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先週の金曜日、私が9月に出す予定の英語教則本について、当該の出版社がツイッターで前宣伝を打ってくれたのですが、その反響がそこそこあった、という報告を今日、いただきまして。 私はツイッターをやらないのでよく分からないんですが、ツイッターのアクセスって、金曜日から週末にかけてが一番多いんですってね。だから出版社も新刊予告をツイッターに出す時は金曜日にやるらしい。 ということで、先週末にそのツイッターを読んだ同業者からの反響が色々あったと。 で、大半は「釈迦楽さんが英語教則本?」というもの? それは結構意外だったらしい。まあ、実際、英語教育とか、ぜんっぜん興味ないからね、ワタクシ。興味ないけど、必要があって仕方なく書いただけの話でありまして。 ま、とにかく、意外ついでに本が出たら買ってもらいたい・・・できれば授業で使ってもらいたいものでございます。 ところでそれは今や過去の話。今問題なのは、これからの話ですわ。 秋口の締切に向けて、論文を書かなくてはならないので、先週末あたりから書き始めたのですが、これがまあ、難しい。 私の場合、普通ですと、大体3つくらいの話題を統合して論文にまとめることが多いんですな。ま、三題噺ってのは、まとまりやすいのでね。 ところが今回は、トピックだけでも5つくらいあるので、それを一つの話の流れの中に組み込むってのが難しいのよ。で、手始めとして、設計図(フローチャート)を作り始めたのだけど、どうもうまく行かない。うまく行かないから苦しい! 内容というか、詰め込みたい情報が多すぎるんだよな~。で、その多い情報が、互いに関係しているもので、そこが面白いのよ。だけど、その面白さを伝えるための方法がまだ見えてない。それを見つけるために、今、必死でもがいている状態。 要は、詰め将棋みたいなものなのよ。こうやって、こうやって、こうやって、こうやったら詰み、みたいな筋が見えれば楽なんだけど。普段なら20手詰みたいな詰め将棋なのに、今回は40手詰レベルなので、そう簡単には正しい手順が見えないわけ。 ま、今、将棋界では藤井聡太七段が神業的な将棋を打って快進撃を続けておりますが、ワタクシも彼にあやかって、神業的な手順を見つけるために、ここは一つ、大長考と行きましょうかね。
June 29, 2020
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著名なデザイナー、ミルトン・グレイザー氏が脳卒中のため死去されました。享年91。亡くなったのは、同氏の誕生日だったそうで。男は大概、自分の誕生日の直前に死ぬものですが、氏は辛うじて誕生日を迎えることができたようです。 さて、ミルトン・グレイザーと言えば、「I💛NY」のロゴや、ボブ・ディランのアルバム・デザインで知られるわけですけれども、私のような「本の表紙デザイン研究家」からすると、グレイザー最大の功績は、アメリカのニュー・アメリカン・ライブラリー社が出したシグネット版シェイクスピア全集の表紙デザイン、これに尽きます。これこれ!↓ ミルトン・グレイザーのデザインは、そのカラフルな色使いについ目が行きますが、私が見るに、彼の真価は色ではなく、むしろ「空白」ではないかと。上に挙げた本の表紙デザインにしても、当時のペーパーバック本の表紙としては非常に珍しい「白地」がまずある。これがグレイザーの真骨頂。そこに高度に抽象化された黒の線描が来て、さらにそこにきれいに塗り分けられた多色が載るから映えるのであって。 で、このグレイザーの洗練された「空白の美」が、1950年代後半のアメリカン・ペーパーバックの世界に、「白の時代」と呼ばれる流行をもたらしたのでした。 とまあ、アメリカのペーパーバック本の表紙デザインに革命を起こしたデザイナー、ミルトン・グレイザー氏が亡くなられたと聞き、私としてはある種の感銘を受けているのでございます。氏のご冥福をお祈りいたします。合掌。
June 28, 2020
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コロナ自粛で、一つ、変わったことは、コーヒーの消費が増えたこと。 いつもはレギュラー・コーヒーを飲むのは週末だけ、という感じでしたけど、最近は週日でも家にいるので、ほとんど毎日コーヒーを淹れてしまう。だから、粉の消費の早いこと、早いこと。 ま、それはいいのですが、このところちょっと困ったことがありましてね。 あるコーヒー専門店で挽いてもらったコーヒーが、細かく挽き過ぎちゃったのか、ペーパーフィルターで濾す時に詰まっちゃうんですな。で、全然落ちてこなくて、時間がかかって仕方がない。 で、最初はフィルターが詰まるのかと思ったのですが、ひょっとして、ドリッパーの性能が悪いのではないかと疑うようになりまして。 ま、家で使っているドリッパーは、その辺で買ったごく普通のモノなんですけど、穴が小さくて、しかもそこにフィルターが圧着してしまって、それで詰まるらしい。 というわけで、もうちょい性能のいいドリッパーを買わなければと思っていたのですが、それを昨日、ついに買いまして。 買ったのはハリオのドリッパー。今流行り(?)の円錐形の奴で、底に大きな穴があり、いかにもドリップし易そう。しかも深い円錐形なので、お湯が挽いた豆に接している時間が長く、コクのある味に仕上がるのだとか。これこれ! ↓HARIO ハリオ V60 透過 コーヒードリッパー クリア 02 (1〜4杯用)計量スプーン付き V型 円すい形 ドリップ 珈琲【RCP】【VD-02T】 で、今日、この新しいドリッパーでコーヒーを淹れて飲んでみたのですが、これまで詰まってしまったコーヒー豆でも全然OK。とても美味しいコーヒーに仕上がりました。数百円で不都合が解消できたので、私としては大満足でございます。 そうそう、それからコーヒーと言えば、最近、デカフェにも凝っておりまして。 もともと寝付きが悪いのに、今までは問答無用で夜でも普通にコーヒーを飲んでいたのですが、何かの本で、最近はカフェインレスのインスタント・コーヒーにもいいものが出てきた、というようなことを読みましてね。 ということで、買ってみたのが「クライス」のデカフェのインスタント・コーヒー。これこれ! ↓クライス カフェインレス インスタントコーヒー50g フリーズドライ 我が家はこれまでインスタント・コーヒーといえば「ゴールドブレンド派」だったんですけど、これを飲み始めたら、すっかりはまりまして。カフェインレスとは思えないほどのコク。いいですよ~。 ということで、このところのコロナ禍の中で、我が家では密かに「コーヒー革命」が起こっていたのであります。
June 27, 2020
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9月に出す英語教則本の前宣伝が、出版社のツイッターとウェブマガジンで今日から始まりました! 今週の月曜日にウェブマガジンに掲載するためのエッセイを頼まれ、それを翌日の火曜日には書きあげて、それが今日掲載されたわけですから、自分史上最速掲載記録更新っていう感じ。まあ、こちらもプロですから、書けと言われればいくらでも書きますわ。 それにしても、出版前から宣伝してくれるというのは実にありがたい! 今は本が売れない時代ですからね。使える媒体はすべて使って宣伝して欲しいものでございます。そういう点では、ツイッターとかウェブマガジンとか、あまりお金をかけなくても済む媒体があるっていうのはいいことですな。もっとも大新聞のサンヤツなどでの宣伝と比べて、どのくらい効果があるかは分かりませんが。 でも、とにかく自分の書いたものが出版されるというのはすごく嬉しいもので、9月というとまだずいぶん先ですが、今から楽しみ。売れるといいなあ・・・。
June 26, 2020
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今日はちょっとした記念日だったので、家内に23本のバラを贈りました。毎年1本ずつ増やす計画だったのですが、とうとうそれが23年目に突入ということで。 で、家内がちょっと外出している隙を縫って近所にある素敵なお花屋さんに行き、それだけのバラを注文したら、たまたま店にあったバラが23本で、要は店のバラを全部、私が買い占めることとなったのでした。花屋のバラを買い占めるって、なかなか豪勢じゃない? ということで、今、我が家はその豪勢なバラのおかげで、徹子の部屋みたいな感じになっております。 家に花があるってのは、いいもんですなあ。記念日に限らず、もうちょい頻繁に家に花を飾ろうかな。
June 25, 2020
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先日も書きましたが、今自宅で使っているパソコンの付属キーボードがあまりにも使いにくかったので、キーボードだけ別の会社のものに替えることにしました。 で、家電品店に行ってあれこれ実機を触ってみたりしたのですが、これがイマイチよく分からない。 つまりね、「お、これは割といいな」という機種が見つかって、だけど一応、ネット上の評判を確認しようと思って見ると、案外、クソ味噌の評価だったりする。故障が多いとか、繋がりが悪いとか、ね。 ということで、もうネット上で一番評判がいいように見える機種を買っちまえと思って、選んだのがコレ。これこれ! ↓ロジクール アドバンスド ワイヤレスキーボード KX800 MX KEYS 充電式 bluetooth Unifying Windows Mac FLOW ワイヤレス 無線 キーボ で、実際に先ほどから使い始めてみたのだけど、とりあえず言えるのは、前の奴より格段に良いということ。 大体、打鍵音が静かだし、ストロークが小さめで、打鍵感も割と好み。特に、キーの一つ一つに丸い窪みがあるので、指当たりが心地よいんですよね。 一つ、気になるのは、バック・キーが小さい(というか、他の文字キーと同じ大きさ)なので、修正しようと思った時に空振りすることがあることくらい。でも、それも多分、慣れの問題かな。 いずれにせよ、今のところ、いい感じよ。まあ、安いキーボードじゃないので、いい感じじゃないと困るんだけど・・・。 あ、でも、こうやって打っているうちにさらにいい感じになってきた! 楽しい! キーを打つのが楽しい! というわけで、今回のキーボード交換、大成功だったんじゃないかな。やっぱりアレだね、我々物書きにとっては、パソコンのキーボードは商売道具みたいなもの。多少値段が張っても、自分に合うモノを選んで買うべきなのかもね。
June 24, 2020
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外出自粛中、せめて何か一芸を身につけようと、YouTube動画で「ツボ押し」を検索し、日々ツボ・マスターへの道を歩んでいるワタクシ。ありとあらゆる不調を治すツボがあることに驚いているのですけど、ならば「金欠病」に効くツボってないのかなと。 で、「金運アップ、ツボ」などと検索ワードを入れて検索したのですが、当然、そんなものがあるわけもなく。まあ、無価値な壺に大層な御託をくっつけ、人に売りつけてお金を儲ける方法ならあるかも知れませんが・・・。 でも「金運アップ」だけだと、色々な動画がヒットするんですよね。 で、これがまたそれっぽい画像と音声を組み合わせた「波動」動画で、「1分間、この画像を見、音を聞くと、48時間以内に思わぬところからお金が入ってくる」なんてことが効能として述べられている。 んなことがあるわけないじゃん! と言うわけで、とりあえずその「波動」とやらを浴びてみたと。(爆!) で、待つこと48時間。何にも起こらないじゃん・・・ と、思ったら! 今度、英語の教則本を出す出版社からメールがあり、「近々社のサイトに出版予告出すから、ウェブ・マガジン向けにエッセイ書いて」との依頼が。そして、エッセイの執筆料として3000円いただけることに。 これか! これが動画を見、波動を浴びた、その結果か!! ね。信じる者は救われるのよ。 さてさて、話は変わりまして、先日、学会における大先輩から、ご高論の抜き刷りをいただいたのですが、これが今、私が研究しているテーマと重なる部分が多かったものですから、例によって箇条書き的に心覚えをつけておこうかなと。〇エマソンは1850年代にパブリック・インテレクチュアルとしての立場を確立。1866年にハーバード大学から法学博士号を取得。印税は15年ごとに倍増し続けた。〇スマイルズは『自助論』の成功の後、1871年に『Manners』を出すが、この本にはエマソンからの引用(「Character」、「Manners]、「The Method of Nature」、「Love」、「Self-Reliance」、「Courage」)もあり、スマイルズがエマソンの影響を受けていたことは明らか。またスマイルズは自身が編集長を務める『Leeds Times』誌において、エマソンの著書を紹介している。〇『自助論』の中村正直訳「天は自ら助くる者を助く」の原文は「Heaven helps those who help themselves」だが、これはギリシャ以来の古いことわざで、フランクリンの『貧しいリチャードの暦』では「God helps them who help themselves.」、エマソンの「Self- Reliance」では「Nature suffers nothing to remain in her kjingdoms which cannot help iteself.」となっていて、それぞれの変奏が興味深い。〇スマイルズの『自助論』にはエマソンからの引用はないが、William Ellery Channing (1780-1842) への言及がある。チャニングはエマソンに影響を与えた人物で、人間の善性を信頼してカルヴァン主義からの解放を訴え、人間の内在的な力を信頼し、またそのためにも「self-culture」の必要を説いて、ライシーアム運動の思想的バックボーンとなった。(ライシーアムこそ、牧師辞任後のエマソンに講演の機会を与えたものでもある)〇スマイルズはチャニングの言説を単純化し、社会に有用で効率的な、体制順応的な人物の養成を促すものと取っていた。つまり、世俗的な理解をしていたことになる。商業化社会を嫌い、過去の田園生活に戻ることを志向した同郷のカーライルとは異なり、スマイルズは商業化・都市化された人間を理想とする未来主義者だった。〇ただし、スマイルズとて、『自助論』の最終章たる「紳士」の項を見ると、精神的なものを重視することを述べており、やはりエマソンの影響は残っていると思われる。〇中村正直は後年、エマソンを愛し、そのエッセイ「Compensation」を「報償論」として日本初訳している。正直はスマイルズの『Character』を訳しているので、そこでエマソンを知ったのかも知れない。正直はキリスト教信仰を持っていたとも思われず、むしろエマソンの「この世的、物質的側面」に共感していたらしい。〇正直のエマソン理解は、スマイルズを凌駕していた。 ま、こんな感じかな? とにかく、自己啓発思想史のスターたるエマソンとスマイルズに影響関係があった、ということ、また日本には両者の紹介者として中村正直がいたということ、この辺が私には何とも面白いところでありまして、勉強になりました。
June 24, 2020
