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上高地(続編・2)「明神へ・・、」 上条嘉門次について・・、目的の「明神」は、ほぼ梓川の畔にあった、時間にして1時間少々・・・。山小屋の「嘉門次小屋」や「山のひだや」、正面奥・菊の紋の入った木製の鳥居を潜った先に穂高神社そして明神池が座している。 嘉門次小屋の道向かいに嘉門次の石碑が立つ。この石碑は一般客には馴染みが薄いが、上高地・穂高を愛する山屋にとってウェストンや上条嘉門次は心に留めおきたい人物である。上条嘉門次は「上高地」を世に知らしめた人物の一人でもある。優れた山岳ガイドとして知られ、多くの人々を北アルプスへと案内した。 特に、日本アルプスを世界に広めた英国人ウェストンを北アルプスの山に案内したことで、彼の名は世界に知られた。上高地を我が庭のように愛した彼は、猟師としての腕前も確かであったという。明神池の畔の嘉門次小屋が彼が住んでいた場所で、この地で生涯を全うしたという。 現在も山小屋として営業している。昭和33年(1958)に彼のレリーフを付した記念碑が小屋のすぐ近くに建てられた。明神池・・、河童橋からおよそ4km上流の梓川の右岸に瓢箪型(ひょうたんがた)をした明神池がある。奥宮の横に受付社務所があって、神域である明神池へは拝観料として300円を払うのである。 池を見るのに金払う・・?チョット奇妙な気持ちではあるが・・。手前を明神一之池、奥を明神二之池と呼ぶ。 かつては三の池もあったが「明神岳」の土砂崩れえ梓川支流の沢がふさがれて消えてしまったとか・・。明神・一の池同・二の池1600坪(52,800m2)にも及ぶこの池は、秀麗な自然美を形作り、マガモや岩魚も優雅に泳いでいて、不思議なことに岩魚は人間慣れしているのか全く逃げない。神域の岩魚神域のお猿さん明神池は、「かがみ池」とも言われ、パンフレットにも『明神池 神降地』、『人々の心を映す、神の池』と記されている。神秘的で時間が止まっているようであり、明神池拝観の300円はそれ以上の価値があった・・!!。退路時、受付で思案している客に向かって「明神池は必見ですよ・・!」などと余計なことまで言う始末であった。嘉門次小屋・休憩舎小屋前の休憩舎で冷たいビールと名物岩魚の塩焼きを戴いて帰途に着いた。梓川の明神橋を渡ると、背後に峻険な「明神岳:2264m」が望める、そして、槍・穂方面の第1の休憩ポイント「明神館」があった。帰路は左岸を一直線、上高地バスターミナルまで凡そ1時間の道程である。『終』
2008.08.29

上高地(続編・1)「明神へ・・、」 明神周辺概念図上高地とは・・?「かみこうち」の名称は本来「神降地」、「神垣内」という漢字表記で、後に現在の「上高地」と表記するのが一般的となった。「神降地」とは正に神が降臨した地で、穂高神社の祭神、穂高見命(ホタカミノミコト)が穂高岳に降臨し、この地(穂高神社奥宮と明神池:神域)で祀られていることに由来している。穂高神社奥宮 尚、穂高神社の嶺神は北アルプス・穂高連峰の主峰「奥穂高」の山頂に祭られ、本宮(里宮)は穂高の山麓、安曇野市穂高に神社がある。明神へのルート:ハイキングコース・・、今年(2008年)のゴールデン連休の始め、上(妻)さんと上高地を訪れた。バスターミナルから5分程歩くと上高地の中心でビジターセンターやホテル土産物店が並ぶ。 この中に例の構図である梓川の河童橋と穂高の美形が一望できる。薄いエメラルドに近い色をした水面は意外と流れは急であるが、もちろん透き通って、しかも水温17~18度と冷たい。。澄んだ青空の下、梓川を挟んで視界に入るは、あの岳沢上部に聳える穂高である・・!。明神へのルート、ハイキングコースは通常2通りあり、徳沢から横尾、槍を目指す直行ルート(左岸)と岳沢から穂高を目指す通常・右岸ルートがある。ハイキングのみであったら往路は右岸、帰路は左岸ルートがお勧めであろう・・、河童橋を渡ると西糸屋や白樺荘があり、そこを右手方向に足を向ける、標識も岳沢方面とあるはず・・。五月の連休の頃は里では新緑に覆われるであろうが、1500mの標高、山奥の上高地の樹木は未だ褐色の世界である。 そして穂高方面はまだ白に覆われている。清流と「明神岳」歩を進めるとすぐに、シダ等の茂る「岳沢湿原」が出てくる。 梓川の分流と岳沢の水量が豊富なところで、清流や湿原地帯が大きく広がり、実に雰囲気の良いところなのである。見上げれば、穂高連峰がいよいよ迫って来る感じであり、そして、小生には懐かしい奥穂高からの下山に使う岳沢の入り口に達する。 しばらくの間は、細く長い歩道、所々雰囲気の良い木道を行くことになる。明神池の下流と辺り、猿の群れも人間を特に恐れることも無く、我等を見送ってくれている。明神への木道上高地のお猿河原の広い梓川の向こうには、急峻な「六百山」や「焼岳」が姿よく遠望できる。大正4年(1915)、あの焼岳の噴火で泥流が梓川を堰き止め、その名も「大正池」を造りだし、上高地を一層景観豊かな土地柄に造り替えたのである。因みに、焼岳は現在も飛騨山脈の中では最も活動の激しい活火山である。北峰、南峰(主峰)の2峰があるが、現在登山可能なのは北峰だけで南峰へは立ち入り禁止となっている。北峰と南峰の間には火山湖がある。1995年2月11日、焼岳火山群として焼岳に隣接する火山の1つから、長野県側トンネルの工事現場おいて火山性ガスを含む水蒸気爆発が発生、直後に泥流が噴出し、中部縦貫自動車道安房トンネルの工事に従事していた作業員ら4名が死亡している。次回も「明神」について・・、
2008.08.28

「ウェストン・レリーフ」日本アルプスを世界に知らしめたウェストンは明治~大正時代上高地を訪れた際には清水屋(現ホテル)に滞在した。この宿の隣の大きな岩にレリーフが建てられている。毎年6月に、この前の広場でウェストン祭(上高地開山祭)が開催される。上高地(8) (上高地・穂高連峰・槍ヶ岳) 【 ウォルター・ウェストンのこと・・、 】大正、昭和の初期、芥川龍之介、若山牧水、斎藤茂吉、高村光太郎などの文豪が滞在したこともある。 彼の代表作の一つである小説「河童」に上高地と河童橋を登場させている。国鉄が後援し東京と大阪の新聞社が主催した「日本八景」の渓谷の部では、上高地が第一に推された。又、昭和天皇の実弟・秩父宮殿下が上高地から奥穂高岳に登り槍ヶ岳への縦走が行われ、連日新聞の話題となった。この時期、上高地の河原で日本で初めて「ケショウヤナギ」(ヤナギ科、本州北部の水辺に生ずる落葉高木)が発見された年でもあった。尤も、上高地を世に知らしめたのは、日本人ではなく外国人であった。山屋さんで、上高地に1度や2度入ったことのある人はご存知だと思うが、イギリスの探検家(実は宣教師)でウォルター・ウェストン(1861-1940)という人である。この人が、明治期に「日本アルプスの登山と探検」という本を出して上高地を広く世間に知らしめ、併せてこの時、山が信仰のための登山だったのを、楽しむためのスポーツとしての登山を紹介したのであった。 それ以降、著名人や文化人が上高地へ入るようになった。そして、その話題性、必要性にかられて、地内に簡単な施設や交通手段が思考、実行されるに到ったのである。こんな折に釜トンネルは、半島の労務者を招き入れ、手掘りという手段で急ピッチで完成させたのである・・、昭和8年のことであった。 併せて、上高地の宿泊施設の開祖ともいえる「上高地ホテル」(現、上高地帝国ホテル)も、ほぼ同じ時期完成を見ている。ホテル建設当時は未だ道路は未開通で、資材は釜トンネルを抜けると大正池を船で運んで施工したといわれる。この年以降を境に、上高地は一般大衆にも知れわたり、観光客は大幅に増加したといわれる。平成の時期、新釜トンネルが完成するに及んで、旧来に数倍した観光客が訪れ、あの麗しき上高地は東京の繁華街にも負けない雑踏が繰り広げられるかも知れない・?。現に昨今では、年に200万(冬期間は除く、通行止めで施設は休業)もの人々が殺到しているといわれる・・。上高地自体は、天然記念物や国立公園に指定されている。地元、上高地の住民達は昭和40年頃から「上高地を美しくする会」を発足させ、ゴミのない美しい上高地を目指して日々道路や周辺のゴミ拾いなど活動を行っているらしい。主唱者は、この上高地の自然は日本の守るべき宝物で未来永劫に残すべきものであり、上高地を未来の子供たちに受け継いでいきましょうと・・。 「そうだ・・、上高地へゆこう・・、」 【完】次回は、上高地(続編・1)、明神へ・・、
