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今日はインナーチャイルドのことを書こうと思っていたのですが今、急に昔のことを書きたくなってしまったので、書いてみます〜お暇な方はおつきあいくださいませ♪(って、暇な人なんていないか)今から20数年前、私がまだ日本にいた頃のこと。当時の私は、シンセサイザーの演奏の仕事をしていたのですが自分の才能に限界を感じていて、だからといって特に練習したりすることもなくあ〜このままやっても、私はたいしたミュージシャンにはなれそうにないなあと思い、それなら結婚でもして、適当に遊んで楽しく暮らそう♪とまあ、今から考えてもイージーな人だったわけですがそれで大学1年の時から6年つきあっていた彼と結婚することに決めお互いの両親も顔合わせをし、私たちは家具も親に一式買ってもらって新居で生活を始めました。ところが、しばらく一緒に暮らしていたものの、結婚の前になって「やっぱり、のりことは結婚できない。すまん、俺にはそんな責任は負えない」と、彼は家を出て行ってしまいました。まあ、今から考えると、彼も全くグラウンディングできていなかった人でしたし、就職したばかりで、仕事での不安が大きくなった頃で、結婚するということが、彼にとって大きな負担となってしまったのでしょう。(ちなみに今でも彼は親友と言えるような存在なのですが)で、私はしばらくは、ショックで泣いて過ごしていたわけですがそんなある日のこと。仕事で九州の大分の街頭で、シンセサイザーの’演奏をしていた時にフランス人のバンドマンたちを引き連れたプロデューサーに声をかけられその場で一緒に演奏する、というハプニングがあり私はそのプロデューサーAさんに「こんなすごい人が日本にいるんだ〜」と一目惚れしたのです。彼は当時の私より20歳ぐらい年上でしたからその当時の私から見るとすごく大人に見えたし海外生活が長い人で、外見も中身もかなり日本人離れした人でした。それでAさんが数週間後、バンドマンを連れて福岡に来て演奏するという情報を聞いて花束を持って出かけました。そして、その場で「今夜、時間があったらデートしよう」とAさんが声をかけてくれてきゃ〜♪やった〜〜♪と喜びいさんで、待ち合わせのバーに出かけました。とバーに着いてみると、Aさんは一人の女性と話し込んでいます。「ふ〜人をデートに誘っておいて、他の女性をくどいているんだからなあ」と思いつつ、近寄ってゆくと「お、中村!(私の名字は中村と言います)この女性は〜〜さんだ。今、彼女がバーで一人で飲んでいたから欧米では一人で女性が飲むなんてことは滅多にあることじゃないしただ事じゃない雰囲気があったので、声をかけてみたら何かとても辛い経験があったそうなんだ。それで俺は、今、彼女に世界のいろんな子供たちの話をしていたんだよ」そして私に「中村、俺は明日、東京に戻らなくてはいけないから近いうちにまた彼女と会って、ゆっくり話を聞いてあげてくれないか」と言うのです。その彼女は、私より一回り年上の方だったので、30代半ばでした。どうして私が全く知りもしない人の相談に乗らなきゃいけないのよ〜と思いつつも、まあ、大好きなAさんの頼みだしと、それから数日後、彼女と二人で食事をすることになりました。今の私だったら、話をするのでも、何とでも話せるでしょうしまた、話を聞いても本質的には何も変わらないことはわかっているのでヒーリングセッションを行うと思いますがその頃、私は24歳ぐらいで、ヒーリングのヒの字も知らず一回り年上の女性の悩み相談なんてどうしていいのか全くわかりませんでした。それで最初は会って、いろいろと彼女の話を聞いていました。彼女は、長い間つきあってきた彼にふられてもう自分は結婚はできないと思いこみ(たった30代で!!今なら60代でも大丈夫よって言えるのに)あの夜は、もう私は死ぬしかない、という思いでふらふらとバーに飲みに行ったとのことでした。Aさんが話しかけてくれたおかげで少し意識を変えることができた、と言われていました。Aさんは、バーで一目彼女を見て、彼女の雰囲気にただならぬ重いものがあったのを見抜いていたのでした。そうして、私は彼女と3度ぐらい会って話を聞いていたのですがどういう話の流れだったかは思い出せないのですがだんだん私の話をすることになって、私がそれまで経験したことや感じたことなどをあれこれ話していました。実際、私も彼に出ていかれたばかりで、最高にハッピ〜というような状況ではなかったし、彼以外のことでも例えば、バイトで水商売をやっている中での様々な経験やレイプされかけたことや、いろんなことがありましたからたぶん、そういうことも含めて、いろいろ話したのでしょう。それで彼女が「信じられない。そんなに若いのに、そんなことを経験していて。そんなに不幸なことがあったら、私だったら絶対に自殺すると思う」と言ったことに、ものすごく驚きました。私の中では、もちろん彼に出て行かれてさみしいとか悲しいという感情はまだあったもののそれが不幸だ、とか、今までの状況が不幸だいう意識は全くなかったのです。へ〜他の人はこれを不幸って思うんだ〜私自身は全く不幸だと感じていないのに。おもしろい〜♪と思いました。そして彼女は「あなたの方が大変なんだから私もいつまでもぐじぐじしていないであなたみたいに元気に生きなきゃね。ありがとう〜」とお礼を言い、元気になって帰ってゆきました。思い出してみると、これが私の初のカウンセリングだったのかしら。(でも、考えてみれば、水商売のお仕事ってカウンセリングみたいなものですけどね)そう、彼女にとっては、幸せ=幸せだと一般的に言われている状況だったわけです。だから、あなたはこんな大変な状況なのに、こんなに元気なんてとなったわけでそれはもちろん、本当は全く癒されてはおらずそういう人は、もしまた自分より「幸せそうな」状況の人を見たら落ち込むのでしょうが(今から思えば、彼女はグラウンディングが弱く魂ー心も分裂している状態だったでしょうし)その当時の私としては「へ〜、大変な状況を経験したことをシェアすることが人をハッピーにさせることができることもあるんだなあ」と思ったのでした。もっとも、その頃はまだ、私のジャットコースター人生のほんの始まりであってそれから15年ぐらい、大変なことは山ほどありその度に泣いたり、怒ったり、傷ついたり、いろいろあったわけですがそれでも、不幸という意識はなくどんな状況にあっても、意識の深いところで、自分の人生を信頼していました。それは、私が自己肯定、自分大好き人間だったからだなあと。すべての現実は自分自身が生み出したものであることを小さな頃から、意識のどこかでは知っていたように思います。今の現状が嫌なら、誰に何と言われようともさっさとやめる続けるならベストを尽くす、状況を他の人のせいにはしない。基本的に全力投球だったので、愛がないのにあきらめて続けているカップルや自分が嫌いな仕事を文句を言いながらやっている人はその頃の私には全く理解できませんでした。(最近はいろんな人のセッションをやってきてそういう方の信念体系や本質的な要因を理解できるようになりましたが)ちなみに一目惚れしたAさんは、残念ながらすでに最愛の奥様がいたので私は女性としては相手にされなかったのですが人間みな兄弟、みたいな人でしたから、それから何度も会ってそのAさんとの出会いから私もAさんのようなグローバルな人間になりたい!という思いが強くなりその1年後に日本を出て、誰一人知りあいがいなかった、このニューヨークに全財産たった500ドルぐらいで、やってきたのでした。(初めての海外で、着いたその日の夜から、ビレッジのバーでバーテンダーとして働いたのよ。今から考えると無謀だよね〜)ほんと人との出会いは、不思議。色鮮やかなタペストリーの糸ように一人一人の出会いが人生の様々な模様を描き出してほんの一つの糸が変わるだけで、人生はまた変化してゆくのだなあと。最初に結婚をしないと言って出ていった彼は、シンジというのですが(ここで名前出しちゃっても、彼ならオッケーだとわかっているので)シンジに「あなたが、私にしてしてくれた最大のギフトはあの時、私との結婚をやめて出て行ってくれたことよ」とよく言っていました。だって、最愛の夫、おさむと出会うためにはあそこで結婚してしまっていたら、アウトだったですもんその後、おさむと出会うまでには、いくつかの恋愛をすることになりNYに来て何年後かに、別の人と出会って一緒に日本に戻り新居を構えた後に、再び破局になったり(つまり2回も結婚直前破局をやってるのだけど)その後、再びNYに戻り、様々な事件や出来事がとても書ききれないほどありましたが(実は本当に大変だったのは、おさむと出会ってからなのだけどね)私にとっては、大変だった状況もまたその時々で感じた様々な想いもすべてが愛おしい宝物のような感覚です。例え、いろんなことがあっても「人生は楽ではない」とか「自分のやりたいことだけやっては生きていけない」などという不要な信念体系が私の潜在意識に全く芽生えなかったことにおさむも不思議がっているのだけど、本当にラッキーだったと言えるのかも。(おさむと出会ってから「男には頼れないから自分で自分を守らなければ」という信念体系は出来てしまったけどねそれもようやく去年、手放せたし、めでたし♪)ハッピーに生きれるかどうかは、その人がこれまでどういう経験をしたかや今の状況がどうであるか?ではなくどれだけ深く自分の本当の価値を受け入れているか、にあります。だから、ヒーリングは、過去の傷を癒すためというよりそれによって失われてしまった自分の本当の価値を受け入れるためのもの。もちろん、意識が変われば、状況も変わるということが起こります。ということで、明日はバレンタイン明日は二人でソーホーのレストランに行く予定ですが今年は、おさむはもう早々と花束を持ってきてくれて(しかも2日も続けて)超スィート。先日の彼のブログに「キネシオロジーを学んで、のりこにヒーリングしてあげたい」などと超うれしいことが書かれてあってあ〜昔は、けしてこんなことを言ってくれるような人ではなかったのに〜(泣)すべては変化してゆくのだなあと。今、愛する人がそばにいる方は、おめでとう♪そして愛する人がいても、そばにはいない人もまた、愛する人から愛されていないと感じている人も愛する人は、今はどこにもいない人もこのままずっと一人なんじゃないかと不安な人も。大丈夫。今、あなたのそばに、愛する人がいようといまいと「今この瞬間を最大限に幸せに生きる」ことを選択さえすれば、すべては魂の計画通りにいきますから。ということで、バレンタインスペシャルでした♪(なんじゃそりゃ〜)Love
2013年02月13日
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昨日、今日と何人かのクライアントさんからの連絡で停電だったところも、電気が戻っているとのことで水も復旧したとのことで、ほっとしています。ある方からのメールで「水がトイレのタンクに溜まる音を聞いて、嬉し涙が出ました」というのを読んで、その光景を想像しただけで、私までジーンと来ました。電気もそうですが、特に水が充分にあるというのは本当に本当にラッキーなことだなあと。私も以前、ペルーの水道も電気もないジャングルから戻って熱いシャワーを浴びることができた時例えようもない幸せ感を感じたことがありますが普段、ごく当たり前だと思っていることの有り難さを感じることができるというのも、この人生の祝福だと言えるかもしれません。私は今でも時々、シャワーを浴びる時や水を飲む時に、その幸せ感を感じます。地下鉄も全部ではないですが、4番5番やDラインがマンハッタンからブルックリンまで開通したのでマンハッタンに住んでいるクライアントさんも来られるようになりほぼ通常通りになりました。私もあと2週間ぐらいは休みなしですが、サンクズギビングの前ぐらいからは週1で定期的に休みを取ることができそうです。よくみなさんに「そんなに休まなくてよく元気でいられますね〜」と言われますが、大好きな喜びのお仕事をやっていることとあとは、けして無理をしないので、元気でいられます。ちょっとでも何かを感じれば、自分へのヒーリングを行いますしセッションが立て込んで入っている時には他のことをできるだけしないようにしています。ご飯も作らないで、外食したり、おさむに作ってもらったり。クライアントさんで来られる女性の中には、結婚していても外で働きながら、家の中のこともほとんど自分がやろうとして知らずしらずのうちに無理をしている場合があります。すべてをやろうとせず、力を抜けるところは思いっきり抜く。頼る、任せる、できるだけ遊ぶ(クリエイティブではない遊びをする)私にとっては、これがパワーとクリエイティブの秘訣かも。最近はすっかり「ケアできる男」に生まれ変わったおさむが買い物も洗濯もやってくれたりするので、さらに楽ちん。少し前に「洗濯もやってあげるよ」とおさむが言い出した時にはほんとうに人はここまで変わるのだなあ、としみじみ。昔は全く人のケアなんてしようとしなかった彼だったのでとても考えられない変化です。洗濯や家事は、女性がやること、これは、理屈の上での女性らしさであって本当の意味での女性性とは関係ないなあと。大切なのは完全に守られ、ゆだねることができているという意識です。(と、私は昔から理屈の上での女性らしさもなかったかも)さて、なんだかんだで、今年も残り2ヶ月弱なんて信じられない早さで、過ぎ去ってゆきます。ドランヴァロが新しい本「The Mayan Ouroboros The Cosmic Cycles Come Full Circle」を先日リリースしたので昨日、Kindleでダウンロードして読み始めたばかりですがこの時代の私たちの急激な意識の変化が、時間を早く進めていると書かれていました。ドランヴァロ曰く、シュメール文明が始まった頃、6000年前ぐらいから1900年ADぐらいの学びを私たちは1900年〜50年の間に行いそして、それはどんどん加速して、現在の私たちは毎週、数週間のうちに6000年分ぐらいの学びを行っているのだそう。数週間で6000年分の学び、というと、かなり大げさな感じはしますが確かに、私もおさむも、私の周りの方たちを見てみても昔の時代なら、一生かかってもできないような学びを一気に進めているような感じがあります。それぞれ身体の不調や精神的な問題やその他の問題を通じて自分の内面と向かい合い、変容することを魂レベルで求められている時なのだなあと。そして、それができる時代なのですね。2012年12月21日。25625年に一度、地球と太陽と銀河の中心が一直線に並ぶ日。まだ具体的な予定は決まっていませんがこの日の前後は、私とおさむはセドナで過ごす予定でいます。この新しい時代への大切な時をハートに従って過ごしてゆきますようにサントリーニ島のフィラにて。新たな時代へのゲート。
2012年11月04日
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シンクロなのか、そういう時期なのかわかりませんがこの2週間弱の間に、IHキネシオロジーのセッションに来られた方の中で正確には数えていませんが、確か8人ぐらいの方(の身体ー魂)が選んだその日の優先テーマは「楽に人生を生きること」でした。以前から、よく出てくるテーマですがなぜか、先週、今週はこのテーマが頻繁に出てきています。世の中には、苦労が好きな人がほんと多いのですね~楽に生きたり、楽に幸せを受け入れることを潜在的に拒んでしまっているのです。これは、年代とともに増えていく傾向にあって私と同じかそれ以上の年代の人は、非常に高い確立で持っている信念体系です。たまに30代の方にも見られますが。アメリカで長い間、女性で一人で仕事してきた方の多くは持っていますし小さい頃から家庭環境などで、苦労してきた方も持っていることが多いです。楽に生きれない理由としてよくあがってくるものをあげてみると☆苦労をしてこそ、人として価値がある☆人生は苦しいものであって、楽に生きれるはずはない☆楽をしたら、人から認められない☆楽をしたら、成功しない☆楽にお金は稼げない☆楽に生きることを受け入れたら、自分が怠けて、何もしなくなるような気がする☆苦労を乗り越えてこそ、幸せになれる(目標達成型人生)☆人や社会に貢献するためには、苦労が必要だ☆幸せの後には、不幸がやってくる(だからはじめから、幸せを受け入れないようにしている)などなど。私たちは、大変な苦労して、最後には成功した人の話や困難を乗り越えてきた人の話好きなのですよね〜。それが、苦労している=人間的に価値があるという図式になってしまうようです。このプログラム『楽に生きたくない病』を持っていると本人の頭では、幸せになりたいと思っているのにも関わらず様々な困難を無意識に生み出してゆきます。ある病気になって、それが治ったと思ったら、また別の病気になるまたは、人生の中で次々と困難が出でくるというような方の中にも、この信念体系が多く見られます。宇宙は私たちの潜在意識に持っているものをすべて望み通りに叶えてくれるので苦労が好きだと、人生は苦労の連続になってゆくのです。自分自身に楽することを許していない人は他人の「楽」も許しません。そういう方は、仕事場で、楽しているように見える人要領よくやっているような人に対して怒りが湧いてくるという方も多いです。また仕事だけでなく、例えば、恋愛でもなぜか自分が選ぶ男性はみんな問題がある人ばかり、などというのもこのプログラムが関わっていることがあります。その恋愛に乗り越えるべき困難がある時は、燃えるのだけどようやくその困難を乗り越えて、幸せになれる時になって何だか醒めてしまった、などということになってしまったり。また、このプログラムを持っている人の多くが☆他の人に甘えたり、頼ったりせず、自分一人でがんばらなくてはいけない☆完璧にやらなければならない☆一度何かをはじめたら、途中で投げ出したりせず最後までやらなければならない☆責任感を持ってやらなければならない☆正しい生き方をしなければならないなどの信念も同時に持っていることが多いのでさらに、人生は困難になってゆきます。(「完璧主義、正義感、責任感」この3つを「人生が困難になる3セット」と私は呼んでいます)楽に生きるというのは、別に家でだらだら過ごすとか南の島でのんびりする、とか、そういうことでなく自分にとって、本当に喜びとなることだけをどんどんやっていくということです。目標達成のために、または誰かのために、生きるのではなく今、自分が本当にやりたいことをやってゆく、ということ。正しい生き方、ではなく、喜びを感じることができる生き方を選択するということです。また、楽に生きれない理由として、お金の問題があがってくることもよくあります。潜在意識の中で、自分の無限の豊かさを信頼していないので苦労しなければ、お金が得れない、という信念体系ができているのです。そうなると、当然、苦労しなければお金を得れない現実がやってきます。ほんとうに宇宙は私たちのお望み(意識)通りに叶えてくれるのですよね。最近は、意識が現実を創っている、ということをわかっている方も多いのでそういう方は、セッションでの調整も比較的スムーズにすみますが中には、「楽をしたら、今の仕事はやっていけなくなります!」と強力に抵抗する方もいらっしゃいます。こうなると潜在意識を変えるだけではなく顕在意識を変化させないと、どうにもならないのであれこれと、私がその方の身体の声を代弁して、説明することになるのですが1回のセッションでは、なかなか変わらないこともあります。そういう意味では、スピリチュアルな本をいくら読んでも頭で理解しているだけで、実際の潜在意識は変わっていないことがほとんどですが、例え「頭で理解しているだけ」でも全く理解していないよりはいいと言えるかもしれません。(とはいえ、スピリチュアルの本を読んで逆に必要のない信念体系を生み出してしまっているケースも多いので何とも言えないですが)ということで、楽に生きるということの本質が上手く伝わるかどうかわからないのですがこれは、けして、がんばることがいけない、ということではなくそのがんばりが自分にとって心から喜びをもたらすものであったらそれでいいわけです。喜びのがんばり、は魂はウェルカムでも苦しいがんばり、は必要ないのです。こんまりさんの言葉を借りれば「ときめくがんばり」という感じかしら。例え「苦しいがんばり」をやっていても頭では「私はまだまだがんばりが足りない」と思っている人も多いので自分が「苦しいがんばり」をやっていないかどうかちゃんと自分自身に問いかけていく必要があります。(といっても「苦しいがんばり」をすることで得られるものがあると潜在意識で感じていることが多いので自分ではなかなか外せないプログラムなのですが)ということで、私は明日もまた「楽な人生、喜びのがんばり」でいこうと思います〜
2012年10月21日
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NYはすっかり寒くなりましたね。私は世間の話題から遠ざかっていますが、みなさまはいかがお過ごしなのかしら?ナッシュビルから戻ってから10日間やっとのんびりするかと思いきや、以前にも増して怒濤の日々が過ぎてゆきます。以前「何が何でも1週間に一度は休みを取る」と決めたにも関わらず見直してみれば、旅行以外で1日休みを取ったのは、8月21日が最後で来週にようやく1日オフの日があるので、2ヶ月ぶりです。(決めたことをすぐに覆すのは、私の欠点でもあり長所でもあるのだけどね)こりゃやっぱり、やりすぎかな~と思いつつも、なぜか止まらない。おさむには、あきれられているし、クライアントさんにまで心配される始末でヒーラーが働きすぎてどうするんだ、とも思うのですがここまで私がヒーリングを行うのは何だろう、と意識を向けてみるともちろん、すぐにセッションを受けたい人が多かったりすることもあるのですがでも、けして人のためや社会のためというだけではなく(それも少しはあると思うけどね)やっぱり、これは私にとって、最高にクリエイティブな仕事なのでひたすら喜びなのだなあと。ちょうど今日、クライアントさんで友人のKちゃんから『ヒーリングは究極のアートじゃないかしら?! アートよりもっと深く探れる』というメールがあって、そうそう、全くそうなのよと同じように感じている人がいて、うれしくなりました。Kちゃんもアーティストなのですが、最近、ヒーリングを行うことに目覚めてきた人でいろんなことを学びつつ、天性の才能をどんどん開いていっているので会うたびに、私の方がいろんな気づきをもらっている感じです。ヒーリングをクリエイティブなワークだと捉えていない人は例えば「〜〜のクラスを取ったら、ヒーラーやセラピストになれますか?」などと質問して来られたり「このクラスを受ければ、あなたもヒーラーとして開業できる」なんてうたい文句に、踊らされたりしてしまうのですがヒーリングは、会計の資格や自動車の運転免許などとは違うわけでアートと同じですからクラスを受けたからどうということではないなあと。何度か書いたように例えば、一度も絵を描いたことがない人が、絵のクラスを1週間取ったからといって画家になれる、とは普通は考えないでしょうしダンスを踊ったことがない人が、2週間ダンスのクラスを取ったからといってダンサーになれるわけでないのと同じように何かのクラスを取って資格があるから、ヒーラーになるというわけではなくヒーリングは、ヒーリングを行う人の存在すべてで行うもの。クラスを受けることも、何かを学ぶことも自分のクリエイティブさを高めるために行うことだと思います。逆に言えば、何のクラスを取ったこともなくても自分で独自のヒーリングワークを行うことができれば、それでいいわけです。だから「あの人のようになりたいから」いう理由でそれに向かっていったとしても、魂の導きに添うことはできないしどこかで行き詰まってしまいます。私たちはみんな何者でもない自分自身の人生を歩くためにここにやってきているのですから。これまで私もいろんなことを学んできましたがME(マトリックスエナジェティクス)であってもIH(インテグレイテッドヒーリング)でもブレインジムでもタッチフォーヘルスでも、チューニングフォークでもそれらは単にツールでしかないのです。それらを統合して、私独自のヒーリングを行っているので私と同じヒーリングを行う人は、世界に他には一人もいないですし1回1回のセッションには、これまで私が生きて来た中で感じたこと、気づいたこと、人生のあらゆることすべてが出てきます。同じ絵の具を与えられても、人それぞれ全く違う絵になるように例え、どんなヒーリングツールを持ったとしてもヒーリングは、その人それぞれで全く違ったものになってゆくのです。例えば、IHは素晴らしいヒーリング法なのですが最近、私にとって、これは不要だと感じているところはIHの中で取り入れられているNLP(神経心理言語学)正直、心理学は限界を生み出してしまうと感じます。(ヒーリングの初期段階では有効な場合もあるのですが)なので、私のクライアントさんはこのNLPを使った(マインドの)調整法をほとんど選ばないのです。それは、今の私の意識は、それを越えているからであって以前の私のセッションでは、出てきたこともありました。でも、それが限界となっていたことに気づいてからはそこから私のセッションは大きく変化してゆきました。当然のように、私の意識の変化とともに、クライアントさんの身体が選ぶテーマも目標も調整方法も変化してゆきます。それがクリエテイティブであるということ。だから、ハートに従って、クリエイティブにやっていくと多くの場合、その型にはまらない自分なりのやり方や方向性が見えてくるのだと思います。ヒーリングに限らず、あらゆる仕事はクリエイティブであることが必要なのではないかしら?与えられたことをその通りにやるだけだったら、機械でいいわけでクリテエイティブな存在であることは、私たちの魂の喜びそのもの。仕事がおもしろくないのはその仕事自体が、自分のクリエイティブさを発揮できない仕事であるかもしくは、その仕事の中で自分がクリエイティブになれないか。アーティストやヒーラーに関わらずクリエイティブであり続けることは、すべての人にとって大切なこと。子供の頃って、ほとんどみんながクリエイティブだったわけでそれが大人になって、決められたことを決められた通りにやってゆくようになってしまうなんて、ほんとつまんないですよね。私がイチローが好きなのもそのクリエイティブさだなあと。(ヤンキーズ負けてイチローがワールドシリーズに行くのを見れなくて残念だったけど)そして、大切なのは、やはりグラウンディング。グランンディングができていなければ以前の私のように、いくらクリエイティブであっても『アイデアだけ。イメージだけ』で終わってしまい具現化していくことが難しくなるのですよねということで、最近は新たなツールAcutonicが増えたのでこれをどう使っていくかまた、どういうテーマや目標の時に使われるかほんとおもしろくて「おお、すごい、ここでフィボナッチが選ばれるのね〜」などと心の中で一人感動しながらセッションを行っています。この感動を誰にもシェアできないのが、残念でもあるのですがアート作品を作り上げる作業の一部(またはすべて)は一人で行うことが必要とされるようにヒーリングもクラアイントさんと一緒に作り上げてゆくものでありながら同時に私一人で行う根気のいるワークでもあります。絵を描くのも、曲を作るのも、作品を作り続けなければけして自分なりのスタイルは見えてこないのですがヒーリングも全く同じこと。やり続ける情熱があることを才能というのだと私は思っています。おさむ曰く「のりこはヒーリングオタクだ』もうヒーリング中毒とでも、オタクとでも何でも言ってちょうだい。(あ〜とうとう開き直った?)魂が喜ぶことだけをやってゆきます〜(←やっぱ走っているのよ)
2012年10月18日
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多くの人は、多かれ少なかれ、無意識、意識的に関わらず人から認められたい、尊敬されたい、受け入れられたいと感じています。それが大きければ大きいほど、人からどう評価されるか、人からどう見られるか?が常に自分の行動や考え方の中心になってしまいます。人の目が気になって、自由に発言したり、行動できない、自分が何かをやった後、人の評価がとても気になる、または何をやっても、自分を認められていない気がする、そういう風に感じている方は、とても多いです。例えば、人に貢献したい、社会で役に立ちたい、そういう思いの中にも人から認められるために、という思いが潜んでいます。もし、ただ社会や人に貢献したいだけだったら、今すぐどんなことでもできます。公園に行って、落ちているゴミを拾ったり道歩いているお年寄りの荷物を持つお手伝いをしたり例え、お金をかけなくても、特別な能力がなくてもいくらでもやれることはありますから。でも、人に貢献すること=人から認められること、につながっていると人に貢献することが、特別なことでなければならなくなるのです。では、人に認められたい、受け入れられたいという思いを持つことは悪いことなのか?というと、けしてそうではないと私は思います。以前の私、20代から40代前ぐらいまでですがこういった思いを手放すこと、つまり人から認められようとか、受け入れられようとかいう思いを手放すことが大切なのだと思っていました。だから、人から認められることを目的としないようにできるだけ人の期待に添わないように、できるだけ自分勝手に自由に生きようと思っていましたでも、このやり方はけして完全ではありませんでした。私の意識のどこかには「人からの評価を手放した自分を認めてもらいたい」とする意識があったからです。(これは精神な世界を探求している人が陥りやすいエゴなのですが)それは手放しても手放しても、潜在意識のどこか深くに存在していました。だから、そのやり方をを変えました。(変えざるを得なくったというのが正解なのだけれど)「エゴを手放そう」とすることを手放したのです。つまり、私はすでに、私の存在だけで、認められ、受けいられ、愛されているそんな意識に変わっていったのでした。そしてもう何もしなくても、また何をやったとしても私はすでに認められ、受け入れられている、そう潜在意識が変化した時、もう人からの評価を気にしたり、認められようとがんばったりする必要はなくなりました。私のキネシオロジーのセッションでは、自分が存在しているだけで人に認められている、受け入れられている潜在意識がそんな意識に変化するように、調整することがとても多いです。例えば、会社で自分は認められていない、と感じている人がいたとします。実力は十分にあると自分では思っているのに、上司や周りの人はあまり評価をしてくれないしまたお給料も充分ではないと感じている。そういう場合「自分はすでに認められている」という意識に潜在意識を変化させるのは最初、抵抗があります。だって、実際に認められていない(と感じている)のですから。でも、実は、自分は会社で認められていない、と感じていたとしても根本的な要因は会社や仕事にはありません。それは、私たちが子供の頃から、親や学校、社会から植え付けられてきた信念体系にあります。社会に貢献しなければ人から認められない何かよいことをしなければ、役に立つことをしなければ、だめな人間だそういうメッセージを、私たちは生まれてからあらゆる場で植え付けられてしまっています。私たちは生まれてくる時は、何一つ「認められていない」なんて感じていなかったのにすべては完璧だったのに、だんだん余計な信念体系が増えていくに従って何かをしなければ、人から(お金や賞賛の言葉などで)評価してもらわなければ、自分は充分ではないという意識に変化してしまったのです。でも、その信念体系を手放し自分は今のままで充分に認められている、受け入れられているのだ、そう潜在意識を変化させると、「現実」(実はこれが幻想なのですが)が変化しはじめます。上司や周りの態度や対応が変わった、と感じるのです。何度か書いてきましたが、これには二つの意味があります。上司や周りの態度は同じなのに、自分の潜在意識が変化したので例え、以前と同じ対応であっても、違って捉えるようになって「私はすでに認められていたんだ」と感じるようになるということ。もう一つは、自分の潜在意識が変化すれば、自分が持っているエネルギーも当然、変化しますから上司や周りの人が、本当に「認めて」くれるようになるということ。例えば、AさんがBさんに認められていない、と感じていたとすればBさんにとっては、Aさんが自分を否定しているかのようなエネルギーに感じますからBさんは実際にAさんを認められなくなってしまいます。多くの人は、自分を否定している人を認めることはなかなかできませんから。ですが、もしAさんが「自分はすでに人から認められている」と潜在的に感じていればBさんにとっては、それが自分を受け入れているかのようなエネルギーに感じるのでAさんを受け入れることができるようになるのです。それと、スピリチュアル的には(この言い方も変なのですが)もう一つ意味があります。例えば、セッションの前には、ある人に認められていない、受け入れられていないと感じていてセッションの後、その相手には実際に会っていないのにも関わらず相手が変化した、と感じることもあります。これは、自分の内面の問題を手放した途端より高い次元の自分(ハイヤーセルフ)が「では、もうこの問題を起こす必要はないわね」ということで、問題はなくなってしまうのです。私たちの本質ー魂レベルの自分は、その問題に顕在意識レベルで気づかせるためにわざわざ、その問題を起こしているのですから。つまり、何か問題が起こっている以上は、自分の中に手放すべき何かがあるということなのです。ですから、キネシオロジーのセッションを受けた後ほんとうに不思議なくらい周りが変化したように感じると言われる方が多いですがこれは「マネーゲームから脱出する方法」流で言えば本当の自分の力を取り戻たので、ホログラムが変化した、ということになります。現実を変えるのは、すべて自分の意識次第だと言われているのはこういうことです。それは自分の意思や考え方ではなく、潜在意識の中での意識のことです。例え、いろんなスピリチュアルな本を読んだり、考え方を変えようと努力してみたりしても(いわゆる頭でっかちスピリチュアルなのですが)現実には、たくさんの問題を抱えている人が多いのは潜在意識は何も変化していないからです。ということで、ある意味では、人生は「不要な信念体系や思い込みを手放す旅」だと言えるかもしれません。それを手放す度に、あらたな気づきや発見があり、感動があります。不要な信念体系を手放せば手放すほど「がんばって」何かをする必要は何もなかったのだ、ということに気づきますからどんどん人生は楽にスムーズに動き出します。「がんばって何かをしなければ、自分は人には認められない、受け入れられない」これは、多くの人たちが持っている不要な信念体系の一つだと思います。それにしても、毎回のように言っていますが生まれた時には持っていなかった「不要なもの」を、生きていく中で身につけてそれをまた手放してゆく、のですから、人生というのは何と効率の悪いものかしらねでも、もし私たちが不要な信念や思い込みがなくなったら別の意識レベルでのあらたな旅が始まるでしょう。そういう時代も近づいてきているのを感じます。と、相変わらず、ごちゃごちゃと書いていますが今日は、何といっても1ヶ月ぶりの1日オフの日。1日中、家でだらだらと過ごしています。瞑想したり、公園行ったり、ブログ書いたりは私にとってだらだらではないのでこんな感じでだらだら過ごすなんて、ほんと久しぶり。私にとっての、だらだらは、ベッドの上でごろんと横になってIpadでギリシャの島々を眺めたり、なのですが。最近は、人のブログを読んだりすることもなかったのでこの時間がまたいい感じです。ということで、これから、フローズンマルガリータ飲みに行ってきます~~
2012年07月13日
