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クロアチアのダルマチア地方、ここはダルメシアン種の犬の発祥地だが、この黒ブチの犬を見たのはバスの中から男の人が連れて歩いているのを1回見ただけ。町で連れて歩いているのは違う種類でそれ程多くはなかった。ところが猫、フリーの猫が多いのだろうか、これはよく眼にした。そして人なつっこい。人に対する警戒心が少ないようだ。ドゥブロヴニク旧市街で雨があがった後、旧総督邸の前を歩く老夫婦にどこからともなく出てきた猫たちが、しっぽをおっ立てながら一緒に歩いている様はとても面白かった。これはふだんからこの猫たちとコミュニケーションがとれているのかもしれない。路地裏を歩いていたら、猫が数匹出てきた。雨があがったので表で活動しようとして出てきたのだろうか。皆日本にいる猫と種類は同じようだ。
2008.07.10
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ドゥブロヴニク新市街で昼食後、モンテネグロのコトル旧市街(世界遺産)見学に向かう。天候は回復し、モンテネグロの山々が美しい。モンテネグロはイタリア語で黒い山という意味だ。しかしこの山々は陽が当たっているせいか白っぽく見えるなぁ。道路際のお店や住宅も綺麗だ。ちょうど1時間半ぐらい経ったろうか、アドリア海の入り江の絶景のポイントで休憩。対岸の浸食の激しい断崖に雲の切れ目からの太陽が当たり、縞模様に輝いているのが見える。バスを下りて写そうとしている間にどんどん状況が変わっていく。本当はもっと明暗がはっきりして輝いていたのだが少し翳ってきてしまった。眼を左の海上に移すと、低い島の上に小さな教会が建てられているのが見える。教会だけの島のようだ。う~ん、絵になるなぁ!やがてコトルに到着。旧市街の脇のシュクルダ川沿いの駐車場にバスを入れる。ドゥブロヴニクから休憩も含めて約3時間のバス旅だった。橋の上から旧市街の城壁とその背後にある険しい岩山を見る。よく見るとこの岩山にも城壁と道が頂上の方まで続き、教会も幾つか見ることが出来る。橋を渡り城壁に沿った歩道を歩いていく。程なく城門に着く。相当な厚みの城壁だ。この要塞都市はオスマントルコ軍によって何回か攻撃を受けたそうだが、この堅固な城壁は一度も破られたことがなく、トルコ軍も攻めあぐねてとうとうあきらめたそうだ。門をくぐると広場があり、そのはずれに時計台がある。時計台の右を奥に進むと2つの塔を持った聖トリプン大聖堂がある。地球の歩き方「中欧」よりこの大聖堂の説明を引用すると、「コトルはローマ・カトリック文化圏と東方正教文化圏のちょうど境界にあり、町には両方の教会が建っている。聖トリプン教会はローマ・カトリックの大聖堂。1166年に建てられたロマネスク様式の教会で、塔以外の部分は創建当時の形を留めている。内部は1667年と1979年の地震によって被害を受けたため、新しい教会のような印象を受けるが、身廊と側廊の間にかかかるアーチにはフレスコ壁画などが残っており、中世当時の雰囲気がうかがえる。主祭壇は15世紀のもので、上半分はスイスのバーゼルで、下半分はコトルの金細工師によって制作された。」とある。我々は残念ながら中には入らなかったのでフレスコ画も主祭壇も見ることは出来なかった。この教会の脇から背後の岩山を見上げると、救世処女教会が中腹に、さらにその上にも建物や教会があることがわかる。この大聖堂の前には17世紀の建物ピマの館(宮殿)がある。ここを治めていたピマ一族の館だ。だいぶ黒ずんでいて、古い歴史を思わせる。さらに歩を西(川側)に進めると建物にARCHIVと書いてある歴史文書館がさらに細い路地を進むと右側に博物館の建物が出てくる。博物館の前は広いオープンカフェだがまたもや降り出した雨でお客は皆無。左の路地を進むと城壁のそばに立てられたギリシャ正教の教会に突き当たる。ここはスヴェタ・ニコラ広場で正教の隣には1195年創建のカトリック教会聖ルカ教会がある。城壁際の細い路地を通って城壁の上へ登ってみた。ギリシャ正教の教会の屋根とさらにその奥に古い教会が見える。ここから時計台のあるオルツィア広場に戻る。この写真で突き当たりの建物がベスクツアの館(宮殿)、その突き当たりを右に曲がると入ってきた正門となる。これで主要なところを一周してきたわけだ。大体1時間の見学。正門にはモンテネグロの若い人たちが雨宿りをしていた。堅固な要塞の見張り所にお名残を惜しみながらバスに戻る。帰りは陸路だけでなく途中から20分ほどバスごとフェリーに乗り移り、ドゥブロヴニクに帰着した。明日(2007年12月11日)は朝早くホテルを出発。ドゥブロヴニク空港よりフランクフルト経由で12月12日無事成田へ。クロアチアとスロベニアそれにボスニア・ヘルツェゴヴィナとモンテネグロを加えた8日間の旅が終了した。
2008.07.09
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ドゥブロヴニクは縦横に細い路地が出来ている。要塞都市なので、外敵が入ってきても活発な行動を抑えるためなのだろうか。ここは繁華街のプラツァ通りと直角の路地だ。向こうにプラツァ通りの建物が見えている。雨なので細い路地は暗い。お店の照明が光っていてなかなか情緒ある風景となっている。傘をさした子供がショウウインドウを見ているが、ここはパンとケーキを売っているお店。小さな看板灯の絵が可愛い。そしてここはピッツェリア。豊満な体のオバサンがこれまた溢れんばかりの大きなピッツァを掲げている。きっと美味しいに違いないと期待感も高まる。時間があれば入ってみたかったのだが残念。もっともクロアチアの貨幣の持ち合わせも少なかったが。ここを通り越して広い道に出る。雨の中、若いお母さんが子供を連れて散歩かな?僕の差している傘が面白いし、お母さんのレインコートもオシャレだ。プラツァ通りと平行に走っている路地もある。それ故すこぶる奥行きの深い道となっている。そしてドゥブロヴニクの街の特徴でもある赤い瓦屋根もちらほら見える。ここはコンサートホールなのだろうか?ギターに似たリュートを弾く人、バロックダンスを踊る男女、横笛を吹く女性、バレーの一場面などなど、雰囲気良く画かれた絵看板が面白い。ここからプラツァ通りを横切り、今度は階段の細い路地を上へ上へと登っていく。ここの登りはきつい。両側には民家がびっしりと並んでいる。途中に平らな踊り場があり、ほっと一息付くことができるが、ともかく一段一段踏みしめるごとに確実に高度が上がっていく。やっと一番上に上がったところで登って来た道を振り返えると、そこには写真でよく見るドゥブロヴニクの赤屋根の家並み風景が拡がっていた。向こうの高台は先程行って来た聖イグナチオ教会の方向だ。ここはもう城壁の真下。よく見ると城壁へ上がる階段が見える。階段を登るが、扉は固く閉ざされていた。それもそのはず。この城壁に登るにはピレ門のところからしか入れないようだし、しかも有料なのだ。しかし、ここの住人は毎日この急階段を上り下りしているのだろうから、さぞかし足腰が強くなることだろう。登ってきた階段と直角の道を通って下り始める。階段の上に板を渡し、その上に建築に使う13ミリぐらいの鉄筋を格子状に溶接したものを板に固定した滑り止めが置いてあった。お年寄りや乳母車や自転車を引く人にはとても安全で歩きやすい。そうでない人にとってもびしょびしょしている階段を上り下りするよりはこちらの方がずっと快適だ。ちょっとした工夫そしてそれを実行しているところが実に素晴らしい。途中の階段路地の上には洗濯物が懸かり、この歴史ある旧市街に現代でもなお庶民の生活が深く根づいていることを現していた。
