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うちのゼミ生の就職活動もそろそろ終盤になってきて、5人のうち3人は既に決まり、残すところは2名の行方。 で、そのうちの一人は市役所狙いなんですけど、先日、その最終面接みたいなのがあったと。 で、その面接に臨むに当たって、その学生(女子)は、お母さんから一つ、かなり重要な示唆を受けたというのですな。 その示唆とは何かと言いますと、「自己PRの最良のプレゼンは、『しくじり先生』方式である」と。 で、お母さんからそうアドバイスされた私のゼミ生は、前もってパワーポイントで、『しくじり先生』っぽい資料を作った。 で、それを活用しながら、面接の時に、「で、その時、私がどう考えたかと申しますと・・・次のページをご覧ください!」みたいな感じでプレゼンしたわけ。 で、それが面接官に大うけで、ゼミ生的には大いに手ごたえを感じ、意気揚々と帰路についたとのこと。 いやあ! 素晴らしいな、お母さん。よくわかっていらっしゃるわ~。就職面接の自己PRに『しくじり先生』を応用させるとは。その発想の斬新さが素晴らしい。 というわけで、今日、前期最後のゼミの時間にその話を聞いて、「ご母堂様に、俺がえらく関心していたと伝えておいて」と命じておいたのでした。 しかし・・・さすがは釈迦楽ゼミ。ゼミ生のみならず、そのお母さんまで、釈迦楽ゼミっぽいって、なんかすごくない?
July 31, 2017
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大学も明日からの週でようやくおしまいとなり、夏休みに入ります。いやー、なんか色々あり過ぎて、今年の前期は夢うつつの内に終わったって感じですかね・・・。 それはともかく、今年は夏休み中にまた2週間ほど、アメリカ(ロス)に行こうかと思っておりまして、そろそろその予定を組まないといかん時期かなと。 で、今回は「Air b&b」なるサイトを使って宿探しをすることに。で、とりあえず割と治安の良さげな、そしてどこに行くにも比較的便利なところに貸し切りのアパートを借りてみた。そしたら、予約申し込み直後に、向こうの大家さんから返信メールが来て、貸借成立! あっけないくらい簡単だねえ。 ということで、後は飛行機の予約と、レンタカーの予約、かな。 それでも、こういうのが決まってくると、さすがに「夏休み」って実感が湧きます。 さて、今年の夏は、どんな収穫がありますやら。ちょっと楽しみですな。
July 30, 2017
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ベッドの反対側から起きると、その日一日、ついてないことばかり起きると、メアリー・ポピンズが言ってましたが、今日はまさにそんな一日でありました。 家内の友人から映画館のタダ券をいただいたのはいいのですが、それが今月末までということで、今日、土曜に名古屋駅前のミッドランドスクエアに映画を観に行ったのが、まず最初の躓き。4時の回を観ようと3時半ごろ現地に到着してみると、『ザ・マミー』は既に満席・・・。まあ、土曜に、しかも名古屋駅前の映画館に、封切られたばかりのトム・クルーズ映画を観ようというのが、そもそも間違いなのでありまして。 で、仕方ない、他に選択肢がなかったので、次の回、すなわち8時45分からの回のチケットをとったのですが、そうなると今度は名古屋の都心で5時間潰さなければならない羽目に。 で、思いまどった挙句、せっかく駐車した車をもう一度出して栄まで行き、愛知県美術館でさして見たくもない「エルミタージュ美術館展」を見ることにしたと。まあ、展示自体はそこそこでしたけどね。 で、5時半になったので、とりあえず飯を食おうということになり、再びクルマを出して、国際センター近くのブラジル料理店、プラネタ・グリルに向かったわけ。もちろん、営業時間も確認して。 ところが、実際に行ってみると、何の理由もなく休業中と。こら、ブラジル料理店、そういうとこだよ! で、再び流浪の民となった私たちは、仕方ない、また元の名駅近くの駐車場にクルマを止め(その際、あやうく人を轢きそうになる)、映画館のあるミッドランド・スクエア内で夕食をとることに。 そもそも今日は、映画を観た帰りに、とあるお気に入りのラーメン屋さんで、「トマト・ラーメン」なるものを食べようと思っていたほどで、要するにそんなに食事にお金を使う予定はなかったわけ。そこで、ミッドランド・スクエアにある比較的リーズナブルな和食の店「寅福」で簡単に食べようと。 そしたら、スクエア内のレストランの模様替えがあったらしく、寅福は潰れていた・・・。 しかし、もう今更、流浪するのは嫌になったので、仕方なく消去法でイタリア料理店でピザなどを食べることに。 で、前菜に「ズッキーニの窯焼き、生ハム添え」というのが旨そうだなと思って注文したんですが、これが予想に反した料理でして。我々はあのズッキーニ、あの緑色のキュウリの太い奴みたいなのを期待していたのに、出てきたのは焼いたマスクメロンみたいなものだったという。これにはちょっとガッカリ。 しかも、食事中、私はナイフを床に落としてしまい、満員の客の注目を集めることに・・・。 ま、その他の料理はまずまずでしたし、店のサービスにも不満はなかったのですが、お会計してみたら6500円と、当初の予算からすると倍以上になってしまったという。 で、当初の予定から5時間遅れでようやく映画を観たわけですが、肝腎の『ザ・マミー』の出来は、期待したほどではなかった・・・。 で、多少がっかりして映画館を後にし、駐車場に向って歩いていたら、家内が道端に落ちていた缶コーヒーの缶に蹴躓きまして。そしたら、その缶コーヒーが空ではなく、中身が入っていたので、家内は靴を汚してしまうという・・・。 で、散々な思いをして夜の12時頃、家についてみると、前から楽しみにしていたスイカの届け物を受けとりそこなったことを知る羽目に・・・。 こんなついてない一日って、ある? 結局、タダ券で映画を観るという計画が、逆に大散財の不首尾な一日に終わってしまったのでした。やっぱり、「タダより高いものはない」っていう格言は、真実なんですな・・・。
July 30, 2017
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今日、うちの科の同窓会報をすべて発送しました。毎年、結構大変なんだ、これが。 大体、同窓会自体が有名無実で、同窓会報の作成から発送まで、全部私が一人でやっているんだから。 まず、卒業生の近況を知るために、各学年1、2名を無作為に抽出して原稿依頼をし、寄稿してくれたものを編集。それを印刷し、丁合し、三つ折りにして封筒に入れ、封をする。で、封筒には宛先のタックシールを貼り、差出人のタックシールを貼り、さらに「料金後納」のシールを貼り、それで郵便局に持っていくわけだから。この作業全部、私一人でやるんだからね・・・。 だけど、それで卒業生から何か反響があると、別に苦労とも思わないんだけど、ここ数年、何の手ごたえもないからね。これだけ時間と労力使って、誰一人「ありがとう」の一言も言ってもらえないとなると、これはかなりキツイです、正直。 一人でもいいんだけどな。一人だけでも、なんか反応してくれればね。それですべて報われるんだけど。 それにつけても思うのは、私もまた、誰かの世話になった時に、ちゃんとお礼しているかな、ということ。 文学ってのは、結局、人情の学問だからね。文学やっている以上、義理を欠いたらいかん。そこは、自分も気を付けなくちゃと思いますね。
July 28, 2017
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アメリカの自己啓発ライター、ジグ・ジグラーの『ジグ・ジグラーのポジティブ思考 可能性を開く6つのステップ』(原題:See You at the Top, 1975)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 自己啓発本というのは、常に、「何が書いてあるか」ということ以上に、「誰が書いたか」が問題になる文学ジャンルであります。この種の本に書いてあること自体は、言ってみれば、みんなおんなじようなことなんですな。じゃあ、その本の価値はどこで決まるかというと、その同じことを誰が言ったかによる。 簡単に言えば、貧乏人の著者が「こうすれば成功できる」と言っても意味がないわけね。成功してお金持ちになった著者が「こうすれば(あなたも私と同じように)成功できる」と言った時にのみ、その本に価値が生まれると。 で、じゃあジグ・ジグラーはどうなのかと言いますと、彼は12人兄弟の一人として生れ、世界恐慌のさ中、まだ学齢期の兄弟が5人もいる時に父親を亡くすという苦境に陥り、小学校5年生から地元の食糧品店で働くという経験の持ち主。なかなかの苦労人です。 で、様々なセールス系の仕事に就いた後、P・C・メリルという自己啓発講演者のセミナーに出席するのですが、そこでメリル氏から「君はいずれ成功者になるだろう」というご託宣を受ける。 で、そのご託宣を受けた途端、うだつの上がらなかったセールスマンのジグラーはまるでサナギから蝶になったかのごとく営業成績が上がり出し、7000人のセールスマンのいたその会社でトップ・セールスに躍り出てしまった。つまり、「君はトップになれるよ」の一言でその気になったことと、それからノーマン・ヴィンセント・ピール師の『積極的考え方の力』という自己啓発本の名著を座右の書としたおかげで、トップ・セールスとして振る舞うようになり、結果としてそうなったと。まさに自己啓発思想が典型的に花開いたような感じになったわけね。で、その後、デール・カーネギー協会で講師を長く務めたりもし、今ではジグ・ジグラー・コーポレーションの代表に納まって居ると。 自己啓発思想で実際に成功した人物が、自ら次世代の自己啓発思想の伝道師になる――これぞ、自己啓発リレーと言われる(私が勝手に言っている)現象なんですけど、とにかく、だからジグ・ジグラーは、自己啓発書を書く資格があるし、人々はその声に耳を傾けるわけですな。 で、じゃあ、この本でジグラーが何を言っているかというと、これまた典型的な自己啓発思想でありまして、それはこの種の本でよくあるごとく、「階段」の比喩で語られる。成功への道筋は階段だ、そのステップを一段、また一段と上がっていけば、誰でも成功者としての未来が待っているのだよ、と。 ジグラーによれば、成功へのステップは6段(意外に段数少ないねぇ・・・)。 まず最初のステップは「健全なセルフイメージ」の構築。「あなたが自分を有能で価値ある人間だと見なせば、それにふさわしい行動を起こし、見合った結果が得られる」ということ。言うは簡単だけど、人は小さい頃から親や先生から「ダメだ、ダメだ」と言われて育つのが普通なので、意識するしないは別として、誰しも「自分なんか・・・」と卑下するところがあるわけですな。だけど、それじゃ、健全なセルフイメージとは言えないので、まず、自分の長所を信じるところから始めなさいと。 第2のステップは「良好な人間関係」を築くこと。人っていうのは、必然的に、人に影響を与えたり、人から影響を与えられたりしながら生きているのだから、良好な人間関係を築くことが重要だと。で、その際、ジグラーが強調するのが夫婦関係ね。夫婦関係ほど身近な人間関係はないのであって、これが破綻したらもう人生終わり。だから、夫たるもの、自分の奥さんを「女王」として扱いなさい、そうすれば奥さんから「王」として扱われるだろうと。(奥さんを大事にしろ、ということをやたらに強調する点、ジグラーの本は、ちょっと特殊です。) 第3のステップは「目標設定」。目標なしに生きている人ってのは実に多いけど、そんなんで成功できるはずがない。だからまずは目標設定することが重要、それも長期的な目標と同時に、毎日の目標を立てることも重要である。また目標を立てる時は、時に無知であることも必要である、というのがジグラーの主張でありまして、ここで「1マイル4分エピソード」が登場。これ、自己啓発本でよく使われるエピソードなんですけど、かつて「1マイルを4分で走るのなんて人間には無理」という常識があって、その常識が通用していた時期には、誰もこの記録を破れなかった。ところが、ロジャー・バニスターが1マイルを4分以内で走り切って以来、世界中のランナーがこの記録を次々に破ってしまったんですな。つまり「そんなの無理」という常識に無知であれば、どんな目標でも達成できると。 第4のステップは「正しい心構え」を身に着けること。心理学者ウィリアム・ジェームズも言うように「心構えを変えれば人生が変わる」。だけど、実際に「心構え」を教えてくれる学校は存在しない。だから本書が教えてあげましょうと。例えば朝起きた瞬間、「また仕事か・・・」などとゲンナリしていたらダメ。前の晩、目覚ましをセットする時点で、「この目覚ましが鳴ったら、素晴らしい一日の始まりだ!」と気合を入れ、朝起きたら、「またチャンスたっぷりの一日が始まるぞ!」といきなりガッツポーズ! こうやって一日を始めれば、大分違ってくるよと。それからお腹が空いたら食べ物を食べるように、常に精神にも食事を与えようと心掛けること。通勤のクルマの中では自己啓発カセットを聞こう、10分のヒマがあったら自己啓発本を読もう。人間はしなければならないことと、したいことだけをする動物なのだから、まずは良い行動を「しなければならないこと」として習慣づけよう、そうすればその習慣はいずれ「したいこと」に変るはず。 第5のステップは「働く」こと。とにかく、働かなくては始まらない。人並み以上に働こう。そして働くことを好きになろう。成功者で、嫌々仕事をしている人はいない。皆、好きなことを一生懸命やるからこそ成功するのだ。また、宝クジが当って億万長者になって、幸せになった者はいない。働いてこその幸せだ。さらに、成功したいなら、成功するまで努力すること。成功の一歩手前までやった、というのでは意味がない。後もうひと押しを頑張ろう。何度失敗して倒れても、その倒れた数より一回だけ多く立ち上がろう。それが勝利の意味である。 そして最後、第6のステップは「熱望する力」。フォードは、正規の教育を受けていなかったので、エンジンの仕組みなどは分らなかった。ので、専門家が何度「無理」と言っても、「どうしても作りたいのでV8エンジンを作ってくれ」と譲らなかった。その「どうしても作りたい」という熱望が、最終的にフォードV8エンジンを完成させた。同じように、どれほど専門家が無理といっても、ひたすらに熱望しさえすれば、その夢がかなえられないことはほぼない。だから熱望しよう! で、上に述べてきたこれら6つのステップをきちんと踏まえれば、あなたの夢はかならず叶うーーこれが、ジグ・ジグラーの、われわれ読者への約束でございます。 まあね、普通よ、普通。自己啓発本って、こういうもんだから。で、こういう主張を、前の世代の自己啓発本(例えばニューマン/バーコヴィッツの『ベスト・フレンド』、ミュリエル・ジェイムズの『自己実現への道』、クロード・ブリストルの『新年の魔術』、ブッカー・T・ワシントンの言説、デビッド・ダンの『自分を与えよう』、ディケンズの言説、ピール師の『積極的考えの力』、デール・カーネギーの言説、マリー・クローリーの『マリーと共に』、ウィリアム・ジェームズの言説、ピーター・ドラッカーの言説、ロバート・シュラーの言説、などなど)とか、あるいはジグラー本人が見聞きしたエピソードなどを用いながら書き連ねると。 