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ララキャット @ Re:迪化街(ディーホアジエ)(11/28) New! 旅を楽しんで下さい また帰国してから、ゆ…
moto,jc @ Re:迪化街(ディーホアジエ)(11/28) New! こんばんは 随分色々見どころがあります…
danmama313 @ Re:迪化街(ディーホアジエ)(11/28) New! 台北から日帰り圏内で良い所は沢山ありま…
marnon1104 @ Re:迪化街(ディーホアジエ)(11/28) New! やっぱり台湾は良いですね。 日本から近い…
monmoegy @ Re[1]:迪化街(ディーホアジエ)(11/28) New! パパゴリラ!さんへ スマホから、簡単に返…
Feb 28, 2019
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カテゴリ: カテゴリ未分類
サイゴン...

現在ベトナムのホーチミンですね。
いよいよホーチミン旅行が約1ヶ月ちょっと先に迫ってきました。
最近になって原油の価格下落で燃料のサーチャージが4月、5月分大幅値下げとアナウンスされてるのに、既に予約済みの分は適用除外だって。
サーチャージって、航空会社の儲けとは関係ないのに...

今回の旅行だけは感慨深い。
私にはサイゴン(ホーチミン)=ベトナム戦争だからです。
恐らく、ベトナム戦争世代だった人でも、日本にいた方はそんなでもなかったでしょう。


しかし、一旦飛行機が日本を離れると、たちまちベトナム戦争の重圧がのしかかってきます。
当時、ベトナム上空を飛行できず、大きく海上を迂回しなければならなかった。
いつミサイルが飛来して、撃ち落されるかわからないからです。
ベトナム...国土は南北に細長く、北は中国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接します。
東は南シナ海を隔ててフィリピンと相対。
ベトナムの歴史は戦乱の歴史でした。
そのほとんどは列強の軍事介入か侵略によるものです。

1847年にフランス軍艦がベトナムのダナンを砲撃し、フランスの侵略が始まります。
1847年と云うのは、日本では徳川家慶が治めていた時代です。
その後、1882年にフランスはハノイを占領しています。

第2次大戦では日本軍が進駐していましたが、戦争終結とともに、ベトナム独立同盟(ベトミン)がハノイを占拠してベトナム民主共和国の樹立を宣言しました。

フランスに対する独立戦争(第1次インドシナ戦争)が始まったのが1946年です。
これから、1975年のサイゴン陥落まで、長く苦しい戦いが始まりました。

1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスは敗北。
これによって北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分断されてしまったのです。

フランスに代わって介入してきたのがアメリカ。

特に1963年、ケネディが暗殺され、ジョンソンが大統領に就任すると、米軍は戦争に直接介入するようになります。
直接介入とは北ベトナムの爆撃(北爆)です。
北爆が開始された1965年と云うと、昭和40年です。

中国で文化大革命が始まった年であり、日本ではアメリカの北爆に反対し小田実らが「ベトナムに平和を!市民・文化団体連合」いわゆる「ベ平連」を結成しましたが、ほとんどの日本人は関心を寄せませんでした。
私がタイに行ったのは1970年です。
ベトナム戦争真っ盛り。

タイの国内も戦争の影響が色濃くでてました。
パタヤビーチに行くと、アメリカの軍艦が数多く停泊していました。
ちなみにパタヤビーチはもともと米軍が慰安用に開発したリゾートです。
バンコク市内には米軍専用ホテルがあって、そこでは$しか通用しなかった。
1度、知らずに、それも将校専用バーで飲んで、お会計の段になってひと悶着。
結局、お金はいらないから、2度と来るなと云われました。

このホテルの客室は全室コネクティングルームと云う、隣の部屋と、部屋の中からドアが開閉されるタイプです。
緊急に出動招集がかかったときのためです。
1975年、北ベトナムと解放戦線(ベトコン)が大攻勢を行うと、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は全面降伏します。
サイゴンは陥落し、ベトナム共和国は崩壊に至るのです。

こうして南ベトナム共和国の名の下に北ベトナムが実権を掌握し、ベトナム戦争は終結しました。
この戦争によるアメリカ人の戦死者は5万8千人、戦傷者は30万人。
また、アメリカの求めに応じて、ベトナムに派兵した韓国、オーストラリア、ニュージーランド、タイなどの戦死者は合わせて5千人を超えます。

ベトナムが被った被害はそれどころではありません。
戦死傷者300万人、民間人の被害400万人超、行方不明者30万人超、枯れ葉剤の被害者100万人、精神病者600万人、難民1千万人。
ベトナムに投下された爆弾1,400万トン。
第2次世界大戦で使用された総爆弾量は610万トン余りですから、これは異常な数字です。
いったい、この戦争でアメリカは何を得たのか?
戦争終結後、しばらくたって戦争を弾劾する映画が次々と発表されました。

マイケル・チミノ監督の「ディア・ハンター」1978年。
オリバー・ストーン監督の「プラトーン」1986年。
スタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」1987年。
なぜ、アメリカは多くの若者を、東南アジアの小国の戦地に送り込んだのか?
なぜ、アメリカはナパーム弾で村を焼き払ったのか?
なぜ、アメリカはダイオキシンなんて猛毒の枯葉剤をばら撒いたのか?
これによってベトナムでは奇形児出産が激増したのです。
ちなみにアメリカが撒いた枯葉剤の製造にはバイエルが買収・吸収した多国籍バイオ化学メーカー「モンサント」が関わってます。


