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高山宏・巽孝之の対談から生れた『マニエリスム談義』という本を読みましたので、心覚えを付けておきましょう・・・ ・・・と、言ってはみたものの、実際のところは「読んだ」とも言い切れない状態でありまして。 要するに、凄すぎるの。対談している二人が。二人共あまりにも博識というか、万巻の書を読みこなした上で、さらにそれらの上に縦横に橋を架けるような深い話をしているので、浅学菲才の身には彼らが話している内容の十分の一も理解できないという。 私が理解できるのは、いわば「点」でしかないのね。線で話し、面で話をしているお二人の対談の中の、いくつかの点しか理解できない。でも、それでも結局一巻通して読んでしまうのは、その理解できる十分の一、理解できる幾つかの「点」がとっても面白いから。 だから、「この本は、これこれ、こういうことを論じている本です」っていう風には、私には上手にまとめられない。そういうのは、もっと頭のいい人にお願いしようかなと。 一方、私が面白いと思う「点」というのは、例えばこういう箇所。 ポー(本書の中でポーはかなり大きな比重を占めるトピックなんですが)がカントの影響を受けていた、という話の中で、でもポーはおそらくドイツ語で直接カントを読んだのではなく、コールリッジとエマソン経由でその考え方を吸収していたに違いないと。 で、カントは、『判断力批判』第49節で、模倣について論じていて、初学者が天才の猿まねをすると、本来真似しない方がいいようなところまで真似してしまうけれども、真の天才であれば、仮に前世代の天才の真似しない方がいいようなところまで真似したとしても、その逸脱の中から新たなものを掴み出すだろうと。だから、それはそれで意味あることなのだと述べているらしい。 で、そのカントの信奉者だったコールリッジは『文学的自叙伝』の中で同様に「模倣」ということを論じていて、模倣には単純な「猿まね」という面もあるけれども、真の模倣には、かならず差異が含まれるはずだ、と述べているというのですな。つまり、真似していてもつい真似している側の独創性が生まれてしまうと。これは、カントの述べていることとほぼ同じです。 で、今度はそのコールリッジの説に感化されたエマソンは、「引用と独創性」(1867年)というエッセイの中で、独創的な天才は偉いが、その天才を最初に引用した奴も偉い、ということを述べていると。つ まり模倣と独創をめぐる議論が「カント」→「コールリッジ」→「エマソン」という風に引き継がれているというのですな。 面白くない? で、なぜこの話が私にとって特に面白いかというと、つい最近、エマソンの引用をめぐる論文を書いたばかりだから。その中で、エマソンの文章が後世の自己啓発ライターたちの間で引用されまくるのだけれども、ちょっとずつ間違って引用されると。で、その間違った引用がさらに後世のライターたちの間に流通して、今じゃもう、エマソンの言葉だかどうだかよくわからないものまでエマソンの言葉として通用している。そういう現状を指摘したわけね。 で、そういうことを書く時に、エマソン自身が「天才の文を最初に引用した奴は天才と同じ位偉い」と言っていたということを知っていたら、当然、それを論文の中に書いたのに・・・。ああ、もうちょい早くこの本を読んでいたら・・・。 ・・・と、そう後悔した次第。 あとね、本書の最後に高山さんと巽さんのお二人がルイス・キャロルの『アリス』を巡って話をする部分があるのですが、そうなると当然、アリスが「穴」に落ちて冒険するという側面、つまり、この「穴」というのが何を意味するのか、ってな議論になっていくわけね。 で、そこの部分を読みながらふと思ったのだけど、最近私が書評した『地下鉄道』という奴隷小説、主人公のコーラという少女が、アメリカの国土の地下深くに作られた地下鉄の駅から北部自由州を目指す旅に出る、という話なわけで、ああ! これって女の子が地下の穴に落ちる話じゃん! だったら、書評の中で一言でも『アリス』とのアナロジに触れておけば良かったじゃん・・・・ ・・・と、そう後悔した次第。 つまり、私レベルの研究者が読んでも、この本はその研究者のレベルに合わせて様々な示唆を与えてくれると、まあ、そういうことですな。だから、そういう意味では、たとえこの本の全貌が分からなくても、読む価値はあるなと。 ということで、この本の価値のほんのほんの一端しかわからないワタクシですら、勉強になることが多々あったよ、ということをご報告しつつ、この本、教授のおすすめ! と言っておきましょう。マニエリスム談義 驚異の大陸をめぐる超英米文学史 (フィギュール彩) [ 高山 宏 ]
April 30, 2018
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小林泰彦さんが書いた『ヘビーデューティーの本』を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ところで小林泰彦さんって、ご存じ? 作家・コラムニストの小林信彦さんの実弟で、イラストレーター&ルポライターですな。で、この本はそんな泰彦さんが雑誌『メンズクラブ』に掲載していた連載を本にして1977年に出版したものの文庫復刻版です。 で、本書の巻末にある「ヘビーデューティー覚え書き」という章を読むと、この本がどういう風に成立したかが良く分かるのですけれども、時は1969年夏、アメリカで「ウッドストック音楽祭」が開催された時、小林さんはアメリカに行ったのですけれども、1日違いでこの音楽祭を目にすることができなかった。 で、仕方なくNYをブラブラしていて、5番街のダブルデイ書店で妙な本を目にする。それが(先日、このブログにもちょっと書いた)『ホール・アース・カタログ』で、見ていると人々が競うようにこの本を買っていく。それでつい自分も買ってしまったと。 そしたら、その先、訪問する家々にこの本が置いてあるので、ビックリしつつ、これが「現代文明を再検討しながら、これからの人類のあり方を考える本なのだと気付」いたんですと。 そして1971年に再び西海岸からテキサスの方まで自動車旅行をしたところ、そこでアメリカの若者たちのライフスタイルがガラッと変わったのを目の当たりにするんですな。 まず誰もが街でジョギングしている。街をちょっと離れると、大きな荷物を背負った若者たちが歩いている。バックパッカーの登場です。クルマ社会のアメリカで、人々がクルマを降りて自分の足で歩き始めたと。 で、それにともなって「L.L.ビーン」とか「エディ・バウアー」とか、そういう昔からあるアウトドア製品の店が繁盛するわけで、またそういう店が機能に優れた服や靴や各種装備をどんどん出す。そしてそういうものに敏感なアメリカの大学生、とりわけアイヴィー・リーグと呼ばれる東部名門大学の学生たちがそれをファッションとして受け入れ、キャンパスにモカシンを履き、デイパックを背負った学生が溢れだすわけ。 で、そういうのを見た小林さんが、機能性の高い服やグッズをファッションとして採りいれて行くアメリカの若者たちのありようを見ながら、「ヘビーデューティー・アイヴィー」という概念を思いつくんですな。 ちなみに「アイヴィー・ルック」というのは、アメリカの名門大学の学生たちが、イギリス人の服装のありようを取り入れつつ、自分たちのライフスタイルとして編み出したファッションであって、それは流行でありながら、流行を越えた生き方の主張があった。もちろん、日本でもそれこそ『メンズクラブ』を牙城に、そういう「生き方を踏まえたファッション」としてアイヴィー・ルックが流行った時代があったわけですが、小林さんは1970年代初頭のアメリカ人/アメリカの学生たちの変化を見て、「ヘビーデューティー」というものが「アイヴィー・ルック」の中に組み込まれたことを知った。つまり、小林さんの造語では「ヘビーデューティー・アイヴィー」の時代になったんだなと。 で、小林さんはそのことを日本に発信しようと、『メンズクラブ』で1975年から「ほんもの探し旅」の隔月連載が始まり、それがまた76年には「ヘビアイ(=ヘビーテューティー・アイヴィーの略)党宣言」という特集記事となり、といった具合で、日本での紹介が始まった。それは概念の紹介であると同時に、実際のヘビーデューティーな服や靴やグッズの紹介という形で・・・ということはつまり「カタログ」としての紹介だったわけ。この時代、『ポパイ』(1976年創刊)とか、『ホットドッグ・プレス』(1979年創刊)とか、『なんとなく、クリスタル』(1981年)とか、日本では「カタログ文化」の時代ですからね。 つまり、カタログを通じて、小林さんは服やグッズを媒体にした「ある生き方」の見本を提示しようとしたわけですな。それはかつて『ホール・アース・カタログ』がそういうものであったように。 ま、以上述べてきたことが本書の成立事情であり、存在意義でもあり、そして、基本、カタログですから、カタログを眺める楽しみというものあって、それらが混在した本書の面白さがあるわけ。 でまたそうした面白さに加え、本書を読んでいて「なるほど!」と思うことが何点かありまして。 たとえばアメリカのヘビーデューティーなグッズがどういうものか分かった時点で、小林さんはある種の違和感を感じるわけね。 というのは、それまでだって日本にもヘビーデューティーなグッズはあったのだけど、その大半が「登山」に係わるものであったから。なんとなれば、日本のアウトドア派は、すなわち「アルピニスト」であって、ヨーロッパ流の登山のあり方、ヨーロッパ流のアウトドアの流儀を参考にしてきたから。 だからアウトドア=登山、という考え方が日本にはあったと。しかし、1970年代に入ってアメリカで流行していたのは、必ずしも「登山」ではない。 分け入っていくのが山でなくてもいい、ただ何もない原野で野宿するのでもいい。ただ文明の利器のないところで生活する体験をし、その中で自分の面倒は自分で見るという当たりまえのこと・・・しかし、文明の恩恵に慣れ過ぎてしばらく忘れていたことを再体験するということ、つまり「self-aid」を体験することで、本来の人間に戻ること・・・これが1970年代初頭のアメリカでは重要だったと。だって、アメリカ人って、もともとヨーロッパの文明を飛び出して「self-aid」でやってきたんだから。 この「self-aid」の追体験という感覚、これがアメリカらしさなのであって、「アウトドア=根性登山」という従来の日本の考え方からするとものすごく新鮮に映ったんですな。小林さんが伝えたかったのも、まさにその新鮮さだったのであって。 で、小林さん(あるいは、本書の中で小林さんと対談している『メンズクラブ』編集長の西田さん)は、1970年代のこうしたアメリカ人の変化を見ながら、アメリカ(人)っていいなと思う。 公民権運動とか、ベトナム戦争とか、アメリカについて気に喰わないところは沢山ある。だけど、その一方で、「生活」というものを突き詰めて考えるところ、そして一旦「いいもの」であることが分かれば、それを流行り廃りに影響されずに大切にし続けるところ、そういうところがアメリカ人のいいところだなと。 あと、ビジネス上の正直さね。かつて「L.L.ビーン」がある靴を作って通信販売で売ったところ、欠陥があって大量に返品されてしまった。しかし、同社はその靴に改良を加え、その改良品をちゃんと客に送ったそうです。その他、一度売った商品に対し、客から修理依頼があれば、必ずその要望に応える。そういう生真面目さがアメリカのビジネスにはある。 このアメリカのビジネスの生真面目さ、これはね、私の恩師・大橋吉之輔先生もよくおっしゃっていたのよ。例えばアメリカの本屋で本を買う。で、しばらくしたら、その本屋から「当方のミスで本来の価格より多くお金を請求してしまった。申し訳ない」と、小切手が送られてきた、なんてことがよくあったというのですな。小切手の送料の方が小切手そのものよりも高くても、ちゃんと送ってくる。そういうところでの「信用」を、ものすごく重視すると。 そういう生真面目さも含めた上での「ほんもの志向」、それがアメリカにはあると。小林さんが感心するのは、そういうところですな。ファッションが流行ではなく、「ほんもの志向」という生活信条になっていると。 耳が痛い・・・。 というわけでこの本、『ホール・アース・カタログ』以降の1970年代アメリカを語る一つの文化論になっておるなと感じた次第。「self-aid」志向というのは、当然のことながら「self-help」志向に通じるわけだし。 それにしても、「カタログ文化」というのは、確かにアメリカを語る上で一つの視点になるかもね。通信販売の国だからね。 とまあ、私としてはこの本から結構色々なことを教えられたのでした。面白いですよ。ヘビーデューティーの本 (ヤマケイ文庫) [ 小林泰彦 ]
April 29, 2018