あ、もちろんエマソンの引用もね。っていうか、本書のエピグラフはエマソンの「われわれの前にあるものも後ろにあるものも、われわれの内にあるものと比べたら取るに足らない」から始まりますからね。 でもそうなってくると、結局、自己啓発本の独自の面白さっていうのは、「著者本人が見聞きしたエピソード」が面白いかどうかに掛かってくることになる。 じゃあ、本書の場合はどうか。一つ例を挙げましょう。 「あるニューヨークのビジネスマンが、鉛筆を売っているホームレスの缶に一ドルを放り込み、急いで地下鉄に乗り込んだ。だが、ビジネスマンは考え直して地下鉄を降り、さっきのホームレスのところへ戻ってコップから鉛筆を数本抜き出した。ビジネスマンはすまなそうに説明した。急いでいたので鉛筆を受け取るのを忘れてしまったが、気を悪くしないでほしい、と。 『何と言っても、君も私と同じビジネスマンだ。君は商品を売っているし、値段も妥当だと思うよ』。そして彼は次の電車に乗り込んだのだった。 数カ月後、ある社交的な集まりで、そのビジネスマンのところへ身だしなみのいいセールスパーソンが近づき、自己紹介した。『おそらくあなたは私を覚えていらっしゃらないでしょうし、私もあなたの名前を存じ上げません。でも、あなたのことは決して忘れないでしょう。あなたのおかげで、私は自尊心を取り戻せたからです。あなたが現われて君はビジネスマンだとおっしゃってくれるまで、私は鉛筆を売る“ホームレス”にすぎなかったのです』(68-69ページ) こういうエピソード、おそらくは作り話でしょうけれども、こういうのを面白いと感じる方ならば、あなたはジグ・ジグラーの読者だ、ということになるわけですよ。 私は・・・まあ、嫌いじゃないね。作り話だろうけれども、「ストーリー」ではあるからね。 ということで、本書『ジグ・ジグラーのポジティブ思考』を読み、また、以前に読んだジグラーの自己啓発本の知識も含め、ジグラーの何たるかというのは、大体掴んだ私なのであります。ジグ・ジグラーのポジティブ思考 可能性を開く6つのステップ [ ジグ・ジグラー ]
July 27, 2017
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最近、教育学の先生のお話を聞く機会があったのですけど、イマイチ、分らなかったなあ。 いや、内容が分らなかったんじゃないんです。内容は分り過ぎるくらい分かるんだけど、それのどこが面白いのか分からなかったってこと。 例えばこんな話がある。日本の初等・中等教育の先生方は忙しいと。授業をやらなきゃいけないのは当たり前として、その他に朝、校門のところに立って登校してくる生徒たちに挨拶したり、ホームルームで出欠をとったり、クラブ活動の顧問をやったり、進路指導したり、成績管理したり、掃除したり、とにかくありとあらゆることをやらされる。で、週の労働時間は平均して53時間余りだと(世界平均は38時間)。 一方、イギリスの初等・中等教育は全然事情が違う。日本の学校って、全職員に占める教師の割合って80%位なんですけど、イギリスはほぼ50%。残りは事務員さんで、この人たちが授業以外のほとんどの仕事を担当してくれるため、教師は授業だけやっていればいいと。 これらのことから、日本の教育界がいかに遅れているか、分かるというものです。 ・・・とまあ、そんな感じのお話だったのですが、さて、この話、面白い? もちろんね、各国の教育事情を調査するのは大変だと思いますよ。だけど、こういう事実を知ったところで、アカデミックな意味で興奮する? 私はしないんだなあ。「ふーん、そうなんだ」で終りだよ。 逆に聞きたいんだけど、教育学の先生方って、こういうのでワクワクするの? 「え! マジ? ゾクゾクするほど面白いな!」って思うの? 「リンゴが木から落ちたけど・・・ひょっとしてそのリンゴ、落ちたのではなくて、地球に引っ張られたんじゃないの?」って気付いた時の衝撃とか。そういう種類の驚天動地のアカデミックな興奮って、教育学にあるのかしら? さて、それとはまったく別な話ですが、先日もご紹介した同僚で、哲学のI先生と雑談をしていて、彼が栗本慎一郎氏の書いた『パンツをはいたサル』(通称『パンサル』)を読んだことがない、というので、貸してあげたわけ。 そしたら一日で読んできて、私にその本を返してくれたのだけど、どうだった?と尋ねたら、「それほどでもなかった」というんです。 で、私が「え? そう? 私は割と面白く読んだ記憶があるのだけど」と言うと、「面白くなくはないけど、証明できないようなことばかり書いてある」と。 ま、それはそうかもね。 だけど、「人間がパンツを履くのは、羞恥心から履くのではなく、いつの日かそれを脱ぐ瞬間のために履いているのであって、隠すためではなく、むしろ見せるために当面隠しているのだ」などと、栗本氏が本書の中で独自の過剰蕩尽理論を下ネタっぽく説明されるのを読んでいると、一応、そこにある逆転した世界観を垣間見ることができるわけじゃん? それが正しいか間違っているかは、証明できないにせよ。 で、そういう異なる世界観を垣間見た衝撃によって、読者の方でも、それぞれ自分の関心の在り処において既成の価値観を疑い始めたりするわけで、そこからまた新たな何らかの見識が生まれるかも知れない。そういうワクワク感が、少なくとも『パンサル』にはあるのではないかと。 で、私が思うに、それこそがアカデミックな興奮であり、私が教育学という学問分野に見出せない種類のものなわけよ。 だったら、私は教育学よりも『パンサル』を取るな。 ま、身の廻りで起った二つの出来事から、そんなことを考えた私だったのであります。
July 26, 2017
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今日、必要があって、大学に向いがてら、道筋にある100円ショップ「ダイソー」に立寄っちゃった。 で、ダイソーに行く度に思うのだけど、最近の100円ショップってやばいよね。何でもあるもん。 今日は小さな封筒を買いに来たのですが、種類も豊富で迷っちゃう。で、いいのを見つけてゲットしたのだけど、色々見て廻っているうちに、そうだ、大学で使っている印鑑ケースが壊れたんだけど、代わりになるものあるかしらと思い、捜したらいいのがあるのよ。 で、さらにさらに「カーテン・クリップ」も欲しかったんだ、と思ってそれも買っちゃった。 「カーテン・クリップ」って分かる? これがあると、ただの布を簡単にカーテンに変身させることができるスグレモノでね。今度、実家の自室のカーテンを、これを使って模様替えしようと思っているわけ。 とまあ、3点買って、締めて税込324円。うーん、素晴らしい! アメリカにも「99セントショップ」みたいのはあるけど、日本のそれと比べたら、まさに天と地。 先日、半ばジョークで、母に100円の時計を買ってあげたけれど、自分用にも買っちゃおうかしら。 ってなわけで、なんかちょっと、100円ショップにはまってしまいそうな私なのであります。いかん、いかん、こんなことでは、デフレ・スパイラルから脱却できないよ~! でも、今年の夏はアメリカに行く予定なので、向こうの友だちにあげるお土産として、100円ショップグッズを山ほど買っていこうかな~、なんてね。
July 25, 2017
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前期に「アメリカ文化研究」という授業を担当しておりまして、ここではアメリカを代表する文化というべき「ジャズ」を取り上げ、実際の演奏をCDで聴かせながら、ブルースからスウィング、ビバップからクール・ジャズ、モード・ジャズ、フリー・ジャズ、フュージョンへと変遷するその歴史を云々しております。 で、半年の授業の一番最後の方で「日本におけるジャズ受容」というテーマを取り上げ、その中で「ジャズ喫茶」なるものが日本におけるジャズ伝播に果たした大きな役割について話すのですが、こればっかりは実際にジャズ喫茶に行ってみないと、その雰囲気まではわからないところがある。 ということで、今年は授業を一回つぶし、名古屋を代表するジャズ喫茶の名門中の名門、「グッド・ベイト」というお店に実際に行って、そこでコーヒーを飲み、LPレコードでジャズを聴き、リクエストをして来い、という宿題を出したわけ。「グッド・ベイトで自撮りした写真を貼りつけたレポートを提出しないと、期末テストは受けさせないよ」と。 とまあ、そんなわけで半ば強制的にグッド・ベイトに行かせたのですけれども、やっぱりね、店に行って帰ってきた学生たちは、一様に目を輝かせて報告してくるんですよ、私に。「実に面白い体験でした!」と。 さすが日本を代表するジャズ喫茶だけに、あの店にはマスターに加えて手練れの常連さんが沢山いる。で、そういうジャズの「聴き巧者」のおじさんたちが、初めてジャズ喫茶に足を踏み入れてオドオドしている学生たちに、みっちりコーチをしてくれるらしいんですな。 まあ、そういう年季の入ったジャズおじさんたちから直接話を伺うことができれば、私が教室で教えるジャズの知識なんかより、よっぽど記憶に残る何かが得られるんじゃないでしょうか。 それに、グッド・ベイトだって、若い学生たちが店を訪れれば、嬉しいんじゃないかしら。一度訪れた学生の中には、ジャズにはまってそのまま常連に成長していく奴だっているでしょうし。 ということで、今回学生たちに課した「ジャズ喫茶実習」、割と上首尾だったんじゃないかと、自画自賛しているところなのであります。今日も、いい日だ!
July 24, 2017
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昨日、アレキシス・カレルの『人間 この未知なるもの』という本について若干のまとめをしましたが、なんとなくまだ言い足りないことがあるような気がしますので、ちょっと付け足しをしておきましょう。 昨日、カレルのことをノーベル医学・生理学賞を受賞した科学者という風に紹介しましたが、その際、「だから、一応は科学者ということになりますが・・・」といった、奥歯にものの挟まったような言い方をしましたよね? じゃあ、どうして「一応は」という冠がつくかと申しますと、実はカレルという人、一種、神秘主義的なところがあるからなんです。ま、それを神秘主義と言っていいかどうか分かりませんけれども、少なくとも現代の科学では明らかにできない、ゆえに「神秘的」としか言いようのない現象が実在すると考えていたフシがあるわけね。 その代表例が、例の「ルルドの奇跡」を彼が信じていたという事実。この件に関しては、前にこのブログでもご紹介した通り。本書でも188-189ページにルルドの奇跡についての言及があります。 そのほかにもですね、この人、透視とかテレパシーを信じていました。それを明言しているくだりを引用してみましょう: 「透視と精神感応(テレパシー)は重要な科学的観察対象である。(生物学者や医者の多くは、他の心霊現象同様、テレパシー現象の存在も認めていない。これらの科学者の態度を非難することはできない。なぜなら、この現象は例外的であり、捉えどころがないからである。それは意のままに再現することができない。さらに、人間は何世紀にもわたって、途方もなく数多くの迷信や偽りや幻影を積み重ね、この現象はその中に隠されてしまっている。どこの国でも、いつの時代にもその話は出てくるのに、科学的に調査されたことはない。それにも拘らず、これは事実であり、稀ではあるが、正常な人間の行動の一つなのである。」(162-163ページ) で、じゃ、どうしてテレパシーとか透視とかが可能かというと、どうもカレルは、人間っちゅーもんは空間と時間を超越したところに、すなわち4次元を超えた別の次元へアメーバのように触手を伸ばし得る、と考えていたようなんですな(本書301-302ページ)。 だからもう、本書の最後の一節なんて、凄いよ: 「われわれは、物理学者と天文学者の天才によって創り出された世界、ルネッサンス以来人間を封じ込めてきた世界から、人間を解放しなければならない。物質の世界は途方もなく広大ではあるが、人間には狭すぎる。経済環境や社会環境同様、人間に適していない。われわれは物質だけが真に存在するのだという信仰に固執していることはできない。われわれは四次元の世界の中でのみ成り立っているのではないということ、物理的連続体、つまり肉体の外のどこかへも伸び拡がっていることを知っている。人間は物体であると同時に生きものであり、精神活動の中心である。 星と星の間の無限の空間という、巨大な虚空の中における人間の存在は、全く取るに足らないものである。しかし、生命のない物質の分野において、人間は異邦人ではない。数学的抽象概念の力を借りて、星と同様、電子も理解できるのだ。人間は地球上の山や海や川を尺度にして作られている。そして、木や草や動物たちと全く同じように、地球の表面に所属しており、これらと一緒にいると心が安まる。また、美術作品、彫像、新しい都市の機械的な素晴らしさ。少数の友人たち、愛する人々等に、さらに親密に結びついている。 しかしまた、人間は他の世界にも属しているのだ。それは人間の内面に存在するにも拘らず、空間と時間を超越して拡がっている世界である。もし不撓不屈の意志さえあれば、人間はこの限りない世界を旅してまわることができるのだ。科学者、画家、詩人などが深く思いを凝らす美の世界、英雄的精神と犠牲を奮い起させる愛の世界、すべての物事の根本原理を情熱的に探し求める人々に、最後に報酬として与えられる神の恩寵の世界。かくなるものこそ、われわれの世界なのである」(362-363ページ) 完全にあっちの世界に行っちゃってますね・・・。 ま、でもね、要するにこれがカレルの世界観なのよ。これが根っこにあって、だからこそ、こういう世界を目指そうとしない現代の堕落した人々への苛立ちとか、批判が生じてくるわけですな。 とにかく、こういう考え方をするわけだから、アレキシス・カレルもまた、ニューソート系の人と分類していいのではないかなと。「思考」の持つ力を重視するところなんか、典型的だし。 あ、あと、これは業務連絡だけど、やっぱりこの本にもエマソンが登場します(362ページ)。引用はないけれど、偉大な先人として。 だけど、どうなんだろう。結局、カレルってのは・・・何なの? マッド・サイエンティストなの? それとも科学の先に神を観た預言者なの? ノーベル財団に、今、カレルのことどう思っているのか、本音を聞いてみたいな。「できれば、カレルにノーベル賞を授与したことを取り消したい!」とか思っていたりして。
July 23, 2017