2008.08.27
上高地(7) (上高地・穂高連峰・槍ヶ岳) 【新釜トン・・、 】いずれにしても上高地と言えば釜トンネル、というほど半ば条件反射的に思い浮かぶほど、上高地とは切っても切れないトンネルなのである・・。この釜トンネルが、2005年7月に閉鎖になるという・・!!。近くの山側に新たな釜トンネルが開通するためで、この狭くて危険なトンネルは完全に閉鎖されることになっていると・・。2車線の新トンネルは大型観光バスもすれ違いができ、両側に歩道もある。岩盤がむき出しだった旧トンネル、冬季、しみ出した水が氷柱となって垂れ下がり、路面はツルツルに凍って歩行者の通行も拒んできた旧トンネル・・。それが今は乾いた歩道を何の支障もなく歩くことができ、長さ1310メートル、20分程で上高地側に出られるようになったという・・。思うに、旧釜トンネルは一時代の役目を充分に果たしたのであり、その価値は充分に認識されてしかるべきである。 新釜トンネルが開通した後の旧トンネルの扱いについては、歩行者の為の専用道路、或いは古い素掘りの釜トンネルを、ゆっくりと一方通行でタクシーやマイクロバスで、その壁面を見物させるとかで、観光資源として活用するなどの考慮がなされなかったのか・・。又、文化財として温存することはできなかったのであろうか・・?。同じような事例が伊豆の天城に有る。新天城トンネルが開通するに及んで、川端康成の「伊豆の踊り子」の舞台となり、今では国の重要文化財ともなって保存されている旧天城トンネルのことである・・、こちらも心霊スポットの名所であったのだが・・。新トンネルの有り難さを思い、楽に通れるようになったことで感謝されて然るべきと思われるが、この新釜トンネルの必要性の重度を考えるとき、疑問を感ずる向きもあるようである。新釜トンネルの完成以前に、国道158号線の「安房トンネル」が完成している。東西往来、飛騨と信州を結ぶ動脈として大衆の人々の生活、利便性に大いに発揮しているのである。しからば、新釜トンネルはどうであろうか・・?、このトンネルは上高地だけの行き止まりであり、大衆の人々の生活、利便性においては全く無関係であって、ただ、観光目的以外には考えられないというのである。そもそも何のための一般車両通行全面乗り入れ禁止なのだろうかと・・?。新トンネルは、事実、観光バス・タクシーの専用道路であり、その背景には観光客の大集団を招き入れ、当地で営業を営む業者の生活の利便を一層豊かにする事が本来の目的に見えてくると・・。 つまり、新トンネルは上高地景観保護には無縁で、観光業・観光客保護のためではあるまいかと・・。近年は上高地の風物や原風景を保存する事よりも、観光業者に便宜をはかりその観光客を手厚く保護して誘致するという・・、真の目的が見隠れしているとする見方である。 更に続きます・・。
2008.08.26
上高地(6) (上高地・穂高連峰・槍ヶ岳) 【釜トン・・は、心霊トンネル・・?】この様な釜トンネルは、断崖絶壁の深く切れ込んだV字峡谷の梓川に沿って、昭和の初期に長期間を要して手掘りで堀すすめられたという・・。なんでもトンネルの建設は、某半島の人達の強制労働で掘り進められ、工事は昭和8年に貫通したという。この時、事故死した作業員の人達が大勢埋まってるという噂もある。 又、昭和初期までは、冬期間に遭難、凍死した登山者の死体を収容した際、春から夏の間に松本市側に移送する時まで、トンネル内に一時保管することもあったという。こんな理由によるのどうか、釜トンネルは「幽霊の出るトンネル」、「釜小僧が出るトンネル」などと「筋金入りの心霊スポット」などと言われる。トンネル内で、いるはずのないアルピニストが後をついてきたとか・・、 トンネルの中ですれ違いざま幽霊が体の中をつき抜けていったとか・・、 グループの人数を確認すると必ず1人増えているとか・・、目撃例は枚挙にいとまがなかったという。或る松本電鉄バスの上高地線を受け持つ運転手は、「このカーブの壁にライトに照らされて、遭難者の顔が浮かび上がんだぞ-・・」とか・・、「特に、上高地からの最終バスは薄暗くなって車内は私ひとりになるわけですよ、・・。上高地側で信号待ちをしていると、ときたま、トンネルの入口のコンクリートが赤く光って見えるときがあるんです。 たぶん、信号機の赤の色だとは思いますけどねぇ、でも不気味ですよ、本当に。 釜トンネルの中では絶対にルームミラーは見ません。もし、乗せてもいない誰かが乗っていたら、と思うと恐くて後を見ることはできません」などと話している・・。実際、登山・ハイキングの専門雑誌の紀行文の中にも、体験談などが載ったりしたこともあった・・。 そのため地元関係者は上高地の観光客動員に影響が出ることを憂慮し、遭難者を供養することを理由として御祓いなどもしたようである。こんなわけで、釜トンネルが特異なことは古くからいろいろな噂がすでに知れ渡っていて、全国的に有名だったのである。尤も、昨今では釜トンネルの特質ともいえる当時の素掘りの露岩壁は、わずか数メートルの幅を残して掘り返され、殆どコンクリートで埋まり無くなっているというが・・。この大型車がやっと通れる、一方通行を余儀なくされる狭い「釜トンネル」は、一方で上高地に殺到する観光客の数をある程度制限し、上高地の自然を保護するための人工の「安全弁」となって一役かっているとも言われる。釜トンネルについて元信濃毎日新聞記者の菊地俊朗氏は著書『釜トンネル 上高地の昭和史』(信濃毎日新聞発行)の中で、「釜トンネルは『上高地の衛兵』である。 あの狭い、急勾配の一方通行トンネルが、押し寄せる人と車の大軍に立ちはだかり、80年近く上高地を俗塵から守ってきた。 もし、釜トンネルがあの形、厳しさでなかったら、今の上高地の姿は保障されていただろうか」と記している。登山者を乗せたバスは、こんな難所の釜トンを抜けると目の前に釜ヶ淵の滝(堰堤)が顔を出す。 槍・穂高から流れ始めた梓川は、ここ釜ヶ淵でその幅を一気に狭め堰堤を落下し渓谷となっていくのである。さらに進むと徐々に噴煙をあげる焼岳が見え出し、いよいよ上高地の入り口である。やがて小さな張り出しを右に曲がると、一気に眼前が開けあの大正池と穂高が突然顔お出す。この瞬間は、バスに乗っている人達は悲鳴とも思える驚きと歓声で車内が騒然となる。それほどの感激を上高地は我々に与えてくれるのである。小生自身も何度か上高地へは足を運んでおり判っているが、やはり、興奮を押さえることは出来ない。その後バスは、大正池、田代池を通りバスターミナルの終点につく。 次回は「新釜トン・・、」について・・、
2008.08.25
上高地(5) (上高地・穂高連峰・槍ヶ岳) 【 釜トンネル・・ 】昨今の釜トンネルでは当たり前のように通過してしまって新たな記憶は無いが、当初・昭和40年代の釜トンネルは些かなりとも印象に残っている。松本電鉄・終着駅の「新島々」からヨウヨウにして上ってきた乗り合いバスは、「中の湯」を過ぎ上高地公園線に入ると、これから最後の”アガキ”が待っているのである、それは釜トンネルへの突入であった・・。大型自動車がやっと通れるくらいの単車線の細い道で、しかも、バスのギヤーがガクンガクンとおろされる。中の湯まで4段ギアーを3段ぐらいにして上ってきたところを、ここへ来て更に2段、或いは1段にシフトダウンするのである。トンネル内はそれ程の急勾配なのである。隧道内は真っ暗、前照灯の灯りも頼りなげで、しかも未舗装のためバスは大揺れに揺れて照点が定まらないのである。更に驚いたことにトンネル面は、岩石、岩肌がそのまま露出していて、それがランダムな凹凸を現し、いたる所で水滴を垂らしている。 これらが揺れ動くバスの窓ガラス面に、今にも接触しそうなのである。トンネルは大曲がりに曲がっているようでもあり、当然出口は見えない、従って、この露出した岩石が照灯に不規則に照らされて、不気味な陰影を形作るのである。バスの運転手も、「この先揺れますからご注意ください。窓からは手や顔を出さないでください・・。」と注意を促すほどである。全長520m、最大勾配15度、照明もなく、おまけにトンネルは中頃で、くの字の如く曲がっているため、真っ暗闇で危険極まりない。こんな地獄の様な「釜トンネル」なのである。 次回も「上高地の釜トンネル」は続きます・・、
