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吉増剛造の『我が詩的自伝』を読んでいたら、鮎川信夫のことがちょっと出ていまして。 田村隆一と詩誌『荒地』を創刊した詩人ですが、田村同様、詩だけでは食っていけなかったのか、この人は翻訳も沢山している。コナン・ドイルとか、ヘミングウェイなんかもやっている。 で、私は田村隆一の方は、割と関連本を読んでいて、面白いなと思いつつ、ちょっと女性関係が奔放過ぎてついていけないなと思うところもあり。 その一方、鮎川信夫の方はほとんど関連本を読んだことがない。でも吉増によれば、田村より鮎川の方が、存在としては大きいとのこと。 ふうむ。そうなのか。 というわけで、今度は鮎川の本、あるいは鮎川についての本を読んでみたくなってきたのですが、うちの大学の図書館には、あまり鮎川本を置いてないことが判明。ダメだね、うちの国語科の連中。誰か一人くらい、鮎川ファンがいたっておかしくないだろうに・・・。 とりあえず、鮎川はコラムの名手だったそうだから、コラム集でも買ってみますかね。もっとも、とっくに絶版だから、古本じゃないと買えないけれども。【中古】 最後のコラム 鮎川信夫遺稿集103篇 / 鮎川 信夫 / 文藝春秋 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
June 19, 2024
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この間、大学の研究室で何気なく書棚を見ていたら、詩人の吉増剛造が書いた『我が詩的自伝』という本のタイトルが目につきまして。これ、何かの拍子に興味を惹かれて買って、買ったはいいけど読まずに放っておいたもの。それをふと手に取ったら面白そうだったので、読むことにしました。 これだよね、本を買うということの意味は。積読の価値は。これこれ! ↓我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ! (講談社現代新書) [ 吉増 剛造 ] ちなみに、こんな、仕事と関係のない本を読んでいるヒマなんかないんだよ、ワシには! やるべき仕事、書くべき原稿が山ほどある。なのに、こういう横道に逸れるという暴挙。これだよ、本を読むことの意味とは。 で、読み始めたんだけど、もうね、何が書いてあるかあんまり分からないの。詩人の書くものだからさ。論理的ではないから。 この人、何言ってんの? っていう感じで、頭の中に「?」マークが沢山つく。 だから、時々この本をほっぽり出して、論理的な本を読むわけよ。 そうすると、どうなるか? 論理的な本がつまらなく思えてくるんだわ、これが! 「こんな、筋の通った話、つまらん!」ってなるの。それでまた吉増の本に戻るという。 まあ、吉増って人は、多摩の人なんだよね。で、私も多摩の人だから。そういう親近感もある。大学も先輩だしね。 で、この本の中で、吉増さんはしばしば「非常時」っていう言葉を使う。ギリギリの、とか、にっちもさっちも行かないとか、そういう意味合いで。非常時じゃないと、本当の詩なんか書けないと、どうやら吉増さんは感じているらしいんだな。あるいは「底をさわる」というようなことも言う。底を触らないと、本当のことは分からない、みたいな。 その辺の感覚が、ちょっと分かるなあと。っていうか、今まさに、私は非常時であって、他の仕事しなきゃいけないのに、吉増さんの本なんか読んでいるんだから、非常時の読書だ。 そういうこともあって、なんか、よく分からないながらも、分かるという気がする。 また、時代も良くて、吉増さんは色々な重要な人、その時代その時代に活躍している人たちに出会って、一緒に仕事したりしている。そういう交流がまた面白い。 まだ最後のところまで読み切っていないのだけれども、面白い本です。教授のおすすめ!【中古】我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ! /講談社/吉増剛造(新書)
June 18, 2024
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今日も書評を頼まれている本(『アメリカ70年代』)を読んでおりました。結局、読了はしたのですが、大部な本なので、再読・三読しないと、全体に目配りした書評はできません。今日のところは、下読みが終了した程度の成果ですかね。 しかし、この種の文化論読んでいつも思うのですが、アメリカ人ってのは、政治の話題が好きだなと。 つまり文化論を語るにも、政治の話が大半を占めるというね。 まあ、アメリカの場合、大統領制ですから、4年とか8年とか、決まった年数をずっと一人の大統領が政治を主導することになる。なので、ケネディの時代にどうしたとか、カーターの時代にどうしたとか、レーガンの時代はどうだったかとか、そういう区分が付けやすいというのもあるかも。 逆に日本の場合、首相の首がぽいぽいすげ替わるので、どの人の時に何があったとか、そういうのが特定しにくいよね。特に宇野さんとか森さんとか麻生さんとかが首相の時どうだったとか、覚えてないじゃん。さすがに佐藤さん、田中さん、小泉さんあたりだと、言えることもあるだろうけれども。 自慢じゃないけどワタクシなんか、政治のことに疎いので、アメリカ人が書いた文化論を読んでいて、政治関連のことが延々と続くと、ちょっと飽きるところがある。興味があんまりないからね。 そういう意味では、『アメリカ70年代』という本、書評引き受けちゃったけど、結構、ハードな仕事になりそうです。まあ、自分にとって勉強にはなるけれども。
June 16, 2024
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拙著は今のところ世間受けが極めてよく、書評が絶えることがない。今日、聞いたところでは、集英社の『すばる』の7月号で、翻訳家・エッセイストの村井理子さんが、連載(「湖畔のブッククラブ」)の中で書評を載せてくれていた。これに気づいた編集者からコピーを送っていただいたが、実際、素晴らしく気持ちのいい書評であった。村井理子さんに感謝、感謝である。ありがとうございました! そして今日、もう一つ気が付いたのは、『綴葉(ていよう)』という書評誌に拙著に対する書評が載っていたということ。この書評誌は、以前にも別な拙著の書評を載せてくれたことがあるのだが、これまた嬉しい限り。 ところで、皆さんは『綴葉』という書評雑誌をご存じだろうか? これがなんと、京都大学の生協が編集して年10回出している独自の書評雑誌なのである。 おそらく、だが、おそらく、この雑誌を編集しているのは京大生協の会員の有志たち、すなわち京都大学の学生や院生だろう。それが、年10回というハイペースで、レベルの高い書評誌を40年間にわたって編集・出版し続けているのである。私はむしろその事実に驚く。 まあ、一言で言うならば、「それが京都大学」なのである。京都大学で学んでいる学生や院生だから、こういうことができるのだ。 残念だが、我が勤務先大学のここ最近10年ほどの学生たちの顔ぶれを思い浮かべると、彼らに『綴葉』のようなものを定期的に出し続けられるとはとても思えない。彼らはそもそも『綴葉』が書評している本の数々を、読むどころか手にとったことすらないだろう。うちの大学も、ひと昔前なら骨のある学生が相当数いたもので、彼らとならシェイクスピア作品を原文で輪読できたものだが、今は見るかげもない。 今では私のゼミ生ですら、私の本は読んだことがないだろうが、京都大学の学生・院生はそれを読んで高く評価してくれる。そのことに、複雑な思いを抱きつつ、感謝せざるをえない。京都大学生協『綴葉』のレベルを見よ! ↓『綴葉』(428号)
June 10, 2024
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某誌から書評を頼まれ、『70年代アメリカ』という本を読んでおります。まだ途中なんだけどね。でもなかなか面白い。 アメリカの1970年代って、何もなかった十年、みたいな見方を従来されているけれども、どうしてどうして、この十年があったから今の21世紀があるんじゃないの? という趣旨の本なんですけど、とにかく1970年代にアメリカで起こった色々な事象が俎上に上げられ、分析されている。それがいちいち面白いわけ。 たとえばこの時代を代表する映画に『ゴッドファーザー』がある。 この映画の主人公、マイケル・コルレオーネは、最初、軍人として登場する。つまり、シシリアン・マフィアの息子としてではなく、善良なアメリカ人として。 ところが、マイケルはストーリーの進行と共に変容していき、結局、アメリカ人であることをやめ、シシリー人として父の跡を継ぐ。 これが70年代だと。 つまり移民としてアメリカにやってきたすべての人種が過去を捨て、人種のるつぼの中で「アメリカ人」という架空の人種に溶け込み、統合するのではなく、それぞれの民族が独自の文化を持ちながら多様なアメリカ社会の中で生きていく、そういう新しい概念が70年代に生まれたのだと。その一つの象徴が『ゴッドファーザー』なのだと。 面白くない? ま、この本はそういうようなことが色々書いてある。勉強になります。これこれ! ↓アメリカ70年代 激動する文化・社会・政治 [ ブルース・J・シュルマン ]
June 9, 2024
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日本アメリカ文学会の中・四国支部が出している紀要に、『中・四国アメリカ文学』というのがあるのですが、その59号に、恩師・大橋吉之輔先生のことを書かせていただきまして、これがネット上で読めるようになりましたので、ちょっと宣伝を。 一昨年の6月に、アメリカ文学会中・四国支部の支部大会が開かれ、そこで私は講演をさせていただいたのですが、その内容が昨年6月に支部の紀要に掲載され、それが今年の6月にネット上で読めるようになったと、まあ、そういう次第。 で、その内容はと言いますと、私の恩師であります大橋吉之輔先生の思い出でございます。 実はその前の年に『エピソード アメリカ文学者・大橋吉之輔エッセイ集』という本を編纂・出版したのですが、大橋先生のご出身が広島であることもあって、中・四国支部がこの本を大々的に扱ってくれまして。それで学会での講演につながったと。 この講演では、この本を編纂・出版することになった経緯やら、大橋先生の思い出やら、そういうことをお話させていただきました。 ということで、もし一人のアメリカ文学者の波乱万丈、疾風怒濤の人生に興味がある方がおられましたら、是非、以下に示します文字列から中・四国支部の紀要のサイトに飛んでいただき、冒頭の「大橋吉之輔先生とわたし」というエッセイを読んでいただけたらと思います。ま、気軽に読めるものですのでね。これこれ! ↓エッセイ:「大橋吉之輔先生とわたし」 それから、もしこのエッセイが面白かったら、本バージョンの方も是非! 自分で言うのもなんですが、大橋先生というのはとんでもなく劇的な人生を送られた方ですので、この本も感動的です。これこれ! ↓エピソード アメリカ文学者 大橋吉之輔 エッセイ集 [ 大橋 吉之輔 ]
June 7, 2024
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糸井重里さんが運営する「ほぼ日刊イトイ新聞」のサイトで、拙著『14歳からの自己啓発』という本をテキストに、糸井さん、古賀史健さん、水野敬也さんと共に深く語り合ったトークショー「『自己啓発本』には、かなり奥深いおもしろさがある」の模様が、文字媒体で公開されています! 今日公開されたのは、全14回連載の記念すべき第1回目。これこれ! ↓Chapter 1 自己啓発本(JKB)はポピュラーソング。 | 「自己啓発本」には、かなり奥深いおもしろさがある。 | 古賀史健✕水野敬也✕尾崎俊介 | ほぼ日刊イトイ新聞 (1101.com) このトークショー、司会の糸井さんはもとより、参加者がすごい。『嫌われる勇気』や『さみしい夜にはペンを持て』の古賀史健さん、そして『夢をかなえるゾウ』や『LOVE理論』の水野敬也さんという自己啓発界の猛者が参戦してますからね。そりゃあ、14回という長丁場の連載になりますわ。 一方、YouTube 上ではつい先日行った『ニコ生深掘TV』での公開セッションも相当バズっております。これこれ! ↓深掘TV:尾崎俊介氏出演!『なぜアメリカ人と日本人は自己啓発本が好きなのか』(5月28日(火)21時~生放送) - YouTube 最近出した2冊の本が、2冊ともこれほど反響がいいとは、著者冥利に尽きますなあ・・・これこれ! ↓アメリカは自己啓発本でできている ベストセラーからひもとく [ 尾崎 俊介 ]14歳からの自己啓発 [ 尾崎 俊介 ] この勢いを維持するためにも、この週末は原稿書き、頑張ろうっと。
May 31, 2024
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中野利子さんが書かれた『父 中野好夫のこと』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 私がこの本を読んだのは、著者の中野利子さんがつい先日亡くなられたということが一つ。加えて、英文学者・中野好夫氏は、我が師匠・大橋吉之輔の大学時代の指導教授であったということもある。最後にもう一つ付け加えるなら、私は「娘が書いた父親の伝記」という文学ジャンルを非常に高く評価しているということもあります。ましてや『父 中野好夫のこと』は、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しているのですから、よほどの名著なのだろうと。 で、読んでみた。すると・・・ うーん、それほどでもないかな(爆!) まずね、そもそも利子さんは、思春期を迎えた頃から父親の中野好夫のことが大嫌いで、意図的に距離を置いていたということがある。そして長じてからは名古屋の方の学校に勤められたこともあって、めったに実家には戻らなかったと。 で、後になってから父親の書いた本やら何やらを読んで、後付けで父親の業績などを知ったところがあるのですが、それにしたって、「はあ、父はこういうことをしていたのか」的なものだから、そこまでの深い読み取りはない。 例えば森鴎外に目いっぱい甘やかされた小堀杏奴の『晩年の父』とか、露伴に厳しくしつけられた幸田文の『父・こんなこと』のような、父娘の濃密な関係は望めないわけですよ。 ただ分かるのは、中野好夫がものすごくエネルギッシュな人で、勉強家であったこと。戦時中は、当時の国民全般と同じく国威発揚的な発言をしていたこと。それが戦後一転して反省し、二度とああいうことが起らないような社会になるよう尽力したことや、それに関して非常に多くの社会活動に携わったことなど。東大時代は英文学の泰斗・斎藤勇に心頭していたことや、アメリカ文学者の西川正身の友人であったこと。 あと、英文学の優れた研究者であったにもかかわらず、イギリスやヨーロッパの土を踏んでおらず、英会話が苦手であったことも、ちょっと意外な面白い事実でしたかね。 その他、中野好夫の最初の妻は、土井晩翠の次女で、斉藤勇の仲介で結婚したはいいものの、家格の違いに悩んだこととか、その人が若くして亡くなった後、再婚した奥さんはアメリカの大学に留学経験があり、一緒にアメリカに滞在した時は、英会話の苦手な中野好夫よりも奥さんの方が生き生きとしてしまって、中野好夫は面目丸つぶれだったとか。 私の恩師・大橋先生は、指導教授であったにもかかわらず、あまり中野好夫のことには言及しませんでしたが、あれは中野氏が戦時中、国威発揚的な発言を公にしていたことなどが関係していたのかな、なんてちょっと思ったりして。 とまあ、全体として面白くなくはない本なんですが、なんと言うか、ガツンとくる感動がないんだよなあ。やっぱり、若い頃からあまり父親に接触してこなかった娘、という立ち位置が、明確な中野好夫像を形作るには、弱すぎたということなのではないでしょうか。 っつーことで、私には面白かったけど、だからと言って他の多くの方が読んでためになるかっつーと、そこはちょっと疑問、という感じの本だったのでした。これこれ! ↓【中古】 父中野好夫のこと / 中野 利子 / 岩波書店 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
May 23, 2024
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今から40年程前、私がまだ英文科の学生だった頃、既に学者として一家を成していた大先輩、岩元巌先生がお書きになられた『老残の記』という私家版の本を読了しました。 岩元先生は1930年のお生まれですから今年で94歳になられるはず。先生は今は千葉の方にある某老人ホームに暮らし、その一方でまだ仕事場を確保され、毎日、そこに通って筆を執られているとのこと。その意味ではまだまだお元気なのですが、しかしこの本によると、やはり寄る年波に抗うというのは難しいことのようで、お歳を召して体力が落ちてきたこともそうですが、その他、あらゆることに気力を失われつつあるとのこと。また断捨離でそれまで集めてきた貴重なアメリカ文学の本や資料など、身を切られるような思いで処分されたこととか、親しかった友人たちが次々と鬼籍に入っていくこととか。『老残の記』というタイトル通り、歳をとってあることのつらさ、苦しさを正直に吐露しておられる。 私の母が92歳で、現在老人ホームに入っており、その意味では岩元先生と同じような立場になるわけですが、私は岩元先生の子のご著書を、母の姿と重ねながら読みました。人生をどう終えるかというのは、誰にとっても難しいことなのだろうなと思いながら。 ちなみに、岩元先生は、私の師匠である大橋吉之輔先生と親しかったので、本書には大橋先生のこともちょっと出て来る。私にはそういう意味でも本書は読む価値のある本でした。 一方、今日は悲しい知らせも受け取りました。学会の友人で、私とほぼ同世代(私の方が少しだけ年下)の学者さん・H先生が亡くなられたと。60代半ばなんて学者としてはまだまだこれからのはずなのですが、ご病気のために前途を奪われてしまった・・・。 H先生とは、同時期に学会の役員をしていたもので、役員会が終わって、ちょっと飲み食いするような機会によくお話させていただいたものでした。まあ、それだけのお付き合いでしたから、本当のところは存じ上げませんが、私の知る限りでは非常に繊細な、そして穏やかな、やさしいお人柄の人でした。ちょっと歳の離れた奥様とのロマンスを伺ったことを覚えておりますが、奥様もまさか順番が逆になるとは思っていなかったでしょうし、ご落胆いかばかりかと思うと気が沈みます。 94歳、老残の苦しみを綴られた大先輩と、60代半ばで病に斃れた友人と。今日はそんなお二人のことを思う一日となってしまいました。
May 7, 2024
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昨日展覧会に行ってすっかりファンになった荒井良二さんのご著書、『ぼくの絵本じゃあにぃ』を読了したので、心覚えをつけておきます。 この本、荒井さんの幼少期の頃のこと、イラストレーターになられた頃のこと、絵本の魅力に目覚め、絵本制作に取り組むようになった頃のこと、あたりから語り始め、個々の作品の制作経緯やその背後にある思い、影響を受けた他のアーティストのこと、絵本以外の仕事にも携われるようになってからのこと、山形のご出身であったことから東北の大震災の後、東北の人々の心の復興になんとか力を貸すことができればと、様々な活動を行なったことなどが書かれております。まさに「絵本」というものを中心に語る荒井さんの人生の旅のお話。 そういう中から見えてくるのは、荒井良二さんという方のお人柄ですよ。何というか、ほんとにスッとした人。大げさなところがなく、等身大で、自然体。でもそうやってごく普通の人間として素直に素直に考えて行った結果、すごく深いヒューマニズムというか、人間的洞察に到達しちゃったみたいな。でもそういうことを得意気に語るのではなく、ごく当たり前のことのように、まるで昨日の晩何を食べたかを語るがごとくに語っていらっしゃる。そういうところに、私は非常に好感を抱きます。 実際、荒井さんの描く絵に、お人柄が出てますよね! あんな絵が描ける人が悪い人であるはずないもん。 さて、そんな感じで、私は荒井さんの絵本作家としての在り方を読んでいったわけですが、その中で、「これは、絵本創作に限らず、私のような研究者とか、本を書くタイプの人間にも通用するな」と思ったことが幾つかありまして。 たとえば、荒井さんが絵を描く時に、色々な場所で色々な恰好で描くという話とか。 一般にプロの作業場となると、使い慣れた道具が決められた場所に置いてあって、すぐにいつも通りの作業に取り掛かれるようになっているように想像するではないですか。で、実際にそういう風に仕事をされる方もいらっしゃるのでしょうけれど、荒井さんはそうではないと。 昨日はあそこで描いたけど、今日はここ、明日はまたどこか別な場所で・・・という風に、描く場所を変えるというのです。またある時は机に座って、ある時は床に寝そべって・・・という風に、描く姿勢も変えたりする。もちろん、そんな描き方は効率面から言えば非効率なんだけど、それでもそうやって描く。 それはね、結局、慣れを廃して、新しい発見を得るためなんですって。それはムダなことのようだけど、長い目で見ると、メリットがあると。 同様に、荒井さんはある時、コマ漫画を描くという仕事に携わったことがあったのですが、コマ割りをするというマンガの手法は、絵本を作る手法とは大分異なっている。でもそういう、通常の絵本制作とは異なるルール/制限の上で何かを創作してみると、そのことで新しい発見があったりする。コマ割りした一つ一つのコマをそれぞれ1ページに拡大すれば、それはそれで絵本のストーリーになるよな・・・というような発見があったりするわけですよ。 だから、面倒臭くても、慣れた手法に甘えるのではなく、しょっちゅう、別なルールを敢えて自分に課してみる。で、その制限の中で奮闘することで、何か突破口になるような発見があると。 で、荒井さん曰く、そういう突破口を沢山持っている人のことを「プロ」というのだ、と。その辺り、本文から引用してみましょう。 つまりぼくが、折れた色鉛筆の先で描いてみたらどうだろうとか、立って描いたら、あるいは床で描いたらどうかとか、自分に負荷をかけるようなことばかりしているのも、何か新しい発見がないかといつも探しまわっているからです。キャリアを積んだ分だけ、いいものが見つかる確率が上がっているだけで、ぼくだってアマチュアの人と結局は同じです。 というより、一度手になじんだやり方をずっと続けるプロの人もいますが、ぼくはむしろプロとはそういうのとは反対側にいる生き物ではないかとさえ思っています。 一般的にプロの描きとは絵を描くためのコツ、いわばうまく描くための近道を知っている人たちだと思われているかもしれませんが、とんでもない。そういう近道はありません。そんな魔法みたいなものは、どこにもない。どうやったらこれまでと違う描き方ができるか、これまでに描いたものを越えていくことができるか。プロとは、そのためのデータ、つまり、こう修正したらうまくいったとか、こういう場合は失敗したとかいう、自分なりのデータをたくさんもっている人のことではないでしょうか。(106-107) ね。これよこれ。てらいも何にもない、だけどものすごく深い洞察。荒井さんというのは、こういうものを持っている人なのよ。 あとね、これも一つ感心したのだけど、荒井さんの絵本って、ストーリーがあるようでないというか、物語的な起承転結があるわけではない。だから、ものすごく自由に、フリースタイルで、絵先行で絵本を制作しているのかと思いきや、実は絵本を作る前に詳細なマッピングをする、というんですね。 で、そのマッピングというのは、一つの紙に言葉で(絵ではなく)、この絵本に盛り込むべきコンセプトや、キーワードを書き込み、それらコンセプト/言葉を線で縦横につないだりして、相互連関を明示したりすることなんですな。つまり、一つの絵本を作るのに、設計図をかなり詳細にわたって作ると。 うーん、これはね、論文を書く時のワタクシとまったく同じ。私も一枚の紙に、この論文で扱うべき事柄や、論理の運び方、キーワードなどを書き出し、それを終始眺めながら論文を書いている。論文と絵本と、まったく別のもののようで、実は同じ制作過程を通っているんだ、というのは、私としては大きな発見でした。別業種の話って、なかなか聞けないので、その点、すごく面白かった。 それから、荒井さんは、子供を集めてワークショップを開くことが多いようなのですが、そういう経験から、「子供とは何か」ということに、非常に深い洞察を持っていらっしゃるのよ。それは、「子供は我らの希望だ」とか、「子供はみんな天才だ」とか、「子供の感性が羨ましい」とか、「我々大人は、子供時代のことを忘れてしまっている」とか、そういう通り一遍の認識では全然ないのね。 たとえば、子供は未来の希望だ! というような大人の勝手な思い込みから、子供たちに「未来のことを描いてごらん」などと指示しても、現実の子供は、未来の絵なんか描けないんですって。もちろん、過去のことも描けない。自分がもっと小さかった時のことなど、彼らには関心がない。子供ってのは現在だけを生きている非常にタフでシビアな存在であると。 なるほど! また小学校3年生あたりを境に、子供が大人の世界を模倣し出し、輝きを失っていくことを荒井さんはしょっちゅう目にする。でもそれを残念とも思わず、ただ、そういうものなんだ、という認識をされている。だから、小さい子供が、それこそ天才的な感性で、思ってもみないような作品を完成させても、「ちくしょー!」なんて思わないんですって。 ただ、そうやって子供が普通に大人になってしまうことを、止めることはできないにしても、アートによって揺さぶりをかけることはできる。 ルーティーンに収束してしまいがちな世界に、アートで揺さぶりをかけ、非日常的な活動をさせることで、「決まり切った大人」から少しはみ出させることはできる。 私が思うに、多分荒井さんという人は、絵本という形で、社会に揺さぶりをかけようとしてるのではないかと。だから荒井さんの絵本は、子供向けであると同時に、大人向けでもある。 とまあ、この本を読んでいて、色々なことを考えさせられました。読んで良かった本でしたね。 ということで、荒井良二さんの『ぼくの絵本じゃあにぃ』、教授の熱烈おすすめ!です。これこれ! ↓ぼくの絵本じゃあにぃ (NHK出版新書) [ 荒井良二 ]
