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昨年腰痛を患ったときに測定した骨密度。忘れていて今日、結果を頂いてきた。(のんきだねー、本人も、お医者も)「もうスカスカだから、歩くのも止めなさいよ」なんて言われると思ったら、看護師のMさんが「あれー、すごーい! 90%もあるじゃない」。90%はあくまでも90%じゃないの?決して喜ぶ数字ではないんじゃないの?これはYAMの90%というんだそうだ。YAM(young adult mean) 女性の場合このYAMが最高になるのが35才前後。そのときに比べて何%あるかということ。私は35才頃に骨密度を測定しなかったから、果たしてその頃100%だったか否かはわからないんだけど。私の年齢で見ると、平均よりかなり上にある。骨密度の変化 喜色満面の私の顔を見て、看護師さんは釘をさすのを忘れなかった。「でもね、これから急激に落ちていくようになるから、とにかく運動して骨に刺激を与えることと日射しを浴びること、それからバランスのいい食べ物ね。これに注意してよ」簡単に解釈すれば、「遊びなさい」ということになるんじゃない?私の最も得意とするところ…ムフフフフフとはいっても昨今、歩く距離が減っている(運動の中でも「歩く」ことが優れものなんだって)。素直な私は、てくてく歩いて片道10分、校正を持って行ってきた。散歩できなくても、仕事で散歩すればいいんだよね。
2006年01月30日
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今日は朝からすっきりと晴れています。が、これは、昨日28日の冬の散歩の記録です。まだまだ一面雪ですが、毎年この頃になると、「歩きたい、歩きたい」と心身の欲求が強くなるようです。昨年も歩き始めは1月23日でしたから…朝7~8センチほどの積雪があったけれど、日射しが出てから道路の雪は消えました。軽登山靴を車の中に入れっぱなしにしておき、その車をお父が乗って行ってしまったので、はてさてどうしよう…と。長靴は底が磨り減っているし、まあ山道ではあっても南斜面だから、運動靴でいいだろう。これが間違いでしたね。全体の半分近くはまだ雪が溶けずに残っており…しかも、行程の4分の1あたりで、ワンちゃんの散歩に来たらしい人の足跡もUターンしていました。でも、山の新雪でなくとも、山里の新雪も気持ちの良いもの。私の前に道はない…私の後に道はできる…なんて、しゃれてはみたものの…滑らないように細心の注意を払って歩きました。大腿骨の骨折なんてひには、もう自分の老化を証明するようなものだもの。それに私の右肩からは一眼レフのカメラがさがり、左肩には双眼鏡。首からはちっちゃいカメラが下がり、右のポケットには交換レンズ、左のポケットには携帯電話。で、私の姿はこんなふうになってしまいます。私の骨折より、カメラ壊した方がお父に怒られそうだわ。とはいいつつも…いつものように、小鳥に気をとられ、土手の草花に注意し(オオイヌノフグリが咲いてました)、とにかく最上部で山を見たいという一心で歩きました。春になると、つくしんぼやひめおどりこそう、たんぽぽが咲き乱れ、私が腹這いになって写真をとる場所は、まだまだ50センチほどの雪の下でした。カーブを曲がって、また曲がって、もひとつ曲がって…ほら見えた!曲がり切るとね…これで私は満足なのよ。強風のガスからやっと出てきてくれた鹿島槍です。真っ青な空を旋回する鳥おーい、お前も幸せかーい!?
2006年01月29日
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「夜7時から村長の報告会があるって、常会長から連絡が来たぞ。オレは『おかのえ』があるから行かれない。お母どうする?」村長の報告会なら聞きたいなあ…でも、珍しいことするじゃない。選挙が近いから、区として村長の話を聞きたいと要望でもしたのかな。などと思って…今、その「報告会」から帰ってきました。お父の聞き違いでした。(常会長さんにも、他の人にも確認したから間違いないッ!)後援会組織の立ち上げ会でしたッ。もうっ、お父のあほんだらッ あほんだらッ あほんだらァーッ!しっかり聞けよッ!会場には、この地区を動かしていると自負しているだろう男性の年輩の方々が集まっていました。もちろん女性なんか一人もいません。ああー、この時点で会の主旨を確かめて帰るべきでした。誤解のないように書いておきますが、村長を支持するとかしないとか、という問題ではなく、こういう組織の立ち上げ方が嫌なんです。「区」…「常会」という全く選挙とは関係のないルートを通じて連絡するということが、本来おかしいし、してはいけないこと。だから、私は認められないんです。大体、こんな私が、その会に出席したということ自体、奇異に思われた方々がたくさんいらしたでしょうね。もしかしたら、スパイだと思われたかも…(決してそんなことないからね、このブログを読まれる出席者さん!)けど、後援会設立賛成意志表示の拍手もできなかったし、最後の「ひとしめ」といかいう手打ちも、私はしませんでした。ただ、村長のお話はやっぱり聞いて良かったと思います。広報の新年号に載っていた内容と似ているけれど、肉声を耳で聞くのと、文字面を目で追うのとでは印象がずいぶん違いました。「これまでいっしょうけんめい、私はやって来たつもりです。…」過去にも何かの会で聞いたことのある言葉。この言葉は、本音だと思います。考え方の相違はあっても、そういう気持ちって伝わりますよね。というわけで、今、まだ帰ってこないお父を、手ぐすね引いて待ってるところです。ほんとに もうッ!!!!!!(鬼の顔にだんだん近づいているぞー)
2006年01月28日