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遠隔授業でアメリカのロックの歴史を教えているのですが、そのついでに有名な曲の歌詞(英語)を読むことで、多少は英語の勉強もしようという試みをしております。 ということで、これはと思う曲の歌詞を学生と一緒に読むのですけど、やっぱり普通の論述文と違って曲の歌詞というのは、俗語も多く、また曖昧な書き方をしているところもあって、結構難しい。で、歌詞自体が難しいこともありますが、その歌詞が何を意味しているのかを解釈するのも難しい時がある。 で、参考にしようと思ってネットを調べ、その歌詞を和訳している人のサイトを見たりもするのですが、これがまた語訳だらけでまったく参考にならないというね。 それを言ったら、アレだよね。昔、洋楽のレコードやCDを買ったときについてくるライナーの後ろの訳詞を見ると、いい加減な訳ばっかりで、まさに役に立たないということがよくあったなあ。 その状況は今もまったく変わらないということですかね。 で、最近気になったのがエルトン・ジョンの「ロケットマン」の歌詞。エルトン・ジョンの半生を映画化した、その映画のタイトルにもなっているので、曲自体は知っている人も多いと思うのですが。 で、その歌詞は以下の通り:"Rocket man"She packed my bags last night pre-flightZero hour nine A.M.And I'm gonna be high as a kite by thenI miss the earth so much, I miss my wifeIt's lonely out in spaceOn such a timeless flightAnd I think it's gonna be a long long time'Til touchdown brings me 'round again to findI'm not the man they think I am at homeOh, no, no, no.I'm a rocket manRocket manburning out his fuse up here aloneAnd I think it's gonna be a long long time'Til touchdown brings me 'round again to findI'm not the man they think I am at homeOh, no, no, no.I'm a rocket manRocket man burning out his fuse up here alone Mars ain't the kind of place to raise your kidsIn fact it's cold as hellAnd there's no one there to raise them if you didAnd all this science I don't understandIt's just my job five days a weekA rocket man,A rocket man さて、ここで問題は、この歌、何について歌った曲なのか?ってことなんですが。 でね、あるサイトの解説によると、この歌は宇宙飛行士の歌であって、すなわち華々しいキャリアを持った人物を主人公にしているのだけど、その人は、むしろ家庭的な幸福を望んでいる。ということは、この宇宙飛行士というのは、音楽界で華々し活躍をしつつ、本当は家庭的な幸福を望んでいるエルトン・ジョン自身を歌っているのだと。 うーむ・・・。そうなのか? しかし、歌詞冒頭には「発射予定時刻午前9時に合わせて、前の晩から妻が弁当を用意してくれた」とある。 宇宙飛行士って、愛妻弁当持って宇宙に行くんですかね? まあ、これは私の勝手な妄想ですが、これって、宇宙飛行士の話ではなく、普通のサラリーマンの話なんじゃないの? この曲が生まれた1970年代初頭と言えば、イギリスは「イギリス病」と呼ばれた不況の真っただ中にあったので、各家庭は家計をやりくりするのできつかったはず。そういう中、とにかく職にありついた男が、妻や家族のことを思って、長時間、懸命に働いて家計を支えていたわけでしょ。もちろん、仕事を選ぶなんて贅沢は許されないから、当時の男たちはどんな嫌な仕事でも、それがどういう意味のある仕事なのかすら知らずに引き受けて週5で頑張った。当然、家にいる時の自分とはまったく別のキツイ男となって、孤独に、七人の敵と切った張ったをやりながら。そして神経すり減らして、家に帰りつく頃にはヘロヘロで。まさに地球に戻ってきた宇宙飛行士が、久しぶりの重力の中でヘロヘロになって回収されるごとく。 そういう名もないサラリーマンの奮闘を、その孤独な戦いを、宇宙空間で孤軍奮闘する宇宙飛行士になぞらえて描いているんじゃないの、この歌は? そうじゃないと、この歌の寂しさが伝わらないじゃないの。少なくとも「エリート宇宙飛行士の贅沢な悩み」を歌っているのではないのではないかと。 だけど、そういう私の勝手な解釈の正当性を、確認する術がないのよ。 例えば、ネット上には「Genius Lyrics」という有名なサイトがあって、歌詞の持つ深い意味を探るという試みがあるのですけれども、それも万能じゃないからね。 で、思うのだけど、歴史に名を残すような名曲については、定番の訳、そして定番の解釈を確立した方がいいのではないかしら。もちろん、「定番ではこうだが、こういう解釈もあり得る」という複数回答形式でもいいから。 誰がその仕事を引き受けるのかという問題は残るけど、でも、音楽好きかつトリビア好きの文学研究者なんてのは大勢居るんだから、そのあたりがやってもいいんじゃないかとは思いますけどね。これこれ! ↓Elton John "Rocket Man"
June 23, 2020
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前にスウェーデンの神秘家、エマニュエル・スウェーデンボルグの思想がどうやってアメリカに渡ったかということを調べていて、ジョニー・アップルシードがそれに関わっていた、ということを知りまして。ジョニー・アップルシードってのは、アメリカ中を旅しながら、リンゴの苗木を売って歩いた伝説の果樹園業者なんですけど。 「as American as apple-pie」(アップルパイみたいにアメリカ的)っていう言葉があるくらいで、リンゴってのはアメリカを代表する果物であるわけですけど、それをアメリカ中に広めたという点で、ジョニー・アップルシードは、まあ話半分としても、なかなか興味深い伝説的人物なわけ。 で、そのアップルシードがスウェーデンボルグ主義者だったというところが、私にとってはさらに興味深いところで、そうなると彼はリンゴと共にスウェーデンボルグの思想をアメリカ各地に植え付けて回ったということになる。話としては相当に面白いわけですよ。 で、そんなジョニー・アップルシードについて詳しい研究者といえば、それはもう亀井俊介先生を置いて他にない。先生の有名な『アメリカン・ヒーローの系譜』という本の中で「ジョニー・アップルシード」の名前を初めて聞いたという人(かくいう私もその一人)も多いはず・・・。 で、では亀井先生はジョニー・アップルシードとスウェーデンボルグの関係について、どのように書いていらっしゃるか。そこが知りたいところなのですが・・・私の書架に『アメリカン・ヒーローの系譜』がないと。 いや、元はあったんですよ。もちろん。だけど、学生か誰かに貸したりしているうちにどこかに行っちゃったのよ。で、そのことが確認できずにいたのですが、結局、再度この本を手に入れまして、ようやく確認することができました。そしたらね、やっぱりさすが亀井先生なんだなあ。ちゃんとアップルシードとスウェーデンボルグの関係について、『アメリカン・ヒーローの系譜』の中に言及してありました。 で、それによると、アップルシードはスウェーデンボルグの教えを奉ずる「ニュー・チャーチ」(正確にはニュー・ジェルザレム・チャーチ)に帰依し、その思想をアメリカ中の人々に伝えようとしたんですな。で、アップルシードが生きていた時代には、まだニュー・チャーチは発足間もない頃だったので、チャップマン自身、最初期の信者の一人だったらしい。そして彼はこの教えを広めるために、ニューチャーチのパンフレットを教会からもらうために、全米各地にあった自分の土地(すなわちリンゴの苗木の栽培地)を提供する交渉をしていたらしいんですな。ま、パンフレットをもらうためという現実的な目的もあったようですが、アップルシード的には、そうやって自分の土地を得たスウェーデンボルグ協会が、その敷地に新しい教会とかカレッジでもぶっ建ててくれたらいいな、という希望というか野望も持っていたようで。 もっとも、アメリカ西部の開拓最前線で苦労している入植者たちにはスウェーデンボルグの教えはちょっと難しすぎたようで、アップルシードの布教活動はさほど実を結ばなかったという説もある。しかし、その一方、チャップマンの努力により、1820年から40年にかけて、オハイオ地方に相当な数のスウェーデンボルグ協会が出来たという説もある。(その辺のことについては、Robert Price という人の Johnny Appleseed: Man and Myth や、Henry A. Pershing の Johnny Appleseed and His Times という本に詳しいらしい。) 亀井先生の『アメリカン・ヒーローの系譜』に書いてあるのは、ざっと上のような簡単な説明だけでしたけど、元ネタとなった本の存在も知れたし、今後はロバート・プライスやパーシングの本に当たってみようかなと。
June 22, 2020
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先ほど、実家から名古屋に戻って参りました。 さて、今日は基本的に移動日だったのですが、実家を去る前に、実家の庭にヒマワリを植えてきちゃった。 前に知多半島の「花ひろば」っていうところに行った時、入園者にはタダでヒマワリの種をくれるというので、もらってきておいたんですわ。で、名古屋の自宅はマンションだし、どうせなら実家で庭に植えるかと思って、今回、持って行ったの。 で、玄関先の私道の脇と、それから居間の前の庭に種を蒔いてみたと。 それから、父の墓にアジサイを植えるというアイディアから、なら、今、自宅の庭に咲いているアジサイを挿し木で増やすか、ということになり、挿し木を試みることに。 で、調べてみると、アジサイってのは挿し木でバンバン増えるんですってね。新芽を切って、葉を二枚ほど残し、残した葉も3分の1ほどにカットして一旦水に浸し、その後、水耕栽培的に放っておくと根が出るので、そしたら鉢に植えるなり、土に植えるなりすればいいのだそうで。 ということで、挿し木の方もとりあえず水耕栽培の準備だけしておきました。果たして本当に根は出るのでしょうか。ちょっと楽しみ。 しかし、考えてみると植物ってのは、たくましいもんですな。枝葉を切られたって、それを土に挿せばまたそこから新しい命が噴き出てくるんだから。それに、種だって、自分自身をタイムカプセルに閉じ込めるようなもんじゃないですか。種の状態で何年か保存しておいたって、それを土に植えて水をかければ、またそこから新しく命を吹き返すわけだし。 人間も植物みたいだったらいいのにね。年取って死にそうになったら、チョキンと・・・そうですね、小指でも詰めて土に植えたら、そこからまた若返った状態で全身が生えてくるとか。・・・怖いか。 とまあ、とにかく、ヒマワリとアジサイという希望を植えて、実家を後にした次第。この二つがどう成長したかはお楽しみにして、母に報告でもしてもらいましょうかね。
June 21, 2020
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今日は父の祥月命日ということで、お墓参りをしてきました。父が亡くなって丸3年が経ったわけですなあ。 お墓に行くと、さすがにこの時期ですから、そこそこ雑草が生えていたので、まずはそれを取り除き、お花をあげ、水を替え、墓石にもたっぷり水をかけ、線香を供えたら大分、いい感じになりました。 よくしたもんで、墓に何をしたって今更しょうがないと言えばそうなんですけれども、やっぱりきれいにして花を飾って線香を立てると、なんだか父も墓の下で喜んでいるような気がして、こちらの気が済むんですな。だからね、私も父を亡くしてから、すっかり墓参りが好きになりました。昔は、ご先祖様には申し訳ないけれども、めったに行ったことなかったんですけどね。 あ、それからもう一つ、今日、父の墓をきれいにしていて思ったんですが、父は紫陽花が好きだったんですけど、命日も6月20日で紫陽花の盛りだし、お墓に紫陽花を植えてあげようかなと。そうしたら命日の度に紫陽花が咲いて、お墓参りも余計楽しくなるでしょうしね。 さて、今回は特に何回忌というのではないので、家族だけの墓参りだし、会食もないので、夜は家の庭でバーベキューをすることにしました。父も生前は、それが大好きだったもので。 で、母と姉と姪っこと家内と私の5人で、父がいた時と同じようにバーベキューを楽しみ、父にも陰膳を供えました。ビールと焼き肉と、それから父も好きだった焼きトウモロコシなんかも添えて。 で、思ったんですけど、いつも我が家では真夏の夜のにバーベキューをやるのですけど、むしろ今頃やった方が暑くなくていいかなと。真夏にやると、ただでさえ暑いところに、火の近くに立つので汗ダラダラなんですよね。6月くらいだと、まだ夜はそこそこ涼しいので、快適でした。 だから、毎年、父の祥月命日に家族が集まった時に、バーベキューをやるというのを決まり事にするというのはいいかもしれませんな。 というわけで、今日は一日、亡き父のことを思って過ごしていたのでした。
June 20, 2020
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鈴木晶さんの書かれた『図解雑学 フロイトの精神分析』という本を読みましたので、一言、感想を。 フロイトっていうと、「『無意識』の発見者」的な感じで思っている人が多いと思うのですが、実際はそんなこともなくて、無意識の存在自体ははるか以前から知られていたし、また自己啓発思想の世界に限っても、19世紀前半から既に無意識ってことは盛んに言われておりました。無意識に自分の願いを植え付けると、それは必ず実現します、といったような文脈で。 で、フロイトの場合、無意識の領域に抑圧されたものが、のちのち精神病を引き起こすということを言い出して、その抑圧を解放することで治療をしたわけですな。 でも治療ってことは、上手く行っていない人を上手く行くようにしたわけだから、それは結局、自己啓発なわけね。だからフロイトのことを「なかなか腕のいい自己啓発思想家である」と言うことも出来るはず。 とまあ、そんな感じでフロイトのことを見てみたいわけですけれども、それをするにはある程度、フロイトのことも知っておかなくてはならないと。 だけど、フロイトのことだけを研究して一生過ごす人だっているわけで、そこまで深く勉強している暇は、私にはないんですわ。 だから、とりあえず手っ取り早くフロイトの精神分析の何たるかをさくっと理解できるような本ってないかなと捜した挙げ句、見つけたのがこの本だったと。何しろ書いている人が鈴木晶さんで、信頼できる著者なのでね。 で、この本を読んでみたのですが、まーこれが分かり易く書いてあるんだ。なにせ見開き2頁のうち、左側のページが解説の文章、右側のページがその図解で、文と図解の両方を見ることによって要点が分かるようになっているのね。 こういう感じの本って、それこそ小学生あたりが読むような各種入門書に近いよね! そういうのを大人になってから読む新鮮さたるや。懐かしいけど新鮮。 で、これパラパラっと読んだら、もう、初期フロイトの理論から後期フロイトの理論まで、すなわち「意識・前意識・無意識」の3分割で人間のこころを捉えていた初期のフロイトの説から、「自我・超自我・エス」の3分割で捉えていた後期フロイト説までの変遷も分かっちゃったし、フロイトとフロイトの影響を受けた心理学者たち、たとえばユングとかアドラーとか、そういう連中との違いまでみんな分かっちゃった。 それにフロイト以前の心理学がどうだったのか、フロイトによって何が変わったのか、フロイトの理論はどうして時代ごとに変わっていったのか、なんてこともみんな分かっちゃった。半日でもうフロイト通ですわ。何でも聞いて。 なんか知らないけど、上手に書いてあるねえ。さすが鈴木晶。 ちなみにこの本出しているナツメ社って、理系の出版社じゃない? さすがナツメ社。文系のフロイトのことをばっさり割り切って解説した本を出すとは。 ということで、手っ取り早くフロイトの何たるかを知るにはもってこいのこの本、教授のおすすめ!と言っておきましょう。 さてさて、私は今、実家に戻っております。明日6月20日が父の祥月命日なもので、お墓参りしようかなと。丁度、都府県間の移動がOKになったことだしね。 ということで、明日は亡き父のことを思い出す一日にしますわ。