April 27, 2024
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用があって、新渡戸稲造大先生の名著『修養』を再読しました。これこれ! ↓修養 (タチバナ教養文庫) [ 新渡戸稲造 ] これ、『修養』そのものではなく、その現代語訳なんですけど、まあ、内容が分かればいいかなと。 この本の原著は、明治44年に出版され、昭和9年までに148版を重ねたという超ロングセラー。元々は『実業之日本』という雑誌に連載されていたものを集めて本にしたもので、当時の新渡戸は第一高等学校校長で、かつ、実業之日本社の顧問も務めていた。片や若き学徒を束ねる立場にあり、その一方でジャーナリスティックな活動もしていたということで批判もされたようですが、そういうさがない批判に耳を傾けることなく、新渡戸は旧制高校などに進学できなかった非エリートの若者たちに対して修養を説き、向学心を煽ったと。 で、本書はそういう性質のものゆえ、市井の人々、すなわち、必ずしも学校教育を受ける機会に恵まれなかった人たちに向けて書いてある。だから、小難しいことは一つも書いてない。で、しばしば新渡戸稲造自身の経験、とりわけ失敗談などを元に、そうした失敗からの反省をもとに、「こういう風に心掛けたら、より良い人生になるのではないか」ということを説き起こしているので、著者に対して非常に親しみも増すわけよ。つまり、高所から論を説くのではなく、凡夫の立場でモノを言っている。そこが非常に好感の持てるところなんですな。 その内容は多岐にわたるけれども、勘所としては、「善用」ということ。人生、浮き沈みがあって、順風の時もあれば逆風の時もある。だけど、逆風の時はその失敗を反省し、その経験を善用して次へ進めばいいし、順風の時もまたおごらず、そこで得たものを善用し、さらなる成功に導けばよい。なんであれ、この世で遭遇することはすべて自分を磨くチャンスだと心掛けておれば、たとえ凡夫であろうとも真っ当な人生を充実して生きることができるよ、という話を、色々な観点から述べているのが本書、ということになりそうです。 だから、とってもまともな自助努力系自己啓発本であることは間違いない。いい本です。 それにしても、本書を読んでいて思うのは、昔の偉い人ってのは、実に色々な人の訪問を受けていたのだなということ。 見も知らぬ赤の他人が、新渡戸稲造を頼って、相談をしに直接、家に来ちゃうのよ。入学試験に失敗してしまったけど今更郷里にも帰れない、ついては先生のお宅の書生としてつかってもらえないだろうか、などと切羽詰まった顔をした若者がやってくる。かと思えば女子高生が何人か束になって自宅に押しかけてきて、『女大学』などという書物に書いてあることなど、とても実行できないが、先生はどう思うかと意見を聞きに来る。その他、就職のあっせんを頼む者だとか、そういう輩がやたらに訪問してくる。それも朝食前とかの時間から来るというのだから、何ともはや・・・。 すごいよね、昔の人って。今、たとえば岸田総理とかのところに朝食前に押しかけていって、就職のあっせんをお願いしたいとか言いに行ったら、下手したら逮捕されるんじゃね? でも昔はそういうのもアリだった、ってことでしょ。 でも、そういうのが通った時代ってのも、考えてみれば、なかなか豊かな時代だったと、言えるんじゃないですかね。人間的だよね。 むしろ、今もそれ、やったらいいんじゃない? 岸田首相とか、朝食前の30分、訪問してきた一般市民と面会するよ、何であれ相談に乗るよ、っていう風にしたら、支持率爆上がりじゃない? 映画『ゴッドファーザー』の冒頭場面みたいにするの。 新渡戸稲造の『修養』を、岸田首相にも読ませたいね。
April 19, 2024
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先週の金曜日、いわば時間つぶしのために買ったものの、読みだしたら止まらなくなった穂村弘さんの『短歌の友人』という本、読み終わりました。すごく面白い本でした。これは確かに、賞に値する本だなと。 これは短歌にまつわる本、といって研究書ではないし、専門家のみならず一般読者に向けて書かれているので、「文学的エッセイ」と呼ぶべきものだろうと思うのですが、そういうものとしてピカ一の出来。実に面白く、かつ啓蒙的でありました。しかも、学術的な意味での文学論にもなっているという。こう言っちゃ同業者に怒られるかもしれませんが、今日日、アメリカ文学関連の学会でこのレベルの文学論に出会ったことがない。穂村さんの本って初めて読んだけれど、これほどのものだったのかと、目からウロコ状態でした。 この本に収められたどの文章も興味深いのですけど、私が一番「お!」と思ったのは、「〈読み〉の違いのことなど」と題された一文。この文章の冒頭近くに、次のようなことが書いてある。 いつだったか、永田和宏が、歌人以外の人の歌の〈読み〉に心から納得できたことがない、という意味のことを書いているのを見た記憶があるのだが、基本的に私も同感である。 歌人の〈読み〉の場合、それが自分の〈読み〉と異なっていても、〈読み〉の軸のようなものを少しずらしてみれば理解はできることが多い。大きくいえばそれは個々の読み手の定型観の違いということになると思う。 それに対して、他ジャンルの人の短歌の〈読み〉については、定型観がどうとか〈読み〉の軸がどうとかいう以前に、「何かがわかっていない」「前提となる感覚が欠けている」という印象を持つことが多い。これはあまりにも一方的な云い方で、ちょっと口に出しにくいのだが、そんな感じは確かにあると思う。 「前提となる感覚が欠けている」とはどういうことか。これをうまく表現するのはなかなか難しいのだが、例えば、「歌というのは基本的にひとつのものがかたちを変えているだけ」という感覚の欠如、という捉え方はどうだろう。実作経験のない読み手は、この感覚もしくは認識が欠けているように思えてならない。(176-177) うーん、どうよ。すごいことが書いてあるじゃないのですか! この先、穂村さんが言っていることをまとめると、実作経験のない、すなわち歌人ではない素人には「歌というのは基本的にひとつのものがかたちを変えているだけ」という共通認識がなく、むしろ漠然と「短歌にも色々なものがある」と思っているようで、その色々なタイプの短歌の中で自分の理解できるものをピックアップして、それに対して「いいな」とか、「そうでもないな」とか、適当にコメントしているだけだと。 では、歌人ならば持っている「ひとつのもの」への認識とは何か? 例えば正岡子規にこういうのがある。 人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅殺すわれは この歌は、病床にあって物見遊山にも行けない自分を見つめた歌であるわけですが、ここにあるのは他人に代わってもらうことのできない、自分の人生の一回性、つまり「生のかけがえのなさ」であって、これこそが近代以降の短歌における「ひとつのもの」であると。 だから近代以降の短歌というのは、繰り返しこのことを歌っていると言っていい。それは例えば、花山多佳子という歌人の かの人も現実(うつつ)に在りて暑き空気押し分けてくる葉書一枚 という歌は、上に挙げた子規の歌の変奏であって、歌っている内容は「生のかけがえのなさ」ということである点では同じなのだと。 この「同じだ」という感覚が、歌人と素人の間では共有されていないのではないか、というのが、この文章で穂村さんが言っていることなわけ。 な・る・ほ・ど! なるほどね~。 こうなってくると、もうアレだね、実作しない短歌の批評家なんてのは、実作者からしたらお笑い種なんだろうね。 しかし、それはまた逆に、実作する者同士の批判のし合いとなると、もう、命がけということにもなる。だって、もし相手の歌が歌として通用するならば、それは即、自分の歌が全否定されることを意味するのだから。だから、そんなものは絶対に認めない。もし他の大勢の人がそれを認めるなら、自分は自害する――というようなところまで行っちゃうわけだから。実際、穂村さんはニューウェイブ歌人として名をあげ始めた頃、オーソドックスな歌人であった石田比呂志からそういうことを言われたことがあるそうで。 すごいよね。今、アメリカ文学の学者の間で、これほどの切った張ったなんてないもん。大体、実作するアメリカ文学者なんて、そうそういないですからね。 その他、穂村さんに腑分けされると、近代短歌の在り様と比べた上での現代短歌の位置づけというのもよく分かるし、著名な歌人の特色とかもすごくよく分かる。岡井隆なんて歌人・詩人の本質なんて、わずか数ページほどのエッセイにして、ズバッと核心をついているもんね。まあすごいものですよ。 というわけで、穂村弘、恐るべしということがよく分かった読書体験だったのでした。この本、教授の熱烈おすすめ!です。これこれ! ↓短歌の友人 (河出文庫) [ 穂村弘 ]
April 16, 2024
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ちょいと用があって、ナポレオン・ヒルの著作をあれこれ読んでいるのですが、読む度に不思議に思うことがあって、それは「マスターマインド」という概念についてなのですが。 ヒルはその自己啓発本の中で再三再四、成功するのに重要なのは、マスターマインドを形成することだ、と主張している。ではそのマスターマインドとは何ぞやというと、同じ目的をもった複数の人間からなる協力体制のこと。 つまり大きな仕事を成功させるには、マスターマインドを形成してかからないとダメだと。なぜなら、一人の人間にして完全な人はいないから。人それぞれ欠点があって、それゆえ死角が発生する。だから、複数の人間が協力し合い、互いの死角を消して、それでことに当たらないと、成功への道は絶対に開かれないと。 うーん。そこが分からないんだなあ。 管見によると、世に自己啓発思想家は数多あれど、こういうことを言っている人は他にいないのよ。普通、自己啓発本って、個人の成功を指南するものを言うのであって、最初から複数で協力していけ、なんて言っている自己啓発本なんてない。ヒルは、そこが独特なんだよなあ・・・。 なぜヒルは、そういうことを言うのだろう? 何か経験的なバックグラウンドがあるとも思えないのだが・・・。 その辺り、もう少し考えてみないといかんかな・・・。
April 8, 2024
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カレン・マクレディという人が書いた『ナポレオン・ヒルの哲学を読み解く52章』(原題:Napoleon Hill's Think and Grow Rich, 2008)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 これは自己啓発本の傑作として名高いナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』という本のエッセンスを抜き出し、それを現代の視点から読み解きながら解説する本でありまして、いわば『思考は現実化する』に寄り掛かった本、ナポレオン・ヒルのまわしで相撲を取るような本なんですけど、じゃあ、面白くないかというとそんなこともなく、むしろ結構面白く読むことのできる本でした。 実際、ヒルの『思考は現実化する』は1937年の本ですから、かれこれ90年近く前の本ということになる。だから記述もちょっと煩雑なところもあるし、あがっている例も少し時代がかったところがある。そこで現代の事象に照らし合わせながら『思考は現実化する』を読み解き、ヒルの主張が90年前と同じように現代にも通用するんだよ、ということを教えてくれる本書のような本があると、現代の読者としてはとっつきやすいというか、この本をきっかけに『思考は現実化する』に手を伸ばしてみようと思う人も出て来るのではないかと。 では、『思考は現実化する』を、現代風に読み解くとはどういうことか? 『思考は現実化する』の中で、ヒルは「チャンス」というものの性質について次のように述べています。曰く「チャンスは予期していたのとは違う形で、違う方向からやってくることが多い。それがチャンスのトリックの1つである。チャンスには裏口から忍び込んでくるというやっかいな性質があるのだ」と。 で、このヒルの明察を、カレン・マクレディは「アル・ゴア」という、アメリカ人なら誰でも知っている現代の著名人のエピソードを使って解説するんですな。 アル・ゴアは、クリントン政権時の副大統領であり、2000年のアメリカ大統領選に出馬した。その際、彼のアピール・ポイントたる政治的主張は「気候変動問題」だったのですが、当時はまだアメリカの一般大衆はそこまでこの問題に関心がなかった。アル・ゴア自身は、もっと若い時からこの問題に強い関心があったので、自分が大統領になれば、まず一番にこの問題に取組もう!と思っていたのでしょうけれども、残念ながら彼は大統領選に敗れ、その夢を実現することはできなかった。 しかし、「大統領選に敗れた」ということが、アル・ゴアにとっては大チャンスだった、とカレン・マクレディは指摘します。 大統領選に敗れ、政治家としてのキャリアを終えたアル・ゴアは、環境問題に取り組む活動家として活動を始め、例の『不都合な真実』というドキュメンタリーを制作して話題となり、この分野での第一人者として環境問題への発言力を強めたばかりか、最終的にはノーベル平和賞も受賞している。結局、彼は「気候変動問題」に取り組むという夢を、ちゃんと実現させたわけですよ。 つまり、彼にとって「大統領になる」ということは「夢」ではなくて、「手段」だったわけですな。で、その手段は手に入れることができなかったけれども、逆のそのおかげで、この問題について大統領になっていたらできたであろう以上の活動をすることができた。つまり、大統領になれなかったおかげで、自分の本来の「夢」を実現することができた。 カレン・マクレディ曰く、これこそがヒルの言う「チャンスは予期せぬ形でやってくる」ということの意味であろう、と。大統領選に敗れたことが、アル・ゴアにとっては予期せぬチャンスだったのだ、と。 ヒルが『思考は現実化する』の中で主張していることを、現代の事象をもって解説する、ということがどういうことか、分かるでしょ? とまあ、こんな感じで、本書は52個の現代的なエピソードを駆使して、ヒルが90年ほど前に『思考は現実化する』の中で述べたことの妥当性を証明していくわけ。そういう意味で、なかなか面白いし、『思考は現実化する』という本の、良い意味での解説書・入門書になり得ていると思います。 っつーことで、あまり期待しないで読み始めた割に、案外、ヒルの『思考は現実化する』という名著をよりよく理解する上で役に立つ本だったのでした。教授のおすすめ!です。これこれ! ↓【中古】 ナポレオン・ヒルの哲学を読み解く52章/カレン・マクレディ(著者),藤澤将雄(訳者)
April 6, 2024
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先日の打ち合わせを受けて、次に出す本の書き直し作業を行っております。 今度の本は、古今東西の自己啓発本の傑作を私が50冊ほどセレクトし、紹介していくという類のものなんですが、最初のコンセプトでは、50位から順に1位までカウントダウンしていく形式にしていたわけ。 ところが打ち合わせの時に出た意見として、今時の読者は50位から1位までの長きに亘るカウントダウンに耐えられないだろうと。むしろ手っ取り早く「1位は何?」というのが知りたい、というのが、現代の読者像であると。 ふーーーむ! そうですか。なるほど・・・。 となると、順番を変えて1位から50位へ向けてカウントダウンしていくことになりますが、それだと50位の本は「ビリっけつ」という感じになってしまう。 ということで、コンセプトを大幅に変えて、5つくらいのジャンル建てをし、各ジャンルで1位から10位までカウントダウンする形式にしてはどうか? ・・・とまあ、そういう結論に至り、今、懸命に新規の順位付けを行なっているという次第。 ところが、そういう風に新たなコンセプトで順位付けをしていくと、それは50位から1位へのカウントダウンとはまったく違うものになるのよ。つまり、50冊の順位をそのまま、ジャンル分けしたものに移行させることは出来ないことが分かったわけ。どうしてそうならないかは分からないけど、やってみるとそうならないのよ。 っつーことで、新しい順位付けをしているんだけど、それはそれで面倒臭いけど面白い作業でね。だから、結構、楽しんで新しい順列組み合わせをやっております。 しかし、コンセプトをちょっと変えただけで、モノの見方がまるで変ってしまうと言うのは、非常に面白い経験でした。まあ、こういう経験ができたということ一つとっても、一冊の本を作るというのは、面白い作業だなと。 そんなことを思ったのでした。
March 30, 2024
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マイケル・リット・ジュニアとカーク・ランダースの共著になる『「成功哲学」を体系化した男 ナポレオン・ヒル』(原題:A Lifetime of Riches, 1995)という本を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。 っていうか、これ、再読なんですけど、前には心覚えをつけておかなかったので、改めまして。 ナポレオン・ヒルは、泣く子も黙る自己啓発本の王者『思考は現実化する』の著者なんですが、その割に伝記が無かった。まあ、自己啓発本の著者なんて、文学史的には馬鹿にされていますから、それも珍しいことではないのですけど、ヒルの場合は、ナポレオン・ヒル財団というのが作られているので、そこがこの伝記を企画し、ようやく一応は伝記的なものが書かれたと。 ただ、そういうものとして、結局、お手盛りの伝記になっているわけですよ。悪いことは書かない。っていうか、書けない。だから、ここに書いてあることを、100%真実だと見做すのはちょっと、っていうところがある。話半分で読まないといかんわけ。 まあ、それはそうとして、ざっと見ていきます。〇ナポレオン・ヒルの実母サラは、ヒルが9歳の時に他界。そのため、ヒル少年は近所でも評判の悪ガキに。(29)〇サラの死から1年後、ナポレオンの父ジェームズは再婚。この再婚相手のマーサがいい人で、彼女のお陰でヒルは真っ当に育つことに。(31)〇ヒルが12歳の時、マーサは、銃と交換する条件で、ヒルにタイプライターを買い与え、これがヒルの文筆業を志すきっかけとなった。(34)〇ヒルは、一時期弟と共にロースクールに通うが、その際、Bob Taylor's Magazine という立身出世雑誌を出していたロバート・L・テイラーという人物の元でフリーランスのライターのバイトをする。その後ロースクールでの学習に飽き、法曹の道は断念。(56)〇結局、1908年、25歳の時に、先の雑誌会社に勤めることになり、産業界の名士にインタビューする仕事に就く。そこでインタビューすることになったのが、アンドリュー・カーネギーだった。(59)〇同じ1908年、ヒルはフローレンス・エリザベス・ホーナーと結婚。(77)〇結婚した13カ月後に、ヘンリー・フォードにインタビュー。その場でT型フォードを680ドルで購入。フローレンスの顰蹙を買う。(84)〇1912年11月11日、次男ブレア誕生。ブレアは耳の障害を抱えていた。(90)〇1913年冬、家族を置いて単身シカゴに出たヒルは、ラサール・エクステンション大学の宣伝・販売部門に就職。ここで「人に教える」ことについての自分の才能に気づく。(93)〇その後、1915年に「ベッツィ・ロス・キャンデー・カンパニー」なる菓子製造業を起こすが失敗。企業よりも教育が自分の天性であると悟り、1916年、通信教育コース「ジョージ・ワシントン・インスティテュート」を設立。(-102)〇1917年、アメリカは第1次世界大戦に参戦。ヒルは既知の間柄であったウッドロー・ウィルソン大統領に手紙を書き、何らかの貢献を志願。その結果、ウィルソン大統領からプロパガンダ資料作成の仕事をオファーされる。ヒルはこの申し出を無給を条件に受ける。(106)〇1918年11月、休戦を申し出るドイツに対し、カイザーの退位を条件にすることをウィルソン大統領に進言。(110)〇1918年11月11日、終戦の日、黄金法則に基づく資本主義の再編というアイディアを思いついたヒルは、その思いを文章にし、シカゴの印刷業者ジョージ・ウィリアムズに見せたところ、同意を得ることに成功する。(-117)〇1919年1月、『Hill's Golden Rule』なる雑誌創刊。そこそこの成功。 「この成功は、ナポレオン・ヒルの才能、忍耐力、そして彼のユニークな編集コンセプトの証明であった。 当時、アメリカには数え切れないほどの宗教関連雑誌があった。おそらく、ビジネスに関する雑誌の数はさらに多かっただろう。しかし、"Hill's Golden Rules" は、この二つの分野を統合したユニークなものだった。それは倫理的ガイダンスと成功の秘訣を統合させた、前例のない雑誌だったのだ。」(120-121)〇「すべてのストーリー、人物描写、意見は人生における二つの真実を読者に教えていた。一つは、「自分がしてほしいと思うことは、なによりもまず他人にそうしてあげることだ」という黄金律こそが、ビジネスと人生における成功の切符であるということ。もう一つは、ゴールを定め、障害物や失望をものともせず、それを追求する人物が成功するということであった」(122)●「狂乱の一九二〇年代は、ナポレオン・ヒルにとって新しい時代の到来を意味した。彼は自分のことを、成功した雑誌をつくり出した才能ある文筆家兼哲学者ととらえていた。