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12月15日退院後、初の検診。手術した胃の検査結果を聞くと同時に、これからの注意等。検査結果は、ひとことで言うなら『今となってはわからない』だった。とういうのは、普通、摘出した胃を検査すれば進行度はもちろん、いつ頃から発症したものか、などもわかるらしいのだがうちの場合は、摘出一ヶ月前に胃穿孔の手術をしているので、異例らしくその時に、一度穴が開き、それをふさぐ・・要するに、胃はボコボコ状態であったわけなので穴の開く前の状態はいくら摘出した胃を検査してもわからない、とのことだった。わかっている範囲では、意外にも進行度はステージ1~2の間くらいと当初言われていたよりも低かったのだが先生が「おかしいなぁ~」と首をかしげたのは何箇所かにガンがあったこと。普通は、一箇所にあることが多いので先生は「穴が開いた時飛んだのかなぁ~」と言っていたそうだ。気になっている腹膜に漏れていないかどうかも現時点ではなんともいえないとのこと。もし漏れていたらガン性腸閉塞か、腹水がたまるという症状が出るらしい。漏れているかどうかを知るためには発症しかない、ということなのか・・・。どうにもすっきりしないなぁ~、という結果だった。ただ、リンパ節への転移はひとつも見られなかったと言う結果で、それはほっとした。抗がん剤は、進行度が低かったためにしばらく見合わせるとこのこと。胃がんの場合は、進行度が低かった場合、抗がん剤を投与しても、投与しなくても変わらないようだ。「病人には見えないねー」と先生にも驚かれたらしくパパは本当に、見た目は普通になった。週1~2、1時間ほどではあるが、テニスをしていること。毎日、頑張って歩いていること。(最近は軽く走っている)などなどの成果かな。検査結果は、すっきりしない点もあるけれど言っていることがわからなくもないし納得できない、というほどでもない。なにより、覚悟していた最悪の結果ではなかったことに感謝です。
2008.05.31
12月9日テニスサークルのテニスに顔出しをする。私と昇はテニスをした。パパは玉拾いをしていたが、途中20分くらい、昇と打ち合いをしていた。あまり動かずに打ち合うだけなら、大丈夫、と。楽しそうだった。皆が「すごいなぁ~」びっくりしていた。私もちょっとびっくり。テニス後は、サークルの皆との忘年会にも出席。お好み焼き屋さんだったのであまり食べるものもなかったけれど何時間かかけて少しずつ食べる食べ方なので食後の問題はなにもなかった。帰ってから、疲れたようで、ひたすら寝ていたがものすごくいい気分転換になったと本人は言っていた。退院から、多分1週間くらいだと思うけれど(もしかすると、もっと短かったかもしれないし 長かったかも・・・期間は忘れてしまいました)私にとっては、この期間が一番きつかった。パパが見ていないところで何度か涙が出た。理由はパパがあまりにつらそうで。。。。あんなに陽気で、ばかばっかり言ってた人が『笑わない・喋らない・歌わない』これは、見ていて本当に苦しかった。とにかく食事をすると、激痛と不快感がものすごく誰かが話しかけようものなら「今話しかけないでくれ」と言わんばかりに手の平をこちらに向ける。自然に夕衣も昇も、近くにいかないようになっている。休みの日には必ず昇と入っていたお風呂にも入れないようでそのうち昇もわかってきてお父さん、お風呂入ろう、とは言わなくなった。別人のようなパパを見ることが私にとっては一番辛かった。この頃は毎日ただただ「パパが一日も早く、普通に歩いたり笑ったり、しゃべったり、歌ったり出来るようになりますように」と祈った。笑えること。話せること。歩けること(もとどおり、走れるようになんては言わない)そして歌えること。それ以上は望まないと思った。その願いは今、かなっているけれど変わらず願い続けている願いでもあります。
2008.05.25
