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194二宮翁夜話巻の3【55】高野丹吾氏が帰国(相馬藩)しようとしていた。尊徳先生はおっしゃった。伊勢の国の鳥羽の港から、相模国の浦賀の湊までの間に、大風雨の時、船がとまるべき港は、たった伊豆国の下田港だけである。だから灯台がある。大風雨の時は、この燈台の明りをめあてに、往来の船は下田港に入るのだ。この脇に妻良子浦(めらこうら)というところがある。岸の巌が高く大岩が多く、船路がないところである。この辺に悪民がいて風雨の夜に、この処の岸の上に火を焚いて、下田の灯台と、見違うようにするものだから、難風をしのごうと、燈台をめあてに走り来る船は、灯台の火と見まちがって入り来る勢いに、大岩に当って破船することが多かった。この破船の積荷物品を奪って、取り隠し置いて分配した事が、たびたびあった。ついには発覚して皆刑び処せられたと聞く。自分のわずかの欲心のために、船を壊し人命を損ない、物品を流失させた。悪い仕業ではないか。私の仕法にもまたこれに似た事がある。烏山の灯台は菅谷氏であった。細川家の灯台は中村氏であった。しかし、二氏の精神は半途で変じ、前にいたところと違ったために、二藩の仕法目的を失い今困難に陥った。かりそめにも、人の師表となろうとする者は、恐れなければならない。慎まなければならない。貴藩のごときは、草野氏・池田氏のような、大灯明上にあれば、安心であるといえる。あなたもまた成田・坪田二村のためには大灯明である。万一心を動かして、いどころを移すような事があれば、二村の仕法の破れる事は、船の岩に当れるがようなものだ。そうであれば二村の盛衰・安危は、あなたの一身にある。よくよく心に銘じなければならない。二村のため、あなたのため、この上もない大事である。あなたはよくこの決心を定めて、不動仏の、猛火が背を焼いても、動かざるごとくであれば、二村の成業においては嚢中(のうちゆう)の物を探るよりもやさしい。あなたの心さへ動かなければ、村民はあなたをめあてとなして、船頭の船路を見て、おもかじ。トリカジと呼ぶようなもので、驕奢に流れないようオモカジと呼んで直し、遊惰に流れないようトリカジと呼んで漕ぐのみである。その時は興国・安民の宝船ではないか、あなたが所有する成田丸・坪田丸は、成就の岸に、安全に到着することは疑いない。この時君公のお悦びはいかばかであろうか。草野・池田の二氏の満足もいかばかりであろうか。勤めよや勤めよや。二宮翁夜話巻の3【55】高野丹吾帰国せんとす、翁曰く、伊勢の国鳥羽の湊(みなと)より、相模国浦賀の湊までの間に、大風雨の時、船の掛(かか)るべき湊は、只伊豆国の下田湊のみ、故に燈明台あり、大風雨の時は、この燈台の明りを目的(めあて)として、往来の船は下田湊に入るなり、此の脇に妻良子浦(めらこうら)と云ふ処あり、岸巌(がんがん)高く大岩多く、船路なき処なり、此の辺(へん)に悪民有つて風雨の夜、此の処の岸上(がんじやう)に焚きて、下田の燈台と、見違ふ様にしければ、難風を凌(シノ)がんと、燈台(トウダイ)を見当に走(ハシ)り来る船、燈台の火と見紛(みまが)ひ入り来る勢ひに、大岩に当り破船すること数度なり、この破船の積荷物品を奪ひ、取り隠し置て分配せし事、度々有りし由、終には発覚し皆刑せられたりと聞けり、己が聊かの欲心の為に、船を破り人命を損じ、物品を流失せしむ、悪き仕業ならずや、我が仕法にも又是に似たる事あり、烏山の燈台は菅谷氏なり、細川家の燈台は中村氏なるに、二氏の精神半途に変じ、前の居処と違へるが為に、二藩の仕法目的(もくてき)を失ひ今困難に陥れり、仮初(かりそめ)にも、人の師表たらん者、恐れざるべけんや、慎まざるべけんや、貴藩の如きは、草野氏池田氏の如き、大燈明上にあれば、安心なりといへども、卿も又成田坪田二村の為には大燈明なり、万一心を動かし、居処を移すが如き事あらば、二村の仕法の破れん事、船の岩に当れるが如し、されば二村の盛衰・安危、卿が一身にあり、能々感銘せらるべし、二村の為卿が為、此の上もなき大事なり、卿能く此の決心を定め、不動仏の、猛火背を焼くといへども、動かざる如くならば、二村の成業に於ては嚢中(のうちゆう)の物を探(さぐ)るよりも安し、卿(きみ)が心さへ動かざれば、村民は卿を目的となし、船頭の船路を見て、おも柁(かぢ)取柁と呼ぶが如く、驕奢に流れぬ様(やう)おも柁と呼んで直し、遊惰に流れぬ様取り柁と呼んで漕ぐのみ、然る時は興国・安民の宝船、卿が所有の成田丸坪田丸は、成就の岸に、安着せん事疑ひなし、此の時君公の御悦びは如何計(いかばか)りぞや、草野池田の二氏の満足も如何計ならんや、勤めよや勤めよや。
2025.11.28
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昔、職場の後輩だったH君から「喪中につき新年のご挨拶を失礼させていただきます」の欠礼のハガキをいただいた。その文の一節に「私本年4月より単身にて日本語教師として働いております」とあった。また「こちらは寒さがハンパじゃないです」と添え書きがあった。住所を見ると北海道上川郡とある。早速、メールを送る。「北海道に単身で日本語教師とは驚きました。立派!お蔭様で私は〇〇で引き続き働いています。この間、駅前でばったり昔一緒の職場だったAさんに出逢いました。「お互い、元気で仕事できるのが幸せ」とお話したばかりでした。Aさんに今年の2月「絵と地図で楽しめる」『安居院庄七と鷲山恭平』の絵本みたいな本を作ったんだけど貰ってくれると聞いたら、「ぜひ」と受け取ってもらいました。Hさんにも、ご迷惑でなければ、一冊お送りしてよろしいでしょうか。Hさんの第二の人生(日本語教師)に驚き、嬉しく、かつとても感動しました。お身体に気をつけて頑張ってください。」『安居院庄七と鷲山恭平』30大学図書館所蔵所蔵館 配置 請求番号 登録番号北海道教育大学 附属図書館 157.2/Ji 011296348弘前大学 附属図書館 本館 157.2||J48a 08890298東北大学 附属図書館 本館 00250049176宇都宮大学 附属図書館 図 157.2||J48 202500948信州大学 附属図書館 中央図書館 図 157.2:J 48 0021069323京都大学 教育学部 図書室 157||J 56 200044745522九州大学 中央図書館 157.2/J 48 110012025525915鹿屋体育大学 附属図書館 図 157.2||J46 T121652高崎経済大学 図書館 図 289.1||フジ||||14 003464237酪農学園大学 附属図書館 図 12500432駒澤大学 図書館 157/76 251311478大東文化大学 図書館 111491651X東海大学 付属図書館 静岡図書館 157.2||J 02994982東京農業大学 生物産業学部図書館 生産図 767830日本女子大学 図書館 図書館 2582308立命館大学 図書館 22001214753神戸学院大学 図書館 有瀬館 157.2||JIF||A 2501947九州産業大学 図書館 11001770沖縄国際大学 図書館 157.2||J48 008085415鹿児島純心女子短期大学 図書館 157.2||JI 160739776静岡産業大学 藤枝図書館 157.2//Ji 64345鹿児島県立短期大学 附属図書館 157.2/J 48 50051857関西国際大学 メディアライブラリー 三木 157.2||J4 853403浜松学院大学 図書館 図 30123105北陸学院大学 ヘッセル記念図書館 157.2/A19 207230大和大学 図書館 157.2/J 000062808静岡県立農林環境専門職大学 図書館静岡文化芸術大学桐蔭学園大学活水女子大学◎ 沢木興道師いまの若い人は教養が少ない。おまけに我利が強い。人のためを思わず、わが身のためばかりで動いておる。これは堕ちておる、ゆとりのないときに育った子だから仕方がないとしたところで、そればかりでいってしまうなら、奈落の底へ堕ちてしまう。・・・なにもかもが功利的で、何もかもがわが身のためで、誰も彼もがこれでいくならば、この只管、ただということがわからない。・・・ただ王三昧である。天台智者大師は『観音玄義』の中に、念彼観音力ということは王三昧である、といわれており、竜樹菩薩は『十住毘婆沙羅論』の中に、南無阿弥陀仏ということは王三昧のことである。坐禅は只管打座する。なんのためでもない。
2025.11.26
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33※「余の理想の人物」(「実業之日本」(明治40年1月1日号)を「黎明日本の一開拓者」鈴木五郎著25~31頁で引用。旧仮名遣いを新仮名づかいにしたりするなど読みやすくした。)○大いに金を貯めることとした お恥ずかしい話ですが、私は明治9年22歳になるまで理想などということは少しも持たなかった。その時までは、極めて単純の生活をしていたのである。8歳の時より12歳まで寺子屋に通学の時はいつも先生からほめられていたが、父はほめられるだけに心配して、菓子屋の子に学問は不必要だといって、13歳の春から家業を手伝い隔日に荷を持って近所に商っていた。私は勝気の性質として、朝は暗いうちに起きて夜の明けぬ前に1,2里くらいを歩かねば承知ができず、終日の奔走でくたびれたために夜明けて後に覚めるときは終日商いに出かけなかった。 この時までは頭はボンヤリとして運動する機械のようでいたが、19歳の時ふと思いついたことがある。自分は菓子の商いをしているが今後いかなるのであるか。近所の人を見れば旦那と尊ばれているが、菓子商いなどしていては、幾日たっても発達の見込みがない。旦那といわれる人は皆金を貯めた人であるから、自分も大いに金を作らねばならぬ。当時、製茶は横浜市場のおもな輸出品で、遠州は茶の産地だけに私の郷里森町でも富者となった人は茶商人に多かったので、私も富者となるには茶商となるのほかなしと決心し、父に相談したところ、茶商は10年くらいは小僧で見習いしなければならぬのに、中途から従事しても無駄であるというて最初は聴かなかったが、私の決心が固かったので幾らかの資本を他から借りてくれ、私は菓子商いに関係なく独立して茶業に従事していた。最初の1年は見習いに過ぎなかったが、2年目からは各地方に出かけ四日市、豊橋等にまで行って買い集め、これを横浜に送っていた。 ○初めて報徳主義を知る 茶の鑑定その他のことがひととおり了解せられ、相当の利益もあったが、22歳の正月に実家へ年始に行ったところが二宮という本があった。何のことかと聞くと、二宮尊徳翁の御説を書いたものだという。私も報徳ということは聞いていたが、それは単に金をケチに貯めるとこととか、朝は早く起きるとかいうに止まり、その教えが書籍になっているとは思わなかった。これを借りて帰って読んでみると、すこぶる面白い。その大体は、こうである。 人は何ゆえにこの世に生まれてきたのであるか。いかにして生くるのであるか。金銭も名誉もその目的とするものではない。人は国家社会のために、その利益を増進する仕事をなすべきものである。過去の人がなしておくことを、今人は更に増殖してこれを後世子孫に伝え、もって国家社会の利益を増進する。いい換えれば、代々の人はその消費するよりも以上の仕事をして、前人から受け継いだほかに更に増して子孫に伝える。何事もせずして先人の事を後人に伝えるのは、恩義の賊である。されば人間は個々としては生まれたり死んだりするが、大体よりいえば人間は生きているのである。この目的は一人にてはできぬ、また一代二代にてできるものでない。すべての人間が、この目的に向って勤労する。その個人が分担して行うのが各自の職務となる。されば職務は人の賢愚不肖によって異なってはいるが、国家社会を利するという大目的に比べれば同一で、その間に上下尊卑の区別があるべきはずがない。ただ自分の職務とするところを遺憾なく尽くして明らかならしむべきである。いわゆる天地の秘をあばくべきである。これが人生の大目的で、また人が禽獣と異なるゆえんである。 この人生の大目的の一分を達するために各人はその職務に全力を傾注するときは、たとえ自己の利益栄達を主としなくても、これらはその職務の遂行に伴って自ら発達して来るものである。この主義を服膺(ふくよう)する間におのずから自己も発達せられるという意味であった。 ○神のごとき二宮先生 この書を読んで、私は豁然(かつぜん)として悟った。今まで金さえ貯ればよしといた思想は全く誤りであることを発見し、報徳主義の甚だ大切なことを知ることができた。自分は、ここに初めて人間の道ということを知ることを得た。まさに大河を渡らんとしたときに船を得た心地がしたので、今度はいかにしてこの道を進むべきかという問題を解くこととなった。 それからは、毎月開かれる報徳の集会には出席する。会日以外にも行って種々なことを質問し議論する。狂熱のようになって報徳主義を研究した。報徳記も当時はわずかに写本ばかりで、それすら容易に見ることはできなかったが、特に読まして貰った。 同時に他の方面の研究をする必要もあったので、また書見を始めた。12歳から以来全くやめていた経書などをあさり読み、23歳の時には夜学に通って勉強し、研究すればするほど他と対照して報徳主義が立派な教えとなり、ついには二宮先生は人間以上の、神のようなものに思われて来た。 ○明治10年より再生す かく研究すればするほど過去の我が身の過ちを発見し、新生活を開く必要を感じたので、明治10年1月1日を紀元とし自分は全く生まれ変わりたるものとして新生活に入ることを決心し、今もなおその決心に随って続けて行っているつもりである。もとより他人から見たら間違っていることがあるかも知らねども、自分では報徳の教えに随って進み行っているつもりである。その後もなお書見は続け支那の経書は勿論、仏書も少しは読んで見たが、これは単に報徳主義を明らかにする道具に使われたもので、報徳主義の大切なことは依然として異ならぬ。否、むしろますますその光輝を発揮するように思われる。大工は曲尺(かねじゃく)一挺(ちょう)で9尺2間の小屋も建てれば、堂々たる大厦(たいか)高楼をも建てる。造り上げた物は大いに異なっているが、詮ずるところ、ただ曲尺一挺を使用したに過ぎぬのである。二宮先生の報徳主義も、一たび会得すれば人間万物に応用して最も有効に活用することができると思う。 ○人間の最大目的に直進せよ で、自分は己に多年の覚悟として守り、また青年の決心すべきものとして常にこういっているのである。人間は、その本分として皆尽くすべきだけの職務を持っている。国家社会の利益を増進するために、分業して相共に天地の秘をあばくまでも勤勉すべきである。これがためには全力を発揮して勤めねばならぬ。もし職務のために死ぬことがあれば、これは名誉の戦死である。軍人が征戦に死ぬと異なることはない。己れを棄てて全力を発揮すれば、目的を達すると共に立身や栄達はこれは副産物である。初めから目的物として望むべきことではない。人はこの職務ということを知り、これに全力を注がなくてはならぬ。知るということは表面のみではなく、これを明らめ尽して少しの遺憾なきに至らねばならぬ。世間では「知っている」といって、しかも実行の伴わぬものが多い。知っていれば行われなければならぬのである。それが実行せられぬのは、とりもなおさず真に知らぬのである。知っているというのは間違いである。人間がこの世に生まれてきた以上は、飽くまでもその職務本位とすることを知りおかねばならぬ。真の仕事はできぬのである。 ○人の元値を知れ 強固な意志を有する者も困難に堪え煩悶に忍ぶことができる。けれども、これは一種の我慢である。一定の程度に達すれば、制限を受けることを免れぬ。つまり普通の人は十まで忍ぶことができるが、意志の強固な人は十二とか十五まで忍ぶというに過ぎぬ。二十、三十、いくらでもということはできぬ。しかし、道理に基いた意志は水火の中をも辞せぬ。いわんや困難辛苦をやである。いかなる所にまでも忍び達するのである。普通にいう困難ということは分かりきったことである。古来の人々が既に久しく出会って嘗め来った事柄である。別段に新しき困難の発明があるのではない。これは人がこの世に生まれて来れば免れざることで、七難九厄に会うのは当然のことである。聖賢とても免れざることである。何事をするにも元値を知ることが必要である。元値とは、人は生まれたからは死すということである。必ず死ぬときまっているものは、いつ死んでも仕方がないのに、今日もまた、今日も生きているというのは儲けものである。その他百事百般皆もうけの上のもうけなりと一大覚悟さえすれば、一生涯に苦痛とすることはない。これが、報徳主義の活悟道であると思う。世間では悟道は3年も坐禅をするか、たくさん書見をせねばできぬようにいうが、そのようにむずかしいことなれば大道とはいえぬ、小路とでもいわねばならぬ。道路も大なるものは、老人子どもでも差支えなく行けるから大道路である。また修行せねば歩けぬ極小路というは糸の道である。これは熟練した軽業師でなければ行けぬ。(「実業之日本」明治40年1月1日号63~66頁)
2025.11.27