(中略) ”Hill's Golden Rule” の誌面は毎月、ビジネスの世界で成功するよう、労働組合や社会主義といったアメリカ社会における反競争的要素と闘うよう、読者に勧める何万もの単語によって埋め尽くされていた。 当時の伝統的保守主義者たちとは違い、ヒルは資本主義の行き過ぎを正当化したりはしなかった。彼は理解しやすい哲学を構築し、放任資本主義を一般人にとってずっと魅力的で身近なものとした。それは「高い身分には道義的な義務が伴う」という、古くからあるヨーロッパの概念に二〇世紀のアメリカ独特のひねりを加えたものであった。 このヨーロッパ産に概念は、貴族には富と権力を支配する権利があるが、同時にそれらを公正に賢く運用する義務もあるというものである。「すべての人間には、成功を手に入れるだけでなく、手に入れたなら、人生と財産のある部分を他人が同じゴールに到達するのを手助けするために捧げる義務がある」とヒルは説いた。 ナポレオン・ヒルの哲学は、物質主義と道徳を、そして資本主義とヒューマニズムを統合していた。 何千人何万人ものアメリカ人にとって、彼の説明は説得力があった。彼の哲学は、苦しい状況を乗り越えようとしている人々に希望を与え、厳しい労使対立をやわらげた。彼は野心を抱く労働者に、ストライキをやめ、自由の国アメリカで彼らが見いだすことができる無限の可能性の中から、もっといい機会を見つけるよう説いたのである。」(124-125)〇Hill's Golden Rule の表紙絵あり。「A Business Magazine of a different kind」の文字あり。(127)〇この雑誌はそこそこの成功を収めたが、ジョージ・ウィリアムズと不和になり、ヒルはこの雑誌から手を引く。(127)〇1921年4月、新雑誌『Napoleon Hill's Magazine』創刊。『Hill's Golden Rule』より判型を大きくし、目立たせた。(128)〇「加えて、新雑誌は毎号、インスピレーションを与えることを目的としたフル・ページ・メッセージで彩られていた。実際に大きな活字で組まれたこれらのメッセージは額縁に入れるのに最適であった。これらの「ページ・エッセイ」は、他の雑誌における全面広告と同じ効果を生み出していた。それはグラフィックと編集の両面で、記事と意見のページに緩衝地帯を生み出していたのである。」(130)〇1921年夏、ヒルは文筆業よりも講演業に力を入れていた。 「当時、彼は二つの講演シリーズに基づいてスピーチを行っていた。 一つは”Magic Ladder of Success”と『呼ばれ、ビジネス団体を対象としたものであった。これは、ヒルが成功の基盤であると信じていた十五の原則を網羅したもので、黄金律の哲学に忠実に、ヒルが最も大切にした理想を織り込んだ。それは友好的な協力、そして人種的、宗教的不寛容、憎しみ、ねたみの追放であった。 彼のもう一つの講演シリーズ”The End of The Rainbow"は、純粋にインスピレーションの喚起を目的としたもので、市民グループや宗教団体を対象としていた。 これはヒルが「私の人生における、七つの主要なターニング・ポイント」と呼んだものに基づいていた。彼は自分の個人的、そして仕事上の成功と失敗、そしてその両方から、彼が学んだ教訓について話した。ヒルは、こうした自分が得た教訓を、人生を乗り切る上での指針としてほしいと願い、聴衆に伝授したのである。」(133)〇「ヒルの、影響力を持つ話し方をフルに活かすため、このコースには教科書一〇冊だけでなく、六枚のレコードがつけられた」(134)〇1922年、火事でそれまでのすべての記録を失う。(142)〇1926年、『カントン・デイリーニューズ』の発行者ドン・メレットと共同で、USスティールの会長の庇護の下、「成功哲学」を説いた本の出版に向けて計画を進めるが、ドン・メレットがギャングに殺害され、計画が反故になり、ヒルも隠遁生活を強いられる。(147⁻150)〇1927年、カーネギーとの約束からほぼ20年が経ち、いよいよ成果を出すことを決意。1500ページ、8分冊の成功哲学書の刊行を計画。コネティカット州の印刷業者アンドリュー・ペルトンに対し、外連味たっぷりのセールスを行い、この本の出版を引き受けさせる。それまでヒルがアプローチした出版社は、すべて文学系出版社だったが、ペルトンの出版社は自己啓発本の出版社だったことが幸いした。(-162)〇リライトは1927年の暮れから1928年3月末まで続き、その結果、完成したのが『Law of Success』。8冊の分冊で販売され、一冊4ドルでバラ売り。全巻揃えると30ドルだが、1929年当時、30ドルあれば一家四人が一か月生活できたという。それでもバラ売りの効果か、それなりに売れた。(166)〇『成功哲学』で説かれていたのは理論ではなく、事実と証拠であり、「個人のための資本主義の福音」であって、こういう種類の本が出されたのは初めてのこと。(167)〇小売り業にとって、『成功哲学』は現在の「シリーズもの出版物」の先駆け。第一巻を買った人は、第二巻、第三巻・・・と繰り返し買って行くので、書店にとってはありがたいものだった。(167⁻168)〇『成功哲学』の第一巻の主要レッスンは、「マスターマインド」。この法則は、「二人で考えるほうが一人で悩むより良い」という古来の格言を実用的に発展させたもの。ユニークではないが、ヒルはこの法則をビジネスに応用した、という点で独創的だった。マスターマインドを組むことで、ビジネス上の協力関係にある人々の間の軋轢を取り除き、すべてのエネルギーを市場にそそぐことができる点で、大きなメリットがあった。事実、当時26歳だったクレメント・ストーンは、マスターマインドの考え方を自社と自分の家庭に応用し、効果を上げていた。(168⁻169)〇また第一巻には、振動する流体である「エーテル」に関する抽象的な議論も展開している。人間の思考の波はエーテル中で永遠に振動し続ける、的な。ゆえに、この本は「狂人の戯言」とみなされても仕方ない類のものでもあった。(169⁻170)〇『成功哲学』の好評により、1929年夏、ヒルと妻は、一時的な裕福さを味わう。そしてニューヨーク州キャッツキル山脈のふもとに、成功哲学を教える学校を作らんと、夢を見た。(174⁻)〇1929年の年末、ヒルは次の作品『The Magic Ladder to Success』の執筆に入っていたが、ここで世界大恐慌勃発。(183-)〇『Magic Ladder』は恐慌のために売れず、1930年10月には、ヒル一家は再びどん底へ。(186)〇1931年4月、ワシントンDCに移ったヒルは、「Mental Dynamite」と題した講演シリーズのプロモーションを開始。その他、貧困を脱出する様々な企てを立てるが、すべて失敗に終わる。(187-)〇1933年、50歳の誕生日を迎える直前、ヒルはルーズベルト政権からアプローチされ、国家再建本部のスタッフになる。ウッドロー・ウィルソン政権の時と同じく今回も無報酬を申し出る。ルーズベルトの「私たちは、恐怖そのもの以外、何も恐れるものはない」というフレーズは、実はヒルが考案したものだった。(189⁻190)〇ルーズベルト政権が大恐慌から国を立て直すことに成功したのも、ヒルのマスターマインドの考え方を政権が取り入れ、国を挙げて不況克服のゴールに集中することが出来たからである。(196)〇1935年、多忙により齟齬の大きくなったこともあり、フローレンスと離婚。(198)〇1936年年末、ローザ・リー・ビーランドと出会い、「情欲を掻き立てられ」結婚。(200⁻201)〇しかし、ローザ・リーは、後に書いた本の中で、「金のために結婚するのは、他の動機と同じく立派なことだ」と主張していたように、ヒルを金づると見ていた。(202)〇ヒルはこの頃、『The Thirteen Steps to Riches』という本の原稿を書いていたが、ローザ・リーはこれを励まし、自らタイプを打って三回に及ぶ書き直し作業を手伝った。(203)〇ヒルの出版を担当していたアンドリュー・ペルトンは、当初、難色を示したが、ローザ・リーに押し切られる形で出版に同意、タイトルを魅力的にすることが条件となり、『Think and Grow Rich』というタイトルで出版された。当初、一冊2.5ドルで5000部だった。そして、不況下であるにもかかわらず、本書は飛ぶように売れた。(204)〇本書の成功は、理論的に『成功哲学』に基づいていたこと、カーネギーとのエピソードのユニークさ、そしてローザ・リーが本書の明確さ・簡潔さに貢献したことなどが挙げられる。性衝動をビジネスに活かすことなど、初期にはなかったものも入っていた。想像力がビジネスに重要であることを指摘していたことも、この本が初めてだった。(206)〇クレメント・ストーンは、1938年にこの本に出会い、実際に彼の会社は、この本に基づいて大きく成長した。(208⁻209)〇1940年には、ヒルの財産は100万ドルを超えていた。この年、ローザ・リーは『How to Attract Men and Money』を出版。この後、両者の関係は悪化し、裁判の末、1941年3月に離婚成立。(212)〇その後、失意のヒルは、サウスカロライナ州クリントンで織物業の広報を担当していたオーアム・プラマー・ジェーコブズに招かれ、この地で労使関係を改善するために手を貸す、という仕事をもらう。(214⁻215)〇ここでヒルは『Mental Dynamite』の改稿・執筆をしていたが、同時にアニー・ルー・ノーマンという女性と出会い、ゆっくりと二人の交際が進むことになる。(220)〇1941年末、『Mental Dynamite』出版。(228)〇しかし、この頃、第二次大戦が勃発。紙が配給になり、出版事業には痛手となる。(228)〇ところが、軍事物資の生産をしていた地元の業者ルトゥルノーに、労使関係改善のアドバイスを求められ、この分野で再び活躍。(230)〇1943年、ヒル、アニー・ルーと結婚。(240)〇ラジオ番組で、成功哲学を説くようになり、評判になる。(242)〇1949年、65歳でセミリタイア宣言。(243)〇1951年、シカゴで講演をしたヒルは、知人の紹介でクレメント・ストーンに会い、ここからヒルの晩年の活動の扉が開かれる。(248)〇1952年8月、「ナポレオン・ヒル・アソシエイツ」結成。(251)〇1953年、ヒルとストーンとの共著『Science of Success』(後の『PMA Science of Success』)の最初の一巻が出る。これは例の17の成功法則の自習紙上講座。(254)〇1953年、ヒルとストーンは『How to Raise Your Own Salary』を出版。アンドリュー・カーネギーとの対話形式で、成功原則を語るという趣向。本書は、ヒルの文才を、ストーンの販売力で売る、という形式のパワーが存分に発揮され、ストーンは様々な媒体を使ってこの本の販促を行なった。なかでもラジオ/テレビ・パーソナリティーとして活躍していたアール・ナイチンゲールがヒルの信奉者だったことから、ナイチンゲールも熱心にこの販促に協力した。(255⁻256)〇アソシエイツの発展には、デール・カーネギーやノーマン・ヴィンセント・ピールも協力。(267)〇1959(1960?)、ヒルとストーンは共著として『Success Through a Positive Mental Attitude』(『心構えが奇跡を生む』)を出版。ほとんどはストーンが書いていた。〇1961年、78歳になったヒルは、アソシエイツのフランチャイズ化を企画。これはあまりにも無茶であるということで、ストーンはアソシエイツ事業をヒルに委託して、自らは手を引いた。(271)〇1962年8月、ヒルとアニー・ルーは「ナポレオン・ヒル財団」を設立。(276)その目的は、『アンドリュー・カーネギーの協力による、ナポレオン・ヒル博士の生涯をかけた研究、著作、教義を永遠のものにすること」。(277)〇1970年11月8日、ヒルは87歳にて永眠。(287) ・・・というような感じかな。 さて、一巻を通じて学んだのは、黄金律の重要性。 黄金律はキリスト教徒にとっては非常に重要な概念であるけれども、ヒルはこれをビジネスの極意として位置付けた。これによって、キリスト教徒のビジネスマン化に貢献したということ。 それから、彼のマスターマインドという考え方が、彼の生きた時代には大きな問題であった労使関係の改善に用いられ、効果を発揮した、ということ。つまり、アメリカが嫌悪する社会主義的な発想を廃して、それでもなお労使が力をあわせることで、労使の間にウィンウィンの関係が築けることを実証したこと。これも大きかった。この意味で、実際にヒルが二つの政権に協力したかどうかは別としても、彼の思想が、政権にとっては非常に受け入れやすいものであったことは事実。だから、彼が自分の思想の政治的活用を夢想したとしても、それは納得できる。 そして、分冊方式での本の販売や、オーディオ・ブックの販売、メディア・コングロメリットによる本の販促といった、革新的なマーケットを試みた、という点も評価できる。 これらのことが納得できたことだけども、本書を読んだ甲斐はありましたね。 それにしても二番目の奥さんのローザ・リーは、したたかな女だなあ・・・。これこれ! ↓成功哲学を体系化した男ナポレオン・ヒル/バーゲンブック{マイケル・リット・ジュニア 他 きこ書房 ビジネス 経済 ビジネス読み物 経営者評伝 評伝 哲学 読み物 経営}
March 26, 2024
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名著『思考は現実化する』(1937)でお馴染み、ナポレオン・ヒル博士の『仕事の流儀』(原題:How to Sell Your Way through Life, 1939)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本は、『思考は現実化する』のわずか2年後の著書ということになるわけですが、「セールスマンとして成功するにはどうすればいいか」というテーマに特化した自己啓発本と言っていい。ヒル博士自身の言葉を使えば「マスター・セールスマンになる方法」ということですな。私自身、「良いセールスマンになる方法を教える自己啓発本こそ、アメリカの自己啓発本の王道だ」と考えているのですが、その意味ではまさに王道の自己啓発本と言っていいでしょう。 この訳本は3部構成になっていて、第1部は総論、第2部は自動車王ヘンリー・フォードに学ぶ、ということで、ヘンリー・フォードをマスター・セールスマンの最高例とみなし、そのやり方を学ぼうと呼びかける内容。そして最後の第3部は、マスター・セールスマンになるための具体的な方法論ということになる。各部ともそれぞれ目的に沿った内容で、コンパクトによくまとまっております。 で、各部において、これはと思う文章を、以下、抜き書きしておきましょう。第1部〇どの職業が一番好きかを決めること。人間は、自分が好きな仕事をしているときに最も大きな成功を収め、またその成功は最も長続きする。(12)〇最初の五年間で獲得したい収入を、毎年自分で設定すること。ここで覚えておいてほしいのは、あなたの頭脳を”資本金”に例えた場合、あなたの年収はその六%に当たるということである。例えば、年収が六〇○○ドルであれば、あなたの頭脳の中には一〇万ドル相当の資本金が存在するということだ。収入を確保すると同時に、この資本金を常に動かしておくことが重要である。(13)〇私が最も哀れに思うのは、うんざりするような単調でハードな仕事を、生涯の仕事にしてしまった人たちだ。彼らは一週間のうち六日を、好きでもない仕事に費やさなければならない。それは、自分で自分に刑を宣告して、人生の大半を刑務所で過ごすのと同じことである。(14)〇自分の好きな仕事を選ばなければならない理由は、はっきりしている。仕事が楽しければ、ハードな労働もまったく苦にならないからだ。仕事で疲れている人がいれば、それは働きすぎだからではない。やっていることに興味が持てないだけである。(15)〇人間は、習慣に支配される生き物である。習慣には心の習慣と身体の習慣がある。意識するしないにかかわらず、あたなはこれらの習慣によって、今いるところへ導かれたのである。今いるところや、もしかすると刑務所かもしれない。しかし、誰でも人生における自分の位置を変えることができる。そして、それを可能にする唯一の方法が、「自分の習慣を変える」ことなのである。(15⁻16)〇しかし現実は厳しい。多くの人は、生きていくために嫌いな仕事を強いられている。仕事に就くことすらかなわない人も少なくない。労働を強制されるのも辛いが、もっと辛いのは「働かないことを強いられる」ことだ! (17)〇一意専心――ひたすら一つのことに心を集中させること。これがないと、大きな成功を手に入れることはできない。(19)〇契約上の金額よりも質量ともに勝る貢献をする習慣――それは、ビジネス・パーソンが大きな財産を築き上げるための最も重要なノウハウの一つである。(24)〇「見返り増大の法則」を最もよく理解しているのは農民である。彼らは次のような四つのステップを踏んで、この法則を働かせている。 ①条件に適した土地を選ぶ。 ②その土地を耕し、雑草を取り、肥料を与えて、タネをまく準備を整える。 ③豊かな実りをもたらす良質のタネを選ぶ。 ④タネが芽を吹き、大きく育つまで、毎日手入れを繰り返す。来れには一定の期間が必要である。 この四つのステップの間、農民は無報酬で働く。しかし収穫のときが来れば、それまでの労働の対価として報酬がいっぺんに支払われる。しかも「見返り増大の法則」によってまいたタネの何倍もの収穫を得ることになるのだ。(26⁻27)〇生涯を通じて自分自身の働きを売り込むとき、あなたはほかの人々との摩擦を最小限に抑えなければならない。現実に摩擦を起こさず交渉できる人はめったにいないが、これは自分を売り込むのに不可欠の要素である。 そこで重要になってくるのが、「優れたパーソナリティー」という資質である。(31)〇身体を完全に休めるには八時間の睡眠が必要である。労働に当てられた八時間も、人間社会が求める最低限の時間である。この二つの八時間は、ほかの目的のために削ったり盗んだりできない”聖域”である。その点で言うと、「第三の八時間」は好きなことに使ってよい時間であり、一か八か冒険をするならこの時間しかない。 第三の八時間は、一人ひとりの将来のカギを握っている。(33)第2部〇フォード以外から得た者の総和より、フォード一人から得たもののほうが大きい、と言っても過言ではないくらいだ。これほど偉大な人間と同時代に生き、その業績を間近に見られたことに、私は心から感謝している。(76)〇ヘンリー・フォードが私に教えてくれた最も重要な教訓――それは「一意専心」、すなわち明確な目標を選び、その達成に向けて一心に努力することの大切さである。(76)〇大恐慌が始まったとき、フォードは大自然の領域には「恐慌」がないことに気づいた。彼が見たのは、同じ太陽が地球を照らし、草の根を暖めて、大地にまかれたタネに芽を出させていることであった。ウォール街の株が暴落しても、大自然はまったく変わることがなく、自分のやるべき仕事を進めている。フォードはこのとき、ある結論に達した。「大恐慌は人間がつくり出したものに過ぎない」。そして彼は、「人間がつくったものは、すべて人間が破壊できる」ことを過去の経験から知っていた。(92)〇フォードとの対比で多くの人々を観察した結果、どんな職業であっても、「決断は遅いが修正は速い」人は、たいした業績を挙げていないことが分かった。(95)〇決断とは何だろうか? それは思考を完結させることである。思考しないで決めることは、決断とは言わない。 決断力のある人は、必然的に考える人である。(95)〇ちなみに、私が今まで採点した偉人たちの中で、フォードはマハトマ・ガンジーと並んで最高得点の保持者である。(125)〇イニシャティブと粘り強さは、フォードの最も顕著な資質であり、彼が驚くべき成功を収めたのは、この二つの資質によるところが大きい。フォードは貧困と無学という厄介な敵を打ち負かして、米国一の富豪となった。彼は、次の四つのプロセスによって、それをやってのけたのである。 ①自分が望むものを正確に知る ②自分が望むものを獲得するための明確な目標をつくり出す ③目標を実現するための計画を粘り強く追求する ④目標を推し進めるために努力と財産のすべてを集中させる フォードの成功について語るなら、この四つのプロセスだけで十分である。彼には謎めいたところなど一つもない。正直に言うと、私にとってフォードほど分析しやすい人はいなかった。彼はいつも率直に行動するし、私生活も含めてすべてがオープンである。だから、誰でも意のままに、彼の人生をのぞくことができるのである。(140⁻141)第3部〇職業がなんであれ、私たちは皆セールスパーソンなのである。しかし、全員がマスター・セールスパーソンであるわけではない!(148⁻149)〇以上は、形のないものを売り込むセールス術の一例である。協力を得るために他人を説得する努力は、すべてセールス術だと言ってもよいだろう。ところが、たいていの人は、このセールス術にさほど大きな努力を傾けない。そのために、大多数の人々は、技量の劣る平凡なセールスパーソンでしかないのである。(150)〇この五つの定義は範囲が非常に広く、人間のすべての営みを網羅するほどである。そう、人生というものは、”売り込み努力”の連続であり、それは長くて途切れることのない、一本の鎖のようなものなのである。 生まれたばかりの赤ん坊もセールスパーソンである! お腹がすけば、おっぱいを求めて大声を上げ、そしてそれを獲得する。どこかが痛いときには、振り向いてもらおうと大声を上げ、これも獲得する。 地球上で一番素晴らしいセールスをするのは誰だろうか? それは女性である。女性は男性よりも敏感で、表情豊かで、物腰ははるかに柔らかい。男性はたいていの場合、プロポーズは自分の売り込みだと思っているが、実は、売り込みをしているのは女性のほうである。彼女たちは、自分をかわいらしく見せ、美しく魅力的にし、男の心を奪うことで、その売り込みを行なっているのだ。 ベルトランドの定義に加えて、私も一項目追加したいと思う。 セールス術とは、、自分に対して好意的な行動を起こしたくなるモチベーションを、相手の心に植え付ける技法である。(152⁻153)〇イエス・キリストの精神は、二〇○○年近くを経た今でも、何千万という人々に影響を与え続けている。それは、取りも直さず、キリストがマスター・セールスパーソンだったからである。キリストは一つの普遍的なモティベーションを打ち立て、その周りに自分のセールス・プレゼンテーションをくみ上げた。(155)〇シカゴ大学学長ハーパー博士のセールス術(163~)〇誕生から死に至るまで、人間の営みはすべて「感情」によって引き起こされている。感情という昨日が、世界中のすべての活動を支配していると言ってもよい。感情を通して買い手の心に訴えるセールスパーソンは、相手の理性だけに訴えるセールスパーソンの何十倍ものセールスを達成するだろう。買い手は、感情と密接に結びついた何らかのモティベーションに駆り立てられて、購入を決断するからである。(205)〇最初にマスターマインドのノウハウを私に気づかせてくれたのは、アンドリュー・カーネギーであった。彼は、このノウハウを使うことで莫大な財産を築いたという。カーネギーは、部下の役員や幹部社員約二〇名からなるマスターマインド・グループを組織していた。そして、グループ・メンバーの知識と経験が総合された結果、彼は鉄鋼の製造・販売で成功を収めた。(212)〇習慣の法則と集中力のノウハウとは、切っても切れない関係にある。習慣は集中から育ち、集中は習慣から育つのである。明確な目標に意識を集中させることで心を徹底的に鍛えれば、やがて「目標に集中する習慣」が形成される。この習慣は潜在意識に影響を与え、その結果、潜在意識に固定された明確な目標が、実践的かつ直接的な手順を踏んで現実のものに変換されるのである。(214)〇もうお分かりいただけたと思うが、「明確な目標」のノウハウと「集中力」のノウハウは相互補完的なもので、どちらか片方だけでは、その力は発揮されない。両者が並び経ち、お互いを助け合うとこで、初めて機能するのである。 人生は「習慣」という法則に支配されている。ということは、習慣を支配すれば人生を支配できるということになる。集中力のノウハウを使って自分に命令すれば、この習慣をつくり上げることが可能になる。「われわれがまず習慣をつくり、その習慣が次にわれわれをつくる」のである(218⁻219)〇人間と習慣の間には妥協点はまったくない。人間が習慣を支配するか、習慣が人間を支配するかである。成功者はこの真理を知っているので、まず自分にとって望ましい習慣をつくり出し、その習慣に心と身体を任せるのである。習慣は、一つひとつの思考と一つひとつの行為によって、一歩一歩着実に形づくられていく。(219)〇あなたのすべての思考を明確に集中させれば、あなたの潜在意識はその目標のはっきりしたイメージを捉え、そのイメージを現実的なものに変換させる。そう、思考は現実化するのである。これは、現代の心理学者なら誰でも知っている真理であり、あのイエス・キリストもそれを知っていたと考えられる。(219)〇本書の中で、私は「無限の叡知」の力に何度も言及している。この力が、目標を達成しようとする人間に働きかけると、途方もない結果がもたらされるが、それは集中力のノウハウによってのみ得られるものである。 私は「無限の叡智」を限りなく信奉している。どんな思想も宗教も、それに口をはさむことはできない。この素晴らしい宇宙の法則は、あらひゅる疑念や心配、恐怖から人々を引き離すために、利用されるのを待っている。私が繰り返し言及するのは、「無限の叡知」にもっと慣れ親しんでほしいからである。 私は「祈り」の力を固く信じている。ここで言う祈りとは、「明確な目標」に対する信念を持った集中である。信念のない集中は結果をもたらさない。そして、新年を伴った集中はまるで奇跡のような結果を達成するのである。(220⁻221)〇帽子返却可のエピソード (250) ま、ざっとこんなところかな? こうして抜き書きしてみても分かる通り、非常に健全かつ実践可能なアドバイスばかり。しかも時折挟まるエピソードなども面白く書かれていて、読み飽きないようになっております。いい本です。 さすが、ナポレオン・ヒル、自己啓発思想界のナポレオンだけのことはありますな。これこれ! ↓【中古】仕事の流儀 /きこ書房/ナポレオン・ヒル(単行本)