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アレクシス・カレルが書いた『人間 この未知なるもの』を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。 この本、渡部昇一訳でありまして、「四十年来座右の書」と明言している通り、渡部さんが人生で最も影響を受けた本の一つと言ってはばからないもの。1935年に出版されてから数年のうちに18カ国語に翻訳され、数百万部が売れたといいますから、渡部さんのみならず、この本の影響を受けた人は多いのでしょう。 しかし、実際に読んでみると、なかなか評価の難しい本ではありますね・・・。 ちなみに著者のアレクシス・カレルは1912年にノーベル生理学・医学賞を受賞した医者で、野口英世なんかと一緒にアメリカのロックフェラー研究所に居た人。一応は・・・というのも変ですけど、科学者であります。だからこの本は、科学者が書いた人間論ということになる。人間論っていうか、現代文明批判。 で、まさにこの本の問題点がそこにある。科学者が書いた人間論・現代文明批判ってのは、危ないところがあるからね。 つまり、「サイエンス面で頭のいい人の言うことは、とりあえず正しいに違いない」という受け取り方が、一般ピーポーの間にあるでしょ。日本でも「ノーベル賞受賞者に聞く」的な催しがやたらにある。ノーベル賞受賞者が正しいのは、それぞれの専門分野に限られるのであって、彼らの正しさはそれ以外のすべての方面にまで保証されているわけじゃないのに、一般には「彼らの言うことはすべて正しい」という風に受け取られるところがある。科学に対するコンプレックスの裏返しの全面信頼というか。そこがね、危ない、危ない。 さて、その危ない人間論・現代文明批判の書である本書ですが、不肖・私の見るところ、この本の大黒柱となっているのは第六章「適応の構造」ですな。これは医学系研究者の面目躍如というべき章で、ここで人間の身体がいかに外界の変化に素早く適応するかが詳述される。例えば怪我で失血すれば、人間の身体はこの新しい環境に適応し、まずフィブリノーゲンが傷口に集まって来て傷をふさぎ、同時に失われた赤血球を作るべく骨髄が急に活動を活発化させ、たちまちのうちに元の状態に戻してしまう。同様に我々人間は、寒い環境であれば寒い環境に、暑い環境であれば暑い環境にすぐに適応する。その適応力のすごさは科学者として目を瞠るばかりであると。 そして、人間は社会的にも、驚くほどの適応を見せる。人間というのは、驚くばかりの適応の生物なわけですな。 さて。ここまではいいじゃん? だけど、これを柱にして、カレルの現代文明批判が噴出し始める。 人間ってのは、これほど驚くべき適応の生物だけに、現代文明にも適応してしまった・・・だから、人間は堕落したんだと。 例えば「学校」というシステムはどうよ。昔は子供の教育は親がしたものだけど、親の教育を学校というシステムが肩代わりするようになった。それによって天才も鈍才もひとしなみに教室に押し込められ、一斉授業がなされるわけだけど、そうなると教育のレベルはどうしたって鈍才の方に合わせざるを得なくなる。で、そういうレベルの低い環境に、人間は適応してしまうので、結局、みんながみんな、鈍才になってしまうと。 同じように、民主主義の錦の御旗の下、レベルの低い民衆に合わせて社会が作られ、それにみんな適応しちゃうので、現代文明はアホばっかり生み出すようになっちゃったと。 それに医学の発達によって、本来なら滅びるべき出来損ないの人間も、生存が許されるようになっちゃったので、どちらを向いても出来損ないばかりの世の中になっちゃった。しかもそういう連中の子孫ってのは犯罪傾向も強いので、刑務所が栄えるばかりだと。 これ、私が勝手にカレルの言い分を悪く受け取っているわけじゃなくて、本当にカレルがそう言っているのよ。 「すでに述べたように、自然淘汰を抑制した結果、組織や精神に欠陥のある子供たちも生き延びるようになった。こういう者が生きていて子を生むことにより、民族は弱体化している」(308ページ)とかね。 あるいは、 「民主主義の教義は、人間の肉体と精神の質を考慮に入れていない。それは個人という具体的事実にあてはまらない。事実、一般的な人間は平等である。しかし、各個人はそうではない。各人の権利は平等である、というのは幻想である。精神薄弱者と天才が、法の前に平等であるべきではないのだ。愚かな者、知性のない者、注意散漫で集中したり努力したりできない者は、高等教育を受ける権利はない。こういう人たちに、十分に発達している人々と同じく選挙権を与えるのは不合理である」(312ページ) とか。 はあ~・・・。凄いことを言うよね、この人・・・。 あとね、男女平等なんて考え方も現代文明の愚かな幻想だと、カレル大先生は獅子吼しております。女性には「子育て」という立派な仕事があるんだから、男まさりに社会に出ようなどと考えるなど愚の骨頂、と言ってますからね。 そうそう、それから犯罪者と精神異常者はとりあえず殺すのがいい、と言っています。引用すると・・・ 「犯罪と精神異常は、人間に関する一層深い知識、優生学、教育と社会環境の改変によってのみ防止することができるのである。(中略)殺人を犯した者、自動拳銃や機関銃で武装して強盗を働いた者、子どもを誘拐した者、貧しい人からその貯えを奪った者、重大な事柄で大衆を誤った方向へ導いた者などは、人道的かつ経済的に、適当な毒ガスの設備をそなえた小さな安楽死用の機関で書痴すべきである。犯罪行為で有罪になった精神異常者にも、同様の処置を施せばよいであろう」(361ページ) ひょえ~!! 怖え~! カレル先生、怖え~!! 「人道的かつ経済的に、適当な毒ガスの設備をそなえた機関」って・・・。これ、アウシュヴィッツじゃん。 それもそうなんだけど、結局、科学者アレクシス・カレルの思想ってのは、基本、ナチス的な優生学なわけよ(「優生学は、強い者を永続させるために絶対に必要である」(341ページ))。本来なら自然淘汰されるべき人は、生きているだけ迷惑だし、そういう人たちの生存を保証することに起因する様々な苦労とそれが引き起こす悲しみを考えたら、いっそ死んでもらった方がメリットが多い、「科学的」に考えたら、必然的にそういう結論になるだろうと。そういう思想なわけね。 ちなみに、カレルは、人間社会を改変するためには、優れた少数者を育て、その少数者がリードするのが一番効率がいい、と考えているようで、そういう超人を育てられるかに、人類の未来はかかっている、と言っております。 ・・・「ノーベル賞受賞者に聞く」って企画、やめた方がよくない? もちろん、「カレルみたいな考え方をする奴は全員死ね!」って言ったら、それはそれで危ない話で、カレル先生が「科学的に考えたら、こういう結論になる」というのであれば、「科学的に考えたらそうなるかも知れないけど、そういう考え方を私は支持しない」と答えることはあり得るかなと。ま、私もそういう答え方をせざるを得ないわけですが・・・。 一方、カレルの言うことを、割と鵜呑みにしたのが訳者の渡部昇一氏でありまして、渡部氏はカレルの説を真に受け、「自発的断種」ということを言い出した。作家の大西巨人氏の子息が二人共遺伝性の血友病で、その治療費に膨大なお金が掛かっていることを知った渡部氏は、長男が血友病であることが判明した時点で、なぜもう一人子供をもうけたのか、と大西氏を批判したんですな。これが有名な「『神聖な義務』論争」という奴。渡部氏はこの一件で世間から猛烈な批判を浴びるのですけれども、何しろカレルの後ろ盾があるものだから、「自分は一つも間違ったことを言っていないのだから、絶対に謝らない」と頑張った。その辺の事情については、先日読んだ渡部氏の『青春の読書』にも書いてありましたけれども。 ま、この件に関しては、私は渡部昇一氏の味方をしようとは思わないけどね・・・。 しかし、では私はカレル氏の言説の全てを受け入れがたいと考えているかというと、それはそうでもない。カレルが出す結論はどうかと思うけれども、その結論を出すまでの前提には、割と首肯できるものが少なくないです。 例えば、カレルは「従来の科学の方法は、事象を細かく区分けして、その区分けした一つ一つの分析に比重を置きすぎているけれども、それだけではダメなので、総合することが重要である、ただし、科学的方法として、細かい分析の方がやりやすいこともあって、総合するということをまだ人間は上手にできていない」という趣旨のことを言うのですけれども、それは確かにそうかなと。 同様に、カレルは「抽象概念としての『人間』を考えていたってダメなので、実際に存在する「個人」ベースで考えないといけない」というのですけど、それも納得。 例えば、医者はある特定の病気を治そうとするけれども、抽象的な「病気」なんてものはそもそも存在しないんだと。存在するのは、「病気にかかった個人」だけで、同じ病気であっても、その病気にかかった患者毎に治療法は異なるはずなんだから、抽象的な病気を叩くことを考えるのではなく、その病気にかかった個人の健康をどう快復させるかを考えなくちゃダメだ、というのですけど、そういうカレルの批判は、まったくその通りと言っていいのではないでしょうか。 あとね、私がこの本の中で、すごく感動した一節がありまして。あんまり感動したので全文引用しちゃいましょう。 「人間は生まれた時には、巨大な潜在能力を与えられている。祖先から受け継いだ素質のほかには、発達を妨げるものは何もなく、その遺伝的素質の限界も広げることができるものなのである。しかし、一瞬ごとに選択をしなければならない。そして選択のたびに、潜在能力の一つを永遠に捨てていく。開かれたいくつかの人生の旅の道の中から、他の道を全部捨てて一つの道だけ選び取らざるを得ないのだ。こうして、もし他の道を旅したら見られるかもしれない国を見る機会が奪われることになる。 幼児の時には、われわれの中には数多くの別な可能性をもった人間がいるが、それは一人ずつ死んでいく。そして老年になると、われわれは別の自分であり得たもの、すなわち、途中で殺されたままに終わった潜在能力に取り囲まれていることになる。すべての人間は、個体になっていく液体であり、だんだん値打ちの下がる宝であり、創られていく過程の歴史であり、形成されつつある個性である。われわれが進歩するのも衰退するのも、物理的、化学的、生理的要因と、ビールス、微生物と、心理的影響に、そして最終的には自分自身の意志によるのである。人間は常に、環境と自分自身によって創られている。生命の存続とは、まさに肉体生活と精神生活の素材そのものである。何となればそれは、「絶対に新しいものを発明し、形態を創造し、それを不断に入念に仕上げていくこと」(→ベルグソンの言葉)を意味するからである。」(231ページ) この一節、これだけは、私も脱帽。すごい人間観だと思います。これこそ、自己啓発思想の最良の一節の一つなのではないかと。 ということで、ナチス的な優生学っぽい怖ろしいところのある本ですけれども、カレルの人間を見る目自体は、なかなかのものなのではないかと。誰もが感心する本ではないと思いますが、一応、興味のある方にはおすすめ、と言っておきましょうか。人間この未知なるもの
July 22, 2017
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明日からオープン・キャンパスで土日出勤するものですから、今日は代休をいただいて日間賀島に行ってきました。 日間賀島って、蛸とフグで有名なところなんですけど、知多半島の突端、師崎というところから高速船で10分ほどのところにある一周4キロほどの小さな島。『孤独のグルメ』で井之頭五郎さんも訪れたという。 しかし、わずか10分とはいえ、船に乗るなんて何年振りだろう。アメリカ第7艦隊の旗艦に乗った時以来ですなあ。やはり船で海を行くなんて経験、なかなかしないので、僅かな時間とはいえそれだけで結構リフレッシュしちゃった。 で、島についたのが1時頃だったので、早速お昼ご飯にすることに。「乙姫」という店にするか、「大留」という店にするかで迷って、ちょっとモダンで洒落乙な後者を選択。「島ランチ」というのを頼んだのですけど、まあ先付はつくは、刺身はつくは、蛸ブツはつくは、煮魚はつくは、焼き魚はつくは、揚げ物はつくは、味噌汁はつくは、ありとあらゆるものがついて1900円。なかなかのものでございます。 で、お腹いっぱいになった我ら夫婦は、そこから島一周のお散歩。途中、東港近くの「バルカ」というカフェで冷たいものを飲んだり、入場料無料の資料館を見学したりしながら、海の空気をたっぷり吸ってきました。 で、暑い日盛りを歩いたもので、かき氷が食べたくなり、西港にあったかき氷の店でこれまた久しぶりに食べましたけど、なんか、夏休みって感じです。 で、4時15分の船で師崎に戻り、家に着いたのが5時半。半日たっぷり海の傍で過したという感じですかね。 日間賀島、初めて行きましたけど、ふらっと訪れて、海の幸をいただいて、さくっと帰るにはもってこいのところと言えそうです。今回、味をしめたので、次はお隣の篠島、その次は、佐久島に足を延ばしてみようかな。
July 21, 2017
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自分のことを自分の苗字で呼ぶ人、いない? 同僚で一人、そういう人がいるのですけど、気になるんだよなあ。 まあ、仮に「山田」という人だとしましょう。で、山田先生は大学のメールとかで、「当日、山田は学外で仕事があるので、委員会には出席できません」という風に書くわけよ。すごく気になる。釈迦楽、気になるわ~。 こういう風に自分のことを苗字で呼べるのは、我が国では矢沢永吉さんだけなんじゃないの? 民法とかで、そういう風に決まっているんじゃないの? どういうアレなんだろう。自己顕示欲? 当然、自分ではそれがいいと思ってやっているのだろうけれども、「いい」と思うその判断基準がわからんわ~。
July 20, 2017
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ナビスコがヤマザキと手を切った時、長年のリッツ・ファン、オレオ・ファンは肝を冷やしたもんでございます。「え、じゃあ、リッツはどうなるの? オレオはどうなるの?」って。 そして、おっかなびっくり「非ヤマザキ・リッツ」と「非ヤマザキ・オレオ」を試食してみて、思ったわけですよ、「やっちまったな・・・」と。 某国製になってしまったリッツは、あの恍惚のサクサク感を失い、なにやらねっちょりしたものに。またオレオも、なんか妙に塩味が濃くて歯にまとわりつくような、ヤマザキ時代のオレオとは似て非なるものとなってしまったのであります。 とはいえ、リッツはまだ救いがあった。ヤマザキが永年リッツを作って来て培ったノウハウを元に「ルヴァン」を出したからね。あれは、実質、リッツだ。美味しかった頃のリッツだ。リッツ・ファンはルヴァンを食っていれば、何の不足もないぜ。 が! オレオは・・・。 しかし、そんなオレオ・ロスに泣かされてきた皆さんに朗報をご紹介しよう。 実は、オレオ亡きあとの空白を埋める、画期的な商品が出たのだ! それが「オレオ・クリスピー」である!これこれ! ↓オレオ クリスピー バニラムース(8枚*3パック)【オレオ】 これ、いわば「薄焼きオレオ」なんだけど、クッキー部分のサクサク感が半端なく、旨いのよ。これなら、オレオの後継商品として買ってもいいかなと。 これからは、これをオレオと認めよう。ヤマザキ・ルヴァンとオレオ・クリスピー、これで世界の平和は回復されたのであります!
