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わが社の担当する番組の中に、来年で8年目を迎える長寿番組があります。パターンも決まっていてやっている側としては、新鮮さはなくなり仕事としては単調になっていくものなのですが、そこには始まって一ヶ月二ヶ月の番組には出せない味と言うものが出てくるものです。長く続けることによってなくなってしまうものとは逆に長く続けないと出ないものも必ずあります。マンネリによる安心感がその良さだと言う人もいますが、私はもっと違うところにその魅力を感じます。年を増すごとにそのものの周りを取り巻く空気、雰囲気が熟成され、新しいものにはない香立つものが生まれるような気がするのです。ビンテージの渋さに通ずるような魅力、さまざまな人の手が加わった長寿番組にはそういった魅力を感じます。大きく番組編成が変る9月、3月が来るごとに番組スタッフ、タレントは、番組存続の緊張感を持たされます。どんな番組も視聴率に一喜一憂し、その結果を受けて、マイナーチェンジをしたり、企画変更で編成部にやる気をアピールしたりと番組を続けるために見えない苦労をしているものです。そんな汗が、長寿番組の臭いを作っているのかもしれません。ワインも熟成すると香は良くなります。ボジョレーヌーボのような早だしを好む人は、本当のワインのよさを知らない人だと言います。本当のよさを知るということは熟成の香を楽しめる人なのです。私は全てのことにおいてこの熟成された香を楽しめる人間になりたいと、常に考えています。すべてのものには旬と言うものがあり、それを過ぎるとそのものは終わりだと考えがちになりますが、必ずしもそうではありません、むしろそういう考えはあさはかだと言う人もいます。人は熟成と言う技を長年の経験から生み出しました。この技法は、食べ物、飲み物に限らず、すべてのものの味わい方として応用できると思うのです。40才を過ぎて美しい女優、60才を過ぎてかっこいい俳優、50代の漫才師、ロックバンド、味の出し方を間違っていないこの表現者たちを観て楽しめるという人は、熟成の香を理解できる通な人たちです。熟成させて独特の香と味を出す。ただ時間をおけばいいと言うわけではありません。いい環境で、温度、湿度、を一定に保ち、腐らないように、干からびてしまわないように大切に育てる。番組も、芸も、音楽も、そして人間の生き方そのものもこの技法が大切なことだと、年をとるにしたがって感じるようになってきました。古くなれば、熟成されたものと、ほったらかしで旬をただ過ぎたものとでは雲泥の差が出ます。自分自身、熟成に必要な環境を研究する毎日が来年も続いていくんだと今日改めてそう思いました。
Dec 28, 2002
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今日、今年最後の番組企画会議が行われました。来年収録する番組の内容のアイデアを出し、形に出来るように話し合う場です。通常、この会議は大きく4つの段階を踏みながら進められます。ネタだし、膨らまし、選択、叩きという流れの中で、アイデアは洗練され番組の企画として確立されていくものなのです。ネタだしは、「こんなことできないか」「こうすれば面白いのでは」という考えを、書き上げ、発案者が発表、面白おかしく語ります、そこでそれを聞いている、会議メンバーは、職種、ポジションにかかわらずその話を広げていくのです。「○○と言えばこの間こんな商品をお店で見ました」とか「それをこんなおっさんがやれば面白くなるんとちゃう?」など基本的にこの段階では、否定せず、出来るだけ肯定的に話を盛り上げていきます。この段階で否定することは暗黙の中でしてはいけないことなのです。このやり取りで、いくつかのネタをベースに会話を繰り広げ、話が広がったものをいくつかチョイスします。そうして選ばれたアイデアに対して、今度はそれを具体化するための否定論に入るのです。「これはお金がかかりすぎる」や「今からの期間では間に合わない」「面白いけどリスクが高すぎる」などの心配事項を思いつくままに言い合います。これが「叩き」という作業です。ここで間違えてはいけないのが、ここでの否定はあくまでもその否定事項を解決するために出すもので、そのネタをつぶすものであってはいけないのです。「お金がかからないようにするにはどうしたらいいか」「期間を短く仕上げるにはどんな方法があるか」「リスクを少なくするためにはどこをどう変えればいいか」をこの「叩き」のなかで話し合った結果、具体的なものとして企画が完成するか、どうしても実現不可能かが最終的に決定されるのです。その完成した企画に担当者を決め、作ると言う作業に取り掛かリます。毎週何かを放送しないといけないレギュラー番組の会議は、アイデアを肯定しながら小さなものを膨らませ、大きくし、否定事項を消去していく方法で、ネタを育てて行かなければすぐにネタ切れになってしまうものなのです。このような会議を続けていると、この第二段階の、「膨らまし」と最終段階の「叩き」が全ての事に関して非常に大切なものだと気付きます。第一印象で「面白くない」と否定してしまうと、最終的に面白くなることを闇に葬ってしまうことになりかねません。何事も膨らます努力があってこそ、いいものが生まれるのです。否定も、それをなくしてしまうものではなく、心配事項を取り除くためのものでなくてはいけません。そうそう最初から「これはいける」と言うものには出会えません。企画、アイデアに関して言えば、最初は「どうかなあ」と思っても、それを膨らませて素晴らしいモノになった場面は何度も見てきました。第一印象は大切ですが、私はどんな出会いに対しても、肯定的膨らましを試みることにしています。日常、世の中はそんなに面白いものではありません、しかし、この膨らましによって、毎日が少しだけでも楽しく過ごせたら、儲けモンかなとそんなことも考えます。
Dec 27, 2002
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新年一回目に放送する番組の編集が終わりました。内容は外国人のための日本のお正月のお正月講座、各国の人に挨拶から書初め、凧揚げなどを体験してもらって、その本当の意味を教えると言ったものでです。演出で苦労したことは、笑いのポイントが人種差別につながると放送できなくなるので、その部分でナーバスにならなければいけないと言うことでした。何が人種差別につながるのかと言うことを改めて考えると、この問題が極めて微妙な問題であるように思えてきました。皮膚の色や、目の色、髪の毛の色の違いを笑いにすると、人種差別的な意味合いが強くなるのですが、深く考えているうちに、実際、人種と言う分け方はそういうものだけではないのではないかと思えてきたのです。そのとき、生き方、考え方、価値観の違いと言う部分での人種の違いも大きな問題だと言う考えがふと頭に浮かんだのです。日本人同士でも、この人とは人種が違うと思える人に出会ったことは一度や二度ではありません。だからと言ってその人が嫌いかと言えばそうではないのですが、生き方考え方、仕事の仕方、恋愛観、どこまで話しても接点のない人はいます。仮にそういう違いを人種の違いと考えると、組織の中では絶対数の多い人種が、少数人種を明らかに差別していることがあります。仕事の価値観を多数派の意見に統一し、考え方の違う人間は、組織には合わないと言う理由で、阻害される場面を見ることはそう少なくないことなのです。一番、わかりやすい人種差別は、男女差別です、はっきりと体の構造からして違う人種同士が、組織の中で生き方の価値観をめぐって争うことがあります。色々な違いで人種と言うものがあります。自分と違うもの、少数派のものを理解する気持ちがなければ、争い、差別はなくなることはありません。理想は、どんな人種同士も、人間と言うくくりのなかで理解しあい、弱者に対して、少数派に対して多数派が少しでも思いやりを持てればいいことなのですが、なかなか自分と違う意識の人間を理解することは難しいことです。自分を肯定するために自分と違うものを否定する。そういう悲しい気持ちを少なからず人は持っているものなのです。差別は人の弱さの現れです。世の中から差別偏見はなくならないかも知れませんが、せめて自分だけでもそういう「自分と違う人種に対して理解し、否定しない人間」になりたいと改めて思いました。そのためには、人を否定しなくても自分に自信をもって肯定できる強さを身につけなければいけないなと思います。来年の目標は、「強い自分」です。強いからこそ人に優しく出来る、自分とは違う考え、生き方を理解できるに違いないのです。今年の自分になかった余裕の強さを来年こそは身につけたいと自分自身に期待をしています。
Dec 26, 2002
