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2月3日、大神神社に参拝しに行ったら、当然、節分祭だった。 神社初心者の私は、そんなことも知らなかったのだが。 節分祭に拝殿の人々ともに参加。 というか、通常の参拝ができないほど、拝殿の周辺は人で一杯なので、終わるまで待つしかなかった。 なぜ境内は人で一杯か? 節分祭の最後に、「豆まき」ならぬ「餅まき」があるからというのが大きな理由だろう。 私もありがたくも紅白餅がビニール袋に入ったのをGET。 このあと、境内社、摂社を参拝。 神宝社、天皇社、成願稲荷神社をまず回る。 少し空いたので御朱印帳を購入し御朱印をいただく。 その後、薬道を通り、狭井神社に参拝。 御神体の三輪山登拝は今回はしなかった。 そして久延彦神社に参拝し、大直禰子神社参拝。 昼食は「とろろめし 山和(やまと)」で伊勢芋の蒲焼焼きの定食。 車で移動し、檜原神社参拝。 その後石上神社を参拝したら、こちらは15時から節分祭だった。 もちろん参加。 こちらは祢宜さんの豆まきだった。 ということで節分祭のハシゴとなった。
2018年02月15日
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初詣に参拝した主な神社。 境内神社、摂社等は記載していないものが多い。 1月某日 ・勝速日神社(正勝吾勝勝速日天忍穂耳命・天御蔭命・素盞鳴命) 1月某日 ・椿大神社(猿田彦大神) ・別宮椿岸神社(天之鈿女命) 1月某日 ・那智御滝飛龍神社(大己貴神) ・熊野那智大社(熊野夫須見大神) 1月某日 ・氷川神社・赤坂(素盞嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命) ・山王日枝神社(大山咋神) ・湯島天満宮(天之手力雄命・菅原道真公 ) ・妙宣山徳大寺(摩利支天) 1月某日 ・神田神社(大己貴命・少彦名命・平将門命) ・烏森神社(倉稲魂命・天鈿女命・瓊々杵尊) 1月某日 ・外宮(豊受大御神) ・内宮(天照大御神) ・荒祭宮(天照大御神荒御魂) ・風日祈宮(級長津彦命・級長戸辺命) ・猿田彦神社(猿田彦大神) ・月讀宮(月読尊) ・倭姫宮(倭姫命) ・伊雑宮(天照大御神御魂) ・月夜見宮(月夜見尊) 1月某日 ・瀧原宮(天照大御神御魂) ・瀧原並宮(天照大御神御魂) ・丹生神社・多気町(埴山姫命) ・神宮寺・丹生大師(弘法大師) 1月某日 ・東京大神宮(天照皇大神・豊受大神) ・花園神社(倉稲魂命・日本武尊・受持神) ・明治神宮(明治天皇・昭憲皇太后)
2018年02月14日
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年末年始は将来の予言が多数、示される。 日本が世界をリードする、ということなら論理的に考えても、その前に「今の世界」の序列、秩序が激変する事態がなければ、そうはならないと考えられる。 【高城剛×三宅洋平】 2040年代に世界は激変し日本が世界を牽引する? 2017.12.21 MAG2NEWS …(略)…高城: でも、それって絶対なにか裏があるよね。 ロックフェラーに限りませんが、そう簡単にお金を払うわけがないから。三宅: 免罪符ってことなのかなぁ。高城: いや、違うなあ。 本当の免罪符なら、表に聞こえてこないでしょう。 地球の破滅に備えているようにも聞こえるね。三宅: 石油からちょっと手を引く的なスタンスは、見せてるじゃないですか。高城: 実はとっくに手を引いてると思うよ。 エネルギーは、分散時代に入っているね。 サウジアラビアも原油安で実質的に財政破綻直前で、IMFにローンを申請したんだよ。 1996年に韓国は同じようにIMFにローンを申請して、翌年に破綻したんだけど、それ以来初めてIMFにローン申請した国家なんだよ、サウジって。三宅: じゃあ、それってどんな裏があるんですか。 あり得るとしたら。 高城: なにをもって裏というのかわからないけど、今のサウジは、かなり問題ある状況なのは確か。 王子同士が内紛して、捕まっている。身内から90兆円を没収したと言われている。 財政破綻に備えて、身内が亡命する前に、捕まえたように見えるね。 その裏には、米国内の旧勢力と新勢力の対立構造があるんだけど、どちらにしろ、原油安が問題。 だからロックフェラーとしても、まっとうなシナリオで考えても石油ビジネスが長くないことは理解してて。 ……というか、もう全く違うエネルギーが出てくるんじゃないかな、そろそろ。三宅: なるほど。 高城: 僕は年に10日ぐらい、全く電気がない所へ行くの。 今年はエチオピアのケニア国境にある、全く電気がない村に行って、空や星みながら、しばらくそこで考えたんですよ。 断食道場ならぬ、断電道場みたいな感じ。 当然、スマホは使えないし、コンピューターも使えない。 何でそういうことしてるのかというと、ここ何年も推奨している「圏外」に行く旅やグランピングの次のオフグリッドの楽しさもあるんだけど、今後、今までの世界が大きく変わるのって、電気がなくなることだと思ってるんだよ、ある日突然ね。 それは短期間かもしれないけど、電気がなくなる理由は、太陽フレアのせいかもしれないし、震災のようなものかもしれないし、電気にとって変わる転換かもしれないし、それは分からない。 でも3.11で、僕らはそれに近いことを経験したわけだ。 世の中はAI化の将来だとか何とか言ってるけど、結局は全部電気で動いてることを、もう一度再認識すると同時に、防災訓練じゃないけど、断電訓練は行った方がいいだろうね。 ―――確かにそうですよね。 高城: AIでも自動運転でも何でもいいんだけど、全部電気が必要なんですよ。 短期間でも、ある日突然電気がなくなってしまう可能性があるし、しかもこれからは、電気が不安定な時代に突入するんです。 その大きな理由のひとつが、世界的な人口増と電気のバランスが、合わなくなるから。 だから、電気をどうやって確保するかは、個々の重要なサバイバル要素の一つで、あわせて電気がなくてもやっていけないとダメなんだよね。 ネットにATMはじめ、電気に依存した移動手段がなくても、1?2週間生き延びないとね。 …(略)… 2040年、2025年前後に団塊の世代が後期高齢者入りして15年。 日本は超高齢化社会から脱皮しようとする時期になるはず。
2018年01月17日
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1999年7の月、アンゴルモアの大王は降ってこなかった。 世界各所で大規模テロが発生し、イスラエルの首都がエルサレムに返り咲いた昨今、世界は大きく不安定化している。 石油の確認埋蔵量も産油国の地位を保証しなくなった。 世界大戦は起きている。 終わりの始まりの引き金を引くのが北朝鮮でないと言い切ることができる者がいるだろうか。 核弾頭を持つICBM(大陸間弾道弾)は危険な引き金だ。 なぜなら、報復攻撃が連鎖するからだ。 佐世保で米国の原子力潜水艦が不気味な動き。 過去最多に並ぶ寄港 2017年12月27日 まぐまぐニュース! アメリカ原子力潜水艦の米海軍佐世保基地への年間寄港回数が過去最高となっており、長崎県内でも大きく報道されています。 この事態、一体何を表しているのでしょうか。 軍事アナリストの小川和久さんが主宰するメルマガ『NEWSを疑え!』では、静岡県立大学グローバル地域センター特任助教の西恭之さんが、米原潜の佐世保寄港の増加が北朝鮮の弾道ミサイル発射の増加に対応したものか検討するための詳細な資料を紹介しています。 米原潜の佐世保寄港が増えている理由 米海軍の原潜は、日本では横須賀基地、佐世保基地、ホワイト・ビーチ地区(沖縄県うるま市)の3か所に寄港している。 原潜の入港数は、横須賀とホワイト・ビーチではとくに増えていないが、佐世保では2012年の12回、13年の11回、14年の9回、15年の14回から、16年は過去最多の24回に増え、17年もすでに24回に上っている。 日本周辺で米海軍の攻撃型原潜が行動する一般的な理由は、 作戦行動が予想される海域に慣れる 北朝鮮その他の国に接近して通信を傍受する トマホーク巡航ミサイルによる対地攻撃能力を各国に示す 甲板にドライデッキ・シェルターを載せている場合、特殊 部隊(SEALs)投入能力を示すことが考えられる。 …(略)… 世界は地球温暖化で暑くなっているのだろうが、政治社会は民族対立と宗教対立などに大国、発展途上国の利権争いが加わり、「ちんちこちん」に熱くなっている。 東アジアは熱くはないが、爆発性の危険を孕んでいる。 何が信管、点火プラグになるかは予測が困難。 火星への移住が計画されるのは、地球の核汚染間近だからだろうか? 今年も核戦争と大地震の危機らしい。 核戦争は間近!!? 死海文書が告げる 2018年の予言が怖すぎる 【北朝鮮】【第3次世界大戦】 北朝鮮が馬鹿みたいにミサイル発射しまくってますね... ヨーロッパ諸国でもイスラム国のテロ行為が絶えません。 さて、2017年に新たに発見された「死海文書」なんですが、そこに記述されていたのは恐ろしいことだったのです! 2017年12月30日 NAVERまとめ
2018年01月16日
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■熊野那智大社別宮飛瀧神社 御瀧そのものを大己貴命が現れた御神体として祀られており、本殿はない。 熊野の神々は元々ここで祀られていた。 御瀧に向かって柵の手前に遥拝所が設けられている。 お滝拝所舞台に行くには別途料金を払う。 ■那智御瀧 那智御瀧は一の瀧と呼ばれる。 高さ133m・銚子口の幅13m ・瀧壺の深さは10m以上。 水量は毎秒1トン程度といわれる。 滝の上流に二の滝、三の滝があり総称して那智の大滝と呼ぶ。 水は生命の母とされ、古来、延命長寿の信仰が篤かった。 御瀧の水は延命長寿の水として尊ばれている。 お滝拝所舞台は参入料 大人:300円。 滝を一番近く、真正面で拝観できる観覧舞台にあがれる。 延命長寿の水とされる滝つぼの水を飲むことが出来る。
2018年01月15日
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団体旅行で熊野那智大社に行く。 一社だけだったにで、今年は熊野三山にお参りしようかと思う。 深山幽谷ならぬ神聖な御瀧と幽谷に包まれた環境であり、敏感な方は晴朗な「気」を感じることだろう。 飛龍神社からお参りし、那智大社まで一気に石段を登った。 大間違いの順路であった。 トリップアドバイザーなどで800円払って山の上の駐車場に止めるべきという意見が多数合ったわけが身にしみて分かった。 ゼー、ゼー。 ■那智大社 那智大社は神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと、後の神武天皇)の東征を起源としている。 紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(にしきうら、現在の那智の浜)に上陸。 一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、那智の瀧を探りあて、その瀧を大己貴命(おおなむちのみこと)の現れたる御神体として祀った。 神日本磐余彦命の一行は天照大神より使わされた八咫烏の先導で無事、大和の橿原の地へ入った。 紀元前660年2月11日、神日本磐余彦命は、初代天皇、神武天皇として即位した。 先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は石に姿を変えて休んでいるといわれている(烏石)。 その後、熊野の神々が光ヶ峯に降臨、御滝本にお祀りしたが、仁徳天皇5年(317年)、山の中腹にあらためて社殿を設け、熊野の神々・御瀧の神様をお遷し申し上げたのが熊野那智大社の始まりとされる。 那智の瀧は熊野那智大社の別宮、飛瀧神社の御神体として祀られるている。 拝殿に祀られる主祭神は、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、イザナミノミコト) 夫須美(ふすみ)とは「むす」という生成発展を意味する。 それと同時に「結(むすび)」という意味を持っている。 このため、かつては「結宮(むすびのみや)」という通称で呼ばれた。 熊野那智大社の玉垣内正面に五殿がある。 向かって右から 第一殿 滝宮(大己貴命) 第二殿 証誠殿(家都御子大神) 第三殿 中御前(御子速玉大神) 第四殿 西御前(熊野夫須美大神) 第五殿 若宮(天照大神) 第六殿 八社殿(天神地祗) ■御縣彦社(みあがたひこしゃ) 拝殿に向かって左隣にある御縣彦社で八咫烏(やたがらす)が祀られている。 八咫烏は熊野の神様のお使いで、三本足の烏。 より良い方向へ導く、お導きの神様とされる ■樟霊社(しょうれいしゃ) 拝殿に行く通路の左隣に樹齢約850年の大樟の御神木があり胎内くぐりができる。 胎内くぐりは、幹の空洞化他部分を護摩木(300円)を持って通り抜ける。 この大樟は平重盛の御手植えと伝えられる。
2018年01月15日
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2017年12月、ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王がミャンマーでの迫害を逃れてきたロヒンギャ難民とバングラデシュの首都ダッカで面会した。 その際、「ロヒンギャ」という言葉を使用したことで、その存在を認めたくないミャンマーのソーシャルメディアが炎上。 人類の平和に向けての発言は、政治的にデリケートなことが多い。 カトリックと西方教会には「七つの大罪」という言葉がある。 一般で考える「罪」ではなく、人間を罪に導く可能性があると見做されてきた欲望や感情などの性向をさす。 高慢、物欲(貪欲)、ねたみ(嫉妬)、憤怒、色欲(肉欲)、貪食、怠惰。 ローマ法王が日本の学生との対話で日本(人)の「過度の競争」を戒めたのは、これらの観点からと思われる。 ローマ法王、日本の「過度の競争」を戒め 学生とテレビ会議 2017年12月19日 AFPBBニュース ローマ・カトリック教会のフランシスコ(Francis)法王は18日、テレビ会議システムを利用して東京の大学生らと対話し、日本の学校や職場での「過度」の競争文化や消費主義への傾倒を戒めた。 アルゼンチン出身のフランシスコ法王は、上智大学(SophiaUniversity)の学生らに対し、「人は成功するために、他者を踏み台にするなどの悪事を働いてしまうこともある」と説明。 日本社会には「過度の競争、競争主義、消費、消費、消費に次いでまた消費」といった「幾つかの問題」が見受けられると指摘。 「これはあなたを害し、あなたの力を奪いかねない」と諭すとともに、問題は「過度の能力主義」にもあると述べた。 …(略)… 自己責任の名の下、過度の競争の下、勝者は自分は努力したのだから報われて当然と「高慢」になり、敗者は「ねたむ」。 今の若者は自己責任の名の下、社会的弱者への慈悲心に欠けていることが多いが、それは「貪欲」であり「貪食」である。 過度の消費は「物欲」に等しい。 高度の消費社会である米国をよしとしたので、日本も高度消費社会となったが、そのことに多くの人々は気付いていない。 平和な社会でルールに基づき競争しているつもりだろうが、他の国々の人々にない、過度の競争(社会・精神)は、紛争の萌芽であり肥やしとなっている。 漫画『七つの大罪』の舞台は、人間と人間ならざる種族の世界が分かたれていなかった古の時代、ブリタニア。 七人の大罪人で組織された伝説の騎士団〈七つの大罪〉の戦いを描いている。
2017年12月28日