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Cozy さんという方が書いた『海外ドラマはたった350語の単語でできている』という本を読みましたので、ちょっと心覚えをつけておきましょう。 その前に何で私がこの本を読んだかと申しますと、小学校で英語の授業が必修化された影響で、うちの大学でも「小学校英語」という科目を立てることになったんですな。で、それは本来、英語教育を専門にしている先生方がやればいいので、私のような文学畑の人間は関係ない・・・はずなんですけれど、何せこの科目は必修なので、受講生の数が半端ない。教育系の先生だけではとても面倒見切れないし、非常勤講師を雇うお金もないので、我々文学系の人間も担当してくれと、そう言われているわけ。だから、来年度から私も「小学校英語」という授業を担当しなきゃいかんわけね。 そんなこと言ったって、何やればいいのよ? 何やればいいのかすら分からない人間が、その授業を担当せざるを得ない。文科省が「小学校英語の授業科目を立てろ、ただし金は出さん」というから、こういう事態になるのでありまして、悪いのは誰か、すぐわかりますよね? まあ、しかし、やらなきゃならんものはやらなきゃならんので、私もそろそろ、その準備に入っているわけ。今回この本を読んだのも、何か「小学校英語」教授法のヒントでもないかなと思ったから。 だけど、実際読んでみると、これがね、なかなか良い本だったのよ。 まず「350語」の設定の仕方がすごく理論的。 筆者はアメリカで日常生活をする上で必要な語数を選定するに当たって、とりあえず人気テレビドラマ『SATC』の全94話に出てくる英単語を全部カウントしたと。そしたら全部で12,088種類の英単語が使われていることが分かったんですと(全セリフの単語数は294,586個だけど、同じ単語が複数回使われるので、種類としては12,088個となる)。 だけど、その12,088個の英単語のうち、5,188個は1回しか出てこなかった。また1,974個の単語は2回しか使われなかった。逆に、10回以上登場する頻出単語の数は1,896個だった。で、この1,896個の単語で、92%の会話がなされていたと。 さらに分析すると、100回以上登場する単語が335個、その335個のうち1,000回以上登場する単語が49個あった。で、これらのデータを総合すると、人気テレビドラマのセリフの約80%は、たった350個の英単語から出来上がっていると。ならば、やみくもに英単語を覚えるのではなく、まずはこの350個から覚えるべきではないか? (全94話の中で1回とか2回しか出てこない単語は、どっちにしろ珍しい or 難しい単語なんだから、もし知らなかったら、会話の中で「それ、どーゆー意味?」って相手に聞けばいい。聞き返すというのも立派なコミュニケーションなんだから、というのが Cozyさんの考えなわけ。) これが Cozy さんの第1の提案ですな。(本書20-23ページにその350語のリストあり) 説得力ある~! しかも、『SATC』以外のドラマも分析して、ほぼ同等の結果を得たというのだから、なおさら説得力あります。 さらにさらに。これらドラマで使われる英語を見ると、主観でものを言うケース、つまり「私は~だと思う」とか、そういうことのやりとりが大半であると。そりゃそうですよね、二人の人間の会話なんだから。そういう意味で、しゃべる英語を学ぶには、客観言説のニュースなどを素材にするのではなく、ドラマを素材にした方がいいだろうと。 なるほど。 で、その後、Cozy さんの話は、具体的な勉強法の話になっていくのですけれども、もちろん、英会話で必要なのは、「発話する能力」と「聞き取る能力」の両方が必要である。 じゃあ、二つの能力の内、どちらがより重要であるかというと、後者だというのですな。 つまり、「そこそこスピーキングは出来るけれども、相手の言っていることはよく聞き取れない」というケースと、「スピーキングはブロークンだけど、相手の言っていることは大体分かる」というケース、どちらが実際の場で役に立つかというと、圧倒的に後者の方だと。 超納得。 では、まず「リスニング」能力を高める勉強をすべきか、というと、そうではないと Cozy さんは言います。先に勉強するのは「発話」能力の方だと。 そうなの? 何故なら、二つを比べれば、「発話能力」を高める方が簡単だから。まず簡単な方からやりましょ、と。 なるほど。 で、じゃあ、どうやって発話能力を高めればいいかというと、第1段階としては、中学レベルのごく簡単な英語で発話をすることを練習する。その場合、1秒か2秒で言えるかどうか、というところが重要。 で、それが出来るようになったら、第2段階として、Q&A方式で、尋ねられたことに対して自分の立場から自分のこととして英語で答える練習をする。ポイントは、「自分のことを英語で話す」というところ。主観でものを言えと。 そして第3段階として、今度は「主観+事実」の組合せを複文で言えるようにしろと。例えば「He runs in the park.」という文が事実であるとすれば、それに主観を足して「I'm glad he runs in the park.」とか、「I can't believe he runs in the park!」とか、「I don't know why he runs in the park.」という風に。 で、じゃあ「主観」って何? と言いますと、「感情を示す」ことか、「認識を示す」ことか、「意見を示す」か、このどれかでしかない。 で、最初の「感情」について言えば、要するに「ポジティヴな視点」か、「ネガティヴな視点」か、「想定外」か、その3つのどれかであると。先ほどの3つの例が、それぞれの視点を表しているわけですな。 もっとも、上の例では「He runs in the park.」という事実が基になっておりますが、「はっきりしない事実」について主観を述べないといけないこともある。その場合、視点は2つあって「ポジティヴ」か「ネガティブ」のどちらか。前者であれば「I hope」を頭につければいいし、後者であれば「What if」をつければいい。 同様に、「認識」について言えば、「I know」という言葉に代表されるように、「知っているか、知らないか」がまず重要。「He goes to cooking school.」を基にするならば、「I know he goes to cooking school.」か、もしくは「I don't know if he goes to cooking school.」のどちらかであると。 最後の「意見」について言えば、一番重要なのは「I think」という表現を頭につけること。 で、こんな調子で「感情」「認識」「意見」を混ぜていけば、立派に会話って成立するよと。 なるほど。 そして、これら「発話」の勉強にもう一つ、「フレーズ暗記」を加えれば、もう完璧。それは、例えば食べ物屋さんで「For here, or to go?」みたいな言い回しが何を意味するのか、それにどう対応すればいいのかを丸暗記する。他に「Go ahead.」とか「Here you go.」とか、そういう相手を気遣う日常的なフレーズ。これはもう暗記するに限る。 ここまでが「スピーキング練習法」編ね。 で、ここから今度はより難しい「リスニング」力の養成法指南が来るのですが、Cozy さん曰く、やっぱり最良の教材はテレビドラマであると。それもサスペンスとか刑事ものではなく、シットコム系がベスト(Cozy さんおすすめのドラマが最後に列挙してある)。 で、そういう教材を選んだら、まず英語字幕をしっかり読む。音声より、まず何を言っているのか、読み取る練習をする。(もちろん、英語字幕が読めないようなら、その読解力からやらないとダメ。)なぜリスニングの勉強なのにまず字幕の読み取りから入るのかと言いますと、「何を言っているか判らない英語を、聞き取ることはできない」というシンプルな理由だそうで。そりゃ、そうだよね。 で、字幕読み取りが十分に出来るようになったら、今度は「シャドウイング」ね。これ、面倒臭いけど、Cozy さんの個人的経験から言っても、やっぱりやらないとダメだって。 で、「シャドウイング」が出来るようになったら、今度は「ディクテーション」をやる。これはシャドウイングよりさらに面倒臭いけど、やっぱりこれをやらないとダメだって。 ま、以上が Cozy さん流のリスニング上達法というわけ。(もちろん本の中ではもっと詳しく練習法が記してある。)で、先のスピーキング上達法と合わせれば、相当なところまで行くだろうと。 うーむ。全体的に相当説得力あるね。少なくとも、レベルごとに明確な指示があるし、その指示の理由もよく考えられている。私としては、これ読んで、いずれ担当しなければならない「小学校英語」の授業の参考になりました。 っていうか、これ、英語を勉強したいと思っている人全般にとって大いに参考になるんじゃないかなあ。 うちの大学にも「英語教育」の専門家ってのが何人もいるんだけれど、そしてそれらの先生方が何を研究しているのかは知らないけれど、Cozy さんほどの説得力のあることを、その人たちの口から聞いたことないなあ、などと言ってみたりして。 ということで、英語の勉強法として、この本、沢山いいこと書いてあります。教授のおすすめ! と言っておきましょう。海外ドラマはたった350の単語でできている [ Cozy ]
April 28, 2018
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金曜日が研究日の私としては、今日がGWの初日! ということで、今日は世間より一日早く、初夏の一日を休日らしく過ごすことに決めました。 で、あまり遠くに行くのも剣呑だし、といって平凡な過ごし方もつまらないというところから考え出したのが、「そうだ、東山公園に行こう」というもの。東山公園というのは、名古屋の東の方にある公園で、イケメン・ゴリラの「シャバーニ」がいる動植物園が有名なところでございます。 で、お昼頃家を出てバスに乗り、まずは星ヶ丘駅に向い、ここでランチをすることに。最初は「キュイソン」というフレンチのお店で食べるつもりだったのですが、生憎、満席だったものですから、仕方なくその近くにあった「ヒロ」という和食の店に入ったところ、「海鮮丼」(1000円)も、家内が食べたお魚の生姜焼き(800円)も結構おいしくて、まあ良かった。 で、そこから東山公園まで地下鉄一駅分をのんびり歩き、いざ動物園へ。 動物園。久々に入りましたけど、何せワタクシ、幼少のみぎりは将来動物学者になると心に決めてひたすら動物図鑑に読みふけっていたほどですから、やっぱり楽しいわけね。動物園の入口付近にいた北アメリカの野牛「バイソン」とか、めっちゃ可愛い。「うぉりゃーーー!」とか云いながら、頭なでなでしてやりたいくらい。 そして、そして。東山動物園といえば、山猫ですよ。私は動物の中でも山猫が特に好きで。今日は「カラカル」と「サーバルキャット」、「スナドリネコ」に「マヌルネコ」が居ましたけど、とくにカラカルが可愛い! 前に来た時は「ジャガランディ」が居て、めっちゃ興奮したことがありましたが、今日はいなかったなあ。 で、そこからずーっと一通り見たんですが、今日見た中で特に印象深かったのは、「クロサイ」と「日本ヒグマ」と「マレーバク」。何で印象深かったかというと、思っていた以上にデカかったから。 特にヒグマのでかいこと。山で出くわすにしても、月の輪熊くらいだったら棒を振り回したりして何とか撃退することも可能かも知れないけれど、ヒグマに出くわしたら、もうその場で人生ヲワタって感じでしょうね。 とまあ、広い園内を一周して大分疲れましたが、久々の動物園は楽しかった! で、そろそろおやつの時間かな?というわけで動物園を後にした我らが次に向かったのは「ル・プレジール・デュ・パン」というフランスパンとケーキのお店。ここでケーキを買ってイートインでコーヒーと共に食したのですけど、これがね、実に旨し! いいね、このお店。で、店内で食べながら、ここを訪れるお客さんたちを観察していたのですが、やはり高級住宅街にあるお店なせいか、客層がいいのよ。いかにも上品な、裕福そうなマダムたちが「クロワッサン」とか指名買いで買っていく。 ならばということで、ケーキとコーヒーを頂いた後、我らも倣って改めてパンとキッシュを買い、明日の昼食に供することにした次第。ル・プレジール・デュ・パンの美味しそうな品揃え さて、動物園も楽しんだし、コーヒーとケーキもおいしかったし、さてそろそろ帰ろうかと、地下鉄の駅に向かうと、あらら、「古本とコーヒー」という看板が見える。 何だろうと行ってみると、一階はカフェ、二階が「Book Gallery トムの庭」という古本屋さんでした。古本屋さんと言っても、扱っている本の大半は絵本。要するに洒落乙系のお店でございます。 で、その品ぞろえを一通り見た後、店の入口にあった書棚から格安の古本として河出市民文庫の一冊、『世界映畫スター小史』なる美本を100円でゲット。まあ、これも今日の思い出のよすがとして、ね。ブック・ギャラリー、トムの庭 で、そこを出て、すぐ近くの入口から地下鉄乗り場に向かったのですが、その地下へ向かう階段を半分ほど降りたところにまた別なカフェが。「東山珈琲館」という名前で何だか渋そう。次はここでコーヒーを飲んでもいいな。東山珈琲館 で、地下鉄で一駅乗り、星ヶ丘に着いたのですが、バスの時間まで20分くらいある。そこで近くにある三越に立寄り、地下の食料品売り場で柏餅をゲット! これは明日のおやつ用ね。 「東山」という街、地理的には我が家から近いのですが、そうは言っても途中下車してまで散策することはないので、今日は動物園がらみでこの街を散策してみて、結構楽しかった。美味しいパン&ケーキ屋さんも見つけたし、カフェも見つけたし、フランス料理の店も良さそうだったし、また別な機会に訪れてもいいな。 ということで、GW初日、東山公園とその周辺を散策して、私はいい気分転換をすることができたのでした。
April 27, 2018
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4月は何だかあれこれ提出書類があって、ペーパー・ワークばっかり。でまた、私は書類書きが大の苦手ときているので、この時期ほんと嫌。 だけど、今日は科研費の実績報告書類も出したし、大学の紀要への投稿申込みもしたし、あれも出したし、これも出したし、色々片付いて、とってもスッキリ。やった~! プラス、今日はまた別な方面の面白い話がありまして。 ある用事があって、このところ大学時代にお世話になった恩師の先生とメールのやりとりをしているのですけれど、その中で、その先生が今、ある本を出版される予定であるというお話を伺ったんですな。 だけど、普通の出版社から出すのではなく、オンデマンド出版をする予定であると。 ん? オンデマンド出版? で、よくよく伺ってみると、その形で出版すると、アマゾンのみでの販売になるのだけれど、キンドル版とオンデマンド版の2種類での販売となり、要はキンドルのコンテンツとして販売することも出来るし、もし紙媒体の本が欲しいというのであれば、注文の都度オンデマンドで印刷・製本したものが注文主のもとに届くと。 なるほどね。この方法ならば、最初から紙の本としてどこかの出版社から出版するより、初期投資が少なくて済むわけですな。 ふーむ。私もこの方法で本を出してみようかな・・・。その方がハードルは低くて済むよね・・・。 ということで、オンデマンド出版にちょっと興味が出てきた、今日のワタクシなのであります。