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テレビ番組を作っていく中で、まず大切なことは、人が感動したり笑えたり、泣けたりできるイメージを作ると言うことですが、実際そのイメージがそのまま映像と言う形で表現できることはそう多くはありません。現場で拾うものを後の編集で面白いモノとして作り上げることの方が、実際は多いかもしれません。ディレクターの仕事の中で必要とされるテクニックの一つに、後付けというものがあります。プロデューサーや編成部が出来上がりを見て、なぜここのこの演出はこうなっているのかと聞かれた時、とりあえずとか感覚でとかたまたまという答えでは、何もイメージ出来ていなかったと判断される場合があるので、その時ばったりで作り上げたものにも意味があるように説明するという、言い訳にも似たテクニックのことです。全ての演出に理屈があろうはずがありません。しかし全ての演出、構成、ナレーションの言葉、映像のつなぎ方の1カットに至るまで全てのものの意味を説明できなくては、考えて作ったものとはみなされない時があるのです。人のどんな行動も実は振り返ってみてから、ここがこうだったからという後付けをしていることは多くあります。失敗には言い訳をし、成功に関してはあたかも計算ずくのような理屈をつける。意識はしていないにしてもこの行動はとっているはずです。いいイメージを描いて大きな夢に向かって目標をやり遂げると言う考え方も間違いなく大切な意識です。しかし自分がとった行動、自分の過去を後付けでいいモノに作り上げるというテクニックもあって悪いものではないと思うのです。今、感じるものを今、一番正しいと思うように行動する、そのときの自分の精神状態もそのままにあるがままに生きる、そうすれば、目標を持って何かをするより、気がつくと大きなことを達成しているかも知れないという考え方です。達成した後はなんとでも自分なりの理屈はつけれますが、最初から自分のやり方を理屈付けすると、その理屈では解決できない状況に追いやられたとき、パニックになることもあると思うのです。目の前にあることに最善を尽くす、そしていい結果を作り、なぜそれがいい結果を生んだのかを後付けする。いい結果を生むために色んな理屈の前に優柔不断になるよりはずっと効率的な生き方ではないかと思えるのです。なるようになる、気楽にいこう、あるがままに生きる、出来そうでできない生き方です。
Dec 25, 2002
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今日をもって、うちの会社の名物男、ミスター紙一重が退社します彼は、1分以内のタイトルや、人物紹介を撮らせたら、右に出るものはいなかったのですが、1分をこえるVTRは誰が見ても理解に苦しむものを作る、まさに紙一重男でした。出社する時間は、午後5時頃、退社は朝の10時、昼間にロケに出た日は夜は必ず応接室のソファーで寝ている、坊主で金髪、いつもテレビ画面を見ながら独り言をいっている危ない男。他のディレクターからはいつもクビを傾げられる非常識を絵に描いたような存在でしたが、個人的にはいなくなると少し寂しい気もします。いつも冗談ぽく彼を「天才」と呼んでいたのですが、もしかすると本当に、その環境さえあれば彼は、人の作れない作品を残す男なのかもしれないと、いつも密かに考えていたのです。一緒に仕事しているときは、かなり苦労をしたのは事実ですが、今になって考えると、人からの評判を全く気にしない彼の生き方は、ある意味尊敬に値すると思えるのです。私も、一般的に見るとおそらく非常識、変わり者に属する存在であるとは思いますが、彼から比べると、まじめ人間なのです。社会の常識は枠にはめることが前提です、枠にはめないと組織は成り立ちません、しかし、社会の枠は同時に人の個性を殺します。個性を育てることが教育といいながら、個性は、社会生活の中ではないほうがやりやすく統制が取れやすくなるものなのです。個性は時として人に迷惑をかけますし、チームワークを乱します。本当に人が出来ない仕事を出来る人は、人とのコミュニケーションは取れないかもしれません。個性を活かすということの難しさは彼との仕事でつくづく感じました。感性を重視する業界に12年いて思うことは、本当の意味での「天才」はいないのではないかということです。「天才」と言われている人間も実は凡人の中で一番個性を発揮できた人、人に認められることをどこかで意識していたからこそ、周りから「天才」と呼ばれるのではないかと思います。自分の個性を活かすために、組織に認められる努力をする。個性を壊されないようにするための、才能も、才能のうちなんですね
Dec 24, 2002
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年末になると、いつも思い出すシーンがあります。それは、私がこの世界で仕事をしている理由とも言える年末に行われる二つのイベントです。21歳の12月、私は、その当時の彼女と、松任谷由美のコンサートにきていました、場所はフェスティバルホール、大歓声、総立ちの中で盛り上がるライブ、「恋人はサンタクロース」「ブリザード」などがアンコールで唄われ、感動の中に幕は下りました、「良かったね」という彼女の声、しかしそこには何故か納得できていない自分がいたのです。「僕は・・・・こっちじゃないような気がする・・・」急に、訳のわからないことを言い出した私を不思議そうに見つめながら彼女は聞き返しました。「何のこと?」私は訳のわからない言葉を続けました「僕はこっち(客席)じゃない・・・きっと向こう側(舞台側)にいないとあかんような気がする・・・きっと向こう側にいるべきやわ・・・」変なこと言い出した私に彼女は首をかしげながら、その日は帰途についたのです。その後その彼女とは別れ、4年の月日が流れました・・・・25歳の12月、私はまたフェスティバルホールにいました。日本有線放送大賞授賞式の舞台袖でフロアーディレクターという仕事をしていたのです。私が本番で任された仕事の中で、一番の大役は、左手で浜村淳さんにタイトルコールの合図をし、次のタイミングで、オーケストラの指揮者に合図を送る、その音楽が終わるタイミングで、KANが「愛を勝つ」を唄いだすという、最初のきっかけを作る、大切なものでした、緊張の中、そのときは来ました・・無線で舞台監督から指示がありました。「舞台上手袖のフロアーディレクターさん、自分のタイミングで 合図をお願いします」少し、震えながらも、大きく息を吸い込んで、浜村さんの目を見ながら左手を差し伸べました。「第○○回日本有線放送大賞!」浜村さんの大きな声が響きました続いて、オーケストラの指揮者を見ると指揮者も私のほうを見ていました、ゆっくりうなずきながら右手を差し伸べると、おなかの底から響くオーケストラのファンファーレが会場中を包み込みました。一瞬、静寂があり次の瞬間、ピアノの音が高らかに鳴り出したのです・・・KANの「愛は勝つ」です。どんちょうが上がり割れんばかりの拍手・・・・・舞台袖からもその観客の大きな波ののようなパワーは感じることが出来ました、その時、全身に鳥肌が立つような感じたことのない感動を体中で受け止めながら、こう思いました「僕はこっち(舞台側)にいる」仕事にいき詰まったとき、この瞬間をいつも思い出します。その後も、燃えるような充実感を数多く味あうことがありましたタレントや歌手の舞台上の感動には及ばないかも知れませんが、出会うはずのないような人たちと会えて、普通では体験できないことを体験できて、自分のイメージを形にして100万人の視聴者に見てもらうことが出来る・・・・・本当に自分は幸せ者だと、全ての自分の周りの人と神様に感謝しなくてはいけないと、最近つくづく思います。私は、たまたまこういう仕事をしていますが、どんな仕事をしている人にもそれぞれ充実感をかみ締めるときはあると思います。感動で涙するときはあると思います。生きていれば当然挫折もあれば、何もかもが嫌になるとき、自分の歩いてきた道に疑問をもつことがあるかもしれませんしかし、過去には必ず、その道を選んだ自分がいることは否定できません、その自分に感謝した出来事もたくさんあったはずです。自分の選んだ道を信じることのできる、数多くの出来事は財産、これを誇りに生きていくということが、次の自分を作っていく方法、そう考えて、ブルーな日の自分を励ましながら毎日を過ごしています。
Dec 23, 2002