July 20, 2017
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噂によると、そろそろ東海地方も梅雨明けが近いとか。 だけど、今シーズン、梅雨に入ってから私は一度も傘を差していないんだよね。たまに雨に遭遇したとしても、クルマで移動中とか、部屋の中に居る時とか。夜寝ている時とか。私が表を歩いている時に降られたことがほぼ一度もないという。 なんか最近、梅雨にしても局地的過ぎない? 子供の頃の梅雨って、しとしと、しとしと、毎日、雨がそぼ降っていたような気がするんだけど? 梅雨って、そういうもんじゃなかったっけ? 私は、そういう、梅雨の暗い雰囲気って、嫌いじゃないんだけどな。濡れた紫陽花の上をかたつむりが這うのを、傘差しながらじっと見つめる的な少年でしたからね。 梅雨の雨の降り方からして、昔は詩的だったけど、最近はもう散文的ですな。情緒がない。それどころか暴力的で。 散文的といえば、4月に新学年が始まってから今日まで、何の仕事もしてないな、って気がします。 4月の頭に親父が倒れて入院、そこからお見舞いもあったし、特別養護老人ホームに入れるべきか、自宅介護で乗り切るか、あるいは別の病院に転院か、なんてことを検討するために、右往左往した時期もあり、そうかと思ったら結局親父が死んじゃって、葬儀やら何やらで大わらわ。で、大わらわしている内にもう目の前に夏休みというね。 この間、次々と飛んで来る球を打ち返すのが精一杯で、結局、何かまとまった仕事は一つも出来ていないという。それでも、少しでも時間のある時は本も読んだけれど、それも方向性があっての読書ではなく、ただ何かしなくてはならないという焦燥感に駆られて読んでいただけだからね。 「梅雨なのに傘を差さずに終わった」っていう感覚と、「4月から今まで、一体、俺は何していたんだ」っていう感覚が、ないまぜになって、手ごたえのないゼリーのようにのしかかってくる。 そんな中、オックスフォード大学出版局から、ちょっと前に私の書いたある記事が正式に採用されたとの通知が届いたんですけど、実感がない。何の話? それ、ホントに私が書いたの? 明日もまた、梅雨明け間近の暑い一日になるだろうとの天気予報を耳にしつつ、この容赦ない暑さに何をもって対抗したらいいのか、途方に暮れる私なのであります。
July 18, 2017
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今日は我が家のセカンドカー、マツダ・デミオのタイヤを替えました。先のディーラー点検の際、「溝はともかく、サイドのひび割れが目立つので、もうそろそろ替えた方が・・・」とアドバイスされたものですから。 だけど、タイヤを替えるのって、クルマ好きの私としても、結構、難しいんだよね! 大体さ、クルマを替えるのだったら、デザインとかスペックとか、選ぶ基準が明確だし、試乗もできるでしょ。だけどタイヤって、デザインがどうのというものでもないし(あるのかな?)、試乗ができるものでもないからね。 ただ、自分好みじゃないタイヤを装着しちゃうと、これは結構、辛いよ。その好みじゃない乗り味のタイヤに、まあ4、5年は乗ることになりますから。失敗したぁ、って、ずっと思い続けないといかんし。 で、過去の私のタイヤ遍歴から言って、確実に私の好みのタイヤは、もう圧倒的にミシュランです。これだけは揺るがない。だから、ここ最近、自分のクルマはずっとミシュラン・・・ ・・・だったのですが、今乗っているルノーは、なぜかコンチネンタルなんだよね・・・。まあ、悪くはないけれども。 で、あと、かつてホンダのビガーに乗っていた時に、ヨコハマを履いたことがあったのだけど、あれも、割と良かった。 逆に、私の好みでないタイヤは、ダンロップとブリジストンなんだよね。 ま、もちろん、両社のタイヤとも、色々なグレードがあるので、たまたま私が選んだのが私の好みに合わなかっただけかも知れませんけど、特にブリジストンは2回試して2回とも好みに合わなかった。 じゃ、何が好みに合わないかというと、ゴム感ね。ハンドル切った瞬間、ブロックがぐにゅっとよじれる感じ。あれが嫌い。 ただ、ダンロップは、めちゃくちゃ静かだったけどね。あの「消音スポンジ」は、確かに効果あり。 で、今回ですよ。まあ、セカンドカーなので、それほどこだわりはなく、値段優先にはなっちゃうのだけれど、それでもやっぱり失敗したくない、という思いはあるわけ。 で、元々履いていたのがヨコハマなので、今回も引き続きヨコハマの「ブルーアース」あたりを選ぶという選択肢もある。あとはグッドイヤーとか、トーヨーのトランパスとかね。 しかし、最終的に選んだのは・・・ 「ファルケン」でした~。 不思議なんだけど、「ファルケン」は、性能指数(転がり抵抗Aで、排水性B)が割といいのに、なんか段違いに安いというか。製造工場は東南アジアとはいえ、一応日本メーカー、住友ゴム製でしょ? これでいいじゃん? かくして、わずか3万円ちょいでタイヤ4本履き替え終了~! で、帰路、私もその家内の愛車を運転させてもらったのですが・・・ いいじゃん! いいよ、いいよ。結構いいよ。 あのね、まずロードノイズ低め。転がりがいいんだろうね。そして乗り味は柔らか目。好みから言うと、もうちょい硬くてもいいんですけど、まあまあ。 で、私が最も懸念したゴムの「ぐにゃり感」ですけど、これは大丈夫。ブロックがよじれて動きだしが一瞬遅れる感じは全然ない。 そういう意味で、パワーがあり余っているわけではない小排気量のコンパクト・カーのタイヤとしては、全然OKじゃね? ということで、ずっと気になっていたデミオのタイヤ履き替え問題、お財布にも優しく、納得のチョイスが出来たのでした、とさ。今日も、いい日だ!
July 17, 2017
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ハンガリー映画『ヒットマン・インポッシブル』を観ましたので、心覚えを。以下、ネタバレ注意ということで。 っていうか、ハンガリー映画って久々に観たなあ。『アンダーグラウンド』以来かも。あれは面白かったけど。『ヒットマン』も、『アンダーグラウンド』同様、ちょっと現実と非現実が混在するような、独特の味があります。 本作の主人公はゾリカという青年なんですが、生まれつき下半身に障害があり、車椅子生活なんですが、障害のせいか内臓が圧迫され、早期に大きな手術を受けないとまずい状況。しかし、自分を捨てて母親と離婚した父親からの援助を受けたくないこともあり、手術を拒否。自暴自棄に陥っている。そんな彼の面倒を見るのは、障害者施設で一緒に暮す親友のバルバのみ。バルバもまた身体に抱えた障害により、女性とつきあったことがなく、そのことがコンプレックスに。 で、そんな若くして世を拗ねた二人が唯一、熱中するのが、コミックの制作。年に一度のコミケに参加し、自分たちの作品が世に出ることが、二人の夢でもある。 そんな二人の前に現われたのが、元消防士のルパゾフなる人物。火事現場での事故が元で下半身不随になり、かつての恋人もついに彼を見放し、別な男と結婚することに。英雄から一転、絶望の淵に生きるルパゾフは、その障害を利用し、今は殺し屋として生計を立てている。 そして、障害者のリハビリ施設で出会ったゾリカ、バルバ、ルパゾフの三人は、それぞれ絶望の中に生きているという共通項もあり、なんとなくルパゾフの殺し屋家業をゾリカ、バルバの二人が手伝うという、妙な共犯関係が生まれるんですな。 で、ルバゾフの雇い主というのは、セルビア系マフィアのボスなんですが、彼の依頼により、ルパゾフとゾリカ&バルバは、対抗組織のボスを殺すわけ。しかし、ゾリカやバルバといった素人の若者を巻き込んだことで、そこから足が着くことを怖れたマフィアのボスは、ルパゾフにゾリカとバルバを殺すことを命じるんです。 で、ルパゾフは一旦は二人を溺死に見せかけて殺しかけるのですが、結局最後に情がわいて、二人を助けてしまう。で、そのことがボスにばれ、ルパゾフもゾリカもバルバもボスから命を狙われることに。 さて、身体の不自由な三人は、マフィアのボスから身を守ることは出来るのか?! そしてその先に待っていたものは?? みたいな話。 で、これがね、結構面白かったのよ。 物語の重要な伏線としては、ゾリカと実の父親の関係があるのですが、結局、父親に対して反目を続けていたゾリカにとって、突然現れたルパゾフは、父親の代理になるわけですよ。ルパゾフのリーダーシップで、ヒットマンという危険な仕事をやり遂げたり、あるいはルパゾフに命を救われたりする中で、自暴自棄になっていたゾリカが、もう一度生きる力というか、生きている実感というか、そういうのを再び掴み始めるわけ。失われた父親像を、ルパゾフが演じるような形になるんですな。 もっとも、ただのきれいごとのロールモデルを演じただけではなくて、ルパゾフもまた、恋人に捨てられた絶望の中で、色々と不様なカッコ悪いことをやらかすんです。でも、そういう醜態をさらしながらも、一途な愛に苦しむ姿をゾリカの前で晒すことで、それがゾリカ自身の世を拗ねた態度を改めさせることにもなると。 それで最後、ゾリカはこの代理父と協力し合いながら、マフィアのボスを仕留め、自分の命を救うお金を奪うことに成功、そしてそれまでかたくなに手術を拒んでいたゾリカは、この金で手術を受けることにする。ただ、ボスとの対決の過程で、ルパゾフは命を落とすのですが・・・。 そしてゾリカとバルバは、「車椅子の殺し屋」というコミックを完成させ、それがコミケでとある美人女性編集者の目に留まり、二人のマンガ家デビューが実現しそうな感じにもなってくる。しかも、バルバはこの美人女性編集者に普通の男性のように扱われ、彼の長年のコンプレックスも吹き飛びそうな勢い。 そして、ゾリカも、自分のコミックが認められたことで自信を得、長年音信不通だった父親(もう別な女性と再婚し、娘も二人いるのですが)に、このコミックを送ることで、二人の間の関係が復活するのではないかということがほのめかされると。 しかし、この最後のシーンで、コミックの主人公たる「車椅子の殺し屋」(もちろんモデルはルパゾフ)の顔が、ゾリカの実の父親にそっくりだということが判明するわけ。 ということは? ルパゾフという、元消防士の寂しい殺し屋は、本当に実在したのだろうか? それは、心の底で父親を求めるゾリカの空想の中から生れたものであって、ルパゾフ(やバルバ)と一緒に危ない橋を渡ったというのは、単に彼が作り出したコミックの中の空想ドラマだったのではないか? その辺が「ん? あれれ?」と思わせ、この映画を観る者を混乱させつつ、この映画は終わると。 最初に言いましたけど、その辺のね、現実なんだか現実じゃないんだかが曖昧になっていくところがまた、いいのよ。 というわけでこの映画、私の採点では「83点」と、久々の80点越えでございます。大作ではないけれど、いい感じの佳作です。こんなリアルで、かつ幻想的な身体障害者映画って、あんまりないんじゃないかしら。アカデミー賞外国映画部門のノミネート作品になったのも頷けます。珍しいハンガリー映画という事も含め、一度ご覧になって損はない映画と思いますので、教授のおすすめ!と言っておきましょう。ヒットマン:インポッシブル [ サボチ・チューローチ ]
July 16, 2017
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今日は父の本位牌を選ぶため、都内某デパートの仏具売り場に行って参りました。 そしたら、なんと、その仏具屋さんはモダン志向の仏具屋さんだったのよ。 だから、普通「位牌」と言って日本人が想像する、あの黒塗りの、小さなお墓のような奴は5、6種類しか置いてなくて、あとはガラス製とか、木目調とか、象嵌付きとか、およそ位牌っぽくないのばっかり。 ひゃー、これはまずったか?! だけど、確かに位牌っぽい位牌は、辛気くさいというか、あんまりパッとはしないよね。これは一つの縁だ、この際、モダンな位牌にしちまうか?! というわけで、一緒に来た母とも相談の上、渋い朱色の、しかも斜めになった「L字」型の超モダン位牌に決定! なんで朱色かと申しますと、仏壇の中に入れて、ロウソクの光のような暖色系の光に照らされると、朱色って映えるんだよね! 普通の黒とか、ネイビーとか紫とかと比べてもダントツでパアッと明るくなる。 しかも父は早稲田出身なので、早稲田カラーのえんじ色にも近いかなと。 ということで、思いも寄らなかった色、思いもよらなかった形の、モダン位牌をゲットすることになってしまったという。まったく、人生、何が起こるか、起こってみないと分からないものでございますなあ。 で、ともかく位牌も決まったし、これで四十九日法要の準備はほぼ終了〜! 自分にお疲れ様〜! だけど、一つビックリしたのはですね、デパートの中にある仏具売り場というのが、意外に活気があるところなんだな、ということ。 もうね、次から次へとお客さんが来るもので、店員さんたちは大わらわよ。私はまた、仏具売り場なんてのはめったに客が来なくて、すごく暇で、だから我々も一人の店員さんとじっくり話を進められるのかと思っていたのですけど、我々がカタログを眺めて思い悩んでいる間、担当の店員さんはあちらの客、こちらの客と飛び回って対応せざるをえず、とても「じっくり膝突き合わせて」なんて悠長なことは言っていられないんですわ。 仏具って、こんなに需要があるんだ〜。びっくり〜。ま、不景気でもなんでも、人は死ぬからねえ・・・。 というわけで、人生ってのは、日々勉強、日々新しい発見なんだと、思わされた一日となったのでありました、とさ。 さてさて、今日はこれからまた名古屋を目指して帰ります。慌ただしいけど、これも定めとあきらめて、せいぜい安全運転で参りまーす。
July 15, 2017
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今日も今日とて大車輪の活躍。今日は多摩霊園の管理事務所に行って四十九日法要と納骨のための許可を取り、ついでに某ホテルにあるレストランに寄って、当日の会食の予約を取ってきました。これで後、明日、父の本位牌を注文すれば、今回、帰省した目的は一応、すべて完了かな。 あと、母が自分の腕時計を落として壊してしまったので不便で仕方ないというので、時計も買ってあげちゃった・・・100円ショップで(爆!)。いやいや、侮るなかれ、今、すごいことになっているんだよ、100円ショップの時計って。私も一つ、欲しいくらい。 さて、それはさておき、本田健という人の書いた『ユダヤ人大富豪の教え』という本を読了しましたので、心覚えを付けておきます。 ところで、本田健って誰? Wikipediaを見ても分かるように、年齢を公表していないんだよね、この人。そういうの、すごく困る。学術的に。まあ、「あなたも小金持になれる!」的なセミナーとか開いているみたいなので、実在はするのだろうけれども。とにかく、日本の自己啓発ライターとしては、売れっ子の方なんでしょう。だから、私も一応、どんな感じなのかしらと思って、代表作(なんでしょ? 多分)の『ユダヤ人大富豪の教え』を読んでみた次第なんですけれども。 で、じゃあこの本はどんな感じの本かと申しますとね、著者の本田健氏が19歳のときに1年間、アメリカ中を講演して回っていたと。で、そろそろ日本に帰るか、というときに、フロリダで、彼になにげに接触してきた老人が居た。それが「ゲラー」というユダヤ人の実業家の大金持ちで、彼がある理由から本田さんのことが気に入り、彼に実業界で成功するためのノウハウを伝授してやろうと言い出した。 で、フロリダの金持ちばっかりが住むゲーテッド・タウンに連れて行かれた本田氏は、そこでしばらくゲラー氏と過ごしながら、彼から17の(自己啓発本では「13の」とか「17の」といった、素数で表される数の秘伝が多い気がするのは気のせい?)成功ノウハウを教わるわけですけれども、その内容が、要するに本書であると。 本書の後書きを読みますと、ゲラー氏というのは実在するそうで、ただ、17のノウハウの中には、本田氏がこれまでに出会った様々なメンターの教えも含まれていると。だから、これらすべてがゲラー氏の教えではないようですけれども、とにかく、本田氏がこれまでに人から教わり、自分でも試してみて成功したノウハウを、我々一般読者にも教えてあげようと、まあ、そういうことなんですな。 で、じゃあ、その17の教えって何かと申しますと、例えば「第2の秘訣 自分を知り、大好きなことをやる」「第4の秘訣 思考と感情の力を知る」「第8の秘訣 お金の法則を学ぶ」「第9の秘訣 自分のビジネスを持つ」「第10の秘訣 多くの人に気持ちよく助けてもらう」「第12の秘訣 パートナーシップの力を知る」「第13の秘訣 ミリオネア・メンタリティを身につける」「第16の秘訣 夢を見ること」云々、云々と言った調子。 で、そのタイトルを見るだけで、自己啓発本の熟練読者であれば、たいてい見当がつくという。例えば「第8の秘訣 自分のビジネスを持つ」を見ると、宮仕えにせよ会社勤めにせよ、他人のために働くのは馬鹿らしいよ、そんなことしてないで、自分で起業しなさい、というような内容であって、これはもうロバート・キヨサキの『金持ち父さん、貧乏父さん』そのもの。