。翁は最初名主格で赴任されたのですが、3村にはそれぞれ名主がある。名主格をもって名主を治めるは、下役をもって上役を治めるので到底行われようはずがない。むろん命令を聴きませんので、やむをえず一度引き取って、本藩に上申し、翌年翁も用人に昇進し、なお用人横山周平、目付豊田正作を伴い、家族もひきまとめて赴任し、全く懸命の覚悟で従事され、これからようやく成功されたので、それまでの艱難苦労は、誠に非常であったそうです。
2026.07.18
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木谷ポルソッタ通信 北の田舎から来たおもとだち北海道という名の田舎から友人が来た。「どこへ行きたい?」「ちっちゃいところへ行きたい。」私の質問に友人はそう答えた。 ちっちゃいところ・・・・・・そうだよな。広大な田舎で日々生活をしている友人だ。たまには、ちっちゃいところへ行きたいのだろう。うん、わかった。ちっちゃな盆地『由布院』へ、私は友人を案内した。 「どこの家にも柿の木がある!」友人は驚きながら叫んだ。北海道には柿の木がないのか。柿の木の北限は山梨らしい。私は初めて知った。私の方が驚いた。田舎の秋という季節には、やはり柿の木がなくてはならない。 「いいな。竹林がある」今度は竹林を見ていた友人がうっとりとした声で言った。エッ、北海道には竹もないのか。そう、竹の北限は青森らしい。北海道には笹しかない。そう、現在、アイヌの人たちが吹いている竹製の口琴さえも、昔は、木で造っていたらしい。 由布岳を見ながら、私は佇(たたず)んだ。心を静かにした。田舎の風景をつくる柿や竹林がないという北海道に、私は想いを馳(は)せた。 そうだよな。柿の木や竹林は、北海道には似合わないよな。それぞれの田舎には、それぞれの風景をつくるそれぞれの自然があるのだ。私はこぶしを堅く握った。 「ちっちゃな田圃(たんぼ)ばかりだよな」友人は嬉しそうに微笑んだ。微笑みながら、私を振り向いた。「広い大地があるけれど、厳しい気候に耐えて生きている北海道。狭いけれどゆたかな自然に囲まれてい生きている由布院・・・・・・みんなそれぞれの田舎で頑張って生きているんだな」 川沿いの小径を歩いて、私たちは金鱗湖へ出た。「これが金鱗湖(きんりんこ)ですか・・・・・・これが湖か。秋になると霧の漂う金鱗湖なのですが・・・・・」友人は呆然と金鱗湖を眺めていた。 おいおい、霧の摩周湖と比較しないでくれないか。阿寒湖と比べないでくれないか。由布院はちっちゃいことを自慢する田舎なんだ。「ちっちゃいところへいきたい」そう言ったのはあんただろう。なあっ、ちっちゃな湖だろう。 ちっちゃな由布院を十分に楽しんだ友人は、広い広い北の田舎へ戻っていった。
2026.08.08
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女子3x3日本代表、奇跡の大逆転で史上初の金メダル! 予選リーグ敗退の危機から頂点へ【アジア大会】■第20回アジア競技大会 バスケットボール女子3X3 決勝 日本ーフィリピン(25日、金城ふ頭駅前特設コート)女子3X3日本代表は、決勝でフィリピンと対戦し、21-11で勝利し、金メダルを獲得した。予選リーグで1勝2敗とプールB3位となり、決勝トーナメント進出決定戦に回った日本。そこから一気に決勝の大舞台で最後まで粘り強く戦い、アジアの頂点に立った。2018年大会から採用された『3X3』18年のジャカルタ大会で銀メダル、続く杭州大会で銅メダルを獲得した女子日本代表が初の金メダルを手にした。試合は序盤から堀内桜花(20)のツーポイントシュートなどで得点を重ねリードした。ディフェンスでもフィリピンに簡単に打たせないなど、日本のペースで試合を進めた。予選リーグ プールB第1戦:日本 8-12 チャイニーズ・タイペイ第2戦:日本 16-18 イラン第3戦:日本 19-11 ウズベキスタン決勝トーナメント進出決定戦:日本 17-16 マレーシア準々決勝:日本 17-16 中国準決勝:日本 19-8 韓国
2026.09.26
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念共讃裡(ねぐさり)抜粋序第一篇 求法駅長をやめて来いp,11 シャンとせぬ心 近ごろ、四国の某居士より同一念仏録を恵送される。先哲の違芳親しく拝見し、(村田)和上亡き今、こよなき恩師の大獅子吼を謹聴する心地がす。同署14ページの30を拝するに、かつて小庵に徹宵しつつ夢中庵卯八(ぼうはち)居士に聴いた感銘の章である。曰く、 越中の人にて、当年十九歳の少女が後生大事となりて髪を落とし、逃げて師の教えを受けに参り、到着の翌日宿を出で、山間の樹林鬱蒼たる中に入り、終夜、迅雷風雨にも平然として念仏せし娘に「なぜこんな事をする気になりしか」と師のお尋ねに答えて、「山の中で一夜念仏でも申したら心がシャンとするかと存じて参りました」といったときのご教化に「凡夫の心は、シャンとするものではない。シャンとしないから間違いなく助けて頂くのじゃ。またそんなふうに山に入りたりするは、お他力の宗旨ではない。ほかの者まで、そうして念仏せねばならぬと惑う・・・。」 今ここにかつて夢中庵より承りしこの話を、おぼろげなる記憶をたどりつつ記せば、 あたかもその夜は車軸を流すような大暴風雨、天も裂けよとばかりの大雷鳴、地もわれよとばかりの大疾風。沛然(はいぜん)たる猛雨は戸をたたき、閃光は引き続きざまに闇黒なる迷界を跳躍せしむ。常人にはとうてい戸外に出づること一歩も許さざる恐怖の魔夜なりきと。 河崎の念仏堂にて彼女の姿を見失った時、和上の仰せによりて参詣の一同三々五々打ち連れ立ちて恐る恐る猛雨の中を、八方探求するも遂に知れず。 翌朝濡れ鼠となりて帰りし本人より、昨夜来の事を聞けば、内宮の裏山、千年斧鉞(ふえつ)を知らざる大深山に、ただ一人この摩夜を求めて、猛雨と雷鳴と閃光の中に己が懈怠を励ましつつ念仏す。 時にたけり狂う野獣の群れが、いまだ聞かざる恐ろしき異様の叫び声をあげつつ、八方よりジリジリと押し寄せ来る。少女恐ろしさのあまり、あらん限りの声を尽くして、称名念仏して、己の道心を励ませば、さしもの野獣もたじろぎて後ろに引く、声もかれて念仏も小声になれば野獣また牙をといで次第に迫り来る。 また道心をとあらん限りの大高声の念仏を引き戻せば、彼らもまた後ろに引く。その一噛みにほふらんとする八方の牙は、不思議にも我が念仏の声に引けども、己が懈怠の不法は依然としてもとのごとし。 かく押し寄する猛獣の危牙(きが)と、我が怠心(たいしん)の根強さにあきれはてつつも、かれゆく叫号(きょうごう)の念仏をしぼりつつ、また奮い立つ、両々恟々(おそれおののいている)たり。その姿想像するだに身の毛もよだつ心地して、涙なきを得ず。かく繰り返しつつ、遂に夜明けて山の端白む頃、さすがの猛獣も一牙をも加えずして退散せりと。かくも己が道心を振るい起し心がシャンとするかと引き立てられしとなり。・・・「凡夫の心は、シャンとするものではない。シャンとしないからー」 との一語もまたこの悲痛の経験をなめずしては、かくも周到に説き得ざるべし。(略)
2026.02.15
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念共讃裡(ねぐさり)抜粋序第一篇 求法駅長をやめて来いシャンとせぬ心毛一筋の望みp.21- 後生一大事とは 東京より某インテリ紳士参詣して、和上に質問す。「後生一大事、後生一大事とたびたびおっしゃいますが、後生一大事とは一体どういうことですか。」 和上いつものように黙殺してご返事なく終わられるかと思っていると、二三時間も経ち、夜もふけわたる定刻の頃、いとも慇懃に、「後生一大事ということはどういうことかと尋ねられると、ちょっと言い表しにくい事ですのやー。お経さんにも書いてないし、誰も説明した者もありません。南無阿弥陀仏。 捨家棄欲とか出家入山といえば聖門道(しょうもんどう)の方で、ご開山様のご教化に背くことになる。そこで博多の和上がおっしゃるのに、後生一大事とという事は、十(とお)ある望みを九つにし、九つの望みを八つにし、八つの望みを七つに・・・・と、だんだんこの世の望みを少のうしてー、最後にご報謝のお念仏一つというふうになったのが最上じゃな・・・となあ。」 参詣の一同は異常の感銘に大声の念仏ひとしきり止まず。然るにその紳士頗る打ち沈みて悔悟の色鮮やかなり。宿に帰りて友に懴悔して曰く。 今日までの放逸の日暮らし、贅沢な趣味嗜好などを恥じ入って改めんことを誓うがごとし。その後三日間を経て紳士は感激の面持ちにて、懸命に上体を折りつつ相続せり。いよいよご縁終わりて帰京するに臨み某紳士言葉にあらわさざるも、悔悟の色深うして、「先般の後生一大事のご意見、まことに身に沁みて有難うございました。家に帰りましたら仰せのとおりにだんだんと望みをへらしご相続専一に心がけます。」と何ものかを誓うがごとし。和上暫くご相続の後、言葉厳かにただ一語「それも望みじゃないかー。」 燃ゆるがごときご相続ひとしきり止まず。そのまま何のお言葉もなく七日間のご縁満じ終わる。 某紳士宿に帰り、今のお言葉の味取れかねたるらん。同筵(どうえん)に侍りし某老僧にその解説を請われる。老僧あまりの懇望にほだされて「和上の思し召しは、我々の忖度(そんたく)を許さぬ広大なものですが、私はこういうふうに頂きました。後生一大事とは望みがだんだん減っていくとおっしゃるのですから、だんだんと望みをふやしてゆこうと思うのも望みなら、へらしてゆこうとするのも、やはり望み、それで『それも望みじゃないか』との最後のお言葉は、望みはますもへらすも両方とも望みじゃないかーとのご意見ではないでしょうか。そんなに急に望みを減らそうとかかわらずに、お念仏相続さえすれば、お念仏様のお徳で、自然に望みが薄らいでゆくー、そこをおっしゃたのではないでしょうか。要するにハマッってご相続させて頂くことですわなあ。」 某紳士この解説を得て一人有り難く、「帰ったらすぐ何もかもやめようと思いましたが、ソレがーなかなか苦しいこともありますのでためろうておりましたが、コンナことではーとまた思い起して、和上にお誓いを申し上げた心持ちでしたのに、和上はチャンとそこをお見抜きくだされたのでしょうかー。ああこれでこそ大乗の境地です。ああ、これで非常に楽になりました。ただお念仏すればー。」と悲喜の涙にくれはてて、今更ながら和上の寸鉄に無量の含蓄あるを味わいつつ、合掌にすべてをこめてお別れせり。
2026.02.16
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平和観音像と岡田良一郎坐像が掛川市文化財に指定されたのに伴い、大日本報徳社内淡山図書館で記念展が行われています。平和観音像は鈴木藤三郎の日本精製糖株式会社鈴木鐵工部で鋳造されました。鈴木藤三郎や鈴木鐵工部に関する資料も展示しました。是非ご覧ください。【掛川市文化財に指定】☆岡田良一郎座像 市文化財指定記念展のご案内☆1 と き 令和8年4月12日(日)~令和8年5月3日(日) 午前9時~午後4時※土曜・祝日を除く2 と こ ろ 静岡県掛川市掛川1176大日本報徳社内淡山翁記念報徳図書館2階3 主 催 公益社団法人大日本報徳社 報徳文化研究所4 入 館 料 一人300円(大講堂の見学含む)※高校生以下、報徳社社員は無料5 内 容 像の文化財指定を記念して、普段は公開していない淡山翁記念報徳図書館(県指定文化財)にて、記念展の開催。今回、掛川市指定文化財となった所蔵の岡田良一郎座像と同時に指定された平和観音像関連資料の展示。※ 淡山翁記念図書館は大日本報徳社内南側にあり、その二階で開催しています。5月3日までです。是非ご覧下さい。
2026.04.22
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バレー日本の準決勝は宿敵・韓国 サーブを警戒も守護神・小川「今の日本は圧倒的に上」 インド撃破でベスト4【男子アジア選手権】9/12(土)バレーボール男子アジア選手権は11日、決勝トーナメントが初戦、日本は準々決勝でインドと対戦し3対0のストレート勝ちを収めた。試合後、コートでのインタビューに応じた髙橋藍は「トーナメントは勝つことが重要。その目標は成し遂げられた」と喜びを口にしながらも、「まだまだ改善できるポイントも多い」と課題を口にした。大塚「この大会、藍のサーブがとにかくすごいので。外から見て、このコースに打てば決まるという情報にもなるし、実際パス(サーブレシーブ)をする選手としての目線で見れば、打たれたら嫌だな、というコースなので、自分も狙ってみよう、と。イタリア(リーグ)でのシーズン中から意識してきたコースではあるんですけど、アジア選手権に向けた練習でも精度を高めてきた。得意なコースや同じ場所ばかりではなく、いろいろな場所からいろんなコースへ打つ練習をしてきたこともつながっていると実感できています」9月12日の準決勝では韓国と対戦する。対戦成績は65勝64敗。拮抗しているが、宿命のライバルと言われたのは過去のこと。世界ランキング6位の日本に対し、韓国は24位(12日時点)。ネーションズリーグでも18年以降対戦がないが、高さや戦術、経験において日本が見劣りするものはない。アジア選手権に向け、日本代表選手たちがアジアのライバルとして挙げるのはその2か国が多かった中、準々決勝では韓国が3対1で中国を打破した。大一番にかける強さは比類ない。今大会でもオポジットのホ・スボンがアタック、サーブ、総得点で全体の2位につけチームを牽引する。爆発力を発揮されると厄介だが、それも織り込み済みとばかりに小川が言った。「自分が相手の目線で考えたら、韓国が日本に勝つためにはサーブで攻めてこないと無理だと思うから、いつも以上にサーブをガンガン打ってくるはず。それはどの国も同じで、僕らも自分たちよりも強い相手に対してはサーブで攻めるのが鉄則。今の日本はコンビの精度も実力も、圧倒的に上だと思っているので、そういう相手に対してはサーブで崩して来ようとするだろうから、そこをいかに抑えるか。それだけです」◎試合後にラミレス監督がインタビューに応じた。ブラジル出身の指揮官は「今日はレセプションをコントロールすることにとても苦しみました。日本はアメージングな試合をしていました。私たちはどうすればこのレベルになれるのか理解しなくてはいけません」と勝者を称えた。 韓国を2024年から率いているラミレス監督は、日本を参考にしてきたことを明かしている。「このレベルに達するために、取り組んでいる最中です。明日(の3位決定戦)に向けて一丸となり、互いに結束し、分析して戦う必要があります。とても重要な試合です。韓国の代表として、いつも通り全力を尽くしたいと思います」と、オーストラリアとの3位決定戦へ切り替えていた。
2026.09.12
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卓球中国にとって「まさに壁」 日本の28歳が世界5位粉砕 地元ファン震撼「このままでは…」9/21(月)卓球の国際大会、WTTスターコンテンダー・アスタナは20日、カザフスタン・アスタナで行われた。女子シングルスで世界ランク13位の佐藤瞳は準優勝。準決勝では世界5位の王芸迪(中国)を撃破し、中国メディアを震えあがらせた。 日本が誇る世界屈指のカットマン、佐藤が世界5位から金星を挙げた。2ゲーム連取されて崖っぷちに立たされたが、ここから猛反撃して大逆転。決勝で日本の木原美悠に敗れたものの、中国メディアに衝撃を与えた。「新浪新聞」が「このカットマンは、中国代表の大部分の女子選手にとってまさに『壁』である」と伝えれば、「ジーボーバ」は「日本が女子シングルスの金銀を独占することとなった」とした。 ネット上の中国人ファンも反応。「王芸迪は日本選手によく負けるし、カットマンにも弱い」「中国代表チームはやはりカットマン対策をもっとしっかりした方がいい」「中国代表の打法は変化に乏しいし、変わった打法に対する対応力も劣っている。このままでは様々な打法で迫ってくる外国人選手を打ち負かせなくなる」「日本女子卓球選手は張本美和を中心として、人材があふれるほどいる」などの声が上がっていた。
2026.09.21
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下館談話記【三】その2(現代語訳のこころみ)何を疑い何を惑うことがありましょうか。自然の理は人作をもって変ずることができないことはこのようなのに、往々にして草木の繁茂を欲してその根を断つたぐいは延々と絶えません。常に小人はこれを好んで、君子はこれを悲しみます。そもそも木の根を切るならば、その憂いがすぐに達するは必ず芯に至って、枝や葉の憂いは急ではありません。そうであれ民を虐げればその憂いはすぐに人君に帰します。その害が人臣に及ぶにはまた時間がたって緩やかです。借財は領民と関係がないようですがそうではありません。一国の聚斂(しゅうれん:きびしく租税を取り立てること)が不足して他の財を借りるのは、なお木の根を遠くさして水を運ぶようなものです。この理は根を切ればたちまち木の芯が萎れます。だから借財をあがなわないでこれを踏み倒し、貸す者の恩を棄てて一時の安きを求めるならば、その害が国君に帰する事は恐るべき至りです。世の才がある者は往々このゆおな謀(はかりごと)をして、かえって自ら国の憂いを除いたとし、君もまたこれをほめます。人君が禍を受けるに及んで何のためかを知りません。大変嘆くべきことではありませんか。およそ人臣が君に災いをもたらす、不忠はこれより大きいものはありません。そうであれば、君につかえる者はよく国家の大体を明らかにし、節倹を行い、分度を守り、国民を恵み、借財があればあえてこれをあがなって、君に多くの幸いを生じ、国家に永久の憂いがないようにするのが忠臣の行いです。」下館藩の家老はこれを聞いて非常に称嘆した。何なにをか疑うたがひ何なにをか惑まどはんや。自し然ぜんの理り人にん作さを以もって変へんずべからざること斯かくの如ごとしといへども、往おう々おう草そう木もくの繁はん茂もを欲ほっして其その根ねを断たつの類たぐい絡らく繹えきとして絶たたず。常つねに小しょう人じんは是これを好このみ、君くん子しは是これを悲かなしむ。夫それ木きの根ねを切きれば、其その憂うれいの直じきに達たっするは必かならずしん(芯)に至いたり、枝し葉ようの憂うれいは急きゅうならず。然しからば民たみを虐しいたぐれば其その憂うれひ直じかに人じん君くんに帰きす。其その害がいの人じん臣しんに及およぶは亦また時ときを経へてゆるし。借しゃく財ざいは領りょう民みんに与あずからざるものに似にて左さにはあらず。一国こくの聚しゅう斂れん不ふ足そくして他たの財ざいを借かるは、猶なお木きの根ね遠とおくさして水みずを運はこぶが如ごとし。此この理り根ねを切きれば怱たちまち木きのしん(芯)しを(萎)る。故ゆえに借しゃく財ざいを贖あがなわずして是これをたを(倒)し、貸かす者ものの恩おんを棄すて一朝ちょうの安やすきを求もとめば、其その害がい国こく君くんに帰きする事こと恐おそるべきの至いたり也なり。世よの才さいあるもの往おう々おう斯かくの如ごときの謀はかりごとを為なし、却かえって自みずから国くにの憂うれいを除のぞきたりとし、君きみも亦また是これを賞しょうす。人じん君くん禍わざわいを受うけるに及およんでは何なんの故ゆえを知しらず。嘆なげくべきの甚はなはだしきにあらずや。凡およそ人じん臣しん為となり君きみの災わざわいを成なす、不ふ忠ちゅう是これより大だいなるはなし。然しからば、君きみに事つかふるもの能よく国こく家かの大だい体たいを明あきらかにし、節せつ倹けんを行おこなひ、分ぶん度どを守まもり、国こく民みんを恵めぐみ、借しゃく財ざいあらば敢あえて是これを贖あがなひ、君きみの多た福ふくを生しょうじ、国こく家か永えい久きゅうの憂うれいなからしむるもの、忠ちゅう臣しんの行おこない也なり。下しも館だて大たい夫ふ是これを聞ききて大おおいに嘆たん称しょうす。
