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先日、編集長は突然ながら札幌に行ってきました。震災の対応や何やらで県内を駆け回る日々ですが、ひととき別世界に隔離されたような気持ちで、しかし逆に、改めて震災は何だったのかを突きつけられたような気がしました。暫定運用中の仙台空港は、メカニックの出入口らしき所からエプロンをバスで平面移動。しかし、被害の中でも何とか都市間輸送の大動脈を機能させる関係者方々の意気を感じました。札幌での用事を終えて2日目は、翌朝の飛行機まで時間があり、ひとり散策にふけりました。小樽では港を望み、北大のポプラを眺め、また札幌都心の喧噪に身を委ねていました。札幌も小樽も何度か訪れたことはあり、懐かしい風物に加えて新しい建物なども発見できて、それなりに楽しい一人旅ではありましたが、折につけ思い起こされるのは大震災と被災地。やっぱり現実の出来事だったのだ、と北海道の風景を鑑賞しながら、その地その時のただ中にあっては何が何だかわからないのかも知れず、なぜか北海道にいて故郷の現実を重く受け止めたような気がしました。涼しい北の夏の夕。ビールの泡は、腹の中で涙になって沁みていきました。札幌駅の横断幕をはじめ、随所に応援のメッセージも。現実は現実。動き出すしかない。進むしかないのです。
2011.07.31
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用事の帰りに、利府球場のファーム公式戦を少しだけ覗いてきた。2回まで観戦しただけだが、イーグルスは長谷部が先発。この人も、一軍定着して欲しい選手だ。3塁側芝生席に回ってみたが、ジャイアンツのブルペンでは、上野や野間口などがノンビリとパイプ椅子に座っていた。ひょっとして木村投手が居ないかと思ったが姿が見えない。そう言えば明日は一関で同じカード。故郷で木村が復活の登板をするようだと、最高なのだけれども。まだケガが尾を引いているのだろうか。
2011.07.30
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生没年不明だが、生誕地は雄勝郡福富荘桐の木田(湯沢市小野字桐木田)で、出羽国郡司として京から赴任してきた父(小野篁の息子とも)の子とされる。湯沢市サイトの説明によると、大同4年(809年)の生まれ。幼時から、歌や踊り、琴、書道と上達し、13才の頃には父とともに上京し都の風習や教養を身につける。小町は容姿と才能から、女官中比類なしと称され、その歌は六歌仙、三十六歌仙に残されている。小町36才の時、望郷の念やまず宮中を退き小野の里へと帰郷。庵を造って静かに歌を読み暮らしていた。都からやってきた深草少将に対し、疱瘡を患っていた小町はすぐに少将と会おうとせず、高土手に毎日一株づつ芍薬を植え、百株になったら御心にそうと返事をする。少々が毎日一株づつ植えては帰り、いよいよ100日目の夜、秋雨の続いた後の柴橋とともに少将は流されて死んでしまう。小町は深い悲しみに暮れ、少将の亡骸を森子山(現在の二ツ森)に葬ると、供養の地蔵菩薩を作り向野寺に安置し、芍薬には99首の歌を捧げた。少将の仮宿だった長鮮寺には板碑を建て回向し、その後岩屋堂に住んだ小町は世を避け92才で亡くなったといわれる。堂々たる世界三大美女の歴史舞台がわが東北にあるという訳だが、もっとも、そうカウントするのは日本人だけだろう。ちなみに、伝説に依拠しているだけにゆかりの地も全国に点在する。東北でも、福島県小野町(生誕地)、米沢市小野川温泉(小町が開湯)、大崎市(小町の墓)がある。大崎市古川新田夜烏(東大崎小学校、県農業大学校の付近)の墓碑は、故郷の出羽に帰る途中病に倒れた小町を、里人が手厚く葬ったものという。
2011.07.23
