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二〇〇四年に『邂逅の森』で山本周五郎賞と直木賞を同時受賞した熊谷達也さんの最新作『氷結の森』(集英社)は、日露戦争から生還した秋田県の阿仁マタギだった男が、死に場所を求めて樺太からロシアを流浪する愛と冒険の物語。 森シリーズ第一作の『相剋の森』と合わせマタギ三部作として完結。前二作が、そのマタギや東北の風土と歴史への正確な理解で、民俗学者を驚嘆させたように、今回もシベリアの少数民族ニブヒ(ギリヤーク)とマタギに共通する狩猟文化を取り上げ、日本人のルーツにかかわる古代の北方交流への関心を誘う。 さらに日本がその後の大陸進出で、戦争への道にはまり込む発火点となったシベリア出兵と、一九二〇年の尼港(ニコラエフスク)事件を物語の大団円に置いて、冒険小説として読ませながら、近代史批判の確かな視座を提供する。 柳田国男は国際連盟の委任統治委員を務めながら、植民地経営とは一線を画し、「一国民俗学」に絞ってその学問を守ったが、アイヌや北方少数民族への正当な理解を深めることで、柳田の努力も報いられるという。http://www.tokyo-np.co.jp/ 最後の氷河期がちょうど2万年前ごろにあたります。地球上の水分の多くが氷になるのですから、当然、海水面は下がります。そうすると、北海道はサハリン、シベリア、本州と陸つづきになり、このとき、アジア大陸からマンモス象やナウマン象などが北海道へもわたり、それを追いかけて人々も北海道へやってきたと考えられています。その証拠に、北海道のものと同じような方法で作ったと考えられる石器が大陸でも発見されています。 古代、数万年前に南からやってきたモンゴロイドが琉球や日本列島、樺太(サハリン)、千島列島に定住し縄文文化を育んでいきます。 弥生の頃に北方の多くのモンゴロイドが朝鮮などを経て日本にやってきて急進化し、弥生・古墳文化を広めていきます。 これが和人、つまり「日本人」であるといわれています。 そして、これらの影響を受けずに小進化してきたのがアイヌ民族であり、琉球の人びとであるとされています。三線の日 三線は三味線のもとになった楽器。三線の音に合わせて琉球音楽を歌って踊って楽しむ日として沖縄県が「さんしん」を「3」「4」と語呂合わせして制定。ミシンの日「3・4」(ミ・シン)の語呂合わせから。ミシンの発明200年を記念して、1991(平成3)年に日本家庭用ミシン工業会(現在の日本縫製機械工業会)が制定。サッシの日「3・4」(サッ・シ)の語呂合わせから。建具などに使われるサッシのPRのために、サッシメーカーの吉田工業が制定。
2007.03.04
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「誰でも生かされている命。生きている間は何かにお役に立てることがあるかもしれない。私にとっては病院でのちょっとしたお手伝いがそうです」 佐賀県立病院好生館の医療ボランティアが発足して今年で15年。当初からその活動にかかわっている佐賀市の小林さんは活動の動機をこんなふうに語る。小林さんは80に手が届こうという年齢。今は体調を崩しているが、自分にできることを―と無理をしない範囲で頑張ってきた。 小林さん自身、これまで何度も大病を患い病院に世話になった。入院中、「お医者さんや看護師さんとは別に、気軽に声がかけられる人がいたらなあ」と思うことがよくあったらしい。エプロン姿でそばに立ってくれるだけで安心できるような人。病院の外の日常を運んでくれる“風”のような人が欲しかったのだ。 外来患者さんの受付案内や自動車の乗降手助け。院内で車いすを押してやったり、小児病棟で本を読んでやったり、フラワーポットの花の世話などもある。この15年、利用者に寄り添って、その気持ちに応えてきた。 医療ボランティアの存在が患者さんの気持ちだけでなく院内を和ませる。時にはオンブズマン的な役割を果たすことだってある。 これからの地域医療を考える時、なくてはならない存在。 20人足らずのメンバーで当番スケジュールを組み頑張っているのだが、もう少し会員が増えないものか、これが今の悩みである。http://www.saga-s.co.jp/上巳・桃の節句3 月の最初の巳の日の節句のこと。“巳”が“3”に通ずるとして3月3日を指すようになった。桃の花の季節であることから、「桃の節句」と言われる。3の日 古来より日本では3という数が安定がよいとして重用してきた。「三種の神器」や「日本三景」「三大○○」などがそれ。そんな神秘の数字「3」を研究している日本三大協会が1993(平成5)年に制定。
2007.03.03
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いたずら盛りでワンパクだった私は、よく生傷が絶えなかった。私が泣いて母にすがり付くと、母はよく飴を私にくれ、「飴を舐めれば痛みなんてふっとぶよ、さあ泣かないで!」と言った。飴を口に含んだ私はそれで喜び勇み、また遊びに夢中になったものだ。 大学卒業時、二年間交際した彼女が別の男に走ってしまい、私は精神的な泥沼に陥って抜けだせなくなっていた。私は失意のどん底に突き落とされ、母に「ああ、この傷に効く飴があったらいいのに!」と言った。 ある週末の早朝、私は一本の電話で目が覚めた。それは母からだった。昼ご飯の弁当を家に忘れたので、勤務先の病院まで持ってきてほしいというのだった。母に言われたとおり、私は入院病棟三階の外科病室に行ってみたが、母はいなかった。その病室は手や足のない病人ばかりで、私はとたんにどうしていいかわからなくなった。すると小さな女の子が、母が私に4階の416号室へ行くように言っていたと教えてくれた。この子も片方の足がなく、私は心理的な動揺を隠せなかった。かわいそうに、こんなにきれいな子なのに。 四階は、火傷を治療する皮膚科だ。416号室に行ったが、やはり母はいない。病室内の異様な患者の面容に、私は全身総毛立った。窓辺に寄り添うように立っていた全身大火傷の患者が、私に510号室に行くようにと言った…。 510号室に行ってみたが、やはり母はいない。私の声を聞きつけて、両眼を摘出した十歳位の女の子が寄ってきて無邪気に、「おばちゃんがお兄ちゃんに、この廊下の突き当たりにある倉庫に来るよう言っていたよ…」と言う。 果たして倉庫の扉を開けてみると、母がそこに座っていた。私はやっと合点がいった。母はわざと私を病室に行かせたのだ。 私は心に傷を負っただけだ。私にはまだ健康な身体があり、自由に歩行もできるではないか! どんなに問題が多かろうとも、全て解決しうるものだ。しかし、多すぎると人は往々にして立ち往生し易く、前途に希望を失ってしまう。 心の傷に効く飴はほかでもなく、自分の心の中にあるのだ。http://jp.epochtimes.com/jp/
2007.03.02
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住宅顕信という俳人。ご存知だろうか。(若さとは こんな淋しい 春なのか)病を得て志半ばの25歳で早世した。その闘病中の句である。今年は没後20年になる。 岡山市の生まれ。23歳で急性骨髄性白血病を発病した。妊娠中の妻と離婚し、生まれた子を引き取り、入院先の病室で育てた。(かあちゃんが 言えて母のない子よ) 抗がん剤の副作用に苦しみ、最後は延命治療を拒んで人工呼吸器も付けずに逝った。青春の寂寥、悔恨、希望、愛情。生涯に残したのは281句。 きょうから3月。就職、進学、人事異動。旅立ちの準備に気のせく月は、また、心の波立つ季節でもある。人それぞれ、得意の春もあれば、失意のふちに天を仰ぐ春もあるだろう。 人知れず「こんな淋しい春なのか」と、首を垂れる人も少なくないのに違いあるまい。人生の山坂に挫折と貫徹、浮き沈みは付きものとはいえ。 住宅が絞り出したのは青春の苦しさの句ばかりではない。(この坂を 登れば夏が 来そうな)坂の下で一歩をためらう人を勇気づける句。 http://www.kahoku.co.jp/「うつむいて 歩く街に 影がない」 「どうにもならぬこと 考えていて夜が深まる」 「夜が淋しくて 誰かが笑いはじめた」 「点滴と 白い月とが ぶらさがっている夜」 自由律俳句とは、「5・7・5」や季語などにとらわれない、形式の自由な俳句です。読む人によっては、俳句というより一行詩に見えるかもしれない。 顕信は、その自由律俳句の世界に突然、現れて、そして突然、消えていった若者です。 彼の生涯は、わずか25年。でも、そのあいだに顕信は、たくさんのことを経験しましたミニの日「3・2」(ミ・ニ)の語呂合わせから。ミニチュアの小さいものを愛し、慈しもうという日。後楽園開園の日 1884年、岡山県岡山市で後楽園が開園したのがこの日。後楽園は金沢(石川県)の兼六園、水戸(茨城県)の偕楽園とともに、日本三大名園の一つ。
2007.03.02
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集落行事への参加を取りやめたために、ごみ収集箱や集落センターを利用させないなどの「村八分」にされたとして、関川村の住民11人が集落の区長ら3人を相手取り、「村八分」行為の取り消しと約1100万円の慰謝料を求めた訴訟の判決が27日、新潟地裁新発田支部であった。松井芳明・裁判官は区長ら3人に「村八分」の禁止と、慰謝料として原告1人当たり20万円、計220万円の支払いを命じた。 原告側は「勝訴したのは良かったが、相手がすぐに変わるとは思えない。早く元の平穏な集落に戻ってほしい」と強調。一方、被告側は「間違ったことはしておらず残念だ。控訴も検討している」としている。 かつて、日本の「ムラ」には力を合わせて一緒に助け合う10の共同行為があった。大切な「10の約束」である。 1.「成人式」 2.「結婚式」 3.「出産」 4.「病気の世話」 5.「新築の手伝い」 6.「水害時の防災作業」 7.「火事の消火活動」 8.「葬式」 9.「年忌法要」 10.「懇親旅行」 何かにつけて同質性とか均一化といった感情が好まれる日本では「みんな一緒に…」ということであれば万事うまくいく。ところが、たまに個性的な意見を言ったりすると異端者扱いされ、その者一人を寄ってたかって排除したり、つぶそうとしたりする。 だから、言いたくても言えない雰囲気がどことなく漂ってくる。そして、いつの間にか何事につけ「まあ、いいじゃないか」となっていく。 ムラ社会だけでなく、いろんなところでそんなことがなくもないが、江戸時代、ムラの秩序を乱した者に対し「葬式」と「火事」以外は手助けをしないという制裁を加えた。許せぬ“掟(おきて)破り”というわけで10の約束のうち8つは一切の交流を絶つ。「村八分」である。遺体の放置は腐臭と伝染病を嫌い、火事は延焼を防ぐためだ。http://www.saga-s.co.jp/マーチの日(行進曲の日)「3月」は英語で“march”で、行進曲を意味する“マーチ”と同じスペルであることから。映画ファン感謝デー 全国興行環境衛生同業組合連合会が「映画の日」の12月1日と3月1日、6月1日、9月1日を「映画ファン感謝デー」に設定。
2007.03.01
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「二月は逃げて去る」といわれる。平年の二月は二十八日までしかない。あっという間に一カ月が過ぎる。今年もあと一日で「三月」に変わる。「雛祭る 夜の静かに 曇りをり」藤沢周平 35歳で待望の長女に恵まれた喜びもつかの間、妻が急逝。 ふびんな幼子の「桃の節句」を祝う複雑な思いがにじんでいる。女の子のすこやかな成長を祝う3月3日のひな祭り。2月にもなれば段飾りを座敷いっぱいに飾って楽しむ家庭も多い。 その起源や由来はさまざまだが、川に流していた質素な紙細工のひな人形が、そのうち華美で見栄えのする人形を競って飾るようになったのは江戸中期以降とされている。http://www.kitanippon.co.jp/ビスケットの日 水戸藩の蘭医、柴田方庵が長崎でパンの製法をオランダ人から学び、「パン・ビスコイト製法書」を水戸藩に送った日付が1855(安政2)年のこの日であったことから。1981(昭和56)年に全国ビスケット協会が制定。エッセイ記念日 エッセイストの元祖といわれるフランスのミシェル・ド・モンテーニュ(1533-1592)の誕生日を記念して、木村治美エッセイストグループが提唱。織部の日 大名であり茶人でもあった古田織部(1543-1615)が1599(慶長4)年のこの日、京都・伏見で自らが焼いた茶器(後に織部焼きと呼ばれる)を用いた茶会を開いたことから。織部の出身地である岐阜県土岐市が1988(昭和63)年に制定。利休忌 1591(天正19)年のこの日に、千利休が太閤豊臣秀吉の命により切腹した。“侘び、寂び”の茶の湯の世界を確立し広めた千利休だったが、自分が権力を握るとともに権力者からは疎まれ、70歳にして非業の死を遂げた。
2007.02.28