March 24, 2024
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春休みになって多少なりとも気が抜けたこともあり、今は仕事以外の本をよく読んでおります。で、最近読んだ本の一冊がコレ。ディアナ・レイバーン著『暗殺者たちに口紅を』。小学校以来の親友Tから勧められたもので。 本作の主要登場人物は、4人の女性、それも60歳・還暦を迎えた妙齢の女性たちでありまして、その彼女たちが、勤め先から定年祝いとして招待された豪華客船ツアーで久々に顔をそろえるというところから小説は始まります。 で、それだけだと、なんだ、定年を迎えた社員に豪華クルーズをプレゼントするなんて豪勢な会社だなと思いますが、実は彼女たちの勤め先というのは「美術館」という秘密組織、それも暗殺組織なのね。これは元々はナチス・ドイツの残党を成敗し、彼らが不当に略奪した美術品などを回収して元の持主に返却するために組織された独立組織だったんですけど、ナチスの残党が少なくなってからは、テロ首謀者とか、児童誘拐組織とか、そういう悪い連中を超法規的に抹殺することをもっぱら行ってきた。で、今回集まったビリー、ヘレン、メアリー、ナタリーの4人も長年この組織で暗殺者を務めてきて、60歳を期に引退とあいなった。まあ、暗殺ですから、年齢的なものからくる体力の減退とかありますからね。この辺が潮時だろうと。 で、今までの暗殺者としての仕事から解放される喜びと、一抹の寂しさを抱えながら、とにかく今はバカンスを楽しもうとしていた4人ですが、このクルーズ船の中に「美術館」の暗殺者がクルーとして紛れ込んでいることを発見してしまうと。 ということは、組織がこの船の中で誰かを暗殺しようとしていることは明白ですが、では誰を殺そうとしているのか、と探っていったところ、どうやら標的は自分たち4人であることが判明。定年祝いの豪華クルーズをプレゼント、などと言い条、実は組織は口実をつけて4人を集め、まとめて殺そうとしていたんですな。 もちろん、そんな罠にひっかかるタマではない4人は、暗殺者を逆襲し、客船に乗り合わせた他の一般人を避難させた上で船を爆破、一応、4人は死んだものと思わせる細工をして逃走します。 が、組織がその程度の小細工をうのみにするはずがない。すぐに次の刺客を送ってくることが予想されるわけです。そこでビリーたち4人の女性暗殺者集団は、組織がなぜ自分たちの命を狙ったのかを探ったところ、彼女たちは組織内の理事の誰かから罠にはめられ、冤罪を背負わされたことがわかった。 もうこうなったら、逆襲するしかない! 4人は、老骨に鞭うって、暗殺組織のトップの連中を片端から始末することを決意。さて、組織対還暦レディーたちの暗殺合戦、どちらに軍配が上がるか??!! ・・・というお話。まあ、コテコテとはいえ、そこそこ面白い話ではありました。これこれ! ↓暗殺者たちに口紅を (創元推理文庫) [ ディアナ・レイバーン ] ところで、先日、小説の書き方本として非常に面白い『物語のつくり方』という本を読んだばかりなので、私としては当然、「物語のつくり方」目線でこの小説を読んでしまったわけですよ。 『物語のつくり方』によれば、シナリオとか小説っちゅーのは、要するに主人公に困難な状況を与えて、主人公がそれを克服するのを描けばいいんだと。 それを『暗殺者たちに口紅を』に当てはめれば、確かに4人の暗殺者レディーが、自分たちへの暗殺指令に直面するという困難な状況が与えられ、その状況を克服できるかどうかに自分たちの命が掛かっている状態なのですから、この条件をクリアしていることが分かる。 またシナリオ・小説にはすべて「○○は、××だ」と一言で表現できるテーマがあるべきだそうですが、そう考えるとこの小説のテーマは、「女性同士の友情は、大切だ」かな。そしてこのテーマを表現するモチーフは、「暗殺者の世界」かな。 次、「素材」は天(時代)・地(場所)・人で考えるのだけど、それはそれぞれ「現代」「イギリス」「暗殺者組織に狙われているベテラン暗殺者4人」ですね。 で、物語の構成、すなわち「起承転結」ですが、「転」がテーマそのもの、すなわち「女性同士の友情は、大切だ」なんだから、「起」はその逆、すなわち「女性同士はうまく行かない」になっていればいい。つまり、同僚とはいえそれほど仲良しではない4人がバラバラに登場し、その性格や生活ぶりの違いを強調すればいい。で、その性格も生活も違う4人が、その違いを克服しながら協力しあって困難を克服する様を描くのが「承」の役目と。実際、そうなっているし。 さて、その上で、本作の構成上の問題点を指摘するとすると、多分、「主人公が多すぎる」ということだと思います。だって4人もいるんだもん。確かに、小説の語り手はビリーで、その意味では主人公は一人と言ってもいいのだけど、それでも4人の暗殺者が登場しちゃいますから、それぞれを個性的に描かなければならないところはある。そうなると、「公生活・私生活」の両方が描かれる「ラウンド・キャラクター」が4人もいることになるので、これはちょっと混乱してしまう。 実際、本作の弱みは、そこにあると思います。 っつーことで、『物語のつくり方』をベースにすると、小説なんて見事に読み解けてしまいますな。その意味でも『物語のつくり方』って、ものすごい名著だと思う。これこれ! ↓プロ作家・脚本家たちが使っている シナリオ・センター式 物語のつくり方 [ 新井 一樹 ] というわけで、『暗殺者たちに口紅を』を、『物語のつくり方』を参考にしながら読むという、面白い読み方が出来て、結構、楽しめたのでした。
March 23, 2024
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最近・・・っていうか、もうそうなってから大分経ちますが、熱中して本を読み続けることができなくなりまして。 子供の頃は、本の世界にどっぷり浸かることができたのに、最近は30分くらいですぐに浮上しちゃう。物語にある程度の進展があると、そこで少し休みたくなるわけよ。 だもので、休み休み読むものだから、一向に読み終わらないっていう。困ったもんだ。 だけど、最近、この悩みを解消するやり方を開発してしまった。 それを称して「サーキット・リーディング」。ほれ、フィットネス・クラブとかで「サーキット・トレーニング」ってあるじゃん? あれの読書版よ。 たとえば今、3冊の本を同時に読んでいるのだけど、一冊を10分くらい読んだら二冊目の本に移り、それを10分くらい読んだら三冊目に移り、それを10分くらい読んだらまた一冊目に戻る。これを延々繰り返すわけ。すると、気分が変わるので、1時間でも2時間でも読み続けられることを発見。うん、これはなかなか良いな。 ということで、今は『暗殺者たちに口紅を』と『夜のある町で』と『物語のつくり方』(再読)をとっかえひっかえ読んでいるというね。暗殺者たちに口紅を (創元推理文庫) [ ディアナ・レイバーン ]【中古】 夜のある町でプロ作家・脚本家たちが使っている シナリオ・センター式 物語のつくり方 [ 新井 一樹 ] 特に一冊目と三冊目は、小説の書き方と、書かれた小説を交互に読むことになるわけだから、すごく面白い。 ということで、今年はこのサーキット・リーディング方式で、ガンガン本を読んでいこうかな!
March 16, 2024
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デニス・ボック著『オリンピア』という短編連作小説を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 中身に言及する前に外見、つまり本の装丁について一言したいのですが、本書の判型は少し変わっていて、通常の単行本のそれと比べてやや縦長というか、新書判の縦横比をそのまま単行本に当て嵌めたような形になっている。この縦長の判型が案外手に馴染むわけ。で、中の印刷面もページ下部の余白が大目にとられていて、ページを開いた時に両手の親指が印刷面にかぶらない。だから読みやすい。 そして表紙のデザインがまたとても美しい! この小説の重要なモチーフは「水」と「風」なんですが、表紙デザインの彩りが、まさに水色と風色なのよ。「風色」って何だよ、と思うでしょうけど、実際に現物を手に取れば、私の言っている意味が分かると思います。これこれ! ↓オリンピア [ デニス・ボック ] さて、外見は分かった、では中身は? ということなんですけど、これ、『オリンピア』というタイトルから予想されるような話ではないのね。たしかに1972年のミュンヘン五輪、1976年のモントリオール五輪、1988年のソウル五輪、1992年のバルセロナ五輪が、本作を構成する各短篇の背景として描かれるものの、別にオリンピックに直接関係する話ではない。しかし、ではオリンピックとはまるで関係がないかというとそういうことでもなく、たとえば本作の主人公・・・というか語り手であるピーターの父方の祖父母は共にオリンピック選手で、まさにオリンピックで出会って恋に落ちたという経緯がある。その意味で、オリンピックがなければ生まれなかった一族の話なわけ。しかもピーターの父親もオリンピック選手(ボート)で、その後、ボートを作る仕事で生計を立てている。 しかも、ピーターの妹のルビーは体操の才能があり、もう少しで祖国カナダはモントリオールで行われたオリンピックに出場できそうなところまでいった。だから、この一族にとってオリンピックというのは、単に他人事として見て楽しむものではないんですな。もっと身近なものであり、かつ、メダルを獲って栄光を勝ち得たとかそういうことではないので、ある意味では屈辱の歴史でもある。とにかく、無視することのできない、生生しいものなんですな。 で、そういう、オリンピックと少なからぬ縁のある一族三代の歴史が、一番若い世代であるピーターの視点から描かれると。そういうファミリー・ヒストリーみたいな小説なわけ。 といって、特に派手なヒストリーがあるわけではなく、彼らのヒストリーというのは、言ってみれば、どこの家庭にもあるような、平凡なヒストリー。でも、平凡だろうと何だろうと、当事者にとってはそれなりの痛みを伴うような、そしかもその痛みから逃れることのできない類のヒストリーではある。 たとえばピーターの祖父母世代は、ナチス時代のドイツに暮らしていたわけで、カナダに移住したピーターの両親世代にとっても、一族が背負ったドイツ時代の嫌な記憶というのは、それなりに色濃く残っている。でまたそのドイツ時代の負の遺産というのが一様ではなく、父親の一族と母親の一族で若干受け取り方が違う(母方の一族の方がより重荷が大きい)。で、実はこのバックグラウンドの違いが、ピーターの両親の間の密かな溝(溝は言い過ぎだとしても、火種のような感じ)になっていたりもする。だから、ピーターの家に、父方、母方、それぞれの親戚が訪れて来るたびに、何かひと騒動持ちあがることにもなる。もちろん小さい子供であるピーターにもそういう両親の不和が何となく分かるので、それに応じて彼の心も波立つし、その様子を見ている読者の方も、なんとなくゾワゾワしてしまう。 で、そのゾワゾワがこの連作短篇の中で少しずつ反響を強め、拡大していくのですが、その最初の例が、本作第一話である「結婚式」という短編の中で描かれるピーターの父方の祖母の死。孫も出来たほどの年齢になってから二度目の結婚式をしようと思いついた老夫婦の、その結婚式の当日に、花嫁である祖母が溺死するという悲劇。 しかし、それ以上にこの一家にダメージを与えたのは、ピーターの妹、ルビーの死。オリンピック出場も夢ではない有望体操選手だったルビーは、まるで重力の影響を受けていないかのように軽やかに跳躍することができたのですが、本当にそうやって高く飛んだまま、空中に消えてしまった。 そして空中に消えた娘を探すかのように、ピーターの父親は竜巻というものに異様に惹かれていくわけ。竜巻ウォッチャーとして、竜巻が発生したと聞けば、おっとり刀でそこに行ってしまうという。まあ、そういう人はどこにもいるけれど、特にピーターの父親は、まるで竜巻に取りつかれたようになってしまう。無論、それは亡き娘に対する鎮魂の行為でもあるのだけれど、それは妻には理解し得ないもので、このことが元で、ピーターの両親は別居することになってしまう。一方、ピーターはピーターで、大学は出たものの、その後、その先の人生で迷うところがあり、複数の女性と関係を持つようになるなど、収拾の付かないものになっていく。この時点で彼の家族も、ピーターの人生も、空中分解しそうになってしまうんですな。 だけど、その危機は、乗り越えられる。小さな齟齬の積み重ね、そしてそれほど小さくはない悲劇の数々、そういうものに引き裂かれそうになっていたこの家族は、しかし、それでも家族として立ち直る。そしてその一家の再生は、ピーターの両親の二回目の結婚式という象徴的なイベントの中で、しかも奇跡的な偶然にも助けられながら、成し遂げられていくと。 ま、そういうお話。 ストーリーとしては決して平穏ではなくて、むしろダイナミックな話ではあるんだけれども、それが「静謐」という言葉がぴったり来るような筆致で綴られるもので、印象としては非常に静かなものを読んだなという気がする。なんて言うのかなあ、本当はそれなりに騒々しいドラマなのだけど、それをガラス越しに、音もなく見させられているという感じ。それでいて、ガラスの向こう側のことが自分とは無関係とも思えず、なんだか妙にヒタヒタと琴線に触ってくるものがある。 個人的な印象だと、このドラマとしてはそこそこ騒々しいのだけど、ガラス一枚かました静謐さがあって、なんかヒタヒタくる、という感じは、ルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引書』にもちょっと通じるところがあるのではないかと。とにかく、なんとも不思議な、妙に心に残る読後感でございました。新興の「ふたり出版社」である「北烏山編集室」が満を持して世に問うこの小説、教授の熱烈おすすめ!でございます。越前敏弥氏の訳文も格調高く、美しい!オリンピア [ デニス・ボック ]
March 9, 2024
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新井一樹さんの書かれた『物語のつくり方』という本を読んだのですが、これがまた非常に良い本でした。これこれ! ↓プロ作家・脚本家たちが使っている シナリオ・センター式 物語のつくり方 [ 新井 一樹 ] これ、プロの脚本家養成所たる「シナリオ・センター」の開発したシナリオの執筆法を、紙上講座風に本にしたものなのですが、驚くほどシンプルかつ必要十分な感じで、物語の作り方が伝授されている。 実はワタクシ、この手の小説家養成本が大好物で、これまでにも随分読んできたのよ。 かつて斎藤美奈子氏が世に数多ある文章読本の類をバッタバッタと切り伏せた『文章読本さん江』という本を出したことがありましたが、あれの「小説家養成本版」を出そうかな、なんて下心もあったりして。これこれ! ↓文章読本さん江 (ちくま文庫) [ 斎藤美奈子 ] だから、この手の本は大分読んでいるつもりなのですが、新井一樹さんのこの本は、他の類書とは異なって、本当に役立ちそうな本だったので、ちょっとビックリした次第。確かに、この本が3万部も売れるのは納得だわ。 どこがどう優れているかを説明し出すと長くなるので書きませんけど、これを読むと、シナリオとか小説とか、要するに物語を作る、ということの実際がよく分かる。 で、逆にそれが分かると、小説を読む場合にもすごく役に立つんですわ。書く側の意識で読めるので、理解が余計に深まるわけ。 ということで、別にシナリオ・ライターになるつもりはなくても、小説の愛好家であるならば、この本は読んでおいて損はないと思います。教授のおすすめ!です。シナリオ・センター式物語のつくり方 プロ作家・脚本家たちが使っている/新井一樹【3000円以上送料無料】
March 3, 2024
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今日は午前中、家内が外に出る用事があったので、その用事が終わる頃を見計らって某所で待ち合わせて、そこにあるサブウェイでランチを済ませました。 サブウェイって、美味しいよね! ファスト・フードで一番好きかも。 で、待ち合わせをしている時に、少し私の方が先に着いてしまったので、同じフロアにあった本屋さんで市場調査をしていたんだけど、そうしたらこんな新刊本を見つけました。これこれ! ↓ホールアースの革命家 スチュアート・ブランドの数奇な人生 [ ジョン・マルコフ ] 有名な『ホールアース・カタログ』を創刊したスチュアート・ブランドの伝記ですな。実は3年くらい前に私もスチュアート・ブランドについて云々する文章を書いたことがあるので、そこに書いたことの真実性を確認するためにも、この本はゲットかな。 最近、必要な本はすべてアマゾンで買うようになってしまったワタクシですが、たまにリアル本屋さんに行って新刊本コーナーを覗き、自分のレーダーにひっかかっていなかった獲物を探す、そういう作業は必要ですな。もちろん、そんなことは百も承知なんだけど、なかなか忙しくて、リアル本屋に行く暇がない。 だけど、本当は暇があるかないかの話じゃないんだよね! 文筆業をやるなら、行かなくちゃいかんのだよね。だって、そこに文筆業の猟場があるんだから。いま、この海ではどういう魚が泳いでいるのか、見ておかなくてはならない。それはもう、本来的に義務なんだよな。 っつーことで、ちょっと反省したワタクシ。これからは心して、もっと頻繁にリアル本屋さんに出没しなくちゃ。
February 20, 2024
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翻訳家でエッセイストの青山南さんからちくま文庫の新刊『本は眺めたり触ったりが楽しい』をご恵投いただきまして、今日、それを一気読みしてしまいました。 このところ毎日、論文を書く日が続いていたので、それに飽きたというのもあるのですが、いただいたこの本をベッドに寝っ転がりながら読み進め、途中、寝ちゃったりしながら最後まで読んじゃった。 で、思うに、こういうフシダラで楽しい本の読み方を、最近してなかったなと。 昔はこういう読み方しかしてなかったんだけど、最近は仕事に追われて、義務的な読書ばっかりだからね。久しぶりに無目的な読書をして、そのことが楽しかったという。 でまた、青山さんのこの本自体、こういう読み方を誘うのよ。途中で寝ちゃったり、そうかと思うとむっくり起きて何事もなかったかのように続きを読んだり。読んでる途中で先にあとがきを読んだり。阿部真理子さんの手になるユニークな挿絵を眺めたり。こういう、弄ぶような読み方こそが、この本の正しい読み方だと思う。 本書の内容は、色々な本を読んだ回想であったり、本の紹介や感想であったり、そこから派生した飛躍した想念であったり。読書論でもあり、本なんて全部読まなくても、パラパラ部分的に読んでもいいし、持っているだけで結構面白いんだ論でもあり。色々な人の、色々な本の読み方の紹介であったり。そこはエッセイの名手の書くものだから、面白くないわけがない。 実はこの本は、随分以前に単行本として出たものの文庫化なのだけれど、当時はこういう読書にまつわるエッセイって、色々ありましたね。でも、今はあまりないような気がする。本に惑溺する人が少なくなったということか。 今、久々にこの種の本を読んで、昔は私も本に惑溺していたなあと。私も引退したら、またそういう時代の読書に戻れるのかしら。そうだとしたら、引退が待ち遠しい。 青山さんのこの本、そんな、読書の楽しさを思い出させてくれる本でした。 これこれ! ↓本は眺めたり触ったりが楽しい (ちくま文庫 あー15-4) [ 青山 南 ]
February 16, 2024
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本日、ついに拙著の見本が出て、出版社の方から送られてきました! いや~、自分の本が出ると言うのは、何度経験しても嬉しい! 完成ほやほやの本を撫でまわして、うっとりしております。 実際に市販されるのは、今月24日からですが、何というか、「這えば立て、立てば歩めの親心」じゃないですけど、この間まで「早く見本が届かないかな~」と思っていたけど、それが手元に届いた今では、「早く市販されないかな~」という気持で一杯。 で、市販されたらされたで、「早く書評が出ないかな~」になるんだよね! まあ、そういうものよ。 ということで、まだ予約しかできませんが、興味のある方は是非!これこれ! ↓アメリカは自己啓発本でできている ベストセラーからひもとく [ 尾崎 俊介 ]
February 15, 2024