April 26, 2018
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先日、大学から支給される研究費が二分され、「研究費」と「教育費」に分けられたので、何を買うにもいちいち「これは研究費で買ったもの、こっちは教育費で買ったもの」と申告しなければならなくなった、という話をしましたが、うちの大学の外国人の同僚たちがこの新しいやり方に腹を立てたらしく。 それで、今日、研究室棟のトイレの入口に「あなたが使うそのトイレットペーパー、研究用ですか? それとも教育用?」という貼り紙がしてあったという。 さすが外国人。やるもんだねえ。 しかし、それにしてもまあ、文科省のやることってのは底なしにアホなことばかりでして。今日も教授会で「大学運営費交付金」の再配分の結果が発表されたんですが、それを聞いていて、呆然としましたよ。 「大学運営費交付金」って分かります? 要するに国から国立大学に支給される運営費ですな。 で、最近、この運営費交付金の一部を「競争的」に用いるという制度ができたんです。 具体的にどうするかってーと、国から国立大学に渡される運営費交付金の一部を、一旦、国に返納させ、それを各国立大学の出来・不出来に従って再配分するわけね。要するに、文科省の言いなりになって、やれと云われたことをちゃんとやっている大学には多くのお金を、そうでない大学には少ないお金を再配分するという仕組み。 で、うちの大学、2000万円くらい拠出させられ、そのうちの1900万円くらいが再配分されて戻ってきたと。つまり、5%くらい、マイナス査定だったということですな。 で、全国の国立大学のデータを見ると、うちみたいに5%くらい召し上げられちゃったところもあり、逆に東京大学みたいに10%位増えて戻ってきた大学もある。でも、平均すれば5~10%位、増えたり減ったりしたと言う感じ。 でも、その再配分をするために、文科省は全国の国立大をいちいち査定するわけですよ。それ自体、相当な手間だけど、査定に対応するために、当然、大学側としても膨大な時間と手間がかかる。 たかが100万円程度、増えるか減るかのために、全国規模でとんでもなく無駄なことをやるわけですな。 で、結果から言えば、うちみたいな弱小地方国立大学をいじめて、東京大学みたいなところを優遇するための口実に使われるだけでしょ。 これが「競争的再配分」なのか?! もう、馬鹿としか言いようがない。 文科省がどんだけアホなことを日々やっているかっていうこと、日本国民は知った方がいいよ。呆れる以外ないから。
April 25, 2018
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昨年6月に父が亡くなって、なんだかんだでもうすぐ1年。早いものですなあ。 この間、年柄年中、父のことを考えているわけではないんですが、たまにね、ふと、考えることがある。それも、重要なことじゃなくて、ほんのつまらないことでね。 例えばこんなこと。 随分以前のこと、家族で話をしていた時に、1年の内で何月が一番好きか、という話題になって、私が迷わず「僕は5月」と言ったんですな。若葉輝き薫風かおる初夏が一番好きと。 そうしたらどういう訳か、その時のことを父がいつまでも覚えていて、GWの休みに帰省したりすると、父は私に向って「若尊(私の名)は、5月が一番好きなんだよな」と言ったりする。余程印象に残ったんでしょうな。 でも、自分が何を好きかということを親が覚えていてくれるというのは、何となく嬉しいものでして。 私がたまにふと思い出すというのは、毎年5月になる度に「お前は5月が好きなんだよな」と父が私に言ってくれた、とか、そんなこと。 そういうどうでもいいことの方が、いつまでも忘れられないもんですな。 もうあと1週間もすれば、今年も5月に入るけれど、今年は「お前は5月が一番好きなんだったよな」って言ってくれる人がいないわけか・・・。
April 24, 2018
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小林泰彦さんの書かれた『ヘビーデューティーの本』という本を今、読んでいるのですけれども、その中に、『ホール・アース・カタログ』に触れた箇所がありまして。 なんで『ホール・アース・カタログ』の話が出てきたかと言いますと、アメリカは国土が広いので、通信販売に頼らないとやっていけないという事情が昔からあり、それでカタログ文化が発展したと。で、ヘビーデューティーなグッズを買うにも、人々は例えば「シアーズ・ローバック」とか「L.L.ビーン」のカタログを取り寄せて品物を注文した、という話の流れの中で、そう言えば新しい世代の人々が文明の再検討をするという課題をカタログを通じてやったこともあったよね、ってなことの例として、小林さんは『ホール・アース・カタログ』に言及したわけ。 で、それを読んで、「そーいえば、『ホール・アース・カタログ』というもののことをどこかで聞いたよな・・・」と思い、改めて調べてみたと。 この本・・・というかカタログは、1968年の秋に第1号が出ておりまして、刊行したのはスチュアート・ブランドという人物。バックミンスター・フラーが打ち出した「宇宙船地球号」の概念に影響を受けたスチュアート・ブランドが、地球と人間が共存しながら暮らしていくためのグッズをカタログにしたもので、これが当時のアメリカで爆発的に増え始めていたヒッピーの間で聖典として普及したと。その意味では、このカタログ、ジャック・ケルアックの『路上』なんかよりも影響力の大きな「ビート・ジェネレーション文学」だったかもね。 っていうか、そもそもスチュアート・ブランドは、ケン・キージー率いる「メリー・プランクスターズ」のメンバーだったのでした。そういう意味でも、はっきりアメリカ文学史上の人物、と言っていい人なのかも。これこれ! ↓ホール・アース・カタログ創刊号 ところで、このカタログのもう一つの見どころは、その表紙に地球の写真が載っていたこと。これはブランドがNASAに働きかけて、ようやく公表させた「宇宙から見た地球」の写真を使ったのですが、これが衝撃的だった。 だってさ、それまで人類は、地球の姿を見たことがなかったんだから。 地球の姿を見るには、一旦、宇宙に出なきゃいかんわけでしょ。で、人類が宇宙に出られるようになったのは、ようやく1960年代のこと。だから1960年代以前の人間と、1960年代以降の人間とでは、「地球観」が全然異なるわけですよ。この事実、これって結構、目からウロコじゃない? だって、地球って、宇宙から見てみたら、圧倒的に美しかったんだもん。この広い広い宇宙に、こんな美しい星、他にない。地球だけが何でこんなに美しいんだ?って、地球の姿を見ちゃった人は、誰でもそう思うわけですよ。そしてその美しさの中に、神の啓示を見ちゃった人も沢山居たに違いない。実際、アポロ宇宙船の乗組員の何人かは、後に聖職者になっちゃったりしたわけだし。 で、こういう美しい地球の写真が出回ったことが一つのきっかけとなって、1960年代後半から1970年代にかけて、地球を知的生命体と仮定する「ガイア仮説」ってものが生まれるんじゃね? 先ほど挙げたバックミンスター・フラーの『宇宙船地球号』もそうだけど、この時期以後、ジェームズ・ラヴロックの諸著作をはじめ、地球を考察するという系統の本がやたらに刊行され出すのも、元を正せば地球の写真を見ちまったからじゃね? ちなみに、自己啓発思想の中では、もともと「宇宙には意志がある」という仮説があるわけ。その意志ある宇宙が地球を生み出し、そこに人を住まわせた。広い宇宙の中で、ここにだけ「意識」をもった存在があるということは、こりゃどう考えても宇宙のたくらみでしょと。だから、その意識を使えば、人は宇宙に働きかけることができるし、宇宙は人の意識に反応するのだと。 だから、そういう自己啓発思想が1960年代後半以降、ガイア仮説と融合していくんじゃないか? そしてガイア仮説と融合した結果、人間の生き方全体を、地球という視点から見直そう的なムーブメントが出てきたんじゃないか? ・・・とまあ、『ホール・アース・カタログ』から一足飛びにそんなところまで私の思いは飛んだわけですけれども、どうこれ? 面白くない? ま、それはともかくですけれども、「1960年代以前の人間は地球を見たことがない」という事実、これはやっぱり、改めて認識しておくべきことなんじゃないかと。今、我々が当然のように思い浮べる地球の姿って、一昔前の人間は知らなかったわけだからね。 小林泰彦さんの本を契機として、そんなことをつらつらと考えていた今日のワタクシだったのであります。
April 23, 2018
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このところ、ワタクシ的に追悼するに足る人物が立て続けに亡くなられたので、この際、一気に追悼してしまいましょう。 まずはプロレスラーのブルーノ・サンマルチノ。享年82。 少年時代、大のプロレス・ファンだった私は、当然、彼の大ファン。名前からしてイタリア系ですけれども、アメリカに移住してからは確か合衆国北部かカナダかどちらかで建設業に従事し、そこで大木の丸太を一人で抱え上げるなどの怪力ぶりを発揮、レスラーに転向してからは、相手をまるで丸太のように自分の肩に抱え上げる「カナディアン・バックブレーカー」なる大技を武器に快進撃。当時の有力プロレス団体だった「WWWF」の王座に長く就いたのでした。 昔の名レスラーは、例えばルー・テーズの「バック・ドロップ」とか、ドリー・ファンク・ジュニアの「スピニング・トー・ホールド」であるとか、ビル・ロビンソンの「スープレックス」であるとか、ザ・デストロイヤーの「足四の字固め」とか、ミル・マスカラスの「フライング・クロス・チョップ」とか、はたまたフリッツ・フォン・エリックの「アイアン・クロウ」とか、フレッド・ブラッシーの「噛み付き」であるとか、それぞれ特異な得意技があって面白かったものですが、あの巨漢レスラー、ヘイスタック・カルホーンを肩の高さまで持ち上げたというサンマルチノの「怪力」も、古き良き時代のプロレスの一つの伝説でありました。 私のかつてのヒーローの一人、ブルーノ・サンマルチノのご冥福をお祈りいたします。 お次はママ・ブッシュことバーバラ・ブッシュさん。享年92。 私は私自身の知る範囲のアメリカのファースト・レディーの中で、この人が一番好き。飾らない人柄でね。だけど、頼りになる人。パパ・ブッシュが来日して、晩餐会で粗相をした時、少しも動じないでその場を救ったあの場面一つとっても、この人の強さを知るに十分でした。数々の舌禍を生み出した人でもありますが、それはコインの裏面で、それも本当のところは無邪気さの故だったと私は思っております。御冥福をお祈りいたします。 最後は映画監督のミロシュ・フォアマン。享年86。天才を前にした凡人の嫉妬・苦悩を見事に描いた彼の『アマデウス』は素晴らしかった。最後のシーン、サリエリが車椅子を押されながら、世界中の凡人に向けて「許す、許す、許す」と言ったあの場面。同じ凡人の一人として、忘れられません。あの頃までは、アメリカ映画って凄かったなあ。アメリカ映画界の最後の巨匠の一人と言っていいフォアマン監督のご冥福をお祈りいたします。
April 22, 2018
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先日、八光流の道場に稽古に行ったら、仲間のHさんがヘルメットを持っておりまして。 で、「あれ? Hさん、今日はバイク?」と尋ねると、しかりとのお返事。 すると、それを聞いていたSさんが「いいですね! 実は僕も中型免許をとろうかと思っていて」と。 Sさんには憧れのバイクというのがあって、それはヤマハTW200。そう、『ビューティフルライフ』でキムタクが乗っていて一世を風靡したあのバイク。世代だねえ・・・。 で、そんなところから道着に着替えながら道場内ではひとしきりバイクの話題が。 で、そうこうしているうちに今度はOさんが「実は私もかつてはオートバイ乗りで・・・」と。 なんでもOさん、京都に居た大学時代、空手部に所属していて(Oさんはあの空手家・佐竹雅昭さんの空手部の先輩にあたる)、当時空手部では大半の部員がバイクに乗っていたので、Oさんも中型免許を取得、バイクで北海道一周なども楽しんだのだとか。もっとも結婚してからバイクは危険だということで奥様からダメ出しをされ、今は乗っておられないとのこと。「でも、バイクはいいですよ~」と言うOさんの言葉にはしみじみとした実感が。 Oさんの言葉に加え、Hさんの「オープンカーと比べても、やっぱりバイクの解放感は圧倒的」という言葉も響きます。 うーん、ワタクシも一時期、本気で免許取ろうかなと思った時期もあったのですが、事故った場合のことを考えて断念したのでした。でも、やっぱり取っておけばよかったかな? というわけで、道場内で意外なほどバイク熱が高いということが判明した次第。 それにしても、道場仲間って、色々な人が居て話を聞くだけでも面白いな。バイクの免許はともかく、道場には入っておいて大成功でした!
