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感情というのは納豆のネバネバのように、簡単にスパッとは切れないもんだ。というわけで引き続き、コミュニケーション不全に陥らないための処方箋。もちろん、まずは自分自身に対して。日々答えは変遷するが、今朝の答えはこれだ。漫然運転は事故のもと!これ以外にない。私の場合ね。運転に慣れてくると、漫然と運転してしまいがちだ。そうすると、ほら、事故ったりする。初心者マークを付けているころ、あるいは初めての土地での運転では、殆どこういうことはない。程よい緊張感を持ちつつ運転するからね。※「運転」は、人との関係と置き換えて読んでください。「慣れ」がいけない。慣れた道を走ると、ハンドルを切るのも無意識なら、ブレーキ、アクセルも習慣化する。時々、ひゃっ!とすることがないと、危ないですね。人間関係もドライブも、ここはやや危険だと思えば、丁寧に対応するのである。先日、夫の姉からの電話に見事に儀礼的な対応をしたわたくしを見よ!相手との間の距離を縮めることが、危険に繋がると知っていれば、完璧なドライブができる。なんてったって、用心深いし、運転が上手ではないことを知っているのだから。夫婦間、あるいは家族間でのトラブルが多い理由は、この漫然運転が背景にある、と私は思う。漫然運転の会話というのは、始まりもなければ終わりもない。相手に何を求めているかとか、結論はこうだとか、まあヘーゲルの弁証法なんてのとは無縁の世界が繰り広げられる。おしゃべりとはそういうものだけどね。緊張感もなく、発せられた言葉にただ反射するような会話が続く。そう、脳を通らずに、ただ筋肉反射するように会話が進む。すると…。コミュニケーション不全、つまり行き違いが生じるのである。これがいわば「事故」。正面衝突、あるいは一人相撲の物損とか。大けがや命にかかわるものでなければいいようなものだけれど、できれば、事故は避けたい。運転、すなわち、人間関係で不調を感じたら、もしや漫然運転ではなかったか、と自らチェックしてみましょう。そうすると、以後、事故で怪我をすることも減ると思う、よ。相手を見て、つまり道路事情や車の状態を確認した上で、ドライブしましょうということ。相手も見ず、走り慣れた道だとばかりに、鼻歌まじりで運転していると、ほら!ほんと、相手を知るって大事ね。それはつまり自分を知ることだから。ドライバーの皆さん、お互いに気をつけましょうね。おっと、運転に過剰に緊張する人には、私の処方箋は不適ですからね。念のため。内田先生のブログに、人を見る目=直観について書かれていたのでちょっと追記。「こういう状況でこういうことを言っていた人間」が「それとは違う状況」に置かれた場合にどのようにふるまうかについての先行事例の膨大な情報の蓄積がこちらにあれば、数年後のその人の表情や口ぶりくらいは簡単に想像できる。私たちは根拠にもとづいて「推理」しているのである。ポランニーはこれを「暗黙知」と呼んだ。フッサールは「先験的直観」と呼んだ。ホームズは、ワトソン君に促されてこう言う。「ちょっと『ひっかかったこと』とがあってね」その「ひっかかり」を手がかりにホームズは真相を明かす、動かぬ証拠にたどりつく。ホームズが「ひっかかる」のは、そこに「あるべきものがない」か「あるはずのないものがある」からである。はじめて立ち寄った現場で、ホームズは「あるべきもの」と「あるはずのないもの」の膨大なリストを瞬間的に走査する。今、現在の私にまるで援護射撃をしてくれるような文である。感激! いえ、そう言いたいだけデス。とはいえ、私にこの種の、いわば原始的な直観があることを、もっと認めてやろう。なんてことを思った。内田先生の応援を得てね。私の推理にしても直観にしても、どこか世間から嘲笑されているような感じを持っていた。でもね、本当は、そういう「感じ」が当たることが多いの、私。この人、私の前とそうでないところでは、全く違うことを言ってる、って。それは時系列的に集めた情報を整理すると、ちゃんと出てくるのだ。ただそれをもって、あなたとつき合いたくないというのは、大人げない。この「大人げない」部分に、いつも反省するのである。ここ数日の、コミュニケーション不全などと、自虐的な文を書き連ねたのは、ぶっちゃけて言えば、そのような直観と推理に自信が持てなかったためである。しかし私が漫然運転事故のもと!と解決策をみつけたら、ねえ、内田先生の応援が待っていた。こんなうれしい流れはめったにない。真摯に考えて、一人でね、目途が立つというのは、いいことだわ、ほんと。
2008年11月05日
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「底の抜けたかめに水を注ぐがごとき虚しさ」について昨日、日記に書いた。その続きを今日書く。と言っても昨日の分は削除してしまったけれど。今、テレビで森三中の村上知子さんらが口にしていたワード。「上から目線」に、私のアンテナがぴぴっと反応した。三人組のお笑いさんの彼女たちの、誰が上で誰が下か、傍目には分からない。しかし彼女たちは、お互いに「上から目線」の物言いを拒む。「あら、そう言うあなたこそ、上から目線じゃないの」といった具合に。これである。今、どんな人も「上から目線」の物言いに反発する。年上の人だろうと、先輩だろうと、上から目線のアドバイス(そう、このアドバイスというのを特に嫌うようだ)をとても嫌がる。プライドばかりが肥大した人々が増えたのも、たぶん同じ理由からだろう。多くの人は他人による支配を嫌うのである。いかに未熟であっても。例えば相手の弱点を探して(そんなことは簡単だからね)、相手を引きずり降ろして、同じ地平に立とうとする。自分の経験からよく分かる。その人が未熟であればあるほど、その未熟なプライドを守ろうとするためか、上から目線のアドバイスを拒否する。どうも自分のすべてを否定されたと勘違いするところがあるみたいだ。未熟なプライドとは、そういうことだよね。現実の自分を受け入れ難い。あるべき高さに自分がいないことが、逆にプライドを肥大させる。私が昨日ここに書いて削除した文章は、今日ここにまとめたことで足りる。あまりの相手の未熟さについお節介をしてしまった自分への不愉快な気分。いや、それを相手が受け入れていれば、不愉快な気分にはならなかった。相手が拒んでいることに気づかぬままお節介をしたことで、おしゃべりはキャッチボールとはならず、一方的な、割れたかめに水を注ぐがごとき事態になったということ。このあたりが私の不快感の主な原因だろう。人と話して、コミュニケーション不可に陥ると、とても疲れる。まあ、私に反省すべきところがあるとすれば、話している間に相手の拒否を察知すべきだったというところくらいだろう。そのほかは、自分に「ご苦労さま」と言ってやろう。いずれにしても、その人は今自我構築の途上にあるわけだ。であればこそ、「上から目線」を嫌うだろう。反抗期の子どものように。しかし半世紀をこえて生きてきたことが仇になった。反発を表に出すのは自分にとって不利益であると学習した結果だろう、さも相手のアドバイスを求めているかのような振る舞いをした。善意はときに野暮である。私の中の善意の人が、ここにまんまと乗っかった。まったくね。なかなかしたたかな人ですよ。聞き出すだけ聞き出して、肝心要のところは拒むんだもの。近ごろ、ハウツーだけを求める人が多いという世間のムードと、似たものを感じる。いずれにしても、おかげですっきり。「底の抜けたかめに水を注ぐがごとき虚しさ」とは、反発し拒否する心を表に出さない相手と、上辺だけの会話をした結果、コミュニケーション不全に陥ったことによったのだ。「上から目線」をきっかけに、ちょっとだけ考えた朝。これからまたテープ起こしだ。このところ忙しいな。
2008年11月03日
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