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前回の日記に『非賛同者の方は、直接私にメールで送ってください』と書きましたが(これを読んだおさむ曰く「おお、これって、ちょっと外に出ろ!みたいな感じだよね」というのですが、そんなつもりは、、、)非賛同者の方からは、一人も来ていないのに、賛同者の方が何名も送ってくださいました。温かなメッセージをありがとうございます。読んでいてつくづく感じたのは、例え、この限界のある言葉を使って伝えても伝わる人にはちゃんと伝わっているということ。中には、私とおさむのことに関して、深い洞察力で感じてくださっている方もいて前回書いた「100万回書いても伝わらない」というのは、撤回します~前回の日記を書きながら「ふ~賛同者だけコメント、なんて、一体何様のつもりかしら。我ながら傲慢な態度だなあ。でもきっと伝わる人には伝わるだろうからいいかな」となどと思っていたのですが、やっぱり感じてくださっているのだなあと。私の賛同者の意味は、賛美者という意味ではないということを。前回のコメントの中に「面識もないのですが、おさむさんとの事についての記事を読むと心がざわざわしたりおさむさんに勝手な怒りを持つことがありました。でも、それを深く感じると、私の中にあるセクシャリティのブロックみたいなものや男性への恨みのような感情があるのだなと思いました。今は、フラワーエッセンスを色々とりながらこの感情と向き合っています』というのがあって、うれしくなりました。例え、ブログを読んで「おさむなんてひどい」とか(私が悪者にしちゃった?)「のりこがそんな選択をするのはおかしい」などという感覚が生まれたとしても、なぜその感覚が生まれたのかを自分の中に見出すことができる方、それが私にとって賛同者なのです。すべての答えは自分の中にしかありませんから。他には、こんなコメントも頂きました。『その方のコメントを読むだけで、 エネルギーがダウンして気分が悪くなってしまいます。 でもそれはきっと、私の中にもその方と同じ部分があるんだと思います。 自分の正当性をどこまでも主張して、戦うような・・・ それで反応してしまうんですよねきっと」ここまで気づくことができるなんて素晴らしいなあと。でも、だからと言って、あまり自分に厳しくならないでくださいね。自分の内を見つめるのは、本当の意味で自分が楽になってゆくためのものですから。読んでいて苦しいのに「う~~これは辛い、でもこれは自分の中に何かがあるからなのだ。読みたくないけど読むぞ」なんて思う必要はありませんので確かに自分の中に不要なものがなければ、ある程度、何を見ても感情的にはかき乱されなくはなりますがそれでも自分にとって、心地よい波動やエネルギーというのがありますからそういうものは、できるだけ触れないようにするのが一番だと思います。私は「あ~だめだこりゃ~」と感じると、すぐに読み飛ばしますそれにしても、賛同者というと、どうしても意見や考え方に対してという意味合いになりますし何だか、教壇に立って、賛成不賛成の票を取っているようなイメージが浮かぶので別の言葉はないものかしら。例えば、共鳴者は?何らかの感覚と共鳴している人です。ということで、賛同者ならぬ、共鳴者の方から頂いたメールを掲載の了承を頂いたのでご紹介させてくださいね。ありがとうございます。私も主人と付き合って長いのですが、5年程前にリーディングセラピーを受けたときに、セラピストの方から「あなたが主人と別れれば、もっと成長できるし、豊かになれるあなたは主人に依存している、魂が成長してして、さなぎから蝶になったらさなぎとは一緒にいられないんだ、蝶になったら蝶の仲間と暮らすようになる」と言われたことがありました。 当時は娘が生まれたばかりで、家族3人で幸せになるには?と質問したのですが。 家族3人でというのがもうすでに依存なのだと。 涙がとまりませんでした。泣いている私に「とても怒りを感じる」とか質問すると反論処理のようなやり取りで。全く愛がかんじられませんでした。 とてもショックでしたが、自由意志でもちろん主人とは別れずでも自分自身の内観とヒーリングをして最近わかったことは主人はスピリチュアルなことなんて全く興味もなく、学んでいないのにいつも愛や優しさを実践していてスゴイ!!ということです。今ではとても主人を尊敬していますそして今では家族3人でいることをとても幸せに感じます。 これを読んで、みなさまはどのように感じられるでしょうか?セッションでいろんな方のお話をうかがっているとこのような経験がある方はけっこう多いのです。この方の場合は、自分自身で最善の決断されてほんとよかったなあと思いますがこういうリーディングを受けて逆に迷ったり、後から後悔するようなことになってしまう方も少なくありません。もちろん、迷ってしまった本人の責任であって、そこから学ぶ必要もあったからなのでしょうがなぜこんなことが起こるのかなあ、とそういうお話を聞く度に思っていました。本来、愛を伝えるためのアドバイスやリーディングなのですから。このリーディングを行う人自身が、愛に満たされていたらこんなリーディングにはけしてなりません。実際、本当に愛のあるリーディングやアドバイスをできる人はそれほど多くはないと感じます。では、どんなリーディングやアドバイスが愛のあるものかというと「あなたは、きっとこれから~~になります」とか「このままで行くと~~なりますよ」など、これから先のことについて(特に本人が望んでいないことについて)一切言わないものだなあと思うのです。でも、先のことが知りたいから、受けるのだしこれからのことを聞けないのだったら、何のために受けるの?ということなのですが私が以前、受けてよかったなあと思ったリーディングのことをご紹介しますね。これは何年か前、最初にシャスタに行った時に受けたリーディングのことです。当時の私の一番の興味は「アセンションできるかどうか?」でした。アセンションすることが今生での目的だと思っていたのでアセンションできるのなら、明日でも地球を離れる覚悟オッケーぐらいの勢いでした。(これだけでも、いかに私がグラウンディングできていなかったかがわかりますよね~)もちろん、悟りを求めている間は悟れない、などということは頭ではわかっていたのでアセンションを求めても仕方ないとはわかっていたのですがそれでもやっぱりマインドは、アセンションしたい、と(笑)ということで、リーディングを受けた時に彼女に一番先に聞いたことは「私は今生でアセンションできるのか?」ということでした。彼女は、しばらく私のガイドとコンタクトしていて、それから私に伝えたのは「あなたは、過去(過去生)にすでに何度もアセンションしていますよ。だから、今生では、アセンションすることが目標ではなくそれに向かっていく他の人たちをサポートすることなのです」その言葉を聞いた途端、私の中で何がふ~~と軽くなってゆくのを感じました。「あ~そうなんだ~もう今生ではアセンションしなくてもいいんだ」なんと単純な(もともと超単純な人なのだけど)それから、もうアセションしたいという欲はすっかりなくなってしまいました。(もっとも、他の人をサポートしなければ、という妙な使命感は強くなってしまったので、それはまた後に手放すことになるのですが)彼女はただの一言も「あなたはこのままではアセンションできませんよ」とも「あなたは今生でアセンションしますよ」とも先のことは一言も言わなかったのに私はもう安心して、その問題はなくなったのです。今となっては、彼女が本当に真実を見ていたのかどうか?なんてどうでもいいことです。どちらにしても、そんなものは証明しようもありませんから。でも、愛のあるリーディングやアドバイスは、人を安心させたり癒したりするのだなあ、とその時に感じました。私の場合、愛のないリーディングを受けたことはほとんどなかったのでたいていの場合、伝えられるのは「すべては完璧にやって来ていますよ~」とか「そのままやりたいことをやっていけばいいですよ」とか「天使たちが見守っていますよ~」などというようなことで、何一つ先のことは伝えられなかったですし結局、すべて自分自身で決断してきたわけです。だから、最近ではリーディングを受ける必要性自体を全く感じなくなりました。キネシオロジーやヒーリングは、どちらに行ったらいいか迷った時に決めてくれるためにあるのではなく、魂からの声を受け取り自分を信頼して決断してゆくことができる自分になるためにあります。でも、人によっては、迷ったり、落ち込んだりした時にそういう愛のあるリーディングを受けたら、安心したり、勇気が湧いてくることもありますから、そういうものなら受けるのもいいのではないかなあと思います。ですから、もしそういうリーディングやアドバイスを受ける場合はその人が愛とつながっている人であるかどうか、しっかりと自分で感じてくださいね。もし、愛がないと感じたなら、いくら何と言われたとしてもさっさと忘れて、自分の中に取り入れないことだなあと。それが、例え、友人であってもです。私たちは、お互いにサポートし合うようにできているので辛いことがあったら、一人で抱え込まずに周りにシェアしていくことは大切ですがその時に、あなたに「こうしないとこうなる」とか「このままでいくとだめになる」などのことを言う人ではなく、あなたの決断や選択の力を信頼し「うんうん、大変だったね」とか「よくやったね」などとただあなたの話を聞いてくれる人に伝えることができたらいいですね。今回、温かなコメントやメールを頂いて、あらためて自分の持っていた幻想にも気づきました。私はハートを開いて愛を伝えていたつもりでしたが結局、愛を与えられ、支えられていたのは私の方だったのですから。だから、自分の感覚や気持ちを周りとハートでシェアしてゆくことをこれからも恐れないでいたいなあと。多くの人がハートが開いてきているのを感じます。Love今日は新月。明日は夏至ですね。今、おさむがサウンドヒーリングのセレモニーを行っています。みなさま、素敵な夏至の日を過ごされますようにPS今週末のフロリダ出発までに、作成しなければならない書類が全然できていなくて、久々のピ~ンチ(ってこれ書いてる暇あったら、さっさとやれって感じなのだけれど、どうしても書きたくなったの)ということで、これから出発まで時間がないのでもしコメントやメールを頂いても(セッションの予約などのメール以外は)お返事が遅くなってしまうかもしれません。ごめんなさい~。
2012年06月19日
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コメント欄にお返事しようと思いつつ、また次の日記を書いている私です。(しかも頂いているメールでのお返事もまだ進んでいない)すみません!!でも、みなさんからの愛はちゃんと伝わっていますよ~何人かのお言葉が、びんびんとハートに響いてきてああ、やっぱり伝わる人には伝わっているのだな~と涙が出てきます。本当にありがとうございますAkiyoさんが伝えてくださったように私はわかってもらいたくて書いていたわけではないのです。なんというか、ただそこにあるエネルギーを流している、そんな感じです。私の友人の中には「スピリチュアルなことを言葉にしても、伝わらないからこういうものは書かない」という人もいます。確かに、意識やエネルギーのことを言葉で伝えようとしているのですから無理があります。私もブログで伝えるなんて意味ないかな~と思ったこともありました。でも、言葉は限界はあるけれど、エネルギーの一つであることは間違いないのです。みゅうさんが言われているように、テレパシーを使えない限り言葉を使ってゆくしか、手だてはありません。例え100%伝わらなくて、ほんの小さなさざ波のようなエネルギーであっても何かを感じてもらえればいいなあ、そんな気持ちでいます。例えば、本当は私とおさむのプライベートなことなんてここで100万回書いても伝わらないのは当たり前のことであってそれは18年間の二人の間で様々なことがあり簡単に説明できるようなものでもないですし、ましてや私たちと会ったこともなければ、全く伝わらない可能性の方が大きいです。みゅうさんが捉えたように捉える方も多いだろうなあというのも、よくわかります。それは一般的にはこうだ、という捉え方から見れば、全くその通りだからです。でも、もし私に恐れがあったなら、彼の魂レベルでの愛を信頼できずに別れる選択をしたでしょうし今の私とおさむは「別れるのが恐いから別れることをやめる」というステージにはいないので、例え、人からそう言われてもその言葉自体からは傷つかなかったのですが私が傷ついたのは、いくら私がハートを開いて伝えてもやっぱり伝わらないのだ、という深い悲しみの感情がそれを読んだ時にわき上がってきたからです。人に認めてもらおう、とか、自分をわかってもらいたいという思いはもう随分昔にワークして、今はないので(というより潜在的に「すでに認められている」と感じているので)だからこそ、こうして、個人的なヘビーな?ことであってもありのままにシェアしてゆくことができます。もちろんヒーリングは、ハッピーになるためのものですがそれを行うまでや、途中での手放す時のプロセスは、しっかりと自分と向き合ってゆく過程でありそれは必ずしも楽な道とは限らないのです。そういうヒーリングを真摯に綴ってゆけたらいいなあと。多くのヒーラーが、けして言わないようなところまで書いていきたいなあと思っていました。だから、例え私の個人的なことであってもハートを全開にして伝えていこうと。でも、心ないコメントを読むと、やはりハートは傷ついてしまいそれは、もちろん、その方のせいではなく私がこれまで、ハートを開いて人と接してきた中で何度も愛を受け入れてもらえず、傷ついてきたからであってそれは、前回お話した、深い孤独感につながっていました。そして、もちろん、その傷も幻想であることはわかっているので昨日、セッションをやって、その孤独感を完全に手放しました。ですから、その孤独感を再確認させてくださった方々には本当に感謝なのです。そして、一方では、メールを頂いた方から「のりこさんのblogを読んで、私は愛を与えているだろうかきちんと受けとれているだろうか、と思いました」というのがあって、あ~私の言葉のエネルギーはちゃんと伝わっているそう感じることができました。(他のコメントやメールでも伝えてくれてありがとう)愛って何だっただろう?愛を与えることって?愛を受け取ることって?それは一体どんな感覚?そんな風に自分の内に向かうきっかけになるのだとしたらたとえ、100人のうち95人に伝わらなくても5人の人に伝わるなら、言葉としてのエネルギーを流していくことにも意味はあるなあ、そう感じるのです。私は賛同者と非賛同者を、味方と敵に分けていません。ただ、非賛同者に対して、理解してもらおうという気はないのです。言葉のエネルギーというのは、その人の持つ意識によって感じるものです。私の言葉から、感じる人は感じるし、感じない人は何も感じません。それはどちらがいいとか悪いとか、上とか下とかではなくただ意識が違うのです。その意識の違いを言葉によって、埋めようとしても無理なのです。でも、もしかして、場所が違ったところでその方と出会えばまた時期が違って出会えばまた違った関係になるのだろうなあ、と感じます。だから、永遠に非賛同者だとは思いません。いつか、心からわかりあえる時が来るかもしれないと思います。ですが、誤解を恐れずに書けば、今の時点での非賛同者はここに来られない方がいいと思います。世の中には、たくさんの人たちが様々な考え方をブログに書かれていますが自分が賛同できないところのブログにわざわざ出かけていって、読んで気分を害する必要なんて全くないのです。ましてや、一生懸命、相手の間違いを指摘してみても何も変わりません。私は言葉によって、相手を負かそうとしている人たちと話をいくら重ねても、時間の無駄だと感じます。これはこういう理由があるのだから、自分は間違っていない恐れーエゴは、必死で自分の正当性を主張しようとします。それで認められると、とりあえずは満足しますが本当の意味での安心感はそこにはありません。常に相手の言葉が自分を認めているものかどうか?をチェックしなければならなくなるのです。そしてまた、相手のエゴを指摘していること自体が、エゴの仕業です。私は相手に愛がないことをお伝えすることが、私のエゴから来ていることもわかっています。でも、それでもあえてそれを行うことがあります。もしエゴを完全になくせば、私はこのブログ自体を書くことをやめるでしょう。言葉によって愛のエネルギーを流したい、というのもエゴと言えますから。エゴがあるのが悪いのではなく、エゴに気づいていないことが問題なのです。私があえて、相手のエゴを指摘したのは気づきの可能性にかけたからです。私の本質は、そんなことどうでもいいのです。深いレベルで見れば、その方が素晴らしい人であるということはよくわかっていますから。例え、出てくるものが何であっても魂レベルでは、誰もが素晴らしい叡智であり、愛そのものです。私が本当に相手の方にお伝えしたいことは、エゴを指摘することではなく「自分の正当性を主張しなくても大丈夫なんだよすでにあなたは認められているし、受け入れられている存在なんだよ」ということです。コメント欄に書くのは、何を書いても自由ではありません。そう思っている人は、いわゆる「荒らし」と言うものになります。(あ、もちろん、みゅうさんは、荒らしではありませんよ!)こういうブログの匿名の世界だけで、自分の不満やうさをはらそうとする人たちです。そういう方は、自分の名前や素性を明かした状態ではそのことを相手に伝えることはできません。だから、多くのブロガーはコメント欄を承認制にするのです。愛という観点で言えば、コメント欄に書いていいのは例え「直接相手に会って伝えるとしても、これを伝えたい」と感じることのみです。もし、これを直接知っている友人に対してもしくは初めて出会った人に対して伝えたいと思うだろうか?心から信頼する友人として伝えることだろうか?という気持ちを感じてみてノーなら、それは愛から伝えているわけではないと私は感じます。(あ、だからと言って、コメント欄に書くのに名前を明かす必要はありませんので。ただそんな気持ちなら、という意味です)ということで、ここからは、ちょっと強硬手段なのですが(は~さらに誤解されるのを覚悟の上です)私のブログのコメント欄に書くのは、賛同者のみでお願いします。逃げとか傲慢とか思われるかもしれませんが非賛同者に賛同してもらえるように、あれこれと時間と労力をかけている時間が今の私には全くないのです。以前は、そのプロセスからも学ぶことがあったのですがもうそのプロセスは卒業したので、もう必要ないなあと。私は愛の人ではいたいと思いますが、いい人でいたいとは思いませんから。もちろん、賛同者というのは、私の言うことの全部を賛同しているという意味ではなくいくつか理解できない、賛同できないところがあったとしても基本的に私の感覚と共鳴している人、という意味です。もし、非賛同者がコメントされても、ある程度はそのまま残しておきますが私からのお返事はいたしません。また、ある程度の限度を越えた場合低い波動を感じた場合は、削除させて頂くかもしれません。私は何を書かれても大丈夫なのですがこれを読んでくださっている方々の中には否定的なコメントを読むだけで、気分が悪くなったりエネルギーがダウンしてしまう人もいますから。もしどうしても、否定的なコメントをしたい場合は私のメールアドレスまで、直接、実名で送ってください。norico1@earthlink.net愛とつながるのがどういう状態なのか?を言葉で説明するのは不可能です。愛をつながっている人には感じられても人生のほとんどを愛とつながっていない状態でいた人に愛を感じなさい、と言われてもそれは到底、無理な話なのです。昨日、おさむに「愛とつながるセッションの後、どういう変化を感じている?」と聞いてみました。そうしたら、彼の答えは「いろんな変化を感じているけど、一番最初に感じたのは愛のない人がそばにいると、とても苦しく感じるということなんだ。例え、その人が「俺はこんなにすごいんだぞ~」と自分のすごさを見せつけていたとしても、そこにある自分には愛が充分にないという心の叫びを感じてしまって、胸が苦しくなったよ。でも、これはたぶん、2、3週間して完全に統合されれば落ち着くのだろうね」本当にそうなのです。愛とつながっている状態だと、他の人の心の叫びを自分の痛みとして感じてしまうので、とても苦しくなるのです。だから、しっかりグラウンディングできていない状態でハートを開けば、間違いなく傷つきます。私が昔は、そういう人たちの中にいるのが辛かったのはハートは開いているのに、グラウンンディングできていなかったからです。だから、人の多いところでは、あえてハートを閉じることもありました。今は、かなりグラウンディングができてきたので大丈夫になったのですが。愛とつながれない人というのは、傷つかないようにプロテクションのために無意識でそうなってしまっただけなのです。人生のほとんどを愛を感じることができないで過ごしていれば頭で考える愛でしかなくなります。自分の言葉が愛からなのかどうなのかさえ、わからなくなってゆきます。そして、実際、それは愛とはかけ離れたものになってしまいます。ヒーリングは、愛に戻ってゆくプロセスです。私たちの本質は愛そのものですから。ここで私が流す言葉のエネルギーがほんの少しでも、何かのきっかけにつながるのならこれからも、ありのままに綴ってゆきたいなあと感じます。たくさんの愛とサポートをありがとう~~私の深い深い意識のレベルで、あなたを愛しています。インラケチ
2012年06月16日
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おさむが、先日のセッションのことを彼の日記に書いているのですがこの日のセッションは、いろんな気づきも大きかったですがとても辛いもので、たぶん、こんなセッションは、私の人生の中で二度とないだろうなあと。10日ほど前のことでした。突然、おさむから、家を出て行こうかと思っている私と別れようかどうしようかと迷っている、ということを伝えられました。なぜ、そんな風に彼が迷い始めたかというのは、いろいろな経過があって、簡単には説明できないのですがそれはメキシコの旅の後から起こったことは、彼も気づいていたものの彼自身も自分の気持ちがよくわからなくなっていました。私は最近の彼の不調は、てっきりセッションの好転反応だと思っていたのでそんなことが彼の中に起こっていたなんて全く気づかず。二人の関係が今のように戻ってからはこんな風に離婚の話になったのは初めてのことです。そのことを彼から伝えられた直後に、私はその日最後の予約が入っていて感情の解放を行う時間もないまま、そのセッションに望むことになってしまいました。たまたま、それは、ずっと前から来てくださっている方でクライアントさんというより、友人に近い方でしたから彼女は、何か普通ではないエネルギーに気づいてくれて私はついさきほど起こったことを正直に話し、そしてわんわん泣いて結局、その日は、セッションはできず。これまでヒーリングのセッションを行う時に私の感情が不安定だったことはなかったのですがやはり、ヒーラーの感情が安定していなければ人へのヒーリングはできないなあと。もちろん、感情を抑えて行うこともできたかもしれませんがヒーリングは、ただ道具やテクニックではなくて私の存在すべて、私のエネルギーすべてで行うものですからそういう状態では、きっとよいセッションはできなかったでしょう。彼女には申し訳なかったですが甘えさせてもらえて、よかったです。こういう何か悲しいことや辛いことが起こった時に大切なことは、すぐに達観したり、頭で納得したりせず一旦、その悲しさや辛さを感じきって例え、落ち込んで、泣きわめいても感情をすべて解放してゆくということ。そうしないと、その感情は潜在意識の奥に残ってしまいます。私は昔から、感情の解放に関しては、けしてがまんしたりしないのでこの日の夜も、わんわん泣いて泣いてその後は怒りも湧いてきて、怒りも感じきりそれが収まると、す~っと私の中心に戻ってきてさて、私はここから何を学ぶ必要があるのかしら?という意識に転換してゆきました。でも考えても仕方ないし、ただ流れに任せようと。おさむの決断に任せるのではなく、流れに任せる。例え、今は辛い結果になったとしても、後から振り返ればやっぱりこれがベストだったと思えるようになるということは経験的によくわかっていますし私の人生にとって、すべては必要なプロセスであることは完全に信頼していましたから。それで、次の日の夜、おさむと話していてわかったのは彼は、あまりにも傷つくことを恐れてしまっていて全く愛とつながっていないということでした。あ~だめだこりゃ~~「愛を与えることが幸せなのではなくて与えた愛を受け取ってもらえたということが幸せなのだ」という言葉を、中山康直さんのニュースレターで読んで深く共感したのですが私の愛を彼はハートレベルでは受け取っていなかったことがショックでした。そして、おさむは、自分から別れたいと言い出した後で私と別れるということがどういうことなのか、実感として感じ始め「やはりそれは嫌だ。のりこのセッションを受けてなぜ俺が愛を見失ってしまったのかを知りたい」と言い出しました。それで、IHキネシオロジーのセッションを行ってわかったのは3歳頃、おさむの両親の不和などから、おさむが感情的に受けた傷や予防接種(幼い頃の注射や薬によって、感情的なバランスを失うケースはよくあります)などの要因が上がってきました。3歳までに、そういう感情的な傷があれば、もう傷つかないように、無意識にプロテクションしてしまいますしそれが、愛とつながれないことになってしまいます。彼の場合は地球や自然や宇宙に対する深い愛はあっても人に対する愛を感じる力、愛情が欠けていたのです。だから、ある意味では、全くそれはおさむのせいではないわけでこれがクライアントさんへのセッションなら「ああ、そんな小さな頃に傷ついたんだね、本当に大変だったね」という気持ちが湧いてきますがおさむの場合は、私との関係であってこれまで私へのハートレベルでの愛はなかった、ということがクリアになるにつれて私は湧いてくる悲しみを抑えることができませんでした。しかも、今回、あらためてわかったのはおさむの身体は「のりこを女性として愛します」に反応していて先日「のりこは前世では俺のお父さんだったんだよ」なんて言っていたのが全く冗談ではなかったんだ~とショックでも、私がショックを見せた途端おさむの身体は「罪悪感」「自分への怒り」などに反応し始めるのであ~だめだ、私が感情を出したら、セッションはできないなあと。でも、私の気持ちはどうなるの?こんなセッションはもうやめるべきじゃない?と葛藤しつつも一方で、これは私にしかできないセッションだということもわかっていたので途中から、私の個人的な想いは消しました。もちろん、その後で自分へのヒーリングをすれば大丈夫なのですがそれでもハードなセッションでした。彼が愛を与えれない人であることはどこかでよくわかっていたことだったのですが彼にこれまで多くのセッションを行ってきてそんな根源的な問題にアクセスできなかったのは私自身がその事実を受け入れたくなかったからなのだなあと。愛と恐れは、けして共存できないもの。傷つくことへの恐れ、自分が受け入れられていないことへの恐れ愛されていないことへの恐れどんな恐れがあっても、愛とは離れていってしまうのです。今回、おさむに「のりこは本当に傷つくことを恐れない人なんだなあ」と言われたのですが確かに、私は傷つかない人なのではなく、傷つくことを恐れていない人だと言えるのかなあと。傷つくことが恐くないから、ハートを開いてゆくことができる。それは、魂レベルでは何も傷ついていないということもわかっているし例え、潜在意識の中では傷ついたとしてもたくさん涙を流して、ちゃんとそれを癒していけばその癒された傷は、やさしく私の心に色を添えてゆくものなのだということをヒーリングを知る前から、知っていたように感じるのです。そして、この「愛とつながる」というテーマでおさむのセッションをやってからその後、クライアントさんにも、続けて2人の人がほぼ同じテーマが上がってきてやはり、私の意識とクライアントさんとはシンクロしているのだなあ、と。そして、今回、この問題が上がってきたのは、マヤメキシコの浄化の一つだったということもわかってきました。ペカン遺跡で、女性性と男性性の統合のセレモニーを行ったことがおさむにコントロールしようがないような感情を抱かせ彼が潜在的に持っていた闇を強烈に浮かび上がらせることになっていました。いや~もう次の旅は、巡礼や浄化ではなくて絶対にバカンスの旅にしようさて、こういう風に書くと、まるでおさむの持っていた問題だけが要因だったかのように見えますが、実際は、私は被害者ではなく私たちに起こることのすべては、自分自身が(といっても、意識できないレベルで)生み出している現実、いや幻想です。それでは、私の中のどんな意識が、今回の幻想を生み出したのだろう?と。今回、彼から別れを持ち出された時に私が最初に感じた感覚は、深い孤独感でした。その孤独感は、私は昔からずっと持っていてそれは、おさむと一緒にいてもどこかにはあったのですがここ何年もその感覚は、すっかり忘れてしまっていてもうなくなったかのように感じていました。その孤独感は、誰かと一緒にいるとか、信頼する友人がいるとかそんな現実的なことで解決できるようなものではなくもっと、深いところにある孤独感。それが、今回のおさむが別れを持ち出した時に浮かびあがってきたのを感じました。だから、私の中のその孤独感を浮かび上がらせるためにおさむを通じて、私自身がどこかで生み出したとも言えるのかもなあと。今週中には、私へのセッションを行ってそれがどこから来ているのか、見てゆこうと思っています。それと、もう一つ気づいたことは先日のクライアントさんへのセッションでFESのフラワーエッセンスの一つが選ばれたのですが、その効能が「トラウマライフ」中毒人生に劇的なドラマを生み出さなければ気がすまない人のためのエッセンスというのを見た時にあ~私も昔、そういうのがあったなあと、思い出しました。そして、もしかして、まだそういうものが潜在意識のどこかにもあるのかも?と。私は昔からジェットコースターみたいな人生で当時はリチャードバックの「人生で最も最悪なのは、何も起こらないということだ」というのが座右の銘だったように本当に波瀾万丈の人生を送ってきました。これは、アーティストや俳優などクリエイティブなワークに携わっている人の多くが持っている傾向でそういう劇的な人生を送ることで、感動を生み出すアートや音楽を生み出そうとする意識がどこかにあったりします。それで、思い出したのが、24、5歳の頃に大学時代からずっとつきあっていた彼と結婚しようということになって新居を構えて、家具も取り揃えた後で、その彼が「やっぱり、俺はまだ結婚なんて考えられない」と言い出して出ていってしまい、別れたことがあったのですがその時に、傷ついて、とても悲しかったにも関わらず意識のどこかでは「あ~これで、私の人生は決まってしまわなくて済んだ。まだこれからどう変化するかわからない、無限の可能性に満ちている」という、わくわく感に近いものを感じたことを思い出しました。つまり私は昔から、変化を恐れない、傷つくことは恐れなかったのですが安定することを恐れていたのかもと。安定=つまらない人生、という図式が私の潜在意識の中にはあったのかもしれません。もちろん最近は、そんな波瀾万丈に生きたいなんて意識では思っていなかったし感情的にも精神的にも、穏やかでいたのでそんな意識もなくなっていたかのように思っていたのですがまだそれがどこかにあって、こういう現実を生み出したのかも?と今回のことを通じて、感じました。つい先日もアメリカ人の俳優の方のセッションで彼もまた波瀾万丈の人生だったのですが筋反射テストで出てきた結果をこんな風にお伝えしました。「あなたの意識では幸せになりたいと思っていても潜在意識では、簡単に幸せになるのは嫌だ困難な道がいい、ドラマチックな人生が必要だ、と伝えていますよ~」すると彼は「オーマイゴッド!誰がボスなんだ!その潜在意識に、今日限りもうクビだと伝えてくれ!』と言うので、笑いました。確かに、潜在意識に人生をコントロールされてしまって本当のボス(魂)が望んでいる生き方ができなくなってしまっているのですものね。ということで、私へのセッションをやってみないとわかりませんがもし私に「劇的な人生中毒」の潜在意識が見つかったならその日限り、その潜在意識にはクビを言い渡してこれからは、劇的で幸せな人生ではなく平穏で幸せな人生にしようと思います~~
2012年06月13日
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祈りは必ず届くのだなあと感じます。私は自分のことに関して祈ることはあまりないのですがそれでもたまに、何か絶対に叶えたいことがある時に無意識に祈っています。そして、そういう時の願いは必ず叶えられます。それらは、たいてい、本当に小さな願いなのですが、その祈りが叶えられる度に、守られているということを感じます。今日は、天気が素晴らしくよい日だったのですが、久々にセッションも早く終わり最近、随分と近くのサンセットパークに夕日を見に行っていなかったので行きたいなあと思ったのですがこのところ、食料品を買いに行く時間が全くなくもう冷蔵庫の中はからっぽの状態。おさむは今日は休みの日で、これからサンセットパークに行くと言います。私の中では、公園に行って夕日を見たい気持ちが一杯で、このままおさむと一緒に公園に行きたい、という思いが強くあったのですが今日を逃してしまうと、またしばらく食料品を買いに行く時間はなくなってしまいます。最近、朝から晩までセッションが入っているので、食料を買いに出かける時間と洗濯をする時間を、どう確保するかは課題なのですが、今日はどうしても、夕日が見たいという思いが湧いてきました。太陽にしばらく当たっていなかったし、夕日を見ないでいると何だか自分が大元から離れてしまっている感じがするのです。それでもやはり明日からの食料が全くないのは困るのでおさむが公園に出かけるのを尻目にしぶしぶ食料品の買い出しにマンハッタンまで出かけました。これからマンハッタンまで地下鉄で往復して買い物して戻れば夕日が沈むまでには戻って来れないでしょうが、仕方ありません。でもやっぱり夕日を見たい、という思いが抜けきれず無理かもしれないけれど、なるべく急いで買い物をすませて戻ろうと決めました。私の家から、ホールフーズまで地下鉄に乗れば20分、でも歩いたり何だりで往復1時間かかります。ホールフーズで買い物しながらも、私の中にはただ夕日を見たい、その想いだけでした。急いで買い物して、地下鉄に乗り、駅を降りた頃には太陽はその位置からは見えなくて、もう今にも沈んでしまいそうでした。それでも走って家に戻り、食料品を冷蔵庫の中に入れてすぐに丘の上のサンセットパークに向けて、走りました。どうか、まだ沈んでいませんように。最後の瞬間でもいいから、太陽を見れますように。そのことだけを 祈って走りました。サンセットパークは、小高い丘の上にあります。走って丘の上に上った時、海の方を振り返るとちょうど太陽は、水平線にもうすぐさしかかる時でした。ああ~~間に合ったそれは本当に美しい夕日で、雲一つない空に太陽が輝きながら、海に沈んでいるのを見た瞬間思わず涙がこぼれました。おさむが、丘の上に座ってギターを弾きながら、こちらを見て笑っています。私がどんな思いで走ってここに来たのか彼は私の様子を一目見てわかっているのです。夕日が見るために、こんなにも必死で祈るなんて、ばかげているかもしれませんが私にとっては、夕日を見ることは、天の祝福です。しばらくの間、太陽が赤く空を染めて、海に沈んでゆく風景をみながらこの祝福を全身で感じていました。ああ、そうだ、いつだって祈りは届けられるのだなあと。キネシオロジーのセッションでは、祈っている暇なんてありません。ただ、クラアイントさんの話や自分の直感から筋反射であれこれ調べているだけですから。でも、時々、どうしても行き詰まってしまう時があります。もうこのセッションでは目標にたどり着かないかもしれないあらゆる手は尽くして、もう今の私の力ではどうしようもないそう感じるような時に、無意識に祈っています。「どうかこの方の魂の望む方向に導かれるように、私たちに力を貸してください」そして、ただ無心に祈っていると、ピンとある方法が浮かびあがってきたり何かヒントになる言葉がクライアントさんの方から、ふっと出てきたりするのです。だから、今日こそは無理かも?と思えるような内容であったとしても、やっぱり最後には必ず辿りつくことができるのです。その度に、守られていることに感謝の気持ちで一杯になります。私自身の力を越えた遥かに大きな力の存在を感じずにはいられません。もし、祈るということが、単に自分では何もしないことの言い訳になっていたとしたらその祈りは届かないのかもしれません(届くかもしれませんが)でも、自分でそれに対してできる限りのことをやったなら後は、ただ無心で祈ること。そうすれば、その祈りは必ず届く、そんな風に感じるのです。サレンダー(委ねる)というのは、その時その時の自分自身のできることすべてを尽くした後だからできるのだなあと。って、家の近くの公園で夕日を見れたというだけで、感動して涙流しているのですから我ながら変すぎるとは思うのですがおさむが「ほんとのりこって、シンプルでいいね」と言ってくれるのですけれどね(それは褒め言葉として受け取っていますが)太陽はどんな人に対しても平等に輝いています。人生の中で、本当に辛い時期には、太陽の恵みなんて感じることはできないかもしれませんが。でも、その人が幸せであるかどうかというのはその無限に与えられている恵みを、心から感じることができるかどうかただそれだけのような気がします。それを無条件に感じることができるようにヒーリングの仕事もあると言えるのだなあと。だから、太陽もヒーリングも私にとっての喜びそのものなのです。Blessingsこれはサンセットパークではなく、カウアイ島の夕日。でもこれを見た時と同じぐらい今日の夕日も感動でした。世界中どこから見ても、夕日は美しい。
2012年05月11日
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昨日は私の誕生日だったので、昨日、今日と2連休を取りました。昨日はパレンケでのセッションに続いて、自分へのキネシオロジーのセッションをおさむを代理人として行ったら、魂の統合が出てきました。以前、一度、魂の統合のワークをクラスの中で行った時は統合できたのは97%で、それ以上は統合できなかったのですが、今回ようやく残りの3%を、統合できました。3%の違いなんて、それほど大きくは変わらないのですが、私の中にごくたまに若干、過去に引き戻されるような思い、ノスタルジックな感覚があることに少し前から気づいていたので、もうこれで、なくなるような気がします。昨日、この3%が統合できたのも、今回のマヤメキシコの旅が関連しているのかもしれません。人生を通じて「今」を生きてきたつもりでしたが今から考えると、20代、30代の頃は、焦りや、妙な使命感や、人からの評価に左右されている自分がいて、それなりに葛藤もあったのだけれど40代に入って、ずっと楽に生きれるようになってきたなあと。ここ最近、やりたいことは、目標にしなくても、すぐに実現できるし何かを目指してがんばる必要はなくなってもう目標や夢を持つ必要もないのだということに気づきました。すべてはお任せ Surrender ですね。キネシオロジーの後、おさむがレイキ+サウンドヒーリングを行ってくれてまるで宇宙を漂っている感覚でした。昨日の夜は、おさむと友人とで地中海料理でお祝いしてもらいそして、今日はアーユルヴェーダの3時間のフルコースを受けてきました。リラックスして、とても素敵な誕生日でした。年を重ねてゆくのは、楽しいことだなあと。昨日、友人と30年後のこの世界を想像していたのですが全く今から想像もつかない世界が広がっているのでしょうね。30年と言わず、10年でも大きく変化しそうです。10年後の自分の意識の変化もどうなっているのか先のことはわからないからやっぱりおもしろい。ということで、旅日記ももうそろそろ終わらせないと。今回、いろんな方から、お祝いや励ましのメッセージを頂きました。ありがとうございますどんなことも終わりがきます。どんな楽しい瞬間も終わるし、どんな辛いことも必ず終わります。あらゆることは変化してゆく。ただその変化を楽しみながら「今」を生きてゆけますようにLove & Blessings湖畔の街、バカラールで見た朝日。
2012年04月09日