2008.07.08
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今日は2007年12月10日。朝ホテルで豪華な朝食をたっぷり食べて腹ごしらえ。でもねぇ、外は雨がシトシトと降っている。折角のアドリア海の真珠ドゥブロヴニクなのだが、雨かぁ!バスで旧市街の西の入口ピレ門に向かう。門の手前にある塔は現在修復中だった。ところで、南側にはブジェ門がある。この門の外側から見る外壁は堅固そのもの。また、東側にある波止場に出て見ても頑丈な城壁を見て取れる。このようにドゥブロヴニク旧市街は頑丈な城壁で周囲を囲んだ要塞都市だったのだ。さて、ピレ門をくぐるとすぐ右には天然の湧き水が噴出するオノフリオの噴水が、左側にはフランシスコ会修道院がある。この修道院は14世紀に建てられたものだが1667年の大地震で壊れ、再建されたとのこと。フランシスコ会修道院の内部を見学する。表側の古びた建物の印象とは裏腹に内部は豪華だ。ちょっと暗い内部だが、大きな主祭壇が眼に付く。そしてその対面の上部には大きなパイプオルガンがあった。このオルガンを飾っている装飾がまた素晴らしい。ヨーロッパに何回かきていろいろな教会を見てきたが、これほどの装飾を持ったオルガンは初めてだ。教会の側壁には大きな聖画が掛けられている。ここを辞して外へ出る。雨は依然として降り続いている。修道院の前はプラツア通りというドゥブロヴニク旧市街随一の繁華街。両側には銀行、ツーリスト・ビューロー、レストランなどいろいろなお店が軒を連ねている。突き当たりに見える時計台のところはルジャ広場、左にスポンザ宮殿、右側には聖ヴラホ教会や旧総督邸がある。観光シーズン中はこの通りの両側にはカフェーなどが出店し、人、人、人でとてもこのようには見通せないようだが、シーズンオフの現在は人通りも少なくズイッと見渡せるのは有り難い。さて時計台の左にあるスポンザ宮殿の前に来た。1516年に建てられ、当初は貿易都市ドゥブロヴニクの税関だったが、17世紀に入りアドリア海交易の不振で税関としての役割が減るにつれ学者や知識人の集まる文化サロンへと変わっていったとのこと。幸いにも1667年の大地震にも被害に遭わなかった数少ない建築物。建物の屋根の縁には多くの彫刻が飾られている。守護聖人もなかなか見事だ。ここにもイタリアの影響を多く受けているのを感ずる。時計台のすぐ後は今はワインバーになっているが、その入口の上には大砲と丸い石の砲弾が飾られている。14、5世紀の大砲と弾はこのようなものだったのだ。大砲はレプリカだが弾は本物かもしれない。塩野七生著「コンスタンティノープルの陥落」にメフメト二世率いるオスマントルコ軍がボスポラス海峡の通行税を払わない外国船めがけて大砲を撃つくだりが出てくる。その当時の砲弾は石で、うまい船長はその飛んでくる砲弾を見ながら当たらないように操船していたという。 そのようなことをふと想い出し、感心しながらその石の弾を眺めた。このすぐ前には小さな噴水がある。優雅な姿だ。この右隣が旧総督邸。ギリシャ風の列柱が立ち並ぶ豪壮な邸だ。スポンザ宮殿の前にあるのが聖ヴラホ教会。ファサードにはいろいろな彫刻が飾られていて見事。この教会の前にある兵士の像は、その基部に長さの基準を表す表示があるとの説明だった。肘(エルボー)の長さを基準にしているらしいが、詳しいことは分からない。ここから見るプラツア通りの建物はなかなか立派だ。右の白い柱は上述の長さの原器の兵士像。旧総督邸の斜め前に大聖堂がある。宝物殿にお金を払って入ってみたが現在修復中でウインドウの中には金銀財宝や聖人の手などがあったが、ティツィアーノの「聖母被昇天」の絵は確認できなかった。ここから聖イグナチオ教会へと急な階段を登っていく。階段途中のレストランから出てきたコックさんがパンのかけらを撒くとハトが一斉に飛んできた。階段を登り切ったところに教会と付属の学校があった。教会の中は薄暗く、がらんとして誰もいなかったが、No Photo の表示。一切内部の写真は写せなかったが、立派な主祭壇、そして多くのフレスコ画があった。学校から出てきた生徒に気を取られ、肝心の教会の前景を写すのを忘れてしまった。登ってきた階段を下り、グンドゥリッチ広場へ行く。ちょうど大聖堂の裏手になる。広場には青空市場があり数軒の店が出ていた。オレンジピールを試食する。香りが良く美味しかったので一袋購入。「美味しい」と言ったら売り手のオバサンは大喜び。でもオレンジピールは作り方が大変なのでなかなか高価だ。大体大きなところは回ったので、残りの時間は広い通りに直角に交差している細い路地裏を探検することにした。
2008.07.07
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スプリットの新市街のレストランで昼食後、アドリア海の真珠と呼ばれているドブロヴニクへ向けて出発。アドリア海に沿った自動車道路を行く。スプリットの隣の港だろうか、漁船がずらりと並んでいた。右手には奥多摩の大岳のような山が姿を見せている。しばらく走ると左手に岩山が続いている。そして川の水が漂ってプールのようになっている景勝地が出てきた。バスの後部座席から過ぎ来し方を見ると立派な形の岩山が見える。パルチザンを率いたチトーもこのような岩山をつたわって出没し、ドイツ軍を悩ましたのであろうか?右側は澄んだ水のアドリア海、そしてバスは岩山の端に造られた道路上をひたすらドゥブロヴニクへ向かって走る。海岸線の開けた地形には住宅が沢山見える。皆立派な家が多い。リゾート地になっており、ヨーロッパの金持ちが別荘を建てることが多いそうだ。何しろ気候が温暖、食べ物も美味しいので人気が高いとのこと。小さな教会も見えてきた。右奥に黒く見えるのはアドリア海に浮かぶクロアチア領の島。この島も人気が高く、別荘を建てる人が多いとか。さらにその後の陸地もさらに大きな島。その遙か彼方がイタリア半島になる。やがてボスニア・ヘルツェゴビナの国境になる。ボスニア・ヘルツェゴビナの領土がアドリア海の海岸まで続いているので、ドゥブロヴニクへ行くにはどうしても国境を2回越えなければならない。ドゥブロヴニクはクロアチアの飛び地になっているのだ。我々はバスに乗ったままで、運転手が皆のパスポートを国境事務所へ持って行ってOKになったと思った。国境での印象は薄い。国境を越えるとネウムという町。ここの大型スーパーに寄って買い物をする。ともかく物価が安いので、ここでおみやげなどを買っておいた方が良いというガイドの忠告で皆さんたんまりと仕入れる。しばらく行ったところで休憩。ここはアドリア海の入り江になっているところ。海には見えず、川か池のような感じだ。左に眼を転ずると、そこには初冬の風景があった。海沿いに拡がるボスニア・ヘルツェゴビナの街。穏やかな水面にきれいに映っていた。道はやがて上りにさしかかる。右手にはこの辺りの名産品オレンジの畑が続いていた。ちょうどお堀のような恰好で川の水が畑を取り囲んでいるのが面白い。このようにするとみずみずしいオレンジが出来上がるのであろうか。山脈を一つ越え、とっぷりと日が暮れた午後7時半ドブロヴニクの大きなホテルに到着した。休憩時間も入れて、スプリットから6時間強のバス旅行であった。しかし雨が降り始めていた。明日のお天気が心配!