12月8日退院いろいろ言われていた最悪な事態にならずに、無事退院できたことにただただ、感謝。帰り道、階段がつらい、と何度も何度も休んでいた。一度目の退院の時より、やっぱり体力なくなってるなーと思う。大急ぎで買ったMサイズの服もブカブカ。後姿のおしりのあたりのブカブカ加減を見てちょっと悲しくなる。(今まではLだったので)なんとか、家にたどりつく。ものすごく疲れたようで、ほとんど寝ていた。食事は、「胃の手術をした人の食事」という本を参考にするようにした。夕衣と昇が帰ってきて家族がそろった。ただ、一緒にご飯を食べられることがこんなにありがたいことだとは頭ではわかっていたけれどそれを心で感じた日でありました。
2008.05.25
大事なことを書き忘れてた。手術の次の日、観察室にいるパパに会いに行った時に私の顔を見ると、パパは「ありがとう」と言った。心の底からの言葉に聞こえた。こんな『ありがとう』ははじめて聞いたな、と思った。普段あまりこういうことを口にしない人だけに(ふざけたことばかり言ってるので)この『ありがとう』はずしんときました。11月24日微熱が続いてるようで、パパ、まだまだ肺炎が心配。点滴のせいで、夜中もトイレに起きるのと、検温のために、なかなか熟睡出来ないらしい。27日から水OKになるとのこと。11月28日私の母が見舞いに来てくれた。東京駅で待ち合わせをして、東京駅の地下で食事をし病院へと向かった。かなり久しぶりに会った母だったが相変わらず、超元気そうだった。パパに病室で「反対をおしきって、結婚したのだから(いろいろあって、反対されていたのです) あなたには、娘を幸せにする義務があると、私は思っているのよ。 だから、こんなことで何かあっては絶対にならないの。だからがんばりなさい」というような事を、言っていた。そのあとは、自分の知人で同じように胃を全摘した人の話をしていた。長い時間ではなかったけれど、私もパパも遠いところ会いに来てくれたことに感謝しました。その後、美術館に行きたいということで、一緒に美術館に行った。・・・・なんていう美術館で何展だったのかすっかり忘れたけど。母にパパのことを報告した時に電話口で思わず泣いてしまった。「おかあさん、本当に大変だったんだね」と。大変だったんだろうな、とは思っていたけれど実感するまでには至っていなかったので・・。今回のことは、実感するに近い感覚にまでなった。「いろいろ、ごめんね」と言うと「すぐに行くから。しっかりしなさい」と言ってくれた。そういう言葉を期待していなかったので人の生死に関わることはいろいろな見えない力が働くのだと感じた。母は、とても忙しくしている人で美術館のあとには用事があるということで近くの駅で分かれた。12月1日27日から水を飲み、一日一日少しずつ量が増え一応3食出るようになった・・とは言ってもスープや3分がゆやプリンなど流動食のみ。食べるのも、一食の半分の量を30分かけて食べているようだ。気をつけて、練習しているので、今のところ食後の不調はみられず、ひとまず安心。毎日「食後だいじょぶ?」とメールしている。本を読むと、食後がとにかく大変らしいので私もパパもそれが心配。この日は、パパの友人がふたりお見舞いに来てくれた。パパが席をはずした時に「やっぱり大分やせちゃったなーと思った。本人には言えないけど」と言っていた。2度の手術で、ぐんとやせてしまったので。12月2日この日も、友人5人が面会に来てくれた。私は夕衣と昇を連れて、昼に行ったので夕方は同席しなかったけど、パパにとってはいい気分転換になったと思う。昼、夕衣の合格を確認したことを聞いてパパが安心していたのは覚えているがあとは、何をどう話したとか夕衣や昇がどうだったとか、すっかり忘れてしまった。12月3日食事指導を二人で受ける。「大変そうだけど、頑張ろう!」と思った。パパに「食事作り、全然苦に思ってないから安心して」と入院前に言ったのだけどちょっと不安になった。この日、担当医から「抗がん剤、嫌だなんて言わないでよ~いざとなると嫌って言う人、いるんだよねー」と言われたそう。副作用に苦しむのが少なくありますように、と思う。
2008.05.25