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多井学さんが書かれた『大学教授こそこそ日記』なる本を読了しましたので、ちょいと心覚えを。 これ、『交通誘導員ヨレヨレ日記』をはじめとする三五館シンシャから出ている一連のシリーズの一環として出ているもので、色々な職業の人の実体験から、外部からはなかなか見えないその職業の裏側というか、苦労話を暴露的に書くという本。私も前に『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』というのを読んだことがあって、それはそれで結構面白かった。で、今回の『大学教授こそこそ日記』ですが、これは先輩同僚のアニキことK教授からおススメされ、はい、と手渡されたもの。アニキに手渡されちゃったら読むしかないんでね。これこれ! ↓大学教授こそこそ日記 (日記シリーズ) [ 多井 学 ] さて、著者の多井学さんですが、これはもちろん身分バレを隠すためのペンネームであって、本名は別。上智大を出て、アメリカとカナダの大学・大学院を出た国際関係論の先生で、長野県のS短大に就職したのを始め、そこから国立の徳島大に移籍、さらにそこから関西学院大学に移籍して今日に至る、という経歴。ここまでわかれば、ちょっと調べれば本名はすぐに分かります。本もそれなりに出されている人ですね。専門書もあるけど、「大学教授になる方法」的な本もある。どの道、この手の本が書きたい人なんですな。 で、3つの大学、それも弱小私立短大、地方国立大、メジャー私立4大と、それぞれ異なるタイプの大学に勤めたことがあるというのがいわば強みで、それぞれの大学に勤めていた時期に経験したことを、面白おかしく書いている。それを読むと、それぞれの大学に特徴というか、くせがあって、そういう癖のある職場に適応しながら生きる大学教員の生態がよく分かります。 特に、私自身が国立大学に勤めているので、多井さんが徳島大学に勤めていた時の話はすごくよく分かる。となると、弱小私立大学に勤めている人、メジャー私立大学に勤めている人、それぞれ、この本を読むと「ある、ある!」となることでしょう。同業の人間からすれば「ある、ある!」だし、大学というところに関係がない人が読めば、「へえ、大学教授って、そういう職業なんだ」というのが分かるかも知れない。 ま、そんな感じで、「ある、ある!」と思いながら、軽くさらっと読んじゃった。 もっとも、最後のところで、多井さんが奥さんを亡くした経緯と、その後の辛い生活のことがちらっと書かれていて、愛妻家が妻を亡くすとこうなるんだ、というところがあり、そこはちょっと可哀想。私も愛妻家の一人として、奥さんには自分より長生きしてもらわないといかんなと、あらためて思った次第。 ということで、読んで特にためになるという類の本ではないけれど、大学教授の方、あるいは大学の先生になりたいなと思っている方には面白い本かもしれません。その程度のものとして、おすすめ、と言っておきましょうかね。大学教授こそこそ日記 当年62歳、学生諸君、そろそろ私語はやめてください/多井学【1000円以上送料無料】
January 19, 2024
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・・・そうか、メイコも逝ったか・・・。また一つ、昭和が消えるのぉ・・・。 さて、卒論の提出日(10日)が刻一刻と近づいておるのに、ゼミ生の一人がまだ最終章の草稿を提出してこないっていうね。いやあ、ヤキモキさせるねえ。 で、今来るか、今来るかと待っているのも疲れたので、伊藤礼さんが書いた『狸ビール』というエッセイ集を読んでいたら、結局、最後まで読み切っちまったよ。これ、講談社エッセイ賞を獲った作品なんですが。 伊藤礼さんというのは、作家で文学評論家の伊藤整さんの次男さん。日芸の教授で、英文学の人。その意味では先輩でもあるんですが、英文学での実績より、エッセイストとしての業績の方が有名かも。 で、『狸ビール』は、多趣味だった伊藤礼さんの、(鳥撃ち専門の)ハンターとしての一面を綴ったエッセイでありまして、昔は英文学者が趣味で散弾銃を担いで野山を駆け回る、なんてことがあったんですねえ。 でまた、伊藤礼さんの鳥撃ちのホームグラウンドが、東京と神奈川の境、黒川とか栗木、柿生の辺りだったそうですが、これ、私の実家のあるところじゃん。それもまたビックリ。 で、猟の実体験や、猟における先輩たちとの交流、自分が猟をする心持ち、銃のこと、猟犬との絆のことなど、一巻通してそういう話題のエッセイが並んでいる。 まあ、今時の人間からすると、まるで経験のない話ばかりですから、読んでいて「ふうむ、そういうものなのか・・・」と思うことばかり。でまたその書きぶりが、計算高くないようで、ひょっとしたら計算ずくなのかと思わせるヘタウマの文章で、非常に特徴がある。 伊藤礼の文章の代表例を挙げるとすると、こんな感じ: 薬莢のなかの火薬はなぜ大爆発を起こすのか。 本来、火薬は火をつけてもただボーと燃えるだけのものだ。このかぎりでは、火薬というものはちっとも面白くない。ところが、この場合、火薬は薬莢という親指ぐらいのボール紙の筒の中にはいっている。筒の出口側には紙塞と称するボール紙一枚をへだてて、コロスという詰め物がぎゅうぎゅうにつめこんである。火薬が燃えてものすごい量の気体にかわると、気体は広い世界に出てゆこうとあせって、あれこれと行きどころを探す。しかし、薬莢は尻のほうも側面もしっかりと鋼鉄の銃身に包まれているから、けっきょく多少無理があるとは思いながらもコロスを押し出すことにする。 コロスは、薬莢のなかにぎちぎちに詰め込まれているから、そんなに押されても困るんだとおもいながらも、とにかく気体がものすごい圧力をかけてくるので薬莢のボール紙の円筒のなかをギシギシ音をさせながら、ずっていく。考えてみると気の毒なみたいだ。 ところがコロスのむこうがわには、またもや紙塞をへだてて散弾が詰まっている。膨張した気体がギュー、スポン、とコロスを薬莢の外に押し出すと、それと同時に散弾も押し出されて、銃身のトンネルを通り抜けて銃口のそとに弾のような速さで飛び出してゆく。 これが、鉄砲の引き金を引くと弾が飛び出すしかけだ。 世の中には、こうすればこうなるというたぐいのものがいろいろある。スピードを出しすぎると白バイに追い掛けられるとか、「お茶」と言ってみるとお茶が出てきたりするのもそうだ。 だが、そうは言っても、スピードを出しすぎてもどこにも白バイがいなかったり、「お茶」と言ってみると、しばらくして「お茶ぐらい自分で出したら」と不機嫌そうな声が聞こえてきたりする。 その点で、引き金を引くとはほとんど間違いなく即座に弾が出てくるというのは心あたたまることだ。(『狸ビール』111‐112頁) ね。ちょっと癖があるでしょう? この癖が面白いと思えばこの本は面白いし、この癖が嫌味だと思えば、この本は嫌味な本になる。 私としては・・・うーん、微妙かな。面白いような、嫌味のような、どっちに判断しようかなーって悩むところ。でもまあ、面白く無くはないので、良しとしましょうか。 というわけで、絶賛ではないけれども、読んで面白くなくはないというところで、教授のおすすめ!と言っておきましょうかね。これこれ! ↓狸ビール【電子書籍】[ 伊藤礼 ] しかし、ふと気が付いたんだけど、年明けに読んだ本って、土井善晴の『一汁一菜でよいと至るまで』にしても、伊藤礼の『狸ビール』にしても、偉大な父親を持ってしまった息子の本ですな。偶然そうなったんだけど、どちらの本も、父親コンプレックスの産物と言えなくもない。そういう運命を背負うってのは、傍目で思う以上にしんどいのかもね。
January 7, 2024
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本年一発目の読書として選んだ土井善晴さんの『一汁一菜でよいと至るまで』を読み終わりましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、タイトルが日本語としてちょっと変だなと思うのだけど、内容としてはとても面白いものでした。新年最初に読む本としてはすごく良かった。 土井善晴さんは、もちろん土井勝さんの息子さん。私も子供の頃、土井勝さんの料理番組(『きょうの料理』)、見てましたからね。土井勝さんの「(この料理は)お子たちにも喜ばれます」という決めゼリフ、よく覚えています。「子どものことを『お子』って言うんだ・・・」というのがすごく印象的でね。「(何かをかき混ぜるようなシンプルな作業を)これはお子たちに手伝ってもらうとようございます」とかね。 で、この本によると、戦後、花嫁修業に料理を習う、なんてことが流行し、元海軍主計だった土井勝さんが開いた料理教室が大人気となり、一時は数万人の受講生を抱える一大産業にまでなったのだとか。で、そんな人気料理研究家の息子として育った善晴さんは、ボンボンとして甘やかされて育ちます。だけど、その後、フランスの一流レストランで修行することになり、また帰国後は和食の名店・味吉兆で修行することになる。この若い日の厳しい修行時代があったから、善晴さんも単なるボンボンから一人前の料理研究家になれたと。 で、その後、善晴さんはお父さんの料理学校の教授陣に加えられるのだけど、時代はもはや花嫁修業の時代ではなく、また土井勝さんも病に倒れたりなんかして、料理学校の経営はどんどん左前になっていく。で、善晴さんは懸命に立て直しに奔走するのだけど、その一方、これは時代の流れなのだからと諦めるところもあり、その一方自分自身の料理研究所を設立し、新たなスタートを切ると。 そしてそうした一連の料理と向き合った人生の中で、最終的に善晴さんが到達した境地が、「一汁一菜」という考え方だったと。 善晴さんの考えでは、プロの料理と家庭料理は別物なんですな。プロの料理はプロの料理として確固たるものがあるのだけど、それはあくまでハレの料理であって、毎日食べるものではない。毎日食べるものではないからこその工夫(例えば、素材を長時間水にさらし、徹底的に灰汁と栄養素、風味を消し去って、そこにカツオだしや昆布だしの旨味を入れていく、とか)というのがあって、それはそれで美味しい。 だけど、家庭料理というのは、人間が生きる原動力となるもので、それはプロの料理とは異なる。毎日食べても食べ飽きないものでなければならず、その基本は一汁一菜、すなわち美味しいコメのご飯と、具沢山の味噌汁、この組み合わせだけでいいと。しかも、その味噌汁にしても、出汁なんて取る必要はなく、ただ良質の味噌をお湯で溶くだけ。そこに、旬の野菜やら、油揚げやら、肉やら魚やら、好きなものを適当にぶち込めばいい。それだけで必要十分な栄養をとれると。 なるほどね。 ま、この本はこんな感じで、善晴さんご自身の来し方と、料理に対する思いを綴った本なのであります。 で、大まかな紹介をするとそういうことになるのだけど、この本は細部も面白くてね。 たとえば、フランスでの修行時代の話で、フランスで外食することの意味、みたいなことが書いてある部分。 フランス人はめったに外食しないんですって。年に一回とか二回とか、そんなもんらしい。だから外食するというのは、フランス人にとって特別なイベントであると。そこで、レストランで何を食べるかというのは一大問題になってくるので、でかいメニューを見ながら、何を注文するか、30分くらいかけて悩むのが普通であると。しかも、料理を頼んだあとは、それに合わせるワインを選ぶのに、これまたソムリエと相談しながら相応の時間をかける。 で、そんな風に熟考の上決めた料理ですから、一皿全部食っていくのが当たり前で、「料理をシェアする」などということは絶対にない。友人の頼んだ料理が旨そうだからといって「一口ちょうだい!」などということは絶対にないんですって。一皿の料理は、それ自体がひとつの宇宙なのだから、それを一人で全部堪能するのが当たり前。 そしてフランスのレストランでは、テーブルの上に塩や胡椒があるのが普通で、どんな凄腕のシェフが作った料理であっても、最終的に味を決めるのは客であると。日本だと、一流シェフの料理に「塩が足りない」とか言って塩を振って食べたら失礼に当たるような気がしますが、フランスではシェフがどういおうが、自分が塩が足りないと思えば塩を振ればいい。これがフランス人の個人主義、なんですな。 とは言え、どこかの国の人たちみたいに、フランスに来てフランス料理の店に入って、「コースの順番なんかどうでもいいから、注文した品全部一度に持ってこい!」とか命じて、それを回転式円卓よろしく、テーブルを囲んだ者が好き勝手にワイワイしゃべりながらシェアして食べるとなると、それはちょっとどうなのかなと。善晴さんもフランス・レストランでの修行時代、そういうことをするどこかの国の人たちにはちょっと閉口したらしい。これは、自国の文化を他所でも押し通すやり方で、それはちょっと違うのではないかと。 あとね、味吉兆での修行時代の話も面白くて、吉兆の創立者・湯木貞一と、その右腕で善晴さんの直接の上司であった中谷文雄の懐石料理思想ってのがすごかったらしい。 和食の粋たる懐石料理、あれは大昔から伝統的にあるものだと思っている人が多い(私も含め)と思いますが、懐石料理ってのは、味吉兆が創り出したものなんですってね。で、じゃあ、懐石料理ってのは何かというと、茶の湯を料理の世界に取り込んだ料理であると。だから、「茶があるかどうか」が、懐石料理の本質だというわけ。 で、ではそこで言う「茶」とはなにかというと、要するに自然のことは自然に任せる、という思想。逆に言うと、すべて人為でやろうとしない、ということになる。 だから、材料をすべて同じ形、同じ長さに切りそろえた料理、なんてのは、懐石ではない。土筆のおひたしなんかでも、同じ長さに切りそろえた土筆なんか出しちゃダメ。だって、自然に生えている土筆には、長いのもあれば短いのもあるでしょ。だから、そこは自然に任せればいい。 料理の盛り付けにしても、たとえば小蛸の煮付けだとしたら、一皿に蛸の数は5つ、なんて数を決めるのは野暮。ワシっと掴んでワシっと盛るだけ。ある皿には蛸が5つ、ある皿には6つ、ある皿には4つであっても構わない。キレイに盛り付けた料理のひと皿を客の元に運ぼうとしたのを湯木が押しとどめて、その盛り付けを上からギュッと抑えつけて崩し、「よし、できた」と言った、なんて伝説もあるとのこと。 なるほど、「茶があるかないか」ねえ・・・。面白いなあ。で、土井善晴さんもそういう懐石料理の美学を習得するために、随分勉強されたそうで。料理の盛り付けに使う器の美を体得するために、美術館・博物館・骨董の店なんかを暇さえあれば巡ったとのこと。結局、いいものを見ることでしか、目は育たないんですって。 とまあ、そんなあれこれが書いてある。とても面白い本でした。新年一発目の本としては、上出来だったのではないでしょうかね。これこれ! ↓一汁一菜でよいと至るまで (新潮新書) [ 土井 善晴 ]
January 6, 2024
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ひゃー、2023年も今宵限り。年々、一年が過ぎるのが速くなりますなあ・・・。 さて、ワタクシには大晦日の日には一つミッションがありまして。家の近所にある「ブックポート203」なる本屋さんに行って、本を一冊買うというもの。 で、大晦日にこの本屋で買う本は、専門にかかわる、あるいは専門に近い本、はご法度にしているんです。そうではなくて、まったく専門外の本を一冊買う。そしてそれを元日に読む。つまり、自分にとって知識ゼロに近い本を元日に読むというところに妙味があるわけ。 それによって専門ジャンルに凝り固まった頭をもみほぐす、というのが狙いなんですが、専門外と言ったって、人間が生きているうちに読む本であるわけだから、まわりまわって、そこで得た知識がいつの日が自分を助けてくれるかもしれない。だから、遠い未来に知識の貯金をするようなつもりで、専門外の本を読むわけよ。 遠い未来と言っても、ワタクシにはもはや遠い未来はないんだけどね。 ま、それはともかく、そんなこんなで、最初は『闇の精神史』なる本を買おうかと思ったのだけど、これはちょっと専門に近すぎると思い直し、土井善晴さんの『一汁一菜でよいと至るまで』という本を買うことに。これこれ! ↓一汁一菜でよいと至るまで (新潮新書) [ 土井 善晴 ] 土井さんは名うてのライターだし、若干先輩だけどほぼ同世代だし、お父さんのことも知っているし、料理の本だったら専門外だし面白いかなと。 ということで、これに決まり! こいつを明日、元日に読んで、頭のコリをほぐすことといたしましょう。 さてさて、本年も本ブログをお読みくださって、ありがとうございました。また来年も、「昨日とは異なる今日の自分とは誰か」を自問しながら、一日一日、その日の思いを綴ってまいります。どうぞよろしくお願いいたします。 では、本ブログをお読みの方だけに良い年が訪れますように!
December 31, 2023
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昨夜実家に戻りまして。やっぱりね、名古屋の職場から300キロ以上、地理的に離れると、リラックスするのよね~。だから、悩みのある人は、とにかく、地理的に悩みの発祥地から離れることをお勧めします。 ま、それはともかく。 今日は、ゼミ生から送られてきた卒論の草稿が一つあったので、とりあえずそれをちゃちゃっと添削した後は、さしたる仕事もなかったので・・・いや、そうでもないか、でもまあそれは置いておいて・・・残りの時間は本を読んで過ごしておりました。 読んでいたのは、ハインラインの『夏への扉』。非常に有名な、名作のほまれ高いSFで、本好きの人なら大抵は若い時に読んでいるのでしょうが、SFが苦手な私はこれまで読んだことがなかったのよ。 だけど、同僚で、経済学の若手研究者が、高校時代だったかにこの本を読んで経済学者を志した、という話を最近、本人から聞かされて、ふうむ、SFを読んで経済学者を志すってどゆこと? と思って、俄然興味が出た。 で、読み始めて、今のところ5分の4くらい読み終わったんだけど、なるほど結構面白い。 私はまた、もっとおどろおどろしい話なのかと思っていたんですが、案外軽めの話なのね。サイエンスがどうのこうのというよりは、若気のいたりで悪い女に騙された青年の話で。で、今、ようやくタイムマシーンがどうのこうのというところまで読み継いで、さて、主人公はこのマシーンを使って何をするのかしら? っていうね。 まあ、あとちょっとで読み終わるので、残りは明日の楽しみに残しておきましょう。 っつーことで、年末のこの時期、意外にもヒマを持て余しながら、SFの名作に読みふけるというのも、なかなか乙なものではないかと思っている今日このごろなのであります。これこれ! ↓夏への扉〔新版〕 (ハヤカワ文庫SF) [ ロバート・A・ハインライン ]
December 29, 2023
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鈴木秀子著『9つの性格 エニアグラムで見つかる「本当の自分」と最良の人間関係』(PHP文庫)という本を読了したので、心覚えをつけておきましょう。 この本は、副題にもある通り、エニアグラムについての本。最近、「MBTI」という性格診断が話題で、私も試したことがありますが(私は「主人公キャラ」だそうですが)、エニアグラムってのはあれのもっと奥深いヤーツーね。 ちなみに、何でアメリカ文学者の私がエニアグラムについての本を読んでいるかと申しますと、エニアグラムって、アメリカ1970年代の「ヒューマン・ポテンシャル運動」に非常に関連が深いから。 ヒューマン・ポテンシャル運動とは、人間の能力をもっと高めようという志向の運動だったのですが、その一環として、色々な方法が試された。その一つが「アリカ・トレーニング」という奴で、これは南米ボリビアの精神指導者オスカー・イチャソが開発した自己啓発法なんだけど、そのアリカの中で使われた性格分析がエニアグラムだったのよ。で、それを弟子のクラウディオ・ナランホがさらに理論化し、ヘレン・パーマーがアメリカに広めたので、今日まで伝わっているわけ。ちなみにオスカー・イチャソはエニアグラムの原理をロシアの神秘学者ゲオルギイ・グルジェフから得ており、グルジェフはそれをイスラム思想から得ているので、エニアグラムの原理ってのは、千年以上の歴史がある、ということにもなる。なかなか深いものがあるわけね。 さて、肝心のエニアグラムですが、本書によると、人間の性格というのはきっちり9つに分類できると。これはもう、「人間は男と女に分類できる」というのと同じくらい、基本的にそれ以外はない、という話なのね。しかも男と女の比率がほぼ同率であるように、9つに分類された性格を持った人類はほぼ同数いる。仮に世界人口を72億人と仮定すると、9つの性格が8億人ずつ存在する、ということね。 つまり、世界は9つの性格を持った人々によって構成されている、非常に豊かなものであると。エニアグラムは、人類に9つの性格があることを、多様性のある豊かなものであると捉えている。そこが面白い。 で、MBTIだとか血液型分類とか、そういうのとは異なりまして、エニアグラムというのは、個人の性格を分類すること自体に意義を見出しているわけではありません。そうではなくて、自分が9つの性格のうちのどれに当てはまるかを自覚した上で、その長所と短所を認識し、長所を伸ばし、短所をある程度矯めることで、より完全な人間になることを目指すと同時に、自分と異なる性格を持った人々と、どううまく付き合っていくかを自覚的に考えることを促す、というところに意味があると考えているわけ。 つまり、エニアグラムは、自己啓発思想なんです。 ちなみに、自分がどの性格分類に所属するかは、テストによって判明するのですが、多分、私は「タイプ4」だと思う。 ちなみにタイプ4のプロフィールは「特別な存在であろうとする人」なんですと。曰く「自分が特別な人間であることを自負しており、何よりも感動を大切にし、平凡さを嫌う。他人より悲しみや孤独などを深く味わえると感じており、思いやりがあり、人を支え励ますことを好む。また自分をドラマの中の訳者のように感じており、立ち居振る舞いからファッションまで洗練された感じ、表現力豊かな印象を他人に与える。「特別な存在である」「ユニークだ」「深い感動を味わえる」ということで満足感を得る」と。 というと、なんかいいことばっかりみたいですけど、タイプ4には固有の欠点がある。エニアグラムの用語では「囚われ」というのですが、それは何かというと、「平凡さを避ける」ということ。曰く、「タイプ4は、平凡であることを避け、自分のことを他人とは違った特別な人間だと思いたいという「囚われ」がある。自分の感受性に自信をもっているので、感性の世界に入り込み、現実を無視する傾向がある。またその豊かな感受性ゆえに周囲の理解が得られないと感じ、それが疎外感のレベルまで達すると、欝状態になりやすく、引きこもろうとする。自分の特別視ゆえに、現実に満足することができず、いつでも”本当の人生はこれから始まる”と感じている。常に深い感動を求めるその姿勢は、洗練されたイメージと共に、大げさでお高くとまった感じを周囲に与える」ですと。なるほど。 こういう「囚われ」は、タイプ4の性格を持った人が後天的に獲得しがちな習性なんですな。 ちなみに、エニアグラムでは、9つのタイプを3つのカテゴリーに分類しております。タイプ8・9・1は「本能センター」、タイプ2・3・4は「感情センター」、タイプ5・6・7は「思考センター」という大分類に属し、特にタイプ9・3・6のように、それぞれのセンターのど真ん中にいる人は、なかなか他のセンターの性格を獲得することができない。一方、タイプ4は、自らは「感情センター」に属するものの、「思考センター」の隣に位置するので、思考センターの人たちとは共鳴しやすいと。 なるほどね! さて、こんな感じで自分がどの性格なのかが判明した後は、これを元にして自己改善を図らなくては! で、エニアグラムの凄いところは、9つそれぞれの性格について、どういう風に自己改善をすればいいか、明確に規定しているところ。 これはエニアグラムの図を見ると一目瞭然なんですけど、たとえばタイプ4は、タイプ1の長所、すなわち「私は勤勉である」という方向に努力すると、好結果が生まれる、という風になっているんですな。逆に言うとそこがタイプ4の弱点なので、その弱点をカバーするように、タイプ1の方に寄っていくように努力すると、よりタイプ4の良い面を伸ばせると。 そう、エニアグラムは、各性格の短所を取り除くのではなく、別なある特定のタイプの方向に向かうよう、努力せよ、とアドバイスをしているんです。なぜなら、各タイプの短所は、そのタイプの原動力にもなっているから。それを取り除くのは意味がない。そうではなくて、一番欠けている方面へベクトルを向けることで、全体のバランスを整えることを目指すわけ。 だからね、エニアグラムを勉強すると、自分がどういうことに注意すれば、より円満な人格を得られるかがものすごく明確に把握できる。そこが凄いところなのよ。 で、さらに、このことは単に自分の性格を矯正するということだけではないのね。そうではなくて、自分が接する人、たとえば会社であれば上司・同僚・部下がいるわけですが、その上司や同僚や部下がどのタイプであるかを把握すれば、そういう連中の性格的な傾向が分かり、それを踏まえて接することができる。そうすれば、彼らに対してどうやってアプローチすると、一番実りの多い協力関係を築けるかが明確に分かるんです。 ちなみに、私・タイプ4が会社の部下だったとしたらどんな人物か、本書から抜いてみましょうか。 「タイプ4に服従という概念はない。彼らにとって、企業で働くというのは、自分の能力が認められ、その能力によって企業に貢献することを意味する。彼らの意識の中では、企業と自分は、対等なギブアンドテイクの関係にあるのだ。 彼らが、従順に従うのは、彼ら自身がとびきり高いステイタスを有すると認める相手に対してだけである。高いステイタスの条件は、地位、能力に申し分なく、感性やライフスタイルの点で高貴さをもっていることだ。タイプ4は、こうした権力者に深い尊敬の念を抱き、自分のユニークな才能を認めてもらい、世話を焼かれたいと思っている。彼らにとっては「選び抜かれた人々から選ばれる」というのが無上の喜びなのだ。自分が、その質を認めた人間に愛されたいと思っているのだ。 その一方でタイプ4は、”小さな権力者”を無視する傾向がある。小さな権力者とは、能力的に自分より劣るが、地位として、自分より高い上司である。 こうした志向を持つタイプ4を管理するのは至難の業だ。上司を小さな権力者と見なせば、それを避ける。彼らは、通常のルールは自分に該当しないと考える傾向があるので、「みんなやっていることだから、君だけわがままを認めるわけにはいかない」という叱責はぴんとこない。(後略)」 いやあ、エニアグラムめ、ワタクシのことがよく分かっているじゃないの!! で、タイプ4はこういう奴だから、もし彼が熱心に働いていないのであれば、自分が認められてないと思っている証拠だから、上司としては、まずタイプ4の魅力的な部分を評価するところから始めるのが上策。なぜなら、自分を評価してくれる上司には、タイプ4は心を開くから。しかもタイプ4は、褒められて図に乗るタイプではないので、そこを心配する必要もないと。 とまあ、そんな風に「まず褒め作戦」でやれば、タイプ4の人間を、掌の上で転がすことができると。いやはや、まいった、まいった。 ね。だから、エニアグラムは自己改善であると同時に、非常にシンプルかつ明確な人間関係改善策でもあるわけですよ。 で、そういう人間関係改善というのは、それこそ1970年代的テーマであって、たとえばエンカウンターグループとか、ゲシュタルト療法とか、この時代に流行した様々な精神療法も、根本的にはこの人間関係改善というところに収斂するわけよ。 ま、エニアグラムが出てきた背景は、ちょっとインチキ臭いところもなくはない(例えば、オスカー・イチャソなんかも、エニアグラムのアイディアは天啓的にひらめいた、とか言っているわけだし)、根拠がしっかりしているのかどうか、よく分からないんだけれども、それが効果的かどうかとなると、明らかに効果的なんですな。神秘的だけれども効果的。だからこそカトリック教会がこの考え方を採用していたりするのであってね(本書の著者・鈴木秀子さんもカトリックの修道女だし)。 というわけで、エニアグラムというのは、非常に面白い考え方、方法論なんだけど、この本を読むと、その面白さが手っ取り早く分かります。私も読んで非常に役立ちました。教授のおすすめ!と言っておきましょう。これこれ! ↓9つの性格 エニアグラムで見つかる「本当の自分」と最良の人間関係 (PHP文庫) [ 鈴木秀子 ]