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今日、某行のATMで通帳に記帳をした。一瞬、隠し撮り用のカメラがあるのではないかと機械の周辺を確かめた。もちろんなかった。14日のパネルディスカッション参加への謝礼が振込まれていた。担当の若い事務官は「お礼は少なくて申し訳ないのですが…」と言われていたので、「いいえ、お礼など頂かなくても、いっぱーい勉強させていただいたから、それで十分ですよ」と軽くお返事したのだが…。振込まれていた額は3万円余でした。(金額書いてもいいですよね…)いやあ、びっくりして、しゃっくりが出て、ひっくり返りそうになりました。さすが、国土交通省北陸地方整備局松本砂防事務所!なんて悪のりして書いてますが、いいのかなあ、こんなに頂いてしまって。2回の打ち合わせ(うち1回はVIPなみに、送り迎えしていただいた)と本番の3回で。振込まれているものを、今さらお返しするわけにもいかないから、有難く頂きます(本当はうれしい 笑)。ありがとうございました。最近は財政難で、村の委員などをしてももちろん無料奉仕なので、有り難みがものすごーく大きいです。(報酬めあてに委員をするわけでは決してありませんから、ゆめゆめ誤解のないように)ちょっと脱線しますが、村関係のお仕事は、我が社に関しては4月から2~3割の価格下げのものが出てきています。ものすごいでしょう?県職員の給与ダウンの据置きを組合に図ったとかいうニュースが少し前流れていましたが、それだって確か5%以内だったと思います。だから、もう彼らには同情しません。ちなみに2割って20%のことよッ!もひとつだめ押しで、3割って30%のことで、3分の1のことよッ!村の自立のために、村民みーんなが苦労を分かち合うってのが、浸透していれば、私も文句はないんだけどね。まだまだ国レベルの機関は豊かなんだなあと、素直に思いました。ありがとうございました。
2006年01月27日
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第7回歴史を楽しく学ぼう会-憲法の話-今日の「2つの憲法と小川村~日本国憲法施行と小川村のくらし~」、とてもおもしろかった。と同時にガツーンッと頭を殴られた感じがした。忘れていたこと、流されつつあったこと、そんなことを思い出させてくれた学習会だったように思う。《「東洋大日本国国憲按」》今、日本の平和憲法がアメリカに押しつけられたものだから、日本人の手で作りなおすということが、憲法を変えるという一つの理由になっている。思うに、新しい憲法の試案を作成させても、明治憲法の枠から全く脱却できなかった日本人に、新しい視点を与えたという意味の押しつけはあったかもしれない。が、憲法の内容そのものは、決してGHQ=アメリカが問答無用で押しつけたものでないことは、改めて理解できたと思う。日本国憲法には民間の研究団体が起草した私案が30近くも参考にされたという。このうち半分近くは何らかの参考にされたことが実証されているそうだ。それにしても明治憲法が作られた時代に私擬憲法(明治政府は全く無視)として作られた「東洋大日本国国憲按」の中味の素晴らしさにびっくり。戦後、これを参考にした憲法研究会の「憲法草案要綱」をGHQ案が参考にし、そしてそれを提示されて日本政府案が作られ、日本国憲法が作られる。この「東洋大日本国国憲按」を作ったのは、元土佐藩士の植木枝盛という人。もうちょっと調べてみたい人だ。《公民館(活動)は日本国憲法の贈り物》公民館は、もちろん戦後、民主主義の拠点として生まれ、公民館活動は民主主義を育てるための拠点となったことは周知のこと。当時の文部省は1946年7月5日に「公民館の設置・運営について」、地方長官に通達を出している。長野県はその2か月後の9月9日に「町村公民館の設置並びにに運営について」として設置命令を村長あてに通達している。早いですね。もっとすごいことがあります。国は1949年に「社会教育法」を制定しているけれど、なんと長野県は2年も前の1947年に「長野県社会教育計画」を出し、『本県は新憲法精神の普及徹底を社会教育の根幹の方針として…その振興を期するものとする』という方針を打ち出しているんです。しかも同年4月17日に長野県教育部長の名で各地方事務所長・村長・学校長に対し「新憲法施行記念事業の実施について」という通知で「新憲法施行記念公民館の設置」「公民館設備の充実」「記念造林の建設」「道路標の建設」を指示してるんですよ。昭和23年の公民館数は長野県は全国1位、昭和58年の調査でも1位は長野県なんだそうです。戦後の歩みが、現在の長野県の公民館活動(形骸化している面もあるけれど)を形作ったと言えるんでしょうね。公民館の原点を学び、いささか興奮して帰ってきた私ですが、ここでまとめをしているうちに、いつもの如く、忘れていたり、わからないことが出てきたりで、まいっています。いやまあ、とえあえず、以上、学習会より。この小川村では最初の公民館は、行政でなく、村民有志の寄付を募って建設されているんだそうです。当然公民館活動も行政の力を借りずに独自に進められ、行政からは煙たがられたりしたことも多かったようです。我が山岳会の大先輩のKさんなんかもその一人です。いつから、どうして、公民館は行政の中に組み込まれてしまったんでしょうか。これもきちんと勉強していない私には、大きな疑問です。公民館の主事が行政の一つの係として数年で交代してしまうようでは、やはり本当の民主的活動はできにくいと思います。それどころか、今、この村では、経費削減で公民館に専門主事さえいなくなりました。えっ、もしかしてこれって、住民活動の減少をねらって?今、活動している「癒しの郷」が、これに当たるのでしょうか????代わることができるのでしょうか?????