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(にべもない)の(にべ)は愛想、愛敬(あいきょう)のこと。(にべもしゃしゃりも〉(にべもつやも)ともいう。しゃしゃりは味わい。もう一つ別の言葉で言えば(とりつく島もない)(にべ)には魚の浮袋からつくった粘着力の強いニカワの意味もある。愛想や愛敬も相手方との離れがたい思いが強いならニカワにも似ている。「晩めし」の「めし」は、「メス(召す)」が語源。「召す」は様々な意味を表わす尊敬語で、(見る、呼び出す、食べる、飲む、着る、履く、買う、乗る)のほかに、(風呂を使う、風邪をひく、気に入る)等の意味に使われてきた。「着る」意味での「お召しもの」、「乗る」意味での 「お召し列車」が分かりやすい。「食べる」意味での「お召し上がりください」から「メシ(召し)」になった。俊輔、試合後に左手骨折 中村は25日にスコットランド・カップ準々決勝のインバネス戦にフル出場し、試合後に「いつやったか分からない。かなり痛い」と左手の痛みを訴えた。同日夜のエックス線検査で骨折が判明したが、26日にさらに細かい検査を受けた。ACミラン戦回顧「そういえばレッジーナ在籍時代も、格上相手の試合では中途半端な印象の薄いプレーに終始していたな」ということだった。 ミラン戦での中村は、レッジーナ時代同様にフィジカルとスピードのなさを露呈し、右サイドからゴール前に出した1本のアーリークロスとフリーキックでのチャンスを除いては、チームに貢献できないままに試合を終えた。中村の限界を見た感じがした。それでも僕はわずかだが、中村のサンシーロでの第2戦の活躍に期待しているのだが、先ほど中村の左手小指骨折のニュースを耳にした。ミラン戦の出場は微妙とのことだが、大事に至らずに出場できることを祈ろう。http://sportsnavi.yahoo.co.jp/
2007.02.27
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「財布を拾って渡したじゃあねえか」 「そんなものを拾った夢みたのかい」 落語の「芝浜」はこんな調子の夫婦の掛け合いで話が進む。酒飲みの亭主が芝浜で大金の入った財布を拾ったのは本当なのか、夢なのか。女房の言を信じて亭主は働き者になる。 妻は3年間一心不乱に仕事に打ち込んできた亭主を労い 「久し振りに一杯どう?」と酒を勧める。はじめは拒んでいたが 「もう、あんたは大丈夫」としきりに勧められると、嬉しそうに杯を受け取り 「一杯、頂くとするか」と口先にまで酒が注がれた杯を運ぶ。 亭主は急に思い立ったように、杯を置く。 「おまいさん、どうしたの? 」 「よそう。また夢になるといけねぇ」 この噺(はなし)は、落語中興の祖といわれる三遊亭円朝が「酔っ払い、芝浜、財布」の三つの題から作ったと伝えられる。人情ものの名作で、落語家の三遊亭円楽さん(74)が引退を決断する噺となった。 円楽さんは二〇〇五年十月に脳梗塞に倒れ、演芸番組「笑点」の司会を降板したが、落語を口演できるまで回復。一昨日の国立演芸場での「名人会」では、得意の芝浜でトリを務めた。半年以上前から一日三回程度のけいこを重ねている。自分が納得できるかどうか、最初から進退をかけていたと思う。家を出るまでは「まだできるかな」と思ったが「声がだめだった」という。 客席から盛大な拍手を受けても「恥をかきたくない」と高座を去ることにした。芸に厳しい人ならではの言葉だろう。 天衣無縫な芸風で知られる五代目古今亭志ん生も脳出血で倒れた後、高座にのぼるまで回復した。でも「自分で演(や)ろうと思うような、いい噺ってえものがどうもできにくくなってきた」と語っている(野村雅昭著『落語の言語学』平凡社選書)http://www.tokyo-np.co.jp/新撰組の日 1862(文久2)年のこの日、京都壬生村に「新撰組」の前身「壬生浪士組」が結成されたことから。当初は将軍警護のために江戸から上洛してきた浪士が居着き、そのまま京都の治安維持に当たるようになったのが“壬生組”だった。松山城、失火により焼失[1949年] 愛媛県松山市にある松山城の本丸入口の筒井櫓(やぐら)近くから出火したのが1949(昭和24)年のこの日。炎は瞬く間に燃え広がり国宝の筒井門、筒井櫓、続櫓をはじめ、戸無門、隠門などを焼きつくし、天守閣と乾櫓、北櫓は難を逃れた。出火原因は浮浪者の焚き火による失火とみられている。この前月26日には、奈良県斑鳩町の法隆寺金堂から、電気座布団のスイッチを切り忘れたことが原因の火災で国宝の十二面壁画の大半を焼損しており、相次ぐ重用文化財の焼失に国の文化財の保護に対する在り方が問題となった。
2007.02.27
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「ていねいに生きる」とは? これは実は両手を使うことなのですね。モノを手渡す、受け取る。これを両手でやれば、どれだけ心豊かか。掃除一つとっても、両手をしっかり使うと、とてもいい掃除になります。両手を合わせて感謝する…これで豊かにならないわけがありません。 自分の人生の中で、大きく掲げて取り組んできたことは、掃除です。やり始めたきっかけは会社の人たちの心を癒したいということでした。しかし、なかなか効果が上がらず、最初は会社の人たちもおざなり程度の掃除しかしようとしませんでした。それでも、社員に強制することはせず、毎朝6時に出社後、トイレや玄関の掃除をし、営業車をきれいにするようにしていました。願いはなかなか通じませんでしたが、5年、10年後にはよい結果が現れてきました。10年後、数人がやるようになり20年後、大半が自発的にやるようになり、30年後、外部から掃除の仕方を教わりにきたり、地域の掃除運動に広がっていきました。そして今では、ブラジルに住む4000人以上の現地の人たちが、ブラジルの公園をきれいにしようというところまできました。平凡なことでも、それを続けることはやがては大きな力になるのですね。「掃除道」鍵山秀三郎より「世の中に雑事というものはない。 小さいなことを雑事と錯覚し、雑に行うから雑事になる」「極力小善に努め、小悪をしない」 一道35年、掃除の中からつかんだイエローハット社相談役・鍵山秀三郎。
2007.02.26
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「100円で1平方メートルの地雷原をきれいにすることができます。6000―1万円で義足をつくることができます」 国際ボランティアへのかかわり方を紹介した本『いまあなたにできる、50のこと』(WAVE出版)に収められた1項目である。 この本は「ボランティア、最初の一歩の踏み出し方」という副題があるように、国際ボランティア団体の活動を紹介しながら、誰にでもできる支援の方法をまとめている 地雷原の問題に取り組んでいるのは「カンボジア地雷撤去キャンペーン」(福岡市)。この団体の紹介ページには13歳の少年の写真が載っている。少年は地雷で右手を吹き飛ばされた上に、破片が刺さって失明した。一緒にいた友人は即死だったという。 24日は「地雷を考える日」だった。1995年のこの日、プノンペンで地雷製造中止などを訴える集会があり、7月には国連主催の国際会議も開かれた。地雷撤去の機運は高まったが、それから12年を経た今も約7000万個の地雷が埋まったままという。http://www.saga-s.co.jp/2・26事件の日 1936(昭和11)年のこの日、2・26事件が発生。大雪の中、国家改革を目指す青年将校らが決起し首相官邸などを襲撃、内大臣や大蔵大臣らを殺害した。そのクーデターは失敗し、青年将校ら17人の処刑により事件は終結する。血液銀行開業記念日 1951(昭和26)年のこの日、現在の血液センターの前身である日本初の血液銀行が開業したことを記念して。輸血に必要な血液の確保と管理を目的とする。パナマ運河開通記念日 1914(大正2)年のこの日、太平洋と大西洋を連絡するパナマ運河が開通したことから。
2007.02.26
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茨城県や栃木県内で半鐘泥棒が頻発、世界的な金属不足につけこみ、つぶせば一個数十万円にもなる銅材にしてひと儲けをたくらんだらしい。「 ジャン・ジャン・ジャン…」時代劇にでてくる半鐘。「ジャンジャン」二回鳴らして鎮火の合図「おしまい」「終了」という意味合いを持っていたところから、「じゃん」に「お」を付けて 『 おじゃん 』 になったそうです。 古典落語「火焔太鼓」 しくじってばかりいる古道具屋が、またかと思われた太鼓が実は名器と分かって300両を手にした。落ちは「音のするものに限るね」「こんどは半鐘にしよう」「半鐘?半鐘はいけないよ。おじゃんになるから」箱根用水貫通日 1670(寛文10)年のこの日、江戸の玉川上水、長野県の五郎兵衛新田用水、金沢の辰巳用水と並ぶ「日本四大用水」のひとつ箱根用水(深良用水)が貫通したことから。今から330年以上も前、4年の歳月をかけ、芦ノ湖(神奈川県)の水を箱根山の深良村へ引くための1.28キロの用水トンネルが人力によってつくられた。
2007.02.25
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世界規模の流行が恐れられている新型インフルエンザ。 対策グッズまで登場した。政府が公表した対策ガイドライン案には、「災害時と同様に外出しなくても良いだけの最低限(2週間程度)の食料・日用品等は準備しておくのがよい」と書いてある。 それに合わせて、あるスーパーが、家庭での備蓄を想定した商品リストを作って掲げた。インスタントラーメンや缶詰、マスクやうがい薬などが並ぶ。 こんなに国民の意識が高まったと政府の担当者も歓迎しているかと言えば違う。 国の研究所に「備蓄にふさわしいか」と問い合わせが殺到し、困惑気味だ。 公表されたガイドラインはまだ「案」。「本当に必要か?」という対策も盛り込み、 来月1日まで意見募集中。外出自粛も最終決定ではない。 過去の新型インフルエンザは半年近く流行が続いたことがある。 流行の山が2波に分かれた例もある。一律の外出自粛を疑問視する声もある。 感染症は変幻自在。政府もガイドラインを「状況に合わせて変える」と言う。 大切なのは、専門家の判断に基づく柔軟な対応です。http://www.yomiuri.co.jp/
2007.02.24
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いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかにいとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。(どの天皇の御世であった事でしょうか、女御や更衣が大勢お仕えなさっていた中に、それ程高貴な家柄ではない方で、一際帝のご寵愛を受けていらっしゃる方がございました。) 琵琶湖から流れ出る瀬田川の右岸に、石山寺という古い寺院が建つ。日本の古典文学の最高峰と言っていい『源氏物語』の故郷である。 同寺の「石山寺縁起」によれば、作者の紫式部は1004年の中秋の名月のころ、この寺にこもった。名月を見ながら構想を練り「源氏」の執筆に着手したのだという。その4年後には一部が書き上げられたとされる。来年はそれからちょうど1000年にあたるのだ。 その時代、京の都に比べればかなり寂しい場所だったに違いない。きらびやかな貴族社会と恋とを描いた物語がここで生まれたということには、意外な思いもしなくはない。紫式部自身が一条天皇の中宮に仕え、華やかな宮中生活も十分に経験していただけに、なおさらである。 いや、彼女は案外、孤独を好む女性だったのかもしれない。ひとり月をながめながら、主人公の光源氏らへの想像をめぐらし、大河ドラマを組み立てていった。そう考えるだけで、何と心豊かでたくましい大和女性かと思えてくる。http://www.sankei.co.jp/ 紫式部の時代には、式部の雇い主の藤原道長や時の一条天皇も、「源氏物語」を楽しんでいたはず。ただ識字率がおそらく一割もなかった当時、読めたのはほんの一握りの人だけだった。「源氏物語」は桐壷帝から今上帝まで、四代の天皇にわたる七十年あまりの物語でもある。物語内の天皇は恋に身を焦がし、管弦の宴や絵合わせに興じる(王朝のみやび)の中心的存在として描かれている。ところがそんな「源氏物語」が、明治以降、天皇を主権者とする大日本帝国憲法の下で「不敬の文学」として幾度か非難にさらされ、弾圧の対象にすらなっていたという。鉄道ストの日 1898(明治31)年のこの日、日本鉄道会社の機関士ら400人がストライキを実施、上野―青森間の列車が運休した。これが日本で初めてのストライキであったことから。クロスカントリーの日 1977(昭和52)年のこの日、イギリスではじめて統一ルールによる「クロスカントリー」の大会が開催されたことから。「クロスカントリー」とは、原野や林間など自然のコースを走る競技。