2026.09.25
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内村第一四信(英文封書) 東京下谷徒士町 宮部金吾殿行 札幌 内村鑑三 内村鑑三日記書簡全集5三七頁一八八二年(明治一五年)六月二五日 札幌祭の日札幌にて 親愛なる兄弟宮部 前便以来大分たった。ご承知のとおり、明年開催の水産博覧会へ出品する品を集めるために東部地方海岸へずいぶん長い旅行をしてきた。まれに見る興味深い旅で、役所の仕事に関するたくさんの経験を得たばかりか、人間性について学ぶ機会をたっぷり与えられた。天然は限りなくうるわしかった。札幌をたった時にはニー三フィートの雪の上を進まなければならなかった。しかし、石狩盆地をはなれると、たちまちういういしい春に出あった。貧弱な北海道産の馬を走らせると間もなく、室蘭半島に出た。そこで初めて花をつけた草や木を見た。それにもまして、この地方にたくさんいウグイスの歌声は実にうれしかった。旅行について残らず書くことは長すぎてできない。白雪のモクレンと真紅のカツラのつぼみ、まだ葉ばかりの山みちをかざる二種のサクラソウ(これは札幌でふつうに見かけるのとは違うと思ったので、ここに君に送る)、エゾ松におおわれた様似と幌泉の深緑の山々なぞが、僕の植物学の勉強から得た新しい喜びの一部だった。さわがしく鳴くシギ、歌うヒヨドリ、小さなツバクラスズメ(二種)、コマドリ、アカハラコマドリなどが、鳥類学における楽しみであった。花が咲いたような腔腸動物、サンゴ虫類、棘皮動物などのいっぱいいる海岸は限りなくうるわしかった。しかし、天然はかくも素晴しくすぐれ、みちあふれ、かつ完成しているのに、人間と呼ばれるところの自然の最も崇高な部分は、僕の目には、くされ、堕落し、端的にいえば、獣のようである。仏教と売春とは、二つのはなれ難い仲間同志として、僕の旅行中いたるところで見かけられた。宿屋、《駅逓》から甚だしきは、村役場に至るまで、どこでも、ウソばかりである。われわれは国内至るところで腐敗堕落を実見することができる。しかしその最も甚だしい堕落ぶりを実感し、かつ経験するには、北海道にまさるところはないと思う。(略:旅行中、五月五日の大暴風雨にあい、島松で倒れた。帰宅後、肺炎で二三日間病床にいた。しかし神のとりたもう道は不思議である。僕は救われた。神に感謝す!) 現在の僕の役人としての職場は、イヤな、たえがたい、不満足な、不正だらけなところである。目下何もすることがない。事情は後日話すから、ドーか僕を狂った人間、新奇と変化を愛する人間と思わないでくれたまえ。自分の将来について考えるため、僕は今秋東京へ行かなければならない。誠実な科学の研究がしたいのか。札幌県を去れ!三〇円は無為の役人たちには高すぎる。(略:ジョセフ・クックの講演のこと。生物学とキリスト教との関係の勉強のこと。)キリストに在りて愛される兄弟なるヨナタン・内村鑑三内村第一五信(英文封書)東京下谷徒士町 宮部金吾殿行 札幌 内村鑑三 内村鑑三日記書簡全集5四〇頁一八八二年(明治一五年)一一月二三日 札幌にて 親愛なる四年間の同室の友 和田〔健三〕君に託して送ってくれた手紙感謝にたえない。非常に面白く、力づけられ、心を打たれた。君がいつも誠実に研究に励んでいることを喜ぶ。君のためにキチンキチンと祈っている。日曜日と水曜日は君のために祈る僕の特別祈祷日である。 一八八二年は僕にとり旅行年だった。今日までに三〇〇里を海岸や河川にそって旅行した。この春病気に妨げられなかったら、六百里以上旅行できたろうと思う。(略:昨日石狩から帰った。「一年の四分の一以上を外で過す事のたのしさ!」ジョン・グレーの詩を引用する美しい自然描写。「1882年はほとんど終ろうとしている。」アワビの人工生殖の実験。)海のすなどり、今までのところ成功だった。しかし「人のすなどり」という大きな特権の方も、役所の時間をさいての僅かなひまに楽しんできたが、恵まれて正当な未を結んだ。(略:一五名の新会員が加わった。教会の借金は返せることになった。)科学の名において十字架を弁護するために立ち上がるという高貴な計画に関するお手紙、拝見した。ブラボー!兄弟よ!僕の目的も同じだ。われわれは若いうちに、神の完全な武器をつけ、真理もて腰をかため、平和の福音を足にはき、時到らば勇気と意気をもって立ち上り、無敵の「キリストの道」を進めようではないか。キリストは聖手もて十字架の輝くしるしを、まっただ中に、高々とかかげたもう。君は(そして僕も)この聖きしるしをば、解剖刀、小刀、ケンビ鏡の城壁で守りつつ、ほえたける「人間の子ら」を追い払うことができる。彼らはヘッケル、ビュクネル、チンダル、スペンサーのような、(彼ら自身死ぬべき運命にある)、弱い頼りない指導の下に、「いと聖き者」を辱めんと試みつつあるものである。僕の暇な時間は、全部生物学の研究に費やされている。今年は東京に行ったら、モット本を買うつもりである。(略:足立元太郎と内田瀞の結婚のこと)君に愛せらるる ヨナタン・内村鑑三
2026.09.25
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「マザー・テレサ 愛のこころ 最後の祈り」よりある晩、わたしたちは外へ出て、路上から四人の人たちを救いました。一人は危篤状態でした。わたしはシスターに言いました。「あなたたちは、ほかの人をお世話してください。 わたしはこのいちばん容体の悪い人を見ます」 わたしのありったけの愛を、わたしは彼女にそそぎました。 彼女をベッドに寝かせると、その顔に美しいほほえみが輝いているのです。 彼女はわたしの手をとり、たった2つの言葉を、やっとのことで言いました。「Thank you」(ありがとう) そして彼女は目を閉じました。 貧民街のゴミの中から、虫に半分食べられかけていた男性をわたしたちは救ったことがあります。その男性はこう言ったのです。「わたしは道端で動物のように生きてきたが、愛と看護の手に囲まれて、天使のように死のうとしている」このように話すことができて、そのように死ぬことができる人間の偉大さに立ち会えたことは、とてもすばらしいことでした。だれものろわず、だれにも痛烈な非難を浴びせることなく、自分をだれとも比較することはなかったのです。彼はまさに天使のように死にました(die like an Angel)。☆自分を彼女や彼の身におきかえた時、天使のように死んでいけるか、また、介護する側に身をおいた場合、虫に半分食べかけられた人をその人の心に触れるような介護ができるだろうか。神渡さんの「思考が人生を創る」にマザーのもとでボランティアしたときの話が出てくる。「ある日、プレム・ダンという重度の障害者を抱えている病院で仕事をしていた時です。朝、最初各病室の掃除から始まるんです。みなさん簡易ベッドで寝ているのを、起こして簡易ベッドを片付け掃除が始まる。片付けると、あちこちウンコの山ができている。体力がないから、自分のベッドの脇で用を足す。そういうのが山のようになっている。それをバケツで洗い流し、デッキたわしで磨いてシーツを洗う。部屋がきれいになったら患者さんの沐浴の手伝いが始まる。風呂場でバケツにぬるま湯を入れ、頭からかけながら、一人一人の体を石鹸で洗う。そんな事をやっている時でした。お風呂場に路上から拾われてきた右足を骨折した乞食のおじいさんが担ぎ込まれて来た。かかとが骨折し、骨が突き出していた。蛆虫が湧いて腐っていて非常に臭いも激しかったんですね。彼のテイク・ケアをしようとしたら、泣いてわめいて傍に寄せ付けない。困っていたら、通りかかったボランティアの青年が「僕がやろう」と言って、その方をなだめ着ている物を脱がし、体を洗い、右足の消毒が始まった。消毒液を溜めたバケツに足を入れ、ピンセットで腐ってる肉をつまみ出して行く。蛆虫がいる。蛆虫を引っ張り出すと、もう泣きわめくんですね。そのおじさんを動かないように押さえ込んで、右足の治療をする。それが終ったら、当然、彼を担いで病室に僕は行くものだと思っていました。ところが、その青年は、彼を抱きしめたんです。するとそれまで泣いてわめいて人を寄せ付けなかった、その乞食のおじさん、ポロポロと涙をこぼしたんですね。インドのカースト社会というのはひどい社会で一番下の不可触民は、人間とみなされていません。彼は幼い頃からそういう扱いしか受けてこなかった。それを抱きしめる。その暖かさがその人のかたくなな筋肉を解きほぐしたんだと思うんですね。涙が出ました。そのシーンを見た時に私は「ああ、僕はこれを見る為にカルカッタに来たんだ」と思いました。マザー・テレサはいつもこうおっしゃっていたのです。「みなさん、わざわざカルカッタまで来て、ボランティアをして下さってありがとう。でも、気をつけて欲しい事があるんですよ。私達がやっている事はソシアルワーカーがやっている事と全然変りません、だから、ソシアルワーカーのようにやってしまったら、私たちがやっている意味はなんにも無いんです。その人が「私は生きていて良かった、これほど大切にして頂いてありがたいな」というふうに思って頂かなかったら意味がない。どうぞ、相手の方の心に触れるようなそんな出会いの時を持ってくださいね」
2025.07.01
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日野原重明さんの「生きることの質」より日野原先生の闘病体験の話。「私は、京都大学医学部へ順調に進学したが、医学部2学年進級を前に重い結核にかかり、1年余の療養を余儀なくされた。 トイレに行く自由も半年近く奪われ、自分のベッドに昼も夜も拘禁された私は、いつ治るかのめどもたたないままに、うつ状態に悩んだ。 一年後にやっと病床から離れ、復学し、皆から1年遅れて卒業して内科医となり、大学院を終えて、上京し、聖路加国際病院に勤めた。 病院に長期入院する患者さん、特に若い病人を回診していると、絶望的な思いで病んでいた若い日を見る。 もし私が長わずらいをしなかったら、私には病人の苦しみが多々あったに違いない。私に病む体験がなかったら、患者の苦しみを感知できなかったかもしれない。私が療養に明け暮れた青春の1年間の喪失は、臨床医になくてはならない感性を代わりに与えてくれた。そのことが何年も臨床をした後よく分った。」斎藤一人さんの「心が千分の一だけ軽くなる話」の話を思い出した。「今からすごいこといいますよ。一生忘れられないようなこと、いいですか? 過去は変えられるけど、未来は変えられない これを覚えとくと、すっごく いいこと があるの。 みんな、よくいうじゃない。「済んだことは変えられないけど、これから先のことはあなたの自由になるよ」って。 でも、そうじゃない、残念だけど変えられるのは過去なんです。 もちろん、過去にあった出来事を、もう一度やり直したり、消したりはできないよ。でも、過ぎたことを思うとき、それは思い出じゃない。 思い出って、どんなふうにも変えられるの。 たとえば、自分は小さい頃に病気ばかりして、つらい思いをしていた。そういう人がお医者さんになったりすると、患者の気持ちがよくわかる、いいお医者さんになったりするんだよ。 そのとき「自分は病気だったんだ。でも、その経験があるから人に対して、病人に対してやさしくなれたんだ。病気してよかったな」とか思える。 どんなにつらい過去、嫌な思い出も、幸せと思えば思えるんです。 オセロゲームみたいに、ポンポンと幸せに変えていく。」日野原先生の述懐と割符みたいにピタリと一致している。「ついてる!」でも、斎藤一人さんは同じことをこんなふうに言っている。これは一人さんにとって、また私たちにとってきっと大事な受容の仕方なんだ。 「過去は変えられるけれど、未来は変えられない」 これが現実です。 なぜ、過去が変えられるのかというと、昔のことを思い浮かべるとき、過去の出来事はもう「思い出」ですよね。「思い出」というものは、後でいかようにも変えられるんです。(略)それで、人間は、おもしろい。今がしあわせだと、過去の不幸がしあわせなことに思えてしまう。過去の嫌な出来事が、今の自分の宝なんだと思えてしまうものなんです。たとえば、自分は幼い頃に大病して、「つらい思いをした」という人がいるとします。けれど、あのとき大病したからこそ、今、人に思いやりをかけてあげられる人間になったんだ。いい体験をしてよかった、そう思う日が、やがてくることもあるのです。 こんなふうに、過去のどんな出来事も「しあわせ」と思える人は、今も「しあわせ」です。今が「しあわせ」だからこそ、未来がしあわせになるんです。 未来を変えられるのは、こういう場合のことです。 だから今、嫌なことがあっても、時が過ぎてそれが思い出になれば、そのことがやがて自分の宝になるんだ、と。そう思いながら現実に向っていけばいいんです。(略) 私たち人間は万物の霊長です。 過去は変えられるんです。 目の前の現実に向っていけば、嫌な出来事が、やがて自分の宝になります。 刑務所の鉄格子の間から、二人の男が外を見た 一人は泥を眺め、一人は星を眺めた (「輝ける城壁」の作者セルマ・トムソンに父からあてた二行の手紙)
2026.07.08
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店舗敷地内で男女4人が相次ぎ刺される 4人がけが、病院に搬送 44歳男を現行犯逮捕 大分・佐伯市7/13(月)大分県佐伯市の店舗敷地内で13日午前、刃物を持った男に男女4人が相次ぎ刺される事件がありました。男は銃刀法違反容疑で現行犯逮捕されました。■TSUTAYA駐車場で刺傷事件、男女4人搬送13日、「男性が包丁で右わき腹を刺された」と午前9時47分、消防に通報がありました。現場は大分県佐伯市にあるレンタル店「TSUTAYA佐伯店」の駐車場で、消防によりますと、男性が脇腹を刺されるなど、4人を病院に搬送したということです。4人は80代男性が中等症、60代男性が重傷、60代男性が軽傷、10代女性が軽傷とみられています。いずれも命に別状はないということです。■容疑者を医療機関で現行犯逮捕、当時3人が店内に逃げ込む警察は午前9時58分ごろ、市内の医療機関から「刃物を持った男性が来ている」と通報を受けました。そして、包丁1本(刃体の長さ約18センチ)を所持していたとして、男を午前10時6分に銃刀法違反の疑いで現行犯逮捕しました。逮捕されたのは、住所・職業不詳の野下博司容疑者44歳です。店舗関係者によりますと、当時3人が店に逃げ込んできたということです。警察が詳しい状況を調べています。(続報)大分県佐伯市の店舗駐車場周辺で男女4人が相次いで刺された事件で、容疑者の男は市内に住む理学療法士で、事件直後に数百メートル離れた病院へ移動し、包丁を手に持ったまま病院内にいたことがわかりました。4人は、10代の女性1人、60代から80代までの男性3人で、搬送当時、全員意識があり、命に別状はないということです。事件直後の午前9時58分ごろ、警察は市内の病院から「刃物を持った男性が来ている」と通報を受けました。警察官が駆けつけたところ、病院内で男が刃渡りおよそ18センチの包丁を手に持っていたため、銃刀法違反の疑いで現行犯逮捕しました。逮捕されたのは、佐伯市長島町に住む理学療法士・野下博司容疑者(44)で、病院は現場から直線距離で約500メートル離れた場所にあります。警察は殺人未遂の疑いも視野に捜査しています。
2026.07.13
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大智禅師偈頌講話 澤木興道偶作 その2【偶作】 寂光明土娑婆界 (寂光明土娑婆界)色裏膠青水上波 (色裏の膠青水上の波)浩浩村歌兼社舞 (浩浩たる村歌と社舞と)負恩者少報恩多 (恩に負く者は少なく恩を報いるは多し) まあ例えばボタ餅というものの感じについていってもそうだ。この間尾張へ行ったら、餅を焼いてアンコロにしてー贅沢な話じゃ。わたしは胃潰瘍だが、「これオッサンどうかな」というから「馬鹿にするな。おれに食わせんということがあるか。そんなものを食わんでおったら、胃が悪うなる」とやってみた。けれども、なんでもない。それで、胃袋はようなっておる。 以前なら「酒を一杯飲む」というところへ「アンコロ餅」といったら、「アンコロなんて、無粋なことをいうな、ケチなことをいうな」といったに違いない。ところが食糧事情の悪いころは存外飲むやつが、「どりゃ一つー」というてやりよった。そうすればアンコロ餅に対する感じも、以前と今日との感じでは、大変な違いがある。 そうすると、物というものに対する感じがいかに変化するか。同じものに対しても、感じというものは、時によって同じ感じではない。そこをよく承知せんというと、人間というものは、とかくいつもかもボタ餅はボタ餅の感じ、いつもかも汁粉は汁粉の感じ、いつもかも薩摩芋は薩摩芋の感じと思いあやまる。だが、薩摩芋は、いつもかも薩摩芋の感じではない。「貧乏して薩摩芋をお粥に入れて食うておる」ということは、わたしら明治時代からいいよった。それが、この頃はどうじゃ。「ワアー、芋のお粥、有難い」と子供のように喜んでいる。 あるところのお嬢さんが病気になって、熱が下がらん。「なんぞ食いたいものはないか」というと「芋が食いたい」という。 それから芋を探すのに三軒茶屋から渋谷まで行ったがない。ようよう焼芋屋さんが焼こうとしているやつを見つけて、「焼かんでもいいからそのままくれ」それからその配給のやつを、家へ持って帰って煮いて食わしたら、熱が下がったという。薩摩芋で熱が下がるんだから、後光がさしておる。 そうして考えてみると、なにも坊んさんがいわなくても、諸法因縁生、無自性皆空―。婆さん達が説教を聞いて、「アア、これも因縁や」という。そういうように、因縁というと、前生に仏さんの油を惜しんだから盲に生まれたとか、仏さんの頭を蹴ったからちんばになったとか、前生に勉強せんから頭が悪いとか、そんなことばっかりに思うておる。だが、そんなものではない。この世の現実の上にあるのが因縁生である。(大智禅師偈頌講話p.200-201)