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33「報徳物語」抜粋序(現代語訳)論語に曰く 故(ふる) きを温(たず)ねて新らしきを知ると。およそ文献に照らし合わせて、これを参考する有益さは多大であることは明らかである。亡き祖父尊徳は生涯を産業を興し人民を恵む事業に粉骨砕身した。大は幕府諸侯の藩領及び旗本の領地の衰廃の興復から小は一村一家の貧窮の回復に至るまで努力すること多年であった。その間、実施してきた事跡でこれを書物としてのこしたものは、約一万巻である。この遺書はすなわち尊徳が満身の熱血をそそいだ痕跡として、その子孫である私の深く感激し愛蔵する所である。幸いに志のある人や仁の心ある人がこれをひもとくならば、きっと世の利益に貢献する所があろう。尊徳の泉下の霊もまた心安らかに目を閉じるであろう。このため更にその謄本を別の所に所蔵して、たとえ非常の災いがあっても原本、写本どちらかその一つをを永遠に保存し、民衆が観覧する参考する利便を失わないことを望んできたが、いまだ果すことができないことを残念に思っていた。こうして何年もたったが、遠江(とおとおみ)の人、鈴木藤三郎氏は以前から深く尊徳の遺教を信じ、これを工業に応用して成功するもの、一つだけにとどまたず、また常に最も遺教の普及に努められている。氏はたまたま、彼の遺書があるを聞き知って大変喜んですぐにその謄本を野州今市の報徳二宮神社の境内に実際に所蔵し、一つには保存上の固く安全にすることをはかり、一つには志のある人の研究の材料に供しようとし、すなわち原書を謄写する承諾を私に求めた。私は喜んでこれを承諾した。それから三年を期して本年本月に謄写が終了し、全部で九千巻を二千五百冊として、既に築造していた文庫に納めた。ああ私の永年の希望がここに始めて達することができ、永く世の志のある人の研究に資することができた。こんなに喜ばしいことはない。深く氏の篤志に感動し、いささか思うところをしるして序とするところである。明治戊申(つちのえさる)初冬 二宮尊親しるす。報徳全書謄本事略二宮尊徳先生の世に在るや一意至誠、興国安民の事業に慎みかしこまって力を尽くし日もまた足らずとされた。その麗しく立派な徳は良法の恵みによって地を開き生産を増やし、その風俗を変えて人民の生活を安らかにするものは枚挙して数えることができない。そしてその教義で人民の救済に関する書類は積んで棟にみち、今なお厳存している。ああ、この書はこれ皆先生の涙と血との結晶したものであって二宮家の子孫は一つにはこれを霊宝として受け継ぎ収蔵し、また他方では報徳学の研究の良師として尊重するところである。報徳社徒鈴木藤三郎君はまた常に先生の遺教を拡張して、国家の元気を発揮しようと望んで、熱心に努め励んで多年努力している。明治38年11月二宮尊徳先生の五十回忌に野州今市の報徳二宮神社において大祭典を行うに当って、遠近諸州の信徒で来拝する者はほぼ3万人。鈴木君もまた来拝して石造の大きな鳥居1基、神饌所1棟及び境内に檜の木を若干寄付し、まさに去ろうとするときに、たまたま二宮先生が終生心血をそそがれた遺書おおよそ1万巻が二宮家に収蔵されていると聞いて躍りあがって喜ぶことただならず、すぐに決断して、神社の境内に報徳文庫を建造して遺書の謄本を宝蔵し、永久の保存及び教義研究の両益を挙げようとし、すなわち令孫尊親先生にその承諾を乞い、文庫建築の指揮はこれを今市の篤志家に託し去年既に落成して謄写完成の期を待った。そして謄写の指揮監督は相馬の同志者に託して明治39年1月事業について今年今月完成を告げた。全部で9,014巻を2,500冊とし、236帙(チツ:和本を包んで保存する装具)に収めて今市に輸送して鈴木君に渡すことができた。文庫の建築及び謄本一切の費用はおおよそ7,000円である。相馬の地は元来東のはての辺境にあって用務に便利ではなく、用紙は遠く駿河に仰いで、筆生は4,5里内外から招いて、製本職工は仙台に、書冊の表紙は東京に求めた。そのためにおのずから成功するのに長い歳月を費やし、したがって多額の費用を必要としたのもまた止むを得なかった。しかし事業に要した家屋倉庫及び諸什器等はすべて相馬子爵の好意によって3年間無償で借用することができたのは不便中の便であって、その厚意には実に感激するところである。ここに謄本に関する顛末をおおよそ叙述して後の人の指摘にまつ。そもそも先生の遺書は先生の涙血の結晶であることはもとよりである。しかもこの結晶を溶解しなければ人道の世益に活用することが難しい。これを溶解活用するものは果して誰か。すなわちまた熱誠な人の涙血にまたざるをえない。将来有志の士が先生の神前にぬかずいてその清澄な頭脳とその堅実な信念とをもって先生の足跡というべき遺書をひもといて先生はどのような教旨によって人々を救済しようとしたか、その熱涙熱血のそそぐ所はどのように感化を与えたか。そしてどのように人道・世益に貢献したかを反復研究して感奮興起し、涙があふれ血が沸きたつような報徳的活動が各地に勃興するようになれば、すなわち次第に人民は勤労に励み、物産は増殖し、まごころ厚く推譲の徳風が行われ、ついに先生のいわゆる真楽国の実現を見るに至るであろう。想うに鈴木君の文庫を神社境内に建設する趣旨もまたここに存するであろう。ああ、なんという善いことであろうか。 明治41年11月 磐州相馬中村 報徳社徒 大槻吉直花押※日光神領仕法後の動き(その3) (「いまいち一円会 通信151号」所収」)「今回は、関係する史料を紹介してみたい。 A家に保管されていた史料に「今昔談全」根本源庫 七十七才紀年 と表紙に書かれている史料がある。その一部に次の記録がある。『明治弐拾七年四月ヨリ有志ノ寄付六千有余金ヲ以テ 八百十一番地ニ反別六反七畝歩余ニ二宮神社新設セリ 町長原田照宣氏勤役中 二宮神社倉庫 千五拾円 鳥居ハ 七百二十円 御供所 弐百参拾円 宝物弐千五百部 雑費共合計金八千六百円圓也 寄付人東京市住人 鈴木藤三郎氏』根本源庫は、二宮神社創建を最初に提案(明治14年)した人物。「今昔談全」として自筆で年表形式にまとめてある。 今市報徳ニ宮神社建設工事着工は、明治28年9月とされている。その前年からの「有志の寄附六千有余金」で社殿建築に着工したということだろう。 「宝物弐千五百部」とは『報徳全書』のことである。この報徳全書について、「八十年祭記念」と銘うって、昭和十一年に今市町農会(会長平野喜一)が発行した「二宮先生遺跡案内」には、次のように記されている。「報徳全書」 遠州の人鈴木藤三郎(当時東京市深川区小名木砂村に居住)先生の遺徳を追慕し、明治四十二年五月この文庫を建造し、先生の遺著、二宮家に存するもの全部を謄写して茲に蔵む。其数九千余巻、二千五百冊其費用約三万円を要したりと、(中略)鈴木藤三郎は遠州の人にして熱心なる報徳社の社員なりけるが、翁の五十年祭に参列の為め、今市の地に来たり翁の遺書無慮一萬巻、二宮家に蔵せられるを聞き、大いに喜び、当社境内に報徳文庫を建造し、右の遺書を謄写して之を永久に保存し、兼ねて教義研究の利益に資せんことを企て、先ず翁の嫡孫たる尊親氏に謀りて其允諾を得、謄写の大事業は原本の所在地相馬に於いて之を行ふ、筆生二十余人を以て明治三十九年一月開始し、同四十一年十一月成功、全部で約九千十四巻、之を二千五百冊に収め二百三十六冊に合綴して此地に送り、文庫の創設竣るや之に納む、この時明治四十二年五月三十日、而して之に要せし費用約七千圓は悉く鈴木氏に於いて之を負担し、当社に之を寄附したるものである。(後略)今市町農会が発行した「八十年祭記念二宮先生遺跡案内」は、九十三頁の労作であり、現在平野家(平野博)に一冊有るだけの貴重本である。それにしても、鈴木藤三郎の寄付金はすごい。現在の貨幣に概算すると二億円とか三億円になるかもしれない。」<鈴木藤三郎の報徳に関する講演録一覧明治39年~41年>「報徳実業論」(「斯民」第1編第1号 明治39年4月26日)「荒地開発主義の実行」(「斯民」第1編第9号 明治39年12月23日)「職務本位」(「斯民」第2編第7号 明治40年10月7日) 「実用的の悟道」(「報徳の研究」) 「報徳の精神」(「斯民」第2編第10号 明治41年1月7日)「一意専心主義」(「斯民」第3編第5号 明治41年7月7日) 「分度推譲論」(「明石講演集」) 「報徳と実業」(明治41年8月4,5日京都「報徳講演集」)「報徳実践談」(明治41年12月18日、船井蚕業同士会総会)
2025.11.26
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米外交誌「高市早苗は中国との対立をむしろ楽しんでいるのかもしれない」11/27(木) 米外交誌「フォーリン・ポリシー」は、「日本の新首相は早くも最初の危機に直面している」と題した記事を掲載。そのタイトル通り、首相就任まもない高市がさっそく「外交の泥沼に自ら足を踏み入れた」と指摘し、彼女の台湾をめぐる発言が中国からの激しい反発を招いた現状と背景を説明している。だが同記事はそれだけでは終わらない。副題に「高市早苗は中国との対立をむしろ楽しんでいるのかもしれない」と掲げ、日中関係の悪化は高市にとって政治的利益になっている可能性があると伝えている。中国、米国に日本けん制要求 高市首相の台湾発言巡り人民日報が論評 台湾に関する高市早苗首相の発言を巡り、日中間の緊張が高まる中、中国は共産党機関紙「人民日報」に27日掲載された論評で、米国に対し、日本をけん制し「軍国主義を復活させる行動」を阻止するよう求めた。論評は「中国と米国は戦後の国際秩序を共同で守り、軍国主義を復活させるいかなる試みや行動にも反対するという責任を共有している」とし、両国が第二次世界大戦中に日本と戦ったことを強調した。また「(両国の)首脳間の意思疎通は実質的に重要な意味を持つ」とし、高市氏の発言を受けて「日本の危険な戦略的動きに対する国際社会の懸念と警戒心が高まっている」と主張した。論評は「中国の声」を意味する「Zhong Sheng」というペンネームで掲載された。このペンネームは外交問題に関する同紙の見解を示す際によく使われる。日米関係筋が明らかにしたところによると、トランプ米大統領は高市首相との25日の電話会談で、日中関係悪化のさらなるエスカレーションを望まないとの考えを伝えていた。トランプ氏は24日に中国の習近平国家主席と電話会談しており、そのタイミングから中国が米国に介入を要請したのではないかとの見方が広がっていた。中国外務省の毛寧報道官は26日の定例記者会見で、習氏がトランプ氏に介入を求めたかどうかを問われた際、これについて言及しなかった。人民日報によると、トランプ氏は習氏に対し、中国にとっての台湾の重要性を米国は理解していると語ったという。
2025.11.27
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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻) 普勧坐禅儀抄話その15 尋常(よのつね)坐処には厚く坐物を敷き上に蒲団を用ゆ「尋常」というのは、非常な人、特別な者は別として、通常我々が、釈迦の仏法を自分の身に受けようとするには、どうすればよいか。坐るところには厚く坐物を敷いて上に蒲団を用うる。我が国では畳が坐物のようなものであるから非常に具合がよい。ここに蒲団とあるのは、坐禅に用いる坐蒲のことであるが、本当はこれが蒲団であって、我々が寝床のことを蒲団といっているのは、実は俗語なのである。坐蒲は直径一尺二寸の蒲をつめたもので、この上に尻を乗せるのである。これからいよいよ坐禅の身構えに入るわけである。 或は結跏趺坐、或は半跏趺座、謂く結跏趺坐は先ず右の足を以て左の腿の上に安んじ、左の足を右の膝の上に安んず。半跏趺座は但だ左の足を以て右の腿を圧すなり 結跏趺坐は、まず右足をできるだけ深く左腿の上に深くあげる。洋服を着ている人は、どうもむずかしいらしいが、なるべく深く足をあげるようにしなければならぬ。そうして両膝が畳にキチッとつくようにしなければ、身体が安定しない。半跏趺座は、左の足を右の腿に深くのせるだけでよいが、この場合は、右の脛をうんと後ろに引いて、左の足で上からおさえるようにするのである。 寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて斉整(せいせい)ならしむべし 着物はゆるくだから、洋服などの窮屈なものは本当はよくない。袴も行燈袴がよい。そうしてだらけたところのないようにする。 次に右の手を左の足の上に安んじ、左の掌を右の掌の上に安んず。両の大拇指面(むか)いて相拄(あいさそ)う 手を組む場合は両方の指がかたくなってはいけない、やわらかくなるようにする。そうして両方の拇指が向かい合って軽くつくようにする。そうして 乃ち正身端座して、左に側(そばだ)ち、右に傾き、前に躬(くぐ)まり、後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ、耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことぉ要す 首をまげたり顎をだしたりしてはいけない、そうして背骨をまっすぐにする。その時、鼻と臍とは垂直になるようにしなければならぬ。これが正身端座である。それから口であるが 舌上の腭(あぎと)に掛け、唇歯(しんし)相着け 舌は上あごにかけ、唇と歯はキチッとあわせる。いわゆるしっぺい口になる。こうすると、ちゃんとしまりのある顔になる。 目は須らく常に開くべし 常にというのは、あたりまえに開くことである。そうして前方を見て視線を自然に落とす。 鼻息(びそく)微かに通じ、身相既に調えて欠息(かんき)一息し、左右揺振(ようしん)して兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)し欠息一息というのは、口を大きく開けてアクビのまねをする。これが後には深呼吸になった。それから左右揺振し、というのは、はじめは左右に大きく動かし、次第にだんだん小さくして行く。これはギコチない姿勢を正すためである。兀兀として、というのは不動の姿である。よく弓の道場などには「形直うして影瑞し」と書いてあるが。そういう意味では、坐禅は何よりも形を厳格に保つのである。そうして、この形だけに本当に身を入れれば已到住著の病もなく、この形だけを十分厳格にすれば、未到走作の病もなく、透脱無依の病もない、ということになるので、この形に十分力を入れて修行するのである。これはちょっと聞くと実に間抜けたように聞こえるが、人間はもともと理智というものにあまりなれすぎている。理屈が好きである。胴体から離れた理屈を、言いなれ聞きなれている。けれどもこれを顧みるというと、もしこの中に一番早く出てきてここで一人坐っている人があるとする。わたしは駒沢大学で泊るときは生徒より一時間早くきて坐る。冬などはみな6時に起こすやつを、わたしは5時に起きて、電気のつかないうちに真暗がりで一人で坐っている。そうするとみなを起して一番早くでてきたものが、電気のスイッチを入れてみるとわたしが坐っているので驚いた。それが非常に駒澤大学の全体に影響したことがある。そういうわけでここに一人先に坐っている人が、もしも一時間前から坐ってもう鼻の孔がまっすぐになって「定まさに熟す」というような気持になっていたとしたならば、その次にきた人は非常に厳粛な気持に打たれる。また他の一人の後からきた人も、そこでそうっときてすっと坐る。(『禅談』p.326-329)
2025.11.26
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194二宮翁夜話巻の3【54】尊徳先生はおっしゃった。某藩士のなにがしが、江戸詰めで、顕職を勤めた。一朝退勤の命があって、帰国することになった。私は往って暇を告げ、かつその者に言った。あなたがこれまでの驕奢(贅沢)は、実に思いの外の事であったが、職務のことで、いいとも悪いとも言いますまい。今帰国しようとされています。これまで用いられた衣類や諸道具等は皆分不相応の品物です。これを持ち帰る時は、あなたの驕奢はなくならず、妻子なども同じく奢侈が止らないことでしょう。その時はあなたが家は、財政がたちゆかず滅亡に至りましょう。恐るべきことではありませんか。刀は折れていない曲っていない利刀で、外飾がないのを残し、その他は衣類諸道具、一切これまで用いた物品は残らず、親戚・朋友や懇意にした出入の者等に、形見としてすべて与えなさい。普段着・寝巻のまま、ただ妻子だけを連れて、帰国して、一品も国に持ち帰ってはなりません。これが奢侈を退けて、驕意を断つの秘伝です。そうでなければ妻子や扶養者までしみこんだ奢侈は決して退きません。あなたの家が終には亡びる事は鏡に掛けて見るようです。決して迷ってはなりません、と懇々と教えたけれども、なにがしは用いる事ができず、一品も残さず船に積んで持ち帰って、この物品を売り売り生活を立て、終に売り尽して、言うこともできないほどの困窮に陥ってしまった。歎かわしいことではないか。これが分限を忘れて、驕奢に馴れて、天をも恐れず人をも憚らない過ちである。自分の驕奢が、誠に分に過ぎていると気付いたならば、同藩に対しても、憚からなくてならない。このケースは驕奢に馴れて自ら驕奢と知らなかったためである。歎くべきことだ。二宮翁夜話巻の3【54】翁曰く、某(それ)藩士某(なにがし)、東京(えど)詰にて、顕職を勤めたり、一朝退勤の命あり、帰国せんとす、予往きて暇を告げ、且曰、卿(きみ)が是迄の驕奢、実に意外の事なりといへども、職務なれば、是非無し、今帰国せんとす、是迄用ふる処の、衣類諸道具等は皆分不相応の品なり、是を持ち帰る時は、卿が驕奢退かず、妻子厄介も同く奢侈止らざるべし、然る時は卿が家、財政の為に滅亡に至らん、恐れざるべけんや、刀は折れず曲らざる利刀の、外飾なきを残し、其他は衣類諸道具、一切是迄用ひし物品は残らず、親戚朋友懇意出入の者等に、形見として悉く与へ、不断着(ふだんぎ)寝巻の儘にて、只妻子而已(のみ)を具して、帰国して、一品も国に持ち行く事勿れ、是奢侈を退け、驕意を断つの秘伝なり、然らざれば、妻子厄介迄染み込んだる奢侈決して退かず、卿が家終に亡びん事鏡に掛て見るが如し、迷ふ勿れと懇々教えたれど、某(なにがし)用ふる事能はず、一品も残さず、船に積みて持帰り、此物品を売り売り生活を立て、終に売り尽して、言ふ可らざるの困窮に陥り果たり、歎ずべし、是分限を忘れ、驕奢に馴れて、天をも恐れず人をも憚らざるの過ちなり、我驕奢、誠に分に過ぎたりと心付かば、同藩に対しても、憚らずば有るべからず、是驕奢に馴れて自ら驕奢としらざるが故なり、歎ずべし。
2025.11.27