映画では、私はこの作品が忘れられません。
1979年に公開されたフランシス・フォード・コッポラが監督して、マーロン・ブランドが主演した「地獄の黙示録」。

この映画は、まだアメリカとベトナムの国交が樹立していなかった時のものなので、フィリピンのジャングルで撮影されました。
あまりにもベトナム戦争に批判的な内容だったので、アメリカ軍の協力が得られませんでした。
そのためフィリピン軍が協力して艦艇やヘリを動員したのです。
この映画の冒頭でジャングルを旋回するヘリが映し出されます。
フラフラと蚊のように行き来するヘリ。

と、一瞬でジャングルがナパーム弾により火の海と化す!
ナパーム弾のガソリンのニオイが画面から満ち溢れてくるようです。

それとともにドアーズ(The Doors)の「ジ・エンド」が重々しく流れてくる。
ヘリのプロペラの回転が、サイゴンの安アパートの天井につけられてる扇風機の羽根とオーバーラップして...

準主役のマーティン・シーンの顔が映し出される。
薄汚い部屋の窓から外を眺めるマーティン・シーン。

窓の外には、サイゴンのアメリカ大使館が。
「ちぇっ!まだサイゴン...」マーティン・シーンが舌打ちする。

このシーンくらい、当時のベトナムの雰囲気を的確に表現してる映像を他に知らない。
ベトナム戦争当時、日本ではほとんどの人が関心ないか、関心はあっても遠い異国の地のできごと。
よく分からないと云うのが本音。
現在の中東における紛争と同じです。

しかし、日本のメディアの方は熱心に取材してました。
「サイゴンから来た妻と娘」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞された近藤紘一さんは当時、サンケイ新聞の特配員でした。
司馬遼太郎とも家族ぐるみで親しくされてた方です。
近藤さんのお父さんは東京女子医科大学の教授などを務め、ファイバースコープの開発に貢献した方です。
バンコクに2度目の結婚の奥さまと、その連れ子のお嬢さんを伴って来られてから、スグに私と仲良くなりました。

ところがバンコクに着任して1ヶ月もたたないうちに、イスラエルとエジプトの中東戦争が始まって、近藤さんは単身で取材に。
残された奥さまとお嬢さんは、タイ語もできず、英語もできず、話せるのはフランス語だけ。
その間、たいしたことはできなかったですが、お世話のまねごとさせていただきました。

その近藤さんも、マラリアが原因で亡くなり、奥さまと娘さんは現在、パリ在住。
お嬢さんはフランス人男性と結婚して、男の子をひとりもうけているそうです。
他にも数多くの日本人の戦場カメラマンが活躍しました。
一ノ瀬泰造さんと沢田教一さんは、私は面識がありません。

映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」で有名な一ノ瀬泰造さんは、「アサヒグラフ」や「ワシントン・ポスト」に多数採用されたフリーランスのカメラマンです。
「安全へのダイブ」でUPIニュース写真月間最優秀賞を受賞した方です。
ベトナム戦争報道写真「安全への逃避」でピューリツァー賞を受賞した沢田教一さんは、本人の強い希望でUPIの特派員としてベトナム入りし戦争の様子をカメラに収め続けました。
「安全への逃避」は、ベトコン側の村がアメリカ軍の爆撃を受けている時、村から逃げてきた女性たちが川を歩いて逃げてくる様子を撮影したのです。


一ノ瀬泰造さんはベトナム戦争当時、クメール・ルージュの支配下に有ったカンボジアのアンコールワット遺跡単独での1番乗りを目指していました。
1973年11月「旨く撮れたら、東京まで持って行きます。もし、うまく地雷を踏んだら"サヨウナラ"!」と友人宛に手紙を残し、単身アンコールワットへ潜入しました。
そして消息を絶ったのです。

9年後の1982年、一ノ瀬さんが住んでいたシェムリアップから14km 離れたアンコールワット北東部のプラダック村で遺体が発見されました。
カンボジアに入国してスグ、クメール・ルージュに捕らえられ処刑されていたのです。

沢田教一さんもまた1970年、カンボジアを取材中に強盗の襲撃にあい、金品を奪われ殺害されました。
現在、ホーチミン市内には「戦争証跡博物館」と「クチの地下道」と云う観光施設があります。
戦争証跡博物館内には、過去に起きた戦争に関する展示物だけでなく、実際使われた爆弾や武器なども展示しています。

クチの地下道は、ベトナム戦争時に兵士が身をひそめるために造られたアリの巣のような地下道で、隣国のカンボジア付近まで延びています。
中には病院や食料の備蓄倉庫、武器の保管庫もあったそうです。

しかしこれらの施設を観光スポットと呼んでいいのか?
私にはまだ行くか行かないか踏ん切りがついていません。
どっちにしても、ここを物見遊山で訪れるフランス人、アメリカ人、そして米軍と一緒にベトナム戦争に加わった韓国人の神経だけは理解できません。
当時の韓国軍がもっともベトナム人の虐殺をおこなった軍隊なのですから。





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Last updated  Feb 28, 2019 05:04:31 AM
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