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安倍人気。 京都にある安倍清明を祀る清明神社は、願いがかなうと大人気。 それにあやかろうと土御門家と三河万歳の縁を介して三河の安城市歴史博物館で、特別展開催。 [特別展]陰陽師 安倍晴明 会 場:安城市歴史博物館 会 期:平成29年9月23日(土) ~ 11月5日(日) 観覧料:300円(中学生以下無料) 土御門家は平安時代に活躍した陰陽師安倍晴明の嫡流です。 安倍晴明は、彼の活躍した時代から千年経った現在でも様々な術を用い、式神を自在に操る術死として映画やマンガなどに登場し人気を博している。 安倍晴明の現実の姿は、私達が抱く超人的なイメージとは異なる。 朝廷や天皇・貴族のために、怪異現象のト占、行事の日時・方角の選定、祓いや祭祀など陰陽師としての役割を粛々と果たす姿だ。 今回の特別展では、晴明の実像に迫るとともに、晴明の没後に形作られた、稀代の陰陽師としてのイメージ像形成の過程を追う。 三河万歳は、天和三年(1683年)以降、陰陽道の一派とみなされ、陰陽師を統括する土御門家の支配下に入って活動した。 晴明以後の安倍家・土御門家の変遷と三河万歳との関わりを史料から紹介する。
2017年11月05日
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思いの選手、チームが活躍するよう、神社で祈ろうか。 鈴鹿サーキットのある稲生町にある神社。 伊奈富神社(いのうじんじゃ) 駐車スペース有。 稲生門族資料館が隣接している。 稲生民族資料館 勝速日(かつはやひ)神社(三重県鈴鹿市)その1 S.A.C.サイバーパンク親父.COM 鈴鹿サーキット最寄の近鉄白子駅近くの神社。 社務所前に駐車可。 来留真(くるま)神社(三重県鈴鹿市) S.A.C.サイバーパンク親父.COM こちらは路駐かな。 鈴鹿市最大、三重県での神社は鈴鹿インター方面にある椿大神社(つばきおおかみやしろ)。 三重県で伊勢神宮(62万人)に次ぐ参拝者数(41万人)。 椿大神社 道案内で有名な、猿田彦大神が主神で交通安全のご利益。 芸能の女神、そして猿田彦大神の妻の天鈿女命が配神で、縁結びのご利益も有名。
2017年10月05日
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神社の参道に立つ鳥居をみると、神社、神域を認識する。 鳥居は神社の神聖さを象徴する建造物で、神社の内と外を分ける境に立てられる門。 特定の神殿(本殿)を持たず、山など自然物を御神体、または依代(よりしろ)としてお祀りしている神社でも、その前に鳥居が立てられ、神様の存在を現すものとしている。 複数の鳥居があるときは外側から一の鳥居、二の鳥居と呼ばれる。 鳥居の起源は、様々な説がある。 その材質・構造も多種多様で、それぞれの神社により形態が異なります。 一説には六十数種類の形態があるともいわれている。 代表的なものとしては、鳥居上部の横柱が一直線になっている神明(しんめい)鳥居と、この横柱の両端が上向きに反っている明神(みょうじん)鳥居がある。 形態では明神鳥居の横柱上部に合掌形の破風のついた山王(さんのう)鳥居や、朱塗りの稲荷鳥居など特徴的なものがある。
2017年10月05日
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天の岩戸をこじあけた怪力の神様。 誰の子か、誰かの親という関係は不明。 瓊瓊杵神(ににぎのみこと)の天孫降臨に同伴したが、五伴緒神(いつとものおのかみ)ではない。 元来は山の神。 現代ではスポーツの神様として信仰されている。 『古事記』に「手力男神は伊勢の国佐那県に坐せり」と記載されており三重県多気佐奈村にある佐那神社は『延喜式』神名帳の式内神社。 戸隠神社には、手力男が放り投げた岩戸の扉が信濃国戸隠山に落ちたという伝説がある。 佐那神社(三重県多気郡多気町)、戸隠神社(長野県長野市)のほか、、長谷山口坐神社(奈良県桜井市)、白井神社(兵庫県尼崎市)、雄山神社(富山県中新川郡立山町)、手力雄神社(岐阜県岐阜市)、手力雄神社(岐阜県各務原市)、戸明神社(福岡県北九州市)、天手長男神社(長崎県壱岐市)、神命大神宮那須別宮(栃木県那須郡那須町)などに祀られている。 ももいろクローバーZのアルバム「バトル アンド ロマンス」には『天手力男』という楽曲が収録されている。
2017年09月29日
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財政難の鹿島神宮がカードを発行。 特典・神職が通常入れないエリアを含む鹿島神宮境内を案内。・5,000ポイントの自動寄付の返礼品として鹿島神宮の社紋入り銘々皿・宝物館、入場無料 など。 神社がクレジットカードを発行 どうして? 伝統を「持続可能」に、年会費とポイントを寄付に 2017年8月27日 withnews 紀元前からの長い歴史を持つ鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)が、神社業界初のクレジットカード「鹿島神宮カード」を発行しました。 神社とクレジットカード…一見不思議な組み合わせですが、その背景にはこの先神社を支え続けていくための問題意識や、伝統に対する思いがありました。カード、式年大祭と文化財の維持のため 「鹿島神宮カード」は、三越伊勢丹グループのクレジットカード会社「エムアイカード」と提携したカードです。 鹿島神宮カードの年会費は、12年に1度行われる式年大祭「御船祭(みふねまつり)」の斎行や、文化財の保護継承のための寄付になります。 また、カード利用で5,000ポイント貯まると、自動的にポイント分の5,000円が寄付される仕組みです。 一般カードは税込み200円で1ポイント、ゴールドカードは税込み100円で1ポイントが貯まります。 鹿島神宮にこのカードの話が持ちかけられたのは昨年。その1年半ほど前に御船祭が開催されていました。 御船祭は2000年近い歴史があり、その費用はこれまで、神宮の蓄えと、地元の企業や氏子からの寄付、国や県からの補助金でまかなわれていました。 2014年の御船祭では、社務所の建設などを含め、約20億円の費用がかかったそうです。 鹿島神宮の権禰宜・檜山真一さんは、大きくなる運営費について「みなさんにご協賛いただいているが、どんどん難しくなる部分は出てくる。 御船祭は長い歴史がありますので、途絶えることはもちろん、縮小してもいけないと感じていた」といいます。 また鹿島神宮がもつ国宝や重要文化財の修繕にも、経年のためかかる費用が増える中、「神社として御船祭や文化財を、安定的に維持する仕組みが必要でした」と振り返ります。 …(略)… 2010年9月「赤城神社再生プロジェクト」として造られた「パークコート神楽坂」が竣工。 神社×マンションがブーム。 赤城神社と須賀神社を例に最近の神社再生プロジェクトを検証する 京都の下鴨神社、「糺の森」にマンションが建った。 「J.GRAN THE HONOR 下鴨糺の杜」、2017年6月竣工。 これも式年遷宮対策。 神社も大胆な財政政策を採用せざるを得ない。
2017年09月23日
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式内社(大社)、伊賀国一宮。 旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 伊賀一宮 敢國神社 公式サイト 主祭神 大彦命(おおひこのみこと) 第8代孝元天皇第一皇子。 配神 少彦名命(すくなひこなのみこと) - 右座。 金山比め命(かなやまひめのみこと) - 左座。 社伝によると、斉明天皇4年(658年)の創建。 祭神の大彦命は四道将軍として北陸地方を平定し、その子孫は伊賀国阿拝郡一帯に居住して阿閇氏(敢氏/阿閉氏)を称し、大彦命を祖神として祀ったという。 それとは別に少彦名命を祀る秦氏一族があり、これら2柱をもって創建されたとする。 摂社 六所社 - 本殿に並び東側に鎮座する。 九所社 - 本殿に並び西側に鎮座する。 末社 若宮八幡社 子授社 神明社 楠社 結社 大石社 市杵島神社 浅間社 - 南宮山山頂に鎮座する境外末社。 【延命井戸並びに手水舎御神水】 当社の少彦名命は、御神徳が医薬酒造・国土開拓の神として、また健康長寿・商売繁盛等として崇められています。 その、少彦名の命のご加護を受け、当社延命井戸及び手水舎のお水は、諸病に良いとされています。 南宮山より一旦地中へ入り、本殿脇より湧き出しています。 現在は井戸は塞いでおりますが、手水舎で用いられているお水を求めて遠方より多くの方々が参拝に訪れています。 (公式サイトより)
2017年09月22日
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橿原神宮は、初代天皇であると伝えられる神武(じんむ)天皇が、橿原宮で即位したという「日本書紀」の記述に基づき、明治23年(1890)に建てられた。 畝傍山の南東麓、約50万平方メートルの神域に建てられた檜皮葺き(ひわだぶきで素木(しらき)造りの本殿と神楽殿が、背景となる深い森の緑に調和して、なんともいえない爽やかさと、厳かな雰囲気を生み出している。 本殿と文華殿は重要文化財に指定されている。 本殿は京都御所の賢所(かしこどころ)を移築したもの。 1940年(昭和15年)、昭和天皇が同神社に行幸し、秋には日本各地で紀元2600年奉祝式典が挙行された。 零式艦上戦闘機、零式水偵、零式観測機、零式小型水偵、零式輸送機が制式化された2600年だ。 ちなみに「八紘一宇」の本来の意味も回廊に掲示されている「神武東征」の物語の中に示されている。 「八紘一宇」はアジア侵略の便法ではない。 「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」、天下を一つの家にし仲良く暮らすこと。 祭神は神武天皇とその皇后・媛蹈?五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)。 ご利益は、開運厄除け、出世開運、勝運祈願などとされている。 帰りに深田池の周りを周遊した。 途中にある橿原神宮の末社、長山稲荷神社に参拝。 鳥居が続く奥にある社殿は、厳かな雰囲気と神秘を感じさせた。 祭神は宇迦能御魂神(うかのみたまのかみ)、豊宇気神(とようけのかみ)、大宮能売神(おおみやのめのかみ)。 次回参拝の折には、外拝殿から右手にいったところから続く道を辿って畝傍山、神武天皇陵も訪れたい。 日本書紀では御年127歳と伝えられる。
2017年08月24日
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石上神宮(いそのかみじんぐう)は、式内社(名神大社)、二十二社(中七社)。 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 有力な軍事系豪族である物部氏の総氏神を祀る。 たくさんの鶏が迎えてくれる。 茶色の鶏が迎えてくれたのは、吉兆か。 鶏は落ちないので受験に神徳があるとのこと。 主祭神 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) - 神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊。 配神 布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ) - 十種神宝に宿る神霊。 布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ) - 天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊。 宇摩志麻治命(うましまじのみこと) 五十瓊敷命(いにしきのみこと) 白河天皇 市川臣命(いちかわおみのみこと) - 天足彦国押人命(孝昭天皇皇子)後裔で、石上神宮社家の祖。 本来、本殿は存在しなかったが、1913年、本殿が完成。 禁足地は今も、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。 「ふつ」は物を切るときの音とする説もあるが、下記のようにフシ、フツ、フルともモンゴル語名との主張もある。 他の記録等でみない音韻であり、モンゴル語名説を信じたい。 私なりの「大国主命」考 …(略)… 素佐之男尊の別名は布都斯御魂(ふしきみたま)と云うが、父は布都御魂(ふつのみたま)子供の饒速日尊(にぎはやひのみこと) の別名は布留御魂(ふるのみたま)で一族の呼び名はフシ・フツ・フルと皆モンゴル語名である。 …(略)… 石上神宮 公式サイトより 歴 史 石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま・標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。 北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られています。 当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。 総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。 古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。 平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。 中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争しました。 戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、壱千石と称した神領も没収され衰微していきました。 しかし、氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、明治4年官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許されました。 当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。 明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。 禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを残しています。
2017年08月23日
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8月に暑い奈良盆地の神社仏閣を訪れる。 薬師寺は法相宗(ほっそうしゅう)の大本山。 本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇。 金堂に安置された薬師三尊像は、日本の仏像彫刻の最高傑作の1つとして古来名高い。 680年、天武天皇が鵜野讃良(うののさらら)皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させた。 697年、持統 天皇によって本尊開眼。 文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇が 完成。 飛鳥の薬師寺(本薬師寺)跡に金堂・東塔の礎石、西塔の心礎が残っており、東西の棟があり、金堂ととみに回廊に囲まれた「薬師寺式伽藍配置」。 710年、平城遷都に伴い現在地、西ノ京(右京六条二坊)に移転。 東塔は現在改修工事中で2020年の完成を目指す。 西塔は1528年に戦災で消失したが1981年、伝統様式・技法で再建された。 玄奘三蔵院は主要伽藍の北側、道路を渡った先にある。 1991年に建てられたもので玄奘三蔵を祀る。 「大唐西域壁画」は日本画家平山郁夫が30年をかけて制作した。 縦2.2メートル、長さが49メートル(13枚の合計)からなり、視界いっぱい広がる迫力に圧倒される。
2017年08月23日