April 21, 2018
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大学ってのは、教育行政がバカなために年を追う毎に何か状況が悪くなっていくものなんですが、今年度も開始早々、アホなことが一つ導入されました。 大学の先生が大学から支給される「研究費」というものがあって、これを使って我々は研究のための様々なもの、それは書籍から実験道具から文房具から様々あるわけですけれども、それを買うわけですな。 ところが、文科省のお達しなのか判りませんが、今年度から「研究費」ではなく、「研究費」と「教育費」に費目が細分化されたんですわ。で、何を買うにしても、それを「研究のため」に買ったのか、それとも「教育のため」に買ったのか、申告しなければならないと。 お前ら、アーホーかー!! じゃあ何かい? これからはホッチキスの針一箱買うのでも、「えーと、これは研究のために使うんだったかな? それとも教育のために使うんだったかな?」って考えなきゃならんのかい?! 紙を買うにも、「この紙は教育用に買ったから、研究用には使えんな」とでも思えと? これからは「研究用」で買ったパソコンで、授業の準備はしちゃいけないってのかい? もうね、バカ丸出し。 いいですか、いいですか、あのね、そもそも「研究」と「教育」が分けられると思う、その思考法自体が既に教養のない木端役人のそれなのよ。「大学の研究者とか、放っておいたら何に金を使うか判らんから、きちんと費目を出させよう」というわけでしょう? 考えてご覧なさいな。研究者が研究して、そこで分かったことを後進に伝える、それが真の教育でしょうが。だから研究費はそのまま教育費なんだよ、ボケ!! 教育行政って、一体何のためにあるのか。ワタクシには研究者の足を引っ張ることしかやってないと思えて仕方がないのですが。
April 20, 2018
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今日は、驚愕の体験をしましたよ。 英語科の1年生向けの専門の授業がありまして、英語科の学生だから、少しは骨のある文学作品を読んでもいいだろうなと思い、アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイの短編を読むことにしたんです。 で、今日は、しょっぱな、「インディアン・キャンプ」という有名な作品を輪読し始めたのですが、これ、そのタイトルの通り、インディアンの村でのある出来事を描写した傑作なんですな。(以下、ネイティブ・アメリカンというような言い方をしないで、作品通り、インディアンという名称を使うことをお許しください。) で、ある学生にこの作品のある部分を訳させていたのですが、その学生が「そのインド人は・・・」というような訳し方をするわけ。 で、私が「インド人じゃなくて、インディアンでしょ?」と糺したのですが、じきに別な個所でその言葉が出てくると、また「インド人が・・・」って訳すんですな。 で、「いや、いや。だーかーらー。インド人じゃなくてインディアンでしょ?」と糺すと、その学生曰く、「ええ、ですからインド人が・・・」と言う。 え? ええ? ええええーーーーーー!!! ひょっとして、「(アメリカ)インディアン」を知らないとか? で、試みに、「じゃあ、あなたはこのインディアンというのが、インド人だと思っているわけね?」と尋ねると、「ええ」と。それ以外、どんな答えがあるのか、と言わんばかりに。 そこで、「ということは、アメリカ大陸に白人が移住してくる前、どんな人たちが住んでいたか、知らないの?」と尋ねると、「知りません」だって。 は、はーん! そうなんだ。本当に、ジョークではなく本当に、この学生はアメリカ・インディアンを知らなかったんだ・・・。 これって、どういうこと? 英文科の学生が、アメリカの歴史の「基本のき」も知らないっつーことか? さすがに、そこまで無知な学生は、他にはいなかった(と思いたい)ですが、それでも国立四大にこういう学生が一人いるということは、ゴキブリ理論からすると、若い日本人の大半はそうなのかもね。 日本が目指す「国際化社会」って、こういうことなんだっけ・・・? とにかく、もうインディアンを知らない人、アメリカについての知識ゼロの人が英文科に居るということにあまりにも驚いてしまい、心臓がバクバクしてしまった今日のワタクシなのであります。
April 19, 2018
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なんか、最近、うちの大学の生協がたるんでるような気が・・・ 先日、アニキことK教授が、「生協に頼んでおいた教科書だけど、生協が注文するのを忘れてさあ、授業の初回、学生が一人も教科書を持ってなかったので、往生したよ」と言っていて、はあ、そんなことあるのか~と思っていたのですが、なんと、私にも同じようなことが。 私が使う教科書も、もうずっと前に注文してあって、事前に「人数分、確保できました」という連絡を受けていたのに、実際に授業の時になってみたら、15人分くらい足りないでやんの。一人分、二人分の話じゃないんだから。 ウソだろ・・・。何やってんだよ。 で、いつもですと、釈迦楽先生、こういう場合、とっても怖いわけですよ。「ごらぁ! わしの授業、なにぶち壊しとんねん! 責任者出て来いや! この落とし前、どうつけてくれるんじゃ、おら!」みたいな感じで、担当者を震え上がらせちゃったりするんですけど(ホントか?)、今回は違いました。 だって、ほら、先日、「ACIM」系の自己啓発本読んだって言ったじゃない? で、せっかく読んだのだから、読んで学んだことを応用しなきゃって、そう思ったの。 怒りを、手放そう・・・。この世には悪もなければ、悪人もいない。みーんな、神の子。 で、怒りを手放したワタクシ、かすかな微笑を携えながら生協に出向き、「あのぅ、すみません、ちょっと手違いがあったみたいで・・・、いえ、そんな! そちらの手抜かりだなんてちっとも・・・、私の指示が明確じゃなかったのに決まってます! ええ、ええ。もう、そうしていただけるとありがたいかなって・・・ええ、ええ! ありがとうございます~」みたいな感じで、きわめて和やかな雰囲気の中で善後策が練られたのでありました。 ステキ! 怒りを手放すって、なんてステキなの! キラキラリーーン! で、家に帰って家内にその話をしたら、開口一番「気持悪っ!」だって。「宇宙人に、身体を乗っ取られたんじゃないでしょうね?!」だって。 ・・・えらく評判が悪い。 そうか、ワタクシらしくないことしちゃ、いかんわけね・・・。 あちらを立てれば、こちらが立たず。怒りを手放すのって、色んな意味で難しいもんだな・・・。
April 18, 2018
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一昨日の話になっちゃいますが、ボクシングの世界タイトル戦2連発、御覧になりました? まずフライ級の比嘉大吾。なんと前日の計量でまさかの体重オーバー、肝心の試合前に世界タイトルを返上することになるという無様な仕儀。先日「山中慎介 vs ルイス・ ネリ」線で、ネリ選手がまさかの体重オーバーで世界戦をぶち壊し、世界中のボクシング・ファンの怒りを買った、その記憶もまだ新しいというのに、今度は日本人選手が同じ愚を犯すとは・・・。 ネリが体重オーバーをやらかした時、比嘉の師匠・具志堅さんが血相を変えて「こういうことは絶対やっちゃいかん!」と、我々ファンの怒りを代弁していたのに、その具志堅さんに恥をかかせるとは一体どういうつもりなのか。プロのボクサー、ましてやチャンピオンともあろう者がこの体たらく。まったく言い訳できない。 でまた、試合ぶりもひどくて、それほどのハードパンチャーともテクニシャンとも思えない相手選手にいいように手数で圧倒されていた。ボクシングってのは、相手に殴らせないで自分が相手を殴るのが技術だってのに、あんなに簡単に相手にパンチを当てられるのでは、所詮、長くチャンピオンを維持できるタマじゃないなと。 比嘉選手には猛省を促しておきましょう。ゼロから出直しだね。 一方、ミドル級の村田諒太選手は、エマヌエーレ・ブランダムラ選手相手に見事な初防衛成功。こちらはボクシング・ファンの溜飲を下げてくれました。 村田選手、プロ転向したばかりの頃はさほどとも思いませんでしたが、このところ、彼の右ストレートの破壊力はなかなかのものになりましたなあ。音が違うもんね。相手のガードの上から叩いていてすら、結構なダメージを与えている感じがする。まともに当ったら、そこで終わるよね。 だけど、やっぱりまだ試合が単調というか。のっしのっしと相手をロープやコーナーに真直ぐ追いつめて行って右をバスン! でまた、足を使って逃げた相手をのっしのっし追いつめて行ってバスン! この繰り返し。 ブランダムラ選手よりも強い相手、手数があって動き回る相手とやった場合、この「のっしのっしバスン!」ボクシングで通用するかな? そこがね、ちょっと心配。もうちょっと足を使った、出入りの大きいボクシングしないと、いかんのじゃないの? 村田選手より重いヘビー級のモハメド・アリだって、全盛期には蝶のように舞っていたというのに。 まあ、しかし、初防衛KO勝ちはお見事でした。
April 17, 2018
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マリアン・ウィリアムソンの書いた『愛への帰還』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本は、「ACIM(奇跡の学習コース)」系です。前に読んだジェラルド・ジャンポルスキーやニール・ドナルド・ウォルシュの本と同系統。 じゃあ「奇跡の学習コース」ってのは何かと申しますと、昔々(そんなに昔でもないけど)プリンストン大学医学部にヘレン・シャックマンとビル・テットフォードっちゅう2人の教授がおりまして、この2人が怒号飛び交う教授会に疲れ果てた帰り道、「なんか他に方法があるんちゃうかな」と話し合ったらしいんですな。で、そんなことを考えているうちに、突然ヘレンのもとに(多分イエス様から?)テレパシー的にメッセージが届き始めたので、彼女はそれを筆記し始めた。で、7年間もかかって全部書きとったら、それが『テキスト』『生徒のためのワークブック』『先生のためのマニュアル』という3冊の本となったものだから、せっかくだからと1976年に出版してみたら、たちまち140万部が売れ、20カ国語に翻訳されたと。 すごいね。イエス様が20世紀後半にベストセラーを書いたわけだよ。プリンストン大学の医学部教授をお筆先にして。 だから「ACIM」について学ぼうというのであれば、直接『奇跡の学習コース』3部作を読めばいいようなもんなんですが、いきなり本丸に乗り込む前に外堀を埋めるのがワタクシ流。ということで、「ACIM」にインスピレーションを受け、そのメッセージを人々に伝える講演者となったジャンポルスキーだとか、ウォルシュとか、ウィリアムソンの本をまず読んで、「ACIM」の何たるかをおおよそ探っておこうと、まあ、そういうわけね。 で、この『愛への帰還』ですが、前に読んだジャンポルスキーやウォルシュの本と比べて、(良い意味で)オリジナリティが低いと言いましょうか、逆に言えば『奇跡の学習コース』3部作に忠実でありまして、『テキスト』や『ワークブック』からの引用が沢山ある。そういう意味で、「ACIM」ってのはどんな感じかなあ?ということを知るには、いい本だと思います。 ま、退屈は退屈よ。道徳の教科書みたいだからね。だから基本、退屈なんだけど、確かにいいこと書いてあるな、と思うことも多い。それに、結構アグレッシブなことも書いてあるからね。結構、グイグイ攻めてくる。 で、どこが攻めてるかっつーと、「ACIM」の人間存在、及び宇宙の在り方に対する定義がすごい。 つまり、この宇宙に実在しているのは、「愛」だけだと。それ以外のものは、存在すらしていないと。まずこの定義を受け入れないと、この学習コースで学ぶ意味ってあんまりない。 例えば、人は人間関係の中で裏切られたり、傷つけられたりするじゃん? で、そういう我々に対してなされた「悪」に対して我々は怒ったり、恨んだり、憎んだりするもんじゃないですか。だけど、「ACIM」の考え方からすると、そんな必要はないと。だって、そういう「悪」は実在しないんだから。実在しないものに怒ったり、恨んだり、憎んだりしても意味がない。 それどころか、そもそも悪事を行う人間そのものが幻だと。だって、我々はすべて「神の子」だから、悪人なんかいるはずない。