2008.08.23

上高地(4) (上高地・穂高連峰・槍ヶ岳) 【 上高地の自然保護 】 40年前の東京、京浜地区は水も空も汚れていた、従って、首都圏の世間ではそろそろ自然への回帰、回復を叫びはじめた頃であり、そしてその頃、尾瀬の道路建設に対して自然保護運動などが活発化した時期でもあった。しかし、上高地に関しては、既に昭和27年(1952年)国の特別名勝特別天然記念物に指定されてはいたが、自然保護や環境保全といった特別な活動、具体的な行動は未だ活発ではなかったように思う。p11 裏明神の遊歩道と景観上高地が自然や環境を考え、マイカー規制が開始されたのは小生が始めて入山した7年後の昭和50年(1975年)頃で、しかも7~8月の夏季のみであった。そして更に20年後の平成8年(1996年)に通年のマイカー規制が開始されたのであった。この制度は1975年に上高地で始まったのを機に、その後、全国各地へと広まっていったようである。尾瀬が、尾瀬沼を通過しようとする道路工事を止めた、所謂、人工物の建造差止めの自然保護活動の原点とするならば・・、上高地は、さしずめ排ガスなどを規制する環境保全の原点といえるのではないか・・。国道から(158号線)上高地へ向かう途中に「釜トンネル」がある。 上高地に入る際は必ずこの「釜トンネル」を抜けなくてはならない。小生、昭和40年の初期から登山や観光で何度となく上高地へ入り、その度にバスやタクシーで通過しているのであるが・・。尤も、上高地に行くには、この釜トンネルを抜ける他に、徳本峠(とくごうとうげ)などの山越えをしなければならない。昭和初期以前までの上高地・黎明期の頃の人々は、上高地・明神の南に位置するこの徳本峠を越えて入山するのが常道であった。島々から徳本峠(2135m)まで標高差約1400m、15k余りの道程を、四苦八苦しながら上り下りしなければならない。 山屋さんは、さらにそこから槍や穂高をめざしたのである。 それだけで日程的にも1日や2日多く、労苦を重ね、強いられたのであった。 続きは、上高地の釜トンネルについて・・、」
2008.08.22

上高地(3)(上高地・穂高連峰・槍ヶ岳) 「上高地の風景」「上高地と穂高の初冬」これが上高地だ・・!!、素晴らしい写真です。 (提供者に感謝)又、上高地拠点周辺には大正池や田代池といった清涼な自然の園地が広がっていて、一服の景観が楽しめる。大正池は、大正4年(1915)の焼岳の噴火で泥流が梓川を堰き止められてできた池で、「梓川」の本流でもある。克っては、浸水して出来上がった唐松林の立ち枯れの様子が、所謂、林立していて一種異様な風景を呈していたが、今では数本のみになってしまったらしい。 おまけに、大正池は流れ込む土砂によって徐々に面積が縮小しており、下流の発電所の調整池としての役割もあることから、現在でも懸命に浚渫(しゅんせつ:水底の土砂や岩石をさらうこと)工事が行われているが、近い将来、もしかしたら消滅する可能性もあるといわれる。ところで、梓川が信濃川の支流であることは余り知られていないようだ・・、槍ヶ岳南面を水源としながら、上高地から松本平野、安曇野の押野で高瀬川と合流し「犀川」となり、長野・善光寺平で小諸方面からの「千曲川」と合流し、そのまま千曲川となって北上し県境・信濃地方へ入って「信濃川」となり、新潟より日本海へ注いでいる。因みに、槍ヶ岳北面を水源としているのが「高瀬川」である。「安曇節」 長野県民謡 「槍」でわかれた「梓」と「高瀬」めぐりあうのがめぐりあうのが「押野崎」標高にして1500mの上高地・・、 幅1kmにも及ぶ田代池周辺の自然園地から10km山奥の横尾あたりまでは、ほぼ水平の谷道が続く。上高地の奥まった処、明神の「明神池」風景この高度でこれほどの広さ、長さの平坦地は、日本では他に例がなく、そして、これらを取り巻く山域は3000m級の山並である。これが上高地の特性であり全国的、世界的に観ても、これほど優れた自然と景観が観られる場所は稀であろう・・。気候的にも山地と平地の中間帯に当たるため、落葉広葉樹林帯と高山帯針葉樹林が混在し、両者の森林の要素が豊かに植生することで知られている。唐松林の美林もさることながら、中でも、梓川の河川地形である谷底、河辺の「ケショウヤナギ」の群落の植生は特筆すべきものであるといわれる。上高地へのアクセスは関東地区・東京方面からは、公共機関では中央本線・松本駅、松本電鉄・新島々駅でバスによって上高地へ入山する。マイカーでは、長野県松本市や岐阜県高山市を拠点とする国道158号を利用する。特に、1997年(平成9年)に安房峠道路(安房トンネル)が完成して高山側からのアクセスが楽になった。 ただ、上高地は環境保全のため通年マイカーの乗り入れは禁止されている。従って、信州側は沢渡(サワンド)まで、飛騨側からは平湯で、其々バス又はタクシーに乗り換えて上高地入りすることになる。小生が初めて上高地・穂高へ入山したのは昭和43年(1968年)8月であり、上京して(福島県いわき市)2年後の29歳の頃であった。山の味を覚えて間もなくであり、昔風の木綿製黄土色のキスリング(登山用リュックサック)を肩に着けて上高地へ到って、そのまま山へ向かっていった、そして、槍-穂高の全山縦走を無事やってのけ下山もここ上高地へ下ったのであった。従って、上高地の稀なる自然に感嘆しながらも、残念ながら当初の上高地の具体的状況の記憶は薄弱である・・40年も前のことである。当時の登山者は青壮年層が主流であった。 現在のような中高年者の姿は殆どなく、せいぜい上高地での観光が主であったように思う。 次回は、上高地の自然保護
2008.08.21
上高地(2) (上高地・穂高連峰・槍ヶ岳) 【 上高地へ・・、】アルプスの名峰・穂高や槍は、日本全国の山屋さん、山愛好家、登山者、アルピニストと山好きな人なら誰でも憧れの山であり、北海道や九州の果てからも、おら我の地の山をある程度歩いた後には必ずここへやってくるのである。北海道の稚内の人が屋久島の「宮之浦岳」へ行くのも、又、沖縄の山屋さんが道北の「利尻山」へ登るのも距離的には大変である。尤も、日本100名山をやろうという人は、こんなことは言っていられないが・・。そこへゆくと、この槍-穂高は、ほぼ日本の中心に位置していて、どなたもエコヒイキなく近寄れるところである。特に、関東圏の大東京からは非常に便利な地域に存在しているので、嬉しい限りなのである。槍-穂高へ入るのには多種なルートがあるが、最も一般的で凡そ九割の人はご存知あの「上高地」から入山することになる。上高地は、梓川を跨ぐ河童橋の上に聳える穂高連峰のところで、誰でも一度は目にしている有名な構図の一つである。 上高地は、観光名所としてこの河童橋の周辺だけを指す場合もあるが、これは狭義の上高地で、実際は北アルプスの谷間にあって、大正池から横尾までの前後約10km、幅最大約1kmの堆積平地を指している。観光バスで来る団体ツアーの観光客は梓川の清流と河童橋だけを観てお帰りになるようだが、上高地の本当の良さは実は、これより奥まったところの明神(明神池・天然の岩魚が泳いでいるよ・・、片道1時間)、徳沢園(新緑と紅葉の名所・・、片道2時間)、そして更に奥の横尾(山峡の地、涸沢の分岐・・、片道3時間)あたりの山懐を深く入った静観の地を指しているのである。 更に続きます・・・。
2008.08.20

