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感情というのは納豆のネバネバのように、簡単にスパッとは切れないもんだ。というわけで引き続き、コミュニケーション不全に陥らないための処方箋。もちろん、まずは自分自身に対して。日々答えは変遷するが、今朝の答えはこれだ。漫然運転は事故のもと!これ以外にない。私の場合ね。運転に慣れてくると、漫然と運転してしまいがちだ。そうすると、ほら、事故ったりする。初心者マークを付けているころ、あるいは初めての土地での運転では、殆どこういうことはない。程よい緊張感を持ちつつ運転するからね。※「運転」は、人との関係と置き換えて読んでください。「慣れ」がいけない。慣れた道を走ると、ハンドルを切るのも無意識なら、ブレーキ、アクセルも習慣化する。時々、ひゃっ!とすることがないと、危ないですね。人間関係もドライブも、ここはやや危険だと思えば、丁寧に対応するのである。先日、夫の姉からの電話に見事に儀礼的な対応をしたわたくしを見よ!相手との間の距離を縮めることが、危険に繋がると知っていれば、完璧なドライブができる。なんてったって、用心深いし、運転が上手ではないことを知っているのだから。夫婦間、あるいは家族間でのトラブルが多い理由は、この漫然運転が背景にある、と私は思う。漫然運転の会話というのは、始まりもなければ終わりもない。相手に何を求めているかとか、結論はこうだとか、まあヘーゲルの弁証法なんてのとは無縁の世界が繰り広げられる。おしゃべりとはそういうものだけどね。緊張感もなく、発せられた言葉にただ反射するような会話が続く。そう、脳を通らずに、ただ筋肉反射するように会話が進む。すると…。コミュニケーション不全、つまり行き違いが生じるのである。これがいわば「事故」。正面衝突、あるいは一人相撲の物損とか。大けがや命にかかわるものでなければいいようなものだけれど、できれば、事故は避けたい。運転、すなわち、人間関係で不調を感じたら、もしや漫然運転ではなかったか、と自らチェックしてみましょう。そうすると、以後、事故で怪我をすることも減ると思う、よ。相手を見て、つまり道路事情や車の状態を確認した上で、ドライブしましょうということ。相手も見ず、走り慣れた道だとばかりに、鼻歌まじりで運転していると、ほら!ほんと、相手を知るって大事ね。それはつまり自分を知ることだから。ドライバーの皆さん、お互いに気をつけましょうね。おっと、運転に過剰に緊張する人には、私の処方箋は不適ですからね。念のため。内田先生のブログに、人を見る目=直観について書かれていたのでちょっと追記。「こういう状況でこういうことを言っていた人間」が「それとは違う状況」に置かれた場合にどのようにふるまうかについての先行事例の膨大な情報の蓄積がこちらにあれば、数年後のその人の表情や口ぶりくらいは簡単に想像できる。私たちは根拠にもとづいて「推理」しているのである。ポランニーはこれを「暗黙知」と呼んだ。フッサールは「先験的直観」と呼んだ。ホームズは、ワトソン君に促されてこう言う。「ちょっと『ひっかかったこと』とがあってね」その「ひっかかり」を手がかりにホームズは真相を明かす、動かぬ証拠にたどりつく。ホームズが「ひっかかる」のは、そこに「あるべきものがない」か「あるはずのないものがある」からである。はじめて立ち寄った現場で、ホームズは「あるべきもの」と「あるはずのないもの」の膨大なリストを瞬間的に走査する。今、現在の私にまるで援護射撃をしてくれるような文である。感激! いえ、そう言いたいだけデス。とはいえ、私にこの種の、いわば原始的な直観があることを、もっと認めてやろう。なんてことを思った。内田先生の応援を得てね。私の推理にしても直観にしても、どこか世間から嘲笑されているような感じを持っていた。でもね、本当は、そういう「感じ」が当たることが多いの、私。この人、私の前とそうでないところでは、全く違うことを言ってる、って。それは時系列的に集めた情報を整理すると、ちゃんと出てくるのだ。ただそれをもって、あなたとつき合いたくないというのは、大人げない。この「大人げない」部分に、いつも反省するのである。ここ数日の、コミュニケーション不全などと、自虐的な文を書き連ねたのは、ぶっちゃけて言えば、そのような直観と推理に自信が持てなかったためである。しかし私が漫然運転事故のもと!と解決策をみつけたら、ねえ、内田先生の応援が待っていた。こんなうれしい流れはめったにない。真摯に考えて、一人でね、目途が立つというのは、いいことだわ、ほんと。
2008年11月05日
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「底の抜けたかめに水を注ぐがごとき虚しさ」について昨日、日記に書いた。その続きを今日書く。と言っても昨日の分は削除してしまったけれど。今、テレビで森三中の村上知子さんらが口にしていたワード。「上から目線」に、私のアンテナがぴぴっと反応した。三人組のお笑いさんの彼女たちの、誰が上で誰が下か、傍目には分からない。しかし彼女たちは、お互いに「上から目線」の物言いを拒む。「あら、そう言うあなたこそ、上から目線じゃないの」といった具合に。これである。今、どんな人も「上から目線」の物言いに反発する。年上の人だろうと、先輩だろうと、上から目線のアドバイス(そう、このアドバイスというのを特に嫌うようだ)をとても嫌がる。プライドばかりが肥大した人々が増えたのも、たぶん同じ理由からだろう。多くの人は他人による支配を嫌うのである。いかに未熟であっても。例えば相手の弱点を探して(そんなことは簡単だからね)、相手を引きずり降ろして、同じ地平に立とうとする。自分の経験からよく分かる。その人が未熟であればあるほど、その未熟なプライドを守ろうとするためか、上から目線のアドバイスを拒否する。どうも自分のすべてを否定されたと勘違いするところがあるみたいだ。未熟なプライドとは、そういうことだよね。現実の自分を受け入れ難い。あるべき高さに自分がいないことが、逆にプライドを肥大させる。私が昨日ここに書いて削除した文章は、今日ここにまとめたことで足りる。あまりの相手の未熟さについお節介をしてしまった自分への不愉快な気分。いや、それを相手が受け入れていれば、不愉快な気分にはならなかった。相手が拒んでいることに気づかぬままお節介をしたことで、おしゃべりはキャッチボールとはならず、一方的な、割れたかめに水を注ぐがごとき事態になったということ。このあたりが私の不快感の主な原因だろう。人と話して、コミュニケーション不可に陥ると、とても疲れる。まあ、私に反省すべきところがあるとすれば、話している間に相手の拒否を察知すべきだったというところくらいだろう。そのほかは、自分に「ご苦労さま」と言ってやろう。いずれにしても、その人は今自我構築の途上にあるわけだ。であればこそ、「上から目線」を嫌うだろう。反抗期の子どものように。しかし半世紀をこえて生きてきたことが仇になった。反発を表に出すのは自分にとって不利益であると学習した結果だろう、さも相手のアドバイスを求めているかのような振る舞いをした。善意はときに野暮である。私の中の善意の人が、ここにまんまと乗っかった。まったくね。なかなかしたたかな人ですよ。聞き出すだけ聞き出して、肝心要のところは拒むんだもの。近ごろ、ハウツーだけを求める人が多いという世間のムードと、似たものを感じる。いずれにしても、おかげですっきり。「底の抜けたかめに水を注ぐがごとき虚しさ」とは、反発し拒否する心を表に出さない相手と、上辺だけの会話をした結果、コミュニケーション不全に陥ったことによったのだ。「上から目線」をきっかけに、ちょっとだけ考えた朝。これからまたテープ起こしだ。このところ忙しいな。
2008年11月03日
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もう10月も終わり。あっという間の10月だった。人の出入りがあると、このように私はブログを更新する時間がなくなる。どうしてもしなくてはいけないことを優先すると、当然だけど。とはいえ、ずいぶんブログには助けてもらっている。時間ができたら、またゆっくり書き付けようと思う。妹夫婦が母を連れてきてくれたおかげで、集中親孝行ができた。つもり。わが夫さんも、今回は完璧にもてなしてくれたね。その後、バラの咲きが悪いのでご機嫌がいまひとつ。相手が私だけとなると、正直に表情に出る。それでも私は言い続ける。「なんか、怒ってるの?」すると彼は見事に、不機嫌を返上し、マナーがよろしくなる。そう、夫婦間でもマナーは必要なのよ。彼に問いかける一言が大事なようだ。おっそうか、自分は今不機嫌な顔をしているのか、と気づかせる役目である。しょうがないわ、まただ、なんて諦めて放っておいては、問題は先送り。親切に言ってそしあげるべきなのである。もちろん、言葉を発するということは、反撃の可能性も予測しなくてはいけない。ねえ、なかなか緊張感のある暮らしでしょ、老夫婦にしては。ほどよい緊張と弛緩、これが理想。そういう意味では、外の世界から、つまり娑婆からの訪問者は大歓迎だ。娑婆とはやはり若さに価値を置く社会であるらしい、なんてことを改めて知るしし機会だから。とにもかくにも、今日、明日と、まだ忙しい。夫のバラの展覧会である。そりゃう協力しなきゃ。私の母たちにあれだけやさしく接してくれたんだからね。なので、ゆっくりブログは、もう少しあとで。
2008年10月31日
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自己チュー人間は、ボケと鬱へとひた走る!?年を取ると体が硬くなるのしどなたもご承知のとおり。しかし硬くなるのは体ばかりではないぞ。そう、脳ミソも固くなる。老人性の抑鬱とか、痴呆などは、私に言わせれば固くなった脳の段階の違い。(相変わらず大ざっぱですみませんが)老人介護の経験もないまま自らの老いに直面する日々を送っている60歳の私。その母が80歳で、なかなか元気にしている。しかし本人の申告によると、どうも最近抑鬱に傾きがちのようだ。時間を守るとかの事柄がやけに気になる。悲観的になり、自責傾向が強くなっている。具体的な話を聞いていると、ははあんと思い当たった。近々、妹夫婦に伴われて(一人で来るのは不安だと言う)わが家へやってくる。これはチャンスとばかり、おいでいただいた上で親孝行する予定。私にできるのは、脳のマッサージだ。で、先ほど気づいたことを実行に移す。つまりね、年老いた人は、道を歩いていても、車を運転していても、常ならぬ状況の前にパニックになるでしょ。思わぬ障害物につまづいて転倒したり、飛び出してきたウサギをよけられず崖下に転落したり。これはね、やはり不測の事態に対処する柔軟さが失われているということ。体ももちろんだけど、やっぱり脳。イレギュラーな事態に対応するのはいつだって簡単ではないけれど、年を取るまま放っておくと深刻な状況が訪れる。母の抑鬱というのか、気にしすぎというのは本人もやや過ぎていると感じている。話すことより聞くことのほうが、脳をよく使うと聞いたことがある。なぜなら、話を聞くためには、いつも自分が使っている脳の範囲を超えることが多いからだ。つまり脳の行動半径が広がる。逆に話すことは、自分がいつも使っている脳の部分を何度も叩くようなもので、広範囲に活性化することにはならない。新規な出来事、不測の事態を適度に生活に織り込むことが、脳の機能低下の予防になるというわけだ。適度、というのが難しいと反論されそうだな、うちの母親に。例えば母は自ら老人会の班長を引き受けた。当時はしゃきっとしてなかなかいい、と言っていた。ところが抑鬱に傾くと、良いような悪いような、だと言う。少し負担がかかり過ぎているのかもしれないが、母には期待しよう。呆けたくない、寝たきりになりたくない。そう言い募る母に提案をしようと思う。気ままな独り暮らしの母ではあるが、出かけていく先々で交友はある。しかしどうもこの手の交友、一定の時間だけ集まってじゃあね、と別れるアソシエーション的な交友は、自分に都合のいい脳を使うことに終始しがちである。歩き慣れない始めての道を歩く、ことにはならない。母の愚痴を聞いているとと、そのあたりがよく見えてくる。忙しい妹に頼りたいのは分かるけれど、どこまで頼るべきかのさじ加減がわからない。忙しい妹にはメールを送り、自分が頼みたいことのぎりぎりを依頼して返事を待つ。都合がつかないときはそれなりに対応する。切羽詰まった用事は別。このくらいのマナーは親子でも持ちたいものだ。私が妹に対してやっているようにね。このことを母は「あんたも気を遣ってたいへんだねえ」と言うけれど、全然。この程度のことで気を遣うというのは、ちょっと違う、いや大いに違う。生活のリズムも違うのだから、配慮はあって当然なのである。相手の出方にあわせて柔軟に対応するというのは、やさしいようで難しい。自分はここまではやるが後はいかようにも、というゆとりが必要だからだ。お金にはゆとりがないが、時間にゆとりがある私は、時間はいくらでも相手に合わせるとかね。自分が主体となって周りをコントロールして生きてきた人ほど、このやり方は難しいのだろうか。聞く能力をむしろ育てたほうが、人間関係うまくいくんじゃないか。今の人はとにかく表現したがる。話したがる。人のこと言えない。私もしゃべりたがり、自慢したがり。だけど一歩引いて考えると、しゃべりたがりの人にしゃべらせて、しかもきちんと聞くという作業を続けると、かなり脳は達者になる。そう考えて、自分のエネルギーを「聞く」役割に少し注ごうかと思った。母の老いを見ながら自分の老いの準備、ということ。もちろん、母が来たらそのあたりの話もしてみようと思う。新規なものに好奇心が強い母である。きっと抑鬱気分を解消する何かを感じてくれるだろう。遠く離れて妹に母をまかせっきりだけれど、私にもできることはあるのよ、というお話でした。不測の事態に対応する能力を身につけるには、自己チュー返上が一番!おわかりかな?これって、年寄りだけの話ではありませぬぞ。
2008年10月18日
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ブログは記録でもあるので、書き留めておきたい。カラオケで泣いた事件以来、私は久しぶりに夫と腹を割った話をした。いろんなアドバイスが耳に残っていて、あまりに近すぎる関係はまずいとばかりに、夫と一定の距離をとることにしていた。つまり何でもかんでもしゃべらないとかね。一心同体ほど恐いものはない、という話も納得だし。だからと言って、話せることも話せず疑心暗鬼を内に秘めて暮らしているのは馬鹿馬鹿しい。まあそんなことを考えて実行に移したというわけではないのだけれど、この数日でずいぶん話をした。そして分かったことがいくつかある。夫は私が彼を怖がった一件のディテールを覚えていなかった。サルサのことは一言も言ったことがないと言いきった。そんな。サルサのことから蛇か蝎になったような嫌がらせを言ったこと、忘れたの。そう、忘れているのである。彼の中では、今後一切私がフィットネスに行くことに関して何も言うまいと決めた、という自分の決意としてのみ残っていた。それは彼の記憶の隠蔽だから、はっきりそう言ったけど、彼が納得したかどうかは分からない。ただ私が彼を怖がっていることは分かっているらしい。そのことが彼と私の生活に暗雲を招く。だから彼は私のフィットネスに関しては「見ない言わない聞かない」に徹しようと決めたのだ。その態度こそが私に恐怖につながる何かを直感させるというのに。サルサの件で別人になったことを、夫自身が分析していた。その数日前、彼はバラの会に突然乱入してきた60歳の男に闘争心をかきたてられていた。乱入といっても、殴りかかったわけではない。ただ夫の自尊心を傷つけるやり方で接近してきたのである。リタイアして間もない男の側にもそうなる理由があった。海辺で静かに隠遁生活を送っている彼の前に現れた中年男。退職したばかりで身の置き場に困っていた男は、現実の社会をひっさげて夫の前にやってきた。夫の闘争心に火がついた。社会にあって常に闘う人であった夫の闘争心は半端じゃない。この男は、その後グループから「正当なやり方で」はじき飛ばされてしまった。正当なやり方で、というところが夫の凄腕である。そのような闘争モードにあったから、私にとばっちりがいったのだろう。夫はそのように妥協案を提示した。私はそれを呑んだ。そんな感じはしなくもなかったしね。それに夫は私を怖がらせるようなことはするまい、と努力している。闘争心に火がついたおかげで、彼は半歩ほど社会に身を乗り出して活動を始めた。それも私への異様な嫉妬あるいは執着を緩和することになった。だから私はこの人を見直したのである。なかなかやるじゃない。ところが、先日わが家を訪ねた友人は、どうも私の話を信じていない様子である。私のほうに問題がある、と見ている節もある。彼女の現在の立ち位置からしてそうだろうなとは思う。娘にしても、夫がそういう性格と分かっていてサルサをやるなんて言うから、と言い放つ。私としてはここで「サルサ」が必要だったと言うしかない。サルサをきっかけに彼の怖さを今一度味わわなければならなかった。そして再度ノーと言う必要があったのだ。自分の「爆発」がどれほど人を恐怖に陥れるか、夫は知る必要があった。先日来の話のなかでは、そのあたりを冷静に見ていた。彼が一旦「敵」とみなした相手には、たとえ女性だろうと氷のような態度で接する。無視することも厭わない。徹底しているのである。「そんな年をとった人に、きつく言わないでね。あなたが怒ると怖いんだから」と私が言うと、少し抑えるふうが見えるようになった。私の言い分(私から見た彼)を少しであれ認め、受け入れているようである。半年前の事件の収穫である。その一件のとき、私はくだんの友だちに電話をした。もう滅多なことでは電話しなくなって久しいが、このときばかりは助けを求めた。「ウソをつくな、ごまかすな」と詰問され、冷たい拒否にあい、ほとんど殴られ続けたようなダメージを心身に受けた。この状態を、私は夫の豹変に脅えたと言い、おそらく夫は妻がヒステリーを起こしたと言うだろう。見方というのはそういうものだ。しかし「怖い」と感じた私は、現にここにいる。それが間違っていると言われて、人は生きていけるのだろうか。かつて夫はそう言い募った。私が病んでいると決めつけた。同じような見方を、じつは今回友人も娘もしたように思う。今の私がとても明るく快活だから。現在の夫がやさしく柔和だから。あの一件について娘は言う。「母さんが抜けているからだよ」友だちは…。そこここでもらした言葉をまとめると、どうも「何ぜいたく言って」というところだろうか。この反応は、私自身おぼえがある。人のことは言えないのであるが。じつは助けを求めたくせに私は彼女に「その後」の説明をしなかった。電話で聞いた話の端々から分かってもらえないな、と感じたからだ。しかしその一件のあった翌日にたまたま会った地元の友人は、私の様子の変化に驚いたと言う。彼女を証人としなくては、私自身が崩れていく。周りの誰もが私の感じた恐怖を否定するとしたら。私は狂うしかない。だから証人がいる。そういうことは現に起きたのだから。一人の人間に寄り添うのは難しい。知らず、自分の価値観で相手を裁いてしまうのが人の常である。苦境にある人を目の前にしたとき、評価や裁定の目で見るより、寄り添うのが一番だと実感する。今回は意外なところで夫が私に寄り添って見せた。友人はカウンセラーではあるけれど、あえて評価の目で私に刺激を与えた。そういう意味のある人々との出合いで私は今ここにいる。夫の自尊心の憤怒、あるいは闘争心の爆発、その行く末やいかに。
2008年10月17日
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暇な女はしゃべらずにいられない。愛さずにいられない、なんて歌があったよなあ。レイチャールズやプレスリー。わが夫の十八番はプレスリーのほう。英語で書こうとしたがコンマ?が見つからないのでやめた。やめられない止まらない的タイプであるから、私。私と夫は12歳も年が離れている。それなのに、いやそれだから(だろうな)、私は彼に負けじと突っ張りたい妻、のようである。彼も負けず嫌い、だから私も負けず嫌い。相手が張り合わなければ、こちとらだって張り合わない。攻められる恐れが皆無ならこちらから戦争したりはしないものだ。何ごとも相手あってのもの。このごろ思うけれど、私の相方はたしかに私の何十倍も勉強した人だ。体を壊すくらい勉強したみたいで、知識の集積は見上げるばかり。歴史、特に現代史など私は全く歯が立たない。仕事にしても半端じゃない精進をした人だ。そのあたりは認めている。ただね、少々過去の栄光自慢する癖がある。自己顕示というのか、「俺が俺が」が目に余ることがある。彼の過去の仕事や努力を消してしまうほどではないが、まあがっかりなのだ。しかしこの「俺が俺が」は、ある種の人には魔法のように効果がある。「スランプは?」と記者に聞かれて「悪いことが起きたら人のせいにするタイプだからない」と言ったノーベル賞学者のようであれば、私は得心がいく。自慢話にはオチが必要だと思うから。悪いことが起きたら人のせいにしがちな人なのである。わが夫も。しかしノーベル賞の方と違って、自分をクールに突き放して見るということがない。ノーベル賞さんと比べるなんて、私の要求レベルが高いの?そんなことはないよね。ノーベルさんでなくとも、自分をクールに見る目を持っている人は多い。お笑いの人たちはそういった知性を持った人たちじゃないのかな。私なりの知性の定義は、自分を突き放して見るもう一人の自分を持っていること、のようである。今思ったので、ようである、である。で、何の話?そうだ、私が「偉そうに」したがるわけについて。夫が「偉そうに」私を従えようとするから、私もどこかで「偉そうに」したくなるのである。周りを見渡して偉そうにしたがる女性がいたら、まあだいたい年の離れた亭主がいると思うわ。偉そうにされた人は、自分もそうしたくなるの。そうう相手を必要とするのよ。だってバランスとれないでしょ。いつも「参りました」ばっかりやっているとね。いつだったか精神科医の小田晋さんが言っていた。「お笑いのボケのほうがストレスかかるでしょうね」と。たとえバカなふりであっても、人の自尊心というのは苦しむのである。そう、何を書きたかったかがわかったぞ。自尊心ってね、死ぬまで残る最後の砦。砦というと聞こえがいいけど、じつはとても厄介な代物だったりする。ほんと、豊かな時代になって自尊心もダイエットが必要なのかもしれないね。みーんな、自尊心肥大だと思う。私もその一人だから、「偉そうに」したいのだ!ちぇっ、この厄介な自尊心め。なんて言うと、この自尊心くんは怒るのよねえ。自尊心の怒りは、怒りなんてもんじゃない。爆発だよ。爆発するからゲージュツも生まれ、犯罪も生まれる。ああ自尊心!昔「ああ結婚!」という映画があったな。というわけで、私のブログ日記は自尊心調整装置。当分止められそうにない。私の自尊心は死ぬまで共に生きるつもりのようだから。
2008年10月17日