一人一人の心の真ん中に神がいて、それがその人の本質だし、またその意味で我々は全員つながっているわけね。だから、「私に対して悪事をなしたように見える幻」に怒ったって意味がない。たまたまそういう経験をしたとしても、そんなの幻なんだから、忘れちゃえばいい。それがジャンポルスキーもよくいう「怒りを手放す」ってことね。 攻めてくるでしょう? だからね、例えば恋人との仲がこんがらがって別れたとする。で、別れた恋人に新しい恋人ができたりなんかすると、嫉妬に苛まれたりもする。で、自分は愛する人に捨てられて、もう絶望だ、ってな思いを抱いたりする。 だけど、「ACIM」によると、これも間違いね。 つまり、一度築かれた人間関係は、決して無くなったりしないというのですな。たまたま、いわゆる「恋人同士」ではなくなったかも知れないけれど、また別の、新たな、「元恋人関係」に変化しただけで、その価値が少しでも減じたわけではない。ただ、形が変わっただけのこと。だから、もし相手に別な好きな人ができたのなら、良かったねっていって、その人のことを寿ぎながら手放してやればいい。 で、万事こういう調子でやっていくと、悩みなんか無くなっちゃうわけよ、理論的に。 だけど、実際にはそうじゃない。実際には、我々人間は、苦しみの種が尽きない。 じゃあ、悩むことなんか何一つないのに、なぜ人間はこんなに苦しんでいるのかと言いますと、そこに「エゴ」というものが介入してくるからだ、とマリアン・ウィリアムソンは言います。 ウィリアムソンによると、この「エゴ」というのが、人間の苦しみの素なんですな。でまたやっかいなことに、「エゴ」というのは、実に巧みな戦略をもって人間を陥れるのだと。 例えば、エゴは人間に耳もとでささやいて、愛を「交換条件」に変えてしまうと。自分は相手のことをこんなに愛しているのだから、相手も同等の愛を返してくれて当然だ、という風に。こうなると、たちまち愛は束縛の仕合いになってしまって、自分も相手も苦しくなってくる。そうやって、本来美しいものであったはずの愛を、憎しみの素に変えてしまうんですな。で、こういう状況は恋人同士の愛だけでなく、親子の愛も同じ。親は子供に対して「大人しくしていたらおやつをあげる」「いい成績をとったら、プレゼントをあげる」「いい大学に入ったら、誇りにしてあげる」ってな具合で、愛を交換条件にしてしまう。となれば、こういう風に育てられた子供が、「すべて愛には条件があるんだ」と思って育ったとしても咎められないでしょう。 だから、エゴのささやきに耳を傾けてはダメ。この世にあるものはすべて愛であり、愛しかないと思わないと。 例えば母親のことを「鬱陶しいなあ」と思ったとする。どうも気が合わないと。 だけど、そんな時、「神は私の母のことを、やっぱり『鬱陶しいなあ』と思うかしら?」と考えてみる。 もちろん、そんなはずはないわけですよ。神は無限の愛でもって母を愛しているに違いない。だったら、自分が神に同意できないというのは、おかしいんじゃないか? 母親の欠点を数え上げている自分の方がおかしいのではないか? 実際、著者のマリアン・ウィリアムソンは、そう考えることで、自分の母親に対して優しくなれたのだそうです。すると、不思議なことに、母親の方もウィリアムソンに対して優しくなった。 これが「奇跡」ね。愛は奇跡を起こすのよ。 過去において、人間関係のトラブルがあったとして、それを今なお持ち続けたら、それによって未来においてもトラブルは続くわけ。つまり過去に未来を作らせてしまっているわけね。だけど、過去は過去であって現在ではない、私に対してひどいことをした過去のあの人と、現時点でのあの人はまったくの別人だという風に考えて、トラブルを手放してしまえば、まったく異なる未来がやってくる。これこそが、「過去を手放し、現在を生きる」ということなわけ。「現在を生きる」ことの重要性を唱える点で、「ACIM」はマインドフルネスの考え方にも接近します。 なるほどね。 あと、「エゴ」は、人間関係の破綻を、常に相手のせいだと思い込ませる、という戦略も持っていると、ウィリアムソンはいいます。だけど、人間関係が破綻した時、そのうちの何割かは自分の責任だと引き受けることによって初めて人間は成長できる。人間関係において、重要なのは常に「その関係によって成長できるか」なのだから、たとえ関係が破綻したって、そこから自分の非を悟って成長すれば、それは大成功の関係だったということになるわけですよ。 なるほどね。それは難しいけどね。難しいけど、そうだよね。 あと、「ACIM」が才能について言っていることも面白いよ。 我々人間は、とかく才能を比較しがちであるわけですよ。で、あいつは才能があるからすごい仕事を成し遂げたけど、自分にはそんな才能がない、ダメな奴なんだ、そんな自分が人より幸福になれるわけがない・・・とか。そう思いがちでしょ? だけど神の目から見たらそうじゃない。神は、我々一人一人に役割を与えているわけ。すべての人に存在意義がある。神の計画の一部なんだから。で、神はそういう我々を使ってこの世をよりよき場所にしようとしているのだから、そのことに満足すればいいんですな。人と比べる必要もない。 だから、大切なことは、自分で決めることではないと。そうじゃなくて、神さまに尋ねてみる。神さまは私を使って、何をなさりたいのですか? と。そうすると、何をすればいいか直観で分かるから、それをすればいい。 例えば、ある俳優の卵が、○○というテレビドラマの端役でもいいから欲しいと思っているとする。ウィリアムソンは「引き寄せの法則」を肯定するので、その俳優の卵が日々、「あのテレビドラマの役が欲しい」と願えば、それは実現すると言います。しかし、それはよくない。何故なら、神の計画では、もっと別な一流映画の重要な役に、その俳優の卵を使おうという腹だったかもしれないから。 だから、「引き寄せの法則」を使うのではなく、神を信頼することの方が重要である、とウィリアムソンはいうわけ。祈るなら、「○○が欲しい」ではなく、「神の意志が実現しますように(=私がなり得る最高のものになることができますように)」と祈りなさいと。 ははーん。なるほど。そう来るわけね、「ACIM」は。 とまあ、「ACIM」系の自己啓発本ってのは、結局、過去のすべての自己啓発思想を肯定し、受け容れながら、それをさらに現実的なシチュエーションに無理なく応用できるように改良を加えているって感じがする。しかし、そうでありながら、その基本概念は、「すべては神の計画なんだから、神に任せておけばいいんだ」という、結構、ぶっ飛んだ感じのものであると。そういう意味では、現実的なんだか非現実的なんだか、よくわからんね。 だけど、ワタクシとしては、結構、いいと思うんだよね、ACIM系。 結局、現実問題として、幸せになれりゃーいいんでしょ? それならば、「すべては神の計画だ」という嘘みたいな話を鵜呑みにして、現実を観る観点を変えてしまって、結果、幸せになれるんなら、それでいいじゃん、って思うわけよ。 別れた恋人、喧嘩した友だち、うまく行っていなかった親子関係、そういう辛い過去は、もう存在していないし、もともと悪なんてものは存在していないのだから、全部手放しちまいましょう。友達が自分より偉く見えるって? そんなの知ったこっちゃない。私には神が私だけに与えた役割があるのだから、それを果たすまで。神の目から見れば、総理大臣の仕事と掃除のおばちゃんの仕事の間に差なんかなく、ただ「親切心をもって、一生懸命やっているか」だけが重要なんだから。癌にかかって早死にしそうだって? それも神の計画の内じゃないの、悲しむ必要なんかなーい、ない。それにあの世はいとも美しいところらしいよ! 早くそこに行けるならむしろラッキーってなもんだ。 ・・・とまあ、そんな風に考えて苦しみが無くなるのなら、それでいいじゃないですか。大切なのはただ一つ、愛だよ、愛。 というわけで、「ACIM」ってのは、「引き寄せ系自己啓発思想」が、その始まりから100年後に辿り着いた、一種の着地点であるような気がするのね。 だからワタクシも、「ACIM」で幸せになっちゃおうかなと。今、ここで自分自身が神の愛をこの世に実現するために生まれてきた奇跡の存在だと、自覚しちゃおうかなと。 あ、なんだかそんな気がしてきた! 前からそうじゃないかと、うすうす気づいてはいたんだが・・・。◆◆愛への帰還 光への道「奇跡の学習コース」 / マリアン・ウィリアムソン/著 大内博/訳 / 太陽出版
April 16, 2018
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某新聞社から書評を頼まれていたコルソン・ホワイトヘッドの『地下鉄道』の書評、昨日・今日と二日がかりでようやく仕上げました。 今回、何が難しかったかといいますと、分量が最大限660字しかないということ。660字なんて、ざっとあらすじを紹介することもできないほどのものですからね。しかも、この小説がアメリカの人種問題を主題にしていること、数々の賞を受賞した話題作であること、リアリズムで書かれた小説でありながら、ファンタスティックな空想・奇想も重要な役割を果していることなどにも触れなければならないとなると、なかなかに骨です。 でも、私とてこういうのは百戦錬磨ですから、ちゃちゃっと書くだけは書いてみた。657字とか、そういう芸術的な分量で。まあ、こんなもんだろうと。 で、このまま送っちゃおうかなとも思ったのですが、何だか少し気になって、送る前に家内に一読してもらったわけ。 すると、いつもなら読み終わった途端、「面白かったよ~」とか言ってくれる家内なのに、今日は何も言ってこない。 で、不安になってこちらから「どう? こんなもんだろ?」と声を掛けたところ、家内曰く「これはあなたが書いたもののようではない」と。つまり、こんなのだったら誰でも書ける、私じゃなきゃ書けないことが書いてないと。 あー。やっぱりね。 それは自分でもちょっと思ったのよ。だから何となく気になって、すぐに送る気にならなかったんですな。家内にハッキリ、ダメ出ししてもらって良かったわ。 ということで、断固、書き直しましたよ。ということはつまり、この作品について私が不満に思っていることを明記してやった。で、書き直したものをもう一度家内に見てもらったところ、「今度はいい」と。 やはり自分自身の true color を出さないとダメね。もちろん、それを出せば、今度は私が批判される立場に立つわけですけれども、それを怖れて無難なこと、他の誰でもやれることをやったところでつまらない。私は私にしかできないことをやろう。忖度は止めよう。私は私の道を行く。それが私のモットーではないか。 ということで、今日は家内の内助の功に助けられたのでありました、とさ。
April 15, 2018
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たまたま今日のお昼間、WOWOWで『イップ・マン 序章』をやっていたんですけれど、観始めたら案外面白くて最後まで観てしまったという。まあ、格闘技好きだからね。 ブルース・リーに詠春拳を教えたことでも知られる実在の人物イップ・マン(葉問)をモデルに、1930年代、日本軍の進駐による混乱の中、財産をすべて失いながらも武術を使って困難な時代を生き延びたある武道家の数奇な運命を描いた本作は、主役を演じたドニー・イェンの功夫技術の高さも手伝って、そっち系の映画が好きな人にはなかなか楽しめるものとなっております。 でまた、主演のドニー・イェンが、サッカー日本代表の長谷部誠さん、あの『心を整える』の長谷部さん似だっていうところがまた、日本人には妙に親しめるという。イップ・マンが窮地に追い込まれる度に、「今だ! 今こそ心を整えるんだっ!」と応援したくなるんですわ。 それにしても、扱われるのが「詠春拳」の使い手の物語ということで、従来のカンフー映画と違って、アクションが渋い。詠春拳は、飛んだり跳ねたりがない武術ですからね。足を高く上げた回し蹴りとか飛び蹴りとか、そういうのがまったくない。強いて言うと、ここぞという時のマシンガン的な連続パンチが唯一派手な見せ場ですが、それにしてもやっぱり地味。 でもその地味さが、いいのよ。落着いた感じで。 私が習っている八光流も、合気道なんかと比べると地味だからねえ・・・。その地味な動きで、相手に強烈な痛みを与えるところがいいのであって。 ってなわけで、まあ、カンフー映画好きの方にですけど、『イップ・マン 序章』、教授のおすすめ! と言っておきましょうかね。新品北米版Blu-ray!<Ip Man Trilogy(4枚組)> 『イップ・マン 序章』『イップ・マン 葉問』『IP Man 3』+ボーナス・ディスク!