2006年01月26日
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夕べの星の清冽さに脱帽し、今朝の朝焼けにつきあうことにした。午前6時40分、青いグレーの中で鹿島槍はまだ眠っているがごとく… 南の空もまだ眠り…6時50分 東の空の朱が強くなってきたもうちょっと、もうちょっとだよ。鹿島槍が染まり始めるのはほらねっこんな鹿島槍を見た一日は、きっと、きっといい日になるよッ・・・・と思ったら、いそがし~い一日になっちゃったァ今夜の星も冴え渡ってる…明朝もまた歓喜と寒気に身を震わせて朝焼けを見るのかなあ。
2006年01月25日
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義父の入院や諸々のことで、なかなか日記を書く気になれません。22日、23日、野暮用で京都へとんぼ帰りをしました。中央線-新幹線-JR奈良線列車の旅、行きは青ガラスといっしょ、帰りは一人。新幹線は混んでいたけれど、中央線はがら空状態。信州へ来る人は、なんでこんなに少ないんでしょうねえ。これじゃあ、赤字県になるのも無理はない。23日の朝、起きてみてびっくり。雪がうっすら積もっています。青ガラスが出勤したあとは、吹雪状態で、部屋から見えるみかんの木にも雪が積もり、さらに強風が雪を伴って吹き付けていました。おーっ、京都も降るじゃない。いいぞ、いいぞ、もっと降ってーッ。雪は全国に平等に分け与えなければいけないわよ、神様。(この朝、実家は積雪30センチを越したと、母が嘆いていた)このとき、金閣寺の雪景色を思い浮かべるには至らず、残念至極。青ガラスの部屋にあった御香宮の「厄除け」祈願の品々を見て、胸が痛かった。以前、松尾神社へ成人祈願(こんなのあったっけ?)に親子3人で行ったとき、頭から受け付けなかった青ガラスなのに…神頼みするほど悩んでいたのか…って思ったら、涙が出てきた。でも、親はなんにも助けてあげられないんだよね。話を聞くぐらいしか…。帰り際、私も御香宮に参拝して、よーくよーくお願いしてきた。
2006年01月24日
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義父の手術は無事終了しました。手術といっても、普通の人にとっては30分位でできる、まあ「処置」に近いものです。年が明けてから黄疸がひどくなり、原因は肝臓から胆汁を出す胆管が完全に塞がってしまったからです。塞がった胆管の上に細管を挿し、体外へ胆汁を排泄する処置。成人なら息を15秒くらい止めていてもらい、その間に挿すのだそうですが、義父の場合、それができません。全身麻酔をかけて人工的に呼吸を止め処置するので、自発呼吸が戻らない可能性もあるし、管を挿すことにより想定外の症状が起こるかもしれないので、その時は処置はせずに中止すると、医師に言われていました。病室から出て約1時間半。やはり長くかかりましたが、管を体につけるのは成功。真黄色な胆汁が流れ出してきました。黄疸が消えるには2~3週間かかるという説明でしたが、気のせいか、もう顔色が良くなったような気がしましたよ。これで義父は3度、死線を越えたことになります。(戦時中を入れると4度かな?)いずれも、医師に言わせると「このケースで立ち直ったのは、私にとっても初めてのケースです」。この世代の人は基礎的な体力があり、内蔵も強いと言われますが、うちの義父もまさにその典型なのでしょう。86.2歳。がんばっている義父です。
2006年01月21日
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先日、松本に行った帰り、御宝田に寄る。白鳥や鴨たち、冬鳥の越冬地。高瀬川になるのかな?鴨は何種類もうじゃうじゃ(ごめん!)いるし、コハクチョウは約3000羽(ここだけでなく、近くの犀川水系なども入れて)いるという。人の足音を聞きつけると、鴨たちはゆっさゆっさと体を揺すって川からあがり、近寄ってる。この写真は、餌をくれるおじいさんが食パンの耳の入ったバケツから、餌をまいたときの様子。さすがコハクチョウは気品があるわ。・・・・おじいさんが、鴨の頭上越しにコハクチョウの方に餌をなげると・・ええ~っ!同じか…、生きることは難しいもんね。でも、コハクチョウには、こんな姿が似合っている。(まだ北帰行ではありません)「人間の勝手で決めつけないでよッ!」とコハクチョウは怒っているかも。義父、再入院。届けたお昼を義母が食べている間に、義父といっぱい話をした(つもり)。明日、手術。
2006年01月19日
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昨夜、母と電話でおしゃべり。雪の話、杖の話、法事の話、等々、諸々青ガラスの話が出て「いろいろ悩んでるみたいだけど、情報不足でいまいちはっきりとわからないんだよね。 でもさ、自分もあの年齢の頃は、あんまり話さなかったし、相談なんかしなかったもんね」と言ったら、「そうだねえ。だけど、父ちゃんには聞いていたことあったよ」「えっ、ほんと? どんなこと聞いてた?」「『校長先生に何か話しても、返事が返ってこないんだけど、上司ってみんなあんなものなの』というような事聞いてたよ。父ちゃんが、どういう返事をしたかや、そのあとどんなふうに話が続いたかは覚えていないけど」自分ではすっかり忘れているけれど、そんなこともあったのか…もしかしたら、そんなちっちゃな事も、親孝行の一つになっていたのかもしれないな…今、親になったから、私はそう思っちゃう。もっとも、毎日いっしょに暮らしているからできた会話であるかもしれないけどね。まあ、悩む時には悩むさ…バイタリティーもエネルギーもたくさん持っているんだから、なんとか切り開いていくだろうさ…
2006年01月17日
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今年の寒さで諏訪湖は「御神渡り」が確認されて、今年は良い兆しがあるという見立てだったそうですが、よもやその氷の下に、行方不明になっていた龍桜君がいようとは想像すらしなかったでしょうね。心底無念の思いです。合掌*****************さて、我が社裏のお馴染み「土尻川-どじりがわ」も、御神渡りこそ出ませんでしたが、全面結氷しました。但し、会社裏のみの話ではありますが…2005年12月31日ずいぶん狭くなったなあと感じ始め、それでは記録してみようと。2006年1月1日1月4日こんな様子も見られましたよ。1月6日1月7日この日の中央部分は約50センチ。そろそろくっつきますねー。川岸に近いところは、人が乗っても大丈夫じゃないかと。1月10日まだ中央が黒く見えていますが、実際は、ここも薄皮が張ったように氷が張っています。全面結氷第1日めです。1月11日前夜の降雪で、薄皮も雪で埋りました。写真の右下の黒い部分も、薄い氷が張っており、その下に流れが見えていました。この状態がしばらく続きましたが…1月15日昨日から降り続いた雨で、15日の朝、川を見てびっくり。前日までの氷も雪も全く姿を消し、梅雨時のような濁流が流れていました。ここがまたあの細い川になる可能性はあるのだろうか…いや、もう氷らなくていいよなー。このまま春の雪解け水へとつながって欲しいけど…甘いな、まだっ。