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昨日、クライアントさんに「のりこさんにとって、最高の幸せのイメージやビジョアルはどんなものですか?」と質問されて、今、その質問について書きたい気持ちになったのでさくっと書いてみます~私にとって、幸せは過去でも未来でもなく、いつも今にあるのでこれが最高の幸せのビジョンとかいうのはないのです。例えば、旅は私にとって最高の幸せですが、ご飯を食べている間も最高に幸せで、セッションをやっている間も最高に幸せだしこうしてブログをアップしている時も最高に幸せ。昨日もキネシオロジーのセッションをしながら「魂レベルでは、こういう選択もありなのね~」なんて感動していました。もちろん、個々の人生での選択は全く違っているのですがクライアントさんの新たな気づきは、直接私の新たな気づきにつながっていって私自身の新たな可能性が広がってゆくのを、実感しています。だから、こうなったら幸せ~とか、あの時が幸せ~いうのはなくて何をやっていても、今この瞬間が最高に幸せ。一方で、以前「覚醒した意識』にも書いたように、私たちの魂レベルの意識の中でコーザル体以上の意識レベルにアクセスすればそれは完全にすべてと一体化した意識でありそれは幸せ感などという言葉ではとても表せるものではなく、圧倒的な祝福のエネルギー。幸せというのは「身体が健康で幸せ」とか「美しい景色が見れて幸せ」とか「温かな友人がいてくれて幸せ」とか「心地よい風が吹いて幸せ」とか何らかの対象を必要とすることが多いのですがこの祝福の中では、全く何も必要としないのです。自分がただここに存在しているだけで、無限に祝福されている。そのことが、もう私の存在すべてで感じられて、喜びの涙が流れます。この意識レベルにいれば、私はもう何もする必要がなく旅に出る必要もないし、セッションをする必要もないしご飯を食べる必要さえなくなってしまいます。だから、その意識状態のままでは、生きていることはできないわけですがそれはあまりにも大きな喜びなので、もういつもの自分に戻りたくないと感じます。そして、この祝福は、この世に生きている人すべてに降り注がれていることがわかるのです。この感覚の中では、何一つ、自分がこうなりたいというものはなくただ存在していることが喜びであり祝福。でも普通の意識状態に戻ってくればそれはそれで、やはり幸せでありずっとあの意識状態でいることへの憧れはないのです。以前「奇跡の脳」の映像をご紹介しましたがあの完全なワンネスの意識は左脳が完全に休んでいる状態で到達できるもので通常の私たちでは、いくらイメージしたりビジョアルしたところで到達できるものではないですから。かといって、その意識に到達するために脳梗塞になる必要はなく、準備ができていれば何かのきっかけでそこに行くことはできるのです。だから私にとっての幸せというのは、3次元的な感覚であってそういう意味ではイメージやビジョアルを持つのも有効だと思いますしレイキのクラスの中では、ビジョアライズすることもお伝えしていますが別の意識レベルにいれば、イメージする必要さえないことがわかります。一方で、私たちがこの地球に肉体を持って生まれてきたということはそういう3次元的な幸せ、例えば、おいしいご飯を食べて幸せ~とか人から愛されて幸せ~とか新たなことを学んで幸せ~など様々な体験から学ぶことを選んだからだと私は思うのでこれもやっぱり素晴らしいなあと。それは、私にとって、いろんな次元(マルチレベル)で生きるということ。なので、私にとってのヒーリングというのは二つの意味があって一つは、この3次元的な幸せを受け取るということ。それは、経済的な豊かさだったり、健康だったり、人間関係だったり仕事での成功だったり、愛し愛されることだったりその人それぞれにとっての幸せを体感し、感動と喜びの人生のために本来のその人が持っている力を発揮するためのもの。そしてもう一つが、この圧倒的な祝福の意識、つまり5次元的な幸せを体感するための準備ということ。ヒーリングによって、不要な感情や思い込みが手放されれば自分本来の意識、魂状態につながりやすくなりますから何かのきっかけがあれば、5次元の意識に到達できると感じるのです。だから、そういう意味ではヒーリングが必要ない人は、この世にほとんどいないのではないかなあと。(たぶんインドの聖者などは必要ないのでしょうが)と、昨日、ちょっと感動したのは先日私がダブルブッキングしてしまった方がいてその方のセッションは1週間以上、間が空いてしまったので、私としては本当に申し訳なくごめんなさい!だったのですがその方曰く、セッションが延期されたことできっとこの1週間何かがあるのだなあと、わくわくして待っていたそうなのです。そうしたら、本当にその1週間の間にあることが起こって、それがその方の今回の優先テーマとして選ばれたのでした。それが起こったから、その問題が自分の中に内在していることに気づくことができ、そのタイミングでセッションに来れたとのこと。私たちの魂は、いつも完璧なタイミングですべてを用意してくれていてそのことを実感できるようになると目の前に起こっている現象によって、左右されなくなってきます。その方曰く「のりこさんがダブルブッキングしたのは、私(の潜在的な意識)なんですよ」と言ってくださって、おかげで私の罪悪感がなくなったのですが同時に、みんなだんだんその意識にきているのだな~ととてもうれしくなりました。一人が変われば、周りも変化しますから、それが全体として加速してゆくのでしょうね。
2012年03月16日
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もう2月も今日で終わり。今年のニューヨークの冬は、本当に暖かくて助かりました。こんな年は、私がここに来てから初めてじゃないかしら?これぐらいだったら、ほんとNYの冬も楽ですね~2012年の今年は、おさむ曰く「1年中、師走のような感じなんじゃない?」というのですが確かに、今年は最初から走っている感はあります。気がつくと、ずっとセッションやクラスが入って、ここ3週間は1日も休みなし(来週は休みを取る予定ですが)昔はいつも、私を怠け者呼ばわりしていたおさむも最近は『走れ~走れ~コウタロウ~~』のメロディの乗せて『走れ~走れ、ノ~リ~コ~』と歌ってくれています。(基本は今も怠け者だけど)この仕事が好きで好きでたまらないし、いろんな方々と感動を分かち合うこともできるのは、最高の幸せなので、いくらセッションやクラスをやっても疲れないですがさすがに、他のことがほとんどできなくなるので、週に1日は必ず休みを取ろうとは思ってはいるものの最近は、私の意思というより(天に?)動かされている感じがあって休みを取ろうとすると、遠方から来ていてその日しか時間がないという方から連絡があったり、緊急にセッションが必要な方がいらしたりでこういう時は、やっぱりゆだねていくしかないかなあと。来年ぐらいには、1、2ヶ月間、どこかに旅に出たりするのもいいなあなどと考えているのですが。今年はやれるだけやる、みたいな感覚がどこかにあります。(と、それも私が潜在的に生み出している幻想かもしれませんけれどね)さて、ここで書いてもよいとの了承を頂いたので、ご紹介したいのですが昨日、IHキネシオロジーのセッションを受けてくださった方の目標として出てきたのが「自分にとって本当に優先するものから行動に移してゆく」ということ。例えば、試験の勉強をしなければならないとわかっていてもついドラマを見てしまって日々を過ごしてしまったとか、やりたいとずっと思っていることなのに、なぜか先伸ばしにしてしまうなんてことは、案外多くの人にあると思います。こういう場合、いくつかの理由が考えられて、例えば、1)それは本当に魂のやりたいことではない(ただ人に認められるためにやらなければならないと感じている、など)2)それは本当にやりたいことなのだけれど、潜在意識で自分はできるという信頼がないので、チャレンジしようしない(失敗するのが嫌なので、潜在的にやらない理由を見つけようとしている)3)自分の力を信頼していて、チャレンジする気もあるのだけれどつい、その場、その場の感情に流されてしまい感情的にひかれることや目についたことを先にやってしまう。もちろんこれ以外にもありますが今回の場合は3番目の理由でした。私もどちらかと言えば、行き当たりばったりの人なのでこの感情に流されるというのはよくわかって例えば、今日はブログにこの内容を書こう~などと思いついたら最後、それを書き終わるまでは、他のことをする気がしなくて、一気に書いてしまったりします。その瞬間にやりたいと感じることをやってゆくこと。これはとても大切なことだと思いますが例えば、ダンサーになりたい、そのためには今、練習が必要だ、とわかっているのに練習をしようとせず、ちょうどテレビが見たいと感じたから、テレビを見続けてしまうということは「本当に自分が望んでいるやりたいことをやっている」ということにはならないわけです。(もちろん、テレビを見続けるのが今、魂が本当に望んでいることという時もあるでしょうが)単に感情的に流されたやりたいことと本当の魂が優先的にやりたいこととは違っている場合もあってその場の感情に流されてしまうと実は本当にやりたいことは、後回しになってしまったりすることがあるのですよね。だから、今を生きる、今にフォーカスする、という意識は、本当に魂がやりたいと思っていることを優先的にやってゆくということだなあと。テレビを見ることもやりたいことかもしれませんがどちらが今の自分にとって大切を瞬間瞬間で選択し、行動に移してゆく。それが、頭ではわかっていてもできないのは、潜在意識の中で、それに対しての抵抗があるからで今回もやはり原始反射が関連していました。原始反射、ほんとよく出てきます。原始反射が残っていると、感情的に流されることが多くなるようでオーガナイズする力が弱くなるのですね。とはいえ、もちろん、テレビをだらだら見ているのが必ずしも無駄な時間かというとけしてそうではなくそこから何か感動を得ることができたりすることもありますから(ドラマ「仁」なんて、ほんと見れてよかったですし)例え映像であっても、いろんな感動を味わうことは、大きなプラス。だから、あまりにも寄り道しないで、計画通りにやろうとする人だとそれはそれで、人生の中での豊かさや幅がなくなってゆくかもしれません。要はバランスなのだなあと。その場、その場で変化してゆく柔軟性を持ちつつも自分にとって、何が今、優先的にやってゆくことが大切かを見極め、選択し、行動に移してゆく。そして時には、無駄な時間や遊びの時間も持つこと。私は、柔軟性はあると思いますが、計画性はほとんどない人なのでもう少し、オーガナイズの力を高めるための調整が必要かもなあと今回の調整をしながら感じました。(計画性がないからこそよかった部分もたくさんあるのですが)ということで、3月18日間から11日間はメキシコなのでそこでのんびりできるでしょうからそれまでは走ります~(←これぐらいのペースで)スペイン語、勉強したいなどと言いながらまだ全然、本を開く余裕もないので(このあたりも計画性なし)今回はもうすべておさむに任せてしまおうと。(すぐに目標変更。こういうところはとっても柔軟)今度のメキシコへの旅は、題して「おさむを男にする旅」ただあなたについてゆきます~という感じで行ってみたいと思います。(果たしてそんなことが可能なのかしら?)
2012年02月29日
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先日、人生の中での臨界点(ターニングポイントというべきかしら?)についてちょっと書きましたがこれは例え、大きなものでなくても、いろんなレベルで私たちの生活や人生を変えてゆくのだなあと感じます。例えば、どこの職場で働いても、必ずそこで何かしらの人間関係のトラブルが起こってしまうという人がなぜこんなことが続くのか?もうこれはさすがに自分の問題かも?と気づいて、自分を見つめ直すきっかけになったり。また、夫婦の間のセックスレスが続いてまあいいか、とその問題を見ないようにしていたとしても、どうしても向き合わないといけないことが起こってセックスについての学びやワークを始めたり(←と、これは私のことですが)もっと日常的なことだと、例えば、肩が凝っているなあと気づいていても特に何も生活を変えなかったら、とうとう肩が全く上がらなくなってしまってこれではいけない、とヨガや水泳やフェルデンクライスやヒーリングなどを始めてみたり。お金でも健康でも仕事でもコミュニケーションでも結婚でも何か問題があるということは、私たちに何かを知らせてくれているわけですがたいていは、それにどこかで気づいていても、ちゃんと向き合おうとしないので人生の中で繰り返し、同じような問題が起こってしまったりします。魂は(宇宙でも神でも)私たちに気づいてもらうまで、これでもか~これでもか~と問題を見せてくれるのですよね。(いや、全く容赦ないです)バシャールがよく、輪ゴムの例えを使っていますが輪ゴムがビヨーンとのびればのびるほど、元に戻ろうとする力も大きくなるわけで、この元に戻るというのが、私たちの本質に戻ってゆくこと。以前、おさむがまだいろんな問題を抱えていた頃このバシャールの例えから「俺は今、輪ゴムをのばしている状態なんだから、あと少しで一気に戻るのだ~~」なんて言うので「あまりにも輪ゴムのばしすぎて、のびきったまま、もう戻らないんじゃないの?」とつっこんでいました(ひどい?)最大限に輪ゴムが伸びた状態から戻るのも悪くはないですが学んでくるにしたがって、そこまで伸ばさなくても、すぐに魂の本質に向けて、動き出すことができるのです。それでも最初のうちは、輪ゴムを伸ばすだけ伸ばさないと変容(自分の本質に戻ること)しようとはなかなか思わないのですよね~。私も過去は全くそうでなかなか自分の中の問題を見つめなかったのでもう天から強行手段で、変容させられてきた感はあります人生のターニングポイントといっても、私は、もうあまりにもたくさんのことがありすぎてどこがターニングポイントなのか、よくわからないのですが最初にスピリチュアルなことに深く入っていったきっかけとなったのは18、9年ぐらい前に遭った交通事故の後ぐらいでした。その頃の私は、いろんな問題を抱えていて当時、結婚しようとしていた男性と様々な問題の後で最終的に別れNYに戻ってきたばかりで、精神的なダメージがあった上にやっと見つかってがんばって働いていた仕事を同僚からのジェラシーによってオーナーに誤解され、くびになりその後すぐ、潜在的に抱えていた心労から急性胃炎で倒れて、救急車で運ばれようやく回復した後に、このひき逃げの交通事故に遭ったのでした。(これまでニューヨークで計3回、救急車に乗った私です)←自慢してどうするで、猛スピードで突っ込んできた車に真っ正面からはねられて、意識を失ったのですがよく死ぬ前の瞬間に、走馬灯のように人生を思い出すというのがありますがあれは本当で、車が向かってきて私をはねるまでのほんの1、2秒のわずかな間に私はこれまでの人生を振り返り、「ああ、ここで私は死ぬのだ、このために私は彼と別れ、日本からNYに戻ってきたのか」と感じました。そして、最初に意識を取り戻した時に「あ、生きている。私は生かされたんだ」と思いました。不思議と私の心は静かで穏やか気持ちに満たされていました。これだけいろんなことが続いて最後に全く死んでもおかしくない交通事故に遭って生きているのだから(前歯が4本折れたり、首や肩へのダメージはありましたが)きっとこれは、天が私に何かを伝えているのだろうなあと。だったら、ちゃんとそのメッセージを聞いてやろうじゃないのよ(←なぜかけんか腰)例え、どんな運命であってもそのまま受け入れよう。いくらがんばってみたって、あがいてみたってどうしようもないのだから。そう感じて、心は交通事故に遭う前より遥かに穏やかになって身体は動かないのに、生きていることへの喜びと幸せさえ感じていました。今から思うと、それが、自分自身が潜在的に選んだ、この世での学びを受け入れた瞬間だったのだなあと。事故の後しばらくは、身体が思うように動かず、あまり家から出れなかったのですがその間に、アインシュタインや量子力学、バシャールなど科学やスピリチュアルな本を片っ端から読みはじめました。誰に勧められたわけでもなかったのですがそうしたいと急に感じたからです(まるで事故でウォークイン?)もっとも、その頃はヒーリングには特に興味はなくただスピリチュアルな本を読んで実践していただけだったので本当の意味での変容(潜在意識のレベルでの変化)のためにはそれからさらに10年近くの月日が必要でしたが人生の意味を理解しはじめたのは大きなターニングポイントだったのだなあと。だからあの時期は、私のこれまでの人生の中では一番大きな臨界点でその後も、もちろん様々なレベルで臨界点はやってきたのですがあの時期のような問題は、あれ以来なくなったのであの事故は本当に私にとって必要だったのだなあと感謝なのです。おさむと出会ったのは、その時期の後、しばらくたってからでした。(実はこれが最大の臨界点だったりして)だから、何か一見よくないことが起こっている、状況が上手くいかないというのは、臨界点に達している、今変容の時期だということを意味していて魂レベルで見ると、けして悪いことではなく、むしろ祝福と言えるかもしれません。もっともその最中には、なかなか魂からのメッセージに気づくことは難しいですが、それに気づきさえすれば、大きな変容へと向かうのだなあと。私のところに、ヒーリングセッションの来られる方にもある臨界点を迎えてこういうセッションを受けてみようと思われる方はたくさんいます。重い病気になったから、それを癒そうとヒーラーになるきっかけになったなんていう人は、数知れず。例えば、マトリックスエネジェティクスのリチャード博士やシータヒーリングのヴァイアナ・スタイバルなど大きな病気や問題を抱えて、臨界点に達した状態から新たなヒーリングを生み出してきた人も少なくないなあと。だから、その当時の私の座右の銘はリチャードバックの「人生の中で最悪なことは、何も起こらないということだ」というものでした。何かが起こっている(それが一見よくないことであっても)というのは本質的な変容に向かうためのプロセスの一つなのです。でも、最近はその座右の銘も、少し違ってきたなあと。スピリチュアルな学びのために、みんながこんな経験をする必要があるかと言えば答えはノーですから。特に今の若い年代や子供たちは、もうこんな学びはもう必要としない人がほとんどだと感じています。辛い経験から学ばなくても、すでに目覚めている子供たちがたくさんいるのですよね。私の時代は、第一波のインディゴが生まれてきた時代であり、いわば、社会の既成概念を変えるために戦ってきた戦士たち。そして、これからの時代は、もうそういう戦いを必要としなくなる時代だということなのでしょうね。先日、クリスタルチャイルドのアキアネちゃんの映像を見ていたのですがこんな小さな時から、完全に神の声を聴き天才的な才能を発揮して、すでに無限の豊かさの中にいるなんて本当に素敵だなあと。もちろん人それぞれ今生での学びは違いますしそれぞれのペースで生きてゆくことが大切なのですが私たちは本来、誰でも自分自身の本質とそして天と(宇宙と)つながることができるのですから。そして、今、社会レベルでも、様々な臨界点の時期と言えるのだなあと。原発のことにしても、ここまでの大きな事故になる前に私たちは変えることはできたわけですがここまでならないとシステムを見直そうと多くの人は思わなかったわけですしね。かといって、古い態勢と戦っても、また新たな戦いを生み出してしまうだけですから戦いではなく、調和と統合のために私たち自身の心の中が平和でいることが何より大切だと感じます。たぶん、これを読んでくださっている方の中には自分は今、臨界点に来ていると感じていられる方もいるかもしれませんね例え、個人レベルであっても、社会レベルであってももはや機能しなくなった古い思い込みや信念やシステムは必ず変容する時がやってきます。臨界点を迎える前に変わるのか、迎えた後なのか、そのタイミングもそして、どうやって変わるかも、すべては魂の導きです。変容を楽しみながら、より自分の本質に戻ってゆきましょう~
2012年02月26日
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天職に出会いたい魂の仕事をしてゆきたいそんな風に感じている人は多いのだなあと日々のセッションを通じて感じます。天職って何だろうと考えると、そこから収入を得る得ないに関わらず「その仕事を通じて、喜びや感動を感じることができる仕事」ということかなあと。何か特別な仕事というわけではなく自分にとって、わくわくするような仕事です。天職に出会いたいのに出会えないという人たちが潜在的にどういう問題があるのかなあとセッションの中で見ているうちに、気づいてきたことがあります。まずは「やりたいことそのものが見つからない」という問題。なぜ見つからないのかは、人それぞれ違うので一概には言えませんが最も多いのが「自分の存在価値を受け入れていない」ということ。自分の価値を受け入れていないと、仕事や行為によって自分を人に認めてもらおうとしてしまうのでそれをやることは、社会的に見てどうなのか?自分はその仕事で成功するのか?自分にその才能はあるのか?などの理屈で、やりたいことや仕事を見つけようとしてしまいます。「やりたいこと=人から認められること」になってしまうとやりたいことそのものが見つからなかったり試しに何かをやってみても、それに対する情熱が持てなかったり。また今の仕事が嫌だから、という理由で何かを始めた場合もあまり上手くいかないことが多いです。もう一つは、やりたいことはわかっていてそれに対して行動も起こしていても仕事としてはまだ成り立っていないというケース。これはお金に関しての意識を変えるためのワークが必要なこともありますし今はそれを仕事としてやっていく時期ではなくもっと深く学んだり追求してゆく時期なのかもしれません。この天職に出会うタイミングや時期はとても大切だなあと。ほとんど回り道をせず、自分にとっての天職と出会っている人もいて周りから見るとうらやましいなあ、と思ってしまいますが本人にとっては、気がつけばそれをずっとやってきているわけで天職に出会えて幸せ~とは感じていないこともよくあります。一方でその天職にたどり着くまでにいくつか別の仕事を必要とすることもあります。私も今のヒーリングの仕事にたどり着くまでには企業での営業職、シンセサイザーの演奏の仕事クラブやスナックのホステス、バーテンダー、中学生の塾の講師、レストランのウエイトレスなどいろんなことをやりました。でもこれらの仕事がなければ、今の私のヒーリングはなかったなあと感じるので今から思えば、すべて私にとって必要なことでした。特にホステスやバーテンダーなどの水商売は、合計10年以上と長かったのですが、この仕事は人の本質的な部分と関わることが多くそこで多くの人の話を聴いてきたことが実は、ヒーリングにおけるカウンセリングを実践してきたのだなあと。(って、基本的には、落ちこぼれホステスでしたが)その他でも、その仕事を通じて学んできたからこそ、今、このクライアントさんの問題に対応できるのだなあと思うことはよくあります。例えば、会社やレストランなどで、いつも怒鳴ってばかりいるような上司にどう対応していけばいいのか?どういう意識状態でいることが必要なのか?を学んだことがセラピーを行う上での大きなプラスになっていたり。もちろん、当時はそんな風には思っていなかったわけですが人生の中では、後からしかその意味がわからないことも多いのです。私が今のヒーリングの仕事だけをやるようになる前はレストランの仕事をしていたのですがもし、そこで働いていなかったら、今の私はなかったのでそれも大切なプロセスの一つでした。そのレストランに働き始めてしばらくたった頃、オーナーが「のりちゃん、店でグリーンカード(永住権)のサポートしてあげるから申請したら?」と言ってくれて当時、完全にビザが切れて、何年もアメリカに不法滞在だった私はその言葉に甘えてグリーンカードの申請をしたのでした。その頃(確か2001年)クリントン大統領が辞める年で、恩赦として米国に長く不法滞在していても、罰金1000ドルを払えば、グリーンカードの申請をしてもよい、という特別処置があったのです。(こういうところがアメリカのおもしろいところですよね)グリーンカードを申請中の何年かは高い税金を払い続けなければならないのですが、店が半分負担してくれたので無事取得できました。だから、もしそのレストランで働いていなかったら、私もおさむも今でもアメリカに不法滞在しているかもしくは日本に戻っているか。そうなると、ヒーリングの仕事自体、やっていなかった可能性もあります。(もし~~なら、と言い出すと、人生のすべてそうなのですけど)そのお店は、忙しい店でしたが、とても居心地のよくほとんどストレスもなかったのでグリーンカードを取得してからも、週に2日はそこで働いていました。その頃には、もうレイキのクラスもスタートしていたのですがレストランの収入はとてもよかったので、辞めようとは思いませんでした。でも、それがヒーリングの仕事にコミットメントできない理由であることもどこかでわかっていたのでいつかはここを辞めるようになるのだろうなあとは漠然と思っていました。そして、ある時、自然に辞める方向になりました。私は、3週間の旅に出るために、週2日の私のシフトを誰かに代わりに働いてもらおうと思っていたのですがちょうど、私の旅の期間中に、別の人もその期間、日本に帰るということで二人同時には休めないという状態になりました。そのことを知った時、すでにチケットは購入してあったので「ああ、これはこの仕事を辞めるべき時期が来たということだなあ」とすぐにわかりました。辞めることを告げた時、オーナーは「もしお金が大変になったら、また戻ってくればいいよ。だから送別会は開かないからな」と言ってくれて、私も「また戻ってきますね」と言ったもののもう戻らないことも、どこかではわかっていました。そして、レストランの仕事を辞めてから、数ヶ月経ってから特に何かをしたわけでもないのに、急にレイキの予約が2、3倍に増えて(この数ヶ月という期間が、潜在意識が現実化するまでのタイムラグなのですが)その後、キネシオロジーのセッションで忙しくなったこともあってそれから何年経っても、レストランの仕事に戻ることはありませんでした。だから、無理して何かを変えようとしなくても自分の内なる声に従っていれば時が来れば、完璧なタイミングで導かれてゆくのだなあと。音楽や絵以外の仕事はしたくない、と思っていた頃はそこからどうやっても抜け出せなかったのにすべてを受け入れ、ただ楽しみながら今を生きるようになってから天職と思えるものに出会えたのですから。もちろん、これは人それぞれいろんなパターンがあり最近は意識の変容のスピードは加速しているので一気に天職を見つけてゆく人もけっこういるのですが。今でも時々、そのレストランに食事に行きますが(実は今日も友人と行ってきたのだけれど)いつも家族のように暖かく迎えてくれて本当にここで働くことができてよかったと感じます。当時は、そんな風には思っていなかったのですがその時々で、人との温かなつながりや喜びを感じて来れたというのは人生の中の宝物だったのだなあと。もしも、今の仕事に全く喜びや楽しさを見つけ出せなかったとしたらやはり、今すぐ変える方向に向かった方がいいかもしれません。私はたいていは、どんな仕事でも、それなりに喜びを見つけ出すことができたのですが、だめだこりゃ~と思えば、その仕事について1週間以内に辞めることもよくありましたそのあたりの気持ちの切り替えは、昔から早かったので嫌なのにがんばって続けたことは、ほとんどなかったのですが全く喜びを見出せなかったのにも関わらず唯一「がんばって」8ヶ月ほど続けた仕事が、塾の講師でした。また話が長くなってしまいますが、私が教えていたのは中学校の国語でその国語自体が全くおもしろくなくて、それを教えることは苦しかった~。当時「この文を読んで、作家の意図や主人公の気持ちは何か答えなさい」などという問題に、正解とか間違いとかあることが変だと思っていたし私は先生でありながら、その問題の答えを先に見ていないと教えることができませんでした今なら、また違ったアプローチでその仕事を楽しめたかもしれませんがその頃の私にとって、受験のための塾という制限された枠の中で教えることは苦痛だったなあと。苦痛だったのにも関わらず、8ヶ月も続いたのは(も?)塾の講師の仕事は、私の両親が安心したからなのでした。結局、私の人生の中で、両親の期待に応えて働いたのはその期間だけでしたが。たぶん、ごく一般的な親なら、子供がウエイトレスの仕事をしているより塾の講師の方が喜ぶでしょうしできれば親を安心させてあげたいと、当時の私が思ったのも自然なことですが誰かの期待に応えるためや、誰かに認められるために働いていることがいかに自分の可能性を否定していることなのかということをその経験から学びました。そういった意味でも、その仕事をやったこともけして無駄ではなくやっぱり必要だったのだなあと。もしも、今やっている仕事が自分にとっての天職だと感じれなくても、天職につくまでのプロセスとして必要なものかもしれません。すべてはベストのタイミングでやってきますからその仕事から今、自分が学ぶべきことがあるかもしれないのです。もし、次々と仕事を変えて、どれも続かないというのならたぶん仕事を変える前に、何か必要なことがあります。それは自分の中での問題であって、それを解決しない限り、どんな仕事であっても喜びや感動は得れないかもしれませんから。そして、例え、やりたいことを今すぐ仕事としてやっていけなかったとしても興味があること、わくわくすることを追求してゆくこと。興味があることを、すぐに収入に結びつけようとすると天職と出会うという意味では、行き詰まってしまうことが多いですから。これをやって仕事になるのかどうか?なんて考えたら魂の導きに従うことはできなくなります。自分がわくわくすることを追求してゆくとそれは人のために貢献できることにつながってゆきますが最初から、人のために貢献することや認められることが目的になってしまうと天職は見つけられなくなってしまうのです。もしも、私が最初にヒーリングで生計を立てようとか人に貢献するために何かを学ぼうなんて思ったとしたら間違いなくレイキもヒーリングもやっていなかったでしょうし今の仕事をすることもなかっただろうと。だって、当時はヒーラーとしての力が自分にあるなんて全く想像もしていませんでしたからそして、もしかすると今、私にとって、最高の喜びであるヒーリングの仕事でさえ次の天職に向かうまでのプロセスの一つかもしれないのです。この人生で体験することのすべては魂の源に戻るまでのプロセスですから。魂レベルでは、その人が何をやっているか、どんな仕事をしているか?なんてことはたいした問題ではなくてそこでどんな喜びを感じているか?どれだけその瞬間に意識を向けているか?そこからどんな魂の学びがあったのか?の方がもっと大切だなあと。だから、例え、今すぐ天職と出会っていなかったとしてもわくわくすることを追求しながら、今、この瞬間を最大限に楽しんでいくこと。そうすれば、必ず導かれてゆきますから。(いや必ずというか、たぶん)←このあたりは無責任Blessings
2012年02月13日
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以前もこのことを書きましたが、セッションをしていて思うのは自分のことをピュアな人間じゃないと思っている人って、多いのですよね~特に、初めての方がセッションに来られて終了した後「セッションに来る前は、自分の醜い部分が出てくるんじゃないかと思ってここに来るのが恐かったですのですが、受けてみたら、全然思っていたのと違ったので、びっくりしました」なんて言われる方がいるのですが私から見ると「なんと、かわいいのかしら~♪」と思ってしまいます自分の中に怒りや嫉妬や打算などがあったりすると自分は心がきれいな人間じゃない、などと思ってしまっているのですがそんな感情を感じたことが、ただの一度もない人なんていないわけで自分が感じたことのある感情は、多くの人も多かれ少なかれ感じているものです。また自分は打算的な人間である、と自己否定している人もいますが打算的になってしまうのは、そこに癒されてない部分があるからです。例えば、相手の気を引こうと何かをしてしまう、とか自分のいい部分しか人に見せれない、などという問題があったとしてもそれは、自分は人から無条件に愛されていない、という思いの裏返し。もし自分が無条件に愛されていて、受け入れられていて、認められていると潜在的に感じていたとしたら、打算的になんてなりようがないですから。だから、打算的になっている自分を否定するのではなくそれがどういう感情や意識から来ているのかをただ感じてゆくのです。よくここで、ネガティブを受け入れることの大切さ、を書いていますがこれは、ただネガティブと言われている感情例えば怒りや不安や嫉妬などを否定せずに感じてゆく、というだけでそれに対して、自分はだめだ、とか心が汚いとかジャッジすることは、全く不要です。ただネガティブなものを感じているだけだったらそれらは、いずれ解放されてゆきますがネガティブな感情や意識を持っていることに対してのジャッジをするとその感情は解放されずに、自分を愛したり、受け入れることができなくなりそれは様々な問題へと発展してゆきます。どんな感情でもそれに対して、よい悪いのジャッジをせずただ感じてゆく大切なのは、それだけのことなのです。さて、先日ご紹介した『マネーゲームから脱出する方法」の本を、おさむに貸して(彼は、最初はそれほど読む気がなかったみたいですが私が読め、読めと何度も言ったので)ようやく読みはじめて、昨日、半分ぐらいまで読んでから「のりこ、これってアセンションの本じゃん!!これに書かれてあるのは、まさに俺たちが行ってきたネガティブを受け入れてゆくということだよね」と感動していました。まったく、アセンションのためには、自分の感情や感覚としっかりと向き合ってゆく必要があるなあと。ここを見ないようにすれば、必ずそれはずっと潜在意識に残っていますから。ちなみに、この「マネーゲームから脱出する方法」だけで完全にマネーゲームから抜けるのは難しいかも?と思ったのは例え、お金に対する意識だけを変えたとしてもマネーゲームからは抜けることができないからです。マネーゲームから脱出するということは、無限の存在である自分、つまり魂レベルで生きるということでありこれは、けして「お金に問題がある人が読む本」というわけではないですから。だから、お金に関してだけでなく自分の内面のあらゆることに関してワークをしてゆくことが大切だなあと。醜い自分とか、だめな自分というのは完全にマインドが創りだしている幻想です。私たちの魂は、例えどんな悪人であろうが、ピュアであり何一つその輝きは変わらないのです。あとは、ただ自分がすでに輝いていたということに気づくだけ。その輝きに気づくためのプロセスやそのペースは人それぞれ違っていていいわけですがどんなものでも、最終的にはそこへと向かっています。(そのペースは全体的に加速していると感じますが)私が日々接しているのは、クライアントさんのピュアな魂の部分。(マインドは抵抗するのだけれどね)例え、どんなに自分がだめな人間だ、醜い人間だと思っていたとしてもそこにアクセスすれば、無限の叡智があり、ピュアで美しい輝きがあります。私にはクライアントさんの何が問題なのか、どうすればいいかなんてことは何一つわからないので、ただその方の身体(魂)の声を聞いてそれに従っているだけですから。それぞれの魂からの声を聞いていると誰もが持っている無限の叡智と力と深い愛に、ただ畏敬の念と感謝で一杯になるのです。本当は、自分がいかにピュアで壮大で深い叡智と力を持った存在であるかを一瞬でも「完全に」感じることができたなら実はもう、それほど多くのワークは必要ないのですけれどね。あなたは最高にピュアな魂の現れなのですインラケチ
2012年02月11日
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以前も、受け取るレッスンというタイトルで、書いたことがありますが人のサポートを受け入れることができない人、ほんと多いです。統計を取ったことがないので、はっきりわからないのですが私のところに来られる方の半分以上、どうかすると70%ぐらいは人にサポートを求められないんじゃないかしら?これは日本人だけでなく、案外アメリカ人にも多いです。もしかすると自立していることより人からのサポートを受け入れることの方が難しいのかもしれませんね。人のサポートを受け取れない人は、なるべく自分で何でも解決した方がいい、自立しなければと思っていて、サポートを求めないことが本質的な問題になっているとは全く思っていない人が多いので、最初に私が「何かテーマがありますか?」とお尋ねした時には、そのことを問題だと上げる方はほとんどいません。でも、セッションを行ってゆくと身体は正直に反応するので、それが問題になっているのだとわかります。ちなみに、ちょっと専門的なことになりますが人のサポートを受け入れていないと、胸腺のチャクラのバランスが崩れて心包経と心経に関する筋肉に反応があります。また「人を助けすぎる」という問題があれば、やはり胸腺のチャクラで三焦経と小腸経がオーバーエネルギーの状態になっています。胸腺のチャクラ(ハイハートチャクラ)は人に与えたり、受け取ったりということに関わるエネルギーのセンターで「人からのサポートは受け入れないのだけれど人へのサポートはやりすぎている」などという問題が出てくる方もいます。与えることと、受け取ることのバランスが取れていないと身体の機能そのものもバランスが崩れてきます。人のサポートを受け入れることができない人は人に何かを頼んだり、お願いしたりすることが苦手で「こんなことを頼んだら、相手の負担になるのではないかしら?」とか「こんなことを言ったら、自分がだめな人間に思われるじゃないかしら?」「お願いしても断られるかもしれないし」などと、いろいろ考えてしまいます。また、何か心配したり、落ち込んだりした時に周りの人に自分の気持ちをシェアすることが苦手な人も多いです。人からのサポートを受け入れられないようになってしまう要因は人それぞれ違うので、一概には言えませんが確実に言えるのは「自分は、人から受け入れられている、愛されている。どんな自分であっても、人は受け入れてくれる」という安心感や信頼がなければ、人にサポートを求めることはできなくなってしまうということ。そうなると、例え、頭ではこれは人に頼んだ方がいいとわかっていてもなかなかできないですから何らかのヒーリングが必要となってくるかもしれません。そういう私も、どちらかと言えば、昔から人をサポートする側にいてサポートされる側にはいなかったので人からのサポートを受け入れるのは、苦手な分野だったのですが、最近はかなりサポートを頼んだり、受け入れたりすることができるようになってきました。私の場合、なぜ人からのサポートを受け入れていなかったかというとサポートされるより、サポートする立場の方が、心地よかったからなのですよね人をサポートできている自分に、自分の価値を見出してしまうとそこから抜け出せなくなります。誰だって人にサポートしてもらうより、サポートする方が心地よいものですから。(これは完全に自我ーマインドの心地よさなのですが)場合によっては、人に何かを頼むということは、それが自分のためだけなく相手のためになることもあります。サポートを頼まれた相手にとっては、「私に仕事をまかせてくれた」とか、「私を信頼してくれて悩みを話してくれた」とか「私も彼女のために何かができる」などという喜びもあるのですから。うちの母はよく「親に何かをお願いするのは親孝行なのよ」と言いながら義理の祖母にいろいろ甘えていて、今から思うとそれが親子関係だけでなく、いろんなところで大切なのかもしれないなあと。親に何でも頼めない関係だと、人にも頼めなくなってしまいます。私たちはみんな一人では生きてゆけません。人のサポートを受け入れていないと、一人ですべてを解決しようとしますから、人生が行き詰まってしまうことも多いです。人に気楽にサポートをお願いして、また気楽に引き受ける、でも、引き受ける側は、自分を犠牲にしてまで引き受けないで、その場合はノーということ。相手が無理をしてまで、お願いを引き受けない人だとわかっているからこそこちらも、安心してサポートをお願いできるのですから。ということで、今日は、これを読んでいる方にお願いがあります。私のブログは、何一つ誰か特定の個人に当てたものではないのですのでこれを読んで「私のことを書いているのではないかしら?』と思わないでもらえたらなあともちろん、私と直接面識のない方にとっては、そう思わないでしょうが私を個人的に知っていたり、セッションに来られたりすると、この内容を個人的に受け取られてしまう可能性があります。以前は、それを考えて「ああ、この文は最近来られたあの人のことだと誤解されるかも?」なんて思って後で削除したりしたのですが最近は、ほとんど深く考えずに感じたままをボンボン書いているので人によっては、気にしたりする方もいるかもしれないなあと。以前、何人かの方に「のりこさんのブログを読むと、全部私のことを書いているように思えるのですよね」と言われたことがあるのですが人はみんな誰でも同じようなものを内在的に持っていますから「ああ、これ私にもある」などというところは多いのです。私は毎日、何人もの人と関わっているので誰がどんな問題を持っているか、なんてセッションが終わるとほとんど覚えていなくて、次に来られた時にセッション記録を見るまですっかり忘れているのですが、よく問題としてあがってくることに関しては、ここで書いてみたり自分の問題として書いているだけで特に誰かに対して書いているわけではないです。おさむによく「のりこ、俺はのりこの言わんとしていることがわかるけれどこの文を読んで、のりこの真意を理解する人は少ないと思うよ」などと言われるのですが。言葉は本当に制限だらけ。私の感じていることすべてを、そのままエネルギーとしてブログに貼付けて、この感覚を伝えることができたらいいのになあ~~。(そんな日も来るかしら?)
