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今朝のテレビは毒入り餃子の話題で持ちきり。そういえば…と、わが家もこの話で盛り上がりました。じつは「最近餃子がおいしくない」と言っていたばかりでした。手作りの餃子?いえ、このところ手間ひまかけたお料理からは正直遠ざかっております。で、冷凍のものやチルドの餃子を買ってきて食べるわけです。簡単ですからね。ところが口にした途端、「ん?まずい」。がまんなどいたしません。台所に行ってぺっ。もちろん、それと気づかれないようにですけど。以降、大皿の餃子には手をつけず、ひたすら食べている夫に任せていました。まさか毒入りだなんて、思わないでしょ。旦那はおいしいおいしいと食べています。私はもともとケモノ臭い肉が苦手で、それは偏食の類だと自覚しているので、こっそり「ぺっ」するのでした。(女)あれも、もしかしたら「毒入り」だったかもね。そういえば、何だか薬臭いと思ったこともあったわ。塩素?(男)そうだよ。ぼくだけ食あたり起こしたことがあったじゃないか。あのとき君は食べなかったんだ。(女)そんな一気に跳ばないでよ。一を聞いて十を知ったつもりになるのは、わが夫婦の得意技。これから当分餃子は食べないでしょうね。冷凍の加工食品も右に同じ。それにしてもちゃっかりしたスーパーがあるものです。昨日庭で薪割りしているととなりのゆきちゃんが来てこう言いました。「○○スーパーで冷凍食品半額セールやってるよ。チラシには載ってなかったのに。△△店だけだって」「うちは冷凍庫がいっぱいだから」と行かなかったのですが、考えてみれば「おや?」ですね。毒入り餃子のニュースが全国をかけめぐる前に、冷凍食品を売っ払ってしまえ!と大号令がかかったと考える方が自然でしょう。地元に一つしかないこのスーパー、いつも何やら怪しげでね。米国産牛肉を国産と偽っている、と私は見ています。はっきり色と様子が違うものが、いつの間にか国産になっていたのです。あのBSEが一度解禁になって、再度禁止されたあたりね。なので、ここの挽肉は買いません。それから夫の大好きなハンバーグが食卓にのぼらなくなりました。このように、名探偵明智くんばりの嗅覚と観察眼のわたくし!今回のような事件があるとますます鼻高々です。賞味期限より自分の嗅覚を信じるあたり、非常に原始的なのですが、この原始的というのはなかなか役に立つ。このご時世にあって、むしろ希少価値のようです。ニュージーランドの食べ物にしても、最後までなじめない味がありました。最初はその匂いが鼻について、食欲がなくなるくらい。夫さんは、「そんなことないよ。ぼくは外国の食べ物に慣れているから」と威張っていたのですが…。(何でも威張りたがる旦那。半世紀前の外国体験の話ですよ)どうやらある種のハーブが、かの国では料理に当たり前に使われているらしい。その味になかなか馴染めない。身体が拒否するわけですね。どの料理を食べても私の言う違和感を感じない夫。毒入り餃子の話が出てからは、遂にシャッポを脱ぎました。「原始的な本能って大事だよ」そうよー。あなたを生かすも殺すも料理人のわたくし次第ですわよー。台所を預かる主婦の値打ちがまた上がりましたね。動物的嗅覚や触覚がこの食材はもうアウト!と判断するのですから、そりゃあたいしたものですよ。そうそうエストロゲンの話。うつ病に関係あるホルモンでしたね。この女性ホルモンの減少がうつ病と関係があると。女性にうつ病が多い理由の一つに上げられていました。これを私はまさに実感いたしました。感動によってエストロゲンの分泌が活溌になるんです。ほんと、こんなにくっきり現れるのかしら。元気になるための自己投資を惜しまないことにしましょうね、ご同輩。「子孫に美田を残すな」という文言はよく耳にしましたが、はじめて「その通り!」と思います。残すほどの資産があるわけではないのですが、子どものためにン万円…なんて考えないで、旅行しましょう。感動ゲットの旅。遠慮なく敢行いたしましょう。子どもが貧窮生活しているのに…とためらっていたのは過去のわたくし。子どもには「達者で留守」の親がベストなのです。お金を使わずしんみり暮らして、子どものあれこれを心配ばかりしている親は、百害あって一理なし。心配ばかりされて子どもが育つとは思えません。親はあてにならん、と子どもが諦めたとき自立は始まります。ね、私の子どもたち。母さんが元気で留守だと、うるさくなくていいでしょ?原始的でわがままな女は、決して「悪」ではありませぬ。