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噴火した山都道府県噴火年月日死者数江戸時代合計噴火回数駒ヶ岳北海道寛永17(1640)6月13日7003三宅島東京寛永20(1643)2月12日不明5富士山山梨・静岡宝永4(1707)11月23日04渡島北海道寛保1(1741)7月18日14672三原山東京安永6(1777)7月29日-1779年08桜島鹿児島安永8(1779)10月1日15321浅間山群馬・長野天明3(1783)7月8日115144青ヶ島東京天明5(1785)2月29日1405雲仙岳長崎寛政4(1792)1月18日150003阿蘇山熊本文化12(1815)1月-1816年130江戸時代の総噴火記録数 179回■参考 歴史読本編集部『総図解よくわかる徳川将軍家』新人物往来社、2009年
2011.07.20
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午前午後の仕事を済ませて先ほど帰宅。一日が長く感じられるのは、結構皆さんそうだと思うが、朝のTVでなでしこを応援したため。それにしても、素晴らしい優勝。絶対にあきらめないという姿勢が、私たちに勇気を与えてくれた。試合開始早々から矢のような攻撃を浴びる。なんとか凌いでくれれば勝機もあろうか、とわずかな望みにすがりつつ、なんとか後半へ。選手交代で反転攻勢と思いきや、あっさりカウンターで先制を許す。だが、やっぱりか...とは思わせなかった。程なく同点にする。私は、先制を許してから睡魔と戦っていたが、同点で飛び跳ねてしまった。目が冴えて起きていた延長戦で、こんどはすごいヘッドの勝ち越し点を食らう。しかししかし、またしても、やっぱりか、の悪い予感は見事にも粉砕された。澤の同点ヘッドは、浅い角度からの技あり弾だった。この人が決めたことがまた、素晴らしかった。もう何もプレッシャーのない安心して見られたPK戦も、そして勝利後のスタジアムの様子も、結局7時過ぎまでTVを眺めてしまった。それでもちょっと眠ってしまい訪問してきた知人にちょうど起こしてもらったような形になった。そんな訳で、眠いし腹も減っているのだが、心は満たされた気分だ。日本も、やるじゃないか。さあ、この調子でイーグルスも3位浮上を、と思ってみてみると、現在3位のロッテが1-0で先行している。4回裏。オリックス頑張れ、もう連敗しなくていいのだよ。カラバイヨ、頑張らいよ(あっ三振だ)。T-岡田、なんで出ないの。
2011.07.18
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いったん帰宅しておりますが、このあと午後の用事があるので間もなく出かけます。さきほどある人に今日も暑くなりますよと言われて、そう言えば今日で暑さのヤマが越えるという予報を思い出しました。本当は家でゆっくりしたいところ。ソウメンでもすすって、午後はイーグルスをTVで応援、なんてできれば最高ですが。市内は今日も祭で混雑でしょう。それでは私も出かけます。
2011.07.17
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もうすぐプールから戻る我が子と一緒に、Kスタに向かうことに決めました。今日は思い切って仕事を休み(というより明日にすべてまわし)、ひとまず暑い夏に浸ってみようと思います。行け行けイーグルス。行け行け自分(意味不明)。
2011.07.16
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高校野球の今日の結果をTVのデータ放送で見ていて、福島県に遠野高校の名があった。東北人を40年以上続けているが、岩手の遠野高校以外に、恥ずかしながら知らなかった。福島の県立遠野高校は、いわき市にある普通科の高校。いわき市は、県立高校だけで16校、私立が4校あるようだ。やっぱり、いわきは広い。さて、このように(主観的ですみません)、他県の地名と混乱しそうな東北の高校を考えてみた。個人的な感覚なので、失礼かも知れませんが。柴田女子高(弘前市、私立。宮城県民にとっては柴田高校、柴田農林があるので。)蔵王高校(山形市、私立)と蔵王高校(宮城県、県立)などだろうか。なお、山形の蔵王高校は今春から明正高校と改称しているそうだ。