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夏の1日、奈良の神社仏閣を訪れる。 南都六宗の一つである律宗の総本山。 聖武天皇の要請に応じ、多くの苦難の末来日した鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした。 その後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、759(天平宝字3)年に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場として「唐律招提」を開いた。 鑑真和上の私寺として始まった当初、天平時代は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵があるだけだった。 金堂は8世紀後半、奈良時代に鑑真和上の弟子の一人、如宝の尽力により、伽藍が整えられた。 平安時代初頭に完成し、「唐律招堤」から「唐招提寺」となった。 本尊は廬舎那仏。 御影堂に乾漆、鑑真和上坐像。 唐招提寺ならでは、鑑真和上ならでは戒壇。 境内西側にある戒壇は、出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う場所。 戒壇院の建物は江戸時代末期の嘉永元年(1848年)に放火により焼失して以来再建されず、3段の石壇のみが残っている。 1978年、インド・サンチー式の古塔を模した宝塔が壇上に置かれた。 唐招提寺の戒壇は創建時建立説と、鎌倉時代の弘安7年(1284年)初建立説とがある。 戒壇は仏教用語で、戒律を授ける(授戒)ための場所を指す。 戒律を受けるための結界が常に整った場所で、授戒を受けることで出家者が正式な僧尼として認められることになる 日本に仏教が伝わったのは538年説が一般的でその際に伝わった戒律は、不完全なものであった。 当時、出家は税を免除されていたため、税を逃れるために出家して得度を受けない僧(私度僧)が多く、出家といえど修行もせず堕落した僧が多かった。 そのため、唐より鑑真が招かれ、戒律が伝えられ、戒律を守れるものだけが僧として認められることとなった。 鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に最初の授戒を行なった。 その後、東大寺に戒壇院を建立。 筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(栃木県)の薬師寺に戒壇を築いた。 構内の戒壇はこの3ヶ所でそこで授戒された者のみが僧と認められた(天下の三戒壇)。 822年、最澄の死後、比叡山延暦寺に戒壇の勅許が下され、戒壇が建立された。 戒壇は権力争いの原因となった。
2017年08月22日
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東北新幹線に乗った。 車内誌『トランヴェール』2017-8月号の表紙が気になって手に取り、ビックリ。 円空仏の大特集だった。 [特集] 漫画家・武井宏之と行く 北国の円空6特集 北国の円空8漫画家武井宏之さんの 円空北紀行16武井宏之さんエッセイマンガ 木魚の旅20教えて!須藤弘敏先生 北国の円空鑑賞術22円空の魅力って一言でいうと何ですか? 薮内佐斗司さん・みうらじゅんさん・布施英利さん 粗削りな造形、優しそうな謎をはらんだ笑みが特徴なの円空仏。 岐阜で生まれ育った円空が布教のため刻んだ仏像が、青森、北海道にもあるという。 17世紀半ばの日本の最果ての地で、円空は仏の教えを思いながら仏像を刻んだのだろう。 この特集が1か月で消えていくのは寂しいな。
2017年08月22日
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特別展 天下人の城 ー信長・秀吉・家康ー 2017年7月15日~9月10日 初めて徳川美術館に行く。 特別展もあったが、保存状態のよい展示品が数多くある点が気になったいた。 博物館ではなく、美術館なのだ。 着いたらちょうどガイドツアーの始まる時間だったので参加。 常設展の要所を1時間かけて説明。 初めていく人は聞く価値が大きいと思う。 下げ渡された価値ある品々は出所が明確な国宝。 3代将軍家光の長女、千代姫の婚礼品も素晴らしい。 国宝、重要文化財はあり過ぎて、感心する暇がない。 ガイドツアーの後、観ていない常設展の展示物を観て、特別展へ。 信長の小牧城から安土城、秀吉の大坂城、聚楽第、家康の清州越え、名古屋城、江戸城まで。 歴史の知識があればもって楽しめるであろう。 観終わってから、徳川園を散歩する。 滝が2カ所設けられており、疲れがとれる。
2017年08月20日
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春日大社に参拝した勢いで、東大寺にも参拝。 40年前に行ったはずなのだが、ほとんど初見状態。 シカの臭いに昔行った隣で牛を飼っている祖父、祖母の家を思い出す。 夏休み期間、修学旅行シーズンでないせいか、春日大社以上に外国人観光客多数に見受けられた。 大仏殿は世界最大級の木造建築。 大仏殿内の売店も観光客には歓迎されいている。 【東大寺】 華厳宗大本山東大寺の正式名称は、「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」。 山号寺号形式ではなく、神社のような名称だ。 本堂内に説明書き、展示物があちこちにあり、拝観の感動も一塩。 柱くぐりは大人気だった。 東大寺の創建までの歴史は一つではない。 8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。 東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。 一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。 【大仏】 752年に開眼した大仏(廬舎那仏)の期限は明確。 以下、東大寺HP東大寺の歴史より 廬舎那大仏の造立 天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたという。 とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。 『華厳経』の研究(華厳経講説)は、金鍾山寺(羂索堂)において、大安寺の審祥大徳を講師として、当時の気鋭の学僧らを集め、良弁の主催で3カ年を要して天平14年(742)に終了した。 この講説により、盧舎那仏の意味や『華厳経』の教えが研究され、天平15年(743)10月15日に発せられた「大仏造顕の詔」に、その教理が示されたのである。 もちろん、教理の研究と平行して巨大な仏像の鋳造方法や相好なども研究された上でのことであったことは言うまでも無い。 天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修され、その後も講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂の造営は、延暦八年(789)3月の造東大寺司の廃止まで続行された。 盧舎那仏の名は、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味。 左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っておられる。 【東大寺ミュージアム】 共通券を購入して東大寺ミュージアムも訪れる。 千手観音菩薩立像はその見せ方の演出を含め、圧巻。 彩色を復活したCG画像を見ることができたら、なお素晴らしいことだろう。
2017年07月27日
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夏の1日春日大社に参拝。 当日の気温は34.1度。 どう見ても外国人観光客の方が日本人よりも多い。 【特別参拝】 特別参拝料支払って本殿周辺を回る。 奈良時代の初め平城京守護のため、鹿島の武甕槌命様が白鹿の背にお乗りになり天降られた神蹟、禁足地であった御蓋山の頂上浮雲峰の遙拝所に参拝。 手力雄・飛来天神社参拝所の前は、工事中で近づくことが出来なかった。 また行くさ。 中門・御廊から本殿を参拝。 春日大社燈籠がたくさんあるが点灯した万燈籠を再現した藤浪之屋(ふじなみのや)はとても幻想的。 神社廻廊内の北西隅、春日大社アの名物藤棚の下に多賀(たが)神社がある。 生命を司る延命長寿の霊験高い神様で、 俊乗房重源が大仏殿を再建するときに寿命を頂いたというお話がある。 【若宮15社めぐり】 本殿を巡った後、若宮15社めぐりを体験。 春日大社にはご本社の4柱の神様のほか、摂社・末社61社が祀られている。 境内南側には若宮様が祀られており、その周辺は昔、参詣に訪れた人々が様々な思いを胸に、神めぐりをした場所として伝えられている。 人が生涯を送る間に遭遇する様々な難所をお守りくださる神々の若宮十五社を巡拝できる。 無料でもまわることができるが、初穂料千円とともに夫婦大國社で受付すると玉串札が渡される。 夫婦大國社向側の手水所にて手と口を清め参拝開始。 各神社、遥拝所に玉串札を納め、最後の納所である夫婦大國社で拝殿に上がって15社満願の奉告。 授与所にておしるしと福守がいただける。 ありがたい限り。 【春日大社国宝殿】 展示の導入部に光と水で春日の聖域を表現した空間展示「神垣(かみがき)」が設置されている。 参拝前に体験しても良いのでは、と感じた。 インスタレーションデザインは岡安泉氏。 続いて、春日若宮おん祭での舞楽の演奏に用いられる日本最大の鼉太鼓(だだいこ)の展示。 2階の小展示室には春日大社はが所有する平安時代から南北朝時代を代表する刀剣類を展示。 大展示室は甲冑を中心とした展示が行われていた。 暑い日であったが、この後、徒歩で東大寺方面に向かう。
2017年07月26日
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春日大社(かすがたいしゃ)は、768年に創設された奈良県奈良市にある神社。 式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀る。 祭神は総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神、4柱。 武甕槌命(タケミカヅチノミコト) - 藤原氏守護神(常陸国鹿島の神) 経津主命(フツヌシノミコト) - 同上(下総国香取の神) 天児屋根命(アメノコヤネノミコト) - 藤原氏の祖神(河内国平岡の神) 比売神(ヒメガミ) - 天児屋根命の妻(同上) 本殿は春日造り。 春日大社 公式サイトより 春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く鹿島神宮から武甕槌命様を神山御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)にお迎えした。 やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して香取神宮から経津主命様、また枚岡神社から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが当社の始まりです。 御祭神である武甕槌命様・経津主命様は、日本の国を秩序ある国にするためにあらゆる神々と交渉され、平和裡に治められた功績ある神様であります。 また天児屋根命様は神事と政治を守り導かれる神様として、比売神様は天照大御神様だとも天児屋根命様の妃神とも伝えられています。 平和と愛の尊い神様であり、それぞれの霊験を仰ぎ御加護を頂いてまいりました。 この四柱の神々様は、それぞれ端正な春日造の御本殿(国宝)に鎮座されており、最も尊崇すべき神々として春日皇大神と申しあげ、また、春日四所明神、春日大明神と申しあげてまいりました。 御創建以来当社は、千古の森の中に朱の柱、白い壁、そして自然の檜皮屋根の本殿・社殿が往古と変わらぬ壮麗で瑞々しいお姿で鎮まっておられます。 これは、20年毎に斎行される式年造替という制度により、社殿の御修繕、御調度の新調、祭儀の厳修により日本人の命が連綿と受け継がれてきたからです。 これにより、清々しくも尊厳ある気が境内に満ち、神様の広大無辺なるお力や有り難さがしみじみと感じられる名社として今日に至っています。 また、全国3000に及ぶ春日の御分社、奉納された3000基の燈籠は、その厚い信仰の広がりを示しています。 そして今日も昔と変わらず、毎朝毎夕の神事の御奉仕を始め、年間1000回に及ぶお祭りが行われ、日本の国はもとより、世界の平和、万民の幸福、そして共存共栄が祈り続けられています。 平成10年12月には、春日大社や春日山原始林を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されました。 タケミカヅチは雷の神であり、地震の神。 地震を引き起こすオオナマズの頭を踏みつけ、地震を制御するとされる。 剣の神でもあり、最も強い武神としても知られている。 国譲りの際、アマテラスが何人もの使者を出すが、ことごとく言いくるめられ、最後に遣わせたのがタケミカヅチ。 オオクニヌシに国譲りの交渉をする際、次のようなアマテラスの言葉を伝え、オオクニヌシ息子たちとは腕力(相撲)をとることも含め説得して、「国譲り」が実現した。 下記に「国内旧官幣大社と付近の断層一覧」表が記載されている。 春日大社は境内直近に断層がある。 一方、勧進元の霞ヶ浦周辺(鹿島神宮・香取神宮近辺)には活断層がない。 『断層沿いに立地する神社とその周辺環境に関する研究』 是澤紀子(名古屋工業大学)
2017年07月26日
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鈴鹿サーキット最寄の近鉄白子駅のすぐ近くに「勝速日神社」という、国際レースで闘う日本人ドライバー、ライダーの応援にピッタリの名前の神社がある。 本田技研鈴鹿製作所と鈴鹿サーキットを擁するモータウン鈴鹿に相応しい名の(字は違うが)、1500年以上の歴史をもつ、「久留真(クルマ)神社」も近くにある。 白子は江戸時代、交易港であった白子港を抱え、紀州藩独占販売品の伊勢型紙を製作・出荷していた地。 町が繁盛していたので、寺も神社も多い。 久留真神社の住所は三重県鈴鹿市白子1-15-15。 江戸時代1634(寛永11)年、福徳天王社の地が白子代官所となった。 福徳天王社(福徳神社)は現在来留真神社ある地に遷座。 移転時に氏子が南北二派に分かれたため、八重垣神社と勝手明神を一社にして勝速日神社が設けられた。 海の近くであることを象徴するように、鳥居をくぐって手水舎の向かいに「三代目神木福徳の松」がある。 『延喜式神名帳』の「久留眞神社(伊勢国・奄芸郡)」に比定される式内社(小社)。 近代社格では県社。 主祭神は、大己貴尊(おおなむちのみこと) 配神は、須世理姫命(すせりひめのみこと)、漢織姫命(あやはとりひめのみこと)。 本殿は神明造りで鰹木は6、千木は内削ぎ。 拝殿・神輿殿・神饌所・手水舎・社務所・末社殿を備える。 御神徳は、福徳ノ宮(縁の神、開運の神))・女神ノ宮(女性の願いを叶る)のほか、産業振興、事業成功、交通安全。 別宮は漢織姫命を分祀した淡路島の伊勢久留麻神社。 境内社は、四柱神社・千倍稲荷神社・石神神社(山の神)・護国神社。 千倍稲荷神社の御祭神は宇迦之魂神(うがのみたまのかみ)。 護国神社は鰹木5、千木は外削ぎ。 創祀年代は不詳だが、雄略天皇の御世(457年~479年)前後に創祀されていたと考えられる。 大已貴尊(スサノオの息子)と須世理姫尊(スサノオの娘)の2柱を、通称「伊勢の森」という神奈備に、「福徳さん」として奉斎された。 第21代雄略天皇の御代、呉の国の漢織、呉織、衣縫兄姫、弟姫などが来朝。 勅命により伊勢国に紡績や衣縫など文明技術を伝授。 その功績が偉大だったため、漢織姫命を合祀して、福徳の女神と仰ぎ奉った。 当地方一帯の地名を栗真荘と呼ばれ、栗真荘で祀る福徳の(機織りの)車の女神、というのが社号の由来とされる。 中世は福徳天王社、福徳神社とも呼ばれた。 江戸時代は「福徳天王社」「春日」「勝手明神」と称された。 1821(文政4)年、「福徳の宮久留真神社」と改称。 1906(明治39)年、神饌幣帛料供進社に指定。 1943(昭和18)県社に昇格。 例祭は4月15日近い土曜日で、春祭り、獅子舞の奉納などがある。 駐車場はない。
2017年07月18日