2008年01月31日
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ただいま!ーなんて、遅すぎますね。25日の夜遅くわが家に無事帰り着きました。それなのに、気がつけばはや一週間が経とうとしていました。おみやげ話も、昨夜ようやく母にせがまれて少しだけ。もちろんこの日記も真っ白なページのままでした。なぜかしらね。おしゃべりする必要を感じないくらい満たされちゃった…というのかな。手前勝手な話ではありますけれど、そうみたい。なので、疲れているとか風邪をひいちゃってブログの更新が遅れたのではありません。ご心配なくね。今回の旅行では、少々のおしゃべりでは語り尽くせないような膨大な量の情報と感情の貯金ができました。身体で手に入れる情報は二次元の情報をおもいきり凌駕するものですが、それを目の当たりにしたのでした。私の身体の細胞が記憶したさまざまなイメージや匂いや質感…。これを貯金と言わずして何と言いましょう。傑作なのは、未だ夢のなかで私はニュージーランドにいます(笑)。写真を含め本格的なみやげ話は、後日ウェブ上のアルバムを作成して公開する予定ですから、しばし、うーん、春が来るまで(?)待っててね。(顔の公開は一部に限定)とりあえず、今現在の私のきもちを少しだけ。行ってよかった。なけなしのお金をはたこうという夫に渋々同意したのでしたが、正解!二重丸の選択でした。よく市場の活性化という話の際、もっと消費を喚起せよと言いますね。市場も人間も同じように生きているということ。私という人間が、消費行動によって(欲望の解放によって)、明らかに活性化しました。辛抱して、切りつめた暮らしも美しいですよ。無い袖は振れないのも確か。でも少し勇気を出せば、狭い空間での禁欲生活の施錠を解くことは可能なのでした。満たされると人はまず自分に寛容になり、次に他人に寛容になります。皮肉っぽい物言いとかが激減します。だから、やりたいことをやればいいのです。世の中とか世間とか、狭い場所で気遣いばかりの暮らしをしていると、寛容な心を失うものです。同じ理由から、福田さんも橋下さんも、倹約倹約なんてやりすぎないでね。民が欲望をほどよく解き放てば、世界は活気づきます。元気は欲望と関係が深いのでした。欲望とはいのちの源にあるものですからね。おっと、脱線しました。これでいいんだ、わたし。ニュージーランド行きの収穫は、まずこれでした。私の生き方、私の現在、すべてよし。こんな完璧な肯定感はひさしぶりですね。いや、過去にあったかしら。自分を否定し続けたこの10年でしたから、まあひさびさ…。欲望全開のつけ(としての歳月)を取り戻したのかもしれません。その間にずいぶん年もとりましたけど。いいのよ、それで。私は私を許したようですよ。狭い田舎の狭いわが家に閉じこもって「ヨシのずいから世間をのぞく」でしたから。いかに眼前の海が広々としていても、現実はそうだったのね。世界は多様性に満ちている!これが、第一印象でした。寒くなってきました。そろそろストーブのそばに行きますが、一つだけ。新しい私が顔を出しました。もしかしたら、私が彼を誘惑した?こんな切り口の出現は、私が私を許した証拠でしょう。現在の夫である彼とつきあい始めたこと、二人で食事をしたある夜でした。何かの拍子に目の前の彼が、椅子から立ち上がりました。「ぼくも行く」と言って。その姿をくっきり思い出したのです。私が何か言ったことに対する反応です。週末に小旅行をするとか何とか、私がしゃべったのでした。子どもも夫もいる女が、ですよ。すると彼は、その言葉に弾かれるように立ち上がって、「ぼくも行く」と言ったのでした。しみじみ思います。悪い女ですね、わたし。誘っているじゃないですか、はっきり。こんな記憶がよみがえったのも、良いところも悪いところも私。それでいいのよ、いいじゃないの、と許した証です。周りの多くの人たちを傷つけたことは謝らなくちゃならないけれど、少なくとも今後、私がこうなったのはあの悪い男のせいだ、とは言わないでしょう。そうありたいですね。私自身が満たされていること。これが害悪を流すのを最小限に食い止めるために必要なのです。帰ってきてすぐ、うれしい新聞記事に出会いました。夫婦喧嘩をするほうが死亡率が低い。不当な攻撃を我慢すると死亡率は倍になる。私には都合の良い記事でした。あちらでも、しっかりケンカいたしましたからね。