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※2 「真に惜むべき人」抜粋 本会評議員家庭学校長 留岡幸助 (「斯民」第8編第7号 大正2年10月1日) ◎二宮翁50年記念会と鈴木氏 わたくしが鈴木氏と相知るに至ったのは、報徳の道を研究するに至ってから後の事です。ちょうど日露戦争後、戦後経営をいかにすべきかという問題が、官民有志の間に講究されつゝあった際、わたくしども同志の者は、これはどうしても道徳と経済の調和を図らなければならぬという事に一致し、さてその方法はいかにすべきかという事になったが、ちょうどその年は、報徳の教えを説いて、自らこれを実行し、その成績を挙げた二宮尊徳翁の50年忌辰(きしん)に当るから、翁の記念祭をやろうという事になった。その時、これが協議にあずかったのは、内務省の有志を中心として、農商務、文部両省の有志、並びに大学教授や、民間有志等であった。この協議会は5,6回も開いたのであったが、事情あって思うように進行せぬ。かくて期日もだんだん迫って、わずかに1か月を余すに過ぎざるに至った。そこでわたくしはある日鈴木氏に電話をかけて話をしたところ、鈴木氏かは「どうかやってくれ」といわれるので、わたくしは費用の事をありていに答えたところ、「一体どのくらいかゝる予定です」と聞かれたから、わたくしは「多分5,600円もあったらできよう」と答えたところ、鈴木氏はカラカラと笑われて、「それでは自分が2,000円出そう」と言われた。これで金銭(かね)もできたので、遂に明治39年の11月に、上野の音楽学校に大記念祭を開き、各階級の名流を網羅して世間の注意を惹くに至ったのである。鈴木氏は、この2,000円の外にさらに1,000円を出して「報徳記」と「夜話」とを印刷して帙入(ちついり)として来会者に配付したのであった。 ◎報徳会の大恩人 鈴木氏が報徳の教えを鼓吹するために尽されたことは、まことに多大なるものがあった。1万円を投じて野州今市の二宮神社内に報徳文庫を作り、相馬の二宮家に在る翁の遺著9千余巻を浄写せしめて、これを保存し翁の遺書の散逸を防ぎ、兼ねて篤志なる研究者の参考に資したごときは、最も推賞すべき事であろうと信ずる。 自分は日露戦争後、「報徳記」を英訳せしめたいという希望を持っておったが、これは2,500円くらいの経費を要する予定であった。鈴木氏もこの挙に賛成の意を表しておられたから、出金してくれといったならば、これも喜んで出されたことと思ったが、遂にそれには及ばずに沙汰止みとなったのであった。 また我が報徳会にとっては、実に大恩人であった。報徳会の今日あるを得た事は、鈴木氏の努力に真にすくなからざるものあるを信ずることであった。 ※「報徳物語」井口丑二著 相馬二宮尊親氏談話(翁の嫡孫尊親氏、さきに10年間北海道十勝における新村建設に従事されたが、明治40年、功成りて相馬に帰住される)遺書は現存してあります。中には欠本もあります。たとえば曽比村仕法のごときは、目録にはたくさんあれども、本文はありません。翁が幕府に仕えてから、在江戸中、芝田町で有名な豪商船津伝兵衛の別宅を借りて、調査をしていましたが、その頃火災にあって、参考書類多数浜辺に持ち出しながら消失したと申しますが、その余は皆存してあります。さようです、この保存には、誠に心配いたしました。桜町から東郷、今市と、転々し、今市では文庫があって無難であったけれども、戊辰の変に戦地となったので、相馬家が特使をもって尊行を招聘されまして、尊行もその恵に感じて、ついに相馬に参りました。これその時にはいまだ相馬は奥羽連盟に加わらず、無事であったので、乱を避けてまいったのですが、この運搬には実に苦心しました。今市から相馬まで約80里、戦陣の間で、一回に運ぶことができないので、数回にわかって馬で送りました。さて城内に借宅をしていますと、仙台の圧迫で、相馬も独り立つことができず、ついに同盟に加入したので、ここに官軍の征伐を受けて、またも戦地となりました。ゆえににわかに民家の土蔵数カ所を借りて、納めておきますと、幸いに無事に治って、後、石神村に宅を賜ったので、そこに運びましたが、それから北海道行きの時、その最も難業なるを察し、ことに移民を連れて行くことであれば、責任はさらに重い。祖父さえ家をつぶして桜町へ行ったことなれば、しかして不肖の予、事成らずんば帰るべけんやと覚悟し、家宅を売り払いましたので、書類を一時、相馬家事務所の倉庫に託したのです。巻数は約1万からありますが、ただ1通あるのみでは、万一の欠失も心配されるし、ひろく縦覧に供することもできず、遺憾なりというので、鈴木の篤志で、謄写の業を起し、明治39年1月から筆工約15,6人を入れて、約3年にして成就しました。この書類を通読したる者は、一人もありません。見ても容易に分かりません。ただ一人愛知県の古橋源六郎氏、両3日滞在しましたが、日光ひな形を見て感激し、始めて道理が分かったと喜びました。富田は10年苦学して、治国済民の術を求めて得ず、ついに桜町に行き、実地を学んで、始めて了解したのですが、今この書類を調べると、各地仕法の有様が詳細に分かります。翁の性格は、喜ぶときはいたって優しく、怒るときはおそるべく、仰ぎ見る者がなかったと、老母が申します。道楽は何もありません。事業が楽しみであったのでしょう。酒は晩酌だけで用いました。晩餐は門弟等も皆いっしょで、この際種々談話をしたのです。酒は一切献酬を禁じました。北海道開拓のことは、安政元年二年の頃、函館奉行堀織部正の申し立てによって、幕府の命令を受けましたが、老病と称して辞退いたしました。しからば誰か門人中、しかるべきものを名代として差し遣わすべきようにと、押しての命令でしたが、翁は門人多しといえども、手放してやるべき者なしと認めたとみえて、その人物は無いといって謝絶しました。報徳書類は従来刊行のもの、いずれも門生の述作のみにて、各自に私意を加え、一つも純粋に、翁の意をそのままに伝えたるものはない。かくてはあるいは後世を誤らんかと思います。ゆえに自分は翁の書類につきて、一つの経典を編成せんとの大願を持っておりますが、まだ運びません。あるいは世の有力者がこれをなさんことを望みますけれども、まだその人を得ません。※3 「佐々井信太郎略伝」55-57頁 小伝 第二部 佐々井信太郎遺稿 第一章 大正年間の報徳運動 一 明治から大正への関連(井口氏を中心として) 大正年間の報徳運動は、明治末の活動に関連する。その一つは「報徳全書」の写本から目ざめた。日光仕法の役所の置かれた今市市の二宮神社に、鈴木藤三郎氏が寄贈せられた二宮尊徳全集の写本「報徳全書」はそれである。それは相馬家の倉庫に格納せられてある原本により、新たに目次が作られ、用紙が統一しており、筆蹟が行楷書となっているので読み易く、東京からの距離も近いので閲覧者も多くなった。 と言ってもそれは特志の人が一覧するのみで、研究的に熟覧する人は篤学の人であった。その一人に井口丑二氏があった。氏は写本の文意に不明な所がある際には、足を相馬に運んで研究もされたものである。 井口氏は土井亀之進氏の『道徳経済論』及び『報徳の精神』によって啓発されたのであるが、今市の「報徳全書」を閲覧することによって深さを増し、明治四十一年『二宮翁伝』を発行し、同四十三年『報徳淵源』を、同四十五年に『大二宮尊徳』を出版した。『二宮翁伝』は、その頃までに多く出版せられていた二宮先生の伝記が、報徳記・夜話を主とした資料であるのと異なり、日記・書翰などを資料とし、親しく遺跡をたずねて史実を究明し、栢山時代、桜町時代、真岡・東郷時代、今市時代に分かち、典拠を明らかにして整然たる伝記としてまとめられたものである。 次の『淵源』は、報徳記・夜話・語録・外記による報徳仕法の概念を数歩掘り下げ、著者が英国に在留したる間に学んだ哲学の知識をもって、「大円鏡」など多くの報徳の原理に関する図書を検討し、宇宙に対する不可知観、仕法に関する功利観などに及び、最後に一元哲学としてこれを組織的に叙述し、仕法から結社に及び、始めて現代の学派に報徳の哲理を紹介した著作であった。それゆえこの著が公にせられてから、報徳を学ぶ青年に、単なる孝行息子であり、勤倹の実践者であるとして知られた二宮先生が、深遠なる人生観から宇宙観に透徹した哲学者であり、その哲学に立脚した政治・経済の規範を立てられた経世家であることを学ばしめたのである。 次に井口氏の『大二宮尊徳』は、『報徳淵源』が学級的であるのに対し、二宮先生の風貌を画き出そうと努めたので、四六版ではあるが、六百頁という大冊となった。原理に関するものも入れてあるが、主として日記・仕法等の資料により、詠み易く解し易い内容をもって充たされていた。 こうして井口氏の以上の三種の著作は、明治年間の著書であるが、次の大正年代における報徳青年の研究資料となり、二宮先生の自著の文献による研究の道を開くことにおいて、一つの新しい時代を展開する意義を持つものである。
2025.11.28
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「かくかくしかじか」5月16日公開連載終了から10年…なぜいま実写映画化?永野芽郁と大泉洋の共演で、人気漫画家・東村アキコ氏の自伝漫画を映画化する「かくかくしかじか」が、本日5月16日に公開を迎えた。連載終了から10年――なぜいま“実写映画化”となったのだろうか。プロデューサー・加藤達也氏が製作秘話を明かした。原作は、「ママはテンパリスト」「海月姫」「東京タラレバ娘」など数々の大ヒット作を生み出した東村氏が、泣きながら自身の実話を描いた自伝的作品(集英社マーガレットコミックス刊)。映画版では、東村氏が自ら脚本を執筆している。 スマッシュヒットを記録した映画「地獄の花園」のメガホンをとった関和亮が監督を務め、“主演:永野芽郁×監督:関和亮”の再タッグが実現している。「地獄の花園」、そして本作のプロデューサーを務めた加藤氏は「またこのチームで作品を作りたい」と動いていた時に、偶然家の本棚から「かくかくしかじか」を再発見。この出来事が、企画の始まりだったという。 原作は、漫画家になるという夢を持つぐうたら高校生の明子とスパルタ絵画教師・日高先生の、笑いと涙がつまったかけがえのない9年の物語が描かれた傑作自伝漫画。「改めて読んでみると、信じられないくらいボロ泣きしてしまって。同時に永野さんは明子というキャラクターにピッタリだし、関監督にとっても新たな挑戦になるのではないかと思いました」(加藤プロデューサー)と当時を振り返り、映像化に向けて動き出したという。 原作者である東村の元には、これまで同作には映像化のオファーが数多く届いていたそうだが“完璧な形での実現は不可能だろう”と断り続けていたという。加藤プロデューサーは、今回の企画実現については「東村先生が絶対的にこだわっていた、大泉さんの出演が叶ったこと。金沢美術工芸大学の校舎がなくなってしまうお話しなど、すべてのタイミングが奇跡的に揃ったことが一番です」と奇跡が重なったことで、連載終了から10年の時を経て実写化に至った。 試写会で一足早く本作を鑑賞した人々は、SNS上に熱量の高い口コミも投稿している。「日高先生と東村先生の関係に目頭が熱くなった」「日高先生の真っ直ぐな生き様、林明子さんの後悔と感謝。人に会える奇跡。誰しも自分と重なるところがあるんじゃないかな」「何回も観たくなる最高な作品」 中でも、最も“泣いた”という声が寄せられているのが、ラスト30分で描かれる明子と日高先生のシーン。加藤プロデューサーも注目してほしいシーンのひとつとして同場面を挙げており、次のようにコメントを寄せている。「明子と日高先生のシーンはどのシーンもグッと胸に迫るシーンばかりなのですが、一つ挙げるとするならば、今回映画のためだけに描かれた、海辺で明子と日高先生が語り合うというシーンがあります。東村先生も脚本を書かれる際に、この漫画が連載されて10年経ったことから年齢も近づきより先生の想いや、当時の自分を振り返ることができたとお話しされていました。原作ファンの方もそうでない方も、きっと気に入っていただけるようなラストシーンになったかと思います」映画「かくかくしかじか」原作者 地元・宮崎での“満席スタート”に喜び「本当に感謝です」5/16(金)5月16日は映画の公開初日。東村氏は「#映画かくかくしかじか」を添えて、「宮崎、朝から満席スタートらしいです!!」と喜びいっぱいに報告。「宮崎のみなさん、本当にありがとうございます!本当に感謝です」と感謝した。 「UMKでお願いしまくったんですよ…今日もテレビ電話で夕方のニュースに出ると思います~!」と明かした。 今作は、東村氏が自身の半生を描いた漫画「かくかくしかじか」が原作。9年間にわたる恩師との日々が描かれる。女優の永野芽郁と俳優の大泉洋がダブル主演を務める。「大泉洋さんが先生にしか見えん!」『かくかくしかじか』モデルとなった人物が明かす貴重なコメント公開5/15(木)漫画家になるという夢を持つぐうたら高校生の明子(永野芽郁)とスパルタ絵画教師・日高先生(大泉洋)の、笑いと涙がつまったかけがえのない9年の物語が描かれる本作。東村自身の経験をもとにした本作では、楽観的な明子に対し冷静な言葉で現実を突きつける明子の友人・北見(見上愛)や、絵画教室の後輩で後の明子のアシスタントとなる佐藤(畑芽育)、明子を担当するイケメン編集者・岡さん(津田健次郎)など、個性豊かなキャラクターが続々と登場するが、これらのキャラクターも実在する人物がモデルに描かれている。その中でも特に強烈なインパクトを残しているのが、鈴木仁が演じる元ヤン・今ちゃんだ。リーゼントヘアがトレードマークの今ちゃんは明子の高校の後輩で、嫌々ながら取り組んでいた美術の課題で明子に絵の才能を見出されると、絵の面白さに気づき絵画教室へ通うことになるという意外性のあるキャラクターだが、今ちゃん役も実際に東村が出会った実在する人物をモデルにしている。モデルとなった今村宇紀は、完成された本編もすでに鑑賞済みだといい、とにかくキャストが演じるキャラクターの再現度の高さに驚くばかりだったことを明かしている。大泉演じる日高先生については「大泉洋さんが先生にしか見えん! 喋り方、雰囲気、服装、もうあのまんま! 先生に会ったことないはずなのに、あんなに演じられるなんて凄すぎる!」と唸り、永野演じる明子に対しても「林先輩役の永野芽郁さんのふとした表情が、当時の先輩にそっくりでびっくりしました。一瞬、本人かと思いましたよw」とコメントを寄せ、太鼓判を押している。そんな今村は、東村からのリクエストで大泉や鈴木に直接当時の状況を説明するなど、撮影にも協力。今村は「(東村から電話があり)“『かくかくしかじか』の映画の撮影をしているんだけど、グループ展の時のこととか直接説明してあげて”とのこと。そして間も無くして先方から連絡が……寝起き5分で大泉洋さん! 流石に緊張しました」と当時の心境を回顧する。さらに、鈴木に対しても「イケメンすぎる! しかも、お話してみると好⻘年! 少し申し訳ない気持ちになりましたが、今ちゃんというかなりクセのあるキャラクターを、あんなに素敵に演じてくださって本当に感謝しております。グループ展のシーン、本当にあんな感じでした。思い出すと泣けてきます」と感謝の言葉を述べた。さらに「時たま写る、今は残っていないはずの先生の家の外観がそのまま過ぎて驚きました。その他、教室の雰囲気、登場人物のキャラクター、服装、写る景色、もう全部がそのまんま。本当に細部こだわって作られたんだなと思います。観ていてタイムスリップしたような感じがしました」と証言するその言葉からも、本作の抜かりないこだわりや再現度の高さがうかがえる。
2025.05.16
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朝、テレビを見ていたら、宮沢賢治特集をやっていた。「業のはなびらー父と子の秘史」番組の中で「二十六夜」という作品を紹介していた。宮沢賢治の詩碑文にと父が推したのは、「雨ニモマケズ」ではなく「業の花びら」という詩だった。業の花びら夜の湿気と風がさびしくいりまじり松ややなぎの林はくろくそらには暗い業の花びらがいっぱいでわたくしは神々の名を録したことからはげしく寒くふるへてゐるああたれか来てわたくしに言へ「億の巨匠が並んでうまれ しかも互に相犯さない 明るい世界はかならず来る」と ・・・遠くでさぎが鳴いてゐる 夜どうし赤い眼を燃して つめたい沼に立ち通すのか・・・松並み木から雫が降り空のどこかを風がごうごう吹いてゐるわづかのさびしい星群が雲から洗ひおとされてその偶然な二っつが黄いろな芒(のぎ)で結んだり残りの巨きな草穂の影がぼんやり雲にうつつたりする(詩集「春と修羅 二」より)(賢治の誓願)昭和8年(1933年)1月1日付け(この年の9月21日亡くなる)で宮澤賢治は、浅沼政規則、河本義行、菊池信一、高知尾智耀、母木光、高橋忠治、藤島準八、伊藤与蔵の8人に新年の挨拶を送っている。(「宮澤賢治全集」第15巻書簡集)特に高知尾智耀の名前が注目される。賢治が父との確執を経て、家出同然に東京に出て、国柱会の田中智学に面会にあがったとき、応接したのが高知尾智耀であった。賢治は法華行者としていかに生きるべきか智耀に相談しとき、智耀の回答に自らの生きるべき道を見出した。賢治はそれを自らの手帳に記録した。その手帳は賢治の死後発見され、「雨ニモマケズ」の詩が書かれてあったことから、「雨ニモマケズ」手帳と名づけられた。 その135ページにこう書いてある。「 ◎高知尾師ノ奨メニヨリ1. 法華文学ノ創作 名ヲアラハサズ、 報ヲウケズ、 貢高ノ心ヲ離レ2. 」また、139ページ、140ページには、紫色のエンピツでこう書いてある。(カタカナをひらがな表記にした)「筆をとるやまず道場観 奉請を行ひ所縁 仏意に契(かな)ふを念じ 然る後に全力之 に従ふべし 断じて 教化の考えたるべからず! たゞ純真に 法楽すべし たのむ所おのれが小才に 非(あらざ)れ。たゞ諸仏菩薩 の冥助によれ。」 実に宮澤賢治は、高知尾智耀の勧めで、法華文学の創作を志し、しかもそれは教化を目的としてではなく、ただ純真な法楽としてなされたのだ。そして賢治は国柱会を離れてからも、終生高知尾師を徳とした。 高知尾智耀あての最後の年賀状にはこう書いてあった。「謹賀新正 昭和8年1月1日 岩手県花巻町 宮沢賢治拝 客年中は色々と御心配を賜はり有難く存じ奉り候 お蔭さまにてこの度も病漸くに快癒に近く いずれは心身を整えて改めて御挨拶申し上げ候」8月30日には、満州派遣歩兵第31連隊第5中隊の伊藤与蔵あての手紙を出している。その中にこんな記述がある。「当地方稲作は最早全く安全圏内に入りました。 