2007.02.24
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ニュージーランドのアンダートン漁業相は22日、推定で重さが約450キロ、長さが約10メートルあり、これまでで最大とみられる巨大イカが、同国南方にある南極海のロス海で無傷で捕獲されたと発表した。 このイカは、最も神秘的な深海生物の1つとされるダイオウホウズキイカで、深海の謎の解明に役立つと期待されている。地元メディアによると、過去最大だったダイオウホウズキイカより150キロも重いという。 大型イカ類には250ほどの種類があると考えられていますが、中でもよく新聞などに登場するのは、ダイオウイカ(Architeuthis)とダイオウホウズキイカ(Mesonychoterthis)です。 ダイオウイカは10メートル、ダイオウホウズキイカは13メートルという、大きな体をしている。 大イカの生息地としては、ニュージーランド沖とスペインのアストゥリアス沖が知られている。 大イカの成長の早さには、驚異の目を見張らずにはいられません。大イカの寿命は約15か月。生まれたときはたった2、3ミリしかない大イカが、1年数か月で10メートル以上にもなる。 まさに信じがたいほどの成長ぶりですが、その理由のひとつは、大イカが、食べたものを片っ端から自分の体重に変えてしまう生き物です。 何しろ体重を2キロ増やすのに、獲物を2キロ食べるだけでいいのですから。 ほかの食肉動物ならば、体重を1キロ増やすのに、ふつう4、5キロの獲物の肉を必要とします。大イカがひたすら成長しつづける珍しい生き物です。たいていの生き物は、成熟しきると成長が止まりますが、大イカの場合は死ぬまで体重が増えつづけるのです。http://www.sankei.co.jp/kokusai/world/070222/wld070222002.htm
2007.02.23
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皇太子妃美智子さま(現在の皇后陛下)が、第一子をご出産されたのが1960(昭和35)年のこの日。体重2450グラム、身長47センチの男の子で「浩宮徳仁親王」と命名された。 美智子さまは、子供は乳母が育てるという皇室のしきたりを破り、母乳での子育てを敢行。親子水入らずでの生活を実践された。ご公務で忙しい中、側近に託された育児ノートは“徳(なる)ちゃん憲法”として話題になる。そこには「自分で放り投げたものは、できるだけ自分でとりに行かせてください」「パンは1人で食べられるように」「1日に1回ぐらいはしっかり抱いてあげてあげてください。愛情を示すためです」など、きめ細やかに記されていた。【赤ちゃんポスト】 ドイツのキリスト教系社団法人が2000に設置し、70カ所以上に広がっている。慈恵病院の計画名は「こうのとりのゆりかご」で、外壁に縦45センチ、横65センチの扉を付け、温度を36度に保った内部の医療機器に赤ちゃんを預けられるようにする。赤ちゃんが置かれると、重さでセンサーが感知し、院内にブザーで知らせる。監視カメラは付けない。杏林大医学部の佐藤喜宣教授(法医学)の話「日本でも各地で赤ちゃんポストが設置されるべきだ。保護責任者遺棄罪は子供を捨ててはいけないという法律だが、母子を救うという概念がない。嬰児(えいじ)殺は虐待の最たるものだが、ポストがあれば、『育てられない』と追い詰められた母親も、あとで冷静になれる。母親を罪人にしないために一番良い方法だ。誰にも言えずに悩んでいる未婚母やその子供を助けることができる」
2007.02.23
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大気中にある二酸化炭素やメタンなどの気体(ガス)は太陽からの熱を地球に封じ込め、地表を暖める働きがあります。これらを「温室効果ガス」と呼びます。1997年の第3回気候変動枠組条約締約国会議(COP3)で採択された「京都議定書」では、二酸化炭素、メタン、一酸化二窒素のほか、HFCs(代替フロン類)、PFCs(パーフルオロカーボン)、SF6(フッ化硫黄)の6物質を地球温暖化防止に向けて削減に取り組むべき温室効果ガスであると定められました。 同議定書では、先進国全体に対して、2008~12年の温室効果ガスの平均排出量を、1990年比で5.2%削減するよう義務付けました。このうち日本は6%削減を義務付けられていますが、04年度の実績は約8%増と逆に増えており、実質的には約14%の削減が必要になっています。 また、温暖化防止に向けては、最も二酸化炭素排出量の多い米国が同議定書から離脱したほか、経済成長が著しい中国に削減義務が課せられていないなどの問題もあります。もうひとつの太陽黒点説 地球温暖化は、温室効果ガスだけのせいではないのかもしれない。もう一つ疑われるのが太陽そのものだ。約11年という、太陽黒点とフレアの周期リズムが、現在の地球温暖化の主原因である可能性がある。太陽黒点とは、太陽表面に現れる黒っぽい斑点である。実際には周りよりも温度が低いだけであり光っているのだが、周りがもっと明るいために暗く見える。 黒点の数は、大体11年の周期で増減するが、意外にも、太陽は黒点が最も多くなったときに最も明るくなり、地球に与える熱も最大になる。 地球温暖化が太陽黒点の周期に関連しているとする見方は、温室効果ガスこそが最も問題なのだと主張する環境活動家たちから強い批判を浴びている。だが、地球温暖化に影響を与える要因として、太陽黒点と関係するものがいくつか考えられている。 紫外線量の増加によるオゾン生成の活性化、太陽風によって宇宙線がさえぎられることなどがそれにあたる。だがこうした現象は非常に複雑で、スーパーコンピュータを使ったとしても計算が難しいので、まだはっきりしたことは言えない。という
2007.02.23
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「忌み言葉」「梨(なし)」は「ありの実」、「スルメ」は「アタリメ」と言い換える。梨は無しに通じ、スルは摩る(ギャンブル等で)つまり金を使い果たす意味がある。 「命中」「的中」を連想させる「アタリメ」は、縁起がいい。主に料理店や興行界などで隠語として使われるが、「スルメ」という言葉自体は十世紀の「延喜式」にもう出てくる。スルメイカなどから作った保存食品は古くから親しまれてきた。 「隠語」お寿司編 小津安二郎の映画のいくつかに「しゃこ」を「ガレージ」と洒落るシーンがある。 キュウリを「カッパ」(もちろん、河童が胡瓜を好むからだが) ご飯を「シャリ」(シャリシャリしているからと思っている人が多いが【仏】舎利=骨と色が似ているから) お醤油を「紫」(「助六」とも) 塩を「浪の花」 笹を「ヤマ」というのは山から取ってくることから おぼろを「さがや」(常磐津の文句で「さがやおぼろの花盛り(花吹雪)」から)「ひかりもの」「げそ」「ひも」「あがり」などがある。マグロの腹側の脂肪に富んだ部分を指す。「とろ」も元来、隠語である。「とろり」とする舌ざわりからかといわれている。江戸時代は捨てられていたものだが、近時、刺身・すし種として賞味され、マグロ以外にも使われることがある。 甘酢に漬けた生姜の事を「ガリ」というが、これは噛んだ時の音感、又は削り器で削るときの音から来たとされている。「海苔巻き」を「鉄砲」とうのは形状から「鉄火巻」は「鉄火場」(賭場)で食べられたからで、「干瓢」を「きづ」というのは名産地の京都・木津から来ている「げそ」というのはタコなどの「下足」が縮まったもの 卵を「ぎょく」というのは「玉子」から「あがり」が最後に上がるときに飲むもので本来は途中で飲むお茶は「お茶」でいいのだ。
2007.02.22
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英国の科学誌ネイチャーは、米サイエンスと並ぶ世界的に権威のある科学全般を扱う2大雑誌のひとつです。 ネイチャーは英国の天文学者が1869年に、サイエンスはトーマス・エジソンの支援で1880年に創刊しました。 論文誌の影響力を表す一つの指標として知られる、トムソンサイエンティフィックによる05年版「インパクトファクター」は、 「ネイチャー」29.273 「サイエンス」30.927と総合科学誌として首位争いを演じています。 研究者としては、論文投稿時に影響力の大きい雑誌を選択する気持ちがあります。一方、「自分が最初に投稿したはずなのに待たされ、同時掲載になった」と欧米の研究者が優先されているとか。猫の日「2・22」(ニャン・ニャンニャン)の語呂合わせから、1987(昭和62)年に「猫の日制定委員会」が制定。日にちは、全国の猫好きの人たちの公募によって決められた。世界友情の日 ボーイスカウト運動の創始者パウエル卿(1857-1941)の誕生日であることから、1963(昭和38)年のボーイスカウト世界会議で制定された。竹島の日 日本海上の無人島・竹島が、日本政府によって島根県に編入された1905年から100年となる2005年に、島根県が所管を公示したこの日を「竹島の日」と条例制定した。
2007.02.22
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東京電力TEPORE(テポーレ)が2006年11月に実施した、「朝ごはん」に関する調査(回答数:6,947人)では、朝食に主食として食べる物は、 「ごはん」と「パン」が80%以上を占め、 「ジュース・コーヒーなどの飲み物」「ヨーグルト」「果物」が続いた。 「主食を食べることが多い理由」については、「一番好きだから」32.5%、 「短時間で準備ができるから」27.3%と続く。一日の始まりを好きなものを食べてスタートをきりたい一方で、忙しい朝の効率性を求める意見が見られた。 青森県鶴田町の菖蒲川小学校は、町が全国に先駆け制定した朝ごはん条例をもとに、学校全体で食育活動、食農学習に取り組んでいる。米やリンゴを栽培しながら、朝ごはんの大切さ、栄養バランスなどを学び、「早寝早起き朝ごはん」がセットになった生活改善を進めた。その結果、全員が朝ごはんを食べてくるようになるなどの教育効果を挙げている。「早寝早起き朝ごはん」インタビューより 情報を遮断して周りを見回してみてほしい。高学歴だから成功できるとは限らない。成功できる人は「元気な人」です。今、東京のど真ん中で活躍しているのは元気な人のかたまりのはず。そして、元気が相乗効果をもたらし新しいものを生み出すのです。 決定的なのは「元気」。けっして、学力や学歴ではないはずですよ。http://books.rakuten.co.jp/RBOOKS/pickup/interview/kageyama_h/陰山英男(かげやま ひでお)1958年兵庫県生まれ。立命館小学校副校長・立命館大学「大学教育開発・支援センター」教授。公立小学校在任時より、「生活習慣の改善」と「読み書き計算の反復学習」を柱とした独自のプログラム『陰山メソッド』を実践。 子どもたちの学力や意欲を驚異的に向上させ、その成果が全国の教育関係者から大いに注目を集める。『百ます計算』などに代表される学習法は、小学生の保護者を中心に絶大な信頼と支持を得ている。現在、文部科学省の「中央教育審議会」委員に加え、今秋発足した「教育再生会議」の委員も務める。子どもたちの健やかな「育ち」には、「家庭の力」が不可欠、そのためにはまず、「早寝・早起き・朝ごはん」を、と提唱。
2007.02.21
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ワシントンポスト紙によると、インフルエンザウイルスに関する新しい研究結果が『ネイチャー』誌に掲載され、米国の研究者は一昨年、1918年のウイルスDNA構造の複製に成功した。それによって、研究者達は実験室で1918年から1919年に発生したスペイン風邪ウイルスを培養に成功し、数万人の命を奪った仕組みの解明に新しい展開を見せた。 サルによる実験で明らかになったのは、1918年のウイルスはある種の事前蓄積能力を持ち、人体の初期感染に対して抵抗する免疫力を抑えるものであった。1918年のウイルスが人体を攻撃する時、人体はウイルスに対抗するために、炎症を起こす高毒物質を大量に作り出し防御するが、それはウイルスとウイルスに感染された細胞を殺すためである。このように繰り返した後、高毒物質は侵入したウイルスを破壊すると同時に人体にも損傷を与え、その症状は通常肺に現れてくる、肺はインフルエンザウイルスが繁殖しやすい部位である。 この研究結果は1918年のウイルスと他のインフルエンザウイルスとは関連性のないことが証明された。インフルエンザによる死亡の原因は人体がウイルスに対して激しく抵抗すると共に自身にも大きい損害を与えたことである。ウイスコンシン大学に勤め、国際研究チームを率いている病毒学者・河岡義裕氏によると「ウイルスは多種多様であり、感染者自身の反応も多種多様である」という。http://jp.epochtimes.com/jp/食糧管理法公布記念日 1942(昭和17)年のこの日、国民の食糧確保と経済の安定を目的に、米、麦などの主要食糧確保等について定めた「食糧管理法」が公布されたことを記念して。日刊新聞創刊の日 1872(明治5)年のこの日、日本で初めての日刊紙「東京日日新聞」(現在の毎日新聞)が創刊されたことから。