2008.07.05
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自由行動時間となった。ナロドニィ広場からショッピング街のマルモントーヴァ通りへ向かう。宮殿遺跡の脇には近代的な感じの住宅が並んでいて、住んでいる人の生活の一端を垣間見ることが出来る。マルモントーヴァ通りは両側に店が並ぶスプリット旧市街の繁華街。その一角に外壁に沢山の彫刻が飾られている建物があった。これは銀行の建物だろうか。何かヴェネチアへ行ったような感じに一瞬捕らわれる。それもそのはず、このスプリットを含むアドリア海沿岸のダルマチア地方は15世紀から約380年間もヴェネチアの統治下にあったのだ。その名残を昨晩のトロギールでも見てきた。このヴェネチア風の建物のそばのちょっと引っ込んだところに魚市場がある。魚市場は温泉の源泉の上に作られているそうで、魚市場につきものの虫が硫黄の臭いを嫌って来ないので衛生的、また魚の生臭い臭いも和らぐという2つの効果があるとのことだ。ディオクレティアヌス帝がスプリットを自分の隠居場所として選んだのは、生まれ故郷に近いことと、持病の腰痛の治療が出来るからだったという説もあるくらい温泉に恵まれているらしい。現在の魚市場は建物を新規に建て直し、明るくて非常に清潔な感じ。このご婦人は魚屋さんと何を話していたのだろうか?魚市場の裏側にはきれいな肉屋もあり、窓際に子豚が丸ごと一匹ぶら下がっていた。マルモントーヴァ通りに戻ると魚市場のそばに数軒の魚屋の屋台が出ており、小魚がよく売れていた。ブイヤベースなどにするのだろうか。この通りの先は海にぶつかるので、海の幸には事欠かないようだし、市民も魚をよく食べるのだろう。子供のおもちゃ屋もあった。クリスマス・プレゼント用だろうか、可愛いぬいぐるみやおもちゃがウインドウに所狭しと並んでいた。ふと見ると ALLIANCE FRANCAISE DE SPLIT の文字が! 高校生の時、横浜のアリアンス・フランセーズでフランス語を習った。お陰で大学の第2外国語はラクチンだった。懐かしくなって思わずパチリ。さらに歩いていくと海岸に面した広場に出る。日曜日とあって人も多い。しかし、年寄りが多いなぁ!このそばに立派な建物が! まさしくヴェネチアのサンマルコ広場?と思わせるようなただずまいだ。ビックリしながら海岸通りを歩く。この通りの右側がすぐ海。左側が宮殿遺跡となる。やはりお年寄りが多いがセールスプロモーションの若い女の子が花をそえている。この海岸通りの宮殿側にもお店が並んでいる。その中にテントウムシの屋号の店があった。オーガニックの商品を扱うお店なのだろうか?さらに波止場の方へ進むと、若い人4人のピアノ四重奏。ここもリハーサル中だったが、良い音を出していた。クリスマスを前にした日曜日、さっきのナロドニィ広場のリハーサルといい、今日は一斉に野外演奏が行われるようだ。この街ではクラッシック音楽が溢れている。羨ましい!道を右に折れて波止場へ向かう。この波止場には大きな豪華客船やらフェリーボートやら小さなモーターボートやら様々な船が停泊している。今通ってきた海岸通りが対岸に見える。立派な通りだ。 横浜の山下公園以上だと改めて感ずる。波止場の片隅でひとり釣りをしている人がいた。周囲の雰囲気からすると何か取り残されたような、淋しそうな感じだった。集合場所へ戻る。朝行った青空市場のそば。遠くには雪のように見える白い石灰岩の山々が連なっていた。ここからバスの待っている新市街へゆるい坂道を登っていく。昼食後、一旦ボスニア・ヘルツェゴビナに入り、再びクロアチア領土に出て今夜の宿泊地ドブロヴニクまでの長距離バス旅行となる。明日も世界遺産の見学が続く。
2008.07.04
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ローマ皇帝ディオクレティアヌスの宮殿遺跡の西の門である「鉄の門」。この門の前に面しているのがナロドニィ広場。この広場には12月の初めながら、クリスマスの飾り付けが行われていた。広場を横断する沢山のモールとそれに付けられた大きなボンボン。もうすぐクリスマスという感じが盛り上がっている。今日は12月9日。日曜日とあって人通りもかなりある。この広場の中央から鉄の門の方を見ると、鐘楼を上に乗せた時計台が見える。その右下には前回のブログで紹介した守護聖人の像も小さいながら見ることが出来る。この時計台は16世紀に建てられたルネサンス様式のもの。そしてこの写真では見えないが、鉄の門の上にある鐘楼がこの地区最古のロマネスク様式で1100年に建設されたものとのこと。門のそばのこの建物もなかなか面白い形をしている。1階はお店になっていて、この周辺はショッピングセンターのようだ。また、この建物もなかなか由緒ありそうな感じ。バロック建築なのだろうか。建物の前には男女抱擁の銅像もある。2階と3階の窓の上には、女性の顔の彫刻が取り付けられている。 これがまた面白いがヨーロッパではよく眼にする設計だ。その隣の赤い瓦屋根の建築も興味をそそられる姿だ。この建物は3階にテラスをもった左右対称の造り。そしてその前の角には6角形の構造のビル。現在修復中だ。この建物は比較的新しそうだ。正面のアーチの中で弦楽四重奏を行うのだろうか。ディレクターの指示で演奏家がリハーサルの準備中のようだった。このようにスプリット旧市街にはいろいろな様式の建築物が数多くあり、とても楽しく歩くことが出来る。
2008.07.02
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昨年の12月初旬に行ったクロアチア旅行の記事がまだ完結していなかったので、これから数回に分けて記載していこうと思う。前回は3月7日のブログで、アドリア海に面したダルマチア地方の大都市スプリットへ来て、宮殿遺跡のそばにある青空市場を歩き回ったところを紹介した。今回はいよいよ宮殿遺跡へ入って行く。この宮殿はローマ皇帝ディオクレティアヌス(245~313)が退位後の住まいとして、在任中の295~305年にかけて造営させたもの。ローマ帝国滅亡後の7世紀ごろから近郊の都市サロナより追われてきた人々がこの頑強な城壁に囲まれた街に住み始めたとのことで、時代の変遷を経た様々な時代の建築物が並んでいるのがまた面白い。これらの遺跡群は1979年ユネスコの世界遺産に登録された。さて、入口から地下に入る。ここは有料だ。ここはかって皇帝ディオクレティアヌスの居住区として使われたところ。ローマ帝国滅亡後人々がここ住みつき、ワイン庫などに使われていたそうだが、ついにはゴミ捨て場になりごみに埋もれていたのを掘り起こしたとか。まずは宮殿の全体像を見ながら我らが女性ガイドより説明を受ける。このお嬢さん、バレーボールかバスケの選手にしたら良いと思われるくらい背が高い。皇帝の胸像があったところ。そしてワイン庫などなどいろいろなところを回り、最後は記念品のおみやげを売っている大広間を通って地上へ出る。すぐそばには列柱に取り囲まれた広場ペリスティルがある。ペリスティルにはディオクレティアヌス帝がエジプト遠征から凱旋したとき持ってきたといわれるスフィンクスも飾られている。胴体を2つに切ってあるようだが、重いので分割して持って来たものなのだろうか?またこのような列柱の下には礎石として使われたのか、あるいは柱の上の飾りなのだろうか、このような彫刻を施された石材がごろごろ置かれていた。この宮殿遺跡の中には現在でも住人が多く住んでいる。皆それぞれ居住権を持っているとのことだ。だから古代と現代が入り交じった面白い光景を見ることが出来る。一杯落書きのある2階。ここは廃墟のようだが、下は新しくモルタルが塗られ、人が住んでいるようだし、その向かいの遺跡建物には新しい窓枠もあるし、TVのアンテナも立っている。遺跡とスクーターの取り合わせも面白い。ここは何と生活感が溢れていることか!このような城壁を回ってたどり着いたのが遺跡の西側に位置する鉄の門と呼ばれるところ。門の入口にはちゃんと守護聖人の像が置かれていた。この門の前はナロドニ広場、いろいろなお店や古い建築物が数多くあるところ。これについては次のブログで紹介したい。また物凄く巨大な銅像もこの宮殿遺跡のそばにあった。これは「クロアチアのロダン」とも呼ばれる彫刻家イバン・メシュトロビッチが1929年に作ったグルグリ・ニンスキ司教像。彼がどのような人なのか分からないが、キリスト教を迫害したディオクレティアヌス帝の大宮殿のすぐそばにキリスト教の司教の巨大像が置かれているとは何たる皮肉か。ただこの像の足の親指に触ると幸福が訪れるというので、少しでも幸福を得ようと今日も手を伸ばし触っている御仁がいた。お陰でこの親指は光り輝いている。