2012年02月05日
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少し前に、私にしては珍しく決断できないことがあって内観してみても今ひとつピンと来ないし、おさむにそのことを話していたらおさむから「それって義理人情じゃない?」と一言言われてそれを聞いた途端、フライパンで頭を3回ぐらい殴られたようなショックでした。義理人情~~~ひェ~~それずっと私の中にあった~~ああ、そうなんだ、私は義理人情を愛だと勘違いしていた部分あったかも?そう思い返してみると、この義理人情から起こっていた問題がたくさんあったことに気づきました。私は、昔から割とノーということはできる人で相手がいくらその正当性を主張しようとも私にとって、だめなものはノーとはっきり断る人なのですがそれが相手が困っているとなると、いきなり断れなくなってしまうところがありました。先日も「自分を優先する」というテーマで書きましたがそういうケースになると自分を優先できなくなってしまうのです。これはもう随分前の話なのですが私がレイキのクラスを行うようになって、それほど経っていなかった頃私のレイキのクラスを受けたいけれど、日程的にどうしてもある時期しか受けれなくて、でもクラスを受けるためのお金が充分にないので一ヶ月支払いを待ってもらえないか?というお願いをされたことがありました。通常、こういうヒーリングのクラスなどで、支払いをつけににするなどというのはあり得えないわけです。これは昔、あるヒーリングのマスターから学んだことなのですがその先生はクラスを受けるのは、必ず全額銀行振込で支払ってからというのが条件で、それはどうしてかというとけして相手を信頼していないわけではなくお金を振り込むことで、これから自分はそのヒーリングを学ぶのだという意図を宇宙に送ることになるからだ、のだと言われていてなるほど、そういうこともあるなあ、と思ったことがありました。とは言っても、私は前もってクラス料金を頂いたりするのは面倒ですから当日のクラスの後にお支払いしてもらっているのですが1ヶ月待つというのは、どう考えてもだめだなあと、一旦はお断りしました。でも、「必ず1ヶ月後には支払うので、お願いします、どうしても今はお金が足りないのです」と頼み込まれてその方のことは前々からよく知っていたしこれだけ熱心に言っていて、ちょっとだけ待つのはたいしたことではないのだからと理屈をつけて引き受けてしまったのでした。ところが結局、半年経ってもその方からお金は送られて来ず、連絡もなく、たぶん相手もいつかは連絡するつもりだったのでしょうがこのままでは、その方がエネルギー的に負のエネルギーを負うことになってしまうので、私から請求することに決めそのために、その方も気まずい思いをすることになってしまってちょっと苦い思い出になりました。これはどう考えても、最初に引き受けてしまった私のミスですがその時には、知っている人にそこまでお願いされて断ることなんて、極悪非道な感じがして、私にはできませんでした。これが全く知らない人だったら、例えその人がお金がないと言われてもきっとお断りしていたでしょうからこれはまさに義理人情から生まれていた問題でそういう義理人情から何かをしても、相手にとって本当によいことにつながるとは限らないのだなあと。そう考えると、次々とこれまでの問題がそこにあったことがわかってきました。例えば、私は今のセッションの料金がもうエネルギー的にはつりあっていないとわかっていても、料金を上げることができずにたった10ドル上げるのに、約1年ぐらいかかったりするのです。けして自分の力を認めていないわけではないし、自分の仕事に対して、正当なお金を受け取ることには問題を感じないのですが例えば、セッションによく来てくださる方の中で経済的にそれほど楽ではないことはわかっている人の顔が浮かんできて「やっぱり無理、私はこの料金で充分満足なんだから」と、そのことは、極力、考えないようにしたりしていました。そのあたりの問題は以前から何人かによく言われて、よくわかってはいたのですが、手放すことはできませんでした。困っている人を助けるのは人として当たり前じゃん。そう私のマインドは訴えていたのですがあらためて見つめ直してみると例えば、私は南米のチリとホンジュラスの子供を里親としてサポートしていますがそこには、義理人情という意識は全くないということに気づきました。義理人情というのは、相手にお世話になったから、とかよく知っている人が困っているのだから、とかそれをするのに理屈がついているのです。だからこそ、義理人情で何かをすれば、また相手からの感謝の気持ちやお返しを期待してしまうようになるのだなあと。でも、ただ愛から何かをしていれば、相手から感謝されようとされまいと関係ないのです。私は例え、チリやホンジュラスの子供たちがサポートされたことに対して何も思っていなかったとしても、サポートしようと思いますから。相手のために何かをしたいというのが、義理人情から起こっているのではなく愛から起こっていることだけが、本当に相手のためになるのだなあと。日本人はやはり遺伝子的なのか、この義理人情を持っている方多いですよね。アメリカには一般的に義理人情の感情は薄い人が多いので例えば、会社で有給を使って休んだりするのにみんな周りに気兼ねすることなく、ぼんぼん休んだりするし休む理由をわざわざ会社に伝えたりしない人が多いのだそうです。でも日本人は、周りの人に気を使って、自分だけ休むことに罪悪感を感じて、なかなか有給を使えないなんていう人も少なくありません。それも、義理人情の一つと言えるのかなあと。それは、けして周りの人のためになっているとは限らないしみんな本当は自由に休みを取りたくてもできずにお互いを縛ってしまっていることにもなっている可能性もあるわけです。私の義理人情がどこから来ているのかは明白で私の父が、もう義理人情の固まりみたいな人でした。父は九州男児(しかも鹿児島)で、とても厳しい人であり朝からちゃんと挨拶をしないだけでバシ~と殴るような人でしたが一方で、情にもろく、困っている人のためならどんな無理してでもやってしまうようなところがあってそんな父を私はずっと大好きで尊敬していましたから義理人情がない人間なんて、信じられない、愛がない人だと感じていたのでした。と、おさむというのは、出会った頃からほとんど義理人情というものはなくてつきあい始めた頃の私にとっては、とても冷たい、愛のない人だと感じてしまい、その頃はよく「あなたは冷たい人よね」などと言っていました。でも、それはけして冷たいわけでも愛がないわけでもなく愛の表現の仕方が違うだけだ、ということがだんだんと後になって、理解できるようになったのですが当時の彼は、私にそう言われ続けて「俺ってやっぱり冷たい人間なのかなあ」と心秘かに悩んでいたそうですから、申し訳ないことをしたなあと究極に義理人情の人であった私と、そういうものが全くない彼と出会ったわけでやっぱりそれぞれの学びにとって必要な人と出会うようになっているのですね。そして、義理人情は、3次元的な愛の表現の一つではあるかもしれませんが魂レベルでの愛とは違うのだなあと。もちろん、この世界に生きている以上そういうものがけして悪いことではないし人間くさくていいじゃん、とも思うのですがそういうのを越えたところにある愛セドナのマリアさまから伝えられたように本当にハートに生きることとは、ずれていたのかもしれません。もちろんお互いに助け合うこと、サポートし合うことはどんな時にも必要だなあと感じます。もともと私たちはすべて一つのものなので義理とか人情とか関係なく、つながっているのですから。ということで、気づいただけで、それに対してまだ特にヒーリングは行っていないのでもし、これに対してキネシオロジーのセッションを行ったとしたら、どういう目標設定になって、その後、どんな感覚になるのかよくわからないのですが。だいたい、義理人情を手放すヒーリングなんて、聞いたことないよね~今回、生まれて初めて、ヒーリングをすることにちょっと抵抗を感じたのでどうやら私の潜在意識は、義理人情を手放したくないみたいですたぶん、私の潜在意識では、義理人情を手放してしまうと父との大切な愛のつながりまで切れてしまうような気がしてしまうのかもしれません。親子の愛の絆は、義理人情などというもので、つながっているわけではないのにね。どうか魂の導きのままに
2012年02月03日
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言葉は、とても限定された表現手段ですから言葉そのものにとらわれてしまうと、いろんな問題が起こってきます。一つの言葉でも、人それぞれみんな捉え方や感じ方は違いますし例えば、自分にとって、その言葉は、特にどうということでなかったとしても相手とっては、それはきつい言葉に感じる、などと自分にとっての言葉の定義と相手と異なると「あんなことを言うなんて、ひどい」とか「こんなことを言うのは、彼が私をないがしろにしているからだ」とか誤解や葛藤が生まれてきます。何度かお話ししていますが、キネシオロジーで調整しているのは言葉そのものでなく、その言葉から導き出されるエネルギーですから実際は言葉そのものはどうでもいいわけですがお互いにわかりやすい手段で伝え合うために、言葉を手段として選んでいるだけなのです。だから、その言葉がその人にとって、どういう感覚をもたらすか?が大切になってきます。相手の話を聞く時に、言葉そのものを聞くのではなく真に相手が伝えたいことを聴く。これができないと、相手の使った言葉に惑わされてあれこれ考えてしまって、事実とは全く違う幻想の中にいることになってしまいます。ちなみに、フラワーエッセンスの中で「ツインフラワー」というエッセンスがあり、たまにクラアントさんの身体が選ぶのですがこれは、真のコミュニケーションのためのエッセンスで言葉そのものではなく、真に相手が伝えたいことを理解するという効能があります。ジャッジ(判断)を手放すためのエッセンスです。(私は、ツインフラワーのアラスカンエッセンスとパシフィックエッセンスを持っていますが、アラスカンエッセンスの方が出てきます)言葉そのものにとらわれないということは価値判断を手放すということなのです。例えば、Bさんが「あ~私は勉強しないといけない」と言ったとしてそれを聞いたスピリチュアルなAさんは「~~しなければならないなんて、何もないのよ」とBさんに言います。このAさんは『~~しなければならない』というのはスピリチュアルな生き方ではない。というスピリチュアルな本を読んだので、これは間違っていると判断しているわけです。「~~ねばならないものは何もない」ということの本質は正しいも間違いもない、ということなのですがその本質を理解せず、ただ言葉だけで理解しているのでこういうことが起こります。一方、勉強をしなければならない、と言ったBさんは本当にhave to ~~ねばならない、という意味でその言葉を使ったわけではなく気持ちとしては、~~したい、と同じ感覚で、その言葉を使っただけ、ということもあるわけです。だから、相手が本当は何が言いたいのか理解せず言葉だけで判断すると、コミュニケーションにおいても様々な行き違いが出てきます。よく相手が心配していたり、落ち込んでいたりした時に励まそうとして「ポジティブに考えようよ」などと言う人がいますが、これもポジティブでいるのがよくてネガティブは悪いという価値判断がそこにあります。価値判断を手放すと、「ああ、今、彼女にとっては心配なんだな」と感じるだけで相手がどんな状態であっても、それがいいとか悪いとかは思いません。私が誰かの話を聴く時には、実は言葉そのものはたいして聞いていなくてただ全体のエネルギーを受け止めています。 メールなどのコミュニケーションの時は、実際に会わないとわからない部分も大きいのですがそれでも、いろんな文を読んでいくと、ある程度、そこから相手の真に伝えたいものを感じ取ることができます。もちろんその人が選ぶ言葉そのものから、エネルギーを感じれることもありますが言葉そのものに惑わされないことが大切だなあと。だから、覚者やスピリチュアルな指導者の言った言葉そのものに捕らわれないことも時として必要かもしれません。ヒーリングを行ったり、スピリチュアルな探求をしている方にけっこう多いのですがいろんなスピリチュアルなリーダーが言った言葉そのものの捕らわれて自分の世界を限定してしまっていることがあります。例えば、あるヒーリングの創始者が「このヒーリングは~~です」と言ったとしてその言葉そのものに捕らわれてしまうと、ヒーリングは限定されたものになります。その創始者の意図は、その言葉の表面的なものではなく、別にあるかもしれないしまた、自分にとっての真実は、違うところにあるかもしれません。それはけして、その創始者が間違っているということではなく別の真実もあるということなのです。そういうこともあって、最近の私が感じているのは、スピリチュアルな本をあれこれ読んでいても、全く読んでいない人と、実はそうたいした違いはないんじゃないかしら?と。例え、言葉で理解していなくても、その感覚を持っていればそれはスピリチュアルな学びなのですから。と、私自身が、以前は言葉だけでスピリチュアルを理解していた、頭でっかちスピリチュアルだったわけですが言葉は制限があるものだ、という認識を持った上でその制限の中で、いかに伝え合うか?を楽しみながら、コミュニケーションができれば、それはまた違った喜びになります。私とおさむは、たまに、遊びで「私は~ねばばらないの~」と「~ねばならない」ごっこをするのですが、これは二人の間に「~ねばならないことは何もない。私たちはわくわくすることだけをやってゆく」という共通の認識が、すでにあることを知っているからできる言葉遊びです。コミュニケーションにおいて、最も大切なのは共通の認識(意識)があるかどうか?であって、話す言葉そのものではないのです。と「言葉そのものに捕らわれない」ということを言葉で伝えようとしているわけですから、やっぱり意味ないかも。私がどういう言葉を使って書いたとしても伝わる人には伝わるし、伝わらない人には伝わらないわけですが何も書かないと何も伝わらないわけですから、とりあえず書いているわけですが。(本当は伝える必要もないのですけれどね)先日おさむが「のりこって、小難しいことをあれこれ考えるよね~」なんて言うのですが、考えているというより意識のどこかで感じていることを、言葉に変換するのが好きなんだなあと。本当は感じていることを、言葉ではけして表すことはできないわけで感じているままにしておくこともいいのですが変換してゆく楽しさもあります。言葉という制限の中で、また肉体という制限の中であれこれ遊ぶためにここにいるのですもの。だから、何をどう書いてもいいのですよね
2012年01月28日
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私の好きな言葉の中にSurrender ゆだねる という言葉があります。魂の導き(大いなる宇宙の意思ともいいますが)にゆだねるということ。ゆだねるというのは、私にとっては、何かをあきらめるとか何も行動しないということではなくわくわくすることを結果を考えずにどんどんやってゆく、ということです。先日、セッションに来られた方から「よくスピリチュアルな本を読むと、ゆだねることの大切さを書かれてあるのもあるし一方では、夢を実現することの大切さを書かれてあることもありますがゆだねることと、自分がこうなりたいという夢を実現することとは、矛盾するように思うのですがどうなのでしょうか?」と質問されました。一見、矛盾するようですが、私の中ではこれは同じことなのです。ただ、この夢というのが、魂が望む夢、とマインド(思考)が望む夢と分かれていて、魂が望む夢を叶えることは、ゆだねることになるのですがマインドが望む夢は、魂にとっては抵抗になるので、ゆだねることではなくなるということ。マインドが望む夢というのは何かというと「これが叶ったら、お金を簡単に得ることができる」とか「これが叶ったら、今の仕事をしなくてもいい」とか「これが叶ったら、親が喜ぶ」とか「これが叶ったら、人に貢献できて、人から認められる」とかまたは、周りのみんなやっているから、とか必ず、その夢を叶えることに対しての理屈があるのです。その理屈は、多くの場合、人との関係に対して、または社会的に見て、というものになります。魂が望む夢は、そういう理屈ではなくただ、それをやることがわくわくしてやらずにはいられない、というのが先に来ます。もちろん、後で理屈付けをすることがあったとしても例え、結果がどうであってもやりたい、というのが魂の望む夢です。魂の望む夢にしたがってやっていくことが宇宙にゆだねること、だなあと私は感じるのです。マインドが望む夢にしたがってゆくと、どうなるかというとがんばっているつもりなのに上手くいかない、もしくは、やらなければならないことはわかっているのにがんばれないまたは、目標を達成できたにも関わらず、なぜか満足できず続かないということになります。多くの人は、努力の結果報われた話を聞くのは好きですし、感動します。例えばハリーポッターの、JKローリングが昔、売れない時期に子供を抱えて、貧しい暮らしをしながらもけしてあきらめず、物語を書き続けて、そして、どこの出版社に相手にされなくてもめげずに送り続けて、最終的にある小さな出版社から出たハリーポッターの第一巻が世界的にヒットして大成功した、などという話を聞けば、誰でも勇気をもらうし「私も例え今は、成功していなくても、夢に向かってやり続けよう」などと思ったりする人も、多いかもしれません。でも、その話を聞いて、同じようにがんばれる人はごくわずかです。がんばることができる、というのは、それ自体が一つのお導きであってJKローリングはがんばるというよりも、それをやることが魂の導きだからそうせずにはいられなかった、というのが本当のところだと思うのです。情熱というのは、魂からの夢でないと持てないもの。だから、目標や夢があるのにそれに対してがんばれない、というのはその目標や夢がマインドから来ているからであってもしかすると、本当の自分は望んでいないのかもしれません。マインドの夢は、その時はわからないものですが、後から気づくことがあります。先日、レイキのクラスに来られた方が「興味本位でここに来たのですが、よかったでしょうか?」と言われたのですが、実は、それが魂の導きに従っていることなんじゃないかしら?と。興味本位という言葉自体は、あまりよい意味として使われないことが多いですがつまりは好奇心ですから。私が最初にレイキを学ぼうと思ったのも、好奇心からだったしキネシオロジーも他のヒーリングすべて、何かこれを学ばずにはいられないと感じる、わくわくするからやったのであって、それを仕事にできるかどうか?など考えていたら、きっと始めからやらなかったことでしょう。例えば、プロで成功しているダンサーでも、ミュージシャンであっても最初は、それをやるのがわくわくして楽しいから始めたのであって学ぶ前からそれを仕事にしよう、などと考えてはいないはずです。もちろん、どんなものでも仕事としてやっていくからにはそれなりにがんばる時期も必要なのですが、それもやらずにはいられないからやっている、という感じだと思うのです。私も、キネシオロジーやヒーリングの勉強をするのも身体や心のことを知ることがわくわくするからもっと知りたいという好奇心からやっているのであって勉強しなければならない、と思ってやったらきっと続かないでしょうから。魂が望む夢に従って生きてゆくそうすれば、必ず自然と導かれてゆくなあと。もちろん、例えマインドの夢であっても、あれこれやってみるのはすべて自分にとっての必要な経験となりますからけして無駄なことではないのですけれどね人生での様々なプロセスは、すべて魂レベルでの宝物なのです
2012年01月15日
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最近「自分を優先する」というテーマでIHキネシオロジーのセッションを行うことが、不思議なくらい、いくつか続きました。これは、これからの新たな時代、ハートに従った生き方に変わってゆくための第一歩として、とても大切なことのように感じています。自分を優先するというのは、他の人をないがしろにするということではなく自分のやり方や生き方を尊重し、時には相手の意向に従うことができなくてもきちんと相手にそれを伝えたり、断ったりして自分が本当に心地よいと感じることだけをやってゆくということ。つまりは「いい人でいる」というマインドを手放すということなのです。昨年のマトリックスエナジェティクスのレベル3のワークショップの最中にリチャード博士が『Don't be nice!』(いい人でいるな)と叫んだ時に自己主張が強いアメリカ人でさえも、いい人でいようとする人は案外多いのだなあ~と思ったのですが和を尊重する日本人は、特にいい人でいようとする傾向があると感じます。でもハートに従うこと、愛の状態でいることは、いい人でいることとは全く別のことです。むしろ、ハートに従っていけば、一般的に言われるような「いい人」ではなくなってゆくのかもしれません。でも、結果的には、自分を優先する生き方をしていると本当に自分にとって心地よいことだけをやっていくことになるのでハッピーなエネルギーを持つことになり周りにとっても、よい影響を与えてゆくことができるのです。自分を優先できないでいると、引き受けたくないことを引き受けてしまったり相手にはっきりと自分の思いを伝えれなかったりしますがでも頭の中では、「あの人にはお世話になったんだし」とか「一度、約束したのだから、今さら断れないし」とか「これぐらいやるのは、たいしたことでないし」などと自分で自分を納得させるための理屈を、あれこれマインドは考えます。でも、本当の自分、つまり魂レベルでは納得していないので何かすっきりしないものをずっと持ち続けることになります。自分で引き受けておいて意識のどこかでは「なんでこんなことまでやらなければならないの?』なんて思っていたりするのです。一方で、ここで何度か書いていますが自分を優先しないで相手の意向に従うことが自分の存在価値を認めることにつながっている場合はもっと抱えている問題は根深くなります。つまり、相手に貢献したりサポートしている自分は価値があると潜在意識は感じていてもそうでない自分、何も貢献しない自分には価値を見出そうとしていないと自分を優先しないことが、自分にとっての安全になってしまうのです。そういう場合は、自分を優先するということよりありのままの自分の存在価値を受け入れることが先決になります。(IHキネシオロジーでは、両方を一度に調整できることが多いですが)自分を優先したりしたら、友人や家族から信頼されないのではないか?受け入れられないのではないか?と潜在的な恐れを持っている人は多いのですが本当に本音でコミュニケーションをすることができればお互いに信頼できる関係だけになるので、とても人間関係が楽になります。例えば、私が友人との約束を何かキャンセルしなければならないようなことがあったとしても信頼している友人なら、キャンセルしたことがその友人を認めていないからではないということをわかってくれているのを私は知っているので安心して自分の意向を伝えることができます。本音でしか人とつきあわない、と決めたら本当の信頼関係が生まれてくるのです。ですから、潜在意識が「自分を優先する」ようになるためにはまずは「人を信頼する」ということができていないと無理なのです。また、相手と意見や考え方が違うことを受け入れず、ただ自分の意見ややり方をつき通そうとしているのだったら自分を優先することより、柔軟性を持つことが先決になることが多いです。柔軟に様々な状況や人に対応することができた上で自分を優先する生き方ができていることが大切なのですね。本当の意味での、自分を優先する生き方ができるようになるにはいくつかの段階を経る必要があるなあと感じます。私は、ヒーリングのお仕事をすることは、今の私が最もやりたいことであり、喜びそのものですから仕事を優先する=自分を優先する、ということと限りなくイコールになっているのですが(おさむ曰く、私は仕事が趣味だと言うのですが)それでも、必要以上のことをやろうとする傾向が、以前にはありました。セッションやクラスの内容以外に関するメールでの質問に答えるなどということも、その一つです。それが相手にとっても、本当に必要なサポートではないことはわかっていても自分の時間を削ってやっていました。私は、昔からずっと何でも感じたままに、自分の想いや考えを伝える人だったのですが、なぜ、自分を優先しない部分ができたかというと正直に伝えたことが、相手に受け入れられなかったことが、何度があったからです。その頃は、私の伝え方も上手くなかったことも理由だと思いますが例え、相手がその時は受け入れてくれなくても、それはタイミングや時期もあり、どちらが悪いわけでもないわけです。でも、私の潜在的には、なるべく波風をたたせずにちょっと自分ががんばってやれることなら、なるべく相手の意向に添おうとする意識がいつのまにか芽生えていたのでした。でも、その思いを手放し、本当に自分を優先する生き方ができるようになってから、無理したりがんばったりする必要はなくなり本当に自分がやりたいと感じるところまでやれる自分がいました。「ごめんなさい、それはできません」と断ることがあっても断ったことにギルティも感じないし、そういうお願いをした相手に対しても全く何も思わなくてすみます。できないことはできないと、はっきりと断っていれば相手も、私が何かをやる時は、けして私が無理をしているわけではなく私がやりたいからだ、とわかってくれるので、逆に安心して、何か必要なことがあれば、私に頼むこともできるようになるのです。基本的に自分を優先できている状態で、他の人をサポートするのと自分を優先できていないから、他の人のサポートをするのとではやっていることは、一見同じようであっても、実は全く違います。自分を優先できていて、人を助けたりサポートするのは本当にそのサポートをすることが相手にとっても、また自分にとっても大切だということが、魂レベルでわかっているから。だから、例えサポートした相手から感謝されなかったとしてもそんなことは全く関係なくなります。自分を優先していなくて、相手をサポートしている場合には相手から感謝されたい、認められたいという気持ちが働いているのでもし、自分が思うような感謝を得れなかった場合には、気持ちが落ち込むようなことにもなります。そして、不思議なことに自分を優先した上で、人のサポートを行うことができるようになると「これが相手にとっていいだろう」という、頭で考えたサポートではなく本当に相手にとって、必要なサポートができるようになるのです。自分の生き方を優先し、人と本音のコミュニケーションがすること。これができるようになると、新たな世界ハートの世界に入ってゆくのです卒業、おめでとう~~(卒業と同時に、また新たな学びも始まるわけですけれどね)
2012年01月07日
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「褒めない、叱らない子育て」を最初に知ったのはたぶん10年以上前、環境運動家の高木善之さんの本『地球大予測 オーケストラ指揮法』だったと思います。彼の子育ての話の中で「褒めない、叱らない。ありのままに認める」というのを読んでそれまでの「褒めて育てる」という常識が変わりました。もうその本は手放してしまったので、手元にないのですがこちらのサイトに概要がまとめて載っていたので、興味のある方は、ぜひ読まれてみてくださいね。(特にこのサイトの『5の家庭にて』のところ)その後、私自身が様々なヒーリングを通じてあらためて気づいてきたことは、いつも親に叱られてばかりいれば自分に自信を持てなくなったり、自分の価値を見出せない子供になりますがでも、親に褒められて育った子が自分の存在価値を認めることができるようになるとは限らないということ。それは、褒めるという行為そのものより「褒め方」にあるのだなあと。例えば、テストで100点を取ってきた時は褒めて、75点の時はあまりいい顔をせず、50点だと叱るもしそういう育て方をしたなら、子供は75点では親を喜ばせることはできず、50点では認められないということを理解しますが自分のありのままを認められていないと感じるのです。もし子供が50点取ったなら、それに対してその子がどう感じているか?もしも子供が満足していないのなら、これからどうしたらいいのか?を親が決めるのではなく子供自身に考えさせ、答えを見つけさせるその時、親が50点がいいとか悪いとかの判断は一切しないことが大切だなあと感じます。それはあくまでも親の価値判断でしかありませんから。また子供の親の期待に添った行為だけを褒めていたとしたら子供は自分の存在を認められるためにはいつも人の期待に添った行動をしなければならないと感じるようになります。親に何かしらの期待をされて育った子供は、その期待に応えようと自分本来のやり方ではない道を選んでしまっていたり必要以上に人に貢献しなければならない、というプレッシャーを感じていたりまたは、人の期待に添えない自分に罪悪感を感じていたりします。だから、よく親に褒められたり、優等生だった子どもほどいつも周りの期待に応えなくては、自分の価値は認められないなどと潜在的に感じていることがあるのです。「人からの期待を手放す」この調整はキネシオロジーのセッションで何度も出てきましたがほとんどの場合、親との関係に関わっていました。私もそうで、小学校の頃は優等生でしたから基本的には親から褒められることが多かったのですがいつか、確かテストの結果が70点だったか80点だったか普段の私の成績より悪かった時がありました。いつもより勉強しなかったわけではないしたまたまだと、私はあまり気にしていなかったのですがそのテストを見た両親がかなり動揺し、怒った時にとてもショックだったのを覚えています。もちろん親としては、そんなことはたいしたことではなかったでしょうが子供の心には、私はいつも完璧でなければ認められない失敗は許されない、そう刻み込まれたのです。私の場合、小学校の5年生の時には、すでに、そういう優等生の自分に対しての葛藤があっていつも何か自分ではないものを演じているかのような気持ちになっていました。それで、高校になってあることがきっかけとなってかなり親に反抗した時期がありました。いわゆる反抗期なのですが、今思うと、これが私の人生の中でとても大切だったのだなあと。反抗期というのは、子供は親に対して「あなたの期待通りには生きません、私は私の生き方をします」という意思表示であって親にとっても「子供は自分の思い通りにはならない」ということを学ぶために大切な時期なのではないかしら?と思うのです。それを反抗しないで、ずっと親の期待通りに生きていればどこかで自分の魂が望む道とはずれてくる時期が来ますからそこでいろんな問題や葛藤が起こってきます。親の期待だけでなく、人の期待にいつも応えようとするので自分を優先することができず自分のやり方で生きることができなくなるのです。(だから、もし、親が子供に対して一切の期待をせずありのままを受け入れていたら、子供は親に反抗する必要がなくなります)私はそのあたりは、もうかなり昔に手放したつもりがだったのですがIHキネシオロジーを始めてからまだ完全には癒されていなかったことに気づきました。私は自分がやりたくないことは、誰がどう期待しようとやらないのですが自分のやりたいことに関して、人が期待していた場合、その期待に応えようと自分のペースではないやり方で、やってしまうようなことがありました。もし、私がヒーリングで、相手の期待(つまりは相手のマインド)に添ったヒーリングをしようとする意識が少しでも芽生えれば本当のハートの意識でのセッションができなくなります。それでIHキネシオロジーで調整したらやはり、インナーチャイルドの問題が出てきました。昔、親に反抗してから、人からの期待は完全に手放したつもりでいてもまだインナーチャイルドは、完全には癒されていなかったのだなあと。人からの期待といってもほとんどの場合、実際はそれに添わなくても、相手は期待を裏切られたと思うわけではないことが多いのですけれどね。褒めない、叱らない育て方というのは、結局、子供に対して、こうなって欲しいという期待を完全に手放すということだなあと。褒めなくて、叱らなくて、期待しないなんて一見、冷たい親みたいに思われるかもしれませんが実際は、これを実践するためには子供といろんな話をして、一緒に考えてゆきより深く子供と関わってゆくための時間もエネルギーも必要になってきます。ということで「褒めない育て方」を提唱している人はいないかしら?と思って検索してみたら、本を出している方がいました。『ほめない子育てで子供はのびる』岸英光まだ読んでいなくて、内容は詳しくはわからないのですがレビューを読むとよさそう(また読んでない本を紹介するという、この無責任さ)褒めないと言っても、もちろん子供がどうやったとしても褒めないということではなく時には褒めたり、一緒に喜んだりすることはいいと思うのですがその褒め方が大切だということですね。親の価値判断で褒めないということ。褒めるというのが、評価することにつながらない褒め方、つまり褒めるというより、認める、受け入れるということ。例えば50点取って、何が自分の問題だったかに子供が気づいたなら「なるほど、そうだったのね、そこに気づいたのはうれしいよ」と、子供のあり方を認める。親がこうしなさい、ではなく、自分自身で気づいてゆくチャンスを与えるのですね。子供は親が言わなくても、自分がどのぐらいできるかもちゃんとわかっていますし親が結果や行為に関わらず、自分を認めてくれていると感じていれば正直にいろんなことを親に話します。これは、全くヒーリングのプロセスそのものなのだなあと。例えば、もしクライアントさんが、誰かにジェラシーを持っていたとして私が『人にジャラシーするなんてひどい』と思っていたとしたらクライアントさんは、私にはジェラシーを持っていることを出せなくなってしまいますから、その問題は浮かびあがってこなくなり解決できなくなってしまいます。ジャラシーを持っていようが、敵意を持っていようが私が問題とするのはそんなところではなくどうしたら、その人にとってハッピーな方向に向かうことができるか?ですから。50点だから悪いとかいいとか判断をすればその子にとって、本当に必要なこと、大切なことが見えて来ないのです。だから、褒めない、叱らない育て方というのは何よりも親自身が、価値判断、ジャッジを手放していることが大切だなあと。高木善之さんの話の中で、娘さんが生まれもって頭にアザがありそこにハゲがあって高木さんは、そのハゲを娘によく見せて、その事実だけを伝えていたというエピソードがありました。それで、ある日、娘が学校で、ハゲだみんなに言われた時に「見てみて、生まれつき私にはアザがあってそこだけ髪がはえてこないの』とみんなにその部分を見せたら、みんな納得してそれ以上何も言わなかったそう。もし、親がハゲが恥ずかしいなどという価値観を持っていたとしたら、こんな風に子供がのびのびと育つことはないですしいじめられたかもしれませんよね。私には子供がいないので、実際には子育てはできませんが基本的には大人に対しても、同じなのだなあと感じます。以前、私がおさむのサウンドヒーリングに対してあれこれ褒めたり、これはよかった、今いちだったと自分の感想を言っていた時期がありました。私が感動した時には「あのサウンドはよかった~♪また今度の交流会の時にもあれをやって」などと言っていました。ある時、私が主催ではなく、おさむが主催で行うことになってその時におさむが「のりこがいると緊張するから、のりこはその場にいない方がいい」と言い出しました。つまり、私がいると、私が気に入るようなサウンドヒーリングをしなければならない私が気に入るようなガイドをしなければならないというプレッシャーをいつのまにか、おさむは感じていたのでしたそれで、私がいない方が、おさむも自由にできると私が家にいない日に、家でサウンドヒーリングの会をやってもらったりしました。でも、その後、IHキネシオロジーをおさむに行った時に、魂の目標として「(のりこの意見に関わらず)自分の感じるままに演奏し、行動する」というような目標が出てきました。うう~、私の意見に関わらずって、、、私としては、ただ自分の感想を言っていたつもりだったのですがそれが彼を評価することにつながっていたのですね。それが彼の自由さを阻害していたことを深く反省しキネシで調整を行いました。(こういうのを「自分で撒いた種は、自分で刈り取る」というのかしらね)その調整の後、おさむは私がいても、意識せずに自分が感じるままにできるようになったしだからといって、私の意見をないがしろにするということもなくむしろ以前より尊重してくれるようになった気がします。(子育てじゃないけれど、学ぶことが多いですね)今でもよくおさむを褒めますがそれが評価につながらないように、と思っています。もっとも、今なら例えどんな褒め方をしても、彼は自分のやり方ができるのでしょう。今、親になる人たちがどんどんと意識が変わってきているのでこれからきっと子育ても変わってくるだろうなあと感じます。自分の存在価値を人からの評価で計らないこと人からの期待によってではなく、自分が本当にやりたいことをやりたいペースで行ってゆくことができる、つまり自分の生き方を優先できること。自分の生き方を優先することは、自分勝手とは違います。本当に自分の生き方を潜在的に優先できていれば相手を受け入れてゆく余裕もありますからそこに優しさやいたわりも生まれます。褒めない、叱らない、そして期待しない育て方。大切なのは、やっぱり受け入れる、認める、信頼する、ことですね。(は~また長くなってしまった。。誰も長く書いて、なんて期待されてないのですが)←というより、短くまとめて、とおさむに言われているのですけどね。(おさむの期待には全く応える気なし)