夫より私のほうが、外国とか異文化圏に対して構えがないのです。「図々しいんだ」と夫は言いましたが、初の海外旅行なのに非常に自然体だったと、ほめていただきました。ふふ。彼は真面目で正しくありたいと思う人なので、やや緊張したのかな。私たちのケンカは、言ってみれば彼の緊張による八つあたりが発端でしたから。異国の地では、私と夫の気質の違いもとてもよく見えました。どちらかというと、私の方が大陸的なのですね。狭いエリアの価値観に自分の身体をあわせる事が苦手なのと裏表。夫はそちらのほうが得意です。こんなアナーキーな私が、狭い田舎とがちがちの夫に縛られて暮らしているのですから、嗚呼。何ごとも我慢しすぎるのはよくないです。これからも、海外に出ますよ。そのためにお金を調達したい(ほんとはね)。私が仕事をしたいと言うとき、「ばんばん働いてお金をもらってけちけちしない生活がしたい」が本音でした。この本音をねじ伏せて、つまり夫が私の仕事を嫌がるからね、殉教者のようになっていました。もう殉教者は返上するわ。少しでいいから、フローが欲しい。そして、したいことをする。行きたいところに行く。もう買いたいものなんかない。と、死ぬのを待つばかりだった私が、まだ欲しいものかあったのです。こんな幸せはありません。ずっと海外旅行未経験でよかったかもねえ。それにしても!団塊の夫婦らしき旅行者の多いこと。ちょっとね、びっくりでした。私たちもその中の一組?とは、あいにく思っていません。ふふ。旅の終わりは、新たな始まりでした。
2008年01月30日
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いよいよ出立です。寒い寒い冬のニッポンから、平均気温22度のニュージーランドの夏へ。娘には、田舎モードで行かないように、とのメールがきた。そんなにぼうっとしてないつもりだけど。それに、夫さんがいるから大丈夫かな、だって。こりゃこりゃ、夫さんは私を頼りにしているんだってば。娘にはどうもそうは見えないらしい。ま、いいか。わが母上は「いいなあ」と少し羨ましそう。もう少し若いときにヨーロッパなんかに行った人なんだけどね。「今度は(行ったことがないという)ハワイにでも一緒に行く?」とメールしたら、「わあうれしい! 思ってるだけで幸福です」とすぐに返信がきた。そうね、そろそろ私も親孝行しなきゃね、と思ったことであった。息子もいろいろアドバイスをくれて、気持ちよく母を送り出してくれる感じ。それぞれがそこそこ充実した暮らしぶりだということだと、とても嬉しい。というわけで、心おきなく楽しんできます。ますます元気になって(あるいはへたばって)、一週間後帰ってきますよ。それまでみなさま、アデュー!
2008年01月18日
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隔世の感…。こんなとき使う言葉ではないけれど、そう言いたいくらいの気分。今朝フジテレビでDV防止法改正のニュースとその周辺のルポをやっていた。加害者更正プログラムが必要であること、その施設が少ないことなど問題提起の域を出ないものではあった。へえここまで来たんだ。が、私の感想。つづいて、かたわらで静かにテレビを見ているわが夫の、過去と現在を頭の中で比較した。そして、隔世の感…なのである。「自分の暴力は、妻が自分を怒らせさえしなければ、あり得ない」と、テレビでは元?DV夫が語る。ここで番組のキャスターたちは「え?」という顔をする。そう、そこなのよ。私は膝を打つ。このDV夫たちの問題はその一点に凝縮されている、と言ってもいい。自分の暴力は自分に源があるのではなく、相手に原因がある。彼らはそう言うのである。自他未分化というのか、おかあちゃんのへその緒がまだくっついているのか!と言いたいくらいの、精神的未成熟。私の夫もかつて同じセリフを言った。社会的には成功した部類の60過ぎた男が?と思われるだろうが、そんな男は、紳士と呼ばれる人の中にもわんさといる。私は夫に言った。「自分の感情くらい自分でコントロールしてよ」怒りは誰のものでもないあなたの感情なのよ、ということを私は言ったのである。相手が何をしようと怒るか怒らないかはあなた自身なの。それをすべて妻のせいにして「お前が悪い」と片づけてよしとする夫たち。「そうよね、私がもっと良い妻になれば…」と反省する妻たち。こんなカップル、見渡して見れば周りにけっこういるのではないか。