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夜中に映画を観た。 隣に寝ている夫がごそごそと起き出したので目が覚めた午前2時。 夫がチャンネルを合わせたのは「コレクター」という古~い映画であった。 聞いたことのある題名だなあと思いつつ観る。 とても有名な、何度も映画化されたテーマではなかったか。 それも実際に起きた事件をヒントにしたものでは? それはともかく、現代のストーカー殺人という病理の前駆症状を見せてくれるような映画だった。 映画人というか犯罪者は、一足先に時代を表現するもののようだ。 美しき美大生をクロロホルムを嗅がせて誘拐した男の異常性がこれでもかと描かれていた。 男が女を誘拐し、穴蔵に閉じこめる。 しかし閉じこめていることを除けば、見事に丁寧なもてなしで尽くすやさしい男である。至れり尽くせりである。 男は社会に適合できない自分を知っており、 ピカソの絵を間にして、世の中が認める価値というものに異議を申し立てる。 女とのコミュニケーションは、時にこういうかたちを取った。 「ぼく」を認めない母親に怒りをぶつけるように。 「ぼく」を認めない母親への愛憎相半ばする思いがあったのか。 社会に適応できないということは、社会が自分を認めないということだ。 男の自尊心は限りなく肥大していた。 最近そんな人間が増えたね。 男は片思いのストーキングを続け、思いを募らせる。 彼は女を所有したいと思った、たぶん。 だからさらった。 相手の自由を奪った上で、ひざまづく男。 相手が屈服の姿勢を見せるや、憎しみを爆発させる男。 お前は娼婦かと罵る男。 どこかで聞いたようなセリフ、どこかで見たようなシーンだ。 男は自分の思い通りになる人形であることを、女に求める。 人形はセクシャリティを持ってはいけないというのである。 あれこれのやりとりがあり、精神の均衡を失った女はついに死ぬ。 最後のシーンでの男の独白が秀逸。 「自分の失敗は高望みしたことだ。小賢しい女を選んだのが間違いだった」 そう言いながら次の標的と思われる看護婦の後を追う場面で、映画は終わる。
2008年10月10日
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本日は八重粉さんの投稿です。昨日わたくし、泣きました。涙って、止めようとしても止まらないものですね。わがまま放題で、言いたい放題。感情も表に発散し放題。もともと自由奔放、天真爛漫。他人様からはそう思われているわたくしでございます。我慢強いなどとは自分でも思っておりません。でもねえ、昨日泣いたわたくしを振り返ると。かなり堪えていたのでしょうか。呑気に生きているように見える人も、気丈に見える人も、クールに見える人も、いえ、そういう人に限って案外…。どこで泣いたかって?カラオケを歌いながら、です。歌が歌えなくなるのですね。泣いてしまうと。音楽が、いつも閉じられている涙のドアを開けたのでしょう。そういつもは閉じられているのです、涙のドアは。泣いちゃいけない、泣き言を言うまい、なんてしっかり鍵をかけていたなんて。自分でもびっくりいたしました。きっかけはあったのですよ。例によって六さん、わたくしのご亭主でございますが、口論をいたしました。喧嘩というのはどっちもどっちでございますから、売り言葉に買い言葉。揚げ句わたくしの自尊心がいたく憤慨いたしましてね。そういう感情の応酬があったのでございます。怒りの度合いがわたくしの方が勝っていたのでしょう。じきに鎮まった六さんのようなわけにはいかず。歌っているうちに、こみあげてきたのでございます。号泣などいたしません。亭主の前で号泣するといったデモンストレーションの涙ではなかったのですから。六さんに背を向けて、泣いているのを悟られぬよう必死でございました。でも、やっぱりばれてしまいましたわ。涙で声が震えますものね。すると六さん、何を思ったか、おもむろに立ち上がり、肩を抱きにまいりました。紳士でございましょう?わたくしはするりと身をかわし、彼の手を払いました。情け無用でございます。あなたとは一切関係ございません。「~飾りじゃないのよ、涙は~」中森明菜さんの歌も歌いました。井上陽水の作る歌は、好きですね。「煙が目にしみる」などは3回も歌ったかしら。そうやって、夫婦でかわりばんこに歌いながら、わたくしは一人、わが身を愛おしみ続けておりました。有に3時間を超えて。喉が疲れましたわ。いつもなら二人の思い出の曲「ケセラセラ」を歌うのですが、昨日はあえて封印いたしました。六さんもそれに気づいておりましたけれど。今思いますに、わたくしの毎日が、役割に、つまり妻という役割や母という役割です、仕事も同じですよね、こちらに傾きすぎていたのでしょうか。六さんの気に入るわたくし、に傾きすぎていたということでございます。そうすることは、役割を演ずるわけですから、当然自然な感情はドアの奥にしまいこんでしまいます。知らずさまざまなことを諦め、恨み言ももう言うまいと心に決め、六さんの妻に徹している日々だったのでしょうか。それなのに、とっても幸せ、泣いたりなんか、わたし、必要ないわ。「わたくし」が少しばかり酸素不足を訴えたのかもしれません。もう一つ、きっかけがございました。娘の怒りでございます。職場で理不尽な仕打ちをされたと電話をかけてきた娘が、わたくしの感情のドアを開けるきっかけになりました。娘というのは、やはり自分の体の一部、もちろん比喩的な意味でございますが、なのですよ。娘が怒っている話を、わが身の痛みのように感じたのでございます。ああこんな苦労をさせて母であるわたしに何ができるの。娘と同時に友人が久々に訪れました。外の世界が一気にわが家に入り込みました。心地よい風だわ、と思っていたのでございましたが。無意識はめまぐるしくわたくしと友人を比較しておりましたね。友人も同様でしたでしょう。わたくしが持っているものを彼女は持っていない。彼女が持っているものをわたくしは持っていない。羨ましがるのは大人げない。どうすることもできないものだから。そんな思いを言葉にすることなく、わたくしと友人は別れました。早々と引退者となった自分に言い聞かせる呪文のようなものは、なんとか身につけておりました。「富や財産や情報や権力を持つ者のみに価値があるわけではない」といた呪文でございます。でもこれが「酸っぱい葡萄」だなんて。言ったのはブログのオーナーですけれど。呪文は、涙のドアの向こうには届かなかったようでございます。隠遁者の庵はまだまだ堅牢とは参りませんでした。柱につかまって、涙が止まるのを待ちました。六さんがいたおかげで、涙も節度を保つことができたようでございます。すっきりした顔で、夕暮れの町を帰りました。夫婦二人、仲良く。それにしても、かちかちになった鉢の土がほっこりしたような心持ちでございます。土を耕して空気を入れたら、それまでしみこまなかった水がすーっと入っていきますでしょう。そんな感じでございました。六さんは、「ぼくが泣かせたんだろう。可哀想に。ごめんね」とご機嫌です。おほほ、ご機嫌ですのよ。可哀想、って言われてもねえ。「同情するなら金をくれ」とは申しませんでしたけど。わたくしが泣いたのは、六さんをご機嫌にするためではなかったのですよ、もちろん。でもねえ、殿方というのは、やっぱり女の涙がお好きみたい。弱々しい女を助ける男、泣いた女の肩を抱く男。そういう役回りに喜びを感じるのでございましょうか。うふふ、ちょっと陳腐な絵でございますわね。でも、六さんの思いたいように思わせておきましょう。このあたり、さすが年季の入った女でございましょう?なかなか長けてまいりましたわ、わたくし。おほほほ。
2008年10月08日
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何かというと思い出すのがイソップ。箴言というのか何というのか。酸っぱい葡萄とキツネの話でしょ?それからくわえていた肉を川に落とした犬の話でしょ?諫められるのが好きなのかなあ。昨日はめずらしく娘が電話をしてきた。会社での腹が立った話。それを聞いてほしいというのであった。いったんは、節度ある母としての対応がまずまずできた。しかし後に考え出したら心配というか、あれこれお節介したくなった。「もっと話したいことがあったんじゃない?」まあお定まりのコースである。息子との間でさんざん失敗した追っかけママの再来。まあね、娘が大人でね、「聞いてほしかっただけなんだよ」と言われて素直に引っ込んだ。素直に?いや、一言も二言も発した。私の口は猛スピードでさまざまな言葉を発するから、記憶していないものもあるやもしれぬ。余計なことであった。が、電話を切った後もなお「あれも言わなきゃ、これも…」と際限なく溢れてくる。これを「母の愛情よ(ハートマーク)」と押しつける愚は避けたい。しかしそれをしたい欲望に、どうしても駆られる。アドバイス、忠告をしたいのである。もっと言うなら説教をしたいのであろう。いかんいかん。ホント、母親とは因果な商売よの。と、自分の隠された欲望に気がついた私、いよいよまたまた新しいスタートの季節がやってきたようだ。娘に説教する言葉を考えているうちに「昇華」という言葉が浮かび、教えるためには調べようとネットで検索。まあウィキペディアでお勉強したところ、「昇華」も防衛規制のひとつとある。ぬぬぬ?今度は「防衛規制」を調べる。あらあらまあまあ。そこで「酸っぱい葡萄」と久々の対面をしたのである。「合理化」ってやつ、よくやりますね、私。亭主の妄想はこれ「投影」かあ。私が浮気するのではと疑う彼は、じつは自分がその手の欲求を持っているということ。これは、ぺぺんぺん!心理学のしの字も知らない母が、同じ事を言っていたことを思い出す。そう、亭主の妄想から逃げ出してしばらく実家にいたときのこと。消耗しきった私がはじめて母に実状を話したとき、母はそう言ったのだった。ご自分にそういう欲求があるんじゃないの?そうよねえ。彼の防衛規制の犠牲になっているというわけだ。ふん!だわ。ところで。そういった知識の断片は私の頭にも入っちゃいるが、はてさて娘に説教するには心もとない。私の「説教したい欲望」かなんか知らぬが、まあ「抑圧」された欲望は、「昇華」されねばならない。説教したい欲望=他人を動かしたい欲望ね。さて、社会的に認められた行動とは何だろう。「酸っぱい葡萄」を地で行っているかもしれないと気がついた私は、またまた動き出す。するとそれを無意識にキャッチした亭主が荒れるんだな。ホント、厄介な男なのだが、誰にもそうは見えないらしい。友人にしても娘にしても、よく働く素敵な夫と見ている。私の骨粗鬆症の原因である女性ホルモンの激減は、あるいは私の無意識の抑圧によるものかもしれないと、じつは思っている。しばらく前からね。女であることを、自分の前以外では認めない夫の手前、無意識に女性ホルモンの分泌を抑えたのではないかと。実際運動を始めて、女性ホルモンが出てきた。まさか、とお思いだろうが、ホント。まあね、骨のお薬が女性ホルモンに似せた薬だから、そういう若返りの作用もあるのかな。しかし人間の心と体は、私が思う以上に密接に繋がっている。ああ、亭主がパソコンでSOSだと呼びにくる。この後、運転してフラッシュメモリーを届けに行く。いろいろ書きたいことは山ほどあるけれど、これで一旦終わり。覚えていたら、また書きます。では。
2008年10月07日
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太陽の光とともに日常が戻ってきた。昨日は一日中雨。締め切りが昨日になっているテープ起こしを仕上げた。同窓会の座談会である。私と似たりよったりのおじさんおばさんたち。何だかね、母校愛というのは自己愛の集結なり、というのが感想。私の母校が60周年とかで祝典があるという。もちろん私には知らせなどない。消息不明の一人になっているはずだ。なにしろ住所が転々とするばかりか、姓も変わっている。地元に住み続ける妹も、わが家に一泊二日で来ていた友人ともに同窓生。一緒だったら行きたい、という風情の友人だったが、私は行かない。同窓会に行きたいと思わない。もう少し年を取ったら行きたくなるのかしら?いやいやますます偏屈な老女になって、今よりも行きたくなくなるかも。懐かしい思い出もないし、会いたい人もいない。そうそう、水曜日から娘が来ていた。追いかけるように土曜日に友人が来た。二人ともはるばる訪ねてくれたのだ。有り難い。私なりの歓迎でおもてなしをした。大仕事は寝具を全部太陽にあてて、もちろんシーツ類を洗う。心地良い眠りと、海の見える(夜はブラインド越し)風呂を提供した。お料理は、これも私の出来る範囲。日頃のたのた、ごろりごろりしている私が急に働き者になる。家中を駆け回る私を見て、心配症の夫がはらはらしながら、後をついてくる。アドレナリンが急遽出動だったのではないか。今朝、いつものように朝食をとり、いつものようにのんびり過ごしていると、ああやっといつもの私。友人は今人生の絶頂期にある(かもしれない)順風のとき。引退生活の私にはややまぶしい。現役バリバリ大活躍というばかりではない。メディアの注目を集め、お役所なども興味津々という、非常に画期的な事業を推進中である。足もとをすくわれるなよ、といったアドバイスのごときは、ひたすら走っている最中の人には馬耳東風だろう。なので、あえてしなかった(つもり)。ただ例によって円形脱毛を起こしているので、気功のまねごとをしたり、肩の凝りをほぐしたりの手当をサービス。娘にしてやるのと同じ気持ちだ。他人に映る自分というのは、いつも興味深いものだが、今回もそう。彼女は私の何に一番感心して帰ったか?私の見るところでは、3年前に会った私と比べて若くなった私。彼女はまだ60歳にあと少し。「60になんかなりたくない、年は58歳って言いたい」などとこぼす。開き直ったおばさん、ではないのである。「あなたは若い人たちに混じって暮らしているからね」とお茶を濁したが。「若さ」あるいは「太る」というワードに敏感な人である彼女が、私を羨んだ。へえ、である。たしかにね、フィットネスを始めてから体調もすこぶる付きで良い。体重は減っているわけではない。どうやら締まったようである。体が。もともと骨粗鬆症とか膝痛とかは、生活の緩みすぎが原因みたいなものだ。何もせずただ死を待つのみの生活は緩み過ぎでしょう?そこへ病気がやってきて、私の目を覚まさせた。もうちょっと「緊張」しなさいよと。ほどよい緊張が、体をしぼったのである。かたや彼女は、おそらく身の丈を超えるような場所に出向くことも多い「過緊張」の毎日。肩も首もパンパンになるはずである。頭も禿げようというものである。運動の勧めをしたら、医者にも言われたとのこと。正しいではないか。そう、運動はいいよー。「若くなった。顔も張りがある。体が締まった」そう何回も繰り返しながら、彼女は自分の多忙な生活に少し反省をしたようであった。娘にも同様の暗示を与えたつもりであるが、はてどうだったろうか。娘は一日私のフィットネスを一緒に体験したから、リアルに残っていると思うけど。働きざかりの人に労働が偏っている現状に、ささやかながら早々と引退している私からメッセージを届けたいとの思いである。息子にも届けよ、ね。私の息子溺愛話には、彼女は真っ向から不快感を示した。つまり今同居する姑と夫の関係とだぶらせたのである。へえへえ、わっかりやした! 結婚したら引っ込みやす!しかしこのとは夫がそばから私を援護した。そうなのよ、いつもいつもべったりではないのよ。などなど、いつも二人の静かな暮らしに実社会で働く二人の女がやってきて、わが家は一気に活気づいた。「あなたたち夫婦はどっちもパワーがあるわ」と友人は言ったけど、いえいえそれはあなたたちが持ち込んでくれたのよ。
2008年10月06日
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麻生さんの所信表明演説と自虐史観。毎度突飛な比較でごめんなさいね。麻生さん的思考をする人たちは、自分を省みている暇があったら前へ進め!と信じているんだな。企業のトップなど、リーダーに多いタイプ。もしかしたら、リーダーとは振り返らず、例え間違っていても前進せよ!という教えがあるのかもしれない。そんなことを思うほど、パターンにはまる。こういう人々は、自虐史観という言い方をして考えの違う人たちを非難する。これも当たり前と言えば当たり前。だって彼らは「自らを省みない」ことを信条とする人たちだから。ちょっと落ち着いてじっくり考えてみたら?なんて声は耳に入れない。ひたすら追いつき、追い越されないように、歩を進める。高度成長期の日本とだぶる。戦後復興から高度成長期までのリーダーと言おうか。自虐史観と言われるものを嫌うわけである。I´m big man!と自らを鼓舞して生きる。(おや、これってアメリカからの輸入品だよね)歴史観を披露できるほどの知識もないし、イデオロギーの話もめっぽう弱い私であるが、それでも分かることはある。この人のリーダーの資質が仮にあるとしても、それは誰にとってなのか。よーく考えると、わかるもんだ。自民党の先頭に立って、仮想敵である民主党をやっつけるぞ!と旗を振っている人なのである。闘争心、あるいは攻撃のエネルギーを持て余している人たち(何かに不満をぶちまけたい人たち)は、リーダーに自分を重ねて「えいえいおー」とやりたくなるのだろうか。そこまで読んでの演説だったとすれば、したたかだ。若者たちの鬱積したエネルギーを結集しようという目論見であったとすれば、成功したかもしれないな。思いたくないけど。若い人が、このような強気のリーダーを欲しがるのも分からなくはない。世の中に閉塞感が立ちこめてから随分長いからね。街頭インタビューで、「盛り上げてほしい」という声がいくつかあった。他人に盛り上げて貰おうなんて思わずに、自分で盛り上がれよ。私はこう言いたいのだけれど、みーんな鬱なのかしら。中年のおばちゃんまでそんなことを言う。毎日毎日お祭りの人生なんてあるわけないでしょ。地道にこつこつ生きているからこそ、祭りの花火がきれいなわけでさ。さて、所信表明演説では見えなかったという麻生さんの「やりたいこと」。本当のことはとても言えない。目的は自民党が選挙に勝つことだからね。いや、民主党に負けないことだった。国民には目くらましが必要。ここはさすが頭、手足の中山氏とはちと違う。麻生氏は、戦に特化して、演説をぶった。どんな対象に受けるかも、よく考えた上でね。まあもともと麻生さんのやりたいことというのは、頭になって人を自由に動かしたい!だった。例えば組閣のいきさつを見よ。彼は頭で、閣僚は手足だと彼は信じて疑わない。麻生さんはそれを自らアピールしたのである。中山氏の暴言はその象徴。中山氏も「火の玉になって日教組をぶっ壊す頭になってもいい」と発言し、「中国がうらやましい」とまでおっしゃった。「中国」に込められたものは、共産党独裁の国。情報統制なんでもありの、頭が偉い国。これを羨ましがる中山氏と麻生氏は同腹である。麻生氏の口からこぼれた本音が、中山氏ご本人だったと言ってもいい。そんな本音を言っちゃだめなのに、と、自らの「手足」に舌打ちしたのではないか。ご自身の失言に際して舌打ちするのとまったく同じでさ。人間には頭と手足がある。一番偉いのは頭である。そう思って疑わない人は多いけど、麻生氏はその代表。手足は頭の言いなりにはならないし、頭は体をコントロールできない。泣きたいと思ったからって、涙が出るわけじゃないでしょ。頭は体を自由になんかできない。このように麻生内閣、あるいは麻生総理率いるにっぽんを人体に例えてみると、分かりやすい。若い人たちが強いリーダーを求めるときに、頭の言うことをきいて黙々と働く手足になる気があるのか、と問うてみるといい。そんなの出来ないのに限って、強いリーダーを待望しているような気がする。リーダー=自分だと妄想しているんじゃない?自分も頭になって手足を自由に動かしたい!これが麻生支持者の本心かも。ほんと、世の中、頭がコントロールできないことが増えているのにね。アメリカの金融界の話も、それじゃないの。おっと、中山氏のような雑ぱくな思考回路に入っているぞ。かれも拡散思考が得意な人だったんだろう。しかしその能力も、耄碌するとヤバイことになる。他人の振り見てわが振り直そう。
2008年09月30日
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中山前大臣はじつにおもしろい。今朝はみのもんたの番組に生出演。こういう機会を待っていた、と当初は強気だったが、視聴者からのファクスで批判的な意見が紹介されると意気消沈していた。うちの事務所には7台も電話があるが、連日鳴り放題。よく言ってくれたという内容だ。こういう話をするときは、鼻の穴を大きく膨らませる。建前ではだめだ、本当のことをズバッと言わなくてはと力説する。戦後教育が間違っていた、と言われる御仁がである。ほうほう。この後、私もまた戦後教育の悪しき一例ですがね、てなことを自らおっしゃったら拍手したんだけどな。ご自分を客観視する視点を持ち得ない人がトップになると怖い。そういう意味では福田さんはよかった(?)建前と本音を使い分けることを、悪であるかのように言った時代があった。私もその時代を生きてきた。何ごとも本音をぶちまけるのがよい、とばかりに「身も蓋もない」ことをずけずけと言うのが流行った。野村さちよさんがブレイクして去っていったのはいつのことだったか。「本音を言うこと」を良しとして持ち上げたのは、もしかしたらテレビ?とすると、中山さん、やっぱり遅れてる。もうその時代は過ぎ去りつつあるのよ。本音をずばり言う人を使い捨てにしてテレビは生き残る。使い捨てでもいいから、テレビの人になりたかったの、中山さん?この一事をもってしても、彼の言うことには矛盾がある。戦後教育が諸悪の根源で、その張本人が日教組、というあまりにワンパターンな思考回路は、どこで誰にインプットされたのかしら。何もかも本音でぶちまけて、あらゆる場所を私的空間にしてしまった張本人が誰かは知らぬが、一人日教組だけというのはあまりに思慮がなさすぎ。だいたい戦後うん10年、政権を担当していた自民党はどうなのさ。こういうふうに、自らの非を認めず、外部に仮装敵をこしらえることで、内部の戦意を高める。こういうやり方があるのだろう。自らの内にいる敵を認めることが出来ず、外部にあえて敵をこしらえる。こういう操作を、個人のなかでもやっている。中山氏をはじめとする一群の人々は、たぶん同じことをしていると思う。わが夫がそうであったので、よく分かる。彼に「あなたの敵はあなたのなかにいるのよ」という言葉を投げつけて以来、夫は少し静かである。そういえば「日教組が悪い」とは口にしなくなった。どの時点かでかれらの頭は時計が止まっている。他人に投げかけた問いをそのまま自分に返すことなしに、時は進まない。かれらは、自分に問うことなどしない。そういうことをしたら、弱点をさらすことになる。俺は強いんだ、と思い続けるためには、自分はいつも正しいし、敵は外にあると言い続けなければならない。日本は強い国で、悪いのは中国や北朝鮮だ、と言い続けなければ自分がもたないのだ。そういう人たちが一定の程度いるということ。それが年寄りに限らないということ。自分は強いと思い込まないと生きていけない男たちである。そんなマッチョな男がいいもんかねえ。どこかで侮辱されたとかの経験でもあるのかしら。アメリカなんかに留学すると、体の大きさとかも含めて劣等感にうちひしがれる。そこから反転してナショナリストになるということもありそう。中山さんみたいな人に、隗より始めよ、なんて言葉は馬耳東風だろうな。なんたってラ・サールから東大出て大蔵省だものね。エリートコースまっしぐら。でもかなり若い時期に脳はその働きを止めたみたい。それが日教組による恫喝だったりして(笑)。仮にそういう辛い事件があったとしても、いつまでも根にもっていないで。ねえ。せっかくの頭が泣きますぜ。「かくあるべし」を言う人は、まず自分を鏡に映してみてください。道徳教育を云々言う資格は、中山氏にはないと思うよ。
2008年09月29日