2006年01月16日
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14日の日記から見てください。全3部作(14日、15日2つ)《16時30分》終了!!!!思わず、笑顔全開です。そういえば、私はマイクに向かって口を開いていたとき、いったいどんな表情してたのかなあ?シンポ参加者と「アルプス紀行」参加者が残って、ステージ上で記念撮影。いつもならこそこそと後ろの方に並ぶのに、今回は、最前列です。《16時50分》「アルプス紀行」修了式。1人ひとり修了証を頂きました。私は第3回欠席なんだけど、いいのかなあ。所長の挨拶の中で「アルプス紀行の最後は毎年今回のように防災というテーマのシンポジウムになっています。今年で8回めになりますが、昨年は学者や研究者の方の講演をいただきました。そのとき、自助・公助・共助という宿題が今年に持ち越され、より住民側から考えるを大切にして今年の中味になりました。アルプス紀行受講者からパネリストとして参加していただいたのも初の試みです。○さん、ありがとうございました。」と言っていただきました。多分に社交辞令でお世辞であるにせよ、私はとってもうれしかったです。それからもう一つうれしいことがありました。私の前に座っていた女性が、「大変でしたね」と声をかけてくれたこと。ステージにあがったことが大変だったのか、介護のことが大変だったのか…後者でした。全く1人で参加した私は、この「アルプス紀行」で、同じような趣味や考え方を持つ方と友達になれたらいいなーと思っていたのです、実は。けれど、ほとんどが友達や夫婦で参加されていて、あえて知らない人と親しくする必要はなかったのかもしれませんね。各回ごとに言葉は交わしたけれど、友達に~というチャンスは生まれませんでした。でもね、その声をかけてくださったYさんとは、介護の話をしたり(彼女のお父さんは施設に入所。お昼の食事介助に行ってあわてて出席したとか)、第3回の梓川流域の話をしたり、また、共に「友の会」(「アルプス紀行」修了者の有志で結成している)に入会したりで、もしかしたら……。砂防のTシャツを記念に頂いて帰路に着いたのは17時。松本は土砂降りでした。《おまけ》車の中から、さて、このゆったりした気持で誰に電話しようかな…やっぱりお父でした。前日、仕事をほおって、パソコンに向かってあれこれ調べたり、原稿を書いたりしていた私でしたが、文句を一言も言わなかったんですよ。日記に「やだーっ」て書いた日に、八つ当たりで言いました。「もうっ!お父のせいだよ。お父があのときやってみろなんて言わなかったら、私は気楽に修了式だけ出られたのにィ」 19時半、夕飯時「参加して良かっただろ」「うん」************************砂防事務所の方々、もしこのブログを見ていらっしゃったら…いろいろサポートしていただき、本当にありがとうございました。浅学非才(この言葉、大嫌いだったのですが、今回のシンポに関しては、ずぶの素人の私は正にこの言葉が当たっています)の身で、受けてしまった時からもちろん本人も心配しましたが、事務所の方々もかなり心配されたのではないかと思います。2人のパネリストは何を言うべきかは自他ともに理解できていたと思いますが、私に関してはどんな風になるか冷汗ものだったのではないかと。「住民としてですから、難しいことや専門的なことはいいんですよ」ということば。一介の住民である私に対しても、他の専門家に対する処遇と同じようにしていただいたこと。感謝します。再度、ありがとうございました。
2006年01月15日
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《13時》開演。私の出番は15時25分からの1時間。それまでは、客席中央に設定された出演者の席で、「居心地悪いなー」と思いながら、いやに大きく感じる自分の心音と共に傍聴しました。《15時》休憩とともに、ステージの横に移動してスタンバイ。小学生の発表はそこで聞きましたが、集中して聞けず、ごめんなさい。女の子が1人、具合が悪くなったと先生に抱えられて上手に入ってきました。緊張感とライトの熱なのでしょうか…。発表を終えて帰ってきた小学生たちは、いずれも大きなため息や「終ったー」というつぶやきを残して舞台裏から消えていきました。拍手でお見送り。ディレクターから「時間が押しているので、一部カットします」という指示が出て…ステージに私を先頭にして入りました。もう、こうなればまな板の鯉です。失敗も下手さもすべて財産にはなるはずだからと…開きなおりの得意なおばちゃん族の1人です、私も。全体を通して私が発言した主なことは1 大雪での災害体験昨年末のクリスマスイブの停電の体験。全て電気に頼っていた義父の介護状況と、繰り返し流れた「復旧の目処はたっていません」という放送と、復旧の目処は立っていないけれど「どこどこまで復旧したよ」という看護師の情報と。4時間の停電の中で、リアルタイムな情報がどれだけ当事者たちの精神的支えになるかということを、自分の体験や1人暮らし老人の立場から話しました。2 防災に関心をもったきっかけ○義父を自宅介護することになった時から、実際にどうやって避難したらいいのかを考えて。○「アルプス紀行」で、大地が動く理論を学び、その現場を見て、どこで災害が起きても不思議はないという大きな衝撃があったこと3 情報の共有について○リアルタイムな情報が比較的少ないのに比べ、防災一般に関しては膨大な量の情報が、国・県・村、あらゆる所から発信されている。その膨大な情報を、私たち住民が取捨選択し、分析・理解して自分の生活の中に取り入れていくことはとても難しい。情報を発信したから防災に関する知識は住民に伝わったということでなく(実際に「○○について知らない」「いや、広報に載せてある」という会話は私の身近な周辺でもよく耳にする)、情報を行政と住民、または地域住民独自に学習する必要があり、その手助けはやはり行政の役目だと思う。