2011年12月28日
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先日、Brooklyn でアーユルヴェーダサロンを開かれているひとみさんが家に招待してくださって彼女の婚約者セーラとおさむと4人で楽しい時を過ごしました。ひとみさんは、少し前に北インドのジャイサルメールから戻って来られたのですがそのお話を伺っているうちに、インドに行ってみたくなりました。私はシバ神やガネーシャやラクシュミなど、インドの神々は昔から大好きなのですがなぜか、これまでインドに行こうという気にならずインドにはご縁がないのかも、と思っていました。一つには、インドは、人が多くてゴミゴミしている、というイメージだったので人が多いところではなく、自然の中で過ごす旅をしたいというのもあるかもしれません。でも、ひとみさんのお話を伺っていると、ジャイサルメールはよさそうだなあと。ジャイサルメールは、パキスタンに近くゴールデンシティと呼ばれる美しい街だそうでセーラは、その近くに農園を持っていて、来年から二人でアーユルヴェーダ農園とリトリートを開かれるとのこと。野外で満天の銀河を眺めながら寝て太陽が上がってくるのを感じながら目覚め砂漠でラクダに乗ったり、アーユルヴェーダを受けたり夜は音楽のライブや踊ったりう~ん、ぜひ来年には行きたいなあ。興味がある方は、ぜひご一緒しましょう~さて、セーラは、北インド出身のとてもスピリチュアルな方。そのあたりは、ヒンズーではなく、モスラムなのだそうですが彼の父親はスーフィーで、音楽家一家なのだそう。彼自身も様々な楽器を演奏し、特にカタールというかまぼこ板みたいな板4枚を使って鳴らすカスタネットみたいな楽器の演奏は(貧弱な描写でごめんなさい)ほんと素晴らしかったです。彼は、スーフィーやモスラムのみならず、OSHOのアシュラムに行ったり、タントラもマスターのもとで長く学んだそう。それでいて、セーラはひとみさんと一緒に書道を学んだりお茶のセレモニーに行ったりして、日本文化を深く知ろうとされているのも素敵♪彼を見ていて、つくづく感じたのが本来宗教というのは、こういうあり方がもっとも自然なのだなあということ。モスラムだからと言って、それ以外のものは受け付けないというのではなく様々なものを学び、受け入れてゆく。この神だけが救われる、とか、このフィロソフィーだけが最高だとかもうそういう時代は終わりであってそれぞれの素晴らしいところを取り入れ、それらを自分の中で統合してゆく。ドランヴァロも世界中の70人の宗教やスピリチュアルな指導者や賢者から学んだそうですが、だからこそ、あらゆる視点から世界を見て完全に二元性を手放されているのでしょうね。(ドランヴァロの場合は、一つの学びをあっという間に終えてしまうのがすごいのですが)さて、話はちょっとはずれますが、よく日本ではスピリチュアルなサイトやヒーリングのサイトに「こちらはあらゆる宗教とは一切関係ありません」って書いていますよね。こんなことをわざわざ書かなくてはいけない国って、一体何なんだろう、と感じます。他の国では、宗教持っていない=精神性を重んじない人と見なされますから、特定の宗教は持っていなくても目に観えない大いなる存在(それを神を呼ぼうが、宇宙と呼ぼうが)は信じている、ということを伝える必要性を感じることがあります。以前、レイキマスターになったばかりの頃、アメリカのレイキマスターはどんな風にレイキを説明するのかなあとあちこちの講演や説明会に参加したことがあります。こちらのレイキマスターは、レイキの創始者臼井みかお先生のことを禅の僧侶だとか、キリストからレイキのヒントを得たとか説明していることがあるのですよね。それは、本当の事実とは違うのですが、こちらでは宗教もやっていないのに精神性が高いはずがない、という捉え方があるのだなあと。たぶん、世界中で、宗教を持つことを特別視する民族って日本ぐらいでしょう。そもそも私たち日本人は、古くから神道や仏教と深く関わってきました。日本人でお寺や神社に行ったことがない人なんてほとんどいないでしょうし神社で結婚式やお葬式はお寺のお坊さんに来てもらったり様々な形で関わってきています。八百万の神、自然のすべてに神を見出してきた日本の魂は私たちすべての日本人のDNAに埋め込まれているのではないかしら。それなのに「神棚に大麻奉る」とわざわざ報道される国というのは、ほんと不思議な国だなあと。日本では、宗教=盲目的に何かを信じて、他の考え方や価値観を受け付けない人と見なされてしまうということなのですね。だから、「スピリチュアルなことを宗教と見なされてしまうことへの恐れ」を日本でヒーリングやスピリチュアルなワークをされている方が多く持っているのだなあと。実際、以前、私の知り合いでクリスタルボールの演奏家の方が家族や親戚に「そんな宗教やめないと縁を切る」と言われていたそう。クリスタルボールでさえ、そう思われてしまうなんて、私のやっていることは、宗教うんぬんより、かなり頭おかしい人になるのかも(先日、おさむが私の日記を見ながら「のりこ、これ普通の人が読んだら、何書いてるかわけわかんないと思うよ」と言われたのですが)←わかんなくてもいいんだもん、と開き直る私。とはいえ、最近、加速して人々が変わってきているのを感じます。これまでそういうのを一切受け付けなかったような方が、天使大好きになったり、超スピリチュアルな世界に入ってゆくのを日々見ていると、これからどんどんスピリチュアルとそうでないものの境がなくなってゆくなあと。考えてみれば、私の母の両親、つまり私の祖父母は神社を経営していて、二人とも神主だったのですが私の母は、全くそういう意識がない人で、私が記憶する限り、ただの一度も家で祝詞をあげたことがないのですよね。だから、祖父母のいる田舎に行った時だけ、私たちも神社で祝詞をあげるのですが今思い出すと、私は小さな頃から何かそういう目にみえない世界にとても惹かれていたのだなあと。だから、大人になって何十年ぶりに祝詞をあげた時、何かがピンとつながったような感覚がありました。と、最近はすっかり祝詞はあげなくなってしまったのですが本来はスピリチュアルと宗教性(宗教ではなく)は同じものだと思うのです。目に観えないものを敬い、尊重する心。そう、あらゆるものすべては、エネルギー。スピリチュアルなものとそうでないものの違いなんて本当はないのですから。さて、今日は満月ですね。ニューヨークの夜空にも美しいお月さまが輝いていました。これから私も満月の遠隔レイキのお時間です~みなさま、どうぞ素敵な満月をお過ごしくださいね。私の描いたガネーシャの中で気にいっていた作品。先日、素敵なヨガの先生が購入してくれて、私の家から旅だってゆきました。どうか祝福を広げていってくれますように。
2011年12月10日
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ここ最近、自分の容姿が嫌いだという方が、何人か続けていらっしゃったので容姿のことについて書いてみますね。私が思うのは、自分の容姿が嫌いというのも二つあって一つは、例えば、足が短い、鼻が低い、目が垂れているなど生まれ持った自分の容姿が嫌いだということ。そして、もう一つは、今の状態が太っている、肌がきれいじゃない、しわがあるなど今現在の自分の体型や容姿が嫌いということです。今の体型や容姿に満足していない女性は多いですが体重などは、これから、いくらでも変えていけるわけですよね。でも、なかなか思うように痩せなかったりそのためのエクササイズや食事などもできなかったりすると容姿だけでなく、そういう風にワークできない自分も嫌いになってゆきます。「もしこういう容姿になったら自分の容姿を好きになろう」というのは、実は、逆であって、自分の容姿が好きだからエクササイズをやったり、自分を美しくするためのケアをするわけですね。だから、痩せることが先ではなくてまずは自分の容姿を愛することが先決だと、身体が伝えてくることがあります。また、一方の自分の生まれもっている容姿が嫌いな人ですがその多くは、雑誌のモデルのような容姿が美しいのだ、と思い込んでしまっていたり自分の鼻は醜いと思い込んでしまっていたり自分は美しくないという固定観念に縛られていることがあります。この傾向は、やはり日本人の方が多いように思います。日本はみんなと基本的に同じようにいようとする傾向があるからか目がフランス人形のように大きくて、足がかもしかのように細くて色が白くて、などと美しさの基準が限定されてしまうのかしら。例えば、アメリカでは、日本人ほど、人と比較してのコンプレックスを持っている人は少ないかもしれません。先日、セドナの舞台で踊られていた女性ダンサーも、よくよく見てみると、かなりお腹周りが大きくて、へそ出しルックからボテンと脂肪がはみ出していてきっと日本だったら、こういうダンサーはあまりいないだろうなあ、と。でも、そんなお腹の脂肪なんて、彼女の全体の美しく情熱的な動きを見ていると全く気にならないばかりか、それさえも彼女の野性的な美しさを引き立てている要因に感じられるのです。人の容姿の美しさって何だろうと思うとやっぱり、その外見に映し出された内面だなあと。自分のことを外見も内面も愛している人は、やっぱり輝いていて美しいと感じます。タントラでも、まず自分の容姿を愛することからスタートします。全身裸になって、鏡の前に立って自分の身体のすべてを愛してゆきます。あ~胸がもっと大きかったらいいのに、とかお尻がもっと形がよくて小さかったらいいのに、足が細かったらいいのに、とか自分の身体で満足できない部分を探せば、山ほどでてきますがそのすべてをとことん愛し、受け入れてゆくことが大切だとタントラの先生であるカーラが言われていました。先日、リサロイヤルの『アセンションの道しるべ』を何年かぶりに読み返していたのですがその中に「醜い自分を受け入れる」というテーマでワークが載っていましたのでご紹介しますね。こういうイメージワークは、向き不向きがありますが心からありありと感じることができれば、このイメージだけでも癒しに効果があります。心を鎮めて瞑想状態になり、長い廊下を歩いている自分の姿を想像します。その中の部屋に入ると、部屋の中に美しい縁取りの姿見があります。その鏡の前に立って、自分を見つめます。そこにはいつもの自分がありますが生まれて初めてみるかのように、細部まで丹念に見つめます。鏡の中のあなたが醜い姿に変わり始めます。もしもあなたが太ることを恐れているのなら鏡の中の自分をできるだけ太らせてください。鼻の形が嫌いなら、その形を誇張してください。鏡に映る醜い姿は、あなたの恐怖心や否定的な思考の現れです。恐れや嫌悪感を持たずに、自分の醜い姿を見つめているといろいろな感情がわき上がってくるでしょう。それらをすべて受け入れてあげてください。鏡に映るあなたの目から、涙が溢れ出します。彼女(彼)はあなたに愛されて、受け入れられたいのです。彼女(彼)の醜さの奥には、聖なる輝きがあります。その光こそ、本当の姿です。鏡の中の分身に愛に手を差し伸べて、全身全霊で愛しましょう。まるで乾いたスポンジが水を吸い取るように醜い分身はあなたの愛を受け入れます。彼女(彼)は急速に生き生きして、あなたの理想の形に変わります。彼女(彼)の目が放つ暖かい光が、あなたの目が放つ光と出会ってとけあった時に、あなたと分身は一つになります。するとあなたは愛、喜び、自信に満ちた状態になります。こうして生まれた新しいあなたは、けして過去のあなたを脅かす存在ではありません。統合のプロセスが’終わるまでの間、おごそかな雰囲気の中でくつろいでいてください。そして、私たちそれぞれの容姿は、私たち自身が魂レベルで選んで生まれてきたもの。以前「天使の着ぐるみ」のお話をご紹介しましたがそうやって自分で選んできた大切な容姿(着ぐるみ)を愛さないで嫌っているなんて、ほんとうにかわいそうですよね。さて、私はここ何年も自分のエネルギー的なもののケアを中心にやってきたこともあって、実際の外見のケアやおしゃれには、あまり気を使ってこなかったわけですがこれからはできるだけ気を向けていきたいなあと。(なんせ、いまだに顔洗うのも朝だけで、全く何もケアしない状態だし)これも以前、タントラのワークショップに出た時のことですが「彼とのセックスの前に、前準備として何をしますか?」という質問に、アメリカ人の参加者は一様にエロティックな下着や洋服を着る、とか化粧をいつもより派手にする、などと言われていたのですが私が『女性性を高めるエネルギーのフラワーエッセンスを飲みます」と言ったので、かなりみんなに驚かれました。私にとって、女性性を高めるために、外見から入るという認識はほとんどなかったなあ、ということにもあらためて気づきました。先日、セドナのイルさんに会って驚いたのは彼女が最近、エステに通い、ネイルサロンにも行って素晴らしく女性らしく美しくなっていること。昔は山ザルのように(ごめんなさい!)急な岩山を登っていたイルさんがネイル??あり得ない~!!!とかなり驚きました。私とおさむは、たまに「これは一生行かなくてもいいよね」なんて「行かなくてもいいものリスト」をあげたりしていたのですが(←暇人)私にとって、一生行かなくてもいい場所は、大型デパート店やブランド品店、化粧品店などいろいろあるものの、その第1位に輝くのが、ネイルサロン。昔から、全くネイルには興味がないのです。他の人がきれいにしているのを見て、わ♪きれい~とは思いますが私自身がやってみたいなんて全く思わないのですよね。で、どうして全く興味がなかったのかなあと考えてみるとマニキュアなどに入っているケミカルを使いたくないとかそこまで気を配っている時間がない、とか絵を描く時は、スポンジを使って塗るので、爪の中が絵の具だらけになる(爪のケアどころの問題ではない)などいろんな理由があるものの一番の理由は、自分の爪が全く好きではないから、なのですね。私の爪は、生まれつき形が悪いのか、ピアノを長い間やっていたからなのか横幅が広くて、縦が短くて、とてもネイルなどできそうにない爪なのです。なので、こんな爪で何かをやってもしょうがないなあ、と。やっぱり、自分が好きでないところはきれいにしたいという気がなくなるものですね~特にコンプレックスというほどではないのでこれまで爪に意識が向かなかったわけですが爪の先まで?自分の身体を愛してあげなければ、ね。とはいえ、ネイルサロンは、まだまだ私にはハードルが高いのでとりあえず、今日は久々にアーユルヴェーダのフェイシャルに行ってきました。やはり、とっても気持ちよかったです♪定期的に行きたいなあ。と、その前に白髪染めなきゃ、とか女性は何かといろいろありますよね。それでなくても、日々の生活の中で、やりたいことは山ほどあるというのにやれ肌の手入れだ、髪や爪の手入れだ体型のシェイプアップなど、あれこれ容姿のために時間をかけていたら、時間はいくらあっても足りないなあと以前は、容姿のケアをしなくていい男性がほんとうらやましかったです。よくおさむに「いいね~男は何も外見のことやらなくてよくて」と言っていました。でも、この女性性の時代、さらなる女性性に磨きをかけるために(?)外見のケアをしていくことも楽しんでやってゆくよう潜在意識を調教してもとい調整してしてゆきたいと思いま~す。超女らしくて、エロティックな新noricoをご期待くださいませ(←口だけ)(←いつも適当なことばかり言うと、おさむに諭されている私)
2011年11月30日
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二元性から脱するということ。つまり、これが正しい間違い、これが善悪、という価値判断をやめること。今多くの人が、その生き方が争いや不和を招いてきたことに気づきはじめています。ドランヴァロもインタヴューの中で、これからの新しい時代は、二元性から完全に脱出することになると何度も言われていましたがその新しい世界には、もうどこにも対立はないですね。IHキネシオロジーのセッションの中でもクライアントさんの頭ではそれが問題だと考えていなくても身体が「価値判断を手放すこと」や「正義感を手放すこと」に反応して、あらためて、今起こっている問題がそこから来ていたことに気づいたという方も少なくないです。優先テーマとしてその日のテーマに選ばれるかどうかはわかりませんが、それがテーマとして出てくる時にはかなり大きな意識の変容が起こります。だって、これが正しい間違いという価値判断が多ければ多いほど人生はより大変なものになってきますからそれを手放せば、ほんと楽~になるのです。私は~~をするべきでしょうか?という質問は、この正しい、間違いという捉え方から来ています。間違った生き方なんてどこにもなくて、どれを選んでもその人にとって必要な体験ですから。「正しい、間違いを判断しなかったら、何を道しるべに人生を選んでいったらいいのでしょう?」と質問された方がいらしたのですがそれは、とっても簡単。自分が幸せな道、心地よく感じる道を選択してゆけばいいだけです。正しい生き方をしたいと思っていると、自分の「正しさ」と周りの正しさが合わないので、そこで葛藤が生まれます。正しい生き方をしたい人は幸せにはなれませんが幸せな生き方をしたい人は(例え他人から見て正しくなくても)幸せになれるのです。先日どなたかが「正しさの反対は間違いではない。正しさの反対は別の正しさだ」とつぶやかれていましたが全くその通りだなあと。100人いたら100人それぞれの正しさがありますね。さて、ここでちょっと落とし穴だなあと思うのは例えば、ジャッジや価値判断を手放しなさい、と書かれてあるスピリチュアルな本を読んで「私も価値判断を手放していこう」と頭で考えていると自分の周りで「あれが悪い、これがいい」と価値判断をしている人を見て、イライラしたり、何か心地悪く感じたりします。頭では「価値判断を手放したい」と思っていても(潜在意識では)手放してはないので、相手の言動に自分の中にあるものを感じて反応するのです。つまり『ジャッジしている人をジャッジする」という現象が起こります。頭でっかちスピリチュアル、ですね。まさにすべてのことは自分の内面を知らせてくれる鏡なのです。本当に頭だけでなく、内面からジャッジを手放すとジャッジしている人を見て、そこに何かを気づいてはいても何とも感じなくなります。周りの人が何かをジャッジしていることさえ、いいとか悪いとか感じないのです。この静かな感覚は「ジャッジを手放す」という単純な言葉では伝えれないのですがただあるがままに受け入れている感覚です。例え、ジャッジなんて言葉を全く知らなくても、この感覚をすでに持っている人もいます。そういう人と一緒にいると、けして自分を裁かれないしありのままでいられるので、本当にラクチンですよね。きっとこのブログを読んでくださっている方は二元性を脱した方、またはこれから脱する方なんじゃないかなあ~と。(そうじゃないと、こんな内容、受け付けないでしょうしね)だから、何か書いてもいいと思えるので、らくちんなのです。二元性(マインド)を手放すともう人生は、超らくちんで進んでゆくのです
2011年11月26日
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セドナの旅から戻ってから、おさむはずっと仕事続きで昨日まで休みなしだったのですが、いつもなら、聖地から戻ると必ずと言っていいほど、落ち込んでいたのがうそのように、今回は絶好調仕事から戻ってきた直後でも、表情が幸福感に満ちています。昨日は、彼は久々のオフで、外は雨で、家でだらだらと過ごしていたのですがもう二言目には「あ~幸せ~」という言葉が口から出ていました。最後に行ったIHキネシオロジーの「闇を受け入れる」のセッションによって「自分の中の闇を受け入れたら、逆に闇そのものがなくなった」という感じなのかもしれません。今回のセドナの旅は、それをさらに仕上げた感じでセドナに着いて初日に、おさむはかなりデトックスが起こっていました。さすがセドナ、すごいパワーだなあ、なんてあらためて実感。(彼のデトックスに冷静に対応している私自身の変化も今回、あらためて感じることができたのですが)思い返せば、IHキネシオロジーのセッションをスタートして、3回目ぐらいのセッションの時におさむは魂からのメッセージとして「闇を見つめなさい」というのが出てきてその時は「へ~おさむにも闇なんてあるのね」なんて言っていたわけですがそれから彼の前世や傷ついていたインナーチャイルドや不必要な信念などありとあらゆる闇を見つめることになりました。そして、最後のセッションの目標で、おさむの魂が選んだ言葉が「闇を受け入れます」これがそこまで大きな調整だとは、その時は思わなかったのですがそれによって、あらゆる状況に左右されず、幸せの状態でいることができるようになったのだなあと。この意識まで来るのに、彼の場合、IHキネシオロジーのセッション50回以上もやったわけですがきっと、普通の人はここまで必要ないでしょう。彼にここまで行う必要があったのには、おさむの場合、かなり前世とのつながりが大きかったこともあるし私自身がIHキネシオロジーを初めてすぐの頃は最も効果が出る目標設定やテーマ選びができなかったこともあります。今なら、もっと早く、この意識まで辿り着けるように効果的にセッションを進めてゆくことができるなあと。(もちろん、あくまでも、本人の魂の導きに従って、ですが)昨日は、おさむがあまりにも幸せ、幸せと言うのでそういえば、と思い出したことは、昔、私はいつも「今、幸せ?」とおさむに聞いていたということ。私は、常に「今が一番幸せ」というスタンスで生きてきた人で(過去のある1、2年間はそう感じれない時期はあったものの)基本的にはずっと、過去でもなく、未来でもなく今が人生の中で一番幸せだなあ、といつも感じてきた人でした。でも、おさむは当時、何かを達成しなければ幸せではないと思い込んでいたので、私が幸せ?と尋ねても「まあ、幸せだよ」という感じで、全く幸せそうじゃなかったのでした。今なら、例えそう言われても、それが私の心情には影響しないのですが当時の私は、それをさみしく感じていたんだなあとすっかり忘れていた自分の感覚も一緒に思い出しました。昨日、おさむはしみじみと「俺はこれまでもずっと幸せだったんだなあ」と言っていました。私たちは過去さえも変えることができるのです。昨日の日記の感想の中にあった「幸せのクオリティ」が違うということをあらためて感じます。人それぞれ何が幸せかは違うと思いますが私が思うのは、幸せには、二つの種類があるということ。一つは、美しい自然に触れたり、人の暖かさに触れたり、何か目標を達成したりといった何らかのことに対する感動がベースになっている幸せ。これは、人生を変えるような大きな感動というだけでなくおいしいものを食べた時に幸せを感じたり、美しいものを見たりアートや音楽をクリエイトしたり、感動する本や映画に出会ったり人それぞれみんな違うところでしょう。私は以前、それを感じる力が大きければ大きいほど、感動することができればできるほど幸せは大きくなるのだと思っていました。私の場合、この「感動を感じる力」みたいなものが昔から強かったのだと思います。例えば、好きだった彼と別れなければならなくなって、1日落ち込んでいたとしても次の日に晴れた日に外に出て、美しい空と心地よい風を感じることができると「あ~幸せ~」とすぐに気持ちが変わってしまうような人でしたからいつも今が一番幸せでいることができたのでしょう。だから、常に新しい感動を探して、何かをやってきたのかもしれません。でも、今の幸せはそういう幸せとはまた違うのです。幸せのもう一つの種類心の中を見渡してみても何も葛藤がなくて、静かであってただ今ここにいるだけで満ち足りて、すべてに祝福されているという感覚。例え何もしなくても、何も目指さなくても、何かを達成しなくてもただただ幸せなのです。それは2009年のペルーへの旅の後ぐらいから少しずつ精神的なジャーニーを重ねてきて本当にようやくここ1、2年ぐらいでできてきた感覚かもしれません。そして、昨日、二人でここに辿りつくことができたんだねと喜びをかみしめていました。これはすべてのことに言えることなのですが何か幸運なことが起こったから、幸せになるのではなく幸せを受け入れたから、幸運なことが起こるのだということ。今回の旅は、まさにそのことを天からリマンドしてもらったんだなあと感じています。先月、久々にリバーシングのみかさんと一緒にご飯食べた時に「お互い、ここまで来るのは長かったね~。でもこれからの人たちは、私たちのように長い道は歩かなくていいんだよね」とみかさんが言っていたのですが本当に、最近感じるのは、こういった心の世界やヒーリングや精神的な学びをスタートしたばかりの人が何度かセッションを受けただけで、もう私と同じような意識に到達するということ。それは、この時代の人々の意識の変化なのか、宇宙的なエネルギーの変化なのかはわからないのですが、「え~もうそこに行っちゃうの~?」とほんとうに驚くことが多いです。もちろん、今がとても辛い状況にあると数回のセッションぐらいでは、なかなか幸せを感じれない人もいますが(変化が起こりにくい人のことに関しては、また後日書いてみます)例え、今、どんな状況にあったとしても誰でも必ず幸せでいることができるようになります。人によっては、その辛い期間を必要とする人もいるので(それもその人自身が選ぶことですが)その人が幸せになりたいと思わない限り他の人は例え家族であろうと何もヘルプすることはできないのですが、(そういう人はヒーリングも受けようとしませんから)でも、本人が幸せの道を選ぶならば、必ず行けるのです。そして、もちろん、お金がもっと欲しいとかビジネスを成功させたいとか女優になりたいとか何かの目標や夢を持ってそれに向かって進んでゆくこともいいのですがそれを達成しないと自分は幸せにはなれない、と潜在的に思っていると永遠に幸せはやってきません。ハートからの願いではなく、マインドの願いを達成してもいつも心は次から次へと要求してきますから人生を通じて、何か満たされないものをずっと満ち続けてゆくことになります。もっとも、そういう期間を経た後、何かが違うことに気づくことができるかもしれないのでそれはそれでその人にとって、必要な時期だと言えるのですけれどね。そして、最終的にたどり着くところは、「何かを得たから得られる幸せ」ではなくむしろ、不要なもの(信念や思い込みなど)を手放し、本来の私たちの本質に還ること。私たちの本質、魂レベルでは、祝福と喜びしかないのですから。そして、おさむ曰く「俺はようやくスタート地点に立った」ということ。そう、これからが本当に魂レベルで(ハートで)で生きてゆく人生のスタートと言えるのかもしれません。さて、今日も素敵な方たちとともにIHキネシオロジーのセッションで(スピリチュアルな)ジャーニーをしました。ここに来てくださる方とのセッションは、毎回のように喜びと感動に溢れています。この感動による幸せも、私にとってやはり大きな祝福。そして、例え何もしないでいても、やっぱり祝福なのです。Love
2011年11月23日
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「受け取ること」これが苦手な方って、多いですね~人から何かをしてもらったりすると、すぐにお返ししなければ、とか、申し訳ないと考えたり、人に頼み事ができなかったり、甘えれなかったり。これまでキネシオロジーのセッションで「喜んで受け取ります」などという目標で、潜在意識を調整したことは何度がありましたが「人に与えます」なんて目標が選ばれたことはないところを見ると受け取るより、与えることの方がずっと心地よくできる人が多いようです。かくゆう私も、最近はかなり受け取れるようになってきたものの以前は、やはり受け取ることができず。これは私の父が本当に受け取れない人で例え、自分にお金がなくても、人には惜しみなく出すような人だったし人の世話になることもできない人でしたから私もその影響をもろに受けていました。父は3年前に脳梗塞で倒れてから、歩いたり、一人で食べたりするまでには回復したものの、母の助けがないと生活できないようになって今、愛を受け取るレッスンをしているわけなのです。人生の中で、あまりにも受け取ることができていないと受け取らざるを得なくなるようなことが起こったりするのですよねさて、前にレイキを学んでくださった方からたまたま一昨日「ロミロミをぜひのりこさんにやらせてください」とメールがあって、以前だったら、こちらからお金を支払って受けるセッション以外はさりげなくお断りしたりもしたのですが最近は、ありがたくお受けしようとたまたま昨日の3時以降は予約も入っていなかったこともあって受けさせて頂きました。彼女は日本ではロミロミをされていたそうですが、NYではマッサージの資格がないとできないとのことでなかなかする機会がないのだそう。彼女は、きれいなハワイの服を着てロミロミをやってくれて90分のセッションの間、それはそれは心地よく、ハワイのエネルギーを感じながらほんわか温かなエネルギーに満たされていました、人にケアしてもらうのって、本当に心地いいなあとありがたくて、セッションが終わった後、お礼をお伝えしたら彼女が「セッションの間、ハワイとつながることができたと感じたのです。だから、セッションの終わりに涙が出てきてしまって」と言ってくださって、また感動やっぱり、受け取ることは、与えることと同じだなあと。「与えるばかりで受け取らない」というのはつまりは、相手に与えるチャンスや喜びを与えていないということにもなって、相手とその喜びを共有していないのです。受け取ることが、与えること、でもありますよね。また、物や行為だけでなく、人からの褒め言葉を受け取れない人も日本人には多いですよね。そういう私もあまりにも褒められると(少々はオッケーなのよ)うれしい気持ちと同時にここまで褒められていいのかしら?なんてちょっと居心地悪くなったり。相手がそう感じているのですから、自分がどう感じていようとそれをありがたく素直に受け取ればいいわけなのですが自分の内をよくよく見ていくと相手が自分を過大評価して、いつかがっかりするんじゃないかしら?なんて想いがあったりするのですね。例え、相手が自分を過大評価していたとしても、それは相手の問題であって私の問題ではないわけなのですがそこにギルティを感じてしまうわけです。また、そんな風に自分をよく見られると、またこれからもその期待に答えなければならないんじゃないか、なんていう思いが出てきたりもします。それも全くの幻想であって、相手は褒めたからと言って、何かを期待しているわけではないし例え期待していたとしても、自分がそれに答える必要はないですから。自分がいつもありのままでいることさえできていれば、相手がどう評価しても大丈夫なのです。ということで、日々、褒め言葉を受け取るレッスンも、ありがたく頂いています。どんどん受け取り上手になろう、と。(あ、ちなみに、けなす言葉を受け取るレッスンはやっておりませんので、褒め言葉だけでお願いします~~←逃げる図)その点で言えば、おさむは本当に受け取り上手。というか、受け取ってばかりでいいんかい!と時々つっこんでいますが。「インラケチ」以前にも書きましたが、私の好きなマヤ語です。マヤでは、挨拶の言葉として使われたそう。意味は「私はあなたです」日々の挨拶の言葉として「私はあなたです」なんて使うのは素敵ですよね。最終的には、受け取ることも与えることも、同じこと。受け取ることが苦手、というのは分離の意識なのです。だって、私はあなたなのですから
2011年09月30日