2026.09.19
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下館談話記【四】その1(現代語訳のこころみ)【4】尊徳先生が衣笠に言われた。「むかし、曾子は(死ぬ時に)門人に告げて『わが手をひらけ、わが足をひらけ、戦々恐々として深淵に臨むがごとく、薄氷を踏むがごとし、今まぬがるることを知るや、小子』と言われた。桜町亡所を復興した実業を見て、下館2万石復興のことを委任されてから、身を忘れ、財をなげうって、日夜のわずらわしい仕事や苦労を厭わず、盛衰・存亡・栄枯の根源を明らかに調査して、その中を執って、国家の政務の大本を立て、数万の借金を消し去る道を立てて、衰廃再興の道を行って以来、既に10有余年、その成果も少なくありません。そうであるのに善と見て強く行うことなく、またあえて廃することもしないで、ゆったりとして惰弱に流れる、つまり道を廃するの基である。どうしてこれならば、始終一のごとく憤発勉強しないのか。もしよくないならばどうしてすぐに止めて私に委任した荷を除かないのか。 【四】先せん生せい衣きぬ笠がさ子しに謂いいて曰いわく、昔せき時じ曾そう子し門もん人じんに告つげて曰いわく、「我わが手てを啓ひらけ、我わが足あしを啓ひらけ、戦せん々せん兢きょう々きょう深しん淵えんに臨のぞむが如ごとく、薄はく氷ひょうを踏ふむが如ごとし、今いま免まぬがるるを知しる、小しょう子し」と云いえり。桜さくら町まち亡ぼう所しょを興おこせし実じつ業ぎょうを見みて二万まん石ごく興こう復ふくの事ことを委い任にんありしより、身みを忘わすれ、財ざいを抛なげうち、日にち夜やの労ろう煩はん辛しん苦くを厭いとわず、盛せい衰すい存そん亡ぼう栄えい枯この根こん源げんを明あきらかに調しらべ、其その中ちゅうを執とり、国こく家か政せい務むの大だい本ほんを立たて、数すう万まんの借しゃく債ざいを消しょう除じょするの道みちを立たて、衰すい廃はい再さい興こうの道みちを行おこなひし以い後ご既すでに十有ゆう余よ年ねん、其その功こう験けんも少すくなからず。然しかるを善ぜんと見みて強つよく行おこなわず、亦また敢あえて廃はいせず、悠ゆう々ゆう緩かん々かんして惰だ弱じゃくに流ながれ、詰つまり道みちを廃はいするの基もといなり。何なんぞ是これならば始し終じゅう一の如ごとく憤ふん発ぱつ勉べん強きょうせざるや。若もし非ひならば何なんぞ速すみやかに止やめて我われに任にんずるの荷にを除のぞかざるや。
2026.09.26
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【斎藤一人】どっちが正しいかより、どっちが楽しいか・後編 ~どっちが楽しいかを極めたら、この世は楽しいあのね、人間って、今生きている場所がありますよね 。今の環境。これをどっちに考えてったら楽しいだろうか?どうしたら楽しいか?楽しいからニコニコしてられる。ニコニコしてるから、人相も変わっちゃって、福相になって、運勢も変わります。いつも怒ってるやつに近づきたくはないよね。で、どうしたら楽しいだろうか?どうしたら、楽しく生きれるだろうか?そのことを極める。「楽を極める」から、「極楽」って言う。で、今を楽しめた人間が、死んでから極楽も行ける。わかります?それで、死ぬ前からここを極楽にすることができるんです。死んだ魂で「こんなはずじゃなかった」って呆然としてる霊がある。それは、「辛くても苦しくても、正しいことをしてれば、天国に行けるんだ」と思ってた人間は、死んだときに行く場所が違うんで、びっくりしちゃう。この世の中っていうのは、神様からの招待なの。わかる?私たちは招待されるんです。「この人生を楽しみなさい」って。今日も青い空でしょ?花も咲いてるの、きれいな空気もあるの、山もあるの。全てを楽しみなさいって。ねっ。男の人はね、女性を見て恋をし、ねっ。女性は素敵な男性に恋をし、ねっ。子供をつくりとか、全部を楽しむの。楽しむように招待されてるんです。それを、些細な意見の食い違いぐらいで、原爆までつくったりね、大砲までぶっ飛ばしたりしてていいんですか?神様は空気もつくり、水もつくり、みんないろんなものつくったけど、原爆を作ったのは人間です。よく考えてください。この世を地獄にするのも、極楽にするのも、「どっちが正しいか論」をやっちゃいけないんです。「どっちが楽しいか」なんです。わかります?どっちが楽しいかなんです。それで考えてください。で、「どっちが楽しいか」ってこと考えてくると、自ずから成功の道に行くんです。人間は神様からソフト、インプットされてるんです。それは、良心に、真心なんです。だから、人をいじめたときより、人助けしたときの方が気持ちがいいんです。楽しいんです。ねっ。あっ、きくちゃん歩いてるって、誰かがそいつをパーッと川の中に突き落として、そいつが溺れ死んだより、誰か落っこちそうになっている子供を助けたときの方が、気分がいいんです。ええ、考えてみてください。どう考えても私は突き落とした方が気分がいいと思ってる人がいたら、ちょっと考え直してください。おそらくそういう人は滅多にいないと思いますけど、あなたに言ってます。それで、どっちが楽しいか?そのことをきちんと極めるんだよ。そしたらこの世は楽しいよ。そして、これは一生一回なんです。一生一回のご招待なんです。私は楽しくてしょうがないんです。死にたくないですよ。死にたくは絶対ないんです。もっと、生きていたいんです。ねっ。それで、楽しくて楽しくて、こうしょうがない人生を、もっともっと楽しく生きるんです。それで、魂は何回も輪廻転生するとしても、この斎藤一人としての、この命。ねっ。この運命は、たった1回なんです。これはたった一度のご招待なんです。ねっ。本当に一生懸命楽しんでもらいたいの。この前、チベットの山の上で、すっごい、すっごいすっごいすっごいすごい環境の厳しいとこ、もう、あんなとこだと俺なんか泣いちゃうんじゃないかっていう環境の厳しいとこ。そこに生まれた人が、「ここいいとこなんです。素晴らしいんです」そこを楽しんでたの。「魂が、成長ができてるな」俺だって、こんな日本だって豊かで、こんな環境のいいとこだって、ときどき「生まれてこなきゃよかった」って思っちゃうことがたまにある、、、やるんだけど、あるじゃない?ねっ。魂が見てくれて、神様って優しいから、「こんなとこで、お前、こんないいとこなんだから、いいとこと思えよ」ねっ。私だったらチベットの上だったら泣いて暮らさなきゃならない。そこでも魂の立派な人はいるんだよ。ねっ。あの人は、あそこですら極楽にしてしまったんだよね。ねっ。この、すばらしいここを極楽にしたいなってことなんです。いかがでしょう?
2024.02.10
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岡田無息軒翁一代記 岡田淡山(「報徳」1966年7月号初出、昭和二一年一〇月二三日大日本報徳社刊行)(一部補正し、またふりがなを補するなど読みやすくした。)1 翁の家系と一家の衰微 文化九年(一八一二)壬申(みずのえさる)七月十日、岡田佐平治清忠生れる。字至誠、無息軒と号し、幼名は佐次郎という。父は佐平治、名は清光、母の名は田鶴、市川市は周智郡下山梨村市川孫右衛門の女(むすめ)である。二男三女を生む。長女「雪」早く死す。二女「益」は山名郡川井(袋井市川井)の一木氏に嫁す。次男勇吉は文政九年二月を以て病で死す。三女三ツ掛川宿の鈴木陸平紙に嫁す。その次を佐次郎となす。 佐平治の家たる本姓加藤氏、肥後守(ひごのかみ)清正の裔(すえ)に係ると雖も、先世微々徴すべきなし。中宗曾次兵衛、専ら農事を営み、その子佐平治に至って、大いに基業を起し、田宅備り、貨財富める。子孫世々産業をおとさず、祖父清弥に至るまで、質朴を家風とし連年増殖して、名、遠近に聞こえる。清弥六男三女を生む。年五十五才にして没する。子女みな驕奢放縦にして貨財を視ること瓦礫(がれき)の如し。嗣子(しし)清光酒に沈湎(ちんめん・酒におぼれすさんだ生活を送る)して業を怠り、弟妹を治めることあたわず。家法乱れて、各自数千金を糜爛(びらん)する。加えるに享和年中、火災にかかり、清光の末年、内帑(ないど・財貨)ために空しくする。その妻市川氏(田鶴)賢にして節操あり。簿冊僅かにその緒を存することを得るのも、独りその力に係れる。2 翁、幼時五度(たび)転々として親戚に養われる 文化十四年丁巳、清忠六才にして、別家重兵衛の家に養われる。重兵衛は宝暦年中の分家するところなり。このとき主人倹素にして、やや貨財優(ゆた)かなり、よく書算に通ずる。 文政元年戊寅(一八一八)清忠七才にして佐野郡日坂宿の大須賀鬼卵の家に寄寓する。鬼卵はもと大阪の人であって、陶山と号し、書画及び著作を事とする。文政二年己清忠八才にして周智郡下山梨村市川孫右衛門の家に養われ、市場村加藤与左衛門の塾に通学する。孫右衛門は母の親戚なり。与左衛門は学があり、また詩賦に巧みなり。文政三年庚辰清忠九才にして、駿河国島田駅の和田長左衛門の家に居る。同五年壬午に至るまで、大井神社の祠官大井健司の塾に通学する。長左衛門は清忠の叔父なり。更に文政六年癸未(みずのとひつじ)に至り清忠十二才にして山名郡中泉村の青山忠兵衛の家に寓する。同七年甲申に至るまで大乗院に通学する。忠兵衛は清忠の叔母の夫である。 文政八年乙酉、清忠十四才にして再び別家重兵衛の家に養われて、九年丙戌に至り、初めて農事に服する。 この年、兄、勇吉病で死す。時に二十五才、これよりさき勇吉ふかく家徳の衰退を愁い、快復の意、常に切なり、焦心苦慮すると雖も、父は酒に沈湎して家政をかえりみず、叔父の亡状なる、その嗣家を破り、おのおの来って実家の財をもたらし去る。唯(ただ)その敗徳なきもの兄弟中一人あるのみ、潰崩(かいほう)せんとする勢いは、いかんともこれを支えるべからず。病に伏する三年、薬餌(やくじ)もその効なく長逝するに至った。3 十五才にして家に帰り再興のことに当る ここに於て、清忠嗣子となり、文政九年八月を以て家に帰る。この年七月親戚相会して、家則を改正せんとする。よって門戸を閉じ、家居を逼塞(ひっそく)し倉庫を売却する。駿州清水港の川口清助は清忠の叔父なり。清忠に言って曰く、なんじ自今、家を治める、それ終(つい)にいかにする。答えて曰く、「われまさに勤勉心力して、大いに家産を回復し、門塀府庫を修め、白壁甍(いらか)をつらね、王侯の居に比せん。叔父それ憂うることなかれ」と。而してひそかに思えらく、「あに汝らの力をからんや。」暫くしてまた問う。答えて曰く、「われ、まさに馬丁を以て口腹を糊(こ)せんのみ」と。蓋し、切歯扼腕に堪えず。「彼ら集まって、祖先の家産を破り、今また来て何の回復の法やあるや」と。奴輩また辞し帰る日、必ずまさに多少の家財をもたらし去らんとするか。果してその言の如しと雖も、父清光これを禁ずるあたわざるなり。 文政十二年乙巳(きのとみ)、清忠十八才にして佐野郡増田村葛嶺の門に入り、文学及び算術を学ぶ。葛嶺は松崎けん堂の門人なり。博学にして、詩文を善くし、ことに算術に通じ、周易を修める。門人数百人に及ぶ。清忠これに師事して通学すること年あり。 天保三年壬辰(みずのえたつ)、清忠二十一才にして妻高島氏を娶(めと)る。佐野郡長谷村高島甚左衛門の女(むすめ)である。その家質素にして、よく農事を治める。清忠初見(見合いの日)に、その女子の手指、亀裂(あかがり)の多きを見て、共に艱苦をともにするべきを喜び、速やかに納幣(結納)の礼を行なう。名は「貞」という。時に十五才である。 4 倉真(くらま)村の土地反別を改定する 倉真村下組の田畑高五一七石六升六合六勺三才、反別五四丁九反一一歩にして、古検地をさること、年歴久しくして通路混乱し、現在の反別に符合せず、久荒の土地多くして、境界互いに掠め、争訟絶えず村吏(村役人)私心を抱いて、かりそめにこれを修めんとするも連年ならず、民費かさみ、戸口窮を告ぐれども、徒手救うべからず。川流乱れ、堤防潰(つい)ゆれども、これが修理を加えるなし。清忠ここにおいて奮激して里正等を督励し、鎮守氏神に誓詞を奉げ、私心を去り、至公を表し、丹誠を凝らし、昼夜刻苦して、まず境界を正しくし、村内の田畑明細の地図を造り、段畝を概量して、以てこれを古検地に照応する。田畑反別、小前免割、詳細精緻をきわめ、ために貢租やや増減ありと雖も、村民誰も異言するものなし。成を告げるに及んで、各々押印して以て領主の検査を経たり。ここにおいて争訟とみに止み、村民始めてその堵(と)に安んじ、専ら力を農事に尽すを得たり。爾後その帳簿を以て、貢租の基礎となし、維新に至りても、誤謬あることなし。弱齢の業において、人以て難(かた)しとするところなり。5 掛川藩臣海津辰也に兵学をうける 天保六年乙未(きのとひつじ)、二十四歳にして掛川藩臣海津辰也に従って八幡流の兵書の伝をうける。海津は、姓は菅原、名は政徳、馬術を以て世に名あり。大坪本流、三曲伝来の大師と称す。かつて故ありて、禁固十三年を経て、ますますその秘曲を極める。禁固の日、著わすところ、鶏冠録あり。清忠これに師事することまた年あり。日用常行、終身斉家、物に接し、事に処する、臨機応変、みな兵を以てこれに教える。口授をうけること極めて多し。清忠大いに発明するところあり。ここにおいてその書を伝える。後、清忠の人に教える、その言によるもの頗(すこぶ)る多しという。 天保十年乙亥、清忠二十八才にして里正となる。この年十二月、父清光病んで死す。よって通称を佐平治と改める。 清忠の里正たるや、冗費を省き、薄帳を明諒にし、会計を精廉にして、貢納を厳にし、私債を寛にし、堤防を修め、河流を治め、溜池を増し、道路を広め、非堰を固くし、これより久荒の地、漸く墾闢(こんびゃく)して、人気一変するに至り、村民質朴を以て、業に進むもの、風をなすに至れる。これより先、民費を課出して、里正のところに収集するもの、年末は数日にわたったのであったが、清忠の里正となるに至って、まず十二月二二日、二三日を以て民費取立の期となりたるに、村民先を争って、日を終るをまたずして、必ず皆済することを得た。よって遂に以て郷里の例となすに至った。これは隣里になき所である。而して里正たること二十三年に及び、かつて一民の其の私を訴うるものなく、その簿冊も累積して今に至って歴々として敬すべく、廉かつ清というべきである。この年、長子良一郎生る。6、近藤廉之助に易伝をうく 天保十二年辛丑(かのとうし)、清忠年三十歳、掛川の藩臣、近藤廉之助に従って易伝をうける。廉之助は武人なり。砲術に長ずる。而してまた経学を兼ね、清忠これに易伝をうける。初め清忠の幼なるや、その母占筮(せんぜい・筮竹で卦 (け) を立て吉凶を占う)を善くする。側に聞いて簡易の封名を記す。かつその訓に曰く、「遠き慮(おもんぱかり)なきものは必ず近き憂あり」と、清忠これを思う久うする。近藤氏に従って経をうけるに及んで、これに問うに、周易を以てする。近藤氏これに伝えて余蘊(ようん)なし。是より以来、易を以て聖経の奥義とし、ふかくその理を究める。然りと雖も、人のために卜筮(ぼくぜい)を施すことなし。 而して毎年必ず正月元旦を以て、斎戒沐浴して、その年の豊凶を占うのみ。而してその占往々に験あり。子弟に教えて曰く、「易はこれ修身斉家、治国平天下の大経、専ら占筮を主とするものにあらず、君子安くして危うきを忘れず、存にして亡を忘れず、治にして乱を忘れず、これを以て、身安くして国家保つべきなり。然りと雖も、吾れはこれ農夫の分、国天下はわが事にあらず、夏日、薪の不足するのは、安くして危うきを忘れたるなり。故に冬日、十分に薪を採って積み置けば勤めたというべし、冬寒くして、にわかに袷(あわせ)の衣を求めて、得ざるは、これを治って乱を忘れたればなり。故に夏日に洗濯を施して、簡単におさめることを勤めたり。おおみそかに諸払いにさしつまりたるは、存にして亡を忘れたればなり。故に年中意を用い、冗費を省きて、質素を守ることを勤めたり」と。母の訓戒を懐にし、老いに至って、未だかつて皮膚をはなれず、後庭に山を築く、大極山と号す。曰く象を易に取る、その樹木はこれを身に譬える。少しく怠れば萌蘖(ほうげつ)参差(さんし)枝葉放縦、速やかに鋏を加えて、その形象を全たからしめるべし。 中央に自然生の榊樹あり、その幹直立して、かつてその抄少しく傾く。清忠長子に戒めて曰く、「中央はこれ主人の象、その幹直立、元の如し。蓋(けだ)しこれみな易によってその利を判ずるものなり。」7、寺田信胤につき弓術を学ぶ 天保十三年壬寅年三十一、周智郡牛貝村寺田信胤に従って弓術を受ける、鳴弦を伝う。この年又同郡下モ村西楽寺の僧、栄岳に就(つい)て、真言九字護身法を受ける。 寺田信胤は七右衛門と称する。日置流印西派弓術の嫡伝たり。清忠これに学ぶ数年、天保十一年印加の伝を得た、ここに至って鳴弦の法を伝える。このとき又西楽寺に入りて、潔斎七日、九字護身法を受ける、鳴弦(めいげん)の伝においてこの事あるを以てなり。清忠射を能くすると雖も、未だかつて人に授けず、おもえらく、「弓はこれ八幡大神の天下を治めし所以なり。曲直相待ち、陰陽相成ずる。以て強に克ち、弱を扶(たす)け威福並び行う。これ、あに賭博勝敗の小技ならんや。而して今の射を能(よく)するもの、徒(いたず)らに小技の末を喜び勝敗を以て事となし、身敗れ家乱るれども、敢て弓手を以て救うを知らず、先師寺田氏の如き、四壁草茅、人跡なきが如し。射の罪にあらずと雖も、自らまた深く誡慎せざるべからず、何ぞこれをみだりに人に授けんと。護身法は、是れ真言の秘密、天地の理を眼前に行うものなり」と、今尚毎朝、朝陽に向いこれを修めて、やすまず。弓矢数幹、その跡今に至って一点の錆なし、勤めたりと云うべきなり。8、掛川藩の地方用達となる 天保十一年庚子(かのえね)、二十九歳にして掛川藩の地方用達となる。地方用達は領内の長なり。いわゆる大庄屋なるものなり。下情を上達し、上意を下達す。上下の間に在ってよう塞(そく)なきを勤める。清忠この役に従う、三十四年未だかつて倦怠せず。上下これに依頼する。始め清忠の家をたもつや、自ら稼穡を勤め、節倹を守り、かたわら文字を励み、旧債消却、貨財増殖、まさにもって大いに素志を遂げんとする。この役に従うに及び、公務繁冗あるいは家を顧みるに、いとまあらざるものあり。すこぶる素志にあらずという。