○実際に災害があったとき(例、2004年の国道19号安庭での道路崩壊)、大量の車が県道に集中。さらに県道や村道が崩れ、地元住民は細い迂回路を利用し、そのあとをよその車がついていくという危険な例もあり、行政の情報と住民の持っている情報とをうまくミックスして、迅速に伝えるには。4 感想など防災についても、つまるところは、「地域づくり」に含まれると思う。今、私の村でも合併問題を経て「地域づくり」に焦点をあてて、いろいろな動きが出てきているところ。今回、ここへ出るはめになって、いろいろ勉強させていただいたことを、その中で生かしていくことができたらと思っている。とまあ、こういうことを話したつもりなのですが、今思い出してみると、はしょってしまったところも多々あり、聞いていた方にはどう伝わったかは、全く把握できないのです(とほほ)。1と2は体験ですから、悩むところではなかったのですが、問題は3でした。苦労して、こういう結論に達したのに、なんと松本市では私が言った情報提供のあとの学習支援とか行動支援とかは、すでに綿密に実践されているのです。まあ松本市は防災についての先進地だからということで、一般行政への要望として変更せずに発言しましたよ。4は、住民の1人として参加して私は、こういうしかないですもんね。でも、実際、今後関心を持って・見て・学んで・動きたい分野ではあります。3人の異なる立場のパネリストの話は、いくらかずつずれ、ぴったりとした絡みにはならなかったような気もします(私だけがおかしなことを言ってたのかなァ)が、今回の最終的な結論の一つは「住民と行政との間をつなぐ力」の一つとして「ボランティア」の力を強調したかったのだと思うので、そのずれがあったからこそ良かったのかもしれません。一番私が記憶しておきたいことは、パネリストの1人、松本市防災課課長補佐が言われた「減災」ということ。「災害は必ず起きる。しかし被害を最小限に食い止めることはできるはず」。地球の動きの前では人は無力に近いけど、砂防のように対処的に被害を食い止めることもできるし、起きてしまったあと私たちの行動しだいで命の被害を食い止めることもできる…そういうことですよね。本質的には単純で素直な私は、今回、砂防事務所の「アルプス紀行」にどっぷり浸かって、こよなく良い理解者になりました。
2006年01月15日
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やっとやっと終りました。うまくできたか否かはともかく、昨年末から続いた緊張感と束縛感と脅迫観念が昨日でなくなり、肩が軽くなって、今朝は大寝坊をしました(関係ないか 笑)。ここに書くにはまだまだ私の中でごちゃまぜになっているところが多く、詳細はいずれ小だしに…ということになりますが、とりあえず、昨日1日を時間の経過に沿って書くことから始めます。《朝9時》雨降りの中、今回は美麻ー大町ー池田ー豊科ー松本のルートを通る。美麻、大町あたりでは山側から大きな雪ブロックが落ちていたり、亀裂が入っていたりで、雪崩れの恐怖を感じながら走りました。会場は、松本市にある「まつもと市民芸術館」の小ホール。確か昨年落成したばかりで、一部市民が別に文化ホールがあるから不必要を称えて反対運動をした建物じゃなかったかなあ。小ホールは300席くらいの、ステージと客席が近く、こんなのが欲しいなあと思うすてきなホールでした。おっと、その前に控室へ案内されました(出演者はもうVIP並)。一瞬、ぎょっ!色がなかったのです。ほとんどが黒、濃紺、濃グレーのスーツ姿。スタッフの女性もそうなのです。という私も、明るいグレーとあとは黒でしたので、同じなんだけど。昨夜迷った黒の上下とオレンジのシャツという服装を選ばなくて良かったかなーなんて。結局、パネルディスカッションでは、白いスーツを来たコーディネーターの久保田祥江さん(SBCアナウンサー)が一番目立つ色合いでした。ちなみに、テレビでしかお会いしたことのなかった久保田さん、ちょっと小柄で、知性的な美人でした。今日のイベントは「防災とボランティアの日」シンポジウム 住民ができること、行政ができること。共助の心私が昨年から受講している開放講座「アルプス紀行」の最終講も兼ねています。《11時》今日のシンポ参加者が一堂に会し、紹介とこれからの予定説明。主催の国土交通省北陸地方整備局松本砂防事務所所長以下スタップ舞台責任者(全体進行や機材、視聴覚関係など)総合司会手話通訳4人要約筆記1人(これ、私、今回初めて知りました)講演者 「災害が起きて」自衛隊 「自助の立場から」05年7月1?発生の沢渡土砂災害被災者 「共助の立場から」県ボランティア地域活動センター 「公助の立場から」県松本建設事務所パネルディスカッション関係 ディレクター(SBC) コーディネーター(SBC) コメンテーター(砂防事務所所長) パネリスト(自助の立場から…住民…即ち私です) (共助の立場から…県ボランティア地域活動センター) (公助の立場から…松本市総務部総合防災課)服装の色でもわかるように、もう固くて固くて、普通のおばちゃんの私はやっぱり場違いだったかなーなどと、しきりに感じていたのです。 説明のあと、ホールに行って全体を通してリハーサルが行われました。 そこでは、大切なもう一つの出演者がすでにリハーサルをしていました。南小谷小学校4年生、15人。 「小さな子どもたちの発表会 ~7.7.11姫川災害あれから10年、これから100年~」 この子たちは平成7年のあの姫川周辺を襲った豪雨災害の年に生まれた子どもたちだそうです。学校の総合学習で、砂防事務所の協力を得て当時のことやその後の砂防について勉強してきたんだそうです。南小谷小学校は今年度で廃校とのこと。1学年に15人もいるのに何故廃校になるのか、担任の先生にお聞きしたかったなあ。もうみーんな緊張しきった面持ちで並んでいました。中には気分が悪くなって座り込む子どもたちも。実際には、賑やかに声をあげながら元気に勉強していただろうに。そんな雰囲気が出る発表になるようがんばってと、心の中でエールを送ったけれど。
2006年01月14日