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先日「感情地図」という本を読みました。この本は思考と感情、態度、信条、認識、エネルギーといったあらゆる要因と病気との関係を解き明かしたものですがその中で感情について、「感情は内なる自分のバロメーターであり、人生を救う」と書かれてあります。もし私たちが感情を感じないとしたら、身体や潜在意識からのメッセージを聞けなくなってしまい軌道修正できなくなってしまうわけですね。この中から一部抜粋してみますね。感情は様々なものがあるように思われがちですが実際には、恐れと愛、この二つのどちらかに分かれます。恐れは、怒り、激怒、脅威、心配、反抗、復習、腹立ち、憤慨、悪意、短気嫌悪、否定、悲観、危惧、臆病、不安、疑い、逃避、裏切り、無感動、拒絶、批判、不満、屈辱、苦しみ、悲しみといったあらゆるマイナスの反応の根源です。一方、愛はあらゆるプラスの感情の根源です。そこには、喜び、至福、勇気、希望、受容、慈悲、親切、献身、幸福、満足、歓喜、感謝、許し、効用、安心、敬愛、快感、親密、恍惚、平和など楽観的な態度と健康の根源となる感情が含まれます。愛と恐れが脳と心の同じ場所を同時に占めることはできませんから私たちは人生のある地点でどちらを選んで歩むかを決めなければなりません。恐れがまったくない人は存在しませんがほかの人より物事をより恐れる人はいます。心配性の人はその性格のためにさらに不安を募らせる傾向があります。一方、心配事を避けようとする人は不安など存在しないふりをしますが体内では恐れがじわじわと広がり、新たな恐れを生み出しています。また何事もそれについて理解しようとし、苦しんだり悩んだりしながら努力すれば、恐れさえも克服できると思い込んでいる人がいます。このタイプの人は、その努力は精神的な解放に続く道でありこんなにがんばっているんだと証明するための手段としてそれを利用しますが、その努力こそ実は恐れなのです。他にも心配しすぎて身動きができなかったり、感情が先走ってしまう生き方をする人がいます。暗くなって外出するのが怖い仕事を失うのではないかと心配になるお金や時間が足りない自分は愛されていないのではないかそして病気になるのではないかと恐れるのです。このタイプの人は、恐れは自分が具現化する予言だということに気がつきません。私たちが直面する恐れには、基本的に6つの種類があります。1)生存 2)未知 3)放棄4)裏切り 5)拒絶 6)死興味深いことは、私たちが生み出し経験する様々な心配事はこの6つの恐れがもとになっている点です。変化に対する恐れは、未知に対する恐れから生じるものですし経済的な心配事は生存にかかわること孤独に対する恐れは放棄病気に対する恐れは死信頼関係に対する問題は裏切りなど例をあげればきりがありません。例えば、怒りという感情は、自分を認めてもらえない、大事にされていないなどという恐れから生まれるわけですね。感情として感じているのは怒りであったとしてもその根底にあるのは恐れ。また、ここに書かれてあるように、経済的なことやお金に対する心配というのは生きるか死ぬか、に関わっているため潜在意識がサバイバルモードになっている人が多いです。よくお金に関する問題は、チャクラでは第一チャクラに関係していると言われますが第1チャクラが生存に関わるチャクラであることを考えると納得です。例えば、この中で「拒絶に対する恐れ」も、多くの人が持っている恐れ。「人に頼みたいのに拒絶されるのが怖くて頼めない」とか「ありのままの自分を表現したら、周りの人から拒絶されるのではないか」などこれは、実際に、人から拒絶されたことが過去にあって未来もそうなるのではないか?と恐れている場合もありますが実際には拒絶されたことはないにも関わらず、生み出されている恐れもあります。誰だって拒絶されてうれしい人はいないでしょうがもし自分が相手から拒絶されたとしたら、その相手の中に恐れがあり拒絶という形で反応しているだけであって自分自身を否定する必要はないわけです。でも、多くの人は、拒絶された=自分は認められていない、信頼されていない、愛されていないと自分を否定することにつながるため、相手の反応に傷つきます。なので傷つきたくない、という恐れから、自由な行動ができなくなってしまうのですね。話は変わりますが、アニメっこの私は2009年にNHKで放映されたアニメ「ふたつのスピカ」を、最近見ているのですが(見られる方は、右にある第一話から)この中で宇宙飛行士を目指している主人公アスミは出会ったクラスメイトのマリカから「あなたなんて、私は嫌いなのよ」とか「馴れ馴れしくしないで」など、最初のうちは、もろに拒絶されるわけです。マリカは、小さな頃から誰からも愛を与えてもらえなかったのでどうやって人からの愛を受け取ったらいいのかも愛を受け取ってもいいということもわからないのでそういう態度しか取れないわけで、まさにそれは愛の欠如であり、恐れからの反応。ところが、アスミは、そのマリカの拒絶に面しても、全く動じないのですよね。(最初は名字で呼んでいたアスミは)「今日からマリカちゃんって呼んでもいい?」とか「マリカちゃんも一緒にやろうよ」とか、いくらマリカからひどく拒絶されても、けしておびえたり、卑屈になったりせずまっすぐにマリカを見つめて、自分の愛を表現する、相手の反応によって、相手への気持ちや自分の対応が変わらないのです。これはほんとうにすごいことだなあと。例えば、自分の言動が意図せず相手を傷つけたり、相手の気分を害してしまって拒絶されてしまった場合みなさんなら、どういう態度や意識状態になるのかしら?これまでの人生で、私から誰かを拒絶したことは、一度もなかったと思うのですが(たぶん)相手から拒絶されたことは何度かありました。その場合、できる限り、自分の意図を伝えようとはしますがそれでもわかってもらえなかった時には、「去る者は追わず」それ以上、こちらから深く相手に関わることはやめていました。相手を責めず、自分のことも責めない、ただ、相手の反応を受け入れるという態度。ですから、これまで、そういう自分に恐れは見出していなかったのですがでも「(自分はやるだけのことはやったのだから)もうこれ以上は必要ない」と、それ以上、拒絶されることへの恐れを隠していたのかもしれません。このアスミのように、相手から拒絶されても、全く変わらない意識でいることができたなら、それは本当にすごい強さであって、愛の状態。きっと本来の私たちの天真爛漫のままだったらできるでしょうが私たちは大人になるに従って、いろんなものをくっつけていますからね~この本の中で「恐れのまったくない人はいませんが」と書かれてありますが確かに一般的には少ないでしょうが、全くいないわけではないですよね。ドランヴァロぐらいになると恐れなんてないでしょうし(なんといっても、この宇宙の始まりからの記憶をすべて持っているお方)またインドのヨギとか聖者とかシャーマンなど、大いなる存在と常に意識がつながっているような人たちは、やはり恐れは超越しているでしょう。どんな人であっても、私たちすべてが最終的に目指すところは、恐れが全くない状態。つまりは愛そのもののになること。(といっても、もともと愛そのものの状態で、この世界にやってきたのですから結局、もとの私たちに戻ってゆくだけなのですけれどね)ですから、その過程で、自分の中の恐れに気づいてゆく必要はあるわけです。けして恐れと戦ったり抵抗するのではなく。バシャールの言うように「恐れを持ってもいいが、恐れることを恐れてはいけない」例えば、舞台で何か発表したり、人前でスピーチしなければならない時「緊張してはいけない。落ち着かなければ」と思えば思うほど、緊張してしまった経験ってありますよね~。むしろ「よしよし緊張してもオッケー」と恐れることを自分に許してあげる方が、ずっと緊張から解放されます。恐れを否定すればするほど、それはより深く根付いてしまうのですから。また恐れがあることを無視してみても、必ず何らかの問題が出てきます。例え、感情としての「恐れ」を感じていなくても何か、心にひっかかるものがあって、その感覚のもととなっているものをよくよく見てゆくと「あ、これは~~に対する恐れだったんだ」なんていうことはよくあります。例えば、日々、こういうブログを書き続けていくというのも自分の中の恐れに気づくチャンスになっているのかもなあと。思いつくまま、好き勝手に書いてつもりでいてふと「こんなこと書いたら、誤解されるかも?」とか「こんなこと書いたら、ヒーラー失格と思われるかも?』なんて感覚を自分の中に少しでも見つけたなら、恐れの存在に気づくことができます。それをよく見てゆくとたいていは「ありのままの自分では人に認めてもらえないのではないか?」という恐れだったりするのですよね~そして、やはり、恐れ=分離だと思うのです。だって、相手と自分がつながっている、すべての人と自分はつながっている宇宙と一体化していると意識レベルで感じていたなら、恐れなんてなくなります。あのすべてとの一体感をいつも持ち続けることができたなら何も恐れることはないのになあと。もう分離の世界は充分経験したぞ~~これからは愛だけの世界に生きよう~~
2011年09月05日
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先日、ミクシィに載っていたコラムで女性に対してのアンケートで「彼が女心をわかっていると感じる瞬間」というテーマがありました。それには、「髪型の変化にいち早く気づいてくれる」「がんばったおしゃれな服装をほめてくれる」「どうでもいい話を楽しそうに聞いてくれる」「重い荷物を持ったり車道側を歩く時に気遣ってくれる」「悩み相談に対して、口をはさまず、しんどかったね、と受け止めてくれる』などというアンケートの結果が載っていました。ミクシィのアンケートで、軽いものですしたぶん対象は10代後半から20代の女性という感じなのでしょうが、案外、これは40代でも50代でも変わらないところかもしれないなあと。先日も「用事がなくても、(彼に)電話してきてほしい」という方がいましたがつまりは、自分のことをちゃんと見ていてくれるとか、気遣ってくれる、大事にしてくれる、そういうことが女性にとって、とてもうれしいことなのですね。男性には、女性に対して、自然とこういうことができるタイプと全くそういうことに気づかないタイプといます。お国柄というのもありますが、同じ日本人や同じアメリカ人であっても、やはり様々。この点、おさむは、明らかに後者で、つい先日も、一緒に外出した際、私が久々にスニーカーではない靴を履いたというのに、全く気づいてくれず。私がスニーカー以外の靴を履いて外出することなんて、ここ何年もなかったことなのに。(プン)←何気に気分を害している。また、一緒に歩いていても、自分一人だけでさっさと行ってしまうので旅でのトレッキングや山上りの時も、おさむの姿は見えなくなってしまって大部分は一人でテクテク歩いています。「のりこは歩くスピードが遅いんだよ」というのですが男性の体力やスピードと女性とは違うということがわかっていない~「一人でさっさと行ってしまって、女子を守るっていう発想がないんかい!」と、つっこみたくなることも少なからず。(まあ、実際は、私も一人で歩いて大丈夫だと思っているのですが。守るという気持ちが欲しいのよ、気持ちが)←と、これは私の方が守る立場でいたからなのかということで、以前は「だめだこりゃ~」とあきれることが多かったのですが、それが、いつのまにか、少しずつ変わってきました。最近は、私が髪を切った時には「今日は髪切ったね」と言ってくれるようになって「お、気づいたのね~合格~~」などと冗談で言っています。(気づくだけで、たいしてほめてはくれないのだけれど)悩み相談というか、以前なら何か問題を話すと『それはすべてのりこ自身が引き寄せていることでしょ」と言われそんなことは百も承知のことなので「ごもっとも」ということになって、話す気もなくなってしまっていたのですがある時、私の話に「そりゃあ、ひどい話だね。ベイビー大変だったね」と言ってくれたことがあってそれがとても新鮮で「そのままを、ただ受け入れてもらえるというのはいいなあ」とつくづく感じました。用事もないのに電話してくれたことなんて、16年つきあってほとんどなかったように思うのですが先日、用事がないのに電話してくれたことがあって、「すごい、どうしたの?用事もないのに電話してくれるなんて!もしかして初めてなんじゃない?」とかなり驚きました。もっとも、私の方も用事がないのに電話することなんて、まずないですし相手の外見の変化にも気づかないことが多いのですけれどね以前、親しかった男性の友人が、「今日の俺、いつもと違うのわかる?」と言うので、まじまじと彼を見て「え?わからない、何が違うの?どこ?」とわからないでいたら「何年ものばしていた鼻の下のひげを剃ったのに。のりこはほんと人のこと見ていないんだなあ」とあきれられたことがありました。彼の長年のトレードマークだったひげがなくなっても言われるまで気づかなかったのです。相手のエネルギー的な変化(今日はエネルギーが軽くて明るいとか何だか重い感じとか)はすぐにわかるのですが外見的な変化、例えば髪やひげなどの変化はわからないしましてや、相手の着ている洋服なんてほとんど見ていないので気づきません。もし私が男性になったら、間違いなく女心がわからない男になっていただろうなあとということで、私自身が「気づかない女」なので気づかない男の気持ちもよくわかるのですがそれでも、女性として気遣ってくれるとやっぱりうれしいもの。(そう、勝手なものです)でも、女心がわかる=愛が深い、とイコールにはけしてならないのですよね。問題なのは、女性の場合、自分のことを見てくれるとか気遣ってくれるというのが自分を愛してくれる、に結びついていることが多いということ。男性はそういう行為が愛に結びつくとは限らないわけですからそこで、男性がそういう行為をしない人だと女性は「私は十分に愛されていない」と感じてしまうこともあるのです。昔の私も、おさむは全くそういう風には表現しない人だったので「この人は私を本当には愛していないんじゃないか」とずっと思っていたわけです。特に15、6年ぐらい前の出会った頃の彼は、ほとんどギターにしか興味がない男でしたから、当時はよく彼に「あなたは、きっと私が死んだ日でも、いつもと変わらず淡々とギターの練習しているのよね」なんて言っていました。また、例えばパーティなどの場で他の人といる時に、おさむが全く私に気遣ってくれないでまるで一人で来たかのように振る舞っている時などにも「私はケアされていない、充分に愛されていない」という思いが湧いてきたのを覚えています。でも、それがヒーリングを受けたり行ったりして私自身が癒され、満たされるに従っていつのまにか変わってきて、以前だったら腹が立ったり悲しかったりしたことに対して、特に何も感じなくなっていました。例え、私が望む形で気遣ってくれなくても、それが彼が私を愛していないということには結びつかないということが、心から理解できたからです。相手の行為によって、愛を計らなくなって愛していることを行為で証明してもらわなくても彼の私への愛を魂レベルで信頼できるようになっていました。それに従って「こうなってほしい」と彼が変わることを願うこともなくなってありのままの彼を認めることができるようになっていました。だから、男女の性質の違いを知ることも大切なのですが何よりも大切だと思うことは自分は守られている、大事にされている、充分に愛されているということを相手の行為で判断するのではなく、内なる感覚で感じるということ。(もちろん、これは相手が暴力をふるったり暴言をはかれても相手の愛を信頼する、なんてことではありません。暴力をふるわれても離れられないのは、自己愛の欠如ですから)そして、その問題の根源的な原因は、実はその彼との間の問題だけではなくその前から自分の潜在意識に持っていることから来ていることが多いのです。(多くは子供の頃のことからきていたりしますが)私は充分に愛されていない、とか、守られていなかったとか、認められなかったという思いが潜在意識にあるから愛を証明するために、行為が必要になってくるのですね。それは、自分自身も気づいていないレベルで起こっていますから彼が問題だと思い込んでしまっていることも少なくありません。ですから、その根本となっているものに気づいて手放していかない限り、彼との問題も根本的には解決しないのです。そう考えてみると、おさむが「女心がわからない男」だったからこそ私自身の癒されていない部分に気づくことができたと言えるのだなあと。どんなことでも、結局は自分自身の内側を見つめるきっかけなのですね。とはいえ、けして女性の方ががまんをする、ということではなく自分のニーズを伝えてゆくことも大切なこと。女性にもいろんなタイプがいて、いつも「こうしてほしい」「これが嫌だ」と伝えていくタイプと(その場合、大抵、男性側は要求されるばかりでうんざりしています)反対に、彼に自分がやってほしいことや好きなことを全く伝えないで、がまんしたり、あきらめてしまっているタイプ。(その場合、二人の関係は平行線で本当に満足できる関係に深めてゆくことは難しいです)自分自身が癒されて、彼の愛を心から信頼し彼をありのままに受け入れることができていたら自分はこうしてほしいという気持ちを、相手を責めることなく伝えてゆくことができます。「こうしないあなたが悪い」という態度では相手から受け入れてもらえませんがあなた自身には問題がなく、私のことを充分に愛してくれるのは感謝しているという前提のもとで「私はこういうことをされるとうれしい」と自分のニーズを伝えていけば、彼もそれを受け入れてくれますし、少しずつでも変わってゆきますから。自分自身が癒されていない、満たされていない状態で、相手を変えようとすると必ず上手く行かなくなるのです。そして、話しあってみれば、相手がけして自分をケアしてくれていないわけではなく自分が望む形ではケアしないだけであって、やり方が違うだけだということがわかってきたりします。自分の意識が変われば、二人の関係もどんどん変わってゆきます。私とおさむの関係も、ここ数年で大きく変化しました。毎日のように、いろんなことを話し合って分かち合える関係になったのは、昔と比較するとほとんど奇跡に近いようなこと。ということで、いつか、一緒に山道を歩いてくれる日もやってくるかもしれません。(と、さりげなくここで強調してみよう)
2011年08月14日
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IHキネシオロジーのセッションで、時々出てくるフラワーエッセンスの中にアラスカンエッセンスのBladderwort(ブラッダーワート)というのがあります。効能は、幻想に気づくというもの。人の話の中の幻想を見抜くこと、自分で自分をだましていることに気づき、物事の本質を見ることをサポートする。私たちの多くは幻想の中に生きています。「あの人はきっと私の言葉をこう受け取ったに違いない」とか実際は、ありもしないことを頭の中でぐるぐると駆け巡っている人も少なくありません。これはこうあるべきだ、あの人はこんな人、私はこんな人、というのもすべて幻想。それは物事の本質とはかけ離れています。もし、自分がいかに様々な幻想を持って生きているか、そこに気づき始めたら、何かが変わってきます。そして、ある日、目覚めてみれば、自分の本質は全く違うところにあったことに気づきます。ヒーリングというのは、自分が作り上げてきた幻想に気づきそこから抜け出すことだと言えるのかもしれませんね。リチャード博士が、身体もイリュージョンだというような言い方をしていましたがマトリックス・エナジェティクスでは、病気や痛みというものも幻想であってその幻想を手放せば、病気や痛みそのものが消滅するという考え方をします。よく「経験が、人を創る」というようなことを言いますが実際は、例え、同じような経験をしたとしても、人によって、そこから学ぶものは全く違ったものになるしだから、経験自体が違ってきます。今日、セッションに来られた方が「今回、潜在意識の中のこのプログラムが解除されて、手放したということはこのプログラムができた原因となったような経験をこれからは、もう二度としないということですか?」と質問されたのですが、これまでのような経験をしないということではなくもう別の意識を持っているので、感情的にも精神的にも別の反応を選択するため、別の経験となるということなのです。IHキネシオロジーのテキストの中で、NLP(神経言語プログラミング)の説明があるのですが、その中に「建築家と警察官と聖職者とティーンエイジャーが、一緒に賑やかな通りを歩いているとしてその人たちは、同じものを見たり、聴いたりするでしょうか?同じ経験をするでしょうか?同じものを記憶するでしょうか?経験を同じように心の中に取り組むでしょうか?』というものがあります。もちろん、答えはノー。建築家はその通りの建築物に目を惹かれて、アイデアが浮かぶかもしれないし警察官は通りにいる人で怪しい人に目を向けて、警戒心を強めるかもしれないしティーンエイジャーは、通りのゲームセンターに目が行ってわくわくするかもしれません。同じ「通りを歩く」という行為であっても目に入るものも、感じることも違うので、別の経験となります。そして、例え、同じ聖職者が4人歩いていたとしても、見るもの、経験することは違ってくるでしょう。もちろん、仕事や年齢によって、傾向というのはありますが完全に同じということはありませんから。それぞれが持っている意識によって、経験が変わるのであってどれが「正しい経験」というのはないわけです。また、過去を変えることができるのは、意識を変えることで経験そのものを変えることができるということ。先日、2年前の日記にコメントを頂いて、久々にその時の日記を読み返してみてつくづくそのことを思いました。その時の経験を、今の私は、その日記に書いているようには受け取っていなかったからです。ここ1、2年の意識の変化が、大きかったのかそれともずっとそんな風に変化してきたのかはよくわからないのですがこれからも人生を通じて、一つずつ幻想を手放してゆくのかも。そして、今、多くの人が、自分たちが作り上げてきた幻想に気づき始めているように感じます。だからこそ、ヒーリングや瞑想などに取り組む人たちが増えているのでしょうね。そして、ヒーラーやセラピストにとって一番大切なことはこの幻想を見抜く力なのだなあと。もちろん、キネシオロジーの場合は、すべて筋反射テストでクライアントさんの身体が何を求めているか?を見ていくだけですからセラピストがあれこれ考える必要は全くないのですが人が顕在意識でわかっていることは限界がありますからセラピストが気づかなければ、セッションで行き着くところにも限界が出てきます。だから、セッションの中でのカウンセリングの際にクライアントさんから、何が起こったか、何が問題なのかを聞いてゆく際に私の意識のどこかで聴いているのは、起こったことそのものというよりその方がそれに対して、どう受け取り、どう反応しているか?ということ。それが「問題」としてあるというのは、何かがその人自身の中にあるということですから。起こったことや問題そのものに捕らわれてしまうと、その問題の本質が観えなくなってしまうのです。ヒーリングはけしてテクニックではないなあとつくづく感じます。ヒーラーがいかに様々な幻想から解放されているか、がすべてなのだと言えるのかもしれません。真の愛は、幻想の中にはありませんから。それでも、多くの人は、幻想の中で目覚めることを恐れます。幻想に気づくためには、まず自分の中にある問題に目を向ける必要がありますが「自分はポジティブな人間なので、問題は何もありません」と、問題そのものを否定しようとする時もあります。でも、そこに目を向けない限り、問題は形を変えあり続けるし、本当の意味でのポジティブにはなりませんから。もっとも、これは幻想だと気づいていながら、しばし、その中で遊ぶのも楽しいのですけれどねそして、どんな幻想であったとしても、いつかは目覚める時がやってくるのです。(死ぬまで目覚めないこともあるかもしれませんが)
2011年08月02日
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お金は、現代の私たちが生活してゆくために必要なものであってそれ自体には、汚いもきれいもないし、ただエネルギーであるわけですがこのお金という存在を通してできあがった幻想は、多くの人たちの深い闇を作り上げていると感じます。もしも、お金がないことで自分を卑下していたり逆にお金を持っていることで、自分自身の価値を保っているとしたらその幻想の中での苦しみから抜け出ることはできません。マチルダが「お金のためだけに働くのは、魂を売っているのと同じこと」と言っていましたが、お金の幻想にとらわれてしまうと本当に自分にとって必要なもの、大切なものが観えてこなくなります。以前、お金に関するワークショップでサイキックヒーラーのジョン、オリバーが「自分の嫌いな仕事をやっている人、手をあげて。もし本当に豊かになりたいと思うなら、明日、その仕事をやめなさい。嫌な仕事をしている限り、本当の豊かさも幸せもあり得ない」と言われていて、とても納得でした。例え心のどこかでは、今の仕事に満足していなかったとしても「給料が安定しているから」という理由で、新たな可能性に挑戦することなく、人生を終わってしまう人もいます。以前、90歳の方へのアンケートに「人生で後悔することはありますか?」という質問をしたという記事があり多くの人が「もっと冒険すればよかった」と答えたというのがありました。もちろん90歳からでも、初めて本を書いたり、講演をしたりと活躍される方はたくさんいますが、そのくらいの年になった時にまたは、この世を去る瞬間に「やりたいことはすべてやった。何も後悔することはない」と感じることができたとしたら、その人の人生は大成功だったと言えると思います。今やっていることに対して「もし90歳になって振り返った時に、今やっていることをどう感じるだろうか?」をイメージしてみることは今、何をするべきか?の選択をしていく際のヒントになるかもしれませんね。そして、また「お金がなければ幸せにはなれない」というのも幻想。先日、ツィッターでつぶやいたのですがドイツの元精神科医だった女性が、お金のない生活を15年続けているしかも、とても豊かに暮らしている、という記事がありました。読んでいない方は、ぜひ読んでみてくださいね。 ↓『まさに夢の生活。15年お金を使わずに生活するとても豊かな生き方」このハイデマリーさん、とても品があって本当に幸せな人生を送っているのだなあ、と感じさせる表情をされていますね。万が一の時のためにお金を持つという方がいますが「万が一の時のために」貯めておけば万が一のことが実際に起こります。宇宙は私たちの潜在意識が感じている通りのことを実現してみせてくれますから。仮に、もしハイデマリーさんが、交通事故にでもあって病院にかからなければならなくなったとしてもきっと世界中の人がヘルプしてくれることでしょう。これだけ多くの人に喜びを与えている人に対してはたくさんの人がサポートしたいと思うでしょうから。だから「万が一の時のために」お金を貯めておく必要はないのですね。お金を手放すことは、自分の人生を完全に信頼するということ。必要なものは必要な時に必ず与えられるという完全な信頼がなければできないことです。インドの聖者ならともかく、ドイツの精神科医というごく普通の人がこれを実現させているということに、とても感動します。さて、おさむに「どう、こんな生活してみたい?」と尋ねたら、「この人は(お金のない生活をするのが)仕事だからなあ」と言っていて、なるほど、それは私も同感でした。仕事というのは「他の人の幸せに貢献できる何かをする」ということ。例えば、子育ては、最高の仕事の一つ。ハイデマリーさんは、お金のない生活を自ら実現して見せることで多くの人が抱えているお金の幻想から抜け出すヒントを与えるための「仕事」をしているのだなあと。「お金がなければ、幸せには生きれない」「お金がなければ、何も手に入らない」そんな幻想の中で苦しんでいる人たちがそこから抜け出すためのサポートをするというこの大いなる使命とも言うべき「仕事」はこの方の行っている日々の生活そのものなのですね。時々、お金がもっと欲しいという方に「何のためにお金が欲しいのですか?」と尋ねると「南の島でのんびりしたい」「仕事をしないでいるため」などと答える方がいます。何かを実現するために必要なお金ではなく今の仕事が嫌だから、逃避したいだけなのですね。ハイデマリーさんは働くことが大好きだと言われていましたが、本来、仕事を楽しむことは、私たちが生きてゆく原動力です。本当に魂が喜ぶ仕事をやっていたら仕事をやらないためにお金が必要という発想はなくなります。その人に本当に必要なのは、お金ではなく心から楽しんで打ち込める仕事、なのかもしれません。「じゃあ、のりこはどう?こんな生活をやってみたい?」と逆におさむに聞かれてもちろん、今の私はヒーリングの仕事をやりたいし、そのためには、それを維持するスペースもエッセンスや様々な道具も必要ですからお金は必要だし、また絵を描くにも美しい地球を感じる旅にもお金は必要。(お金がなくてもできることもありますが)なので、今はこの方のような生活はできないなあと思いますがでも、もともとの私は、ハイデマリーさんのようにトランク一つでいつでも動ける生活というのが理想でした。(だから長い間、物を増やすのが恐かったし今でも家具や余計な電化製品は極力買いたくない人なのですが)物をもたないでいる生活に対する憧れは、昔からありますからやっぱりこんな生き方は憧れだなあと究極の断捨離ですね。(これを読むと、もっと物を処分したくなります)やりたいことを自由にやることができるというのが豊かさの一つの形だとすればこのハンデマリーさんは「お金を使わないで生活すること」がやりたいことになっていると言えるのかもしれませんね。だって、それは多くの人が持っているお金に対する思い込みや限界に気づかせることができる大きな仕事であり、挑戦なのですから。お金を持っていて実現する豊かさお金を持たないでいて実現する豊かさ私たちは、どちらを選ぶのも自由なのですがどちらも選ばない人たちがいるのです。(お金を持っていても豊かでない人はたくさんいますから)もちろん、お金が必要なら、お金を得ることは大切なこと。問題なのは、自分にはお金を得る能力や可能性がない、とかお金のためには、自分のやりたいことをがまんしなければならないという意識を持っていることなのです。それがお金に関わる幻想。その幻想から抜け出さない限り、本当に魂が望む生き方はできませんから。キネシオロジーのセッションでも、豊かになることを防いでいるものを手放すための調整は多いです。潜在意識で自分は豊かになれない、と感じていれば豊かではない現実がやってきます。その恐れや不安を手放してゆくことが本当に望む現実を引き寄せることにつながります。自分にとっての豊かさは何なのか、それぞれが自分の内と向かい合ってゆく。そしてその豊かさの実現を妨げている様々な思いや古い不要な考えを手放してゆく。そのことで、社会が抱えている様々な問題が解決に向かってゆくきっかけになるような気がします。
2011年07月20日
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私のところに、レイキやキネシオロジーに来られる男性はだんだん増えてきてはいるものの、男性はいまだにヒーリングやセラピーは女性がやるものと思っている人も少なくないなあと感じています。今、女性は、どんどん自分自身を深く知り、不要なものを手放し、変容していくことに意欲的に取り組んでいく人が多くて一般的に男性より遥かに自分を解放していっているようです。(もちろん、これはあくまでも一般的にであって解放していっている男性もたくさんいるのですが)男性の意識の向上をさまたげている理由の一つとして男のプライド、というものがあるように思います。この男のプライド、多くの男性に多かれ少なかれあるものですが例えば、男性は女性より経済力がなければならないとか男性は女性より知識がなければならないとか、男は強くなければならない、など既成の信念や考え方から、自分の弱いところを見ないようにしたり自分の中にある問題と向き合うことをやめてしまっているのです。もちろん、ヒーリングやキネシオロジーのセッションに来られる男性は問題を解決するために来られているのですから私は普段はそういうものを感じないでいたのですがプライベートな場でいろんな男性と会うと、時には何層にも重なったプライドの壁を感じることがよくあります。例えば、男性にとって、政治、経済の話に限らず、音楽であってもセックスのことであっても女性より知らないということがプライドを傷つけるので賢い女性たちは、そのプライドを傷つけないように上手く男性を立てて、男性に気分よく話してもらうために、例え、自分の方がそのことに関して、深く知っていたとしてもそのことをおくびにも出さずに「へ~そうなのね~」なんて男性の話を聞いてあげたりしているわけです女性にとっては、そういう男性のプライドもかわいいと思える時もあるのですがそれが度が過ぎてくると、成長や進化を妨げてしまうなあと。タントラの先生、カーラも「のりこ、男性にとって、女性からセックスを学ぶほど屈辱的なものはないのだから教えてあげているという感じではなくてとにかく相手をほめて、相手がリードしているかのように見せかけてこちらがリードしてゆくのよ」なんて言っていました。多くの男性が知っているセックスはAVから学んだ、いわば男性の欲望をかきたてる映像ぐらいのものでしかなく、ほとんどの男性は、女性の身体のことも、セックスのことも知らないのですが、セックスについて知らないとか学びたいなどと男性はなかなか言えないのですね。カーラに「私の彼に限っていえば、男のプライドは全くないから大丈夫。たぶん、彼は私から喜んで教わる人だから」と言うと、「それはすごいわね。そんな男はアメリカ人には滅多にいないわ」と言っていましたが、日本人もその点は同じかもしれません。おさむは、私と出会った時から、本当に驚くほどそのあたりのプライドは欠落していてそれはある意味、すごいと思っているのですが。よく「仕事にプライドを持て」などと言われますがここで言われているプライドというのは、「自信」のことなんじゃないかなあと。プライドと自信は別のもの。自信は誰かに対してではなく、自分の内から出てくるものであるのに対してプライドは、自分以外の誰かに対して感じている意識。だから、自信は証明を必要としないのに対してプライドは、他の人に自分の素晴らしさを証明しなければならなくなります。例えば、仕事でのミスを同僚から指摘されたとしても自分の仕事の能力に本当に自信を持っていたとしたら素直にそのミスを認めて、次につなげることができるでしょうしもし、その指摘が間違ったものであったとしても相手にそれはミスではないことを冷静に伝えることができたりしますがプライドだとしたら、自分を馬鹿にされたという気持ちからミスを指摘した相手に怒りの感情が湧いてきてそれを認めたくない気持ちになります。素晴らしいヒーラー、セラピストと言われるような人の中にさえこのプライドが魂の成長を止めてしまっている人もいます。自信は失うことはあっても、傷つかないですが、プライドは傷つきます。余計なプライドがなければ、「プライドを傷つけられる」こともないですから本当の意味での強さにつながるなあと。プライドの高い人間に接する時には、周りの人たちはそのプライドを傷つけないように、自然と気を使っていますよね。なので、本当にその人にとって、大切なものに気づくことはできなくなります。もちろん、ここでのプライドというのは「人としての基本的な権利」や「人間としての尊厳」というようなものは別の話であって、人として尊重されないことに対しては、きちんと向かっていく必要があると思います。以前、ここでご紹介した『パワーかフォースか」にもプライドの意識レベルについてあらわされていました。 レベル 20 恥 レベル 30 罪悪感 レベル 50 無感動 レベル 75 深い悲しみ レベル 100 恐怖 レベル 125 欲望 レベル 150 怒り レベル 175 プライド レベル 200 勇気 レベル 250 中立 レベル 310 意欲 レベル 350 受容 レベル 400 理性 レベル 500 愛 レベル 540 喜び レベル 600 平和 レベル700~1000:悟り人にとってプラスになる意識レベルである「パワー」は200以上、マイナスの意識レベルである「フォース」は200以下。プライドは175で、恥や罪悪感よりは意識レベルは上ですが、分岐点である200より以下です。「パワー」になるまでには、あともう一歩というのがとても納得です。ブライドを手放すということは、自分の中にある恐れや人からの評価にこだわる気持ちを手放してゆくということ。私たちがこれからさらに成長してゆくために不必要なプライドは、勇気を持ってどんどん手放してゆけたらいいですね。
2011年07月09日