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久々に怒りました、という八重粉さんの話を、まあ聞いてやってください。この怒りは、たぶん中山国交大臣のあまりの無様さも原因の一つだと思います。この人、何の苦労もなく大きくおなりになったお年寄り。中山恭子さんが出来すぎであられるためでしょうか。全くの裸の王様です、あなたのご主人様は。ま、よそのご主人が思考停止の甘ったれおじじだろうと何だろうと関係ありません。うちのご主人様がそうでなければね。今日、ご主人様は○○会の設立総会とかで、某ホテルで昼食をとりながらの会合でございました。運転をしない夫のために、私は車で小一時間のところを送迎です。で、夫の会合の間、私は一人お昼を食べ、海を臨む道路に車を停めてうとうとしておりました。「終わりました」とメールが入り、いそいそとホテルの地下駐車場へ。すると電話が入り、1階の駐車場にいるとのこと。まあそれでは、と車を発進させました。ところが数分も待たずにまた電話。わたくしは運転中でございます。助手席のバッグを手探りで携帯を取り出し…おやおや切れました。夫の待つ駐車場に行くには、反対車線を走りUターンしてこなくてはなりません。面倒ですが、苦手な車線変更を何度か試み、ようやくUターン成功。その間に何度も電話が鳴り、出ようとすると切れ、こちらからかけるとかからない。夫の姿が見えたので、距離はありましたが窓を開けて手を大きく振りました。気づきゃしません。私がどちらの方向からどのように経路をたどってくるか、想像できるはずです。何度も何度も利用しているホテルですから。ところが彼はまったく想像出来ない様子。その上、運転が苦手な妻が運転中であることにも思いが及ばす、電話をかけ続けるのです。ただじっと待っていれば必ずや辿り着く場所なのです。待っていられないのです。手に携帯があれば即座にかけるものと承知しているのでしょうか。妻はすぐに電話に出るものと思っているのでしょうか。少しは頭を働かせてください!少しは想像力を働かせてください。妻が運転中に何度も携帯をかければ事故の危険があることぐらい想像してください。想像した上で、少し我慢してください。5分も待てばまちがいなく、こちらからあなたを見つけてさしあげます。このようなことをまくし立てました、わたくし。子どもではないのですから。このような有様では、明日はあなたも中山さんと同じになりましょう。そうです、動脈硬化を起こした耄碌じいさん。何十年か前にインプットした考えを、後生大事に信念ででもあるかのように抱きかかえている人。奥さま、甘やかしてはなりませぬ。ここで言うべきか、言わざるべきか、悩むくらいの節度はほしいものです。すぐに携帯で妻を呼ぶのと、思ったらすぐしゃべるのと。どちらも緩い。緩みすぎ。よほど何の苦労もないポジションにおられるのでしょうね。周りはイエスマンばかり?それとも、中山恭子の夫、といわれることへの不満でしょうか。あまりにもお子さま的発言に、わが家では大笑いでした。こんなおぼっちゃまがずらりと並んだ麻生内閣、早くおしまいにしてね。わが家の亭主さまは、私のあまりの剣幕にしゅんとなられました。しばし考えて「もっともだ」と思っていることと思います。このようなことの積み重ねで、わが家は亭主の構造改革を成し遂げつつあるのでございます。夫を耄碌させないためには、この程度のことは覚悟が必要ですよ。良き妻、と言われることを選んだ奥さま方は、呆けた旦那の後始末が大変になります。悪妻こそ讃えられるべき、ではございますまいか。
2008年09月28日
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関西に住んでいるわけでもないのに大阪のテレビ放送を見ている。なかでもABC朝日の番組はよく見ている。最近早朝の番組におもしろい御仁が現れた。自身で「世捨て人」と称されているし、テレビ的にどうかなという発言をぽろぽろなさり、揚げ句に「ごめんなさいね」とおっしゃる。それも京都弁のようなはんなり感である。未だに携帯電話もパソコンもお持ちでないことが今朝判明した。いやたしかに「世捨て人」かも。こんな人を引っ張り出してくるからABCはおもしろい。その時々の時事問題に対するコメントが、なかなかである。普通の人が考える角度とは違うところから攻められる。例えば今朝の地下鉄への落書きのニュース。危ないところで、テレビのこちら側で私なんかが思っていることを言い出されるのではとハラハラ。「これ落書き? うまいじゃない」これは、私の感想。おそらく井上先生(たぶん井上章一さん)も似たような感想を持たれたのだろう。「そのうち落書きを消すのが間に合わなくなって、落書きのまま電車が走ったりして」とかなんとかおっしゃるのである。きっとテレビ局に苦情の電話がかかっているでしょう。このくらいの、テレビ局に苦情が殺到するくらいの話だからおもしろいのである。生のテレビがおもしろいのは、こういうところ。ステレオタイプの規格品ばかりでは、うんざりなのである。井上先生も、そういう役目でテレビに呼ばれていることに当然お気づきだとは思うけど。そうそう井上章一さんだと思います。このコメンテーターの方は。私も40年くらい前に著書を拝読した。(たぶんその方だと思うのだが)たしか「美人」とか「顔」についてのお話だった。そのときもかなり角度の違うものの見方をする方だと思った記憶がある。物事にはいろんな見方があるんだよ、と身を挺して言っていただけるのは、まことに有り難い。テレビというのはまったくつまらぬ付和雷同でお茶を濁すからね。できる限り長く、お願いしたいものだけど。
2008年09月24日
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感情の部分を刺激した出来事というのは、すぱっと割り切れない。割り切れないから何かしらずるずると引きずる。引きずるのはよくないとばかりに、すぱっと切り替えるのも一つ。しかしここで考えてみよう。これはいったい何なんだ、と。何が引っかかっているのだろう、と。これまでの自分を振り返ると、整理できない感情の波立ちというのは、どうも私自身の課題につながる何かがあったりするようだ。こう考えると、感情のもつれが個別の事件から離れる。私の感情がうまく処理できない。これは自分でも気づかない何かがひっかかっているのである。その何かとは、今後私が課題として考え続けていくべきものかもしれない。こういうふうに考えてね。いいでしょう?腹の立つ相手に怒りを向けるのではなく、もちろん自分に向けるのでもなく。そこで気になるワードを列挙しようと思ったが、ちょっと待て。思いつくままここに書き連ねるよりは、少しあたためてと。そう、じっくり考える時間を持とう。私が今ここにじゃんじゃん書いていることの大半は、かつて考えに考えたことの集積だから。そろそろ次の課題に取り組むときかもね。ヒントは、言葉。言葉が空疎になるとき。などなど。というわけで、これにて失礼。
2008年09月22日
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久しぶりにお腹立ち、八重粉さんからの投稿です。なんてお馬鹿さんなのかしら、まったく。お馬鹿さんに限ってその自覚がなくて、おまけにちゃっかりしている。何だかね、ばからしくなりましたわ。何時間おしゃべりしたかしら。彼女は、私のような相手を幾人か渡り歩いておしゃべりしているらしゅうございましょう。話の中に、そういった方々が数人登場いたします。わたくしのことも、そちらでの話題に不幸話の一つとして登場しているのでございましょう。ああ、あほらしい。特に腹が立ったのは、共通の知人に関する話題でございました。「あの人と話すのは神経遣うわ。だから最近、距離を置いているの」話によれば、最近その人に対して彼女は失礼なことをしでかしていました。(ややこしいので詳しくは省略いたします)私の目から見て、失礼なことをしたのは彼女です。知人は何もしていないのですから。いけないのは彼女、でも彼女はそうは思っていません。もう一人の知人とタッグを組んで(あの人つき合いづらいわねとおしゃべりして)まで、自分の過ちを認めない方向へ引っ張っていきます。でも無意識に負い目を感じているのでしょう。しかし自分の非を認められない彼女は、必死になって相手が気を遣わせる人であることを訴えるのでございます。そうよね、彼女に話すのは神経を遣うわね。あなたが気を遣うのももっともだわ、とか何とかの同意がほしかったのでしょう。けれど、わたくしはノン。どうして、寄ってたかって、一人の人を中傷しなきゃならないのでしょう。それより、この件についてはあなたの無神経さを反省してはどう?と言えば良かったと、今は思っております。でも言いませんでした。それにしても、自分の非を認めまいとおのれを合理化するエネルギーというのは、すごいですね。わたくしの同意を得られなかった彼女は、さらに話を続けます。知人の過去の避妊治療の話まで及びました。この治療に実はご主人が協力しなかったんではないか、との当て推量が飛び出しました。過去にも聞いた話です。繰り返したい理由があるのでしょう。他人の過去をほじくり出してどうしようというの?何が言いたいの?これも、言えなかったのが口惜しゅうございます。まともに答えましたの、わたくし。「避妊治療というのは、夫婦どちらの、何に、原因があるかの診断をもとに始めるのではないのかしら。夫の協力なしに妻だけが治療するということはあり得ないと思うわ」なんてね。納得していなかったですねえ。そういうことを言いたかったわけではないのでしょう。協力的でない(病院嫌いの)夫による精神的虐待を受けている妻、だから彼女はああいうふうに神経を遣わせる人である、という話に持っていきたかったのでございましょう。彼女の夫も病院嫌いです。「彼女はああいうふうに生きていたらストレスきついよね」とまで言います。余計なお世話でございましょう。他人が何に一生懸命であろうと。これに対しては「ストレスって、全くなければいいというものではないでしょう?」とやんわり答えました。何でもかんでもストレスのせいにする彼女に、いい加減苛立ったのでございます。他人の話は、このようにディテールまで逐一具体的に話す彼女が、自分と夫のいさかいについては、具体性を完全に葬ってしまいます。それにしても。よそ様のことを言うより、ご自分のことをお考えになったらどうかしら。わが身は安全圏に置いて、他人の不幸をほじくり返しておしゃべりに興じる。たしかにずいぶん賢い方法だとは思いますけれど、そのお相手をまともにしてしまったわたくしは、どうなんでしょう。彼女のおしゃべりに、わたくしいちいち答えておりますわねえ。おほほ。あらあら、ということは、わたくし、自分に腹を立てているのでしょうか。お馬鹿さんは、わたくしでした。鏡を見るのはとても大事なことですね。
2008年09月21日
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台風一過の抜けるような青空!起きるやいなや、洗面所と浴室に干していた洗濯物を外へ。んんんんー、いいにおい。太陽と水と草と、生きとし生けるものたちの入り交じったにおい。このただ中で、わが家の洗濯物はおおらかに、のびやかに乾いていく。乾燥機で乾かすのはどうも好きになれない。やっぱりお日さま乾燥に限る。さてと、朝食の準備中の夫を横目に。お次は空模様を見て控えていた大物を洗濯機に放りこむ。ぐわんぐわん。(洗濯機が回る音だよ)物干し竿いっぱい、ハンガーも使い、干すに干した。おー、すっきり!そうこうするうちに、太陽の熱が徐々に空気を暖めて。あ、あ、あ、暑い、という状態になった。タンクトップに短パン(ほんとは男物のパンツね。これが一番涼しいと愛用していたら先日「いいとも」で女子高生も愛用していると知った。おぬし、できるな)になる。夏に逆戻りだ。テレビは退屈な総裁候補の顔を映している。いい加減にせえ!日本テレビ。いつもいつも政権べったり、巨人も憎いが、日テレも嫌いになったぞ。朝刊に興味深い記事。ガン患者およびその家族に心のケアをと、お医者さんの話。早い話が「鬱」対策を講じて治療してほしいということだ。話を聞くだけでもいいとね。鬱とガンの治癒とが相関することはおおいに考えられること。ガンは治る病気になったとはいえ、まだまだ「死」を連想させる病気だ。なんたって体の中によそ者の細胞が増殖する病気だもの。いったんやっつけても、またいつ甦るか分からない。その恐怖と不安と闘うんだからね。闘うというか、鬱になれば当然マイナスに考えるから、体にいいことはない。記事は、食欲がない、動きたくないという鬱状態に気がつかないと、診断を誤らせることがある。こういうきちんとしたお話だったのだけど。心の問題というのは、いずれにしても大事な問題のようだ。若い頃からずーーっと、がっぷり四つに組んで悩んできた甲斐があったというものだ。本気で悩んで考えて、一定の道筋をみつけた気でいる。いや、究極は、死をどう受け止めるかなのだろうけど。鬱にならないためにはね、まず自分のしたいことをする。これに限ると思うよ。思いきりわがままな自分を認めちゃう。そこから逃げていると、なかなか核心に迫れない。と、まあ、わがままに育った人のための処方箋だな。あれあれ。私、軽い躁状態のようである。下手なことを書いてしまわぬうちに、引き上げよう。
2008年09月20日
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ある政令市の市会議員をやっている友人からメルマガが届く。今日はサブプライムローンの解説付きであった。ところで、経済の話とは関係ないことを書こうと思う。フィットネスに行った。スタジオに入ると、ある女性と目が合った。ガンが再発して夫婦で落ち込んでいるという女性。こちらに来て少しご縁があった。かれらもまた「よそ者」である。ご近所もないような立地にペンション風の家を建てている。「だから、夫婦ふたりきり。近所がないからおしゃべりも出来ない」と彼女は言う。「ここに来ておしゃべりすれば?」私は勧めた。ご主人が「行ってこい」と理解があるので毎日通ってくる。「ご主人はどう?」そう声をかけた。すると彼女はとめどなくしゃべり始めた。食事のこと、病人のわがままのこと、でも可哀想と思っていること。あいづちを打つ間もないほどだ。腰痛体操のインストラクターがニコニコ、おしゃべりが終わるのを待っていた。「すみません」二人はぺこりと頭を下げて、体操を始める。たったそれだけ。私はただ数分間彼女の話を聞き、帰り際に「頑張ってね」と肩を叩いただけ。彼女の役に立ったかどうかは、定かではない。むしろ私の側にある種の満足感が湧く。不機嫌に傾きそうな夫をさらっと置いて出かけてきていた。家に帰ると夫はそれなりに自分の気持ちを処理していた。案ずるよりは生むがやすし。私がフィットネスに出かけたことで、知人はおしゃべりの相手を得、夫は一人で自分の感情をコントロールした。私は人の役に立てたと自己満足。人と人の関係というのは、こうやって回っていく。だから家にこもっていてはいけないの。そう彼女にも言ったつもりだ。もちろん夫にも話した。私自身、本当のところは人助けのつもりである。それが、じつは助けられていることも分かる。人より優位に立ちたいと思った若さを、ほろ苦く思い出す。今夜は、肉団子とイカと椎茸、ピーマン等々をつくさん入れて八宝菜を作った。ついつい嵩が増えて3~4人前くらいの出来上がり。「多かったら残してね」と言いながら、夫も私もモリモリ食べた。とうとう大皿は空っぽ。「おいしいじゃないか」ついでにお昼に炊き損なった固いご飯をおかゆにした。これがまたおいしい。お米はホント甘い。まさか汚染米ではあるまい。せっせと料理をし、おいしいと食べてくれる相棒がいる。これもまた、人の役に立っていると思ってはいるが、助けられているのである。ご飯を作ったり、おしゃべりをしたり。何でもないことのようだけれど、こういう能力が年をとると役に立つ。最近の私はこんなふうにどしりと落ち着いている。有り難いことである。将来への不安などが侵入しがたい心の状態。いいことです。明日もまた外出日。書の展覧会に友人と行く。これは「このくらいは恩返し」気分のおつきあいである。夫?誘ったら「久しぶりに図書館に行く。どこかで落として」とのこと。やはりまだ一人で家にいるのは辛いらしい。
2008年09月19日
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内田樹ブログを読んでいて思い出した。リーマンブラザーズの破綻についての私の感想。あれ、何かに似ている、と思った。例によって。味噌も○も一緒にするな、と言われそうだけど、あえて。これってさ、あれじゃない。ギャンブル依存症そのものじゃない。話はやたら大きいけど、そっくりだ。そう思っていたら、内田先生が解説してくれている。ね。ギャンブル依存症とかの名前はないけど。あれはギャンブルですよねえ。実体のないものを追いかけるんだもの。広告は麻薬みたいなもんだ、と言ったエージェンシーのおっさんがいた。これも同じ。資本主義社会の大事な要素である「欲望」に歯止めがかからないと、こうなる。欲望の歯止めは、倫理。倫理とは原則。ここまで、と決める節度。丹田力。あらあら、私ったら生意気なこと言ってる。でも、最近これらの言葉の意味するところが少しずつ分かってきた。年はとるものである。経験はしてみるものである。人生を本気で生きていると、いいことがある。昨夜の夢は、夫がどこかにいなくなって電話をすれど通じない、というものであった。そう言えばこの人は一度決めたら覆らない人だわ、なんて夢の中で考えていた。夢はほんとに示唆的である。この夢を隣に寝ている旦那に言うともなく言う。「夢の中であなたどこかに行ってたでしょ?」なんて言い方で。そんなこんなで、何とか日々争わずにやっております。話を戻す。リーマンをきっかけに、アメリカングローバリズムはどうなるんだろ。何にも分かっちゃいねえくせに、このアマ!なんてどこかの怖いおじさんに怒られそうだけど。ギャンブル依存症の当事者は、病識がないのが通説。夢よもう一度、と繰り返す。破綻の繰り返しにしないためには、肥大した自我のおさめ方を広めること。ほどほどがいい、と口では言っても、家電芸人があんなに楽しそうに新製品の讃辞をばらまけば、人々は欲望する。買うためにはお金が要る。お金儲けなきゃ、ってね。俺だって今に見てろ、なんてならなくていいよー。私は常々息子に言っている。次々に新商品がでてくる家電を追いかけるのも、これまた買い物依存症?いやだな、依存症から逃れられない。しゅん。尻切れトンボで終わります。
2008年09月19日
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外部の人間にはよく見えるのに内部にいると見えなくなる。これってよくあること。汚染米の問題にしても、大相撲問題にしても、政治の問題にしても。そういう意味ではみな同じ。見えなくなるのである。内部にいると、それぞれが役割を引き受けているから。つまり繋がっているわけ、関係があるわけだ。だから福田首相の「客観的に見えている」発言は見事である。「客観」とは、そもそも「関係がない」ところにあるんだもの。彼が一貫して他人事のよう、と揶揄されたのも無理ないわ。彼には「関係」というものがそもそもないのだろう。ぽつねんと総理の座にいる自分を、もう一人の自分が見ている図。これを彼は「客観」と称した。でも本当は、「客観」って、考え始めるととても難しい。カントの純粋理性批判、なんて言葉が浮かんじゃったりするから。難しい話は脇に置いて、と。批評眼とか、批判精神というものは、「内部」からは生まれにくい。そういう話を書くつもりだった。これも難しいけど。つまりね、「内側の人」になっていると、批評的な目で見るのはたいへんだってことよ。相撲協会でも何でも、外部の人間を入れるなんて言うけど、中に入ったが最後、組織なりを守る方向に頭が向いてしまう。「業界」というのがとても分かりやすい言葉だ。農水省は業界と省を守り、医師会は医師会を守るために与党の先生に頭を下げる。(今朝のニュースではちょっと話が変わってきたみたい)みーんなみんな業界を守ることは、悪いこととは思わない。仲間だからね。仲間を守って何が悪い。政治家に袖の下を贈り、自分たちの利益になるような政策を要求する。みーんなみんな、業界というなの団体で政治とつながっている。つながっているから、ちょっとした違法行為がずるずると広がっていく。そして日本列島が汚染米に汚染されたかのような状態になる。どこかにストップをかける、つまり自らを批判する目がないものか。自分、ないしは自分の所属する集団を批判するのは、じつはきつい仕事だ。しかしこれをしないと、みーんなみんなずるずる。業界という仲間を持たない、一消費者であるわれわれ。これがじつは最も「批判的」な立場に立てる存在なんだよな。なのになぜかイメージに流されてしまう。イメージで思い出した。若い人、あるいは団塊のおやじたち(決めつけて申し訳ないけど、小倉さんのイメージ=笑)は、音楽が好き。あの音楽好きの人って、じつに流されやすいものを持っている。私だって、音楽を聞いていると心地良い。心地良い心地良いとうっとりしてしまう。(なんかね、音楽は大脳新皮質じゃなくてもっと原始に近い部分を刺激するからね。プラス記憶の領域)さっき小倉智昭の番組でいい音楽を聴いた。歌詞は甘ったるくて聴いてられないけど、歌はいい。よかったよ。でもなんですね。若い人ならともかく、あのおやじたちがあの手の歌詞に違和感感じないとはね。まだまだ恋煩いしたいのでしょうか。「あああ、一丁上がりの婆さんはしようがねえな」なんて小倉に言われそうだ。話が脱線しちゃった。それであなた、一体何を言いたいの。そうそう、「内部」の人に自らを批判することを求めるよりは、名もなく貧しく美しき「無役の人」よ、目を覚ましましょうということ。とりあえず「内部」に風穴を開けなきゃと思うのだけれど。何の役割もない=しがらみがない=批判が可能なわれわれにできるのは、そういうこと。「開戦ボタンを押したくてしょうがない@やくみつる」石破とか、自信満々で社員を泣かしそうなワンマン麻生とか、ぼんぼん丸出し、口だけ達者で何もできない石原とか、きれいきれ~いな小池とか、晶子姐さんの孫とか、しばらく消えてほしいな。テレビもチャンネル変えちゃったよ、みのもんたさん。テレビと言えば、昨日の雨上がりの特番。家電芸人の方々がコマーシャル顔負けの商品紹介をしていた。テレビショッピングもまっ青だろう。一般化されない、まったく個人的な嗜好による紹介だから面白かった。プレステ3がスタンフォード大学と繋がっているというミニ情報など。スポンサーがすぐにつきそうな企画。テレビ朝日、やるじゃありませんか。すぐに、家電量販店大好きなわが息子が喜びそうだと思った。続いて「あーあ、ザ・消費者をますますあおるよなあ」と嘆息。親ばかの自己矛盾。あーあ。
2008年09月19日