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昼をはさんで松本へ。防災シンポジウムの打ち合わせです。昨日の日記にいただいた応援コメントをプリントアウトして、お守り代わりに持って行きました。何とかいけるかな…山を見るとすぐに幸せ気分になれる私だから。実際に災害に遭遇したら…をベースにもうちょっと考えて、あとは本番に強いというおばちゃんの特性にかけましょうか…************家を出るときは、どんより曇り、途中では粉雪が舞う状況でしたが、豊科あたりからアルプスが雲の間から姿を見せてきました。真白な姿が真白な雲の間から。常念岳がなんとも言えずきれいでした。(これは帰りに撮ったもの)「常念坊」の異名を持つこの山は、夏見ると、袈裟を身にまとった修行僧に見えるということですが、この時期に見ると、白いドレスの貴婦人といった感じです。常念岳の左肩が雲に隠れるあたりに、槍ヶ岳の穂先が見えているんですが、わかりますか。松本市でも槍ヶ岳が見えるのは、山辺の方まであがらないと見えません。山辺ですから、手前の棚はぶどう棚。ワインの名所です。**********************松本からの帰り道、19号線を走って(行きは高速を飛ばしましたよ)、生坂村を過ぎたあたりから、妙な感触がありました。「大町市八坂」…ん?ここ、大町だっけ?んん? 大町市に八坂なんてあったっけ?ああ、八坂村だ、ここは。合併したんだっけね、昨年暮れに。そしてその次に出てきた表示は「長野市大岡」。大岡村が長野市に合併して、ここで大町市と長野市は隣接。いやいや、私の村も美麻村が大町市と合併したから、大町市と隣接していることになる。大町市ってアルプスの麓の町で、我が村からは長野市よりも遠いというイメージがあったが、決してそうじゃないんだよね。で、トイレ休憩で寄った元大岡村の地場産で、またまた違和感が…。入口に「エコール・ド・松代」の大きな藍染めのれんが張られていたのだ。エコール・ド・松代(中央の門の中に下がっているのれん)これにはびっくり。確かに長野市に合併はしたけれど、なにも松代から遠く離れたこの大岡の地で、エコール・ド・松代をPRしなくてもいいのではないかと。自主的なのか、指示なのかはわからないけれど、松代をPRするよりは、大岡を知ってもらう術を考えた方がいいんじゃないのか。大岡村の地場産として運営していた頃よりも、今日見た長野市大岡の地場産は、はっきりと活気がなかった。季節、時間帯のせいはあるにせよ。これも合併の一つの結果なのだとしたら、あまりにも寂しい現実だと思ってしまう。
2006年01月12日
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日記の書き込みができません。いろいろと調べたり、話し下手の私が、どうしたら自分の思うことを伝えられるか、いや、そもそも私の思っていることってあるのだろうか…それで悩み、苦しみ、楽しんで(これはウソです。単なる負け惜しみです)います。今週末、「アルプス紀行」でお世話になった松本砂防事務所等の主催で行われる「『防災とボランティアの日』シンポジウム」というイベントがあります。これが「アルプス紀行」第4回(最終講)で、修了証が頂けます。(但し、私はもっとも行きたかった第3回「梓川流域」の講座日程が変更になったため、高瀬行と重なり参加できず。したがって日記にも2回分しか載せてありませんが)《アルプス紀行第1回の1》《アルプス紀行第1回の2》《アルプス紀行第1回の3》《アルプス紀行第2回》そのシンポジウムの中のパネルディスカッション(テーマは「共助の心。住民ができること、行政ができること」)でパネリストの一人として出ることになってしまったのです。あー、何の因果でしょうか…第1回アルプス紀行について書いた私のブログを、関係するどなたかがご覧になって、依頼が迷い込んできたようです(正しく「迷い込む」ですよ)。第1回めは、ほんとに目からウロコの連続で、自分でも力を入れて書いた記憶はあるのですが。依頼があったとき、迷っていた私にお父が言ったのです。「やってみれば。勉強になるぞー」それを素直に信じてしまった私は、なんて単純おばか。もちろん、パネリストと格好の良い名称がついていても、私の場合は、専門的知識云々ではなく、むしろ防災とかボランティアとかの素人として教えて頂いたり、わからないことを聞くと言う立場でいいのです。だけど、だけど…です。「砂防」についてやっと興味を覚えたばかりなのに、さらに「防災」…もう、何を質問していいか、それがわからない状態なんですよね。かてて加えて、主催の一つは松本市。私の住むO村は長野広域ですから、やっぱり地域性の違いもあるのかなー…。で、明日がその第2回の打ち合わせなのです。(先日の名刺交換会は、実はこの第1回めの打ち合わせの模様)自分の話すべき内容をどうするか、ずーっとひっかかっていて、日記も難渋しています。でもね、当日何を話すか悩んでいても、興味を覚えることもたくさん出てきています。(ここが私のしっちゃかめっちゃかな所。転んでもただでは起きない?)やっぱり自分の村の防災を知らなきゃとばかり、 役場のFさんやSさんに、忙しい時間を割いていただいて現状を教えてもらいました。(忙しいのにホントにありがとねー)詳細は今日は書きませんが、私っていかに今まで知らなかったか、再認識。役場って「情報の宝箱」ですよ。またまた脱線方向に行きそうです。さて、明日の打ち合わせの準備をやんなきゃいけないよなー。
2006年01月11日
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さてさて恐怖で真っ青になった私でしたが、高速に乗ってからは一人、悦に入って…南の乗鞍から、北の乗鞍までくっきりとつながって見えるんですよ。しかも「やり」が4つ。♪大槍、小槍、鹿島槍、もひとつおまけに白馬鑓♪なんて、勝手にメロディーをつけて、中野ICから長野ICまで走りました。この景色、いいですよー。晴れた日は、ぜひこの区間は高速に乗ってみてください。(脇見運転のお勧めになっちゃうかな)
2006年01月09日
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8日、実家に行き、またまた雪かたづけをして参りました。あっちでもこっちでも、青空の下で、屋根の雪おろしをやっていました。命綱をつけている人、いない人。テレビで放映される飯山や栄村ほどではないにせよ、それでも1m近くの雪が縞模様になって屋根からずり落ちようとしています。我が実家は、元旦に降ろしてもらっているから、今回は先の方だけつついて落としました。大屋根は母と相談して、また土建屋さんのプロに頼むことにしました。昼前、ヘリコプターが2台、栄村方面に飛んでいきました。医療チームを載せたヘリ「アルプス」です。今回は、張り切って、畑に埋めてある大根の所までの雪かきもしました。元旦にも道をつけたのですが、両側の雪に押されてなんとなく跡があるなー程度になっていたので、どんなに降っても押されないように、1m以上の幅に広げました。屋根から落とした雪も積もっていて、固かったー。大根に行き着くまで、距離3m、雪の深さ1.5mを掘り進みました。