2007.02.21
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誰だってあの光景を見れば「もったいない」と言いたくもなる。食べられる野菜が目の前にあるのに、なぜ廃棄処分しなければならないのか、という気持ちになるのが普通だ。この感覚こそ大切に持ち続けていたい「もったいない」光景とは、豊作で市場に生産物があふれ、出荷すると値崩れを起こしてしまう状況が発生した時に実施される産地廃棄と言われる受給調整。立派に育った白菜やキャベツなどが、トラクターなどでつぶされてしまった無惨な光景だ「もったいない」ことではあるが、取れ過ぎた野菜を出荷すれば価格低下を招き、結果として農家の財布に大きく影響するのをお互いに防止しようという取り組みのようだが、消費者の目には「食べられるのにどうしてつぶしてしまうの」という素朴な疑問が浮かぶ「もったいない」気持ちは農家だって抱いている。それでも全国の生産者が同一歩調を取らないことには、値崩れの連鎖を引き起こし、ひいては共倒れという結果を招いてしまう。そうなれば農業生産も継続できなくなってしまうということも根底にあるのだろう「もったいない」だらけであり、つぶすのなら食べたい人がたくさんいるし、生活苦の人たちへの提供や、給食などに使えば有効に食べられるのではないか、という声が出るのは至極当然。そうした声が農林水産省に届かない方がおかしい「もったいない」という国民の声に押され、検討会を設置して野菜をつぶさずに済む方法などを改善策としてまとめるという。せっかく育った野菜をつぶすなど罰当たりなことだ。有効策は早期にまとめるべきだ。http://www.iwanichi.co.jp/
2007.02.20
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世界ウルルン滞在記より 長靴型をしたイタリア半島の、ちょうどかかとの部分にあたるプーリア Puglia州。陽光溢れる温暖な気候に恵まれ、透き通ったアドリア海Mar Adriaticoに面し、地中海文明の古代史跡が数多く残る見 所の多い地域です。農業が盛んで、種類豊富な野菜や、ぶどう、オリーヴといったイタリア料理に欠かせない食材の有数の生産地となっており、「食の宝庫」として世界中から注目を集めています。特にオリーヴは、イタリア全土の生産の約40%を占めるほどで、どこまでも続くオリーヴ畑の眺めは壮観です。交通の便が悪いため、以前はイタリア人がバカンスに訪れる程度でしたが、この数年の世界的なスローフード運動の高まりを受けて、丁寧に作られた食材や伝統料理を堪能できるプーリアPuglia州に世界中から人々が訪れるようになりました。また、白い城壁に囲まれた迷路のような町オストゥーニOstuniや、おとぎ話に出てくるようなトンガリ屋根が軒を連ねる町アルベルベッロAlberobelloなど、世界でも類を見ない特徴ある町並みに出会えるのもプーリアPugliaの魅力ですプーリアが誇る伝統料理の一つがパスタです。プーリア州は、パスタの原料となるデュラム小麦(硬質小麦)の一大産地で、代々母から娘へ引き継がれるパスタが数多くあります。プーリアの女性は、小麦と水をこねて様々な形のパスタを作り出しました。中でも 「オレキエッテOrechiette」という耳型のパスタは、プーリア生まれのイタリアを代表するパスタの 一つとして知られています。その日食べる分だけを小麦粉からこねて作り、その時々の旬の野菜とオリーブオイルを使ったソースを絡めたパスタ料理は、誰もが認める美味しさです。プーリアには、自家栽培の野菜やオリーブオイルを使った料理を出す家族経営のレストランが数多くあります。 丘の上の城壁に囲まれた迷路都市、オストゥーニ(Ostuni ブリンディシBrindisi県にある。人口約3万人 町名はギリシャ語で「新しい町」という意味の言葉が語源。ライトアップされた夜景が素晴らしい)にある「テンポペルソ」は、5人家族で切り盛りするアットホームなレストラン。だが、イタリアのミシュランと呼ばれる「ガンベロロッソ」に、プーリアで最も美味しいレストランと紹介されるほどの名店。http://ururun.com/デュラム小麦(通称マカロニ小麦とも呼ばれ、柔軟なグルテンを豊富に含んだ小麦です。黄色味が強くマカロニ等に加工すると、きれいな琥珀色となり、歯ごたえが出ます。ディラム・セモリナとはそのデュラム小麦を粗挽きしたもので、マカロニやスパゲッティに最も適しているとされています。デュラム小麦の主産地としてはイタリア、北アフリカ、アメリカ、カナダなどが有名です。硬質小麦)オレキエッテOrechiette(オレッキOrecchi:耳からきており、小さな耳の形をしているのでその名が伝えられている) パスタいわゆる麺文化はイタリアが発祥か中国が発祥かとよくいわれることですが、この重要なポイントにオレキエッテがひっかかるのです。中国にも「猫耳片」という麺類のオレキエッテそっくりな麺類があるからです。いずれにせよ、イタリア、中国どちらとも「耳」が共通のようです。では本当にどちらが発祥? といわれてしまうと困ってしまうのですが、イタリア人に聞けば「イタリアだ!」 と、そして中国人に聞けば「中国だ!」 とのことです。
2007.02.20
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「春は名のみの風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず…」吉丸一昌作詞、中田章作曲でおなじみの「早春賦」である。 明治の末、吉丸は長野県安曇野地方の学校から校歌の作詞を依頼された。その際、湧き水の豊かな安曇野を訪れ、春まだ浅き北アルプスの峰々や村々の素朴な風景に打たれ、後に作ったものだという。穂高川のほとりに歌碑が残っている。 19日は二十四節気の一つ雨水。雪が雨に変わり、水がぬるんでくる。このころの「気」は「木の芽萌やし」「木の芽起こし」ともいわれる。雨の翌朝は明るい日差しをいっぱい浴びて、草木の芽が徐々に動き始める。昔から農耕の準備をする日でもあった。 四季の移ろいは、人々の時々の暮らしの目安となってきた。詩や曲などに豊かな彩りを添えてきた。http://www.kitanippon.co.jp/旅券の日 1878(明治11)年のこの日、海外旅券規則が公布され「旅券」という言葉が法令上初めて使われたことから。旅券の重要性を世間一般に広く知らしめようと外務省が1998(平成10)年に制定。歌舞伎の日 1607(慶長12)年のこの日、出雲の阿国が江戸城で将軍徳川家康や諸大名らを前にはじめて歌舞伎踊りを披露したとされることから。アレルギーの日 1966(昭和41)年のこの日、石松公成博士によってアレルギーを起こす原因となる免疫グロブリンE抗体(lgE)が発見され、発表されたことを記念して。日本アレルギー協会が1995(平成7)年に制定。普通選挙の日 1928(昭和3)年のこの日、納税額の制限を撤廃し25歳以上のすべての男性に選挙権を認めた日本で最初の普通選挙が行われたことから。女性に選挙権が与えられるようになるのは、1946(昭和21)年になってから。
2007.02.20
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「日本全国おもしろ姓氏」(角川ミニ文庫)によると、全国には約十三万の名字があり、そのうち難読姓氏は約四千に上るという。一年に引っ掛けた「春夏秋冬(ひととせ)」から、数字の二の前にあることから「一(にのまえ)」、どきりとするような「浮気(ふけ、うき)」、鷹がいないと安心なところから「小鳥遊(たかなし)」など、面白い名字が紹介されている 他人には面白くても本人の身になると、手放しで済まされないものもあるだろう。長い名前では落語でおなじみの「寿限無(じゅげむ)」が有名だが、「名は体を表す」とのことわざもある。「鈴木」というのは50人に1人いるとされるが、語源はややこしい。丹羽基二『姓氏の由来ものしり事典』(ベネッセ)によれば、タンボの刈り取りの後に「穂積」が作られて、この稲束に立てられる棒がスズキだという。このスズキは神の依り代で、豊作を祈ったものだった。これを熊野の方言でスズキと呼び、これを立てる人が「鈴木」と呼ばれるようになったという。
2007.02.19
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新聞、テレビを含め、あらゆるメディアにとって、不可欠のものは、読者や視聴者の支えである。メディアの相次ぐ不祥事は信頼を失墜させ、市民離れを加速させる。支えを失ったメディアに、生き残るすべはない。 しかし、現状はまことに厳しいと言わざるを得ない。信頼性の回復が討議された一昨年の新聞大会で、大阪大大学院の松井茂記教授は、日本のマスメディアは四面楚歌の状況にあるとして、次のように語った。 「今の若い人の多くは報道について、政府を監視するより、個人の人権を傷つける巨大な権力ととらえている。表現の自由も、読者や視聴者の利益のためだけに保護されるべきだと考えている。国民からメディアを守ろうという意見は聞こえない」。 厳しい指摘である。公権力がメディア規制を強めているのも、この傾向を追い風にしてのことだろう。不祥事に乗じるかのようなNHKに対する放送命令、関西テレビの「あるある大事典」に端を発した電波法改正の動き…。 防衛省の武官が新聞記者に秘密情報を漏らしたとして、捜査を受けているのも同様だ。職員を罰することで、間接的に報道を規制する意図が透けてみえる。これも国民の支持が得られると踏んだからに、ほかなるまい。 高齢の方は言論統制の怖さを戦時中の「大本営発表」で身にしみていようが、さて若い人たちは。知る権利が、掛け替えのない民主主義を守る原点であることを、ぜひ知ってほしいと思う。そして報道の自由もまたそうであることを。http://www.kochinews.co.jp/プロレスの日 1955(昭和30)年のこの日、日本ではじめてプロレスの本格的な国際試合、力道山・木村組対シャープ兄弟の試合が開催されたことから。世界チャンピオンのシャープ兄弟を相手に力道山の“空手チョップ”が大炸裂し日本組が勝利。空前のプロレスブームを巻き起こした。強制収容を忘れない日 第二次世界大戦中の1942(昭和17)年のこの日、時の米大統領ルーズベルトによって、アメリカ在住の日系人およそ12万人が強制収容所へと転住させられたことから。その人たちの7割は市民権を持ったアメリカ生まれの日系2世だった。
2007.02.19
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アジアのあちこちで飛行機や列車が超満員になっている。きょう2月18日は旧暦の正月。この時期、中国、韓国、ベトナムなどでは帰省ラッシュで国中が騒然となる。家族や旧友と再会した人々が健康を祝い、新しい年の幸運を祈る。 「春節」を挟む1カ月間、中国の鉄道の旅客数は1億5000万人に上る。日本の総人口をはるかに凌ぐ人間が一斉に動く。好景気のせいだろう。邪気を追い払う爆竹は18億円分も売れた。日本は普段と変わらぬ静かな日曜の朝だが、耳を澄ませてみる。民族大移動のアジアの地響きと歓声が遠くから聞こえてくる。 月の満ち欠けに基づく太陰暦の慣習が続くのはなぜか。横浜中華街の渉外役を務める王忠福さん(37)に聞くと、逆に笑って問い返された。「日本人が旧正月を祝わないのはどうして?」。日本が太陽暦を採用したのは明治6年。旧正月とは、近代国家の建設を急ぐ歴史に埋もれた、伝統の忘れ物の1つであろう。 暦には人の心を支配する不思議な力がある。イスラム圏では純粋な太陰暦に従い、ラマダンと呼ばれる9番目の月に断食する。イスラエルの公式な暦も太陰暦の一種だ。グローバル化で世界は平らになった。それでも同じ日、同じ時を、人々が同じ気持ちで迎えるわけではない。旧正月にアジアとの繋がりを思う。http://www.nikkei.co.jp/中村俊輔 1ゴール、1アシスト 短い助走から左足を鋭く振り抜いた。ボールはゴール左隅のネットを揺らす。中村は得意のFKを見事に決め、右手を突き出した。これで今季7ゴール目で、昨季の6得点を上回った。チームを波に乗せる得点に、ベンチのストラカン監督も両手をあげて喜んだ。 前半9分にも絶妙のパスで先制点をアシストするなど、好調を維持している。勝利に貢献する活躍が続くが、ゴールは「あまり気にしていない」と関心がない様子で「いつもミスを反省している」と、まだ自身のプレーに満足はしていない。 20日には欧州チャンピオンズリーグ(CL)1回戦でホームでのACミラン(イタリア)戦に挑む。「CLは世界の一番上の基準を体感できる」と、楽しみにしている大一番だ。1次リーグでも華麗なFKをたたき込んでおり、期待はますます膨らむ。「気分を変えて臨みたい」という中村の左足から目が離せない。サッカー日本代表の自覚 19歳のGK林彰洋 代表、U-22、U-20の3世代同時代表入りを果たした19歳のGK林彰洋(流通経済大)も15日、合宿に合流した。今後のレベルアップのため、「オシム監督にどうして呼んでくれたか聞きたい」と林。一躍、シンデレラボーイとなった192センチGKは、外見以上に中身の方がしっかりしていた。 昨年、英語はもちろん、スペイン語の習得も目指し、語学の勉強に本腰を入れた。その理由が海外では、「的確な指示を出せなくては通用しない」という考えから。強い海外志向の表れだ。 まだあどけなさを残す19歳の意識は、すでにプロ以上といえそうだ。FC東京 FW平山相太・・・ Jリーグ1部(J1)のFC東京は16日、北京五輪を目指すU-22(22歳以下)日本代表FWの平山相太(21)に厳重注意をしたと公式サイトで発表した。同日発売の写真週刊誌に、道交法に違反して乗用車を運転しながら携帯電話を操作する姿が掲載された。 平山は公式サイトで「運転中に携帯電話を操作していたことを深くおわび申し上げます。以後、運転中に使用しないことを誓います」などと謝罪のコメントを出した。 Jリーグは今月上旬に3日間実施した新人研修で、平山らに交通法規の順守についても指導していた。鬼武健二チェアマンは「クラブ側にも厳しく注意したい」とあらためて自覚を求めた。http://sportsnavi.yahoo.co.jp/