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息子が就職して丸3年だそうだ。本人によると。と言うことは、母と子ともにカウンセリングを自主卒業してから3年と3カ月ということになる。自主卒業はまず私が一区切りと判断して申し出た。カウンセラーの先生の前で甘露の涙をこぼした日である。本当に卒業したなどと思ったわけではないけれど。息子にはそのまま通うといい、と言った。しかし息子も私同様自主卒業した。私に言われて通っていたんだから、と言いたかったのかもしれない。彼自身が、それ以上カウンセラーに話を聞いて貰う必要を感じていなかったのだろうか。とてもそうは思えない「見てくれ」であった。当時の息子は。それでも母親が「カウンセリング卒業」と決めたことは大きかった。「お母さんは息子さんにどうして貰いたいんですか」カウンセラーの先生は私に訊ねた。「就職してほしいです」即答した。先生はのけぞって呆れた顔をした。(ように見えた)一瞬、「あれ、変?」と思ったけれど、それが正直な答えだった。東京までの交通費、息子と私のカウンセリング料、一日に2000円と決めた仕送り等々、年金生活に頼っている私の財布はそろそろ限界だと感じていた。私自身の老後にも不安があるのにね。(全く亭主というのは自分の老後しか考えちゃいない。自分の死後妻がどうなるか、真面目に考えている?)恵まれた資産家の奥さまじゃあるまいし、子どもの就職を願わないでいられようか。私にパラサイトされても困る、とまあ言い渡したのが「卒業」の真実であった。今思えばね。しかし子どもというのはしたたかである。(ある意味頼もしいけど)母さんがダメでも父さんがいる。だから彼はまだしつこくぐずぐずしていた。今一歩が踏み出せない、とか言いつつ。それがなんと、父親のある一言で重たいお尻が上がったのである。「健康保険証(の被扶養者)から外すぞ」なんだか小さなことのようにも見えるけれど、ここが間違いなく息子のターニングポイントだった。モラトリアムから脱却する一歩となった。父親の一言は、いろんな偶然の重なりから生まれた。怒りやら何やらの感情の爆発に後押しされて発せられた言葉である。それが功を奏した。息子の自立の始まりである。父と母の双方が、「もう巣立ちなさい」と言い渡したのだ。それまでの数年は、両親とも息子を独り立ちさせまいとする身勝手な欲望に支配されていたようだ。20年にわたって築いた家族が離散するということは、家族のそれぞれが拠り所を失うこと。自らその事態を招いた私も例外ではなかった。家族という拠り所の最後の砦が、息子だったのかもしれない。まだ幼かったがゆえに。一番小さな息子に父と母がよりかかっていたのだ。息子の心の葛藤がどれほどのものだったか。葛藤に対処するには動かないことが一番だ。息子はそう了解し、引きこもった。あれやこれやの手を尽くした年月を経て、問題の深刻さに気づかされた私はカウンセリングに助けを求めた。「依存症」という言葉に導かれて。事が深刻なときほど、人は自分の問題を他人に転嫁する。私も当然その例にもれずで、息子の問題=父親の問題とした。だから「依存症」だったのだ。自分のことはたいてい棚に上げるものだ。テレビで会見する悪徳社長を見よ。人のせいにして平然としている。恥ずかしくないのか。恥ずかしいどころの騒ぎじゃないのである。自分を守るのに必死なだけである。これが世の中の大勢。かなしいけど。依存症の本を読みながら、カウンセリングに通うことを決めながら、考えていた。途中は同じでも、着地点は違うだろうなと。助けを求めながらずいぶん生意気なクライアントだけど。共依存などの言葉にも、これってアメリカから来た概念じゃないの。日本でそのままあてはめていいの。だって、日本の社会では当たり前のことみたいだもの。田舎に行けば特にね。DVにしろそう。田舎では当たり前。女が耐えるのが普通だし。しかし。いやだ、私は田舎の母親たちのように耐えてばかりはイヤ。そう思う女子が増えた。勉強だって男子より出来たし、もしかしたら腕力だって…。それなのになぜ男ばかりが威張るのよ。ま、そういう社会状況が背景にはある。あるから新しい言葉及び概念が社会に流通する。必要があるから流通するのである。それも適当に誤読されつつ。新しい言葉を受け入れると、状況の読みとり方が一変する。これはすごい。新しい言葉は、概して立場を逆転するものだ。しかし待てよ。新しい言葉はよそから入ってきたものだ。鵜呑みにしてよいのか。そんなこんなの思いを網棚に乗せたまま、私は電車に揺られることにした。例えば息子の状態を「ギャンブル依存症」と命名した。こんなもんがあったのか、と嬉々として飛びついた。チェック項目がある。息子にも○×を要求する。何個以上で同症に該当する。(ひどい母親だ。カウンセラーの先生にも「え、やっちゃったの?」と呆れられた。カウンセラーというのは黙ってニコニコばかりではない。ちゃんと随所で意思表示をする。それがいわば導きになる)名前がつくことで安心するのはなぜだろう。何が何だか分からないごちゃごちゃした状態から抜け出したいのだ。ごちゃごちゃした、思うにまかせない状態を、どう扱っていいか分からない。どこからほどいていけばいいのか分からない。具合が悪いのを何とかしてもらいたい。だから病院に行く。診断名がほしい。処方がほしい。だから見当をつけて仮に名前をつける。見たて、というやつである。経験豊富な医師がいいのと同じく、経験豊富なカウンセラーがいいに決まっている。臨床とはそういうことだ。机上の空論は要らない。言ってみれば仮の名前。総合的に判断して、名前がほしいという患者に仮の名前を差しだす。「風邪でしょうか、先生」「そうだね、風邪だね」これである。風邪なんて病名はない。たぶん。咳が止まらない。熱が高い。病院に来た人は、なんとかしたくてやってくる。だからこれらに対して薬を処方する。心の病もおんなじだ。精神科に行けば、なにやらうつ病の薬とかを処方されるらしい。私は行かないけど。薬、嫌いだから。カウンセリングに行くと、薬は出ない。だけど、まず安心する。名前をつけてもらわなくても、「あなたは悪くない」の一言でまず訴えは軽減する。有能なカウンセラーは軽々しく診断名などつけない。勝手に患者が本を読み、依存症だ、共依存だ、DVだと騒いでいるだけ。仮に名付けられたとしても、診断名はもつれた糸をほどく道具にすぎない。求められているのは、もつれた状態をほどくことだ。名前をつけて薬漬けにすることではない。時間をかけてたんねんにほどくあいだ、「それでいいのよ」とつきあってくれる人。それがカウンセラーだ。もつれた状態がほどけたら、道具は不要になる。依存症よさらばだ。共依存もさよなら。問題が深刻ではないのに「依存症かしら」とか「共依存?」なんて考えている暇があったら、窓ガラスでもお拭きよ。(あらまあ「卒業」したから言えるのよね)おやおや何を書こうというんでしょ。息子が就職して丸3年の喜びを書くはずだったのに。お金がないから働かなくては食べていけない。こんな簡単なことができない人たちは、残念ながら恵まれすぎているのかもしれないな。親ばかですが、大学中退の息子が一生懸命働いているのでね、そう言いたいんです。娘もです。辛抱強く、大学を出てから8年も同じ会社で働いています。私より過酷な状況を懸命に生きている二人の子どもたちに、ほんとに感謝。
2008年09月16日
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すっかりご無沙汰いたしました。どなたに向かって言ってるの?いえ、このブログさまに、です。良きも悪しきも、私の指の思し召すまま、吐き出す、あるいは掃き出す言葉の数々を、文句も言わず黙って受け容れてくれたブログさまに、挨拶ぐらいはきちんといたしたい。と、挨拶が済んだところで、書いておきたいことがある。私の誕生日に久々の電話をくれた息子に「元気?」と聞いたら、突発性難聴であると言う。話を聞くと相当体力弱っているみたい。暇な母親が病気の息子を見舞って悪いわけがない。夫の了解を得て、翌々日のヒコーキに乗った。で、まっすぐ息子の住むアパートに行き、まずはたまりにたまっていた洗濯物を洗濯機に放り込み、スイッチを入れて買い物に出かける。段取りよくしなければ宅急便と入れ違いになる。歩いてスーパーへ買い物に行くなんて、何年ぶり?都会の人は歩く。ほんとに歩く。おばあさんだって歩いている。田舎の人が歩かないことを改めて思う。田舎の人になって損をした最大のことはこれだと思うよ。まったく、歩かない。おかげでフィットネスに行かなければならない。不便な土地ほど車が必要。公共交通機関がない。自転車に乗ろうにも急勾配の道なのだから断念するしかない。田舎に住む人ほど、もしかしたら寝たきり率高いかも。おばあさんたちの腰は曲がり、皆手押し車(シニアカーと言うの?)を押す。年寄りの絶対数が多いこともあろうが、都会より腰の曲がったおばあさんが断然多い。なんでやねん?なんてことをぶつぶつ言いながら歩いた。9月と言えど暑いぞ。両手にスーパーの袋をぶら下げて、また歩く。再びアパート。玄関のドアとベランダの窓を全開にする。空気が澱んでいるのは、まず私が不快である。空気さえ通れば、多少散らかっていても耐えられる。どうしてわが息子はこの「空気の入れかえ」をしないんだろう。お日さまの恩恵に浴すことをしないんだろう。この件についての本人の弁。「ここは、寝に帰るだけだから」はい、さようで。たしかに彼の住むアパートの室内に、彼が出入りしている痕跡はある。見事に、日常的に動いている動線の部分だけが汚れていないのだ。いや、この表現は正しくない。息子が動いているところだけ空間があるというか。それ意外の場所には埃が積もり、そのままこびりついているのである。きったない、のである。一言で言えばね。ベッドの上と、パソコン机の上は、必要なスペースが空いている。そうそう、息子が大事にしているもののみに秩序があった。新しい本棚にずらり、きちんと並んだマンガと文庫本。シリーズもののようだ。それから「24」などのDVD。これらは順序よく整頓されていた。しかし、息子の部屋の乱雑さは今は始まったことではない。(この日改めて私が息子に施した教育、しつけが何だったかを思い知らされてがく然としたのだったが)かつてのわが家では、息子の部屋からリビングに彼のモノがあふれ出していた。それを見た父親が言ったもんだ。「○○の脳味噌とおんなじだな」あまりの混沌に、頭蓋骨からはみ出しかねない脳味噌?ほんと、そんな印象だった。脳味噌そのものはなかなかボリュームがあるのだけれど、容量が多いだけに秩序立てるのに苦労する、そんな感じに、親には見えていた。(翌々日この話をしたら息子が衣裳ケースの整理を始めた)当時も、本人は「机の上はきれいにしている」と誇っていた。これはとりあえずの方法としては賢明かもしれない。全体が大きすぎて整理するパワーが足りないときは、一部でいいから秩序を取り戻す。ある種のココロの病は、このやり方で乗り切ることができると思うのだけど。一部で、とりあえずは構わない。そうやってかつての引きこもり君は、黙々と仕事に精を出し、部屋にモノを溢れさすに十分な程度の収入を得ている。「仕事、向いている?」と訊ねると、「うーん?」と首をひねる。「人間関係のストレス、あるの?」と訊ねると、強く首を横に振る。へえ。どうやら人間関係というよりは、仕事の中身について少し疑問に思っているのか。母親は人間関係のストレスがないと聞いて一安心。(この子を育てるときに、いの一番に人間関係への耐性を育てようと決めた母の満足である。それは何より私自身が、人間関係のストレスが一番きついと思っていたからだけどね)続いて、仕事の内容について不満はあるにもかかわらず、黙々と働いているのだと知って、心の中で拍手を送った。自分に合った仕事は?とかの自分探しに熱中している諸君に見せてやりたい。おっと、鼻息の荒い母親で、すんません。息子の現在は、このアパートの様子と、「二課の刑事みたいだ」と現夫に言われた私の執拗な?聞き取りにより、おおよその輪郭がつかめた。かなしいけれど、東京は「お金を稼ぐ人」と「お金を使う人」のための町だ。東京の片隅で、息子よ、お前は「ザ・消費者」としてのみ生きるのか?父さんと母さんたちの世代が、ぼくたちの世代をそういうふうに育てたんじゃないか。言えば、こう返されるかもしれぬ。ほんとに、私たちがどう生きてきたかは、子どもの現在を見ればよく分かる。他人事みたいに、「今どきの若者は」なんて言う大人を私は軽蔑するね。黙々と稼ぎ、ただ流されるように消費するわれわれ。豊かなもんかね。「本当の豊かさってね、お金で買えないんだよ」今さらながらではあるけれど、息子に向かってそう言った私である。お金では買えない豊かさのひとつとして、分かりやすい例を挙げた。家事、つまり掃除、選択、ご飯つくり、それから笑顔。こんなものお金で買える?お金で買えると豪語する人の心に、寂しさはないか?私も前夫も、お金を稼ぐ人=できる人、という時代を生きた。家の中でお金にならない仕事をする人を下に見る時代を生きた。仕事ができる女が、なんで無料の家事労働なんか。そんな風潮にまんまと乗っかった。仕事ができる女のその後は?結論はすでに書いている。家事とはなんと豊かさを生むものであることか。お金で買えない豊かさ、ゆとりとは、ここにある。毎日太陽の光をさんさん浴びて乾いた洗濯物。木々の間を通ってくる風がそのまま季節を届けてくれる部屋。目に見えないものが、五感を通して人を豊かにする。こういう仕事、お金にならない仕事を軽んじた結果。人づくり、人育てとはこのあたりからなんだよな。臭いがついたから臭い消し、じゃなくてさ。風を通せばいいのよ。臭い消しを買うお金を稼ぐより、窓を開けようよ。お金を稼ぎ、お金を使うだけの暮らし。それだけでよしと思うなよ。私から息子へのメッセージだ。「あ、ガスコンロがきれいになってる」「ね、部屋もきれいになったでしょ?」「うん」「ま、自己満足かな?」帰る間際に、そんな会話をした。東京駅で、病院に点滴に行く息子と別れる。改札口の前で、「ありがとね」と言い、「また、行くから」と付け加えた。直前まで、「出張で来ることある?」と聞く私に「ない」なんて冷たい態度だったのに。数年前の改札口を思い出す。振り返ると、私の姿を目で追っていた。心細そうで、切なかった。子どもの頃、後追いをしていた息子と同じだった。でももう今は違う。彼は母親から自立した。寂しいけれど、喜ばなくちゃ。立場が逆転したみたい。モノレールから都会の高層マンションを見て、再び思う。東京は、お金を稼ぎ、使う人の町。私が住む田舎は、余生の町。棲み分けができてていい?そうかなあ。
2008年09月13日
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明日から二泊三日で留守にします。息子の様子を見に行くのです。突発性難聴にかかっていると聞いて。治りが今一つなので点滴をするとのこと。ステロイドと聞いただけで、私たち夫婦は大慌てでした。そんな強い薬!でもまずは妹に電話をしました。彼女は今耳鼻科の処方箋薬局にいる薬剤師なので、とてもクールに「よくある病気で、よくある治療法」と冷静でした。とは言え、お盆の頃に1週間も会社を休むほどの腸炎にかかったこともあわせると、相当疲れているなと想像しました。で、やっぱりね、やせっぽちの男の独り暮らしは可哀想…。と切なくもなり、思い切って夫に申し出ました。息子のところに行こうと思うんだけど、と。意外や意外、すんなり「行ってきなさい」。ついでに「飛行機で行きなさい。チケット代はぼくが出すから」と言われて、二泊三日で「母親業」に出かけることになりました。ぼくが行っても何もできないし、息子も母親ひとりのほうがいいだろう。なんて理解のある夫ぶり。でも不思議ですね、どこへ行くのも二人だからでしょう、ちょっぴり寂しい。永久の別れ、じゃあるまいし。なんてラブラブな夫婦かしらん?ところで今朝のみのもんたテレビ、なかなかでしたよ。ご覧になりました?田中真紀子さんが出ていて、久々にテレビに釘付け。夫も私も聞き入ってしまいました。まあ小沢さんあるいは、反自民の立場での出演でしょう。自民党総裁選の顔ぶれに一言のコメントもせず。「興味ありません」彼女の一言がまたマスコミを賑わして、自民党の目論見に乗っかってしまうことを危惧したものと思われます。その点はそれは徹底してしました。一番面白かったのは、真紀子さんの以下のセリフ。「皆さん(視聴者)、テレビを見ないで散歩しましょう。本を読みましょう」自民党の生き残りのための作戦に乗っかるのはやめましょう、ということですね。一瞬、しまったという顔をしていましたけれど、痛快でした。ほんと、お年を召したわが同輩に、テレビ消しましょうよ、と伝えたい。間違いなく、小池さんでも麻生さんでも石原さんでも、もううんざり。と、かなり不信感が募っていた自分に気がつきました。田中真紀子さんの新鮮さにくらべて、もう見飽きているのですね。で見飽きた顔ぶれが困った困ったと言いつつ、結局お家が大事とばかりの作戦を展開する。これじゃ私たち、特に私の子どもたちはどうなるのさ!どうも若い人たち、下位の人たちにしわ寄せがきているみたいです。うちの二人の子どもの様子を見て感じるんですけどね。一人はストレスで難聴になっちゃうし、もう一人もかなり痛んでいる。政治は何をしとる!と怒らなければならない私たちが、テレビのぬるま湯でのんびりしている。これじゃだめだ。真紀子さんが見違えるほど生き生きしていました。頭には数字もばっちり入っているし、64歳でぼけてなんかいられないでしょって感じ。ちなみに私、おととい60歳になったのでした。弟から真っ先にメールがきました。「私もすぐですが、還暦おめでとう」お互い年を取ったねえ。話を真紀子さんに戻します。彼女がとても健康だということを感じたのです。前向きのエネルギーを感じました。このところテレビに出てくる政治家さんたちに比べるとね。外野にいたほうが人間健康になるのでしょうか。なぜだか私、元気になりました。政界再編を考えている様子ですが、「私は政治に夢を持っていますから」との言葉は、今の与党の政治家からは聞けないでしょうね。私は前から言っていますが、しばらく自民党さん下野してちょうだい。金持ち優遇にしか見えない麻生さんは、いやだわ。もちろん小池さんもだめ。石原もだめ。できゃあしないよ。自民党内の持ち回り人事はもうたくさん。そうそう、真紀子さんがこう言いました。前に出てる人ではない「興行師」みいな人が後ろで糸を引いているのが自民党ですって。もう自民党の仕切る「興業」には飽き飽きしました。一市井の婆さんの感想です。
2008年09月04日
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昨晩福田総理が辞任の会見。そろそろおねむの時間で重たくなった瞼が、ぱちっと開いた。全部リアルタイムで聞いたんだけど。ん?なぜ辞任するのかとうとう分からなかった。ひとつ会見にタイトルをつけてみようか。「福田の最後っ屁」「僻み節満開の夜」「あなたとはちがうんですよ(怒)」「自負と甘え」「プライドに負けた」「プライドこそわが人生」あの年齢の人はね、自然に僻みっぽくなるものだ。そのあたりが見えておもしろかった。どーせね、私は支持率低いですよ。だーれもわかっちゃくれないの。あれもこれもいろいろ頑張ったのにさ。大変な問題が山積みのときにさ、なぜか総理にされちゃってさ。一生懸命やったのに、みんな文句ばっかり言ってさ、助けてもくれない。私が何か悪いことしましたか?はいはい、たしかに私、政治家としての能力が低いんでしょうよ。自分でもよーく分かっております。そこのちんぴら記者のあなたとは、私、違うんですよ。私は自分のことが見えているんです。裸の王様とは違うんですよ。私は賢い老人なんですからね。それにしてもあーたがたは、ばっかだねえ。こう書いてみると、福田さんがご自分のプライドと折り合うのに苦労してこられたことがよく分かる。プライドと劣等感はセットである。だってこうでしょ。自分はこんなに賢いと思っている、にもかかわらず社会の評価が低すぎる、そこで劣等感を持つ。昨日のニュースによると茨城の事件の犯人が精神鑑定で自己愛性人格障害とされたことを思い出した。自己評価と他者の評価の乖離。福田さんの話をそういう観点で見てしまったわ。(最近この手の人が増えている。が、この年齢で?と思う。しかしそれは豊かさを先取りした家庭のご子息であることを思えば納得)福田さんの心理はともかく、辞任の背景にあるものがよく見えない。で、朝のニュース番組をザッピング。ねぇ、ぶっちゃけどういうことなのよ?これが一般庶民は聞きたい。なかなかホントのことが言えないのは当人に近いところにいる人と決まっている。これは野球の星野さん問題でも同じ。昨日、安倍前総理と会食したというみのもんたの口からは、聞きたいことが聞けそうにない。この日の主人公である福田さんから、ぐんと遠いところにいる人たちの話が面白い。ちなみに面白かったのは、ABCの朝の番組、日本テレビのスッキリ、テレビ朝日の室井さん。それらをざっと集めてまとめてみると…。自民党の生き残り、ぎりぎりの作戦らしいことが分かる。総裁選をやるとテレビの露出が増え、その結果支持率が民主を上回る。そこへ解散・総選挙に打って出る。そうすると自民が勝つ可能性が高い。ぎりぎりでベストの選択なんだそうだ。さすが、こういうことで自民党はしたたかだわ。外交でもこのしたたかさを発揮すればいいのに、きっと内弁慶なんだろうなあ。それはともかく、一番私の気持ちを代弁してくれたコメンテーターは室井佑月。権力闘争から遠いのは女性だよね。近い女性ももちろんいるけど。彼女は「むかむかする」と表現した。「これから総裁選で自民党のコマーシャルばかり見せられるのはむかむか」するんだそうだ。むかむかねぇ。敵の作戦をさらっと見抜き、それを「むかむかする」と表現し、公共の媒体であるテレビが自民党の宣伝部隊と化すことにもちくりと蜂の一刺し。佑月姐さんはこうも言った。「自民党の誰がやっても同じ。目先が変わればちょっと支持率上がるけどあとはおんなじじゃん」その通り。参院と衆院のねじれがある限り、すいすいと法案が通らないことに変わりはない。今の衆院の3分の2(小泉選挙で怒濤のごとく入った人たち)を再びとれるとは思えない。だからさあ、一度民主にやらせてみればいいのに。そう思う人が増えたんじゃないかな。でも自民党の目くらまし作戦で、まんまと自民が勝ったりして。そしたらあーあ。またおんなじことが続くのかあ。私みたいな一般大衆が今度はどういう行動に出るか。少し楽しみではある。どこまでも傍観者だよね、私。中小企業の社長さんとか大変らしいじゃない。というか、私の娘や息子だって厳しいんだけど。
2008年09月02日
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ひさびさ八重粉さんのおしゃぺりです。またお暑くなりましたね。昨日もなんだかじとっと蒸し暑くて。だからというわけではありませんけど、読書いたしました。それも音読。運動不足でございますからね。もちろん亭主に「よろしいか」と訊ねた上でございます。読んだ本は、養老孟司著「養老訓」。図書館から借りて読み始めたものの、半分ほどで投げておりました。だってねぇ、不機嫌なおじいさんこそ読めばよいのに、って本なのです。まあ暇でございましたから、亭主に読んで聞かせようという企みも少し、ね。聞いているのかいないのか、分かりませんけれど読み続けました。ここぞというときには声を張り上げたりもいたしました。ああ、読了。けっこうカロリー消費したのではないかしら。痛快でございます。夫婦ふたりで読んであはははと笑う。ここがいいところでございましょう。何と養老先生の奥さまがどうやら私と同年。養老先生ご本人と亭主の年が同じ。あらあら。おっしゃることがどうもわが家の亭主と似ているところがあると思いました。おつれあいが似たような年、とはねえ。ちくちくとその世代への嘆き節も入っておりますから、あとはご想像あれ。直接話題にするとちょっと何だなぁというようなことにも、ご本を通して触れることができました。先生は、脳の出力入力が減じると、ボケたり鬱になったりするから「外へ出よ!」とおっしゃいます。外へ出れば、感覚が「おいしい空気!」なんて機能する。これが入力。文字通り外へ出て体を動かす。これが出力。家にこもって脳だけを使っていると、この出入力が先細りになり、つまりは不機嫌になる。そういうことのようでございます。わが意を得たり、とばかり声が大きくなるわたくし。わざと繰り返し読んだりいたしました。真面目な人ほどボケやすいと言うが、真面目な人はもともと動脈硬化しているんじゃないか。なーんて箇所には、思わず笑ってしまいました。真面目もほどほどがよろしいようです。真面目に四角四面な生き方をしていると、想定外の事態に対処できないということらしゅうございます。野球の星野監督もこれだったのでしょうか。真面目すぎた人生、引退後も真面目。ゲームが予想もしない展開になったときに、采配を振るう勘が狂ったのでございましょうか。勘なんてものは、感覚の集合体みたいなものでございましょうからね。引きこもっていては磨けません。狭い場所でパソコンの画面ばかり見ていると、体は動かない。脳だって一部しか動いちゃいませんよ。だから、外に出なさいって。おじいさんだけじゃありません、若い方々にも同じことを言いましょう。もちろん、わたくしにも。そうそう、痛烈でしたのは、なんでも「そんなことはわかっている」とか「前にそういうことがあったな」なんて言って思考停止してしまうのが年寄りである、という部分でしょう。好奇心を失ってはいけませんね。「え? なに、それ?」と身を乗り出すくらいの方は大丈夫。ボケたり鬱になったりはしないでしょう。不機嫌なおじいさんの正体は、どうやら「鬱」?そんなことを思いました昨日の読書でございました。では、また。