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先日、私の担当している番組に出演しているタレントのコンサートに楽屋見舞いを兼ねて行ってきました。驚いたのは、寒い中楽屋口からそのタレントたちが出てくるのを一目見ようと待つファンたちの行列の長さでした。昔、その心理について取材をしたことがあったのですが、これは人間が本来もつ動物的な本能だそうです。異性に対しての興味は大きく3つに分かれるといいます。一つは異性としての自分の価値を認めてくれる人がいないと不安になるため自分に興味を持ってくれる人を好きになる場合、もう一つは自分にとってその人が結婚相手やパートナー、経済的に必要という事を潜在的に感じて好きになる場合、そして3つめは、ファン心理に見られるような、自分にない運動能力、容姿、才能の遺伝子を自分の子孫に残したいという動物的な感情だそうです。一つめ、二つめの恋愛感情は、自分にとってそれがマイナスであると感じればその感情も薄くなっていくものですが、最後に述べた、動物的本能から来る感情は、損得を抜きにして理屈なしに惹かれるものなので、これを抑えることは難しいそうです。この恋愛感情は普通の恋愛(男女のパートナー、結婚を前提とした恋愛)とは全く脳の使う場所、感じる場所が違うらしいので、結婚したから、彼、彼女が出来たからといってなくなる気持ちではないといいます。この感情を職場などで身近な人に感じてしまったときに、不倫ということになるのです。また一つ目の自分の存在価値を確かめるための恋愛感情も、結婚生活が長くなりお互いを異性として見なくなったとき、他の自分を異性として見てくれる人に対して感じてしまうこともない話ではありません。手の届かないところにその三つ目の本能的恋愛感情を持つことは、そういうトラブルを防ぐためにも必要なものだという人もいます。自分にない才能を、子孫のための遺伝子として取り込みたいという本能がそのまま結婚という形にもっていければそれにこしたことはありませんが、当然特殊な才能を持った人は他からもそういう感情を持たれることが多いので、独占してしまうことは難しく、また仮に結婚したとしても、自分にとって必要とする人にはなり得ない場合が多いのです。恋愛感情、異性を想いときめく気持ちは、いくつになっても、自分がどんな状況にあっても消えることはありません。社会生活を外れずに生きながら、動物的本能も満たせる器用な恋愛を楽しんでいる人もたくさんいます。またそういった気持ちをタレントやスポーツ選手のファンという形で偶像化し、解消している人もいます。どんな形にしても、異性を好きになる気持ちは素敵なものです。恋の切ない思いは、どんな状況下の中でも、気持ちを豊かにします。憧れのタレント、スポーツ選手、歌手、漫才師、会社の上司、同僚、習い事の先生、結ばれなくとも、届かなくとも、それが遠い世界の人であろうと、キュンとなる恋心は持ち続けていたいですね。どんな形にしても、それがたとえ過去の人でも、姿を見たこともない人であったとしても・・・・感動するラブソングを聞いたとき、寄り添うイメージを作れる人がいれば少しだけあたたかい冬を感じることができるものですよね
Dec 22, 2002
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昨日、お笑い好きのテレビ関係者が集まって飲み会を開きました。そこで話題に上ったことは「シュールな笑い」についてでした「シュール」とは直訳すると「不条理」という言葉になります。「こうあるはずのものがこうならない」ということに関しての笑いといえばわかりやすくなるのかもしれません。実際、笑いの基本はそういったところにあるのですが、人がそれを不条理と感じる前に現場で処理してしまうことが最近の笑いとして定着し面白いというものになってきているのです。例えばニュース番組の中でまじめに、「今日、大阪市の中村さん宅で次男の徹君がおねしょをしました、二年生にもなってなぜ彼がそういう失態をしたのか、大阪府警は2万人の捜査員を動員して事件の解明に全力をあげています」というものが流れたとします。普通のお笑いならそこで「おねしょって」とか「なんで、二万人もいるねん」等のツッコミを入れ、笑うポイントを説明することで、笑いを誘いますが、「シュール」という観点では、突っ込みは全くいれず、その後もニュースで何事もなかったのように解説員やキャスターが「本当に恐ろしい事件です」といったように不条理を貫くのです。こういったコントやドラマ芝居は最近ではあまりテレビで取り上げなくなりました。この笑いのポイントは見る人が自分で笑いどころを見つけ出し、自分なりのツッコミを入れながら楽しむというところにあります。そういった面倒なことはタレントに任せて自分は笑うだけという傾向になってきたというのがその要因です。常に与えられて当たり前の感覚では、白紙の手紙が自分の手に届いたとき人はきっと相手の間違いだと思うと思います。しかし不条理を面白いと思う感性を意識していれば、この白紙はあぶり出し?それともこれに何かを書いて返せということ?などという自分なりの解釈が出来ると思います。「こうあるべきものがこうなっていない」ということは人にとっては不安材料です。しかしそのときこそ自分の感性が試せるチャンスでもあるといえるのです。なにか「こうあるべきものがこうならなかったとき」自分なりの発想の転換をしてみるのも面白いかも知れません。昨日の飲み会ではこんなやり取りが繰り広げられました笑いを時には真剣に討論してみるのも楽しいものだなと感じた飲み会でした。
Dec 21, 2002
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私の今所属する会社の中で、大きく価値観の分かれることがあります。これはもしかすると接点はないのではないかと思うほどのテーマにです。仕事は本来厳しくて辛いもの、その辛いことを経験するからこそ目的を果たした時の喜びは大きいという派と、仕事は本来楽しいもの楽しくするために何をするべきかを考える派の二つです。どちらも決して間違ってはいないものなのですが、このやり方の違いはよくトラブルを生むことになります。仕事は辛いもの派の人は仕事中は冗談を言うことすら嫌な顔をする人がいます。そんなしかめっ面を見て仕事は楽しい派は、面白いものを作る人間がそんな顔でいい発想が浮かぶわけはないと批判するようになるのです。仕事中に冗談を言って和ませることで全体の流れを潤滑にしようとする者はふざけているわけではないのですが、真剣派にとっては腹が立って仕方がないようなのです。私は、仕事を効率よくするということは笑いながら楽しくすることだと思う派です。真剣派の人からは批判を受けることもよくあります。どちらも間違っていないのにトラブルは起こってしまうものなのです。しかし、価値観の違うもの同士でも仕事はしなければいけないときはあります。自分のポリシーは人と楽しく仕事をするということと考えると、トラブルを起こす事はもってのほか、トラブルを避けるためにはシーンとした雰囲気、難しい顔して後輩を怒鳴る現場を作らないと言うことになるのです。矛盾です・・・・・こんな場面に遭遇すると、いつも楽しむということについて考えさせられます。おそらく真剣派の人に笑顔の現場を説得しても接点はありません。緊張感のなかで笑いは必要ない。笑わすのはタレントの仕事。スタッフはミスをしないために張り詰めているべきだという人にとって、緊張しないで気楽に行こうという考えはあってはならないものだからです。かなり悩んだ時期もありましたが 今は真剣派の人と仕事をするときこう考えます。どんな雰囲気の現場でも対応できるだけのオーラを身につけるように努力しようと・・・冗談を言わなくても、笑顔がなくても、自分がいるだけでほっとできるだけの自分になりさえすれば文句は言われることはない・・・・・どこにたどり着いても頂上はないんですね。自分が正しいと思ってきたこともどこまできても正解にはたどり着いていない。まだまだ未熟なんだと最近つくづく思っています
Dec 20, 2002
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久しぶりに担当番組で「泣かし」というものを取り扱いました。ゆっくりとしたテンポに持ってゆき音楽と表情と生の声を生かし人が感動できるような演出をかけていくというものです。そこで大切になってくるのが「泣きシロ」というシーンです。テレビ番組はテンポを大切にし次々と面白い場面をつないでいくのが基本ですが、それとは反対に、「泣きシロ」「考えシロ」「笑いシロ」という沈黙に近いほったらかしの数秒のシーンをあえて作ることも必要なのです。今回の「泣きシロ」では音楽と人の顔だけの映像を15秒ほどおきました つまり涙を流すようなシーンの後に、ナレーターが喋ったり、人が喋っていたり、スーパーが出ているとうるさいと思うようになるので、余韻を楽しむ時間を与えようということなのです、「笑いシロ」では、面白いシーンがあったとき、次の展開に進む前に何の演出もしない数秒をおくことで笑いから立ち直る間を作ってあげるのです。「考えシロ」も同じような意味合いです。人の全ての喜怒哀楽の後には全てこの余韻を楽しむ「シロ」が必要です。泣いている人にはついつい言葉をかけて上げたくなるものですが、その時は必ず、少しの間をおいて喋りかけてあげなければ、ある意味、ありがた迷惑にもなりかねません、また、爆笑のあとにはついついもっと笑わせようとつぎの事を言ってしまいますが、必ず笑いからの立ち直りの間は待たなければいけないのです。黙るということが人の感動をより深いモノにする。これは人間関係においても大切なことだと、よく思います。1分も黙っていられない性格の自分としてはよくこのことに関しての失敗をしてしまうことがあります。沈黙は恐いと思うかも知れませんが、なにもしていないということも喜怒哀楽にとっては大切なことなのです。音楽をする人にとっては当たり前のことでもあるかも知れませんが、この余韻を楽しめる人とそうでない人の人生の楽しみ方はかなり違ってくると思います。せわしない師走だからこそ、余裕のない現代社会だからこそ、この喜怒哀楽をより楽しむ、余韻の間を持っていきたいものですね。