April 14, 2018
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名古屋市美術館で現在開催中の真島直子「地ごく楽」展を見に行ってきました。 が、その前に腹ごしらえ。今日は名東区にある「オーニヨン」という、あんかけスパのお店でランチすることに。このお店、お洒落過ぎず、しかし実質旨いというありそうでないお店で、あんかけスパが有名ですが、その他の料理も旨いのよ。ピカタとかね。洋食全般旨い。 というわけで、久々にこのお店で舌鼓を打った我ら、そのまま名古屋市美術館へ。 なんか、久々だわこの美術館来るの。 で、真島直子さんの作品ですけど、うーーん。微妙? たまたまタダ券もらったもので来てみたけれども、積極的には推さないかも。もちろん、こういうのが好き、という人もいるのでしょうけれど。これこれ! ↓真島直子 地ごく楽展 ちなみに真島直子氏の父上は、洋画家の眞島建三氏で、名古屋市美術館にもその作品が収蔵されており、今も常設展で見ることができるのですが、私的には建三さんの作品の方が好きかな。 さて、そうは言っても久々に街中に出て、美術展も見ちゃったので、なんだかそのまま帰るのももったいないような気がして、美術館を後にした我らは栄の方にテクテクお散歩。 矢場町から栄まで歩くと、その間に結構、面白いお店があるのね。かわいらしいカフェとか、雑貨の店とか。「SEANT」なんて雑貨の店は面白かったし、あと栄の「フライング・タイガー」とかね。 そして、パルコの近くにある「ミュージック・ファースト」という中古CDやレコードを扱うお店に入ってしばし物色。バーゲン品のLPレコードが超安かったけど、今一つ食指が伸びるものがなく、ジャズのCDなど2点を購入するにとどめたという。 とまあ、そんな感じで今日は美術展がらみの街中散歩でしたけど、結構面白かった。たまにはこういうのもいいよね。 あ、そうそう、「SEANT」で見て気に入った野田琺瑯のケトル、家に帰ってからネットで買っちゃった! 【野田琺瑯】アムケトル2.0L 黒/ブラック/AM-20KBK IH電磁調理器対応
April 13, 2018
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なんか、囚人は脱走するわ、19歳の警察官は先輩射殺しちゃうわ、世の中たるんでおるねえ。大丈夫かい? なんて思いながら、そうは言っても他所事と、あまり気にもしていなかったんですけど、実はあんまり他人事じゃなかったという。 いや、警官射殺の方の話なんですけど、あれ、滋賀県の話だと思っていたら、その中の彦根の話だっていうじゃない? しかも、彦根の話かと思っていたら、南川瀬町の駅前の交番の話だっていうじゃない? 南川瀬町の駅前って言ったら、あーた、私の姉が住んでいるところだっていうじゃない? おいっ! 我が姉の家の間近の話じゃないか! そのことに、さっき気が付いたという・・・。 明日、姉に電話して、事件の話聞かなくちゃ! 逃げ回っている囚人君の方も、あまり他人に迷惑をかけないうちに出てきてもらいたいものでございます。
April 13, 2018
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今年、私のところのゼミ生でSFを卒論のテーマにしたいという男がおりまして。 で、まあ、私もそんなに詳しいジャンルではないので、そうだなあ、とりあえず『ユリイカ』のバックナンバーでも見てみな、多分、「アメリカのSF」みたいな特集とかあるよ、と指示したのですけれども、そしたらその学生から「ユリイカってなんですか?」って言われちゃった。 そうか・・・。もう今時の学生は『ユリイカ』も知らないのか・・・。 私が学生の頃は、『ユリイカ』とか『現代思想』とか、青土社の雑誌って、買わないまでもチェックだけはしておけ、的なアレがありましたけどねえ・・・。勢いのいい若い学者さんが青土社から本を出した、なんていうことを聞きつけると、自分もいつかは・・・なんて思ったものですが。特に『ユリイカ』は、その時々で話題のトピックが取り上げられますから、執筆者の顔ぶれを見ておくだけでも勉強になったもんですけどね。 で、たまたま今日、図書館の書庫に行く用事があったので、ざっと『ユリイカ』のバックナンバーを眺めてきたのですが、「P・K・ディック」特集の号が年代をおいて2冊くらいありましたから、今度のゼミで奴にあったら、その辺りからチェックすれば? とでも指導しておこうかな。その一方、「アイザック・アシモフ」の特集号が見当たらなかったけど、『ユリイカ』はアシモフに冷たいのかしら? あってもおかしくないのにね。 さてさて、このところ自分の仕事だけに熱中していればいい状況が続いていたのですけれども、やはり浮き世というのは真空を嫌うのか、降ってわいたように仕事の依頼が。 頼まれ仕事はもうしない、をモットーにしているワタクシですが、今度依頼された仕事っつーのが、アメリカのペーパーバック関連の原稿で、弩専門なんですよね・・・。これを断ったら男が廃るか?っていう感じの。 だけど、うーん、大きなテーマはいいとして、具体的に何を書くべきか、パッと思い浮ばないという・・・。困ったな。 2年ほど前に、フォークナーとペーパーバック版の関係について書かせていただいたことがあって、アレは割と面白い仕事だったので、その延長で、誰かアメリカ文学を代表するような作家をターゲットに、その人のペーパーバック版について云々すればいいんじゃね?とも思うのですけれども、「じゃあ今度はヘミングウェイで」ってなわけには行かないんだよなあ・・・。「ペーパーバック映え」する作家じゃないからね。 そう、「映え」ってのがあるのよ、ペーパーバックには。 だけど、そうかと言ってダシール・ハメットとか、レイモンド・チャンドラーとか、そういう「映える」作家を扱うと、そっち方面にはまた詳しい人がいてね。もう亡くなったけど、小鷹信光さんとかね。小鷹さんの『私のペイパーバック』なんて本を読むと、この方面ではもう書くネタないなとも思うし。私のペイパーバック ポケットの中の25セントの宇宙 [ 小鷹信光 ] ま、その辺も考慮して、さて、自分に何が書けるかの見通しを立て、このお誘い、受けるか断るか、考えなきゃ。
April 11, 2018
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友人のブログを見ていたら、「昼はクイックガストで済ませる。味噌汁が旨い」というようなことが書いてありまして。 クイックガストって何? で、ついググってみたら、ははーん。そういうことね。牛丼屋みたいな感じの廉価なファミレスをガスト系列の新形態として新たに展開したわけね・・・。「クイックガスト」っていうか、正式には「Sガスト」っていうみたいですが。 ・・・知らなかった・・・。 最近、大学の近くに「ステーキ・ガスト」が出きて、ははーん、最近はガストも色々な方面に手を出しているのね、と思っていたのですが、そんなのはもう古いので、今は「Sガスト」なんだ。 えーん、情報通のワタクシとしたことが。かつてのシティ・ボーイもすっかり田舎のネズミになってしまったわん。 で、名古屋にもあるのか? と思って検索したら、ないのね。まだ東京・神奈川・埼玉にしかないらしい。 ふー。良かった。じゃ、まだ名古屋の連中はこのことを知るまい。 明日、知ったかぶりして、同僚たちや学生たちをビビらしたろうっと。「お前ら『Sガスト』って知ってる? 知らない? あー、この辺にはまだないのか・・・はー・・・遅れてんな、おい」って。
April 10, 2018
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今日は4月9日。ということは・・・・そう、私の誕生日! 誰かおめでとうって言って! さて、このブログでもお伝えしていますが、この歳になってあらためて熱心に英語の辞書を熟読していて、時々、「ええっ?!」と驚くようなことがありまして。 例えば、最近、超驚いたのが「favorite」という言葉の使い方。 私はてっきり「お気に入りの」という意味だとばかり思っていたのですけど、違うんですってね? 「お気に入りの」ではなく、「一番好きな」という意味なんですって。ビックリだわ。 私は、まるっと「好きなモノの範疇」というのがあって、これはその範疇に入っていますよ、ということなんだろうと思っていたんですけど、実はそうじゃなくて、かなり明確に「好きなモノの中のトップ」という意味なんですって。 だから、最上級が作れないと。「the most favorite ○○」という言い方はいかんらしい。これだと、「一番、一番好きな○○」になってしまって、意味が重なってしまうから。 はあ~・・・。知らんかった・・・。もっとも、コーパスとか使って調べると、ネイティブの中にもそういう誤用をする人は居るようだけどね。 まあ、アレだね。日々勉強だね。誕生日に一つ賢くなったと思えば、悪い気はしない。 万事、そう思って、のんびり行きましょう。
April 9, 2018
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最近、辞書を読むことが妙に面白くなってしまって、毎日ある程度の時間を費やして辞書を読んでいるのですけれども、辞書というのは基本、超細かい字で書いてありましょう? なもので、やっぱり目の負担が半端ない。 で、このまま辞書を読み続けたら、どんどん目が悪くなるんじゃないかと、いささか不安なわけですよ。 で、思うのだけど、視力って、何かすれば良くなるもんですかねえ? よくあるじゃないですか、あのピンホール眼鏡って奴? 毎日何分かかけると、視力が良くなりますよと宣伝している。 あるいは見るだけで視力が回復する3D画像とか。 視力回復を謳う実用書って結構あるけど、あれって本当に効くのかねえ・・・? あと、視力が弱るのは、結局、ピント調節のための筋肉が弱るからであると。一方、筋肉というのは、年をとってからも鍛えれば発達するものであると。 だから、遠くのものを見て、近くのものを見て、また遠くのものを見て、また近くのものを見て・・・というのを繰り返せば、目のレンズを引っぱる筋肉が鍛えられて、視力が回復する、なんてことはあるのかしら? 目のスクワットみたいな感じで? まあ、今述べた中では、遠くのものを見て、近くのものを見て・・・というのがすぐに実行可能なので、少しやってみようかなあ。特に辞書を読んだ直後とかに。 本ブログの読者の方で、何かをして視力の回復に成功したよ、っていう方がいらっしゃいましたら、アドバイス、お願いします。
April 8, 2018
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前にこのブログにも書きましたけど、ピーター・フランプトンのアルバム、『アコースティック・クラシックス』がひどく気に入っちゃって、毎日、それこそ浴びるように聴いております。今年買ったCDのベストになること必定だな。Peter Frampton ピーターフランプトン / Acoustic Classics (2枚組アナログレコード) 【LP】 ま、このアルバムに限らず、最近の私はもはやアメリカの最新の歌謡状況には背を向けて、懐メロに走っているわけですけれども、そうなってくるとフランプトンの次のターゲットをそろそろ決めとかないといかんなと。 それで、私がフランプトンを再発見するきっかけになった「NPR Tiny Desk Concerts」の中から物色するということを考えたわけですけれども、そうするとほぼ必然的に「次はこれかな?」というのが出てくる。グラハム・ナッシュですな。これこれ! ↓グラハム・ナッシュ グラハム・ナッシュというのは、もちろん「CS&N」、すなわち「クロスビー、スティルス&ナッシュ」のナッシュ。フランプトン同様、彼も相当いい歳になっております。 彼の、というより「CS&N」のアルバムって、実は1枚しか持っていないのですが、ひょっとしたら彼らのアルバムの中には、私の気に入るものがもっともっとあるかも知れない。 というわけで、今、私の食指はグラハム・ナッシュの方を向いているのであります。 この先、いいアルバムを見つけたら、またご報告しますね!