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「全国8万の神社を統括する 神社本庁の疑惑取引」 2017年6月23日 S.A.C.サイバーパンク親父.COM の続き 大分は大雨で各地で大混乱。 八幡宮の総本社、話題の宗像三女神を祭神として祀る宇佐神宮は、新しい宮司を迎えて大混乱? <狙われた宇佐神宮 天皇陛下が危惧される PART4> 『日本会議と神社」本庁』 2016年8月12日 2024年 大難を小難に!克子さんを懲戒免職に 前述の「嘆願書」に呼応して神社本庁は、公齊名誉宮司の「五十日祭」(注)も終わらない09年2月26日、宇佐神宮の特任宮司に穴井伸久・大分県神社庁長を任命。 これに対し到津(いとうづ)側は翌10年3月、神社本庁を相手取り、宮司としての地位確認を求めて大分地裁中津支部に提訴したが、一審、控訴審ともに棄却、最高裁も13年5月、「審理するべき事案でない」などとして取り扱われなかった。 宮司としての地位確認はなかったものの、克子(よしこ)さんは権宮司の職にあった。 しかし、最高裁判決を契機に日常的な監視や会話、永弘権宮司による暴力沙汰(克子さんは刑事告訴したが、不起訴)などが起き、さらに一方的に待遇を引き下げられたため、克子さんは中津労働基準監督署に申し入れた。 これを受け、中津労基署は同年11月、宇佐神宮に対して改善を指示。 しかし宇佐神宮はこれに従うどころか、翌12月24日の責任役員会(穴井宮司ほか溝部定見(みぞべさだみ)、いちき晋一郎、永岡恵一郎の3氏)で克子さんの懲戒免職処分を決定し、年明けの14年1月10日に神社本庁(北白川道久統理宛)に「到津(克子)権宮司懲戒免職願」を提出した。 これを受け神社本庁は同年5月15日、克子さんの懲戒免職を決定。 宇佐神社も同日、解雇を通告したのである。 克子さんは6月、解雇(免職)無効を求めて提訴した。 …(略)… 宇佐神宮の宮司をめぐっては、2015年12月、氏子総代らが穴井宮司に対して「職務遂行能力に欠けている」などとして解任を求めていた。 穴井宮司は辞任する意向を示し、宮司の人事案件を審議する責任役員3人が同意。 神社本庁宛てに退職願が提出されていた。 後任は責任役員の2人が神社本庁内から任命するよう具申。 もう1人と氏子総代、県神社庁宇佐支部の役員らは、県神社庁長を後任にするよう求めていた。 2016年2月、宇佐神宮(宇佐市)に神社本庁の総務部長時代、不可解な不動産取引を行った小野崇之氏が宮司に就任。 この人事をきっかけに、神宮と県神社庁宇佐支部(宗像宗臣支部長)の関係が悪化し、絶縁状態になった。 支部は、宇佐神宮境内の神宮庁に置いていた事務局を退去し、同市四日市の桜岡神社へ移転。 今後、神宮の祭りに協力しない意向を表明。 神宮側も歩み寄る気配はない。 宇佐神宮(大分県宇佐市)の創建は欽明天皇32年(571年)頃とされる。 全国に約44,000社ある八幡宮の総本社。 鎌倉の鶴岡八幡宮や京都の石清水八幡宮と並び日本三大八幡宮の一つとされるが、鶴岡八幡宮も石清水八幡宮もつまりは宇佐神宮の分社。祭神八幡大神(はちまんおおかみ)[誉田別尊(応神天皇)]比売大神(ひめのおおかみ)[宗像三女神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)]神功皇后(じんぐうこうごう)[息長帯姫命] 夜間入口のシャッターを閉めていたが、女子トイレの個室や掃除用具入れの扉など11カ所に、英語の文字や絵のような落書きが発見された。 宇佐神宮の駐車場トイレ 扉など11カ所落書き 2017年5月9日 大分合同新聞 宇佐市の宇佐神宮入り口にある宇佐八幡駐車場内の公衆トイレで8日、落書きされているのが見つかった。 市は宇佐署に被害届を出す予定。 …(略)… 神宮側は「市と無用な争いを起こそうとは思っていない」と言いながら、公共建築にも口を出している。 地域権力者同士の力比べのような裏があるのだろうか。 宇佐神宮「歴史、宗教的にそぐわない」 「勅使街道」整備事業で異例の要望書 [大分県] 2017年06月15日 西日本新聞 …(略)… 神宮側が問題視しているのは2点。 勅使街道の路面上に施す予定の幾何学模様の図案と、小山田記念公園(3500平方メートル)内に設置されたあずまやの形状や彩色に関してだ。 神宮側は、幾何学模様が交互に連続する街道の美装化計画を「近代的な意匠で、歴史街道としての風情やたたずまいを残していない」と指摘。 「拙速な決定を避け、より伝統的な意匠、デザインによる美装化」を求めている。 昨年、街道北側で発掘された江戸中期から後期に敷かれたと思われる石畳を意匠の根拠としたデザインにしてほしい、とも述べている。 また小山田記念公園については、神宮と歴史的に深いつながりを持つ小山田家が市側に寄付した土地を元に整備された。 神宮によると、公園内に設置された現代的な様式のあずまやに対し、小山田家側が再三、色彩変更や和風建築への変更を市側に求めていたという。 小山田家側の意向も受け、公園内の土地の一部を市に無償貸与している神宮は「工事は完了しており、変更は困難かもしれないが、誠意ある対応をお願いしたい」としている。 …(略)… 県神社庁宇佐支部を追い出した宮司は、新たな有料駐車場を整備し、神社の収益源としようと目論んでいる。 神社本庁から来た小野宮司は、神社と地域との共存共栄関係を破壊しようとしているように見受けられる。 宇佐神宮自前駐車場 商店街困惑 地元商店街、客離れ懸念 [大分県] 2017年07月03日 西日本新聞 宇佐神宮(宇佐市南宇佐)が7月末に自前で新たな有料駐車場を整備する計画が持ち上がり、参道沿いの地元商店街では困惑が広がっている。 参拝客が商店街を通りながら神宮に向かう既存駐車場の動線が崩れ、「売り上げ減に直結しかねない」と懸念するからだ。 神宮側は「従来の駐車場は神宮から遠く、近くに駐車場がほしいという参拝者からの要望に応えた」と駐車場新設に理解を求める。 「7月末までに、新しい駐車場ができます」 6月中旬、神宮側からの突然の通告。 地元の宇佐神宮仲見世会(なかみせかい)(15店舗、高橋宜宏会長)には寝耳に水だった。 新たな駐車場は宇佐神宮そばにある神宮所有の空き地約3400平方メートルに整備。 乗用車のみ130台収容可能で、参拝者は商店街に迂回(うかい)せず、神宮へ最短距離で移動できるという。 …(略)… 県内では、来年の六郷満山開山1300年や2019年のラグビーW杯など大型イベントが続く。 神宮は「今まで以上の参拝客が訪れるのは明らかで受け入れ能力強化は必要。 商店街の利益にもつながるはずで理解してほしい」としている。 利権の香りがふんぷんとする。 勅使参向の有無など 皇室とのつながりで神社の格決まると識者 2015.12.22 NEWSポストセブン
2017年07月11日
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須崎神社お参りの後、若宮大通りに沿って矢場町方面に進み若宮八幡社(わかみやはちまんしゃ)にお参りする。 旧社格は県社。 神社本庁では別表神社。 名古屋総鎮守とされる。 名古屋市街を東西に貫く「若宮大通」の名は、この若宮八幡社に因んでいる。 連理稲荷社、連理稲荷社奥之院は良縁祈願の神様。 当日はちょうど結婚式が行われていた。 神御衣神社は衣服の神様。 針供養の塚もあり、服飾関係者の信仰を集めている。 祭神 仁徳天皇 八幡神/応神天皇 武内宿禰命(たけしうちのすくねの みこと) 摂末社 神御衣神社(御衣社、みころもさん) 若宮恵美須神社 連理稲荷社 連理稲荷社奥之院 熊野社・日吉社・香良洲社・天神社・秋葉社合殿[3] 宮産住吉神社 龍神社 名古屋総鎮守 若宮八幡社 公式サイト 由緒 天武天皇朝の創祀とも、大宝年間(701~704年)に現在の名古屋城三の丸の地に創建されたとも伝わり、延喜年間(901~923年)に再興されたという。 かつては天王社(現在の那古野神社)と隣接していたが、天文元年(1532年)の合戦で社殿を焼失し、天文8年(1540年)織田信秀により再建され、慶長15年(1610年)の名古屋城築城の際に現在地に遷座した。 それより前、豊臣秀吉より200石を寄進され、江戸時代は尾張徳川家の氏神であり、名古屋の総鎮守であると崇敬され、元禄2年(1689年)には尾張藩藩主徳川光友より社領100石が寄せられると共に社殿の造営がなされた。
2017年07月09日
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洲崎神社(すさきじんじゃ)は、「広井天王」や「牛頭天王(ごずてんのう)」とも呼ばれる。 江戸時代、洲崎の天王祭は東照宮時代祭と並ぶ二大祭だった。 都会の中で様々な神社が集められたためか、境内のあちこちに神社がある。 須崎神社本殿の右奥にある白龍社は、財運の神効あらたかなようで地元の経済界から支持されていることが分かる。 主祭神 素戔嗚尊(スサノオノミコト) 配神 五男三女神 稲田姫命(イナダヒメノミコト) 石神 布都御魂(フツノミタマ) 道祖神 猿田彦命(サルダヒコノミコト) 天鈿女命(アメノウズメノミコト) 摂末社 白龍社 英霊社 泰産社・弥五郎社相殿 秋葉社・稲荷社相殿 住吉社・船玉社相殿由緒 太古この地は入江で洲崎になり、地神(石神)が祀られていた。 貞観年間、石神にみちびきにより、出雲から素戔嗚尊がこの地に遷座、奉斎された。 名古屋城築城以前は現在の栄一丁目全域が社地であった。 築城後、社地には武家屋敷が建てられ、境内に堀川が掘削されるなど大きく縮小した。 江戸時代は尾張十社の民社総社的立場にあり、皇室、公家、徳川家より奉納が多数あった。 明治45年、当社に隣接し石神を祀る石神神社を合祀。
2017年07月09日
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主要な観光地では、日本人だけでなくインバウンド客を取り込んで多くの参拝者を迎える寺社もある。 国民の数、信心深い信者の数に左右される、各種の伝統的な宗教団体は、少子高齢化の影響に直撃され財政面で危機に瀕していることが多い。 伝統を継続するには「カネ」がいる。 だが、宗教的な権威で動かすことができる「ヒト」は高齢化し、「カネ」を集める対象の信者も減少している。 日本会議との関係を『想定してのことだろうか。 ダイヤモンドは神社本庁の「力」を恐れているようだ。 神社本庁の「政治力」と「資金力」 不気味がるほどではなかった! 週刊ダイヤモンド編集部 ダイヤモンド・オンライン 編集部 2017.6.28 DIAMOND online …(略)… 01年の参議院選挙でもこんなことがあった。 神政連は、自民党公認候補として比例区から出馬した有村治子氏を支援していたのだが、得票数が少なくて苦しみ、当選確実の報が明け方まで出なかった。 最終的には当選したが、蓋を開けてみれば、神社は全国津々浦々にあるにもかかわらず、票が入っていない地域が少なからずあったというのである。パワーなくても政治家が頼るのは 地域の祭りに出れらるから, …(略)… こうして見ていくと、神社本庁には「政治力」「資金力」ともに恐れるほどのものはないことが分かる。 それでも世間から不気味がられるのは、「外からその内情をうかがい知ることができないから」に尽きるのではないか。 だが、現在の神社本庁には問題が山積し、組織がぐらついている。 現執行部は、それを押さえつけようと強権を発動し、多方面から批判や不満が吹き出している。 次回、その詳細についてお伝えする。 次回が楽しみ。 何がでてくるだろうか。 過疎化する地方で運営に携わる人がいなくなった神社、寺は今後も増えていく。 仏教の大きな収入源であった、葬式と一連の行事も、寺が介在しない方式が増加しつつある。 保有地を活用しての駐車場賃貸業、結婚式場などの営利事業は、税務当局によりしっかりと課税されるようになった。 坊主丸儲けの時代は終わり、神社を支える社家も衰退する一方。 明治政府の廃仏毀釈は有名だが、統合された神社も数多かった。 どの神社も主祭神の他に数多くの祭神が由緒に記載され、合祀されている所以。 今や政府が力を使うこともなく、寺社は静かに衰滅しようとしている。 多くの神社を廃止 明治政府の伝統文化破壊と国家神道の捏造 あの南方熊楠も「神社合祀」に猛反対 2016年1月1日 知識連鎖 神社本庁で不可解な不動産取引 刑事告訴も飛び出す大騒動勃発 週刊ダイヤモンド編集部ダイヤモンド・オンライン編集部 2017.6.21 DIAMOND online
2017年07月06日
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大分の大雨は宇佐神宮を乗っ取った神社本庁への神々の怒りだろうか? 1997年、日本会議設立。 安倍政権に影響力が大きいとみられている日本会議は、神社本庁といくつかの宗教団体が中核をなしている。 関連組織の日本会議国会議員懇談会には安倍首相をはじめ閣僚の大半が参加しており、約280人の国会議員が加盟している。 神社本庁「恐怖政治」の実態、 地方の大神社で全面戦争も ダイヤモンド・オンライン編集部 2017.7.5 DIAMOND online 富岡八幡宮は、大相撲の起源とされる「江戸勧進(かんじん)相撲」の発祥地で、江戸三大祭、「深川祭」でも有名な“江戸”を代表する神社の一つ。 18代宮司の故・富岡盛彦氏はかつて、本庁事務総長(現在の総長)だった人物だ。 それだけに、ある本庁関係者は「明治神宮が2004年に本庁から離脱(10年に復帰)したとき以来の衝撃。 誰も得をせず、神社界全体への余波も大きい」と嘆く。 どうして、こうした“最悪”の事態に陥ってしまったのか。 本庁秘書部は「答えることはない」と取材を拒否したが、事情に詳しい神社関係者は「直接的な理由は、富岡八幡宮の宮司人事について、責任役員会の具申を本庁が無視し続けてきたため」と明かす。 実際、富岡八幡宮では、トップを宮司“代務者”が6年以上も務めているという大手神社としては異常な事態が続いている。 …(略)… 強権を振るう神社本庁からの離脱をはかる動きが記事で報じられている。 女性宮司の就任に関する神社本庁の抵抗も記載されており、近年の女性皇族、女系皇族についての政権の拒絶的な態度と通じるものを感じる。 安倍政権は明らかに皇室を政治の道具としている。 国民の省庁である皇室の果たす役割の縮小化(皇族が減って良い)をはかろうとする意図を感じる。 「日本人でよかった」 6年前の神社本庁ポスターが炎上した理由 窪田順生:ノンフィクションライター 2017年5月11日 DIAMOND onine 神社本庁から伝統ある宇佐神宮の宮司に就任した前総務部長の小野崇之氏は、氏子、県神社庁宇佐支部と絶縁状態にある。 …(略)…大分の宇佐神宮では本庁と全面戦争に発展 大分県宇佐市の宇佐神宮。 祭神・信仰別の神社数で全国4万社あまりという神社界の“最大勢力”である「八幡宮」の総本宮で、伊勢神宮に次ぐ有力神社として出雲大社や明治神宮などと共に名が挙がる有名神社である。 宇佐神宮を地元で支え続けてきた県神社庁宇佐支部が今年5月、氏子などで構成される支部総代会総会で、前代未聞の決議を行った。 その中身は、「高圧的、独善的な宮司に関係修復をする心は皆無」と宇佐神宮の新任宮司を批判し、宇佐神宮の祭典や、遷宮に対する氏子への寄付要請を一切拒否することなどが盛り込まれた事実上の“絶縁状”だ。 こうした事態に、県の神社関係者、本庁関係者は「本庁と大分の全面戦争の様相だ」とため息をつく。 大分県神社庁宇佐支部は総代会総会で、前代未聞の決議を行った “戦端”は昨年2月、宇佐神宮に新たな宮司が着任したことで開かれた。 新任宮司とは、今特集「瓦解する神社」第1回の記事(「神社本庁で不可解な不動産取引、刑事告訴も飛び出す大騒動勃発」)で、疑惑の不動産取引を主導した本庁幹部の1人とされる前総務部長の小野崇之氏、その人だ。 …(略)… 小野氏の第81代宮司就任により、3代続けて世襲社家以外からの宮司起用となった。 小野宮司就任後、神宮と県神社庁宇佐支部(宗像宗臣支部長)の関係が悪化。 支部は、宇佐神宮境内の神宮庁に置いていた事務局を退去させられ、同市四日市の桜岡神社へ移転。 今後の神宮の祭りに協力しないと表明。 神宮側も歩み寄る気配はなく絶縁状態となっている。 神社本庁は明治時代の国家統制型の神道・神社組織を現代に作ろうとしているように見受けられる。 神祇院の復活を考えているのだろうか。 氏子の意向を無視、軽視すれば、氏神としての神社は存続が困難になる。 規模の大きな神社は運営にかかる費用も大きい。 氏子総代が離れたら神社は資金面から行き詰まる。多くの熱心な氏子と社家に支えられ、京都市内にあって参詣者が絶えない下鴨神社(賀茂御祖神社)でさえ、式年遷宮の資金捻出のため、定期借地権つきで土地を貸し出すほどだ。 えっ!世界遺産下鴨神社にマンション建設!? 世界遺産地域に倉庫も建設!? NAVER まとめ 神社本庁は人口減少と熱心な氏子の高齢化で、それでもなくとも厳しい神社の首を絞める行為をしている。 神社本庁から有力神社の離脱が続くのも当然に思える。 現役の神社宮司が「日本会議や神社本庁のいう伝統は伝統じゃない」「改憲で全体主義に逆戻りする」と真っ向批判 2016年6月1日 LITERA 人事での組織介入は安倍内閣が官僚に対してとっている態度と同じ。 だが、官僚組織は税金が養うが神社は信者の心が支える組織。 同じ方法ではけっしてうまくいかない。 …(略)… 対して、神社界の“大企業”とも言える「別表神社」の宮司ともなると、年収は本庁職員をしのぐ。 さらに一国一城の主として、地元の名士に仲間入りもできる。 それゆえ、本庁幹部職員の定年退職後の天下り先として、「数少ない大神社の宮司ポストが狙われている」と複数の関係者は言う。 「今後、宇佐や富岡のような本庁による人事介入がさらに加速するのではないか」(複数の神職)――。 …(略)… そして今月1日。神社本庁の年度初めに当たるこの日、新たな人事が発令された。 神社界関係者の耳目を引いたのは二つの人事。 その一つが、今特集の連載第1回で“予測”したように本庁前財政部長のK氏が、兵庫県の大神社のナンバー2、権宮司に“栄転”したこと。 そして、もう一つが、神奈川県の大神社に“中途採用”された「期待の新人」(別の本庁関係者)が、小野氏の子息の名であったことだ。 配属先は父の前職と同じ総務部だった――。 …(略)… 東日本大震災のために送られた神宮の御料米を職員に配り、疑惑の不動産取引を主導した本庁幹部の1人とされる前総務部長の小野崇之氏を宇佐神宮の宮司に送り込む神社本庁は、日本の神社・神道を破壊する組織となっている。 コケにされた伊勢神宮が離脱したら、神社本庁はどうなるのだろう。