初め5月6月には雨量不足を憂い、6月も25日になってやっと植え付けの始まった地区さえあり、また7月の半ばには、湿潤のため各所に稲熱病発生の徴候も見えたりしたのでしたが、結局は全期間を通じての数年にない高温によって成育は非常に順調に進み、出穂も数日早く穂も例年より著しく大きく、今の処県下全般としては作況稍(やや)良と称せられておりますが、西の方の湿田地帯などは仲々3割の増収でも利かないように思われます。 私もお蔭で昨秋からは余程よく、もっとも只今でも時々喀血もあり、殊に咳が始まれば全身のたうつやうになって2時間半くらい続いたりしますが、その他の時は、弱く意気地ないながらも、どうやらあたり前らしく書きものをしたり・・・しています。それでも何でも生きている間に昔の立願を一応段落つけやうと毎日やっきになっている所で我ながら浅間しい姿です。・・・」 「昔の立願」とは、おそらくは盛岡中学のときに友人たちと岩手山に登った時の誓願であろうか。賢治は生涯を願に生きた人であった。 賢治は盛岡中学時代の親友、保坂嘉一にだけその心中を吐露した。保坂は、盛岡中学を思想問題で退学処分となった。賢治は法華経信者となり、保坂に「一緒に参らして下さい」と口説くのだが、保坂は次第に賢治から離れていく。そんな状況で書いた日付不詳の賢治の手紙にこうある。「あなたはむかし、私が持っていた、人に対してのかなしい、やるせない心を知っておられ、またじっと見つめておられました。今また、私の高い声に覚び出され、力ない身にはとてもと思われるような、4つの願をも起こした事をあなた一人のみ知っておられます。 まことにむかし・・・夏に岩手山に行く途中誓われた心が今荒び給ふならば私は一人の友もなく、自らと人とにかよわな戦を続けなければなりません。」4つの願といえば、菩薩の四誓願を思い出す。「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへん せいがんど) 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじん せいがんだん) 法門無量誓願学(ほうもんむりょう せいがんがく) 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょう せいがんじょう)大正9年12月2日には、保坂あて「今度私は 国柱会信行部に入会しました。即ち最早私の身命は 日蓮聖人の御物です。従って今や私は 田中智学先生の御命令の中にだけあるのです。 謹んでこの事を御知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります」と保坂を熱狂的に日蓮宗に折伏しようとする。保坂は入隊していた。賢治の手紙に違和感を覚え、そうした返信を書いた。大正10年1月に、賢治はさらに「あなたの為すべき様は まづは心は兎にもあれ 甲斐の国(保坂は山梨出身)駒井村のある路に立ち 数人或は数十人の群の中に正しく掌を合せ 十度高声に 南無妙法蓮華経 と唱える事です・・・ とにかく保坂さん どうか早く 大聖人御門下になって下さい。」と催促する。賢治は、その頃、実家の質屋の店番をしていたが、保坂に勧めたとおり、自らも花巻町の中を題目を叫んで歩いた。大勢の知り合いも顔をそむけ、行き過ぎては立ち止まってふりかえってそんな賢治を気でもふれたかと見ていた。実家は浄土真宗を奉ずる名家であった。息子の気がふれたような行動に父は激怒した。そして賢治は切羽詰まって東京へ家出を敢行するのである。そして上野に着いて国柱会へ行った。「私は、昨年御入会を許されました岩手県の宮沢と申すものでございますが、今度家の帰正を願うために、にわかにこちらにまいりました。どうか下足番でもビラ貼りでも何でもいたしますからこちらでお使いくださいますまいか。」知らない先生が出てきて賢治に言った。「そうですか。 こちらの御親類でもたどっておいでになったのですか。 ひとまずそちらに落ち着いてください。 会員であることはわかりましたが、何分突然の事ですし、こちらでも今は別段人を募集もいたしません。よくある事です。全体父母というものは、なかなか改宗できないものです。ついには感情の衝突で家を出るという事も多いのです。まずどこかへ落ち着いてからあなたの信仰や事情やよくうけたまわった上でご相談いたしましょう。」賢治は、そのおさとしにお礼を言って「又お目にかかります。失礼ですがあなたはどなたでいらっしゃいますか。」と尋ねた。「高知尾智耀です。」「たびたびお目にかかっております。それでは失礼いたします。」と国柱会を退出した。その後、小さな出版社に入って、仕事をする。「さあ、ここで種を蒔きますぞ。」と親戚の関徳弥に書き送っている。そして1月30日付けでの保坂あての手紙に、「かって盛岡で我々の誓った願 我等と衆生と無上道を成ぜん これをどこまでも進みましょう」とそのかって立てた誓願を述べている。「形だけでいいですから 大聖人御門下という事になってください」と調子もだいぶ落ち着いてきている。 見習い士官となっていた保坂に賢治は面会を求めた。 7月3日付けの賢治の手紙に言う。「お葉書拝見しました。 私もお目にかかりたいのですがお訪ね出来ますか。・・・ どうです、またご都合のいいとき日比谷あたりか、植物園ででも、又は博物館ででもお待ちしましょうか。」 そしておそらくは日比谷図書館で保坂に賢治が日蓮宗への帰正を求め続ける態度に絶縁を告げたのである。そのときの衝撃が「われはダルケを名乗れるものと」という詩となった。 われはダルケを名乗れるものと つめたく最后のわかれを交はし 閲覧室の三階より、 白き砂をはるかにたどるこゝちにて その地下室に下り来り かたみに湯と水とを呑めり そのとき瓦斯のマントルはやぶれ 焔は葱の華なせば 網膜半ば奪はれて その洞黒く錯乱せりし かくてぞわれはその文に ダルケと名乗る哲人と 永久(とは)のわかれをなせるなり この唯一の親友との別れは、賢治に衝撃的なダメージを与えた。7月13日付けの関徳弥あての手紙に書く。「私の立場はもっと悲しいのです。あなたぎりにして黙っておいてください。信仰は一向動揺しませんからご安心ください。そんなら何の動揺かしばらく聞かずに置いてください。・・・私には私の望みや願いがどんなものやらわからない。・・・今日の手紙は調子が変でしょう。こういう調子ですよ。近頃の私は。」8月11日付けの関徳弥あての手紙には書く。「7月の始め頃から25日頃にかけてちょっと肉食をしたのです。 それは第一は私の感情があまり冬のような具合になってしまって燃えるような生理的の衝動なんか感じないように思われたので、こんな事では一人の心をも理解しかねると思って断然幾片かの豚の脂、塩鱈の干物などを食べたためにそれをきっかけとして脚が悪くなったのでした。」ここで「一人の心をも理解しかねる」というのは、おそらくは保坂のことである。10月13日に賢治は保坂嘉内あて手紙を書いている。「拝啓 御葉書有難く拝誦つかまつり候。 帰郷の儀も未だ御挨拶申上げず御無沙汰重々の処御海容願い上げ候。お陰をもって妹の病気も大分によろしく今冬さへ無事経過致し候はばと折角念じ居り候・・・」とよそ行きの挨拶状を出す。 それまでの保坂への熱情あふれる文章は姿を消す。そして妹の病気を理由に花巻に帰り、農学校の先生となるのである。12月保坂宛の手紙にはこうある。「・・・ 毎日学校に出ております。 何からかにからすっかり下等になりました。それは毎日のNaClの摂取量でもわかります。近ごろしきりに活動写真などを見たくなったのでもわかります。また頭の中の景色を見てもわかります。 それがけれども人間なのなら私はその下等な人間になりまする。 しきりに書いております。書いておりまする。・・・ 授業がまづいので生徒にいやがられておりまする。・・・」けれども、この親友保坂との別れによって、教師宮沢賢治が誕生し、そして不朽の文学を創作し続けるのである。すべては宮沢賢治にとって、必要な必然の出来事だったのかもしれない。
2023.04.23
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キネシオロジーという言葉は、「パワーかフォースか」を読んで始めて知った。この本には「人間のレベルを測る科学」という副題がついている。人間のレベルとは、「意識」のレベルである。意識のレベルを1~1000に分類する。これは対数系であり、「レベル300は、150の2倍ではなく、10の300乗のパワーを示します、ですからほんの数ポイント上がるだけで、パワーは大きな増加を表しています。」(P115)この意識のレベルは、キネシオロジーという筋反射テストで測定できるという。数万人を測定した結果、そのテストの客観性は確実であるというのです。そのテストによれは、人類全体の意識のレベルは200を少し超したところにあります。20世紀の後半まで190代の「プライド」レベルにとどまっていましたが、今パワーの領域である「勇気」のレベルに到達しています。レベル1000はお釈迦様、イエス・キリストのレベル、レベル700はガンジー、マザーテレサの「悟り」のレベルです。この本の中でその測定のツール(道具)として、キネシオロジーが紹介されている。「1971年に、3人の物理療法家が、筋肉テストの研究を発表しました。グットハート博士は、マッスルテスト(筋反射テスト)を研究し、「あらゆる筋肉の強さあるいは強さあるいは衰弱は、その筋肉に対応する臓器の健康状態や病状に密接に関連している」という発見をしました。キネシオロジーはその後多くの学者によって飛躍的に発展しましたが、衝撃的な発見として挙げられるのは、体が有害な刺激にさらされると、筋肉が即時に弱くなる現象でした。たとえば低血糖症の患者が、砂糖を舌の上においてマッスルテストを受けると三角筋は即座に弱く反応し、逆に体によいものを摂取すると筋肉は強くなることが発見されました。そしてキネシオロジーは病気を見つける上で信頼できる診断テクニックとして多くの医者が用いるようになりました。ジョン・ダイヤモンドという精神科の医学博士は「キネシオロジー行動学」という学問の分野を確立しました。ほかの研究者は、アレルギーや栄養障害を検出する方法としてキネシオロジーを主に用いましたが、ダイヤモンド博士は、音楽、顔の表情、声の調節、ストレスなどの心理的な刺激が有益か有害かを研究するテクニックとして用いました。その結果は驚くべきもので何も知らされずにテストしても、体が同じ反応をする、たとえば何も書いていない封筒の中にさまざまな物質を入れて、体に有益か有害かのテストをしても体は同じ反応をしめす。つまり肉体は正確に答えるのです。1000人の聴衆に、まず500人に人工甘味料を含む500個の封筒を配り、残り500人には有機のビタミンCが入った別の封筒を配る。2人ずつ組になってもらい、代わる代わるテストしてもらうと、全員が人工甘味料には弱く、ビタミンCには強く反応した。封筒を開けたときの参加者の驚きはただならぬものだったのです。以前、カルフォルニアでキネシオロジーによる診療活動をされている本間博士のキネシオロジーの実演を見学したことがありましたが実に驚くべき光景でした。確かに私たちの体は知っていて正確に問いを出すと筋反射テストでその病気の原因の回答にたどりつけるのです。この診断テクニックを意識のレベルの判定のツールとして使ったのが「パワーかフォースか」のデヴィット・ホーキンス博士なのです。・水道橋駅を出て南側のすぐのところにある東京学院の4階で、Dr.本間のキネシオロジーの実演があった。キネシオロジーとは人体の筋反射テストを応用した癒しの技術である。会場には50名ほど来ていて、「ほんま」と名札を付けた本間先生が会場に来られた3人の方に施術された。「キネシオロジーとは、キネシスという"運動/動き"という意味のギリシャ語の語源と、ロゴスという"学問"という意味の接尾語がついた合成語です。医学を基礎にした身体の運動に関する筋肉の解剖/神経/物理機能/生化学機能/運動機能を専門的に研究する学問で体育学とスポーツ医学に関連しています。」と説明にはある。 具体には。筋肉の反射テストというボディランゲージを使って身体の状態を検査して治療していく治療方法だ。「キネシオロジーはするのも大事だが、見るのも大事です」と本間先生が言われる。年のころ50くらいのやさしいお顔だ。「見て皆さんも参加できる。参加した人も5分の1か、12分の1の人も体のコンディションがよくなるでしょう」「私は15年ほど前、鍼灸をやカイロスティックを学んだ。カイロのなかで、AK、アプライドキネシオロジーの原型を学んだ。 治療していくなかで、分ること分らないことがある。治るケースと治らないケースがたまる。例外がでてくる。一方何で治っちゃうのというケースもあり、うまく治らない、例外が出てくる。 そういうとき、アプライドキネシオロジーを一般の人にも伝えるよう編集したタッチフォーヘルスのジョン・シー先生に出会い、「さまざまなものがつながりをもっている」というコンセプトを説明され、例外のケースが理解できるようになって治るようになっていった。プロフェッショナルではなく、一般の人にキネシオロジーを広める、キネシオロジーは恵みである。」ドクター本間の願いは、キネシオロジーを一般の人に広く伝え、自分で気づき、治すということができるようになることなのだ。キネシオロジーを受けたい方と本間先生が問うと2、3人が手を挙げた。「あなたは終了生だから」と前列の白髪の女性に声をかけ、後ろの方で立見して手を挙げた20代後半くらいの女性を指名した。前に出てきたその女性にどこが悪いのかと聞くと「2が月ほど前から咳がとまらないのです」という。本間先生が2ヶ月ほど前、何があったのかと問うと「新製品ができて嬉しかったけど、忙しくて・・・」と体調を崩した原因をいう。しかし、キネシオロジーでそれは本当の原因ではありませんねと本間先生に喝破され、真の原因と向き合うようになった。特に最後の若者への施術が面白かった。左半身がひきつったり、痛んだりして調子が悪いという。若者の右腕を前へ水平に伸ばさせ、本間先生がその若者の左肩に手を置き、「筋、骨、ポーズ、ポーズ、アクセス」と言って、右腕の手首あたりに下向きの圧力を加える。抵抗するようにと言ってあるから、若者の逞しい右腕はカチッと固定され、ビクともしない。本間先生が調子が悪いのはいつからですか、何が原因だと思いますか、シークレットにしたければそれでもいいですよと聞く。若者は、彼女が原因だと思うが、その内容はシークレットにしたいと答える。本間先生が「彼女の顔を思い浮かべてください」と言い、右腕の筋反射テストする。驚いたことに、右腕が抵抗できなくて、ダランと下がる。本間先生の指一本のソフトな圧力ですら抵抗できない。「君は素直な人ですね」とおっしゃる。「彼女の気分に合わせて、君の気分も上下しているんじゃないんですか?」と聞かれるがピンとこない。キネシオロジーでは被験者の気づきが大事で、筋反射テストを通じ自分で治すという事のようだ。2人目の奥様は、ママさんバレーで体を痛めてと自分では自覚していたのだが、キネシオロジーにかかると本当の原因は実はご主人との関係にあったようなのだ。本間先生が並べた言葉の中で印象に残った意味を考えてくださいと言われて考えているうちに涙を流して、癒されてしまったのだ。本間先生は「言葉も癒しです」とおっしゃった。最後にキネシを受けた若者のことである。ベッドに寝かされ、本間先生が16箇所ほどの筋反射テストを繰り返すが、反応がいまいちで「困ることもあるんですよ」と冗談めかして言われた。若者に9番の恥骨の端に両手で触らせて、テストすると脚の筋肉がピタッと圧力に耐えた。「よかった」と本間先生はにこやかに笑われた。助手の方の持っていたカードの言葉「リラックス、情熱、責任、・・・」と言葉を三回ほど繰り返された。「印象に残った言葉の意味をしばらく考えてみてください」と若者に言われ、その間、聴衆に説明された。その後、若者に彼女のことを思い描かせ、右腕の筋反射テストをされたが、ピタッと筋はとまった。ちょっと前まで指一本に抵抗できなかったのに。「彼女はどう見えますか?」「小さく見えます」風船みたいに膨れ上がって見えていた彼女のイメージがしぼんだという。「今度、彼女に会うときは、今のように思ってから会うんですよ」と本間先生はアドバイスされた。帰りがけ、中年の男性がその若者に「どんな言葉を考えたんですか」と聞いていた。つい聞き耳が立つ。「情熱、寛容、責任です。」ふふ、いいことを聞いた!・Oリングテストはキネシオロジーの簡単なやり方の一つで、知っていると重宝する。たとえばデパートで妻にどっちの服がいいと聞かれるとする。実は本人はどっちか決めていて人にも確認してもらいたいだけで、どっちを選ぼうが購入する服はきまっているのだ。この場合、親指と人差し指でOリングを作ってもらい、Aの服がいい!と言葉にしてもらう。そしてAの服が本人が気に入っていれば、Oリングを離そうとしても離れない。気にいっていなければすぐに離れる。Bの服がいい!といってもらって、Oリングテストを実施すると正しい筋反射が得られる。昨日もA医院かB医院にいくのか迷っているというので「Oリングテストをしてあげよう」結果B院のほうが、Oリングが離れなかったので、B医院におもむいた。一人Oリングテストもでき、二つの選択肢に迷う時に、Oリングテストをして決定すると安心して実行に移すことができる。私のやり方は左手の親指と小指でOリングを作って右手の親指と人差し指をリングに突っ込み外側に離そうと試みる。リングが離れなければOK 離れればNOの合図とする。Oリングテストを続けていると、顕在意識にはあまり信を置かないほうがいいということ潜在意識を信頼し、それをコントロールすることの重要性に気づく。
2023.09.03
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Q 送信する際にRE: [CAUTION!! freemail]が出てくるA メールの返信元がつけて送っている物で、元のメール自体は正しく送信されて、相手にもそのメールも通常は正しく送信されています。そのメッセージは、正確にはメール送信先のメールサーバーのセキュリティシステムが、メールの送信元のみだけを判断して勝手につけている物です。💛なるほどパソコンのセキュリティシステムの判断か?