2007.02.18
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プロ野球実況で人気の松本ひでおアナ(ニッポン放送)東京マラソンに市民ランナーとして参加するそうだ。 練習を重ねると、どうしても左足が痛くなる。現役ラストランとなる有森裕子さんにポロッと不安を漏らすと、有森さんは「せっかく足が痛くなったのだから、急がずに走りましょうということですよ」。そして、後ろ向きな考え方の前に「せっかく」という言葉を付けると、前向きになれますと諭してくれたという。 この「せっかく方式」はもともと、師匠だった小出義雄さん(佐倉アスリート倶楽部代表)の教えだそうだ。いかにも名伯楽らしい。ネガティブな感情が芽生えたら、そこに「せっかく」を加えるだけで発想の転換を図る。この前向きな哲学が有森さんや高橋尚子さんら世界的ランナーを育てた源泉なのだろう。 都心を最長7時間近く“封鎖”して実施する初めての大会。不安がさまざま指摘されているし、普段に比べれば一定の不便さは避けられない。しかし「せっかく都心が封鎖されているから…」「せっかく車が使えないのだから…」などと発想を変えてみると、マラソンに関心がある人もない人も、より楽しい一日を過ごせそうだ。嫌煙運動の日 1978(昭和53)年のこの日、東京・四谷で「嫌煙権確立をめざす人々の会」が設立され、「嫌煙権」という言葉によって非喫煙者を守る運動がはじめられたことから。エアメールの日 1911(明治44)年のこの日、世界で初めて飛行機によって郵便物が運ばれたことから。インドのアラハバードで開かれていた博覧会でのアトラクションのひとつとして行われた。http://www.sanspo.com/
2007.02.18
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むかしむかしよ北のはて オーロラの火の燃えている 雪のお城がありました それから母さん どうしたのだまってお聞きよ いい話 お話きいて ねんねんよ雪のお城のお庭には 氷の花が咲いていて 雪の小人が住んでいた ほんとに母さん おもしろいだまってお聞きよ いい話 お話きいて ねんねんよ 「子守歌」作詞 野上彰 作曲 團伊玖麿 (昭和30年) 「子守歌」は1950年にNHKラジオの番組で「婦人の時間」と言うのがあって、その番組で放 送されたそうです。野上彰さんには5人のお子さんがあって、それぞれのお子さんの為に子守歌を作詞したそうです。この曲は最初のお子さんのために作ったとの事です。<口語詩に韻律の可能性を開拓した貴重な詩人>と評されている野上彰氏大合唱曲「オリンピック賛歌」の訳詞 1964(昭和39)年10月24日、東京五輪の閉会式では2千人が大合唱して、感動の渦を巻き起こした。この東京大会で歌われたオリンピック讃歌を訳詞した野上は妻とともに、あふれる涙をぬぐおうともせず、大合唱に唱和したという。野上 彰(のがみ・あきら 1909~1967)本名・藤本登。 徳島市南内町生まれ。寺島尋常小(現内町小)、徳島中(現城南高校)を出て、旧制第七高等学校(現鹿児島大)から東京帝大文学部に進み、京都帝大法学部に転入。囲碁誌の編集長を経て、戯曲、詩、童謡などの創作活動に入り、戦後、芸術前衛運動を推進。放送劇の主題歌作詞や台本、オペレッタの演出など、多彩なジャンルで力量を発揮した。著書に詩集「幼き歌」、戯曲集「蛾」、随筆集「囲碁太平記」など多数。「正しい日本語と美しい歌を」をスローガンに「波の会」を組織、詩と音楽の調和を目指した
2007.02.17
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氷点下5、6℃なら「針」、14~18℃なら「六角の枝」、18℃以下なら「柱」。これは何? 雪の結晶の形。 昭和十三年、中谷宇吉郎博士が北海道帝国大学の低温実験室で、世界で初めて人工的に雪の結晶を作ることに成功した。結晶は降ってくる時の気温や水蒸気の多少によって変化することを発見した。雪氷に関する科学分野に貢献し、「雪は天から送られた手紙である」と詩情あふれる言葉も残している。「真っ暗なベランダに出て懐中電灯を空に向けて見ると、底なしの暗い空の奥から、数知れぬ白い粉が後から後からと無限に続いて落ちてくる。それが大体きまった大きさの螺旋形を描きながら舞って来るのである。そして大部分のものはキラキラと電燈の光に輝いて、結晶面の完全な発達を知らせてくれる。…何時までも舞い落ちてくる雪を仰いでいると、いつの間にか自分の身体が静かに空へ浮き上がって行くような錯覚が起きて来る」(雪)物理学者/随筆家・中谷宇吉郎博士(1900-1962)石川県・片山津温泉生まれ 1952年からアメリカの雪氷凍土研究所(SIPRE)の顧問研究員となり、アラスカのメンデンホール氷河の単結晶を使った研究を行っている。54年には、ハーバード大学出版部から『Snow Crystals, natural and artificial』(雪の結晶―天然雪と人工雪)を出版し、中谷の世界的名声は不動のものとなった。 国際雪氷委員会副委員長に就任した57年からは、毎年グリーンランドに出かけて、氷冠(アイスキャップ)の研究を行っている。しかし、この間ガンが中谷の体をむしばんでいた。1960年に最後のグリーンランド行きを終えた後、中谷は入院した。手術と療養のかいなく、1962年、中谷は骨髄炎で世を去る。http://www.kitanippon.co.jp/http://www.hokkaido-jin.jp/issue/sp/200202/special_02.html天使のささやきの日 1978(昭和53)年、北海道の幌加内町母子里で非公式記録ながら、マイナス41.2度という最低気温が記録されたことを記念して。気温が下がったときに空気中の水蒸気が凍ってできるダイヤモンドダストのことを「天使のささやき」と命名してのこと。
2007.02.17
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「千の風になって」。歌うは秋川雅史さん。私のお墓の前で泣かないでください。その後こんなふうに続く。そこに私はおらず、風になって空を吹き渡り、時に光、雪、星などになってあなたの周りにいる…。世界中で朗読される英語の詩。 訳詞と作曲は芥川賞作家新井満さん。友人の若くして亡くなった奥さんをしのぶ文集で詩を知った。新井さんは自ら歌って私家版CDを作り、友人らに贈った。それは4年前のことだったという。最近、葬儀・告別式を待つ静かな時間に「千の風」のメロディーが低く流れたりする。遺影に向かって弔辞と一緒にささげる例も実際ある。すすり泣きが漏れる。故人が側にいるような気がする。 先日、自身が書いた新聞の死亡広告を読んだ。天文学者磯部秀三さん。無神論者には葬式無用、遺骨も残さず。(ただしもし好意を持っていてくれたなら、妻と娘に「私とのお付き合いについて」手紙を送ってほしい)と。死後、人はどうなるのか。本当のところは誰も知らない。霊魂を信じる向き、無に帰すと考える向き、いろいろだろう。※秀は王へんに秀。http://www.kahoku.co.jp/秋川雅史 1967年愛媛県生まれ アーティスト/テノール歌手新井 満 1946年新潟県生まれ。1977年シングル「ワインカラーのときめき」 のヒット、1988年には「尋ね人の時間」で芥川賞を受賞するなど作家、 作詞作曲家、写真家磯部秀三(いそべ しゅうぞう、1942年7月16日~2006年12月31日 ) ※秀は王へんに秀。 大阪府大阪市生まれの天文学者。 東京大学大学院を卒業。国立天文台助教授を経て、 2005年日本スペースガード協会の理事長。 専門は恒星の誕生領域の研究で、各地のアマチュア天文家ともコンタクトを 取り天文学の普及に尽力した。 朝日、毎日、読売新聞の1月20日朝刊社会面の下に、その死亡広告は載っている。磯部氏が昨年12月31日に亡くなったことを報告、「本人の遺言状による強い希望で葬式等は執り行わず、本状にて失礼します」という夫人、令嬢連名のあいさつ文の後に、磯部氏自身のお別れのあいさつが載っている。「私は1942年7月16日に大阪で誕生以来60有余年の人生を終えることになりました。その間、各年代毎に多くの方々にご支援いただきありがとうございました」という書き出しである。続いて、死亡広告という形を取ったことについては、次のように述べている。 「…私は元々神の存在を信じておりません。そのような者が死んだ時だけ宗教にいろどられた形式的なふるまいをするのは、理にかなっておりません。…葬式等一切の形式的なことはしないよう、また、遺骨等を残さないように家族の者に遺言してありますので、ご理解下さい」 磯部氏は、一般向けの著書も多い天文学者で、国立天文台助教授を経て、自身が設立の中心になった日本スペースガード協会の理事長を務めていた。しかし、あいさつ文中に、自身の肩書き、経歴、業績にかかわる記述は一切ない。「もし、私に好意を持っていて下さった方々にお願いできるものでしたら、妻、娘に私との付き合いがどのようであったかなどを書いた手紙を送ってやっていただければ、この上もない幸いです。娘も、父がどのような人間であったか、理解してくれるでしょう」 TBSのラジオ番組では、良子夫人が、死亡広告の話は13年前に本人から聞かされ、驚いたこととともに、「いまは、このような形にしてよかった」という感想を語っていた。
2007.02.16
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世の中に一を聞いて十を知る賢者は、そうはいない。神ならぬ身、一を聞いて知るのは一だけである。十まで知るには、さらに聞く、本を読む、ネットで検索するなど、自分で調べるしかない。それでも届くのは、せいぜい七か八か。 ところが、人の心には、一を聞いたら十を知ったと思い込みたい願望が渦巻いているらしい。二から三、四とあれこれ検討する手間を省いて、一気に十の結論を得ようとする。これを心理学では「認知的節約」と呼ぶ。健康とカネという人の2大欲望がからんだ場合は、この認知的節約は特に強力に働くという。「いたちごっこ」を辞書で引く。と、江戸時代に子供らが「いたちごっこ、ねずみごっこ」と唱えながら相手の手の甲を上からつねる遊びがあったとある。その手を交互に際限なく重ねていくことから、今の意味が生まれた。 大辞林はそれを「同じようなことの繰り返しで、いつまでも埒(らち)のあかないこと」と簡略に説明する。だが、ユニークな語釈で有名な新明解国語辞典の旧版は、何と5項約650字にわたってその意味を説明していたから「いたちごっこ」も奥が深い。「取締りを強化すれば相手はその裏をかいたりさらに新たな抜け道をくふうしたりするというように、被取締り者の行動を封ずる試みがなんら根本的な解決にはなっていないために、現在の好ましくない対立が止めど無く繰り返されること」(一部略)詐欺・拉致・捏造・談合・・・・。天気図記念日 1883(明治16)年のこの日、日本初の天気図が作成されたことから。ドイツ人の気象学者エリヴィン・クニッピングの指導による、7色刷りのものだった。
2007.02.16