2017年07月06日
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多度大社から約5kmの道のりの治水神社(ちすいじんじゃ)にお参りする。 水難避け、家内安全、交通安全にご利益があるとされる。 薩摩に縁、恩が有るなら、お参りすべき場所。【ご祭神】 薩摩藩家老平田靱負(ひらたゆきえ)と宝暦治水関連で物故した薩摩藩士84名。 自害51名、病死33名。 毎年4月25日と10月25日に、平田靱負と薩摩藩士の功績と供養の為の慰霊祭が行なわれる。 神社の所在地は木曽三川公園に隣接した、千本松原(せんぼんまつばら)の起点。 千本松原は、宝暦治水工事で造成された長良川と揖斐川の分流堤に植えられた約1000本の松。 1940年7月12日、国の史跡に指定された。 隣接する木曽三川公園センターの展望タワーから見事な姿を見ることができる。 河口側の南端に薩摩藩士の慰霊と宝暦治水の偉業を記念する宝暦治水碑がある。 神門・玉垣内を通り、拝殿へ。 水害を避ける意図もあってか、本殿が高いところにあり、祭文殿、拝殿と渡殿で連結されている姿も美しい。 横からも見るべし。 本殿・祭文殿は桧造り銅板葺き流れ造り。 拝殿は入母屋造りの桧造り桧皮葺き。 治水神社 公式サイト御由緒 江戸時代の中頃、徳川幕府は、木曽三川の水害で悩む濃尾平野西南部の住民を救うため、薩摩藩にお手伝い普請を命じました。 薩摩藩士らは、経験したことのない水の流れに苦しみながら、この地方の住民のため、多大の犠牲を払い、万難を排して工事を見事完成させました。 平田靱負大人は、この工事の総責任者です。幕府の検分が終わった直後の宝暦5年5月25日、工事の完成を見届けた大人は、美濃大牧の役館で命終されたのです。 永く埋もれていたこの大工事を世に広めたのは、三重県多度に住む西田喜兵衛です。 彼はこの工事の様子を世間に知らせ、犠牲者の慰霊と顕彰に邁進しました。 明治33年、近代の木曽三川の治水工事の成功式に併せて「宝暦治水之碑」が、時の総理大臣山県有朋公を迎えて油島千本松原に建立されました。 その後、平田大人を治水の神と讃える地元の人々の報恩感謝の熱い思いにより、昭和13年現在の地に、平田靱負大人を御祭神とする治水神社が創建されました。 治水神社は、治水に尽力された薩摩藩士の功績を讃え、平田靱負大人の遺徳を偲び、犠牲となった多くの藩士達を慰霊しています。
2017年06月30日
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伊勢の内宮、外宮は参った。 伊雑宮、瀧原宮にも参った。 「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かけねば 片参り」と語られる多度退社にお参りする。 多度大社は式内社(名神大)で、旧社格は国幣大社。 北伊勢地方の総氏神様として崇められていきた。 養老山地の南端,、標高 403 mの多度山の麓に位置する。 大社創建以前は山全体を神体としており、山中に正式な磐座(いわくら)が鎮座していたという記録が残っている。 創建は雄略天皇の御世とされる。 三重県では伊勢神宮・二見興玉神社・椿大神社に次いで4番目に参拝者数とされている。 早朝、参拝者が少ない時間帯に訪れたこともあってか、霊感のない私でも、強烈な異界感、神聖さを感じさせた。 毎年5月4、5日に行われる「上げ馬神事 (あげうましんじ)」が有名。 境内の急坂・2mほどの絶壁を人馬とともに駆け上り、上がりきった人馬の数や順番によって、その年の豊凶を占う。 境内に白馬舎、神馬舎がある。 多度祭りの祭馬の滋養剤としても用いられることから、豆菓子の土産がいろいろある。 八壺豆(多度豆)は、江戸時代に多度大社参詣者のための土産物として考案された。 大豆に、きな粉を砂糖水で固めて三倍程に大きくした球状ものを、白砂糖で包みこんだ豆菓子。 多度山の清流(八壺渓谷)は、禊(みそぎ)の場として信仰されてきた。 八壺豆は、その滝の飛沫(しぶき)を形取ったものと考えられている。 【多度大社】 多度大社は、本宮・別宮・摂社・末社で構成される。 本宮・多度神社 ご祭神は「天津彦根命(あまつひこねのみこと)」。 天津彦根命は天照大神の第3子で当地の豪族・桑名首(くわなのおびと)の祖神。 相殿は、「面足尊(あもだるのみこと)」と「惶根尊(かしこねのみこと)。 別宮・一目連神社のご祭神は天目一箇神(あまのまひとつのみこと)。 天目一箇神は天津彦根命の子。 境内摂社 美御前社(市杵島姫命) 新宮社(天津彦根命幸魂、天目一箇命幸魂) 一挙社(一言主命) 境内末社 神明社(天照大神) 皇子社(天之忍穂耳命、天之菩卑能命、活津彦根命、熊野久須毘命、多紀理姫命、多岐津姫命) 雨宮八幡社(天之水分神、国之水分神、品陀別命) 藤波社(建速須佐之男命、大穴牟遅命、少彦名命) 鉾立社(天久之比命) 招魂社(護国の英霊) 多度大社 公式サイト 【多度稲荷神社と多度観音堂】 多度大社手前に、多度稲荷神社と多度観音堂がある。 多度稲荷神社は縁結びのご利益を謳っていた。 多度観音堂は多度神宮寺に由来する御堂。 本尊の十一面観音菩薩及び千手観音菩薩と、開基した満願禅師像が安置されており、ガラス戸を開けて直接拝観できる。
2017年06月30日
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町家の多い京都では世代交代等もあり、マンション化がすすんでいる。 高さ規制があるので、東京のように無粋なタワーマンションは建たない。 狭い道に面した低層マンションも多いが、超豪華版低層マンションもある。 最高7億円、京都のマンション内部を公開 全戸完売済み 2017年6月22日 朝日新聞デジタル マンション開発の三菱地所レジデンスは21日、京都市上京区の鴨川沿いに完成したマンション「ザ・パークハウス 京都鴨川御所東」(総戸数85戸)で入居が始まるのを前に、内部を報道関係者に公開した。 最も高額な部屋は7億円以上で売れており、1995年以降に分譲されたマンションでは西日本で最高価格という。 約5千平方メートルの敷地は国有地の跡地。 価格が7億円超の部屋は鴨川に面した4階建ての最上階にある3LDKで、約287平方メートル。 夏の京都の風物詩である「五山の送り火」の「大文字」が望めるという。 …(略)… 自宅から大文字焼き、鴨川で夕涼みなど、京都の御所周辺は緑、自然に満ちている魅力的な地。 四条の繁華街だって自転車ですぐ。 そう、駐車場は34台+来客用1台+サービス用1台だけ。 ザ・パークハウス 京都鴨川御所東 公式サイト 2015年12月6日、即日登録申込分完売。 2017年5月23日、全戸完売。 2017年6月下旬、引渡し開始予定 部屋にいながらにして大文字焼きが見えるのはとても風情がある。 が、下賀茂神社に神力にあずかれるかもしれない糺の森の隣接地のマンションも魅力的。 賀茂川と高野川の合流地点で発達した原生林、下鴨神社さん境内の糺の森の空気感は霊感に欠ける私にも異界を感じさせるほど独特。 J.GRAN THE HONOR 下鴨糺の杜 公式サイト 世界遺産・京都 「下鴨神社」に寄り添うレジデンス。 京阪本線・鴨東線「出町柳」 駅徒歩9分の立地。 暮らしの形に合わせた8棟構成の多彩なプランをご用意しました。 …(略)… 3階建て低層マンションの総戸数は会員分譲住戸30戸含む全99戸。 事業主は賀茂プロパティーズワン合同会社。 設計・施工は竹中工務店。 入居予定はこちらも2017年6月下旬。 こんな場所にマンションが建つのか(建てる土地があったのか)、と思わせる場所。 こんなところにマンションなんかと思う人も多いだろうが、内情は深刻。 21年に1回実施される式年遷宮費捻出のため、境内の敷地を年間8千万円で貸し出すことを決めたという。 2015年の本殿祭神の遷宮では30億円必要なところ、国からの補助8億円、2015年5月時点の募金は10億円だった。 この差を埋めるための苦渋の決断と聞く。 50年の定期借地権。 「定借」ということで販売価格は7,050万円~10,030万円。 「ザ・パークハウス 京都鴨川御所東」と比べるとグッとリーズナブル!? 管理費(月額)は44,850円~57,260円、修繕積立金(月額)は11,790円~15,050円。 駐車場が24台分が痛いところ。 到底手が届かない私が心配するところではないのだが。 寺は拝観料を設定しているところがあるが、神社は一般に参拝は無料。 特別拝観としてガイドツアー的な参拝を有料で行っているところがある程度。 神社の維持管理はお寺さん以上に財政的に苦労していると聞く。
2017年06月25日
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由緒と並んで鈴鹿市の有形民俗文化財に指定された山車の説明書きがある。 次に記載した文字は掲示板に記載の通り。 勝速日神社祭礼用山車 (有形民族文化財) 当地の春の祭礼日(4月中旬の土、日曜日)に用いる山車で 木造の二階屋形で、高さ約3.6m 漆塗り、金箔仕上げの華麗な 山車で、江戸時代(約400年前)に作られたと伝へられて いる。 見送り幕は豪華な(西陣)綴れ織の刺繍が美しい。 管理町名 見送り幕の図柄 前面の額の文字 西町自治会 松に鷹 邀観 中町自治会 竹に虎 豊穣 東町自治会 牡丹に唐獅子 ○優 山中町自治会 菊慈童 抽誠 鈴鹿市指定文化財 昭和45年11月25日 *○優の○はぎょうにんべんに兆 佻の異字か。 「民族文化財」はもちろん「民俗文化財」 鈴鹿市 文化財の一覧 鈴鹿市 正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかつあかつ・かちはやひ・あめのおしほみみのみこと)は『古事記』では、アマテラス(天照)とスサノオ(素戔嗚)の誓約(うけい、うけひ)の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて(噛み砕いて)生まれた五皇子(神)の長男。 『日本書紀』の一書では次男。 勾玉の持ち主であるアマテラスの子としている。 高木神(高御産巣日神・たかみむすび)の娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師 比売)との間にアメノホアカリ(天火明) とニニギ(邇邇芸)をもうけた。 葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と高天原の天照大御神に報告し天降らなかった。 タケミカヅチ(武甕槌、建御雷)らによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下る。 オシホミミは「天降りの準備をしている間に、子のニニギが生まれたので、この子を降すべきでしょう」と答えた。 アマテラスと高木神は、ニニギに葦原の中つ国の統治を委任し、天降りを命じ、ニニギが天降った。
2017年06月24日
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鈴鹿サーキットの最寄り駅、近鉄白子駅東口かた徒歩2分の場所に、「勝速日神社」がある。 「勝速日神社」は白子本町の氏神様(地域の神様)。 勝、速い、日本、ということで、8耐開催前や、F1GPに日本人選手が参加しているときに参拝者が多い。 F1ウィーク期間中、宮司に常駐して頂き、絵馬をかけて祈願する企画が鈴鹿モータースポーツ友の会により実施されたこともあった。 主祭神は、神社の名にある正勝吾勝勝速日天忍穂耳命,(まさかつあかつ・かちはやひ・あめのおしほみみのみこと)。 由緒には「四柱を主神としている」とある。 「マサカツアカツ(正勝吾勝)」は「正しく勝った、私が勝った」、「カチハヤヒ(勝速日)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、誓約(うけい、占い)の勝ち名乗り。 「アメノオシホミミノミコト」は、天照大神とスサノオの誓約(うけい)によって男神・スサノオから産まれた5人の子供の長男。 稲穂の神、農業神。 他の祭神 建速素戔嗚尊(けたはやすさのおのみこと) 櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと) 天御蔭命(あめのみかげのみこと) 武甕槌命(たけみかづちのみこと) 経津主命(ふつぬしのみこと) 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 天美津玉照比売命(あめの みつたまてるひめのみこと) 正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊、天児屋根命、天美津玉照比売命は天孫系、天津神。 建速素戔嗚尊、武甕槌命、経津主命は大元神。 櫛稲田姫命は出雲系、国津神。 勝速日神社 「鈴鹿8耐地元チーム・ライダー壮行会&安全祈願」が行われました 2014.7.21 鈴鹿モータースポーツ友の会 7月21日(月・祝)、近鉄白子駅東口の勝速日(かつはやひ)神社で、今週末に迫った世界耐久選手権「”コカ・コーラ ゼロ″鈴鹿8時間耐久ロードレース」に参戦する地元チーム・ライダーの壮行会と安全祈願が執り行われました(主催 : NPO法人 鈴鹿モータースポーツ友の会)。 …(略)… 由緒 当勝速日神社は文明(室町時代)以前の創建と言われ 創建時は八重賀岐神社として素戔嗚尊(牛頭天王)と (出雲の国で八岐大蛇を退治された)櫛稲田姫の二柱 が祀られていた。 祭神は正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊、建速素戔嗚命 の二神と天御蔭命、櫛稲田姫命の四柱を主神としてい る。寛永十一年八重垣神社の神域に龍源寺の境内に 記されていた勝手明神(天之忍穂耳命 天御蔭命)の 二柱を遂し元禄に至るまで二柱を相並べて祭祀し奉り 元禄以後一社殿として、近郊の多くの人々の信仰を集 めた。 明示四十一年附近の小祠を併せて字境の春日神社(祭 神)武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売命を合祀 し勝速日神社と単称され主神は英邁優秀福耳をもたれ た尊で特に勝運に優れ人々を慈しみ御神徳を授け給い 五穀豊穣 商売繁盛 学問向上と崇敬者の進行を深め ている。 勝速日神社