それから「第10の秘訣 パートナーシップの力を知る」で、「マスターマインド」の重要性が説かれていますが、これはナポレオン・ヒルの受け売り。「第13の秘訣 ミリオネア・メンタリティを身につける」で、セルフイメージが大事だよという話が出てきますが、これはマックスウェル・マルツの『サイコ・サイバネティクス』ですな。 つまり、よくある自己啓発本なのよ。フツーよ、フツー。 で、そういうごく普通の自己啓発本的ノウハウを、「実績のある賢者が若者に語る」的なスタイルで書く、ということもまた自己啓発本の世界ではよくある話で。 っていうか、そういうスタイルじゃないと、自己啓発本って書けないんだよね、実際。 もちろん、鉄鋼王のアンドリュー・カーネギーだったら、堂々と成功ノウハウを語ることは出来る。だけど、そうじゃない、ごくフツーのライターが自己啓発本を書くとなったら、「(架空の)ミリオネアが、自分はこういう風に金持ちになりました、と言っていました」というスタイルじゃないと、通用しない。 だって、そうでなければ、「で、この本を書いているお前さんは、このやり方でミリオネアになったのかい?」と言われちゃうからね。 で、本田健氏は「ゲラー氏という人からこういう話を聞きました」という形で本作を発表されて、それがミリオンセラーになって、本田氏自身お金持ちになれたんだから、結果オーライなんだけど。 でも、じゃあこの本がまるで面白くないかというと、決してそんなことはないです。だって、自己啓発本というのは、基本、啓発的なんだから。「もうその話、前に聞いた」感は否めないにしても、それでもやっぱり「お、巧いこと言うな」的な事柄に出会うことはありますからね。 例えば「第7の秘訣 人脈を使いこなす」の章にこんなことが書いてある:「偉い人には、あたかも彼が偉くないかのように接しなさい。そして、偉くない人には、あたかもその人が偉い人のように接しなさい。すると、そのどちらからも君は驚きの目で見られるだろう。彼らは、そんな扱いを受けたことがないからだ」(142頁)。これなんか、なんか昔、誰かからそんな話を聞いたことがあるな、と思ったとしても、改めて読んで、なるほど、これは一つの「人たらしノウハウ」だなと思うじゃん。 あと「第8の秘訣 お金の法則を学ぶ」に、「金持ちは、お金と何かを交換するとき、必ずその価値以上のものかどうかを見る。たとえば、金持ちは、ある絵画がいくら高くても、評価額より安ければそれを買う。逆にいくら五ドルでも、それに値しないと思えば絶対にお金を払わない。この毎日の差が何十年もすると大きくなる。一生の間に入ってくる収入を、絶えずそれよりも価値があるもの(株、不動産、絵画)などに変えていくと、それが値上がりすれば、それだけで莫大な金額になる」(156頁)なんてのも、なるほどと思わされます。ちなみに、この伝で行けば、今日、私が100円で時計を買ったのは・・・アホだったのかもね。 それから「第9の秘訣 自分のビジネスをもつ」の章で、ゲラー氏は「ビジネス=人がお金を払っても良いと思うぐらい価値あるサービスやものを提供すること」と喝破しているのですが、これなんか、どういう商売をしている人にとっても、覚えておく必要があることかもね。私の場合ですと、果たして自分の書く本は、人がお金を出してまで買う価値があるかな、と問い続けなければならないわけですよ。 あと、「第13の秘訣 ミリオネア・メンタリティを身につける」の章で、お金持ちになりたかったら、「自分は既にお金持ちなんだ」という気分で日々を過ごすことの大切さが語られているのですけど、そのための秘訣として、10億円を20年の定期預金にしたつもりになれば良いと書いてある。つまり「自分は既に10億円を所有しているんだ、ただし、定期預金にしちゃったから、今はおろせないけどね」というつもりになればいい。そうやって金持ちのつもりで生活すれば、20年後には本当に10億円(+利子?)が預金口座の中に入っているかもよ、と。「金持ちになったつもりになれ」というのは、自己啓発本によくあるノウハウなんですけど、それを「定期預金」という概念とセットで提示してきたのは、ひょっとしたら本田健氏のオリジナルかも知れません(分からないけど)。 とまあ、そんな感じで、全体としてはよくある平凡な自己啓発本ですけど、ところどころ光るところもある。だからこそ、ミリオンセラーになったんでしょうけど。 しかし、私の若い頃にはイザヤ・ベンダサンとかいうユダヤ人が語ったとされる『日本人とユダヤ人』なるベストセラーがあったものですが、最近は同じ(架空の??)ユダヤ人でも言うことが違うなと。昔は日本人論、今は自己啓発だからね。まあ、この国も平和になったものでございます。ユダヤ人大富豪の教え 幸せな金持ちになる17の秘訣 (だいわ文庫) [ 本田健 ] 日本人とユダヤ人 (角川文庫 角川ソフィア文庫) [ イザヤ・ベンダサン ]
July 14, 2017
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ひゃー。今日は朝一で名古屋を飛び出し、昼過ぎに実家に到着。そそくさとお昼を食べ、すぐにお役所に行って戸籍(除籍)謄本をとったり、印鑑登録証明書をとったり、お金を払ったり、届け出をしたり、お金を受け取る手続きをしたりと、まあ、八面六臂の大活躍。疲れた〜。明日は明日でまた、多摩霊園の管理事務所へ行って、納骨のための手続きをしなくちゃ。 ま、それはともかく。 今回帰省して、一つ、良い話を聞いちゃった。 父は晩年の十年くらい、地域の「写真俳句短歌同好会」なる団体に所属して、写真を撮りに行ったり、取った写真をネタに俳句をひねったり、楽しんでおったもので、父が亡くなった時、会長さんにそのことをお伝えしたんですわ。 そしたら、先日、その同好会の月例会があって、その場で会長さんが他の会員さんたちに向けて父が亡くなったことを報告し、皆で黙祷を捧げてくれたのだそうで。その上、毎年秋に開催している同好会の展覧会で、今年は父のコーナーを作り、そこにかつて父が提出した写真や俳句を掲げようではないかということに決まったのだとか。で、そのことを会員のお一人が私の母に電話で知らせてくれたと。 で、その方から聞いた話ですと、同好会の中でも父はなかなか人望があったらしく、父の死を心から悼んでくれる人が沢山居るというのですな。ふーん、そうだったんだ・・・。 そんな話を母から聞いて、生前の父は皆さんから愛されていたんだなあと。そう思ったら、なんだか嬉しくてね。ちょっと疲れが飛びましたよ。 もしこの企画が本当に実現して、秋の展覧会に父のコーナーが出来るのだったら、私もそこに駆けつけて、皆さんにお礼を言いたいな。それは是非、そうしたいな。 そんなことを思った今日一日だったのでございます。
July 13, 2017
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ひゃー。明日はまた朝も早よから愛車に飛び乗って東京の実家へ。亡くなった父の後始末と申しましょうか、四十九日法要に備えて本位牌をつくったり、都の霊園への埋葬許可を取りに行ったりといった作業を進める予定。お役所で書類を揃える必要上、平日にやらないといかんので、お休みをとっての帰省でございます。 しかし、4月以来、頻繁に往復しているもので、なんか疲れが蓄積してきた感じがするなあ。片道300キロの道のりを想像するだけで、クラっと眩暈が。 だもので、何かこう、楽しいことでも企画しないと私が病気になっちゃうんじゃないかなと思うんですよね。 今考えているのは、やっぱり古本屋巡り。大学の若手同僚でも引き連れて、古本屋をめぐるツアーでも企画しようかなと。 あるいは、前に東京の友人が、どこかで安いLPレコードを何枚も大人買いしたとか言っていたので、そいつに連れて行ってもらって、最近私もはまっているLPレコードを買いにいこうか、とか。 あるいは家内とドライブして、ぼんやり海でも見にいくか? そんなことを考えながら、とりあえず目の前のことから現実逃避。 ま、そうはいっても、差し当たりは明日のお仕事。せいぜい頑張ります。
July 12, 2017
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昨晩、レイトショーで『ジョン・ウィック チャプター2』を観ちゃった。まだ封切したばかりだし、昨晩は月曜日で、料金が安かったせいか、お客さんの入りが割と良かったですねえ。 というわけで、以下、心覚えを。ネタバレ注意です。 前作では死んだ奥さんの形見でもあった子犬をチンピラに殺されてしまった引退した伝説の殺し屋ジョン・ウィックが、その報復のために引退を撤回、チンピラもろともそのチンピラが所属する悪い人たちグループを親分もろとも壊滅する話だったのですが、本作は前作からわずか数日後という設定でありまして、冒頭から前回の残務整理で残っていた悪者一味をボッコボコ。 だけど、引退した殺し屋が、如何にワケありとはいえ、現役復帰なんかしちゃうと、浮世の義理が色々生じてきて、ハイ、また安楽な引退生活に逆戻り~というわけにはいかなくなるらしいんですな。で、ジョン・ウィックも面倒な殺しを引受けざるを得ないことになると。 だけど、ターゲットはターゲットで、別な殺し屋をボディーガードとして雇っているわけで、そのターゲットを殺しちゃったジョンは、向こうサイドの同業者から狙われる羽目に。しかも、ジョンを雇った当のマフィアからも命を狙われることになったジョンは、ニューヨークの街にごまんといる賞金稼ぎの殺し屋たち(私も知らなかったのですけど、どうもマンハッタンを歩いている人の3人に1人は殺し屋らしいんですな)に四方八方から狙われることに。 で、そっから先はもう殺人絵巻ですよ。ジョンが殺す、殺す。劇中、200人くらいはあの世に送っているんじゃないでしょうか。 で、最終的に自分を窮地に陥れる原因となったマフィアのボスも殺しちゃうんですけど、その際、殺し屋の間のタブーを犯してしまうんですな。裏社会の帝国ホテル、永遠の中立地帯であるべきコンチネンタル・ホテルの中でジョンはマフィアのボスを殺しちゃうの。 かくして、これまでジョンの味方となり、なにくれとなく便宜を提供してくれたコンチネンタル・ホテルから追放処分となることになったジョンは、天涯孤独、自分の身を守るものも何一つないまま、殺し屋だらけのニューヨークの街を放浪することになる・・・ ま、そんな話。 ここから得られる教訓は・・・殺し屋家業も色々辛いなと(そんなことかいっ!)。 といういことで、この映画に対する私の評価点はと申しますと・・・ 「71点」かな。ま、私はキアヌ・リーヴスに甘いからね。でも、今回のジョンの方が、前回のジョンより強い感じよ。前回は、ウィレム・デフォーの助けがなかったら、劇中、三回くらいは死んでたもんね、ジョン。 ということで、何も考えず、伝説の殺し屋が殺しまくる様をエンジョイしたいという向きには、この映画、おすすめ、と言っておきましょうかね。 ところで、ジョン・ウィックというと、飼い犬が結構重要なカギを握ることが多いのですが、そこに目をつけたショート・ムービー、題して『ドッグ・ウィック』というのがあるの、御存知? これ、ジョンと犬の立場が逆転、ジョンを殺された飼い犬が、ジョンの仇討とばかり、マフィアを殺しまくるという映画なんですけど、『ジョン・ウィック』の「貴様、誰の犬を殺したんだ?!」というセリフが、「貴様、どの犬の飼い主を殺したんだ?!」に変えられているところがミソで、かーなーりー笑えるものになっております。これこれ! ↓ドッグ・ウィック 『ジョン・ウィック』ファンの方は必見でございます。
July 11, 2017
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昨年評判をとった映画『シン・ゴジラ』を観ましたので、心覚えをつけておきましょう。以下、ネタバレ注意ということで。 だけど、まあ、ネタバレっていうほどのアレもないかな。突然巨大モンスターが首都圏にやってきて破壊行為をし、最終的にそれをやっつけるっていう話ですから。 でも、今回の『シン』バージョンでは、ドラマの焦点がむしろ、未曾有の自体になかなか対処しきれない日本の行政の在り方に当っていて、そこが面白いところなんでしょうな。実際、面白かったし。 さらに、ゴジラ自体の映像もなかなかリアリティがあって、好感触。特に完全なゴジラになり切る前の形態、いわゆる「蒲田君」とか「品川君」と呼ばれている状態の時のゴジラの違和感、とりわけ蒲田君の圧倒的な違和感は素晴らしい。「恐怖の谷」と呼ばれる現象なのかもしれませんが、ゴジラになり切る一歩手前の、「ゴジラそっくりだけどゴジラじゃない」見かけがもたらす恐怖感ってのは、大したものでございます。 その他、ゴジラへの攻撃をする自衛隊や米軍の様子もリアリティがあるし、「新幹線爆弾」や「山の手線・中央線爆弾」なども発想として面白い。CGの出来も結構良かった。 あと、日本の主だった男優は全員出ているのか? とすら思わせるキャスティングも豪華でよろしい。あそこまで俳優祭りだと、もう、ギャラいらないからチョイ役で出して、みたいなことにもなってそう。 ま、強いて言えば、石原さとみ演じる、若き将来の大統領候補(?)のクオリティはどうなのかと。もっともあの役を、じゃあ他に誰が演じるんだとなったら、なかなか候補が上がらないであろうほど、難しい役だとは思いますが。その意味では、石原さんも気の毒だったかな。 それはさておき、普段邦画をめったに見ない私ではありますが、実際に見てみて、なるほどそこそこ面白いんじゃん、と思った次第。 ところで最後の最後に映し出される、ゴジラの尻尾の映像と、そこに映し出された奇妙な人型のモノは一体何なのか。次作への含み? ま、その辺の事も含め、ゴジラ映画の今後の発展に、更に期待するといたしましょうか。シン・ゴジラ DVD2枚組 [ 長谷川博己 ]
July 10, 2017
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マーヤ・ヴァン・ウァーグネン著『マーヤの自分改造計画 1950年代のマニュアルで人気者になれる?』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、著者のマーヤ(当時中学3年生)が、テキサス州ブラウンズビルというメキシコとの国境近くにある小さな町の中学校で、目立たない自分から脱皮して「人気者になろう!」と決意し、その決意を実現するまでに費やした1年間の日記を元にしたアメリカ版中学生日記みたいな感じなんですけど、それを50歳代半ばのおっさんの私が読むというシュールな状況がまずあると。 じゃあ、なんでそういうシュールな事態が出来したかと申しますと、私が思うに、これもまた一つの自己啓発本であろうと考えたから。 で、この本をさらに興味深いものにしているのは、そもそもマーヤが自己改造に取り組みだしたきっかけが、1950年代に出版されたとある古い本、『ベティ・コーネルのティーンのための人気者ガイドブック』(原題:Betty Cornell's Teen-Age Popularity Guide, 1951)をマーヤが偶然手にしたことに端を発していた、ということ。つまり、60年も前に書かれたティーン向け自己啓発本の中に書かれているアドバイスを忠実に実行したら、果たして人気者になれるのか? というテーマがあるわけですな。 ということは、1950年代初頭には、既にティーン向けの自己啓発本があった、ということになる。こういうことが、自己啓発本研究の視点としては、非常に興味深いわけですよ。 で、じゃあ、60年前のティーン向け自己啓発本に何が書かれていたのか、そして、そのアドバイスは60年後の現代にも通じるものだったのか?? で、その点について思いを馳せるに、よーく考えてみると、確かに現代社会の中で、自己啓発本というものが最も必要な人々がいるとすれば、それはひょっとすると中学生とか高校生なのではないかと。 なぜならば、(日本においてもそうだと思いますが)そこにこそ、民主主義社会の中に例外的に残された階級社会が確固として存在しているから。 確かに中学校という閉鎖社会の中には、厳然たる人気度ヒエラルキーというのがある。その一例として、マーヤの通っていた辺境の町の中学校では、次にようなヒエラルキーがあった。すなわち上から順に・・・1 バレーボール部女子2 フットボール部男子3 お金持ちセレブ4 バンドメンバー5 聖歌隊6 アーティスト系ゴス女子7 セクシーな格好のあんまりキレイではない女子8 妊娠中9 コンピュータおたく10図書室おたく圏外社会的はみだし者教師臨時教員 となっていて、中2までのマーヤはこのうちの「圏外」、すなわち「社会的はみだし者」のカテゴリーに分類される女の子だったんですな。友達と言えば、ケンジーという名の韓国系のちょっと世を拗ねたような感じの女の子ひとりだけ。 で、不条理ながら、ティーンエイジャーの社会というのは、こういう厳しい階級社会の中で、それぞれ分をわきまえて暮していくものだと半ばあきらめていたマーヤちゃんなのですが、それが先にも言いましたように、『ベティ・コーネルのティーンのための人気者ガイドブック』なる本を偶然手にしたことをきっかけとして、彼女は果敢にこの階級社会にチャレンジしていくことになると。 その第一歩は、やはりというべきか、「容姿の改善」なんですな。