2008.06.30
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トロギールからスプリットへ(クロアチア旅行の続き)(2007年12月9日)朝8時半、トロギールのホテルから東へ約30Km離れたアドリア海沿岸の古都スプリットへ向かう。途中アドリア海沿岸の景色が綺麗だ。潜行艇のような形の山が見える。奥多摩の大岳を思い出させてくれる。同じような形なのだ。しかし、雲が厚いなぁ。お天気は大丈夫なのかちょっと心配になる。スプリットに近づくと道路脇にローマ遺跡が出てきた。この辺りはこのようなローマ遺跡が多いとのこと。トロギールから約40分位でスプリット旧市街に到着。バスが停まったところは世界遺産ディオクレティアヌス宮殿遺跡の真ん前だった。綺麗な海岸通りが続いている。上の写真で真っ直ぐ伸びている通りの左側はすぐ海。アドリア海だ。この宮殿はローマ皇帝ディオクレティアヌス(245~313)が退位した後に住んだ宮殿。頑丈な城壁が眼の前にで~んと立っていた。まだ入場までに時間があるとのことで、宮殿前にある大きな青空市場を見物する。青空市場とはいうものの固定した店舗もある。宮殿側の入口付近は花屋さんが多い。綺麗な花々が数多く並べられていた。それだけ需要が多いのだろう。ということは経済的にも精神的にも余裕があるという証ではないのだろうか。きっと独立戦争で勝ち取った自由と平和と経済を享受しているのだろう。元々クロアチアはユーゴスラヴィア連邦の中ではスロヴェニアとともに経済的に優位な立場の国だったのだ。また農業国だけあって野菜や果物は豊富だ。新鮮な野菜や果物が所狭しと並べられている。乾燥した果物も多く並べられていた。美味しい干し白イチジクを1Kgほど購入。なお、ぶらぶら歩いているとなんと柿が! ちゃんと「KAKI PERSIMON」というラベルが張られているではないか。「KAKI」という名前で売られているのだ。熟し柿、美味しそう! きっとスプーンですくって食べるのだろう。今の時期しかない貴重品なのかもしれない。多分、日本からはるばる送られて来たのだろうね。そういえば今や鰹節はクロアチアから日本へ大量に輸出されているとのこと。だから日本から柿がクロアチアに輸出されるのも不思議ではないのだろう。ともかく面白い物に出会ったものだ。宮殿の城壁にも多くの露店が所狭しと並んでいた。同行の皆さん、主婦が多いので青空市場を十分楽しんだようだ。それぞれ獲物を手に持っている。40分ほど青空市場をぶらぶらしてから、宮殿の見学となった。
2008.03.07
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(2007年12月8日)プリトヴィツェのレストランで昼食を済ませ、アドリア海に面した古都トロギールに向かう。途中、田舎の沿道には屋根がぶち抜かれた家や半ば朽ちた家など廃屋が随分眼に付いた。独立戦争時家を捨てて都会へ逃れた人が随分いたという。そうかと思うと実に近代的な綺麗な都市を通過したり、岩山の上に砦のある古い町を経たりして、やがてトロギールを見下ろす長い坂を下り、夕刻トロギールに到着した。行程約270Km 途中トイレ休憩が入ったが約4時間かかった。悪いことにまたまた雨が降り出してきた。トロギール観光の対象となる旧市街は島で橋によって本土とつながっている。またそこからさらに沖合にあるチオヴォ島へも橋が架けられている。上の写真で上部に見える大きな黒い部分から右に岬がずうっと張り出しているのがチオヴォ島。トロギール旧市街は写真の中央左寄りに樹木のベルトが見えるごく狭い島。チオヴォ島に架かる橋の照明が明るく点々と見えている。このトロギールで有名なのは聖ロヴロ大聖堂とのことだったが、到着したときはすでに暗くなっており、教会の門は固く閉ざされていた。雨の中、旧市街を散策する。ここは紀元前3世紀にできたギリシャ人植民都市が町の始まりで、11世紀には司教区が出来、ハンガリー王の支配下に入るが、自治権を持つ都市として繁栄、その後1420年から1797年まで約400年間もヴェネツェアの支配を受け、19世紀にはオーストリア ハプスブルグ家に支配されるという歴史を持つ。したがって、町を歩いても路地は狭く、どこかヴェネツェアの雰囲気が漂っている。町はクリスマスの飾り付けが各所で行われていた。波止場へ出て写真を写していると子供達が出てきた。カメラを向けると喜んでポーズをとってくれる。デジカメなので画像を見せるとこれまた大喜びだった。何処の国でもそうだが子供は無邪気で良い。島をぐるりと回るとローマ遺跡のカメルレンゴの砦に出る。夜間でも照明がされていた。さらに海辺の暗い道を歩く。木の陰に何かうさんくさい若者が数人たむろしている。これはちょっとヤバイかなと思ったのだが、やあ、やあと声を掛け合って難なく通過。その先には聖マルコの砦が立っていた。そこからはホテルとレストランが並ぶ割合明るい道を通ってほぼ島を一周した。大体1時間ぐらいで回ったかと思う。バスでホテルへ。
2008.02.26
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(12月8日午後)プリトヴィツェ湖群国立公園から下山して昼食のレストランに向かう。原生林がずうっと続いている。この森の中には山猫や熊など野生動物が沢山住んでいるとのこと。上は雨だったが下は雪だったようだ。原野は雪景色が続く。やがてレストランに到着。お腹すいたぁ~!入口では熊が大歓迎。ビール・ジョッキを握って愛嬌を振りまいていた。またすぐそばには動物の楽隊。熊公が後から指揮をしているのかな? それとも歌っているのかな?ちゃんと野兎の集金係もいる。そうかと思うと森の住人達がご開帳だいずれもこの付近で穫れた動物たち。フクロウも木の枝にとまっていた。穏やかな顔をしたフクロウだ。狩りにはダルメシアンが使われたのだろうか?なにしろここはダルマチア(Dalmatia)。この犬の発祥地だ。あの白地に黒の斑点の優雅な犬が大活躍したのかも知れない。昼食後、アドリア海沿岸の古都トロギールへ向かうトロギール観光は夜になる見込みだ。
2008.02.17