June 19, 2020
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今日は久しぶりに吉牛食べちゃった! 個人的な感想ですが、同業他社と比べて、やっぱり吉牛は美味しさの点で頭一つ抜けてないかい? ま、それはいいんですけど、その吉牛、前に来た時は普通に注文制だったのですが、今日、行ってみたらセルフに変わっていました。だから店に入ったらまずいきなり注文して、それで勝手に席について、ブザーがなったら受け取り口に取りに行って、食べ終わったら自分で下げて帰ると、まあそういうシステムに変わっていたわけ。 うーん。吉牛よ、お前もか・・・。 まあね、人件費削減の観点から、そうなるのもやむなしというのは分かる。そっちの事情はね。だけど、私のように古い人間としては、最初にいきなり注文というのが、なかなか難しいのよ。 たとえばマックみたいにね、メニューの数も知れていて、今日何を食べるというのをあらかじめ決めてから店に入る的なものなら、セルフでもいいと思うわけ。 だけどさ、吉牛って、最近、色々なメニューがあるじゃん? 牛丼だけじゃなく、豚丼もあるし、牛タンもあれば、からあげもあり、さらにとろろをかけたりするのもある。単品もあれば、セットメニューもあったりする。 しょっちゅう行っているなら、それでも即決できるかもしれないけど、私のように一年に一遍くらいしか行かない人間にとっては、分からないわけよ。だから、入り口でメニュー見せられたって、どれを選ぶべきかなんて即決できないわけ。 でも、後ろに並んで待っている人のことを考えると、いつまでも悩んでいるわけにもいかないから、ごく普通の牛丼を頼んでしまったりする。実際、今日もそうだったんですが。 でも、頼んだ後で回りの客の注文した品をみたりすると、「うーむ、あっちを頼めば良かったかな?」なんていう思いに悩まされたりするんだ、これが。 せめて注文する時ぐらい、ゆっくり考えさせてよと。 そうそう、それで思い出したけど、最近のスーパーとかで、会計を済ます時、レジ打ちしている人にお金を渡すのではなく、隣にある機械に自分でお金を入れるタイプの所、増えているじゃん? 私はあれも嫌いなんだよな〜。最初から全部セルフっていうのならまだいいけど、レジ打ちだけ人間がして、お金のやりとりは機械に任せるって、なんかねえ・・・。 そのうち、あれかね、赤い羽根共同募金とかもセルフになるのかね? ボーイスカウトの少年たちが「赤い羽根共同募金にご協力くださーい!」とか言っているのを街で見かけ、どれ100円でも寄付したるかと思って近づいて行ったら、少年に「ボクらはお金には手を触れないことになってますので、お金は隣の機械に入れてくださーい!」とか言われるのかしら。 気分ダダ下がり〜。 世の中、段々効率第一になりすぎて、古い人間には生きにくい世の中になっていきますな。 ま、おっさんの戯言とお笑い下さい。
June 19, 2020
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秋に出す英語教則本の初校の校正を終え、出版社に返送しました~。最初のうち、ちょっとエンジンがかからなかったのですが、最後の方は結構、熱中できたかな。 書き物に関してはね、とにかく今持てる力の最大限を発揮しよう、というのが私のポリシーでありまして、1メートルとはいわず、1センチでも1ミリでも改善できるなら一字一句一点の修正も厭わずの姿勢でやり通しました。たかだか100頁ほどのものとはいえ、朱の入らなかった頁はほとんどなかったんじゃないかしら。 この本、もとは自分が自分の担当クラスで使うための教科書として、所属大学の出版会から出したもので、一応、アマゾンでは買えるものの、一般の書店に広く売られるものではないのね。だから知る人ぞ知るなんですけど、これを使って教えていると、2年に1遍くらい、殊勝な受講生がやってきて、「こんなに素晴らしい英語の教則本は初めてです。今まで習ってきた英語は一体何だったんだと思うほどです」などと可愛いことを言ってくれたりする。 それをね、この度、いよいよ一般出版社から広く世に問うことになったので、まあ、ちょっと期待するところがあるわけですよ。つまり・・・売れてくれないかなと。 私が今までに出した本は、専門の本ばかりですから、もちろんそれなりの自負もあるし自信もありました。だけど英語の教則本となると、これはまったく専門外ですからね。出すにあたっていささかの自負もないし、自信もない。その代わり、まぐれ当たりに期待するところは大なのよ。ほら、ビギナーズ・ラックっていう奴? 失敗したっていいや、でもひょっとしたら・・・みたいな気分。 というわけで、取らぬ狸のなんとやらで、秋以降の左団扇を想像しながら、楽しく校正をしていた次第。 さて、その校正を終えてすっきりしたところで、今日は「美好餅」なるものを買ってしまいました。 「美好餅」というのは、大学の近くにある和菓子屋さんで売っている大福餅なんですけど、これがなかなか買えないのよ。 私はかれこれ20年以上、その渋い和菓子屋のそばを通って通勤していたのですが、その店の大福がすごく人気があるということを知ったのはつい最近のこと。店の前に6台くらい駐車場があるのに、店からちょっと離れたところに、これまたそのくらいの台数が止められそうな第二駐車場があるので、何でこんな渋い店に、そんなにたくさんの駐車場が必要なのか、全然意味が分からなかったのですが、実際、そのくらいの大きさの駐車場が必要なくらいの人気店だったんですな。 だから、夕方に買いに行ったって、品物がないのね。っていうか、ほとんど午前中にその日の分は売れてしまうらしい。一度、夕方5時頃に店に入って「大福はありますか?」と尋ねたら、店の人にビックリした顔をされましたからね。この辺では、「美好餅」がお昼前には全部売れてしまうことは有名なんですな。 で、とにかくその有名な「美好餅」なるものを、今日はついにゲットしたと。 で、家に帰ってから食べたのですが、うーん、確かに旨い! とにかく餅が柔らかい! もうね、食べているそばから、ダリの溶けた時計みたいに手からだらーんとぶら下がってしまうほど柔らかいの。で、中のアンコも甘すぎず、いくらでもいけちゃいそう。餅自体は結構大きいのですが、ペロリですよ。 なるほどね。これなら人気があるはずだわ・・・。しかも1個150円と、決して値段が馬鹿高いわけではないし。 というわけで、校正も終わったし、密かな地元の名物・美好餅も食べられたし、今日はいい一日になったのでした。
June 17, 2020
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今巷で話題の料理本、滝沢カレンさんの『カレンの台所』を買ってみたのですが、これがもう、あなた、想像を遥か上を行く、革命的な本だったんです。 料理本というのは、従来、料理家が考案したレシピを読者に伝えるものでありまして、そのポイントは、料理家が考案した料理をいかに素人が再現できるか、ということだったわけですよ。 だから、重要なのは正確さであって、そのために「何グラムの肉を用意するか」、「水を何cc加えるか」、「しょうゆや酒やみりんを大さじ何杯入れるか」、「塩や砂糖を小さじ何杯入れるか」・・・といった食材の分量に正確を期すことが非常に重要だと考えられていたわけですよ。もちろん、火力の強さとか、焼く時間・煮る時間、そういったことも事細かく記述されている。 著者たる料理家は、自分が作った通りのものを読者が作れるように細心の注意を払うのが当然であって、要はそれが料理本だったわけですな。 ところが『カレンの台所』は、そういった既成概念を完全にぶっ壊してしまった! 例えば、カレンさんが自信作と誇るハンバーグの作り方はどう書いてあるかを見よ! まず玉ねぎについて「あんだけ丸々と成長したというのに見るも耐えられない形にしていきます。子どもの頃に糸を通して遊んだビーズくらいにしてください」と。これは要するに「みじん切りにしろ」という意味らしい。で、見るも無残な形にしたそれをどうするかというと、「そうしましたら、フライパンには悪いですが、(目を)染みさせられた気持ちをバネにして玉ねぎを厳しく追及するように炒めます。明らかな茶色になる前くらいにおやめください」。 カレンさんのレシピでは、パン粉ではなく麩を入れるらしいのですが、そのあたりについては・・・ 「お麩は子供心に戻って粉々にしていきます。見た目は暴れん坊な私たちですが、だれも見てませんからお気にせず」。これを通常の日本語に直すとすると、人目も気にせず、暴れん坊のごとく振る舞って、麩を粉々にしろ、ということらしい。 で、ひき肉やら炒めた玉ねぎやら粉々の麩やらをどうするかというと・・・「さぁここからは無邪気にこんちくしょうと混ぜてください」。 こ、こんちくしょう?! 次はいよいよ焼きに入るわけですが、そのあたりの記述がどうなっているかというと・・・ 「待ちわびる空室なカラカラフライパンに保湿がてらにオリーブオイルをおつけください。うっとり気分かと思えば、強火で温めていきます」 いまだかつて料理本のなかに「保湿がてらに(オリーブオイルを)フライパンにつけろ」という指示があったことがあったかどうか・・・。 で、フライパンにハンバーグ(のたね)を並べる際は、「円卓机で話す家族のように」並べろと。「全員が窮屈じゃなくて話せているなと思ったらそれをしばらく眺めてください」。 次。ハンバーグをひっくり返すタイミングについては、「1~1分30秒くらいでしょうか。え、何勝手に洋服羽織ってんの!?と思ったら、その驚きを味方にひっくり返してください。茶色のあったかそうな洋服を着ているはずです」と。 焼き加減の確認については、「透明の液体が流れ出てましたら、中までしっかり息通ってます。赤い液体が出てきたら、まだ話終わってないと思ってください」。 息通ってる? 話終わってない?? ソースの作り方に関しては、「同じく残り汁にバター、赤ワイン1杯飲む量、お砂糖心ばかり、ケチャップ、ウスターソースを目ん玉2個分くらい、お醤油を使ったか使ってないか誰も分からないくらい入れて煮詰めます。ワサワサとして明らかにゆるやかなスピードになったら、ソースのできあがりです」。 そしてついに、「ハンバーグにかけて、最後になんの状況も知らずに急遽冷蔵庫から呼ばれた生クリームをふっかけて完成です」。 で、カレンさんの最後のコメントがこれ: 「ハンバーグはこう思うとふんだりけったりな調理はされてますが、口に入れば私たちを幸せの絶頂に運んでくれて、まさかあんな目にあってたとはと思わせてくれます。さよなら」 もう、こんな書き方をされたら、矢も楯もなく無性に作りたくなってくるじゃありませんか、ハンバーグを! それにしても・・・、これは一応「教則本」なのだろうけれども、これほど教則本のルールに則っていない教則本が、やまだかつてあっただろうか?? 私自身も教則本を何冊か書いていますし、そして今、まさに今度出る教則本の校正をやっていますが、世の中にこれほど教則本らしくない教則本があっていいんだということに驚愕。そして目からウロコ。 っていうか、今までの私は、自分なりの教則本のイメージに捉われて、そこから一歩も踏み出そうとしなかった平凡な意気地なしなのではないか?? 例えば英語学習の本でも、あるいは文学の解説書とかでも、この本におけるカレンさんのような書き方はできないものだろうか? 今までの常識とは全く異なる文学書の書き方が、ひょっとしたらあるのではないか?? この本を読んで、私はそんなことまで考えさせられてしまったのでした。 ということで、思わずうーんと唸ってしまうほどの驚愕の料理本『カレンの台所』、教授の絶賛おすすめ!!!と言っておきましょう。これこれ! ↓カレンの台所 [ 滝沢 カレン ]
June 16, 2020
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日本語に堪能な外国人に、「日本語の中で一番好きな言葉って何?」と尋ねると、予想外の言葉を挙げてきたりして面白いんですけど、じゃあ、英単語の中で自分が一番好きなものって何だろうと考えると、これが意外に出てこない。 で、「一番好きな英単語って何だろう?」という問いは、長年、自分の中で温めていた問いだったのですが、つい最近、「これだ」と思うものを思いつきました。 通勤途中、カー・ステレオで「シカゴ」のベストアルバムを何気なく流しながらクルマを運転していて、ふと、「Happy Man」という曲の歌詞の中に「(soft and)breezy」という言葉が出てきて、あ、これだと。 breezy。「そよ風が吹いている」という意味ですが、この英単語は私には音からして心地よい響きなんだよね~。この言葉を耳にするだけで、なんか幸福感に満たされるというか。ちょっとカリフォルニアっぽい言葉でしょ? ニューヨークっぽくないし、テキサスっぽくもない。あと、70年代っぽい。 のんびりした言葉だしね。のんびりした気分って、日常生活の中ではなかなか得られないけれど、いつか breezy な生活をゆったり楽しめればいいなって、それを一つの夢として、あるいは心の支えとして頑張っているところがある。追っても追ってもなかなか近づけない、砂漠の幻のオアシスのような。 breezy って、私にとっては、そういう言葉なのよね~。 ということで、私が長年温めてきた問いには、今の時点で一つの答えが出たのでした。 ちなみに、家内に「一番好きな英単語って何?」と尋ねたら、即答で「splendor」(光輝・壮麗)ですって。はあ~、そりゃまたずいぶん豪華絢爛ですな・・・。シカゴの「Happy Man」ってこんな曲 ↓Chicago "Happy Man"
June 15, 2020