人気者になるには、まず自分の容姿に自信を持たなければダメだと。と言っても、もちろん整形をしろというわけではなく、整形しなくても出来ることは沢山ある。 例えばまずぽっちゃり体型を何とかすること。不摂生に間食をせず、また脂肪の多いものばかり食べず、身体に良い食材を、適切な量食べることに気を回すこと。そして姿勢を正すこと。清潔であることを心掛けること。髪の毛の手入れをきちんとすること。肌の手入れをきちんとすること。 そして次は服装ね。派手さを狙うのではなく、身の丈にあった清潔で自分に似合う服を着る。そして化粧の仕方も覚える。といって、中学生にルージュなどは不必要、健康的な輝くばかりの肌の色や唇の色があるのだから、それを殺さないよう、例えばグロス程度に抑えること。感じのいい香水の付け方も身に着ける。 そして女子たるもの、たまにはスカートを履くこと! ・・・と、まあ、ベティのアドバイスは、さすがに1950年代初頭の時代性を反映し、中庸を心得たモノとなっております。で、それをマーヤは一つずつこなしていく。 が! こんなことでさえも、難しいわけですよ、中学校では。 つまり、この程度の変化でも、仲間は敏感に感じ取ってしまうわけね。まずマーヤの所属する「社会的はみだし者」の仲間から、「あんた、一体どうしちゃったの?!」というクレームがつく。階級社会というのは面白いもので、一旦、安定した階級社会が築かれると、それを崩そうとするような異端児の行動を激しくチェックするところがあるわけですな。だから、マーヤは身内の批判を受けなければならないわけ。しかも、それにプラスして、他の階級グループからの好奇の目、あるいは「社会的はみだし者が、なに気取っているの?」という上の階級の連中からのあざけりも受けなくてはならない。自己改造と言っても、自分だけ変ればいいというものではなく、そういった身の回りからの様々な抵抗の中を突き進んで行かなければならないわけですから、なかなか大変です。 でも、一旦決意したマーヤは、そういった抵抗にもめげず、ベティのアドバイスを一つ、また一つと実行していくわけですよ。 しかし、物事はなんであれ、易しいところからハードなところへ移行していくものでありまして、ベティのアドバイスも段々、難しいものになっていきます。 例えばベティのアドバイスに、こんな一節がある: ひとりの人間として成長したいなら、人気者になりたいなら、自分の殻に閉じこもっていてはいけません。 外見的な美しさだけでは、じゅうぶんとはいえません。成功するためには、外見だけでなく、内面も美しくなければいけません。では、どうやって美しくなればいいのでしょう? 人柄をよくすることです。かんたんそうにきこえますが、決してそうではありません。愛想がよく、思いやりがあり、気前よく、広い心をもち、礼儀正しいというすべての要素がそろっている必要があります。 いちばん大切なのは、人とうまくやっていくということです。ずっとひとりでいたら、楽しくありません。人と分かちあわなければ、ほんとうの喜びは得られません。つまり、友だちをつくることです。 外見を変えるとか、服装を変えるってのは、まあ、それでもやろうと思いさえすれば出来る。しかし、階級社会の中学校の中で、その階級の垣根を越えて友達をつくるというのは・・・これはなかなかハードルの高いアドバイスと言えるでしょう。しかし、このアドバイスにも、マーヤは敢えて従おうと決意するんですな。そして校内の学食(そこは、人気者グループの席、そうでない連中の席・・・といったように、そこらじゅうに見えない壁が立ちはだかっていることは言うまでもない)で、本来の席(社会的はみだし者席)を立ったマーヤが、一つずつ上の階級の席を回って、たとえ無視されようと、一人でもそこに友達をつくろうと奮闘するわけ。 もうね、この辺りまで来ると、50過ぎのおっさんの私も気が気ではないというか。「マーヤ、頑張って! 階級の壁に負けないで!!」みたいな感じになってくるという。 が! 分をわきまえないマーヤのこの無茶な行動は、しかし、意外なほどすんなり受け入れられるんですな。 つまり、中学校における階級の壁というのは、当事者たちが思っているほど堅固なものではないというか。破ろうと思えば、敗れる種類の壁だったというか。もちろん、当初は周囲をざわつかせはしたものの、いつもと違うテーブルについたマーヤを、誰も殺そうとはしないわけ。誰もが多少驚きはし、居心地の悪い雰囲気が漂うものの、少なくともグループの中の誰かはマーヤを受け容れ、言葉を交わしてくれる。ああ、やろうと思えば、どの席ででもランチは食べられるんだ、ということ。この事実に気付いたマーヤは、その後、一つ、また一つ、上の階級のグループのテーブルを回っていくわけ。 そしてついに! この中学校の人気者ヒエラルキーの最上位、体育会系女子&男子のグループにも、マーヤは受け入れられるようになっていくんですな。 で、マーヤは、そうやって色々な階級の人たちのグループに混じってランチを食べながら、「人気者って、どんな人だと思う?」というアンケート調査をしていくわけ。で、その結果、色々な定義をマーヤは得るのだけれど、一つ分かったことは、人気者の定義は一つではないこと、そして更に驚いたことに、学内最上級の人気者グループの連中ですら、自分たちが人気者のトップに君臨しているとは思っていなかったこと。 つまり、傍から見ると堅固な階級システムのように見えていたとしても、実質はごくもろいもので、誰もが自信がなかったのだと。で、自信がないから、誰しも一層、他の階級のグループとは接触しないようにしていたんですな。 で、そこにマーヤがその壁を突き破って接触してきたので、みんなビックリしながらも、受け入れたと。 そしてマーヤは、1年間の自己改造計画の総仕上げとして、中学卒業時の一大イベント、「プロム」にチャレンジします。 以前だったら、「自分を誘ってくれる人なんて居ないに決まっているから、当然、プロムにも参加しない」という流れになっていたのでしょうが、今やマーヤは、1年前のマーヤではないですからね。逆に、同じような思いからプロム参加をためらっている人を自分から全員誘って、「私も行くから、一緒に行こう、プロムで踊ろう!」と焚き付けるわけ。攻めの姿勢ですよ。 そして、この1年、とにかく積極的に知らない子にも声をかけ、昼はテーブルを回って様々な階級のグループとも分け隔てなく交際し、皆に親切にしてきた甲斐あって、マーヤに誘われた多くの子が、プロムにやってきます。そしてそういう子たちとマーヤは踊りに踊ってプロムを満喫する。1年前には想像もできなかったことが実際に起るんですな。 60年前に書かれたベティ・コーネルのティーンエイジャー向け自己啓発本は、今でも通用した! この本は、そうしたマーヤの達成が描かれているのですが、それ以外にも、マーヤが大好きだった先生の死とか、自閉症の妹のこととか、父親の転職によって、中学卒業と同時に他の町に引っ越すことになったこととか、14才の少女の生活にふりかかる様々な出来事が綴られますし、またメキシコとの国境に近い町ゆえに、麻薬や銃のトラフィックが日常的にあり、中学校ですら、定期的に警察の捜査の対象になる(麻薬犬にクンクンされる)し、また校内で銃撃が起こって生徒が死ぬ、なんてことも時折ある。そういった、アメリカの現状も垣間見ることができる。そういう意味でも、この本、なかなか面白い。 ま、でもね、やっぱり自己啓発本研究の観点から見て一番興味深いのは、アレだね。やっぱり世の多くの自己啓発本が異口同音にのたまうこと、すなわち、「自分が変われば、世界が変わる」というのは本当だ、ということが、この本を読むと良く分かる、ということかな。 マーヤは、「人気がなく、パッとしない自分」に飽きて、「人気者の自分」を手に入れようとした。そしてその決意を固め、自分を変えることによって、望み通りの人気者になったと。それも、たった1年で自分を取り巻く世界を180度変えちゃったわけですからね。しかも、単に学校の人気者になったばかりではなく、マーヤはこの本が世界中で出版され、世界中でミリオンセラーになったことで、念願の「作家」になることもできた。 なるほど、自分が変われば世界が変わるっていうのは本当なんだなと、そう思えてくるじゃないですか。 というわけで、60年前のティーンエイジャー向け自己啓発本のアドバイスを実行し、そのパワーを実証したマーヤのこの本、50代半ばの日本人のおっさんとして、私、熱烈おすすめしちゃおうと思うのであります。マーヤの自分改造計画ーー1950年代のマニュアルで人気者になれる? [ マーヤ・ヴァン・ウァーグネン ]Betty Cornell's Teen-Age Popularity Guide [ Betty Cornell ]
July 9, 2017
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ちょっと前に話題になったドイツ映画『帰ってきたヒトラー』を観たので心覚えを。以下、ネタバレ注意ということで。 1945年に死んだはずのヒトラーが、どういうわけかタイムスリップして現代のドイツに現われるというところから映画は始まります。で、最初は自分でも状況を把握できず、ナーバス・ブレークダウンしたところを親切なキオスクの店主に匿われるのですが、売り物の新聞や雑誌を読みながら、現代ドイツがどういうことになっているか、大よそ理解するわけ。そういう意味では、やっぱ、頭いいわけよ。 で、そこにフリーのテレビ製作者ザバツキーが係わってくる。ドイツにおける貧困問題など、大真面目なドキュメンタリーを製作しているザバツキーですが、そんな番組では視聴率が取れないということで、テレビ会社からクビを申し渡されてしまうんですな。で、絶望していたところに、偶然、自分の撮影したフィルムの中に、現代に蘇ったヒトラーの姿が映っていることに気付き、これをネタに何か番組を作れないかと思いつく。 で、ザバツキーはヒトラーがキオスクに居ることを突き止め、彼を連れ出してドイツ中を経巡り、ヒトラーに出会った現代のドイツ人がどういう反応を示すか、というドキュメンタリーを作り始めると。もちろん、この時点ではこの男が本物のヒトラーとは思っておらず、ヒトラーの物真似をする芸人だと思っているのですが。 しかし、実際にヒトラーを連れまわしてみると、無論、彼の姿を見ただけで眉を顰める人も沢山いることはいるのですが、一方で、彼と彼の政治的意見を受け入れる人々も沢山いることがわかる。要するに、現代のドイツの政治、特に難民受け入れ政策に不満を持っている民衆というのは沢山いるので、そういう隠れ国粋主義者たちがヒトラーに共感を示すことも多いんですな。で、ヒトラーは、御存知の通り、大衆の心を掴むスピーチの名手ですから、そういう隠れ国粋主義者たちをたちまちのうちに味方に付けてしまうと。 しかも現代はネットの時代。ヒトラーの登場はすぐにネット上の話題となり、時の人に。そしてザバツキーもヒトラーを紹介したことで一応、テレビ局に再雇用されたと。 で、ヒトラーはお笑い番組に出演することになったのですが、そこはそれ、本物のヒトラーなんですから、お笑い番組のしきたりなんて無視し、自らの政治信条を訴え、それが大うけしてテレビ局の視聴率も鰻登り。かくしてお笑い番組のみならず、一般のトークショーにも出演することになるのですが、そうなるともうヒトラーの独壇場で、並み居るMCなど眼中になく、人心を掌握してしまうんです。 が! ザバツキーの所属するテレビ局のナンバー2、ゼンゼン・ブリンクが、ナンバー1追い落としのために、ヒトラーを使おうと一計を案ずるわけ。ザバツキーと一緒にドイツを経巡っていた時、たまたまヒトラーが自分のことを噛んだ犬を射殺したことがあったのですが、そのビデオをトークショーの最中に流し、犬好きの国民の反感を盛り上げて、ヒトラーのタレント生命を奪うと同時に、その責任をナンバー1に負わせて失脚させ、自らナンバー1の座についてしまうわけ。 で、一時的にザバツキーの自宅に隠棲を余儀なくされたヒトラーですが、さすが転んでもタダでは起きないというか、彼は現代ドイツに復活してからの経緯を自伝に綴って出版、やがてそれがベストセラーになって、映画化されることに。一方、ヒトラーが去った後、視聴率ガタ落ちで責任問題に発展していたゼンゼン・ブリンクは、こうなったら再度ヒトラー人気に頼る他ないと腹をくくり、ヒトラー映画の制作に協力することに。 一方、ヒトラーを発掘した張本人たるザバツキーは、ユダヤ人である自分の彼女の一族に対するヒトラーの反応から、彼の正体が「そっくりさんタレント」などではなく、正真正銘、本物のヒトラーであることを確信、自分が怪物を現代に蘇らせてしまったことを自覚し、ヒトラーを亡き物にしなければならないという決意を固めることになる・・・。 さて、ヒトラーは自伝映画の成功で再度現代ドイツの民心を完全に掌握するのか、それともヒトラーの野望を、さえないテレビマンであるザバツキーは阻止できるのか・・・ ってな話です。 これね、最初私、もっと馬鹿げたコメディかと思っていたんです。蘇ったヒトラーが、現代社会のありように翻弄される面白さを描いたものなのかと。しかし、違いましたね。確かに、コメディ・タッチな部分もあり、ブラックな面白さも満載ではあるのですが、ヒトラーが現代社会に容易に適応し、その中でどんどん民心を掌握してゆく怖さというのも十分説得力をもって描かれている。確かに、本当にヒトラー的な政治家が登場したら、戦後70年の反省の歳月など簡単に吹き飛ばし、再度、恐怖の帝国を作り出すことも可能なのではないかと思わせるだけのものがある。 映画の中で、ヒトラー自身、「君たちは私から逃れることはできない。なぜなら私はドイツ国民の一部だからだ」というのですけど、ヒトラーという怪物は、彼自体が実体としての怪物なのではなくて、民衆の間にある不満、外国人に対する恐怖や憎しみ、そういうものの体現であって、それを掬いとっているだけだと。つまり、ヒトラーという特定の個人さえ葬ってしまえば、ああいうことは二度と起きない、なんて考えは甘いということですな。 そういう意味で、この映画は、一見おちゃらけているようでいて、ヒトラーという現象をものすごく上手に描き出し、その現象に警告を発していると言っていい。 ヒトラー役を演じたオリヴァ―・マスッチの好演も相まって、この映画、一見の価値はあります。私の個人的なスケールで言いますと、100点満点で言って「83点」と言っておきましょうか。かなりの高得点。 ということで、『帰ってきたヒトラー』、教授のおすすめ!です。帰ってきたヒトラー DVD コレクターズ・エディション[DVD] / 洋画
July 8, 2017
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数カ月前の話なんですけど、教授会が始まる時、学長が部屋の後ろの方にいた外国人教員に向って「○○先生、前の方の席が空いていますから、どうぞ前の方にいらして下さい」と呼びかけたわけ。 まあ、もちろんそれは善意から出た発言だったのですが、一つ、大きな誤りを犯してしまった。 その外国人教員は○○先生ではなく、××先生だったんです。つまり学長はその先生の名前を間違えたわけ。 で、間違えられたその××先生、激怒されまして。自分はもう十年以上もこの大学に奉職しているのに、まだ名前も憶えられていないのかと。で、その激怒ぶりが何となく学長にも伝わったのか、後で学長から当人に対して謝罪があったと聞いております。 よく外国の小説は登場人物の名前が覚えられないから嫌いだ、なんてことを言う人もいますけれども、日本人は総じて、外国人の名前が苦手なんですかねえ・・・。 ま、とにかくこのことがあって以来、特に外国人の先生方は、ご自分の名前に関することで相当神経質になっておりまして。 で、そのさなかですよ。またもやらかしたわけ。 うちの大学がこの夏、学外の人たち向けに講習会を開くのですが、それを告知するポスターの中で、講師を引受けて下さったある外国人の先生のお名前を間違えたと。 で、その外国人の先生は、私と研究室が隣同士の親しい間柄のR先生だったもので、その事実を知った途端、私にその旨を告げるメールをくれたんですな。もちろん、文面からかなりお怒りであることが窺われる内容で。 そこで、義憤に駆られた私、早速、担当部署に怒りのメールを出したった。いい加減にせーよ、と。R先生の怒髪は天を突いておるぞと。対外的に表に出すポスターで何しくさったんじゃと。 ま、私の迫力ある抗議メールにビビったのか、すぐに担当者が私のところに謝りに来たんですけれども、それがまた私の逆鱗に触れるという。なんで私に謝るんだよ、謝る相手がち・が・う・だ・ろ~! で、もちろんR先生への謝罪が行われ、ポスターも修正が掛けられたんですけどね。 というわけで、この件は一応、一件落着・・・なんですけれども、なんかさ、ちょっとアレだよね。名前っていうのは、アイデンティティの原点でもあるわけで、それを間違っちゃいけないよね。礼儀の基本だよ、基本。ましてや、二十年以上も奉職して下さっている先生のお名前を間違うなんて、言語道断もいいところ。しかも、今が今、外国人の先生方が、名前に関して神経質になっている時も時、そこで間違えるなんて、わざわざ地雷を踏みに行っているようなもんじゃないの。 「外国人の名前は、どうも苦手」とかって、言っている場合じゃないよ。もっと気を引き締めなくちゃ!