Dec 19, 2002
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昨日から今日にかけてクリスマスに放送する、サンタ関係のバラエティーを編集していました。クリスマスの演出が好きな私は毎年こういった番組にはどうしても力が入ってしまいます。いつもそうなのですが力を入れれば入れるほど力余って、編集では使えないことまで現場で演出し収録してしまいます。今回もそうでした、VTRでは10分に仕上げなければいけないのに、収録した内容の多さは20分ほどのモノを作るに値するほどのモノになってしまいました。業界用語でいうところのターハイという状態です。協力してくれた人に申し訳なくてなかなかカットするが出来ませんかなり効率の悪い、プロとしてはあまり褒められない事です。丸一日使って放送されるのは、たったの10分、いつもこんなときは自分を慰めます。「氷山の一角」表に出ている部分はほんの少しだけれど、その部分しかなければ氷山は浮くことはないし、頭を海面に出すことはないのです。大切なのは目に見えない部分。なんでもそうだと思います。犯罪も新聞に載っているような事は、ほんの氷山の一角、恐いのは目に見えていない犯罪とそれを助長している社会背景です。人間だってそうです、認められていること周りからからこうだろうと判断されていることもほんの見えている部分のみです。人間には多面性があり、たまたま今の状況に応じた部分が表面に出ているだけに過ぎないのです。おそらく見えていない部分の方が世の中には多いのでしょう。時にはこう考えてしまうときもあります。自分自身の意識でさえ実は自分で認識できている部分は氷山の一角で、自分の可能性も実は見えていない部分の方が大半を占めているのではないか・・・・見えていないものは見ようと思っても無理な話なのですが、見えているものを見るとき、それが全てではないと意識するだけでも、ものの考え方には広がりが出来るんじゃないかと、そんなことも考えます。今回私が編集した25日に放送される番組はたったの10分ですが、その底辺にはさまざまな人のいろんな思いがあります。こんな日常の仕事の中にもこれだけの目に見えていない大きな氷山があるのだから、おそらく世の中には見えていないものは莫大にあるんだなとつくづく思います。海面に沈んだ部分を意識できる感性をもっともっと養っていきたいといきたいと、今日改めてそう思いました。
Dec 18, 2002
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今日、報道部でドキュメンタリーを作ったディレクターと話をする機会がありました。彼が最近作った作品は、不況の中、就職戦争に立ち向かう高校生を取り上げたものということなので、取材で一番苦労したことは何?という質問をしてみました。すると面白い答えが返ってきたのです。今の高校生たちのひたむきな姿、真剣な表情を一番伝えたいにもかかわらず、彼らはそういう姿を人に見せることを恥だと思う傾向があるそうなのです。親がリストラにあい、大学に行きたくても、行けないという厳しい状況下にありながらも、のんびりと構えていることがかっこいいと思っているのです。必死になることはかっこ悪い、努力している姿はイケてない、そんな意識があるので思うようなシーンが撮れなかったとそのディレクターは嘆いていました。私自身もあまり必死さを前に出すことは好きではありませんでした。難しいところです、今は、イチロー、中田英寿といったストイックに感情を前に出さないタイプがヒーローとして崇められる時代なのです。間違いなくこのヒーローたちは努力家ではあるに違いないのですが、あまり努力を語るタイプではないので、若者はそう受け取るのでしょうか・・・・努力を人に見せないということはひとつの美学として間違ってはいないとは思いますが、人から見るとすごく損なやり方であることは確かです。評価が結果のみだからです。むしろ並以上の結果を出さないと、怠け者扱いされます。努力をアピールするタイプ,努力、必死さを見せないタイプ、かっこいいのは確かに後者です。自分も間違いなく若い頃は、必死にならないことを自分のポリシーにしていたところはありました。今も努力をアピールすることは一切ありません、しかし年をとった今と昔の自分が違うところは、かっこ悪い、なりふりかまわないというかっこよさがあるということを知ったということです。「ありのままの自分を見てくれ」という生き方を少しわかりかけてきたことが少し大人になったところかもしれません。努力を隠す必要もないし、見てもらおうとする必要もない、必死さを隠すこともないし、アピールすることもない。演出しない自己演出、これがこれからの自分のテーマかなと、今日ふとそんなことを感じました。
Dec 17, 2002
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我々テレビディレクターの仕事のなかに企画と言われる分野があります。自分のやりたいことを紙に書き起こし、人に伝え、納得してもらうという仕事です。さまざまな作業の中で、この仕事ほど効率の悪いものはありません 演出や進行といった作業はやればやるだけやったことは残るのですが、この企画というものに関しては20考えて、モノになるものが1つあればいいほうです、採用されなかったものに関しては何の評価にも値しません。しかしだからこそこの企画という仕事は面白いともいえるのです。効率がよくない仕事だけにこの仕事を最優先させると、他の実務的な仕事は出来なくなります、そのためこの作業は就業時間外にすることがほとんどです。毎日、電車に乗っているとき、道を歩いているとき、お酒を飲んでいるとき、「こんなこといいな、出来たらいいな」と常に考えるのです。そんなことをメモに残し、就業時間内に企画書として書き上げます。大切なことは20のうち1つしか採用されないからといって最初からあきらめめてしまうと全く実現するものはないということです。どれだけ数多くのイメージを持てるか、これが企画力があるかないかという評価につながります。自分の経験から言うと、イメージが色の濃いものであればあるほど実現できる可能性は高くなります。このイメージと実現の関係は番組だけではないと最近思えるようになりました。実現するのがたとえ20にひとつ100にひとつだったとしても自分が「こうなったらいいな」と思うことはよりリアルに色濃くイメージするべきなのです。先日ジョンレノンの命日にオノ・ヨ-コさんのこんなコメントをテレビで放送していました「一日一度でいいから胸の躍る素敵なことをイメージしましょう、これを今日から実行してください、間違いなく3ヵ月後、あなたの周りは良くなります。1人がそうすることでは1人ずつしか変っていきませんが10人がこれを実行すれば、それは10倍以上の力となります。出来るだけたくさんの人が幸せになれるようにみんなでこの運動をしてみませんか?この言葉を聞いた人は出来るだけたくさんの人にこのイメージ運動を薦めて、自分も実行してみてください、このイメージをする人がどんどん増えていけば、世界を変える事だって難しいことではないのです」まずは自分の周りから、自分の夢から、仕事に限らず「こんなこと出来たらいいな」ということを一日一度はイメージする、宗教的かもしれませんが、私はこのイメージパワーの信者です。いままでもこのイメージパワーでいくつもの企画、いくつもの夢がかなってきました。実は今日も、自分の「こうなったらいいな」という20のうちのひとつの企画が実現したんです。
Dec 16, 2002