2011.07.15
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王者を相手に、全員で守りきったという感じですね。中3日の井坂、そして満塁機を封じた片山、青山。すばらしい。ラジオで聞いていたのですが、8回や9回は、わずか1点差ながらも、観衆の確信ぶりが伝わってくるようでした。それに支えられて、青山とラズナーの連続6K。見事。今日以降に続けていきましょう。がんばれイーグルス。
2011.07.14
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佐藤栄助は慶応3年(1967)に、東根市三日町の味噌醤油を商売とする家の長男に生まれた。父の家業を手伝う傍ら、果樹づくりが好きで、自宅敷地でさくらんぼを数種栽培していた。明治40年(1907)、父の死と事業の失敗から、醤油造りをやめ、屋敷を売り払って一面の松林だった原方地区に広大な土地を買って開墾し、大切に育ててきた果樹を移植した。山形県のさくらんぼ栽培は、明治7年の内務省勧業寮からの苗木配付で、翌年に県庁園内に植えられたのが初め。栄助は高崎地区で試みに作られたさくらんぼを譲り受けて栽培に本格的に取り組み、軌道に乗せようと情熱を注いだ。明治末期から大正初期には、黄玉(きだま)とナポレオンが人気で圧倒的に多く栽培されていたが、これらは晩生種で収穫が梅雨と重なって、雨による実割れに悩まされた。当時は交通が発達していないので、鉄道長距離輸送に耐えられる、ほどよい堅さと甘さが求められていた。何とかして、黄玉のように甘く、ナポレオンのように身が固いさくらんぼが作れないか。また、収穫が梅雨と重ならない早生の品種が欲しい。栄助は、大正元年に品種改良に乗り出し、研究を重ねた。果実が堅くて大きく色鮮やかなナポレオンを母方に、実りが早くて甘い黄玉を父方に、努力を重ねていった。その結果、粒が大きくて実は黄玉のように甘く、ナポレオンのように堅く締まった品種ができた。しかも、収穫時期がナポレオンより1週間も早くなった。栄助の友人で中島天香園の岡田東作が、昭和3年(1928)に、佐藤錦と名付けて普及に乗り出す。栄助は、新品種の登録を勧められたが、皆が自由に栽培できるようにと、手続をしなかった。こして、生みの親栄助と育ての親東作の努力で、佐藤錦は全国の生産農家に広がり、主力品種として定着していった。■参考 『伝えたいふるさとの100話』財団法人地域活性化センター、2004年
2011.07.12
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慶応4年(1868)3月、庄内町(旧余目町)大字小出新田の農家の長男に生まれた阿部亀治は、家が貧しくて高等科に進むことは出来なかったが、家業を継ぎながら勉強が好きで独学を怠らなかった。当時のこの地方は湿田で収穫も少なかったが、研究熱心な亀治は土地の郎農佐藤清三郎のもとで学ぶ。多くの反対を受けながらも、乾田耕作の利点を広め、次いで馬耕の技術を習って広めることに成功する。明治26年(1893)は不作の年だったが立谷沢村の熊谷神社にお参りに行った亀治は、冷害でほとんどの稲が倒れた中で、一株から元気に実を結んだ3本の稲穂を偶然見つける。亀治はこれを譲ってもらい、その籾を原種として研究を重ね、4年をかけて新品種亀ノ尾を生み出した。亀ノ尾は、茎が長くしなやかで倒れにくく、害虫にも強く、穂が出てから実るまでの期間が短い品種であった。しかも多くの肥料を要せず多収穫が可能だった。その後も亀治は実った稲から毎年優秀な稲穂を選び出し、種の劣化を防いだ。明治38年(1905)宮城県と福島県が大凶作となり、両県から種籾として大量の亀ノ尾の注文が届く。亀治は、宮城県庁には精選した亀ノ尾の種籾一斗を寄附したほかに、訪問した人にも無料で種籾を譲った。金や欲にこだわらない亀治の努力で、明治末から大正にかけて、亀ノ尾は朝鮮半島や台湾でも栽培されるようになった。