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絶世の美女と形容されることの多い古代エジプトの女王クレオパトラだが、2000年前の古代ローマ銀貨に描かれた顔はその評価を覆すものになりそうだ。14日付の英タイムズ紙が報じた。 それによると、ニューカッスル大学が発見した銀貨に描かれていたクレオパトラの顔は、とがったあごに薄い唇で、鼻も鋭角。硬貨の裏面に描かれているのはクレオパトラと恋仲にあったとされるローマの軍人マーク・アントニー(マルクス・アントニウス)だが、その顔も、どんぐり眼にかぎ鼻、薄い唇とそれほど魅力的とはいえない容姿になっている。 同大学の考古学博物館のアシスタントディレクター、クレア・ピッカースギル氏は「クレオパトラの一般的なイメージはローマの政治家や軍人を魅了した美しい女王というものです。クレオパトラとマーク・アントニーの関係はこれまで長い間、作家やアーティスト、映画製作者によってロマンチックに美化されてきたのです」と語った。 大英博物館での撮影とありますhttp://jp.epochtimes.com/jp/2007/02/html/d63317.html[ロンドン 14日 ロイター]
2007.02.15
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立春から春分までの間に吹く強い南風で、最も早いものが春一番である。元は長崎・壱岐で漁師が使った言葉だという。優しそうな響きとは裏腹に、急速にしかも台風並みに発達した低気圧が、日本海を北上することで吹く。 低気圧の中心気圧が、二十四時間で急激に下がるものを「爆弾低気圧」と呼ぶ。大陸からこの低気圧が進んで来ると、爆弾がさく裂するような春のあらしとなる。壱岐には大量遭難の記憶が残る。この風が吹かぬうちは、漁師は海を恐れたという。 強風と南から吹き込む暖気による気温上昇が、暴風雪や雪崩を引き起こす。全国で海も山も大荒れになった。青森・八甲田山では雪崩が発生し、死傷者が出ている。強風と吹雪で、捜索は難航したようだ。山スキーでパウダースノーを楽しむはずのツアーは、暗転してしまった。 低気圧の通過は寒の戻りを呼ぶ。立春以降の寒波が余寒だ。ことわざでは「余寒は本寒より悪い」という。「春一番木々は根を締めおのれを鳴らす」と、楠本憲吉さんは詠んでいる。http://www.kitanippon.co.jp/春一番名付けの日 春一番という言葉が使われるようになったことを記念する日。もともとは漁民たちの言葉で、春先に吹く風を「春一番」「春一」などと呼んで南の暴風を恐れていたものが気象用語となり、全国に普及した。
2007.02.15
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「バイオエタノール燃料が普及すると、かえって大変なことになるのでは」。環境問題に詳しいある研究者から、こんな見方があることを教えられた。 バイオ燃料はサトウキビなどからつくったアルコールをガソリンに混ぜたもの。二酸化炭素量を増やさず地球温暖化対策に有効とされる。石油の代替燃料としても注目される。 そこで、自動車会社が普及に懸命だ。バイオ燃料に対応する車を主に外国にどんどん投入している。国も、国内のバイオ燃料の生産目標を設定した。 普及の影響で原料のサトウキビは世界的な供給不足。トウモロコシも急騰し、市場では最高値を更新、飼料も値上がりして畜産農家が音を上げるほどだ。 もっと深刻なのはアマゾンの密林の伐採。サトウキビ畑の拡大のために次々に切り倒されている。アマゾンは膨大な二酸化炭素の吸収源なのに。これでは何のためのバイオ燃料か分からなくなる。 技術革新が予想外の副作用を経済の動きの中で生むこともある。先の研究者は「自動車会社はバイオ燃料がどんな影響をもたらすかまで考えたろうか」と疑問に思っている。 http://www.kahoku.co.jp/聖バレンタインデー その昔、ローマ帝国では若者を戦争に駆り立てるために自由な結婚を法律で禁じていたが、バレンタイン司教は密かに、愛し合う若者同士を結婚させていた。そのことから司教は処刑されてしまうのだが、その日が2月14日であったことから、この日をバレンタイン司教の記念日として恋人たちが愛を誓う日となった。日本では、女性から男性にチョコレートを贈り、愛を告白する日として定着。煮干の日「2・14」(に・ぼし)の語呂合わせから、全国煮干協会が制定。カルシウムを多く含み健康によい煮干をもっと食べようという日。
2007.02.14
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中国の旧暦正月(2月18日)を前に、中国大連市のあるスーパーで、1個8千元(約12万5千円)の超高価リンゴが現れた。青森産の「王林」と呼ばれるこのリンゴの重さは1個約1キロ。一方、同品種のリンゴで400グラムの場合は280元(約4千400円)の販売価格になっており、小さくて安いのも1個68元(約1千円)がこのスーパーで販売されている。年平均収入は中国では高い大連市の住民(約8万円から15万)にとっても仰天価格。 中国紙「新商報」の報道によると、同スーパーマーケットで展示された最も大きい2つのリンゴは非売品であり、どうしても購買したい客がいた場合、1個8千元で販売するとなる。 販売員の李雷英氏は、これらのリンゴはすべて日本から空輸された青森県の産物だと説明した。李氏によると、青森産リンゴは世界的に有名なもので、日本国内においても価格が高い。今回展示されたジャイアント・リンゴは、日本においても1本の木のみから収穫できるとし、今年は6個しか中国大陸市場に入っておらず、そのうちの3つが大連市にあるという。希少なことから、この仰天の価格が付けられたという。これらのジャイアンツ・リンゴはすべて無農薬で栽培されており、色がよく大きくて、味が良いだという。 李さんによると、今年1月23日より、同品種のリンゴはすでに千個近く販売されており、地方の夫婦が5~6万元(約78万~94万円)で400個を購入し、親戚友人たちへ贈答するという。リンゴを購入した客層は30~40代に集中しており、主に商売のために地方から大連を訪れる者が多いとし、少数が地元の消費者が旧暦の正月に供え物として購入したと分析した。大きいりんごです。続きと写真はhttp://jp.epochtimes.com/jp/2007/02/html/d14389.html
2007.02.13
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江戸時代は苗字を使っていたのは貴族と武士。1870(明治3)年「平民苗字許可令」が出ており、平民でも苗字を(公式に)名乗ることが可能になり、1871(明治4)年に戸籍法、1873(明治6)年には徴兵令。 急激な近代化政策により、新政府に不満をもつ江戸時代の武士が、各地で暴動をおこしました。家禄とか身分とかいう特権が、唯一のプライドでした。しかし秩禄処分や士族の商法で財産・家計を失い、徴兵制で身分をも失う。 時代の変わり目では、時代の流れに取り残される人は常にいます。繰り返される悲劇は、今もおきています。 明治政府は佐賀の乱を力で鎮圧するなど強権政府であることを誇示した上で1875(明治8)年の2月13日とうとう苗字の義務化を断行しました。「佐賀の乱」とは、1874(明治7)年2月、佐賀の不平士族が江藤新平、島義勇をかついで蜂起こした事件で、士族反乱の最初のもの。政府軍に敗れ江藤らは処刑された」(広辞苑より)「歴史は繰り返す。方則は不変である。それゆえに過去の記録はまた将来の予言となる」(寺田寅彦) さて義務となっては仕方ない、江戸時代から非公式に苗字を使っていた家は、それをそのまま届ければ済むので良かったのですが、ほんとうに苗字を使用していなかった人もかなりあり、庄屋さん、和尚さんに相談した人も。そこで村中同じ苗字にしてみたり、山にたんぼがあるから山田だとか、川の上の方に住んでるから川上だとか、けっこう安易な名前はそこからだとか。苗字制定記念日 1875(明治8)年のこの日、明治政府による「平民苗字必称義務令」という太政官布告が出され、すべての国民が姓を名乗ることが義務づけられたことから。
2007.02.13
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♪ 匂い優しい 白百合の 濡れているよな あの瞳 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 月の夜 ♪「北上夜曲」。昭和三十六年にレコード化されて大ヒットした レコード化される前から作詞者、作曲者が分からないまま「歌声喫茶」などで若者の間に広まっていたが、その後、作詞は水沢農学校(現水沢農高)の生徒だった故菊地規(のりみ)氏=旧江刺市出身=、作曲は旧制八戸中(現八戸高)の安藤睦夫氏であることが分かった。その安藤氏が、生地の洋野町で八十二歳で逝去した 北上夜曲は二人の文通の中から生まれた青春歌謡。北上河原を舞台に男性側からの初恋の甘い感傷をモチーフにしたもので、今でもカラオケなどでマイク片手に酔いしれる中高年の男女を見掛けることがある。文通がメールに変わっても、初恋はいつの時代でも貴重な体験に違いない。奥州市と北上市の河畔にある歌碑を訪れる観光客も後を絶たない この曲は、和田弘とマヒナスターズの歌で一躍国民的愛唱歌となった。この歌には沈みがちな心を癒やし励ましてくれる不思議な力がある。青春時代に、都会の一人暮らしなどでこの曲に慰められた人も多いのではないか。作詞者と作曲者が逝っても歌は残る。歌はそれぞれの心に生きている。http://www.iwanichi.co.jp/
2007.02.12
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先触れは「角力(すもう)風邪」といわれた流行だった。1918年4月に台湾巡業中の大相撲で病気が発生、尾車部屋の真砂石ら3力士が急死する。翌月の東京夏場所では流感で休場者が続出し、人々はそれに驚いて角力風邪と名づけた。 全世界で4000万人、日本で56万の死者を出したスペイン風邪の大流行は、この年の10月に始まった。それに先立ち軍隊にも広がった角力風邪は「春の先触れ」と呼ばれるが、秋からの流行より症状は軽く、同じウイルスかどうか不明という。ただ免疫のおかげなのか、大流行では相撲界に大きな被害はなく、場所を休むような事態にならなかった(速水融著「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」藤原書店)。 むろんそのせいで相撲観戦が一般の感染の場になった可能性があるから、世の中の幸不幸は簡単にいえない。 スペイン風邪は、1918年から翌19年にかけ、全世界的に猛威を振るったインフルエンザの一種である。感染者6億人、死者4000~5000万人。発生源は1918年3月米国シカゴ付近。高病原性を獲得したのは1918年8月15日頃アフリカ西海岸の英国保護領シエラレオネの首都フリータウン付近とされる。米国発であるにもかかわらずスペインかぜと呼ぶのは、情報がスペイン発であったためである(当時は第一次世界大戦中で世界中で情報が検閲されていたのに対し、スペインは大戦とは無関係だった)。リンカーン誕生日 アメリカ合衆国第16代エブラハム・リンカーンの誕生日を祝う日でアメリカの30洲では法定休日になっている。ペニシリン記念日 1941(昭和16)年のこの日、イギリスのオックスフォード大学附属病院で、世界ではじめてペニシリンの臨床実験に成功したことを記念して。ボブスレーの日 1938(昭和13)年のこの日、日本で初めてのボブスレー大会「全日本ボブスレー選手権大会」が札幌で行われたことから。
2007.02.12
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毎日の仕事に、生活に携帯電話がなかったなら、お手上げ。多くの人がそう思っている。携帯を1日も手放せない時代だが、携帯の副作用を説く耳の痛い指摘がある。 京大霊長類研究所、正高信男教授。「携帯電話はよくできているが、それゆえに頭を使わない人間を、これからどんどん生みだしていく可能性を秘めている」。しかも「その被害は世界共通ではなく、日本は欧米に比べ甚大と思う」。その訳は日本人は、他人とのつきあいを欧米に比べ重視して暮らしているからだという。著書に「考えないヒト」がある正高教授。IT社会の将来像を「人間は、これからますますサルに近くなっていくでしょう」と、警鐘を鳴らす。正高説を信じるかはともかく、便利さは人から能力と意欲を喪失させることがあるから、よく聞いておこう。 もう1つは、既にある怖い話。携帯メール頻度と高校生の問題行動に相関関係があることだ。1日にメールを「0~5回」する生徒の場合と「41回以上」で比べると、後者は万引経験が6倍、性経験は24倍になる。性関係を持つことを構わないとの性意識も8倍高いという調査結果が出ている。 京大大学院の木原雅子助教授によると、メールを交わすことで一見、友達とつながっていると本人たちは錯覚しているが、実は逆で携帯は人間関係を弱める道具だと訴えた。しかも掲示板に悪口、中傷を書かれ、携帯がいじめの道具となっている。相手がだれだか分からない。陰湿で、標的になった子どもの尊厳を根こそぎ壊すという。携帯に潜む危険性にも目を向ける時だ。http://www.saga-s.co.jp/