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若手の芸人は先輩より先に舞台に立つとき必ず「お先に勉強させてもらいます」という言葉をかけてから舞台に上ります。先日、あるタレントの楽屋にお邪魔したとき彼は何気なく「いい舞台に出させてもらっています」と言っていました。これを聞いて先に書いた芸人の挨拶を思い出したのです。普通の言葉なのですが、その「させてもらっている」と言う言葉は私の胸に残りました。自分はこの謙虚な気持ちを忘れてはいないだろうかそんなことを考えさせられた言葉だったからです。仕事をしているとき、自分は世の中のために仕事をしている、そんな意識が自分の中で励みになっていたことは確かな事です。しかし実際はどうでしょう、好きな仕事をさせてもらって給料までもらっている、現場を任せてもらって、番組と言うものを作らせてもらっている、人に自分の作った作品を見てもらっている。そうに違いないのです。何人ものスタッフの中で指示する立場を与えてもらって指示を出させてもらっているのです。卑屈になる必要はないですが、こういう気持ちを持っていないと、人はつい立場がよくなると、やってあげてるという傲慢な気持ちになってしまうものです。自分もその1人だったに違いありません。そう考えてみると、全てのことに自分が傲慢だったことに気付きました、タクシーに乗るとき、長距離になると運転手に対して乗ってあげてると言う気持ちに知らず知らずのうちになっていたかも知れませんし、友達が出したお店に食事をしに行くときも行ってあげてるという気持ちがどこかにあったような気がします。今一度、全ての自分の行動をそういう目で見直してみなければ、必ずこの先、大きな壁に当たるような気がしてきました。今の立場で仕事が出来るのも決して自分の頑張りだけではありません、多くの人に支えられて今の仕事が出来ているのです。1人でも自分を支えてくれた人がいるなら自分のおかれている立場はもう自分のものだけではないような気もします。1人でも応援してくれる人がいると自分がはたそうとする夢も自分だけのものではないのかもしれません。子供にクリスマスプレゼントをあげるということで、逆に幸せな気分になる、プレゼントをもらっているのはむしろ大人の方だということが書かれた日記を他のページで見させてもらいました、そのことにつながります。いまこれからすることは全て「させてもらっている」とこう考えて生きてみようと思います。
Dec 15, 2002
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昨日、知り合いのタレントが出演しているお芝居を見に行きました。天才演出家野田秀樹作の舞台で、かなり演劇としてはグレードの高いものだと聞いていたので、自分自身のいい刺激になればと楽しみにしていたのですが、いざ始まってみると、そのレベルの高さに意味を理解することができず、あっけにとられてしまったのです。テンポの速さセリフと動きが持つおもしろさ 舞台演出のテクニックなどは楽しめたのですが、その芝居が伝えようとしているもの、長台詞のなかに含まれる風刺やメッセージ、確かに間違いなく意味を持っていると言うことは感じるのですが、それらを結局最後まで理解することは出来なかったのです。なさけないものです。おそらく舞台好きの観客の半分ほどはそのメッセージを理解していたと思われるのですが、感性がどうのこうのといつも偉そうに言っている自分はその意味を解ることは出来なかったのです。こういった観る感性と言うものは、我々のような仕事をしているからといって優れているとはいえません。むしろ映画や演劇、ドラマなどを数多く見てその度に自分なりの解釈を意識しているお客さんの方がずっとその才能は持っています。人にモノを表現する仕事は時間が不規則なため、人が表現したものを見る機会と言うのはどうしても減ってしまいます。また、自分はお客さんではないと言うへんなプロ意識が素直にモノを観ると言う意識を邪魔することもあるのです。終演後、楽屋でその舞台に出演していたタレントに、今回の舞台の意味と、登場する人物、小道具が比喩していたものの説明を聞き、素直に感心していたのですが、なぜ舞台を観ながらそれに気付かなかったのかということに悔しさも感じました。自分は、人にモノを表現するプロだなんて大きな口をたたきながら、お客さんとしては素人もいいところで、それを今まで、疑問にも思っていなかったなんて自分は本当にめでたい奴だと反省させられました。人生を楽しむ上で、何事に対してもいいお客さんになる感性、才能と言うものは大切なことです。一流の料理人はお客さんとしてレストランに行ってもきっと料理の味わい方、楽しみ方を知っているはずです。話し上手な人は聞き上手であると同じように、自分ももっと上を目指すなら、たとえレベルの高い芝居であっても、理解し楽しめるだけの観る才能を磨かなければいけないなあとつくづく感じました。人を感じさせるテクニックとノウハウを勉強するだけでは不十分、感じさせられる才能を知ることも大切なことだと素直にそう思いました。これからは人が表現しているモノも表現する側の立場からではなくあくまでお客さんとしていいものを吸収することを意識して観ていきたいと思えるようになったのです。また勉強しなければいけないことが増えました。一生勉強ですね
Dec 14, 2002
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今年引いた風邪は、例年になく長引いて2ヶ月以上も咳や鼻水が止まらずあげくのはてには中耳炎にまでなってしまい、そのためいつも行っていた筋トレを長期にわたって休むことになってしまいました。久しぶりに、腕立てふせからはじめてみると、なさけないことに2ヶ月前は50回3セットを軽くこなしていたものが30回も続けられなくなっているのです。毎日続けることの大切さ、時間を空けることの恐さをつくづく感じさせられました。昔、ディレクターの先輩にこういうことを言われたことがあります。「技術的なものはしばらく時間をおいても、自転車と同じで一度覚えたものは、また再開すればすぐにカンは戻るものだけど、面白いものを面白いと思う感性、瞬時の判断力、新しいものを生み出す企画力は、筋力と同じやで、一度なくしてしまうとまた一からやり直しや、たとえ仕事が単調になっても常にそういう感覚は鍛えとかないとあかんで」体力の衰えでその言葉が頭に浮かびました。仕事は年を増すごとに要領は得てくるものなので、多少手を抜いても平均的なものは作れるようになります。しかし恐いもので基礎的な創造力は逆に年をとるたびに衰えていくのです。全く基礎体力と同じです。逆に外から受ける感動に対しては敏感になり、涙もろくなったりはするのですが、人に感動を与えると言うパワーのいる作業に関しては若い人よりも常に鍛えるということが必要になってくるのです。自分なりに考えてみると、衰える理由ははっきりとわかります。人は技術を身につければつけるほど気がつかないうちに手を抜いてしまっているんだと思います。そこが基礎的な創造力を衰えさせる原因なのです。だからこそ仕事以外の時間を使ってでも鍛えなければいけなくなってしまうのです。小手先の技術で処理してしまうものはすべてにおいて魅力に欠けるものだと思います。体力も創造力も維持するためには常に筋肉痛を感じていなければ不安にならなければいけないのです。そう思いながらも、なかなか痛みを共なうことは避けて通ってしまいます。とりあえず落ちてしまった体力は一から鍛えなおさなければいけません。このほうが毎日少しずつ維持することより大変です。あとから必死で取り戻すより、今日も一日、何かを創り出すイメージをひとつ考えないといけないなあと思いながら、またぼーっとした時間を過ごしたことを反省しています。理屈が行動よりも先にたつということ自体、若くないという証拠なのですが・・・・・
Dec 13, 2002
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今日、あるセミプロの芸人さんと打ち合わせをしました 漫才やコント、手品などとは違った全く新しい手法で人にモノを表現する芸人さんです、一言で言うと、ストーリー性を持たない紙芝居のようなものを音楽と一緒に見せていくと言う芸なのですが、打ち合わせをしていくうちにどんどんその芸に興味を惹かれていく自分がわかりました 自分が今まで表現しようとしていたものとあまりにもかけ離れていたというのが興味を惹かれた一番の原因でした。我々テレビ番組を作るものにとって、構成、いわゆるストーリの組み立てと言うのはまず最初に必要なものであって、企画を立てるのと並行してまずそのストーリーの入り口と出口を考えて行きます。誰が、どこで何をどうする、それがあってはじめてそれをどう見せるかの演出と言う作業が行われるのです。しかしその芸人さんの伝え方にはストーリーというものは基本的には存在せず、言葉の面白さ、絵と言葉のバランス、テンポ、そういったものだけで人にモノを表現すると言うのです演出は理屈じゃないといつも言いながら、かなり理屈っぽい自分に気付かされました。ボケとツッコミ、話の組み立て方とオチ、こんなものはなくても人は笑わす事ができる、じっくりと聞かせるしっかりとしたストーリーなんてなくても人を感動させることができる、業界にいるからこそそんな当たり前のことをすっかり忘れてしまっていたのです。例えば恋愛を語るとするなら「君の声が聞きたくて、いつも切なくなる僕がいる。何百文字を使ったラブレターなんかなくても、より今の気持ちを言い表す4文字がある・・・あ・い・た・い」といかにも簡単に気持ちを語ったような文よりも、「好き好き好きだ~い好き!」という文章になってない単語の集合の方が気持ちが伝わるといえば、確かにそういう気もしてくるものです。場合によっては、よく構成されたオチのしっかりとした小噺よりも「プー」という一言の方がずっと面白いことだってあります。自分自身、人にモノを伝えるときスマートに伝えようとしすぎ飾りすぎてしまうことがよくあります。知らず知らずのうちに理屈じゃない面白さ、感動、涙を否定していた自分がいたのかもしれません。ストーリーのないものの面白さ、文章の構成にこだわらない表現、12年もこの業界にいるのにまた新しい発見がありました。やっぱり日々勉強なんだなあとつくづく思った1日でした・・・・