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(12月8日) 昨夜はクロアチア ダルマチア地方のプリトヴィツェに一泊。スロベニアのブレッドからバスで約200Km位の移動だった。今日はこの旅行のハイライトであるプリトヴィツェ湖群国立公園探勝の日なのだ。「地球の歩き方 中欧」編によれば、この国立公園は広さ200平方Km、大小16の湖と92カ所の滝を持ち、年間80万人もの観光客が訪れる世界的な湖群公園。1949年に国立公園に指定され、1979年には世界遺産に登録されたが、1991年のクロアチア独立戦争時セルヴィア軍に占領され、荒廃したらしい。危うく世界遺産のリストから外されかかったが1995年に再びクロアチアの管理下となり、現在の幻想的な美しい姿に戻ったとのこと。なお、ガイドの説明では、この公園には道路特に木道が整備されているが、これはクロアチアの有名なソプラノ歌手(名前を確認し損なった)が多額の寄付をしてこのような整備に貢献したとのこと。彼女は凄い声量があったので、この公園内で後ほど写真で紹介する大滝を除いて一番音の大きな滝に彼女の名前を感謝を込めて冠したのだそうだ。折角の日なのに朝起きてみたらなんと雨。それでも出発するまでには止むだろうと一縷の望みをつなぐ。しかし、雨足は強まるばかり。添乗員がガイドと打ち合わせ、我々の強い希望通り湖群の探勝に出掛けることになった。ただし滝に近い道は水量増加のため閉鎖されているので、2時間のコースを行くとのこと。バスで国立公園の入口まで行く。ガイドがまとめて入場券を購入。各自に配布されたチケットは下の写真の通り綺麗なもの。裏側にはコースと禁止行動内容が絵文字で記されている。現在地は中央にある右向きの竜の形をした湖の左側にある赤点。ここはP1というマークが付けられている。このP1から渡し船に乗って湖(コジャック湖)の右上にある赤点P3まで縦断する。もう始点のP1からいくつもの小さな滝(流れ?)が岸辺に間断なく見える。湖の水はすこぶるきれい。エメラルド色だ。やがて船は岸辺から離れ、P3に到着。この間20分ぐらいだったろうか。雨の中、湖岸の道を歩く。向こうから来たリュックを背負った外人の女性観光客とすれ違う。やがて木道のような感じの木の橋でコジャック湖から流れ出る川を渡り、山道を下ると左側に木の間から速い流れが見えてきた。何か感じが奥入瀬に似ている。やがてその滝の下に出る。ミラノヴァッキ(MILANOVACKI)滝と読むのだろうか(Cの上に~のアクサンがある)、立て札が立っている。もしかしてこの滝がかのソプラノ歌手の滝なのかも知れない。湖はMILANOVACと書いてあるがミラノヴァックと読むのかな?この湖には大きな滝が4つ懸かっていて、それぞれ滔々と水を落としていた。ここから湖岸の道路は登りになり、林間を歩く。やがて少し見晴らしのきく高台に出る。そこから先程の4つの滝が見えるようになった。上流のコジャック湖から流れ落ちているのがよく分かる。しばらくこの高台の道を歩いていくと木の間越しに滝の一群が見えてきた。水は飽くまでも清く青く、滝の白さと対照的で素晴らしい眺めだ。やがて滝の展望台に到着する。上流のミラノヴァック湖からの豊富な水がいくつもの石の間から流れ落ち滝となっている。中国の九寨溝と並び称される所以なのだろう。また滝群のそばには木道が優美なカーブを描いて架けられている。天候が良ければあの木道を歩けただろうに残念だ。しかし上から見るのもまた全体がよく分かり良いものだ。ここでしばし滝群を眺め、それぞれ記念写真に余念がない。ここからまた少し歩くと、これまたダイナミックな眺望に遭遇する。今まで見てきた湖が川となったようなプリトヴィツェ川に左岸からコナラ川が高さ78mのプリトヴィツェ大滝となって合流するのだ。そしてプリトヴィツェ川からもいくつもの滝が折り重なり水煙をあげて合流している。滝のことを英語でカスケードとも言うが、そのカスケード(滝)が何段にもカスケード(連なる)しているのだ。素晴らしい眺め。滝の展望台にしばし呆然と佇む。今回の国立公園探訪はこの景観をクライマックスに終了。駐車場にに上り、バスにて下山。昼食場所へ向かう。しかし、素晴らしい眺めの数々に雨が降っていることも全然忘れ、ただただ唖然、かつ、呆然として感動し、堪能した。
2008.02.16
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(12月7日)(クロアチア・スロヴェニア旅行の続き)ブレッド湖にあるただ一つの島ブレッド島上の聖マリア教会からまた手漕ぎボートで船着き場に戻り、そこから湖を一周するようにバスに揺られ湖畔の丘の上にあるブレッド城に向かう。途中、部落に入ると道が細くなり、左側に鉄道の線路が見えてくる。間もなく小さな駅が現れた。この鉄道はオーストリアのザルツブルグへ行く路線とのことだ。バスは山の中の坂を上がっていく。お城の入口直下でバスを降りる。徒歩で坂を上りやがて小さな城門をくぐる。城壁の上には射手のための窓(銃眼)だろうか、ずらりと並んでいる。また城壁にある居住区の窓の扉のデザインがすばらしい。これを閉めたら室内側はどのような感じになるのだろう。ひとまず湖を見渡せる場所へ行く。湖側の低い城壁から先程の聖マリア教会が霧に霞んで幻想的な姿を見せていた。また船着き場方向も朝霧に霞んで何かお伽の国ような感じだ。森がちょうど島のように浮かんで見える。素晴らしい眺めだ。さらに階段を上るとゴシック様式だろうかきれいな建物が並ぶ広場に出る。向かって右には2本の長槍に支えられたロマネスク調の幌が入口を飾るワインバーがまたその隣には同じような装飾のレストランがある。蔦が絡まった石壁にある窓がまたまた綺麗にデザインされていた。良く見ると模様はきちんとシンメトリーになっているのが分かる。この建物の2階には博物館があり、中世の刀剣や銃器、貨幣などが展示されていた。壁には新しく描かれたと思われるフレスコ画が中世の雰囲気を醸し出し、また天使に囲まれた豪華な聖人の像なども飾られていた。ひとしきり見学の後、お城の雰囲気が一杯の2階のレストランで昼食を摂る。ここで出された大きな鱒のソテーはなかなかの味だった。ワインやビールがすすむ。帰りに下の丸屋根の塔に入る。ここはかっての監獄だったそうだが、今は古い印刷機を使って版画風の印刷物を刷る工房になっている。お客のリクエストに応えていろいろな版を付け替えて印刷していた。城門のそばから神父様なのだろうか、出てきて気軽に記念撮影に応じていた。ここからブレッドのダウンタウンが良く見渡せる。素晴らしい風景に名残を惜しみながらバスへと向かう。昨日通過した国境を通ってクロアチアに戻り、その後進路を西にとってアドリア海沿いに展開するダルマチア地方のプリトヴィツェに向かう。今夜はそこで一泊。明日は大小16の湖と92カ所の滝がある世界遺産のプリトヴィツェ湖群国立公園を散策することになっている。
2008.01.26
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クロアチア・スロヴェニア旅行の第3日目(12月7日)。物凄い朝焼けを見て、今日のお天気を気遣いながらバスですぐそばのブレッド湖へ向かう。今日のガイドさんは現地の中年女性。なかなか愛嬌のある方だ。10分も乗っただろうか、湖のボートの発着場に到着。これから行く湖の中のただ一つの島ブレッド島と聖マリア教会の尖塔が見える。教会からは朝餉だろうか、白い煙が一筋上がっていた。そこへ水鳥の一群がす~いす~いと我々を歓迎するかのようにやって来た。瀟洒な建物が見え、その向こうには雪を頂いたオーストリアとの国境に近い山々、そしてその左、対岸の丘の上にはブレッド城の茶色の建物も見えている。我々一行30名は2艘のボートに分乗する。船頭さんによる手漕ぎボートだ。聞こえるのは櫂の音のみ。すごく静かですいすいと進む。折にふれて話すガイドの声も良く聞こえる。我々の船頭さんはこの人。楽しそうに漕いでいる。移り変わる風景に夢中になり立ち上がって写真を写そうとした。途端に船頭とガイドに注意される。転覆する恐れがあるので立ち上がらないようにと。ガイドからはそういう人を監視するためにも私がいるのだとも笑いながら言われてしまう。そういえば全員ライフボートジャケットなどは全然着けていない。鏡のような湖面を20分ほどで島に到着。そこからはユリアン・アルプス方向の景色が綺麗に映っていた。階段を上りきると真正面にはあの白い塔が真っ先に眼に入ってくる。その左側には先程煙が出ていたと思われる家屋があり、側面には大きな紋章が描かれている。ここを支配していた貴族の家紋だろうか。そして通路を挟んで反対側には品の良い女性の像が立っている。