2008年09月01日
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プライドが高くて困っている人へ。プライドというのは曲者である。これがなくては生きていけぬし、あればあったでお荷物になる。他の動物はいざ知らず、人間にとって食べ物と匹敵するほどのものである。飽食の時代と言われて久しい。人間の身体に必要な量を超えた食べ物が供給されている。そして、プライドもまた身の丈に合わぬ大きさに肥大している。過剰になった食べ物は廃棄処分されるが、肥大したプライドはどこへ行くか。持って行き場のないイライラとなって鬱屈し、世の中を腐らせている。最近の犯罪にこのプライドがらみのものが増えている。私にはそう見える。そうそう、プライドは、富栄養化した池に浮かぶ藻類にも似ている。富栄養化した池は藻類が異常繁殖し、水中の酸素消費量は高くなり、水は濁り、ついには悪臭を放つ。栄養の過剰は池を腐らせるのである。衣食足りて礼節を知る、ならぬ、食足りてプライドを知る。食の過剰がプライドを増殖させ、世の中は貧酸素状態になり、プライドが発する毒により他の生物を死滅させる。まるで富栄養化の池と同じでしょう?あ、ちょっとわかりにくい?少し説明すると、プライドが高い人は自分への世の評価が低すぎるという不満を少なからず持っている。この不満を解消すべく努力するのはいいのだが、人の足を引っ張ったり、人の悪口を言ったりといったことになりかねない。(プライドを、他人との比較によって優位となった場合に満たされるもの、と仮定しての話)プライドと世の評価が折り合わぬと苦しむ人々。その代弁者として、とんでもない事件を起こす人間が出る。ゴキブリを1匹見つけたらその20倍はいると言うけれど。このプライド人間の場合、20倍ではきかないだろう。そこでプライド満々なのに世の中が自分を認めない、と悩んでいる人々へ。人助けをしようじゃないか、ってね。認めてもらうのを待ってるんじゃなくて。困っている人を助ける。これがあなたのプライドを満たすいちばんの近道。「人助けしたって、感謝する奴はいねえよ。それに自己満足」たしかに。わが国は先にも書いたように「富栄養の国」。プライドの毒素がかなり回っている。プライドの毒素はご想像の通り、感謝するとか尊敬するとかの気持ちを減殺してしまう。「助けて貰った? へっ。助けて貰う俺がいたからあんたは助ける人になれたんじゃねえか。こっちが感謝されたいくらいだ」なんてご託もまかり通る世の中である。助けて貰う人というのは、プライドなんてぐちゃぐちゃになっている人である。そのときはね。そこを回復させてもらったら、あら、今泣いたカラスがもう笑った。藻=プライドの繁殖力はすごいのである。まあ、「」さんの言い分もわからないではない。しかし、なんとかこの池を透明な水に戻したいではないか。そのためにやはりやるしかない。プライド抱えて腐った池の底に沈むよりはね。何をする?まず、自らのプライドが発する毒素に気づくことだ。それから隣の毒に引っ張られないこと。プライド過剰人間のあふれる池で、少しずつその毒素を取り除く作業。これは並大抵の仕事ではない。徒労に終わりかねないこの作業に、身を賭して取り組んでいる人はいる。「んなこた、やったって無駄だよ」というペシミスティックな声に抗って。私も及ばすながら、その端っこにいたい。いや、せめて毒素を吐き出すのはやめたい。そのために、どうする?まぁ身近なところから人助けだな。これが私の思いつき。20代で病床にいた私に、なにげないお見舞いが嬉しかった。感謝を要求するのではない、さりげない善意。見返りを求めないプレゼントである。おっと! 相手が望まない人助けは、ストーカーになるぞよ。この勘違いも避けたい。思いこみは危険デス。助けたい人ばかりで溢れた池、という事態にはならないとは思う。まだまだこの池には助けを必要としている生物がいる。だって今日は私が助けを必要としているかもしれないが、明日はあなたかもしれないではないか。人助けしたあとの爽やかな気持ち。それさえあればプライドは毒素を出さずに済む。思うようにならないプライドを持て余すくらいなら、何でもいいから人助け。何度も言うが、報酬は爽やかな気持ち、それだけ。まぁ、騙されたと思ってやってみてください。今朝のご提案でした。お分かりでしょうが、これ自分に宛てたメッセージなのよん。
2008年08月30日
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あの暑い夏に全く降らなかった雨が、何日も続けざまに降っている。まったく、思うようにならないものだ。おかげでさみしいではないか。嵐ならともかく、心までグレイになるではないか。(嵐のときはなぜか元気。アドレナリンが出るのか?)で、暗い家の中から脱出すべくエアロビクスに行った。ゆううつなのは亭主も同じらしい。しかし彼は天気にせいなどにはしない男。少し前までは、夫を置いて外出する妻に自分の不調の原因を求めていた。さすがにそれは自制しているようだ。帰宅した私に対する仏頂面も控えめ。しかし血圧を何度も計ったりしている。私の視野に入ってはいるがあえて声をかけない。だって心の不調の原因を探っているだけだから。夫が抱えているのは、お天気のせいかどうかは分からぬが、ブルーな気分。ブルーな気分くらいで女房に文句言うんじゃない。確実に自分の最期をみとってもらえる人間をそばにおいておきながら。まったくね。女はね、というか私はね、自分の最期を看取ってくれる人間を確保なんてできていない。男はちゃっかりそれを確保しているのに、その上まだぜいたくを言うか!と威勢良く車を飛ばしてエアロに行ったのだった。それくらい自分を鼓舞しないと、「行くな、行くな」の呪いが凄いのである。明らかに態度を変えてのアピールである。本人が自覚しているかどうかは定かではない。しかし、このようなアピールには答えない、断固。あなたの最期を看取るためにも、私はフィットネスに通う必要があるのだからね。だって、私、この見知らぬ土地で一人ぽっちになるんだから。最期まで二人で…のあなたとは、大きく違うのよ。景気づけついでに「太宰治なんて大っきらーい」と心の中で叫んだ。なぜかは分からぬ。頭に浮かんだのだ。太宰の心中事件が。甘ったれて、一人じゃ死ねない男が女を道連れにして!才能があろうと何だろうと、こんな男は認めないね、あたしゃあ。とんだとばっちりですが、太宰さん、ごめんなさいね。同じく、一家心中、無理心中も認めない。怒っていたら、ピンポーン。ドアを開けたら、いちじくがいっぱい。雨が降って痛む前に、とくれたのだった。雨の日はこのような恵みがある。ちなみにいちじくは夫の大好物、よかったねぇ。
2008年08月28日
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涼しくなったと思ったら雨だ。雨が降ると自然にテンションが落ちてブルーになる。なんとも単純な人間である。単純な私ということで言えば。毎日ひまな私は毎晩ビールのお供にナイターを観る。おっサンテレビのおかげで、いつの間にか阪神ファンである。そう、芦屋に2年間住んでいるうちに阪神ファンになった。中途半端な境遇にあった私は、毎日夫の帰りを待つばかりのひまな女。目の前にはテレビしかない。そこで連夜繰り広げられる阪神戦。もちろん阪神びいき丸出しの中継だ。特にサンテレビは死んでも阪神戦!といった意気込みで中継を続ける。おかげですっかり洗脳された。ほんと、単純な人間である。しかし、皆さん!単純なのは私一人ではないのである。まことにテレビというのは恐ろしい。それもテレビ業界が結託したら今のところ敵なし。ネットでぶつぶつ言っていても、おそらく爺ちゃん婆ちゃんの耳には届かない。選挙に行くのが大好きな爺ちゃん婆ちゃんはテレビも大好き。ね、そうするとどうなるか。もうすでにそうなっているのであるが、テレビに洗脳されるのである。毎日毎日阪神大好きって人たちを見ていると、私も好きっとなっちゃうの。昨日は星野ジャパンの批判をしていたフジテレビのとくダネ。が、今日はオリンピックの総括とうたいながら、野球の話はなし。批判のひの字もない。他局、当然日本テレビははじめからその気はない。ネットで見た昨日の日本テレビZEROによると、どうやら星野氏はWBCの監督をやる気満々である。名誉挽回の機会をいただくつもりらしい。なるほどね。ナベツネ氏のコメントもスポーツ紙が書いている。野球界を未だにナベツネ氏がコントロールしているのか。ナベツネはもちろん政界とも通じている。(星野もナベツネも野球の現場にはすでにいない)政界、財界ぐるみのオールジャパンなのか。WBCも大リーグの肝いりらしい。スポーツ観戦というのは、いいガス抜きになる。阪神の応援席を見ていると、これはある意味セーフティネットだと思う。阪神戦の応援をしていれば、社会への不満なんて雲散霧消するだろう。そういう意味で、スポーツ観戦(興業としての野球)は必要だと思っていた。しかしである。ここまでやられては、しらける。広告業界とテレビは切っても切れない仲である。特に今のようにスポンサー離れが進行するテレビ業界。電通にはまったく頭が上がらない。電通がでっちあげる幻と分かっていても、「星野でリベンジ!」といったキャッチコピーを流さなければならないのだ。自分たちの死活問題なのだから。近日中にこの方向で各局がPRを始めるだろう。どんなに負けようと視聴率が取れればそれでいいのだから。ここまで書いてきて、あれ? 私は何に怒っているのか。どうも星野氏が野球の監督ではなく、政治ゴロのように見えたせいだ。こんなのイヤだ!ちゃんと野球らしくして!ということなのか?いや、おかしいぞ。自分に腹を立てているのだ。まんまとテレビと広告業界にしてやられた私に。野球は公平なゲームである、と洗脳された私に。野球もプロレスと同じ興業なのであった。とほほ。しかし、である。必死で闘う姿に感動するというのが、そもそもちゃっかりしているのではないか。自分はテレビの前でゴロ寝しながら、他人様が必死で闘っているのをただで見て感動して…ってねえ。ただじゃなかった、ってこと。ただより怖いものはない。労せずして得られた感動と引き替えに、私たちは自らの脳を差しだすのである。がーん。
2008年08月26日
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八月もあと一週間。涼しくなったもんだ。いやはや過酷な暑さだった。特に冷房ぎんぎんにして家の中でテレビ、とはいかないわが家。外の気温と湿度がそのまま老いた体を直撃する。こんなときはじっと動かず省エネだ。なんて言い訳をしつつものぐさを決め込んだ。でもね、そろそろ夏休みも終わりにしよう。そういう気分にようやくなれた。不快指数の上昇は生きる意欲を減退させるのである。オリンピックの星野氏の戯れ言ももういい。夏と一緒におさらばだ。ああいうタイプの男の正体が、見えたでしょう。俺は男だ、闘将だ。こういう幻想は早々に破っておこうね。オリンピックは壮大な幻である。幻想が果たす正の役割もなくはない。でもね、幻想が幻想であることに気づく賢明さがほしい。星野氏は、たぶん気づかないままである。自分の責任だと言いながら、肝心かなめの責任のディテールについて語ろうとしない。偽装問題で謝罪会見する社長たちとよく似ている。本心では自分の責任など思っちゃいない。もともと自分の実体と向き合えない人だもの。「自分が客観的に見ても…」などのセリフが哀れである。年をとった人間に出来る最大のことはね、おのれの無力を知ることなのさ。そう、知らないのことを知ることなのさ。
2008年08月25日
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なんかに似ているなあ、と思った。星野さんの状態が。オリンピックの野球のことである。え? そこでなぜ岩瀬なの?こう思った人は多いだろう。この局面で二度も失敗した岩瀬を起用するとは。二戦目の敗戦の後、星野さんは、自らの継投の失敗だと認めて選手に謝ったという。これも過去に覚えがある。阪神が優勝した年に、吉野という投手だったか、同じようなことがあった。もっと早く降板させてあげれば…という、選手の大きなダメージになるような起用だった。失敗のイメージをひきずるな、とはよく言われる。失敗のイメージをひきずったばかりか、さらに傷を深くするようなことを、星野さんはしてしまった。見ている者が「なぜ?」というような采配がそれである。これはフツウではない。やめようと思ってもやめられない。失敗してはいけない状況で失敗した。「失敗」の二文字を消してしまいたい。。失敗をなかったことにするために、同じ事を繰り返す。岩瀬、お前を信じるぞ。これは岩瀬にはきついでしょう。お前に託したぞ。「失敗」の二文字を消してきてくれ。継投の失敗は星野さんの失敗である。それを岩瀬に消してくれと頼むのは、筋が違う。クールヘッドで考えたら答えは明快だ。失敗を続けている投手が、短時間で切り替えて好投する確率は低い。もしかすると、星野さんは自分の失敗を認められなかった人なのか。あれは投手の力不足だった。そう自分に言い聞かせているのかもしれない。自分の間違いや失敗を認められない人は多い。間違いや失敗は押入の奥にしまい込んで、「俺は強い」と自己暗示をかけつづける。星野さんは、選手に依存しすぎである。俺が信じたお前たちだ、任せたぞ。岩瀬、俺はお前を信じて起用したんだ。こう言われたからって、投手にも自ずと限界がある。その限界を見極めてやることこそ、情ではないか。投手に託したまま、投手の交代は大野コーチに命じて。岩瀬を潰したようなものだ。この選手にはここまで、これ以上は無理。これを見てとるのが監督の仕事ではないか。理想の上司と持ち上げられた人だけれど、どこに情がある?で、何に似ていると思ったかを書こう。依存症。アディクション。自分の失敗を否認し、間違いを繰り返す。やめようと思ってもやめられない。同じ過ちを繰り返す。依存の対象に執着するのである。この病態の社会背景に、強い者が○で弱い者が×という価値観がある。勝つことがすべて、という価値感の広がり。弱肉強食。野球をはじめスポーツでは当然のことなんだろうか。勝つことがすべてなんだろうか。そんなことを、野球など門外漢である私であるが、書きたくなった。
2008年08月24日
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信田先生に久しぶりにお会いした。いえ、テレビを通してだけれど。私好みの華やかな上着がお似合いだわ。何年ぶりかしら、お変わりがない。私より2歳上なんだなあ。なんてことを思いつつテレビを見る。「母が重たい 墓守女の嘆き」が売れているという。その本の中身が紹介される。聴き手の女性たちは他人事ではない感じ。中井さんが「きつい」なんて言う。ズドンと直球で書かれているのだろう、と想像する。そうなの。私、その本を読んでいない。あえて読まないのかなあ。よく分からないけど、最近本を読まなくなった。上野千鶴子さんの「おひとりさまの老後」も、読む気にならず。友人が貸してくれるというので、斜め読みをした。たぶん、今の私に必要ではないのだろうな。それに信田先生の話を聞いていて感じる。先生の考えを、私はかなりの程度身体化しているみたい。著書を読み、実際にカウンセリングに通った。そしてもちろん、考えた。その結果、取り入れる必要のあるものをしっかり取り入れている。私なりに必要なものを。近いところで、夫とのやりとりにその成果が表れているではないか。すごい!当然ながら、きっぱりくっきり、信田先生の教えのおかげ。それと私の胃袋の消化力も、少しは認めてやろうと思う。それにしても「依存症」という本に始まった信田先生との出会い。じつは内田樹の名前を知ったのも、信田先生のブログから。そしてこのブログを始めたのも、信田先生のサジェスチョンのおかげだった。いや、有り難い。ほんとに。テレビを見ながらしみじみ思った。しかし。母の重さから逃げたという意味では、私はある意味先駆者である。母の無意識がどれほど娘の行動を縛るかについての自覚は、早かった。なかなか前進しない妹の結婚を後押ししたのも、それが分かっていたから。妹に唯一恩を売るとすれば、この一点なのである。
2008年08月23日
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不機嫌な年寄り、ときたら男でしょ。不機嫌なおばあさんもたまにはいるけど、圧倒的におじいさんが多い。なぜだろう。なぜかはわからないけど、不機嫌よりは機嫌いいのがいい。私などは陽気で明るいおばあさん。これは特筆すべき長所ではありませんか。なーんて、最近自信満々のわたくし。爺様の不機嫌に対して、言うことはびしっと言い、あとはバイバイできました。仕事を抱えていたことも幸いしました。「俺は怒ってる、って全身で表して、嫌味ちくちく。女房いじめて鬱憤ばらしするのは卑怯です」なんてことをきっぱり。ついでに「あなたの敵は私でもなければ隣の婆さんでもない。あなた自身のなかにいる」てなことも言いました。「口だけ達者だ」と相手は申します。続けて「それと…もだけどな」と付け加えて。この…がもうぞーっとするくらい嫌味でございます。「はいはい、あなたにはそう思えるということね」一貫して冷静に、問題を相手に突き返す戦法が板についてきました。「あなたはね、実際にあったことと、そこから想像して思い込んだこととごっちゃにする癖がある。思い込むのはあなたの自由だけど、それを相手に押しつけることはできない」相手の思うつぼにはまらなかったのはなぜかしら。いつもだったら、私の感情の部分を挑発して怒らせるのが、相手の手なんだけど。仕事をしなければならなかったので、何とか自分を鎮めました。これが功を奏して、あちらからトントンとノック。「話したいことがある」と言ってきました。まあ、この辺で手を打ってくれといった内容の言い訳でした。「いいわ。それなら納得する」彼が私にバトルを仕掛けてくるときの攻撃には、「…」ともうひとつ。「みんなにあんたが何と言われているのか知っているのか」というのがあります。体面を重んじるというのは、彼の中で大事なこと。それに私が反した行動をとったという攻撃です。そうそう、「恥をかかせるな」とか申しましたね。「恥をかかせるような妻がいやなら追い出してください。昨日今日、私がいったい何をしたというんですか」「私がみんなに何と言われているのか、ビデオかテープにとってきたのなら信じますけど」みんなというのが誰のことなのかも彼は言いません。どんなことが彼に恥をかかせたのかも、もちろん言いません。これが根も葉もないことであることは、これまでの経験で分かっていました。まるで因縁つけられているみたいなのですね。こういう脅迫にまんまとひっかかっていたのは昔のこと。じつは敵の勝手な思いこみ、あるいはでっちあげである場合が多いのです。つまり、気に入らない妻に対して脅しをかけるために彼が作り上げたお話。自分の感情の不安定の原因を、外に求めることで解消してきた彼一流の処世術です。妻が悪い、だから自分は悪くない、と、自分にも言い聞かせる。そうすることで免責されるわけですね。なぜ自分はこんなふうに不安になるのだろう、というふうに深まらない。ちょっちょっと待ってよ。あなたが自分の苦しみから逃れるために私は人身御供なの?これって何かに似ています。そう、思春期の子ども。親から自立する時期の子どもが、自分の失敗を母親のせいにして癇癪を起こす。あれに似ています。それはともかく、「あなた、それは違うよ」と、私は言ったわけです。わが子のときはなかなかそうはいかなかったのですが。今回は彼の一人相撲が決定的だったので、すなおにシャッポを脱ぎましたけど。一応ご報告でした。
2008年08月22日
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またまたわがヤヤコシさんが変だ。変だけど、構わない。「好きなだけ不機嫌と仲良ししていなさい」と心の中でつぶやいて。テープ起こしの仕事にかかりきりだった今日の午後。そんなことが原因とは言わせないぞ。まあ、だいたいね、予想はしてる。一人になると彼は内なる敵を持て余す。持て余した結果どうするか。敵を外に見出すのだ。内なる敵を外部に見たてて、その怨念を放出する。きっと彼が長いことつきあってきた敵との戦い方。外部とは、時にお隣。時に妻であるわたくし。まったく迷惑な話である。彼は被害妄想もあるけれど被愛妄想もある。どうやら人との関係に、信じるに足る基準を持てない人のようだ。だから妄想に走る。どちらも残念ながら的を外している。しかしあれですね。いわゆる右翼といわれる人たち。北朝鮮とか中国をほんとににくらしく思うらしい。私にはそんな憎たらしい敵は以内から、理解不能だ。でもこの人たちが、自分の中に居座る敵を敵と認めがたくて、外部に分かりやすい敵を作り上げているのだとしたら。この手の物語は、分かりやすいのが特徴だ。自分を滅ぼしかねない内なる敵と闘うのは、どう考えてもわが身の損失だ。ならば背負いかねる攻撃性を外敵に向けようではないか。そうして彼らが依存する物語が出来上がる。この物語に依存している限り、彼らは自爆を免れる。ああ、だとすれば、わがヤヤコシさん、私と結婚したのはまずかった。彼がしがみつく物語を一蹴してしまう妻だもの。それにしても。彼および彼らの内側に棲むおぞましき敵とはいったい何だろう。イージーな想像ではあるけれど、まあ母親であろう。母親を憎む自分に耐えられない人は、外部に敵を作るしかないではないか。本物の愛とか言いたがるヤヤコシさんは、7年越しの愛人に追いすがられたにもかかわらず、「本当に愛していたのは○○だ」と思い込む。馬鹿だね。本物の愛という定義自体がおかしい。彼の言う本物の愛とは、絶対愛に近い概念だ。そんなのあるか。母親の子どもに向ける愛がそうだと巷で言われる。それが自分にはないと、思いたいのか。馬鹿だね。人は、自分を一番愛するのだ。それが自然なのだよ。ああ、ヤヤコシさん。妻が本当に愛しているのは前の夫だ、なんて妄想してないでしょうね。なんとなくそんな予感がする。どこまで私を占拠すれば気が済むのだ。本物の愛とはそんなもんじゃないぞ。それに、じつは本物の愛について追及したわけでもない。いや追及するのは怖いだろうな。哲学すれば?
