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June 6, 2021
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カテゴリ: 教授の読書日記
5千円札の人、新渡戸稲造(1862-1933)大先生の書いた『修養』なる本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。

 『修養』と言えば、1900年(明治33年)に流麗な英文で発表した『武士道』と並ぶ新渡戸大先生の代表的著作でありまして、1911年(明治44年)に出版されてから、昭和9年6月までに堂々148版を数えた大ベストセラー。もう一つ、『世渡りの道』という本も大正元年出版で93版を数えたというのもあって、新渡戸さんというのは、この時代を代表する自己啓発ライターだったんですな。

 ま、『東西相触れて』(1928年・昭和3年)という著書の序文に、「この本は福沢諭吉先生の『西洋事情の精神を汲んだものである」という趣旨のことを書いていることから推して、本人にも自覚があったみたいですけど、要するに新渡戸という人は、福沢諭吉路線をさらに押し進める者だったと。

 それはどういうことを意味するかっつーと、要するに、「民衆の教育者」であるという自覚があったということでございます。

 まあ、元から官職についたことのない福沢諭吉と比べて、新渡戸稲造なんてずっと官学で過ごしてきた人なわけですよ。『修養』を書いた後には、東大法学部教授と兼任で一高の校長になってますからね。日本のエリートの指導者だったわけだ。

 だけど、新渡戸はそれだけでは満足できなかった。で、増田義一が1900年に創業した出版社、実業之日本社から「働く青少年の精神修養と人格鍛錬への力添え」をと頼まれて同社の編集顧問ともなり(1909年)、また同社から『修養』をはじめとする自己啓発的な本を次々と出すようになる。

 「働く青少年の精神修養と人格鍛錬」云々というと、『自助論』を書いたサミュエル・スマイルズの執筆動機とまったく同じだよね!

 もっとも、このことについては、相当、世間からのバッシングがあったようで、「学者たるもの、そんな大衆相手の本を書くべきではない」とか、「売名行為」だとか、「そんなに金が欲しいのか」とか、批判の嵐だったらしい。それにも拘わらず、己の信じるところの従って『修養』みたいな本を書きまくったわけだから、新渡戸という人の心には、そうした批判をものともせぬだけの「民衆教化の大悲願」があった、っちゅうことですわな。

 その悲願の元は何なのかと問うに、おそらく、新渡戸稲造のクエーカー教徒としての信仰があったんじゃないでしょうか。



 クエーカー教徒ってのは、通常のキリスト教徒とちょいと違って、「心のうちの光」というものを重視する。信仰の礎石は教会にあるのではなく、個々の人間の心の内に神から与えられる光にある、という考え方。これって、あれじゃん、スウェーデンボルグの神学と共通するものがあり、かつ、エマソンのトランセンデンタリズムにも通じるところがある。

 つまり、この考え方からすると、すべて道徳・倫理の根拠もまた、(教会のような)外部の権威にあるのではなく、自分自身の身の内にあるということになるわけさ。となると、自分を活かすも殺すも自分次第ということになる。逆に言えば、自分の思惑と心がけ一つで、どういう方向にも伸びていけるっていうことですな。

 ほれ、これはつまり、自己啓発思想が根を張るには恰好の土壌じゃん。

 で、新渡戸稲造もまたそう思って自分自身を陶冶し、励まし、凡夫ながらそれなりの地位につけるところまで来た。ならばそれと同じ方法を、世間の人に伝えれば、それは彼らにとっての福音ともなり、また日本という国全体の民度アップに貢献するではないか。新渡戸稲造は、おそらく、そう考えたんでしょうな。だとしたら、批判の嵐だろうが何だろうが、己の信じるところを進むのみ。

 ということで、彼は『修養』みたいな本を書いちゃったと。

 ちなみに、『修養』はそれ一つでこの世にあったわけではありません。この本が出た当時、すなわち明治の末頃から大正時代を通過して昭和初期頃までの日本ってのは、全般的に言って「修養ブーム」だったんですな。実際、先に述べた実業之日本社の創業者である増田義一自身も『青年と修養』という本を1912年に出しているし、1928年には『婦人と修養』なんて本も出している。あと、講談社の野間清治も1931年に『修養雑話』なんて本を出していますが、「修養」という言葉は、当時の流行語でもあったわけ。

 これは何ごとかと言いますと、結局ね、日露戦争での勝利ってことが背景にあるのね。

 日露戦争に勝ったことによって、日本は国際的に名を挙げ、国際社会の一員としてしかるべき地位と責任を負うようになった。事実、新渡戸稲造は1920年、国際連盟の発足に際して「事務次長」の要職に就くわけですから。だから、当然、国際社会に恥じない民度が要求されていた。

 その一方、日露戦争勝利がもたらした国家的浮かれ気分は、日本人に弛緩と驕慢をもたらすことになり、それは一方では頽廃を、別な一方では私利私欲への猛進を促すことにもなる。

 これじゃいかんのや! と、心ある人は思ったでしょうなあ。

 「心ある人」って誰?