2017年06月24日
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男系の女性宮家創設に反対する声があるが、「皇室が滅びてしまえばよい」とでも考えているのか。 男系男子だけでは、日本の皇室は血脈が絶えてしまう可能性が客観的にみられる。 天皇陛下ご自身の見解をお示しいただきたくなる。 皇室と神社本庁の関係 皇位継承問題で歴史の岐路に 2016年10月26日 NEWSポストセブン …(略)… 8月に天皇陛下が「象徴としてのお務めについてのお言葉」を発せられた。 「生前退位」による皇位継承問題で皇室典範改正が議論されるとともに、一部では女系天皇論も熱を帯びている。 皇統をめぐる男系・女系論は2006年に悠仁親王が誕生される直前にも議論されていた。 神社本庁は、小泉政権下で皇室典範改正に揺れた2005年、総理に提出された有識者会議報告書に真正面から反対し、「皇室典範改正問題に関する神社本庁の基本見解」で明確に男系維持の主張を表明した。 〈皇位は、百二十五代にわたって一つの例外もなく男系により継承されており、天皇を中心に国家・社会の安寧と秩序が保たれてきた。 この歴史的な重みは、現今での「制度的安定」を主たる理由として軽々に斥けられてよいものではない〉 …(略)… 女性天皇も存在したが、125代にわたって一つの例外もなく男系により継承されているとはどういうことか。 日本では過去に8人10代の女性天皇が存在したとされる。 彼女ら全員が男系祖先に天皇を持つ男系女性天皇。 全ての伊女性天皇は独身(寡婦か未婚)で即位し、譲位以後も独身を通した[。 これまではそうだった。 これからも「そう」でよいのか。
2017年06月23日
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神社本庁の百合丘職舎は、基本財産のうちのかなりの部分を占める“虎の子”。 目録に記された簿価は土地と建物を合わせて7億5,616万円。 3億円程度で売買可能とされた基本財産が随意契約により1億8,400万円で売却された。 百合丘職舎の売却益で購入したのは、「危機管理用の新たな職舎」という名目の渋谷区代々木の中古の高級マンション。 「入居予定者」は職舎の売却時、本庁総務部長だった小野崇之氏と、秘書部長で、現在は小野氏の後任の総務部長になったS氏。 小野氏が宇佐神宮(大分県)の宮司に栄転し、2戸購入予定だったものが、S総務部長が入る1戸、7,260万円の購入となった。 神社本庁で不可解な不動産取引 刑事告訴も飛び出す大騒動勃発 週刊ダイヤモンド編集部+ ダイヤモンド・オンライン編集 2017.6.21 DiAOMOND online …(略)…最終的に3億円超になった不動産を1.84億円で売却 事の発端は、一昨年の2015年10月までさかのぼる。 本庁の議決機関で、全国の神職などから選出される「評議員会」において、本庁が所有し、20世帯以上が入る職員用宿舎「百合丘職舎」(川崎市)を、新宿区の不動産会社「ディンプルインターナショナル」に売却することが承認された。 その額は、1億8400万円だった。 ところが、売買契約日の同年11月27日、本庁からディンプルへ売却されるかたわらで、同じ地方銀行の別室において、もう一つの不動産売買契約が交わされる。 ディンプルから東村山市の不動産会社A社への“即日転売”だ。 「ディンプルに売られる」とだけ説明されていた本庁の役員会は、ふたを開けてびっくりしたという。 その上、A社への売却額は、ディンプルへの売却額1億8400万円よりも高い「2億円を大きく超える金額だった」と別の本庁関係者は明かす。 この取引について、不動産取引に詳しい弁護士や不動産業者は、「経緯を見る限り、『三為(さんため)契約』を使った典型的な“土地転がし”だろう」と指摘する。 三為契約とは、民法の「第三者のためにする契約」の略称で、簡単に言えば、3社の間で不動産を転売する際に、要件を満たせば途中の登記を省略することができるというもの。 だが、「買値よりも2〜3割の金額を上乗せして転売するケースが多い」(不動産関係者)ため、合法ではあるが各地で問題となっているスキームだ。 ただ、話がこれで終われば、「不動産取引に疎い宗教法人が、不動産会社に合法的に手玉に取られた」という話。 ところがだ。昨年5月、今度は、A社がさらに大手ハウスメーカーB社に不動産を転売、その価格が一気に3億円超に跳ね上がったというからひっくり返る。原則売却禁止の基本財産を 随意契約でたたき売り そもそも、今回、対象となった百合丘職舎は、本庁の「基本財産」だ。 基本財産とは「本庁永続の基幹となる財産」(神社本庁規)であり、やむを得ない事情がある場合を除いて原則、「処分することはできない」(同)とされている。 …(略)… 最終購入者のB社は躯体に瑕疵を発見し、買い戻しか、損害賠償を請求を検討している。 神社本庁の関係者やディンプル社が、実は瑕疵を隠して転売したのでという疑惑が生じた。 瑕疵込みで1億8400万円という売価は不適切とはいえない。 だが瑕疵を隠して販売したとなると詐欺に該当する可能性もある。 ディンプル社長のT氏は、実は『日本メディアミックス』という全国の神社が半強制的に購入させられている季刊誌『皇室』の会社の社長。 日本メディアミックスの取締役に、日本レスリング協会長を務める福田富昭氏がいる。 福田氏は、本庁の元幹部である神政連会長の打田文博氏で打田氏は、本庁の総長である田中恆清氏と盟友という関係。 神社本庁 公式サイト1890年(明治23年)11月29日に施行された大日本帝国憲法第28条により、国民の「信教の自由」が認められた。 神社は国家から宗教として扱われないまま国家祭祀を公的に行う位置づけとされた。1898年、全国神職会結成。1900年、内務省社寺局が神社局と宗教局として再編され、神社と仏教が区別された。 全国神職会は後に、大日本神祇会と改称し、神社本庁の前身団体の一つとなる組織となった。 1940年、神祇院設置。1945年(昭和20年)10月4日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が「思想、宗教、集会及言論の自由に対する制限」を撤廃し「天皇、国体及日本帝国政府に関する無制限なる討議」を認める「自由の指令」を公布した。 12月15日、「神道指令」を日本政府に命じて神祇官を廃止し、神社を国家から分離。 12月28日、「宗教団体法」廃止。「宗教法人令」が公布され即日施行。1946年、大日本神祇会を改称し、宗教法人 神社本庁 成立。 ・「統理」は憲章に基づき、神社本庁を総理し代表す る。 また日本会議で顧問を務める。・「神社本庁庁規」に基づく宗教法人としての代表役 員は総長。 現任は石清水八幡宮宮司で京都府神社庁長・田中恆清。 田中は日本会議副会長。・地方機関として各都道府県に1つずつ神社庁を置き、 各神社庁の配下に支部を置く。・全国の約8万社の神社が、神社本庁によって管轄され る。 神社本庁が神職の進退等に介入する別表神社は350社。
2017年06月23日
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花の窟を訪れたので、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を葬ったという説もある、近くの産田神社を訪れる。 産田神社は花の窟と同じ熊野市有馬町の西方1.3キkmにある。 駐車場10台。 産田の名称は、伊奘冉尊が出産した場所によるとされる。 葬った説より、こちらの説を信じたい。 主祭神は花窟神社と同じく伊弉冉尊と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)。 古代の神社はご神体のみで建物がなかった。 『神籬(ひもろぎ)』(神の宿るところ)と呼ばれる石で囲んだ太古の祭祀台(祀り場)へしめ縄を張り神を祀ったとされる。 産田神社には神籬が左右の2カ所残っており、稀少とされる。 神徳は神社の名前の通り、安産・子授け。 神殿の手前の石が敷き詰められた場所は用意された履物に履き替えて上がることができる。 安産祈願の際、目を閉じて拾った石が丸いと女子、細長いと男子が産まれるとされる。 もう一柱の主祭神、火の神・カグツチノミコトを生んだイザナミは、出産時に陰部に火傷を負い、これがもとで死んでしまう。 怒ったイザナギは十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」でカグツチノミコトを切り刻んで殺した。 カグツチノミコトの神産みの力も凄い。 カグツチノミコトの血から10神が生まれ、遺体から8神が生まれた。 カグツチノミコトは火の神、鍛冶の神として信仰された。 産田神社の例大祭は1月10日の奉飯(ほうはん)の儀。 神事の最後、直会(なおらい)の際に、汁かけ米飯、骨付きさんま寿司、赤和え(アカイ〈生魚の唐辛子和え〉)、神酒からなる「奉飯」と呼ばれる膳が振舞われる。 このことから 『さんま寿司発祥の地』と称している。
2017年06月16日
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パワースポットとして取り上げられることが多い、花窟に参拝するため三重県熊野市を訪れる。 駐車場35台、バス2台。 神社の前の浜は、七里御浜海岸。 熊野市から紀宝町に至る約22Km続く日本で一番長い砂礫海岸。 「日本の渚百選」や「21世紀に残したい自然百選」に選定されている。 花窟神社の主祭神は伊弉冉尊(伊弉冊尊、いざなみのみこと)と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)。 『日本書紀』に伊弉冉尊が出産時に、火の神である軻遇突智尊の出産時に陰部を焼かれて死んだ(神去った)。 遺体は「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。 現在も社殿がなく、巨岩の麓にある窪みのご神体を直接拝む。 太古の自然崇拝の心を色濃く残している。 「ほと穴」と呼ばれ高さ6m、幅2.5m、深さ50cmの[大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地とされる。 「ほと」は女性の外陰部。 白い丸石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられている。 一説には、伊弉冉尊を葬った地は産田神社(うぶたじんじゃ)とされる。 その説では花の窟は軻遇突智の御陵とされる。 花窟神社では、伊弉冉尊の拝所の対面にある高さ18メートルの巨岩が、軻遇突智の墓所とされている。 古事記、延喜式神名帳に「花窟神社」の名はなく、墓所とされていたものとみられ、神社となったのは明治時代。 例大祭として、2月2日と10月2日に御縄掛け神事が行われる。 約10mの三旒(みながれ)の幡形、下部に種々の季節の花々や扇子等を結びつけたものを、約170mの大綱に吊し、大綱の一端を岩窟上45m程の高さの御神体に、もう一端を境内南隅の松の御神木にわたす神事。 窟(岩屋、石屋)とは岩壁に自然にできた洞穴。 または、岩に横穴を掘って住居としたものを指す。 紀の国や花の窟にひく縄の ながき世絶えぬ里の神わざ 本居宣長 三熊野の御浜によする夕浪は 花のいはやのこれ白木綿(しらゆう) 西行
2017年06月16日
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瀧原宮参拝の後、丹生神社も参拝する。 丹生神社(にうじんじゃ) 丹生神社は、三重県多気郡多気町丹生に鎮座する神社。 延喜式神名帳、飯高郡九座に列せられた由緒ある神社。 丹生神社は土を司る埴山姫命を祭神とする。 鉱山を司る金山彦命も祀られている。 水銀を意味する丹がポイント。 丹生山神宮寺(丹生大師) 丹生神社と並んで丹生大師と呼ばれる真言宗山階派の寺院、神宮寺(じんぐうじ)がある。 西国薬師四十九霊場三十五番札所、東海三十六不動尊霊場二十四番札所、三重四国八十八ヶ所七十五番札所、伊勢西国三十三観音霊場十二番札所。 丹生神社の神宮寺で、高野山が女人禁制だったのに対し、女性も参詣ができたので「女人高野」とも呼ばれた。 HPに「当山は、正式には「女人高野丹生山神宮寺成就院」と言い、地元の皆様からは 「丹生大師」として親しまれております」とある。 丹生大師 通称の丹生大師は空,海(弘法大師)を指す。 宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願により勤操によって開創されたと伝えられる。 仁王門、姿見の池、薬師堂、鐘楼、護摩堂、本堂がある。 石段か石段の横にある回廊を登ると、大師堂、文殊堂、四国霊場巡りがある。 隣接する丹生神社だけでなく、神仏摺合がしっかりと残っており、大師堂の奥に丹生都姫神社がある他、愛宕神社、稲荷神社がある。 丹生都比売伝承 丹生は、「赤い(丹)土を産する(生)場所」の意味である。 辰砂や水銀を産出したことに由来しており、水銀鉱山である丹生鉱山があった。 『続日本紀』に伊勢から朱砂(辰砂)が献上されたとの記述がある。 中世、丹生に日本で唯一、水銀座と呼ばれる座が存在した。 室町時代、丹生の水銀は、伊勢白粉の不可欠な原料として使用されたが、中国からの輸入水銀に転換された。 お伊勢参りの流行とともに、伊勢神宮の御師が諸国の檀那に大神宮のお祓いと共に白粉を配るようになり、伊勢白粉は全国に広まった。 近世の丹生は、伊勢商人発祥の地として、また、女性が訪れることができる丹生山神宮寺(丹生大師)の門前町、宿場町として栄えた。 1953年、最後の窯元が廃業して伊勢白粉は途絶した。 伊勢白粉の秘密
2017年06月08日
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瀧原宮の後、佐奈神社に参拝。【本 殿】 佐那神社は、三重県多気郡多気町仁田に鎮座する神社。 近代社格制度に基づく旧社格は県社。 伊勢神宮皇大神宮(内宮)に相殿神として祀られている天手力男命(あまのたぢからおのみこと)を祭神とする。 式年遷宮により発生する伊勢神宮の古材の払い下げを受けて社殿が造り替えられるなど、伊勢神宮との関連の深い神社。 本殿は、豊受大神宮(外宮)に準じた神明造。 主祭神は、天手力男命と曙立王命(あけたつのおうのみこと)の二柱。 天手力男命は『古事記』の天孫降臨の段に「手力男神者、坐佐那那県也」と記され、曙立王命は『古事記』の開化天皇の段に「此曙立王者、伊勢之品遅部君、伊勢之佐那造之祖」と記されていることが佐那神社の祭神たる根拠となっている。 天岩戸事件、解決のパートナー、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)の和魂、荒魂も並んで祀られている。 手力の大桧もある。 そのほかの祭神は、速玉男命・伊邪那美命・天照大御神・須佐之男命・天忍穂耳命・天穂日命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・多紀理毘賣命・多岐都比賣命・市寸嶋比賣命・火産霊神・倉稲魂命・大山祇神・木花咲耶姫命・事解男命・誉田別尊・猿田彦命・菅原道真公・不詳2座を祀る。 【夫婦杉】 本殿から少し離れたところに夫婦杉がある。 夫婦杉は地上1.5m程で二幹に分かれ大きく成長している。 樹齢180年、幹周約9m、樹高約45m。 通路と周辺が真新しい木の柵で囲まれている。 駒札に、「夫婦杉 江戸時代(西暦1850年頃)よりこの地に植えられ、ここに生き続けている夫婦杉です。素晴らしい神様もお守りし崇敬の皆様を見守っておられる御神木です。」とある。
2017年06月08日