Dec 12, 2002
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毎年、このシーズンになるとクリスマス、お正月特番が重なり、我々の業界はどのセクションも忙しくなります この時期に一番パニックになるのが、各番組の雑用からディレクターの気持ちのケアまでしなくてはいけないADのセクションです。忙しくなるまではわからなかった各ADの特性、パーソナリティーがうかがえるのがこの忙しい時期でもあります。若いADは忙しくなると自分の苦手な分野で必ずといっていいほどミスをおかしてしまいます。整理の下手な人はモノをなくしますし、人とのコミュニケーションの下手な人は対人関係でトラブります。時間にルーズな人間は遅刻をしたり、不注意な人間はけがをしてしまうこともあります しかし不思議なもので2年目、3年目になってくるとそのミスは確実に減ります。かといって自分の不得意分野が克服されているのかと言えばそうではない場合が多いのです。 じっくりと後輩を観察していると面白いことに気がつくのです。人は苦手な分野で何度も失敗しているうちにその苦手分野をカバーするための別の才能が身についてくるようなのです。前もって準備をしっかりと出来ない人は失敗を重ねるごとに、現場で瞬時に対応できる瞬発力が身につきます。逆に瞬時の判断を必要とするときにパニックになる人はその場を数多く踏むと、事前に用意周到にできる能力を身につけていくものです。人は自分のマイナス要因を自分でわかったとき他のプラス要因でカバーしようとする本能的な能力があるものなのです。自分の価値判断、自分の経験でしかモノのいえない上司はマイナス要因を治るまで攻め続けますが実際問題、ミスを減らすにはマイナスをカバーできるだけの他の才能をのばしてあげる方が確実にいい方法なのです。サッカー選手でも背の低い選手はいつのまにかすばしっこさを身につけますし、ボクシングでパワーのない選手はスピードが身につきます。人はマイナス面があると言うことは必ずプラスの面があります。マイナスがミスを起こす原因であるならそれ以上プラスの面を鍛えることが大切なのです。何をやってもダメと言う人は、マイナス面をカバーするプラス面に気がついていないかそれを育てる環境がないかのどちらかです。これは後輩に限らずいつも自分にも言い聞かせています。マイナスはあって当然。それが原因でうまくいかないときはマイナス面を反省しつつそれ以上に自分の得意分野をもっと伸ばそうと・・・うまくいかないときこそ「自分らしさ」を見直すときなんだと・・・
Dec 11, 2002
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今日、パソコンをいじっていると何故かうまく立ち上がらず、新しい資料を取り込もうと思ってもかなり動きが鈍くなっていました。パソコン音痴の私は、新種のウィルスかもと思い、大騒ぎをしていたのですが、そこにデスクの女の子がやってきて私のパソコンを少し触ってこういったのです「色んなもの置いとき過ぎです、いらなくなった情報は削除していってください」そう言われて見てみると確かに私はかなり昔にやった番組の台本や企画書を大事そうに残していたのです。それを見て彼女はにこっとしてその言葉の後にこう続けました。「人間だってそうでしょ、過去の経験や思い出をいつまでも大事にするのはいいことかもしれませんが、どこかで割り切らないと動きは悪くなるでしょ 新しい情報を入れたければ古い情報は削除して下さい 昔のことばかり自慢している人はオヤジって言われますよ」またまた若い女性の言葉に反省させられてしまいました。確かに色んな情報に常に敏感になって新しいものを取り入れ、若い感性でいなくてはいけない仕事をしているつもりなのに、過去の経験を自分の武器に若い世代と勝負していたことに今まで気付いていなかったのです。年をとるごとに「私の時代はこうだった」「昔はこうではなかった」とつい今の時代には通用しない事を大事に自分の経験として持ってしまっていたのです。経験や思い出の中にもいらないものはたくさんあって、あえてそれら失うことによって動きがよくなり、新しいものを取り込みやすくなるということを改めて知らされたのです。全てのことにこれはいえます。何かを失うときかなり寂しい思いをしますが、失うことも大切なことなのです。失うと言うことは新しいものを得る準備をすること 若い感性を持ち続けるための条件であるとも思えてきました。その女の子が去った後、パソコン内の古い情報を整理しながら、捨てていいものダメなものの選択もこれもまた難しいものだなあとつくづく感じていました。あえて失うって年をとればとるほど辛いことですよね・・・・
Dec 10, 2002
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女は付き合う男で変るというのはよく誰もがいう言葉ですがこれは逆の立場でも全く同じ事が言えるものです「男も付き合う女で変る」自分を含め、ディレクターという仕事をしている人間をたくさん見てきましたが いい仕事をしているときには必ずそのときにその裏側で精神面を支えている異性がいるものです これはタレントやスポーツ選手にも言えることですが異性からの応援なしでテンションを上げたり下げたりすることはかなり難しいことだと思います。私自身、今までの作品を振り返ってみると、すべてそのときにしていた自分の恋愛の色合いがよく出ていると思います。言い換えるとテレビのVTRの中にそれぞれその時々にその作品を支えてくれた女性の功績が残されているともいえるのです。感性でモノを作る職業の人間は基本的に感受性は豊かです、感受性の強い人間は当然、恋愛に関しても敏感に反応し、その相手の影響を受けやすいものなのです。ダヴィンチやモーツァルトのような芸術家に至っては全ての作品にその時々の女性の影がしっかりと残されていると言います。恋愛は芸のこやしとよく言いますが、感性が恋愛によって左右されると言うことは経験上、確かにいえることだと思います。あまり大きな声で言うと、公共の電波を使って仕事をしている人間として失格だと言われるかもしれませんが、どうしても仕事のテンションが上がらないときなどはひとつの番組をひとりの女性に見て欲しいだけのために作ることもあったくらいです。「いつもは50万人、100万人の視聴者に見て欲しくて番組を作っているけど・・・今回のこの番組だけは君のために作らせてくれないか・・・」この言葉を恋する女性に言っただけで、がぜんやる気が沸いてきたことを思い出します。ある女性を幸せにするために、頑張ってお金儲けをする。家族のために一生懸命働くということは男性なら誰もが思っていることだとは思いますが、その重圧は左脳にはたらき 枠にはめた発想につながる場合が多いと聞いたことがあります。それとは逆に胸のときめきは右脳を活性化させ創造性を高める作用があるようです。いい恋愛をしている人は、別に恋愛を語らずとも、いい文章が書けるのはその作用です。恋愛の形は人それぞれ、誰が干渉できるものではないと思いますがいい作品のためにはいい恋愛をした方がいいということはいえることだと思います。何故かこの理論に関しては後輩たちはいつも賛同してくれます若いディレクターにとっては常に恋をすると言う、軽い人間と思われがちな行為に大義名分がつくというかなり都合のいい理論だからだと思います。私はいつもこの話の最後にはひと言付け加えます 「誰とでもエッチするって事は、決していい恋愛ではないで」と・・・
Dec 9, 2002