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『エスリンとアメリカの覚醒』という本のまとめの3回目です。〇1967年9月、『タイム』誌がエスリンの特集をした。当然、エスリンのスタッフの間でも熟読されたが、「ボディワーク」のバーナード・ガンサーや、「エンカウンター」のウィリアム・シュッツについての記事が多かったのに比し、「ゲシュタルト」のパールズについての記事が少なかったことから、パールズが嫉妬し、これがエスリンの輪を乱すことになる。(166-8頁)〇1968年9月2日号のアジア版『ライフ』のエスリン特集では、パールズの写真も掲載されたので、多少は収まったが、エスリンが有名になる過程で、この種の旗取りが行われるようになってしまったのは由々しきことではあった。(170頁)〇1968年1月、エスリンで最初の死者。ロイス・デラルトがMDAを多量に飲んで死亡。(178-9頁)。この後も、自殺者を含め、何人かの人がエスリンで死ぬこととなる。同年(?)、パールズの患者で愛人だったマーシャ・プライスはライフルで自殺(この時パールズはまったく自責の念に捕われているフリもしなかった)、1969年にはジューディス・ゴールドが浴場で溺死。(196-7頁)〇ヒューマニスティック心理学は、アブラハム・マズローを中心として、心理学の「第三勢力」として出てきたもの(第一勢力は精神分析、第二勢力は行動主義)であって、マズローは1961年にアンソニー・スーティッチと『ヒューマニスティック心理学雑誌(Journal of Humanistic Psychology)』を創刊(編集委員にはジェームズ・ブーゲンタール、ロロ・メイ、マズロー、カール・ロジャーズといった心理学者たちに加え、オルダス・ハクスリー、アーサー・ケストラー、ルイス・マムフォード、マイケル・ポラニーなどのヒューマニストたちも含まれていた)、1963年には「アメリカ・ヒューマニスティック心理学会」が第一回大会をフィラデルフィアで開催したわけだが、一般大衆から見れば、ヒューマニスティック心理学と、エスリンの運動は完全に一致しているように見える・・・というか、エスリンがヒューマニスティック心理学会の牙城であるかのようなイメージを持たれてしまったのは致し方ないところ。しかし、学問的な学会と、活動中心のエスリンが同一視されることについて、学者の方では迷惑がるところもなくはなかった。(182頁)〇1960年代末から、エスリン・ブックスという叢書の刊行が始まる。(188-9頁)〇1969年、マーシャ・プライスとジューディス・ゴールドがエスリンで自殺した後、フレデリック・パールズはエスリンを去り、カナダに自身の研究所を作った。ただし、間もなく死亡。(200-203頁)〇1970年代初期、エスリンは全米に知られるようになり、エスリンをモデルにしたグロウス・センターがアメリカ中に100個以上あった。(204頁)〇エスリンには特定の確固とした方向性があるわけではなく、むしろ断固として行き当たりばったりなところがあったが、その反面、どんな領域の学問でも受け入れ、またどんな無名の学問領域であってもそれを全国区に押し上げるだけの力を持っていた。いわば、学問領域のショー・ウィンドーのようなところがあった。(206頁)〇一方、1969年から70年の間に、エスリンは三人の貢献者を失うことになる。ジェームズ・パイク、フレデリック・パールズ、アブラハム・マズローの三人である。そしてマーフィーとプライスも1970年には40代に突入していた。(207頁)〇マイケルはスチュアート・ミラーらとビジネスがらみのヨーロッパ旅行に出かけ、そこでロベルト・アサジョーリ博士と出会う。アサジョーリは「サイコシンセシス」の提唱者。マイケルはサイコシンセシスの何たるかを既に知っていたが、高齢のアサジョーリ本人に出会ってインパクトを受け、その後、サイコシンセシスはエスリンの主要テーマの一つとなっていく。(216-8頁)〇ラム・ダスは、インドから戻ってきた直後、しばらくエスリン周辺に居たが、その後再びインドに行った。(223頁)〇ヒッピー・カルチャーは、「ヒューマン・ポテンシャル運動の狂気に満ちた若者版」だったが、1967年夏のマスコミの誇大宣伝による頂点から、1969年のチャールズ・マンソン事件のどん底へと急落していった。 しかし、「若者がアメリカを救う」という本質的なメッセージは生き残った。その代弁者がチャールズ・ライクであり、彼の『緑色革命』であった。この本によると、革命は進行中で、アメリカ社会のすべての局面を美しく人間的に変容させるだろう、ということであった。(226頁)〇セオドア・ローザックも『対抗文化の思想』の中で、「階級ではなく意識がこれからの革命の原理である」と述べたが、1960年代のローザックの本と、70年代のライクの本では、やはり違いもあった。『対抗文化』が若者の運動のある側面、とりわけ幻覚的な啓示への熱中を批判し、また運動は長く険しい道をたどり、世代の中で最もすぐれた人たちが革命を成し遂げるだろうと予測したのに対し、ライクの本おうした条件や心配に頁を割かなかった。彼は若者たちの間に目的を見る知恵と目的に向かう力しか見なかった。ある批評家はライクを評して「彼の刃は決して諸刃の剣ではない」と述べた。(227頁)〇ライクのこうした楽観的な若者観は、激しい批判を浴びた。特にピーター・マリンは『タイムズ・リテラリー・レヴュー』に載せた文の中で、ライクの意識の見方には「多種の政治的無意識がある」と指摘した。彼は続けて「(解放された)人びとはいまだに盗んだ土地や、盗んだ労力や、盗んだ時間を食い続けている金持ち階級の一部だという事実・・・。新しい意識をもつ人々はがそれを政治のなかに表現する道を見つけることができないこと・・・。第三意識を持つ人びとの間には、革命的であると同時に伝統的な暴力が増大しつつあること・・・。同時にすべての少数グループが解放されていない状況・・・。」と述べている。(228頁)〇こうしたローザックの批判は、ライクに対するものであって、エスリンとは無関係だが、エスリンの在り方はライクの若者観に近いものがあったのも事実で、ピーター・マリンはのちに「ヒューマン・ポテンシャル運動のナルシシズム」という文で、グロウス・センターに参加する人たちやヒューマニスティックンり学者のなかにも、ライクと同じような政治的欠点があると指摘するが、この批判は確かにエスリンに当てはまるところがあったし、世間の見方もそのようなものに収束していった。つまり「ライク流の若者運動も、エスリン流のヒューマン・ポテンシャル運動も、ヒューマニスティック心理学も、結局は同じもの、中流階級出身で千年王国を夢見る、幸せで、素朴で、政治に無関心な態度なのだ」と。(228頁)〇チャールズ・マンソンは、かすかながらエスリンとかかわりがある。シャロン・テート事件を起こす三日前、ヒッチハイクで乗せた女の子と二人、エスリンを訪れ、ロッジで即席のコンサートをやった。コンサートは受けず、マンソンも不本意に立ち去った。またマンソンに殺されたアビゲール・フォルジャー(コーヒー会社と関連あり)もエスリンのセミナーに参加したことがあった。(233-4頁)〇1971年、エスリンのサンフランシスコ支部の近くに「エスト」ができた。ウェルナー・エアハルトが創設した組織で、セルフ・ヘルプ、ポジティヴ・シンキング、成功思想を接ぎ木したヒューマン・ポテンシャル運動のアメリカナイズ版と言えた。 エストの中では、デール・カーネギーが最高の人物であり、アラン・ワッツ、フリッツ・パールズ、アブラハム・マズロー、そしてサイエントロジーの創設者ロン・ハバードなどがカーネギーと同列の偉人とされていた。(249頁)〇エアハルトは高卒で、クルマのセールスマン、通信教育の訪問セールスマン、「グレートブックス」のセールスマンを経て、自分でもセルフ・ヘルプの本をむさぼり読んだという。彼が最も感動した本はナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』とマックスウェル・モルツの『サイコ・サイバネティクス』だった。 エアハルトは部下に紹介されてマズローやロジャーズの本を読み、ゲシュタルト療法の本を読み、エスリンにも通ってフリッツに会い、シュッツのエンカウンターにも出て、ワッツの教養は真似できなかったが、その教授スタイルを真似た。禅を身につけ、デール・カーネギーのコースをとり、武道を習い、シャーロット・セルヴァーのセンサリー・アウェアネスを体験し、サイエントロジーも勉強した。イギリスのアレクサンダー・エヴァレットが開発した自己啓発訓練法「マインド・ダイナミックス」のインストラクターになったが、エヴァレットは神智学、エドガー・ケーシー心霊術、シルヴァ・マインドコントロールなどを勉強した。そして、これらを突き交ぜた「エアハルト・セミナーズ・トレーニング(エスト)」を立ち上げたのだった。(250頁)〇1970年代、マーフィーの戦略の一つは彼自身の得意分野たるスポーツだった。彼はスポーツというアメリカの主流文化に、ヒューマン・ポテンシャル運動を接続したいと考えていた。マーフィーの協力者-ジ・レンナードは、エスリンのパンフレットにこう書いた: 「変革は始まっている。スポーツはどんな社会でも鍵となる接点である。この社会に平和で人間的な変革をもたらすのにスポーツの改革から始めることができる。知識人のなかには、スポーツは真剣に考える問題ではないと考えて、人生のこの局面を無視してきたものもいる。ボールが飛んで行くのもつまらないことではない。その軌跡は惑星の軌道を示すのだ。人間はからだを動かすことによって、哲学者ピタゴラスが「宇宙」と呼んだものを知ることができるーーこの言葉は完全なる秩序と極限の美という考えを含んでいる。スポーツは非常に美しく深遠なものだから、単純なスローガンにすることはできない。私たちがどのようにゲームを楽しむかは、想像する以上に大事なのだ。それは私たちの世界内存在(being in the world)のあり方を意味するからである」 マーフィーは「スポーツと精神的体験の結合」、すなわち「からだとこころの新しい結合」を夢見ていた。(253-4頁)〇ほんとうに自己の成長を望むなら、何か体育的なことをしなければならないという考え方が、サブ・カルチャーの中に浸透していった。この目的のためのものとしては、武道、特に合気道の人気が高く、ついでヨーガ、そしてランニングが続いた。 そしてこうした考え方が広まるにつれ、新しいジャンルのスポーツ本が登場してきた。例えばティム・ゴールウェイの『精神的ゲームとしてのテニス』(後にシリーズ化し、『精神的ゲームとしてのゴルフ』『精神的ゲームとしてのスキー』などが出た)またマイク・スピノの『ジョギングを超えてーーランニングの精神空間』も出た。このジャンルの古典としては、オイゲン・ヘリゲルの『弓術における禅』も有名。 これらの本が言わんとするのは、身体的活動の中に静寂な瞑想的精神が現れるのであって、逆にそれを邪魔するのが自我である、ということだった。そしてそれはヨガやゲシュタルト療法の狙いと同じともいえた。 こうしたことはエスリンがこれまで実践してきたこと、つまりゲシュタルトによる身体の気づき、エンカウンターにおける身体的側面、新・ライヒ派の療法、マッサージ技法などからすれば当然の帰結ではあったが、中流アメリカ人の男らしさの牙城たるスポーツに、精神性を見たり、それを自己発見のための道具に使うといったことは、『王国のゴルフ』の著者でもあるマイケル・マーフィーの独創によってしか思いつかないことではあった。(254-5頁)〇エストのエアハルトとマーフィーは友人であったが、あまりにも急速に進展するエストに、マーフィーは懐疑的でもありまた警戒もしていた。(267頁)〇エストは、エアハルト自身の人格の問題も含め、例えば詐欺のようなしつこい販売、トレーニング自体の歴史認識の欠如、社会意識や共感・常識の欠如など問題点が多かった。とりわけ、その綱領、すなわち「すべての人間は自分の人生を全く自分で作るものであり、どんなことが起こっても自分に責任がある」という綱領に問題があった。(268頁)〇ただ、世間の認識としては、エスリンは「ヒューマン・ポテンシャル運動のハーバード大学」(ニューズウィーク誌の評言)であって、エストの商業主義とは比べ物にならない高尚さを持っていたし、それはエスリンのリーダーであるマイケル・マーフィーやリチャード・プライスの人格によるものであった。(271頁)〇ヒューマン・ポテンシャル運動は政治に無関心であり、潜在的に保守的である、というのは、左翼インテリ雑誌に繰り返し主張される公式なのだが、セオドア・ローザックによれば、カウンター・カルチャーは本質的に革命的なものであり、しかしそれは新しい種類の革命だという。 ローザック曰く、カウンター・カルチャーの破壊的な教義は、階級や権力、生産性には向けられずに、心理療法やサイケデリックな薬物、東洋宗教独自の「精神の解放」に向けられる。ローザックはこの新しい意識革命に対していくつかの点で批判はしたが、おおむね好意的ではあった。 一方、右翼は感受性訓練とかエンカウンターを共産主義的洗脳方法とみなすようになり、保守主義者の間でもヒューマン・ポテンシャル運動は反体制的だという意見が多くを占めるようになった。(276-7頁)〇ロロ・メイは自らもヒューマニスティック心理学の創設者の一人であり、エスリンの初期の指導者でもあったが、このころはエスリンに批判的であり、エスリンの哲学は危険なほどに軽量級であって、人間体験の暗い側面を扱っていないと考えていた。(283頁)〇かくしてエスリンは右翼からも左翼からも批判の対象となり始めるのだが、これにトム・ウルフも加わることになる。ウルフ曰く、1970年代は「ミー世代」であり、エスリンのやっていることは自己をいじくりまわす道具であり、古の錬金術のように、昔のパーソナリティを変え、自己を作り直し、新しい型にはめ、向上させ、磨き上げ、それを観察し、べったりくっつくこと、すなわちミー世代特有のナルシシズムなのだと決めつけた。(278頁)またジャーナリズムも、ミー世代論争を受け、1970年代の政治からの逃走と不毛な自己愛への耽溺について、エスリンがリーダーシップをとった、と主張した。(286頁)〇トム・ウルフはエスリンに対して嘲笑的であった(279頁、しかしエスリンはまったくウルフを問題にしなかったーー284頁)、その他、『ボブ&キャロル&テッド&アリス』という映画や、カリフォルニアの女性作家サイラ・マックファデンがセラピー中毒の主婦を描いた『ザ・シーリアル』という小説(後に映画化)、あるいはテレビ番組の『I Want It All Now』など、エスリンをモデルにしたと思しき、嘲笑的な作品が出た。(279頁)またゲイ・タリーズの『汝の隣人の妻』に出てくる南カリフォルニアのセックス温泉のモデルもエスリンである。しかし、言われているほどエスリンはセックスに固執していない。(293頁)〇こうした批判に対し、ヒューマン・ポテンシャル運動側は、トーマス・クーンの著書『科学革命の構造』で使われた「パラダイム」というこの時代の流行語を用いて、自分たちの新しい世界観と、旧弊な世界観の間でパラダイムの軋轢が起こっているのだ、と解釈した。(280-1頁)〇フリッツ・パールズのゲシュタルト療法の目標は自己への気づきであり、両親の拒否や社会的同調によって窒息させられた思考や感情を、パーソナリティの中に統合することであった。フリッツはセラピーの目標は自己実現であって、自己イメージの実現ではないと言った。人は自分自身になるのであって、ならなければならない自分になるのではないと言った。(284-5頁)〇社会からの批判に対し、エスリン・サイドも一応、対応しようとしていた。 例えばローザックの擁護(287頁)にも関わらず、エスリンは政治的でないという批判はずっとあったわけだが、これに対応すべく、エスリンでも1970年代後期と80年代初期に、社会的・政治的問題についてのプログラムを組んだが、参加者が少なすぎて実現しなかった。やはりエスリンは休息やセラピーのために人が集まるところであって、政治活動のセミナーの場所ではなかった。しかし、マイケルはいまだに努力を続けている。 〇一方、エスリンは反知性的であるという批判については、人生の大半を哲学的思想に費やしてきたマイケルとしては受け入れがたいものではあったが、確かに初期の「古典時代」に知的な座学が行われたとはいえ、パールズのゲシュタルト療法は「考えることをやめて感覚にかえれ」ということを参加者に要求したことは確かだった。そしてそれは、エスリンが発したメッセージの中でも最も世間に広まったものでもあった。(288頁) ・・・ということは、ブルース・リーの「Don't think-- feel!」も、このあたりに根があるのかも知れない。〇確かにエスリンのセミナーでは頭で考えることは非難され、感情を表に出すことは推奨された。つまり、頭でっかちの文明への対処法として身体への気づきが奨励されたのだが、振り子がふれすぎて、反知性主義の方向にまで行ってしまった気配はあった。マズローやロロ・メイが危険視したのは、まさにそこだった。(289頁)〇エスリンにも楽観主義はあったが、それをさらに極限まで推し進めたのがエストだった。エストはポジティヴ・シンキングという素朴なアメリカ人の思想を極限まで押し上げ、アメリカ人の楽観主義に拍車をかけた。エストを身につければ、あなた自身が自分の宇宙を創造する万能の力を手に入れたことになるのだ、というメッセージが、エストにはあった。 