2008年08月20日
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空を雲が覆っているのでやや過ごしやすい。この異常気象のせいなのか、わが庭にコナジラミが大量に住み着いた。モッコウバラの生け垣と、ワイヤープラントのグランドカバー、通称オカメというツタ等々に、白い粉がくっついている。これがコナジラミという虫である。触ると粉が散るように逃げる。そしてあちこちに子孫を増やす。知らぬ間に、わが北側の庭に潜んで成虫となっていた。というわけで、暑いさなかに外仕事をする夫を見て見ぬふりとはいかず。ついに、生け垣となったバラやらワイヤープラントやらを、伐ってしまうことになった。こういう大がかりで大ざっぱな仕事に、私は向いているらしい。夫の許しを得て、バッサバッサと大きな鋏で刈る。もちろん暑いなんてものではない。数時間で剪定ゴミの山がいくつも出来た。この地域ではゴミ出しは有料である。が、地元の人は「海へ放る」。しかしわが夫は、法令遵守。有料のゴミ袋に丁寧に詰める。真面目である。これくらいしないとまずい、らしい。相変わらず隣のお婆さんを嫌がっている。彼女の行動が私の家を監視しているように見えるようだ。「べつにあの人がたいした力を持っているわけじゃなし」とノー天気に私が言うと、「何言ってるんだ世間知らずくん」的な発言があり、おうおうそうであった、と以下のセリフを呑み込んだ。「またまた、あなたの思いこみ。猜疑心。警戒しすぎ。あのお婆さんが私たちの寝首をかくわけじゃなし。考えすぎない方がいいよ」この一言で夫婦関係が悪化することを、ようやく知った私である。もう、言わない。「ふーん。私は、そんなふうに考えないようにしよっと。どっちにしても私はあなたを楯にして隠れているんだから」賢くなったね、お前さん。(と自画自賛)しかしこれは正しいのである。この地域のゴタゴタに私は一切かかわらない。すべて夫が矢面に立つ。有り難いことだ。まあ、守られている可愛い(?)妻なのだ。以前は、「こんな座敷猫み状態にされて、あなたが死んだらどーなるの!?」と不安に駆られたものだった。今はもうね、なんとかなるでしょ、という気分。「予祝」を自分のものにしたからである。この人が亡くなった後の事が心配だから転ばぬ先の杖をば…、と浅知恵を巡らしていたのは過去の私。この人は当分死なないわ。たっぷり生き続けるでしょう。もちろん私を守るためにね。39歳で突然四人の子を抱えて未亡人になった母を見ている。母は家計のことなどなんにも知らされないまま、夫を喪った。それでも明るく、現在も生きている。これはとても心強い。私にも出来る、と思わせる。なんとかなるわ。どうも、不安や猜疑心が強いときというのは、心の状態がよろしくないとき。軽い鬱状態とでも言おうか。これを避けることが、老人生活を快適にするための最優先事項である。そう悟ったときから、アクティブになった。何の意味もない行動でよろしい。動けば食欲も出る。喉もかわく。生きるということは、とりあえず動くことなのである。じーっとしていると、身体が「生きる」のを忘れてしまう。わが夫が庭仕事に精を出すのは、おそらく同じ理由ではないか。さすが私のヤヤコシさん、妻にコントロールされる従順夫には頑としてならず。かといって私を支配する頑固爺にもならないつもりのようだ。あくまで自分のやり方を貫く。私だって私のやり方を貫きたいということがお分かりいただけたいのか?いずれにしろ、心の中で私は拍手する。そして、時々顔を出す彼の「猜疑心」にも動じない自分を讃える。うまくいっているではないか。この「猜疑心」が私に向いているとき、わが家は不穏になる。が、それもどうにか乗りこえて。(フィットネス通いのことね)ところで余談である。会社などで、集団の維持および成長に貢献する人は、その構成員の一割だと、よく言われる。実感としてよく分かる。その一割でバリバリ働いていたころ、残りの八割はやる気なさそうにしていたものだ。家の中でも同じみたい。前の結婚で、私は働く一割の役目を担っていた。今度の結婚では、働く一割は、いつも夫が握りたがる。また巧みである。なので私は渋々、働かない八割の役を仰せつかっている。バリバリ働く一割の方が断然気分がいいことを知っているから。出来る一割と、出来ないその他。そりゃ一割の方がいい気分だ。それを、出来るからその分給料上げよと言う。優位に立つ気分の上に給料まで!と、最近の私は能力主義に疑問である。能力のある人は、その能力を発揮できるだけで幸せってもんだ。その上に金よこせ、では欲張りすぎ。このように思うのですが、さあて。も一つ余談。オリンピックで登場した若々しい男子のこと。19歳の内村くん(体操の個人総合銀)と、22歳フェンシングの太田くん。彼らの母親たちがとても面白かった。内村くんの母は、「生きててくれればいい」と心配ばかりする母親で「もうあんまり電話してこないで」と息子に言われていた。太田くんの母は、「彼が帰ってきたら、ぎゅーしてちゅーしたい」と言い、息子に「帰らん」と言われていた。このどちらも、息子が母から離れて自立していくときの母子関係をとてもよく見せてくれた。いや、母の気持ちと息子の気持ち、かな。この年頃は、完璧に母親の方からの片思いなのだ。そしてこれこそが子どもが自立していく過程で最も望ましい。横で「それ言ったら帰らんわ」と茶々を入れる父親の存在がある太田くんの方が、やはりより大人に近いのは当然か。微笑ましかった。うちはすでに27歳だもんね。出したメールに返事もくれません…。このブログを読んでいる気配もなく、こんな愚痴は届かないのですけどね。元気でやっていればいいのですけど。ぐすん。
2008年08月19日
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世の中は「お盆」である。わが家には関係ないけど、「お盆」らしく暮らすことにした。スーパーの提案する「お盆」であり、テレビ局が勧める「お盆」である。つまり、オリンピックを見ながら出来合いの寿司やオードブルをつまみに昼間からビールを飲むのである。それを昨日、今日と実践した。折しも猛暑であった。体温より気温が高いのではないかという熱気。家の中が異様に暑い。「冷房部屋にこもろうか」と夫を誘う。「そうだね」と、夫はバラの本を片手に和室にやってきた。わが家のなかで唯一クーラーの効く部屋である。オリンピック観戦は右の目で、左の目は読書を担当する。しかしこの和室というのは、年を取った人間にはなんとも困ったことが起きる。正座が困難な二人である。椅子があるわけでもない。足を投げ出して座っているのには限界がある。つい横になる。肘が痛くなる。ゴロリ横になってテレビを見たり本を読んだりも楽ではない。「切り炬燵にすればよかったね」私が言う。「いいね」夫。「でも無理。ここに炬燵をすればますますぐうたらになる」言い出したくせに私はあっさり却下する。「いや。ここに小さな炬燵を作ろう」彼は諦めずに考え中。「だめよ。私、炬燵があると自分がどんな生活をするか想像できる。それがイヤだから炬燵を避けてきた」などと言う私。「ボクも同じだよ」おや、意外なお言葉。「あなたは私と違って、ぐうたらに陥っていくのを自ら阻止できる人だと思ってた」「いやボクだって同じだよ」彼は繰り返す。そこではたと思いつく。そうだよな。ぐうたらの極は破滅だ。人は何とか破滅に向かう自分をおしとどめんとさまざまな工夫をする。とことんぐうたらにしていると、振り子のようにまともな暮らしに戻ることもあるが。まあ、恋愛なんてのは本気になればなるほど破滅に向かうものだ。その激しいやつに陥った二人である。破滅の恐ろしさに気づいていないはずはない。その「破滅」から一足先に這い出すのはいつも夫であった。彼の目に映る私は、彼自身が恐れる破滅の姿である。私より警戒心の強い男である彼は、とっさにそこから脱出しようとする。このままでは破滅の海に溺れてしまう、と。これに私は救われた。土手に手をかけて這い上がる彼、その左手にぶら下がる私。私を一緒に引き上げてくれたことだけ考えても、私は感謝すべきだろう。私を振り払って自分だけ這い上がることも可能だったろうに。それをしないのが彼の矜持である。地球の引力のように、破滅の誘惑は強力だ。どうせ死ぬのだ、いつ死のうと関係ない。などと思う人々が増えているのも判らぬではない。生と死との綱引き、その緊張感の中で人は生きる。「お盆」にふさわしいテーマだなあ。まだまだ私は生きるぞよ、と起き上がる私。台風の予兆の雲の下、害虫駆除をする夫。なんとも因果な二人である。おいしいご飯作るからね。私や夫のように、破滅の誘惑の強い人ほど、がむしゃらに文章を書く。恐怖の底なし沼に引きずり込まれないために。もしかしたらあの人もそうか?
2008年08月16日
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人は分類が大好きだ。血液型然り、星座然り。自分はこういうタイプだ、某々はこういうタイプだ。だから、合わない。なんて自分を納得させる。分類なんてその気になれば限りなく出来る。人は何とかして自分のポジションを確かめたいもののようだ。他人と比べて自分はかくかくである、と。ということで、今朝は一本の秤をイメージする。秤の一方の端には「自然」を、もう一方には「人工」。この間に無数の目盛りがある。まん中がゼロ。ちょうど自然と人工のバランスのとれた状態だ。この秤で、私はどのへんにいるんだろうと考えてみる。全体を地球上の全人類とすると…。やっぱりね、日本は先進国だからかなり「人工」に傾く。しかし、私の年齢は59歳、20代まで地方都市で育ったことなども考えると、「自然」に方に目盛りは傾く。おまけに私は女である。この「女」に「男」より自然の要素が多く含まれるという意見には、たぶん賛否両論あるんだろう。しかし私の実感では、やはり「女」は「男」より自然に近い。身体性という言い方もできる。五感も、男より鋭い。原始的だと言われるのも、しばしば女だ。女はリアリストだと言われるのも、似たような理由じゃないかと私は思っている。日々生きていくことを最優先する女は、現実的にならざるを得ない。志を掲げる前に、明日のご飯、である。何をごちゃごちゃ言っているのか?そう、女は男より自然に近いと言いたいのである。しかし、現在71歳の夫は、私よりもずっと「自然」に馴染んでいる。生きてきた時代が12年も違うと、このくらいの違いが出るのだ。彼は大阪のど真ん中、あの「吉兆」のご近所で生まれ育った人。生まれたときにすでに道路は舗装されていたらしい。それでも、疎開の経験があるせいか、「自然」の扱いに慣れている。田舎といっても、戦後の地方都市に生まれ育った私より、はるかにね。しかし彼の「おツトメ」の40年間は、年を経るにつれどんどん人工的なものになっていった。出世するのと一緒に、ビルディングの高いところに移動したみたいに、自然から遠ざかった。時代の人工化も加速した。リタイア後にバラを育てるとの夢を抱く彼が、私を晩年の伴侶にしたのは正解だろうな。彼の目には、人工的に洗練され損なった私の姿が新鮮に映った。ダイアモンドの原石、なんて陳腐な表現で、私の母に語ったらしい。この選択は、限りなく人工的になりつつある「男」にわずか残った本能なんじゃないか。そう、私と同世代の男とは、明らかに違う。ソフィスティケートされているかに見えるが、違うんだなあ。「自然」を求めてバランスを取ろうという感覚がある。それにしても、現代の男たちは可哀想だ。バランスを取ろうという感覚も鈍っている。何とか「女」にそれを求めるが、どっこい「女」も人工化している。おやおや。ところがオリンピックを見よ。サッカーもホッケーも、あの格闘技と見まごうスポーツで、女たちが活躍している。しかもその戦いぶりが、男たちよりずっとワイルドなのだ。「なでしこ」に比べて、「反町ジャパン」の男の子たちがひ弱に見えたのは私だけか?ああ、こういう結論になるはずじゃなかった。女が強くなりすぎたから、今の男の子がひ弱なんだ、って?違うと思うけど。すこし。いや、責任あること認めます。しかし!女は子どもを産み育てるという非常に面倒なことをしたおかげで、「人工化」から逃れているのだ。世の中からは置いてきぼりを食らうけど。子どもなんてのは、思い通りにならない「自然」そのものだ。(そうそう、中国さん、人工的に雨を降らせるのは止めて!)その子ども相手の悪戦苦闘が、後に生きてくる。一つ提案がある。若い男の子たちよ、結婚すべし。女はね、きみのパソコンやゲームのように思い通りにならないのよ。あそうか、思い通りならないから面倒で恋愛もしないのか。それはともかく、世の男たちに、恋愛をお勧めしたい。思い通りにならない「自然」を体験するべし。何を隠そう。人生の大半を自らコントロールしてきたわが夫が、最も難儀しているのが妻である。妻は生きている!思い通りになんかならないのである。バラの方がまだましらしい。うふふ。竜頭蛇尾になってしまった。
2008年08月14日
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「本音と建て前」について考え中。長女が小学校に入学した時、「あ、ここに建て前があった」と思った。何年前だろう。20数年前だ。知り合いもいない東北の地で二人の子どもを必死に育てていた。亭主は仕事一本、会社がお家みたいな時代であった(高度成長真っ只中)。私はなぜ学校を「建て前があった」などと感じたのか。学校とか先生に、私は失われし建て前の残滓を見たのだ。正直、うれしかった。当時の私がいかに「建て前」を欲していたかが想像できる。長男が高校生の頃にもその傾向を感じたなあ。母親である私が「建て前」のお話をするとき、たまに彼の反応がよかった。あ、この子も「建て前」を求めているのかと思ったものだった。なぜ私は「建て前」を欲しがったか。建て前って何だ?広辞林によると「物事に対する方針。原則。」だそうだ。そうか、欲しかったのは「原則」か。規範と言ってもいい。ルールでもいい。枠組みだな。私は「拠り所となる何か」に飢えていたようだ。そして、多くの一般大衆も同じ思いであった。たぶんね。なぜ建て前を失ったか。戦前はがしっとあった枠組み。天皇を神とする物語だ。それが戦争によって脆くも崩れ去った。神は人間になった。神を信じ、神のためなら死ねるとまで思った多くの人々はどうなったか。何を信じて良いのかわからなくなった。おそらくね。裏切られた思いも、きっとあったろう。その多くの人々が、私たちの親であった。民主主義がやってきた。農地解放だ。(不在地主は土地をただで没収されたのよ)みんな平等になった。家長なんて言わなくなった。一応。そして、一般大衆が力を得た。女と子どもが強くなった。女子ども一般大衆の無意識は、お上の言うことを軽々と信じるな、というような感じで伝播した。だって、騙されたんだから。戦争に勝つ、勝つと言われて信じていたら、ウソだったのだもの。話は飛ぶが、騙されたと言えば、北京オリンピック開会式。花火の一部が一年がかりで作られたCGだったことが判った。開会式で歌った女の子が口パクであったことも判明した。女の子の口パクは、テレビで見ている素人の私にもそれとすぐわかった。テレビ視聴時間が長いせいで目が肥えたか?いやいや、日本国に住む我々は、太田某大臣によれば「やかましい消費者」である。疑り深い。彼の言を借りると、「民主主義が発達して言いたいことを言える自由な社会」に住んでいるために、とりわけわが国の消費者は「やかましい」のである。であるので、中国のこのたびの「偽装」騒ぎには同情を禁じ得ない。想定外だったろう。かの国は、共産党独裁国家である。上から下へ一斉に網をかけることが可能な国である。戦前の日本のように。「花火のCGや口パクの、何が悪いの?」と、当事者は感じているに違いない。こんなことぐらい、日常的に行われていることだろう。かたやわが国では、朝日新聞のサンゴ礁事件を筆頭に、ついこの間は産経新聞の月とコウノトリ?写真事件など、「ヤカマシイ消費者」の監視の目によって、メディアは叩かれる。消費者=一般の人々を騙すようなことをすれば、国のトップだろうと大メディアだろうと、強烈な指弾を受ける。そういうことに、中国の首脳もメディアの方々も慣れていない。むしろ、国民をコントロールする手段として、メディアは位置づけられているだろう。中国において、メディアは大衆のものではない。国の上層部のものである。(と思う)しかし世界は広いもんだ。オリンピックで自国の偉大さを披露するつもりが、じつはその弱点をも世界に晒すことになった。弱点というか、自らが必死で隠しているものも見せてしまうのが、テレビである。外国のメディアはヤカマシイなあ、と中国首脳は言うだろうか。こんなことで動じる方々ではなさそうだね。だからさ、いちいち「偽装だ」と騒ぐ「ヤカマシイ消費者」の国とは違うの。ま、それだけの話。違いがあるよな、という話である。どっちの国がいいかって?そりゃ私は一般大衆だし、騙されたくないもの、決まっているでしょ。そう、騙されたくないから、ああだこうだ言い続けるのだ。一般大衆は。二度とあのような、挙国一致はいやである。銃後の妻になんかなりたくない。手に入れた座布団を手放すわけにはいかない。だから、おばさんたち(含むわたくし)は、本音ばりばり言い放題。建て前にはご用心、なのである。みんなおんなじ原則に縛られたら、戦前みたいなことになる。それはいやだ、ってわけ。しかし原則がないというのは、つらかった。一般大衆の代表である私が、20数年前から飢えているのである。なくしてしまった「原則」というやつに。本音ばかりの世の中に、うんざりしている人が増えている。人々が、それぞれ本音を主張し出したら、世界は大混乱だ。それぞれが自己チューになるわけだからね。もうすでにそうなっているけどさ。それはやっぱりまずいでしょ。テレビでマナーの番組が流行る理由もそれ。息子がこの手の番組を見ているので驚いた。「建て前」をみんなが欲しがっているのである。原則をね。随分前から、多くの人がそれを感じている。けれど、一度広がった本音の世界は、収拾がつかない。とはいえ、振り子である。また一気にファッショなんてことはないとは思うけど。でもたしかに、拠り所となるものをみんな欲しがっているよね。拠り所となる物語、本音ではない建て前の世界をね。私がそのいい例じゃないか。ウソでもいいから、愛してると言い続けて欲しいって?うーん、どうかなあ?自分の欲求に素直であることはいい。しかしブレーキをかける何かが必要だ。昔の人は、ブレーキを備えている。ブレーキとは「建て前」。利己を抑え、利他を優先することが最終的に自分を利するということ。建て前には、この教えがある。そううちの夫は自然にそれを持っている。ん?私はこのような人をもともと求めていたという結論か?いずれにしろ我々の世代には、このブレーキが壊れている人がやたら多い。私の友人M子は数少ない例外だ。何故かと考えたら、母上が明治の人なのだった。やっぱりね。何だか話がぱらぱらになってきた。なので終了する。
2008年08月13日
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北島康介はすごかった。あの涙もすばらしかった。何とかこらえようとしていた。こらえようとしても尚溢れてくる涙。これに私は感動した。すごい人だね。涙で思い出した。野田聖子と小池百合子の涙を、たまたま同じ時期に見た。野田聖子は、小泉に放り出された怨念を涙で噴出させたかのようだった。滝のように流れる涙。有権者に訴える涙。号泣であった。怨念の涙は凄まじい。一方の小池百合子は、選挙区を離れるというので感極まった。しかし涙を見せたくない。報道陣を遠ざけて、ぽつり一粒涙を流した。涙の質が違うと言えば違う。私の好みの違いでもある。そう、私は「涙をこらえる姿」に、男女を問わず胸を打たれるのだ。小池百合子の涙には、気丈な女の「男前!」を見た。そんな女が、私は好ましい。赤ん坊のようにおいおい泣く姿は、私的空間でどうぞ、と言いたい。泣いて要求を通そうという野田聖子的涙は、お子さまの専売特許だ。かく言う私も、人前で涙を見せることに抑制的である。父の葬儀の時、涙を見せない私を見て、のちに友人が語った言葉を思い出す。「思いきり泣けばいいのに。近所の人はわあわあ泣いてたよ」あなたの前で泣かなかっただけなのに…。彼女の前で感情を抑えている私に、友人は一抹の淋しさを覚えたのかもしれない(と今は思う)。このように、私も実は感情を表に出すことにためらう種類の人間だ。それでもこらえきれず、ほとばしる感情がある。北島の、何とか涙を振り払おうとする様子に感動したのは、そのほとばしりがあったからである。涙で人の心をコントロールしようなんて浅ましい心とは無縁なのである。だから感動する。しかし誰だ!?「ちょー気持ちいい」を言わせたのは?そう、どこの誰かは知らないがインタビュアーさん、あなたです。それに追随するように「二度目の流行語大賞」なんて取り上げ方をするスポーツ紙と、それをまた取り上げるテレビ局。「ちょー気持ちいい」を言わされたとき、北島は悲しそうだったね。一瞬、感動が冷めた。まったく、あんたがたの良いように話をもっていくなよね。邪魔だよ、そこのインタビュアーくん。以上。生の感動に、あなた方の作ったチープな流行語大賞なんて、並べたら失礼でしょ。
2008年08月12日
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私の住む自治会エリアで山林火災発生。有線放送の緊急告知で、驚いて玄関に出た。裏山から煙が上がっている。この暑いのに火事?とりあえず帽子、とあたふた外へ出る。おっと。夫が「鍵をかけよ」と鍵束を渡す。彼はいつの間にか着替えていた。すばやい。私は母の手作りアッパッパーにサンダルをつっかけて。坂になった農道を駆け上がる。じりじりと日差しが皮膚を灼く。山火事は、パチパチと乾いた音を立てている。県道に、野次馬はすでに集まっていた。ウーウーウーウー、カンカンカンカン。消防車が続々到着する。ホースを引っ張り出して消火栓につなぐ。や、道がない!そうなのである。山に至る道がない。人がひとりやっと通れるくらいの道しかない。消防自動車なんか入れない。何台も何台も、赤い車が並ぶ。「道を作ってもらわんとな。道はいくらあってもいいが」隣で不動産業を営む人が言う。返事しかねた私は、「空からでも消火しないとねえ」と答える。その通りになった。ヘリが飛んできて、バケツで水を撒く。何度も旋回してはやってきて、バケツ一つぶちまける。わあ、これで消えるのかなあ。バケツリレーというくらいだから、リレーするくらいじゃないと…。野次馬は誠に勝手なことを言う。風向きのおかげで、人家に影響はなさそうだ。夏の火事見物は、むちゃくちゃ暑い。ひとまず私は退散することにした。家に帰ると、またまた有線放送。沈火した?かと思いきや、まだまだ別の部隊に招集をかけている。一度ついた火はなかなか消えない。ましてや、この乾燥だ。何日雨が降らないか?からっからに乾いて、太陽にじりじり熱された草が燃えているらしい。○○さんのおじいさんのたき火が草に燃え移ったとの噂。おじいさんたちは、歳とともにとても気持ちが大きくなる。うちの亭主のように、枯れ草を燃すときはバケツを用意、なんてことはしない。自分を過信しているというか、なんというか。似たようなお年寄りがいーっぱいなのだ。さて、この日感心したことが一つ。私は純粋な野次馬として火事場見物で暇を潰した。それが普通だと思っていたら、まあ。夫は、消防団の人たちに冷たい飲み物を用意したのだ。シルバーの仕事に出ている会長さんを電話で呼び出して、二人で買い出しに行った。地元で起きた火災に駆けつけてくれた各所の消防団の人たちへのねぎらいである。たしかにね、この暑いのに幾重にも重ね着して、消防の人たちはさぞ暑かろうと思った。しかし思っただけで、それを高みの見物していたわけだ。さすがは夫!配慮の人だなあ。彼はいつだって、その他大勢の野次馬でいたりはしない。(時々鼻につくが)その場で自分は何が出来るか、と即座に考えるのらしい。このあたりの違いには、毎度敬服する。自分を一大衆として位置づけてふんぞり返っている私とはおおいに違う。貰えるものは何でも貰って、出すのは一銭も出したくないという「その他大勢」。近隣の爺婆を見ていると、少しうんざりする。そう、私もその仲間だと思うと、ますますうんざり。山火事は、ヘリの活躍でどうにか沈火した。ヘリはその後見回り旋回をしていた。消防団の人たちは、夕刻、背中に水を背負って山に行ったという。念には念を入れとのこと。ありがとうございます。夫の働きは、地域の「その他大勢」の人たちから、やはり浮いていただろうな。自治会長は、車で山の反対側に走っていったらしい。何も出来なかったらしいが、みんな野次馬レベルである。この場所で今自分は何をすべきか。こういう発想が出来るか出来ないか。公の精神といわれるものはこれなのだ。シルバーの仕事中に呼び出された会長さんの話。火事の放送は聞こえたので、隣の奥さんに電話をしたそうだ。たいしたことない、と聞いて呑気にしていたとか。つまり自分の家に被害が及ぶかどうか、にだけ関心があったわけ。公的な立場であることなど、意識の外であった。(とてもいい人なんだ)なーんて、言える私ではないのだけれど。
2008年08月10日