本稿、「楽天CM」は一切載せておりません。上高地(1) (上高地・穂高連峰・槍ヶ岳) 山の魅力について・・、 山の魅力、山歩きや山登りにおいて、よく問われるのが・・、「どうして山に登るのか・・?」、 「そこに山があるから・・」と答えたのは有名なエピソードで殆どの人が知っているが・・、実は、イギリス人の登山家のジョージ・マロリーがエベレストを指して答えた一語であった。 因みに、マロリーは1924年のイギリス第三次遠征の第二次アタック隊として、登山家のアーヴィンと共にエベレスト山頂に向かったが行方不明となった。それから75年後、米国のマロリー&アーヴィン捜索隊が1999年に、標高8160メートルに地点で遺体を発見したが、そのときにマロリーが登頂が成功したかどうかは判らないと言われる。 小生の場合・・、 「山って、どこがそんなにいいのですか・・?」 と上(妻)さんに聞かれて、答える代わりに「そうだ、上高地でも行ってみようか・・!!」と言って、実際に連れて行ったもんであった。当日は都合よく好天に恵まれて、周囲の穂高連峰が手に取るように姿を現していた。そして、自慢たらしく指を指して説明したもんである・・。 P38 清流・梓川と穂高連峰「上高地」というところは俗化したとか、何とか云われてもとにかく北アルプスの魅力を代表する景観とムードは失っていない。やはり依然として日本を代表する山岳観光地、北アルプスのメッカであり、穂高への登山基地なのである。 次回は、上高地へ・・、
2008.08.19

本稿は、「楽天CM」は一切載せておりません。 相模の屋根:「丹沢山塊」(1) 「丹沢山塊」 蛭ヶ岳山頂から360°の展望(とらさん提供・・、素晴らしい写真ですのでチョット拝借致しました)山域名が「山塊」と言うのは珍しいのではないか・・?、 一般には山々の連なりの呼称として山系とか、山脈、連峰、連山、或いは山地という場合が多い・・、尤も、丹沢は“丹沢山地”と称する場合もあるが・・?。 関東甲信越の山々の呼び方で「山塊」と称してところは他にもあることはある、長野県と新潟県の県境に聳える「雨飾山」(1963m・日本100名山)の北方山域の「海谷山塊」(うみたにさんかい)、 栃木県と福島県の県境に立つ「男鹿岳」(1777m)の一帯をいう「男鹿山塊」(おじかさんかい)、阿賀野川の支流早出川の上流を取り囲む山塊で粟ケ岳、矢筈岳(1259m)一帯を「川内山塊」などと呼んでいるようであるが・・。 しかし、百名山の雨飾山は別格としても、何れもメジャーな山でなく、山道なども開けていない山屋に言わせても未知の領域の山塊である。 そこへいくと「丹沢山塊」というのは、余りにもメジャーな山なのである。 「山塊」という特殊な名称は、その山の成り立ちから付けられたとも言われる。 遥か地球時代の昔、造山活動により洋上にあった伊豆の島(伊豆半島)が地核運動によって未だ未熟な日本列島に接触・衝突し押し上げられて、その衝突面に丹沢山塊を生じさせたといわれる。 地球規模でいうと遥かに規模が小さいので、一つの山の塊とし丹沢連峰、丹沢山脈とは言わず「丹沢山塊」と呼んだとも言われる。 因みに「ヒマラヤ山脈」は、洋上に独立して存在していたインド大陸が地核の移動によって北上し大陸に衝突、その衝突によって大陸と接合した...その時の、接合面に出来たシワシワが現在のヒマラヤである・・、ということは良く知れれている。 東京方面から空気の澄んだ日など富士山が見えるときがあるが、その富士の裾を邪魔して全容を遮っているのが丹沢山塊であり、無論、小生の住む厚木からは山塊が接近しているので全く遮られて見ることは出来ない。 ただ、丹沢富士とも呼ばれる「丹沢大山」の端正な姿が自宅正面に見えているのであるが・・。 相模の屋根といわれる丹沢山塊の山域は、概略で南は私鉄・小田急、国道246号線、北は道志街道・国道413号線に挟まれた南北約20km、西は山梨県境から東は大山山系の東西約50kmで、全体として神奈川県の面積の約6分の1を占める程である。 一般的に山域の分類としては、中央部の蛭ヶ岳を境に交通アクセス便利で開けている東丹沢、山深く交通アクセスのやや不便な西丹沢の2つに区分され、また、塔ノ岳以南を表丹沢や南丹沢、そして丹沢主稜以北を北丹沢又は裏丹沢と呼ぶこともある。 ただ、東丹沢は大山山系と記したが、その東に聳える仏果山系、更にその東に連なる低山ではあるが「鳶尾山系」を是非含めたいのである、つまり中津川を境に西部地域を東丹沢と・・。 何・・?、鳶尾山が丹沢だと・・?、そりゃないだろう・・!!、と言われるのも御尤もである。 実は鳶尾山は小生宅のすぐ裏手にあり、今でも体力保持のためのトレーニングの場であって、鳶尾山が東丹沢に一部というのは、いわば小生の私的願望も含まれているのである。 現在も尚、齢(よわい)70歳直前の今日、雨天、日曜、酷暑日などを除いて、ほぼ毎日高度差およそ150mの所を往来している。 最も近い登り口は自宅から徒歩で3、4分のところであるが、ルートは無数に有り歩行時間に応じて、其々のルートを目指しているが・・。 実際に、「東丹沢」と称するのは、中津川より西に派生するのが丹沢山地である・・、と言う意見も多数あるのも事実である。 次回は、 「丹沢の歴史」について・・、
2008.08.18

本稿は、「楽天CM」は一切載せておりません。相模の屋根:「丹沢山塊」(7)丹沢の渓谷裏丹沢、早戸川源流「早戸大滝」次に、丹沢は渓谷、沢も魅力のあるところである。「丹沢」の名称の由来は、秋になると山が赤く(丹は赤い意味がある)染まるからとか、アイヌ語のタンザであるとも言われるが、朝鮮語でタン(谷)からきているのが納得であろう・・、丹沢は真しく谷沢の山なのである。渓谷は比較的明るく、新緑と秋の紅葉は素晴らしい。渓谷下部はそのわりに広く、ゴーロ石が多い、これは大正期に起きた、あの関東大震災の震源地であり、この時大幅な崩壊現象があったという。中域から奥域にかけては大小の滝が連続し、山稜直下はガレや岩場が急峻となって突き上げる。 丹沢の沢歩きは夏場が最適で、技術に応じて初級から超上級までバラエティーに富んでいる。小生も主に表丹沢の沢である葛葉沢、新茅の沢、モミソ沢、本谷沢など比較的安易な沢に入っているが、沢歩きの楽しみの一つに渓谷植物・山草を眺めることでもある。イワシャジンやランの類、イワヒバなど珍しいのが観られる・・、時には1株、2株頂いたこともあったが・・。表丹沢の沢はどちらかと言うと、初級から中級クラスの沢が多く、比較的距離も短い。丹沢の沢といえば、やはり西丹であろう・・、山そのものが奥深いため渓谷、沢も深く、大きく、急峻である。主な渓谷では玄倉川水系の小川谷、ユーシン最奥部の各沢や中川川水系の東沢、西沢の各渓谷は初級から上級までバラエティに富み、渓流、滝も大きく険しいようである。丹沢湖の西から流れ込む「世附川水系」は、もっぱら渓流釣りに人気があるようだ・・。ここで、丹沢の滝のうち「大滝」を紹介しておこう・・、その名も「丹沢大滝」(早戸大滝ともいう)という。宮ヶ瀬湖から早戸川に入ると林道が続く、観光センターまで車で入れるので、ここから先は徒歩になる。雷平まで山道や河原を辿りながら、幾つかの枝沢を渡りきると本沢の早戸川は左の沢に入る、更に進むと右手から本谷沢が左手から大滝沢に出合う。大滝沢に入ると間もなく三段の滝が見えてくる、これが早戸大滝である。 険しい尾根筋の直下にあって、この上は、かの丹沢山である・・。そうだ、丹沢へ行こう・・!!。昔は、山と言えば若者の独壇場であった・・!!。丹沢は昔も今も大繁盛であるが、今はやはり中高年の登山ブームもあってか高齢者が大多数を占めるようであ、山も大分様変わりしたもんである。丹沢は東京に近く、手軽に行ける、谷川と丹沢は東京近郊にあって大衆登山の二大流行地なのである。そして、谷川岳に劣らずこの山も遭難事件が頻繁に起こっている。特に、近年は高齢者の事故が多く、経験未熟な単純な遭難が起こっているらしい、小生も高齢の域に達したが心したいものである。現在、丹沢山地は首都圏近郊の山として、年間30万人以上の登山者、100万人以上の観光客が訪れる。登山、ハイキング、沢登り、渓流釣り、キャンプなど多彩で、帰途の最にはそろぞれの温泉も楽しめる。(東丹沢の各温泉や鶴巻や中川温泉等々)、レジャーや保養レクリエーションのエリアとして賑っている。「そうだ、丹沢へ行こう・・!!。」尚、次回は「上高地賛歌」を記載する予定です。 【山旅、観光情報】毎日新聞旅行(山旅専門)観光経済新聞 旅行新聞
2008.08.18