2024.09.19
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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻) 普勧坐禅儀抄話その17 我々は坐禅というものを何かするためにするのではない。ただ坐禅をすれば坐禅それ自身が途方もなく人間界に宗教的衝動を与えるものである。人々にさえもその通りだからもちろん自分には宗教的つまり仏法、仏の極意にひたっている。いやひたっているのではない。仏法の極意をやっていることになる。他人が見ると、なんだか知らぬが、筋肉をまげて大変な緊張ぶりである。これはボタ餅が7つあれば早く4つ食うように努力するのとは違う。だしあいっこで酒を飲むのに、一升ずつだした酒を一杯でもよけい飲もうと努力するのとはえらい違いである。 そうすると、こうして坐っているというのは実に得難い気持ちなんである。この気持ちが大切なのである。わたしは一生かかって、高い真理を説くよりも、深いことを考えるよりも、仏祖の教えによって、まっさきに坐ることであると考えた。坐りさえすれば、仏さんよりも丁寧に婆さんが拝みよった。わたしは18歳の時に、わたしの最も尊いことは一生坐禅をすることだと決定できた。 坐禅は仏法の極意である。自分の形で仏法を具現する、ということが坐禅ということだ。こういう意味から、坐禅の形をたっとぶのである。坐禅は自分の役に立てるものではない。何のため、ということがないのが坐禅なんである。おれは坐禅はしたくないが、月給の種にしようということになると、道楽坊主と一緒になる。月給で坐禅するのならば、なんにもならない。ただ坐禅は坐禅きり、坐禅それ自身が目的であり、彼岸であり、最高価値である。(『禅談』p.329-330)
2025.11.28
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実は入門断る予定だった安治川親方、会った瞬間、まさかの行動 「ウチにおいで、って言っちゃってました」そうさせたのは安青錦の”目力” 関脇安青錦(21)=安治川=の大関昇進が正式に決まった。ウクライナ出身では初の大関昇進。安青錦はどのように戦禍を逃れて来日し、安治川部屋へと入門できたのか。運命の糸に導かれて出会った2人の話をもとに、2回に分けて連載する。〈連載(上)から続く〉 師匠の安治川親方(元関脇安美錦)と安青錦との出会いは、3年前の2022年8月25日。場所は、その年の4月に来日した安青錦が稽古に通っていた兵庫・報徳学園高だった。 外国人の受け入れを考えてもいなかった安治川親方は断るために兵庫へ向かった。しかし、逆に一目ぼれ。運命的な出会いとなった。当時は伊勢ケ浜部屋に所属し、近い将来に独立する意向があった親方のもとには入門を希望する外国人、その関係者からの問い合わせが頻繁にきていた。そのたびに、「新しい部屋なので」と断っていた。後で知ったことだが、断りを入れた中には安青錦も含まれていたという。 わざわざ兵庫まで足を運んだ理由は恩師からの連絡だったからだ。報徳学園高相撲部の元監督・福田耕治さん。安治川親方が青森・鰺ケ沢高2年で参加したハワイ遠征を率いた、アマチュア相撲界の重鎮だった。兵庫へ行くまでは恩師といえども断るつもりでいた。安青錦と出会って、その考えはすぐ吹き飛んだ。 「会った瞬間、目を見て話をしたら、その目に吸い込まれて。『ウチにおいで』って言っちゃってました。あの真っすぐな目で決めました」 相撲に対しても「大相撲が好き。映像で見る取組が美しい」と語る一途な目を見て、「外国人とか関係なく、そういう気持ちを信じた」と安治川親方。当時は体が小さくて「強くなるとは思えなかった」というが、「その目を信じた。強くならなくても一生面倒を見るつもりで」と振り返る。 ウクライナにいたときから、安美錦の相撲を見ていたという安青錦。取り口もよく似ている安治川親方を尊敬してやまない。師匠は「言っているだけでしょう」と笑うが、しょっちゅう2人で語り合う。指導で厳しいことをいうときもあるが、「嫌な事を言われる人に近づいて話そうとするんだから、オレのこと好きなんだろうな」とまんざらではない。 まるで安治川親方の分身のようだ。「安青錦は梅干しが苦手かな。オレも苦手だから。そこまで親方のまねしてるのかって」と言いながら、うれしそうに笑う。 ウクライナ国旗にある青、青い瞳の青をしこ名に入れた。「安美錦にも似ているし。珍しいしこ名だけど、強くなったら覚えてくれる」と安治川親方。出会うべくして出会った2人。その絆とともに、しこ名をとどろかせる
2025.11.27
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【オールスター合唱バトル】優勝「僕のこと/Mrs. GREEN APPLE」を大合唱!「ミリオン再生合唱団」が、フジテレビ系『オールスター合唱バトル』で、またやりました! 12月29日のオンエアを見ていただいた方はお分かりの通り、前回「ミュージカル合唱団」と同点優勝だった「ミリオン再生合唱団」が、今回は見事に単独優勝!20人1組のチームを組んだ芸能界の歌唱力自慢のタレントたちが“合唱”で激しいバトルを繰り広げる本番組。前回放送では、伊礼彼方が率いる「ミュージカル合唱団」とRIOSKE(ペルピンズ)が率いる「ミリオン再生合唱団」が激闘の末に同点優勝という劇的な結果になった。新しいメンバーを迎えて再集結した「ミリオン再生合唱団」の歌唱曲は松たかこ『レット・イット・ゴー~ありのままで~』Mrs. GREEN APPLE『僕のこと』の2曲。審査員のHIKAKINは「クリエイター魂が届いた」という熱いコメントと共に、100点満点をつけた。 SNS上でも、「ミリオン再生合唱団の合唱は毎回感動する。歌の力はすごい」、「日々それぞれで努力して活動されてきているみなさんがこうして力を合わせて優勝するのは本当に嬉しい!」、「感動しようとせず、感動しました。泣こうとせず、感情移入せず、涙が出たのは初めてかも知れない。誰一人バックボーンを知らないけれど、みんな一人一人の想いが、のっていた。みえた。それが、人を感動させるんだなって思いました。」などの感動のコメントが多く寄せられた。財部 2回目は、1回優勝してしまってるし、周りからの見え方もかなり変わってくるから、今回また優勝するのは正直厳しくねえかって、最初は思ってたんですよ。またメンバーも変わりましたし。ただやっぱり、メンバーを見ると「いや、優勝できるっしょ」みたいな感じになるんですけど、そしたら収録の時に、スタジオの廊下で偶然すれ違う方々のすごい顔触れを見て、僕は(頭を抱えて)「やべえ、マジ今回はヤバいかも……」みたいになって。財部 前回よりも、僕的にはプレッシャーもかなり高かったですね。あと練習していく中で、前回と空気感が違ったりもしてて。楽しさだけじゃなくて、何とも言えない勢いみたいなものが前回はすごくあったんですね。でも今回は、その勢いが途中ぐらいまであまりなくて。みんなメッチャ考え込んじゃう時間とかがかなり多かったんですよ。「これで大丈夫かな?」ってすごく心配になりつつやっていったので、メンバーが変わっただけでこんなにも雰囲気が変わるのかとも思いましたね。2回連続優勝はもちろん目指したいけど、果たして本当にできるのかっていう葛藤の中、何とか本番を乗り越えて。意外と本番になったら、やっぱり皆さん、個々のポテンシャルが高すぎるので、グッと勢いで何とか優勝できたなという感覚でした。
2024.12.30
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194二宮翁夜話巻の3【53】尊徳先生はおっしゃった。人生尊ぶべき物は、天禄を第一とする、だから武士は天禄のために、一命をなげうつのである。天下の政事も神・儒・仏の教えも、その実、衣食住の三つの事のみである。庶民が飢えずこgぺないのを王道とする。ゆえに人たる者は、慎んで天禄を守らなければならない。固く天禄を守る時には、困窮・艱難の患いはない。かりそめにも、自分の天禄を賤む心が出る時は、困窮・艱難たちまちに至る。天禄の尊い事はいうまでもない。日々の衣食住その他、はきもの、笠やからかさから鼻紙までも、皆天禄分内の物である。嫁は他家より来たる者ではあるが、その原因を考えると、天禄の中より来たるといっても違いはない。だから私のこの方法は、天禄がない者に天禄を授け、天禄の破れんとするを補い、天禄の衰えた者を盛んにし、かつ天禄を分外に増殖して、天禄を永遠に維持するところの教えであるから、尊い事は論をまたない。古語に、血気ある者、尊信せざる事なし、というのは、私の道の事である。二宮翁夜話巻の3【53】翁曰く、人生尊ぶべき物は、天禄を第一とす、故に武士は天禄の為に、一命を抛つなり、天下の政事も神儒仏の教へも、其の実衣食住の三つの事のみ、黎民(れいみん)飢へず寒(こご)えざるを王道とす、故に人たる者は、慎んで天禄を守らずばあるべからず、固く天禄を守る時は、困窮艱難の患ひなし、仮初(かりそめ)にも、我が天禄を賤むの心出る時は、困窮艱難忽に至る、夫れ天禄の尊き事は云ふ迄もなし、日々の衣食住其の他、履き物笠(かさ)傘(からかさ)よりして鼻をかむ紙迄も、皆天禄分内の物なり、嫁は他家より来る者といへ共、云ひもてゆけば、天禄の中より来ると云はんも違へるにあらず、然るに我が此の方法は、天禄なき者に天禄を授け、天禄の破れんとするを補ひ、天禄の衰へたるを盛んに為し、且天禄を分外に増殖し、天禄を永遠に維持するの教へなれば、尊き事論を俟(また)ず、古語に、血気ある者、尊信せざる事なし、といへるは、我が道の事なり。
2025.11.26
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チョコレートの驚くべき5つの健康効果2/10(土) 栄養士、シータナ・クーパーさん協力のもと、日々の食生活にチョコレートを取り入れることで期待できる健康効果をリストアップ。チョコレートの濃厚な味わいや香り、食感によって、幸福感をもたらす脳内物質が放出されるそう。チョコレートに含まれる必須アミノ酸のトリプトファンは、幸せホルモン「セロトニン」の分泌を活発化させ、抗うつ作用があるカカオに含まれるテオブロミンという物質は、脳の咳中枢に信号を伝える迷走神経に作用し、咳を抑えてくれる。カカオやお茶に含まれるエピカテキンは、認知機能低下の原因とされるアミロイドβという老廃物の蓄積を抑制し、アルツハイマー病の予防に役立つ可能性フラボノイド(ポリフェノールの一種)が豊富なため、食べることで血圧が下がり、血液がサラサラになって脳卒中のリスクが減少するうえ、抗炎症作用もある。クーパーさん「フラボノイドは、血管拡張作用をもつ一酸化窒素の生産を促進し、血圧を下げると考えられています」LDLコレステロール(悪玉コレステロール)の酸化を防ぎ、動脈硬化の進行を抑える働きがあることも明らかになっている。フラボノイドの50%以上は、カカオバターに多く含まれるステアリン酸という飽和脂肪酸からできており、悪玉コレステロールを減らし、HDLコレステロール(善玉コレステロール)を増やす性質がある。クーパーさん「原材料表示欄に、カカオ豆やカカオ、カカオマス、カカオリカーなどと記載されていれば、フラボノイドが豊富な可能性が高いので、購入時の参考にしてみてください。ただしフラボノイドの含有量は、ミルクチョコレートだと少量、ホワイトチョコレートだとゼロに等しいのでご注意を」ダークチョコレート。チョコレートの脂質が糖の吸収を遅らせる作用があるため、血糖値が急上昇することはない。また含有されているカフェインは集中力を高め、一時的な脳のエネルギー源になることも研究で明らかになっている。ただカフェインを抑えたい人は、チョコレートにもカフェインが含まれていることをお忘れなく。 少量ならば太る心配もなく、むしろ健康にいいチョコレート。大事なのは、ヘルシーでバランスの整った食事を心がけることと、ミルクチョコレートよりも低脂質で抗酸化作用のあるダークチョコレートを選ぶこと。蒲郡市内外の45~69歳までの347人(男性123人、女性224人)に、4週間、カカオポリフェノールを多く含むチョコレート*を毎日一定量(1日5gを5枚、約150 kcal)摂取していただき、摂取前後の血圧測定や血液検査などで身体の状態の変化を検証しました。この実証研究は、愛知県蒲郡市・愛知学院大学・株式会社 明治の産官学の共同で実施いたしました。検査は、蒲郡市民病院で行われ、チョコレートは、平成26年6月中旬から7月中旬に召し上がって頂きました。1 チョコレートの摂取により、アルツハイマー型認知症や記憶・学習などの認知機能と関連性が報告されているBDNFが増えることがわかりました。2 BDNFは、神経細胞の発生や成長、維持や再生を促進させる神経栄養因子(分泌性タンパク質)の一種で、 1982年に初めてブタの脳から精製されました。BDNFは海馬などの中枢神経系に多く存在しますが、血液の中にも存在しています。血液中のBDNFは、血液脳関門を通過するといわれています。また、BDNFは、ニューロンの産生や神経突起の伸長促進、神経伝達物質の合成促進に関係するなど、脳にとって重要な栄養分と考えられています。一方、65歳以上では加齢とともに減少することも知られていますBDNFを制限すると、記憶や学習能力が低下する。うつ病やアルツハイマー型認知症との関連性も。認知症予防の可能性から、BDNFへの注目度が上昇中た脳の活動をさまざまな物質が支えていますが、その中でも代表的なものがBDNFです。BDNFは特に、脳の中で記憶を司る海馬に多く含まれていて、記憶を司る神経細胞の活動を促進させていると考えられています。このようにBDNFは、脳の活動を下支えする非常に重要な物質ですが、認知症を予防する可能性が多くの研究で示唆され、昨今、特に注目度が高まっているBDNFは運動によって上昇する。抗酸化物質にも脳内BDNFを上昇させる可能性あり。いくつかの臨床試験の結果、適度な運動はBDNFを有意に増加させるとともに、記憶や学習などのパフォーマンスを高めることがわかりましたまた、ラットを用いた実験では、抗酸化物質を投与後に運動負荷をかけたところ、運動で生じる酸化ストレスが低減され、海馬でのBDNF発現を促進する環境を構築できる可能性があることもわかっていますチョコレートなどのカカオポリフェノールを多く含むカカオ製品を摂取すると、脳血流量が上昇することもわかっています。また、脳血流量の上昇により、認知機能テストのスコアが上昇することも報告されています。これらの調査からは、カカオ製品の摂取によって認知機能を維持できる可能性がみてとれます。実際、チョコレートを多く摂取している人は、認知機能テストの結果がよいという報告もあがっていますこれまで、運動したり、難しいことを考えたりするとBDNFが増えるのではないかといわれてきました。しかし、今回の実証研究では、チョコレートに含まれるカカオの成分であるポリフェノールにBDNFを増やす可能性があることが初めて分かりました。これは、最終的には認知症を予防できる可能性があることを示すもので、とても大きな期待が持てます。
2024.02.10
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【バレー】日本、五輪出場ドイツにフルセットの激闘制し勝利 福岡大会開幕2連勝6/5(水)バレーボールネーションズリーグ2024福岡大会:日本-ドイツ>◇男子予選ラウンド第2週◇第6戦◇5日◇福岡・西日本総合展示場 世界ランキング4位の日本が、福岡大会で開幕2連勝を飾った。 昨秋の五輪予選でパリ切符を獲得している同12位のドイツに3-2で勝利。4日にアジアの宿敵イランをストレートで下した地力を示し、接戦を制した。次戦は7日に同1位のポーランドと対戦。パリ五輪でメダルを目指す日本にとっては、試金石の一戦となる。◆第1S 日本はセッター関田誠大、オポジット西田有志、アウトサイドヒッター石川祐希、高橋藍、ミドルブロッカー高橋健太郎、小野寺太志、リベロ小川智大がスタメン出場。高橋藍のバックアタックや小野寺の速攻、石川のブロックなどで6-4と先行。石川のスパイクや小野寺のサービスエースなど3連続得点で9-5とリードを広げた。10-6から4連続失点で追いつかれたが、13-12から石川がバックアタックを決めて再び前に出ると、その後も石川がフェイントを決めるなど着実に得点を重ねた。石川が客席付近で決死のレシーブを見せるなどチームを鼓舞し、20-17と先に20点台に到達。高橋健にもブロックポイントが飛び出すなど3連続得点で22-17と追い込んだ。23-21と2点差まで詰め寄られたが、高橋藍が体勢を崩しながらもスパイクを決めてセットポイントを握ると、最後は石川がライトからバックアタックを決めて25-22。セットカウント先取に成功した。◆第2S 小野寺のクイックや石川のバックアタックなどで4-2とリードしたが、5-4から2連続サービスエースを喫し逆転を許す。その後はサイドアウトの応酬となったが、13-12の場面で関田がサーブで崩してブレークに成功。続けて高橋藍に好レシーブが飛び出し、15-13と前に出た。しかし、相手のミドルを使った攻撃に苦戦し、終盤はなかなか流れをつかみきれず。エースを決められるなど19-19から連続失点で勝ち越しを許すと、22-24と先にセットポイントを献上。最後は高橋藍がブロックに阻まれ、22-25でこのセットを失った。◆第3S 西田がブロックにつかまるなど立ち上がりは苦しい展開。2-5とリードを許した。しかし、8-10から高橋健のスパイクなど3連続得点で逆転に成功。リズムをつかむと、小野寺のアタックやブロックポイントで17-14と点差を広げた。その後も小野寺が要所でスパイクやレシーブで躍動。攻守に流れを引き寄せると、西田の強烈スパイクで20-16とリードを保って終盤戦に突入した。だが、21-18から3連続失点で同点に追いつかれ、1点を争う展開に。西田のスパイクで先にセットポイントを握ったものの、25-24からまさかの3連続失点。25-27でセットカウント連取を許し、1-2と追い詰められた。◆第4S ミドルブロッカー山内晶大をセット頭から起用。その山内の速攻やブロックなどもあり6-4と先手を取った。だが、7-5の場面から2連続サービスエースを含む4連続失点を喫して逆転されると、その後もエースを決められるなど8-11とリードを許した。それでも、小野寺のブロックや高橋藍のスパイクなど4連続得点で14-12と勝ち越しに成功。18-18と追いつかれながらも、石川が多彩なアタックを連発し勝ち越しは許さない。不運なレシーブエースやサービスエースで23-23となったが、相手のサーブミスでセットポイントを握ると、最後は石川がブロックを決め、逆転を許さず25-23で2-2のタイに戻した。◆第5S 高橋藍の技ありブロックアウトで先制。5-5から関田が押し込み、ブレークに成功した。6-6から西田のアタックなど3連続得点で一気にリードを取ると、石川のスパイクで10-7と先に大台に到達。山内のクイックや高橋藍の走りながらのアタック、石川のサービスエースなどで着実にポイントを重ねた。西田のスパイクでマッチポイントを握ると、最後は山内がエースを決め、15-8。フルセットの激闘を制した。キャプテンの石川祐希はチーム最多タイの21得点をマーク。試合後のフラッシュインタビュー「サーブが良かったですし、ほかの選手も良いプレーを5セット目に出してきたと思う」「もっと早い段階で詰めなければいけなかった」石川「しっかりチームで勝ちきれた」ものの「本来なら負けの内容だったので、そこはシビアに考えていかなければいけないと思う」「(日本では)残り2試合ですけど、もっといいプレーをみせたいですし、勝つ姿をたくさんの人に見ていただきたいです」