そしてエスリンの有力なメンバーであったウィル・シュッツもまた、エストの影響を強く受けていて、個人的責任という倫理を通して達成されることには限界がない、という確信を持っていた。彼の『単純さの深い意味』という本には次のように書いてあった: 「すべての人は自分の人生を自分で生きているのだ。自然の法則は私たちが機能してほしいというときにだけ機能する。・・・自分のアウェアネスが増大するにつれて、自分の存在をコントロールする力も増大する。・・・すべてのことを自分で選択したのだと気づくとき、私は自分の世界を支配し、自分の選択するどのような生き方もできるのだ」と。(290頁)〇いずれにせよエスリンは、大きな時代の変遷、すなわち、人間が自分自身と世界をどのように体験するかについての基本的な移行、が近づいているという考え方に、常に結びついていた。(291頁)〇1980年代に入ると、もはやマスコミはヒューマン・ポテンシャル運動について騒がなくなった。千年王国も到来しなかった。しかしエスリンの事業、エスリンの技法は、伝統的なセラピーやカウンセリングの中に浸透したのだから、それは成功だったのだ、ということもできる。 またエスリンは他のグロウス・センター(マサチューセッツの「ニュー・アルケミー研究所」、コロラドの「ウィンドスター」、北カリフォルニアの「ファラローンズ研究所」など)にならい、太陽エネルギー、有機農業、風力、水耕栽培法などを取り入れ、施設としてはますます成功していた。(310)〇エスリンの創設者マイケル・マーフィーとリチャード・プライスは、エスリンと付かず離れず、いい関係を保っている。ただ、エスリンの施設面により深く携わっていたプライスは1985年1月下旬に、設備内の点検をしている時、がけ崩れで崩落した石に当たり、亡くなっている。(322頁)〇『可能性をひらく』(原題:Please Touch)という本の中で、ジェーン・ハワードが、エスリンの発音は「レスリング」と同じだ、と述べている。(訳者あとがき)・・・とまあ、こんな感じですかね・・・。 そんなに大部な本ではないのですが、エスリン研究所の創設から80年代までを追った本というのは他にはなく、それだけでも貴重な本であるし、またその内容も興味深く、エスリンの存在意義を考える上で示唆に富む文章が多いものですから、まとめるだけでも三日掛かってしまいました。 これを読むと、60年代から70年代にかけてのアメリカの精神面がよく分かるので、本当に勉強になります。書き方がめちゃくちゃ面白いかとか、めちゃくちゃ感動的かというと、そうでもないのですけれど、読み取るべき内容のたっぷりある本です。その意味で、教授の熱烈おすすめ! と言っておきましょう。
June 14, 2020
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えーっと、昨日に引き続きまして、『エスリンとアメリカの覚醒』という本の要点を箇条書き風にまとめていきます。 あ、その前にこの本の原題を記すのをわすれてました。『The Upstart Spring: Esalen and the American Awakening』(1983) でございます。〇エスリンは、「エンカウンター」「ゲシュタルト療法」「ボディワーク」の3つで有名になっていくのだが、このどれも皆、20世紀初頭のヨーロッパに起源を持っていた。〇例えば「エンカウンター」は、ヨーロッパの社会学者や実存主義者たち、例えばマルチン・ブーバーなどに起源をもつ。ブーバーは『我と汝』の中で、「現代文明の発展は、人間が互いに顔を突き合わせ、意味深い関係を持つ機会を抹消してしまった」と述べ、疎外状況の中で精神を病むのは、要するに社会病理なのだと説き、これは人間の親密さの再発見の中でのみ回復される、とした。工業化・都市化の進行の中で、人間性の回復をもたらす手段の模索がそのころから始まっていた。(75頁)〇で、それを主題にして研究したのがオーストリアの精神医ヤコブ・レヴィ・モレノ。彼は疎外・分裂状況は社会問題であるばかりでなく、精神の危機だと考え、集団セラピーによってこの病理の治療にあたり、それを「出会いの宗教」(religion of encounter)と呼んだ。つまり彼は従来からある患者とセラピストの一対一の治療関係を変えた。そして、その過程で20年代から30年代にかけて彼が築いたのが、「心理劇」という治療形式。セラピストが監督となり、患者グループが自己演出の形で様々な役割を園児合うというもの。彼はこの社会的・宗教的儀式を、非人間化に対する人間的な解毒剤であるした。(76頁)〇モレノの心理劇は、その後感受性訓練(sensitivity training)と呼ばれる体験的方法へと発展することになる。感受性訓練が最初に試みられたのは、1946年。(77頁)〇「ゲシュタルト療法」と「ボディワーク」は、1963年にフレデリック・パールズによって(エンカウンターが持ち込まれた二、三週間後に)エスリンに持ち込まれた、(80-3頁)〇ゲシュタルト療法は、患者の過去ではなく、「今、ここ」に注目し、今なぜ患者がこういう行動をとっているのか、ということに患者自身の意識を向けさせることで、ある種の気づきを得させるというもの。(81頁)〇「ボディワーク」については、そもそも「ジア・フ」の太極拳を教え始めた時点で始まっていたようなものだが、当時、太極拳の知識はアメリカにはほとんどなく、エスリン周辺でも「ジア・フという奴がタイチーを教えている、あるいはタイチーというヤツがジア・フを教えている」というような曖昧な言われ方をしていたという。(82頁)〇いずれにせよ、「ボディーワーク」とは、リラクセーションや体の運動を通じ、精神と身体のバランスをとる、というのが基本的な考え方。特にユージーン・サガンのプログラムによって有名になっていくが、シャーロット・セルヴァー(と夫で弟子のチャールズ・ブルックス)の「センサリー・アウェアネス」のコースが有名。〇ちなみにそのシャーロット・セルヴァーの先生がベルリンの体操教師エルザ・ギンドラー。ギンドラーは1910年に結核にかかり、自分の呼吸を自分でコントロールする方法を編み出した。そして実際に自分の結核を治したことを機に、人にも教えるようになった。ギンドラーから学んだセルヴァーは、バウハウスでデザインの学生にそれを教えたほか、エーリッヒ・フロムやフレデリック・パールズなどの精神医にも伝わり、アラン・ワッツも1950年代に彼女のワークに参加している。そして、1963年以降、ビッグ・サーはセンサリー・アウェアネスの西海岸の拠点となっていく。(84頁)〇パールズは元患者で弟子のバーナード・ガンサー(後に彼もエスリンでボディワークを担当することになる)の示唆でエスリンのことを聞き、放浪癖があり、かつ高齢で先が知れているパールズとして、ここをねぐらにするのは悪くないと思って、自らマイケルたちに電話をかけて交渉、マイケルたちはパールズに必ずしもいい印象を持っていなかったが、かれの実力は認めていたので、結果、1964年の春にエスリンにやってきて、居ついてしまった。(85頁)〇パールズの有名な「ゲシュタルトの祈り」というのは次のようなもの: 私は私のことをし、あなたはあなたのことをする。 私はあなたの期待を満たすためにこの世に生きているのではない。 あなたも、私の期待を満たすためにこの世に生きているのではない。 あなたはあなた、私は私、 たまたまお互いに出会えることがあれば、それはすばらしい。 出会えることができなければ、それはどうしようもないことだ。(86頁)〇パールズは一時、ウィルヘルム・ライヒの患者だった。ライヒは精神分析運動の中で一時、若き天才と言われたが、その後、独自の心理療法の理論を打ち立てていった。 フロイトがリビドーの抑圧と言ったところを、ライヒは性器的性欲の抑圧といい、真のオルガズムに達する能力が精神的健康をもたらすとした。フロイトも、無意識の中にあるものがチックなどの身体行動に反映されることに注意していたが、ライヒは患者のやることすべてが隠された神経症的意味の手がかりだった。ライヒは患者が何を話すかではなく、どう話すかにもっと注意を向けた。ライヒによれば性格とは武装であって、現実に対して自分の身を守る方法であり、オルガズムはその性格によって鋳造された鎖から心的エネルギーを解放すると考えたのである。 ライヒはフロイトに対する反逆者であると同時に、マルクシズムの改革者でもあった。フロイトの考え方とマルクスの考え方を結び付けようとしたのだが、結果、国際精神分析学会からもドイツ共産党からも追放されることとなった。(88頁)〇ライヒは、患者の過去を考古学的に調査するより、現在の行動や態度に注目する方が生産的だと考えた。で、この新奇な考え方が、めぐりめぐってゲシュタルト療法の中心原理となっていく。またライヒは神経症は心のなかに住むばかりではなく身体の中にも住むものだと主張し、患者に呼吸訓練をやった。また体の緊張した、曲がった部分を手でじかにマッサージすることもやった。ゆえに、パールズがアイダ・ロルフの「ロルフィング」を体験したとき、パールズはアイダがライヒの精神的後継者であると認めた。(88ー9頁)〇パールズの考案したゲシュタルト療法は、もともと患者とセラピストだけで行うもので、その点では古典的な精神分析に似ていたが、1950年代に入ってグループ・アプローチが登場するのを目にすると、一対一の治療を止め、またニューヨークのモレノの心理劇を見て、ドラマ形式のグループ療法を開発。患者とセラピストがグループの中で一緒に話す、という形にした(モレノはパールズが自分の方法論を盗んだと考えた)。(92-3頁)〇パールズによれば、ゲシュタルト療法とは、何かを突き破るのではなく、人のプライバシーの中に突如「侵入」し、それによって失われた(あるいは死滅した)感情との接触を患者が取り戻すよう仕向けることだという。(93頁)〇ゲシュタルト療法では、パールズの脇に背もたれのまっすぐな椅子が二脚置かれ、このホットシートに患者を座らせ、セッションに引き入れる形になるという。そしてまず自分が見た夢について語らせ、それをきっかけに、夢の中に出てくるものを自分自身(あるいは自分の創造物)と見なし、またそうする過程で自分の身体に出てくる動きを観察するよう要請されたりする。ゲシュタルト理論では、こういう作業によって、疎外された自己の諸部分が統合され、十分に目覚めた人間として再統合されるという。(94頁)〇結局、人間は「今・ここ」という現実の存在から自分を切り離すために様々なトリックを弄するものであって、それによって生命が死んでしまう。自分自身の行動から距離を摂ろうとして、曖昧に他のことを話したりするが、それがいわゆる知性化(intellectualize)だと。そこでパールズは、そうやって分裂した自己を操作して、自分自身との接触を取り戻させるということをする。もう一つのホットシートに親とか配偶者が座っているものと想像させ、その人に話しかけさせたり、二つの椅子を行き来して役割を変えたり、そういうことを誇張的に繰り返させたりするという。(96頁)〇ティモシーリアリーは、「頭を使うためには頭の外に出なさい」とよく言ったが、パールズのやっていることはそれに近い。つまり、患者が逃避のために合理的思考をすることを止めさせた。(97頁)〇「スレート温泉」は「ビッグ・サー温泉」と改名されていたが、それが「エスリン研究所」という名称に変わったのは1964年。〇エスリンではケン・キージーが物語を読む週末グループをやったし、ティモシー・リアリーやリチャード・アルパート、J・B・ラインも講義した。またパウル・ティリッヒはその生涯最後の年となる1965年にエスリンで週末を過ごしている。ティリッヒはフランクフルト大学でクルト・ゴールドシュタイン(マルチン・ブーバーやパールズの師)の友人であり、1933年にニューヨークに来てからは、ユニオン神学校でロロ・メイの師となり、またフレデリック・スピーゲルバーグの同僚となった。(101-2頁)〇カルロス・カスタネダも1960年代初期の大学院時代、エスリンに来て、インディアンのシャーマンについてのセミナーを開いている。(105頁)〇 1960年代は、自己実現、人間の可能性、変容といったテーマと調和する宗教的展望があった。来るべき文化の変革は、目覚めるということであり、それは人間進化の新しい局面と考えられた。 またこれらに加え、宇宙空間の探求という面もあり、心理的・精神的・科学的なものを包含する方向性を持っていた。(109頁)〇エスリンを対外的に紹介するのに資した人の一人がジョージ・レンナード。彼は1962年、『ルック』誌から派遣されてカリフォルニアのビートニク運動や若者文化についての記事を書いたことを機に西海岸文化に開眼し、この地で何か新しいことが起こっていることを直感、1964年には『人間の可能性』(The Human Potential)という題の長編記事を『ルック』に書いている。またマイケルと出会って意気投合したことから、エスリンのスポークスマン的存在に。(112-3頁)〇1965年秋のエスリン研究所のパンフレットには、ジョージ・レンナードの次のような文が概念として掲載された: 「一人の人の生涯のなかでも、物理的環境は目に見えないくらいに変化しているが、私たちが人間として世界にかかわり現実を経験するその仕方においては、それに相当するような変化は起こっていない。しかしこうした変化は避けることができない。というよりも今起こりかけているのだ。まだ誰にもしられていないが、人間の可能性を開く新しい方法・技術は、すでに私たちの手のとどくところにある。しかもまだまだ多くの方法が開発されつつある。私たちは今、心の踊るような、しかしまた危険でもある前線に立っているのであり、昔からの疑問、「人間の可能性の限界はどこにあるのか? 人間の体験の限界はどこにあるのか? 人間であるということはどういうことなのか?」という問いに、新しい答えを出さなければならないのだ」 これが言わば、エスリンの目的であった。(115-6頁)そしてこの目的のキャッチフレーズとして、「ヒューマン・ポテンシャル運動」(Human Potential Movement)という言葉が、レンナードとマイケルの脳裏に浮かんできた。(119頁)〇パールズは、エスリンに来た時は既に高齢で、しかも心臓病を患っていたが、たまたまアイダ・ロルフの独自の身体的治療法を受け、劇的な改善をする。筋膜の下の筋肉をもみほぐすロルフの方法論は、ハタ・ヨーガや整骨療法、さらにアレクサンダー・テクニーク(ハクスリーが身体の再教育法として評価した)を突き交ぜたようなものであったが、パールズがそれによって劇的に治ったことで、その後、世界的に有名になるきっかけをつかんだ。(126-7頁)〇『ルック』第二回カリフォルニア特集号(エスリンが取材された)は1966年の夏に出た。(140頁)そこにはこう書かれた:「多くのカリフォルニア人たちは、とくに大学の優等生やリーダー的な専門家たちは、慎重な統制のもとに薬物をきわめて「真面目な」かたちで使っていた。こうした人々は快感を得るためとか、セラピーのためにLSDを用いたのではなく、未知の豊かな意識の世界を垣間見るために用いたのだ。いわば彼らは、正式な学校教育を終わる前に大陸と東部を旅行した、数世代前の典型的な英国人にもたとえられよう。ビクトリア王朝の青年たちが、頑固な社会のなかに帰って来ても他の文化を見たというだけで、他のやり方が可能なことを見ただけで、もはや昔とは同じではありえない、もはや昔のように独断的でありえない、もはや慣れないやり方だからといって拒否することはできない、そんなふうに変わってしまったのである(Look 1966,July 28,108-116)」。〇1967年のカリフォルニアはヒッピー・ムーヴメントが最高潮に盛り上がっていた。それはビート運動時代のジャズと詩の朗読をロックに変え、より華やかに仕立て直したようなものだった。若者たちのいらだちは「サマー・オブ・ラブ」に結集し、ティモシー・リアリーの「Tune in, turn on, drop out」の掛け声となった。(143頁)〇このころ、エスリン以外にもエスリンをモデルにした「グロウス・センター」が各地に生まれていた。例えばボブ・ドライバーが作った「カイロス(Kairos)」。サンディエゴの近くにあった。またシカゴの「オアシス(Oasis)」やニューヨークの「オーレオン(Aureon)」などもそうだった。(146頁) ・・・とまあ、この辺まで書いたところで、大分長くなりましたので、この続きはまた明日、ということにしましょう。〇