本稿は、「楽天CM」は一切載せておりません。相模の屋根:「丹沢山塊」(6)「丹沢の主峰」山塊中央に聳える「蛭が岳」は標高1673mで、神奈川県の最高峰でもある。 神奈川県の最高峰「丹沢・蛭ヶ岳」 かつては山岳修行の山で、蛭ヶ岳の山頂には薬師如来や毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)など多くの仏像が祀られていたという。 これから別名の薬師岳や毘盧ヶ岳と呼ばれるようになり、毘盧ヶ岳が転じて蛭ヶ岳になったと言われている。又、この他にも「この山に蛭(ヤマビル)が多いから」と言う理由でつけられたという尤もらしい言い回しもあるが、有難くない名前であり、尚、この山域には高所でありジメジメした湿性の箇所は存在せず、山蛭などは生息しないであろうと思われるが・・?。 蛭が岳は丹沢山地では最も奥深いところにある山であるが、頂上付近はブナなどの樹林も少なく、山塊一の標高を誇るだけあって見通しも良い。天気が良ければ頂上から富士山や南アルプス、八ヶ岳、奥秩父などの山々を一望することができる。 最も一般的なコースといして、南北に縦断する「丹沢主脈」ルートで、ヤビツ峠や大倉から登って塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳そして、ヒメツギ、焼山を越えて道志の青野原、西野々へ到る。頂上・蛭ヶ岳まで最低5~6時間はかかり、麓までは4時間以上かかる。1日コースとしては超健脚者向きである。尚、蛭ヶ岳より西へ向かって進み、桧洞丸、大室山などを経て西丹・箒沢へ下るのを「丹沢主稜」コースといって、主脈より尚一層ハードなルーととなっている。蛭ヶ岳を含め西丹沢は他の山域と比して、各峰の頂上は樹林に覆われ、踏み後も鮮明でなく、特に天候不順なときなど迷いやすい。山腹は深い笹が茂り、沢筋は深く、落差のある滝が連続する。地図上で実線で欠かれていても、登山道は鮮明でないところもあり、所要時間も記入されている以上に掛かることもしばしばである。山道を外して迷い込んだ場合、高みの縦走路を目指すと猛烈な薮こぎが待っており、降ろうとすると峻険な沢筋が待っている、いずれにしても余計に数時間の格闘が強いられ、即、遭難ということも考えられるのである。西丹沢では、一般的な山域での常識が、逆に災いの元になることがあるのである。尚、裏丹沢の登山口も数ヶ所あるが、何れも下山に利用されているようであり、小生も丹沢へは数十回丹沢に入っているが、こちら側からの登行は1度もなかった。いずれにしても丹沢山塊は概して高岳連山ではないが、1000m以上のピーク峰が60座以上もあることから、峻険の山塊といえるのである。次回は、「丹沢の渓谷」 【山旅、観光情報】毎日新聞旅行(山旅専門)観光経済新聞 旅行新聞
2008.08.18

本稿は、「楽天CM」は一切載せておりません。相模の屋根:「丹沢物語」(5)「西丹沢」 ブナ林が覆う「西丹沢」初夏の山様次に「西丹沢」であるが、こちらは小田急・新松田駅から富士急行バスで西丹沢、箒沢方面行きに乗込むことになる。山麓ベースには御殿場線の「山北駅」などもあるが、乗継が不便なこともあって、やはり新松田駅がベースになるようである。こちらは東丹沢や表尾根の山容とは異なり、バスで1時間以上も揺られることになり、従って奥深く静かな山歩きが楽しめる。現在は、途中に「丹沢湖」(三保ダム:ダムは1978・年昭和53年に完成している)があるが、我等が西丹沢に入った当初の頃は未だ完成しておらず計画段階であったらしい。丹沢湖には、丹沢主稜域より玄倉川(くろくらがわ)、世附川(よづくがわ)、中川川(なかがわがわ)等の支流が流れ込んでいるが、玄倉川といえばあの水難事故が生々しく記憶に残る。1999年8月14日に玄倉川の中州でキャンプをしていた横浜市に本社を置く会社社員と子供6人を含む家族、社員の婚約者および恋人を含む客18人が熱帯低気圧の大雨による増水によって流され、社員5名と妻2名、1歳から9歳の子供4人を含む13人が死亡した事故である。この水難事故においてはキャンプ客が水流に流される瞬間がテレビで中継されたため、世間に大きな衝撃を与えたのであった。玄倉川上流部、事故現場から10km圏内の峰々には、雨山、鍋割、塔ノ岳、丹沢山、蛭、桧洞、石棚という丹沢の核心部である名だたる山峰が、ユーシン渓谷を中心に扇状に連なっているのである。そして、派生する尾根や谷筋は全体的に急峻な渓谷が続き、谷壁斜面も急傾斜なのである。ここへ大雨がきたら雪崩のように一点集中で、短時間で河川へ流れ込むのである。 遭難した人たちの中に、山の様子を知る人が一人でもいれば・・、と思うと無念でならない・・。チョット反れたが・・、丹沢湖より先は「中川温泉」、更に先方に終点の「箒沢」の部落がある。 途中の中川温泉は、水と緑に囲まれた静かな温泉場である。古くから「信玄公隠し湯」として知られ、信玄が北条氏康との戦いで負傷した傷兵に湯あみをさせたと伝えられる名湯である。中川温泉の特徴はアルカリ性が強く、pHが10以上にもなるということで、皮膚の表面を軟化させたり皮膚の脂肪や分泌物を洗い流すので「肌もつるつる」、傷に効くだけでなく「美人の湯」ともいえという。終点の 「箒沢」は落人の集落として知られ、奥州から落ちのびてきた人達が道志から山を越えて来て、大きな杉が2本あったことから、この地に安住の地を求めたといわれる。部落へ入った来ると左手に巨木が姿を現す、箒杉である・・。樹齢は県内で最高齢と推定され、その堂々たる高さや幹の太さの姿に圧倒され、現在も樹根や枝ぶりはまだまだ元気だという・・、当然国の天然記念物である。集落は二度の大火に見舞われて、部落の財宝や古文書などすべて消失してしまったと伝えられている。この箒沢からは、桧洞丸(1601m)、大室山(1588m)、加入道山(1418m)、畦ヶ丸(1293m)、菰釣山(1348m)等の山々が扇のように周囲を取り囲んでいる。小生も折にふれて西丹を訪れ、各峰に登っては帰りに中川温泉で汗を流して帰ったのを思い出す。中でも箒部落にテントを張って集中登山をしたおり、帰りが夜半になり遭難してのでは・・?、と地元民に心配を掛けたのも今では懐かしく思い出となっている・・。 桧洞丸と大室山の鞍部に「犬越路」というのがある、両方いずれかの山を踏破するとき必ずといっていいほど、この峠路を越えなければならない。1000mを越える大峠で武田信玄が犬を連れてこの峠を越えたことから犬越路という名称が付いたとも言われるが・・?、果たして史実はどうであろうか・・。丹沢は1600m以下の比較的低山で、しかも八ヶ岳やアルプスのような峻険さは無い。だが、山が幾重にも重なり、山塊の中央核心部や西丹では、関東には珍しくブナ林が密生していて水量は豊富で、そのため多くの深い渓谷を形作っている・・、丹沢というのは、見た目より険峻なのである。したがって、山中を縦貫し越えるのは容易ではなく、かろうじて東のヤビツ峠、西の犬越路だけなのである。今は、峠直下に「犬越路トンネル」が完成しているが、ヤビツ峠と違い一般車両は通行禁止になっていて、犬越路を越えられるのはハイカーに限られている。 標高1060mの現在の「犬越路(峠)」戦国期、16世紀の中頃は、この地は甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川が合い争う三角帯の地域だったのである。武田と北条の「三増の合戦」(1569年)については前述したが、この合戦は日本の合戦史上有名であり、結果として両者引き分けで相変わらず対峙状態は続いていた。その2年後、今度は武田と北条の合戦において武田軍は今川領でもあった北条支配の「深沢城」」(御殿場市深沢・東名足柄SAの近く)を陥し駿東を手に入れた。これによって武田は気兼ねなく西側からの北条と対することが出来る。信玄は、小田原へ最短である大月、都留より道坂峠を越え、道志より更に西丹沢の西端である峠を越え、酒匂川より北条の小田原本城を覗ったとみえる。武田信玄が北條攻めに使ったとされる道程は、道志村から三ヶ瀬川に沿って城ケ尾峠を越え、地蔵平に陣を張ったとされている。地蔵平は、二本杉峠と経て中川温泉に出る「さかせ古道」が通過していた。