この教会は8~9世紀に出来たもので、17世紀に現在の白い塔を持つバロック様式の教会に改築されたとのこと。教会の入口には十字架のキリスト像があり、その右下はかっての入口のようだ。入口の上には改修する前の古い建築の一部を示しているようだ。主祭壇には幼いキリストを懐いたマリアの像が祀られ、その両側には11世紀のブレッド領主ヘンリック2世夫妻の肖像が飾られている。主祭壇より入口側を振り返ると小さなパイプオルガンがあり、その下には割合新しい壁画がびっしりと描かれている。このオルガンは現在でもミサの時は勿論、結婚式にも使用しているとのこと。結構この教会で結婚式を挙げるカップルが多いようだ。横の壁には相当古い極彩色のフレスコ画が残っていた。教会の中央には天井から一本のロープが垂れ下がっていた。これは鳴らすと願いが叶うという言い伝えの鐘からのもの。皆さんお行儀良く自分の順番を待つ。沢山願いごとがあるようだ。綺麗な澄んだ音が鐘楼から聞こえてくる。トップシーズンだと長蛇の列で自分の番が来るまで時間が掛かるとのこと。今回は我々だけ、皆さん十分堪能された模様。表へ出てこれから向かうブレッド城方面を見る。だいぶ雲が垂れ下がってきて、お城の方は煙っている。お土産店により、この島で採れたという蜂蜜を買う。上にかぶせてある布には、茶色に染めた蜜蝋にこの教会の姿が焼き印されていた。再び手漕ぎボートでブレッドの町へ。木立の間を歩く親子ずれの後ろ姿がとても印象的だった。平和な姿だった。
2008.01.20
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12月7日。スロヴェニア ブレッドの夜明け。ホテルのベランダより東の空を見る。綺麗な空、ほのかに明るくなってきた。ところがしばらくすると朝焼けが! そして徐々に拡がってきた。時間が経つにつれ東の空全体が真っ赤に! 凄い朝焼けだ。朝焼けはお天気が悪くなる前兆。ちょっと不安になる。しかし、真正面に湖面がかすかに見えるブレッド湖の方向や、その右手すぐそばの教会や教会の右の山上にあるブレッド城は綺麗に見えている。スロヴェニアは、西にイタリア、北にオーストリア、東にハンガリー、北にクロアチアと国境を接している。そしてここブレッドはイタリア特にオーストリアとの国境に近いところだ。大まかに言えば、ホテルから見えるブレッド湖の方向がイタリア、ブレッド城の方向がオーストリアになる。スロヴェニアについて概観してみると、スロヴェニア人は歴史上自らの国を持つことはなかった。8世紀の中頃フランク王国の支配を受け、その後13世紀中葉に神聖ローマ帝国が形成されるとその支配下となり、さらに第1次世界大戦まではオーストリア ハプスブルグ帝国の支配が継続した。その後セルビア王国中心の第1のユーゴの一員となったが、1941年ナチスドイツに占領される。第2次世界大戦後チトー率いる自主管理社会主義の第2のユーゴで連邦中の共和国を経て、1991年6月独立を宣言した。すぐユーゴスラヴィア連邦軍が軍事介入したがスロヴェニア軍に敗退し、念願の独立となった。スロヴェニア人にとって史上初の自分の国の誕生となった。スロヴェニアはクロアチアとともに連邦中の先進共和国であり、連邦中最大の経済力を保持していた。また民族的にも均質性が高く、スロベニア人が全人口の91%(1981年調査)を占めていた。これらがユーゴスラヴィア連邦の権限を強めようとする中で、独立の大きな原動力になったのではなかろうか。(岩波新書 柴 宜弘著「ユーゴスラビア現代史」を参考とした)朝食後、あまり時間はなかったが、ホテルの廻りを少し歩いてみた。ホテルの玄関を出たところから見える家々は裕福そうな家が多かった。またちょっと歩いたところには改装された白い壁に1903年開業と大きく書かれたパブが眼に付いた。その左隣も何かのお店のようだ。このお宅は2階の壁にいろいろな飾り付けがある。この辺りは新しく開発された地域なのだろうか、新しい家々が眼に付く。もっともここブレッドはこれから行くブレッド湖が国内有数の観光地であり、世界各国から観光客が訪れるので、経済的に豊かなのだろう。
2008.01.17
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(12月6日)遅い昼食を摂り、午後2時頃ザグレブを発つ。ザグレブの郊外は広大な畑が拡がっていた。画面右側には新しい大きなアパートが見える。田園風景の中をバスはスロベニアへとひた走る。遠くにクロアチアの村落が見えては消え、消えては見えてくる。ふと見ると高速道路の脇にはひた走るバスの影が。太陽はだいぶ西に傾いてきたようだ。やがて国境へ到着。運転手と添乗員が全員のパスポートを持って事務所を往復。次はスロヴェニア国境へ向かう。ところが前に変な車がいるらしいということでなかなか進まない。30分ほど停車していただろうか、やっと入国管理のゲートへ進めた。ここでは下車して、一人一人パスポートを警察官のところへ持参してチェックを受ける。パスポートを機械にかざして正規のものかどうかチェック後、写真と本人とを見比べて入国が許可される。でも若い綺麗な女の子だったのが救いだった。クロアチアの通貨はクーナだったが、スロヴェニアはユーロ加盟国なのでユーロとなる。クーナは通用しない。休憩室には通貨の両替機があったが、円は扱っていなかった。国境を出たところだったろうか、バスの間近に可愛い農民の人形が飾られた事務所のようなところがあった。入口にはこの辺で穫れた野菜のサンプルなのだろう、いろいろな野菜が飾ってあった。またしばらく田園の中を走る。家々が見える。何かスロヴェニアの家は大きく綺麗な感じがする。陽もだいぶ落ちてきた。そしてついに落日。暮れかかった村が見えてきた。曲がりくねった道。ライトをつけた車が通る。彼方の山の上には教会が。絵になる田園風景だ。いいねぇ!そしてとっぷりと日は暮れていった。ブレッドには6時頃着いたのだろうか。田舎の町だ。
2008.01.12
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いつもコメントを頂くTouemonさんからトラムの集電システムはどうなっているのか、写真では架線も見当たらないしという鋭い質問を頂いた。ブログに載せる写真はファイルサイズを極限ぐらいまで小さくしてあるので細かいところは見えない。しかも私はそのような観点から観察していなかったのでいい加減な回答をしてしまった。そこで改めてトラムの写真を選んで拡大してみた。するとちゃんと架線が張られ、パンタグラフではないがコレクティング・バーとでもいうのだろうかトラムの屋根に集電装置が付いている。したがってオーソドックスな電車の形態だ。だが、子供達を乗せて走っているクリスマス・ヴァージョンの車輌の方はどうなのだろうか?写真を見る限りでは、車輪はゴムタイヤのようだし、屋根に集電装置も見えない。なのでバッテリー車か、ジーゼルエンジン車かと思う。しかし、ひょっとして集電装置は見えなかっただけで、車輪も導電性ゴムだったりするのかも。あるいはレール上をこするシューが出てくるのかも知れない。走っているときはかなりのスピードでレールの上を走っていた。そちらに夢中になって見ていて、架線の方は見ていなかったな。結論として、クリスマス・ヴァージョンの車輌の方は分からない~
2008.01.11