June 13, 2020
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W・T・アンダーソンという人の書いた『エスリンとアメリカの覚醒』という本、前にも一度読んでいるのですけれども、今回、ちょっと用があって再読しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ちなみに、研究のために読む本を再読することというのは少ないのですが、今回そういうことをしてみて、本というのは、基本、再読すべきものであるなと痛感いたしました。 本というのは、畢竟、読者の質によって価値を変えるものなのよ。だから予備知識がないまま初読して「つまらない本だな」と思っても、その後、予備知識をつけてから再読すると、その本の面白さがわかるということがある。『エスリンとアメリカの覚醒』という本も、前に読んだ時から勉強を積んで、この本に書かれている人たちのことをある程度した上で再読したら、以前読んだ時とは比べ物にならないほど色々なことが分かるようになり、大変勉強になりました。 ということで、今回の心覚えは、二度目なので、全体像というよりは箇条書き的になりますが、元々自分のために書いていますので、ご容赦下さい。〇エスリンの人気講師の中でもアラン・ワッツはちょっと変わっていて、講義形式は古典的なれど、日本の着物を着ていて、要点を強調するときには東洋風の鐘を鳴らしたりした。(3頁)〇エスリンの主催たるマイケル・マーフィーは、興味のある人にはすぐにエスリンでの講義を慫慂するところがあり、アブラハム・マズロー曰く、「悪魔みずからがエスリンに姿を現してもマイク・マーフィーは、その悪魔にセミナーを頼んだであろう」。(4頁)〇発展の順序としては、「ヒューマニスティック心理学」の運動が「ヒューマン・ポテンシャル運動」につながり、そこから70年代・80年代になって「アクエリアン」、「エスティアン」、「意識変容の信念」へと道を譲っていった。(5頁)〇1740年代の「大覚醒」と、1960年代の精神的(宗教的?)高揚を求める動きは、奇妙なほど似ている。特に「神秘なるものへの直接参加」とか「千年王国の到来への期待」という点で。(7頁)〇1960年のサンフランシスコはアレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックの活躍などもあり「ルネッサンス」と呼ばれるほどに活気があった。当時エスリンの創設者マイケル・マーフィーとリチャード・プライスもそこに住んでいたのだが、この年、バークレーでプライスはオルダス・ハックスリーの「人間の可能性」と題した講義を聴講する。これが例の有名な「人間は全能力の10%しか使っていない」というヤツ(その内容あり)。ハックスリーは、人間の可能性を追求する方法として、フレデリック・パールズのゲシュタルト心理療法や、マシアス・アレクサンダーの身体再教育法など、様々なテクニックに注目していた。マーフィーとプライスは、ハックスリーの「人間の可能性」というアイディアに共感し、彼に手紙を書いて助言を求めた。その結果、サンタモニカ在住のハックスリーの友人、ジェラルド・ハードと二人は面会し、ハードに焚きつけられて、ますますその方向での追及をしていくことを決意するようになる。(10-12頁)〇エスリンにはアーノルド・トインビーやパウル・ティリッヒも講義に来ている。(15頁)〇ビッグ・サーにあるエスリンには元々温泉があったが、人跡未踏の地でもあって、知る人ぞ知る存在だった。それが1940年代になって注目されるようになったのは、ヘンリー・ミラーがこの地に移り住むようになってから。彼のカリスマ的人気によって、人々がビッグ・サー詣でをするようになり、次第に有名に。決定的だったのは1947年、ミルドレッド・ブレーディが『ハーパー』誌に「性と無政府主義の新しい礼賛」という記事を書き、戦後のボヘミアンのメッカはビッグ・サーだと宣言したこと。(19頁)〇ミルドレッド・ブレーディはビッグ・サーの住民の多くがウィルヘルム・ライヒをあがめていることに驚き、1948年、今度はライヒについての記事を『ニュー・リパブリック』に掲載。当時ライヒは「オルゴン集積器」の開発などをしていたが、この記事がFDAの告発を誘い、逮捕され、獄中で死んだ。しかし、アメリカのサンフランシスコへの注目は高まり、それに惹かれてギンズバーグたちがやってきて、それが1950年代のビートニク運動につながり、さらにヘイト・アッシュベリーのヒッピー・シーンにつながり、1960年代のカリフォルニア・ドリーミングが始まった。(20頁)〇マイケル・マーフィーの祖父はサリナスで病院を起こし、父親ジョンは有能な弁護士として名を挙げるなど、マーフィー家は西海岸では知られた家。一家は文学の素養もあり、ジョンの親しい友人にスタインベックがいた。1952年の『エデンの東』のモデルはジョンとその二人の息子、すなわちマイケルとデニスだという説がある。実際、小説のキャルとアーロンの双子の性格は、デニスとマイケルのそれぞれの性格に似ていた。(23-24頁)〇そもそもマイケルが東洋思想に興味を持つようになったきっかけは、スタンフォードで当時そこのスター教授だったフレデリック・スピーゲルバーグ教授の東洋宗教の講義を偶然(教室を間違えた)聞いてから。これで世界観を一変してしまったマイケルは医学部を辞め、引き続きスピーゲルバーグの講義を聴いたり、シュリー・オロビンドの哲学に影響を受け、一日何時間も瞑想に打ち込むように。(26-27頁)そしてそうした中で、元スタンフォードの同級生にしてたまたま人に紹介されてきたと言ってマイケルを訪ねてきたリチャード・プライスと出会う。プライスは心理学の教授となるべくスタンフォードを出てハーバードの大学院に行き、その後バークリーにも籍を置いたが、知的関心を失い、軍隊に入り、1955年、軍務の合間にスタンフォードの聴講生としてスピーゲルバーグの授業を聴き、アラン・ワッツやフレデリック・パールズなどに関心を持つようになっていた。(34-35頁)〇1958年夏、『タイム』誌が「禅仏教はますます粋なものになってきた」と書き、アラン・ワッツがアメリカにおける禅学者のリーダーであるとした。またこのすぐ後、『ネーション』誌もまた、アラン・ワッツを「アメリカ禅の仏陀であり、ブレーンだ」と呼んだ。〇ビートニクたち、たとえばローレンス・ファーリンゲティ、アレン・ギンズバーグ、ジャック・ケルアック、ゲーリー・スナイダーらは、アラン・ワッツの講義を聴き、禅のテーマを作品に取り入れた。中でも『禅ヒッピー』は代表的。この中で、アラン・ワッツは「アーサー・ウェーン」という名で登場する。(35-36頁)〇リチャード・プライスもこうした連中の動向を見ていたが、そのうちに友人のジア・フ・ヘンから紹介されたボニーという少女と恋に落ち結婚(後、離婚)。しかし、そのあたりから精神のバランスを崩し、電気ショック療法やインスリン・ショック療法など、当時の精神病治療法を受け、ますます心身をの具合を悪くするのだが、1960年、サンフランシスコの友人たちから「イースト・ウェスト・ハウス」というのを作ったから、手伝に来いと言われ、カリフォルニアに舞い戻ってきた。そして、ビッグ・サーに家族が所有する土地で小規模な温泉リゾートを始めてみようと思っていたマイケル・マーフィーに誘われ、二人でこの仕事に着手したのだった。(38-41頁)〇温泉経営計画が実現し始める頃、マイケルとリチャードはフレデリック・スピーゲルバーグやアラン・ワッツ、グレゴリー・ベイトソンなどに助言を求め、これがのちに彼らとの接点となった。(46頁)〇アラン・ワッツの来歴。1930年代のロンドンは、東洋学者、ヨガ行者、グルなどが沢山居たが、かれらを束ねる中心的組織がブラヴァツキーの「神智学協会」だった。神智学は、ブラヴァツキーがチベットでクート・フーミやモーリャという高僧から学んだ密教の教えに基づくということであったが、クート・フーミとかモーリャという名前はチベット人らしいものではなく、怪しげなものであった。それにも関わらず神智学はアメリカでもヨーロッパでも勢力を持ち、イギリス貴族も多く賛同していた。ワッツがロンドンで発見した精神運動はまさにこれだった。ワッツはこの他、クリスマス・ハンフレーズやドミトリユ・ミトリノヴィク。そしてスピーゲルバーグとは友人だった。またワッツはロンドンでクリシュナムルティにも会っている。クリシュナムルティは神智学におけるブラヴァツキーの後継者として英才教育をていたが、結局、協会の階層性や独断性に反対して協会と距離を置き、そのために神智学運動が壊滅。しかしワッツはクリシュナムルティの考え方に賛同し、組織とは無関係に放浪しながら導師としての役割を果たすことを目指すようになる。(50-1頁)〇ワッツはその後、アメリカに渡り、エバンストンのノースウェスタン第g買うの監督教会牧師となるが、その後ここを止め、一時ニューヨークで執筆活動を行うも、スピーゲルバーグから誘いを受け、サンフランシスコの「アジア研究所」に招かれた。その際、ロスに立ち寄ったワッツは、ハックスリーやハード、クリストファー・イシャウッドなどと会う。〇ワッツは50年代のサンフランシスコで西海岸の芸術家や作家たちのグルとなるが、ビートニクたちの仏教の取り上げ方には否定も賛同もしなかった。スナイダーはある程度評価したが、ケルアックは評価しなかった。またマリファナやペヨーテなどの使用についても態度を保留していたが、それは道徳的な意味でではなく、薬物によるハイな状態が宗教的経験の入り口になりえるかについて疑念を抱いていたため。(52-3頁)〇マイケルとリチャードは、ビッグ・サーで後のエスリンの原型となる「ユース・ホステル」と呼ばれる知的なイベントを行っていたが、この試みに最初に興味を示した心理学者がジョー・K・アダムズ(ベイトソンの友人)。アダムズがLSDセッションに参加した経験があるが、当時LSDが学問的に注目されたのは、これによって化学的にモデル分裂症が導入できるので、正気の人に狂気の世界を見る機会を提供できたから。しかし、すぐに科学者たちは、LSDの可能性、すなわち日常の意識を超えた意識状態の研究の具とみなすように。アダムズはLSD摂取の後、急性精神病の症状に襲われたが、この経験を学問的に役立つものとみなした。(55-6頁)〇当時、一部の心理学者の間で一つの組織が形成されていた。それはのちに「アメリカ・ヒューマニスティック心理学会」と呼ばれるようになるもので、フロイト派に支配されていた心理学の分野で、反体制派(ユング派、ライヒ派、実存主義派、ネオ・フロイディアンズ)の拠点だった。(57頁)〇アダムズがユース・ホステルのリーダーを務めた後、2回目のユース・ホステルにはこの時代のサンフランシスコ文学界のボス、ケネス・レックスロスがリーダーを務めた。また、プライスの友人のジア・フ・ヘンもやってきて、温泉の管理などの雑用を果たしていたが、彼は後にエスリンで太極拳を教えるようになる。(58頁)〇こうしてビッグ・サーの活動が盛んになっていく中、1962年の夏、セミナーのタイトルを考えている中で、ハックスリーが唱えていた「人間の可能性(The Human Potentiality)」という言葉にぶつかり、これをセミナー・タイトルにして世に発表した。(59頁)〇「人間の可能性」というキャッチ・コピーは現実的であると同時に、心理学・神秘主義・科学・芸術・など、様々な分野を包含できる曖昧さも持っていた。 そしてこのキャッチ・コピーに賛同し、惹かれて、様々な知識人がビッグ・サーを訪れるようになっていた。特にマイケルとリチャードがオルダス・ハックスリーの知己を得ていたことは大きく、ハックスリー自身もビッグ・サーにやってきて講義(1962年)しているし、この講義にはアラン・ワッツも生徒いて参加。ハックスリーの後妻であるローラも、後にエスリンのリーダーとなり、また会友となった。(60頁)〇もう一人の大物がアブラハム・マズロー。彼はフロイト派と行動主義が支配的だった当時の心理学の状況は、精神の病気にこだわりすぎていて、「精神の健康」を見失っていると考えた。1954年の著作の中で、「肢体不自由、発育障害、未成熟、不健康といった標本の研究からは、障害のある心理学、障害のある哲学しか生まれてこない」と述べ、健康で十分に機能する人間の研究をすべきであると主張。クルト・ゴールドシュタインの言葉を借りて、「自己実現者(self-actualizers)」の研究を推進すべきとしたほか、一般人の多くが体験する明晰で至福に満ちた宗教的恍惚感を伴う感覚、いわゆる「至高体験(peak experiences)」の研究も進めた。これはウィリアム・ジェームズ以後の心理学者(ジェームズは含まないという意味か?)が逸脱行為として避けてきた問題でもあった。そして彼のこうした考え方は1962年の著作『完全なる人間』に反映している。それは、多くの心理学とは違って、「人生はどんな人にももっと深く豊かなものだ」と確認させるような本であった。(61-2頁)〇ちなみに、マズローがビッグ・サーにやってきたのは、完全な偶然だった。1962年の夏、マズローとその妻バーサは、一号線をドライブしていて、たまたま一夜の宿を探していて、それでマイケルたちの「スレート温泉」を見つけたのだった。マズローが温泉のフロントで空き部屋があるかを問うた時、受付たジ・アフは、アブラハム・マズローのサインを見て驚愕、すぐに『完全なる人間』をとってきて、これの著者かと尋ね、マズローがそうだと答えると、「マズローだ、マズローだ、マズローだ!」と大騒ぎをしたとのこと。そしてこれを機にエスリンと縁のできたマズローは、ここでの活動に興味を持ち、以後もかかわるようになっていく。(63頁)〇かくしてエスリンの「古典時代」が始まり、例えばウィリス・ハーマン(スタンフォード大教授)などがリーダーとなった討論会(「拡大するヴィジョン」)などが行われるように。ハーマンは、ジョン・ラングトン・デーヴィの『人間の本質について』やマズローの『完全なる人間』、ケネス・ウォーカーの『人間の診断』、フランツ・ウィンクラー(ルドルフ・シュタイナーの弟子)の『人間ーー二つの世界に架ける橋』などを推薦図書にしていた。ウィンクラーは、西洋風の合理的・認知的思考とバランスをとるように、直観的思考を再発見すべきと主張、宗教・芸術・自然から得られる知恵にもっと注目すべきだ、と主張するような人だった。(64頁)〇だが、知的な古典時代は長くは続かなかった。というのも、こういう知的なセミナーに参加した人々が、「悟り」や「至高体験」は結構だが、それをどうすれば自分も体験できるのか、その具体的な方法を教えてくれ、と言い出したため。(65頁)〇実際、1962年冬(?)のセミナーでは、ついに「薬物の誘因による神秘主義」というセミナー・タイトルが見られるようになる。リーダーは心理学者ポール・カーツと発明家のマイロン・ストラロフだった。〇LSDを用いたサイケデリック運動は、「ヒューマン・ポテンシャル運動」に先立つこと8年だったが、この二つの運動の起源はどちらもオルダス・ハックスリーだった。 精神病理学は1950年代の末頃には急速に発達し、たとえばトランキライザーなどが使われるようになったのが、LSDはその中でも最も強力な薬物で、分裂症やアルコール依存症の治療薬として試用されていた。