2007年11月21日観察室にいるパパともう一度対面し「がんばんなさい」と手を握り義父・義母帰る。最近は手術後なるべく早く、立ったり歩いたりさせるようで(肺炎や、静脈血栓、その他合併症予防)私も先生から「奥さんからも、頑張って歩くように言ってくださいね! でないと、肺炎になっちゃうからね」と言われていたので観察室にて「肺炎なっちゃうから、がんばって歩いてねーー」ともうろうとしているパパに言った。なので、パパはこの日(手術翌日)観察室から、病室に歩いていったらしい。ちょっと頑張りすぎたかな、と本人は言っていた。夜、夕衣と昇を連れて面会に。パパが、二人に手をさしだし、二人がパパの手を握る。こんなことでもないと、娘がパパの手を握るなんてなかったろーなーと思ったりした。夕衣が「こないだの手術後より、元気そうな気がするよ」と言っていた。昇は病院の売店でお菓子を買い病室でイヤホンでテレビを見るのが楽しくて仕方ないようだった(笑)11月22日この日鼻のチューブを抜いてもらう。これで、大分楽になるらしい。ただ、痛みが相当で、痛み止めの座薬を何度も使ったと言っていた。看護師さんにおしりを見せるのは不本意だけど痛みには勝てなかった、と言っていた。この日は病棟内を一周したらしい。一見頑張り屋さんなようだけど実は肺炎になるのがこわいだけだという事を私は知っている・・・・。11月23日タンを切るのがものすごく大変らしい。結合部分が裂けるのではないかと思う、とか。夜中も、検温あったり、なんだかんだで、眠れないようだ。今日のレントゲンの結果、腸の管と硬腹外麻酔の管が抜けた。管がぬけると、楽になるとこのこと。寝返りも少しはうてるので、床ずれ寸前状態にならずにすむ。今日は祝日なので、また夕衣と昇とで3人で途中のマックでいろいろ買っていき病院の食堂で、昼ごはんを食べた。パパもそこにきて「うまそうだなぁ~」と言ってる。パパ、まだ点滴のみなので・・。「目の前で食べたり飲んだりされると、うらやましい?」と聞くと「そうでもないよ、全然ハラ減らねえから」と言うので、皆、遠慮せず食べた。外は寒く、雪。今日は微熱があり、あまり歩かなかったとのこと。「肺炎大丈夫かなぁ~~」と心配そうだった(笑)私が、とうとう風邪をひいてしまった。パパの前ではマスク2重状態で。手術終わって、ちょっと気がぬけたのかも。。。
2008.05.11
2007年11月20日早朝、妹が帰る。『昇はさっちゃがずっと守るから。 夕衣はおかあさんのサポートをお願いね。 おかあさんはもう頑張ってしか言えない! みんなで力をあわせて 乗り切ろう オゥー!』という置手紙をチラシの裏に書いて(笑)残してあった。支えられていることを実感する。今日は義父・義母がきてくれる。飛行機がどうしても嫌とこのことで、夜間バスにて。私が病院に着いたときには、もう着いていて病院のソファーで、お義母さんは横になっていた。ふたりの、疲れた顔を見て、なんだか申し訳ないなぁと思う。大事な息子の体を管理できなかったことに責任を感じた。(この時はとにかくそう思っていたので)義父・義母には、進行がんであろうということは言っていなかっただが(パパの妹からも言わないでと頼まれていた)会うなり、義母から「○○(←パパの名前)に見せてもろうたけど がんが、進んどるようじゃねぇ」と言われる。(パパ~~~!と思う 笑)「なんか、ステージ4らしいよ」と義母。えええ~~~?4?4?聞いてないし!「え?4って言ってました?」と動揺して聞くと「誰も言ってはないけど、紙に4という数字が見えたけえ こりゃ、困ったぞ、と思うてね~、4ちやぁ~、大変じゃよ~」と。「4って?・・・」と私、パパの病室にあわてて、行く。パパ「どーしたー?」私「なんか、お義母さんがステージ4って・・・?」パパ「あーー、いつもの大ぼけだからー、この4かなー」と、全然関係ないところの『4』を指す。勘弁してくれーお義母さんよ~~~義父・義母のところに帰り「多分、なにかの間違いだと思うんで、大丈夫だと思いますよ」と言うと「ならええんじゃがねぇ~」と納得はしてないようだった。手術の予定は12時からだったのだが午前の手術が長引き、1時からとなる。パパと手術前一緒にいたけど何を話したか、もう今では覚えていない。