2026.09.19
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「所さん、事件ですよ」(9月19日)で、今、ブルーカラーが注目されていると特集していた。アメリカではAIの進展でホワイトカラーの職がどんどんなくなり、ブルーカラーの人気が高まり、億万長者のブルーカラーも出ているという。「ネオ・ブルーカラー人材」とは、単なる肉体労働者ではなく、現場で身体を動かしながらも、専門スキルやデジタル知識を活用できる新しいタイプの人材を指します。従来のブルーカラーは「体を使う仕事」、ホワイトカラーは「頭を使う仕事」と分けられてきました。しかし近年、その境界線はあいまいになっています。たとえば、工場の設備管理ではタブレットでデータを確認しながら点検を行いますし、物流現場では在庫管理システムを扱う力が必要です。つまり今求められているのは、「現場力 × スキル × デジタル対応力」 をあわせ持つ人材です。AIや自動化が進む中でも、現場での判断力や微調整、安全管理といった仕事は人間にしかできません。そのため、「体を動かせるだけ」ではなく、「経験を活かしながら考えて動ける人」が評価される時代に変わってきています。ネオ・ブルーカラー人材とは、まさにそのような“進化した現場人材”のことなのです。ネオ・ブルーカラー人材が注目されている背景には、大きく分けて3つの社会変化があります。① AI・自動化の進展近年、AIやロボット技術の進化により、データ入力や事務作業などのホワイトカラー業務は自動化が進んでいます。一方で、現場での点検、保守、安全確認、対人対応などは、状況判断や臨機応変な対応が必要であり、完全な自動化は難しい分野です。その結果、「現場で判断できる人材」の価値が相対的に高まっています。② 深刻な人手不足日本では少子高齢化が進み、特に建設・物流・製造・介護などの現場職では慢性的な人手不足が続いています。実際に厚生労働省の有効求人倍率データでも、建設・物流・製造・介護などは、求人倍率が全体平均を大きく上回る高い水準で推移しており、人手不足が特に顕著です。人が足りないからこそ、経験があり、すぐに戦力になれる人材が強く求められているのです。③ 学歴より「実践スキル」重視へこれまでの日本社会では「どの大学を出たか」が評価軸になりがちでした。しかし現在は、実際に何ができるか、どんな現場経験があるかが重視される傾向が強まっています。特に現場系の仕事では、・トラブル対応経験・安全管理の知識・チームでの連携力といった実践的能力が評価されます。つまり、ネオ・ブルーカラー人材が注目されているのは、単なる流行ではなく、社会構造そのものが変化しているからなのです。
2026.09.19
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大智禅師偈頌講話 澤木興道偶作 その6【偶作】 寂光明土娑婆界 (寂光明土娑婆界)色裏膠青水上波 (色裏の膠青水上の波)浩浩村歌兼社舞 (浩浩たる村歌と社舞と)負恩者少報恩多 (恩に負く者は少なく恩を報いるは多し) 人間というものは、自己の幸福を探し求めておる。だが、どんなところに、この幸福というものがあるのか、それが問題である。 わたしは、いつでもそう思う。動物園のゴリラがよう病気をする。ゴリラとは限らんが、大蛇が病気をしても、ゴリラが病気をしても、動物園の方では大変な心配である。アフリカの砂漠から、大変な大仕掛けで捕えて来たやつ。あるいは南洋から捕えて来て、そいつを高い銭を出して買うたやつ。そういつを死なかしては大変じゃ。それだから、ゴリラが病気をすると、博士に三人も五人も診て貰う。われわれが病気をしても、そんな博士に三人も五人も診て貰わん。 わたしは診て貰うたけれども、ただじゃ。わたしは入院したが、内科のお医者さん、外科のお医者さん、外科の科長、院長さん、漢方の大阪の人、皆それはただじゃ。銭出しててよう診て貰わん。銭はありやせん。最初からもうチャンとただ診て貰う。ゴリラさんなどに銭を出して博士に診て貰うてござる。そうするとわれわれは、これはゴリラさんよりは貧乏なんだ。そんな博士の診察料を貯めてはおらん。どちらが幸福か。どちらが幸福かということは、これは人の知ったことではない。ゴリラはそんなことはなにも知らん。 ところが人間は、この人間の最上最高の使命を果たすべく、この使命に向かって努力しなければならん。そしてそれによって、「本当におれは幸福だ」と思う。この自覚を持たねばならん。これは人間に限る。例えば吉田松陰は食わんと死んでも、首を斬られて死んでも決して死なん人である。それ故、本当に幸福な人である。牢屋の中におっても、牢屋の中を一つの教場として、牢番はじめ皆これを教化する。 ここから見ると、教育家としては、吉田松陰以上の教育家というものは、近世には見つからんような気がする。吉田松陰は、道を説く上においては本当に使命を果たした人である。また本当の幸福を、牢屋の中で味わった人である。牢屋の中を一つの教室と心得ておる。月給を取りに行く教室と違う。そうすると、そこが娑婆即寂光浄土であることは申すまでもない。(大智禅師偈頌講話p.205-206)
2026.09.23
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下館談話記【四】その2(現代語訳のこころみ)戌年以来の諸帳面を閲覧して、これもよくない、あれもよくない、実行に足るものはないというならば残らず焼き捨てるべきである。一書も余すことなく焼いてその後に私もまた(曾子と同じように)下館のことを免れるを知るといえよう。善を見て行わないのも勇気が無いからだ、不善を見て捨てないのも勇気がないからだ。人生は限りが有る、いずれの時を期して一定しないのか。そもそも戌年の頃、下館藩の急難は極まっていた。あの時にこの仕法がなければ、困窮は月々に増し、歳々に迫っていたであろう。上が困窮すれば下が取る財がない。下の限りがある財で限りのない望みに供する、数年もたたないで国中が衰微し、民は飢寒を免れないようになろう。このようになっては国があるといってもどうして亡国に異なろうか。そうであるのにこの大患を免れただけでなく、10年以上無難に年月を経て、それだけでなく数万両の借金を払って、今日に至る。その事の功績は平常のことではない。もし仕法がない時には市中の財は尽きて、困窮した民が離散することは疑いない。今、家々が潤っていることは戌年以前に倍している。中兵(下館藩の御用商人)が才能があったとしても、どうしてこのような豪邸を造ることができよう。ほかの7人衆もどうして今日の安泰が得られよう。これは皆、国の憂いを私が背負ったから人々の幸せが存するのではないか。一藩もまた同じだ。戌いぬ年とし以い来らいの諸しょ帳ちょう面めんを閲えっし、是これも不ふ可か也なり。彼かれも非ひ也なり。行おこなうに足たるものなしといはば残のこらず焼やき捨すつべし。一書しょも余あまさず焼やきて然しかる後のち、我われも亦また下しも館だての事ことを免まぬがるを知しれり。善ぜんを見みて行おこなわざるも勇ゆう無なき也なり。不ふ善ぜんを見みて棄すてざるも勇ゆう無なき也なり。人じん生せい限かぎり有あり、何いずれの時ときを期きして一定ていせざるや。夫それ戌いぬ年としの頃ころ一国こくの急きゅう難なん極きわまれり。彼かの時ときをして此この仕し法ほうなくんば、困こん迫ぱく月つき々づきに増まし、歳さい々さいに迫せまらん。上かみ困こんすれば下しもに取とる事こと度どなし。下しも限かぎりある財ざいを以もって限かぎりなき望のぞみに供きょうす。数すう年ねんならずして国こく中ちゅう衰すい微びし、民たみ飢き寒かんを免まぬがれざるに至いたらん。斯かくの如ごときは国くにありといへども何なんぞ亡ぼう国こくに異ことならんや。然しかるを此この大たい患かんを免まぬがるのみならず、拾じゅう有ゆう余よ年ねん無ぶ難なん星せい霜そうを経へ、剰あまつさえ数すう万まん金きんの借しゃく債さいを贖あがなひ今こん日にちに至いたる。其その事じ功こう平へい常じょうの事ことにあらず。若もし仕し法ほうなき時ときは市し中ちゅうの財ざい尽つき、困こん民みん離り散さん疑うたがいなし。今いま市し塵じんを見みれば戸こ々この潤じゅん沢たく戌いぬ年とし以い前ぜんに倍ばいせり。中ちゅう兵へい才さいありとも如い何かにて斯かくの如ごときの花はな屋おく(豪邸)を造つくるを得えん。外ほか七人にんのもの何なにを以もって今こん日にちの安やすきを得えん。是これ皆みな国くにの憂うれいを我われ背せ負おいたる故ゆえに衆しゅう人じんの幸さいわい存そんせり。一藩はんも亦また然しかり。
2026.09.26
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「ユマニチュード」という革命 p.214 ユマニチュードの4つの柱「4 立つ」その1「見る・話す・触れる」の基本となる柱に加え、ユマチチュードが第4の柱として重視しているのは、「立つ」ということです。子供が初めて立ったとき、周りの人はとても祝福してくれます。本人にとっても、「自分もまた同じ人間なのだ」と誇らしく感じる瞬間かもしれません。立つことは間違いなく、人がアイデンティティを確立していく基礎となっています。それだけ私たちにとって立位はとても大切なものです。 ユマニチュードの定義を思い出してください。ケアする人は健康に問題のある人のケアを行います。あなたがその人をケアするのは、その人が美しいからでも、感じがいいからでもありません。あなたがプロフェッショナルだからです。そうであるならば、立つことが健康に対してどういう影響を与えるかをきちんと理解しておく必要があります。 立位は骨や関節、呼吸器、心臓などの循環器系、皮膚などに影響を与えています。 たとえば、関節の滑らかな動きにかかせない軟骨を見てみましょう。軟骨の80パーセントは水分です。そのため膝であれば、立ち上がると軟骨に圧力がかかり、水がギュッと押し出されます。その水はどこへ行くかというと、骨の中です。骨には栄養分が多く含まれており、そこに水が浸透していきます。かかっていた圧力が弱まると今度は水に溶けた栄養分が軟骨に吸引されます。つまり負荷がかかることによって、軟骨に栄養が行き渡るメカニズムなのです。ですから動くことがなければ軟骨は栄養不足に陥ります。全身の関節に栄養を行き渡らせたい。さて、どうすればいいでしょうか?立って歩くことは骨や関節に重みをかけることができ、全身の運動になります。 それに48時間、寝たままでいると靭帯は固まり、関節の可動範囲が狭まってきます。柔らかくするためには立たせたり、歩かせたりしなければなりません。筋肉はどうでしょうか。80歳を過ぎた人が1週間動かないと、筋力は15パーセント低下し、それが3週間になると45パーセント程度低下します。筋肉を維持するには、やはり歩く必要があります。 骨はどうでしょう。力が加わったときにその負荷をキャッチするセンサーが骨に備わっています。圧力に応じて骨は自ら強くしようと働きます。やはり固い骨をつくろうと思うなら立って歩かなければなりません。 また、寝たきりの状態になると呼吸機能は低下します。立ったり、歩いたりすると肺の容積は広がり、機能が活発になります。そうすることで肺炎のリスクを減らすことができます。 次に循環器系です。血液は心臓によって圧力をかけられて血管を流れていきます。ただし、静脈には圧力がかかっていません。足の裏には静脈網が広がっており。立って歩くと、そこに圧力がかかります。足の裏の静脈のポンプが立って歩くことで押さえつけられ、その圧力によって血液が上がっていきます。さらに脚の筋肉の収縮運動によって血液が上がっていきます。さらに脚の筋肉の収縮運動によって下肢の血液は心臓へと還流します。つまり、血流のために立つこと、歩くことは欠かせないのです。 最後に皮膚への影響はどうでしょうか。入院の大きな問題のひとつが褥瘡です。これは血の流れの停滞が原因です。歩いていれば、血液は体をちゃんと巡りますから、褥瘡はできません。 患者に対していちばんやってはいけないことは、動かないよう拘束することです。徘徊を抑える神経系の薬を飲ませるのも同じです。 人間にとって、立って歩くことは知性の要でもあります。赤ちゃんは手あたり次第、いろいろなものに触ります。そうすることで、いまの手や腕の動き、また自身が空間に占める位置を感覚的に得ています。立って歩くという運動と感覚によって知能は向上し、距離や時間を学んでいくのです。 赤ちゃんにとっては、お腹が痛いこととお母さんがいないこととのあいだには違いがありません。また、撫でられたり、自分に向けられた笑顔を「心地いい」と感じます。しかしそれとミルクの温かさとの違いがまだわかりません。だんだんと距離感を学んでいき、やがて母親と自分は違うとわかるようになります。「自分は独自で唯一の人間である」という認識は、「私は立って歩く独立した存在なのだ」という感覚的な理解が導くのです。 立って歩くことは知性の要だと言いました。実際、長らく歩いていなかった人に歩いてもらうと急に話し出します。体を動かす。歩くことは知性の根幹であり、また人間であることの証でもあるのです。このような事実を、ケアする人には是非わかってほしいと思います。ナーレ杉並上井草 ホームブログ「立つ」ことの重要性 ~ユマニチュードの技法を実践した認知症ケアへの取り組み~今回はこの「立つ」ことについての当ホームでの取り組みをご紹介いたします。ある日、車椅子のご入居者が、作業療法士(OT)の指導のもと、歩行訓練を開始されました。最初はまず、立つことから始めます。「ではAさん、よろしくお願いしますね」OTの声掛けにゆっくりうなずかれるAさん。足を肩幅に開き、両手で平行棒をしっかりとつかみます。「いいですよ。ではお辞儀をするようにゆっくりと頭を下げて、腰を浮かせていきましょう」横で手を添えていてくれているOTの声掛けに従いながら、ご自身のペースで立ち上がっていくAさん。足に力を入れて、しっかりと立位が取れました。「いいですよ!では支えていますから、右足から一歩前に出してみましょう。大丈夫!」真剣な表情のAさん。固唾を飲んで見守るOT。一瞬の沈黙ののち、第一歩が踏み出されました。一歩前進!そしてAさんは、足元からゆっくり視線を上げて、満面の笑みと共にこのガッツポーズです。どうだ!といわんばかりに。「Aさんすごいです!やりましたね」とのOTの声掛けに笑顔でうなずくAさん。Aさんの生活背景も含めた包括的な理解に努め、お気持ちに寄り添う声掛けや身体への触れ方でご本人の「立ちたい」「歩きたい」という内発的な意欲を引き出し、実現に導いたOT。Aさんが示したガッツポーズは、自己の尊厳を実感できた喜びの表れであり、私たちに究極の喜びをももたらしてくださいました。ユマニチュードで最も大切なのは「相手を深く理解する」ことだと思います。この方は「どのような人生を送られ、何をすることがお好きだったんだろう...」等と思いを巡らせ、少しずつ相手のことを知りながら、一人の人として関係性を築いていくこと。それがその方らしさを大切にできるケアにつながっていくのではないでしょうか。そして、この技法は、私たちソナーレが取り組む"Life Focus"の実現にも通ずるものがあると思っています。ソナーレでは、高齢者の方々との関わりから得られた"気づき"と、そこから実際のケアにつながる事例をたくさん掲載した「目で見てわかる認知症ケア」という本を監修しています。ぜひ、こちらもご覧ください
2026.09.26
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体操女子種目別ゆか決勝 杉原愛子が金メダル アジア大会■体操女子 種目別決勝 ・床(25日、名古屋市総合体育館〔レインボーホール〕)体操女子の種目別決勝・ゆかが行われ、杉原愛子(27、アローヴラボ/TRyAS)が金メダルに輝き、個人総合に続き大会2冠を達成した。西山実沙(16、相愛高/なんば体操クラブ-ngc)も銀メダルを獲得し、日本勢がワンツーフィニッシュを飾る快挙を達成した。8人で争われた決勝に日本からは杉原と西山の2人が出場した。3番目に登場した杉原はこの日、平均台に続き2種目目の挑戦となった。予選をトップで通過した杉原、序盤で伸身の2回宙返りを見せたが、ラインオーバー。それでも笑顔で客席に手拍子を求め、伸身の前宙もきれいに決めるなど、演技終了後はガッツポーズも見せた。14.033の得点が出ると、笑顔を見せ、ジャンプして喜んだ。6番目に登場した西山。今大会の個人総合で銅メダル、段違い平行棒では銀メダルを獲得している。西山は、後方の抱え込み2回宙返りを決めるなど、曲に合わせた伸びやかな演技を披露、会場からも大きな拍手が送られた。演技終了後、杉原と笑顔で抱き合った西山の得点は、13.900をマークした。【体操女子種目別・ゆか結果】金)杉原愛子 14.033銀)西山実沙 13.900銅)張怡涵(中国) 13.566
2026.09.26