地蔵平の近くには、武田信玄が宿陣した「信玄平」や将兵が米をといだ水を流したという白水沢などの地名が残っている。この中川温泉は昔から「信玄の隠し湯」としての言い伝えもあり、今も戦国期より開湯したという「信玄館」もある。当時、この辺りの地は中川城(山北)、河村城(山北)といった小田原城の支城があり、北条氏康の支配下にあった。 ただ、信玄が中川城、河村城と交戦したという記録は定かでない様であり、両城は、後の秀吉との「小田原の陣」において落城するのであるが・・。酒匂川上流界隈の地元民は、どうしたわけか地元の北条氏より武田(信玄)びいきであるという。 このことを考察すれば、この地での武田、北条の諍いは多少あったものの、激しい戦闘、戦乱はなく、従って、信玄は地元民を害することなく、しかも、慈愛の念をもって接したと言われる。 そして、ほぼ不戦の状態で甲斐へ戻ったとされる。何故なら、これには多少の訳があった。この時期、西域では信長、家康が伸張してきた時期でもあり、お家をこれ以上永く留守をすることは適わなかったからである。撤退に及んで北の山、即ち箒沢部落から犬越路を越えれば最短で甲斐国(山梨県)へ達するのである。 信玄は不明瞭な峠道を軍用犬を先導に「犬越路」を越えたのではないかと想定されるが・・?、・・。信玄は、翌年の元亀3年(1572年)12月、徳川家康との「三方ヶ原の戦い」で、これに勝利するが、直後の元亀4年4月陣中で病没している、享年53歳。次回は、「丹沢の主峰」 【山旅、観光情報】毎日新聞旅行(山旅専門)観光経済新聞 旅行新聞
2008.08.18

本稿は、「楽天CM」は一切載せておりません。 旅行、山旅情報新聞 観光経済新聞旅行新聞毎日新聞旅行(山旅)『山の魅力』(夏季休題)「山の詩」山は百面百態あり、山は生き物だ・・。そんな山、大自然の包容に身を託し、あずける。そして自然の有り難さを、しみじみ味わい感嘆する。そんな山に、惚れたのかもしれない。 時に、山は極端な排他的性格をあらわにし、われ等、人々を拒もうとする、・・がその時、われ等はあらゆる知と観察と勇気、決断を以って、自然の猛々しさに対処し、困難を克服する。 底知れない自然を相手に、その時、自分を観つめ、還元し、自然の中で、自分を高揚させる・・。本当の山相手の所業は、こんなもんかもしれない。山の魅力、山歩きや山登りについて・・、「どうして山に登るのか・・?」、「そこに山があるから・・」と答えたのは有名なエピソードで殆どの人が知っているが、実は、イギリス人の登山家のジョージ・マロリーがエベレストを指して答えた一語であった。因みに、マロリーは1924年のイギリス第三次遠征の第二次アタック隊として、登山家のアーヴィンと共にエベレスト山頂に向かったが行方不明となった。それから75年後、米国のマロリー&アーヴィン捜索隊が1999年に、標高8160メートルに地点で遺体を発見したが、そのときにマロリーが登頂が成功したかどうかは判らないと言われる。小生の場合・・、「山って、どこがそんなにいいのですか・・?」と上(妻)さんに聞かれて、答える代わりに「そうだ、上高地でも行ってみようか・・!!」と言って、実際に連れて行ったもんであった。当日は都合よく好天に恵まれて、周囲の穂高連峰が手に取るように姿を現していた。そして、自慢たらしく指を指して説明したもんである・・。「上高地」というところは俗化したとか、何とか云われてもとにかく北アルプスの魅力を代表する景観とムードは失っていない。やはり依然として日本を代表する山岳観光地、北アルプスのメッカで穂高への登山基地なのである。「上高地雑感」より抜粋・・!URL http://www.geocities.jp/orimasa2001/kamikoti.htm上高地:大正池と穂高・・、素晴らしい写真です。当欄の投稿記載は今月中旬頃まで夏季休止致します、引き続き「丹沢物語」をお楽しみに・・。尚、「上高地」「槍・穂高」に関しては後日記載する予定です。小生の「旅」「山」に関するURLです。 尚、現在更に構築中です・・。http://www.geocities.jp/orimasa2001/
2008.08.17
旅行、山旅情報新聞 観光経済新聞 旅行新聞 毎日新聞旅行(山旅)相模の屋根:「丹沢物語」(4)「表丹沢」話を戻そう・・!次に表尾根で人気の「塔ノ岳」であるが・・、地図を見ても判るように山頂から登山道が網の目のようにというか、放射状のように敷かれている。塔の岳は丹沢山麓の南側に面しており、山頂からは湘南海岸をはじめ、横浜や千葉、東京方面などの大パノラマを楽しむことができる。 一般的な登頂ルートとしては、ヤビツ峠から表尾根を歩くことになる。小生も何回となく歩いたコースであるが展望の良い、変化に富んコースで最も人気のあるコースであり、頂上は平坦に開けたところで山小屋も完備している。 そして、帰りは大倉尾根を延々と山麓まで降ることになる。逆のコースもそれなりに人気があるが、別名「バカ尾根」と呼ばれる関東圏でも屈指の急勾配で、標高差1,200メートルの尾根を延々と登ることになり、山頂まで優に3時間はかかる。学生など山岳パーテーのトレーニング・ルートとしての人気もある。 塔ノ岳の他の主要ルートとしては、南に連なる「鍋割山」(1272m)のコースも良い、又、本邦裾部へ大きく入り込む水無川(本谷沢)のコースも暑い盛りには良い、そのまま本谷を遡行するのも又、沢歩きとしても面白い・・、ただ本谷のコースはある程度の経験が必要である・・。又、塔ノ岳の北方、徒歩1時間ほどに、その名も「丹沢山」が聳える、聳えるといっても峻峰ではなく、なだらかな山稜のブナ林に囲まれた静寂な山域である。克って、この山域を歩いていて山道付近にて休憩している時、谷合・岩場付近に細かい葉を付けた"米ツツジ"のような這性の樹木を見て取れた。気になったので後日、東部の唐沢川出合から塩水沢の林道をさかのぼり、ここから丹沢山に直登して先刻覗った岩場にまでいって確かめて観た。 確かに「米ツツジ」(名前の如く小さなラッパ形の米つぶのような花を付け、ミニ盆栽的な風格を持っているツツジ)であった。ツツジ科樹木の収集趣味のある小生にとっては、喉から手が出るほど欲しい樹木であった。自然を傷つける悪い所作とは知りながら数株丁重に戴き・・、又、丹沢山周辺、特に今登ってきた道のりには「シロヤシオツツジ」(特徴ある五葉の葉が出揃つてから白い清楚な花が咲く、大木になり木肌は松のような肌である)が群生していたので、ついでに小株を1本頂戴して山を降りた。途中、車のガスが無くなったので煤が谷の部落で補給し車を走らせたところ、実はこれが運のつきであった。 途中で村の派出所の警察官に呼び止められ、樹木についての質問を受けてしまった。 更に、厚木本署まで連行されて尋問を受け、採取した樹木はすべて没収されてしまったのである。 趣味によるもので悪質性は無いと見られ、書類送検はされなかったが、とんだ恥さらしで醜態を演じてしまった結末であった。尚、米ツツジは正式名「箱根米ツツジ」といい、箱根連山、愛鷹山系など火山性の山の急斜面の岩場に群生、育成している。次回は、「西丹沢」
2008.08.06