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言葉はエネルギーですが、そのエネルギーは言葉自体にあるのではなくて、その言葉を発する人がどういう意図でそれを使うかによって、その方向性が決まってきます。例えば、自分の通りたい道に人がいて通れないような状況で『Excuse me』(失礼します)と言って通らせてもらう時口で言っているのは「エクスキューズミ~」であっても人によっては、「ちょっとそこじゃまなのよ、私の通り道よ、のきなさいよ」と言うエネルギーを発している人、NYには、時々いますそういうエネルギーの言葉は、やっぱり心地悪い感じがしますよね。言葉そのものが別に悪いものでなくても、そのエネルギーが相手を批判したり、攻撃するものであったらそれは、やはり、攻撃していることと同じになります。例えば、おさむはよく私に向かって「のりこは、ほんとばかだなあ」とか「あほやなあ」とか言うのですがそれは、私にとっては「お人好しやなあ」とか「一生懸命やなあ」という時に使う愛情のこもったエネルギーなので、全く傷つかないし、逆にちょっとうれしくなりますその言葉自体ではなく、そこにどんな想いや意図をこめるか?によって伝わるものは、全く変わってくるなあと。でも、その言葉のエネルギーに関わらず、言葉そのもので反応する人が案外多いようです。誰々が~~と言った、というその~~の部分にこだわって「あんなことを言うなんて許せない」とか「ひどい」などとなることがありますが、相手がどういう意図や想いでそれを伝えているのか?を感じ取れないと、コミュニケーションは行き違ってきます。そもそも、言葉の定義は、ひとそれぞれ全く違うものなので自分が受け取っているような意味で相手はその言葉を使っているとは限らないのですから。先日、「五体不満足」の著者、乙武洋匡さんのツィッターで、それを象徴するかのような、やり取りが繰り広げられていました。彼は、半ば冗談で「よく考えたら、「アホの坂田」って、すごい通称だよなぁ。そんな名前で親しまれるって、ホントに人柄だと思う。うーん、僕だったら…「カタワの乙武」?これじゃ、テレビ出れないか(^o^;」とつぶやいたのですがそのつぶやきを見たひとの中で「かたわなんて言葉を使わないで。悲しすぎる」と反応した人がいてそれに対して、彼がいくつかのメッセージを伝えていました。そのやりとり、こちらの中から一部抜粋。「カタワ」を「障害者」に変え、こんどは「障がい者」に変える。そうやって、やわらかい言葉にすり替えることで、本質を見て見ぬフリする風潮。それで何か解決するの?声高に「差別用語は良くない」と叫ぶ人ほど、「私は差別してないです」というポーズを取りたいだけだったりする。無意味だよ。「背が高い」って、ただの身体的特徴を指す言葉だけど、たとえば背が高いことを気に病んでいる女の子には、使うべきじゃない。でも、だからと言って、誰も「背が高い」という言葉を「差別用語だ」とは言わないよね。言葉とは、そうして相手との関係性によって選び、口にするものだと思うんだ。「カタワ」と言われても何とも思わない人もいれば、「障がい者」という表記でも、傷つく人がいる。結局は、目の前の相手がどう思うかを想像し、言葉を選んでいくしかないのに、「カタワ」はNGで、「障がい者」はOKと誰が決めたのか。誰の感情に合わせた線引きなのか。まったくわからない。「傷つく人がいるから、公の場で使うべきでない」なら「背が高い」「おぼっちゃま」「色が黒い」だって、公の場で使わないほうがいい。その言葉で傷つく人も、少なからずいる。でも、そんなのバカげているでしょう。目の前の相手の気持ちを考えて、言葉を選ぶでしょう。僕らには、その力がある。なのに、障害者に関する呼称については、一対一の関係性を無視して、一律に、社会的に、「カタワ」「めくら」「つんぼ」はNGとされる。それが、なぜなのか――という疑問を提示したいのだ。その決めごと自体が、障害者に接することを腫れ物にさわるような関係性にしてしまっていないだろうか。誤解のないよう言っておくが、僕は他人様に向かって「カタワ」だの「ダルマ」など口にしたことは一度もない。すべては、自分について。それでも「そんな言葉使うべきじゃない」と言う人がいる。「傷つく人がいるから」と。それなら、「僕は背が高いんだ」も言えなくなる。その語に傷つく人がいる。相手を傷つける言葉を言っちゃダメ。そんなの当たり前。小学校で習ったでしょ。でも、相手がどんな言葉に傷つくかは千差万別。その関係性から探っていくしかない。そこに思いやりが生まれ、ひょっとしたら愛が生まれる。でも、対障害者には、初めからオールNG。「探っていく」が飛ばされている。障害者だって、一律じゃない。言葉に無頓着な人もいれば、傷つきやすい人もいる。差別用語って、そんな当たりまえの前提を無視した決めごとのような気がして、僕は好きじゃない。一人ひとり、目の前の相手を見て、感じて、言葉を選ぼうよ。そんなの、相手が健常者だって、障害者だって、同じだよ。これは、もともとが乙武さん特有のメッセージ性を含んだジョークと言うか、彼だからこそ、「かたわ」などという言葉も使うことができると思うのですがこういう言葉を使うことで彼は、障害者に対して、腫れ物に触るような扱いは必要ないことや障害というものに対する人々の認識そのものに警告を鳴らしているように感じるのです。だから、こういった反応があることは、彼の中では、想定内の展開になっているのかもしれないなあと。随分、昔のことですが、チェロキー族の黒人のミュージシャンオスカーブラウンと一緒にCD制作をしていた時期があってよくオスカーとご飯食べに行ったりしていたのですが彼がよく言っていたのは「のりこ、黒人を差別するやつらに会うと、すぐに感覚でわかるんだよ。そして、そういうやつらに限って、言葉はとても丁寧なんだ」と言っていたのを思い出します。言葉が逆に丁寧になるのは「私は差別していない」というポーズのためなのですね。乙武さんが、ここでこのように言われているのはたぶん、そういう人の言葉の奥に潜んでいるエネルギーをこれまでたくさん感じて来られたからなのだろうなあと思うのです。乙武さんの言われるように、言葉は、それを交わす二人(またはそれ以上)の間でどういう関係性があるか?で変わってくる生もの。同じ言葉が、その二人の関係によっては、愛情表現にもなるし差別にもなるしその時々の感情や想いによっても、変わってくるでしょう。例え、同じ言葉でも、違う人から言われたら全く違ったものになるのですから。すべてはエネルギー。口でどんなに上手く言い繕ったとしても私たちが心で感じていることは、すべて相手にエネルギーとして伝わってゆきます。(例え相手が意識上ではっきりとは自覚していなくても)逆に、相手の発した言葉そのものにこだわって「傷つく」という選択をするのは、無駄のような気がします。いえ、本当はそれも無駄ではないのですがなぜ、その言葉に反応したのか?を自分の中に見てゆく必要があります。そして、相手は、そんな風に受け取られるなんて、全く思ってもみないのかもしれないということを意識してみると、何かコミュニケーションの切り口も見えてくるかもしれません。だから、言葉そのものにとらわれず言葉の中にあるエネルギーを感じることが大切だなあと。対面でないと言葉のエネルギーは伝わりにくいですが文面でも、全体を読んでゆけば、ある程度、伝わってきます。(でも、文面での言葉のエネルギーは時々限界を感じますが)言葉はかなり限定された、プリミティブなコミュニケーション手段。未来の私たちは言葉を越えた「ホリスティックな」コミュニケーション手段が(例えばテレパシーのような)できるようになるかもしれない、ずっと、そう思ってきたのですが実は、もうすでに今、私たちの多くはそれを自然とやっているのでしょうのね
2011年06月30日
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悲しいことがあった時、怒りたいことがあった時素直に悲しみや怒りを感じることって、とても大切なことだと思います。相手の気持ちを考えすぎて「あの人も悪気はなかったのだし」とか「自分ががまんすればいいことだ」と自分の感じている怒りや悲しみを抑え込んでしまうとそれは、潜在意識の奥深くに根付いてしまいます。先日、セッションに来られた方がお話してくださったのですが子供の頃、友達に自分の大切なお財布を盗まれたことがあって彼女は盗まれた事実そのものより、信頼している友達がそんなことをするんだという事実にショックを受けたそうなのですがそのことをお母さんに話した時にお母さんはすぐに「盗んだ友達のお母さんの気持ちを考えなさい」と言ったのだそう。お母さんとしては、たぶん、彼女に慈悲の心や思いやりの気持ちを持ってほしかったのでしょうが、子供としては、自分の感情の持っていく場所がなくなって自分に問題があるのだ、とか、感情を表してはいけないという意識を潜在意識の中に持ってしまうことになるのです。だから、これまでの人生を通じて、例え人に理不尽に扱われたとしても、怒りを表すことができなかったと言われていました。もちろん、最終的には、盗んだ人の気持ちも理解しよう、となるのはいいのですがまずは、自分が感じた怒りや悲しみをそのまま受け入れるという過程が必要だなあと感じます。だから、親は子供をありのままに受け入れることが何よりも大切だなあと感じるのです。子供がありのままに受け入れられなくて、大人になると、ありのままの自分を認められなくなるしいつも人からどう見られるか?評価されるかがその人の人生を左右することになってしまいます。もう20年近く前に読んで、長い間、バイブルだったリチャードバックの『イリュージョン』の言葉の中に「君たちはもちろん、学習者であり、実行者であり、教育者であっていかなる種類の生や死を選ぼうとも自由だが義務というものがあるとすれば、自分に忠実でなければならないということそれ一つである」というのがあります。自分に忠実に生きる。これは、難しいものかもしれないなあと。自分の心に正直に感じたことを周りに伝えたために拒絶されたり、批判されたり、逆に誤解されてしまったりすることがあります。適当に相手に合わせて、コミュニケーションしておいた方が波風はたたずにすむでしょうが自分の中に伝えなかったという想いは残ってしまいますし本音でつきあうという真のコミュニケーションはできないように感じます。もちろん、相手が全くそれを受け入れられないとわかっている場合は時期を待つことも必要かもしれませんが私は自分の感じたことを率直に伝えることがその人と真摯に向き合うということにつながると感じる場合はその人を信頼して、伝えることを選びます。信頼して伝えても、相手がまだそれを受け入れる準備ができていない場合特に相手が、何かを失うことを恐れていたり、虚栄心やプライドにとらわれていると、それを受け入れることができず拒絶されることもあります。きっと大丈夫だろうと信頼して伝えたのに、やっぱり受け入れられなかった、拒絶された、誤解されたそういう時は、やはり一瞬落ち込みますがそれもまた私が受け入れなければならないこと。「行為を憎んで人を憎まず」という言葉のように例え、その行為は嫌いというのはあってもそれによって、その相手そのものを否定しないでいたいと私は思うのですが、多くの人は、相手の言動によって、相手そのものを否定します。でも、例え、私の言動が相手に受け入れらず、私の存在そのものを否定されてしまったとしてもそれは、相手が悪いわけでも、私が悪いわけでもないですしそこに癒されずに残っているものがあるというだけのこと。先日、信頼するサイキックヒーラーの友人が久々に会った時に、私へのメッセージと「今、相手がわからなくても、5年後、10年後にわかってもらえればいいんだから」そんな風に言ってくれて、思わずぼろぼろ泣きました。彼女に具体的なことを何も話したわけではないですし私自身もその時に、何かを抱えていたわけではなかったのですがきっと彼女自身がそういう想いを持って生きて来た人だから私の中に何かを感じたのでしょう。それが本当に愛からの行為なのか、そうでないのかそれだけが伝える時の判断基準だなあと思います。そうやってみてゆくと、人って本当に面倒な生き物だなあと。もともと一つのものだというのに、分離の状態でいるためにあれこれ、相手はどう感じるだろう、とか考えなければならないのですから。この一つの意識をみんなが感じることができたならどんな自分であったとしても、受け入れられるという圧倒的な安心感を誰もが持つことができたなら私たちの世界は一瞬で変わってゆくのでしょうね。
2011年05月13日
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震災以来、NYの日本人の方と会うと原発、震災の話題になることがよくありますがNYのみなさんがよく言われているのは、一般的に日本に住んでいる人よりもNYに住んでいる方たちの方が原発や被災地の現状について危機感を持っている人が多いということ。私はツィッターでもFacebookでもミクシィでもつながっている方の多くは、そういうことに対しての意識を持っている人たちなので様々な情報が自然と入ってくることもあって日本でもみんな危機感をもっているのだろうなあと思っていたのですが実際はそうではないとのことで、東京などでも、被災地に対して、全く人ごとのようだったり原発に対する危機感も持っていなくてNYの方たちが、日本の友人や家族に向けてそういう情報を伝えると、「おおげさな反応じゃない?」と言われることもあるそう。なるほど。情報をどう伝えるのか?どこまで伝えるのか?というのは、私はいつも考えるところで、必要以上に不安にさせてしまったり知っても対策が立てようがない事実を伝えても意味はないかもと思うのですがこれだけの状況になっていて、その認識がない、全く危機感がない知ろうともしないというところに、私たちの抱えている闇の深さを感じます。といっても、ネットなどを通じてしか、今、何が起こっているか?を知ることが難しいのも事実。見ていると、日本であちこちで起こっている脱原発デモも参加している人の多くは若いネット世代。昔はよく「最近の若いものは」なんて、若い世代を批判する言葉として言われたものですが最近は、全く逆だなあと。やはり若い世代というのはこれまでの既成概念に捕らわれない柔軟性を持っている人も多いし必要な情報を収集する能力も、また、地位や名誉という失うものがない強さから行動にも結びつきやすい。と、こちらは今日のニュースの中で心に残ったもの。内閣官房参与 抗議の辞任内閣官房参与の小佐古敏荘・東京大教授(放射線安全学)は29日、菅直人首相あての辞表を首相官邸に出した。小佐古氏は国会内で記者会見し、東京電力福島第1原発事故の政府対応を「場当たり的」と批判。特に小中学校の屋外活動を制限する限界放射線量を年間20ミリシーベルトを基準に決めたことに「容認すれば私の学者生命は終わり。自分の子どもをそういう目に遭わせたくない」と異論を唱えた。「年間20ミリシーベルト近い被ばくをする人は原子力発電所の放射線業務従事者でも極めて少ない。この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたい」と主張した。ああ、内閣にも(東大にも)こういう人間的な心を忘れない人っているんだなあと。いや、原発安全、放射能問題なし、と言っている人たちももしかすると、心底、本当に安全だと信じて言っているのかもしれないしそうでなくても、いろんな事情でそう発言せざるを得なくて内心は罪悪感で苦しんでいるのかもしれないなどといろいろ想像はしてみるわけですがそんな中で、自分の立場を捨ててでも、人間的な心からこれを許すことはできないと訴える人がいる。そう、いつだって、こういう人たちがたくさんいたよなあと。そのことが、単純な私はやっぱりうれしくて、また今日もジーンと感動。こういう方たちが発言することで、人々の意識もまた変わってくるなあと。それでもやっぱり、現実を知ろうとしない人たちもたくさんいるわけですがけして、その人たちが悪いということではなく見ないようにして自分自身を守るしかない状態、ということもあります。だから、それを批判するより気づいた人たちが、今できることをやってゆくだけだなあと。最後にこれは、今日、私の友人が、Facebookであげてくれていた内容です。道徳的か否かを知りたければ動機を見よ。カントによれば、ある行動が道徳的かどうかは、その行動がもたらす結果では無く、その行動を起こす意図で決まるという。大事なのは動機であり、その動機は決まった種類のものではならない。重要なのは、なんらかの不純な動機のためではなく、そうすることが正しかったという理由で正しい行動をとるかだ。「たとえこの意思がその意図を実現するための力をまったく欠いていたとしても、あるいは最善の努力を払ってもなお、何も達成できなかたっとしても、その意思はあたかも宝石のように、すべての価値を内包するものとして、それ自身のために輝く。もし義務以外の動機、たとえば私利から行動しているなら、その行動に道徳的価値は無い。カントに言わせるなら、これは私利だけではなく、必要性、欲望、選好、生理的欲求を満たそうとするあらゆる試みに当てはまる。カントはこのような動機、彼によれば「傾向性の動機」を、義務の動機と比べ、義務の動機から生じた行動だけが、道徳的な価値を持つと主張する。(今を生き延びるための哲学)マイケルサンデル(鬼澤忍訳)早川書房 (p.146)私はこの本を読んでいないので、作者の真の意図というのはよくわかっていないし、カントも哲学的な話も得意ではないのですが、ここでいわれている義務というのは、他者から与えられた義務ではなく、自分自身の内なる声に従うという義務だと私は解釈しました(全然違うかも)つい、私たちは「そんなことして何になるんだろう」とか「こんなことが人に貢献できるとは思わない」とか結果ばかりを考えがちですが、動機がすべてなのだということ。そして、その動議は、自分自身の本質に従うという義務に基づいていること。例えば、道を歩いていてゴミを拾うという同じ行為をしたとしてもそうしなければ、人から非難されるのが怖いから拾うのかまたは、人からいい人に見られたいからそうするのかまたは、美しい街にしていこうという意識からそうするのかによって、それは全く違ったエネルギーになってくるということ。カントはそんな風にはけして言わなかっただろうけれど結局、言い換えれば、その動機が愛に基づいているかどうか?ということなんじゃないかしら、と思うのです。ですが、愛に従うことができる人というのは魂の本質とは違うもの、(例えば虚栄心であったり、偽善であったり、恐れであったりそれはいろいろありますが)を手放すことができた人のみなんですよね。結局、一人一人の意識が変わらなければ社会も変わらない今日もそこに行き着くのです。それぞれの行為が、例えどんな結果をもたらすものであったとしてもその動機が愛であったなら、それは瞬時にすべてを高次のものへと高め、最終的には、様々なレベルで変容させてゆく。そんなことを感じています。
2011年04月29日
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このところ、私にしては珍しくブログのアップが滞っていました。よし今日はこれについて書こう~と、とりあえず、ざざ~と書いてはみるもののまた後でゆっくりアップしよう、なんて思っていると、数時間後には、その内容は何か違うなあ~という気がしてきて、アップするのをやめる、というのが続いていて、いくつも記事は書いているものの、アップしない日が続きました。こんなことは私にとっては初めてのことだなあと。これまで書いてきたように、一つの立場で書くと、別の立場での見方が否定されてしまいがちになることは、充分に承知の上でいつも書いているのですが、特に今の時期は、それをどう自分の中で統合させ、伝えてゆくのか難しく感じます。やっぱり、ここしばらく、私がよく見ているのは、原発、震災関係のことで先日、ツィッターで出回っていた「心からの叫び、元原発技術者菊池洋一さんの訴え」の映像なんて見ていると今、もうかなりまずい状況なのは事実なので「ひや~これを伝えなくては~~。今、浜岡を止めないと大変なことになる~ブログをやっているのに、今、これを伝えなくてどうするんだ」という気になってきて、そういう内容についてあれこれ書いてみるわけです。一方で、「どこのブログをのぞいても、震災、原発のことばかりで心が休まらない」なんていう声もあってなるほど、今、それぞれが普通の生活をしてゆくことが大切だ、と言いながらそういう話題ばかりみんなが書いていたら、普通の生活もできなくなるよなあなんて思うと、さっき書いたばかりの内容もアップするのをやめようという気になります。かといって、震災や原発のことに全く触れていないブログを読んでも『「普段と全く変わりない、それでいいのか?」と何か納得できない感覚が残る』というご意見もあり、確かに、それに触れないようにしてみてもそこに「ある」のは確かなことなんだから、避けてみても仕方ないなあ、なんて思ったりもするわけです。先日の夜は、久々のおさむへのセッションを行いました。彼も、珍しく、最近、何か焦りやイライラが出てきた、というのでそれについてセッションを行ったのですが最終的に、彼の身体が選んだ今回の目標は「どんな状況でもすべてを天にゆだねる」彼は震災前は、焦りも怒りもなかったし日々、喜びに満ちていたとのことですが震災が起こってから「結局、自分は何も貢献できていない」という無力感から、そんなふがいない自分に対して怒りの気持ちが出てきたのだそう。最近、13人のグランマザーの映画やその他、環境や震災のために動いている素晴らしい人たちの映像を見たり、聞いたりしたので余計に、自分へのいらだちの気持ちができてしまったようです。あまり周りの影響を受けないおさむでさえ、こういう影響を受けていたのですから多くの人が受けているのは当然のこと。今日セッションに来られた二人の方も、やはり震災後から、「何かしなければ、という焦りや自分にはそんな力はないという無力感があってとにかく募金活動をしたり、あれこれ動いていて落ち着かない日々を過ごしています」と言われていました。日本にいる日本人と(それも地域によっての違いはあるでしょうが)またNYにいる日本人と意識が違うでしょうがむしろNYにいる日本人の方が、何もできないという焦りや無力感を感じているのかもしれません。募金活動などを行ったり、原発についての情報を周りに伝えていこう、という方はやはり、愛がある方ですし、素晴らしいのですがでも、その一方で、そればかりになっているとそれぞれの生活ができなくなってしまいます。私もここしばらく、昼はセッションやクラスがあるので夜、義援金のためのアートイベントに顔を出してみたり売り上げを寄付するレストランに出かけてみたり家ではずっと震災、原発情報ばかり見ていたので他に何もできないでいたのですが先日「自分のために何かをしてゆく」というテーマをつきつけらてから、できるだけ自分のための時間を取ってまた新たな意識でスタートしました。今回の震災、原発は、それぞれが内在している問題を深いレベルで浮き彫りにしてゆくように感じます。「震災によって、無力感を感じた」というより、もともと潜在意識のどこかにもっていた無力感が浮き彫りになった、ということかなあと。だから、今回のことは、あらゆる人にとって自分をあらためて、見つめ直す機会になるのかもしれません。例え、同じものを見ても、聞いても人それぞれ捉え方は全く違います。私にとっては、勇気がわいてくるような情報だったりハートオープンになるような内容でも別の人にとっては、逆に自分の無力感を感じさせるようなものになってしまったり。また、例え事実をそのまま伝えたとしても、それを、ただ悲劇だ、と捉えてしまうと、辛くなってしまうだけですがもし、これが新たな世界への変容のステップだと感じることができたならそれはまた違ったように捉えられます。だから、やっぱりいろんな次元で捉えてゆくことが大切だなあと。その一つは、これから、私たちの社会を変えていこう、例え、小さくても行動を起こしていこうという意識。こちらは、私がよく読んでいるてんつくまんのブログ。てんつくまんの「YES is LOVE」動けば変わる。てんつくまん「天国はつくるもの』てんつくまんについては、あちこちで講演されているのでご存知の方は多いでしょうがもし、ご存知ない方はこちらの講演映像をどうぞ~さすが、もと芸人さんですから、話がとってもおもしろいし、引き込まれます。「この世に変わらない人はいない。 絶対に変わる」彼のこの言葉に勇気をもらいます。こちらは、復興の狼煙ポスター。悲しんで泣くのではなく、温かなエネルギーに感動して泣けてきました。「一緒に悲しむことよりも、あなたの仕事を一生懸命やってほしい。それが沿岸を岩手を元気にする力となると思うからボランティアも、人を助けることも本当に素晴らしいことだけれど自分が癒されない部分を、人を癒すことで埋めようとするのではなくて自分が満たされ、ハッピーでいるからこそ本当の癒しを、喜びを周りに与えていけると感じます。一方、こちらは、シャーマン、キーシャからのメッセージ映像。part1『今、マザーアースが体験していること:日本での震災』Part 2『マザーアースと日本の祈りと瞑想』「意識を高く持ち、何が起こっているかその大いなる目的にフォーカスしていかなければなりません。実際この嵐を乗り越えるのは簡単なことではありません。これはたいしたことではない、、、ということはできません。なぜなら重大な出来事だからです。でもこの後にやってくるのは、私たちが見たこともない素晴らしい世界なのです。私たちが美しい虹を見るためにはこの嵐を乗り越えなければならないのです」キーシャは、ネイティブアメリカンのお母さんから教えを受け今、新たな世界に向けての変容をサポートするために世界中で活動されています。他の映像もおすすめ。特に「クリスタルの目的について」の映像祈りをこめたクリスタルを川に流して、地球を浄化していくというのを紹介されていて私も今度やってみようと思っています。私はてんつくまんの人間味あふれる愛も好きですし一方で、すべては母なる地球の進化のプロセスであるというキーシャの魂レベルでの愛もしっくりと私に入ってきます。例えて言うなら、てんつくまんは3次元的愛のあり方そしてキーシャは5次元的愛のあり方、かしら。なので、私は常に両方の立ち位置でいたいなあと。祈る時は、5次元的愛のあり方行動する時は、3次元的愛のあり方というように。今、被災地への支援も、原発を止めるために少しでも動くことも大切なことは確かだから、できる人はできるだけやってゆくその一方で、今、それぞれに与えられているテーマに取り組んでより深く自分自身の内面に目を向けながら常に自分の心が喜びに満ちているように今、この大切な変容のプロセスを楽しみながら進んでゆく。って、書いてみたもののバランス取るのってほんと難しいですねどちらにしても、私たちはいずれあちらの世界に旅立ちます。死としっかりと向かうあうことは、生をしっかりと生きること。悔いがないように、やりたいことはすべてやってゆきましょう。(この日記も読み返すと、何か上手く伝えていない気がするけれど。。。今日はこのままアップしよう~)
2011年04月19日
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最近、セッションに来られる方で、よく言われるのが「今は、自分がこれまでに抱えてきた悩みがとてもちっぽけに感じてどうでもいいことのように思います」とか「この時期に自分の小さな問題を相談するなんて、申し訳ない気がします」などと言われる方がいます。そのお気持ちはよくわかります。確かに、あんな映像を見たり、被災地の方々の大変な姿を見たり聞いたりしていると例え、自分が今のの仕事に全く満足していなくても、仕事があるだけ有り難いとなってくるし、例え、人間関係がうまくいっていなくてもそんなこともどうでもいいことのような気がしてくるでしょう。私とおさむは以前から「こんな風にできるなんてありがたいね~。幸せだね~」とよく言い合っていたのですが、最近は、何かにつけて「こうして温かな家でご飯が食べれるなんてほんと幸せなことだね」とか「いつでもシャワーを浴びれるのはなんと恵まれているのかしら』とか、いえ、そもそも命があるということは、なんとすごいことなんだろう、とか前にも増して感謝するようになりました。でも、感謝の気持ちは大切だけれどだからといって、自分が恵まれていることに罪悪感を抱いたり、自分に与えられている問題をないがしろにしていいということではないのではないかしら?と思うのです。もし、自分が被災したとしたら、まず生きていくこと、食べること家を確保することなどが当面の課題になるでしょうし仕事を好きなように選んだりすることもできないかもしれません。でも、今、その立場にない人が、被災した方たちの気持ちを想って満足できない仕事に妥協してみてもうまくいかない恋愛の問題をないがしろにしていても何も生み出さないし、むしろ、それは全体としてはマイナスのエネルギーになってゆきます。私たちはそれぞれに与えられた課題がありますから。今、目の前にある自分の課題に取り組みそれぞれにとっての豊かさを追求してゆくこと。自分にとっての豊かさが何であるかは、様々な形で変わってゆくことでしょうがでも、けして、問題を抱えたまま妥協したり制限したりすることを私たちの魂は望んでいない、そう私は感じます。それぞれが抱えている問題に小さいも大きいもありません。自分がこんなことは取るにたらないと思っている問題でも実は、深い要因につながっていることもたくさんありますし生きるか死ぬかのような問題でないとしてもその人にとって、人生の中でその問題をクリアにすることがテーマであることもあるのです。自分の内側にある問題に取り組んで、一人一人が完全に満たされていること幸せでいること、真の豊かさを実現していることその上で、できるサポートはやってゆく、それが、新たな世界に向けてのエネルギーになってくるそんな風に感じています。
2011年03月31日
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今日、おさむのレイキマスターコースが終了しました。いや~これまでのマスターコースの中で一番大変だったかもレイキマスターは100人いたら100人それぞれだと思いますし自分のやり方でやっていけばいいわけでどれが正しいやり方というのはないと私は思っています。ただ、先生としてレイキを伝えてゆくわけですから、クラスを受ける人たちがちゃんと理解して自分でレイキができるようにならなければならないわけでやはり、相手に伝える力が必要となってきます。いくらマスター自身が素晴らしくできていても、クラスを受ける方ができなければ意味はないですから。このあたりのことが、おさむにとってはチャレンジかもしれません。ギターにしても、あれだけ弾けるのに、これまで教えることに意識が向かわなかったのは、彼自身が教えてゆくこと、伝えることに苦手意識を持っていたからです。人に教えることも、伝えることも、経験を重ねるに連れてだんだん上手くなってゆくものですがちょっとしたポイントに意識を向けることで、かなり改善されてきます。例えば、シンプルな言葉でゆっくり話すこと。抽象的な言葉を使ったり、難しい表現をしても相手には伝わりにくいです。例えば、瞑想を指導する時など、一度にいろんなことを伝えても相手はついていけませんからゆっくり少しずつ、はっきりとわかりやすい言葉で伝えてゆきます。おさむは、何か説明しようとすると、え~と、あ~とかつっかかってしまって上手く言葉に出来ないというもどかしさを抱えているので自分の言葉がしっかりと伝わるように、最初は事前に何度も、実際に声に出して練習してゆくのが必要だなあと。頭の中で何となく考えていても、実際に口に出して話すのとは違いますから。そして、実際のクラスの中では、上手く説明するというより相手の理解に合わせて話をしてゆく必要があります。ティーチャーとして大切だと思うのは相手がどのくらい理解しているのかを認識しているということ。例えば、チャクラを説明するのに、最初からチャクラについてあれこれ説明する前に、まずはチャクラについて知っているかどうか?を尋ねて、相手が何を理解しているのかがわかればそれに合わせて説明することができます。人によっては、よく知っている人もいるでしょうし全く知らないという人もいるでしょう。クラスを受ける人によって話す内容や伝え方が若干変わってくるのは自然のこと。自分一人がいくら素晴らしい説明をしたつもりでいても相手には伝わっていないこともあります。クラスを受ける人を置いてけぼりにしないこと、例え質問しなくても、相手の今に気づいていることこれは、何のクラスを開く上でも大切だなあと。伝える力、話す力。私は書くことは、ほとんど自分の感覚と同時に言葉に変換できる感じで、とても早いのですが、話すのはどちらかと言えば苦手です。今、こうやってタイプしていると、感じていることをどんどん言葉に変換することができるのになぜか話すのは、自分の感覚をすぐに表すのはできないのですよね。レイキマスターとしては、もう慣れているので、これをどう説明しよう、などと考えることなく、話をしていますがそれ以外の様々な場になると、いきなり自分の話す力、伝える力のなさを感じることは多いです。20代の頃、デパートや地下街のコンコースやイベント会場などでデモンストレーターとして、大勢の人の前で話し演奏するという仕事を何年かやっていたのですが、もともとはっきりと通る声で話すことができない上に即興的なスピーチも苦手だったので、事前に何度も練習が必要でした。何でも練習していけば、それなりに上達してゆくものですが今から思えば、ブレインジムなどを知っていればもっと楽にやれたかもなあ、なんて思います。おさむは、今日のレイキマスタークラスのためにレイキに関していろんな本を読んで勉強しているしレイキも他のヒーリングも実践を重ねてきて彼自身の能力に関しては、もう全く心配ないので後は、クラスを受ける人にどう伝えていくか?ということのみ。でも、かなりやる気でいるので、きっと大丈夫でしょう。さて、そんなことをあれこれ思いながら、今日、齋藤慶太さんのブログをのぞいたらたまた慶太さんが、以前は、吃音だったというお話をyoutubeで言われていてびっくり。それをここまで克服されて、そして、こんなにバンバン多くの人の前で話をされているなんてほんと素晴らしいです。おさむのクラスの直後だったので、このお話はタイムリーでした。話すことが苦手だと感じている人たちにとって、とても勇気を与えるものだなあと。感動ですので、ぜひ、こちらの動画を見られてみてくださいね。何よりも大切なことは、何かを伝えたいという想い。それがありさえすれば、話す力も伝える力もレベルアップのために向かっていくことができますから。
2011年03月08日