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《年間6万人超が死亡》高齢者の命を脅かす「誤嚥性肺炎」を防ぐ、医師がすすめる「1分のごっくん体操」食事前にマメに行っておでこ体操飲み込む力が強くなり、のどがつまったりつかえたりしなくなる効果がある。1~2を4回で1セットとし、食前に2~3セット行うようにしよう。1・イスに座って正面を向き、両手をおでこに当てる。2・おへそのほうを見るように、おでこを強い力で下げ、両手はそれに抵抗するようにやや下向きに押し返す。これを5秒キープしてから1に戻り、5秒休む。POINT 机に座ってひじをついて行ってもOK。ひじが机についていると、両手でおでこを押す感覚がわかりやすい。頸椎症の人は無理に行わないこと。腰上げごっくん体操 ムセや飲み込みの違和感に加え、逆流性食道炎の症状もある人におすすめ。尿もれの改善効果もある。1~4を4回で1セット。朝晩に1日3セットずつ行おう。1・枕は使わず、床の上にあおむけに寝て、両足を肩幅に開いてひざを直角に曲げる。両手は手のひらを下に向けて身体のわきに置く。2・腰(お尻)をできるだけ上げる。肩からひざまでが一直線になるのが理想だが、無理はしないこと。このとき、お尻を締めるようにすると、尿もれの対策にもなる。※この姿勢をとることが大変な場合は、枕を腰の下に入れて行ってもOK。3・腰を上げた状態で、力強く唾液(つば)を飲み込み、この姿勢を10秒キープする。4・ゆっくり腰を下ろして、呼吸を整える。POINT 飲み込んだ唾液が、のどから胃に到達するまでに10秒かかるので、最低でも10秒はあけて繰り返す。食事の直後に行うのは避けよう。息を強く吐き出す! ハフィング息を吐き出す力が強まり、呼吸機能が向上する。誤嚥物やたんを吐き出すときにも役立つ筋肉を鍛えられる。1~2を繰り返して1日3セット行う。1・イスに座り、鼻からゆっくり息を吸い込む。2・口から声を出さずにできるだけ強く「ハッハッハッハッ」と息を吐き、最後に「ハーッ」と息を吐き切る。吐くタイミングに合わせて両腕で胸郭を圧迫する。*肋骨を手で覆うようにして胸郭を圧迫しようPOINT 最後まで息をしっかりと吐き切ることが重要。息を吐くことが重要なので、声は出さずに行って。
2026.09.26
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なぜ「ノーベル賞」の日本人受賞者は多いのか? ノーベル化学賞「白川英樹博士」が賛辞を惜しまなかった“先人たちの奮闘”と、“母語で学問を学べる”という恩恵白川氏は東京工業大学の研究室で実験中、触媒濃度を取り違えたことがきっかけで、偶然に常識を覆す膜状の物質を得た。さらに9年間、地をはうような地道な研究を続け、米ペンシルバニア大学の研究室で劇的な導電性を持つ物質の製法を発見し、産業応用への道を切り開いたのだった。 白川氏は、津山藩の藩医で蘭学者だった宇田川榕庵(うだがわようあん1798年~1846年)を高く評価する。「私自身、化学研究で大変お世話になった人」だという。どういう人物だったのか。「津山藩は当時とても先進的で、榕庵は化学と生物学に非常に興味を持っていました。英国の化学者ウィリアム・ヘンリーが英語で書いた教科書が、ドイツ語から更にオランダ語に翻訳されて長崎にもたらされた。それを和訳して「舎密開宗(せいみかいそう)」全21巻を出版しました。その中で彼は、酸素、水素、窒素、炭素、白金、元素、酸化、還元、溶解、分析といった化学用語を生み出しました。どの単語も見ただけでその意味が分かり、視覚的にイメージできるよう、漢字の組み合わせが実に的確に工夫されている。現代の私たちもそのまま容易に理解でき、利用しているのです」「榕庵は、植物学についても、根、幹、茎、枝、葉、花、果実などの部位を、その機能によって細かく分け、属などの分類を行い、内部構造にも細胞などの名前を付けました。これは薬草の学問として発展してきた本草学とは大きく異なります。このように近代西洋植物学を日本に初めて紹介したのが宇田川榕庵なのです。解体新書もそうですが、日本人にはもともと、外観だけでなく内部の仕組みも正しく観察しようとする考え方や精神風土があったのだと思います」こうした西洋の知識の吸収・翻訳に努める日本人の姿勢は、明治になっても引き継がれた。お雇い外国人を2690人も採用したのはその1例である。高給取りの外国人をこれほど大量に雇うエネルギーは一体どこから湧いてきたのか。 江戸時代から明治維新を経て、先人たちはあらゆる学問分野で、オランダ語・ドイツ語・英語などの文献と取り組み、思考を巡らせて的確な日本語に翻訳してきた。 例えば、キリスト教神学の用語は、明治6年(1873年)に江戸時代の禁教令が廃止されたことを受けて、外国人宣教師と日本人研究者の共同作業によって翻訳が始まり、明治13年に日本語の新約聖書がようやく完成した。「そうした言葉と概念によって、日本の学問や文化が過去から今の時代へとつながっている。現代の日本人は、日本語で学ぶことを当たり前だと思って気にも留めませんが、先人たちの大きな恩恵に浴していることを忘れてはいけません」「グローバル化はますます深化しており、世界共通語である英語をコミュニケーションの道具として学ぶのは当然のことです。しかし、それは母語である日本語をしっかり身に付けた上でのこと。まず日本語でしっかり考え、理解し、それを的確に伝達できるようにする。日本語で論理的に説明できない人が、英語で論理的に説明できるはずがありません。英語はコミュニケーション言語としてとても大事ですが、科学者であれ、ビジネスマンであれ、日本語がしっかり身に付いている人ほど、一層核心に迫った理解ができるし、発想の自由度が大きいと体験的に感じています」
2026.09.20
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大智禅師偈頌講話 澤木興道偶作 その5【偶作】 寂光明土娑婆界 (寂光明土娑婆界)色裏膠青水上波 (色裏の膠青水上の波)浩浩村歌兼社舞 (浩浩たる村歌と社舞と)負恩者少報恩多 (恩に負く者は少なく恩を報いるは多し) わたしは坐禅の会を、丸の内の有楽町駅の傍らの蚕糸会館の七階でやった。あすこは恐らく、まあ日本一やかましいところであろう。とにかく、省線はシューッと通る。急行列車はゴウーと通る。その下のぐるり界隈をチューチュー、パッパ通る。電車はチンチンガタンガタン通る。夕刊売りはチリンチリン鈴を振っておる、それはまあ、とにかく世界中の騒音をひと所へ集めたような、実にやかましいところじゃ。そればかりならいいけれども、隣りの部屋では碁の会を行なっておるやつがある。こっちの部屋では謡をやっておる。こっちは坐禅の会をやっておる。かなわん。そうすると、その謡のやつのところに能の会があって、その稽古をやっておる。「おーおー」「そこで右の足をトンとー」とか言うてー。それが襖一つ向こうじゃ。襖のこっちは坐禅をやっておる。まったくかなわん。吹き出すわけにいかん。黙って坐っておる間は、向こうは誰もおらんと思うて、それこそ傍若無人にやっておった。ところが、坐禅がすむと、今度はこっちが「大智禅師発願文―」と大きな声でやったから、向こうびっくりして迷惑したことであろう。わたしは味噌の腐るような声でやっておるのと違う。このドラ声でやりたくる。提唱をする。とにかく、あすこは非常に足がかりは便利じゃけれども、坐禅をするにはいいところではない。いいところ悪いところというても、何をするのにいいところかというのが問題である。昼寝をするのにいいところもある。徹夜で勉強するのにいいところもあるし、坐禅するのにいいところもある。だから、一つの世界がいろいろに見える。それだから十界互具。十界というのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏。この十界に、互いにどこでも十界がある。地獄にもある。餓鬼にもある。人間にも地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏―。でたらめにきめたものではない。ここからここが地獄、ここからここが餓鬼、ここからここが修羅、もっと端的にいえば、人間の生活態度、または考え方によって、そこに十界というものが出来る。だから、この十界のうち、どこの世界にいても、自分のおるところを浄土にしよう。自分の踏みしめておるところを極楽にしようというのが、われわれの修行である。よう浄土宗の仏さんを見ると、両方の足に蓮花の花を受けておるのがある。あれは、おもしろいと思う。それは、自分の足の踏みしめるところに、蓮花の花があるという、こういう意味を、表現したものであろうと思う。(大智禅師偈頌講話p.203-205)
2026.09.22
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卓球男子団体、日本が中国を撃破し60年ぶり金メダル!張本智和が2勝の活躍、44年ぶりの決勝で悲願達成【アジア大会】9/24(木) ■第20回アジア競技大会 卓球男子団体 決勝 日本 3ー2 中国(24日、スカイホール豊田)卓球の男子団体決勝が行われ、日本は中国と対戦。3戦先勝方式のなか3勝2敗で勝利し、1966年バンコク大会以来、60年ぶりとなる金メダルを獲得した。日本は前日の準決勝で韓国を3ー0で下し、1982年ニューデリー大会以来44年ぶりに決勝進出。今年5月の世界卓球団体決勝では0ー3で敗れた中国との再戦を制し、地元開催のアジア大会で悲願の頂点に立った。第1試合に登場したのはチーム最年少となる19歳の松島輝空。対するのは、8連覇中の中国で世界ランキング1位の王楚欽(26)とあって、会場は日本にもかかわらず中国の大声援が響き渡った。同ランク3位の松島は序盤から積極的に仕掛け、バックハンドが冴えわたった。第1、2ゲームを連取。第3、4ゲームはフットワークを活かした王に連取され第5ゲームへ。ゲームカウント2-2となり、第5ゲームは一進一退の攻防。先に5点目を奪うと、コートチェンジし、2連続失点でタイムアウト。気持ちを切り替えて、渾身のカウンターショットが決まるなど同点とした。しかしマッチポイントを先に奪われ、そのまま振り切られた。第2試合の張本智和(23)も第1ゲームを奪い、流れを引き寄せたかったが、温瑞博(19)に第2ゲームを奪われるなど接戦。第3ゲームを11-4と圧倒すると、第4ゲームを取り切り1勝1敗とした。第3試合は戸上隼輔(25)が元世界ランク1位の林詩棟(21)と対戦。第1ゲームを連続ポイントでリードするも追いつかれ、逆転を許し9-11と先取された。第2ゲームは11-4で奪い、ゲームカウントを1-1に戻した。第3ゲームでは連続スマッシュで先制したが、中盤で逆転されて、落とすと第4ゲームも奪われた。後がなくなった日本は第4試合に再び張本が登場し、対する中国も世界1位の王楚欽がコートに立った。第1ゲームは序盤リードされるも、同点に追いつくとそのまま11-7で先取。さらに第2ゲームも11-4で連取すると、第3ゲームは王の反撃に遭うも振り切った。日本は2勝2敗とし、第5試合は松島と温の同世代対決となった。第1ゲームから手に汗握る展開。第1試合で世界1位に善戦した松島がこの試合でも積極的な攻めを見せ、11-7で先取。第2ゲームは出だしからリードされるとそのまま逃げ切られた。ゲームカウント1-1となり、第3ゲームはチキータで2点のリードを奪うと、一気にたたみかけ、11-6で奪い、60年ぶりの金メダルにあと1ゲームと迫った。そして第4ゲームで3-2とリードすると、温も焦り連続失点。松島が勢いそのままにこの試合を制し、日本に金メダルをもたらした。💛張本選手2勝 温選手に3-1、王選手に3-0最後松島選手が温選手に3-1勝利 で3-2で日本金メダル見ごたえのある素晴らしい試合👏
2026.09.24
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新渡戸稲造の母の死去に関する内村と宮部の慰めの手紙内村鑑三 一八八〇年(明治一三年)七月二八日 札幌にて 内村鑑三日記書簡集第5巻三頁 第一信(英文封書)陸中盛岡 太田(新渡戸)稲造殿 札幌農校 内村鑑三七月二八日 札幌にて 親愛なる兄弟パウロ 函館からの手紙が届き、一同心から喜んだ。君の旅行が陸路は快調に、海路もさして不快でなかったとのことに、一同大喜びである。君の今後の旅も安全・快適ならんことを。君の手紙が学校へついたときには、われわれ七人は(フレデリックを除き)定山渓へ行っていて留守だった。一同、同地に四日を過ごした。持参の重い荷物と、あらゆる種類のブヨの攻撃とに悩まされながらも、実に愉快な、大成功の遠足だった。その間チャールズ(広井勇)は野望にかられて、豊平川の水源に向かって二度探検を試み、その結果、彼が久しく渇望していた貴重な砒石の岩層には達しなかったが、川岸で一個の大きな砒石塊を発見した。それゆえ僕の(同時に我々の)最悪の敵は大食漢(藤田九三郎)だった。彼は怠け者で、しかも他人のエネルギー(物理学の表現を借りていえば)の最大の、また恐ろしい消費者である。君がわれわれの一行の一人でなかった事は感謝である。君は今、異教主義という暗い深淵にただ一人のクリスチャンの星として輝いていることと思う。「厳冬に臨んで、初めて常盤の松を識別できる」と昔の中国人は言っている。われわれが、愛と平和と善意とが熱心に求められているクリスチャンの兄弟たちの間にいるときには、バラ、桜草、ツバキ、ゼラニウム、エニシダ、シクラメンなどがいっせいに同じ花壇に咲き乱れて、たえず我々の眼にさらされていても、残念ながら我々は、その美しさに見飽き、彼らに水そそいで、熱心に、努力して、誠意をもって、彼らの成長を助けることを怠るのである。それどころか手荒く、いなしばしば、手きびしく、扱うのである。しかし可憐な桜草が、コホベ、ヨモギ、スゲ、イなどが圧倒的に優勢な、すさまじい雑草の群の間に、咲いているのを想像してくれたまえ。当然われわれはその優しい美しさを賞でて、その成長を妨げる妨害物を取り除き、根元の土をやわらげ、支柱をたててその発育をうながすだろう。 兄弟パウロよ、僕は信じている。(僕が昨年の夏体験したように)、君が札幌のクリスチャンの兄弟たちのことを思えば思うほど、君はいっそう彼らにとって親しいものとなり、かつ我々もまた、君について、思えば思うほど、また君が我々といっしょにいたときに、君に対する愛と情において我々が欠けていたことを思えば思うほど、いっそう我々は後悔の念にとらえられ、君に対する結び付きをいっそう強くされ、君のためにささげる祈りは、君もよろこんでくれると思うが、いっそう熱烈になるのである。我々の間にこのような偽りなき愛を恵みたまえる神の聖名はほむべきかな。我々の心と心をつなぐ鎖は、「壊ちる黄金よりもはるかに貴く」、永遠に不滅でなければならない。距離は遠く、君と我々とをへだてる海は広い。しかしそのへだたりが増せば増すほど、我々の結びつきと心持とはいっそう強くなる。神の聖名はほむべきかな。 我々は目下、皆無事で健康状態もふつうである。測量の方は僕の体が弱いため余り成功とはいえない。それゆえ僕の財産がふえることについては余り心配しないでくれたまえ。しかし藤田は非常に頑健なので、君が札幌に帰ってくるときには、大した金持ちになっているだろう。植物学者[宮部金吾]は少々疲れている。化学者[高木玉太郎]は少々頭痛を訴え、工学者(野心家の)[広井勇]はとても金に困っている。豚学者(ピゴロジスト)は小説を読んでいる。体育館とカハウ[佐久間信恭]とは変わりない。 次の機会まで、サヨウナラ 君の古い兄弟にして友なる ヨナタン[内村鑑三]二伸 君のお母さんと、もしお父さんが目下盛岡におられたら、お父さんとに、くれぐれもよろしく。我々のために祈ることを忘れないように。我々も絶えず君のために祈っている。第二信(英文封書)内村鑑三日記書簡集第5巻五頁 陸中盛岡 新渡戸様方にて 太田稲造愛兄 大至急 八月三日発す 札幌農校 内村鑑三一八八〇年(明治一三年)八月三日 札幌にて 親愛なる兄弟パウロ〔新渡戸稲造〕 盛岡からのお手紙昨夕着、我々は一大衝撃を受けた。ーそのため我々は食欲を失い、暗涙にくれた。いつも陽気な連中が、誰も彼もだまりこんでしまった。我々は自分を君の境遇に置いてみた。ーおお! 何たる悲しい、たえがたい試練か!君が生まれ故郷を訪れた唯一の目的は、疑う余地もなく、お母さんに会うことだった。しかも、ああ! ああ!お母さんは君の到着以前にすでに逝かれたのである。兄弟よ、僕にはどう君を慰めたらよいのかわからない。「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい」と使徒は言っている。僕は君に対する自分の気もちや強い同情がどんなであったか、また今あるかについて語ることを避けるが、在札幌のクリスチャンの兄弟たちの悲嘆の状を伝えることとする。エドウィン〔足立元太郎〕は昨夕から食事をとろうとしない。一週間前から頭痛を訴えているフレデリック〔高木玉太郎〕も同様である。フランシス〔宮部金吾〕は悲嘆の余りベッドの上に伸びている。ヒュー〔藤田九十三郎〕は自分の年老いた両親が、君のなつかしいお母さんと同じ運命に陥ったらどうしたらよいのかと案じつつ、今まで熱心にやってきた測量の仕事に、今朝はとりかかろうとしないでいる。チャールズ〔広井勇〕は、持ち前の男らしさから、自分の悲しみや同情の念を顔にこそ出さないが、静かに、物思いにふけりながら、君を想う忍び難い心持ちをハッキリと見せている。兄弟よ、こうしたしらせは、君の悲しみを慰める役には立たないかも知れない。しかしこれらはすべて、僕は心から証言するが、偽善から出たものでも、体裁をつくるものでもないのだから、我々の恵み深き父なる神が、我々のハートの中に住まわせてくださったところの、真の友情と兄弟愛のしるしとして、受け取ってくれたまえ。兄弟よ、神の道は、我々の道と違う。君はヨブの忍耐について、すなわち彼が引き続く苦難にいかにたえたかを知っているはずだ。君はモーセとエリヤについて、彼らがしばしば自分たちの期待に反する事をたくさんになさしめられたが、最後に幸福と希望と繁栄との栄冠を授けられたことを覚えているはずだ。我々は選ばれた子孫、すなわち特殊の民で、神、すなわち広大さ、偉大さ、力強さをもって全宇宙の創造主にいましながら、同時に憐れみにとんで、孤児と苦しむ者との友にいます神に、永遠の希望を寄せる特権を授けられた者ではないか。もし君のお母さんが君から福音を聞かされてから、それを信じることなく、永遠の眠りについたとしたら、お母さんは福音の光に照らされることに死んだよりもはるかに大きな、はるかにひどい刑罰にあわれなければならないのである。今後のことは、神が定めておいて下さったところではあるまいか。おお!キリストにある愛する兄弟パウロよ、君の試みを「イエス・キリストの現れるとき、賛美と栄光と誉れとに変」らせてくれたまえ。君にとり大きな、しかり、確かに最大の試みではあるが、しかし「火で精錬されても朽ちるほかない金よりもはるかに貴い信仰の試錬」である。 兄弟よ、悲しみに負けないでくれたまえ。悲しみは君の健康に大害があるし、君は健康を取り戻すために故郷を訪れたのだから。君の亡きお母さんは、ご自身の身体以上に、君の健康を案じておられた。