1950年代初期にハクスリーは、分裂病の治療薬としてメスカリンを研究していたイギリスの若い精神医版フレー・オズモンドと知り合う。オズモンドは「サイケデリック」という言葉の発案者でもあった。1953年にオズモンドがロスに居たハクスリーを訪れ、この時、ハクスリーは10分の4グラムのメスカリンを飲み、『知覚の扉』に結実する例の体験をすることになる。(68頁)〇ハクスリーの『知覚の扉』は、薬物によって誘引された経験に肯定的な側面があること(しかもそれらの薬物に習慣性がにこと)を述べた点で、1950年代に最も世間を騒がせた本となった。〇一方、1960年代に入ると、「ハーバード・パーソナリティ研究所」でティモシー・リアリーとリチャード・アルパートがサイロシビン(=人工メスカリン)を刑務所の無期懲役刑の囚人に投与する実験を始めていたが、ハーバード大からそれを止められ、1962年11月に新しい組織(IFIF)を作って研究を進めていた。エスリンでカーツとストラロフが薬物誘引による神秘主義のセミナーを開いたのは、そういうサイケデリック運動の只中だった。(70頁)〇だが、ハクスリーはティモシー・リアリーたちの行動を疑問視していた。曰く:「ティム・リアリーおうしたのだろう? 二、三週間前に彼とここで一晩話した。そしてこんなバカげた話をするのですっかり心配になってしまった(意識的な精神はロボットにすぎないとか、ほんとうの知性はDNA分子のなかにだけあるとか、人口問題の面倒をみる神が天にいるのだから問題はない、とか)。彼が正気なのかどうか心配しているのではなくーー完璧に正気なのだからーー、彼の世界観がどうなっているのか心配しているのだ。こんなバカげた話はただ権威の立場にある人を悩ませたり、因習的なものをバカにしたり、アカデミックな世界の堅物たちを怒らせるだけなのだ。それはアイルランドのやんちゃ坊主の校長に対する行動と変わらないのだ。いつの日か校長はしびれを切らしーーティムのサイロシビンの研究を止めさせるだろう。私はティムが大好きだーーでもなぜ、ほんとうになぜ彼はこんなバカなことをしなければならないんだ? 私は繰り返し言ったのだよ。この気むずかしい世界のなかで研究者のとるべき唯一の態度は、大変危険である原住民のなかに飛び込んだ人類学者のそれと同じなんだとね。静かに自分の仕事をしなさい。タブーを破るな、そこで受け入れられているものは独断であっても批判するなとね。礼儀正しく、友好的でありたまえーーそして、自分の仕事に打ち込みなさい、とね。」(70-1頁)〇サイケデリック運動の代弁者としてリアリーのライバルがいるとすれば、ハクスリー以外ではアラン・ワッツだった。ワッツとリアリーは親友だったが、スタイルは異なっていた。リアリーは扇動的、ワッツは学問的だった。(71頁)〇1963年の冬から翌年の春にかけてのエスリンのセミナーは、より行動的なものとなった。「シュリー・オロビンドの哲学」とか「人間経験の進化」といった知的な座学もあったが、祈りと瞑想を取り入れたプログラムや、サイケデリックについてのセミナー(もちろん参加者はそれぞれ薬物を持参)などが顔を出し始めていた。またエスリンが開発した三つの基本要素、すなわち「エンカウンター」、「ゲシュタルト療法」、「ボディワーク」の最初のプログラムもあった。(74-5頁) ・・・と、ここまで書いてきた段階で、まだまだ終わりそうもないので、この項は明日以降に続けたいと思います。今日はひとまずこの辺で。
June 12, 2020
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ポインター・シスターズの3女、ボニーさんが亡くなりました。享年69。 久しぶりに「ポインター・シスターズ」の名前を聞いて懐かしいと思ったのですが、それが訃報がらみというのがちょっと寂しい・・・。 ポインター・シスターズというと、やっぱり「He's So Shy」「Jump」「Neutron Dance」ですかね。これこれ! ↓He's So ShyJumpNeutron Dance 今聴いてもすごくいいと思いますが、サウンド的には70年代末から80年代っぽいね。このころ、ディスコ映画とかが色々あったこともあって、そういうピコピコ系のリズムですよね・・・。 「He's So Shy」が流行っていた頃って、まだギリギリMTVがなかったんじゃないかな。だから、アレですよ。洋楽ファンとてラジオで聴くしかないわけ。だからポインター・シスターズがどんな顔をした姉妹なのか、分からないわけですよ。 そういう、アーティストの顔も分からずに曲の良さだけでファンになるっていう時代、それはそれでいい時代だったなと。 ま、そんな時代を思い出させてくれたボニーさんのご冥福をお祈りいたします。合掌。
June 11, 2020
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今日は週一のテレビ会議の日だったのですが、野暮用もあったため、自分の研究室のパソコンでテレビ会議に参加しました。 で、約1時間の会議が終わり、「ふわ~、疲れた」とか思いながら廊下に出たら、同時に隣近所の先生がたも一斉に廊下に出てきた。隣近所ってのは、要するに先ほどまでテレビ会議で顔を合せていた人たちですが。 っていうか、ほぼ全員がここにいるなら、わざわざテレビ会議やる必要ある?? さて、そんなこんなで皆いるので、結局何人かの先生方で雑談をしていたのですが、そこでテレビの話題が出まして。 つまり、最近、テレビがつまらないねと。テレビ業界も必死なんだろうけど、テレビ会議方式のトーク番組って、超つまらなくない? その一方、昔の人気ドラマの再放送には、結構、はまっている先生方もいらしたりして。 中には、「最近、『逃げ恥』を見始めたんだけど、あれは結構面白いね」などとおっしゃるご高齢の先生も。えーーー、先生、今、それですか?! ちなみに私はね、『逃げ恥』は見ないの。個人的見解としてあんまり評価してない。私が好きなのは、最近では何といっても『これは経費で落ちません!』ですから。あれはいいドラマだった・・・。 でも、かくいう私も、このところ『99.9』を見たりするという。松潤の怪演にちょっと惹かれて。あと、『コロンボ』の再放送も結構楽しんで見てます。 あと、『JIN-仁』はいいドラマだったようですが、毎週末の土日に数時間にわたってこれを見たら、研究者ではなくなると思って見ませんでした。ちょっと残念。 とまあ、私を含め、同僚の先生方も、普段とは異なる生活をされているようでした。
June 10, 2020
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昨夜、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀 餅ばあちゃんの物語・桑田ミサオ』という番組をたまたま見たのですが、これが素晴らしい番組でね! 途中から見たので背景は分からないのですが、青森の津軽地方に30年間、たった一人で独自の餅菓子を作っている桑田ミサオさんとおっしゃるおばあちゃんがいるんです。93歳というから、ほんとのおばあちゃん。 貧しいながら優しく気丈なお母さんに愛情ぶかく育てられ、ご自身も苦労して二人のお子さんを育てられて、それで60歳くらいになった時、家の近くに老人ホームが出来た。 で、そこに見舞に行くとき、何か持って行こうと思って、餅菓子を作って持って行ったら、入所されているじいさんばあさんが涙を流して喜んでくれたと。 それで、自分の作った餅をそんなに喜んでくれる人がいると知ったミサオさんは、餅菓子を極めることを決意するんですな。 それで小豆から自分で植えて育てて収穫して、それで工夫に工夫を重ねて、餅を包む笹も自分で山に獲りに行って、それをきれいに洗って、そうやって納得のいく餅菓子ができるまで5年、10年かかったと。 それで今ではミサオさんの餅は地元でも超有名になり、鉄道内でも販売されるようになり、年間5万個も売れるものとなった。それ、全部ひとりでやられるんですからね・・・。手が動くうちは働く。それはミサオさんがお母さんから教えられたことで、指さえ動かしていれば貧しくとも何とか生きていけると。だから、ミサオさんはお母さんからもらった10本の指を「黄金の山」っておっしゃるの。 でも、とにかく何が感動的かって、ミサオさんのお人柄。もうね、小柄なおばあちゃんが、天使に見えるよ。人間として、こんなに美しい人っているのかなと思うくらい、素朴で謙虚で優しくて。努力家で。 ミサオさんがご自身のお母さんのことを語るのがまた良くてね。 体の弱ったミサオさんは、学校にもあまり行けなかったんだけど、その分、お母さんには余計可愛がられたそうで、たとえば二人で草刈りに出ることがある。 で、疲れたミサオさんが眠ってしまって、ふと起きると、お母さんが一人で草刈りしている。 それでミサオさんが「起こしてくれればいいのに」というと、お母さん曰く、「ミサオの寝顔があまりめんこかったので、起こすには忍びなかった」と。お母さんも苦労されて疲れていたはずなのに、ミサオさんにそう言ったというんですわ。そういうことをミサオさんは忘れられないとおっしゃる。 あと、ミサオさんが結婚されて、二人のお子さんを育てるのに苦労して、その愚痴を母親に言うと、それは大変だねと労をねぎらってくれつつ、「でも私は(お前を含めて)4人の子供を育てたけれども、一度も苦労したと思ったことはないよ」と言ったんですって。 で、それを聞いたミサオさんは、何でも心の持ちようなんだなと悟り、なんでお母さんに愚痴を言ってしまったんだろうと後悔し、その後、二度と愚痴を言わなくなったと。 そういうことを、津軽の言葉でぽつりぽつりと語るミサオさんがね、もう、なんともステキでなんとも愛おしい。 でもね、今、ミサオさんの息子さんとそのお嫁さんがガンにかかってしまって、大変なことになっているんですな。それで、ミサオさんがその二人の看病をしておられるの。93歳のおばあちゃんが、ですよ。だから、時折、ミサオさんもしょぼんと考えこんでしまうこともある。 だけど、そんなときでもミサオさんは餅を作り続けるの。「こんなに忙しい93歳っている?」なんて笑いながら。仕事があることで、救われることもあると。 もうね、ミサオさん、すごすぎるわ。今すぐ、津軽に行って肩もんであげたい。 とにかく、実際にミサオさんを観てもらわないと、その素晴らしさの一部も伝わらないと思いますので、もしオンデマンドで観られる環境があれば、是非。ご覧ください。これこれ! ↓餅ばあちゃんの物語
June 9, 2020
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どちら様も同じでしょうけれども、うちも毎週一回、「テレビ会議」ってのをやるわけですよ。 で、最初のうちは皆やり方が分からず、手探り状態でしたけど、最近はだいぶ慣れてきた・・・ が! そこに一つ落とし穴が・・・ うちだけの話かも知れませんが、最初のうち、テレビ会議とはいえ、テレビ画面に顔が出るのはマイクがオンになって発言している人だけだったんですわ。 ところが最近、9人まで常時テレビ画面に映るようになったようで・・・。 「・・・ようで」と頼りない言い方をしたのは、私の古いパソコンでは相変わらず発言者のみが画面に映し出されるから。 で、私は「どうせ自分は発言もしないし、顔も映っていないから」と思って、会議中もぽっかーんとしていたり、のんびりコーヒー飲んだり、時には雑誌とか読んでいたわけ。 そしたら、今日、アニキことK教授から、「この前の会議、釈迦楽さん、ずっと画面に映ってたよ」と。 で、私が「えーーーー、ウソ! じゃ、雑誌とか読んでたのバレてました?」と尋ねると、「雑誌までは分からなかったけど、興味なさそうな顔してた」と。 ひゃー! 悪いことはできないもんですなあ。やばい、やばい。そうだったのか。 よく、テレビ会議だからといって「上だけキチンとして下はパジャマ」なんて話を聞きますけど、それに近いことやってたわ・・・。 テレビ会議って、だから嫌いよ!!
June 8, 2020
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秋口に出る英語教則本の初校の校正がようやく終わりまして。 もともと所属大学の出版会から出ていたものを、一般出版社から出し直すだけなので、それほど直すところもないだろうと思っていたのですが、やっぱり新たに日の目を見るとなると、細かいところまで修正したくなり、文言を変えたり、例文を差し替えたりしているうちに結構な時間がかかっちゃった。 でも、ま、これで大体、今の時点で納得の内容となったので、いい機会をもらったなと。 ところで、今回、校正をしているうちに一つ、日本語の点で疑問が出てきましてね。 問題です。日本語の用法として、次のどちらが正しいでしょう? 1.裁判で訴える 2.裁判に訴える 私は「裁判で」と書いたのですが、出版社の校正さんから「裁判に、ではないでしょうか?」との書き込みがあり、考えているうちにわからなくなってきちゃった。 っていうか、ひょっとして「両方間違い」っていうこと、ある? 例えば「裁判沙汰にする」は正しいよね? 「法廷に持ち込む」も正しいと思う。「裁判所に訴える」も正しいような気がする。「裁判で決着をつける」もいいような気がする。 ただ、「裁判で訴える」とか、「裁判に訴える」となると、あれ、これ日本語として正しいのかな?と。 例えば広辞苑とか、新明解とかを引いても、もちろん「裁判」という言葉の意味は載っているものの、その具体的な用法についてはほとんど書いてないんだよね・・・。 こういう時に、日本語の正しい用法を指示してくれる辞書って、あるの? それともないの? ないんだったら、国語学者の怠慢だよね! 少なくとも英語にはそういう辞書、あるからね。勝俣錠吉郎大先生の『英語活用大辞典』なんか、その典型だ。 ま、とにかく、「裁判問題」について、正しい用法をご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけると幸いです。
June 7, 2020
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松柏社のHPで、柴田元幸先生と平石貴樹先生というアメリカ文学界の重鎮お二人が、それぞれの先生にとってのアメリカ文学の短編のベストテン形式で選ぶとすれば何がランクインするか、というような対談をなさっているのが公開されているのですが、これがなかなか面白い。文学好きの方は必読です。これこれ! ↓柴田先生、平石先生の対談 で、この対談を興味深く読みながら、当然、自分がアメリカ文学の10ベストを選ぶとしたら何を入れるかなとつい考えてしまいまして。重鎮お二人を前にして、いささかおこがましいのですが。 で、さくっと思いつくままに指折り挙げてみたのが以下のリスト。順不同で。ナサニエル・ホーソーン 「ラパチーニの娘」ヘンリー・ジェイムズ 「荒涼のベンチ」シャーウッド・アンダスン 「卵の勝利」アーネスト・ヘミングウェイ 「インディアン・キャンプ」ウィリアム・サローヤン 「空中ブランコに乗った大胆な若者」バーナード・マラマッド 「魔法の樽」フラナリー・オコナー 「善人はめったにいない」トルーマン・カポーティ 「クリスマスの思い出」トシオ・モリ 「明日と今日と」ドナルド・バーセルミー 「金のシャワー」 どうかな? お? メルヴィルの「バートルビー」は入れないの? とか、フォークナーの「あの夕日」はどうしたの? とか、ポーは? とか、色々ご意見はありましょうが、10個に限定するとなると、なかなか難しいよ! でも、こうやってそれぞれのアメリカ文学研究者に10ベストを選ばせると、アレだね、その人の来し方行く末(ゆ、行く末??)が分かるよね! 分かる気がする。面白いな。 こういうの、本当は『英語青年』のネタなんだろうけど、あの雑誌ももうないし。 ま、私の10ベストはともかく、上にご紹介した柴田先生と平石先生の対談は面白いので、興味のある方は是非!