この暴力がセックスと分かちがたく結びついていることも、この元DV夫の言葉の端から透けて見えた。そうなのよね。誰も声を大にして言わないことだけれど、完璧に繋がっている。相手を力で組み伏せて泣かせてから行うセックス。ある種の人たちにはこれが快感となる。SとM。「私、Mだから」なんて軽々しくいうもんじゃない!じゃあセックスって何なの?ね、それほどに根が深いのである。日本の行政も警察も対応が遅い、とキャスターの小倉氏は言う。アメリカではDVは犯罪です、と大きな文字がテレビに映る。「日本の警察はまだまだ難しいね」と私。「そう、日本の警察は家庭内のことに踏み込まないからね」と夫。どこまでも自分のこととは関係ない一般論にしたがるのである。いいよ、一般論で話そう。だって彼は今耳が遠くなっているという現実を私に指摘されて、なかなか受け入れないで抵抗している人なのだ。やっつけても収穫はない。アメリカがイラク攻撃を決めたとき、正義が悪(=フセイン)をやっつけると拍手した人は多い。これってね、「正しい」人は「悪い」人に暴力をふるっていいということだ。戦争したがる人はこの種の人たちです。すると自分は「正しい」と思い込んでいる馬鹿者が無茶をすることを許すことになる。自分は正しいのかどうか分からない、とふにゃふにゃしている人は、案外暴力をふるわないのである。意外と思われるだろうが、そうなのよ。で、うちの夫は、私の影響で「相対的」な物の見方をするようにはなったけれど、いつの間にか「正しいことは絶対だ」の場所に戻ってしまう人。そうしないと自信が持てない。そうでないと自分で立っていられないらしい。いいわよ。あなたがあなたらしくいられる場所に戻って、あなたの「正しい」ことを信じて。「ただ、力で私を組み伏せようというのはやめてね」これが私のメッセージ。そこで彼は戦術を変更した。(相手によって戦い方を変えるとは、敵ながらあっぱれだ)懐柔作戦? あるいは福田総理と同じ「しがみつき=クリンチ?」作戦か。これに徹した彼は、とことん私に尽くしてわが心身を甘やかしてくれている。よって、円満な夫婦になった私たち。(私のお腹の贅肉も洋梨状になった。これが私の自己犠牲でなくて何だろうね)しかしである。もしかしたら困難を極めるDV解決の、一つのモデルケースではないか、なんて自惚れてもいるのよ。そういえば信田先生に皮肉られたなあ。皮肉を言われたのはカウンセリング中、この一度だけだったと記憶している。私が「夫に言いました。私はあなたを尊敬し続けたいの、って」そう言うと先生は、すかさず「しっかり調教してください」と言葉を返した。意外な反応に面食らって、「私、人を教育するとかは苦手なんですけど」としどろもどろ。この答え自体、間違いだったのかな。いや、きっとそうだ。私もじつは力で相手を組み伏せたい人だった…。なあんて、ひどいオチ。
2008年01月16日
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やさしさは相手にわからないようにするもんだーーbyがばいばあちゃん。施しは相手にそれと分からないようにするものだーーby内田先生。ここで言う相手に分からぬようにする「施し」とは、夫が妻に「食べさせてやっている」というときの態度と対極にある。まったくね。「食べさせてやっている」とは何ごとぞ。ケンカの揚げ句に言ったとしても、この言い方はと取り返しのつかない傷を作る。これに納得行かなくて仕事に出た私が、その流れで家を出てしまった。そんな事態につながるほど、大きな意味を持つ言葉だから、世のご亭主さまたち、呉々もお気をつけて。翻ってわが旦那はここらはわきまえていて、「俺の年金で食べさせてやっているのに」なんてはしたないことは、決して言わない。そんなこと言おうものなら、私は即家を飛び出す。いや、そういうケースで何度か家出を実行した。その繰り返しで、彼は学んだとも言える。アピールをしてきたから、彼が成熟したのだ。(もちろん逆もある)怒るべきは怒ること。食べさせる=施しを行う、では会っても、相手にそれを気づかせない心遣いが肝要だってこと。昨夜、「あなたはそれができている!」と半ば冗談で夫に言った。すると予想以上に彼は歓喜した。「わかるの? え、わかってるの?」「ええ、そりゃあもう、私十分分かってますよ」で、円満ハッピーな夜となった。最近ずっとそうだな。あ、朝ご飯だから、これでね。
2008年01月13日
