日本刀のさやに差し込んだり小刀の柄に用いたりした「小柄(こづか)」と呼ばれるアクセサリーなのだが、本来は日本刀に付属する小刀の柄であるか小刀そのものを指して言うこともあり、打刀などの刀の鞘の内側の溝に装着するとされていた。本来の用途は木を削ったりするのだが時代劇でもお馴染みのように緊急時には武器として投げ打ったりするのだ。手裏剣術は棒状手裏剣で回転させず投げる直打法によって投げた場合でも 9m ほどが有効距離であり、改良をほどこした根岸流では 13m 以上先に届くといわれている。従って小柄を手裏剣代わりに投げたとしても 10m 先に届かないものと考えられるが、刀剣の装飾が発達するにつれて小柄にも精密な細工が施されるようになったという。
小柄は同じく日本刀の鞘に装着する笄と共に芸術的価値が高まったとされるのだが、小柄が刀の付属品のようになったのは約500年程前からだと言われているのだ。その小柄では羽の折り鶴や松が描かれたモノなのだが、日本刀剣保存会理事の中西祐彦氏が数年前に収集家から譲り受けた小柄が大発見の成りそうなのだ。中西さんが鑑定したところ室町幕府の御用工人だった後藤家の6代目で、豊臣秀吉に仕えた後藤栄乗の作と分かったというのだが、彫りの特徴が栄乗のものと一致し江戸時代になると使われない技法で金を加工していることが確認されたというのだ。その折り鶴が描からは小柄は安土桃山時代の終わりから、江戸時代のごく初期にかけての作と判断できるという。
3羽の折り鶴が描かれた武士のアクセサリーが16世紀末~17世紀初めの作と鑑定され、これまで最古とされてきた折り鶴の図柄よりほぼ1世紀古いことが分かったというのだ。折鶴が文献に現れるのは江戸時代であり、井原西鶴の「好色一代男」の中で主人公の世之介が、「比翼の鳥のかたち」をした「をり居(おりすえ)」をつくるという記述があるというのだ。ただし「好色一代男」では図や絵がなく文章のみで書かれているため、「比翼の鳥」の折り紙がどのようなものなのかは定かではなく、はっきりと折鶴が描かれるのは1700年に出版された「當流七寶 常盤ひいなかた」だとされている。その「當流七寶 常盤ひいなかた」の中の 121 番「落葉に折鶴」の項に着物の模様として折鶴が描かれているというのだ。
その後折鶴を発展させた連鶴が誕生したとされているが、明確な形で連鶴が記載されているのは1797年京都で出版された「秘伝千羽鶴折形」だとされている。しかし1800年前後の複数の浮世絵には連鶴と思しき連なった鶴が描かれており、「秘伝千羽鶴折形」以前から連鶴が存在していたと考えられているそうなのだ。具体的には少なくとも 18 世紀後半には江戸で連鶴が折られていたと考えられ、これまでは1700年前後に刊行された染め物の図案帳にある折り鶴の図柄が最も古いとされてきたのだ。今回の小柄の絵柄ではそれより約1世紀古いことになるというのだが、折り紙の歴史を研究する岡村昌夫さんは「描かれた折り鶴は横から見た図の後ろ半分が間違っている。折り方が普及する前の段階と考えていいでしょう」と話している。
折り紙は贈答品を包装する武士の礼法として室町時代に確立したとされており、この時期の和紙は長方形が基本なので礼法の流派ごとに定めた縦横の比率を正確に習わないと折れなかったそうなのだ。それが江戸時代になると折り紙は町人の間に普及し、特に女性の人気を集め中でも折り鶴は正方形の紙を使い、特別に習わなくても折れるため広まったという。専門家は折り鶴が誕生した背景に迫る発見だとみているが、 折り鶴 は正方形の紙を折って鶴に似せた形に作るもので折り紙では最もポピュラーな作品のひとつであり、折り方も簡単なため多くの世代に知られている。専門家も「折り鶴が礼法の一環として武家社会の男性の間で誕生したことを物語るもの」とみているそうなのだ。
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