2007.02.11
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記録破りの暖冬が続いている。この冬、東京都心では1度も雪が降っていない。10日、とうとう「新記録」となった。気象庁が1876(明治9)年に観測を初めて以来、これまで最も遅かった『初雪』は、1960(昭和35)年の2月10日だった。これを47年ぶりに更新した。 同庁によると、暖冬の原因は2つ。太平洋東部、赤道付近の海水温度が上昇する「エルニーニョ現象」に加え「北極振動」の周期の影響で大陸からの寒気が南下してこないから、だとか。素人には難解だが、地球温暖化の余波と理解すればいいらしい。ちなみに、平均気温が平年を0.5度上回れば「暖冬」で、ことしは全国平均で平年を0.8度~1.0度(1月速報値)も上回っている。また、過去100年で日本の年平均気温は1.07度も上昇しているそうだ。これは、世界全体の0.67度を大きく上回っている。気象庁が9日に発表した「1カ月予報」によると、まだまだ暖冬は続く見込み。建国記念の日 建国を祝う国民の祝日。1967(昭和42)年から実施されている。http://www.ffortune.net/calen/kinenbi/02/kenkoku-kinen.htm干支供養の日 干支置物等を制作しているメーカーが、1年間大切に飾られ厄を払ってくれた干支の置物に感謝して土に還す日として制定。立春直後で「十」と「一」を組み合わせると「土」になることから。http://www.sanspo.com/
2007.02.11
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「鉄腕アトム」がマンガ雑誌に登場したのは昭和二十年代半ばのこと。その作品の中でもう「197X年には手に載る電子計算機が誕生する」と予測している。作者、手塚治虫さんの未来を見抜く目には驚かされる。 この代表作が単なる「科学賛歌」であると受け止められることを大変迷惑がっていた。技術革新によって人類の未来が繁栄し幸福を生む。そんな皮相なビジョンを掲げているのではないことをエッセー「アトムの哀しみ」の中で書いている。 自然や人間性を置き忘れて「進歩のみをめざして突っ走る科学技術が、どんなに深い亀裂や歪みを社会にもたらし、(中略)人間や生命あるものを無残に傷つけていくかをも描いたつもりです」という。 確かに今、核の拡散や大規模な自然破壊など現代人が抱える問題は数多い。科学技術の進歩は人類の生存さえも脅かす。北朝鮮の核問題をめぐる六カ国協議が再開したが、核放棄への道筋さえなかなか見えにくい。手塚さんの危ぐした世界が続いている。 手塚さんは明るい未来を描くには、想像力が必要だと語っていた。暗い現状を全部洗い出すことで逆に進むべき「明るいイメージ」を描くことができるという。十八年前の2月9日、手塚さんは他界した。http://www.kitanippon.co.jp/左利きの日「左」は英語でレフトというところから「02・10」(レフ・ト)を読んで2001年に命名。世界的な「左利きの日」は8月13日とされているが、日本ではお盆と重なるため、この日が選ばれた。ふきのとうの日「2・10」(ふ(きの)・とう)の語呂合わせから、宮城県古川市の特産品を販売する店「ふるさとプラザ」が1993(平成5)年に提唱。雪解けと共に顔を出し、春の訪れを告げるふきのとうを“早春の味”としてPRしようという日。ニットの日「2・10」(ニッ・ト)の語呂合わせから、1994(平成6)年に日本ニット工業組合連合会が制定。まだ寒いこの時期、ニットのよさをもっと知ってもらおうという日。ふとんの日「2・10」(ふ・とん)の語呂合わせから、全日本寝具寝装品協会が1997(平成9)年に制定。
2007.02.10
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幼いころから宇宙飛行士にあこがれ、海軍士官学校を経て大学院で航空工学を学んだエリート中のエリート。3人の子供がいるのに男性宇宙飛行士に好意を寄せ、事件を起こした。昨年7月、初めてスペースシャトルに搭乗し宇宙飛行士としてはコース通りだったが、人の道は完全に踏み外した。http://www.cnn.co.jp/science/CNN200702080024.html 誘拐未遂容疑での逮捕後、ナイフや金づちなどの所持品から第1級殺人未遂罪で訴追されたものの、2万5500ドル(約300万円)で保釈された。“凶悪犯”の保釈そのものが意外で、保釈金もずいぶん安い。 所在確認のため衛星利用測位システム装着を義務づけられたが、日本では殺人未遂の容疑者の保釈など考えられない。 米国では先日、俳優のライアン・オニールが息子と口論して発砲しながら、5万ドルですぐに保釈された。これも日本では考えられない。しかし、裁判になると日本は刑が甘いといわれる。「殺人未遂は日本ではふつう懲役10年程度。米国では終身刑もあるが、実際は懲役20年ぐらいではないか」と、日大大学院(刑法)の板倉宏教授は話す。とんでもない女性宇宙飛行士の“非行”のおかげで、米国の司法制度とのギャップには改めて関心を引かれる。漫画の日 1989(平成元)年のこの日、漫画界の巨匠、手塚治虫が亡くなったことから。「鉄腕アトム」や「火の鳥」など数多くの名作は、子供向けの娯楽とされてきた漫画を日本の文化として確立させた。ふくの日「2・9」(ふ・く)の語呂合わせから、1981(昭和56)年に下関ふく連盟が制定。下関では河豚(ふぐ)を“ふく”と発音し“福”とつながることから縁起のよい魚とされている。この日とは別に、9月29日が「ふぐの日」、10月29日が「とらふぐの日」。服の日「2・9」(ふ・く)の語呂合わせから。1991(平成3)年に全国服飾学校協会などが制定。衣類への関心を高め、服を着る楽しみを広げようという日。日航機“逆噴射”事件[1982年] 福岡発羽田行きの日本航空DC8型旅客機が着陸寸前に突然失速し、滑走路手前の海上に墜落。乗客・乗員174人の内24人が死亡、150人が負傷する事故となったのが1982(昭和57)年のこの日。後の調べで、事故原因は“心身症”の機長が、着陸体制に入っていた状況で突然、着陸後に行うべき“逆噴射”操作を行っていたことが判明。ボイスレコーダーには「機長、何をするんですか!」という副操縦士の声が記録されており、コクピットの中でも機長の異常な操縦に慌てる様子が残されていた。事故後、生き残った機長の事故責任が問われたが、精神分裂症と診断され不起訴となる。この時話題となった“心身症”とは、過度の心理的・精神的ストレスが原因で起こる身体的症状のことをいう。http://www.sanspo.com/
2007.02.09
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イタリア北部のマントヴァ近郊で、5000─6000年前に埋葬されたとみられる抱き合った男女の遺骨が見つかった。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070207-00000154-reu-ent.view-000 発掘調査チームの責任者、エレナ・メノッティ氏は、「これまで新石器時代に2人一緒に埋葬された例はもちろん、こんな風に抱き合った形で発見されたことはなく、驚くべきケースだ」と語った。 同氏によると、埋葬されていた2人は男女にほぼ間違いなく、彼らの歯がほとんど原型のまま磨耗もしていないことから、未確認ではあるが若くして死亡したとみられるとの見解を示した。 同氏はまた、ロイターに対し「遺骨を発見した時、われわれ全員がとても興奮しました。私はこの仕事を25年間続けており、ポンペイをはじめあらゆる有名な遺跡の発掘に携わりましたが、これほど感動したことはなかった」と述べ、今回の発見がこれまでの発掘をしのぐほどの特別なケースだと説明した。 [ローマ 6日 ロイター] マントヴァ市は、イタリア北部の都市ミラノから東に約149キロにある人口約6万人の街。都市中心部の周囲を3つの湖が囲み、豊かな土壌と水利に恵まれた穀物の集散地として栄えてきた。街中にはルネッサンスの建築様式を残す建物が数多くあり、歴史深い都市としても知られている。「ポンペイが滅んだ日」 西暦79年8月24日、昼過ぎ・・・時代の予兆とともに、ヨーロッパ唯一の活火山・ヴェスヴィオス火山が大噴火しました。イタリア・ナポリの南東に位置する港町「ポンペイ」(城壁に囲まれた小さな町、当時人口2万人)が、三日三晩降り注いだ火山灰に部厚く覆われ、歴史の舞台からその後18世紀半ばに発掘調査されるまでタイムカプセルのように封印されるという天災が発生しました。 ヨーロッパはネロ皇帝死後のギリシャ・ローマ時代、日本は弥生時代にさしかかっていました。ポンペイは当時ギリシャからローマの支配下に置かれ、ローマ貴族の保養地として、また地中海貿易要衝の商業都市としてこの世の活況を呈していました。上下水道が完備し、ローマ法が生活の隅々にまで行き届いた町でした。
2007.02.08
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6日夜、東武東上線ときわ台駅構内で起きた事故。http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20070207/mng_____sya_____011.shtml 危険と隣り合わせの職業とはいえ、「死んだっていい」と命を断とうとした女性を救って、自らが重体に陥った。53歳の警察官の勇敢な行動には頭を下げるほかない。世の中、まだ捨てたものではないと希望を与えてくれたのが救いだ。 そんな折、プロボクシングの現役、元選手らを対象に、警視庁が15日に初めて採用説明会を開くという記事が目にとまった。激しい練習や過酷な減量で心身ともに鍛えられ、警視庁にとっては望ましい人材。 日本ボクシングコミッション(JBC)にとっては、毎年700人以上が引退する選手の再就職支援につながる。両者の呼吸が合って、既に約50人が出席を申し込んでいる。JBCの安河内剛事務局長は、こう話す。「ボクサーは、どんな困難な場面に追い込まれても決して逃げ出さないことを、普段の練習や試合でたたき込まれている。東上線のような事故に遭遇したら、本能的に助けにいくだろう。体力とともに、精神力の強さは警察官という職業に必ず生かせるはず。」 命がけで職務を遂行した警察官がいる半面、不祥事も枚挙にいとまない。検挙率とともに警察官の質の低下が危惧されるいま、ボクサーから責任感の強い、頼りがいのある警察官が生まれ、育つことに期待したい。針供養 この日と12月8日に行われる行事で、折れた針を豆腐やこんにゃくなどの柔らかいものに刺して神社に納め供養する。この日は針を休めて、裁縫の上達を願うとされる。 郵便マークの日 1887(明治20)年のこの日、逓信省(後の郵政省)のマークが決定したことから。当初は逓信の“テイ”から、甲乙丙丁の「丁」とされたが、万国共通の料金不足表示「T」と混同されてしまうことから、逓信の“テ”をもじった「〒」となった。http://www.sanspo.com/
2007.02.08
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周防正行監督の「それでもボクはやってない」痴漢冤罪事件の報道を見て興味を抱き、監督自身が法廷取材などを重ねて作り上げた映画だ。満員電車で痴漢に間違われた若者が、取り調べや裁判で無実を訴える過程を丹念に描いている。 警察署の取調室は幅2メートル、奥行き6メートルほどだろうか。外から中をうかがえるドアスコープと、側壁には引き戸で隠されたマジックミラーがある。灰色の机といすが寒々しい。 健康診断の聴力検査室に入ったような感じで、とても落ち着けるような場所ではない。逮捕されると、留置場から取調室に移動するたびに手錠と腰ひもをかけられる。手錠はひと昔前、鉄製から軽い合金製に変わった。たとえ無罪でも心は重くなること間違いない。 富山県警に婦女暴行容疑で逮捕された男性が無実だったことが分かった。刑事部長は「裏付けが不十分だった」と反省し、富山地検検事正も謝罪した。時既に遅く3年の服役後となった。失われた時間と悔しさは筆舌に尽くせぬだろう。 なぜ否認し通せなかったのか、と通常は考える。しかし、相手はなだめすかして落とすプロなのだから素人はビビッてしまう。調書をとってもそうだ、簡単に取調官の思うままに不利なほうに歪曲されてしまう。テレビの中の取り調べとは別物なのである。 何も知らない人は警察に言えば解ってくれるという教育を受けてきたがそれが間違いなのだ。 犯人の目撃証言でも、例えば「犯人が通り過ぎた」と発言すると「犯人はあたりを物色しながら通りすぎた」と犯人がとても不利に変化してしまう。強く訂正しないと流されてしまうそうだ。 映画の中でも出てくるが、日本の刑事裁判の有罪率は99・9%という。無罪判決は1000人に1人の割合。捜査機関の優秀さを示す数字として使われる一方で、そこに裁判の問題点をみる指摘もある。 周防監督は「『疑わしきは罰せず』という刑事裁判の原則があるが、実際にはそうなっていない」 映画では弁護士が奮闘するが、富山の冤罪の場合、判事や弁護士が謝罪した様子はない。百件以上も事件を抱えるのが普通だから時にはミスもある、と考えているのだろうか。ルーティンワークで人の尊厳が傷つけられたらたまらない。http://www.the-miyanichi.co.jp/