やっとやっと大根3本と人参2本、ごぼうを少々掘り出すことに成功!実は8日の夕方、一度挑戦したけれど、大根の埋っているところの目印が雪のせいで移動していたらしく、大根は見つからなかったのです。いやあ、おいしい大根を食べられるのはいいけど、手首、腰、腕、全て痛くなりました。温泉に浸かっても筋肉痛はなおりません。ああー、年齢だな~~******************さてタイトルの中味に入ります。実家から中野市を抜けて帰る途中。信号が青になったので、私は3台めで発進。下り坂です。私の前の前の車が、スピンしたんです。ちょうど横断橋の下だったので、壁に衝突して180度回転し、走行車線を戻って来ました。キャーッ!咄嗟にブレーキを踏みましたが、強く踏み過ぎると、私の車もスピンしちゃう。ぶつかる、ぶつかる!前の車はブレーキを踏みながら右車線に半分ほど入りました。私の車は今にも前の車にぶつかりそうです。行き場がなくなったので、多分、壁の方にハンドルを切ったと思います。壁にぶつかる前に、ようやくスピンした車の1mほど手前で止まりました。良かったースピンした車は、ライトがぶらさがり…でも、信号から発進したばかりだったせいか、スピードもあまり出ていなく、中の女性とおじいさんは無事のようで、そのまま反対車線に出て戻っていってしまいました。それからの運転は、足が震えて震えて…すぐ側にあったユニクロなんぞの駐車場に入り、しばらく気持を静めて帰りました。恐かったなー…でも、このことは母には伝えないでおこう。「もう来なくていいから」って言われそうだもん。
2006年01月09日
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7日、この大雪の中、第4作「炎のゴブレット」の映画を見に行ってきました。友人の5年生の娘さんと、年末から行く約束をしていました。彼女の冬休みが終ってしまう前にと。1人では行きにくいおばちゃんの、引率を彼女にお願いしたというわけです。最初の方の画面は展開が早すぎて、目が回るような感じがしましたが、まあ、慣れるにしたがって、どっぷりと入り込むことはできました。ずいぶん大人になった3人組がいました。この3人組や魔法学校の先生たちの映画によるイメージは、頭の中にしっかりと定着し、本を読んでも、そのイメージが本の中で活躍します。今回、ハーマイオニーのドレス姿がとてもきれいで、印象に残りました。思春期を迎えるんですね、彼、彼女らは。ポッターの周辺で、親しい人が亡くなったのは今回は初めてじゃないかなあ。第5作(映画はまだ)では、ポッターが慕うシリウスが亡くなるんですよね。シリウスが亡くなる場面では、ポッターの落ち込む気持が伝わって、私も苦しかった。作者はなんでこんなひどい展開をするのかなーって。そして、今年第6作が発行されます。1作からだんだんと「あの人」との闘いがエスカレートしてきて、凄惨な場面が増えてきているのは、物語りの展開上、仕方のないことなのでしょうか…
2006年01月08日
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4日から鹿島槍ヶ岳の冬期小屋(多分冷池小屋)で3人パーティーが救助を待っている。1人が軽い凍傷になり下山できず、救助要請を出した。食糧も少なくなっているという。40代から60代の3人。12月31日に入山し、3日下山の予定。もう1週間だ。昨日は雪でヘリは飛べず、今日は飛べるだろうなと思っていたが、この村からは確認できなかった。長野からヘリが出るとここの上空を飛ぶからわかるんだけど。朝、期待して見た鹿島槍(午前7時)山頂付近は雪雲に覆われているが、小屋のある辺は見えている。ヘリ、飛べるよね…正午の鹿島槍。雲はなくなっている。でも空は全体にぼやけ、稜線の向こう側から雲が出ているような…それにしても、朝の状態に比べ、雪が落ちたように見える。光の加減もあるだろうけど、結構雪崩れているんだろうか。夕方まで、ヘリの音は聞こえず。松本か大町から飛んだのならうれしいけど。どうぞ、救助されていますように…どうぞ、家族のもとに無事帰ることができますように…(追記)今朝の新聞によると、無事救助されました。昨日午前中に、民間のヘリで3人無事救出。民間ヘリですと、この上空は飛びません。県警の山岳救助ヘリ「やまびこ」だと多分飛ぶのでしょう。豪雪でなければ、マスコミ取材のヘリも飛んだのでしょうが、山よりも生活空間の中の豪雪取材の方が大切ですからね。でも良かった、良かった。
2006年01月06日
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青ガラスが帰っていきました。寂しいです。いればいたで腹の立つこともあるんだけどさ。親子ってそういうもんかもしれないですね。永遠に、そして連綿と。私も両親にそういう思いをさせてきたのです、確実に。ずいぶん大人になったと感じました。以前なら雪が降ろうが関係なしと朝寝をしていたのに、今回の帰郷では、ちゃんと起きていっしょにかたづけてくれました。(そのあと、また寝てたんだけど…苦笑)昨日の午後、松代に行ったことは昨日の日記に書きました。実はそのとき、お父が言ったのです、私に。「お母、せっかく青ガラスが帰ってきているんだから、家にいろや」で、私は「青ガラスが帰ってきたからといって、四六時中家にいる必要はないでしょう。 青ガラスだって、そんなの望んでいないと思うよ。 特に今日は地下壕に入るスタートの日だもん。 私のライフワークだもーん」と言って出掛けました。24才になった息子ですよ。いくら年に数回の帰省の最中とはいえ、私にだってやりたい事はあるんです。青が病気で臥せっているとかなら、それはもう側に居るけれど。そういう私を、お父は「お母は冷てえなあ」と言います。ええ、ええ、私は冷たい人間なんです。なんせ若い頃、山の先輩Yさんの奥さんから「緑の血が流れている」と言われたくらいですから。でも、べたべたが優しいとは言えないでしょッ。どうも我が家の家風はそうなんですよね…で、その夜、私も言ってやりました。「お父、せっかく青ガラスが帰っているんだから、お酒飲むのやめたら?!」返事はなく、当然の如くコップを傾けていましたよ。青ガラスはアルコール類はあまり好きではないようです。駅まで送ったときにお昼を食べ、私がいちごパフェなんぞを食べたそうにしていると「お母、食べれば」「青ガラスは?」「いらねえ」「もう、こういうのより、ビールの方がいい?」「まだまだ…、まだこういうの(いちごパフェ)の方がいいわー」てな会話をしたくらいです。かくして、青ガラスは、中学時代の友人たちと3晩遊び、雪おろしを手伝い、雪かたづけをして、「サンキュー」という言葉を残して駅舎に入っていきました。