【山旅、観光情報】 毎日新聞旅行(山旅専門)、観光経済新聞、 旅行新聞相模の屋根:「丹沢物語」(3)「丹沢を歩く・・、」さて、丹沢山塊の登山のことであるが・・。百名山で有名な深田久弥氏によれば、「丹沢山」は100名山のうち71番目に選ばれている。その中で深田氏は「・・私が百名山の1つに丹沢山(丹沢山というのは山塊中の一峰である)を選んだのは、個々の峰でなく、全体としての立派さからである。丹沢山塊という名称は、多分、高頭式の『日本山岳史』(日本山岳会創設とほぼ同じ1906(明治39)年に、第二代会長=高頭式によって、日本の山を初めて網羅した『日本山嶽志』が上著された。)から始まったのだと思うが、ただ表尾根を歩くだけでなく、その奥深く入れば、山の規模は大きく複雑で、容易にその全容はつかめない。・・・」としてある・・。氏は、“丹沢山というのは山塊中の一峰である”としている。 一峰の丹沢山・標高は1567mで、山塊中の峰々の標高では確かでないが5~6番目に相当するはずであり、主峰はその奥に控える「蛭ヶ岳」(1673m)である。しかし、登山者、ハイカーの数や人気においては断然、表尾根の「塔ノ岳」(1491m)であろう。 氏は、塔ノ岳では役不足、蛭ヶ岳では人気に今一ということで、敢えて「丹沢山」として百名山を選ばざるをえなかったのであろう・・?。丹沢は首都圏に近く、東京・新宿から小田急線に乗れば凡そ1時間で、その雄大な山麓に達する。先ず、本厚木駅からは東丹沢の仏果山系(、鳶尾山・・、伊勢原駅からは霊峰・大山・・、秦野、渋沢駅からは表尾根、主脈である塔ノ岳、丹沢山、主峰・蛭ヶ岳、そして新松田駅からは西山沢の各峰へ到る事が出来る。小生が始めて丹沢山塊へ足を踏み入れたのは昭和40年初頭の頃で、未だ20代の頃であった。 田舎(いわき市)から東京へ転勤になって間もなくの頃で、「東京はコンクリート・ジャングルで住むには余り歓迎しない所だな・・!、」と愚痴をこぼしたところ、職場の同僚が丹沢大山へ案内してくれた。実はこの事がきっかけで小生の”山歩き“が始まったのであるが・・・。ケーブルを降りて豪華な社殿に参拝し、意気揚々と登っていたはいいが、余りの急な登りで息をゼイゼイ弾ませながら、やっと頂上へ着いた。頂上での記憶は無いが、下りに際して何故か本道・山道にはぐれてしまい、獣道(けものみち)と思しき道をひたすら下ると沢筋へ出てしまい、沢を四苦八苦しながら下ってゆくとどうやら林道らしきものに出た。更に、道なりに行くと、ようやく日向というところに到達したのであった。初めてにして、とんだ山歩きであったのを今でも鮮明に覚えているのである・・。大山への一般的なコースとしは、ケーブルを乗り継ぎ下社(下宮)と呼ばれる立派な社殿に御参りした後、左手分社が控える登山口の急な階段から始まる。道程のはハイキングコースとしては些か急な登りを辿ることになり、道中には昔の参道の名残で、下社を1丁目、頂上を28丁目とする石の標識があり、歩いた目安がわかって励みになる。下山は見晴台から二重神社(二重の滝)を経て下社に到る。ゆっくり歩いても3時間ぐらいであろうか・・?。 又、体調、気分など登山としてのトレーニングコースとしては、山麓(ケーブル追分駅)から歩く場合もあり、男坂、女坂の2つの登山道がある。追分から右に男坂、左に女坂の分岐点があり、名のとおり女坂は緩やかであるが、男坂は切り立つ様な石段で物凄い試練が待ち受けている、途中に大山不動尊の古刹寺院もある。その他にも大山への登山ルートは幾筋か付いていて、いずれにしても比較的手軽に登れるため人気があり、山頂からの眺望も良い。特に、山頂社殿の裏側は、富士山や丹沢主稜の迫力ある展望が楽しめる、だが、大半の登山者は気がつないで降りてしまうようだが・・・。 登山口である表参道には多くの宿坊や土産物屋が軒を連ねて、これらも下山の際の楽しみの一つであろう・・。大山の北東に位置する三峰山(みつみねやま)も良い、その名のとおり三つの峰が南北に波打っている。この山並みが我が家から望むとき、大山の端正な姿を半ば隠しているのだが・・。最標高935mの山で北峰、中峰、南峰から成り、丹沢山北東の丹沢三峰と区別するために大山三峰山(おおやまみつみねやま)と呼ばれる。標高は1000mに満たなく丹沢山地ではやや低い山であるが、稜線では地形が急峻で痩せた尾根が連続し、ハシゴやクサリ場などが多く,チョットしたアルペン気分で登山を楽しめる。 しかし、この急峻な地形から毎年のように滑落事故も起きているという。コースとしては、厚木・飯山温泉の奥、広沢寺温泉辺りがベースになる。林道を山ノ神トンネルから不動尻まで向かう、この道が意外と長いのである。ここから30~40分の登りで尾根筋へ達し、間もなくヤセ尾根、鎖場に梯子と変化に富んだ楽しい尾根歩きである。大山が競り上がってきて、その堂々たる姿がまじかに見てとれる。下りはこのまま煤が谷の部落へ・・。又、東丹沢は本厚木をベースにした仏果山系や家族向きの鳶尾山系(厚木周辺には同じようなハイキンググコースが数種ある)・・、ただ近年、仏果山系北部、宮が瀬地区はすっかり様変わりしてしまったが・・。序ながらその辺の事情について記しておこう。 昨今、この宮が瀬地区に大きなダムが完成した、「宮が瀬湖」(宮が瀬ダム)といい、2001年4月から本格運用が開始されている。中津川の上流愛川地区に「宮が瀬湖」がある。この湖の東端、宮ヶ瀬堰堤・ダムが位置するダムサイトエリア下流の石小屋ダム付近は、かつて名勝・「中津渓谷」があった地域である。深い緑と鮮やかな紅葉でハイキングコースとして人気があり、小生なども何度も訪れた地で首都圏でも絶大な人気があった。 コースのスタート地点には、堅牢な石造りでメガネ状の名物・石小屋橋が在り、現在はその名残を残しつつも宮ヶ瀬ダム建設に伴って取り壊された。かっては、この石小屋橋から先が中津渓谷の見所、核心部であった。 日中でもあまり陽が指す事が無いほどV状に研ぎすまされ、深い峡谷の景観は我々を圧倒した・・。ユックリ散策しながらも概ね1時間、薄暗い谷間を通り抜けるとそこには信じられないぐらいの明るい集落が広がっている、この地が宮が瀬で正に桃源郷の様相であった。宮ヶ瀬ダム建設に伴って中津渓谷の終着である「落合地区」や南部の「馬場地区」など、多くの人々が移転を余儀なくされた。 水没地の面積は45平方キロメートル、移転戸数は281戸に及び、新規造成団地「宮の里」に移住している。これらの人々が、フト・・!我に返り、かって住み慣れた桃源郷の「湖底の故郷」を思う起こす時、どんな気持ちになるのだろう・・。 きっと胸が締め付けられるような思いにかられるに違いない・・。 宮ヶ瀬ダム湖周辺は、現在は一大観光地となっていて、広大なピクニック広場、水の郷大吊り橋、ビジターセンター、交流館、カヌー場などがあって賑やかなところである。 又、宮ヶ瀬湖には例年のイベントがある、クリスマスの時期に美しく光輝くジャンボクリスマスツリーが名物となって、大人から子供までメルヘンの世界に招待してくれる。次回は、「表丹沢」
2008.08.05
相模の屋根:「丹沢物語」(2)「丹沢の歴史」さて次に「丹沢」を丹歴史的な意味合いから観て見よう・・、丹沢山塊は古来より信仰の山として知られ、山伏など修験者の修業の場として古くから入山はあったようである。山岳や地名にも、東丹沢では仏果山、経ヶ岳、華厳山、法輪堂(おろんど)、表尾根では行者ヶ岳、尊仏山(尊仏塔ノ岳)、他に薬師岳(蛭ヶ岳)、菩提、などと仏教にからんだ信仰的な意味合いの名前が数多くある。塔ヶ岳は、以前は山頂に尊仏岩という数丈(5丈8尺という)の立岩があって、これを「お塔」と里人が称したので塔が岳という山名が付いたと言われ、又の別名に尊仏山というのも、この尊仏岩から来ているのであるが、大正11年の大震災のとき「お塔」は沢へ転げ落ちたままになって今は山頂にない。このヤビツ峠から塔ヶ岳に至るまでの尾根続きにニノ塔、三ノ塔、行者岳、新大日岳、木ノ又大日岳という峰があり、仏語で名付けられた山がある。山名ばかりでなく、川や谷、峠、部落の名にも仏語があり、山名や地名の起源には何れも宗教的な伝説も残されているという。丹沢主峰の蛭ヶ岳、東丹沢主峰の大山を中心とする一帯は、昔、山岳修験者の修法の霊場であったともいう。東方の鳶尾山北方・八菅神社(愛川町八菅山)には、入峰者の名称・位・入峰回数などを記録した古文書が残っていて、伝説では奈良期の大宝3年(703年)に役の小角が八菅山に入山したともある。 修行者は、この地を起点に平山・塩川滝(中津川沿いの山地)などを経て大山まで加持祈祷を唱えながら修法を行っていたといい、煤ヶ谷(清川村)は、これら修験者達の中継所だったともいわれる。 修行行脚は江戸末期まで続くが、明治維新の神仏分離令によって廃止されたという。 又、東丹沢の主脈である仏果山系には特に仏にちなんだ名称が多い・・。室町時代の始め、正住寺を開山した天鑑存円上人(仏果禅師)が座禅修行をした山と伝えられ、仏果山という名前の由来となっている。小生、若年の頃、経ヶ岳よりほぼ廃道と思しき主脈を南下した時、山道沿いに各様の石仏、石像が草に紛れて風雨に晒されて置かれ在ったのを記憶している。