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共和国広場で1時間ほどの自由時間となった。この共和国広場はイエラチッチ広場とも呼ばれ、市民の憩いの場所で、ザグレブの一番の繁華街のようだ。この広場にはシンボルのイエラチッチの銅像がある。イエラチッチについての詳しいことはよく分からないが、1848年の三月革命の際に活躍したクロアチアの英雄のようだ。この銅像と右上に見える広告板の人物との対比が面白い。銅像の台座に名前が刻まれている。イエラチッチとはこのようなスペルなのだ。このイエラチッチという名前で思い出した人がいる。それはN響の名誉指揮者だった故ロブロ・フォン・マタチッチだ。調べてみるとやはりクロアチア人だった。ハゲタカのような目つきで、堂々とした体から振り下ろされるノンタクトの指揮はやはり堂々とした音楽を流れ出させていたように思う。特に1984年N響とのブルックナーの第8番(ノバーク版)は超弩級の名演として語り継がれているとのこと。さて、グラデツの丘から下りてくるときに世界最短のケーブルカーの駅があった。それを今度は下から眺めようと、ちょっと戻る。昔、1960年初頭にアメリカで世界最短の鉄道というのを見た。ロサンジェルスのOlive streetから高台にある次のHill streetに上り下りする電車だ。帰国してから、これが世界最短の鉄道であることを日本交通公社発行の案内書で知る。それから約20年経った1980年にロサンジェルスに寄ったので、そこへ行ってみた。20年間で彼の地も大きく変わっていた。その鉄道は何処にも見当たらなかった。近くにいたお年寄りに尋ねても全然知らないという。そんなことでこのザグレブのケーブルカーが世界最短になったのかも知れない。時間の関係で乗車は諦め写真だけにした。もっとも1分ぐらいで上に着いてしまうようだが。共和国広場に戻る途中のイリッツァ通りには、電車すれすれのところで辻音楽師がヴァイオリンを弾いていた。雑踏に紛れて音は良く聞こえずあまり印象に残っていない。共和国広場には沢山の店が出ていた。今日12月6日はカソリックの祭日(聖日?)聖クラウスの日(セントクラウス・デイ)なのだそうで、そのお飾りを売る店も多く見られた。これは木に吊下げるのだろうかハート型のふわふわした飾り、表面には文字が刺繍されている。こちらはいろいろな種類のキャンドルのお店と花屋さんだ。この聖クラウス(正しくは聖二クラウス)は子供の守護者とされていたため、ベルギーやオランダなどでは12月6日に子供にプレゼントを贈る習慣があったそうで、今日も装飾されたトラムの前でサンタ・クロースが一緒に記念写真を写したり、この電車に乗車させて市内を回ったりしていた。なお、25日も聖クラウス・デイだそうで、クリスマスと重なる。セント・クラウス→サンタ・クロースで、サンタさんが活躍することになる。街頭でもクリスマスの装飾が着々と進められていた。トラムの線路を渡ったところにも屋台のお店が沢山並んでいた。その中の一つ。若いおネエさんが店番していたプラスチックの飾り物屋さん。店の前の箱の中にはピチピチしたお魚が沢山入っていた。だが良く見るとそれはプラスチックで出来たお魚。鱗が陽に照らされてきらきら光っていて生きているように見えたのだ。ちょうど日本のレストランのショー・ウインドウにあるお寿司やステーキなどのプラスチック・サンプルと同じ出来なのだ。焼き栗屋さんもヨーロッパでは良く目にする屋台。だがその屋台もグラフティで汚染されていた。今やこのような落書きは世界共通だ。よその国だったが、世界遺産の中の白い壁にもこのような落書きの文字を目にしたことがある。ここからイエラチッチの銅像側をみると、人々の雑踏の上にザグレブ銀行の大きな文字が眼に付く。どの国でも銀行は豪華だ。そちら側にもどり、雑踏をかき分け集合場所の聖母被昇天大聖堂下へ急ぐ。広場から階段を上がったところにあるレストランの前に、荷を頭に載せた女性像があった。この異国情緒が何か違和感を感じて面白かった。ここからは聖母被昇天大聖堂が見える。昼食後、スロベニアのブレッドへ向け、バスで出発。ザグレブに別れを告げた。
2008.01.10
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「石の門」から聖マルコ教会へ向かう。もうこの辺りはグラデツの丘の上だ。「石の門」を出るとすぐ左側に1335年に開業した薬局がある。今回の旅行の最後に行くクロアチアのドブロヴニク旧市街の薬局に次ぐ古い店とか。そういえば数年前に訪れたバルトの国エストニアの首都タリンに市議会薬局というのがあったが、そこも1300年代の開業ではなかったかと思う。さらに進むと右側に綺麗なモザイク屋根の建物が見えて来た。聖マルコ教会だ。カピトルの丘のランドマークが聖母被昇天大聖堂だが、相対するグラデツの丘のランドマークがこの聖マルコ教会。13世紀に建てられたゴシック様式の教会だが、現在の建物や2つの紋章は1880年に復元されたものとのこと。向かって左の紋章はクロアチア王国、ダルマチア地方、スラヴォニア地方の紋章で、右側がザグレブ市の紋章。道路の左側の角に面白い彫刻があった。多分昔からあったこの像を残してその廻りを壁で覆ったのであろう。この角を左に曲がった右側のレリーフの前で足を止めた。レリーフには NIKOLA TESLA と書かれている。ガイドは「クロアチア生まれのエジソンをも凌ぐ発明家で交流電気を発明した人」と説明した。電気工学を専攻した私にとって初耳の人。「えっ!そんな人いたの?」という感じだ。そこで、このブログを書くに当たって調べたので紹介する。テスラ小伝によると、(前略) 1882年、ブタペスト滞在中に回転磁界の原理を発見したテスラは、これに基づいて最初の実用的な交流モーター(二相誘導モーター)を完成させた。このモーターを三相以上に発展させ、発電機などの関連技術とあわせて体系化したのがテスラの多相交流システムである。 テスラの発明を真っ先に認めたのは、早くから交流技術に取り組んでいた起業家ジョージ・ウェスティングハウスである。ウェスティングハウスはテスラの特許を高額で購入、ここから交流配電網の拡大をめざす二人の同盟関係が始まった。この交流同盟軍に激しく対立したのが、直流による配電システムをすでに推進していた発明王エジソンとその支持者たちだった。両陣営の対立は技術者や企業家を巻き込んでほぼ十年近くにわたって続いた。 世に言う「電流戦争」である。 しかし、テスラのシステムが有名なナイアガラ瀑布発電所に採用されたことで、最終的に闘いは交流陣営の勝利に帰した。 交流システムを完成させたテスラはその後、電磁波の研究に向かい、ここからも数多くの画期的な発明や発見を生んだ。高周波高電圧を発生させるテスラ・コイル、電波を分離する同調回路技術、アンテナ -アース・システムなどは無線電信やラジオ放送の基盤技術となった。 こうした業績に基づいて1943年、アメリカ最高裁はラジオの発明者をマルコーニではなくテスラとする裁定を下した。(後略)今日の世界中の人たちが彼の発明の恩恵を受けているのだ。そして、このブログを書いている今日1月8日は奇しくも彼の死が発見された日。「1943年1月8日の朝、彼の部屋をノックしたメイドに、答えはなかった。……点滅するネオンサイン、轟音を立てる地下鉄、鳴り響くラジオ、何百万家庭の光と動力など、彼が大きく貢献して作った現代の電気の時代のシンボルになったいろいろなものから隠されて、テスラは夜うちに死んだ。生まれたときと同じように静かに……」(ケネス・スウェジー『ニコラ・テスラ』) このレリーフが張られていた建物はニコラ・テスラの記念館なのだろうか。ガイドに確かめ忘れた。さらにこの数軒先にナイーヴアート美術館がある。ナイーヴアートとは硝子絵。硝子の裏側に絵の具を塗り、それを正面から見るあの綺麗な絵だ。この辺りからカピトルの丘方面や下に旧市街の家々が良く見渡せる。小さいが由緒ありそうな教会の横の広場に出て、世界一短いケーブルカーの上駅を横目でにらんで坂を下り、近代的なトラム(路面電車)が走るイリッツア通りに出る。立派な哲学者のような銅像の前を通り、華やかなショッピングセンターの中を抜け、共和国広場(イエラチッチ広場)へとたどり着いた。このショッピングセンターにはネクタイの専門店があった。ネクタイはこのクロアチアが発祥の地だそうだ。ショッピングセンターの天井が豪華で綺麗だった。