勇気を出して、強い健康な人たるべく努めてくれたまえ。そして君の祖国と、神と、大切な君の家名と、君自身とのために立派な有益な働きをして、君の亡きご両親を喜ばせるように努力してくれたまえ。《身を立て 道を行い 父母の名を後世に挙げるは 孝の至りなり》君のために祈ることを決して忘れない。兄弟よ、愛する兄弟よ、僕は心から期待し、祈っている。身体は健康に、信仰は生気にあふれ、希望はあふれ、恩恵にみちみちた君に再び会い得んことを。 君の最も親しき兄弟にして友なる ヨナタン・内村鑑三 ご親戚の皆さんへくれぐれもよろしく宮部金吾(封書英文)明治一三年(一八八〇)八月三日、札幌から盛岡へ 佐藤全弘訳、編者において「ポール」「ジョナサン」を「パウロ」「ヨナタン」に変更した〕 親愛なるパウロ 七月二二日付の君の手紙は、昨晩、いつものように当初は大喜びで手にしたが、しかし、ーその手紙の中身をくわしくよむと、ああ、親友からー霊における親友からー受けとるにはあまりにも残酷な頼りだった。君に何と返事してよいかわからない。君をどう慰めてよいかわからない。君の懐かしいお母さんが亡くなられたー君の到着の三日前にーそして今は墓の中におられると、君からはじめて知らされたとき、君がどんな気持がしたことか、僕はあわれな父親の無い子の心で想像できた。パウロよ、君のばあい、他の人々とは事情が違うことがわかる。君のやさしい、感じやすい心には、あまりにも耐えがたいこともわかる。これは君の信仰の火の試練なのだ。しかし、兄弟よ、雄々しくまたキリスト信徒らしくありたまえ。そしてこの試練を「聖書の忍耐と慰め」で終わりまで耐え忍びたまえ。君も承知のように、君自身の魂は、世界全体をまとめて与えられても、それよりも君にとっては価値があるのだ。神のみ心については性急な結論を下すべきではない。とりわけ僕たちの祈りへの応答については。というのも、神の側には僕たちが求めた以上に、僕たちの魂の安泰によって、より高く、より良い配慮がおありかもしれず、それは、僕たちの限られた知恵では思いもつかないからだ。恵みと憐れみにあふれる神、父無き者、孤児の父は、僕たちの祈りを聴き、もし僕たちの祈りが神のみ心にかなうなら、また全き信頼をもって求めたのなら、遅かれ早かれ、何らかの仕方で、それに応えてくださるのだ。君を試そうとする火のような試練について、まるで何か思いがけないことが君に生じたかのように思ってはいけないよ。そうではなくて、君がキリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びたまえ。神の栄光があきらかにされる時には、君もまた溢れる喜びをもって悦ぶことができるように(一ペテロ四の一二、一三)。そうすれば、「恵み溢るる神、キリスト・イエスを通じてその永遠の栄光へと僕たちを召された神は、君がしばらく苦しみをなめた後、君を完全にし、強め、力づけ、不動のものにして下さるのだ。」(一ペテロ五の一〇)。というのも、「僕たちの主イエス・キリストご自身、さらには父なる神が、・・・・・恵みにより、永遠の慰めを僕たちに与えてくださったのだから。力強くありたまえ。」(二テサロニエ二の一六)。「勇気を出したまえ。パウロ」(使徒行伝二三の一一)。 僕は君のために祈りつづける。「心砕けた者を癒やし、その傷を包んでくださる」(詩編一四七の三)方の永遠の慰めにより、君が力づけられるようにと、また君の信仰が強められ、君の希望が拡大されるように、また「君が憐みを受け、恵みにあずかって、必要な時にかなう助けをいただくため」(ヘブル四の一六)変わりない清い心と信仰をもって、「大胆に恵みの御座に近づくようにと」、さらにまた、君の健康が速やかに回復し、君の言行が他の人々にも影響して、彼らを僕たちの主の恵みと憐れみにより、永遠の光へと導くようにと。 君の誠実な友なる フランシス・K・宮部 パウロ・太田殿 追伸 ご尊父、ご令兄たち、ご令姉たちにくれぐれもよろしく。僕たちの信仰と身体の健康のために祈ってくれたまえ。
2026.09.19
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大智禅師偈頌講話 澤木興道偶作 その4【偶作】 寂光明土娑婆界 (寂光明土娑婆界)色裏膠青水上波 (色裏の膠青水上の波)浩浩村歌兼社舞 (浩浩たる村歌と社舞と)負恩者少報恩多 (恩に負く者は少なく恩を報いるは多し) そうすれば、寂光明土というのは、けっして、これは地理的のもの、固定したものではない。極楽の真っ只中で苦しんでおる。極楽へ行ったら、窮屈でしようがない。朝も晩も坐禅で休みなし。ちょっと浅草まで行って、鯉コクを食ってくるという調子に行きやせん。ちょっと上野まで出て、精進アゲを食ってくるという調子に行きやせん。だから極楽というところが地獄か、地獄というところが極楽か、それはわけが分らん。 地獄というところは、ごく気楽なところ、破廉恥のところで、どんなことをしても恥ずかしゅうないところである。小便はし放題、糞はたれ放題、鼻歌はうなり放題。極楽へ行くと、鼻歌どころか、ドスンと一つ音をさして歩いても、「シーッ」といわれんならん。極楽というところはタマッタものではない。それで、どちらがいいか。悪いか。 ここに「娑婆即寂光浄土」という言葉がある。それを転換して作ってある。「寂光明土娑婆界」すなわち現象世界であるならば、無自性。無自性であるならば皆空。だから、皆空を皆空とすれば、そこが寂光明土。どうでもない。それを人間というやつは、バタバタ逃げたり、追うたりしておる。鬼ごっこをやっておる。大騒動―。逃げんならんところがあるかというと、逃げんならんところはない。追うところもない。逃げて逃げて終せるものではない、追うて追いつけるものではない。それをヤッサモッサやっておるのが、この世界なのである。 この中身の作り替え。わたしはいつでも懐中時計のネジを右に回せば、すぐしまる。左へ、回しておれば、何万年回してもしまる気づかいはないという。それと同時に、同じ世界でも、見方によっていろいろに違う。(大智禅師偈頌講話p.202-203)
2026.09.21
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Q.最近注目されているという「ヨーグルトファースト」とは、どんな食べ方ですか。なぜヨーグルトなのでしょうか。市原さん「ヨーグルトに含まれるタンパク質が、インスリンの分泌量を増やす『GLP-1(グルカゴン様ペプチド-1)』という腸管ホルモンの分泌を促すので、食後の血糖値の上昇を緩やかにすることが期待できます。食後に食べるよりも、最初に食べることでGLP-1の分泌はより促されます」食事の最初にヨーグルトを食べる“ヨーグルトファースト” 食後血糖値の抑制効果がヒト試験で明らかに名古屋大学名誉教授の大澤俊彦氏「先行研究でもたんぱく質や脂質の含まれるものを食前に摂取することで食後血糖値の急激な上昇を抑えることが研究されており、たんぱく質や脂質を含むヨーグルトが消化吸収を緩やかにすることで食後血糖値の上昇が抑えられたと考えられる」【試験方法】 健康な20~40代男女各10名に、A~Dの4パターンの食事を規定の時間で食べてもらい、食後の血糖値を経時的に測定し、血糖値(平均値)の時間経過による変化を調べた。 A 包装米飯150gを摂取 B サラダ101gを摂取したのち、包装米飯を138g摂取 C 包装米飯120gを摂取したのち、ヨーグルトを200g摂取 D ヨーグルト200gを摂取したのち、包装米飯120gを摂取 【試験結果①】ヨーグルトの血糖値上昇抑制効果 白米だけを食べた(黒)時に比べ、ヨーグルトを一緒に食べた(黄、赤)時のほうが血糖値の上下動を抑えることができた。さらに、白米の後にヨーグルトを食べた(黄)時に比べ、ヨーグルトを先に食べた(赤)時の方が、血糖値の上がり方が緩やかになった。【試験結果②】ベジタブルファーストとの比較 ヨーグルトファースト(赤)は、ベジタブルファースト(緑)と同等もしくはそれ以上の血糖値抑制効果があった。また、食後2時間経過時の血糖値はヨーグルトの方が抑えられた。
2026.09.23
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大智禅師偈頌講話 澤木興道偶作 その7【偶作】 寂光明土娑婆界 (寂光明土娑婆界)色裏膠青水上波 (色裏の膠青水上の波)浩浩村歌兼社舞 (浩浩たる村歌と社舞と)負恩者少報恩多 (恩に負く者は少なく恩を報いるは多し) わたしは小菅の刑務所に行ったことがある。あすこはもう長期の刑者ばかりおる。短期の人はおらん。十年、十五年という人ばかり、あるいは一生、娑婆へ出られんという人もおる。ああいう人達はちょっとも妄想分別がない。 酒一杯飲みたいと思ったことがない。たばこ一服吸いたいと思ったことがない。わたしはあすこに十年、囚人と一緒に置いて貰うたら、本当に立派な人間が出来やせんかと思った。そうすれば地獄の中にも極楽はある。 提婆達多が地獄へ落ちておる時に、阿難が見舞いに行った。「提婆、苦しいか」これは兄弟だからー。ところが、提婆は「なにをいうておるか貴様の知ったことではない。おれはここにおって、三十三天の妙薬を受けておる。こんな愉快なことはない」と、こういった。実に提婆というやつは痛快なやつである。けっして地獄の中で苦しんでいない。そこの要領である。そこの要領を一口にいうたのが、この「寂光明土娑婆界」である。 娑婆即寂光浄土というと、極楽は西にあると思っておる人がある。よう「極楽は西にある」こういう人があるけれども、そこの道理、西にある道理、それはわかっておる。が、また一休にいわすと、 極楽は西にもあれば東にも きた道探せみんなみにあり これはおもしろい。これは漢字で書いてはいかん。「極楽は西にもあれば東にも、きた道探せみんなみにあり」いわゆる三界は唯一心である。わたしは、これを主観的事実であるという。めいめい極楽におるか、地獄におるか。人間にまごついておるか。餓鬼道にまごついておるか。飯を食い過ぎて、腹八分と分っておるのに、十二分食いよる。それは餓鬼道なんだ。気兼ねする人がないと、食い過ぎるという。えろう気兼ねをする人に睨んでおって貰わんと。食い過ぎる。よう食うやつと思われんと、食い過ぎる。「なんの病気しておる」「食い過ぎておる」それで青瓢箪みたいにー。 うまいものなら十二三杯食う。味ないものなら、二杯くらいクチャクチャ食うておる。それでついに栄養不良、それで、いろいろな病気につけこまれる。これは人間の弱点である。それで、まあこれは主観的の事実。本当にうまいか、本当に味ないか。本当に極楽か、本当に地獄か。これは人は分らん。極楽のつもりで餓鬼道におる。人間のつもりで地獄におる。二本の足で歩いて、餓鬼道をやっておる。畜生道をやっておる。極楽の真っただ中で娑婆をやっておる。娑婆を演じておる。(大智禅師偈頌講話p.206-208)
2026.09.24
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余が菓子商として五年間に売上高を十倍にしたる営業法 その2 次に家政経費調べをした これより先き、私は報徳教を聞いてから、どうかこれを己の身分相当に自分の執る仕事の上に実行してみたいと思った。それにはそうすればよいか。二宮先生が小田原侯から野州桜町の四千石の領地興復を命ぜられたとき「決して金はいりませぬ。この荒蕪を興すには荒蕪の力をもって興します。我が国が開闢以来今日までに開けたのは決して外国から金を入れたということはない。やはり我が国は我が国の力で開けたのである。で、この開闢元始の道に基づいて四千石の興復をいたしますから金は決していりませぬ」とお答えをして開墾が出来上がったのである。これは農業であるが、しかし天下の事業はすべてこの通りでなくてはならぬ。この精神をもって、この法に基づいてどうか自分も実行してみたいと思った。そこで先生の四句の文に従い、あしたには暁星を戴いて起き、終日仕事をして更に夜なべまでして三更深くまでも勤労をし、自分の分を守り、堅く無益の費用を省いて分度を立て、一年の利益があればこれを次年に送り、次年の製品を安く売って、いわゆる推譲をしようと決心し、先ず毎年の経費を調査した。 調査の結果経費の二割を節約した 私の家の経済は養父も別に心得がなかったので、一切不明であった。そこで自分で調査して見ると、家の経費が二百六十円で一ヶ年の売上金額が千三百五十円である。これで計算すると現在の純益歩合が二割五分ということになる。しかし菓子商で二割五分の利益とは少し困難である。確実な計算とすれば二割であろうと思った。そうすれば一ヶ年の得るところ二百余円で五十円ばかりの不足となる。しかし明治十年からは自分という一人の労働が新たに加わる。のみならず入費も不整頓であるから、これを聖噸すればいくらかの節約が出来るに相違ないと思ったので、先生の仕法に基づいた家政経費調という書類を借りてきて、これを先例として自分の家政を分析してみた。その結果、食物衣類等経費の項目がおよそ三百余種あったが、その中には是非とも欠くべからざるものと欠いても左まで苦にならぬものとがあった。それを一々より分けて節約の出来る経費がちょうど五十円位あることが解った。 次に残した金で商品の価を安くした 明治十年からは新しい人間になった積りである。一方には身を節し用を省いて専心経済を治め、他方には「勤労を主とす」る主義に則って未明から夜半まで働いた。さてその年の暮れになって計算して見ると一ヶ年の売上金額が千九百円まり、二千円足らずで、経費は予算の通りであったから、節約した五十円の外に計算外の利益五十円を得て、合せて百円の金が残った。そこで翌年はこの金を二百五十円とするには既に内、百円が手元にあるから、差引百五十円を二千円の売上金から残せばよいのである。二千円に対する百五十円といえば、ざっと七分に当る。先ず一割の利益を得ればよいというソロバンが立つ。そのソロバンに合うだけに品物の値を安くすることが出来る。値が他店に比べて安いのであるから売上高がズット増加して第二年の終りには三千五百円となった。従来の商いの口銭(こうせん)は単に外々の同業者の振合い見て競争に堪えられる限り一杯の値に売っていたのであるが、私は荒地主義で分外を利用して安く売ったのであるから、得意はたちまちにふえ、売上高が増加したのである。 五年間に売上高が十倍になった この筆法で五ヶ年間、商業を続けたところが、第五年目には売上金が一万円、利益は僅かに五分取っても沢山になって来た。資本金も始めは二百六十何円しかなかったのが、五年の終りには千三百何円となった。これで私は荒蕪の力を以て荒地を拓くという主義は何の事業にも応用される、天下これに由りて起らぬ事業なしという先生の説に一点の疑いもなくなった。 その後、私はこの五ヶ年間の帳簿とその着手当時の計算書とを持参して岡田良一郎氏―氏の父は二宮先生の高弟で、氏もまた先生の道を修め、始終先生の教えを諸方に伝えることに尽瘁され、斯道(しどう)の泰斗(たいと)として師事された人であるーの所へ行き、始終の話をした時、岡田氏も至極賛成されて、自分も多年この道を講じ、自分も行い、人にも勧めたけれども君の如くに荒蕪の主義を商業に応用したもののあるを聞かぬ、実に斯道の模範であると激賞された。
2026.09.26
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「余は如何にしてキリスト信徒になりしか」内村鑑三「第三章 初期の教会」より抜粋 我々が我々の私室において形成した小さな「教会」について述べる前に、私はここにその会員たちの個性的な特性の若干を記さなければならない。(A)我々のうちの最年長者はヒュー〔藤田九三郎〕であった。彼は数学者であり技術者だった。常に実際的であった。そして現生の金銭を目的とした、もちろんキリスト教徒的目的をもってであるが。実務において人を公明正大にすることができれば、彼はキリスト教の理由を大いに研究することを必要としなかった。彼はあらゆる種類の卑屈と偽善とを嫌悪した。そして彼が豊富に貯えておいた巧妙なジョークがしばしば「教会」の中で飛び出し、特に手痛い傷をその犠牲者にこうむらせた。彼は常に教会の信頼すべき財政維持者で、しばしばその会計係りだった。そして何年かの後には我々の新しい教会堂のために「材料の強度」を計算した。(B)次に年齢の順ではエドウィン〔足立元太郎〕であった。彼はよい心の男であった。何事にも率先し、同情が呼び起こされればすぐに涙ぐみ、そして常に「事務総長」として調法であった。クリスマスに献堂式に、彼はあらゆるものを立派にきれいに見せようと、しばしば「食事を忘れた」ものであった。神学の勉強は彼の得意ではなかった。「絵入りキリスト教週刊」のなかのいくつかの物語は、バトラーの「アナロジー」やリッドンの「バムプトン講演集」にある名論卓説よりも彼を多く感動させ、彼の豊富な涙をより多く引き出した。(C)フランシス〔宮部〕は我らのうちでもっとも円満な性格をもっていた。『何者にも悪意を向けず、全ての人に対し思いやりをもち』(リンカーンの第二期大統領就任演説)である。『彼は天性善人である』とわれわれは言うのを常とした。『そして彼は善人であろうと努力する必要がない。』彼の存在が平和であった。そして初期の教会が会員間の不和や神学者の憎悪のためにまさに崩壊しようとした時、彼は北極星(the cynosure:ラテン語 Cynosūra 小熊座)であって、我々はその周りをもう一度平和と調和をもって回転しはじめたのである。彼は国中第一の植物学者となるようになった。そしてキリスト教平信徒として彼の奉仕はその国人のあいだに神の国を前進させるにあたり、常に計り知れないほど貴重なものであった。(D)フレデリック〔高木〕は、ヒューのように、実際家であったが同年輩の少年に珍しい機敏さと眼識とを備えていた。彼が特に愛した学問は化学であった。そして彼は国中一流の技術者の一人となった。彼の学問の上達は相当のものであった。彼は教師の助けなしにドイツ語、フランス語に上達し、シルレル、ミルトン、シャークスピアを楽しむことができた。彼はキリスト教の根本教義のうちのあるものには疑惑をいだいたが、しかし自らそれにあたってこのような難問をことごとく解決することができないことを早くからさとった。彼は『純粋無垢な生涯』をめざして前進していった。そして人間の判断の及ぶかぎりにおいてはそれを達成したのである。彼のあまりに実際的すぎる常識は時には『教会』の子どもらしい空気とははなはだ合致しないことがあった。