2024.06.06
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ロシア軍傘下に約3000人の北朝鮮兵部隊 ウクライナメディア10/16(水) ウクライナメディアは15日、ロシア軍の傘下でおよそ3000人の北朝鮮兵の部隊が編成されていると報じました。ウクライナメディアによりますと、ロシア西部ブリャンスク州とクルスク州で、およそ3000人の北朝鮮兵がロシア軍の部隊の一部として編成されていて、武器と弾薬の供与を受けているということです。ロシア西部で続くウクライナ軍の越境攻撃を撃退するために、近く前線に投入されるとの見方も出ています。一方で、18人の北朝鮮兵が国境沿いの拠点から脱走し、ロシア軍が秘密裏に捜索しているとも伝えています。ウクライナのゼレンスキー大統領は北朝鮮がロシアに対し、「武器だけでなく人員も派遣している」「北朝鮮が侵攻に実際に関与している」と連日発言していて、危機感をあらわにしています。ウクライナ軍、クルスク州2カ所目の侵攻先で行き詰まる 最高峰の車両を大量に損失10/12(土) ウクライナ軍の最大8個の旅団から抽出された計12個かそこらの各400人規模の大隊で構成される強力な部隊は8月6日、ロシア西部クルスク州に侵攻し、ロシア側守備隊の不用意を突いて同州のざっと1000平方kmほどの土地を一気に占領した。1カ月あまりあとの9月12日、この突出部から30kmほど西のクルスク州ノービプーチ村付近で、ウクライナ軍の数個の中隊や大隊から成る別の部隊が新たな地上越境攻撃に乗り出した。ウクライナ軍は大胆にも、新たな部隊を東の突出部まで進撃させて、この攻撃軸と突出部、両国の国境線の間に、数千人規模ともみられるロシア側部隊を閉じ込めることを狙ったとみられる。だが数週間にわたる激戦後、ウクライナ軍の第2次侵攻作戦はノービプーチの北数kmにあるベショロエ村の南方の平原で行き詰まったようだ。9月20日かその少し前、ドイツ製マルダー歩兵戦闘車やスウェーデン製のCV90装甲戦闘車、Strv122戦車に乗った強力なウクライナ軍部隊は、ベショロエとその北東6.5kmほどのグルシュコボ町を結ぶ幹線道路を進んでいた。ロシア軍の第106親衛空挺師団が待ち構えていた。ロシア側は地雷や大砲、対戦車ミサイル、自爆型のFPV(一人称視点)ドローンで、ウクライナ側によるこの日の攻撃や、それに続く攻撃を撃退したもようだ。第106空挺師団が今週、ソーシャルメディアに投稿したドローンからの映像には、損傷した15両か16両のウクライナ軍車両が映っている。それにはCV90が1両か2両、マルダー1両、米国製のM2ブラッドレー歩兵戦闘車とストライカー装輪装甲車各1両など、ウクライナ軍の保有する最も高性能な車両も含まれる。これらの車両の組み合わせは、ウクライナ軍参謀本部がこの第2次侵攻作戦を重視していることを物語っている。ノービプーチ周辺からベショロエ、グルシュコボへの進撃を図る第225独立強襲大隊と第501独立海兵大隊には、CV90を装備する第21独立機械化旅団、M2を装備する第47独立機械化旅団、マルダーとストライカーを装備する第95独立空中強襲旅団の中隊や大隊が合流している。これらの旅団や大隊はウクライナ軍の戦力組成において最高の部類に入る部隊だ。ところが、これらの精鋭部隊でさえ、ベショロエを越えてグルシュコボに到達するのに苦戦している。この軍勢がこの軸で前進できない限り、突出部と結んでロシア側部隊を包囲することは夢物語に終わるだろう。攻撃が行き詰まっているウクライナ軍にとって慰めがあるとすれば、ロシア側もまたベショロエ─グルシュコボ軸での応戦に苦労していることだ。第106空挺師団などの空挺部隊による反撃はウクライナ側の攻撃と同様に、ミサイルや大砲、ドローンなどで粉砕されている。道路や付近の平原には、ウクライナ軍の車両と同じくらいの数の損傷したロシア軍車両が転がっている。ただ、留意すべきなのは、ロシア軍のほうがウクライナ軍よりも失える車両数に余裕があるということだ。
2024.10.16
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ベッツが見せた神対応 “本気スイング”に小学生は大興奮…丁寧な指導に笑顔の小学生サプライズ訪問、動画公開で米ファンも反応小学校を訪問したドジャースのムーキー・ベッツ ドジャースのムーキー・ベッツ内野手による日本の子どもたちへの“神対応”に賞賛の声が集まっている。東京都内の小学校をサプライズ訪問した際の動画がYouTubeで公開されると、「グッジョブ、ムーキー」「日本に行きたくなったよ」と、米国のファンもベッツの日本での活動に喝采を送った。 ベッツは21日、MLBジャパンの企画で東京・大田区の小学校にサプライズ訪問し、児童約60人に対して野球を指導した。大谷翔平投手とともに世界一の頂点に立ったスーパースターが登場すると、児童たちは大歓声。野球経験が少ない児童にも、バットの握り方などを丁寧に指導に教えたベッツは「子どもたちに指導するのは、アメリカにいたらなかなかない機会。歓迎してくれて嬉しいよ」と語っていた。 この様子が地元の専門メディア「ドジャーブルー」のYouTubeチャンネルにも公開されると、コメント欄には「子どもたちが本当に(ベッツを)リスペクトしている。素晴らしい子たち、素晴らしい文化」「ムーキーが打つ度に子どもたちが歓声を上げているのは最高だ」「彼の笑顔を見て私も笑顔になった」「日本に行きたくなったよ」「ムーキーが日本をドジャーブルーに染めている」など、英語で多くのコメントが寄せられていた。子どもへ見せた“神対応”に日本のファンも感動した様子。「一生の思い出になる」「ベッツさんありがとう!」「小学生たちラッキーすぎる」「俺も会いたい……」などとコメントが寄せられた。小学生衝撃「えー、ベッツ!?」 女子生徒も大興奮…“大谷効果”で大盛り上がり1/23(木)今回のイベントはMLBジャパンが企画する「PLAY BALL」で、野球経験の少ないどもたちを対象にこれまでも全国各地で開催されてきた。参加者のうち、野球を一度でもやったことがあると手を挙げたのは1/3ほど。トスバッティングではバットの握り方の分からない児童もいたが、ベッツは真剣な表情で「左手を下に、右手を上にして握るんだ」と、一から丁寧に指導した。 ベッツは「とてもクールだった。アメリカにいるとこのようなことはあまりないので、温かく迎えてくれてうれしい。感謝しています」と話した。児童には「プロ野球選手が来る」とだけ伝えられていたが、今回のゲストはMLBの大物中の大物だ。大谷翔平投手が入団し、ドジャース戦の中継が増えたこともあって、児童のベッツの認知度は高かった。 片岡ももさん(3年)は、ベッツの来校を知らされ「(クラスは)えーー! ベッツ!? って感じでした」と振り返る。柿平結衣さん(3年)は、「野球はやったことがなかったんですけど、大谷選手が好きで試合をたまにみるので。ベッツ選手は知っていました。カッコよかったです」と微笑んだ。 プレーを披露するコーナーでベッツは柔らかいボールをかっ飛ばし、ノックでは華麗なランニングスローも披露。目を輝かせる小学生に「今見せたことと同じようなことを、将来できるようになってほしい」と語りかけた。 身長175センチと、メジャーリーガの中では小柄なベッツ。「メジャーの中では小柄な方ですが、どうしたら身体が強くなりますか?」の質問に対し「よく食べてよく寝ること。自分は少し体がちっちゃいので、その分ジムに行く。ショウヘイやジャッジと比べると大きくないから、時間をとってトレーニングをしているよ」と、育ち盛りの児童に成長の秘訣を伝授した。これから未来を創ろうとしている子どもたちに向けて「女の子だろうが男の子だろうが、体が小さかろうが大きかろうが、野球にしても何をするにしても、人生で最も重要なことの1つは自分を信じること。それは本当にやらなくちゃいけない」 ベッツは何度も「常にポジティブに」と繰り返した。その姿勢は、触れあった子どもたちにも伝播した。💛ベッツ選手の人間的に素晴らしいことがよく分る(^^)
2025.01.26
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ナビに表示されぬダライ・ラマ生家 不都合な偉人の痕跡「消す」中国4/6(日)習近平指導部は宗教の「中国化」など少数民族に対する「同化」政策を強めている。青海省の省都西寧市から南に車で約1時間の農村地域にチベット仏教の最高指導者でインドに亡命中のダライ・ラマ14世の生家があるというので足を運んでみた。かつてはタクツェル村と言われた集落は現在、紅崖村という名前になっている。タクシー運転手の使用するカーナビでは、地図から消去されているのか表示されなかった。付近の住民に道をたずねながら進み、ようやく丘の上の生家に向かう道にたどり着いたが、そこで警察官に囲まれた。こちらが外国人記者だと分かると、さらに応援が呼ばれ、周辺で撮影した写真をすべて消去させられた。 このダライ・ラマの生家は十数年前までは観光客が訪れる場所だったようだ。中国国営新華社通信も2013年、政府が250万元を投じて生家を改築し、それをダライ・ラマの親族が管理していると伝えている。 それが今では、「聖地」化を警戒してか、外国人記者が生家に近づくことも許していない。ロイター通信も19年3月に近づこうとして武装警察に追い返されたと報じている。ナビに表示されぬダライ・ラマ生家 不都合な偉人の痕跡「消す」中国 西寧市で知り合いになったイスラム教を信仰する少数民族、回族の男性にこの出来事を話してみると「ダライだけではない。我々回族の英雄には、かつてこの青海を統治した馬歩芳がいるが、その故居である馬歩芳公館も、今は立ち入ることが許されなくなった」と教えてくれた馬 歩芳(ば ほほう、1903年 - 1975年7月)は、中華民国時代に青海地方を支配した回族の軍閥、馬家軍の長の一人。寧海軍を結成した馬麒の子。「青海王」と呼ばれた。1936年、蔣介石の命を受けた馬歩芳は兄馬歩青とともに甘粛の馬仲英の残部、寧夏の馬鴻逵、馬鴻賓の部隊の支援を受け、中国共産党の支配圏を拡大しようと黄河を渡った張国燾が率いる2万1800人の紅軍の殲滅に成功した。1938年、中国国民党の支持を取り付けた馬歩芳は叔父の馬麟を追い落とし、青海省の主席(知事)となり、名実ともに青海地方の支配者となった。軍事力と政治力を手中にした馬歩芳は中国共産党に敗れる1949年まで青海地方を支配した。同時期に自分達の縄張りで甥の馬仲英と張り合いたくなかった馬歩芳、馬歩青、馬鴻逵、馬鴻賓達は馬仲英に甘粛、新疆など他地域で発展することを勧めそれを支援した。また、宗派ではサラフィー主義を信奉するサラフィーヤ派(英語版)を異端として弾圧し、イフワーン派を優遇し、ウイグル族による東トルキスタン独立運動には一貫して反対した。1949年8月、馬歩芳は彭徳懐に率いられた中国人民解放軍に破れ、甘粛の省都蘭州を占領され、馬歩芳はまず重慶、そして香港に逃亡した。10月、蔣介石に西北部に戻り中国人民解放軍と抗戦を続けるように促された馬歩芳はメッカ巡礼の名の下に親族や部下200人余を引き連れサウジアラビアに逃走した。1950年、馬歩芳は賄賂を使いパスポートを手に入れエジプトに移動した。1957年、エジプトと中華人民共和国の間に国交が成立すると、馬歩芳は中華民国駐在大使としてサウジアラビアに赴任した。1961年、姪を側室にしたことが露見してスキャンダルとなり大使を辞任させられた。中華民国からの刑罰を避けたかった馬歩芳は台湾に戻らずにサウジアラビア市民となり、1975年に死去するまでサウジアラビアに滞在した。馬歩芳は数多くの側室を持ったが、息子は彼の軍で指揮官となった馬継援(中国語版)の一人しかいなかった。
2025.04.06
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報徳記巻之五【1】先生細川候の分度を定め本末の道理を論ず その6報徳記&二宮翁夜話198「安居院庄七と鷲山恭平」を本年2月出版しました。本書はすでに安居院庄七の生誕地・秦野市及び足柄上郡各町の教育委員会を通して、図書館・公民館図書室・全小学校・中学校に寄贈しました。安居院庄七終焉の地、浜松市の全図書館にも寄贈し、浜松市立中央図書館では、既にに蔵書となっています。また東京都立図書館の蔵書にもなっております。現在、神奈川県と静岡県の公共図書館に寄贈を進めています。神奈川県秦野の大山御師(相模国大山の先導師)の出身で、50歳過ぎてから「報徳の教え」に目覚め、「報徳を広める」志を抱いて、遠州一円に報徳の教義を伝え、報徳社を続々と設立させた安居院庄七、その教えを受けた遠州報徳の指導者達、そして安居院先生の伝記を記した鷲山恭平氏に連なる遠州報徳の指導者たちの偉大な功績を広く次の世代に、そして現代共に生きる人々に知らせるプロジェクトです。玄順は愕然として先生の深い知恵と遠い慮りに感動して、すぐに報告いたしましょうと言って江戸に帰った。そして、先生が日夜丹誠して作った国家の基本を立てた為政鑑(いせいかん)と題した数巻の書を両君に奉じて、盛衰興廃の理やこの書に載せた事を先生の教えのとおり説明した。両君はこの書を熟覧して、大変歎賞されて喜ばれた。ここで、玄順は本末和順の大義についての先生の深い慮りによる正論を申し上げた。両君は謹んで聞いていたが、先生の大才によって明らかにされた古今に貫徹している確言に感動して、祖先以来200余年にわたった疑惑や怨恨が一夜の夢のように消えうせた。そして、すぐに前非をあらため、本家に旧恩が大きいことを感謝し、厚く信義を通じようとされた。玄順の労をねぎらい、日を選んで、群臣を呼んで言われた。「我等は不肖であって家政その処置を失い、毎年に艱難が甚しく、群臣は困窮し、領民も飢寒をまぬがれないでいる。これは皆我等の不徳の致す所である。借債は10万両を越えて、領地は年々荒れはてている。このようにして歳月を送るならば亡国にいたることであろう。これが我等が寝食を安んじない理由である。そこで一度弊政を改革し、一藩をして扶助その所を得させ、領民をして安堵の地を踏ませようとし、心を労した。しかしこのような困窮をどんな方法でその望みを達することができるかわからなかった。ところが小田原藩に二宮金次郎なるものがあり、国家再興の道を行って、その成功があきらかである事を告げるものがいた。その人となりは、篤実誠意であり、その徳のある行いは古賢も及ばないところだという。私は甚だこれ喜びこれを慕ってその道を問いたいと欲したが、遠い所にいるため問うことができなかった。そこで玄順に野州(栃木県)の延(のべ)の地藏へ代参させた。そのついでに二宮を訪問させ、我等が苦心の実情を述べて、政治を改革する道を問うたところ、深く艱難の実情を察してくれて、再興安堵の基本を立て、数巻の書を贈ってくれた。誠に為すべき政策が明瞭であり、良法として感ずるにあまりある。しかしこの大業を行うには諸臣の協力がなければ行えない。汝等はこれを閲覧して、できるというならば行うが、できないというなら止めるだけだ。またこのほかに国家再盛の良策があるならば、すぐに私に告げよ」と命じられた。群臣は初めてこの事を聞いて、かつ驚きかつ疑った。数巻の書を熟覧したが、国家再興の道ははっきりとしていた。そこで同音に申し上げた。「わが殿が国事を憂えられること深くて、この良法を得られた事は、実に一国上下の大きな幸せです。すぐにこれを実行してください」両君は言われた。「汝等の言は、私の心にかなっている。そうであれば異議はないな、退いて後に異議を申し立ててもいかんぞ」と戒められた。群臣は共にそのことを誓って退いた。報徳記巻之五【1】先生細川候の分度を定め本末の道理を論ず玄順愕然先生の深知遠慮を感じ、速かに言上せんと云ひて江都(かうと)に歸(かへ)り、先生日夜の丹誠を以て國家再盛の基本を立て、爲政鑑(ゐせいかん)と題せる數(すう)巻の書を兩君に奉じ、盛衰興廢(せいすゐこうはい)の理皆此の書に具せる事を先生の教への如く演舌(えんぜつ)す。兩君此の書を熟覧し、大(おほ)いに歎賞して悦び玉ふ。是(こゝ)に於て、玄順本末和順の大義、先生の深慮的論を言上す。兩君悚然(しやうぜん)として先生の大才(だいさい)敏達(びんたつ)古今に貫徹せる確言を感じ、祖先以來二百餘(よ)年の疑惑怨恨(ゑんこん)一夕(せき)の夢の如く解散し、速かに前非を革(あらた)め、本家に舊恩(きうおん)の大なるを謝し、厚く信義を通ぜんとし玉ふ。玄順の勞(らう)を慰(ゐ)し、日を選み、群臣を呼びて曰く、我等不肖にして家政其の處置(しょち)を失ひ、毎年(まいねん)に艱難甚しく、群臣困窮(くんきゅう)領民も飢寒を免(まぬが)れ難し。是皆我等不徳の致す所なり、借債十萬(まん)金を越え領分年々荒蕪せり。此の如くにして歳月を送らば亡國(ぼうこく)に瀕せんか。是寝食を安んぜざる所以(ゆゑん)なり。是を以て一度弊政(へいせい)を改革し、一藩をして扶助其の所を得、領民をして安堵の地を蹈(ふ)ましめんとし、心を勞(らう)すと雖も、此の如き困窮何の道を以て其の望みを達せんことを知らず、然るに小田原の藩二宮某(ぼう)なるもの國家(こくか)再興の道を行ひ、其の成功顯然(けんぜん)なる事を告ぐるものあり、其の人となり篤実誠意にして、徳行古賢も及び難しと云ふ。われ甚だ之を欣慕(きんぼ)し其の道を問はんと欲すれども、遠境(ゑんきょう)にして問ふことを得ず。然るに玄順をして野州(やしう)延(のべ)の地藏へ代參(だいさん)せしむ。其の序(ついで)を以て二宮に至らしめ我等が苦心の情實(じやうじつ)を述べ、改政(かいせい)の道を問(とは)しめしに、深く艱難の實事(じつじ)を察し、再興安堵(さんど)の基本を立て、數(すう)巻の書を贈りたり。誠に爲政的然の良法感ずるに餘(あま)りあり。然れども此の大業(たいげふ)を行はんこと諸臣の力にあらざればあたはず、汝等之を閲(けみ)し、可ならば行はんか、不可ならば止まん而已(のみ)。又外(ほか)に國家再盛の良策あらば、速かに我に告げよと命じ玉ふ。群臣初めて此の事を聞き、且(かつ)驚き且(かつ)疑ひ、數巻の書を熟覧するに、國家再興の道了然(れうぜん)たり。是(こゝ)に於て同音に言上して曰く、我(わが)君國事(こくじ)を憂ひ玉ふこと深くして此(この)良法を得玉ふ事、實(じつ)に一國上下(じやうげ)の大幸也。速に之を發(はつ)し玉へと云ふ。兩君曰く、汝等の言、我が心に應(おう)ぜり。然らば異議なきや退きて後言ある可(べか)らずと戒め玉ふ。群臣共に言を誓ひて退きたり。