大正14年頃には、栽培面積19万5千haで、神力や愛国と並び、米の三代品種として有名になった。亀治の功績を顕彰するため、八幡神社の境内に石碑が建てられた翌年の昭和3年(1928)、亀治は60歳で生涯を閉じる。その後も亀ノ尾は育種関係者の注目を集め、現在のおいしい米の交配親として優れた品種を送り出してきた。ササニシキ、コシヒカリ、ひとめぼれなどに代表される良食味米のルーツである。また、酒造りに好適との評価も高まっている。■参考 『伝えたいふるさとの100話』財団法人地域活性化センター、2004年ところで、この庄内町は南三陸町と友好町の関係にあるそうだ。平成5年、旧歌津町の小学生が旧立川町で宿泊体験学習を行った縁で、互いに合併した後も友好町盟約を結び、さらに、災害時相互応援協定も結んでいる。(南三陸サイト)今年の震災を受けて、友好関係にある両町で栽培してきた亀ノ尾を使用した純米酒が、「南三陸庄内の風」として、4月に南三陸復興のために発売された。もともと、関係者の間で盟約5周年の記念として日本酒造りを企画し、2月に仕込みをはじめていたのだという。(読売、山形新聞 などから。)
2011.07.10
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青森県三沢市の地図を開くと、太平洋に面した淋代海岸に、ミスビードル号記念広場、太平洋無着陸横断記念碑、などの記載が見える。リンドバーグの大西洋無着陸横断が成功した昭和2年(1927)以後、太平洋を渡る冒険に世界の目は注がれていた。通信機の貧弱な当時、途中でエンジン不調をきたして大海原に不時着すれば救助の見込みがない命懸けの冒険だった。1930年代、挑戦者たちは離陸の場所として三沢村を選び次々とやって来た。北米大陸に近く、また堅い砂浜が滑走路として利用できたからである。三沢村の人たちは、飛行士の宿泊の世話、滑走路を造る工事、海岸までの道路工事などで忙しい毎日となったが、村長の指導のもと農作業を中断しても協力を惜しまなかった。最初の挑戦は、アメリカ人2人組のタコマ市号だが、離陸に成功したものの排気管からガスが操縦席に漏れだしたため霧の中を帰還し下北半島に不時着。第二の挑戦、一人のアメリカ退役軍人のパシフィック号は重い機体を浮上できずに断念。三番目の挑戦者は、若いアメリカ人2人によるクラシナマッジ号で、離陸したもののガソリン漏れでベーリング海の島に着陸したことで記録にならなかった。そして4番目の挑戦が、アメリカ人2人組、パングボーンとハーンドンが乗るミス・ビードル号という朱色の飛行機だった。昭和6年(1931)10月4日午前7時1分、ミス・ビードル号は離陸に成功。途中の暴風雨は高く飛ぶことでやり過ごし、寒さと戦いながら41時間10分の飛行でついに北米大陸に到達。現地時間10月5日午前7時11分、大勢の出迎えが待つワシントン州ウェナッチの飛行場に胴体着陸した。車輪と脚は重量と空気抵抗のため離陸直後に投下していたのだ。全米のヒーローとなったパングボーンとハーンドンだが、飛行の話を求めれられると、必ず三沢村の温かいもてなしと支援について深く感謝していることを熱心に話した。これを契機に、三沢とウェナッチは現在も町をあげた交流をさかんに行っている。■参考 『伝えたいふるさとの100話』財団法人地域活性化センター、2004年
2011.07.09
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最近ルイーズが何か開眼したというか、まだ知られていない本来の姿を取り戻しているのではないかと思わせる雰囲気がある。打率こそ2割ラインを行ったり来たりで寂しいが、ここ数試合は打点を稼いでいるし、ボックスに立つと相手ピッチャーも嫌な雰囲気があるのではないか。去年は外角に落とされて三振というお決まりパターンだった。何より自身が悔しかったろうが、1年を過ぎて、やっと自信を取り戻したのかも知れない。私は、ルイーズ選手には派手さはないが直向きに野球に取り組む印象を受ける。ラズナー投手もそうだが、長くイーグルスで活躍する中心選手になるのかも知れない。頑張れ、ルイーズ。進めイーグルス。そろそろ連勝を、お願いします。