しまも彼は耐えた、そしてわれわれも耐えた。そして4年の長い間に彼はきわめて稀にしか集まりを欠席しなかった。(E)パウロ〔新渡戸〕は『学者』であった。彼はしばしば神経痛に悩んだ。また近眼であった。彼はすべての事を疑うことができ、新しい疑問を製造することができた。そして何事も自分がそれを受取ることのできる前に吟味し証明しなければならなかった。彼は自分の別名をトマスとつけるべきであった。しかし彼の眼鏡といかにも気取った学者的風采にもかかわらず、彼は心に偽りのない少年であった。そして安息日の朝の集まりでは摂理と予定について陰鬱複雑な懐疑をもって「教会」の熱心を冷却させた後に、その日の午後の桜の花の下の野遊びには仲間と一緒に参加することができた。(F) チャールズ〔広井〕は複合的性格であった。彼はその機敏な常識においてわずかにフレデリックに劣るだけであったが、しかしキリスト教に対する知識的態度においてはいっそうに似ていた。彼は多くの熱心な青年のように神と宇宙とを彼の知識の助けをかりて理解し、自分自身の努力によって神の永遠の律法に文字通り自分自身を一致せしめようと試みたが、それに失敗して彼はキリスト教のまったく異なった一面に傾き、「善きわざの福音」を信ずる彼の信仰に落ち着いた。彼は学識ある技術者となるようになった。そして実質的な形をもってする彼の同情は、教会の内部たると外部たると何か実際的の善事が意図されているとき、つねに信頼することができる。(『ボーイズ・ビー・アンビシャス第四集』二二頁)Before entering into the description of the little "church" we formed in our private rooms,I must notice here some of the personal traits of its members.(A) The eldest of us was Hugh. He was a Mathematician and Engineer; was always practical, and had solid cash in view, of course with Christian aim. He need not inquire much into the reasons of Christianity, provided it could make men fair and square in business. He hated meanness and hypocrisy of all sorts, and his tact in tricks, of which he had a fertile resource, often cropped out in the "church," inflicting peculiarly painful wounds upon his victims. He has ever been a reliable financial supporter of the church, has often been its treasurer, and calculated "strength of materials" for our new church-building some years afterward.(B) Next in age came Edwin. He was a good-hearted fellow, foremost in everything, ready with his tears when his sympathy was called for, and was always serviceable as "Commissioner for Arrangement." At Christmas, in Dedication services, he would often "forget his meals" to have all things look nice and pretty. Dig in theology was not his. Some stories from the Illustrated Christian Weeklies impressed him more and drew more of his abundant tears than the best argument in Butler's Analogy or Liddon's Bampton Lectures.(C) Next in age came Edwin. He was a good-hearted fellow, foremost in everything, ready with his tears when his sympathy was called for, and was always serviceable as "Commissioner for Arrangement." At Christmas, in Dedication services, he would often "forget his meals " to have all things look nice and pretty. Dig in theology was not his. Some stories from the Illustrated Christian Weeklies impressed him more and drew more of his abundant tears than the best argument in Butler's Analogy or Liddon's Bampton Lectures.(D) Francis had the roundest character among us, with " malice toward none, and charity toward all." " He is naturally good," we used to say, " and he need not exert himself to be good." His presence was peace, and when the incipient church was on the point of dissolution on account of personal animosities or odium theologicum among its members, he was the cynosure around which we began to revolve once more in peace and harmony. He turned to be the best Botanist in the country, and as a Christian layman his service has always been invaluable in the advancement of God's kingdom among his countrymen. (E)Frederick, like Hugh, was a practical man, but with shrewdness and insight uncommon with a boy of his age. His favorite study was Chemistry, and he became one of the foremost Technologists in the country. His literary accomplishment was considerable. He mastered German and French without the help of instructors, and could enjoy Schiller, Milton, and Shakespeare. He doubted some of the fundamental teachings of Christianity, but he early saw the impossibility of disposing all such difficulties by applying himself at them. He pressed on with a "pure, spotless life" in view, and as far as human judgement goes, he attained it. His too-much practical common-sense was sometimes not very congenial with the boyish air of the "church." Still he bore, and we bore, and for four long years, he very seldom was absent from the meeting.
2026.09.26
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「札幌農学校 蝦名賢造」p172-174 広井勇 広井勇は在学中に教頭ホイーラーから数学と土木工学とを学び、卒業後開拓使の御用係となって、土木部門に進んでいる。しかし卒業式の広井の演説は「北海道農民には宜しく道徳を奨励すべし」という題目で、彼もまた農業に重要な関心をはらっていた。 広井は鉄路課に勤務中、北海道最初の鉄道である小樽ー幌内間の工事に従事している。その後開拓使の廃止とともに東京の工務部に転じ、22歳のとき自費によって同期生の先頭をきって渡米した。大島正健は「チャールス(広井勇)は吝嗇な奴だと同窓の間に悪評が立ち始めたが、聊か目的があるのだから黙っていて呉れ、と彼は囁いた」としるしている。 広井はこのようにいわれるまで刻苦して貯えた資金をもとに、1883年12月10日、横浜を発って渡米する。この広井の行動が同級生の洋行の刺激となり、翌年9月には新渡戸(23歳)、つづいて11月には内村(24歳)、さらに3年後には宮部金吾(27歳)の順にアメリカに渡ることになり、おたがいにそれぞれの専門分野の研究にいそしむ結果をひきおこすことになる。このことはまた、のちに日本の学界、思想界、精神界に一時代を画する前触れともなっていくのである。 広井が渡米した当時、アメリカではすでに大陸横断道路が完成しており、5万2千マイルもの鉄路が張りめぐらされていた。広井は主にミシシッピー河の治水工事、鉄橋架橋などの実地研究に参加し、十分な知識を得る。現地で彼が刊行した「プレート・ガートル・コンストラクション」Plate GirdleConstruction という論文は、先進の米国人をして驚嘆させたという。 広井は渡米中の1887年4月1日、新渡戸とともに札幌農学校助教に任ぜられて、即時土木工学研究のため満3年間ドイツ留学を命ぜられる。しかし農学校に工学科が開設される都合上、召還されて1889年7月帰国した。ただちに教授に任ぜられ、翌年より北海道技師を兼務し、一時は土木課長として北海道の開拓に貢献した。 広井が土木工学科の主任教授となり、北海道庁土木課長を兼任したとき、彼はまだ弱冠32歳であった。貿易港として発展の途上にあった函館や、道内最大の商港になった小樽港の築港は、彼の設計と指導によるものだった。広井はその後、日本の主要港湾となった室蘭、釧路などの築港や鉄道敷設に従事し、北海道開拓の基本施設たる鉄道、港湾建設に貢献するところが多大だった。彼は1889年3月、工学博士の学位をさずけられている。 その後、同年9月に東京帝国大学工科大学教授に任ぜられ、1919(大正8)年にその職を辞するまでの約20年間、幾多の優秀な土木技師を輩出させるとともに、該博な学識と独創力をもって理論の研究につとめ、我が国の橋梁力学や築港学の進歩のために大きな業績を残した。東大教授として学生を薫陶していた際、「橋を架けるなら、人が安心して渡れるようなものを造れ」と教えたそうであるが、広井の面目躍如たるものがある、と島田清治はしるしている。 1921(大正10)年5月、上海港改良に関して、英、米、仏、中国、日本など7カ国による国際会議が開かれたことがある。英国からはかつてロンドン港の技師だったパーマ、アメリカからは元陸軍技監ブラック中尉、フランスからはスエズ運河技師ベリエー、オランダはフリー、スウェーデンはヘルネルなど斯界の権威者が選出され、日本からは広井が代表として出席する。 その会議での議論の中心は、揚子江流の長さ約35マイルにも及ぶ砂州を浚渫して航路を開設すべしとの英国委員の提案についてであった。他国の委員はみな賛意を表したが、広井はその提案の不備な点を見いだし、これを論駁したものの、いれられなかった。彼は、こういうことではわざわいをあとに残し、会議に責任を負う委員の一人として忍び得ないとし、約7日間みずから調査し、その根本的誤謬を指摘して工事を批判する論文を提出した。その論旨の正確さは全委員を傾聴させ、原案はついに保留になったといわれている。 広井勇の北海道開拓に残した業績は、小樽市の公園に銅像として象徴されている。1928(昭和3)年10月1日、東京牛込の自宅において狭心症により逝去した。享年67際であった。
2023.08.15
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ウクライナ、新型巡航ミサイル「フラミンゴ」を初の実戦使用か…最大射程3000kmでシベリアも一部圏内にウクライナが自国製の新型巡航ミサイル「フラミンゴ」を実戦で初めて使用した模様だ。最大射程は3000キロ・メートルとされ、シベリアの一部も射程圏内に収めるとみられている。ウクライナは、今冬にも量産を始めたい考えだ。 ウクライナのメディア「ミリタルヌイ」は、ロシアが一方的に併合した南部クリミアを8月30日にウクライナが攻撃した際、「フラミンゴ」が投入されたと報じた。露連邦保安局(FSB)の前哨基地や船艇が破壊されたという。 製造元によると、「フラミンゴ」は1150キロ・グラムの弾頭を搭載できる。射程が長く、モスクワや西部サンクトペテルブルクにとどまらず、ウラル山脈の東側まで届く計算だ。 ウォロディミル・ゼレンスキー大統領は8月20日、「フラミンゴ」の発射試験が成功したと公表。製造ペースは現在1日1発とされるが、12月にも量産体制に入るとの見通しを示していた。 米欧はウクライナに供与する長距離ミサイルについて、露領内への攻撃に制限をかけている。このため、ウクライナは使用制限のない国産ミサイルの開発を急いでいる。ロシアの後方支援拠点を破壊し、和平への圧力を高める狙いだ。 対艦巡航ミサイルを改良したウクライナの「ロング・ネプチューン」は射程1000キロ・メートルで、搭載できる弾頭は最大350キロ・グラム程度とみられている。ドローン(無人機)での攻撃も続けているが、小型の爆弾しか運べず、目標を完全に破壊できないとの指摘がある。
2025.09.03
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藤井 風、怒涛のメディア露出でチャート1位を獲得 新アルバム『Prema』はどこまで広がるのか9/15(月) 藤井 風の最新アルバム『Prema』のセールスが好調だ。9月10日に公開されたBillboard JAPAN総合アルバムチャート「Hot Albums」では総合首位(※1)を獲得。週間アルバムセールスチャート「Top Albums Sales」(※2)、ダウンロードアルバムチャート「Download Albums」(※3)のどちらもを制しての1位となった。本作は9月5日にリリースされたため、集計期間である9月1日~9月7日のうち3日間のみが対象だったのにもかかわらず、好成績を残している。また、9月5日付のiTunes世界アルバムチャートでも初登場10位という快挙を成し遂げた。 『Prema』は、前作『LOVE ALL SERVE ALL』から約3年ぶりのアルバムである。リリース日前後にはライブやメディア出演といった出来事も複数あった。 まず大きなトピックとしては、ビリー・アイリッシュのワールドツアー『HIT ME HARD AND SOFT TOUR』の日本公演にてオープニングアクトを務めたことだろう。藤井は8月17日公演に出演。『Prema』収録の「Love Like This」「Hachikō」をはじめ、「花」「何なんw」といった楽曲をパフォーマンスして観客を沸かせた。 8月31日、9月7日には、音楽番組『EIGHT-JAM』(テレビ朝日系)にて2週にわたり「藤井 風特集」がオンエアされた。藤井は2021年に、無観客ライブ『Fujii Kaze “Free” Live 2021 at NISSAN stadium』の模様を届ける形で同番組に初出演。今回はおよそ4年ぶりの出演となり、120分にも及ぶ彼へのロングインタビューが行われた。“全編英語詞のアルバム”という新たな挑戦に、「腹をくくるまでが大変でした」と裏での葛藤を明かしていた藤井。加えて、作詞の方法や複雑なコード進行など、プロの音楽家たちから寄せられる深い質問に一つひとつ丁寧に答え、彼の楽曲の魅力が深掘りされていった。 アルバムリリース日の9月5日には、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)に初出演。1曲目の「Hachikō」はスタジオからの披露かと思いきや、実際は楽曲にちなんで渋谷からの生中継という驚きの演出で届けられた。さらに、放送中にスタジオに移動すると、アルバムの表題曲「Prema」をテレビ初披露。「Prema」のパフォーマンスは事前に予告されておらず、嬉しいサプライズの連続だった。彼のパフォーマンススキルの高さはもちろん、そのエンターテイナーぶりに惹きつけられた視聴者も多かったことだろう。 そして、9月8日には『徹子の部屋』(テレビ朝日系)にも初出演。この日は「いつも素敵なお召し物をされているので、一張羅をおろしてこなければ」と、司会・黒柳徹子への敬意とユーモアを滲ませながら、「Hachikō」のMVで着用している犬を模した衣装で登場した。途中でキーボードを手に、番組のテーマソングや、黒柳が好きだという「死ぬのがいいわ」を演奏する一幕も。また、トークでは「お願いするんじゃなくて、されるほうになりなさい」という父からの教えを明かしたうえで、「『求められる人にならなきゃ、ここからどこかへはいけないだろうな』って思ってましたね」「『求められる人になろう』っていう努力を自宅でしていたし、自宅からいろいろなものが配信できる時代でもあったので。『できることをしよう』ってなりました」と、岡山の自宅での演奏動画をYouTubeに投稿していた時期を振り返った。2020年のデビュー以降、瞬く間にスター街道を駆け上がった藤井だが、今に辿り着くまでに地道な努力を重ね続けてきたのだ。そんな彼の誠実でひたむきな姿勢も伝わってくる放送だった。 ライブや数々のTV番組への出演を通して、アルバムリリースをさらに盛り上げた藤井。彼のパフォーマンスやトークに触れて関心が強まった人も少なくなかったことは、好調なチャート成績からも想像できる。アルバム『Prema』がどこまで広がっていくのか、この先も目が離せない。