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雨の土曜日。まったりと過ごしている息子と電話で話す。海外で使える電話とかマイレージとか、今回はいろいろ教えて貰って助かった。子どもに教わるのはなかなかいい気分。それだけ子どもが大人になったってことだもんね。昨日のアマゾンのカードのことも、息子はあっさり「銀行系は審査が厳しいからね。母さん、収入がないからだよ」と一言。あ、そうか。さすが息子ね。クレジットカードのおかげで散々な目にあっただけに、なかなか詳しい。それに、息子に言われるとすんなり納得するものだ。「母と息子というのは、特別なんだよ」と夫が言う。「私が死んだ後に、息子は思うのでしょうね」と私。夫は思いきり笑った。『吾亦紅(われもこう)』という歌は、泣かせる。私は息子ではないし、母はまだ生きている。それでもぐっときて知らず涙がこぼれ落ちる。母に謝りたい、と歌手は歌う。私のように親不孝な娘には切実なフレーズだ。きっと母が死ぬまで、面と向かっては謝れないだろうな。息子だってそうだ。私が死ぬまで謝ったりはしないだろう。親に心配をかけた出来の悪い子どもというポジジョンで、私と息子は同類だ。だからこの歌に、泣ける。弟はどうかな。メールで訊ねてみたが、返事はない。でもわかってる。今の弟の行動は、母への思いを十全に物語っている。雨のせいだ。ちょっとおせんちな私。今夫は、ニュージーランドのホテルにメールを打っている。もちろん英語で。ああ、頼りになるわ。釈先生と内田先生が「施し」について語っておられたが、施しを受けたくない度合いが強い人ほど、苦しみが深い。そんなことを思った。
2008年01月12日
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薪割りが楽しくてしかたがない。まさかり(斧?)を振り上げ、目標を定め、えいっと振りおろす。パーン。パッカーン。あるいはスッカーン。スッコーン。カーーーーン。実に心地よい音で薪がまっぷたつに割れ、宙を舞う。得も言われぬ快感。じつに爽快である。青い空と澄んだ空気の中、薪割りの音だけが響くのだ。薪割りって、こんな気持ちいいことだったの?わが夫は、かくも愉快な作業を一人楽しんでいたのか。というわけで、今私は薪割りに熱中している。パソコンの前より庭を優先している。なんとも快感に忠実な人間なのだな、と自嘲の笑みを浮かべながら。しかし誰に気兼ねすることもない。好きなことを好きなようにして生きる。薪割りを私が始めたのには理由がある。夫が「五十肩」(70歳過ぎているのにね)になった。右肩が上がらない。こういう理由でもなければやらせてもらえなかった。「危ない」「危ない」と斧を持たせてはもらえなかった。寒がりのお婆さんが孫に厚着させてかえって虚弱児にするのとおんなじだ。彼は私にじっとしていて欲しい。こたつに丸まっている猫みたいにね。そんなのいやだ。ぶくぶく太って動けなくなった愛犬たちの晩年の悲惨さを見よ。飼い主の身勝手な愛情が、ペットたちをいかに苦しめているか。愛犬家の皆様、ご一考あれ。自分を慰めるために相棒を苦しめていいのか。なんて夫相手に気色ばむことも、最近はなくなった。飼い主(?)さんが少々弱ってきたのか。薪割りは無理と思ったか、敵は「薪を買う」と言いだした。ちょちょっと待ってよ。わが家の家計責任者としては黙っていられない。ただ(無料)のものが一気に有料となるのだ。そんな予定外のこと。薪ストーブにするって言ったときから、こうなることを予測しないではなかった。石油ストーブの大きいのを二つも買えばこのだだっ広い部屋も暖まるかも、と思った。しかし急な話だ。灯油はばんばん値上がりしている。薪ストーブを諦めるのは早いんじゃないか。そこで渋々「薪割り私もやるわ」とあいなった。面倒だな、いやだな。怠け者はぶつぶつ言いながら腰を上げた。ところがどっこい、やってみると楽しいではないか。こんなことならもっと早くしゃしゃり出ていればよかった。さて、先日調達してきたサクラやクスの丸木はおおかた割ってしまった。また取りに行こうよ、てな気分である。それに、薪割りは身体にいい。腰を据えて両足踏ん張って斧を構える。けっこう腰に負担がかかるが、腹筋もつくかもしれない。なにより汗をかく。ほんと、汗が出るのだ。冬なのに。これもまた嬉しい。なんだなんだ。運動神経は鈍いと決め込んで、アウトドアは拒否していたはずの私が。「少しは上手になった?」なんて隣の奥さんに笑われても、平気平気。「おっ、うまい!」「いい調子!」と一人心の内で満足なのである。新しい技術を身につけることが、こんなにも嬉しいなんて。新しい自分を発見したようないい気分である。じきに飽きて放り出すだろう、って?さあ、どうかな。何はともあれ、いくつになっても「成長」するってのがいいんだね。ただただ滅びていく身である、と思うと悲惨だもの。