2007.02.07
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本来は北方四島が日本、樺太(サハリン)と千島(クリル諸島)がロシア(ソ連)領だったけど、日露戦争の勝利によって日本は樺太の南半分と全千島列島を得る。しかし第二次大戦終戦直前、ソ連がどさくさ紛れに参戦し樺太と千島列島を占領。 サンフランシスコ講和条約により日本の領土は明治初期の状態(小笠原・沖縄を除く)にリセットされるが(後に小笠原と沖縄はアメリカより返却)、ソ連は樺太と千島列島の返却が条約に盛り込まれていない事に不満を示し、調印を拒否。よって千島列島と南樺太は、国際法上帰属が曖昧なまま今に至っている。 日本としては、樺太と千島は元々ロシア領として認めていた土地でもあるので、ロシアに委譲するのは吝かではない。しかし北方四島だけは、樺太と交換する形で日本領とする取り決めをしたことはあるが、一度たりともロシアに委譲する旨の取り決めをしたことはない。 スターリンのソ連による終戦直後の四島不法占拠は、北朝鮮の拉致事件と同様の国家犯罪である。しかし、2等分論などの跋扈(ばっこ)や相次ぐ不作為の背景には、政府や国民の間で戦後一貫して国家主権と国益が蹂躙され続けているとの深刻な歴史認識の風化がある。 四島から追い出された旧島民約1万7300人が現在、半分以下に減った中で、返還運動の原点である根室の市民(出身者も含む)約100人が30年ぶりに6日、都心でデモを行った。http://www.sankei.co.jp/北方領土の日 1855(安政元年)のこの日(旧暦12月21日)、択捉・国後・色丹・歯舞の北方4島を日本に帰属することを確認した「日露和親条約(下田条約)」が結ばれたことから。4島の返還運動を盛り上げようと1981(昭和56)年に閣議により制定。長野の日 長野冬季オリンピックが開会された日を記念して1998年に制定。長野オリンピックの理念が「自然との共生」だったため、オリンピック後の長野の自然を考える日と位置づけた。
2007.02.07
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食品の期限表示には、「消費期限」と「賞味期限」の2つがあって、おおむね5日以内に腐りそうな生菓子とか弁当などには「消費期限」が付いている。これに対して、スナック菓子とか即席めんなどに付いているのは「賞味期限」。いずれもメーカーが設定するものだ。 つまり、似たような食品でも、メーカーによって“期限”が違う。“期限”が過ぎたことに騒ぐのなら、“期限”が適正かどうかの議論も必要なのである。 食品衛生法とJAS法に基づく賞味期限は「定められた方法により保存した場合において、期待されるすべての品質の保持が十分に可能であると認められる期限を示す年月日」と定義される。 「あくまで目安なので、わざわざ『当該期限を超えた場合であっても、これらの品質が保持されていることがあるものとする』という定義もしています。消費期限が設定されるナマモノは期限が過ぎると食中毒などの恐れがありますが、賞味期限の方は切れたらすぐに腐るというものではない。文字通り、おいしく賞味できる期間の目安なのです」(農水省関係者) 賞味期限の場合、自分の“目”で確かめて大丈夫なら、それほど神経質になる必要はないように思える。 「食品の期限表示は国によってもまちまちで、とりわけ日本は短い傾向にあります。期限切れの食品を使ったり売ったりするのは大問題ですが、不二家の場合、それを隠そうとした隠蔽体質が問われている。そこを履き違えないことです」(経済ジャーナリスト・岩波拓哉氏) 騒ぎが大きくなれば、メーカー側は賞味期限を延ばす。これも善し悪しなのである。http://www.gendai.net/
2007.02.06
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世界ウルルン滞在記より 美食の国フランスで、老若男女を問わず大人気なのがフランス語で「Choco lat(ショコ ラ)」と呼ばれるチョコレート。特に、口の中でとろける一口サイズの「ボンボンショコラ」は、町のチョコレート専門店の花形です。 チョコレート専門店がありますが、とりわけパリは世界に冠たるチョコレートの激戦区。19世紀より続く老舗から、斬新なアイデアで注目を浴びる若手新進ショコラティエの店までが勢揃いし、舌の肥えたパリっ子のシビアな評価を受けながら切磋琢磨しています。その牽引役として頂点に君臨するのが、高級店が立ち並ぶフォーブルサントノレ通りに1977年オープンした「メゾン・ド・ショコラ」。 創業者ロベール・ランクス さんは、お店の地下で日夜チョコレートの配合や材料の組み合わせの研究に没頭し、次々と新しいボンボンショコラを生み出しました。最高の材料と高度な職人技によって芸術品 のように作られる「メゾン・ド・ショコラ」のボンボンショコラは、フランスのチョコレート業界を刷新し、その名声を確固たる位置に押し上げたのです。 パリで毎年行われているチョコレートの見本市では、チョコレート製の洋服や小物で身を 飾ったファッションショーも行うなど、続々と新たな試みを始めている「メゾン・ド・ショコラ」。工房の職人が腕によりをかけて作る様々なチョコレート製のオブジェは、パリっ子の眼も舌も満足させています。一粒250円以上するそうです。 ショコラティエ(チョコレート職人)は手が冷えるので子供には嫌がれるそうです。 フランスでも飲酒運転の取締りがきびしくなっているためノンアルコールワイン・シャンパンが人気です。日本でも販売しおります。<ラ・メゾン・デュ・ショコラ 丸の内店> 住所:東京都千代田区丸の内3-4-1 新国際ビル1階 <ラ・メゾン・デュ・ショコラ 表参道店> 住所:東京都港区北青山3-6-1 ハナエモリビル1階 http://ururun.com/(レシピあり)※あの衛生管理は、不二家でも見習ってほしいものです。
2007.02.06
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ロシア・黄色い雪 ロシア・シベリア地域のカザフスタン国境沿いのオムスク地区では悪臭帯びる黄色い雪が降り、一部の住民はこれによって、頭痛が生じ、具合が悪くなったと訴えた。情報筋によると、黄色い雪は1月31日より降り始め、住民たちは初めての黄色い雪に興奮し、珍しいと騒いだ。しかし、黄色い雪から腐敗臭が放った時に、住民らは慌て始めたという。中央社が伝えた。 黄色い降雪はカザフスタン国境内で、世界で最も頻繁に衛星や宇宙船ロケットを打ち上げしている発射ステーションのベイカンノ・ロシア宇宙センター付近で発生しため、さらに、オムスク州など5地区がロケット飛行航路の下方にあることから、ロケットから排出された廃棄物と黄色い降雪との関連を懸念された。 情報筋によると、地元当局は住民に対して、雪溶けの水を使用しないよう警告を行い、住民およびペットらの室外での活動を控えるよう呼びかけた。地元当局の緊急事態部門によると、約1500平方キロメートル範囲で、約2万7千人が影響を受けるという。ウクライナ・インフルエンザ流行 ウクライナ首都のキエフからの情報筋によると、1週間前からウクライナでインフルエンザが流行り、全国で4万5千件の症例が出ており、深刻な状態に陥った。 ウクライナの西部から東部地方において、インフルエンザが相次いで発生したという。これに対して、ヨーロッパ各国に隣接する州都市において、2月5日より小中学校を暫時的に休校にしたという。 情報筋によると、インフルエンザは炭鉱生産地域より発生し、全国ですでに4万5千件の症例が出ており、患者の多くが児童であるという。地元のウイルス専門家によると、今回の勢いの猛烈なインフルエンザの流行ピークは2月中旬から3月初頭であると警告した。鳥インフルエンザ関連 英国イングランド東部・サフォーク州の農場で、七面鳥2600羽が突然死し、欧州会議委員会は、高病原性鳥インフルエンザ(H5N1型)の感染であることを発表した。英国環境食品および農村地方事務部は、付近の農場の七面鳥16万羽の処分を予定しているという。ここ10ヶ月内で、英国イースト・アングリア地域における鳥インフルエンザ感染事件は、今回が2度目。今のところ、人が鳥インフルエンザに感染した症状の発生は出ていないという。 ナイジェリア保健当局は先月31日、女性が鳥インフルエンザ感染によって死亡したと発表。英ロンドンのWHO指定機関が実施したテストで同感染死が確認された。アフリカで家禽(かきん)から毒性の強いH5N1型ウィルスが検出されたのは、人口の最も多いナイジェリアが初めて。アジアでは韓国、中国、香港、ベトナム、インドネシアで高病原性鳥インフルエンザ(H5N1型)の感染確認。http://jp.epochtimes.com/jp/海苔の日 海苔の生産の最盛期を迎える時期であることと、701(大宝元)年のこの日(旧暦1月1日)に制定された大宝律令で、海苔が地諸国の物産として年貢に指定されたことから、1967(昭和42)年に全国海苔貝類漁業協同組合連合会が制定。抹茶の日 愛知県の西尾茶創業120年を記念して販路拡大のため、茶道で釜をかけて湯を沸かす道具の「風炉(ふろ)」を「2・6」を語呂合わせして命名。
2007.02.06
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「余の辞書に不可能の文字はない」と豪語したナポレオンにも、勝てなかったものが2つ。遠征先のロシアの冬と、胃のピロリ菌という。科学誌ネイチャーの記事だ。フランス皇帝の座を追われ、大西洋の孤島で死んだのが1821年。毒殺説が根強かった。新たに米、スイスなどの研究者が遺体解剖記録を分析、死因は胃がんと見立てた 胃に10センチ以上の潰瘍(かいよう)があったと分かり、位置や形状から慢性のピロリ菌感染がうかがえたそうだ。感染者は胃潰瘍の発症リスクが10倍、胃がんでは5倍―とは厚生労働省の研究。ナポレオンも例外ではなかったらしい。菌は胃の幽門部にすみ、粘膜を傷つける。発見した豪の医学者2人がノーベル賞に選ばれたのは2年前。胃酸が強烈な胃には菌などおらず、ストレスや喫煙、遺伝などが胃・十二指腸潰瘍の主たる因―と長らく考えられた。その常識を覆した 『吾輩は猫である』で胃弱の苦沙弥先生にわが身を映した夏目漱石も、胃潰瘍に悩んだ。やはりピロリ菌感染が濃厚な一人。日本消化器学会によれば、日本人の半数、特に40代以上は大半が感染者という。今は薬による除菌治療の道が開かれた。ピロリ菌退治に有効とされる乳酸菌入りヨーグルトも普及している。http://www.kahoku.co.jp/ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)1769年8月15日 コルシカ島アジャクシオ生まれ 1789年のフランス大革命により幕を開けた、世界史上でも最も激しい時代を駆け抜けた皇帝ナポレオン。 大西洋のセント・ヘレナ島で彼が栄光の生涯を閉じたのは、1821年5月5日午後5時49分のことである。夏目漱石 本名「金之助」。筆名の漱石は頑固者という意味の故事「漱石枕流」から来ている。 慶応3年(1867年)1月5日 東京生まれ 胃潰瘍を最後に発病したのは大正5年11月22日。その後10日あまりの闘病の後、親族と門下生に見守られ12月9日午後6時45分、近代文学の支柱たる文豪漱石は息をひきとった。死後漱石の遺体は、東大医学部解剖室において長与又郎医師の執刀によって解剖が行われ、その時摘出された脳はいまでも東大医学部に保存されているという。長崎26聖人殉教の日 1596(慶長元)年のこの日、豊臣秀吉のキリスト教弾圧により宣教師と信者ら26人が長崎県立山で磔となって処刑されたことから。26人は、1862(文久2)年に、時のローマ法王ピウス9世によって聖人に列っせられた。
2007.02.05
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