June 6, 2020
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いやあ、昨夜は3月末以来、久しぶりの柔術の稽古がありまして、なまった身体に活を入れてまいりました。 しっかし、久しぶりにやると、キツイね! まあ、マスクをしていて呼吸がしにくいというのもあるのですが、息が切れる。それに3月の最後の稽古の時までは結構寒かったけれど、昨日はそこそこ暑かったですからね。もう汗びっしょりでした。 で、師範のA先生やU先生、それに道場の仲間たちとしばらくぶりで稽古できたのも楽しかったんですけど、今日はもう一つ、楽しいことがありまして。 実は親しい兄弟弟子のOさんが、最近、愛車をゴルフ7から同じフォルクスワーゲンのティグアンに替えられまして。で、それを私も楽しみにしていたんですけど、コロナ騒ぎでずっと見られなかったわけ。 で、昨夜、ついにそのティグアンの新車を見せてもらえたのですが、さすがOさん、「ちょっとその辺、試乗してみます?」などと、私のクルマ愛をくすぐるようなことをおっしゃる。もう、一も二もなく、お願いしちゃった。 で、早速、ティグアンを運転させてもらったのですけど、まー、素晴らしい! Oさんが前に乗られていたゴルフ7がすごくいいクルマだというのは、私もディーラーで試乗させてもらって知っていたのですが、今回のティグアンもそれに輪をかけていいクルマ。1.4リッターのターボはパワーがたっぷりあるし、回り方も滑らか極まりない。踏めば踏んだだけ滑らかに加速していくのよ。 でまたハンドリングもね、トヨタ車みたいにただ軽いというのではなく、とびきり滑らかで充実している。それこそ熱いナイフでバターに切り込むがごとし。 で、ゴルフよりも車高が高く、視点が高いので、乗り込みやすいし、運転しやすい。それから、ナビもスピードメーターのところに投影することが可能で、運転中、視点を動かさなくてもいいのも素晴らしい。 さらにさらに、リアのハッチは電動開閉式で、開ける時は足をクルマの下にかざすだけ。また閉める時はボタン一つで、遠ざかれば自動的に閉まるという・・・。この辺、私のキャプチャーにはない豪華装備。それから、昨夜は試しませんでしたけど、駐車するときもクルマ任せで自動駐車してくれる機能までついているとのこと。 いやあ、いいクルマよ。さすがフォルクスワーゲン。クルマとして完成しているな。 で、その格別の試乗の後、我が代車のぽんこつカングーに乗ってドッシンバッタン揺られながら帰宅する、その格差・・・。同じクルマとはとても思えん・・・。クルマにも色々なのがあるってことですな。 というわけで、昨夜は稽古とティグアンと、両方を堪能して、久しぶりの稽古再開を楽しんだのでありました、とさ。
June 5, 2020
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先日、トム・ウルフの『クール・クーール LSD交感テスト』を読んだ際、ケン・キージーと彼の率いる「プランクスターズ」のバス・トリップを映画化した『マジック・トリップ』なる作品があると知ったので、そいつを取り寄せて実際に観てみました。 コロラド州の「ラ・ハンタ」(この地名、La Junta と綴り、日本では「ラ・ハンタ」と訳されることが多いですが、実際の発音は、『クール・クーール』にも訳されていたように、「ラ・ホンダ」と聞こえるような気がします。映画の中でも「ラ・ホンダ」でしたねえ)にあるキージーの自宅を出発して南下し、アリゾナ、テキサスを通り、南部諸州を北上してニューヨークで開催されていた「ニューヨーク万博」(1964年、クイーンズ地区にて開催)を見学、ついでにLSD研究で名高いティモシー・リアリーやチャールズ・アルパート(後のラム・ダス)に会いにいって、そこから西海岸へと戻る大陸横断往復のバス旅行の模様を編集した、ドキュメンタリー映画でございます。 これ、もともとはキージー自身が発表する意図があったらしいのですが、あまりにも漫然と撮影された膨大なフィルムと、これまた漫然と録音されたテープをあわせて一本の映画に仕立てるのは難しかったらしく、長いこと倉庫の奥で埃をかぶっていたんですな。それを掘り起こして2011年にプロが編集し直したのが本作、ということになります。 ということで1964年という時代に、時の流行作家が配下のヒッピーたちを引き連れて、サイケデリックなバスに乗り、ドタバタの弥次喜多道中をやらかした、その模様がなかなか興味深く映像化されております。トム・ウルフの『クール・クーール LSD交感テスト』を読んだ後でこの映画を見ると、あの本の内容が一層よく分かるという意味で、この映画と『クール・クーール』は相互補完的な関係にあると言っていいでしょう。 例えば、この映画で、サイケデリックなバスの運転手を務めたニール・キャサディは、ジャック・ケルアックの『路上』の主要登場人物であるディーン・モリアーティのモデルであって、その意味で名前だけはよく知られているのですが、そのニール・キャサディがこの映画では実際の映像として出てくるんですからね。キャサディ本人の言動を実際の映像として見られるだけでも、この映画を観る価値があるというもので。 で、『路上』に出てくるディーン・モリアーティはイカレた人で、年柄年中奇声を発していたりするのよ。で、『路上』を読みながら、私は「こんな頭のおかしい奴、現実にいるわけない」と思って、いささかリアリティのない小説だなあと思っていたのですが、本作『マジック・トリップ』に出てくるニール・キャサディを見ると、まさに狂気に獲り付かれたかのように奇声(というか、詩?)を延々と発しながらバスを運転しているもので、ディーン・モリアーティのキャラって、マジで本人そのものだったんだ、ということを改めて知ったという・・・。アメリカ文学研究者の皆さん、この映画、必見よ! その他、ジャック・ケルアック本人もこの映画には出てきますが、プランクスターズみたいなヒッピーたちを苦々しい顔で迷惑そうに見ている映像を見ると、ビートニクとヒッピーって感性が全然違うんだな、というのがよく分かる。 あと、1964年という年にアメリカ大陸をフルで往復するわけでしょ。それはケネディ暗殺の直後のアメリカであり、またキング牧師による公民権運動の真っ只中のアメリカ、ベトナム戦争にますます深く介入しつつあったアメリカを通過するということなのであって。これらアメリカを揺るがした大事件の中、サイケなバスに乗って、ドラッグでラリったりしながら、色々な意味でトリップをしていくというのがね、マジでサイケなわけよ。つまり、背景から浮きまくりっていう。 だから、この時代、西海岸ではLSDを使った「ヒューマン・ポテンシャル運動」に浮かれていたかも知れないけれども、そこだけ見ていると、時代を見失うわけね。この時代は同時に、公民権運動の時代であり、ベトナム運動の時代であるんだということを、このサイケ・バス・ツアーの模様を観ていると思い出させられるというか。 その意味で、ケン・キージーが、このバス・ツアーの後、(マリファナ所持で逮捕されたこともありますが)、LSDを使った「アシッド・テスト」的なものから「卒業」する(=足を洗う)ことになるのも、何となく分かる気がする。多分、キージー自身、バス・ツアーをしながら、「もうこういう時代じゃないな」ってことが分かったんじゃないかなあ・・・。 キージーは、このバス・ツアーの首謀者であり、道中も常にリーダーとして振る舞うのですけれども、私が見るに、キージーというのは、なんというか、「健康」な人なんですな。大男で、オレゴン大時代はレスリングの選手だったほどの偉丈夫。だから、LSDとかその他のドラッグをやったところで、それに支配されるということはないのね。病的にふけるということがない。止めようと思えばいつでも止められる。そういう立場でやってるから、この映画を観てても、なんかね、いつも素面っていう感じがする。LSDアシッド・テストの主催者にして、一番素面っていう。もとから頭のおかしいニール・キャサディなんかと違って、きわめて冷静に一連の騒ぎをやっていたんですな、きっと。だから、このバス・ツアーの後、ニール・キャサディはメキシコあたりで野垂れ死にし、キージーは2000年代まで生き延びるわけだけど。 そのほか、『クール・クーール』に登場するプランクスターズの面々が、実際はどんな見た目の人だったのか、この映画を観ればわかりますから、そういう下世話な興味もありますし、まあ、観て良かったかなと。 ということで、この話題に興味があるという人が今の日本にどのくらい居るか分かりませんが、興味のある方にはおすすめ、ということでひとつ。これこれ! ↓マジック・トリップ
June 4, 2020
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先日、愛車ルノー・キャプチャーが故障したということを書きましたが、今日、ディーラーへ持って行って修理してもらうことにしました。 で、その代車にもらったのが、なんとルノー・カングー。ほら、花屋さんとかに使われていそうな、ちょっとおしゃれな商業車ベースのクルマで、日本で一番売れているルノー車でございます。ま、最新型ではなく、一つ前の世代、それも13万キロ越えでしたけれども。 このディーラー、いつも代車が渋くて、20万キロ越えのヴィッツとか、安物のパッソとか、ぼよんぼよんの日産ティーダとか、そんなのしか寄こさないもので、今日も一体どんなポンコツを貸してくれるのかと、半ば怖いもの見たさで行ったのですけど、そういうのと比べると、今日はだいぶ、気が利いている! 一回乗って見たかったのよね、カングー。このクルマ、日本にもファンが多くて、全国各地からカングー愛好者が集まるジャンボリーまで毎年開催されているくらいだし。自動車評論家と言われる人たちも、絶賛していたしね! 乗り心地はいいし、パワーもあるし、とかって。 で、どんなもんかと思って、期待に胸弾ませて乗り始めたのですが・・・ うーん! これはひどい! 何が「商業バンであることを感じさせない乗り心地」だよ! まさに商業バンの乗り心地そのものじゃないか! 上屋の重いドンガラ感もものすごいし、パワステとは思えないほどのステアリングの重さといい、停車している時にエンジンから振動が伝わってくるブルブル感といい、とても快適とは言えない。パワー感もなくて、どうにかこうにか周囲のスピードについていっている状態。観音開きのバックドアの影響で後方視界は狭いし、こんなの興味本位で一回運転するならいいけど、自分のクルマとして乗りたいなんて絶対思わないわ~。 こんなものを、自動車評論家どもは高く評価するのかよっ! ウソも休み休み言えって。 ま、もとが商業バンだけに、中は広いし、荷物の積載量は半端ない。外装の色使いも日本車離れしているから、釣りとか、キャンプとか、そういう趣味のある人の足としてはいいのかも知れないし、実際、そういう人たちから可愛がられているのは分かるけど、そうじゃない一般人が手を出してはいけないクルマだな。 ということで、一回運転して面白かったけど、自動車評論家の評言は鵜呑みにしてはいけないということをあらためて認識した次第。連中には猛省してほしいわ。
June 3, 2020
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まったく、アメリカの黒人差別はいつまで経っても改善されませんなあ。おんなじことの繰り返しだ。同じく白人警官によって黒人が不当に殺されたマイケル・ブラウン事件、フレディ・グレイ事件が起こった際、今は亡きプリンスが抗議のために作った「バルティモア」という曲、今回の事件にも完全に当てはまると思いますので、再掲します。BLMの主張に賛同する方は是非!これこれ! ↓Prince "Baltimore" あと、日テレのニュース番組が取り上げた関連ニュースで興味深いものがあったので、これもご紹介します。これこれ! ↓黒人3世代の立場 45歳の黒人男性が、白人の暴力には暴力で対抗するしかないと怒りをぶちまけるのを聞いていた31歳の黒人男性が、「あんたの言うことは分かる」と言いながら、16歳の少年を引っ張ってきて、「お前の時代には、俺たちの解決法よりもっとましな解決法を考えてくれ、そうでなきゃ、お前も今から10年経って、やっぱりここで抗議デモやる羽目になるぞ」と語る、その迫力に圧倒されます。 鋭い目をした16歳の黒人少年が、ブラックパンサーみたいな過激なグループにならずに済む方法って、ないものですかねえ・・・。
June 3, 2020
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なんか、西の方で「第二波?」と疑われるようなことが起こっておりますなあ。そして他の地域では、日常が戻りつつある。となると、当然、他の地域でも第二波が来るかも、ってことですよねえ・・・。 しかし、ウイルスが完全消滅するわけでもなし、夏はなんとか越したとして、秋・冬に入って寒くなってきたとき、再び猛威を振るうということはないのかなあ。 だって、風邪とかインフルエンザのことを考えたら、当然、ねえ。ああいうモノは、普通、秋・冬に大流行するわけで。 で、万が一、今年の冬にコロナが再流行し出したら、入試はどうするの? 大学受験に限っても、一人の受験者があちこちの大学を受験するわけでしょ? 受験会場は当然、三密だ。どこでクラスターが発生してもおかしくないし、発生したら、とんでもないことになる。旧センター入試なんて、日本全国、55万人規模のクラスターだよ! しかも、受験生だけじゃないからね。教員とか、事務職員だって、万が一、ある大学で直前に集団感染したら、もうその大学、会場として使えないじゃないの。 旧センター試験にしても、うちの大学なんて教員の数が少ないので、ほぼ全員が入試監督に携わっていてるんだけど、もし、直前に流行して多くの先生が休んだら、もう、監督業務そのものが成立しないよ。 そうなったら、どうするんだろうね。考えるだけで空恐ろしい。 いやあ、「拙速だ」とか言って、9月入学案をあっさり放棄しちゃったけど、それを放棄したこと自体が拙速だったんじゃないの?? ・・・っていう話を、昨日、同僚たちと話をしておりました。 実際、文科省にこのこと、問いただしたいよね! 多分、「夏には終息するし、それっきり再流行しない」という希望的観測だけで、動いているんだろうけどね!
June 2, 2020
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ここのところ愛車ルノー・キャプチャーの運転手席側の窓の具合がおかしくて、エンジンをスタートさせると勝手に開いたり、窓を開こうとボタンを押すと逆に閉まったり、変な動きをするようになっておったのですわ。 で、そのうちディーラーに持って行こうかなと思っていた矢先、今日、完全に壊れました。 通勤途中に銀行によって、ちょっとお金を降ろそうと、銀行の駐車場のチケットを取ろうと窓を開けたら、それを最後に窓が全開のまま閉まらなくなってしまったっていうね。 ひゃー、どうしよ。今日はこれから雨だというのに。窓全開じゃびしょ濡れだ。 で、コンビニの駐車場に止めてディーラーに電話したら、生憎今日はお休み。ひゃー、悪い時には悪いことが続くね! で、ふと思い出したのは、「名古屋オートプラネット」という外車専門の中古車ディーラーが近くにあるということ。この際、そこに持って行くしかない! ってことで、とりあえずそこへ持って行って、根本的に直すことが出来ないまでも、少なくとも全開しちゃった窓を上げてもらおうと。 で、実際そこに持って行ったら、迅速に対応していただき、小一時間で応急処置完了。ありがたーい! そして修理中、私は100台以上ある様々なメーカーの外車を見まくって、至福の時を過ごしていたのであります。 ま、しかし、アレだね。やっぱり今でも外車ってのは、電装系弱いよね・・・。そこが弱いって分かっているんだから、気合入れてしっかりした電装品つければいいのにね。 それにしても、これから本格修理をすれば、そこでも修理代取られるし、面倒だなあ。思わぬ出費ばっかりで、思わぬ収入って、どこかに転がってないものかねえ。お年寄りに親切にしたら、遺産譲ってくれたとか、そういうの・・・。
June 1, 2020
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