April 7, 2018
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今年の始め、エリザベス・キューブラー・ロスの書いた『死ぬ瞬間』という本を読んだら、これが意外なほど面白かったもので、同じ著者による『「死ぬ瞬間」と死後の生』という本を読んでみました。これ、ロス本人が書いた本というのではなく、彼女が行った様々な講演の記録を編集した本なので、口語体による語りかけの文体で書かれているということもあり、またしばしば話が脱線したりして、緻密に構成された本ではありません。が、それはまたそういうものとして気楽に読めますし、独自の魅力をもった本と言えましょう。 さて、本書冒頭にロスが19歳の頃の思い出が書かれているのですが、三つ子の長女としてスイスに生れ、下の二人の妹たちと違ってなぜか父母から疎外されて育った彼女は、当時、さっさと独立して自分の人生を生きようと模索していた。 で、その過程で、彼女はポーランドのマイダネクを訪れるんですな。ここはアウシュヴィッツと同じくナチス・ドイツによる虐殺が行われていた強制収容所で、96万人もの子供がここでガス室の彼方に消えた。 で、まだその忌まわしい史実も新たな頃、そこを訪れたロスは、強制収容され、明日は死ぬかも知れない子供たちが部屋の壁などに描いた絵を目にする。その絵の中で顕著に多かったのは、何故か蝶の絵だったそうです。 そしてロスは、その強制収容所を生き延びた少女と出会うわけ。その少女は収容されていた間、絶対にこの危機を生き延び、ナチス・ドイツの非人間的な罪を告発しようと決意していた。 ところが、解放軍が来て解放され、いよいよその告発が出来る時になった刹那、彼女は告発をすることを止めた。もしそれをやったら、ヒトラーが自分にしたことと同じことをすることになる。そんなことをするよりも、悲劇を過去のものにした方がいいと思ったというのです。 そして、一緒に収容所の壁に書かれた蝶の絵を見つつ、その思いをロスに語りながら、少女は「ねえ、エリザベス、誰の心のなかにもヒットラーがいる。そう思わない?」と付け加えた。 誰の心にもヒトラーがいる。しかし、それをきちんと直視し、その方向に行く自分を抑えて、逆の方向、例えばマザー・テレサの方向に向かうようにすることも人間には出来るはず。つまり、そこに「選択」の余地がある。 この発見が、19歳のロスの人生を変えたと。 その後、ロスは(父親の反対を押して)医学の道を目指すこととなり、さらにアメリカ人の医師と結婚してニューヨークのとある病院に勤めることになります。しかし、それは治る見込みのない精神分裂病患者を収容している病院だった。 スイスの田舎からやってきたロスにとって、ニューヨークの、それも自分の専門でもない精神医療の病院に勤めることは、かなりストレスのたまるものだったようで、彼女は病院に収容されている精神分裂病患者と差がないほどみじめな状況だったそうです。実際、その病院では患者たちが社会復帰できると考えておらず、いわば鉄格子のない檻に入れて放置しているような状態で、みじめそのものだったと。 ところがその2年後、ロスはこの患者たちの9割以上を退院させてしまった。 何故そんなことが可能だったのか? ロスは自分と同じようにみじめな患者たちをつぶさに観察したところ、彼らは取りつく島のないほど人間とのコミュニケーションを拒否していたとはいえ、そんな彼らでさえ、積極的な反応を示すものが2つあった。その2つとはタバコとコーラ(?!)。この2つがもらえるとなると、さすがの彼らも呼びかけに反応したと。 そこで医者としてのロスは、意外なことをします。患者たちからタバコとコーラを取り上げたんですな。そして、これが欲しくば、病院内で作業をするなどして報酬を得、その報酬で自力で手に入れろと命じた。本書の後半でも言及されるのですが、「ノー」を言うことが本当の愛の行為であることもしばしばあると。 で、ロスにそう通告された患者たちは、タバコとコーラ欲しさに病院内の軽作業をこなすようになり、それと同時に人間らしさを回復して、ついに社会復帰できるまでになったと。ロスはここでの経験を通じ、「真の愛は、人間を癒す」ということを知る。 マイダネクで出会った少女、そしてニューヨークの病院での達成。この二つがあって、ロスは本当の意味での医療人になるわけね。 うーん、なかなか面白い・・・というか、感動的じゃない? この辺まで読むと、もう後は面白くて一気に読んじゃうよ、この本。 で、その後ロスは、終末医療に打ち込んで行くのですが、そこで彼女は幾つかの発見をする。 一つは、死にゆく人というのは、「象徴言語」を使ってある一つのメッセージを周囲に伝えようとする、ということ。 それは「自分は既に死ぬ覚悟ができたから、これ以上、邪魔しないで」というメッセージなんです。このメッセージを受け取らず、あるいは受け取っても拒否して、「死なないでくれ!」とすがり、そのための延命処置をすることは、実は当の患者を苦しめるだけなんですって。 そういうメッセージを発している患者にとって必要なのは、延命処置ではない。実は、そういう患者に必要なのは、その患者が「し残した仕事」をやらせてあげること。 そのことが良く分かる例として、ロスは「ジェフィ」という9歳の少年の例を挙げています。彼はもう余命幾ばくもない状態なのですが、彼のお父さんもお母さんもそれが辛くて、息子の一日でも長い生存を望んでいる。それがジェフィには苦痛で仕方がない。 そこでジェフィはロスを利用して、自分の「し残した仕事」をやり遂げます。死にゆく子供というのは、本当に聡明になるので、大人でも思いつかないような戦略も使いこなすわけ。 彼は父親に買ってもらった真新しい自転車、しかし、病気のためにまだ一度も乗ったことのない自転車に、死ぬ前に一度でいいから乗りたかったんですな。そこで医者としてずっとこの一家に付き添ってきたロスに頼んで、無理をいって一時的に退院させてもらい、家に戻って自転車に乗った。 しかし、もう体力がなくて、そのままでは乗れないので、ジェフィは父親に頼んでその自転車に補助輪をつけてもらった。9歳の少年にとって補助輪付の自転車に乗るなんて屈辱そのものなんですが、涙をこらえて補助輪を付けてもらった。そしてその自転車に乗って自分の住む町を一周した。転ぶのではないかと心配した母親が、自転車の後を追っかけようとするのを、ロスと父親が二人がかりで止めたとのこと。 そしてジェフィは満面の笑みをもって自転車に乗り、町を一周した。彼はし残した仕事をついにやり遂げたわけ。帰ってきたジェフィは、金メダルをとったオリンピック選手もかくやというほど、誇りに満ちた顔をしていたそうです。 しかし、ジェフィにはもう一つ、やることがあった。彼はその日の夜、弟だけを自分の部屋に呼び、2週間後に誕生日を迎える弟に、その自転車をあげたそうです。本当は誕生日の当日にあげたかったのですが、自分にはもう2週間後はないと判っていたんですな。ただし、自転車を弟にあげる約束をした際、二つ条件をつけた。一つはこの約束を自分が死ぬまで両親には黙っていること。もう一つは「みっともないから絶対に補助輪なんかつけるな」ということ。 ジェフィは1週間後に亡くなったそうです。しかし、ジェフィ自身、し残した仕事はやり遂げたし、両親にとっても、あのまま自転車にも乗らせず、病院に入院したまま亡くなるよりは、悲しみが少なかったでありましょう。 で、こういった数々の経験の中から、ロスは二つのことを学ぶんですな。そのうちの一つは、人生でやるべき仕事をし遂げれば、死は決して怖ろしいものではないということ。 やるべき仕事というのは、別に大きなこととは限りません。例えば、長年仲の悪かった姑が死に瀕した場合、嫁のやるべき「し残した仕事」は、姑に対して仲直りの姿勢を見せること。そんなことだって、もしそれをやらないうちに姑に死なれたら、やっぱり罪の意識として残ってしまう。それは、嫁の人生の重荷になってしまうわけね。 そういう小さなことも含め、人間には「し残した仕事」が一杯ある。それをし遂げるには、結構な時間が必要です。だから、人生を無駄に浪費している時間はないよと。この認識が一つ。 ロスが学んだもう一つのことは、死んでいく人を見守り続けたことから当然のように出てくる疑問、すなわち、人間は死んだらどうなるんだろう? という疑問を追究すべきだ、という決意です。 そこでロスは後半生に至って臨死体験の研究に全力を投入していきます。 もちろん、臨死体験だとか、あるいは死後の世界だとか、そういうことを研究すると宣言し、また実行することは、科学者として非常に危険なことであり、実際、そのためにロスは様々な誹謗中傷に会う。しかし、ロスからすれば、人間は誰しも必ず死ぬのに、死ぬとはどういうことか、死んだ後どうなるのかということに科学者として興味を持たない方がおかしい。(ちなみに、『夜と霧』を書いたヴィクトール・フランクルも、ロスと同じく後半生に至って臨死体験の研究を始めている。) かくしてロスは、キャリアの後半に入ってから死後のことを研究し出し、肉体を捨てた魂のありようを追究し出すのですが、この辺のことになると、さすがの私も「・・・?」という感じになる。 しかし、それでも「なるほど!」と思うこともあります。 ロスによると、身体に障害がある人も、死んで身体から抜け出し、心的エネルギーの存在となると、生きていた時の障害も無くなるというのですな。 例えば、視力を失った人が臨死体験をするとするでしょ。そうするとその臨死体験の中で、その人は自分に蘇生処置をしてくれた人々のことを見事に描写し、実際にその通りのことが行われたことが後で判明するんですって。つまり、魂になったその人は、目が見えていた、ということですよね。そういうことは、科学では説明できない。だけど、説明できないことが起こるんだから、それはやはり考えなければいけないと。 あと、これはロス本人の実感なんですが、彼女は終末医療に携わるものとして、大勢の余命の少ない人やその家族に深くかかわってきたわけ。しかし、そうやって何カ月も深く付き合ってきたその患者さんが亡くなった時、その亡骸に対してまったく関心が無くなるというのですな。もし人の死が「無に帰す」体のものであるならば、亡骸に対して悲しみの念、無念の念を抱くだろうに、実際にはそうならない。なぜなら、それが単に脱ぎ捨てられた衣だと分かるから。そういう種類の実感というのは、やっぱり大きな意味があると、私も思います。 とにかく、この本はロスが自分で体験したこと、頭で考えたというよりは心で感じたことを基に綴られているので、賛成できるできないにかかわらず、ある種の重い説得力があるんですわ。それはね、すごいと思う。 そういう意味では、この本はノンフィクションならではの重さがあります。 ちなみにそれは、「ノンフィクションは一般にフィクションより重い」という意味ではありません。フィクションがもし人間性の本質を突いていたら、ノンフィクション以上の重さを持つこともある。しかし、頭で考えただけの小賢しい作り物だったら、フィクションはノンフィクションには勝てないということですな。まあ、私はトニ・モリスンの小説のことを暗に言っているのですけれども。 それはともかくとして、本書を読んでいると、この本の自己啓発的側面も色々感じます。 例えば、「世界を癒すことはできるか」という問題とかね。 自分一人で世界を癒すことはできると思います? ロスは出来ると言います。世界を変えるのは、たった一人の行動だけでいいと。 例えばロスが「終末医療」ということを考え出した時、それは孤軍奮闘だったわけですよ。死にゆく人に「もうすぐ死ぬって、どんな気分ですか?」と尋ねるところからロスの研究は始まっているんですけど、1960年代、そういう研究をさせてくれと言っても、OKしてくれる病院なんてないわけね。病院は患者を死から遠ざけるのが仕事、それを「もうすぐ死ぬんでしょ、どんな気分?」