現在の茶道人口の九割程は女性とされているが、他方で近代日本を牽引したリーダーたちは「数寄者」と呼ばれた茶の湯の愛好者であったとう。もともと茶の湯は戦国武将が心酔した荒くれ者の文化で、明日をも知れぬ命を捧げ戦いに明け暮れた彼らは、茶の湯に生かされていたとも言えるそうなのだ。そもそも日本に茶が入ってきたのは 7 世紀前半から 9 世紀前半に朝廷が派遣した遣唐使で、中国の様々な文物を持ち帰選ったと同時に 9 世紀前後に日本に伝えられたというのだ。唐の宮廷で茶を飲む風習があったからだというのだが、それが嵯峨天皇の頃に入ってきたというのだ。公式的には栄西が「臨済禅」を伝えたということなっており、その時の茶は「団茶」と呼ばれる発酵茶だったそうなのだ。
この「団」というのは石鹸みたいな塊のことで、これを細かく削ってお湯を入れておそらく塩とかも入れて、今で言うたらコンソメスープみたいな感じで飲んでいたそうなのだ。その栄西が日本における「茶祖」とも言われていて、中国の宋の時代は「抹茶」が流行しており、飲み方で言うと茶のエッセンスを飲む発酵茶と異なり、これは茶葉を食べているようなもので茶葉を石臼で挽いて粉にしてまるごと茶葉を身体に取り入れていたそうなのだ。そのことからビタミン C とかポリフェノール・うま味成分のテアニン・渋み成分のタンニンに含まれる薬用効果のあるカテキンといった身体にいい成分が一杯摂取することが出来ていたというのだ。
禅寺の生活は自給自足の修行ですから栄養補給などの為にお寺の側に茶園を作り、茶の栽培から製法に飲み方までが一つのシステムとしてあったとされている。つまり栄西が禅宗を日本に伝えた時に「禅院の茶」のシステムも一緒に持って帰って、栄西から明恵上人が種を譲り受け京都の栂尾に蒔いた茶を「本茶」と呼ぶというのだ。茶の湯もそんな武士たちによって育てられたという側面があって、建保二年の「吾妻鏡(あずまかがみ)」の記事に将軍源実朝の二日酔い事件が記されているという。前の晩の宴会の深酔いで源実朝は体調が悪くてかったが、その時に鎌倉に布教に来ていた栄西が茶を飲ませて大変効果があって将軍が喜んだという出来事が、寺院から武家社会に茶が受け入れられたきっかけだというのだ。
また栄西は「喫茶養生記」という書物の中で薬を飲む時の効能書きに当たることも書いているのだが、当時お茶は薬のように捉えられていた部分があるというのだ。「喫茶往来」という室町中期の資料には会所では食事・連歌・和歌の会をし、それから香を焚いたり茶を飲んで楽しんだり、それを長い時間をかけてやると書かれてある。その本の中に「茶会」という言葉もその中に出てきており、また正徹という歌人が著した歌論書の「正徹物語」には、闘茶に集まる人たちの中に「茶数寄」・「茶飲み」・「茶くらい」という三種の人がいると書いてあり、中でも「茶数寄」と呼ばれる人は茶の味を楽しむだけでなく、茶の道具を自分の好みできちんと揃えて楽しむとして、茶の湯に美意識を持つ人が現われたということが分かるというのだ。
「茶の湯」というとどうしても「わび・錆」の世界という事になるのだが、茶の湯の「侘び」・「寂び」という美意識が和歌と繋がっているというのだ。いわゆる「侘び」とか「寂び」とかそういった感じの美意識が、茶の湯が盛んになるこの時代に胎動していたということなのだとされている。この「侘び」というのは〈思い通りにならない感情〉の動詞である「侘ぶ」からきているそうで、これは平安朝の歌にもよく出てくるそうなのだ。また「寂び」の原義は〈生命力が衰えること〉で、例えば人間が孤独で生きていく力が無くなったら、それは寂しいになるというのだ。金属も時が経つと「錆」が出てしまうように、生活の余裕が無いことの気持ちとか、時が経って生命感が失われていくような状態を、分かり易く言うと古ぼけていくこととして日本人は和歌の世界で美的な感覚に切り替えていたというのだ。
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