December 26, 2023
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今年もあと10日足らずになりました。そろそろ恒例の「今年読んだ本ベスト」の発表と参りましょうか。ではまず第5位から。第5位:ピーター・スワンソン著『そしてミランダを殺す』そしてミランダを殺す (創元推理文庫) [ ピーター・スワンソン ] 今年もあまり娯楽的な本は読めなかったのですが、そんな数少ない娯楽読書体験から1冊。奥さんの浮気が元で、この奥さんを殺してやろうかと思い始めたある男が、空港のVIP待合室である若い女性と意気投合、この娘さんに奥さんの浮気と自分の殺意のことを話したら、「じゃ、私が代わりに殺してあげる!」的なことを言われてその気になって・・・、という話。でまた、この娘さんが殺人の天才なんですけど、この娘さんの方にも殺人を引き受ける必然があって、その辺から話が面白くなっていくというね。男の視点と娘の視点が交互に描かれる方式も面白かった。第4位:佐藤優著『国家の罠』国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫 新潮文庫) [ 佐藤 優 ] 先輩同僚に勧められて読んだのですが、確かに面白かった。外務省の闇がよーくわかります。第3位:荒川洋治著『文庫の読書』文庫の読書 (中公文庫 あ96-2) [ 荒川洋治 ] 本のことを語らせたら、荒川さんの右に出るものはないですなあ。荒川さんが紹介するだけで、その本がどうしても読みたくなる。文芸時評だの、書評だのをやる上で、荒川さんの書き方は参考になります。ま、参考になっても、荒川さんのようには書けないんですけどね。第2位:アイン・ランド著『水源』【中古】水源 /ビジネス社/アイン・ランド(単行本) 若き天才建築家のビルドゥングスロマン。まあ、面白い。高尚な文学ではなく、世俗的な文学として圧倒的な面白さ。ディケンズ的な面白さと言ったら、少々買いかぶり過ぎか。第1位:ジョセフ・ピース/アンドルー・ポター著『反逆の神話』反逆の神話〔新版〕 「反体制」はカネになる (ハヤカワ文庫NF) [ ジョセフ・ヒース ] カウンター・カルチャー批判の本。私はもちろん、カウンター・カルチャーを高く評価する側の人間なんですけど、これを読んだら、あまりに鋭い批判であり、かつ、御説ごもっともだったので、ぎゃふんと言わされてしまった。たしかに、カウンター・カルチャーというのは、反体制とはいいながら、一枚岩ではないし、詰めの甘いところ、自己矛盾したところに満ちている。そういうところを、これほど鋭く突かれてしまったら、なかなか立ち直れない。カウンター・カルチャーを讃えるのであれば、その前にまずこの本を読んで、自省しないとダメって感じ。参りました。 ま、そんな感じですかね。 ついでに、今年読んだ本のワーストも記しておきましょう。今年読んだ本で、一番のク〇だったのは・・・ワースト1位:吉田修一著『さよなら渓谷』 そもそも主人公の名前が「尾崎俊介」っていうところからして実に気に入らん! ほんと、こんな小説にこの名前を使われて、腹立たしいったらありゃしない。 姉に「この小説、読んだことある?」って尋ねたら、姉曰く「あるけど、お前には読んだと言えなかった」と。 ま、著者は、少なくとも我が家からは出禁扱いだな。 とまあ、こんな感じ。今年もまた、自分の本を書くので手一杯で、仕事関連の本はそこそこ読んだけれども、それ以外となると、あまり自慢できる読書体験はしていない。来年こそは、もう少し心と仕事に余裕を持ち、自分の楽しみのための読書を充実させるようにしたいものであります。
December 22, 2023
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文芸誌の『すばる』が児童文学の特集をやっておりまして。 で、ああ、なるほど、12月だからなと。 私も子供の頃、もうすぐ冬休みというこの時期が大好きで。寒いので外遊びができない分、ぬくぬくと家にこもって本を読むのが好きだった。 小学5年生の頃、文庫本の魅力にはまって、文庫の外国文学ものをよく読んだものでした。1冊読み終わると、文庫本の後ろにある既刊本のリストを眺め、自分にも読めそうなものに目星をつけては、本屋に買いに行くのが楽しみだった。 たとえばローリングスの『小鹿物語』ね。それから延原謙訳の『シャーロック・ホームズ』ものとか、堀口大學訳の『ルパン』ものとか。『ジキルとハイド』なんてのも、この頃読んだものでした。そうそう、『十五少年漂流記』などヴェルヌのものもよく読みました。でも同じ漂流ものなら『ロビンソン・クルーソー』の方が奥深いと思ったなあ。 で、新潮文庫に飽きると、他の文庫に行く。文春文庫の『野生のエルザ』とか。角川文庫も、新潮文庫ほどではないけれども、そこでしか読めない外国文学は随分読みました。 あの頃は、ホントに本の世界に没頭できた。ああいう熱中というのは、もう今では経験できないかも。 で、そんなことを懐かしく思い出しながら『すばる』の児童文学特集をチラ読みしたら、もう、そこには私の読んだことのない本のことしか書いてない。『トムは真夜中の庭で』とかね。『飛ぶ教室』とか。 同じ「児童が文学を読む」ということにしても、私にとってのそれと、世間のそれはまったく違うんだなと。そういう意味では、私は児童文学を読んだことがない。『ドリトル先生』とか、『ツバメ号とアマゾン号』とか、読みたいと思ったことすらない。ロアルド・ダールの作品も一つも読んでない。 じゃあ、もうだめじゃん。『すばる』の特集、私には無縁じゃん。 あーあ。今月の文芸時評、何を書いたらいいんだろう?
December 15, 2023
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三木卓先生が亡くなられ、追悼の意を込めて『K』という本を買ったのですが、それが今日、自宅に届きまして。 火曜日は授業が3コマあって、いつもヘトヘトなんですが、夕食後、この本を開いて読み始めたら止まらなくなってしまった。で、4分の3くらい読み終わったところ。 この「K」というのは、三木先生の奥様のことで、これは奥様との40年に亘る結婚生活を綴ったものなんですが、まあ、この奥様というのがものすごい人で。 本質的に、他人と一緒には暮らせない人なんですな、Kさんという人は。それで三木先生も、三十年間くらい、奥様とは別居されていた。っていうか、よく最初の十年、一緒に暮らせたなと感心するほど。 そもそもこの人は結婚してはいけない人であって、それは三木先生も同棲を始めた直後に気づくのですが、そのまま結婚してしまったのは三木先生が悪い。しかし、そんな結婚生活を40年も続けられたとなると、もうこれは文学的営為となってしまう。 とにかく、恐ろしい本でございます。これこれ! ↓K (講談社文芸文庫) [ 三木 卓 ] この本を読んでいると、三木先生が苦労して苦労して北原白秋の伝記を書いていた、という話が何度か出て来るのですが、そうなってくると、それも読みたい気がしてくる。これこれ! ↓【中古】 北原白秋/三木卓(著者) 忙しい師走に、読みたい本が次々と出てきて、大変ですわ。
December 5, 2023
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ナオミ・イシグロの『逃げ道』という短編集の書評を頼まれているので、参考までに親父さんのカズオ・イシグロの『日の名残り』を再読したんだけど、まあ、これがすごい小説なのよ。初読の時にも思ったけれど。これこれ! ↓日の名残り (ハヤカワepi文庫) [ カズオ・イシグロ ] イギリスの、宰相クラスの名家に勤める執事が主人公のスティーブンスで、この人がキャリアの晩年になって、仕える主人が変わり、アメリカ人の主人に仕えることになる。で、たまたまこのアメリカ人の主人からしばしの暇をもらったことをきっかけとし、かつてこのお屋敷で同僚として働いていた女中頭の女性に会いに、1週間ほどのドライブ旅行に出るわけ。で、この小説はこの道中を描きつつ、旅の中でスティーブンスが自分のこれまでのキャリアを振り返る。そういうね、イギリスの1920年代から60年代くらいまでの歴史が描かれると。 まあ、細かい筋は追いませんが、この語りの中で、第1次大戦後から第2次大戦開戦前のイギリスやヨーロッパの動向、そして戦後の新世界秩序の在り方、その中で没落していくスティーブンスの主人のことなどが劇的に描かれるわけ。しかも、そういうのを語りつつ、その一方でスティーブンス自身の職業観、職業倫理などと共に執事という仕事の本質が描かれ、しかもその中で彼が犯した最大の過ちなどが描かれていく。 一言で言って、ほれぼれするような小説よ。こんなスゴイのを、カズオ・イシグロは、相当若い時に書いたんだからねえ。しかも4週間で。 で、これを読んだ後で、娘の書いた短編小説なんか振り返ると、まあ、茶番ですな。 ま、偉大な父親に比べたら申し訳ないので、ナオミ・イシグロは、彼女本人としてジャッジしないといかんのかもしれないけど、作品を読み比べちゃうと、そういう感じにはなるね。 というわけで、ナオミ・イシグロの作品鑑賞の参考に、とは思ったのだけど、カズオ・イシグロのすごさの方ばかりに目を取られてしまったのでした。
October 18, 2023
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ナオミ・イシグロの『逃げ道』を読み進めているのだけど、最初予想していたよりも、面白くなってきたかも。まあ、爆発的に面白いというほどでもないけれども。 で、まだ3分の2ほどしか読んでないので、結論までは至らないのだけど、つらつら読んできて、何となくポイントだけは分かって来た。 要するにね、ナオミ・イシグロの小説ってのは、主人公がすれ違う話なのよ。全部。 主人公・・・というか、主要登場人物は、孤独な人なの。で、その孤独な人が、他者との交流というか、接点というか、それを求めるのだけれど、最終的にその試みは失敗する。だから、孤独な人は孤独のまま、置き去りにされるのね。すれ違う、っていうのは、そういう意味。 そういう話は、よくあるのであって、構造としては平凡よ。 だけど、非凡なところが一つある。それはね、その孤独な人は、遠慮がちに他者を求めているのではないの。すごく強く求めるの。で、そういう行動もとるの。で、彼/彼女の近くにいて、主要登場人物が強く求める相手も、その人物に対して関心がないわけではないの。 だから、一歩間違えば・・・っていうのは変な言い方だけど、一歩間違えば、両者は堅く結びつく可能性はあるのよ。だけど、何故か、そうならないっていう。 それはちょうど、形の合わないジグソーパズルのパーツが、互いに強く惹かれ合うんだけど、なにしろ元々隣合わせにならないパーツ同士なんだから、惹かれ合ったところでピタリとはまりはしない。そういう状況ね。主要登場人物はかなりエクセントリックな人だし、その相手の人もエクセントリックなので、惹かれ合っても合わないんだなあ。 で、結果、二人は強烈にすれ違っただけで、別れてしまうと。そういうタイプの悲劇。というか喜劇。 そういうパターンの話って、あるようでないんじゃないかなあ。 で、さらに思ったんだけど、よく考えて見ると、ナオミ・イシグロのお父さんであるカズオ・イシグロの『日の名残り』も、アレもよく考えて見ると、すれ違う話なのよ。主人公がエクセントリック過ぎて。本当は相手を強く強く求めているんだけど、結局、最後までピッタリはまることがないまま、終わってしまう。しかも、なぜすれ違うのかについての自覚がないという。 となると、これはもうお家芸だなと。イシグロ家の。 とまあ、そこまで見立てが出来たので、書評も書けたようなもんですわ。 というわけで、面白くなくはないと分かったので、この短篇集、教授のおすすめ、と言っておきましょうかね。これこれ! ↓逃げ道 [ ナオミ・イシグロ ]
October 11, 2023
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ティモシー・ガルウェイという人が書いた『インナー・ゲーム』という本を再読しているのですが、やっぱり面白い本なのよ。 ガルウェイはテニスのレッスン・プロで、テニスの教授法に革命を起こした人。で、この人のテニスにおけるコーチング手法が元になって、現在のビジネス・コーチングというのは築かれたわけ。 だけど、そういう先入観なしに読んでも色々面白いことが書いてある。 たとえば、テニスにおける勝ち負けって何か、という問題とかね。 ガルウェイは、テニスにしろ何にしろ、スポーツにおいて勝つか負けるかが本当に重要なことなのか、ということに疑問を抱いていたんですな。人は勝つためにテニスをやるのか? 自分は他人を負かすことを目的としてテニスをやっているのか?と。 で、そんなある日、ガルウェイは自分のお父さんとサーフィンについて話をしていて、議論になった。 ちなみにガルウェイのお父さんという人は、スポーツでも仕事でも、ライバルを打ち負かすことが何より好きな好戦派で、ガルウェイとはまったく対照的な性格だった。 で、サーフィンを論じていた時も、二人の意見は真っ向から対立する。ガルウェイは、サーフィンというのは、大自然を相手にしたスポーツであって、勝ちも負けもなく、それでもスポーツとして成立しているところが素晴らしいと主張した。一方、お父さんの方は、いや、サーフィンだって採点者がいて、どちらのサーフィンが素晴らしかったかで採点して、勝ち負けを競うものだと主張して譲らない。で、ガルウェイは、サーファーは、そんな勝つか負けるかなんて気にしているはずがないというのですが、お父さんの方は、そんなはずはない、どんなサーファーだって、波を相手にして、誰よりも素晴らしい自分の最高のサーフィンをしようとしているはずだと主張する。 で、その時、ガルウェイはハタと気づくわけ。お父さんが正しいと。 実際、サーファーは、小さな波なんか相手にしない。そういうのは放っておいて、チャレンジングな大波が来た時だけ、それに挑んでいく。それはつまり、父親の言っていることが正しいからだと。競っているからだと。 で、この時の父親との議論の結果、ガルウェイは、スポーツの本質を見抜くわけ。でも、それは必ずしも、お父さんの言うような意味ではなかった。お父さんは、競うということを「相手に勝つ」という意味で使っているだろうけれども、ガルウェイはそうではなくて、「チャレンジに勝つ」という意味に解した。 つまり、スポーツの本質、スポーツの喜びとは、大きな相手に挑んで、自分の力試しをすることにあると。だからその時、勝ち負けが重要だとはいえ、それは相手に対して勝つということではない。チャレンジしたことに勝つ、自分自身に勝つという意味なんですな。 そうなってくると、あらゆるスポーツにおいて、「相手」というのは、自分があるチャレンジをするための条件を作ってくれる人、ということになる。それはつまり、自分にとっては恩人であり、仲間であると。その意味で、テニスにおいてネットの向こう側にいる人と、サーファーが挑む大波とは、同質のものであると。 いやあ、これってスゴイ認識じゃない? ちょっとした視点の変化だけど、一種のパラダイムシフトだよね! で、そのように考えた時、フェア・プレイって何? という問題にもケリがつく。 たとえば、テニスの試合で、相手プレーヤーが何かの拍子に転ぶことがある。そういう場合、素早いスマッシュを決めれば、絶対に得点できる。 でも、普通はそうしないわけですよ。そうじゃなくて、わざとゆるいロブかなんか上げて、相手が起き直って返球できるようにする。相手の不幸に付け込まないというわけで、これがフェア・プレイだと。だからこういうプレイが起こると、相手プレーヤーはこちらに笑顔を見せるし、応援している会場のお客さんたちも拍手喝采でしょう。 だけど、あらゆるスポーツにおいて、「相手」というのは自分のチャレンジに向き合ってくれる仲間だと考えた時、この種のフェア・プレイは、本当はフェア・プレイになってないんじゃないかと、ガルウェイは思い始めるわけ。相手が転んだら、絶好のチャンスなんだから、遠慮会釈なくバシッとスマッシュするのがフェア・プレイなのではないかと。 先ほど述べたように、相手というのは、自分のチャレンジに向き合ってくれる仲間、なんですよね? ということは、逆に言えば、自分もまた、相手プレーヤーから見たら、相手の前に大きく立ちふさがることによって、相手の仲間になっているはずだと。つまり、自分が強いことが、相手のチャレンジのためになると。 だから、対戦しているプレーヤー同志というのは、互いに相手に対して責任を負っているのだと、ガルウェイは考えたわけ。相手にとって自分が壁になることが、相手に対する自分の責任だと。 だとしたら、相手が転んだ時にゆるい球を返すことは、その責任を放棄したことになるのではないか? もしそんなことをしたら、相手はテニスの厳しさに触れることができないまま、終わるわけですからね。それでは、相手のプレーヤーは成長できない。それは、相手に対して責任を果たしたことにならない。 つまり、先程の見せかけのフェア・プレイというのは、あれは勝ち負けに至上価値を置いた時のフェア・プレイなのであって、本当の意味でのスポーツをしている者、互いに自分自身の限界にチャレンジしている者からしたら、全然フェアじゃないと。 ま、ガルウェイは、そういう結論に達するわけね。 面白いよね、そういう考え方って。 というわけで、再読してもやっぱり、ガルウェイの本は面白いものだったのでした。これこれ! ↓【中古】 インナーゲーム
October 8, 2023
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人に進められて坂本龍一さんの自伝『音楽は自由にする』を読んでいるんですけど、面白いです。これこれ! ↓音楽は自由にする (新潮文庫) [ 坂本 龍一 ] まだ最初のところで、今は新宿高校(当時は東大に100人くらい入る受験校)での青春時代の話あたりを読んでいるのですが、やはり当時の高校生っていうのは相当にませていて、高3くらいになるとろくに学校にも行かないで、朝家を出てそのまま喫茶店に行き、ちょっと聞きたい授業だけ出て、また喫茶店に戻る、みたいな生活をしていたそうで。 で、当時30軒くらいあった新宿のジャズ喫茶なんかも全部制覇したりしていると、そこに学生運動真っ只中の大学生のお兄さんやらお姉さんがいる。で、そういう連中に影響されて、ちょっと背伸びしてマルクスやら哲学書やらを読んでみたりっていう。 なんか、そういう、ちょっと上を見て、背伸びして、高校生の時点で既に日本や世界の状況に目を向けて、っていう、昔の高校生にはそれが出来たんだなって。 今は色々うるさくなって、高校生が昼間に喫茶店なんかにいたら補導されちゃうかもしれないし、そういう行動が許されなくなっているでしょうが、その分、背伸びが出来なくなって、どんどん幼くなっていくのでしょうな。今の大学生なんて、いい子ちゃんばっかりで、何も知らなくて、幼稚園生みたいだもんね。 何でも昔が良かったというのは、歳をとった証拠かな。でも、やっぱり昔の方が自由で、大人で、良かったんじゃない? とにかく、坂本教授の自伝、面白いです。興味のある方は是非。
October 6, 2023