2008年01月11日
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やっと正月気分が抜けました。永らくのご無沙汰をここにお詫び申し上げます。な~んてね。お気に入りのブログを訪ねることもできず、もちろん自分の日記の更新もなし。書きたいことは湧き水のようにわが脳味噌から溢れておりました。それなのに…ねえ。ここ(寒い寒い北向きの自室)に来るのが億劫で億劫で、私のお尻は薪ストーブの焚き口近くにへばりついておりました。ところが昨日今日と外に出ると、ふわっと春の匂い。単純素朴な私の脳は、わあもう春だ!と思い込んでしまっているようです。ニュージーランド行きが近いので、焦るダンナに急かされて用事が立て込んで参りました。なんだかんだ言っても私に頼っているのね、と優越感に浸る余裕までできた、ありがたき正月でありました。さて。「一人では生きていけない能力」とかの本を内田先生がお出しになる由。(題名の記憶は確かではない)一人で生きていける能力を身につけようという方向にばかり向いていた人々を、こりゃ!と振り向かせるおつもりでしょうか。いや大歓迎であります。だってね。今の亭主と結婚して以来、必死で築いてきた「自力で生きる能力」の数々が、ざるからもれる水のように底なしに失われている私なんです。この喪失感は、年老いていく人々が等しく(?)感じるものなのでしょう。何をやるにも夫が手を出す、口を出す。そんなこと一人でできるわよ、と何度言ったことか。言ったところで彼には通じません。なぜなら、私を「自力で生きる」女にしたら自分が困るんですから。私が彼なしでは生きていけないようにする、これが彼の無意識の深謀遠慮。例えばたった今、私は洗濯物を抱えて外に出ようとする。たたたたっと駆けてきた彼は、戸を開けて私の手助けをする。「かえって邪魔なんですけど」と言っても笑って意に介さず。ほんとに邪魔なだけなんだけどね。このように私が一人で十分出来ることに、わざわざ手を出してくるのです。これじゃあ私、一人では生きていけなくなるわ。何度思ったことでしょう。しかし、内田先生恐るべし。こんな私の不安を、短いセンテンスで吹き飛ばしてくれました。一人では生きていけない能力。これは、渡辺某先生の「鈍感力」と似た逆転の発想かしら。あるいはもっと前に、赤瀬川さんの「老人力」?どちらも世の中的にはマイナスと受け取られているものを、あえて「力」と名付けようというあまのじゃく的励ましですね。しかし内田先生の場合は、もう一段も二段も深い(たぶん)。ただただ老人を励まそうなんて動機ではなく(ご自分を励ます意味もあるのかもしれないけれど)、今の社会や人々への警告が含まれているのでしょう。ああ、読んでもいないのに勝手な「読み」をしてご免なさい。とにもかくにも私は、この「一人では生きていけない能力」を、今着々と身につけているぞ、と言いたかったのです。これは年を取っていく過程で、むしろ必要な能力ではないかと思ってはいました。ただ、とってもわがままな私は、この能力が低い。この能力を育てるのは、想像以上に難しいのです。独り暮らしがいいわ、という母をはじめ、他人でなくとも人と一緒に暮らすのは大変なのです。自分の好きに…が出来ないのですからねえ。典型的な、そしてどうしようもなく「一人では生きていけない男」と暮らしながら、私もじつはこの能力を身につけつつあることに気づかされました。「一人では生きていけない」ことを自覚することは、他人に対する配慮無しには生きていけないことを知ることなのですからね。うちのダンナさんは、明確に自覚なさっていますね。「自分で決めた」この生き方、そして相方である私を、決して手放さない覚悟のようであります。そんなことを感じた正月でした。ああ、もう下で彼が待っています。薪がなくなったので、山へ柴刈り(?)です。
2008年01月08日
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