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千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)は、神社などの建造物の屋根に設けられた部材の名称。 三重県内にある計125社の別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を参拝する時の注目点。 千木・鰹木ともに元来は建物の補強が目的だったと考えられている。 神宮(伊勢神宮)の建物については外宮にある「せんぐう館」で、外宮正殿原寸大模型をみながら、専門的解説をきくことができる。 質問にも対応してくれるので、建築に関心がある向きは、外宮に参拝するときに入館し、説明を聞くとよい。 せんぐう館【千木】 千木は屋根の両端で交叉させた部材。 千木は古代、屋根を建造する際に木材2本を交叉させて結びつけ、先端を切り揃えずにそのままにした名残りと見られている。 出雲諸社では、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)。 女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしている。【鰹木】 鰹木は屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材。 「鰹木」の名称は、形が鰹節に似ていることが由来とされる。 鰹木の数は、奇数は陽数(男)・偶数は陰数(女)とされる。 千木の削ぎ、鰹木の数は一般に陰陽、女・男を示していると考えられている。 例外が神宮系。 内宮の祭神天照坐皇大御神・外宮の祭神豊受大御神とともに主祭神が女神とされているにもかかわらず、内宮では千木・鰹木が内削ぎ10本、外宮は外削ぎ9本。 内宮別宮の月讀宮・外宮別宮の月夜見宮は主祭神はともに同じ祭神である月讀尊(つくよみのみこと)(外宮別宮は「月夜見尊」と表記している)と男神。 祭神の男女を問わず内宮系は内削ぎで偶数の鰹木。 外宮系は外削ぎで奇数の鰹木。 摂社・末社・所管社も同様。 千木の削ぎ、鰹木の数は、数多ある天照大神の男神説を勢い付けるものになっている。 天照大御神男神説 出典:Wikipedia 神道において、陰陽二元論が日本書紀の国産みにも語られており、イザナギを陽神(をかみ)、イザナミを陰神(めかみ)と呼び、男神は陽で、女神は陰となされている。 太陽は陽で、月は陰であり、太陽神である天照大御神は、男神であったとされる説である。 …(略)… 天照大御神男神説を聞いて私が連想するのは大本教。 大本は二人の教祖がいた。 一人は開祖出口直、もう一人は出口王仁三郎。 二人にはそれぞれの御霊を表す象徴的呼称があった。 開祖出口直は『変性男子』といい、王仁三郎は『変性女子』と呼ばれ、これは開祖・直のお筆先にも記されていた。 『変性男子』は、体は女だが心は男という意味。 『変性女子』は、体は男だが心は女という意味。 大本の主祭神である『艮の金神』は、お筆先を通じて変性男子、変性女子という言葉をず使い続けた。 天照大御神は男神とするしても、豊受大御神も変性男子にしてしまうと、残念ながら解決した感じがしない。 元が陰陽の組合わせになっていないところが「謎」なのだから止むを得ないが。 天照大御神(陽)と鬼門(東北)に封じ込められた艮の金神(陰)はここでも摺り合わなかった。 その点では、天照=卑弥呼(ヒミコ)、豊受=台与(トヨ)に比定するのは、実に収まりが良い。
2017年06月07日
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瀧原宮を訪れる。 瀧原宮は天照皇大御神の和魂(にぎみたま)、瀧原竝宮は天照皇大御神の荒魂(あらみたま)を祀る。 瀧原宮(たきはらのみや)と瀧原竝宮(たきはらならびのみや)は、伊勢市の西部を流れる宮川の河口から約40km上流の山間、宮川支流大内山川が流れる度会郡大紀町滝原にある。 私は車で松阪から上っていった。 手前で曲がって丹生大師とならんで、埴山姫命、金山彦命を祀った丹生神社(にうじんじゃ)がある。 道路沿いに天手力男命(あまのたぢからおのみこと)を祀った佐奈神社、 瀧原宮からさらに道を登っていけば、大内山牛乳の「大内山ふれあい牧場」「大内山動物園」。 第11代垂仁天皇の皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれる。 元伊勢の中で別宮とされたのは瀧原宮と瀧原竝宮だけ。 倭姫命が、宮川下流の磯宮より天照坐皇大御神(天照大神)を祀る地を探すために上流へ遡った。 宮川支流『大内山川』の流域に「大河の瀧原の国」という美しい場所があったので、草木を刈り新宮を建てた。 だが天照皇大神の神意により、現在の内宮のある伊勢市宇治館町に新宮(五十鈴宮)を建てたため、天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)を祀る別宮となったとされる。 瀧原宮には、瀧原宮と瀧原竝宮と、瀧原宮所管社3社(若宮神社、長由介神社、川島神社)がある。 主祭神不詳の若宮(わかみや)神社に神体を入れる『御船代』を納める御船倉(みふなぐら)が併設されている。 御船倉を持つ別宮は瀧原宮のみとされる。 古殿地・新御敷地と呼ばれる式年遷宮のための空き地が所管社の脇にあり、伊勢神宮に準じて20年ごとに本殿が新築移動される。 他の境外別宮と定められた宮と同じく、神職が参拝時間内に常駐する宿衛屋があり、お札・お守りの授与や、神楽や御饌の取次ぎを行なっている。 瀧原宮(神宮公式サイト より) 瀧原宮、瀧原並宮とも天照大御神の御魂をお祀りし、古くから「遙宮とおのみや」として崇敬を集めています。 瀧原宮は二つの別宮が並立しており、また御船倉を有するなど他の別宮と異なる点が多々あります。 神域内の樹齢数百年を越える杉の木立に囲まれた参道と谷水の流れを利用した御手洗場は内宮を連想させ、神代の昔に誘います。 お参りは瀧原宮、瀧原並宮の順にされるのが一般的です。 御鎮座地 度会郡大紀町872 アクセス JR滝原駅より約1.5km
2017年06月07日
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1944年6月10日、千葉県成田市の「麻賀多(マカタ)神社」の敷地内にある末社「天日津久神社」にて、不思議な出来事起こった。 岡本天明(1897年~1963年)が誰もいない社務所で休んでいたところ、突然右腕が怒張し、激痛が走り出した。 画家である天明は、外出するときは、筆と画仙紙を持ち歩く習慣があり、筆を画仙紙にあてた。 すると勝手に右手が動き出し、文字のようなものが本人の意思と関係なく書き示された。 初めて天啓の書『日月神示』が示された。 その翻訳文が有名な下記の文章。 富士は晴れたり日本晴れ 神の国のまことの神の力を現す世となれる 仏もキリストも何もかもハッキリ助けてシチ難しい御苦労の無い世がくるから ミタマを不断に磨いて一筋のマコトを通して呉れよ 今一苦労あるが この苦労はミタマを磨いておらぬと越せぬ この世始まって二度とない苦労である 自動書記を体験する以前に、天明は大本(教)と関わっていた。1920年、22歳の時に天明は大正日日新聞社に入社し、大本と関わる。1921年、第一次大本事件で失職。1925年、 人類愛善新聞(大本の機関紙)の創刊に際し編集長に就任。1935年、第二次大本事件、政府の徹底した弾圧により大本の組織、施設は壊滅状態。 その後16年の間、天明は神託を記し続け、1961年、最後の「日月神示」を書記して2年後、68歳でこの世を去った。 天明を通じて示された大量の文字は、一から十、百、千、万といった漢数字と、かな、独特の記号が混じった文章であったため、天明自身でさえ意味が分からなかった。 天明の死後も妻の岡本三典や様々な人々が、解釈に挑み、次第に解読がすすんだ。 1976年、『原典日月神示』、1991年、神示の第二訳私解(一二三神示第二仮訳)を三典が発表した。 研究の結果分かったのは、現在、悪の世になっている事を神は見抜いているので、神のしかけで悪は消滅し、三千世界に大変革が起こり「ミロクの世」に変わるといった内容。 「世の中の九分九厘が悪神の天下になったときに、最後の一厘で神業が発動され、大どんでん返しがおこり、世の建て替え建て直しが一気に始まる」という、「神一厘の仕組み」が発動するという。 ただし、日月神示の読み方や解釈は8通り有ると神示にあり、その内の1つ、2つに成功したけとの認識が『日月神示』の研究者の間では一般的。 神から下りてきた言葉の自動書記、悪の世が厳しい選別(三千世界の大洗濯、大峠)を経て劇的変化を遂げ、最後に一気に良い世の中に変わる(三千世界の大建替)という転換の構造は、大本(教)が示すところも日月神神示も同じ。 この世に未来と未来への備えを伝えてくれた主な神は、大本では「艮の金神(うしとらのこんじん)」と名乗った「「国之常立神(くにのとこたちのかみ)」。 天明を通じて「天之日月神」により伝えられたのも「国之常立神」の言葉とされる。 出口直のお筆先(大半ひらがな)に王仁三郎が漢字をあてたのが『大本神諭』。 直の死後発表されたのが、出口王仁三郎の著書『霊界物語』。 天明の自動書記を三典が表記したのが『原典日月神示』。 その解釈が『一二三神示第二仮訳』。 この関係も双方似ている。 日本ではいつの時代も「末法の世」とされてきたようだが、今後はいかがか、神の声の下りてこない凡人には不明。
2017年06月07日
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三輪山登拝後、大神狭井神社神社から山野辺の道で徒歩30分のところに「三ツ鳥居」が有名な檜原神社がある。 檜原神社は、大神神社の摂社の一つで、元伊勢の始まりの地。 鳥居は大神神社と同様に、2本の柱にしめ縄を渡す形式。 ご祭神は天照大神若御魂神・伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉冊命(いざなみのみこと)。 本殿の脇に「豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)」がある。 三ツ鳥居側から鳥居をみると、真正面に聖なる山とされた「二上山」が見える。 倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神を磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を立てて磯城の厳橿の本にはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられる。 倭姫命は垂仁天皇26年、皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建した。 奈良のパワースポット! 石上神宮&檜原神社&大神神社が凄い! 2016年8月24日 スピリチュアルな習慣
2017年04月28日
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大神神社の宝物収蔵庫の前をすぎて、階段状の登り坂にかかると、両側にさまざまな薬草や薬木が植えてある。 この「久すり道」を徒歩5分ほどで狭井神社に着く 参道の途中の小さな摂社「磐座神社(いわくらじんじゃ)」は「少彦名命(すくなひこなのかみ)」が祀られている。 少彦名命は、大物主大神と協力して国土を開拓し、あらゆる生産方面の開発につとめ、医薬治療の方法を定めた神で、「神農さん」とも呼ばれる。 大神神社の摂社、狭井神社の正式名称は「狭井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわのあらみたまじんじゃ)」。 主祭神は大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ )で病を鎮める神。 拝殿の裏手で霊験あらたかな湧き水「くすり水」などがいただける。 薬井戸の近くに御神水を使った「水琴窟」があり、竹筒に耳を当てると、水が落ちる澄んだ音が響く。 大神神社の御神体である三輪山への登拝口が狭井神社の境内にある。 三輪山は御神体であり山そのものが神域となっている。 江戸時代までは「神域」として神官僧侶以外の入山は禁止だった。 山上に高宮神社(こうのみやじんじゃ)が鎮座する。 ご祭神は「日向御子神」。 その先の杉木立の中に奥津磐座群(オクツイワクラ)がある。 神体山登拝申込受付所で登拝料を払い、受付より渡される襷(たすき)を首にかけて登拝する。 入山中の撮影・飲食・火気の使用、草木の採取は禁じられている。 水分補給のためのミネラルウォーターやスポーツドリンクの飲用は認められている。・入山初穂料一人300円・入山受付は9時~14時まで。 16時までに登拝口に戻ること・正月三日間と祭典日(2月17日、4月9日、4月18日、10月24日、 11月23日)、悪天候の日などは登拝不可・受付所で住所・氏名・電話番号を申し出て「三輪山登拝証」となる鈴付きの木綿襷を受け取り、それを首にかけて登拝する 社務所脇にコインロッカーあり。 山中にトイレなし。 9時25分、大神神社駐車場着。 大神神社、狭井神社参拝後、三輪山に登拝。 狭井神社参拝境内に戻ったのは11時30分。 事務仕事で座ってばかりの身にはけっこうハードだ。 三輪山(みわやま)、標高467.1m、なだらかな円錐形の山。 登拝の行程は上り下り約4kmで、所要時間は2時間ほど。 急坂、浮石、雨天時はぬかるみがあるので滑りにくい靴の着用と足元に注意。 【撮影禁止】呼ばれた人しか登れない 最強のパワースポット三輪山とは?? NAVER 古墳時代、三輪山山麓に次々と大きな古墳が作られた。 この一帯にヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したと考えられている。 第10代の崇神天皇(行灯山古墳)、第12代の景行天皇(渋谷向山古墳)の陵があるとされる。 箸墓古墳(はしはかこふん)は宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓に治定されている。 邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかとの説もある。 主な理由は・この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致すること・後円部にある段構造が前方部で消失することから、当初は円墳であり前方部後世に付け加えられた可能性があること・大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること
2017年04月28日
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4月27日、大神神社に参拝する。 大神神社は、ご祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)がお山に鎮まるために、古来本殿は設けずに拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという原初の神祀りの様(古神道の様式)を伝える我が国最古の神社の一つとされる。 大物主大神は蛇神であるとされ、水神と雷神としての性格を合わせ持つ。 稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として特段篤い信仰を集めている。 日本国の守護神(軍神)、氏族神(三輪氏の祖神)である一方で祟りなす強力な神(霊異なる神)ともされている。 『古事記』によれば、大物主大神が出雲の大国主神の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとある。 「大神」と表すように神様の中の大神様として尊ばれてきた。 第十代崇神天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤く祀られた。 平安時代、神階は貞観元年(859)に最高位の正一位となった。 延喜式の社格は官幣大社で、のちに大和国一之宮となり、二十二社の一社に列せられた。 明治時代に定められた社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 スピリチュアルスポットSP 奈良~大神神社編 2013年3月16日 オーラの泉実況 ~江原啓之さん、三輪明宏さんの言葉を実況しています~