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適当に楽しんでいるうちに骨量が増える。これが理想だった。しかし、膝が痛い、と事前に申告していたせいか…。一昨日のエアロに続いて、昨日のサルサの先生とね「指導」が始まった。これはね、苦手なのね。わがままで勝手な私には、教えの通りマスターするのが一番辛い。しかし、ここで苦労して覚えなければ「膝に来ますよ」と言われる。エアロとサルサの先生それぞれが、それぞれの言い方で。故障者の指導だから、気を遣うのでしょう。この運動をしたせいで膝が壊れた、なんて風評は致命的だもの。ということで、わたくしの長年の癖を矯正することになりそうだ。長いこと、へんな歩き方をしていたようである。そう言えば、ふわふわと雲の上を歩いてるみたい、と言われた。少しだけかじった社交ダンスの時も、リズムに乗りすぎ、と言われた。思い出せばいろいろ出てくる。どうやら膝でわざわざリズムをとるような歩き方をしてきたらしい。それで膝に負担がかかって、おお痛っ!となった60間近の私。しかし、問題は膝だけではない。身体全体の動きが繋がっていない。膝の動きというのは、腰のあたりからベルトでつながっているものだそうだ。それなのに、繋がった動きが出来ない。それを一生懸命手で引き上げてやると、少し身体が目覚める。頭で理解できても、身体が納得するには時間が要る。私はそう言いたいのに、若い先生は性急である。年寄り相手に遅々として進まぬレッスンに歯ぎしりしておられるのか。だけどさ、毎日一度、ストレッチをやりなさい、と言われてもね。肩甲骨を開く運動は、教えられた日に、身体が納得した。それで、起床時に背中が痛まなくなった。「おかげさまで」と一応お礼を言う。すると、「一番新しく入ったのに、毎日このストレッチをやっているからです」なんて言われた。うーん、違うんだなあ。そういうこと言われると、出来ない人は家でさぼっているということになる。それは困る。家でストレッチやるほどの元気はなし、たまたま身体が納得するのが早かっただけなのだ。このように、やいのやいの言われると、自分のペースがこわれる。であるので、先生方の要求レベルが上がってくるのは、痛し痒しなのである。それもこれも、膝が痛くならないような身体運用を学ぶため。となれば、いやだ!というわけにはいかない。ああ、我ながらわがままだこと。でも、59年間の習慣が膝痛をきっかけに変更を余儀なくされている。長年親しんだO脚ともさよならかもしれない。うまくいけばね。しかし、三つ子の魂百まで。赤ん坊をお育て中の皆さんは、必ずはいはいさせましょう。私ははいはいをしないで大きくなったようです。順番を飛ばして成長すると、後で何かと不都合がおきます。はいはいしないせいで、2歳で文字の読み書きをしたかもしれませんが、失ったものも大きいということ。先を急げばいいってもんじゃないでしょう。でもふと考える。私、これから何年生きるんだろう。あちこち身体に故障を抱え、折り合いながら生きる人生の最終章。長生きもほどほどがいい、なんてつぶやきたくなる夏の朝。
2008年08月08日
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お久しぶりにジャンヌさんから有り難いコメントをいただきました。近々検査というか、病院に行きます。メタボ検診というのかな、地元自治体の検診ですがぐすぐずしておりました。ところで、またまた右手の人差し指に内出血を起こしました。ついでなので昨日、2カ月に一度お会いする整形外科の医師に聞きました。このごろ内出血しやすいのですが、薬の副作用では?と。どうも、そうではないみたい。血液さらさらの反対、つまり血栓を作るという副作用があるかもしれないお薬なのだそうでした。ネットでふらふら調べたら、セルライトの脂肪により血管が圧迫されているかもと、いかにもな情報あり。いずれにしても老化のようであります。素人診断は怪しいので、何はともあれ医者に行きましょ。さて、その「老化の自覚」なんですが。仲良く二人で病院に行った昨日、夫はなぜかCT検査。その結果に、本人面白くなさそうです。だって、内臓に脂肪がくっきり、だった様子。血液検査の結果は何も問題なかった、と威張っていたのですね。で、相方(わたくしですよ)のぐうたら生活を見ているので、自分は妻のような怠け者ではない、十分運動している、と思っていたらしい。そしたらまあ、要運動!だって。一緒に行こうよ、らんららん♪私はご機嫌であります。なんだかね、私だけが問題ありの身体で、71歳の夫はすこぶる元気。なんて景色は、実は愉快じゃない。そうこう会話をしているうちに気づいたのです!まあ、私っていつの間にか老化の進行のはやい妻にさせられていた。思い込まされていた、と言いましょうか。二人の関係は、一方が状況を決定する権力を持つ、ということになりがちです。わたくし、またまた敵の術中にはまるところでありました。ほんと、見事に彼は自分を律する男です。その律する力で、「俺は大丈夫だ」と胸を張り、しかし「君は大丈夫か」と常に心配して世話を焼きます。心配される人は楽なので、そうなりきっているうちに、ホントに病気になりかねない。こんな絵をテレビでよく見かけます。痴呆のおばあさんの傍らに、きりっとしたおじいさんがてきぱき世話をしているの図。これって、世話を焼かれすぎておばあさんぼけたんじゃないか、と思うんですが。世話をすることで自分の誇りを保ちたい人は、世話を焼く相手を作らないではいられないんですね。夫の愛が「いつも自分のそばにいて」といくら訴えようと、痴呆のおばあさんにならないために、私はあえて外へ出るのです。外へ出ると、自分の認識の歪みに気がつきます。(そう、歪むんです。たった二人の空間における自画像は)ああ自分は歳である、もう人生の残高は限りなくゼロに近い…。そう思っていたのが、先日測定した体脂肪&基礎代謝&筋量等々の検査によれば、カラダ年齢は53歳だったのです。えええっ???機械を100パーセント信じているわけではないけれど、嬉しい結果は大歓迎。それで昨日、整形外科の医師を追及?しました。「私のカラダ年齢は53なのに、骨の量が80歳90歳並みというのはどういうことです?」すると医師は静かにきっぱり答えました。「若いころ運動していない人は骨の貯金がないの。だ、か、ら」はあ。返す言葉もございません。運動、大嫌いでしたから。怠け者というのは、運動が嫌いなんですねぇ。そんな私が、ダンスとか音楽のついた体操となると、ウキウキらんらんするのですから。(好きなことでないと動かないのも怠け者の特徴)これは喜んで送り出すのが、夫の愛(でしょう?)。ま、そうありたいと彼が努力していることは認めましょう。夫はまだフィットネスに行く決断がついていません。ちなみに血圧は、今朝測ったところ下が81上が124。全く問題ない数値。元気が出てきた分、血圧も上昇気味ってことなのかしら。多少の故障はしかたないけど。一病息災って言いますからね。まったく、怠け者というのは言い訳ばかり。「屁理屈言うな」と昭和11年生まれは申します。「身体の動かないのは能書きばかり」娘の小学6年の時の担任の先生の言葉が耳に残ります。まっとうな先生だったなあ。自ら怠け者と称し、卑下しているかに見えましょうが、いえいえ、そうではありませぬ。怠け者である自分を、まあかなり愛おしくも思っております。ナマケモノって動物もおりますし、他人に迷惑をかけない範囲で怠けたいなと思います。周りに迷惑をかけない生き方とは、自分の気持ちに正直になれば、自ずと答えが出ます。自分の体に人の手があれこれ入るのって、避けたいでしょ。それを避けたいから、寝たきりになりたくない。だから指示された通り、運動するのです。怠け者は自らに正直であれ。
2008年08月07日
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独り暮らしの母が「冷房が壊れた」ので、妹の家に二晩泊まったという。この暑いのにまあ。近くに妹がいてくれてよかった。今日はテレビを買ったので、届くのを待っているところだそうだ。そこではたと思う。エアコンやテレビの買い替えを、娘にも息子にも相談せずに出来る母の余裕を。39歳で未亡人になって四人の子どもを育てあげた母である。お金がそうそう潤沢にあるはずはない。しかし、三人の子どもに経済的な負担をかけず独りで暮らしている。ある意味幸せなことだ。私に同じ事ができるだろうか。娘や息子が近くに住んでくれることは期待できない。せめて子どもたちに「エアコン買いたい」「テレビを買って」と言わないで暮らしたいな。できればね。ちなみに母は、私が長く生きれば生きるほど遺すお金は少なるよ、と笑っている。遺してもらおうとも思っていないのであるが、あちらも遺す気はさらさらないらしい。それでいい。それがいい、と私は思う。ところで、先日の話の続き。教育について。教育とは、考えていいことだけを考えるように仕向けること。もう勝手に私の言葉にしてしまったけれど、養老先生発である。誰が誰に対して行う教育か、それはさまざまだ。しかし目の前の夫を見ていると、ホント、私とは受けた教育が違うのだとつくづく思う。夫は養老先生より一つ年下である。同じような時代の教育を受けたはずだ。にもかかわらず、夫にはある種のフィルターがかかっているように、私には見える。そのフィルターがいつどこでかかったのか、定かではないが。一つ考えられるのは、彼が新聞社に40年も勤めていたこと。それも、限りなく中枢部に近いところにいた。そちらへの志向が強かったと言ってもいい。決して窓ぎわで煙草ぷかぷかの不良記者ではない。真面目で一直線の優等生であった。しかし、であるがゆえに、彼は自らの知性にフィルターをかけなければならなかった。中枢を志向する人間は、大筋で、その組織の教育に従順である。根底から覆すような批判はできない。自らの依って立つ場所を否定することなどできないでしょ。知性とは自らを疑うことだから、夫はあえて知性を捨てたといえる。考えなくてもいいことは考えるな。小賢しいことは考えるな。先輩から後輩へ、伝統の技が伝授される。徒弟制度を彷彿とさせるところなのである。で、最近ぱっとしない某新聞は、おそらくは、おのれの知性を過信したのがいけなかった。頭でっかちになって、人々の心に何も届かなくなった。いや、営業政策として(ほら頭で計算しているでしょ)読者に迎合したようだ。(あら私、夫の味方してる!)意図的にかどうかは知らないが、「小賢しい」知性を放棄したかに見える新聞は、まるで老舗の菓子のような味わいを醸している。おやまあ、思わぬ展開でございます。何を言おうとしたのでしたか。そう、教育の話。知性が人を幸せにするかというと、これもまた疑問である。みんなが自分を疑ってうんうん考えていたら、世の中は回っていかない。だから、知性が最高!と言っているわけではない。もとい!先ほどの話、組織の中枢から遠く、窓ぎわで煙草ぷかぷかの人には、概して「芸」が育つ。知性が育つのも中心から離れたところである。だって、考えなくてもいいことを考えるところからしか、新しいアイデアは生まれない。これだけ考えていればいい、とされた「教育」に従順な人間は、その教育の内部では優等生になれる。しかし、その教育の枠を離れると、途端に脆弱になる。余計なことは考えなくてもいい、と言われ、それでもなお考え続けた人間は、案外強い。「羞恥心」の上地雄輔を見ていて、そう思う。彼は学校教育では劣等生だ。完璧に。しかし学校の枠を出たとき、頭いいんじゃない?と思わせるものを持っている。だからって学校で勉強しなくていい、と思っちゃだめよ。(まだ顔も見ぬ孫に)上地みたいな成功はそうそうあるものじゃないんだからね。一般人は、そこで優等生になる必要もないけれど、ちゃんと枠の中で教育を受けるべし。で、「考えなくてもいい」と言われても、ぼうっと校庭を見ながら考えてよろしい。「そんなこと考えても無駄」とか親に言われて、効率的な受験勉強をして良い大学に行った人がずいぶんいる。今テレビでは、羞恥心の対極にある、東大卒のタレントが引っ張りだこだ。東大卒なのに美人、は今やざくざく。そのうち、大したことないことがわかる。だって、考えなくてもいいことを考えてきていない人が多いから。というわけで、私は学校教育の枠からはみ出したような人を、好むのである。中退した人、とかね。中退の後荒んでいるとか、逆に粋がっているのは嫌いだよ。内田先生の魅力は、日比谷高校を中退しないではいられないほど、考えすぎる人であるところにある。(勝手なこと言ってるなあ)で、なんでしたっけ。うちの宿六さんの話に戻る。先日の神戸行き以来、わがヤカマシさんは、とっても従順な夫になった。彼が長いこと脇に置いてきた「知性」が、さては目覚めたか。想像以上に、本を読まない人である。さらに、信奉してきたイデオロギーと異なるものも忌避している。会社のために滅私奉公してきた彼が、私と結婚したおかげで(!)知的好奇心に満ち満ちた世界にいざなわれているのである。眠っていた知性は目覚めのときを待っていた。仕事を辞めて好きなことをやりたい。「バラを育てる」ことも、海と大地に限りなく近い場所に終の棲家を定めたのも、彼の中の「眠れる獅子」の意思だったのだ。もしかしたら、私を追いかけたのもね。彼は一時期、私が自分に「侵入してきている」と怒った。以来、彼は再構築を繰り返している。今はまだその途中なのかも知れぬ。(私も、か)あらいやだ。ご亭主のことより、ご自分のことをお考えあそばせ。亭主のことを分析する癖は、直らないなあ。まとめに入ります。教育とは、そういうものであるということ。その集団、社会が志向する方向でかたちづくられる。であるならば、やっぱりいろんな教育があった方が良い。国で一つの方向のみ、というのはまずい。多様な人間が育たないからね。これが結論である。教育とはもともとその集団なり人間をコントロールするものである。考えさせたくないことは、考えさせないようにするものなのだ。だから、ぼうっと余計なことを考える人間も、大事にしようね。みんながみんな優等生になることないの。じゃあね。
2008年08月05日
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右指先に感じた「痛っ!」。内出血しているではないか。紫色が広がる。あーあ。なんて弱っちい私の血管。ずいぶん昔、まだ私が30そこそこの頃だ。長女をおんぶしていたら、背中に網目の内出血。どうやらその時着ていた網目のシャツが原因のよう。ただの網じゃなく、安っぽいラメ風の繊維が混じっていた。見るからに異様なので、医者に診てもらった。しかし内出血の原因には触れることなく、貧血の薬を処方された。その薬を飲んでいるうちに長男を妊娠し、網目事件は忘れてしまった。かように昔から、私の血管は脆い(と思いたいのであるが)。強打したおぼえもないのに、よくアオタンが出来る。気分がよくない。予測しない出来事に、簡単に気分を害す私である。とりあえず、鉛筆を持つのを控えてみる。たいした力で鉛筆を使っている(ええ、数独です)わけではないのだけれど、夫の目がそう指示していた。血圧を測れとのたまう。測ってみると、あらま、高いじゃない。血圧の高い家系ではないのにな。以上、身体の変化に微妙にマイナス思考してしまう私の繰り言でした。ところで、私の高校時代の話。守られた花園の中でちょいとはみ出したりして楽しんでいた頃だ。場所は校門の前。制服の私が背中を丸めて地面(コンクリ?)を見ている。空は晴れ、太陽が照りつける日だった。周りには誰もいない。いったいどんな時間帯だったんだろ。私はそこで何を見ていたか。アリである。アリの群れに、一人、見入っていたのである。アリたちは、私がこうして見ていることに気づきもしないで黙々と動く。ふと天をふり仰ぎたい気持ちが起きた。しかしあえてそれをしなかった。そして思った。私を空から見ている大きな何ものかがいるんじゃないか。アリを見ている私が、同時に見られる対象でもあることを、初めて知った瞬間である。以来、私はいろんなことを、逆サイドから見る癖がついた。友人たちは、そんな私を「こんにゃくみたい」と評した。当時の私は「確固たる自分の意見を滔々と述べる」のが格好いいと思っていた。その歳で確固たる自分なんてものは、親か誰かの口写しだろう。しかしそれがあると、格好良く見えたのだ。「こんにゃくみたい」と言った友人も、決して私を誉めたのではなかった。ああ言えばこう言う、的な立ち位置を揶揄したのだったろう。その後も、こんにゃく的私を認める人にはなかなか遭遇しなかった。はっきりくっきり、クリアカット。こんにゃくは、その真逆のところにいる。認める人と遭遇しなかったのも無理はない。いつも自分が主体ではない、ということに気づいた高校生の私を、今日は誉めてやろうと思う。ま、それだけの話だけど。
2008年08月04日
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恒例行事のようになった岡田山詣で。昨日も暑い暑いと汗を拭き拭き行ってきた。昨日のゲストは養老孟司氏。いや、さすがでありました。もっと聞きたいと、おそらくは多くの聴衆が思った(と思う)。養老氏の著書は、唯脳論のころから愛読してきたけれど、最近は少しご無沙汰。あまりの人気、おまけに最近は口述筆記らしいじゃないか、とあまのじゃくが働いた。しかし、どうしてどうして。編集者が口述筆記してでも本を出したがるのが納得できた。売れるという確信は、編集者自身が「もっと聞きたい」と思うところから出てくる。過去の遺産を食いつぶして生きている人の本も講演も、全くおもしろくない。養老先生は、今も「考え」続けておられる。だから面白い。「考える考えない」ということについて最近考えている、といったことをぼそぼそ話されたような気がする。教育とは、考えていいことだけ考えなさいという場。社会構造と関係があるとも。そりゃそうだ。為政者は国民が自分を批判するような知性は育ててほしくないもんだ。オウムに行ってしまうような理系だけ賢い人々を育てて戦争に行こう、なんてのは、私はゴメンだね。理系尊重は、どうも臭い。ああ、話が飛ぶ飛ぶ。私が生の講演、ライブが好きな理由は、ただ一つ。活字にするに至らない、まだサナギ状態の情報が聞けるからである。活字にならない情報とは、とるに足らない情報とは限らない。当然編集者のチェックが入っていない情報である。ご本人のチェックも入っていない。ゲラ校正なし。つまり、本人の抑制もはずれた情報などが聞けるのである。脳は抑制するのが仕事だとも言われたなあ。この脳味噌が人を人たらしめている。のだけれど、それが行き過ぎているみたい、という話であった。ざっと言えばね。先生の言葉を使わせていただくと、秩序や意識の規制を逃れた情報が、ライブでは聞ける。言い間違ったり、言いよどんだり、忘れちゃったり。もっと言えば、眠っているときの主役であるところの「身体」が発するメッセージもあわせて聞けるのである。ああ、これが楽しい。ここまで書いてきて、うーん。なんか感じ悪い婆さんだなあ。というか、この時代に生きる多数の人々は私と同じような、要は欲張りなんではないか。つまり、茶飲み話の相手に、かなり高度な知性を有する人を欲しているのである。お酒を飲みながら、こういう人と話をしたい、と思うのである。(ま、図々しい。こんな厚かましいのはやっぱり、私だけかしら)例えばね、言葉は止まっている、なんて話が出る。脳の中で、波と波がぶつかって止まっている、なんてイメージを披露される。ありの巣はかなり騒々しい音に満ちているのではないか、とかの話もね。音でコミュニケーションしているのではないか、と言われるわけである。科学的に実証されたものではないけれど、話として面白い。(こういう仮説って一般の人はたくさん持っているものだけど、単なる思いつきではないだろうと思わせるところがカリスマだよね)フェロモンでコミュニケーションしてたら、アリの巣は凄い臭いだろうとも。このコミュニケーションについては、もっと話を広げてほしかったな、内田先生。昨日は内田先生、なんだか無理矢理教育と結びつけようとされていたみたい。二人の対談の方がもっと話を引き出せた。ともあれ現代は、いろんな感覚を麻痺させないと生きていけない状況のようだ。これが教育のせいなのかどうなのかは知らない。人は生き延びるために、無駄な情報をシャットアウトしている。そのために、脆弱な人間がぐんぐん増える。多様な場面に対応できない人間が増える。養老先生が子どもたちを引率して虫取りに行ったときの話は面白かった。子どもたちの誰一人として道を外れなかったというのである。外れるのは先生だけ。(泣)質疑応答のときの質問は、自分なんかよりずっと達者なのにと嘆かれる。脳ばかりが大きくなって、身体が脳に従属してしまっているのね、きっと。甲野先生は、「おかしくなっているのは子どもばかりではない、年寄りもだ」と喝破された。思わず拍手したい気持ちになった。その通りだから。生きのいい年寄り(私?)が、少ないもの。舞踊の島崎先生の話も楽しかった。サルサをやっていて、感ずるところあり。ダンスなんて身体が音楽に反応して勝手に動き出すもんだ(私の場合ね)。私のサルサ仲間のお年寄りたちも、全体に真面目すぎ。ステップを教わりたがる。そんなの関係ない、なのにね。話はあちこちに飛ぶ。私が夫の怒りに対して過敏であることは、以前にも書いた。不愉快である。夫が沈黙の軍艦のように押し黙って怒りを放出しているのは。不愉快だということは、彼の怒りの波動をキャッチしているということ。そんなの無視すれば?と友人は言う。いや、ずっと同じ部屋にいてそれをやられるとね…。私がより文明化された現代人だったら、そんなの無視するように感覚を遮断しているのだろう。ところがどっこい。私の感受性は人一倍。(感覚を遮断できない、あるいは選択出来ない人が心を病む。現代社会に適応できないからね。私、ぎりぎりセーフね、たぶん)憎たらしい怒りの波動も受け取ってしまう。「ね。周波数のせいで人間には聞こえない怒りの声が、あなたから出ているの。私は原始的だから聞こえるのよ」と夫に嫌味を言った。夫は素直にうなずいた(ように見えた)。昨日の夫は、いい感じ。時々眠っていたけど、養老先生の話は面白かったそうだ。神戸の花火大会を見ながらバスで帰ったけど、ビールがおいしかったので、私も夫に大サービス。「やっぱりあなたと結婚してよかったわあ」ついでに「でもどうしてあなたは私を好きなのかしらねえ」かなり夫が私に惚れている、と感じた夜であった。また、話が脱線した。知的なライブを楽しむ中高年。専門外の情報にもいたって貪欲な聴衆にとって、こんな有り難いサービスはない。しかも、宗教の勧誘でもないのに無料である。養老先生からは、人々の知的好奇心をわくわくさせるような話が次々に飛び出した。原理主義的な自然保護派の方々への苦言もぴしゃり。難しい話をちょびっとずつしのばせて、アッという間の1時間半だった。そうそう、昨日の話でエントロピーという言葉が、なぜかすとんと腑に落ちた。そんなの分かってどーすんのさ、と聞かれそうだな。不思議なもので、こういうところでびびっとハートにきた情報は、長い時間脳の片隅に追いやられていても、ある日あるとき「!」と表に登場することがある。それがまたたまらない。だから、知ってどうする!的な事だろうと何だろうと、自分が面白いと感じるものに素直な私である。だっておもしろいんだもーん、である。
2008年08月03日
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サルビアさんと名乗る方のコメントを拝見しました。まったくおっしゃる通りです。これだけメディアの影響につべこべ言っている私が、まんまとはまってしまう。怖いですね。じつはそのあたりのことに、毎度、自分でも気づくのです。書いたあとに。昨日の「赤面」の話は、そういうことを書いたのでした。もし書いていなかったら、赤面することもなく忘れてしまったでしょう。だから、「書く」ことは、私にとって意味のあること。私を救うセーフティネット、と、まあ言い訳している次第です。「書きたがり」の功罪について、ちょっと考えてしまいますけど。片隅で小声で言っているんだからいいかと、これもまた弁解でした。サルビアさんのように、真面目に読んで下さる方がいるのですから。近ごろ、赤面の後に考えるのです。「責任ある立場」を引き受けることについて。私が今仮に、どこかの会社で責任ある立場にいたら。あるいは、ここで実名を公表して書いていたら。どちらも顔を出して勝負です。いい加減なおしゃべりは出来ません。このあたりが、自分でもああ恥ずかしと赤面する所以です。責任ある立場を引き受けて書くとき、当然縛られます。縛られず自由だということは、どういうことか。そうです、海の藻屑でしかないのです。海の藻屑で上等だい!と開き直るならそれもよし。でもね…。と、考えています。ずっと考え続けているのかもしれませんが。(苦笑)この匿名のブログのおかげで、随分助かりました。でもその限界も自ずと見えてくる。わが夫も、なかなかシャンとしてきました。その影響は私にも当然及びます。サルビアさんの真摯な姿勢からも、波動を感じました。もちっと私も、しゃきっとしましょうかね。
2008年07月31日