1時前、車いすでパパエレベーターに乗るのを見送る。「頑張って」と多分言ったと思う。待合室のようなところのソファーで義父・義母と3人で待つ。今回は3人なので、少し気が楽だ。前回は一人きりだったので、そりゃあもう心細かった。義父と義母も、それを気遣ってくださり、この日に上京してきてくれた。ありがたい。手術中はとにかく先生や、看護師さんからの呼び出しがないようにと祈る。「急変や、異常事態の時は、呼びにきますので」と言われていたので。少したって、お義父さんとお義母さんに買ってきたお寿司を食堂で食べていただく。・・・と、待てども待てども二人がもどってこない。食堂に見に行くが、いない。おかしーなーと思い、まっていると1時間半後くらいにマックのハンバーガーを5個も買ってもどってきた。なんで?と思うと「お土産屋さんがないかと思うて、ぐるぐる探したがいっそ(全然)なかった。コンビニの人に聞いたら、デパートに行けちぃ、言われてのぅ~」お義母さーん(泣)そんなこんなで、違うことに気をとられていたおかげで時間がたつのが早く感じた。3時間経過した頃、もう大丈夫かな~と思っていると看護師さんが「手術室からの先生の電話に出てください」と来た。えー?と、ドキドキしつつ電話口に出る。受話器を持つ手が震えたのを覚えている。「開いてみたら、思ったよりもガンが下の方だったんで 3分の1を残す手術をしていたんですが 摘出した胃の側面を(残した胃にくっついていた部分) 検査したところ、そこにもガンがあったんで だったら、残すのは危険ということになり やはり全摘することにします。 なので、変更ということになり、時間がかかります。 よろしいでしょうか?」という電話だった。「はい、お願いします」と答えつつ、先生~、そんなん、電話せんでええよー全摘って言われてたんだしさーびっくりさせないでくでーと思うが、時間が長いと心配するだろうからの電話だったのだろう。その後数時間で、手術が終わったとの連絡を看護師さんがしてくれて30分後くらいに、パパが運ばれてきた。「○○さーん!奥さんですよーー」という先生のよびかけにパパがうっすら目をさまし運ばれているベッドで、手を振って、先生たちを笑わせた。「ごくろうさま、頑張ったねー」と声をかけ、涙がにじんだ。お義父さんも、うるうるしていた。お義母さんはこの時トイレだった(お義母さーん 笑)手術室によばれて摘出した胃を見せてもらった。レバーのでっかいのみたいの。それだけで、意志を持ってそうな、物体に見えた。「これがガンです」と、赤黒っぽいかたまりを指して先生が説明してくれた。「この裏側が穴の開いたところです」(あ~、やっぱりそうだったんだ、ガンが穴を開けたんだ、だとしたら、もうダメなのかな~)と思う。「普通胃は薄いんですけどね、ガンのあるところは こんなに厚くて固くなってるでしょう。 こんな風になってしまうんですよ。 でも、親玉はとったんだから、大丈夫!治りますよ!」といわれた。はじめて「治ります」という言葉を聞いた。嬉しかった。大学病院の先生がそうそう治りますっては言わないべ?もしかしたら、ダイジョブなんかな?と思った。(しかし、後々にわかったことだけど、この先生 腕は確かだが、相当テキトーな性格だったのだ 笑)「先生、腹膜への転移は?」と私が聞くと「それは今の段階ではまだわかりません。 でもね、もし転移していても、それはガンの子どもで 親はもういないんだから大丈夫。 ご主人の場合は一度手術をしていて、ふさいでいるから 本当のところ、ガンが原因で穴が開いたのか かいようなのかも、今となってはわからないんです。 ただ、私の勘だと、ガンだと思うんだよねー なので抗がん剤治療もしなければいけないと思いますが それも覚悟しておいてください」といわれた。あとでテキトーな性格ってわかってからは笑ったけどこの時は、ずいぶん、この先生の言葉に励まされた。この日「胃全摘手術」は無事成功に終わりました。
2008.05.10
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