実はこの地は戦国期、三増合戦(永禄12年:1569年、現在の愛川町三増が主戦場になった武田軍と北条軍とで行われた山岳戦)において武田軍に敗れた北条の落武者が経ヶ岳の山頂にたどりつき、これ以上逃げられないと覚悟を決め、持っていた経文を石の下に埋めて全員自刃して果てたといわれている。このためこの山を「経ヶ岳」と命名したとも言われ、これら歴史の風害を感じる石仏、石像群は仏果禅師の修行によるものか、或いは戦において自害して果てた武者の弔いの像なのかは定かでないが、この山中に歴史の一端が覗かれるのである。丹沢山域で今も神仏的歴史を育んでいるのは何と言っても「大山」であろう・・。 人々は何時の世になっても、特に昔の人々は近隣に聳える姿、形の良い端正な峰を観ると、ついつい崇めたくなるらしい・・。大山は丹沢山塊の東端に聳え、横浜や関東西部の平地から眺めると、三角錐の美形が鮮明に望めるのである。大山は古来より、山頂に大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)、中腹に雨降山大山寺(別名 大山不動尊)、山麓には日向薬師(ひなたやくし)があり、阿夫利神社は、大山を御神体とし山頂には霊石が祀られていたことから「石尊大権現」と称されたという。創建は社伝では、第10代崇神天皇の御代と伝えられ、西暦にして紀元前のことである。その後、奈良時代の僧・良弁(ろうべん・僧正)によって大山寺が、大山阿夫利神社の神宮寺として開山されたといわれる。神宮寺とは、日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院にことである。因みに、西暦820年、空海(弘法大師)が47才の時、彼が東国を教巡していた頃、徳一大師の誘引により「大山寺」に上り、大山第三世管主となっている。山腹の阿夫利神社の名を「石尊大権現」と名付け、徳一は、富士浅間社の神である大山祇神(オオヤマズミノカミ)を大山に勧請したとされている。藤原徳一(とくいつ、760年~835年)は、奈良期から平安前期にかけての法相宗(奈良仏教)の僧で、父は大和政権中枢の藤原仲麻呂の十一男と伝えられている。東北文化の開祖的人物で、小生の田舎、故郷(いわき市常磐)の古刹「長谷寺」の建立者とされている。丹沢のシンボル的存在の大山(古くは雨降山ともいった)は、関八州の雨乞いの霊場でもあり、江戸時代には信仰の対象としての「大山参り」が大変盛んで、記録によると大山参りのための大山講が江戸を中心に各地に組織され、登山ができたのは夏場の短期間かつ許可が必要だったにもかかわらず、一夏に10万人近くもの参拝客があったという。古典落語の中にも「大山参り」という楽しい話がある。「不動まで 行くのも女 だてらなり」石尊大権現で知られる山頂の阿夫利神社本社の中にある大岩は、かって石尊大権現(石尊信仰)の聖地で、江戸時代は女人禁制であったといい、女性が登れるのはいまの阿夫利神社下社までで、山頂の奥ノ院へは登れなかったという。又、「大山参り」をする江戸庶民は、出立の前に水垢離(みずごり・神仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にすること)をするのが仕来りだったという。その時の唱えに「南無帰命頂礼、六根罪障(ろっこんざいしょう:六根に生ずる罪障)、懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう:六根が福徳によって清らかになること)・・・・」と言葉を発し、人々は全身を清めるために大山を目指したのである。下社から山頂へ登る途中には、同じ様な文字が彫ってあり、石尊大権現の石柱が目につく。又、石柱には「これより右富士浅間道」とあり、昔は富士講による富士登山ル-トに大山から富士へ、また富士の帰りに大山へ寄るのが通例だったともいわれる。現在は明治期の神仏分離で山腹の阿夫利神社(山頂奥宮・雨降山)と中腹に大山不動尊は分離され、廃仏棄捨においても大山寺は幸いにして残され今も参拝者が絶えない・・。大山街道が、この大山の懐に入って来ると沿道に何々坊とか、先導師何々と書かれた看板が目につく。 これが「宿坊」(先導師旅館)といわれるもので、明治期には約120戸もあったという、現在では50戸余りになっているが、参道階段の両側は大山土産物店が軒を並べ賑わっている。次回は、 「丹沢を歩く・・、」 【山旅、観光情報】毎日新聞旅行(山旅専門)観光経済新聞 旅行新聞
2008.08.02
相模の屋根:「丹沢山塊」(1) 丹沢山塊・・・、 山域名が「山塊」と言うのは珍しいのではないか・・?、 一般には山々の連なりの呼称として山系とか、山脈、連峰、連山、或いは山地という場合が多い・・、尤も、丹沢は"丹沢山地"と称する場合もあるが・・?。 関東甲信越の山々の呼び方で「山塊」と称してところは他にもあることはある、長野県と新潟県の県境に聳える「雨飾山」(1963m・日本100名山)の北方山域の「海谷山塊」(うみたにさんかい)、 栃木県と福島県の県境に立つ「男鹿岳」(1777m)の一帯をいう「男鹿山塊」(おじかさんかい)、阿賀野川の支流早出川の上流を取り囲む山塊で粟ケ岳、矢筈岳(1259m)一帯を「川内山塊」などと呼んでいるようであるが・・。 しかし、百名山の雨飾山は別格としても、何れもメジャーな山でなく、山道なども開けていない山屋に言わせても未知の領域の山塊である。 そこへいくと「丹沢山塊」というのは、余りにもメジャーな山なのである。 「山塊」という特殊な名称は、その山の成り立ちから付けられたとも言われる。 遥か地球時代の昔、造山活動により洋上にあった伊豆の島(伊豆半島)が地核運動によって未だ未熟な日本列島に接触・衝突し押し上げられて、その衝突面に丹沢山塊を生じさせたといわれる。 地球規模でいうと遥かに規模が小さいので、一つの山の塊とし丹沢連峰、丹沢山脈とは言わず「丹沢山塊」と呼んだとも言われる。 因みに「ヒマラヤ山脈」は、洋上に独立して存在していたインド大陸が地核の移動によって北上し大陸に衝突、その衝突によって大陸と接合した...その時の、接合面に出来たシワシワが現在のヒマラヤである・・、ということは良く知れれている。 東京方面から空気の澄んだ日など富士山が見えるときがあるが、その富士の裾を邪魔して全容を遮っているのが丹沢山塊であり、無論、小生の住む厚木からは山塊が接近しているので全く遮られて見ることは出来ない。 ただ、丹沢富士とも呼ばれる「丹沢大山」の端正な姿が自宅正面に見えているのであるが・・。 相模の屋根といわれる丹沢山塊の山域は、概略で南は私鉄・小田急、国道246号線、北は道志街道・国道413号線に挟まれた南北約20km、西は山梨県境から東は大山山系の東西約50kmで、全体として神奈川県の面積の約6分の1を占める程である。 一般的に山域の分類としては、中央部の蛭ヶ岳を境に交通アクセス便利で開けている東丹沢、山深く交通アクセスのやや不便な西丹沢の2つに区分され、また、塔ノ岳以南を表丹沢や南丹沢、そして丹沢主稜以北を北丹沢又は裏丹沢と呼ぶこともある。 ただ、東丹沢は大山山系と記したが、その東に聳える仏果山系、更にその東に連なる低山ではあるが「鳶尾山系」を是非含めたいのである、つまり中津川を境に西部地域を東丹沢と・・。 何・・?、鳶尾山が丹沢だと・・?、そりゃないだろう・・!!、と言われるのも御尤もである。 実は鳶尾山は小生宅のすぐ裏手にあり、今でも体力保持のためのトレーニングの場であって、鳶尾山が東丹沢に一部というのは、いわば小生の私的願望も含まれているのである。 現在も尚、齢(よわい)70歳直前の今日、雨天、日曜、酷暑日などを除いて、ほぼ毎日高度差およそ150mの所を往来している。 最も近い登り口は自宅から徒歩で3、4分のところであるが、ルートは無数に有り歩行時間に応じて、其々のルートを目指しているが・・。 実際に、「東丹沢」と称するのは、中津川より西に派生するのが丹沢山地である・・、と言う意見も多数あるのも事実である。 次回は、 「丹沢の歴史」について・・、
2008.08.01
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