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生意気なあぶくが今日もブクブク。今朝の浅野さんは、なかなか締まっていた。例の八王子の事件など一連の無差別殺傷事件についてのコメントだ。無差別ってところが重要でね。被害者は誰でもよかった。記号なんですよ。人間関係をうまく出来ない云々かんぬん。あれ、記号って言葉を使ったっけ?私が勝手に記憶を改竄したか?よく分からなくなったが、私の中で浅野氏がヒットした。人間関係がうまくとれない男が、記号的殺人を犯す。かなり核心に近いところまで迫っている。と、えらそーに評価する自称・あぶく。でも正直、この人、こんなところまで考える人だったの?と思った。まさか、どこかからコピペしてきたんじゃないでしょうね、と疑いの目も多少。いろんなコメンテーターが、ハイエナのように事件を突っつくけれど、浅野氏はズバリ本質に斬り込んだ。(ように見えた)人類誕生の昔から、人は人と生身のつきあいであった。けんかするときはげんこつで、あるいは石ころで、棒で相手をやっつけた。道具を使うようになるまで、かなり時間がかかったんだろうな。闘うための武器の究極、核兵器までつくってしまった人類。一つ間違えば、人類滅亡だ。そのわずか手前で、どうにか踏ん張っているのが今。人類は自滅への道をひた走るのだろうか。そんなこたない、と私は思いたい。(思いきり願望だけど)道具の発達はいろいろだけれど、メディアの誕生っていつなんだろ。アルタミラの壁画あたりが、そもそもなんじゃないの。あぶくは、大胆かつ大ざっぱに人類史を振り返るのよ。(よく知らないから)印刷機の発明なんて、習った気はする。でも、メディアとは媒体でしょ。岩に絵を刻みつけて何かを伝えようとしたのがアルタミラだとしたら。これが始まりでしょうよ。(ああ、ホントに乱暴な決めつけだねぇ)以来、メディアを使って、情報の伝達範囲もスピードもぐんぐんアップした。インターネットの動画なんて、すごい速いね。テレビの比じゃない。とは言え、まだまだテレビは王座を去ってはいない。菅野某は、不登校の間、テレビばかりを見ていた。(たぶん)教育テレビで学校の替わりが出来ると考えた浅はかな親のもとで。そして彼は、確かにテレビによって「教育」された。無差別殺人は、刃物一つで簡単である。こう学習した。なんかイライラしたり、行き詰まったりしたら、これをやればいいんだ。と、お馬鹿な頭で考えた。そうすれば親を困らせることができる。33歳にもなって親を困らせる?あいた口がふさがらぬ。テレビはね、中途半端に事件を伝える。どうしても、殺人者にスポットライトを当てる。その部分だけを見て、テレビで学んだお馬鹿は、決意する。事件を起こせば、こんなにみんな、ぼくのこと注目してくれるんだ。やろう!馬鹿。ホントに馬鹿。殺される側の身になってほしい。なぜ無差別なのか。なぜ「困らせたい親」に攻撃が向かないのか。なんて狡い。卑怯だ。テレビは無差別殺人が簡単に出来ることを、この男に教えた。テレビが教育してくれると素直に信じた?母のおかげで。はっきり言おう。テレビは死刑台の恐怖を伝えたか。私はね、ビヨーク演ずる「Dancer In The Dark 」を観た。しばらく起きあがれないくらいの衝撃を受けた。それくらいリアルだった。この映画、おばさんたちは怒って途中で席を立ったという。当時私は、おばさんから退行して娘になっていたので、最後まで椅子に縛り付けられたように観た。泣きながら、震えながら。怖かったよ。死刑台への足音。思い出しても身震いがする。こういう恐怖を、この菅野某は知らない。だってテレビはそこんところは隠して教えてくれないから。(私は死刑賛成論者ではない、えん罪のことを思えば反対である)今のテレビは、殺人事件の悲惨は伝えても、犯人の死刑執行の場面は伝えない。どれだけ残酷な、おそろしいことが、わが身を襲うのか。テレビで学ぶ子どもたちは、知らない。想像力の欠如、なんて言っても始まらない。だって、テレビが生まれてからこのかた、テレビはそういう教え方をしてきたんだから。きれいごとを伝えること。スポンサーにもみ手すること。そして事件を起こせばテレビを占拠できること。このくらいしか、テレビは教えていない。テレビをやり玉にあげたけれど、これが時代の空気だ。表面的につるりとなでて、はい、おしまい。物事を真摯にとらえることは、ダサイらしいぞ。すいすい高速道路に乗っていればらくちんだぞ。こんなことを、ほら、あなたも、あなたも、わが子に教えていないか。メディアの発達が、人と人のコミュニケーション能力を減じさせた。当たり前っちゃ、当たり前だ。間接トークになっちゃうからね。人と人が生身で触れ合うのでなく、間にメディアが割り込む。そういうかたちでしか、コミュニケーションできない人が増えている。現代に下るほど、生身の人間から学ぶ度合いが減ってくる。私たち夫婦の出合いの要の部分は、実はそこにあるかもしれぬ。夫は不器用にも「心の通じ合う人とこれから先は暮らしたい」と元妻や子どもたちに語ったそうな。心ねえ。要は生身のコミュニケーションを欲したのだ。メディアの世界にどっぷり浸かっていた男が、生身の人間を求めた。私はまさに適役だな。非常に原始的かつ田舎的、かつ発展途上の人間であった。今も? はい。あれれ、また話が広がっている。このまま人類が滅亡の坂を転げ落ちないために。具体的に言えば、殺すという最後の手段を選ばぬために。もっと声に出して、おしゃべりしようよ。なんかね、声の出し方が分からない人間が出てくるんじゃないかって、そんな気がするんだ。テレビもインターネットも、声の出し方は教えてくれないもんね。
2008年07月25日
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「いやぁ、あなた、言いたいこと言ってますねぇ」海のアオサが言いました。「ほんとだね」チヌがシューッと泳ぎ去りました。「ところで、あなた、魚なの海草なの、それとも貝なの?」岩陰からアワビがたずねます。「そうよそうよ。声はすれども姿は見えず、ですもの」クラゲがぷかぷかやってきて言います。「おやおや、頭隠して尻隠さずですよ。ぼくには見える」小さいくせに態度の大きいメバルです。「え、あなたには見えるの」「見えますよ。ちゃーんと」「うそ、うそよ」「うそじゃありません。見える人には見えるんです」メバルはそう言い残すと、水音を立てて行ってしまいました。あっけにとられるアオサやアワビ。ふふふ、メバル氏、なかなかですね。わたくしが、見えますか。どのように?たしかに無責任に言いっぱなしのわたくし。声だけで姿が見えぬのをよいことに、言いたい放題でございます。ほんとに。海に生きる皆々様、時々勝手に雑音を発しておりますこと、誠に申しわけなく思っております。わたくしの正体? 申しましょうか。あぶくですよ、あぶく。海のあぶく。消えては現れ、現れては消え、いたします。なーんて遊んで、涼んでみました。海の中は涼しいのですよ。目の前は海、なのに。60目前のばあさんが泳ぐのは、近所の手前ちょっとね…なのかどうか。一年目と二年目には泳いだのですけど。夫とともに。そりゃあ、いい気持ちでしたよ。ぷくぷくぷく、と潜ってみたり。ぷっかぷかぷか、空を仰いで浮かんでみたり。今朝は、想像だけでも海の中。それも、このところ書きたい放題の自分に、少し赤面しつつ。夕方の海が赤くなるのはね、海が照れてるのさー、なんてね。さて、今日も書くかな、恥の上塗り。ブルータス、お前もか、であった。八王子の菅野某。「大きいことやれば、テレビに出て有名になれると思った」新聞によれぱ、こう語っている。あーあ。みんなどうしてこうもおんなじこと言うんだろ。有名になる? 犯罪を犯しても?彼らは言葉を豊富に持たないからね、そのまま受け取るのは危険。だけど、要はこういうこと。俺はな、お前らに無視されるような人間じゃないんだぞ。ないがしろにされるような人間じゃないぞ。でっかいことの一つや二つ出来るんだ。馬鹿にすんなよ。「馬鹿にすんなよ」これがキーワード。馬鹿にされたくなかったら、馬鹿をおやめよ。人殺しなんて馬鹿のすることじゃないか。ばっかだね。馬鹿にされたくないくせに、馬鹿なことばかりやる。中学から不登校ぎみになったという容疑者。母親は言ったそうだ。「教育テレビを見せてるから、うちはいいの」この母親の負けん気の強さを見よ。容疑者の性格を、無口でおとなしいと父親は言う。「相談なんかされていない」とも。「親に相談したが乗ってもらえなかった」との容疑者の供述と矛盾する。この矛盾はなにゆえか。明快である。この男は長年黙っていても分かってもらえる環境にあった。ご想像通り、ここに母親が浮上する。だいたい、無口な息子とセットになって、おしゃべりな母親がいるもんだ。(恥ずかしながら、身に覚えがある)幼いときから、息子の代わりにでしゃばっていた母親。ほら、船場吉兆の女将、あれをやっちゃっている母親は多いんじゃないかな。父親と母親の関係に難ありだったから、母親が息子にくっついたのか。息子を人身御供にしてしまった母親。そもそも、子どもが学校に行かないという現実を直視しない。教育テレビを見せているから平気、と強弁する母親。虚勢を張らないではいられないのである。母の虚勢が、息子に矛盾を育てた。息子の実体を育てず、虚像を育てたのである。虚像は文字通り虚像である。テレビに出るとか、マスコミに出るとかの「虚」。あんなのリアルではないのだよ、みんな。おっかさんも、リアルを拒んで「虚」に救いを求めた。その結果、肥大した「虚」が犯罪を犯す。もうやめようぜ、おっかさん。リアルに生きようじゃないか。雑誌もテレビも、あれ、ウソばっかりなのよ。ウソと言い切ると語弊があるけど、あれはね作り手の恣意によるところ大なの。ニュースだって、ドキュメントだって「編集」という作業がある。これがくせもの。リアルと見せて、やっぱり作りものなんだよ。それをみんな錯覚する。いや、みんな物語のヒーロー、ヒロインになりたいんか。ワイドショーでもなんでもね、みんなに注目されたいんか。おっかさんの願望は、こういうふうに時代を超えて、かたちを変えて表れる。よくよく馬鹿にされたと感じたのだろう。「感じた」が問題。こちらが馬鹿にしたつもりはなくても、相手がそう感じることは多々ある。自分の境遇に不満だったのだ。しかし自分の努力が足りないなどとは思わない。学校に行かなくても、教育テレビがあると教えられた子どもだ。学校に行けないというリアルから目をそらして生きてきた。現実の職場で、あうんの呼吸が通じない。あったりまえだ。職場の人たちは母親じゃない。馬鹿にされた、と感じたかもね。リアルから目をそらし続けるとろくなことはない。リアルに生きようぜ。たまには海中のあぶくになってもいいけど、リアルを忘れるなよ。ついでにもう一つ。父親を殺した15歳の娘の話。これも「家族仲良し物語」を無理矢理やらせられていた。家族は、そりゃいいし、必要だけどね。メディアの宣伝を真に受けて、真面目に家族を演じちゃだめ。いや、演じているという自覚も、この娘の母親にはなかった。だからまずかった。真面目で一生懸命な母親だったのだろう。しかし、変だ。夫と息子は北側の二段ベッドのある部屋。娘は一番広い南側の部屋。母親自身も南側の部屋。なんだか違和感を感じたね。もっと言えば。この家族ごっこを牛耳っていたのは、母親なんだね。母親自ら語っている。「勉強勉強と言っていたのはむしろ私なのに」と。だよね。部屋の割り当てを見ると、この母親の「力」が想像できる。父親も実は、良い父親を「やらされていた」のではないか。ではなぜ娘が父を殺す?分かりませんよ、本当のところは。でもね、母親の無意識を娘が代弁することがないとは言えない。パートに出て働いている母親。もっとお金が欲しいから働いている。あるいは社会参加したくて。しかし、やっぱり女は薬剤師よね。こう考えるのは、父親というよりは母親なのよ。女の子の出来が少しいいと、薬剤師。これもまた、「リアル」を受け入れられない母親の「虚」の連鎖。と、本日は、リアルと虚に焦点を絞って、書きたいこと書かせていただきました。最後までお読み下さって、ありがとう。お疲れさまでした。無責任な放言をお許し下さいませ。なんたって、海のあぶくの戯言でございますゆえ。
2008年07月24日
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今日は弟の58歳の誕生日。明日は長女の31歳の誕生日。暑いときに生まれたのねえ。いや、これほど暑くはなかったか。母の手製で、弟と私はお揃いの服を着ていた。白と紺のツートンカラー、セーラー衿。もちろん半ズボンの彼と、ワンピースの私。弟の方が何倍もかわいい顔をしていた。おぼえているかなあ。誕生日おめでとう!メールを送ったところ。それにしても、殺伐とした事件が多い。どう見たって、弱肉強食の流れだ。それも、生物としては半ば壊れかけて。ケージの中に閉じこめられたネズミたち。出口がない狭い空間。いつしかネズミたちは互いを傷つけあう。弱いネズミが次々に犠牲になる。動物は本来、仲間同士が傷つけあうようなことはしない。そうじゃなかったのか。狭い空間にひしめきあい、ネズミたちのストレスが限界を超えた。自らが生きるために、より弱い仲間を殺す。そう、自らが生きるための行為なのだ。かなしいではないか。生きるために、仲間を殺傷するなんて。攻撃性は、方向さえ間違えなければ、積極性として生きるはずだ。本来動物が生きぬくために不可欠のものなのだ。その攻撃性がまっしぐらに破壊に向かう。生きる方向を見失ったネズミたち。ケージの中で出口を見つけられないネズミたち。ついには出口をさがす意欲も失せた。迷走の果てに、自分の仲間を、ついには自分のしっぽを敵と思う。ネズミたちのサバイバル。生きたいネズミたちの、出口はどこ?みずほコーポレート銀行頭取の路上キス。テレビ局の女性記者が餌食に。これも弱肉強食。記者本人は、より強くなりつつあるつもりだったろうけど。違うなあ、たぶん。遠景として見れば、このお二人、どちらも勝者だ。お好きにどうぞ、ではあるけれど、どちらも欲張り。ここにも動物の世界に似た絵を見てしまう。奇しくも、能力主義、成果主義に対するアンチのムードが起きている。だろうね。これって、能力ある者をますます増長させ、能力のない者を疲弊させる仕組みだから。一方は、不倫に走り、一方は殺人を犯す。他人の不幸より、自分の「もっと」を優先する。欲望は正しい、「もっと欲しい」は正しい。だれが吹聴したのやら。いえ、犯人はほぼ産業界ですね。政治も結託して。だから6億も横領していて、泣いてすませんとする女まで現れる。息子のせいだ、いや、息子も騙されている。けっ。なんだなんだ、被害者でございって顔をしていたら、世間は許すのか?こんな息子に育てた私が悪い、という親もどうかと思うが、このおばはんの厚かましさにはびっくりだ。弁済が身内に及ばぬよう、さっさと偽装離婚した旦那もたいしたもんだ。このしたたかさは、実は地方ではけっこう常識だったりする。たくましいよね。もう一つ、大分県教委の話。付け届けをして教頭になった男の親族が、逮捕されたから収入が下がる、子どもが4人もいるのにどうやって育てればいいか、なんてことを言う。甘いねえ、みんな。そして、欲張りだよね、みんな。悪いことが発覚してもなお、欲が前に出る。でも「欲張り」は正しいって、国を挙げて推奨しちゃったからね。そのツケをしばらくは払うことになる。付け加えるけど、欲張りは正しくないといったからといって、間違いというわけではない。右へ左へと揺れる振り子を想像してね。どっちの極に行っても、揺り戻しがくるってこと。ぱきっと割り切れる話じゃないと、私は思う。他人事のように書いて、すみません。新しい扇風機が、私の前に登場した。夫が今朝、組み立ててくれた。クーラーのきかないわがリビングで、扇風機一台はきつい。で、昨日2480円也で購入。やけにめんどくさい組み立て式だった(らしい)。リズムで風がくる。ふふふのふ。
2008年07月23日
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猛暑の田園を横目に、町はずれのレストランへ車を駆る。夫の趣味の仲間のランチ会、私もそっとまぎれ込む。古い民家の敷地、蔵を改造した建物の中は、梁がむきだしの天井。とってもリーズナブルなフレンチをいただく。ここでのお話。やや年配の女性が多い集団である。夫は定期的にその会の会報を作り、会員の皆様に発送している。新聞記者経験があるということで、リーダーに頼まれて作り始めた。純粋ボランティアである。DTPについての経験は少ない夫に全面協力する私も、ボランティア。原稿集めから版下作成までをわが家で行う。(カラー印刷だけは大量なのであるところに、無料でお願いして)切手代、封筒代は、会が負担する。このところ夫は、会報作りに乗っている。社会問題化したものを記事にする手腕は、さすがだ。元新聞記者にはもちろん朝飯前!だと思うけど、力が入っているのは見ていて分かった。その中に、今回の町はずれのレストランの地図を入れることになった。OK、これは私が引き受けた。かなり分かりにくい場所だが、載せないわけにはいかない。地図は重要な情報だ。精一杯、手持ちの地図やらグーグルを見ながら仕上げた。この地図というしろもの、実は最もクレームが多いものの一つである。読者が盲信するのだろうか。あてにしすぎじゃない?いや、地図の情報というのは、あの小さなスペースに完璧に盛り込めるようなものではない。当然、見る人の努力も必要だ。まあね、実際に役立てる情報だから、要求が高まるのは当然だけれど。今回も、時間に少し遅れて到着したおばさまが憤慨していた。「地図に郵便局って書いてあるでしょ、だからそこを曲がったのよ。そしたら全然違うじゃない。もう散々迷ってしまったわ」遅刻の弁明に必死なあまり、地図のせいにしたい気持ちは、分からないではない。同乗させていたうるさ型の奥さまにもメンツが立たないだろう。しかしねぇ。目の前にそれを作った人間がいるということに、全く思いが至らない。いえ、この方はもともと配慮のある方なのだ。それがこの有様である。地図を作ったのが私というのは、まあ知らなくていい。しかし会報を作った夫に対する配慮も皆無だったのである。地図がいけないのよ、だから私は迷ったじゃない。私の失敗ではなくて、地図がすべて悪いの。彼女はこういうことを、言い続けた。(迷ったのはこの一組のみ!)私は小さく小さくなっていた。しゅん。察するに、地図にクレームをつける方たちは、めんどくさい地図を、苦労して作っている人間(=私)が目の前にいるということに想像が至らないのである。もっと言えば、会報が出来上がるまでにどれだけ人の手がかかっているか、にもね。メディアとして出来上がったものには、人の顔は見えないのである。ものづくりをしている人たち、例えば農家の人も、機械屋さんも、似たような感想をお持ちだろうか。ふっと、フリーライダー、という言葉が浮かんだ。ただ乗りだ。必要なコストを負担せず利益だけを受ける人。正しい意味はよく知らない。しかしこの手の人々が、最近、多すぎないか?利益を受けることは当然と思っている人。利益を、何の努力もなしに、ただで受けるのが当然と思っている人。公務員の不祥事など、もちろん糾弾されるべきだけど。わが身を省みることなく、つまり自分は努力せず、誰かが作った乗り物にただ乗りして、他人の非を責めることに懸命な人たち。ほんと、ただただ利益だけ欲しがる人の多さに、ちょっと驚く。そうよ、みのもんたさん、あなたも責任ありよ。あの番組、そろそろうんざりだけど。年寄りにおもねるみのさん、もう、たいがいにしてほしい。視聴率獲得には、「おばあさん」を「おじょうさん」と言い替えるのは得策だろうけどね。おばあさんはおばあさんなの、おじょうさん、じゃないわよ。で、かの地図クレーマーおばさまの話に戻る。歳を取り、能力全般が衰えてくると、どうもこういった症状が顕著になる。地図を見る力が足りないことを棚に上げ、地図の出来のせいにする。わが母上も、似たようなところがあるから、敢えて言う。歳を取ったらそれでいいのよ、文句だけ言って甘えていれば。なんてことは言わないぞ、私は。モンスターペアレントなんてのも含めて、クレーマーは猛省してほしいもんだ。そこで、他山の石。その意味は、「他人のつまらない失敗であっても自分の成長に役立てることが出来ること」なんだそうだ。「他所の山から出る粗末な石でも自分の石(=宝石?)を研くのには役に立つ」だって。よそ様のブログから、ただで拝借してきた。ね。地図クレーマーに限らず、私だって十分フリーライダーの資格あり。この一件を機に、気をつけようっと。これが他山の石。じゃあまた。
2008年07月21日
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まなざし。自分のまなざしについて考えたことがあるだろうか。考えるのはいつも他者のまなざし。自分のまなざしが及ぼすものについて、あまり考えない。人間は元来自己中心的な生き物だ。しかしみんなが手前勝手にやっていては社会は維持できない。人は単独で生きていけるほど強い動物ではない。集団で、身を寄せ合って敵から身を守らなければならない。そこで人は、社会を形成する。そして集団を維持するための工夫を考えた。とっても大ざっぱだけど、人は独りで生きていけないことをまず押さえておく。社会を安定させるために人が編み出したさまざまのソフト。地域とか、コミュニティと呼ばれるものもその一つだ。地域の自治の歴史も、勉強するとなかなかおもしろい。今みたいに何でもお上に頼るのが自治ではなかった、そもそもはね。橋だって道路だって自分たちで作っちゃっていた。うちの前の道路もコンクリートで舗装して車の通る道にしたのは、地域の人々。それに加わらなかった人が、今も車の立ち入りを禁止されているが。協力しなかった人に対しては、とても厳しい。未だにその人は一輪車で畑に収穫に来る。それはともかく。互いに監視しあうことで、地域の安全・安心は維持されてきた。私たちの住む地域では、まだそれが生きているからよく分かる。監視しあう目。うっとうしい。うるさい。めんどくさい。なぜ、いちいち、そんなに監視の目で見られなくちゃいけないの?そう、ここでまなざしが出てくる。このまなざしが、抑止力となるのである。都会では消えてしまった、都会人自ら消し去ったもの。例えば犯罪の、例えば自殺の、例えば…。先日草むしりをしていると、妙な臭いがする。ん? くんくん。鼻をぴくつかせながらあたりを窺う。と、隣のYちゃんがやってきた。「臭うね」「うん、臭う」二人と、「そんなの気にしなくていい」というもう一人と、三人で近所をぐるっと見回る。「前ね、ここのおばあさんが料理中にうたた寝して…」ガス漏れ事件があったとのこと。ぐるり一周してもどると、前のHさんが台所から顔をのぞかせた。ははあん、ここだったか。私たちは臭いの消えたことを確認しあって別れた。Yちゃんがささやく。「病気の人がおるから、あの硫化水素かもしれんからね」このところ多発した硫化水素自殺の可能性を示唆した。いや、すごい。その通りだな。危険も迷惑も近隣に及ぶ事件には、このあたりの人は特に敏感だ。といったあんばいで、さまざまなトラブルの抑止力となって、まなざしは今もここでは有効なのである。まなざしは、監視するばかりではない。もう一方のまなざしも、今の時代が失っているもの。なぜかくも勝ち負けにこだわる人が増えたのか。勝っている人はいい。負けている(状況にある)人が問題だ。負けていると世間が見る人々。そううまなざしを常に向けられている人々。私は負け組でも勝ち組でもない、と言える人は問題ない。社会の多数が向けるまなざしに、屈している人々。彼らには、監視するまなざしの前に必要なまなざしがある。例えば多重債務に苦しむ人たち、例えば依存症に苦しむ人たち。どちらも、「意志が弱い」といった切り捨て方をされがちだ。自己責任という言葉も重くのしかかる。自分が悪いんだ、この苦しみは自業自得だ。因果応報。社会から白い目で見られている人たちの中に、そんな人たちが多くいる。白い目。冷たいまなざし。内在化したまなざしは自らを突き刺す。内在化したまなざしとは、母のまなざし。たいがいね。勝ち負けに固執した母のまなざし。あるいは、神のまなざし。一神教の神。正しい者を神は助ける。おまえは正しくないから、地獄におちろ。そんな神のまなざしを、内在化して、人は苦しむ。「正しいも正しくないもない、あなたはちっとも悪くない」このメッセージを包んだまなざしが、必要である。まずは、ね。苦しんでいる人たちの苦しみの最たるものが、自責の念だから。免責こそが優先されるべき(という理論でもあるのでしょうか)。免責によって、針が「死」へと大きく振れていたものが、「生」の方へ動き始める。死へ死へと誘われていく人たちを、生へと連れ戻すのである。もちろん人は必ず死ぬのだけれども。だからと言って、結論を急ぐことはない。あなたは悪くない、あなたも私たちの仲間じゃない。こんなまなざしを届けるのである。このまなざしの背後には、今の社会へのアンチテーゼともなる人間観がある。だから、人は救われる。今の社会の矛盾の表現として、自分の状況がある、と考えたとき、自己責任の重圧から解き放たれる。再生へのみちのりが始まる。最近の事件には、この経緯をたどれば防げたのではと思えるものが多い。例えば秋葉原の事件。彼が事件を起こすことによって手に入れたものは何か。おそらくは、まなざし、である。彼がほしかったものも、それである。自分を見てくれる、関心をもってくれるまなざし。見捨てられた子ども、出来損ないの烙印を押された子どもは、無視される。彼は携帯サイトで無視されたと言って、キレた。まなざしがほしい、と言って。かつては社会に縦横に行き交っていたまなざし。自己責任だなんだと、個人への負担を強いる社会のまなざしではなく。今、多くの多重債務者の生活再生に力を注いでいる人たちがいる。その中に私の友人がいる。NHKテレビの取り上げ方は、まったく別の視点だったけれど、彼女たちの仕事が成功しているのは、紛れもなくこの「優しいまなざし」のゆえだと、今朝思った。で、ここに書き付けた。彼女たちの活動の背景にある人間観、これこそが、人々を救っているものだ。お前はだめだではなく、ちっとも悪くないよと言われたら、再び生きよう、と思うではないか。彼らの再生事業に焦げ付きが発生していないのは、そういうことだと思う。
2008年07月20日
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