July 7, 2017
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ちょっと前に若い同僚である哲学のI先生と雑談をしていた時に、何の拍子か、「本を読むとはどういうことか」という話題になりまして。 もちろん、本を読むというのは、本を読むということなんですが、普通、人は自分が読んだ本の内容を100%理解し、100%憶えているなんてことはないわけですよ。っていうか、むしろ半分も覚えていればいい方で、大半は「そういえば、昔、そういう本を読んだなあ」程度の記憶しかない。 では、そんな状態でもって、「本を読んだ」と言えるのだろうか? この問いが、その雑談の話題の中心だったわけ。 で、この点についてI先生曰く、もちろん「言える」と。つまり、哲学的観点から見ても、「自分はかつてその本を読んだことがある」という記憶こそ、読書体験の本質なのではないかと。実際、そういうことを論じている哲学者がいて、本もあるのだそうです。 で、その点については私も激しく同意。否、もしこれに同意しなかったら、私なんぞ、本を読んだことが一度もないということになってしまうというね。 例えば私が学部の学生だった頃、夏目漱石のほぼ全作品を通読したことがありまして。で、その時は大いに充実感を覚えたのですが、あれから30年経った今、その時読んだ漱石作品の細かい筋書きを言ってみろと言われたら、もうお手上げするしかない。あまりにも連続して読んでしまったので、頭の中でこんがらがってしまい、どの筋が『それから』で、どの筋が『虞美人草』で、どの筋が『門』だったか、『道草』や『行人』や『彼岸過迄』の主人公とヒロインの名前が何だったか、判然としなくなっちゃった。 でーもー、「私は夏目漱石の作品は大概読んだ」という記憶、というか矜持は今もなお鮮明に保持していて、何かの拍子に夏目漱石の話題が出たとしても、「あー、それ読んだ、読んだ」と話を合わせることくらいはできる。 それが「夏目漱石を読む」ということの意味でなかったら、何なの? ってなもんですわ。 で、そんな雑談をしていた時に、ふと、そういえば『『罪と罰』を読まない』という本が話題になっていたことを思い出し、そのことをI先生に告げたわけ。あれは、『罪と罰』ほどの名作を読んだことのない(だけど、なんとなくあらすじ位は知っている)人たちが、寄ってたかって、読んでもいない『罪と罰』を論じるという本らしいんだけど、これなんか「「本を読まない」という読書の方法もあり得る」ことを立証した、読書論の観点からは非常に面白い本なのではないかと。 そしたら、I先生、実際にその本を買って読まれたと。で、その上で私にも貸してくれるというので、これは読まないわけにはいかないじゃないですか! というわけで、読んでみました。『『罪と罰』を読まない』を。これこれ! ↓『罪と罰』を読まない [ 岸本佐知子 ] これ、先にも言いましたように、岸本佐知子さん、吉田篤弘さん、三浦しおんさん、吉田浩美さんという錚々たる本の読み手が、読んだことのないドストエフスキーの『罪と罰』が、どんな小説なのか、勝手に想像しながら推測するというもの。ちなみに、三浦しおんさんだけ一回りお若いですが、残りの三人は私とほぼ同世代なので、そういう意味でも同世代の本好きのおしゃべり会に参加しているようで、私には楽しかった。 しかも、告白しておきますと、私自身、『罪と罰』はやはり大学生になりたてくらいの時に一度読んだきりですので、どういう話だったか、あまり覚えていない。ラスコーリニコフという大学生が、金貸しの婆さん殺して、でもその後、なんとかいう清い娼婦の娘から諭されて、信仰に入って反省する話じゃなかったっけ、程度の記憶・・・つまり、この小説を読んだことがないこの四方とさして変わりない感じなのでございます。ごめんね、ドストエフスキーさん。 さて、四人の面々が、読んだことのない『罪と罰』なる小説を、読んだことのないまま読書会形式で論じるわけですけれども、まったくヒントがなければさすがに論じることは不可能。ということで、一応ルールらしきものがあって、この小説のほんの一部、それこそ各部につき1、2ページ、といった分量だけ、朗読することが許されているんですな。それから、長編ロシア小説にありがちな、巻末の「登場人物紹介」とか、そういうのもちょこちょこ参照していいことになっている。もちろん、そのほかにも「大体こんな話だったのではないか」という噂とか、手塚治虫のマンガ版をちらっと読んだことがあるとか、この大作を15分ほどの影絵ドラマにまとめたものを観たことがあるとか、そういうものも最大限活用していいことになっているわけ。 そんな感じで、ほんのちょっとした手がかりを元に、きっとこの小説はこういう筋書きなんじゃないか、というのを四人で侃々諤々議論・・・というか推測していくのですが、これがまたとても面白い。 特に小説家の三浦しおんさんは、自ら小説を書かれるだけあって、わずかな手がかりから筋書きを作り上げていくその勢いが半端ない。なるほど、小説家というのは、こういう風に話を膨らましていくのか、とか、キモとなるエピソードをそういう具合に配していくのか、といったテクニック的なことが窺えて、すごく面白い。やはり小説家が他の小説家の作品を読むというのは、「自分だったらどう描くか」ということをベースに読むことになるので、目の付け所が一般の読者とは違いますな。 でも、そうやって「多分この小説はこういう話で、この先、こういう風に展開していくに違いない」と予想した上で、先の部分をちょっと読むと、予想が当たる場合もあり、まったく予想外のことになることもあり。例えば、最初のうち四人ともラスコーリニコフは老婆を一人殺すのだろうと思っていたのですけど、後になってどうやら二人殺していたらしい、ということが判明して一同仰天するとか、そういうことも頻繁に起こる。 でも、予想が外れたら外れたで、またそれを前提にして次の展開を予想するわけですから、予想自体もどんどん複雑化し、深いものになっていく。それはまたそれで面白いわけですな。 で、そんな調子でさんざん「多分、『罪と罰』はこんな話」という予想を勝手に作り上げていくうちに、四人の論者とも、実際に『罪と罰』を読みたい!という強烈な欲望に駆り立てられるんです。そりゃ、そうですよね。これだけ熱心に解答したのですから、「答え合わせ」がしたい、予想が当たったのか外れたのか確認したいという気持ちが高まるのも当然のこと。 で、最終的には四人それぞれ、この小説を読破するわけ。そしてその読書は非常に幸福なものであった。かつては、「なんだか難しい小説の書き手なんだろう」程度の認識だったものが、今や、「一緒に小説を書いてきた仲間」ほどの親近感でもってその作品を読んだわけですから、ドストエフスキーの小説家としての特長、どこが先進的で、どこがポップなのか、といったことまで腑に落ちながら読み進めることが出来たと。 そして、もちろん、こうなってくると、私自身も『罪と罰』を再読したくなってくるわけでありまして、そういう意味で本書は、この上なく興味深い『罪と罰』の解説書にもなっていると言えましょう。下手な研究書や入門書を読むより、この本を読んだ方がドストエフスキーに対する理解はよほど上がるような気がする。 いずれにせよ、本書の巻末で三浦しおんさんが書いている通り、「本を読むことは、読まない時から既に始まっているし、読んだ後も終わることはない」というのは真実でありまして、「読まない読書」というのは十分にあり得るなと。 「人間がいて、そこに本がある」という状況が、既に本を読むということなのでありましょう。 ということで、I先生との雑談をきっかけに読むことになった本書『『罪と罰』を読まない』、教授のおすすめ!と言っておきましょう。
July 6, 2017
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いよいよ歳のせいなのか、最近、眠りが浅くなったなあと思うことしばし。 私、典型的な夜型人間なので、普通、夜中の3時過ぎくらいにベッドに入るのですが、前はそこから爆睡十時間とか、全然平気だったわけ。 ところが。ところがですよ。 最近、まず5時頃一度目が覚める。で、「むむ、まだ2時間しか寝ておらんではないか」とか思って、もう一度速やかに夢の世界に行こうとするのだけど、これがなかなかしんどくて、30分くらい輾転反側しちゃう。で、そこからどうやら眠りに就くとは言うものの、熟睡とはほど遠く、夢うつつの境をさまよいながら、気付いたら8時とか。熟睡2時間+浅い眠り3時間で、本日の睡眠終了~、みたいになっちゃう。 だから、朝起きた時から疲労感たっぷり。 いやあ、若い頃はたっぷり寝て、「あー、よく寝た」とか言いながら伸びをして、いきなり元気全開みたいな感じだったけれども、ああいう芸当って、実は若さの特権なんだということが今になって分かったという。 そのうち、レレレのおじさんみたいに、朝の4時から近所の掃き掃除とかするようになったりして。出勤するサラリーマンに「おでかけですか~?」とか言いながら。 「若いって、素晴らしい」っていう言葉の意味が、よく分かるようになりましたわ。残念な・が・ら。
July 6, 2017
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私は、基本、アメリカ文学の研究者なのですが、大学では一般教養の英語の授業も受け持たなくてはならない・・・っていうか、その負担の比重は決して少なくはないのですが、まあ、英語を教えるのが専門ではないし、という逆の自負がありますし、テキトーにやっているというところがなくはない。 だけど、やっぱり根が真面目なので、テキトーとはいえそれなりに方法論だけは考えていて、その結論として、英語の初学者には「ベーシック・イングリッシュ」を教えるのが一番、という確信に基づいて教えているわけ。ベーシック・イングリッシュというのは、20世紀前半にイギリス人のC・K・オグデンという人が考案した、英単語を850語しか使わない英語発話法でありまして、私自身はそれを元にさらに日本人学習者向けにアレンジした「裏ワザ流英語」というのを考案・唱導しているのですが。 ところが、何年かに一度、私独自のこの「裏ワザ流」にはまる学生というのが出てくるんですわ。 で、今年度も一人、理系の学生でそういうのがいて、私の英語の授業が楽しみで仕方がない、と言ってくれるわけ。目からウロコだと。逆に、どうして他の先生方・・・否、日本中でこの教え方が流行らないのかとまで言ってくれる。で、毎回授業後に質問に来たりして、本格的にのめり込んでいるんですな。 いやあ。なんだか、感激。テキトーにやっているのに、そんなに感心してくれるなんて、申し訳ないようなもんです。 でも千人の学生の内、一人でもそうやって支持してくれる学生がいると、正直、嬉しいよね・・・。だから、今年はね、割と英語の授業、一生懸命やっているの。 結局、先生を育てるのは、学生なんだよね。先生は学生に育てられる。いい学生が一人でもいれば、先生は一生懸命になるのよ。 というわけで、今年度の英語の授業では、たった一人の学生のために、私は大いに気を良くし、励まされ、やる気を出しているのでございます。まったく、私の方が感謝だよ。
July 5, 2017
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パイナップル植えたった。 小学校時代の同窓生のH君の話なんですが、彼が子供の頃、遊び半分にパイナップルの実を自宅の庭に植えたら、あれよあれよという間に巨大なパイナップル・ツリーとなり、ちゃんと実ったと。ま、いわば最近流行の豆苗みたいな感じで、パイナップルは再生して二度食べられる果物なんだと。 で、H君からその話を聞いていたワタクシ、いつの日かパイナップル植えたろうと思っていたわけよ。そうしたら、ついにそのチャンスが来た。 ほら、お葬式の時に果物をお供えするじゃん。それで父の葬儀にもパイナップルがいくつかお供えしてあって、式後、それを参列した親族で分けたわけ。そしてその一つがワタクシのもとに来た。 で、名古屋に戻ってきてからそのパイナップルを食べ(旨し!)、そのカットした頭の部分、観葉植物みたいな葉っぱの部分をとっておいたわけ。で、それをですね、植えたった。 どこに? 大学に。(え゛ーーー!) だって、うちマンションだし。ベランダで巨大パイナップル・ツリー、無理でしょ。 というわけで、隠れてこっそり植えたった。人目につかないところにね。 わはは。梅雨時で天然の水やりも出来ているし、きっと根付くに違いない。夏の終わり頃には収穫できるかもしれん! うししし。 おとうちゃん、おとうちゃんのパイナップル、見守っていてね!