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先日、風邪をこじらして検査のため病院にいきました、待合室にいるとき1年前のある看護婦さんの言葉を思い出しました胃潰瘍で父親が入院したという知らせを受け、私は仕事の都合をつけ、見舞いに行ったのです 幸い父親はたいしたこともなく安静にしていれば2~3日で退院できると言うことでした安心して病室を出ようとしたとき年配の看護婦さんに呼び止められました「○○さんの息子さんですよね」最初は父親の病状について話があるのかと思ったのですがその後に続いた言葉は「テレビのお仕事をされているんですよね」という言葉、どうやら父はその看護婦さんに私の仕事の内容を自慢げに話していたようなのです。何を言われるのかとその看護婦さんの前に立ち止まるとその人は笑顔でこう話し出したのです「テレビに携わる人が気付いておられるかどうかわかりませんが 病院の患者さんたちにとってテレビはすごく大切なんですよ。ほとんどの時間テレビを見ている人もいるくらいです。本当に苦しい人はテレビはつけませんが、病状が安定している人はテレビを楽しみにしています。手術を不安な気持ちで待っている人や、不治の病と戦っている人はニュースやドラマよりけっこうお笑いの番組を好んで見ているようなんです。見舞いの人がきても笑わない患者さんが、テレビを見て笑っているのを見ると 救われた気持ちになるときもあるんです。笑いはいい薬になるんですよ・・・・テレビを作るとき少しでもこういう人たちも見ているんだという意識をもってもらえたらうれしいなあと思うんです」ショックでした・・・そんな意識なんてそれまで一度ももったことはなかったからです、視聴者の年齢層や職業などはこの時間なら多分こんな人が見ているだろうという計算はしていましたが、病院で病気と戦っている人がテレビを楽しみにしているという発想自体がなかったのです。そう思って考えると、今までターゲットと考え頭に浮かべていた視聴者はすべて多数派であり、少数派の人たちのことは頭に浮かべていなかったように思えました テレビを見る人の中には当然、外へ出れないほど精神的にまいっている人や、リストラで仕事を失って家にいる人もいます そういった人たちこそ本当は笑いを求めているのかもしれないという新しい職業意識がその看護婦さんの言葉から生まれました かといって番組を少数派の人たちにあわせて作ると言うことは無理があります、しかしその意識があるのとないのとではまったく作るものが変ってくるような気がしたのです。その時看護婦さんから頂いた言葉はこんな時代、不景気で自殺者が年間3万人を超えるという今だからこそ 「笑い」を追及しいいものを生み出すと言う仕事に誇りを持とうという考え方にさせてくれたひと言でした
Dec 8, 2002
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今、ちょうど収録、編集を行っている番組は、クリスマスに向けたものが多くなります、この時期は4月のエイプリールフールよりも大々的に我々を含めた大人は嘘をつくことになりますそう、サンタクロースの存在です 特にテレビでは逆に嘘を放送しないと(サンタクロースはいると)大変なことになってしまうのです 昨年サザエさんのクリスマスに向けての放送で、マスオさんがタラちゃんのためにデパートでプレゼントを買いサンタクロースになるというシーンがあり苦情が殺到、業界内で大きな問題になりました サンタになるとかサンタはいないと思わすものはこの時期絶対に子供の起きている時間帯では流せないのです夢を守るための嘘、これは嘘は嘘でもなくてはならない嘘です。私の幼少期には母親は「うちは仏教だからサンタは来ません」と夢のない嘘をついていました テレビでは嘘をついたと週刊誌にたたかれることもよくあることです。しかし大切なのは嘘をつく「やらせ」をする目的なんだと思います 番組と言う大人向けのおとぎ話のなかで人を楽しませるためのものならそれはサンタに近いものですし、興味を惹きたいだけのためにとか視聴率稼ぎのための嘘はたたかれても当然ですついて喜ばれる嘘を追い求めていくということも大切なこと、じゃあついて言い嘘はどんな嘘なのだろう?、この時期になるといつもそのことについて考えさせられます。
Dec 7, 2002
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番組の評価は単純には視聴率と言うものが一番に考えられることが多いですが、それだけではありません、よく出来た作りやメッセージ性の高いものは業界内でいい評価を得ることが出来ます。よく出来たものというのは、構成がしっかりしていて、起承転結がよく表現できていて、映像表現が綺麗であったり、見せたいものがしっかりとわかるつくりのものを言いますそんな評価の中に「色気がある」と言う表現を使うことがあります私自身はこの色気のある番組と言うものが大好きです色気といってもセックス描写のあるものや女性のセクシーな映像を言うのとは少し違います味のある役者が酒を飲みながら生き方を語っているものや、野球選手が勝負を語るトーク番組、熟年の綺麗な女性作家が恋を語っているもの、ギャンブラーが自分の大負けした賭け事の話をしているものなど、人間の臭いのするものを「色気がある」という表現することがあるのです。普通のタレントではなく、特別な経験をもつゲストが出ている番組にも色気を感じます普通は面白いという感想が一番なのですが、見終わった後に「へえ~かっこいいなあ」と思えるのが色気なのかもしれません人間でも、セックスそのもののフェロモンではなくかっこいいと思わせる人はたくさんいます。生き方がセクシーな人たちです。自分のポリシーがあって、深みがあるそんな人たちには純粋に「かっこいいなあ」と思えます面白い人になりたいと常にそう思い続けて今まで生きてきましたが最近の自分の夢は「色気のある生き方をしたい」と言うものに変ってきました。今となっては、夢は具体的な職業や地位、お金ではなくなってきました かなり抽象的ではありますがこの色気をもつことにあこがれるようになってきたのですそのためにはおそらく、ここ一番の人生の選択、人に対しての立ち振る舞い、お金の使い方にこだわっていかなければいけないんだと思います。キザではなく、かっこつけるのではなく、内面からかもし出すかっこよさ、そして何より自分流の生き方を貫いている人、そんな人を目指すためにはまず、目先のもめごとや腹立たしいことでじたばたしていてはダメなんだなあと思いつつ、じたばたじているまだまだ色気のない私がいます。
Dec 6, 2002
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毎日、テレビの番組でVTRを作っていると、不思議なものです自分の日常生活そのものもそういう目線から見てしまうものなのです。テレビの世界の中には必ず登場人物があり、その人物は絶対に意味があるからキャスティングするものです。例えそれがエキストラやバックのセットの一部であっても一つ一つ全て必要だからそこにいるのです。最初なぜここでこんな人が登場したのかと思っても後でちゃんとその登場の意味がわかるようになっているのです全ての登場人物に意味がある、そう考えると、身の回り全てのものがそう思えてくるときがありますなぜこんないやみな人に出会ったんだろう思い出すのも嫌だと思っていても必ずこの人は僕の人生と言うVTRの中では何か意味があるんだと考えてしまうのですここで出会った人はもしかすると準主役に近いキャスティングなのかもと思うと簡単な出会いもワクワクするものです「必要のない人は登場しない」そういう考え方をすると不思議なものです 自分にとって最悪な上司も、自分という主人公がいいところを見せるために登場した悪役でわざわざそのためのキャスティングされた必要なものだと思うことも出来るのですテレビは当然作られて演出していくものです、だから日常生活とは違うとは言い切れないような気がするんです決まった台本はないにしても日常生活もある意味作られて演出されていくものだと最近感じることがあります逆にいうと、日常は、テレビのVTRのように面白い素材ばかりではないから演出していかないとドラマチックにはならないのです。今日も明日も自分が主人公の人生と言う番組の中では、さまざまなキャラクターの登場人物が出てきていろいろな形で自分を引き立ててくれています 全て意味をもち番組を面白くしています後は自分の感性でどう演出をかけるかでその作品の良し悪しが決まります。理屈ではこう思えても 実際はなかなか人を恨まずにはいられないものです 今日もその悪役とやりやって、自分の査定を下げてしまった私に自分でもいやけをさしていたところなのですが・・・
Dec 5, 2002