2008.01.08
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ザグレブの次の観光場所「石の門」に向かう。青果市場からラディチェヴァ通りに入る。この辺はちょっとフランスっぽい感じだ。クリスマス用の2008と書かれた文字と雪の結晶の装飾が道路を横断して懸かっている。やがてゆっくりした上り坂になる。しばらく行った右手の古びた茶色のビルをガイドが指さしている。見ると女性の像が高いところにあった。これはクロアチアの女性は働き者という女性を賛美した像なのだそうだ。この像の下の部分にも古い彫刻があった。写真をしげしげと見るとこの像の左には数発の弾痕がある。多分内戦時のものなのだろう。また少し行くと面白い看板が眼に付いた。このお店のロゴマークは騎士が怪物と戦っている図になっている。この理由はすぐ分かった。少し先に大きな騎士の銅像があったのだ。この騎士はこの辺りを荒らした竜を退治した英雄で、彼が乗った馬は石造りの竜をしっかと踏みつけていた。退治された竜はこんな顔。この銅像のところを左に曲がり、階段を上がっていくと「石の門」が見えてくる。1731年の大火の折、当時木造だったこの城門が焼け落ちたときも、ここに安置されていた聖母マリア像だけは焼け残るという奇跡が起きた。以来ここを訪れる人が多くなり、このマリア像を納めた礼拝堂に花やロウソクを捧げて祈る人が後を絶えないとのこと。今日も沢山のロウソクが献灯されていた。この門はその後石で固められ、「石の門」という現在の姿になったとのこと。
2008.01.07
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カピトルの丘の聖母被昇天大聖堂からバスでちょっと下ったところに青果市場がある。そこで1時間ほど自由行動どなった。広場があり、入口こそ雑貨やお土産を置く店が屋台で並んでいたが、中は新鮮な野菜や果物を豊富に並べた店がびっしりと軒?を連ねていた。どの野菜も果物も彩りよく新鮮そのもの、美味しそう。私たちはハチミツ屋を探し回った。海外旅行でいつも例外なく買うものはその土地の蜂蜜だ。以前南仏のエクサンプロヴァンスの青空市場でもハチミツ屋を見つけたが、その時はタイムアップで買い損なった。ショコラティエで果物そっくりに見事に仕上げたチョコレートを見過ぎて時間が無くなってしまったのだ。今度はそんなことがないようにまずハチミツ屋を目指した。あった、あった。いろいろな種類の蜂蜜が置いてある。しかも安い。その中からmany flowersと説明してくれた黄色いクリーム状のと、more strongと言って出してきた菩提樹の密、それと蜂蜜の中に花粉とプロポリスを混合して造ったオレンジ色のを買った。この密は何か杏のような味がする。何処の国でもそうだが、こういう市場ではすべて試食させてくれるので安心して買える。そして人当たりの良い人だったのでいろいろ話をしながら品物を選べて、とても楽しく買い物が出来た。そんなことでずっしり重い荷物を持ってぶらぶら歩くことになってしまった。ふと老夫婦がやっているかぼちゃ屋さんで足が止まった。なんてモダンな八百屋のおばさんなんだろう。真珠のようなイヤリングをしてとてもチャーミング。ここのかぼちゃはさぞかし美味しいことだろうと思ってしまう。日本人よりも遙かに低い平均収入と言われているが、何か生活のゆとり、心のゆとりがにじみ出ているように思われてならない。この市場の片隅で写した一枚の写真。このブロンズ像は何だろう? 右側の像はすでに息絶えている人のようだ。中央の像は首に縄を掛けられたまま声高らかに歌っている様子、刑執行前の辞世の歌唱なのか?独立戦争の犠牲となった一般市民なのか、あるいは英雄なのか、はたまたナチス時代にプロテストした人達なのかよく分からないが、いずれにしてもこの人達がクロアチアの独立に貢献したからこそ現在の平和があるのだろう。この像の前を今左右から年代の違う人が通り過ぎようとしている。左からは真っ直ぐ向いてこの国の将来を背負うかのように、そして右からは過去の苦労を背負いながらも今の平和を喜んでいるかのように。 そのように見えてならない。今まで写してきた何千枚もの写真の中で一番好きな写真となった。
2008.01.06
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ザグレブはクロアチアの首都。フランクフルトからクロアチア航空に乗り継いで昨夜はここで一泊。迎えのバスに乗り、最初の観光場所聖母被昇天大聖堂に向かう。途中車窓よりクロアチア国立劇場を眺める。豪華な建物だ。1894年の建築。朝日があたり黄色に輝いていた。ザグレブの旧市街にはカピトルとグラデツの2つの丘が相対してあり、聖母被昇天大聖堂はカピトルの丘の上にある。下の写真はグラデツ(現ゴルニイ・グラード)の丘から見た大聖堂。高さ100mぐらいの尖塔が2つあり、左側の方(修復中)が右側より1mだけ低く造ってあるとのことだ。当初はロマネスク様式の建築だったが1242年に来襲したモンゴル軍により破壊され、その後ゴシック様式で再建されたが1881年の大地震で損壊し、20世紀初頭にネオゴシック様式で再建され現在に至っているとのこと。大聖堂の前の広場には豪華なマリア像が大聖堂正面に向かって建てられている。ファサードは夥しい素晴らしい彫刻の数々で飾られており、思わず我を忘れて見入ってしまった。中央の祭壇には聖母子の像が安置されており、多くの信者達が祈りを捧げていた。また、左側にバロック様式といわれる説教壇があったが、暗くて写真にはならなかった。聖堂内部の両側の通路には絵画や彫刻が多く飾られており、大理石の受難像や最後の晩餐の彫刻を見ることが出来る。「最後の晩餐」の絵画は数も多くよく知られるところであるが、彫刻は少ないのではなかろうか。この聖母被昇天大聖堂はザグレブのシンボルとなっている荘厳な聖堂で、英語ではThe Cathedral of Assumption of the Blessed virgin Maryと書かれている。この大聖堂はとてもおおらかで写真・フラッシュはフリーで許可していた。しかし、お祈りの邪魔にならないよう観光客は注意しなければならないことは言うまでもない。この後バスで丘の下の青空市場へと向かった。
2008.01.05
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昨年12月5日~12日の8日間阪急交通社のツアーに行って来ました~ 聖母被昇天大聖堂前のマリア像柱(ザグレブ市内)今日は行程を紹介しておきます。1日目:成田→ミュンヘン→フランクフルト→ザグレブ(クロアチア)2日目:ザグレブ観光→ブレッド(スロベニア)3日目:ブレッド湖観光→聖マリア教会(湖の小島)→プリトヴィッツェ(クロアチア)4日目:プリトヴィッツェ湖群国立公園(世界自然遺産)観光→トロギール観光(クロアチア)5日目:トロギール→スプリット観光(クロアチア)→途中ボスニア・ヘルツェゴビナ(スーパーマーケットでショッピング)を通過→ドブロヴニク(クロアチア)6日目:ドブロヴニク旧市街観光→コトル観光(モンテネグロ)往復7日目:ドブロヴニク→フランクフルト8日目:成田帰着正味5日間で、大体半日観光・半日移動のパターンでした。でも、移動中の景色はとても綺麗でしたよ。 ただクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナの場合、内戦の傷跡ではと思われるところが地方には随所に見られました。この旅行について逐次アップして行こうと思います。よろしく。
2008.01.02
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