 ・・・っていうね。そういうことだったんじゃないかと。

 で、じゃあ、その新渡戸稲造の『修養』って、どんな感じの本? ということになるわけですが、私が一読した印象から言いますと、一言で言って、いい本です。自己啓発書として、とてもよく書けている。

 まず、難しいことが一つも書いてない。ごく卑近な例を引き、およそ文字の読める人なら誰でも理解し、納得するであろうという感じで書いてある。特に、自分自身の経験をしばしば例に挙げ、それも「凡夫の例」として挙げ、「こんなダメダメな私でも、こうやったらうまく行ったんだから、是非皆さんも!」というスタンスになっている。そこが、本書を極めて親しみ易いものとしているんですな。

 で、本書の内容を、きわめて大雑把にまとめるならば、この本の言わんとしていることは、すなわち「物事の善用」、この一語に尽きます。

 長い人生、誰にも浮き沈みはあるだろう。しかし、たとえ不運なことがあったとしても、その不運を善用すれば、将来必ずいいことがある。また、仮に順風満帆だとしても、それを驕ってしまったら、それは幸運の悪用になる。だから、順風満帆の時こそ驕らず、高ぶらず、それをさらに善用せよと。



 ま、そんな感じで、身に降りかかるすべてのことを善用すること。これこそが、新渡戸稲造の修養と世渡りの術のアルファであり、オメガであるわけね。

 あとは、まあ細かいことね。例えば、職業を選ぶ時は、自分の好きなことを選べよ、同じ努力をするのでも、好きなことに努力すれば、進度が違うから、とかね。名誉は人の誰でも欲することだけど、それによって失敗することも多いから、名誉を望むなとは言わないけれど、出来るだけその気持ちを抑えろよ、とか。目標や計画を立てることは、きわめて重要だぞよ、とか。克己の気を養うには、最初から高望みせず、最初はちょっと我慢すれば出来ること(例えば健康のための冷水浴とか)から始めるのがいいんでないの? とか。一日、5分でもいいから、「黙思」する時間を作って見よ、大分違ってくるぞ、とか。

 まあ、外国での生活がそれなりに長い人ですから、西洋人と比べて日本人はここが弱い、だから、西洋人のこういう心がけを真似してみたらどうだろうか、というようなアドバイスもちょこちょこあるかな。

 あと、日本の自己啓発本からの引用という点では、圧倒的に多いのが『菜根譚』からの引用ね。よほど好きだったんじゃないの? あと佐藤一斎からの引用もところどころにある。佐藤一斎って、『言志四録』の人。あと、西郷南洲の言葉もちらほら。外国人だとフランクリンとかゲーテとか。

 ま、過去の自己啓発本からの引用があるところも、まさに良き自己啓発本の証! とにかく内容的には普遍的なので、別に明治時代だけに当てはまることではなく、令和の青年がこれを読んだとしても、随分、ためになると思いますよ。いや、私だって、読んでためになるなと思うことが多かったですから。

 ワタクシがこの本を「いい本であった」と言うのは、要するにそういうこと。

 だ・け・ど。自己啓発思想的観点から言って「よく書けている本」であっても、批判しようと思えばいくらでも批判できる。どんな物事でも善用できるんだから、逆に言えば、どんな物事でも悪用もできるわけでありまして。

 例えば綱澤満昭さんという方の「新渡戸稲造と修養」という論文をチラ読みしたら、これ、結構いい論文ではあるんだけど、意外に批判的なことが書いてあって、こんなの、社会の底辺で蠢いている人たちを慰めこそすれ、助けにはならなかった。要するに、社会的強者が弱者を懐柔し、彼らの不満を吸収せんとする試みに過ぎなかった、という評価なんですな。

 はい。これね、自己啓発本に対する典型的な批判ね。自己啓発本は「あなた次第で、いくらでも出世できる」と言うけれども、それはまた「出世できなかったのも、あなた自身のせい」ということでもあって、これは出世できなかった人に、その人生の失敗のすべてをその人本人に帰することになる。要は社会的不満を抑えるためのものとして、為政者に利用されやすいものである! というわけ。

 これね、もっともらしい自己啓発本批判なんだけど、これやっても、あんまり意味がないんだよね。それはね、宝くじ批判と同じ。

 宝くじだって、批判しようと思えばいくらでも批判できるでしょ。でも、世界から宝くじは無くならない。実際に宝くじで金持ちになった人なんてほとんどいなくて、たいていはお金をすってしまうんだけど、それでもやっぱりなくならない。宗教だってそうだよね。そんなもん、信じたって、一体世界で何人の人が実際に神様からよくしてもらったのか。それを考えたら、宗教もまた、民衆の不満を抑えるための為政者の罠、と言うことだってできる。

 でも、宝くじも宗教も無くならない。なんで何で無くならないの? 

 そこをね、考えないと意味がないの。存在意味があるから、存在するのであって、そこを考えずして、「こんなもの存在する意義なし」って言っても、まったくナンセンスよ。

 というわけで、新渡戸稲造の『修養』、立派な自己啓発本でありました。教授のおすすめ! でございます。


これこれ!
 ↓

修養 (タチバナ教養文庫) [ 新渡戸稲造 ]





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Last updated  June 8, 2021 10:59:46 AM
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釈迦楽@ Re[3]:『2001年宇宙の旅』を知らない世代(09/13) 丘の子さんへ  ああ、やっぱり。同世代…
丘の子@ Re[2]:『2001年宇宙の旅』を知らない世代(09/13) 釈迦楽さんへ そのはしくれです。きれいな…
釈迦楽@ Re[1]:『2001年宇宙の旅』を知らない世代(09/13) 丘の子さんへ  その見栄を張るところが…
丘の子@ Re:『2001年宇宙の旅』を知らない世代(09/13) 知らなくても、わからなくても、無理して…
釈迦楽 @ Re[1]:京都を満喫! でも京都は終わっていた・・・(09/07) ゆりんいたりあさんへ  え、白内障手術…

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