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会社に入って数年経った頃、先輩から「若い時は、自分にとって会社とは何かを考えるものだけれど、年をとるにつれて、会社にとって自分とは何かを考えるようになるものだ」という話を聞いた。その先輩は、そのまた先輩にこの話を聞いたという。
この話を聞いたときには、ふーん、そんなものなのかな、と思っただけだった。年をとると、自分にとっての会社の意味よりも、会社にとっての自分の意味を問うようになるなんて、それはつまりどんどん社畜(という言葉は当時はなかったけど)になっていくということかな、などと思っていた。
しかし、 50 歳を過ぎる頃から、私は先輩のこの言葉を何度も思い出すことになった。そして、年をとるにつれて会社にとって自分とは何かを問うようになるのは、必ずしも社畜になったからではないし、また自分よりも他人の目で自分を見ることができる謙虚さを持つようになったからでもないと思った。
自分にとっての会社とは何か、あるいは会社にとっての自分とは何か。どちらも自分の存在意義を問うている。自分の存在意義を問うのは、まず決まって自分の存在意義が危ういと感じられているからだ。ただ、それらを問うときの、自己と会社の関係はまったく違っている。
若い時には、会社は自分の力では変えられないようなものとして存在している。そういう条件のなかで、自分が何らかの不全感を覚えているとしたら、それは自分に問題があるからだ、と考える。つまり会社は既定条件であって、そこから自分の満たすべき位置を決めようとしているのだ。
年齢を重ね、実力もつけ、会社での影響力が増していく。会社は若いときと違って、自分の発言や行動によっても変えられるかもしれない存在となっている。それにもかかわらず、自分の考える方向に会社が進んでいかないとき、人間は、自分のことをいったい会社はどう思っているんだろうと問い始める。
そこにあるのは、会社になにがしかの貢献をしてきたという自負と、それにもかかわらず、その貢献がきちんと認められていないのではないかという不満である。これは謙虚というものではなく、むしろ傲慢にも似た姿勢なのかもしれない。
会社にとって自分とは何か、という問いには、自分にとって会社とは何か、という問いにはない苦さと屈折が潜んでいる。この話をしてくれた先輩も、そのまた先輩も、最終的には何らかの挫折感を抱えてやめていった人たちだったと思う。その思いを今になってあれこれ忖度している。(引用了)
うー-む。これ、わかるわ~。私も、そろそろ定年が近くなってきて、北烏山さんがおっしゃっているような感慨があるもんね。「私にとってこの大学とは何か」ではなく、「大学にとってこの私は何なんだ」って問うことが多くなったような気がする。
ただ、会社勤めの人と、大学で教える立場とでは、若干、違うところもあるけどね。
私も昔は「この大学に赴任した以上、『この大学にこの人あり』みたいな感じで名を上げたい」というのが多少なりともあった気がする。それは大学と自分との一体感というか、そういうのがあって、自分の成長と大学の成長を同一視していたわけですよ。おこがましいけれども。
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