2017年04月28日
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歴史は勝者によって作られる。 歴史は文献等に残されたものを中心に組立てられるので、記録を残すことができる者の観点から歴史が語られる。 乙巳の変 例えば大化の改新の始まりとされる、645年の「乙巳の変」 。 これは皇居での儀式の最中に、政治の実験を握った蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足の一派に暗殺された事件。 祖父、蘇我馬子(うまこ)は聖徳太子とともに仏教拡大を行い、神道派を追い込み、天皇の補佐の最高の位「大臣(おおおみ)」となった。 父、蘇我蝦夷(えみし)は、蘇我馬子の「大臣」を継ぎ、朝廷内で蘇我氏の地位を固めた。 推古天皇の次の天皇を決めるとき、山背大兄王(やましろのおおえのおう、聖徳太子の子)派と、田村皇子派に分かれたが、蝦夷は自分の思いどおりになる田村皇子を応援し、天皇にした。 政治の実権を掌握した父から、蘇我入鹿は「大臣」を引き継いだ。 入鹿は、自分の思い通りになる古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を、天皇にしようとした。 そのため、もうひとりの天皇候補であった山背大兄王(聖徳太子の子)が邪魔だったので聖徳太子の一族を、皆殺しにしたとされる。 入鹿殺害の報を聞いた父・蝦夷は、自宅に火を放って、自害した。 中大兄皇子と中臣鎌足らによって、蘇我氏は滅んだ。 古事記、日本書紀の編纂 乙巳の変で蘇我蝦夷が自害した時、朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上。 中大兄皇子は、百済再興をはかった663年、白村江の戦いの敗北で唐と新羅連合に敗北。 近江大津宮へ遷都し、668年、天皇に即位し、天智天皇となった。 史書を編纂する余裕のない天智天皇に代わり、弟・天武天皇の命により記紀の編纂が始められた。 まず、稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)などを基に『古事記』が編纂された(712年)。 その後に、残された歴史書や伝聞を元に『日本書紀』が編纂された(720年)。 記紀は「乙巳の変」の勝者により作られた。 即ち、後世に残したくない歴史の抹殺がはかられた。 歴史は書き換えられたと推定される。 671年9月、天智天皇は病気で崩御。 天智天皇は大海人皇子を後継に願ったが、大海人は拝辞して出家した。 天智天皇の崩御後、壬申の乱で大海人皇子が次期天皇とされた大友皇子に勝利して、天武天皇となった。 いったん断り闘って即位。 天武系統の天皇が称徳天皇まで続いた。 だが、その後、光仁天皇以降、天智系統が続く。 権力闘争は奇怪至極。
2017年04月18日
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所詮歴史は文物に裏付けられた「作り話」。 学説、古文書の発見、遺物の発掘等によって、内容は変化する。 私が小学生の頃、縄文時代は狩猟採集を生業としているとされた。 その後、大規模集落で定住していた遺跡が発掘され、後期から晩期は焼畑による稲作をしていたことも判明。 歴史は時代の支配者が作るということで、両親の時代は敗戦前後で歴史が大きく転換。 遺物とともに文献が重視されているが、文献はまさしく勝者の記録。 古事記、日本書紀だって時の政権に都合の悪いことは書き残すわけがない。 偽書とされたものが本物である可能性だって考えられる。 2017年2月、文科省は中学校の次期指導要領案で「聖徳太子」を「厩戸王」に変更した。 真面目なのだろうが、ややこしいことをしたものだ。 その後「生徒の混乱を招く」と指摘を受け、「聖徳太子」に戻す方向で最終調整している。 次期指導要領で「聖徳太子」復活へ 文科省改定案、「厩戸王」表記で生徒が混乱 「鎖国」も復活 2017年3月20日 文部科学省が2月に公表した中学校の次期学習指導要領改定案で、現行の「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」に変更したことについて、文科省が学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、現行の表記に戻す方向で最終調整していることが19日、関係者への取材で分かった。 改定案で消えた江戸幕府の対外政策である「鎖国」も復活させる方向。 修正した次期指導要領は月内に告示される見通し。 現行指導要領では小中学校とも「聖徳太子」を授業で扱うと例示したが、今回の改定案では、人物に親しむ小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、史実を学ぶ中学で「厩戸王(聖徳太子)」に変更。 文科省は、歴史学では「厩戸王」が一般的で、「聖徳太子」は没後の呼称だが、伝記などで触れる機会が多いとしている。 …(略)… 聖徳太子は飛鳥時代、用明天皇の第二皇子として574年に生まれた。 イエス・キリストばりに厩戸(うまやど)・前にて出生したので厩戸皇子(うまやどのみこ)と命名されたとの伝説がある。 蘇我氏興隆の地「馬屋戸」(奈良・御所市)からきているとする説もある。 「聖徳太子」は後世の諡号。 聖徳太子には他にも数々の伝説があり、虚構説も数多い。 推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、遣隋使を派遣するなど中国の文化・制度に習い、冠位十二階や十七条憲法を定めるなどして、天皇中心の中央集権国家体制の確立を図った。 また仏教を取り入れ神道とともに信仰し興隆に努めた。 ゆかりの寺院は大阪市天王寺区の四天王寺、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺(斑鳩寺)、兵庫県揖保郡太子町の斑鳩寺(播磨)など。 太子建立七大寺とは、 四天王寺、法隆寺、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)を指す。 ゆかりの神社も多い。 聖徳太子創建とされる四天王寺七宮 は、小儀神社(四天王寺東門前)、土塔神社(同南門前)、河堀稲生神社(天王寺区大道)、久保神社(同勝山)、大江神社(同夕陽丘町)、堀越神社(同茶臼山町)、上之宮神社(同上之宮町)。 大阪市中央区玉造の玉造稲荷神社。 奈良県生駒郡斑鳩町龍田の龍田神社。 神戸市東灘区御影の御影の綱敷天満宮。 滋賀県竜王町鏡山の竜王宮。 奈良県生駒郡安堵町の主祭神が素戔嗚尊の飽波神社など。 622年、48歳のとき、前年暮れに太子の母が亡くなり、年が明けて太子も床に伏した。 2月に4人の妻のうちの膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が他界する。 翌22日に太子も他界した。 3ヶ月間に3人亡くなっていることから伝染病ではないかとの推測もある。 “王家の谷”の呼び名もある大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が、宮内庁により墓所と比定されている。 太子、母、膳郎女の3人が合葬されていることから「三骨一廟」の墓となった。
2017年04月16日
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隣接する椿会館の「椿とりめし」、おおぶりの「椿草もち」が名物。 現地で「椿とりめし」を賞味し、大ぶりの「椿草もち」を土産にする。 椿大神社(つばきおおかみやしろ)は、式内社、伊勢国一宮。 神社本庁の別表神社。 猿田彦大神を祀る神社の総本社とされる。 主祭神 猿田彦大神 相殿 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと) - 瓊瓊杵尊の母神 配祀 天之鈿女命(あめのうずめのみこと) - 猿田彦大神の妻神 木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと) 前座 行満大明神(ぎょうまんだいみょうじん) 猿田彦大神は、『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する国津神。 国津神は天孫降臨以前からこの国土を治めていたとされる土着の神(地神)。 高天原または高天原から天降った神々が「天津神」。 猿田彦大神は高千穂に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した後、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)と御一緒に本拠地である「伊勢の狭長田(さながた)五十鈴の川上」の地に鎮座し、全国の開拓にあたったとされる。 中世には、庚申信仰や道祖神と結びついて信仰された。 『古事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記する。 本殿の裏にある「愛宕社」にも詣でる。 山道を登るのはけっこうきつかった。 入道が岳の山頂の社に行ける日はくるだろうか。
2017年04月10日
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伊雑宮も伊勢神宮も、崇神天皇の名を受け倭姫命が天照大神を祀る場所として探した地。 倭姫命が、天照大神の社を、伊勢の五十鈴川のほとりに建てることを決めたとされる。 また、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の際、草薙剣を授けて難を救った逸話も伝えられている。 倭姫命は初代御杖代(みつえしろ)である豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)(第十代崇神天皇の皇女)が高齢のため、後を引き継いだ。 御杖代は天照大御神の御霊代(御神体)を身に託され、神を祀り、神の言葉を取り次いだ巫女のような存在で、斎宮(いつきのみや)。 斎宮歴史博物館 三重県多気郡明和町 倭姫宮は、内宮と外宮を結ぶ御幸道路の中ほどの倉田山にある。 倭姫宮の創建は1923年(大正12年)と、比較的新しい。 倉田山の西側には、神宮徴古館・農業館、美術館、神宮文庫等がある。 魏志倭人伝の卑弥呼(姫巫女→日巫女→ヒミコ)、台与(豊受神宮→トヨ)に比定する説もある。 倭姫命(やまとひめのみこと。生薨年不明) 出典:Wikipedia 倭姫命は、記紀に伝える古墳時代以前の皇族。 第11代垂仁天皇の第4皇女。 母は皇后日葉酢媛命。 天照大神を磯城の厳橿之本(笠縫神社、檜原神社比定)に神籬を立てて、(垂仁天皇25年3月丙申)伊勢の地に祀った(現伊勢神宮)皇女とされ、これが斎宮の直接の起源であるとも伝えられている。 経歴 第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる(御杖代は依代として神に仕える者の意味であるが、ここでは文字通り「杖の代わり」として遷幸を助ける意味も含まれる。 ちなみに、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれる)。 後に、東夷の討伐に向かう日本武尊(尊は倭姫命の甥王にあたる)に草薙剣を与えている。 伊勢では、伊勢の地に薨じ、尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝える。 伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女で、これが制度化されて後の斎宮となった。
2017年03月27日
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飛鳥昭雄氏と八咫烏が会見を続けているのも、ついに隠されてきたものが表に現れる時期を迎えるということかも知れない。 先日、伊勢神宮外宮と月讀宮に参拝。 猿田彦神社にも参拝。 外宮にあるせんぐう館を見学。 内宮に提供される神饌(模型)が3組1セットになっていた。 伊勢の神の3神別体はやはり真実だったのか。 もう一柱は鬼門に封印された地神、須佐之男命(国常立尊)か? 伊勢神宮は、内宮・外宮以外に、もう一つ重要な宮があり、3つの宮で成り立っているとされる。 その3つ目が本伊勢を称する「伊雑宮」。 そうだ、伊雑宮に行こう。 【伊雑宮】 伊雑宮は「いざわのみや」とも「いぞうぐう」とも呼ばれる。 伊勢神宮(皇大神宮) 内宮の「別宮」のひとつ。 神宮から遠く離れた三重県志摩市磯部町上之郷にあることから、度会郡大紀町の瀧原宮とともに、「天照大神の遥宮(とうのみや)」とも呼ばれる。 創立は第11代垂仁天皇の御代。 皇大神宮ご鎮座の後、倭姫命が御贄地(みにえどころ)を定めるため志摩の国に入ったところ、伊佐波登美命(いざわとみのみこと)に迎えられ、この地に社を創建したとされる。 神田を持つ唯一の別宮 毎年6月24日に行われる御田植式は、「磯部の御神田(おみた)」の名で国の重要無形民俗文化財に登録されている。 農作物の豊作祈願のための祭りであると同時に、漁業のための祭りでもある。 祭りの中盤で「竹取神事」も行われる。 祭神は天照坐皇大御神御魂 (あまてらしますすめおおみかみのみたま)。 【先代旧事本紀大成経】 天皇家の始まりを聖徳太子が編纂させた史書として「先代旧事本紀大成経」がある。 聖徳太子(574-622年)没後、延宝7年(1679)に、その「先代旧事本紀大成経」が、伊雑宮の神庫から神道家の永野采女によって発見された。 その内容が、大変な反響を呼んだ。 内宮の別宮である伊雑宮が、本来の伊勢神宮であるとの記述があったからだ。 この内容に伊勢神宮は猛反発。 「先代旧事本紀大成経」は偽書とされ禁書となり、出版した版元、戸嶋惣兵衛 は追放、永野采女や伊雑宮の神官らは流罪となった。 伊雑宮は縮小され、繁栄を競った内宮、外宮から隔離状態となった。 【本伊勢】 地図で伊雑宮と伊勢神宮内宮・外宮を結んで行くと、その先に伊雑宮とともにただ2社、本伊勢を称する籠(この)神社がある。 元伊勢は、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を奉斎した地の指す。 両社は本伊勢。 籠神社は、豊鋤入姫命が還幸された地とされる。 両社とも裏社紋はカゴメ紋・六芒星・・・そうダビデの星。 20171月。 主祭神が熱田大神・草薙神剣の熱田神宮に行った。 冒頭に記したように3月、外宮(主祭神 豊受大御神 (とようけのおおみかみ)と月讀宮(つきよみのみや)に行った。 月讀宮は内宮の別宮で祭神は4柱。 月讀宮:月讀尊(つきよみのみこと)、月讀荒御魂宮:月讀尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)、伊佐奈岐宮:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊佐奈弥宮:伊弉冉尊(いざなみのみこと)。 看板にこの順にお参りするよう記されていた。 そして伊雑宮に行こうと思う。 志摩市観光協会発行のウォーキングマップ「磯部めぐりコース」に沿って伊雑宮から歩いた。 約2時間。 「おうむ岩」は予想以上のちょっとした山登りだった。 相当パワーを得てもいいはずだが、多分わが身はマイナスから始まっているのであろう。 特別感じるところはない。 あるいは、この年で身体の不自由を感じないことが神のご加護に預かった証か。 帰りに磯部町の天岩戸、恵利原の水穴にも寄った。 こちらも山歩き。 よく歩いた1日だった。
2017年03月27日
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