July 3, 2017
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オグ・マンディーノという自己啓発ライターの書いた『十二番目の天使』なる本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 オグ・マンディーノという人は、自己啓発ライターではあるのですが、基本、ノンフィクションとしてではなく、小説として作品を発表するんですな。ですから、この本も小説仕立ての自己啓発本、ということになります。 じゃあ、どんな物語が展開するのかと申しますと、主人公は四十歳代そこそこにしてアメリカの大コンピュータ会社のトップにヘッドハントされたというバリバリのビジネス・タイクーン、ジョン・ハーディングなる人物。で、今回、その新しい肩書きに収まるべく、彼は故郷であるニューイングランドの小さな町ボーランドに戻ってくる。で、そんなビジネス界の大立物が故郷に戻ってくるというので、ボーランドの町は大騒ぎ、ここ出身の名士を迎えるため、わざわざ町を挙げての大歓迎会が開かれる始末。 ところが、そんな幸せの絶頂にあったジョン・ハーディングに突然の不幸が襲いかかる。なんと、不慮の交通事故によって最愛の妻サリーと最愛の息子リックが死んでしまうんですな。で、ジョンは幸せの絶頂から不幸のどん底へと突き落とされ、社長の椅子も放棄して家に閉じこもり、自殺のことばかり考える日々が続くと。 と、そこへ親友のビル・ウェストが尋ねてくる。ビルはかつてジョンと共にボーランドのリトル・リーグで活躍した仲だったのですが、そのビルがジョンを励ますため、地元のリトル・リーグのチーム監督を引き受けてくれと頼みにきたんです。で、もちろんジョンはそんな気分じゃないと断るのですが、すったもんだの末、結局この仕事を引き受けることになる。 で、ボーランドのリトル・リーグは4チームによるリーグ戦で優勝が決まるのですが、その4つのチームが毎年ドラフト会議を開き、その年のチームを決定することになっていて、ジョンもその会議に出席し、彼が面倒を見ることになったエンジェルズのメンバー12人が決定します。で、その中にはどのチームも狙っていた好投手トッドも含まれ、今シーズンのエンジェルズの先行きは明るいのですけれども、一人、年齢の割に小柄で、野球もものすごく下手なティモシー・ノーブルという少年が、ドラフト会議の成り行きでエンジェルズに入ることになってしまった。 で、懸念した通り、ティモシーは打撃も守備もからっきしで、チームのお荷物となってしまいます。しかし、そんな状態であっても、ティモシーは野球に異様なまでの執着を示すんですな。で、チームメイトから笑われようが、からかわれようが、決してひるまず、一生懸命練習に励んでいる。 で、そんなティモシーの姿を見たジョンは、彼に興味を示し、一人だけ特訓してあげたりするのですが、そうやって個人的に親しくなってみると、ティモシーの家の事情というのも分かってくるわけ。 実はティモシーの家は母子家庭で貧しいんですな。だから、グローブ一つとってもぼろぼろのものしか持ってない。スパイクもないので、ぼろぼろのスニーカーでプレイしているし、練習に来るための自転車もおんぼろで、やたらに壊れるものだから、ティモシーは遠路はるばる歩いてグラウンドにこなければならないんですな。で、お母さんは働いていて忙しいものだから、時々食事も抜かなければならない始末。これでは、ティモシーの野球の上達が思うに任せないのも致し方ないところ。 しかし、ティモシー自身は元気そのもの。なぜかというと、彼には一つ、信念があったから。 それは何かというと、かかりつけのお医者さんであるメッセンジャー先生から教わったという二つのおまじないの言葉を知っていたから。そのおまじないとは、「毎日毎日、僕はあらゆる面で進歩している」というのと、「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対、絶対あきらめない」という言葉。前者は有名な精神療法家であるエミール・クーエのもので、後者はイギリス宰相ウィンストン・チャーチルのもの。この二つの言葉の信奉者となったティモシーは、決してくじけないんですな。 ちなみに、アメリカのリトル・リーグでは、1チーム12人のメンバーなんですが、その全員が規定打席に達しないとダメ、というルールがあるらしく、ティモシーみたいな下手なプレーヤーも必ずシーズン中、ある程度は打席に立ったり、守備をしたりする決まりがあるらしいんですな。だから、下手だからといって万年補欠というのはあり得ない。 だから、ティモシーも他のプレーヤーに混じってプレイし、その結果、チームの足を引っ張ってしまうこともあるのですが、しかしエンジェルズのメンバーは、決してティモシーをのけ者にはしません。というのも、ティモシーはどんな時でも一番大きな声を出してチームの応援をするから。そのうち、ティモシーの決めゼリフである「絶対あきらめない」は、エンジェルズのモットーとなり、それを元にしてチーム一丸となってリーグ戦を勝ち進んで行くんですな。 で、結局エンジェルズはシーズンの成績がヤンキーズに次ぐ2位となり、プレーオフ進出の権利を得ます。そしてヤンキースとの優勝決定戦を迎えることになる。さすがにシーズン中1位2位を争った2チームだけに、一進一退の好ゲームとなります。 そして決定的なチャンスにティモシーの打順が回ってくる。これまでジョンの特訓もあって大分上達していたティモシーですが、結局、シーズン中1本もヒットを打っていない。そのティモシーに一世一代の舞台が用意されてしまったと。もう、監督のジョン、コーチのビルはもちろん、エンジェルズのチームメイト全員が祈るような気持ちでティモシーの打席を見つめます。 と! なんと奇跡のヒット! ティモシーのシーズン初ヒットは、同点となる一打となり、ゲームは振り出しに。そしてその後、勝ち越しの点を入れ、最終回を押さえたことで、エンジェルズは優勝! かくしてジョン・ハーディングは、エンジェルズの監督となり、またそのチームを見事優勝に導いたことで再び人生に立ち向かうだけの勇気を得、シーズン後に社長として会社に復帰。少しずつですが妻と息子を失ったことに対しても、それを受け入れることが出来るようになるんですな。そして、そういう心境になったのも、いわば、ティモシー・ノーブルという少年の、あの決してあきらめないガッツに触れたことが大きかった。 ところが。 再び会社人間として忙しくしていたジョンのもとに、ティモシーの主治医であるメッセンジャー氏から電話がかかって来て、話したいことがあると言われるわけ。 で、老医師に会って話を聞いてビックリ。 実はティモシー・ノーブル少年は、脳腫瘍のため、死期が近づいていると。 というか、そのことは野球シーズンが始まる前から分かっていたし、ティモシー本人も分かっていた。にもかからわず、ティモシーは野球がやりたかった。一度でもいいからヒットを打ちたかった。それで、無理をしながらチームに入り、そして念願のヒットも打つことができた。ティモシーのプレイ中の動きがぎくしゃくしていたり、他のメンバーに比べて上達が遅かったのも、脳腫瘍の影響であったんですな。 それを聞いたジョンは、矢も盾もたまらずティモシー少年の貧しい家に駆けつける。と、すでに大分状態が悪くなって、寝てばかりいたティモシーも、監督がわざわざ見舞いに来てくれたというので、嬉しくて飛び起きてしまう。そしてそれからというもの、ジョンは忙しい仕事の合間をぬって時間を見つけては、ティモシーのもとを訪れるようになる。 が、病魔には勝てず、結局、ティモシーは間もなく亡くなると。 でも、ティモシーは、自分の死と引き換えに、妻と子供を失って廃人のようになっていたジョン・ハーディングを立ち直らせたのであって、ドラフト会議では最終順、つまり12番目に引き当てた選手ではあったのですが、その12番目の少年こそが天使であったと。『十二番目の天使』は、そんな感じで終わります。 どう? この話? 感動的? まあ、若干、御涙頂戴的なところはありますが、一応、感動的なんだろうね。安手のハリウッド映画とかになりそうな話じゃない? ま、それはともかく、自己啓発本的側面としては、エミール・クーエの「毎日毎日、僕はあらゆる面で進歩している」という呪文と、チャーチルの「絶対あきらめない」というガッツ、これさえあれば人生どうにかなるよと。そういうことを、小説仕立てで主張しているわけですな。 オグ・マンディーノの作品としては、前に『この世で一番の奇跡』という本を読んだことがあるのですが、あれよりはこっちの方が小説としてはよく出来ている、かも知れません。ただ、より小説っぽいので、注意していないと、自己啓発的側面を読み飛ばしてしまうかも。何にも知らない人がこの小説を読んで、「やっぱりこの小説のキモはエミール・クーエだな」とは思わないだろうな・・・。 ま、そんな感じ、でしたかね・・・。十二番目の天使 [ オグ・マンディーノ ] さて、週末、実家で過ごしていたワタクシ。もうね、父の死後、怒濤のように襲って来たありとあらゆる事務処理をこなし、ヘトヘトになりながら、これから名古屋に戻ります。でもまだ相続だの家の登記だの、やるべきことは山積みで、人が死ぬってことはどんだけ大変なことなんだと痛感させられる日々でございます。先が思いやられるわ〜・・・。
July 2, 2017
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ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』(新版)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、もちろんそれでなくとも有名な本なんですが、実は自己啓発本の世界でも飛びっきりの名著ってことになっているのね。だもので、私も学生の頃、(旧版で)一度読んでいるはずなんですけれども、あらためて自己啓発本として再読してみようと、まあ、そんな風に思ってしまったわけ。 で、読み始めたのですけれども、最初はやっぱり読むのが苦しいんですな。というのも、これ、医者で心理学の専門家であったユダヤ人のフランクルが、第二次世界大戦の頃、ヒトラー率いるナチス・ドイツによってアウシュヴィッツ強制収容所に入れられた時の記録だから。 牛馬のように貨車に詰め込まれ、アウシュヴィッツに連れて来られたユダヤ人たちは、当初、まだ若干の希望を持っているわけよ。事情を話せば(例えば、「これは結婚指輪なので・・・」とか)すべて身ぐるみはがされることはないだろうとか。でも、そんな希望も、しばらくアウシュヴィッツに居ればすぐについえてしまう。ここでは、そういうことは通用しないんだと。 そして、ナチス・ドイツの収容所政策の悪魔的な巧みさがまたすごくて、たとえば収容所に入れられたユダヤ人の中でも、とりわけ暴力的でサディスティックな奴らを選び、彼らを使って同胞のユダヤ人を監視させたりするわけ。そういう連中は、食事の面でも優遇され、エリート意識を持った彼ら(カポーと呼ばれるらしい)は、ナチス・ドイツの連中よりもさらに過酷に、同胞たちを殴りまくると。 でも、そうやってナチスの兵隊から、あるいはカポーから殴られっぱなしに殴られているうちに、だんだん、殴られることに慣れていくというのですな。人間というのは、最低の環境にすら、あっという間に慣れてしまうのだと。そして、ほんの少しの運の差で仲間が選別され、次々にガス室送りにされ、燃やされて行くことにすら慣れつつ、その一方で、自分の命を少しでも永らえさせるために貪欲になっていく・・・。 そういう、収容者や被収容者たちの心理を、心理学者のフランクルは、当事者として目撃し、分析していくと。 で、もう、そういうのを読んでいると、当然のことながら苦しくて苦しくて、とてもこんなの読んでいられなーい! と思っちゃうわけよ。そりゃ、そうでしょ。 だけど、そういう中で、こういうことも書いてある。 ある時、被収容者たちが早朝から強制労働させられるために凍てつく道を歩かされていたんですけど、フランクルの隣を歩いていた同胞が、フランクルに向かってこうつぶやいた:「ねえ、君、女房たちがおれたちのこのありさまを見たらどう思うだろうね・・・! 女房たちの収容所暮らしはもっとましだといいんだが。おれたちがどんなことになっているか、知らないでいてくれることを願うよ」と。 で、その刹那、フランクルはじめ、彼のつぶやきを聴いた被収容者たちは、一斉に愛する妻のことに思いを馳せたと。なぜそれがフランクルに分かったかというと、フランクル自身が次のような思いにとらわれたから:今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るく私を照らした。 そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること! 人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。(60−61頁) どんなに過酷な環境に居ても、どんなに辛い労働、ひどい侮辱、飢えに苛まれていても、愛する人の面影を抱くことで、すべてを克服できるという確信。しかもフランクルは、この天啓を得た直後、「ひょっとして妻は別な収容所で既に死んでいるかも知れない」というおそるべき懸念に教われ、しかも後で実際にそうであったことが分かるのですけれども、それでもこの確信は揺るがなかったというのですな。つまり、愛する人が生きていようが、死んでいようが、それは問題ではなくて、ただ妻への愛というものが存在するだけでよかったと。 実はですね、この本を読んでいたのは、ちょうど、私の父の葬儀の準備をしている時だったんです。で、まさに私自身が、愛する父を失った悲しみにくれていたときに、この本のこの箇所を読んだわけ。それで、ああ、と思ったんです。同じだなと。父が生きているか、死んでいるかは関係がなくて、ただ私が父を愛していたということ自体が救いなんだなと。 この本を、辛くても先に読み進もうと私が思ったのは、この箇所を読んだから、と言っていいかな。 で、このあたりから本書は過酷な環境にある人間の「心のもちよう」に焦点が当たってきます。いかに肉体的な自由を奪われた環境にあっても、人間はこころの持ちようだけは自分で選択できるんだと(「つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ(111頁)」)。 例えばフランクルは、あまりにも辛い日々の中で、突如、暖房のきいた豪華なホールの演台に自分が立っているという空想に遊ぶことを思いつくんですな。そして自分の講演のテーマは「強制収容所の心理学」。学問という一段高いところから強制収容所の日々が観察され、描写される・・・それらをあたかも過去の出来事であるかのように看做す・・・こういうトリックによって、フランクルは辛い日々をなんとかやり過ごすことに成功するわけ。これはまさにスピノザが『エチカ』の中で述べていた「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表明したとたん、苦悩であることをやめる」ということが真実であることを証明しているではないかと。 もちろん、逆のケースもあり得る。フランクルの収容所仲間がある時、収容所から解放される夢を見るのですが、夢の中でその解放の日が3月30日だった。で、彼は3月30日までは希望を失わなかったのですが、3月30日がなんの変化ももたらさずに過ぎ去った時、彼の中で何かがこわれ、身体の抵抗力も無くなり、たちまち発疹チフスの餌食となって翌日の31日に死んでしまった。未来に希望が無くなった人間は、生きる力を失うし、逆に「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える(ニーチェ)」のだと。 かくしてフランクルは次のような結論を得る: 具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。 強制収容所にいたわたしたちにとって、こうしたすべてはけっして現実離れした思弁ではなかった。わたしたちにとってこのように考えることは、たったひとつ残された頼みの綱だった。それは、生き延びる見込みなど皆無のときにわたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考えだったのだ。(131頁) さらに、フランクルはこんなことも観察しております。収容所の仲間の一人が、収容所に入って間もない頃、次のように願ったと。曰く、「自分が苦しみ、死ぬなら、代わりに愛する人間には苦しみに満ちた死をまぬがれさせてほしい」。 つまり、人間はたとえ「犬死に」せざるを得ないときですら、このように祈ることで、自分の死に多少なりとも意味を付与することができると。 だとするならば、ナチス・ドイツ側の人間の中に、被収容者に対して、ごく小さな親切をしてくれた人がいたことも理解できる。なんとなれば、人間は、常に、どんな状況においてでも、自分が何をするかを選択する究極の自由があるのだから。 この本が、「自己啓発本」の観点からも名著と言われる所以がここにあります。「人間は、たとえどれほど過酷な運命に翻弄されようとも、常に、その状況下で、自分はどういう行動をとるかを決める選択権がある」ということを、この本ほど雄弁に語っている本はないのですから。どんな運命の下に生まれつこうが、そこで「何クソ!」と奮起し、俺は運命なんぞには負けないぞと思うだけの自由と権利が人間にはある。そのことに気づかせてくれるものこそが自己啓発本なわけですよ。 ということで、今回、この本をあらためて再読して良かったと思います。もしまだお読みでない方がいらっしゃいましたら、是非。教授のおすすめ!です。夜と霧新版 [ ヴィクトル・エミール・フランクル ]
July 1, 2017
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