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最近、必要があって、ビジネス・コーチングの本を読むのですが、これが結構面白くて。 ビジネス・コーチングってのは、元々はスポーツ・コーチングが原型で、それがビジネスマン対象のものになっていったというところがある。要するに、ビジネスの世界で上司になると、部下をマネージングしないといかんじゃん? で、ビジネスの世界で上司が部下を指導するのと、スポーツのコーチが選手を指導するのと、大体同じ手法で出来ると。 じゃあ、どうするのかっつーと、上からやり方を教えるのではなく、選手/部下に、自分で選択させ、その選択に責任を持たせるといいと。 たとえば、「ハシゴが必要だから、君、持ってきて。用具室にあるから」と上司が部下に指示した場合。これ、部下に全然、選択の余地を与えてないですよね。だから、その部下は用具室に行って、そこにハシゴがなければ、手ぶらで戻ってきて、「部長、用具室にハシゴ、ないですよ」などと報告する。パフォーマンスとしてはゼロですな。ハシゴを持って来なかったんだから。 では、この上司はどうすればよかったのか? 正解はこう。「ハシゴが必要なのだけど、誰か、持ってきてくれないか?」と指示すればよかったの。そうしたら、部下のうち、誰かが「あ、じゃ、僕、持ってきます」というでしょ。そうしたら、この部下は、自分でこのミッションを引き受けることを選択したわけだ。だから、もし用具室にハシゴが無かったら、他を探して持ってくるはず。部下本人が選択したのだから、彼は自分の選択に責任を持ったわけね。で、ハシゴが到着したのだから、パフォーマンスとしては満点。 指示一つで、これだけ違いが出る。これが、コーチングの知恵よ。 ところで、コーチングの元となったスポーツ・コーチングというのも面白い世界で、ダメなコーチは、技術的なことを上から、外側から教えちゃうわけ。でも、良いコーチは、そんな、技術的なことなんか、どうでもいいのね。そうじゃなくて、プレーヤー自身が今自分がやったプレーに対してどういう感触を持ったかを、プレーヤー本人に尋ねる、というやり方じゃないと効果は出ないの。 だから、極論を言うと、テニスのコーチをする時に、コーチ自身がテニスに秀でている必要はないと。必要なのは、選手の動きを観察することであって、選手に動きを教えることではないのだから。 で、ある時、テニスのコーチが足りないことがあって、仕方なくスキーのインストラクターにテニスの選手を指導させたことがあったんですと。 そうしたら、スキーのインストラクターにコーチしてもらった選手の方が上達が早かったと。 なぜなら、テニスのコーチは、自分がテニスが上手いものだから、ついつい教えたくなっちゃうんですって。だけど、スキーのインストラクターは、自分自身はテニスがまったくできないので、技術的な指導ができない。その代わりに、選手の動きをしっかり観察し、無駄な動きが観察されたら、「今の動き、自分ではどういう風に思った?」などと選手に尋ね、選手が「肩に力が入ってしまったような・・・」などと自己分析すると、「じゃあ、次は肩をリラックスすることを心掛けてみようか」などとアドバイスする。そうやって、上達させてしまうんですと。 ・・・とかね、面白い話が満載よ。 というわけで、何だか私自身、いいコーチになれそうな気分になってきた。 ところで。 今日、うちの大学にグーグルの人が来て、ICTを教育に応用するにはどうすればいいか、みたいな話をしていったのよ。で、私もそれを聞いていたのですが。 まあ、つまらない話ばっかりでね。グーグルの人だというので、もう少し期待したのだけど、まったく意味がなかったわ。理系の人がする教養的な話って、底が浅くて聴いていられない。 っていうか、コーチング系の自己啓発本をむさぼり読んでいる私の方が、グーグルの人より、よっぽど面白い話ができるよ。わしの話を聞いた方が、よほどためになったんじゃない? まあ、自己啓発本をなめちゃ、いけませんな。グーグル<自己啓発本。
October 5, 2023
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今日も今日とて原稿書き。毎日飽きずによく書くね。いや、本当は相当飽きているんだけどね。 で、飽きてもいるし、仕事の都合上必要だし、ということで、今日の午後、散歩がてら近くの書店の古本コーナーに行ってきました。 仕事上必要な本、というのは、実はコーチングの本なの。コーチングってのは、まあ、自己啓発の一種なんですけどね。もともとはスポーツのコーチが、選手に対して、どうしたらより良いパフォーマンスが出せるかを指導するのがコーチングだったんだけど、それが1990年代くらいからビジネスの方面に転じて、ビジネスマンがより良いパフォーマンスが出せるように指導する、そういう指導的な立場の人たちが登場してきた。で、彼らが書く本が、自己啓発本としてのコーチングの本、というわけ。 たとえば、日本で言えば、勝間和代とか、伊藤守とか、苫米地英人とか、本田健とか、本間正人とか、そういう系? 知らんけど。 で、自己啓発本研究者としてそういう方向性というのはもちろん知っていたんだけど、実のところ、そっち方面の本は読んでこなかったの。だってさ、ビジネスマン向けの本なんて、文学者の私にはあまり興味ないんだもん。 でも、仕事の都合上、ちょっとはそっち系にも触れておく必要性が生じたので、ちょっとその辺りの本を古本で買っておこうかなと。興味のない本を新本として定価で買うのは嫌だしね。 で、実際に古本コーナーの書棚を見て行ったんだけど、ないんだ、これが。買うつもりで探すと、ない。 買うつもりがなかった時には、古本屋の100円コーナーにこの種の本がいくらでも転がっていたような気がするけどね! 勝間和代の本なんてちょっと前まで古本屋の店頭に腐るほど置いてあったのに、今は一つもないよ。 ということで、すっかり無駄足になってしまいました。ほんと、これって「古本あるある」だよね。探してない時はある、探している時はない、っていう。 ま、仕方がない。そのうち、図書館にでも行って借りてきますわ。 それにしても一時期は飛ぶ鳥を落とす勢いだった勝間和代さんって、今、どうしているんですかね。最近あんまり見かけないような気がするけど、今もなお活躍しているんですか? まあ、お元気ならいいですけど。【中古】勝間式超コントロール思考 / 勝間和代
September 26, 2023
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『VIVANT』が終わってしまって、日曜日がとっても寂しいのですが、でも大丈夫! 『VIVANT』のすぐれた代用品をめっけました~! それはアイン・ランドという作家が書いた『水源』という小説。長いよ~。上下二段組で、1000頁以上あるからね。これこれ! ↓【中古】 水源/アイン・ランド(著者),藤森かよこ(訳者) 【中古】afb でもね、これが、まぁ~面白いの。そうそう、小説というのは、かように面白いものだったのね、と思い出させてくれる。 これ、基本的には二人の若き建築家の話でね。一人は守旧派のキーティング、一人はモダン派のローク。キーティングは建築の才能というより人当たりの才能でのしていくし、ロークは人当たりの才能ゼロだけど天才肌。建築というのは、色々な文化領域の中でも世間の人が最も保守的になるものだから、私が今読んでいるあたりではキーティングは飛ぶ鳥を落とす勢いて、ロークはどん底にある。しかし、いずれこれが逆転する時が来るのでございましょう(来なかったら悲しい)。1920年代を背景とするアメリカ小説ですけど、19世紀のイギリスの長編小説、たとえばディケンズとか、そういうのを彷彿とさせるところもある。 通俗小説だから、最終的には勧善懲悪になるのだろうけれども、しかし、だからといってキーティングの造形が月並みというわけではなく、ロークが常にいい子ちゃんというわけでもない。その辺の複雑さも十分に味わえます。 まあ、でも、二人の建築家の争いっていうと、アレだよね、幸田露伴の『五重塔』を思わせるところもあったりして、その辺りを念頭に読むとさらに面白かったりして。 しかし、とにかくね、肝心なことは、この小説が非常に面白いということ。文芸時評なんかやってて、日本の最近の小説のつまらなさにへきえきしている身としては、久々に面白い小説を読んでいるなという実感があります。 ということで、本作は既に絶版のようですが、古本なら入手可だし、図書館という手もある。 私と同様、『VIVANT』ロスに悩む御同輩には、絶賛おススメ、と言っておきましょう。
September 24, 2023
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平山瑞穂さんが書いた『エンタメ小説家の失敗学』という本を読みました。 平山さんは、『ラス・マンチャス通信』という小説で日本ファンタジーノベル大賞を獲った方。ですから、ある意味、新人作家としては順風満帆なスタートを切ったと言ってもいい。実際、その後も平山さんは順調に作品を書き続け、映画化されたものも含め、いまでは長編だけで20作以上あるような、実績のある作家さんです。 ところが。今や平山さんは、自分の名前では小説を出してもらえない状況に立ち至り、無名記事の執筆やゴーストライターとして辛うじて糊口をしのいでいる始末であると。 では、一体どうしてそのような仕儀になったのか。本書はいわば作家版『俺みたいになるな』です。 で、この本を読んで、私、震撼しました。作家として食っていくというのは、それほどまでに厳しいのかと。 だって、平山さんに作家としての才能がないかというと、そんなことないんだもの。ファンタジーノベル大賞を獲ったことからしてそうですけど、作家に必要とされる才能は十分以上にお持ちの方。筋書きだってすぐに思いつくし、そのアイディアからプロット起こしをして、それを小説に仕立てるなんてお茶の子なのよ。しかも、完成した作品は、ちゃんとしたものであって、今、世間で売れまくっている作家の作品と比べて、何ら劣るわけではない。 なのに、平山さんの小説はまったく売れず、売れないから出版社のブラックリストに載り、作品を出してもらえない状態になっていると。 じゃあ、何故そうなのかというと、結局、平山さんはいつでも何らかのボタンの掛け違いをするのね。 純文学を志したし、才能もそちら向きなのに、つい辛抱できずにエンタメ業界に足を踏み入れてしまい、結果、エンタメ業界の掟というか、エンタメ読者の好みにどうもうまくはまらず、売れなかったとか。 あるいは、出版社との付き合い方がイマイチ下手で、もうちょっと我慢すれば有名出版社から小説を出せたのに、編集者とのちょっとした行き違いで、そこから自分の作品を引き上げ、他社から出すことにして、それがきっかけで売れなかった、とか。 編集者のアドバイスをやすやすと受け入れてしまい、自分の作風を殺してしまったがゆえに売れなかったとか。 これに懲りて、編集者のアドバイスを断って自分を通してしまったら、それゆえに売れなかった、とか。 編集者の共感はばっちりもらって、今度こそと思って小説を出したら、読者の共感を得られなかった、とか。 読者の共感を得ようと、会社などによくいる痛い社員を馬鹿にするような書き方をしたら、読者はむしろ、平山さんが馬鹿にしたダメ社員に共感して、それを馬鹿にするような書き方をした平山さんのことを嫌うようになり、売れなかったとか。 その他、小説のタイトルがまずくて売れなかったこともあり、文庫化した時の表紙デザインが悪くて売れなかったこともあり。さらには、本に巻いた帯の惹句がまずくて売れなかったこともあり。 まあとにかく、良かれと思ってしたこと、より良い方向に向かおうと思って努力したことが、ことごとく裏目に出るという。こんな裏目人生ってあるんだろうかと思うくらい、裏目に出るのよ。 もう、平山さんが気の毒で、気の毒で。 と、同時に、これを読んで反省することしきりですわ。 私もね、これだけいい本をこれだけ書いて、何でもう少し売れないのかなと思うことが無くはないんですが、平山さんの御経験を読んだら、もう、売れないことなんて当たり前なんだと分かりました。しかも、私は平山さんのように、筆一本で生活しようとしているわけではないですからね。自分なんて、平山さんに比べたら幸せだ。 まあ、平山さんのこの本は大いに売れているようですから、それは良かった。そしてこの本を機に、平山さんがまた自分の名前で小説が出せるようになったらいいな。 とにかく、小説を書いて、しかも売れるということが、いかに大変なことであるかがよく分かる、大変面白い本です。教授のおすすめ!です。これこれ! ↓エンタメ小説家の失敗学 「売れなければ終わり」の修羅の道 (光文社新書) [ 平山瑞穂 ]
September 7, 2023
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PHP研究所が出している経済誌『The 21』の最新号(10月号)が明日、6日に発売になりますが、私のインタビュー記事が出ております。私は出版社の方から見本誌をもらったので、既に確認済み。 これ、6月の終りに取材を受けた奴が、今号にようやく出た、ということなんですけど、経済誌にインタビューが出るというのも、文学者としては妙なもので、しかし、いい経験になりました。 でも、どうなんですかね、こういう経済誌を買う人は、自己啓発本に興味ありますかね。いや、あるか。文学には興味なくても、自己啓発本はあるか。いや、リアリティを重んじる経済畑の人は、自己啓発本のファンタジーは嫌いか? わからんね。 しかし、まあ、それは、この記事が出たことで、拙著の売上がアップするかどうかですぐにわかることですけどね。 まあ、あまり期待し過ぎないようにしつつ、やっぱり期待しちゃいましょうかね!これこれ! ↓THE 21 (ザ ニジュウイチ) 2023年 10月号 [雑誌]
September 5, 2023
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今、すごく面白い本を読んでいるのですが、その中に映画の話がよく出てくる。 で、今日、読んでいた箇所に『カラー・オブ・ハート』という映画の話が出てきたのですが、これ、あらすじを読むだけで面白そうだなと。 現代の若者が、1950年代の白黒テレビドラマの中に入り込んでしまうという話らしいのですが、そのテレビドラマというのが、50年代アメリカの順応主義の象徴になっていると。 つまり、町の中に悪いことは一つも起こらないという設定のファミリードラマらしいのですが、その町では、大事件といえば、猫が木に登ってしまって降りられなくなってしまったので、消防隊が出動するとか、その程度らしい。すべてが予定調和で、みんながニコニコしている。 ところが、そこに現代の若者(兄妹)が入りこんでしまったから大騒ぎ。 で、この兄妹と町の人たちが何らかの形で接し、その結果、順応主義を脱した人は、白黒ではなく、カラーになれると。だから、白黒テレビ番組の登場人物が、一人、また一人と、カラーになっていくんですな。 だけど、町の人たちからすれば、それは平和な町を荒らすようなことですから、色付きになってしまった住民を排除しようとする。「カラード(色付き人間)はお断り」などというお店も出てくる。 これが面白い! 「カラードお断り」とは、アメリカの宿痾である人種差別の歴史の中で出てくる用語みたいなものですからね。それをこういう形で使うとは、洒落が効いているというか。 とにかく、面白そうな映画。実際に見てみたいな! これこれ! ↓カラー・オブ・ハート【Blu-ray】 [ トビー・マグワイア ]
September 3, 2023
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マイケル・マーフィーが書いた『王国のゴルフ』(原題:Golf in the Kingdom, 1972)という奇書を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。 マイケル・マーフィーというのは、1960年代のカリフォルニア、ビッグ・サーというところに「エサレン研究所」というのを作った二人組の片割れでありまして、この時代のアメリカの意識変容実験に携わった人。と言っても、この人自身は何か特別な思想とか専門を持った人ではなく、あくまでも穏やかな裏方プロデューサーに徹した人。何せ一日に8時間くらい瞑想する人なので、そんなに強力に何か一つのことを推進できる人ではないんです。 もっとも、そういう穏やかな性格の人格者だからこそ、エサレン研究所のクセ強ぞろいの講師たちを何とかまとめていくことが出来たんでしょうけどね。 ところが、そんな仙人みたいなマーフィーは、ゴルフだけはすごく好きだったんです。この人は若い頃(1956年)、インドの宗教家オーロビンド・ゴーシュの思想にやられ、インドにある彼のアーシュラム(=共同修行所:当時は既にオーロビンドは亡くなっていて、後継者の「マザー」ことミラ・リチャードが運営していた)に1年半くらい修行に行っちゃったことがあるのですが、その際にもわざわざ寄り道してスコットランドに行き、かの有名な世界最古のゴルフの聖地、セントアンドリューズのオールド・コースでゴルフをしてからインドに向かったくらいのものですから、どれほど彼がゴルフに打ち込んでいたかが分かるというもの。 で、その後彼は、セントアンドリューズでゴルフをした経験を元に、本を書くのですが、それが本書『王国のゴルフ』でありまして、これは小説なのか、思想書なのか、よく分からない奇書となっていると。 それでは、その奇書とはどんなものかと申しますと、これはマイケルがセントアンドリューズ(作中では「バーニングブッシュ」という名前に変えられている)でゴルフをした、その一日だけの経験を綴ったもの。で、彼は旅行中のゲストとしてゴルフをさせてもらうことになるのですが、その際、シーヴァス・アイアンズというクラブ所属のプロと一緒にコースを回ることになるんですな。 で、このシーヴァス・アイアンズという人が非常に印象的な人だったと。 手取り足取り指導するというアレじゃないのですが、プレー中にほんの一言、アドバイスするだけでマイケルのプレーを劇的に変えてしまうとか、あるいはスコアをつける上でささいなずるをしそうになったマイケルを穏やかにたしなめて、神聖なゴルフ・コース上でのマナーを指導をするとか、とにかくマイケルのゴルフに対する姿勢や概念をガラッと変えてしまうわけ。で、最初はめちゃめちゃだったマイケルのスコアも、後半はシーヴァスに引けを取らないほどのものになるんですな。 で、プレーを終えた後、何故かシーヴァスに気に入られたマイケルは、その日は彼と一緒に彼の友人の家で酒盛りをすることになる。そして友人宅でシーヴァスの友人たちに紹介されながら、楽しいひと時を過ごすと。 しかし、そこはやはりシーヴァスの友人たちのこと、それぞれゴルフには一家言ある人たちばかりで、そこでゴルフ談義になるんですな。で、マイケルは、ゴルフについてこれほど真剣に議論し合う人たちがいるということにビックリすると同時に、シーヴァスのゴルフ観の片りんに降れてやはりビックリしてしまうわけ。何しろマイケルは、東洋思想を勉強するためにこれからインドに行こうとしていたわけですが、その途中で何の気なしに立ち寄ったゴルフ・コースの周辺で、ゴルフをあたかも思想のように論じ合う人々がいたのですからね。 で、パーティが散会した後、シーヴァスに呼ばれてマイケルはシーヴァス宅に行くことにするのですが、そこでシーヴァスは、深夜のゴルフ・コースにもう一度戻る、というようなことを言い出すんです。なぜなら、そこにシェイマス・マクダフがいるかも知れないからと。 で、ここでシェイマス・マクダフなる人物の話題になるのですが、この人はシーヴァスのゴルフの師匠で、仙人みたいな人。この人は、もう通常のゴルフなんてものは通り越しちゃって、自作の木のこん棒のような3番だけを使い、これまた鳥の羽を固めて自作したという古来のゴルフボールでプレーをするという。結局、この夜はシェイマスには会えなかったのですが、この師匠にしてこの弟子(=シーヴァス)ありという感じの師弟関係が明らかになると。 で、もう一度、シーヴァスに家に戻って、再びゴルフの話になるのですが、もうシーヴァスのゴルフ談義は、ほとんど哲学談義に等しいわけ。彼の家には、マイケルがこれまで勉強してきたような哲学・宗教・東洋哲学の本がずらりと並び、シーヴァス自身、彼独自のゴルフ思想を本にしようと原稿を書いている始末。で、どういうわけかたった一日一緒にプレーしただけのマイケルに素質を見込んだのか、彼に自分の原稿を読ませ、自分のゴルフ哲学を披露すると。 で、マイケルはそれに大いに啓発されるのですが、なにせ翌日にはパリに向かって旅立つ身ですから、シーヴァスのゴルフ哲学の全貌を知る前に、タイムアップでシーヴァスに別れを告げることになる。シーヴァスとしては、自分の理解者をついに見つけたつもりだったのに、マイケルがもう旅立つと言い出したものだから、ちょっとガッカリしてしまうんですな。見損なったなと。 で、そんな感じで、アンチクライマックスな別れ方をしてしまうのですが、結局、マイケルも若くて、シーヴァスの思想とその重要性に、完全に気付けなかったということなわけ。 で、その後、マイケルはインドで一年半ほど修業をし、カリフォルニアに戻り、エサレン研究所をスタートさせ、その忙しさにシーヴァスのことも半ば忘れてしまうのですが、ある時、シーヴァスの著作を見せてもらった時に作った覚書のようなものが入った箱を開けてしまい、それを読み進めてようやくシーヴァスのゴルフ哲学の何たるかをおぼろげながら理解するようになり、その結果、もう一度スコットランドを訪れてシーヴァスに会いに行くんですな。 ところが、シーヴァスは行方不明でどこにいるか分からない。シーヴァスの師匠のシェイマスも死んだそうで、あの夜、一緒に酒盛りをした人たちも散り散りになってしまった。 で、このままではシーヴァス・アイアンズの思想が分からなくなってしまう!という危機感に襲われたマイケルは、記憶とわずかなノートを頼りに、シーヴァスの言わんとしていたことを再構築しようと努めると。 で、ここからは第二部ということで、シーヴァスのゴルフ哲学が、散発的に語られます。 何しろシーヴァスの師匠も仙人みたいな人だったし、シーヴァスだってその類ですから、彼の思想も謎めいています。例えば「ゴルフボールと一体になれ」とか。「ゴルフボールは異次元世界への入口だ」とか。「真の重力を使え」とか。「内なる自分を使え」とか。ある程度の修業を積めば、念力で飛んでいくボールを自在に右に曲げたり左に曲げたりすることもできるとか。要するに、ゴルフ道も突き詰めれば、そういう神業的なレベルに行けると。 要するに、ゴルフはゴルフであることを超越し、一つの道になったわけね、シェイマスやシーヴァスにとっては。ゴルフ道ですよ、ゴルフ道。武道と同様のもの。 ちなみに、スポーツが「道」になると、もう物理法則をも超越するという考え方は、1970年代のアメリカでは盛んに広まっていました。特に合気道が人気で、その創始者たる植芝盛平は、瞬間移動すらできたと、アメリカでは本気で信じられていた時代。だから、そういう東洋武道の神秘のことをよく知っていたマイケル・マーフィーは、「なあんだ! 西洋スポーツの華であるゴルフも、突き詰めれば合気道と同じか!」と思ったであろうことは容易に想像がつく。 というわけで、東西の叡智の合流を目指すエサレン研究所を作ったマイケル・マーフィーは、自分が好きなスポーツであるゴルフも、合気道なんかと同じで、突き詰めれば道となり、その道を通じて人間の限界を突破できると信じたわけ。そしてそれを教えてくれたシーヴァス・アイアンズへの感謝の意味も込めて、『王国のゴルフ』なる奇書を書いてしまった。 とまあ、それがこの本の本質でございます。 というわけで、まあ、ゴルフを思想として捉えたっていうところは斬新ではあるものの、見ようによっては訳の分からない本ではあります。そういうのが好きな人にとってはたまらんちんの本でしょうが。 私は、何しろエサレン研究所のことを理解しようと思って読んでいるので、実に勉強になりましたけどね!これこれ! ↓【中古】 王国のゴルフ / マイケル マーフィー, 山本 光伸 / 春秋社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
September 1, 2023