2006年01月05日
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1月4日、恒例となっている松代大本営地下壕に行く。壕も年末年始のお休みを終え、今日からまた見学者を受け入れている。壕に着いたのは3時少し前。閉壕まであと1時間だ。Sさんも先に来ていて、管理人さんといっしょに雪かきをしていた。入口付近に雪かきの雪が山のようになっている写真を撮りたかったのだが、きれいに片付けられていて…やっぱり午前中に来れば良かったなあ。(寝坊は3文の損! 寝坊+雪かたづけ+車を掘り出すのに時間がかかったのだ、実は。)6日間に天井や側壁から落ちたと思われる中&小石が目立つ。普段は毎日入っている見学者が踏んだり蹴ったりして隅に追いやられてしまうのか、あまり気づかないけれど、毎年この初日には壕が変化していることを突き付けられるような気がする。壕だって60年もすれば、やっぱり老化は進むのだから。落石の他に、岩壁から水の滴り落ちている所もあるし、また、地震のときの液状化現象みたいに岩肌がセメント状になっている所もある。Sさんに教えていただきながら見ていくのだが、やっぱりやっぱり早急の調査が必要だと思う。早く文化庁の遺跡指定が決まると、何らかの動きも出てくるだろうに。今日は時間が遅かったせいか、壕内で出会った見学者は2人。共に若い人たちで、1人はSさんといっしょにロ号地下壕まで行った。もう1人は、山寺常山邸を見学するからと、そこで別れる。地下壕内の写真は、トップページと昨年の同日のブログを見てください。2005年1月4日の初入壕今回は遠望と入口の写真です。左から右に延びている山が象山です。これは「賢所」(2005年11月12日「わっ、賢所」)の予定だった場所から撮ったものです。山の向こうが清野、こちら側が西条、その2地区の両方から掘り進んだ地下壕が、この山の中に縦坑が20m間隔に20本、それらをつなぐ横坑が50mごとに掘られています。総延長は約5900メートル。政府・日本放送協会・中央電話局が入る予定でした。現在見学できるのは、そのうち片道500m。この500mの中にも、当時の戦争の狂気と、翻弄された人達の悲しみが、たくさん残されています。右の先端を向こう側に少し回りこんだ所に象山地下壕(イ号)入口があります。ここが象山地下壕の入口です。奥の灯りが見えますか。中に進むと、横4メートル、最頂部まで2.7メートル、肩まで2メートルのかまぼこ型のトンネルが続きます。同じく「賢所」の予定地から撮った舞鶴山の天皇の地上御座所の遠望です。(赤丸がしてある建物)左側に見える赤い屋根の建物は、仮御座所です。天皇と皇后の地下御殿の完成が遅れたときのために作られました。現在は宗教法人が「敬愛学園」として、親と暮らせない子供達を引き取って生活している場所です。もっと東から見ると、天皇御座所、皇后御座所、宮内省、仮御座所、大本営地下壕(大坑道)などが連なって見えます。山裾にはりついて隠れるように立っている地上御座所……今回、大雪のときに来て見て、改めて「こんな所まで来ても本土決戦をやりたかったのかなー」と、狂気と哀れすら覚えました。「賢所」から見ると、天皇御座所も足元に見えます。そうです、「三種の神器」を祀る場所である「賢所」は、天皇よりもずっとずっと上位なんですね。舞鶴山に掘られた大本営地下壕の入口です。天皇御座所から最下位の位置にあります。この壕の総延長は約2600m。ここで、本土決戦の作戦を練ったり指揮をする予定だったのです。現在は、気象庁地震観測室の計器が設置され、年に1回見学者を受け入れています。***********再び戦争への道を進んでいると思えるような今、60年前の戦争遺跡が私達に語りかけているものは、とてもたくさんあります。一人でも多くの人に知っていただきたい壕です。
2006年01月04日
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新年おめでとうございます。のぞきに来てくださる方、コメントを書いてくださる方、本当にありがとうございます。全国、もとい、地球のあちこちに、世代も性別も考え方も違っているのに、友人がたくさんできました。少し前までは想像もつかないような結び着きなのにいろんな力を頂ける…ちょっぴり、私のスケールも広がったかなって思います。しかも、何人かの方にはお会いすることもできました。うれしい限りです。今年も、昨年以上によろしくお願い致します。********************************朝からとても穏やかな日和になりました。曇った水色(?)の空に、ぼんやりと鹿島槍ヶ岳が浮かび、風もなく、もちろん雪も降らず…1年の計は元旦にあり…穏やかな年になるのでしょうか…私には嵐の前の静けさ…そんな感じがしてるんですけど…夕方も、西から南の空がきれいな茜色に染まりました。いやあ、家にいたとしたら、カメラを持って写真を撮りにいかなければ気が済まなかった程のきれいな夕焼けでした。残念ながら、私は実家で、カメラなしで見つめていました。********************************穏やかな天気とは逆に、私は朝からハラハラ、イライラでした。えっ、1年の計は元旦にあり?また、私は1年、その連続なのかなー?いけない、いけないッ実は午前9時から実家の屋根の雪おろしをするというのに、私と青ガラスが家を出たのが9時10分前なんですよ。長野インターに向かってひたすら走っている途中でメールが入る。雪おろしの主力になるHさんたちが遅れ、私よりさらに30分以上は遅くなる模様。安心したので、高速はやめて一般道路を走る。あー、良かったあ。雪おろし、結局2時間遅れで始まり、2時間30分ほどで終りました。総勢が5人(男3、女2)だったので、結構疲れました。青ガラスも終盤ではかなりへたったようです。年齢が若くても、要領が悪いのか、最後まできちんとやりとげることが苦手なのか(よくやってくれましたよ、彼の名誉のために書いておきますが)、60才のHさんよりも馬力は持続しなかったみたいです。昨年末に一度プロに降ろしておいてもらって、ほんとに良かった。あれがなければ、もしかしたら5人では完了しなかったかもしれないもの。周囲の家々の中で、一番きれいに屋根の雪がなくなりました。ただし、大屋根は危ないのでそのまま…したがって2階の押し入れの戸は開きません。雪おろし終了後はもちろん温泉につかり…やっぱり今日は、いい元旦でした。
2006年01月01日
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