2025.04.13
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トランプ氏、新たな所得減税を示唆-米財務長官は関税交渉進展と強調ランプ氏、新たな所得減税を示唆-米財務長官は関税交渉進展と強調トランプ米大統領は27日、関税収入を活用して年収20万ドル(約2900万円)未満の層に対する所得税を引き下げる考えを示唆した。トランプ氏はこれまでも関税収入が所得税収に代わり得ると主張してきたが、経済学者からはその実現可能性に疑問の声が上がっている。 同氏は「関税が発動されれば、多くの人々の所得税は大幅に引き下げられ、場合によっては完全に撤廃される。焦点は年収20万ドル未満の層だ」と自身のSNS「トゥルース・ソーシャル」に投稿した。 トランプ氏の関税措置は世界経済を混乱させ、米国内でも物価上昇への懸念や景気後退(リセッション)に対する不安を招いている。また、ドルや米国債などの安全資産としての位置付けについても懸念が広がっているが、ベッセント米財務長官は27日、ABCニュースの番組「ジス・ウィーク」で「これが必ずしも信頼喪失を意味するとは思わない」と指摘。「2週間や1カ月の間に起こることは、統計上や市場のノイズに過ぎない可能性がある」と語った。 同時にベッセント氏は、トランプ政権は「米国債市場が世界で最も安全かつ健全である」ことを投資家に示すための「基盤を整えている」と主張した。 一方、CBSニュースが27日発表した世論調査では、トランプ政権は物価抑制に十分取り組んでいないとの回答が69%に上った。トランプ氏の経済運営に対する支持率は3月初めの51%から42%へと低下した。 トランプ氏は、政権1期目の2017年に成立した所得税減税の延長を目指している。同減税措置の多くは25年末に失効する。また同氏はチップ収入や社会保障給付金に対する課税の減免、法人税率の21%から15%への引き下げも提案している。関税交渉進展を強調 ベッセント氏はこの日、各種世論調査に応じる形で発言し、米国の個人消費は依然堅調であり、政権は二国間貿易協定の締結に向けた取り組みを進めていると強調した。 ベッセント氏はABCの番組で、中国を除く主要貿易相手17カ国との交渉が進行中だと説明。「今後90日間で交渉を進めるプロセスを整えた」とし、「一部の国々、特にアジア諸国との交渉は非常に順調に進んでいる」と語った。 同氏はまた、中国は米国が課した145%の関税に耐えられず、いずれ交渉のテーブルに着かざるを得なくなるというトランプ政権の見解を改めて主張。「中国のビジネスモデルは、安価かつ政府補助金を受けた商品を米国に輸出することに依存している。この流れが突然止まれば中国経済も急停止を余儀なくされるため、最終的には交渉に応じるだろう」と話した。 トランプ氏は米中間で貿易協議が進んでいると主張しているが、中国側はこれを否定している。ベッセント氏は、トランプ氏と習近平国家主席が直接対話したかどうかは把握していないと述べた。 ベッセント氏は、先週ワシントンで開かれた国際金融会議の場で中国側の関係者と顔を合わせたとした上で、「主に金融安定や世界経済の早期警戒システムといった従来の議題が中心だった」と説明した。 さらに、中国との交渉には前進する道筋があるとし、「緊張緩和」から「原則合意」に至るものだとの見解を示した。 「貿易協定の締結には数カ月を要する可能性がある」としながらも、原則合意に達し、貿易相手国がその取り決めを順守すれば「関税が再び最高レベルに戻る事態を防ぐことができる」と語った。
2025.04.29
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豊昇龍 奇襲は通じず 付け人に「もう1回、こう行けば」 横綱初優勝は大の里に先着許す◇大相撲秋場所千秋楽(2025年9月28日 両国国技館) 大の里が13勝2敗で並んだ豊昇龍との横綱同士の優勝決定戦を寄り倒しで制し、2場所ぶり5度目の優勝を果たした。横綱昇進後は初制覇。本割では1差で追っていた豊昇龍に押し出された。 本割は豊昇龍の快勝だった。立ち合いをもろ手突きで先行し、大の里の胸、復部を押して追撃。左へ回り込むのを逃さず押し出した。 約10分後の優勝決定戦。今度は立ってすぐ左上手を狙った。得意とは逆からの「奇襲」だろうか。深い位置をつかめたが、大の里に得意の右差しを許したため上体が起きた。後退しながらの投げだけに土俵際では自身の体も飛んだ。軍配は大の里。大の里の左足が返っていたのでは?と物言いがつき、協議した結果、返っていなかった。
2025.09.28
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194二宮翁夜話巻の3【25】尊徳先生がおっしゃった。才知が勝れた者は、おおよそ徳に遠いものである。学問があれば申韓(重刑主義の法家の申不害と韓非子)を主張し、学問がなければ三国志や太閤記を引用する。論語や中庸などには一言も及ばないものである。なぜかといえば、道徳の本理は才知では理解できないものだからである。この類の人は必ず実行することがやさしい中庸を難かしい難しいと言うものである。中庸に、賢者はこれに過ぎる、とある、もっともなことだ。おおよそ世人は、太閤記や三国誌などの俗書を好むけれども、大変よろしくない。そうでなくても争う気が盛んであるのに、偽心が起きはじめる若者に、このような書物を読ませるのは悪いことだ。世人が太閤記や三国誌などをよく読めば、利口になるなどというのは誤りである、心しなければならない。二宮翁夜話巻の3【25】翁曰く、才智勝(すぐ)れたる者は、大凡道徳に遠き物なり、文学あれば申韓を唱へ、文学なければ三国志太閤記を引く、論語中庸などには一言も及ばざる物なり、如何となれば、道徳の本理は才智にては解せぬものなればなるべし、此の流の人は必ず行ひ安き中庸を難しと為る物なり、中庸に、賢者は之に過ぐ、とあり、うべなり、凡そ世人は、太閤記三国誌等の俗書を好めども、甚だ宜(よろ)しからず、さらでだに争気(そうき)盛んに、偽心萌(きざ)し初る若輩の者に、かゝる書を読ましむるは悪し、世人太閤記三国誌等を能く読めば、怜利になるなどゝ云ふは誤りなり、心すべし。
2025.10.29
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194二宮翁夜話巻の3【41】尊徳先生はおっしゃった。世の中では、とにかく増減の事について、さわがしいことが事多いが、世上にいう増減というものは、たとえば水を入れた器を向こうへこちらへ傾けるようなものだ。むこうが増せばこちらは減り、こちらが増せば向こうが減るだけである。水においては増減はない。向こうで田地を買って悦ぶものがいれば、こちらで田地を売って歎く者がある。ただ向こうとこちらとの違いがあるだけである。本来増減はないのだ。私の歌に「増減は器傾く水と見よ」というとおりである。私の道の尊ヴ増殖の道はそれと異なる。直ちに天地の化育を助け育てる大道であって、米5合で、麦一升でも、芋一株でも、天つ神の積置せられた無尽蔵より、鍬や鎌の鍵をもってこの世上に取り出す大道である。これを真の増殖の道というのだ。尊むべく務めるがよい。「天つ日の恵み積み置く無尽蔵鍬でほり出せ鎌でかりとれ」二宮翁夜話【41】翁曰く、世の中、とかく増減の事に付き、さわがしき事多かれど、世上に云ふ増減と云ふ物は、譬へば水を入れたる器の、彼方(かなた)此方(こなた)に傾くが如し、彼方(かなた)増せば此の方へり、此の方増せば彼方減るのみ、水に於いては増減ある事なし、彼方にて田地を買つて悦べば、此の方に田地を売つて歎く者あり、只、彼方此方の違ひあるのみ、本来増減なし、予が歌に「増減は器傾く水と見よ」と云へる通り也、夫れ我が道の尊む増殖の道は夫と異なり、直(ただ)ちに天地の化育を賛成するの大道にして、米五合にても、麦一升にても、芋一株にても、天つ神の積み置かせらるゝ無尽蔵より、鍬(くは)鎌(かま)の鍵を以て此の世上に取り出す大道なり、是を真の増殖の道と云ふ、尊むべし務むべし、「天つ日の恵み積み置く無尽蔵鍬でほり出せ鎌でかりとれ」
2025.11.14
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33「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 243頁 明治39年4月15日、長女みつの婿養子に三塚文蔵を迎えた。文蔵はのちに富士弥と改名して、代議士となって政界に出て、浜口内閣で内閣書記官長となった。 ※鈴木富士弥ウィキペディア 大分県出身。最初は三塚姓を名乗っていたが、後に鈴木家の養子となる。1906年に東京帝国大学法科大学を卒業後、欧米視察や実業界を経て1915年に弁護士業を開業する。1917年の第13回衆議院議員総選挙に東京府第5区(当時)から立候補して当選し、以後連続して6期務めた。憲政会→立憲民政党に所属して加藤高明内閣・第1次若槻内閣において内務参与官、浜口内閣においては内閣書記官長を務め、また民政党時代には政務調査会長(1929年)や党総務(1933年)も務めた。永井柳太郎・中野正剛・山道襄一とともに安達謙蔵直系の党人派4名の雄弁家「安達の四天王」の1人としても知られた。衆議院議員引退後の1940年には鎌倉市長に就任している。 「大正新立志伝」為藤五郎編(大正10年)抜粋第17 法律事務員新聞記者をしながら大学を卒業した弁護士 鈴木富士彌君 在野法曹の花形として、憲政会総裁加藤高明氏の懐刀として、現今その声望をほしいままにしている代議士弁護士鈴木富士彌君は、法曹社会における立志伝中の一人である。 □呉服屋の三男に生る君は静岡県周知郡森町の人、明治15年、1月16日豊後に生る。三塚亥三郎君の三男にして、幼名を文蔵と呼び、後鈴木藤三郎君の養子と成り、名を富士彌と改める!と書き出せば平々凡々。何もそこに味もそっけもないが、文蔵君から富士彌君に名を改めるまでの間の君の消息には、普通人の企て及ばざる困苦の歴史がある。君の家はもと大分で有数な呉服屋で、資産も信用も相応にあった。ここの三男坊として暖簾(のれん)深きところでオギャーと元気よく声を挙げたのである。幼少の頃は何不自由なく生い立ち、近隣の子どもの羨望の的となった程であるが、田舎の風習とて学校かなんを肩からおろすと、直ちに家事に手伝わされた。鈴木君は親の命令だからこれに逆らうことも出来ず、命ぜられるままに庭掃除は勿論の事、店頭に坐らされることもあったが、その懐には常に学校の書籍が入れられていた。そして隙さえあれば、それをひもといていた。このさまを見た親類のわからず屋の一人は「商人の子に本は不必要だ。それよりもソロバンのはじきみちを稽古しろ・・・」と怒鳴ると、鈴木君は眼を丸くして「何も商人の家に生まれたかって、商売人にならなければならないと決まったものではない、家の後継ぎは兄さんがするのだから、私には家の責任はないはずだ。私はウンと勉強してウンと偉い人になる。太閤さんも元は尾張中村の百姓の子だ。それでいて天下をとった。私はその太閤さんの轍を踏むのだ」と子ども相応な大気炎を吐くと、親類の一人は「ナニ太閤さんだ、太閤さんときいてあきれる。なれるものならなって見(み)い。そしたら叔父さんは世界の王様になるワイ」と冷笑するので、さすかの鈴木君も子どもながらに非常に憤慨し「今に見ろ!」とばかり、ここで大業の志(し)を一層固くし、脇目もせず一生懸命に勉強をした。 □家運傾き、学資絶ゆ 間もなく君は、小学も中学も好成績で卒業し、高等学校に入学すべく、郷里を後に程遠からぬ熊本に笈(きゅう)を負うた。君の目的は思ったより容易に遂げられ、いよいよ上京して東京帝国大学法科に籍を置くようになったのは、実に明治35年9月であったのである。 君の前途は実に洋々たるものである。けれど南九州の片ほとりから、華美な都会生活に入っても、君の目には成功の観念より他に何もない。勉強に疲労した身を起こして下宿を飛び出し、都大路を散歩する時、絵草子店の店頭に古今の名士の肖像が掲げられているのを見ては、君の心はいつも勇躍した。そしてたちまち何に感じてか、せっかく飛び出した下宿にまた帰って書籍裡に没頭するというふうであった。君の眼中には勉強より他は何ものもない。 けれど由来、人生の事は自分の思う通りのならないものだ。好事魔多しの例えは、君の身辺にも襲ってきた。というのはフトしたことで家運が傾き、ほとんど学資が続かなくなった。意志の薄弱な頭脳の悪い人であったならば、折角の登竜門たる大学も、中途退学という処であるが、君はここにおいて始めて真の自分というものの発見につとめた。毎日教師の講義を聴取しなければ自分は大学を卒業する能力がないものか!?という事から自分に苦学の力があるかという点である。君は何もきまりきった講義を聴かなくても、これまで蘊蓄(うんちく)した知識によって、読書しさえすれば卒業できないことはないという確信を懐き、在学のまま苦学することに決心した。そして第一番に故鳩山和夫博士の門に寄寓し、同事務所の事件の処理を手伝いながら、目下政友会代議士として羽振りをきかしていた鳩山一郎君や、東京帝国大学法学部少壮教授として財政に造詣深き鳩山秀夫博士などにドイツ語を教えたり、あるいは法律などを講義してきかしてやったものだ。秀夫博士の大学における講義のその端は、実に君によって発せられていると思えば、興味あるものである。□日々新聞社の翻訳係 けれど君はいつまでも人の玄関にいるを潔しとせず、苦学の資糧を得んと探している時、端なくも東京日日新聞社に世話する人があった。中学時代から文才にかけている君は、筆の生活は日頃好むところ早速世話されるままに同社に入り、翻訳係りを承った。当時東京日日新聞社は加藤高明氏が主宰していた。加藤氏は早くも君の才筆を認めて相当に優遇した。これも無理なからぬことで君は一たび出社するや電報を片っ端から翻訳し終わると、英独の新刊雑誌から興味あるものを訳出し、これを紙上に掲げて読者の喝采を博した。それでも君は決して偉がらず、弊衣短袴のまま平気で出社するので、その志に加藤氏ますます惚れ込み、当時から目をつけ出した。君が憲政会に無くてはならぬ闘士として歓迎され、また加藤氏の懐刀として将来を嘱目されているのは、決して偶然ではない。既にその苦学時代にその端を発している。加藤内閣ができるの日は、必ずや名誉ある椅子を獲得することが出来るであろう。 かくて東京日日新聞在社2年、この間新聞記者としての技量も認められた時、法科大学独法科を卒業して押して押されもせぬ法学士となった。これは学力の非凡なるにあらざるよりは、誰かよくこの苦学に堪えんや。全く君が生まれながらにもつ鉄よりも堅きその意志の賜物であった。 □実業家鈴木氏の懇望 かくして最高学府の課程を終えた君は、実業界に雄飛しようと決心した。すると君の人となりにスッカリ惚れ込んだ一人の実業家があった。それは日本における精製糖業の開祖にして、その名天下に隠れなき発明界の天才鈴木藤三郎氏である。氏にはその家を継ぐべき女子はあったけれども肝心の男子がなかった。そこで君は某有力者を通じて、その嗣子たることを泣きつかれた。君は一時はこれを峻拒したけれども、強いて懇望されたので、これも人を救う一つの道だと思い直し、この乞いを容れた。学資に窮して身を売ったならば、友人間にとかくの風評があろうが、君は自己の力で学業を終え、而して後、人の懇望によって人の家を救う意味で鈴木家に入ったのであるから、何ら非難すべき事がない。 君は養父藤三郎氏の勧めにより、直ちに欧米留学の途に上り、英、米、仏、独、露の各国を歴遊して、明治40年に帰朝した。そして養父の経営する鈴木機械製作所専務理事に挙げられ、鋭意鉄工業の経営に尽瘁したけれども、病を得て閑地についたとほとんど相前後して、養家の家運が漸く傾いた。君は遂に養家再興の根底を作らねばならぬ境遇に陥った。大正2年遂に現在の弁護士の職を東京に開業するに至ったのである。君はどこまで運命の神に翻弄されるのか。先には学費が窮するに至るまでの実家の窮乏にあいまたここに養家の大破綻にあう。それでも君は何ら狼狽する処なく、自分に向かって来る幾多の障害を切りのけて、自分に与えられた弁護事務に従事した。(略) □郷党に推されて代議士 君が太閤にならんとする希望は着々遂げられ、大正6年春寺内内閣衆議院を解散するや、静岡県志太郡より衆議院議員の候補者に立ち峻辣なる官憲の干渉をものともせず、有力なる政府党の候補者と争い、悪戦苦闘して遂に当選の栄誉をになった。これというのも加藤氏の勧誘に他ならぬが、一つはその養父藤三郎氏がかつて静岡県郡部から推されて衆議院議員に当選すること2回、君はその後を継いで政界に雄飛したのであるから、自然の道行であるといえ、また君が人となりが然らしめるのである。人の一生は往々にして運命に支配される。しかし、実力なきものには、いかなる運命の神といえども、施すべきすべがない。 君は大正9年の総選挙に際しまたまた有力なる政府党の候補者に打ち勝って首尾よく代議士に当選した。わが国民は君のごとき人格、識見共に抜き出ている人を国の代表として希望している。願わくは奮闘努力して、幼少から希望している今太閤さんたらんことを筆者は切に望む」
2025.11.21