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もうそろそろテレビ業外はお正月の番組の撮りダメの季節に入ります 一足早く、晴れ着を着て御正月気分になり「あけましておめでとう」を言います。最近は、お正月の遊び、福笑いはテレビでは放送に適当ではないものとされています。視覚障害者に対しての差別につながるということがその理由です。この意見には反論もあることは確かです気にし過ぎではないか、そう思って意識しすぎることの方が逆に差別を助長するのではないかと言う意見です。差別、いじめの助長を深く考えると、お笑いと言うものはかなり範囲を狭めなくてはいけないものになります。デブ、チビ、ハゲはお笑いをするに当たって、これを無くすとかなり辛いものがあります。今は、この単語はテレビでもよく出てくるものですがこれも間違いなく差別用語です。肉体的欠陥を笑いにする代表的なものがこの三つの単語なのです。単純に私自身はこの三つの単語を何度も放送したこともありますしかといって人を傷つけた意識は全くといってありませんでした一般的に放送に適さない言葉と放送してよい言葉の違いは一体どこにあるのか・・・・この問題を考えるたびに深く思います。私なりの持論を述べるとすれば、その障害や、欠点を笑いにするからには当然、その場にそういう立場の人がいて、その人が言い返せたり、その立場としての言い分を言えるということが条件でありその場の雰囲気でそれが笑えたかどうかが問題だと思っています。言葉だけをとって差別と考えると、何も放送できないと思うのです ある公開番組でこんな出来事がありました。客席から、お題をもらい即興で落語をするという番組のスタッフについていたときのこと、司会者がたまたまあてたお客さんが車椅子で、そのうえその人は小児麻痺の後遺症か言語にも障害があったのです。一瞬私の背中は凍りつきました、あててはいけない人に当たってしまった、そう思ってしまったのです。大きな声で言葉を発するのですが何を言っているのかわかりませんスタジオも少ししんとなりました その時すかさずに舞台にいた落語家さんはこういったのです。 「通訳呼んで」場内は大爆笑になりました普通に考えればそれは差別なのかも知れませんが とっさに外国人と同じ扱いにしその場に笑いを起こしたその落語家の選択は間違いではなかったと今でも思っていますその場にいた人はおそらく全員、差別ではなかったと感じていたと思います その障害者の人からはのちにパソコンを使った手紙が届き、いい思い出が出来てうれしかった、いままで公開番組に参加してあてられたことはなかったと書いていましたすべて、その場の雰囲気なのです これからもっと私自身勉強して、笑いと差別についてを考えていかなければいけないと思っています。
Dec 4, 2002
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テレビのディレクターの寿命はよくプロ野球選手と同じだと言われます 体力もさることながら感性やテンションの上げ下げも年齢と共に衰えると言うのです野球選手が衰えに負けないようにと自主トレをするようにわれわれも感性を鍛えなければ、どんどん衰えて、駄洒落やシモネタでしか笑いがとれない「オヤジ」になってしまうのです。トレーニングの方法はいろいろあると言われていますが、私が実践しているのは初体験をするというトレーニングです。なかなか30歳をこえると、たいていの事はやってきてもうはじめてやることはないような気がしますが 少し目線も変えれば感じたことのないモノはたくさんあるものです。若い女性に人気の詩を読んだりすることも初体験と言えば初体験ですし、聞いたことのない音楽のライブに行ってみるのもひとつの方法です、今まで喋ったことのないような人とじっくり友達になってみるのも全く新しい発見が出来るものです。恋愛に至っては、今までになかった付き合い方さえすれば感じ方は今までの恋愛とは全く違うものになりますどうしても人は年をとると自分の経験になかった人との付き合い方や人の愛し方、遊び方は面倒くさくていままでのパタ-ンにはめてしまいたくなるものですが これをやってみると初体験の感動が得ることがよくあるのです。こんなことやったこと無いとか、今までとは違うと言う発想を変え今は出来るだけ 思いついたことは試してみることにしています精神的にふけるということが死活問題にもなる我々の業界ではこういったトレーニングが絶対必要だからです。発想を変えて、新しい状況下に自分を置くトレーニングはかなり30歳をこえるとハードですしかし私も少し時間が出来たらまた初体験をしなければそろそろ感性もなまってしまっているなあと最近つくづく感じています
Dec 3, 2002
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タレントという見られることを職業とする人は、日常、一般的な暮らしをしているときには決して使うことのない神経を使うそうです、人から注目される、見られると言う事は動物的な本能で異常なくらい神経を高ぶらせるらしく、そこに緊張が加わるとその精神状態は極限を超え、脳内麻薬を発生させると言うことを聞いたことがあります、一歩間違えると、精神を病んでしまうほどの強い刺激だそうですが、その状態も、回を重ねるごとに麻痺していき、その神経を守るための新しい神経が発達するそうです。そうやって人前に出ると逆にいつも以上の能力を発揮するようになった人こそプロのタレントと言われる存在になれるのですお笑いタレントに限って言えば、有名お笑い芸人よりも面白いことを言える人は一般人の中にもたくさんいます、しかしその人たちがプロになっていないのは前にのべた神経の発達がないと言うことなのです。これはスポーツ選手でもよく言えることですその本番に強い神経が発達した選手は、一流と呼ばれ観客が多いほどいつも以上の能力を発揮します。これはテレビや舞台やスタジアムで活躍した人たちが持つ、現代の科学では証明できない、いわば超能力と呼ばれるものではないかと思います。この業界で仕事をしているとその不思議な能力を目の当たりにすることはよくあります。まちがいなく大舞台を経験している人ほど一発勝負では運を呼び込みます。プレッシャーを受けたとき戦うか逃げるかその二つしかありません戦った場合は負けると精神にかなりのダメージは受けますが勝った場合はそのパワーを手に入れることが出来るのです、逃げればどちらもありません。普通では考えられない極限の緊張と興奮状態の中で発達する神経は、タレントでなくとも身につけることのできるものではないかと思います。 ある一定以上の緊張感や重圧感は一般生活の中では、避けようと思えばさけられるものです。タレントやスポーツ選手の場合は、人に見られて大観衆の前でどうしても避けられない状態であるがゆえつぶされるか、その能力を身につけるかの瀬戸際に立たされるのですそこから考えれば、仕事の重圧感、緊張感が起こったときあえてその場で自分を追い込むことによって脳内麻薬が出るくらいの状況におけば、その神経を守るための新しい神経が発達し、その超能力を身ににつけることが出来るのかも知れません。テレビの生放送を担当するディレクターは100万人が見ていると言うことを何度も自分に言い聞かせてあえて自分にプレッシャーを与えることがよくあります そのことによってその能力が発達し、本番に強い自分が作られて行くからです。運を呼び込む超能力は必ずあると思います。そしてその能力は、鍛えることが出来るものだと、タレントやスポーツ選手と仕事をして実際に感じます。しかしなかなかそんな緊張したり、重圧感のかかるポジションに自分を置きたくはないものです自分自身も出来れば避けようと思っています。下手をすると、心の病にもなりかねないからです。私は、そんなプレッシャーの強い場面にしかたなく遭遇したときはそう思うことにしています、超能力を鍛えているんだと・・・・
Dec 2, 2002
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テレビのバラエティーの番組では、作り手のの思い入れが強くなればなるほど視聴率は落ちていくとよく言われます。飲み屋で熱く語れば語るほど話を聞いている人が冷めていくと言うものに近いものがあります。好きなジャンルの番組を担当すればするほど、その本当の面白さを伝えたくて内容は直接的過ぎになり、興味のない人にとっては全く見たくないものになってしまいます昔、先輩ディレクターに受けたアドバイスにこういう内容のものがありました「自分が見せたいもののたいていは人の見たいものとは違うと考えた方が正しい、もし自分が人に伝えたいものがあるならまず相手の興味をもっているものを知ってからその目線から伝えなければ伝わらない」最初この話を聞いたときはよく意味がわからなかったのですが今となっては、心に残る大切な言葉の一つです。例えば企画を立てる際に、バリアフリーを題材に持ってこようとするなら、今、一般人は何に興味があって、どんな番組が視聴率を取っているのかを計算し、それを先に企画し、最後に自分の言いたいバリアフリーを少し表現すれば、バリアフリーを前提とした番組よりは企画も通りやすいし、たくさんの人に自分のやりたいことを見せることが出来るということなのです。どうしても自分の見せたいものは相手の興味を無視してその人に一方的に伝えたくなるものですしかし逆の立場から言うとそれほど迷惑なものはないし、最初に拒否反応を起こしてしまいそうになるものです。10の自分の表現したいものがあるときに、みんなが興味の持つようなことを7自分の言いたいことを3の割合で伝えれば、少なくとも3は伝わります、しかし自分の言いたいことを7以上の割合で伝えれば、興味のない人にとっては1も聞きたくない話になってしまうのです自分の考えていることを人に伝えることは本当に難しいですそのために、今、人はどんなことに興味があるのかを知ることは大切なんだと思います全て自分本位ではだめなんですね・・・・
Dec 1, 2002
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