2011.07.06
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高野長英がもともとオランダ語で書いた物を約した言葉である。「人は学ぶためには、食わねばならない。しかし、食うために学んではならない。」学ぶには生活が必要で、金が必要になる。しかし食うために学ぶ、つまり何か利益を得るために学んではいけない。蛮社の獄で終身禁獄となりながら、江戸伝馬町獄舎の大火に乗じて脱走した。その理由は自分の能力を十全に発揮して、翻訳などにより鎖国を解いて外国を知り、日本の国力を高めることにあったのだろう。最後は火薬で顔を変えて再び江戸に入ることまでやっている。逃避行を続けたのは、もちろん生きるためだが、それは何のためかと言えば、自分が食い続けるため、生活を豊かにするため、というのではない。自分の命を永らえるために学ぶという意味ではない。むしろ、命を賭して学びを続ける。自分の学びは食うためではなく国のため。そういうことだろうか。参考:齋藤孝『「決めぜりふ」』世界文化社、2009年関連する過去の記事 高野長英と兄弟たち(2011年6月28日)
2011.07.05
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初めに断るがTV報道は一方的な思いこみや主観で、映像を切り取る面があるから、真実は必ずしもそうでないかも知れない。しかし、それにしても破天荒なハナシだ。大臣失格、そのとおりだ。大臣と言うより、政治家、あるいは社会的に地位を持つ人間として、非常に問題がある。何度も言っているが、私は政治家に聖人君子性を求めないなら(あれば望ましいが)、表面的な口調や態度それ自体を取り上げてどうこう言いたくはない(そういうTV報道の傾向は好きでない)。うわべの愛想の度合いで被災地への配慮が多い少ないという議論だけで良いはずはない。そこで、松本氏の表面的な態度の悪さについては、東北人として感情が高ぶるけれども、それこそ心を鬼にしてさておくとしよう。それでも、今夜の報道で一番問題だと思うのは、岩手県知事に対して「国はあらゆる知恵を出した。あとはおまえ達がしっかりやれ。知恵を出さない者は助けないぞ」というような意味のことを語っていたことだ。知恵を出さないから助けないというのは、平時のアイデアコンテストならともかく、この非常時でよくもそんなことがいえる政治家だ、とビックリする。それにも増して驚くのは、国はやることはやり尽くしているという認識だ。これは極めて重大なことだ。マスコミも、ここを取り上げるべきである。被災地が地元でまず自助努力すべきこと、国に声を上げるべきこと、また、(宮城県知事に語ったとされるように)県が意見をまとめるべきこと(私はこの国と地方の関係についての認識には異論があるが)、はなるほどそうかも知れない。しかし、いまこの国政の混乱と被災地復興方針の揺らぎの中にあって、担当大臣が、国は万策出したなどとうそぶいていて、そんな大臣では良いはずがない。どれだけ被災地が困って、生活の再建のために国の決断と財源を必要しているのか、国政に求められていることが何なのか、それを最も解っていない発言そのものではないのか。いま国の政治家がなすべきことは、被災地がやろうと思っても出来ないこと、まとめようとしてもまとまらないことを、それこそ民意をさぐり緒論をまとめて方針や予算を形作ることだ。地方になすりつけるのなら国家官僚で十分間に合っている。恥ずべきことだ。もし大臣を辞めないのなら、ビッグマウスに恥じない納得できる成果を出して欲しいとも思うのだが、それは、無理だ。地方が知恵を出さないとか県がコンセンサスを作らないとか、そんなことを言う大臣だから、結局は無策を地元や県の責任にするのが明白だ。この国の政治。明日に光が欲しい。
2011.07.04
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