と尋ねるなんて、お前、人間としてどうかしているんじゃないか?と攻撃される。だけど、ロスはそれが必要だから、どんなに攻撃されてもその研究を続けた。 その結果、今、医学生にとって終末医療を学ぶことは、卒業に必要な単位になったわけですよ。 その他、終末を迎えた患者を扱う「ホスピス」というのは、もともとイギリスで生れたものですが、それをアメリカに導入し、発展させ、さらには世界にまで広めたのはロスの功績。一人の人間が世界を変えることって、いくらでもあるわけですな。 あとね、先ほどの「し残した仕事」と陸続きの話ではあるのですが、人間の人生、人間の経験には無駄なことは一つもないということも、本書の中でロスが語ることでありまして。例えば何か苦しい体験をするとするでしょ。それは、実はその人がその生涯の中で体験しなきゃならなかった何か、なんですな。だから、そういうことがあったら、「あ、これは自分がやるべき宿題なんだ」と思って受け入れるしかない。 そういう風に苦難を捉えると、絶望からは救われる気がする。少なくとも私はそう思います。 となると、ロスの言うことは、自己啓発的言説でもあると思うんですよね。私、この本、結構気に入っております。 ところで、本書の訳者あとがきにも書いてあるんですけど、ロスの人生って結構波乱万丈で、晩年、彼女はHIV患者のための医療センターをヴァージニア州に作ろうとし、保守的なヴァージニアの住民とトラブルになったらしいんですな。それで、ロスがヨーロッパに講演に行っている間に、建設中のセンターが放火され、彼女の長年の努力が灰燼に帰してしまったこともあったのだとか。その他、晩年には脳卒中の後遺症にも悩まされたらしい。 そういうことも含め、エリザベス・キューブラー・ロスという人物、なかなか興味深いなと。 ってなわけで、『「死ぬ瞬間」と死後の生』、教授のおすすめ! です。「死ぬ瞬間」と死後の生 (中公文庫) [ エリザベス・キューブラー・ロス ]
April 6, 2018
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あのさ、はごろもフーズが出している「おさかなでPASTA」っていうレトルト・シリーズ、ご存じ? これね、実はめちゃくちゃ旨いのよ。 先日、「さんまのペペロンチーノ」っていうのを食べて、お、こりゃ旨いなと思ったのですけど、その次に「いわしのプッタネスカ」っていうのを食べたら、これがまた輪をかけて旨かったという。これこれ! ↓いわしのプッタネスカ 生臭さなんてかけらもなくて、あるのは充実した鰯のコクのみ。輪切りにした黒オリーブの実もいいアクセントで、超旨い。 でね、このシリーズがまた割と安いのよ、お値段的に。200円ちょいくらいで売っているんじゃない? さらに、このほかにも「まぐろのガーリック醤油」とか「さばの塩レモンソース」とか、はたまた「はまぐりのジェノベーゼ」とか「たこのマリナーラソーズ」とか、色々な種類がある。こうなってくると、全種類食べてみたいという感じがしてきます。 楽天ではまだ全種類扱っていないようですが、ちょっと食べてみてくださいな。教授の熱烈、おすすめ!です。多分、後悔はしないと思うよ~!おさかなでパスタ さんまペペロンチーノ(100g)おさかなでパスタ さばの塩レモンソース(100g)
April 5, 2018
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ひゃー、昨夜遅く、実家から名古屋に戻って参りました~。高速代を安くするため、ゲートを夜中の12時数秒過ぎに通過するという。12時前に通過するのと、12時過ぎに通過するのでは2000円位違いますからね、ここは狙い定めないと。 新学期の始動は明日からなので、今日は一日その準備に追われそうです。 ところで。 今、実家は母一人で暮しているので、たまに実家に戻るとあれこれ困ったことが生じていて、それを解決するのがワタクシの役目なわけ。 例えば電子辞書の電池が切れて使えなくなっていたとか。電池の交換なんて簡単だろうと人は思うでしょうけれども、86才の母にはそういうことも難しいわけですよ。電池交換といえば、台所のガスコンロだって着火用に電池を使っているわけですが、その電池の交換時期が来たようで、それを知らせるアラームが点滅していた。まだしばらくは使えそうでしたが、我々が帰った後で電池が切れ、ガスコンロが使えなくなったら一大事なので、これも交換しておきました。 もっとも、こういうのはまだ理解できます。電池は切れるものですからね。しかし、今回は理解できないことが一つありまして。 一昨日、夜ご飯のためお米を炊いていた母と姉が何やらごにょごにょしていたので、一体何事かと思って聞いてみると、炊飯器の予約設定が超難しくなってしまって困っているとのこと。 今まで普通に使えていたのに何で? と尋ねると、炊飯器に内蔵されていた電池の寿命が切れたので、炊飯器の液晶画面が死んでしまい、毎回毎回、コンセントを差す度に最初から設定し直さないといけなくなってしまったのだとか。 そう聞いて、炊飯器のどこかに液晶画面用の乾電池を入れるところがあるのではないの? と思ったのですが、説明書を読みなおすと、「内蔵電池の寿命が尽きた場合は、もうどうにもならないので、それでも使い続けたい時は炊飯器ごと修理に出せ」とある。 これを一般的な言葉に通訳すると、「内蔵電池の寿命が、炊飯器の寿命だよ」ということですな。要するに、そうなったら買いなおせと。 うーん。この炊飯器にしてから、6,7年くらいは経つかな? でも、その程度でもう買い直さなきゃならないものを、日本の一流メーカーが出すのかねえ・・・? ちなみに、名古屋の自宅では、同じメーカーが出している超シンプルな炊飯器があって、それは私が名古屋に赴任した時に買ったものなので、もう買ってから四半世紀以上経ちますが、まだ普通に使えるよ。IHでもない、ほんとにシンプルな奴ですけど。 86才の一人暮らしの母にとって、新しい炊飯器買いに行くのだって一苦労なわけですよ。年金暮らしだから、あまりお金も使いたくないし。 そんな母に余計な苦労をかけるような炊飯器を平気で出す日本の一流メーカーの気がしれない。っていうか、それはちょっと無責任なんじゃないだろうか。もし、定期的な買い直しを促すために、交換できない内蔵電池式の家電製品を作っているのだとしたら、それは企業倫理に悖ると思うなあ。 米を美味しく炊くとか、そういう性能面の良し悪しを謳うのもいいけど、「そう簡単には壊れない」ということを謳う家電製品があってもいいんじゃないでしょうかね。
April 4, 2018
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私、花粉症とは割合と無縁で、目がちょっと痒くなるくらい、外に出た時にくしゃみを1、2回するぐらいで済んでいたのですが、三日ほど前に突然、重症になり、鼻水が止まらない状態に。目もしょぼしょぼして堪え難い。なんと、突然重症の花粉症になってしまったじゃないの。 なるほど〜。これがいわゆる花粉症か・・・。これが続くとなると、相当辛いな・・・。 で、これはまずいということで、普通に花粉症の家内が愛用している「アレジオン」をその日の就寝前に飲んでみた。すると・・・ あら〜、翌日からすっきり〜。元に戻った〜! ってなわけで、突然花粉症になり、突然治ったという。簡単だねえ、自分。 それにしても「アレジオン」、効くじゃないか。一日一錠というのも面倒くさくなくていいし。教授のオススメよ。【第2類医薬品】アレジオン20(12錠) エスエス製薬 アレジオン20 12T [アレジオン2012T]【返品種別B】◆セルフメディケーション税制対象商品 だけど、結構値段も高い。1箱12錠で2000円くらいだから、夫婦で飲んでいたら、6日間で薬代が2000円だよ。とはいえ、花粉症の苦しさは放置しておけないレベルだし。むむむ。通販だと,もう少し安いのか? それにしても、ねえ・・・。 なんか、春って物要りで嫌だね・・・。 さてさて、実家での春休みも今日でおしまい。今日はこれから名古屋に戻ります。それでは明日からはまたいつも通り名古屋からのお気楽日記、お楽しみに〜!
April 3, 2018
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なんか毎日遊んでいるようでアレなんですけど、今日は姉と家内と連れ立って吉祥寺にお散歩に行ってきました〜。実家からだと下北沢から井の頭線に乗り換えて、吉祥寺まで小一時間ってところですかね。 まずは腹ごしらえということで、「CAFE & WEDDING 22」なる洒落乙なところでタコライスを食べるという、いかにもなカフェランチ。 そしてそこから北欧通りに出てその辺りを散策・・・と思ったのですが、北欧通りに出たところで「TOP 7」の看板が。あらま、ワタクシでも知っている靴屋さんじゃないの。 で、ちょっと入ってみようということになったのが運の尽きで、結局、ワタクシと姉と家内と、3人それぞれ靴を買ってしまったという。店員さんからしたら、夢の客だよね。 ちなみにワタクシが買ったのは、ちょっとオリーブ色がかったグレーのスウェードのスニーカーで、紐靴ではあるのだけど、両サイドにチャックがあって、足入れは超楽っていうやーつー。かなり洒落乙でございます。 で、すっかり満足した3人は、そのまま北欧通り沿いのセレクトショップ的なお店に入ったり入らなかったりしながら適当に流し、ついでにその近くの「arnolds」という北欧ドーナツ(?)のお店でお土産を買い(これが実に美味かった!)、そして吉祥寺通りを南下して井の頭公園をしばし散策。もうサクラは大分散っちゃってましたけどね。 で、今日はこの辺で切り上げることにして帰路についたのですけれども、もっと時間に余裕があればね,私は「古本センター」とか「バサラブックス」といった古本屋さんにも寄りたかった・・・。しかし、それはまた次回のお楽しみということで。 それにしても、吉祥寺。ごちゃごちゃしていてなかなか全体像が分からないのですけれども、特にあてもなく散策するには面白い街かもね。今年は春の英文学会がこの近くにある東京女子大学で開催されるので、それにかこつけて古本ツアーしちゃおうかな。 というわけで、靴は買ったし、ドーナツは美味かったし、なかなか充実した散策となったのでした。
April 2, 2018
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今日のお昼は新百合ケ丘のイオン内にある「旭川ラーメン 大雪軒」っつーところでラーメンを食べてきました。 魚介系の出汁&中細縮れ麺のラーメンで、ワタクシ的には十分美味しかった(ちょっと味が濃かったけど)のですけど、ラーメン通の甥っ子に言わせれば、独自スケールで10段階の4(低!)だということで、まだまだ上があるらしい。この世界も極めれば奥が深いね。 で、そのまま帰るのもアレなので、ちょいと買い物をすることに。 で、街は入社式を終えた新入社員のフレッシュなスーツ姿だらけ、ということもあり、この際、ワタクシも一つ、新しいネクタイでも買おうかなということで、しばし物色。結局、一気に3本買って、この春の装いとすることにしました。一本は深緑の地に同色のドット柄、一本は青系の地に細かい幾何学模様的な奴、一本は光沢のあるブルーグレー地のレジメンタル。自慢じゃないけど(って自慢ですけど)、ワタクシ、ネクタイの選択には割と自信があるのよ。 よし、これで新たな気分で新学年を迎えられるぞ。 ということで、今日はのんびりした一日となったのでした。
April 1, 2018
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