2025.09.15
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米専門家がAIと量子計算で中国のレアアース支配打破を主張も「極めて非現実的」―香港メディア2026年2月15日、中国メディアの観察者網は、米国の一部専門家がAIと量子計算技術を活用してレアアース代替材料を開発し、中国によるサプライチェーン支配を「迂回」できると提唱したのに対し、複数のアナリストが「極めて非現実的」と冷や水を浴びせたことを報じた。記事は、香港の英字紙「サウスチャイナ・モーニング・ポスト(SCMP)」の報道を引用し、米テクノロジー企業SandboxAQのジャック・ヒダリ(Jack Hidary)CEOが先月の世界経済フォーラムで、AIと量子計算が二つの強力な計算手段として機能し、豊富な素材を使ってソフトウェア上で合金を設計することで、レアアースなどの代替材料を合成できると主張したことを紹介。新鉱山の稼働に通常10〜20年を要するところを、数年で調達できるようになると「豪語」したと伝えた。その上で、「豪語」に対して多くのアナリストが一斉に否定的な見解を示したとし、米コンサルティング会社House Mountain Partnersのクリス・ベリー(Chris Berry)代表が、AIと量子計算に関する多くの構想は「誇大宣伝」の域を出ておらず、採鉱・材料分野でいまだ実質的な成果が見られないと指摘したことを紹介した。記事によると、ベリー氏はさらに、中国が長きに渡りAI・先進計算・材料科学に投資し続けており、新材料の創出においても中国メーカーが先行している可能性が高いと分析するとともに、合金設計の段階から始めて商業化生産を実現するには相当の時間が必要だとも論じている。記事はまた、業界団体「重要鉱物研究所」のジャック・リフトン(Jack Lifton)共同会長が、現段階のAIには人間の判断力や経験を代替する能力がないと指摘する一方で、中国は冶金において他の追随を許さない深い専門知識と豊富な経験を有しており、「粘り強く経験を積んだ者だけが成功の望みを持てる」と述べたことを紹介した。さらに、英国発展研究所(IDS)の沈威(シェン・ウェイ)研究員が、仮に米国が実験室で新材料を設計できたとしても、商業化には材料の安定性、規模化生産能力、コスト管理という三つの壁を越える必要があるとし、「完全な産業エコシステムは一夜にして構築できない」と警告したことにも言及した。このほか、外国直接投資などを専門とする弁護士の薛凱(シュエ・カイ)氏が、たとえAIが代替材料を見つけても実験室から工業化生産への規模拡大は「長く資本集約的なプロセス」だと説明し、AI主導の材料代替が仮に成功したとしても、中国の戦略的地位への影響は「非常に限定的」にとどまるとの見方を示したことを紹介している。
2026.02.18
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💛300円ショップで リュックを背負う時に冷やすアイテムがあるというのでショップに出かけたら、 売り切れています とのこと。【3COINS】の「リュック用保冷ポーチ」調べてみると、いろいろな種類の背中が冷えるリュックのアイデア商品が売り出されているようだ。リュック愛用者必見の「背中冷却ファン」! 約3000円で夏の“背中の汗”問題を解決富士通ゼネラル「背中が冷えるリュック」、通勤に快適さ運ぶ開発の軌跡「コンディショニングバックパック」を開発した、富士通ゼネラル Being Innovative Group ウエアラブル事業部の仲田氏が新製品を着想するきっかけになったのは、2020年夏の通勤時当時は新型コロナウイルス禍が真っ盛り。在宅と出社が半々の勤務形態が続いていた。自宅ではエアコンが効いた快適な環境で仕事ができるが、悩みは通勤だった。川崎市にある本社には最寄り駅から歩いて約20分もかかる。パソコンを入れたバックパックを背負って会社に着くころには、汗でびっしょりになっていた。富士通ゼネラルは2020年6月に、初代の“身に着けるエアコン”「 Cómodo gear(コモドギア)」の提供を開始していた。ただし、こちらのターゲットは建設現場や製造現場、物流倉庫など暑さが厳しい環境下で働く作業員向けである2020年夏には、新規事業創出に向けた社内公募制度「The future of innovation challenge(FIC)」が新設された。同氏は9月に、「ビジネスパーソンの移動を快適にする」というコンセプトのアイデアをFICに応募。1次選考で50件程度の中から選ばれた。就業時間の10%を自分の好きな仕事に充てられるという「10%ルール」での開発が許可された。「ビジネス用のバッグはなるべくシンプルな方が好まれるため、周囲に気づかれず冷却できることが大事だと考えた」仲田氏は当初から、冷凍して繰り返し使える保冷剤を採用することに決めていた。各種の冷却技術を比較検討した結果、想定用途には保冷剤が最適であると判断したためだ「排熱およびファンを必要としない点が保冷剤を選定するに至った第1の理由。さらにコスト的にも優れている」保冷剤の冷熱(常温より温度の低い熱エネルギー)を利用して背中を広範囲に冷やすためのシステムを考案した。具体的には、冷水循環装置と冷却シートから成る
2023.06.28
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報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す孫右衛門笑ふて曰く、世人(せじん)己れの利を計る者と雖も、猶(なほ)予(われ)の絶窮(ぜつきゆう)を見ば高利の金も貸すべからず。然るに無利息の財を以て人を救ふものあらんや。果して之あらば必ず別に利とする處(ところ)あらん。子(し)の言に從(したが)ひ此の如く危地(きち)に近付くべきやと云ふ。浦賀の二人も大いに先生を疑ひ決せず。宗兵衛再言(さいげん)して曰く、先生不凡(ふぼん)の大人(だいじん)何ぞ平常の事を以て疑はん。若し各(おのおの)の察する如きの人ならば速かに止めん而巳(のみ)。若し請うて先生許容あり、千金を借り家を興すことあらば大幸にあらずや。未だ其の人に逢はずして之を疑ふ何の詮(せん)かある。各(おのおの)予(われ)に誑(たぶら)かされたりとして試(こころ)みに往(ゆ)き之を求めよ、何ぞ一往來の爲に大幸を廢(はい)せんやと。孫右衛門猶疑ふて決せず。浦賀の二人可(か)なりと答ふ。然れども未だ果さず。時に某(ぼう)年小田原候の命に由(よつ)て、先生相州(さうしう)足柄上郡竹松村に至り貧邑(ひんいふ)再復の道を行ふ。大磯宿より道程(だうてい)十餘(よ)里、宗兵衛此の事を聞き、時至れりと悦び、再び孫右衛門に往き教へを受けんことを告ぐ。浦賀二人も共にこれを勸(すゝ)む。孫右衛門思へらく、一度往きて無利息金を借ることを得ば、忽(たちま)ち家を興(おこ)し驛人(えきじん)の目を驚かし、彼等が無道を報ゆるの道あらんか。先生如何(いか)なる人なりとも、無縁のものに大金を貸さんこと思ひもよらず。然(さ)れども縁者の言も棄難(すてがた)し。行きて之を試みるには如(し)かずと。始めて之に同(どう)じ共に竹松村に至れり。 孫右衛門の妻は、浦賀の宮原屋の娘だった。そこで義父の宮原屋与右衛門、縁者の清兵衛門を大磯に呼んで恨みを報い、家を興す算段をした。宗兵衛もこの席に呼ばれ、妻の誠が無になることを悲しんだが、まともに言っても聞く耳はあるまいと一計を案じて孫右衛門と宮原屋の二人に告げた。「怨みを返し、家を再興するのは尋常ではない。二宮先生は小田原公がその徳業を聞いて、民間から抜擢し野州桜町の復興を任じられた。先生は身命を尽くして百姓を安んじ、廃地を開き、十年の間に復興された。どんな廃家亡村でもその艱難を見るに忍びず、多額の無利息金を貸し再興の道を立てられる。先生に事情を話し金を借りたらどうか。」孫右衛門はせせら笑った。「私の絶望的な状況を見て、無利息の金など貸す者がいようか」ととりあわなかった。ところがある年小田原公の命令で先生が近くの足柄上郡竹松村に来られ、貧村再興に取り掛かられた。宗兵衛は喜び繰り返し孫右衛門に逢う事を勧めた。孫右衛門は気が進まなかったが、義兄の言うことを無視もできず、浦賀の二人も一緒に竹松村に赴いた。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.08
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鳥の言葉を証明した世界初の“動物言語学者”が国際的賞を受賞 プロフィール写真に集まっていた“まさかの注目”1/19(金) 東京大学先端科学技術研究センター准教授で、世界初となる“動物言語学者”の鈴木俊貴氏(40)が、ナレッジキャピタル主催の「第10回 World OMOSIROI Award」を受賞したことが1月19日に発表された。「World OMOSIROI Award」とは、2015年から始まった「OMOSIROI」をテーマとした国際的な賞で、国内外の有識者が推薦した100名以上の候補者から最終的に5名の受賞者が毎年選ばれる。これまでに日本人では筑波大学准教授でメディアアーティストの落合陽一氏(36)やイェール大学助教授の成田悠輔氏(39)、慶應義塾大学特任准教授の若新雄純氏などが、外国人では台湾のオードリー・タン氏(42)などが受賞している。鈴木氏といえば“鳥の言葉がわかる”ことで有名だ。野鳥の一種、シジュウカラが鳴き声を単語として使ったり、それを組み合わせて文章まで作って会話していることを発見。古代ギリシャ時代から言葉は人間に特有のものと信じられていたのに対し、動物たちのコミュニケーションにもヒトの言語との共通点が沢山あることを証明し、世界中から脚光を浴びている。シジュウカラ語の証明をきっかけに、鈴木氏はさまざまな動物たちの言葉を解き明かすための新しい枠組み“動物言語学”を提唱。2023年4月に世界初となる動物言語学分野の研究室を東京大学に立ち上げた、注目の研究者だ。今回の受賞は、鳥の言語の解明と動物言語学という新しい分野の創設が評価されたことによるという。そんな鈴木氏だが、実は昨年12月、一風変わった投稿でXをバズらせていた。《ある賞をいただくことになりプロフィール写真を選ばなければならないのですが、どの写真がいいですかね?》という問いかけと共に投稿されたのは、3枚の写真。1番と2番は、森の中で野鳥を観察するための双眼鏡を首から下げた鈴木氏の写真。ところが、3番だけなぜか一緒に写る黒い犬と同じ目線の高さで四つん這いになり、枝をくわえて“犬になりきる”鈴木氏の姿が。一般的な研究者のプロフィール写真のイメージとは異なるがーー。なんと、この投稿は389万件表示され、リプライ欄に設置されたアンケートには最終的に18万票超が集まる事態に。コメント欄は《3番一択で!》《ダチョウ倶楽部の手法》などと異様な盛り上がりを見せ、結果は84%を超える得票で3番の“犬の目線”の写真が圧勝となった。このときに鈴木氏が指していた“ある賞”というのが、今回受賞した「World OMOSIROI Award」のことだった。情報解禁となった今、鈴木氏に受賞した現在の気持ちを聞いた。「研究活動が評価され、このような名誉ある国際的な賞をいただくことができ、とても光栄です。シジュウカラをはじめとする森の小鳥たちや、いつも応援してくださる皆さんのおかげです」
2024.01.19
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ルース・ガネットさん死去 「エルマーのぼうけん」著者6/14(金) 米国の児童文学の名作「エルマーのぼうけん」の著者ルース・スタイルス・ガネットさんが11日(現地時間)、米国で死去した。100歳。日本の関係者が明らかにした。日本語版のシリーズ累計発行部数は約780万部に上る。 1923年、ニューヨーク生まれ。48年、動物たちに捕らえられていた竜の子どもを、男の子が機転を利かせて助ける物語「エルマーのぼうけん」を刊行し、各国で人気に。続編「エルマーとりゅう」「エルマーと16ぴきのりゅう」と合わせた3部作は63~65年に邦訳版が刊行され、読み継がれてきた。 昨年から翻訳版刊行60周年を記念して「『エルマーのぼうけん』展」が日本各地で開かれている。
2024.06.15
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地元の漁師が“貝殻だらけの公園”を“20年間無休”で整備愛知県の知多半島南端、豊浜港を見下ろす標高80mほどの低山(「白龍山」とも呼ばれていた)にある「貝殻公園」貝殻尽くしの公園は、誕生したきっかけもミラクルだ。地元、豊浜の漁師である山本祐一さん(1894〜1987)がある日、白山大権現に仕える龍神の化身である白蛇と光輝く貝殻の夢を見る。1955年(昭和30年)正月、還暦になった頃だ。 かつてこの白龍山に白蛇を奉る神社があったことを思い出した山本さんは、それから約20年、1日も欠かさず「もっこ」という天秤状の運搬具を担いで明け方2時半(!)から山に登り、麓から貝殻や砂利、セメントを運んで神社を建て、公園を整備したという。 ここも「布袋の大仏」(愛知・高さ18mのセルフビルド系大仏)*1や「岩龍神」(鹿児島・山の斜面に浮き出た岩を利用して全長150mの龍を制作)など全国にあまたある夢のお告げでつくられた物件の1つだ。途中からは息子の山本良吉さんも作業を手伝うようになったそうだが、20年間無休で作業というのは常軌を逸している。フランスの片田舎で郵便配達員シュヴァルが、拾った石をコツコツ積み上げ33年間かけて完成させた「シュヴァルの理想宮」*3を彷彿させる。 当初シュヴァルは変人扱いされていたが、山本さんもやはり「馬鹿げたことをしている」と悪口を言われたりもしたのだとか。ただ、着工から16年後には貝殻公園展望台竣工に事業費500万円が予算として計上されているので(南知多町が合併10周年で制作した記念誌)、いつしか山本さんの熱意と努力を多くの人が認め、町を上げて応援することになったのだろう。 再建された神社の鳥居は、よく見れば左右の柱で貝殻の大きさを揃えている。扁額は2匹の白蛇をあしらっている。また魚の形をしたテーブルは貝殻で鱗や歯まで再現されているなどとても凝った作りなのも必見だ。 屋外にあるコンクリートは経年でどんどん黒ずんでいく。一方、貝殻は炭酸カルシウムが主成分。石灰なので白い。貝殻によっては裏側が真珠層を構築し光沢のあるものもある。貝殻公園ではアワビやホタテなどさまざまな貝殻が埋め込まれているのだが、黒ずむ一方のコンクリートに対して、貝殻はいつまでも白い輝きを失わず対比が美しい。*1「布袋の大仏」1949年(昭和24年)、当時愛知県名古屋市できゅう師を営んでいた前田秀信(当時43歳)が、夢告により大仏造立を決断、独力で造像を進め、5年後の1954年(昭和29年)に完成した。像は高さは18m、コンクリート製の露坐である。像高は「奈良の大仏」として知られる奈良・東大寺大仏殿の本尊像よりも2メートルほど大きく、個人所有のものとしては最大級の仏像である。*2 「岩龍神」ある日、黒酢の醸造所の会長・山下芳文氏はある朝、“山で暴れる龍”の夢を見た。そこで2000年10月、東京から美術家・高橋アキラ氏を呼び、 裏山に全長約150mに及ぶ龍神の岩絵「龍の神石(かせき)」(岩龍神、隼人龍とも)を描かせ、その姿を大迫力で再現した会長は以前から「斜面の岩が何かの形に見える」とは思っていたらしいが、 夢をきっかけに脳内世界を具現化する。山下氏は、急ぎ東京から芸術家を招くと、山肌に龍の絵を描いてもらった。この時、岩の並びかえや彫刻は、いっさいしなかったという。150mもある龍の絵が、裏山に登場したのは、2000年の11月の事であった。翌年、山下氏は霧島神宮、明治神宮、北海道神宮の三つの神宮から御霊を賜り、入魂式を行った。二宮金次郎の像もある(^^)*「シュヴァルの理想宮」シュヴァルの理想宮(シュヴァルのりそうきゅう、フランス語: Palais idéal du facteur Cheval)は、フランスに存在する建築物。入り口に書かれた文字より「理想宮」と呼ばれ、ナイーヴ・アートの一つとみなされている。1879年、フランス南部の片田舎であるドローム県オートリーブにおいて郵便配達夫であるフェルディナン・シュヴァルは、ソロバン玉が重なったような奇妙な形をした石につまずいた。その石から何らかのインスピレーションを得たシュヴァルは、以降、配達の途上石に目をつけ、仕事が終わると石を拾いにいき、自宅の庭先に積み上げるという行為を続ける。1912年、33年の月日を経て宮殿の「建設」は終了。 村人達からは変人の所業として白い眼で見られたが、徐々にマスコミに取り上げられるようになり、見物客が訪れるようになった。シュヴァル没後、シュールレアリスムの詩人アンドレ・ブルトンが「宮殿」を称賛、詩を作成。 現在、フランス政府により国の重要建造物に指定され、修復も行われている。建設の経緯は2018年に『シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢』として映画化されている。
2025.01.04
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