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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻) 普勧坐禅儀抄話その10 精神界のことというものは、非常にわかりにくいもので、悟ったというても、それが悟ったというても、それが悟ったと思うた時には迷っている、という道理もあるし、また悟っておりませぬというて何か物足りない空虚な生活をしている、というのも感心したものでない。それなならばもういい加減にでたらめに世の中のことというものはどうでもいいというても、これも感心したものではない。禅に「禅の三病」ということがある。一つは已到住著(いとうじゅうちゃく)の病といい、もう悟ってしまった、もう坐禅はせぬ、というのである。もしここに悟ったお方があれば、その時には、もはや禅から縁切れのお方なんだ。悟ってしまったらゼロである。これは難しい道理である。実際世の中の奥さん方でも日本一の貞女だ、わたしは貞節を尽してしまった、わたしくらい立派な奥さんはめったにない、こういう奥さんがあればちょっと恐縮する。その反対にこれだけ親切にしても、どうもわたしはいたらない者で、主人を満足させることがどうしてもできない。わたしは料理は下手だし、器量は悪いし、どうもまことにすまぬことでございます、と恐縮している奥さんがあればそれは満点の奥さんである。おれはこれでいいというのと、わたしのようなつまらぬ者でというのでは、妙な食い違いが出て来る。已到住著の病とはもう悟ってしまったということで、世の中にはこんなのが時々ある。臭くって臭くって鼻についてしようがない。 二つは未到走作の病、おれは悟りたいけれどもどうしたら悟れるだろう、どうしたら悟れるだろうと、悟りが一生涯つきまとってとうとう悟れないで死んでしまう。これは幽霊となって化けてでてこなければしようがない。 三つは透脱無依の病、これはなあにそう心臓ばかり弱くても仕方がない、どうせ世の中なんていい加減なものだ、そんなに苦しまぬでもよい、悟ったってつまらない、悟らないでも悟ってもどうでもいいから、まあ人並にやってひょうたんの川流れで、のんべbbだらりやればいいのだという。これがまた禅道を悟ったげな、悟ったのかどうか不得要領でわからない変てこなものが世の中にできて、あそこが禅僧洒脱というのだろうかと、めくら千人の世界では存外もてて、お布施をもらっているやつもあるわけである。この三つを標準として、三つの病にかからなくてどうするかということが我々の実際の問題である。そうすればわれの修行ということは、ここにどうでもこうでも何か本当に確実な、確実となというてもそうぴしゃっと数字の問題をあわすような調子にゆくものでもなし、わたしはいつも禅においては、ゼロか満点よりしようがないとよくいうのだが、ゼロか満点、そこで我々どうすればいいいのか。その一つが 吾は制し難し、故に先ず事を以て遮す となる。我々の魂というものは、どうしようたってどうもしようがないでしょう。本当に自分の心を自由にできるならば、本で読んだら本で読んだ通りに。自分の境涯を作れる。忠臣蔵を読んだならば由良之助と同じになる。しかしなってしまえばいいけれどもなれやしない。感心だけしている。おれはそんなことはできないというようにちゃんときまっておる。村上喜剣などは読んでも愉快だ。足に刺身をはさんで大石にこれを食えという。わたしもやってみたいものだ。それが間違ったというて、良雄の墓前で腹をきる、じつに愉快だ。けれどもこれはやれやしない。(『禅談』p.319-321)
2025.11.21
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ティラミスW杯、日本人パティシエが「世界一」に 「本場イタリア越え」快挙にX称賛「誇らしい」イタリア発祥のデザート「ティラミス」のワールドカップがローマで開催され、日本の女性パティシエが優勝した。本場での快挙にXでは「凄いですね!」などと驚きが広がっている。「味噌汁コンテストでアメリカ人優勝みたいなもの」イタリア政府公認の製菓・ジェラート・チョコレート国際連盟「FIPGC」が主催し、2025年11月7日にローマで「プロフェッショナル・ティラミス世界選手権」(The World Trophy of Professional Tiramisù)を開催していた。現地メディア「Corriere Della Sera」がウェブ記事で報じたところによると、大会は10か国からパティシエが出場し、2時間で作る2種類のティラミスで審査が行われた。1つは伝統的な材料のみの「クラシック」、もう1つは一部指定の材料を用いて創意工夫できる「イノベーティブ」タイプだという。優勝したのは日本代表のパティシエ・オカダアヤさんで、シロップ漬けチェリーで飾られたグランドピアノ型のティラミスを披露していた。2位はイタリア、3位はモロッコだった。オカダさんの活躍は日本のXユーザーの間でも拡散され、「まさかティラミス世界大会で本場イタリア越えの優勝とは...!」「味噌汁コンテストでアメリカ人優勝みたいなもの」「凄いですね!誇らしい」「世界一のティラミス、食べてみたいねぇ おめでとうございます」などと称えられている。
2025.11.22
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「中国は思い上がっている」英有力紙が中国を痛烈批判、高市首相に提言も11/22(土)台湾有事についての高市早苗首相の答弁を機にした日中の関係悪化の波紋は、日ごとに大きさを増して世界に広がっている。このタイミングでの発言は国益にかなうのか──。保守派や高市首相の支持者からも、そんな声が漏れ出る。そうした意見は日本だけではない。英紙「フィナンシャル・タイムズ」は21日、高市首相の率直すぎた答弁と中国の姿勢を批判する社説を掲載した。中国のスタンダードである「戦狼外交」だったとしても、その言葉は行き過ぎていた。「勝手に突っ込んできたその汚い首は一瞬の躊躇もなく斬ってやるしかない」今月初め、大阪の中国総領事・薛剣はSNSへ上記一文などを投稿した。この言葉は、「武力攻撃が発生したら、これは存立危機事態にあたる可能性が高い」と高市早苗首相が示唆したことに向けられたものだ。投稿はのちに削除されたものの、中国政府の憤慨はなおも強さを増し、中国人の渡航を制限する動きを見せ、係争地に警備隊を送り込み、日本の海産物輸入への脅しをかけた。1931年から45年にかけ、国土の大部分を日本の残忍な占領下におかれたという苦しみの記憶を今なお抱え続けている中国は、日本の軍国主義が復活することを恐れていると主張している。しかし、高市主張の答弁はすでに自明なことを述べたに過ぎない。2015年に成立した法律では、直接的な攻撃がなくてもあらゆる「存立危機事態」に対して日本政府が集団的自衛権の一環として武力を行使することを可能にした。中国の台湾侵攻は、日本にとっての生命線となる海上交通路へのアクセス、台湾に住む日本人の安全、東アジアの民主主義の未来などを含む、日本の基礎的かつ重要な国益への脅威となる。台湾の紛争はアメリカを巻き込み、ほぼ間違いなく日本の領土にまで波及するだろう。しかし、高市首相の、台湾におけるそうした事態において日本政府は武力行使を検討しなければならなくなるだろう旨の見解は正しかったものの、その可能性を公然と論じるのは控えたほうが賢明であった。中国との関係においては、慎重な言葉遣いと歴史背景への配慮が美徳とされる。これは、引っ掻き回す必要などない外交問題だ。10月末のドナルド・トランプ大統領の訪日は高市首相にとっての成功であり、駐日米国大使は「揺るぎない」支持を保証している。とはいえ、アメリカは明らかに以前ほど頼れる同盟国ではなく、地域の安定を守ることもなくなった。防衛費の増額を約束しているものの国内経済の弱さに直面している高市首相は、自国の安全保障をより良く維持することに重点を置くべきだ。また、彼女は予定されている韓国の李在明大統領との会談を軸に、韓国政府と周辺同盟国との関係強化に努めるべきである。中国は「日本よりずっと、考え改めるべきだ」…1931年から45年にかけ、国土の大部分を日本の残忍な占領下におかれたという苦しみの記憶を今なお抱え続けている中国は、日本の軍国主義が復活することを恐れていると主張している。しかし、高市主張の答弁はすでに自明なことを述べたに過ぎない。2015年に成立した法律では、直接的な攻撃がなくてもあらゆる「存立危機事態」に対して日本政府が集団的自衛権の一環として武力を行使することを可能にした。中国の台湾侵攻は、日本にとっての生命線となる海上交通路へのアクセス、台湾に住む日本人の安全、東アジアの民主主義の未来などを含む、日本の基礎的かつ重要な国益への脅威となる。台湾の紛争はアメリカを巻き込み、ほぼ間違いなく日本の領土にまで波及するだろう。しかし、高市首相の、台湾におけるそうした事態において日本政府は武力行使を検討しなければならなくなるだろう旨の見解は正しかったものの、その可能性を公然と論じるのは控えたほうが賢明であった。中国との関係においては、慎重な言葉遣いと歴史背景への配慮が美徳とされる。これは、引っ掻き回す必要などない外交問題だ。10月末のドナルド・トランプ大統領の訪日は高市首相にとっての成功であり、駐日米国大使は「揺るぎない」支持を保証している。とはいえ、アメリカは明らかに以前ほど頼れる同盟国ではなく、地域の安定を守ることもなくなった。防衛費の増額を約束しているものの国内経済の弱さに直面している高市首相は、自国の安全保障をより良く維持することに重点を置くべきだ。また、彼女は予定されている韓国の李在明大統領との会談を軸に、韓国政府と周辺同盟国との関係強化に努めるべきである。中国には、この騒動について改めて考えるべき、さらに多くの理由がある。中国の軍事力増強とアメリカ主導の国際秩序の崩壊は、中国政府の思い上がりに拍車をかけている。関税戦争でトランプと立ち向かったばかりの習近平国家主席は、高市首相を簡単に扱えると思っているのかもしれない。だが、中国政府による隣国への「いじめ」は、簡単にしっぺ返しへと転じる可能性がある。他国の外交政策に対するトランプの無秩序で自己中心的な手法によって、同盟国は自国の安全保障をアメリカ政府に頼ることに疑問を抱かざるを得なくなっている。日本においては政権与党である自民党が、核兵器を「持たず、作らず、持ち込まさず」という、長年確立されてきた非核三原則の見直しを計画している。日本国内のメディアによると、米国による核兵器の日本国内配備を阻む「持ち込まさず」という原則のみが現在本格的に議論されているとされる。しかし、日本政府の「核へのタブー」に対する挑戦しようとする意志は、将来の動向を示唆する重要な兆しである。中国はすでに「非核三原則に対する姿勢をあいまいにしている」として高市政権を非難している。しかし、中国政府が当該地域における軍事力強化の拡大を防ぎたいのであれば、台湾問題への平和的解決に向けて取り組むべきであり、地域の安定への脅威とみなされないよう努力すべきである。中国の外交官もまた、もっと外交的にならねばならない。💛事態が長引けば、世界の中国の独りよがりな制裁に対する批判はどんどん強くなろう(^^)
2025.11.22
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33「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著243~245ページ この明治39年(1906年)には無気蒸気缶、低圧蒸発缶など、製塩の蒸発に関するものばかり5件を発明して、特許を得た。また醤油促成醸造法の研究実験は、前々年から邸内の試験工場でしていたが、ついにこの年に8月で事業化することのできるまでに完成した。藤三郎は、明治40年(1907年)6月10日に、日本醤油醸造株式会社を創立して社長となった。資本金は一千万円で、当時の工業会社中では創業資本金一千万円というのは、同社が唯一最大のものであった。同社については、あとで詳しく記さなければならない。 9月30日に、多年の盟友であった吉川長三郎が永眠した。まだ48歳の壮年であって、藤三郎としては片腕をもがれたも同様であった。吉川の病は心臓肥大症であって、2年ほど前から病床にあったのである。もし吉川が、数年健在であったならば、もちろん、藤三郎が前記のように日本精製糖会社を乗取られるようなことも起こらなかったであろうし、また数年後に起った日本醤油醸造株式会社の大失敗も、おそらくなくて済んだであろう。そして、藤三郎の晩年の運命も、もっと形の変ったものとなり、わが国の産業革命のためにも、もっと徹底した奉公ができたであろうと思われる。こう考えると、藤三郎にとって吉川は、実に大切な人であった。明治19年(1886年)に、藤三郎が吉川と盟約を結んでから、22年の長い間、藤三郎が後顧の憂いなく、ひたすらに前進、前進ただ前進と、飛躍的な前進を続けてつまづくことのなかったのは、いつに吉川の内助の功であるとしなければならない。吉川の青年時代は、なかなかの風流才子であった。そのために、一時は家産を蕩尽するところまで行った。その時に、藤三郎が、報徳の仕法を応用して同家の整理に当った。それを心から感謝した吉川は、藤三郎と事業をともにするようになってからは、全く謹厳に身を持した。しかし、藤三郎のように初めから石部金吉ではない。十分に道楽もし尽した人であるから、豪放であり、細心であり、洒脱である半面に、世の中の酸いも甘いも知っている苦労人という風格が、闇の梅のように香って、その物分りのよい優しさが、すべての人をひきつけた。吉川は自分の死期を1年も前にさとって、銀側蓋(ふた)に報徳訓を彫りつけた懐中時計を、たくさんに造らせて、それを、友人や部下に生き形見として配ってから、平然として大往生を遂げたのであった。(略)この年は、醤油醸造機、氷砂糖製造装置、多面流動蒸発装置、鈴木式乾燥機など13件を発明して特許を得た。 明治41年(1908年)に藤三郎は、衆議院議員としての任期満了に際して日露戦役中に議員として国事に尽瘁した功によって勳4等を、また発明功労者として藍綬褒章を贈られた。6月25日に六女の慶子が生まれた。 ※ 「磯村音助翁伝」では、「鈴木氏は斯業の先覚者であり、また実際家としても一つの特長をそなえているけれども、事業家として所信と操守に乏しい故か、とにかく財閥派の指頭に弄(ろう)せられる嫌いがあった。ここにおいて音助翁は、一国の産業を一財閥の私利の具となすを欲せず、また密かに糖業国策の私案を抱いていたので、公明正大の見地に立って同志を求め、正々堂々と5か条の案を主張したのである」(71~72頁)と磯村氏の活動を正当化している。更に編者は註で「鈴木専務の時期尚早論は、日本精製糖の経営を主体として起算せる定見でもなく、また本邦糖業政策に論拠を置く考慮ではなかったと思われる。・・・鈴木氏は事業の根底に所信を欠き、徒に金権に魅惑追従してその奸策に弄せられ、出所進退を誤まったのである。・・・鈴木氏は、創立以来台湾製糖の社長たりしも永続きせず間もなく社外に逐われてしまった。勿論糖界に再起するあたわず、後に醤油会社を起し、・・・これも大失敗して気の毒にも窮巷して終った」とまで酷評している。磯村音助氏を擁護するあまりというべきか。 磯村氏は日本精製糖会社に揖取素彦の推薦で支配人心得として明治30年3月に入社した。福川泉吾氏は岳父(泉吾の次女・於夏を後添えとした)にあたる。藤三郎と同列の経営陣が辞任した後、磯村氏が専務取締役、常務取締役に秋山一裕、取締役に伊藤茂七、馬越恭平らが名前を連ねるなかで、監査役として福川忠平氏(泉吾氏の子息)が名前を連ねているのは磯村氏と親戚にあたることも影響しているのもしれない。社長には農商務省農務局長酒匂常明氏を迎え、明治39年11月、大阪の日本製糖株式会社と合併し、大日本製糖株式会社となった。その後、磯村氏は砂糖関税改正や製糖官営を目論んで大買収を行い、日糖事件をひき起こし、社長の酒匂常明氏はピストル自殺し、磯村専務、秋山常務は入獄することになります。大日本製糖会社は、その後藤山雷太氏が社長に就任し、負債等を整理して隆盛へと向かう。磯村は出獄後、東洋曹達、保土ヶ谷曹達の設立に参画し、保土ヶ谷曹達社長を勤めた。新聞記事文庫 会社(1-044)中外商業新報 1917.4.9-1917.5.13(大正6)によると程ヶ谷曹達工業会社磯村音介氏は市内本所区に於て小規模の試験場を建設し大正二年より二ヶ年に亘り研究の結果、食塩電解に因る曹達製法を完成し同四年三月資本金八万円を以て神奈川県保土ヶ谷町に工場を建設し製造の傍販売にも着手するに至れり之れ株式会社程ヶ谷曹達工場の発端にして兔に角電解曹達工業は同社を以て嚆矢とす偶々製品市価の機運に際会し莫大の収益を見たる為め漸く事業界の注目する処となり幾多曹達工業勃興の動機を成すに至れり旁同社も従来の資本金を十倍して八十万円となし工場の増築に着手し近く六月末迄には完成の予定なり生産能力も亦従来の十倍たらしむる計画なりと云う当期成績は未だ締切期に達せざれば内容詳ならざれども二割以上の配当確実なる由而して同社製品苛性、金属過酸化、塩素酸の各曹達は同業勃興に因り多量の製品市場に輻輳せしを以て従来の如き好成績を収め得ざれど猶お戦前に比し二倍の価格を維持するを以て当分前途を楽観して可ならん唯だ同社の目下研究中に属する新薬品は若し之を製出するに於ては戦後に於ける新事業の困難を凌ぐに充分なりと云えば近く市場に出ず可き該薬品に就ては深く注目を要す可しと也「大正2年より2年にわたり研究の結果、食塩電解に因るソーダ製法を完成し」とあり、発明の才によって実業界に復帰したようである。磯村音介氏本人が鈴木藤三郎氏をどう評価していたのか、また日本精製糖会社から追い出すにいたった事情を聞いてみたいような気がする。
2025.11.23
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中国の対抗措置は「焦り」と「サン!シャイン」専門家が見解 謝罪しない高市政権に「手をあぐねている状態」11/24(月)高市早苗首相が7日の衆院予算委員会で台湾有事の最悪ケースを想定し「存立危機事態になり得る」と答弁したことに、中国側が反発。日本渡航の自粛呼びかけや日本産水産物の輸入停止、さらには中国国連大使が国連事務総長へ「日本は反省せず、誤った発言を撤回していない」と不満を表明する書簡を送るなど、あらゆる方法で日本に揺さぶりをかけている。「ひとつひとつ段階を追って圧を強めているというよりは、一気にここまできているのは中国側にどういう事情があるんでしょう?」キャノングローバル研究所上席研究員の峰村健司氏「ひと言で言うと焦りだと思います」「中国側とすれば“これだけやれば、どうだ?そろそろ高市政権も謝ってくるだろう”と思ったら、は全く動かない。“どうしよう”というところで手をあぐねている状態だと思いますね」「中国はどんどん停滞している状態なんですね。不動産の不況とかがあって。中でも日本企業の中国への投資が支えになっているんですね。あまり経済カードで日本をたたきすぎちゃって日本企業が出ていってしまうことを恐れている。今、矛盾に挟まっている状況だと思います」
2025.11.24
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