仁志・多喜馬の戯言日記&戯言通信

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2008年03月15日
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 古い地図を調べてみるとその生活は、電車や車で簡単に素早くどこにでも移動できる現代人の感覚で見ると、江戸時代では庶民の行動範囲は恐ろしく狭い。古い資料で調べたのだが、移動手段の限られた昔は、隣町に行くにも木戸を通らなければならないようなさまでは、生活圏といえばせめて5km四方が関の山ではなかったかと書いてあった。

 江戸時代の書かれたガイドブックの「吉原細見」でも書かれているのだが、日本橋の大店の若旦那連中が江戸中に張り巡らされた堀や川の河岸を利用して、船で隅田川を上り山谷堀にあがって、一服してから大門(おおもん)目指して、日本堤を籠で乗りつけるというようなたいへんな一仕事であったことが、詳しく書かれているのだ。

 今回のまち歩きでも実際に歩いてみると45分くらいしかかからなかったが、交通手段の乏しかった昔は移動の手段が基本的に「歩くか船に乗って」というしか方法がなく、ごくごく小さな町の範囲で人々は生活し、喜怒哀楽をともにしていたのだ。今ではご近所付き合いなどという言葉も死語になりつつあるが、江戸時代は本当に小さなコミュニケーションを大切にしていたのが、地図を見たり調べた調べたりすることでわかってくるのだ。

 やはり古い地図や案内書のことをITで調べると、どうしても江戸のことが多くなってくるのだが、天下の大都市江戸は地方から参勤交代の折、諸大名と共に多くの人々が入り込んだみたいのなのだ。人夫も労働力として出稼ぎに江戸に入り、そのまま居ついてしまう。それだけ町づくりの働き口があった。さらに伊勢や近江をはじめとした上方商人が出店をつくる。これらの店では国から人を連れてきて、お国言葉を使う男だけの世界をつくっていったようだ。

 松山からも品物でけでなく文化も江戸に持ち込まれ、諸国から多くの商人が出入りし「諸国にある草木、江戸になき品はなし」といわれるような刺激的で楽しい町へと、江戸は変貌を遂げていくことが調べてみるとよくわかる。反対に江戸の文化が地方へも流れてくるのだが、それはどうしてもお城を中心にした、武士の目の届くところに限られてしまっている。その位置に私たちが管理している史跡庭園もあるのだ。

 江戸の町もそうだが火事や地震などの天災で昔の町は、破壊と再建を繰り返しながら造られていったのだが、古い地図を重ね合わせてみてみると、史跡提案のある町も活力を最大限に発揮しながら政治経済文化の中心として花開いたことがよくわかってくる。たとでば、藩主の菩提寺の前の長屋が、火除け地として取り壊されていたりするのが、年代の違う2枚の地図からわかってくるのだが、その間の時期に大火事があったりしているのだ。





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最終更新日  2008年03月15日 13時19分47秒
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