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Jul 25, 2026
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カテゴリ: カテゴリ未分類
若いころ司馬遼太郎の歴史小説を読み漁った記憶あります。

とりわけ新選組副長"土方歳三"にスポットをあてた「燃えよ剣」は肩入れが大きいです。


しかし数居る新選組隊士で司馬遼太郎がチョイスしたのがナゼ土方歳三だったのか?
天然理心流の4代目で局長だった近藤勇をはじめ、新選組最強とも称される天才剣士で、若くして病没した悲劇のヒーロー沖田総司や無外流の使い手で、剣の腕前もさることながら、数少ない明治以降まで生き延びた人物として知られる斎藤一、「北辰一刀流」の遣い手で、若年層の隊士をまとめた藤堂平助など個性派ぞろいだったのにナゼ土方歳三だったのか...
ご存知の通り新選組のスタートは京都に上る14代将軍 徳川家茂を警護する「浪士組」に参加することを目的に集まった約250名の壮士から始まります。
一行は中山道を進み京都に着きましたが、到着早々、浪士組の発案者である清河八郎がとんでもないこと云い始めます。
「われわれの目的は将軍の警護でなく、攘夷の先鋒になることである」と。
これでは話がまったく逆転。


そのとき、あくまでも将軍の警護を主張して京都に残留したのが後に局長となった近藤勇と芹澤鴨。
彼らは京都守護職 会津藩お預かりの「壬生浪士組」になり、そして「新選組」と名を変えて京都の治安維持にあたったのですね。
近藤とともに筆頭局長だった芹澤鴨は、北辰一刀流の達人で腕前は超一流でしたが酒癖が悪く、気に入らないことがあると商家を脅迫したり放火したり。
それで規律を重んじる近藤らと対立していくのですが、文久3年(1863年)に近藤や土方歳三らによって暗殺されてしまいました。
お話を土方歳三に戻しましょう。
司馬遼太郎が土方を主人公に選んだのは、局長 近藤勇が慶応4年(1868年)下総国流山で新政府軍に投降後、板橋宿(東京都板橋区)の刑場で斬首されたのに対し、近藤が処刑された後も旧幕府軍の副長として北関東から会津、そして函館へと転戦し徹底抗戦を続けた最も長く戦い抜いた新選組隊士だからでしょう。
近藤は武士にも関わらず、切腹ではなく斬首と云う盗人同然の扱いを受けたのに対し、土方は箱館の最期まで信念を貫き通したまさに武士そのものであることを体現した人物だったからです。
土方はもともと武士ではありませんでした。
東京都日野市にあたる武蔵国多摩郡石田村の豪農の生まれで、次兄 喜六夫妻の手で養育されて家伝の石田散薬行商の傍ら、厳しい身分制度の中で武士になることに強く憧れ、天然理心流の剣術を学んだのですね。
そして文久3年に「浪士組」として上京したのは前述の通り。
近藤勇を支えるNo.2として厳格な隊内統制(局中法度)を敷き、規律を破った隊士には切腹をも辞さない容赦ない態度で組織を統率したことから「鬼の副長」の異名で恐れられました。

「芸術家が芸術そのものが目標であるように、喧嘩そのものが目標で喧嘩をしている」と評し、明確な政治思想も持たず、さながら芸術的興奮を求めるように戦い続けたその生き様を「喧嘩師」と形容してます。

徳川慶喜との主従関係からいつのまにか解き放されて、新撰組からも離れ、自らの意志で行動するようになり生き生きして見えるひとりの男。
ここにはカラー分けできない次の時代に適合しようとした武士の姿があるように思えます。
江戸城無血開城後も土方はあくまで抗戦を続けることを譲らなかった。
その後大鳥圭介ら幕府陸軍残党と共に各地を転戦した土方は会津に入り、奥州諸国を奔走して諸侯を説得し、奥州同盟を固めさせます。

土方は艦隊とともに風浪を切り開いて北上し、一躍北海道を目指すことになるのです。
北海道へ上陸した一行はまず函館を占領し、函館郊外にある西洋式要塞「五稜郭」に本営を築きます。
さらに松前城を奪取すると北海道全域を支配下に置き、榎本を総裁とする蝦夷共和国を樹立させたのですね。
この動きに新政府は速やかな攻伐を決定、最新鋭の装甲艦を駆使して猛攻を仕掛け榎本軍はどんどん衰退していきます。

しかし酸鼻を極める数多の戦闘で、土方は天賦の才と云える采配で鮮やかに部隊を指揮。
寡兵をもって官軍の進撃を押し留め続け函館政府軍唯一の常勝将軍として名を馳せたのです。
多勢に無勢、いくら土方が獅子奮迅の働きをしても、劣勢はくつがえりません。
土方も五稜郭まで退くものの、もはや敗戦は避けられぬことを痛感し己の最期を考え始めます。

敵砲が豪然と火を噴く中、土方は新選組の残党とともに吶喊攻撃を敢行するものの、寡勢の不利を覆すことは叶わない。
覚悟を決めた土方は、参謀府に斬り込みをかけんと単身敵陣に突撃し、官軍の一斉射撃を浴びて腹部を銃弾で撃ち抜かれ、落馬してまもなく絶命するのです。
現在、函館市若松町の「土方歳三最期の地碑」が建つ場所 がその最期の地とされています。
土方は、正規の武士の出でないだけに武士というものに鮮烈な理想像を持ち、加えて故郷の多摩が天領で源平時代に剽悍をもって鳴った坂東武者の発祥の地でもあることから、その理想を前にして容易に命を投げ出すことを己の信条としてました。
自らを思想もなければ天下国家のことも頭に無く新選組を天下第一の喧嘩屋に育て上げる職人であるとし、人を斬るためのみに作られ余計な存在目的を持たない剣のように、武士は小理屈を持たず粛然と節義のみに生きるべきと考えています。
そのため隊規の紊乱を寸毫も許さず、隊律を乱せば即死罪という苛烈なまでの掟で隊士を縛り上げ、戦慄恐懼をもって統率したのですね。
まことにもって、戦国武将のような考え方です。





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Last updated  Jul 25, 2026 05:23:40 AM
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