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亀井俊介先生ご逝去の報に接し、かつて先生のご著書『亀井俊介 オーラルヒストリー』に寄せた駄文を再掲させていただきます。戦後から現在に至るまで、日本を代表するアメリカ文学・文化研究者であり続けられている亀井俊介先生の、その研究者としての足跡をご自身の語りとインタビューで辿る本、『亀井俊介オーラルヒストリー』(研究社)という本を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。 まず特筆すべきは、この本が「執筆」ではなく、「語り」で構成されていること。亀井先生が東大をご退官された後、第二の(本当は第三の、ですが、本来第二の職場であった東京女子大にあまり良い思い出がないようなので(そのことは本書にも記してある)、あえて第二の、と言いますが)勤務先となった岐阜女子大学の「デジタル・アーカイヴス」プロジェクトの一環として企画された本書は、戦後日本のアメリカ学をリードされてきた亀井先生の軌跡を、亀井先生ご本人の語りを通して、文字通り「肉声」で、記録することが主眼であったためにそういうことになっているわけですが、それだけに文語体で「執筆」された本とはまた別次元の読み易さがある。と同時に、研究者同志が難しい用語を使ってするような肩肘張った研究なんてものはつまらん!と主張され続けてきた亀井先生ご自身の研究者としてのスタンスからして、このような気楽な語りこそ、亀井先生の本質を掴まえるには最上の手段でもある。ま、亀井先生ご自身の言葉を使えば「浴衣がけ」のスタイル、ですな。実際、亀井先生のことをよく存じ上げている同業の読者はもとより、そうでない読者にとっても、亀井先生の柔和で、しかししなやかな強さを持ったお人柄が、語りを記した行間から漂ってくるようでございます。 で、「時代を追って」と題された本書第一部は、「見敵必殺」の軍国少年だった幼少期のこと、また戦後「親米」の方向に大きく舵を切った節操なき日本の中で、さほど違和感なく、否、むしろその解放感を謳歌するようにアメリカへの憧れを抱きつつ「英語少年」となり、やがて岐阜の田舎から東京大学に進学していった頃のことなどから語り始められ、その後、東大英文科のあまりに字義に拘泥しすぎる「文学研究」の在り方に疑問を抱き、文学の本質に迫れるような研究のスタイルを求めて大学院では比較文学研究科に進学、そこで島田謹二先生の薫陶を受けながら、また英文科に進学した連中には負けないという意地も持ちながら、猛勉強に励むことになる青年時代の思い出が続く。そしてその後、まだ日本人が容易に海外なんて行けなかった1950年代に初めてアメリカ留学を体験、これが決定的にその後の亀井先生の研究者の方向を定めることになっていく・・・。『福翁自伝』をはじめ自伝というのは大抵そうですけど、やっぱり若き日の一途な猛勉強の思い出というのは、勢いがあっていいもんです。 で、そうした猛勉強の末、亀井先生の最初の学問的達成として、『近代文学におけるホイットマンの運命』という本が出版される。弱冠三十代にして、亀井先生に学士院賞が授与されることになる、伝説の名著の誕生でございます。 で、その『近代文学におけるホイットマンの運命』ですが、「処女作にその著者の全てが籠る」というのは本当でありまして、この本はその後の亀井先生が展開される様々な方向のご研究の萌芽がすべて詰まっているようなものだったと。 それには幾つかのレベルの意味があって、一つはウォルト・ホイットマンという詩人の奔放さが、ある意味、亀井先生ご自身の奔放さの象徴であったということ。旧弊で束縛的な伝統に縛られることなく、自分の内面の欲望だけを信じ、それに突き動かされるようにして「僕自身の歌」を歌ったホイットマンに励まされるように、亀井先生も先生独自のアメリカ学を追究されることになるのですが、そういうホイットマンと亀井先生の共通性が、『ホイットマン』という本のそもそもの執筆動機であったということ。これはもう疑い得ない。 もう一つは、この本が「ホイットマン」という詩人についての文学的研究書というよりも、「ホイットマン」という稀有で破天荒な人物を一つの視点として、彼の思想的影響がどのようなさざ波を描きながら日本に伝わってきたか、ということを研究した「比較文学研究書」であったこと。やっぱり亀井先生は、お若い頃から「日本」と「アメリカ」という異なる文化の国の狭間で、両者を比較しながら研究することの意義を、自覚的に捉えられていたんですな。本書の中でも亀井先生が繰り返しおっしゃられているように、先生はアメリカという国、そしてその文化に対して「wonder」を常に感じていらした。色々なことが日本とまったく異なるアメリカに対して、何年経ってもビックリされていたと。その新鮮な「ビックリ」を解明したいという基本的な欲望、それが亀井先生のすべてのご研究の原点だということが『ホイットマン』という本で明らかにされたし、その後のご研究にもすべて当て嵌まっていると言えるではないか。 そしてもう一つ、『ホイットマン』という処女作が、それを書かれた亀井先生ご自身に、様々な宿題を投げかけてきた、ということもあります。例えばつい先年、傘寿を越えられた亀井先生は、『有島武郎』という日本の作家についてのご著書を出されたのですが、これはアメリカ(文学)研究に倦まれた先生が、手慰みに日本の作家について本を書いてみた、ということでは全然ない。『ホイットマン』の中で、ホイットマンに影響を受けた日本作家の一人として有島武郎のことを挙げていたものの、そのことを十全に展開できなかったという負い目が亀井先生の中にあって、その宿題を今、ようやく果たしたというのが『有島武郎』の執筆動機であったわけ。つまり、先生がお若い時に書いた本と、現在先生が書かれている本の間には明確な一筋の道があるのであって、全然ぶれていない。 そして、そのように考えてみれば、これまでに亀井先生が書かれてきた膨大な数のご著書、例えば有名な『マリリン・モンロー』なんかでも、突き詰めれば『ホイットマン』という最初の本から発した一筋の道の、その延長線上にあるものと言えなくもない。なんとなれば、ホイットマンもモンローも、彼らが生きた時代の主流ではなく、むしろその主流に逆らうような立場の中で、懸命に自分自身を表現しようとした人達であり、そういう意味で「もっとも美しい人」達だったのだから。 そして「主流に逆らうような立場の中で、懸命に自分自身を表現しようとした人」という位置づけは、亀井先生ご自身にも当てはまるかも知れない。そう考えると、本当に『ホイットマン』は、「亀井先生の本」だったんだなという気がします。 ちなみに、『近代文学におけるホイットマンの運命』が亀井先生にとって大きな意味があったのには、更にもう一つの側面がありました。この本が学士院賞を受賞したことによって、付随する様々な利点が亀井先生にもたらされたんですな。例えば、この本で有名になったおかげで、先生は再びアメリカに渡航する機会に恵まれ、それによってアメリカ文化研究に関して大きな収穫を得られたというのが一つ。しかしそのこと以上に大きかったのは、この本が亀井先生をアカデミズムの束縛から「自由」にしたということ。つまり、学士院賞を受賞したという点で、「やろうと思えば東大英文科の連中に負けないような『学術的達成』がいつでも出来るんだ」ということを証明しちゃったわけ。だから、もうこれ以上、アカデミックなことに拘泥しなくても済むようになっちゃった。 で、以後、亀井先生は、ますますご自身のやりたいような研究と執筆活動に邁進されるようになる。そしてその結果、例えば研究者のみならず一般の読書人に大いに受け入れられ、日本エッセイストクラブ賞も受賞した『サーカスが来た!』のような著作であるとか、あるいは口語体でアメリカ文学の魅力を語るという点で画期的な文学史であった全三巻の『アメリカ文学史講義』に繋がっていくと。その辺りの快進撃については、本書第二部「著作をめぐって」の中で縦横に語られております。 そして、この「口語体」の問題は、本書第三部「学びの道を顧みて」で語られている事々にも通じるのですが、亀井先生の研究上の信念とも重なってくるわけ。 亀井先生を多少とも知る人間にとって、亀井先生を笑顔以外の顔で思い出せない、というところがあります。それほど先生は柔和な、物腰の柔らかい方なんです。ところが、本書の中で何度か先生が結構厳しいことを仰っている部分がある。それは、現今のアメリカ文学研究の在り方を批判されているところ。今のアメリカ文学研究は、アメリカ本国の研究者の言をありがたく頂戴してそれに同調したようなことを云々していたり、難しい批評用語を弄び、研究者仲間うちでしか通用しないようなことを書きあって得意になっていたり、そんなのばっかりじゃないかと。その辺りのことに言及される時の亀井先生は、ちょっと意外なほど手厳しい。そしてそういう厳しい一面を知ると、ああ、亀井先生ってのは柔和なばかりじゃないんだなと。実はものすごく厳しい人なんだなということが分って、ぞわっと総毛立つような気がします。 いいねえ、そういうところ。 で、そういう厳しい批判を踏まえた上で、亀井先生は自ら「浴衣がけの精神」ということを仰り、浴衣がけで、時には酒杯を重ねながら、本当に自分が面白いと思うことを原点にしてアメリカ文学を語ろうじゃないかと、そう主張されている。日本とアメリカは違うんだから、日本人がアメリカの文学や文化に違和感を感じるのは当たり前じゃないかと。その「なんでそうなんだ!?」というワンダーを梃子にして、外国人としてアメリカのことを分析しようじゃないかと。そうして初めて、アメリカ人の研究者にも頷かれるような文学論・文化論ができるんだよと。 口語体で、しゃべり言葉で学問しよう。それができなかったら、本物じゃないよ――亀井先生は本書全体を通じて、我々後輩に対して、そういう挑戦を投げかけられている。それが「オーラルヒストリー」として書かれた本書の全てだと。私は、そう受け取りましたね。 あともう一つ、本書には東大時代の亀井先生の後輩同僚の先生方が書かれた文章が付け加えられているのですが、その中で川本皓嗣先生のは猛烈に面白いです。その中で川本先生は、亀井先生といっしょにアメリカを旅された時のことを語られていて、亀井先生が空港に到着すると、現地の女性がクルマで迎えに来られることにビックリされた、ってなことが書いてある。もちろんその女性達は(多分、アカデミックな意味で)亀井先生のファンで、現地で先生の足となることで先生のご研究をサポートしてくれるのですが、亀井先生がいかに女性にモテるか、ということの証言でもある。また、亀井先生が現地で大量の古本を買われ、それを日本に送るために段ボール何箱も郵便局に持ち込まれるのですが、そういう時、現地の郵便局員が、亀井先生に対して自然に「プロフェッサー」とか「サー」とか、そういう言葉で接せられるのに驚かされたとも書いてある。つまり、ラフな格好をされていても、自然と亀井先生の人となりから発せられるオーラによって、見ず知らずの、市井のアメリカ人ですら、敬意をもって亀井先生に接するようになるということ。これは、亀井先生の人物像を表した、素晴らしいエッセイであると言えましょう。 ということで、この本、私自身はすごく楽しみ、かつ啓発されながら読了いたしました。アメリカ文学・文化研究に携わる後進の人たち、亀井先生の本のファンはもとより、日本を代表する研究者の芯の通った生き方を知りたいと思う人であれば、誰にでもこの本を推薦することを私は躊躇いません。教授のおすすめ!です。亀井俊介オーラル・ヒストリー [ 亀井 俊介 ]
August 27, 2023
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先日、ジェリー・ルービンの『Do It!』を読んだのに引き続き、その続編たる『マイ・レボリューション』(原題:Growing (up) at 37)を再読しましたので、チラッと感想を。 この本、前にも読んでいるのですが、今回、『Do It!』を読み、かつ映画『シカゴ7裁判』を観た後で再読すると、これがまた余計面白い。 『Do It!』は革命家としてイケイケの時に書いた本なので、勢いはあるけれど、重みはない。まったくない。それに比べて、この『マイ・レボリューション』は、革命家として賞味切れになった後で書いたものであって、その悲哀も含め、人間的な成長の著しさが窺えて、前著よりもはるかに重みのある本となっております。 ルービンは1967年、29歳の時に革命的政治団体イッピーをアビー・ホフマンらと設立するのですが、この後1970年のシカゴ7裁判終結あたりまではイケイケだったわけ。ところが、この年、同志として一緒に戦ってきた恋人ルーシーが別な男と出奔してルービンを絶望の淵に追いやるわけ。 で、その後も革命家として活動を続けるのだけど、1972年のある時、ニューヨークで自分のクルマに乗ろうと駐車場に向かったはいいものの、自分のクルマが完膚なきまでに粉砕されているのを発見。これはイッピーの中でも若手の連中、いわゆる「ジッピー」の仕業で、ホフマンやルービンなどが30歳を超えても引退せず、イッピーを牛耳っていることへの意趣返しだった。かつてのバークレーでのフリー・スピーチ運動の時に言われたジャック・ワインバーグの「30を越した大人を信用するな」(Don’t trust anyone over thirty.)というキャッチ・コピーが、ルービンの身に降り掛かって来たんですな。 で、これを一つの天啓として、1972年以降(実際には少し前の71年から75年まで)、ルービンは生き方を変えるんです。今までは「社会を変える」ことばかりを考え、そのための行動を起こして来たわけだけれども、これから先は「自分自身を変える」ことに専念しはじめる。これは「政治の時代」だった60年代から、「パーソナルな時代」である70年代への時代の移り変わりとちょうどシンクロした、ルービンの自己革命だったと。で、彼はニューヨークからサンフランシスコへと居を移し、生まれ変わりの旅に出る。 で、好奇心旺盛なルービンのこと、この時代にアメリカ社会に溢れていたありとあらゆる自己革命、精神革命の実験に着手する。具体的に言えば、ヨガ、エスト、ゲシュタルト療法、サイキック療法、バイオエナジェティックス、ロルフィング、マッサージ、ジョギング、健康食品、太極拳、エサレン、催眠療法、モダン・ダンス、瞑想、シルバ・マインド・コントロール、アリカ・トレーニング、鍼療法、セックス療法、ライヒアン療法、モア・ハウス、フィッシャー・ホフマン心理療法など、いわゆる「新意識運動」の諸コースを片っ端から試すわけ。特にエストとアリカ、ロルフィング、ヨガ、サイキック療法などには大きな影響を受けたらしい。 で、それらの体験談と並行して、革命家時代、新しい価値観の体現と思っていた自分自身がいかに旧世代の両親や祖父母などからの強い影響を受け、その価値観を引きずっていたか、金や権力や男性主義を是とするアメリカ的体制の打破を目指しながら、自分自身がいかにそれらに捉われていたか、といったことに目覚めていく過程を赤裸々に告白する。 確かに、70年の精神革命は、ルービンの目覚めに寄与したんですわ。そしてそれによってルービン自身、これからの革命は、社会の革命に先行して、個人の革命がなされなければならないと確信していく。革命は、革命を起こす人間の価値観を超えるものにはならない、ということを自覚するわけ。だったら、まずは個人の革命が必要であろうと。 で、37歳になって、そういう自覚を持ち、来るべき新たな革命を幻視するところで本書は終わります。 いやあ、若き日の至らなかった自分を赤裸々に告白し、反省し、ここまで成長したという軌跡を自他に示すこの本は、自伝としても素晴らしいです。そしてこの時代を生きたアメリカ人の一典型がここに示されているという意味で、歴史的にも価値のある文献になっている。 ところが、この先、80年代のルービンは、精神療法の組織者、株式アナライザー、パーティ運営者など、ビジネスマンとして成功し、いわゆる「ヤッピー」のハシリになっていくんです。つまりルービンは、ヒッピー的感性をもった革命家として「イッピー」を作り、意識変革の実験を経て、最終的に「ヤッピー」になるという。ヒッピー→イッピー→ヤッピーという三段活用。 では、意識変革からヤッピーへの道のりってのはどうなっていたのか?という疑問は、ルービンが1994年11月にロスアンゼルス、UCLAの近くで交通事故に遭い、亡くなってしまったため、永久に謎のままに残ってしまった。 だから、資本主義に対する批判者の立場から、体現者の立場への転身に、ルービン自身がどう思っていたのかは分かりませんが、ルービンは決して安易な思索者ではないので、そこにはしかるべき理由があったのでありましょう。(本書の中にも、革命には金が要るという自己矛盾についての考察はある) しかし、80年代はヤッピーの時代ですから、ルービンが60年代、70年代、80年代のそれぞれに、時代に合わせた転身をやってのけたのは確か。そこは非常に面白い。 ということで、ジェリー・ルービンという稀代の革命家の自伝として、『マイ・レボリューション』、非常に面白い読み物となっております。教授のおすすめ!です。これこれ! ↓【中古】マイ・レボリュ-ション /めるくま-る/ジェリ・ル-ビン(単行本)
August 24, 2023
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アメリカの・・・革命家っていうの? ジェリー・ルービンの書いた『Do It!』という本を読んだのですが、面白かったです。 面白かったというのは、共感できた、というのとはちょっと違いまして、1960年代のアメリカの様子の一側面が窺えて興味深かった、という意味。 ジェリー・ルービンは下層ミドルクラスの出身なんですが、バークレー大学時代に学生煽動家になりまして、以後、1968年の民主党大会で暴動を起こしたり(いわゆる「シカゴ7」の一人)、ペンタゴンにデモをかけたり、好き勝手に煽動をした人。「イッピー」なる政治団体を作ったことでも知られております。 イッピーは、やっていることはヒッピーに近いけど、ヒッピーほど受動的ではなく、より政治的。だけど、何かヴィジョンがあるわけではなく、現体制の在り方をぶっ壊すということだけを目指したというか、現体制がクソだから、そんなものに反対するありとあらゆることをやって困らせちまえ、息詰まらせちまえ、という感じ。自分のすみかは路上にあり、という感じですから、アナーキーなんですな。 反体制の劇場型アジテーターっていうか。 そういうアジテーターが好き勝手なことを言っている本。それが『Do It!』です。 だから、面白いけど、困っちゃうなっていう。こういう人に比べると、いかに自分がスクエアな小市民かって、よくわかります。 しかし、この本を読んでいるワタクシの興味っていうのは、世代的なものなのね。つまり、自分がほんの子供の頃、アメリカではこういうことが起こっていたんだ、ということに対する興味。自分が生まれる前の遠い昔の話ではなく、私が幼稚園とかに通っていた頃、太平洋の向こうではこういうことが起こっていたんだ、ということが興味深いわけ。 それは、結局、自分のことを確認したいんだろうね。他人のことではなく。自分が育ったのは、どういう世界環境だったのか、っていうことが知りたいと。 ま、そういう意味で、面白い読書でした。
August 21, 2023
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仕事でアブラハム・マズローの大部の本、『人間性の心理学』ってのを読んでいるんですけど、まあ大部だし、色々書いてあるし、読み切るのに骨が折れる、折れる。 というわけで、仕事として読んでいるのだけれども、飽きるわけ。で、飽きると荒川洋治氏の『文庫の読書』という文庫本を、チラ読みする。そうすると、寿司の合間のガリみたいな感じになるという。 しかし、まあ、荒川洋治という人の話芸というのか文芸というのは、すごいもので、荒川さんが面白いというと、不思議と読みたくなるのよね。なんだろうね、この芸は。 その意味で、あれじゃない、頭のいい高校生とかに、夏休み前に読ませたらいいんじゃない? これ読んで、ひと夏あれこれ本を読んだ高校生は、ひと夏で一皮むけるような気がする。「新潮文庫の百冊」なんてパンフレットが毎年出るけど、「荒川洋治の百冊」ですな。実際、この本には文庫本が百冊、紹介されているしね。 で、読む側もそうなんだけど、書く側としても勉強になるんだわ。 実は私、今、自己啓発本を48冊、紹介する本を書いているんだけど、荒川さんの書き方とはまるで違う。まあ、それは違って仕方がないのだけど、本を紹介する本を書くという方向性は一緒なだけに、なるほど、こういう書き方もあるのか、というところで勉強になるわけ。 結局、私は説明しすぎるんですな。結果、「私の説明を聞けば全部わかるから、あなたは読まなくてもいいよ」みたいになっちゃうところがある。一方、荒川さんは、説明の方はそんなに説明しないで、「あとはあなたが実際に読んで見れば~。見ればわかるから~」みたいな感じになって、放任しちゃうの。 その、説明と放任のバランスがいいんだ。 あんまり早く放任しちゃうと、読者がひっかかってこないかもしれない。だから、ある程度、惹きつけておいて、いいところで、後はご自由に、とやる。そこが上手い。 私も、今やっているような仕事を今後も続けているつもりなら、この荒川方式を自家薬籠中のものにする必要があるのかもね。 とまあ、とにかく、荒川さんは大したもんですよ。脱帽!これこれ! ↓文庫の読書 (中公文庫 あ96-2) [ 荒川洋治 ]
July 29, 2023
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今期の芥川賞が、市川沙央氏の『ハンチバック』に決まったそうで。 実はこの小説、『文学界』の5月号に載っていて、ということはワタクシの文芸時評の担当月だったのだが、完全に無視しちまった・・・。 いや、読むことは読んだのよ。もちろん。で、それなりに面白くはあったのだけど、「これ、もう一回読みたいか?」って自分に問うてみたわけ。 そしたら「いや、別に」って自分が答えるのが聴こえた。衝撃的って言うけど、事柄が衝撃的なだけで、これを読んで魂をわしづかみにされたり、深く考えさせられたり、特定のシーンやせりふを何度も思い出させられたり、ってことはなかったからね。そういう意味では、全然衝撃的ではなかったのよ、ワタクシには。 だから敢えて時評の中では触れなかったんだけど、それが芥川賞っていう。 ふーん。そうなんだ。 え、じゃあ、ワタクシの目は節穴ってこと?? かなわんなあ・・・。
July 21, 2023
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『敗戦後論』などの著作で知られ、2019年に亡くなった評論家・加藤典洋さんの死後出版の自伝、『オレの東大物語』を読みました。 加藤さんは1948年の生まれだから、私より15歳年長ということになりますか。15年の年の差なんて、大したことないような気もしますが、実際にはそうでもない――ということが、この本を読むとよく分かります。 この本、加藤さんが大病をされて、それこそ余命幾ばくもないという頃に、短期間に書きなぐるようにして書かれたそうですが、それはもちろん遺言のつもりで、ということではなく、ただレイトワークとして、残された時間の中で、書きたいことを、肩の力を抜いて、書いておこうという意図の下に書かれたものらしい。 ですから、書きぶりも(標題からも窺われるように)「オレ」という一人称で書き流されているんですね。そんなことから、読んでいると、なんとなくサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいるかのような錯覚に襲われるという。 実際に、この本は加藤さんにとっての『ライ麦』なんでしょうな。 山形の田舎の高校生だった頃から語り始め、それが一発合格で東大に入り、ご母堂様の秘めたる誇りになったこと、で、駒場の教養時代はそれなりに青春を謳歌していたものの、本郷に進学するようになった頃から、それこそホールデン的に周囲と合わせることが出来なくなり、そうこうしている内に学生運動が激しくなってきて、加藤さんもそれに巻き込まれてしまうと。 かといって、信念からその運動に身を捧げるという感じでもなく、常に運動の渦の端っこの方にいて、運動の中心部に対しても、また運動の外側の大人の世界に対しても馴染めず、といった調子になってしまうんですな。で、そんな調子だからこそ、学生運動自体が収束に向かった後も、何となく一人取り残されたように、その問題に自分なりのピリオドを打てないまま、今でいう欝状態になって、それで周囲から一人取り残されてしまうという。 まあ、しかし、その辺りの加藤さんの文章を読んでいると、学生運動とか東大闘争といったものが、当事者の学生それぞれに、いかに大きな刻印を押したかってことですよね…。その辺のことが、15年後に生まれた私たちの世代には分からないところなんですが。 それでも、若いっていうことはすごいことで、加藤さんが語る加藤さんの青春時代の話、そしてそこに出てくる友人・知人・先輩・後輩の話ってのは、面白いんだなあ。でまた、そこに出てくる人たちの中で、後に名を成す人も多くて、やっぱり腐っても東大だなあ、というところもあったりして。 そういう本を、死ぬ直前の加藤さんが書いたってことですよ。思うに、これを書いていた時(一日に二十枚とか三十枚の原稿を書いたそうですが)、加藤さんは病気の苦しさを、一時でも忘れたんじゃないかな。 ということで、この本、教授のおすすめ、と言っておきましょうかね。これこれ! ↓オレの東大物語 1966~1972 [ 加藤 典洋 ]
July 14, 2023
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