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よく親の子供に対する愛は、無償の愛といいますしそれは、確かにそうなのですが案外、子供の親に対する愛の方が、無償の愛だったりするなあ、なんて、ことをセッションを通じて感じます。特に小さな子供にとっては、親の存在は絶対的なもの。その親が自分を認めていないと、大人になっても、自分自身を認めなくなってしまうし親が期待する自分になれなかったら、それに対する罪悪感を潜在意識のどこかに抱いていたりします。この親の望むような仕事をしていないとか親の望むような結婚をしなかったなど親の期待に答えていないことに対する罪悪感を持っている人は予想以上に多いです。小さい頃から、親が喜ぶから、親がそう期待しているから、という理由で、自分は本当はやりたくないことをやってきた人は大人になってからも、他人にノーと断れなくなってしまいます。ノーということに対して、相手を傷つけるのではないか相手の気分を害するのではないか、と感じ自分がやりたくないことを断ることに罪悪感を抱いてしまうのです。ほんとうに「ノーと言えない日本人」ですね。それぞれが求めているものは違うのですから相手の期待に沿って生きることは自分の身体や魂が望む生き方にはなりませんからそれを続けていると、どこかいつも満足できないし様々な問題が起こってきます。中には、無意識レベルで相手に罪悪感を持たせようとする人もいます。「あなたのために私はここまでしているのよ」「これはあなたのために言っているのよ」そういう風に言うことで、相手に罪悪感を抱かせコントロールしようとする意識が無意識に働いています。これは、親子関係にかぎらず、夫婦間でも、時には友人関係でもありえます。本当の愛ならば、けして相手に罪悪感を抱かせたりはしませんし自分の望む姿に相手を変えようとはしませんから。本当の愛は、相手が自分自身で気づいてその道を選択してゆく自由を与えてあげること。例え、自分から見て、どうみてもその道は間違っていると思ったとしてもその人が失敗から学んでゆくという自由を与えることも、大きな愛だなあと。その人がありのままでいられるようにするためには人に対してこうなってほしいという期待をすべて手放すことなのですがまあ、言うは易しでつい親しい人だと期待をしてしまうのですけれどねでも、人への期待を完全に手放し、相手に対しても自分に対しても、あるがままに受け入れることができたなら限りなく自由に楽に人生を歩いていけるようになるなあ、そんな風に感じます。だから、例え、人からこうなってほしい、こうやってほしい期待されたとしてもそれが自分が本当に望む方向ではないと感じたらやはり、ノーということが必要なのです。ノーということに対する罪悪感を手放す。相手の期待に沿えないことに対する罪悪感を手放す。私はもともと、嫌なことはいくら頼まれても引き受けないしノーと言える人だと思っていたのですがやはり相手の意向に沿わないことに対する罪悪感はどこかにいつもあったなあと最近になって気づきました。例えば、以前なら、答える必要がないと感じる質問のメールなどをもらって(たいていは、一度もお会いしたことがない方からのメールでちょっと自分で調べてみれば、すぐにわかるようなことだったり)それに対して返事を書かないでいると、「自分は親切ではないんじゃないか?人に対する愛が足りないのではないか」という罪悪感を感じてしまうので時間を削ってでも、あれこれお返事を書いていたのですが最近、気づくと、そういうメールにお返事を出さなくても罪悪感はすっかりなくなっていましたいくら丁寧にお答えしても、その後、どうなったのか、全くお返事が来ないこともあるし結局、相手の方も特に期待していなかったのに勝手に自分で期待に応えようとしていたところもあるのだなあと。自分で自分のイメージを作り上げていて(例えば、いい人のイメージとか)そのイメージに合わせようとしていたのかもしれませんね。ようやく私も、ノーと言える日本人になってきたかしら~と感じているこの頃です
2011年03月04日
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言葉というものは、とても制限があるものなので一つのことを言うと、その反対のことは否定されてしまいます。例えば「自分のために生きることが大切」というと「人のために生きる」ということは否定された形になるしまた、例えば「あなたは今のままで完璧です」というと「変容してゆくこと」は否定されることになります。以前は、この一見相反する捉え方を自分の中でどう統合させていくか?というところに意識を向けていたわけですがこれは相反するのではなく、別の次元で捉えているだけのことで両方ともそれぞれの次元での真理だ、ということがストンと腹におちてからは、その葛藤はなくなりました。例えば、先日「自分らしいというものは何もない」ということについて書いたのですが確かに、これは自分らしいと定義しているものなんて、どれも簡単に崩れさってしまうものであってまた、私たちの本質は、究極的には何の分離もないわけですが一方で、みんなそれぞれ個性があって、自分らしく生きてゆくというのも、その通りであって、それは別の次元での話です。以前、至福の体験をしたことをここでお話しましたがその時は、すべてが完璧であって、私は何一つする必要もないし何一つ変わる必要もないことを知らされました。その時におさむが「これでも(この体験をした後でも)のりこは、コンピューターに向かって、ぱちぱちやってブログを書いたりするわけ?』と私に聞くので「そんなこと意味ないよね~~。人に何かを伝えていく必要なんてないんだから。ぶぶ~何でそんなことやっていたのか、あり得ない~~」と2人で笑い転げたのですがところが、その意識から戻った途端、コンピューターに向かってやっぱりばちばちとブログをアップしていたわけですその時の感覚は完全ではないものの、今でもしっかりとあるのですが戻った途端、別の次元での意識が出てくるのですね。その至福の体験の最中に感じたのは、ヒーリングなんていうのも究極的には必要ないということでした。癒すべきものなんて、その次元ではどこにもないからです。もしそれがあるというのなら、それを含めても完璧だということ。ジル博士が、左脳の機能を失った途端、ニルヴァーナの境地に行ったのと同じようにもし私たちすべてが、今すぐ、この意識に行けるのだったら、何の苦しみも迷いも悲しみも存在しないわけでそれは、何か修行をして辿り着くものでも何でもなくすでに誰にとっても存在している場所なのですから。でも、一方で、ヒーリングによって不必要なものを手放し、自分本来の力を取り戻し、幸せな人生を歩いてゆくことができるようになるというのもまた別の次元では真理だと感じます。だから、あらゆることをいろんな次元で捉えてゆくと一見相反する答えが、出てくるのは自然なことで例えば、人間にはヒーリングが必要か?という問いがあったらその答えは、イエスであって、ノーでもあるなあと。さて、昨日のことなのですが帰りの地下鉄の中で、たまたまおさむの言った何気ない一言が、ひっかかったので「その言動は、私の存在をないがしろにしているように感じる」と、おさむに私の怒りを伝えたのですが、そう言いながら「私の存在って?一体、私は何を認めてほしがっているの?何を恐れているのかしら?」と自問自答している自分がいました。そう、あきらかに、反応していたのは、私の自我(エゴ)です。エゴは、自分を特別なものと認めてほしいのですねところが、おさむはその私の反応にあらためて自分の言動を振り返ってみて「悪かった」と言ってくれて、「おわびにサウンドヒーリングをしよう、いや、レインドロップしようか?」ということになり(それでレインドロップになったわけですが)あれ?たまには、自我のままに反応してみるのもいいかも♪なんて、超単純に思ったわけなのですがたぶん、おさむは、私が別の次元では、ないがしろにされているなんて感じていないことも、本当はそんな言動はどうでもいいと感じていることもよくわかっているのです。だからこそ、私も、彼には何をどう表現しても大丈夫だ、という安心感からすべてをそのまま見せているのだろうなあと。もし、彼が、私の別の次元での感覚を理解していなかったとしたら私の自我も出てこないのかもしれません。至福の体験をした時に感じたことはエゴを廃絶することではなくエゴがあっても、そこにあることを認めてあげればいいということ。究極的に言えば、誰かにために、という想いもエゴであり人をヒーリングしたいなんていうのもエゴなわけですから。それをどこかで認めた上で、自我の言う通りに~~したい、というのも、またこの人生では必要かなあと。キネシオロジーのセッションでもその人の身体が選ぶ目標が、どの次元での目標なのかはやはり人それぞれ。一つの問題に対して、あらゆる次元から見てゆくと結局、何でもありになってゆくので、どんな目標が出てきたとしても、おかしくないのですよね。ということで、いつも、こんなこと書いて何か意味があるの?とどこかで感じながらも、ブログをアップしているわけです。それは、けして、自己を否定するとか、認めないということではなくある次元ではこんなことは意味がないことだということがよくわかっているからなのですが。それでも、別の次元から見ると、私の感じたことを言葉に変換して伝えることにも少しは意味があるんじゃないかと感じているからこそ、続けているわけですがそれも究極的に言えば、自我の仕業と言えるのかもしれませんね。いろんな次元で捉えてみるということ。そうすれば、誰か素晴らしい人や賢者が言っていることのすべてを鵜呑みにして受け入れるというスタンスではなくいろんな人のいろんな部分を受け入れながら、自分なりの感覚を持つことができるそんな風に感じるのです。と、上手く伝わるのかどうか。う~ん、やっぱり、感覚を言葉で伝えるのは難しいですね
2011年03月01日
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今日の夜は久々に友人と会って、食事をしながら、あれこれと話し込んでいたのですがその話の中で「自分の考えや価値観は自分ではない」という話が出てきたのですがほんとうに「これが自分だ」と思っているものなんて実は何一つ、自分ではないのですよね。よく「自分らしく生きる」という言葉があってそれ自体は何となくいい響きに感じるのですが果たして「自分らしい」というのが、どういうものなのか?を見てゆくと、何も自分らしいものなんてないことに気づきます。例えば、私が「何かに向かって一生懸命にがんばる自分が自分らしい」と思っていたとしてもキネシオロジーのセッションの中で「がんばらなくては人に認められない」という思いこみが子供の頃の両親との間から生まれていてそれを持ち続けていたからがんばっていたのだ、ということに気づいてがんばることを手放して、生きるようになったらもう、がんばっている自分というのは、自分らしくないわけです。例えば、おさむが「一人でもくもくと何かをやっていくのが自分らしい」と思っていたとしても何かのきっかけで、人と関わってゆく喜びを知ったならもう孤独に修行をしてゆくことは、自分らしくはないわけです。その人がそれまで経験してきたことや、いろんな要因があって今、そんな風になっているだけであってその人の考え方や価値観と、その人の本質とは違うところにあるのですよね。状況や何かが変われば、全く違う考えや価値観が生まれてくるわけですから。考え方や価値観や行動はその人そのものを表していない、ということを理解すると例え、目の前に、自分とは全く違う考え方や行動をしている人がいてもそれを嫌だとか、いいとかならないわけなのです。そうすると、自分らしいってなんなのだろう、自分って何?と問いかけると、何も出て来ない。結局、自分を表すものなんて何もない、というところに行き着くわけです。だって、考え方や価値観や感じ方はいくらでも変化していくのですから。そうなんです。究極には自分と言えるものなんてどこにもないのですよね~と、こんな言い方をすると、哲学的に受け取られる可能性もあるのですがこのことは、キネシオロジーのセッションを行う上でもレイキのヒーリングを行う上でもいつもどこかで感じていることです。私の目の前にいる人の本質は、その人の今、持っている価値観や考え方や行動や抱えている問題とは別にあるということ。そのことがストンと腹に落ちた時、それが「今を生きる」ということなんだなあとと、そんなことをあれこれ語り合った夜でした。さて、明日もまた朝からセッション。限りなく、ニュートラルになって、魂の声を聞いてゆきたいです~
2011年02月22日
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以前にも何度か「価値判断を手放す」ことについて書いてきましたが、この考え方は正しい、この言い方は間違っている、その受け取り方は、間違っていると人を裁くこと、ジャッジすることを手放さない限り人間関係において問題はなくならない、ということをいつも感じます。自分と100%同じ価値観や考え方、感じ方をする人は誰もいないのですから。よく、あんなことを言うなんて信じられない、とかこんなことを言っていたから不信感を持ったとか言いますが人を信頼するというのは、人が自分と同じ考え方や価値観や感じ方をするということを信じることではなく全く違う価値観であったとしても、それは自分を傷つけたり、自分を否定したりしようとしているわけでではないということを信じるということだなあと思うのです。こういう不信感を抱いてしまう根底には自分と違う価値観や考え方や感じ方をする人に出会うとまるで、それが自分自身の価値観や考え方や感じ方を否定された、つまり、自分自身の存在を否定されたように受け取ってしまうことにあるのですね。そこに恐れが存在します。怒りの感情の多くは、自分自身を否定されている、という恐れから発していますから。これは時には、直接会ったことがない人に対してさえ、感じる感情なのかもしれません。例えば、全く会ったことがない人が、ブログに自分とは全く違う考え方について書いていたとすると、それをまるで自分の感じ方が否定されたかのように受け取って、その文を書いた人に対して、怒りを抱きます。逆に、自分と同じ、感じ方や価値観を持っていると思われる人に出会うと相手を「信頼」します。それは、自分を理解してくれた、自分が肯定された、という感情からです。でも、何かの言動で自分とは同じ価値観ではないとわかると不信感を抱くのです。「信じていたのに、裏切られた」と感じてしまうのですね。相手からしてみれば、自分自身はその人に対して何も変わっていないのに「勝手に」信頼されて「勝手に」不信感を持たれた感じになります。人を心から信頼することができている人は相手が自分とは違う価値観や感じ方をしているのがわかってもその人に対して不信感を持つことはありません。私たちは、みんな違う考え方や価値観や感じ方をするように生まれてきていてその中で、どうつながってゆくのか、どうコミュニケートしていくのか課題を与えられているんだなあと感じます。あ、念のために、こういうことを書くと、これは私に向けて書いたのではないかと個人的に受け取られることもあるのですがこれは、私も含め、多くの人が持っているテーマだと感じます。どうしたら、「人をジャッジする」ということを手放すことができるのかと昔から思っていたのですがそれには、自分の中にある恐れを完全に手放し相手がどう受け取ろうとも、自分自身を信頼していることが第一歩なのかもしれませんね。自分とは違う価値観や考え方を受け入れること。それが本当にできたなら、人間関係の多くの問題は解決するでしょうから。みんな価値観や感じ方が違うからこそ、人生はおもしろいのだなあと。やっぱり「みんなちがってみんないい」ですよね金子みすず「わたしと小鳥とすずと」 わたしが両手をひろげても、お空はちっともとべないが、とべる小鳥はわたしのように、地面(じべた)をはやくは走れない。わたしがからだをゆすっても、きれいな音はでないけど、あの鳴るすずはわたしのようにたくさんのうたは知らないよ。すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい。
2011年02月21日
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この日はバレンタインデーでしたって、実は、前日まではすっかり忘れてたのですがこの日の夜、7時ぐらいにはセッションが終了したので久々にご飯でも外に食べに行こうということになり、おさむと出かけてきました。この日のテーマは一応「ロマンチック」だったのですがお目当てのレストランは予約のみで入れずたまたま近くで入ったレストランが、超人気店で混雑していた上に、ロックががんがん流れているしまるで野球の話でもしたくなるかのような雰囲気で全くもってロマンティックのロの字もない~まあ、お料理はおいしかったのでよかったですが(花より団子?)タントラマスターとしては、パッションな日にしようと思っていたものの(←うそ)結局、家に戻ってからは、2人で宮崎駿のトトロを見て和んでいました。やっぱりトトロすばらし~~♪究極の癒しですね。あの日本の田舎の風景や音、匂いまで感じられるような感覚、最高です。(ああいうのを見ると、田舎に住みたくなるなあ)と話はずれましたが、今日は男女のコミュニケーションについてちょっと書いてみようかなあと。この女性が求めているものと、男性が求めているものって根本的に違うことが多いのですよね~女性にとっては、とても大事なことやごく当たり前のことでも男性にとっては、どうでもいいことというのがあります。例えば、女性にとっては、セックスはハートが開かないと受け入れられないので、ムードや雰囲気も大事だったり相手を完全に受け入れる気持ちが大切ですが男性にとっては、頭で感じますからそういったことは、それほど重要でなかったりします。また、これは、一般的にですが、女性は日々の生活の中での細かな愛情表現を必要とするのに対し男性は、そうではなく例えば、2年前に愛していると言ったから彼女も自分が愛していることはわかっているだろうなんて思っていることもあるのです。また、例えば、脱いだ洋服は、そのままにしないで洗濯かごに入れるとか食器を洗ったら、ついでに鍋も洗うとか女性にとっては、ごく当たり前の生活のことであっても男性にとってはどうでもいいことだったり。そういう時に、女性が「これをして、あれをして」と要求ばかりしていると、男性もまるで母親に説教されているようでうんざりしてきます。それで、だんだん適当に妻の話を聞くようになって言われたことを忘れる、実行しない、妻のの話をろくろく聞いていない、妻の方は、そういう彼の行動から彼は私を大事にしてくれない、私を愛していないんじゃないかという思いから、余計に彼の言動に対して腹がたってくる、彼の方も、いつも小さなことでイライラする彼女にうんざりしてくるそんな悪循環が生まれてきます。これは根本的な男女の感覚の違いから生まれるものなのでどちらが正しいとか悪いとかの問題ではないのですが女性の方も男性の方も、それぞれ自分の感覚が正しいと思っているとなかなか2人の関係は上手くいきません。この「彼が自分の話を聞いていない、ちゃんとわかっていない」という思いを持っている女性の方は、とても多いですがかといって、私ががまんすればいい、と伝えたいことを伝えないでいるとだんだん女性側にストレスが溜まってきます。そんな場合のコミュニケーションをどうやっていけばいいのか女性も男性も妥協や制限を感じないで、お互いが心地よいと感じる環境を作るにはどうしたらいいのかこれには、やはりコミュニケーションのためのちょっとしたスキルが必要になってきます。普通のキネシオロジーのセッションでは、基本的にクライアントさんに何かを教えるということはやらないですし、その方の身体が伝えていることをお伝えするだけですが私は、最近、男女のコミュニケーションに関しては、キネシオロジーとは別にコミュニケーションスキルを教えたりカウンセリングセッションを行っています。特に、私のところに来られる方のほとんどは女性ですので男性に対して、どのようにアプローチしていけば自分の想いや感覚をちゃんと伝えることができるのか?彼が喜んで話を聞いてくれたり、行動してくれるようになるのかそういったことを知るだけで、2人の関係が随分と変わってくるのです。もちろん、これは「彼を信頼する」とか「夫をありのままに受け入れる」とか「自分をオープンにしてゆく」「彼とのコミュニケーションを楽しむ」などが潜在意識の中でできていることが前提ですので必ず、IHキネシオロジーとともに行います。いくらスキルがあっても、心が伴っていなかったら意味はないのですものね。その上で、男女の感覚の違いを充分に理解しお互いにとって負担にならないようにアプローチしていくことが大切だなあと。先日、夫婦間のコミュニケーションに関するIHキネシオロジー+カウンセリングセッションを受けてくださった方からご報告を頂いたのですが前だったら、けして聞いてくれなかったようなことも夫が聞いてくれるようになったり2人で共通のことを楽しむことができるようになったりといった変化があったそう。夫婦の中が上手くいっていれば、もちろん、子供に対してもまた周りの人たちにもどんどんいい影響が出てきます。何にしても大切なことは、その男女の意識の違いを充分に理解し相手の反応を個人的なものとして受け取らないこと相手のどんな点であっても否定しないこと。男女の感覚は、違うからこそ、またそれぞれにとってのいろんな学びがあって、おもしろいですね~愛があれば、この寒さも乗り越えられるのね。
2011年02月14日
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昨日の夜、おさむの哀愁のあるギターを聴きながら、ノスタルジックな気分に浸っておりました。いやもう、わが夫ながら、天才です。(もう、ほめちゃうよ、ほめちゃうよ)15、6年ぐらい前最初に彼とつきあったのは、2人で音楽のユニットをスタートしたのが始まりだったのですが、その頃の私たちは、月とすっぽん(もちろん私が月)で何もかもが違う2人でした。それでことあるごとに衝突をしていたのですが「もう絶対にこんな男とはつきあわない」そう思ったことは数知れず。でも、そんな時に、彼のギターの録音を聴いていると「ああ、もうそんなことはどうでもいい。この音さえ聴けるのなら、他のことはどうだっていい」そういう気持ちになって、その度に、また2人の関係は復活するのでした。当時は、彼というより、彼のギターの音に心から魅せられていましたからもし音楽がなかったら、とっくに別れていたことでしょう。その頃の彼は、私と、いえ、人とちゃんと向き合おうとはしなかったし私をまるでギターの練習をじゃまする悪魔のように捉えていたのだけれど(いや、ほんとのことなのよ)そんな彼とつきあうことができたのは、彼のギターの音の奥にある、何か言葉では到底伝えれないものを感じていたからでした。でも、結局、最終的には上手く行かず、別れてしまって2年間半の間、別れていたことは前にお話したと思いますが(もういろいろ話しているので、何を書いたのか書いていないのか)その別れていた期間に不思議と全く違っていた2人の方向性が、同じ方へと向かい始め音楽にしか興味がなかった彼が、今のように瞑想やヨガやヒーリングなどに目覚めはじめ、人と向かい合うことに意識が向き始めたのは、この頃でした。(彼が、完全に修行を手放したのは、IHキネシオロジーのおかげだけれどね)今や、時々、どこからどこまでがおさむで、どこからが私なんだかわからなくなるほどの感覚ですが以前の「私とあなたは、違う」という意識を体験していたからこそ、今、この意識の素晴らしさを感じ感謝できるのかもしれません。そう、私たちの魂が、この宇宙の中で、本当は大きな一つの意識であってもこうして、別々の身体を持ち、別々の意識を体感することが最終的な一つのものを感じるためのステップというように。私にとって、おさむのギターは、そういった2人の歩んできた歴史と魂の旅を思い出させる音。別々だった頃の意識を懐かしく感じるなんて孤独だった頃の自分を愛おしく感じるなんて人間は、おもしろい生き物だなあと。今の彼の音は、昔の彼のギターよりずっと、音にやさしさと暖かさが加わってより深くハ-トに響いてきます。やっぱり音楽ってすごい♪一瞬であの頃の感覚に戻れるのだから。あの頃の夢は,世界中を演奏し、旅しながらいろんな人と出会い、感動を分かち合ってゆきたいそんなことだったのだけれどもしも、今から、それが実現できるとしたら私はそれを選ぶのだろうか?とあらためて問いかけてみたらもはや、それは私の夢ではなくなったのだなあと。それをやりたくないということではなく今は、日々のすべてのことが、私の夢そのもの。ヒーリングのセッションでいろんな人々と感動を分かち合っている時も歌を歌っている時も窓から差し込む冬の太陽の光を浴びている時もたた静かに呼吸に意識を向けている時もこうして、誰かに何かを伝えようとマックに向かっている時も一瞬一瞬のすべてが、存在していることへの祝福。そう、大切なのは、今、一瞬一瞬を「生きている」ということだけ。それは、ただご飯を食べて、生きているという意味ではなく本当に、この世界に、この地球に「生きているんだ!」という腹の底からわき上がってくるような感覚。これを感じるために私たちは、生まれてきたのだから。おさむのギターがなぜ、あんなにも私を魅了したのかが今では、はっきりとわかります。それは、彼自身が弾いていても、それを越えた大いなる存在からのメッセージだったから。彼の指を通じて流れる音は、けして彼の心だけを表しているのではなくもっと大きなものを伝えてくれていたのだなあと。もちろん、彼自身も当時は、ただひたすら練習の日々であって何も見えておらず、闇の中で、もがいていたのだけれどでも、その時期があったからこそ、今、光に包まれていることを知ることができたのだから。先日、おさむに、グループ6人でのサウンドヒーリングセッションのお申し込みがあったので私がコロラドに行っている間に、おさむは一人でそれを行ったののですがそれは、それはみんなものすごく感動してくれて私にその感動をメールを送ってくれました。私だけがこの音を感じるわけではなく多くの人が求めている音なんだなあと。神さまからのギフト昨日、ギターを聴きながら、またぼろぼろ泣きました。もしも、今、あなたが孤独を感じているのならそれは、いつか必ずやってくるワンネスへのステップ。もしも、今、自分がどこに向かっているのか不安に感じているのならそれは、いつかやってくる完全な安心感へのステップ。そうすべては変化してゆく完璧なペースで。光であっても、闇であってもあなたはすでに完璧な存在です。Blessings
2011年02月11日
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最近、つくづく感じるのは、いろんな人たちが気づき始めているというか、変容しているというのか、自分のことをもっと知りたいと感じている人や自分を変えて、もっと自由に人生をクリエイトしてゆきたいという人やこれまで、ヒーリングなどにあまり興味がなかったという方たちもよく来られますし、また、自分でもヒーリングを学んで人の役に立ちたい、という方も増えてきています。ここ1、2年そんなことを感じてきたわけですがIHキネシオロジーをやるようになって、さらにそれを実感しています。この素晴らしい変容の時代に生まれてきたことに大いなる祝福を感じずにはいられません。とともに、私もしっかり自分自身がぶれないようにいつも自分の中心とつながっていないとなあと。そのためにも、ちゃんと自分の休みを取らないと、ヒーラー&セラピストとしての仕事に影響してしまう、そんなことは充分承知なのですが気がつくと、来月も休みが2月28日のみでそれまで1日も休みなしという状態になっていました。(なっていましたって、すべて自分でそうしているわけですが)あさってからコロラドに6日間、行くこともあってどこかに出かけると、その前後はセッションが詰まってくるのはいつものことなのですが、さすがに何かやり方を変える時期に来ているということかなあと。それで、最近、考えていることの一つにこれまで、ずっとレイキのクラスは、プライベートクラスにこだわってきたわけですがそのこだわりを捨てて、レベル1、2に関しては2、3人のグループクラスにしようかなあということ。結局、今、レイキのクラスを受けたいと申し込みされても、1ヶ月以上待って頂かなくてはいけない状態ですから他の方のためにもなっていないのですよね。これまで、プライベートクラスにこだわってきたのは一人一人のニーズに合わせてやってゆきたい一人一人と向かい合ってゆきたいという気持ちからだったですがグループでも2、3人までの少人数だったら、ある程度それもできるしまた他の人とクラスを受けることで、別の気づきや学びもありますしね。もし、それができたら、私も少し時間に余裕も出てくるなあと。先日も書きましたが「こだわりを捨てて」新たな方法を見つけてゆく時期なのかもしれません。でも、ちょうど上手くそれぞれの日程や時間が合うかどうか、など問題はあるので、まだ、検討段階なのですが。さて、一方、レイキとキネシオロジーだけで一杯一杯でタントラはどのようにやっていくのか、ウエブは作るのか?などまだ、ほとんど決めていない状態だったのですが昨日、自分に対するキネシオロジーのセッションをやったら潜在意識の目標は「タントラを積極的に広めてゆく」ヒャ~やっぱり私の魂はタントラも積極的にやっていくつもりなのねサポートとして、出てきたカードはアトランティスカードで「そのことが、もっとも高い目的のために行われることを確認しなさい。あなたの力を人々を救うため使いなさい」というメッセージのカードが出てきて、がつんと言われた感じがしました。タントラのセッションは、場合によっては(というより通常は)私も相手も真っ裸になって行うわけで、私がそこまでやる必要があるのか?今の段階では、レイキとキネシオロジーだけで充分やっているしセックスが大事なことや、タントラが素晴らしいことは充分わかっているけれどそれを私がやらなくてもいいんじゃない?そんな気持ちがどこかにあって今一歩、積極的に広めていくことに抵抗を感じていたのことも事実なのです。(その割には、ここでいろいろ書いていますが)でも、そういう気持ちは私のエゴから来るものであって、私の本質はそれをやることを望んでいるからこそ、タントラマスターコースを受けたのでしょうしそれが宇宙の意志に従っていることなら、覚悟しなきゃいけないかなあと。(ここまでやっておいて、往生際が悪いんだよね~)そうと決まれば、まずはタントラマスターらしく、エロティックな私の写真つきのウエブ作りだな~(ってうそです)先日、ある方に「のりこさんは、セクシャルな雰囲気じゃない感じがいいですよ~」と褒められた(たぶん褒めてくれたのよね?)のでまあ、そういうタントラマスターもありかなあと。カーラ曰く「のりこみたいに、セックスに対してオープンな人は滅多にいないわよ。あなたは、まるで私みたい」だそうなのですが、このセクシャルな雰囲気じゃなくセックスに対してオープンというのもいいのかなあと。一方、おさむも先日、IH キネシオロジーで調整したのですが潜在意識の目標は「気長に構えてゆく」まるで、私と正反対の方向での調整でした。キネシオロジーでは、それぞれの今にとって、必要なものが出てくるわけですがおさむにとっては、今は、結果を焦らず気長に構えてゆくことが私にとっては、積極的に行動してゆくことが必要だということでしょう。まあ、修行体質だったおさむと違って、基本は怠け者で、ひたすら自分に甘い私ですから、こんな時期も必要ということかしらね多くの素敵な人たちと出会い、つながり一緒に変容してゆく素晴らしい機会を私に与えてくださって、本当にありがとう。らぶ
2011年01月30日
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人と人とのコミュニケーションの問題というのは、ほんとうに多くの人にとってのストレスの原因になっています。コミュニケーションが上手くできないことによって様々な誤解を生み出したり、それが感情面のしこりに繋がってしまいます。例えばAさんとBさんがいて、2人は以前、何度か他のグループと一緒に会ったこともあり、それから知り合ってメールでも時々、交流があったとします。ある日、Aさんは、どこかでお茶でもしませんか?とBさんを誘ってBさんがたまたま用事があったので、それを断って、それがたまたま2度続いてしまったとします。Bさんとしては、ほんとうに2回とも用事があっただけなのですが、Aさんは、「これは私と2人では会いたくないってことなのね」と理解し、もう二度と、私から連絡するのはやめよう、と決めます。Bさんの方は忙しいということだけでなく、どちらかといえば、連絡をまめに取るタイプではなかったために、そのまま2人は連絡を取り合わないことになり、2人の関係は終わってしまいます。Bさんの方は何となく終わってしまったなあと感じつつ、特に何も考えていないのですがAさんの方にはしこりが残ってしまっています。ここで、Bさんがまめに連絡を取るタイプではないということが、問題なのではなくて、Aさんが私ならこうするのに、という視点でしか見ていないとそうしないBさんを見て、自分はあまり好かれていないのねと判断してしまうということなのです。これはよくあることで、例えばAさんが自分の誕生日パーティにBさんを誘ったとして、BさんはAさんを好きなのですがパーティが苦手で、多くの人の中にいるのはストレスになるので、断ったとします。ですが、Aさんにとっては、「私の誕生日にも来てくれないなんて、あまり大切に思われていないのね」などと判断してしまうのです。例えば、私のところにもメールがよく届きますがセッションやクラスに関する質問などの場合は私もなるべくすぐにお返事を出すもののそれが近況報告だったりすると、後でお返事しよう、と思いつつ、忙しさでつい忘れてしまったりしますそういう時に「返事がないということは、私の書いた内容が何かのりこさんの気分を害したに違いない」などと判断し、心を痛めてしまったりする方もいるのです。(相手の方が、その気持ちを知らせてくれたので、わかったこともありました)女性は特にセンシィティブですから相手の言動の奥にあるものを読もうとして、考え過ぎてしまい、それが逆に、物事の本質を見失ってしまうこともあります。例えば、朝、夫がバタンと、荒々しくドアを閉めて会社に出かけたとします。妻は「まあ、何か私に不満でもあるのかしら?昨日のあのことが、気に入らないってこと?だって、あれは私がちゃんと説明したはずでしょう?いつだってあの人は、素直に受け入れようとしないのだから」などと判断し、夫が帰ってきても、不機嫌な態度に出ます。夫としても、その妻の不機嫌な様子をみて「これは、まだあのことが不満だと言っているんだな。それについては、改善すると俺は言ったはずなのに。本当にしつこいやつだ」などと考え、2人のムードはギクシャクしたものになってゆきます。ところが、もし、ここで妻が「ねえ、朝、バタンとドアを強くしめて出ていったから気になったのだけれど、私の思い込みや勘違いなのかしら?もし、何か私に問題があったとしたら教えてほしいのだけれど」とけして、相手を責めることなく、聞いたとします。そうすると、夫は「え?そんなことあったっけ?ああ、あの時、俺は両手に会社の資料を抱えていて手でドアを閉めることができなかったから、足で閉めたら、強く閉まってしまったんだよ」なんてことだけだった、ということがわかることもあるのです。相手の本当の気持ちを直接確かめることなく相手の言動だけで、これはこうに違いないと自分の視点で判断をすると、そこに行き違いや誤解が生まれます。もし、相手に不信感を持ったならばきちんと、そのことを相手に伝えること。相手にとっては、全く思いもしなかったことかもしれないのです。もちろん、伝え方も大切で「こういう時はこうするものでしょ」とか「あなたの言葉でこんなに傷ついたのよ」と、自分のやり方を押し付けたり、責めたりすれば、相手は心を閉ざします。あくまでも、自分は理解できなかったからできれば、それを自分に理解できるように伝えてほしい、ということを伝えるのです。さて、そこに、第3者が入ってくると、問題は余計にやっかいなものになってきます。例えば、最初のケースで、AさんとBさんを両方知っているCさんがいたとします。Cさんは、ちょっと人のうわさ話が好きな人なのでAさんにBさんのことをあれこれと伝えます。例えば、「Bさんは、あまり人とのつきあいが好きでないらしいよ」などという情報があったとするとAさんは、「やっぱり私とつきあうのは嫌だったのね。だからあんな風に言ったんだわ」などと、Cさん情報と自分の視点と組み合わせて判断します。ところが、Bさんの真意は全く別のところにあったというようなことは、よくあるのです。ここで大切なのは、ある人との関係において第3者の意見や情報を自分のものとして取り入れないということ。中には「あの人は、こんな風にあなたのことを言っていたわよ」ということを直接言ってくる人もいるかもしれませんがほんとうにその人がそんなことを言っていたのかもし、言っていたとしても、それは本当にその通りの意味なのかそれは、けしてわからないからです。その相手と向かい合った時に、自分が感じる内なる感覚だけでその人と向き合うということ。いくら親しい友人であったとしてもその友人から見たAさんと私からみたAさんは違ってくるのが自然なことですから。これは、とても大切なことで例えば、私の場合、誰かの紹介で来ました~というケースがよくあり、クライアント同士がよく知っているということがあります。その時にAさんから見たBさんの情報を私の先入観に取り入れないということが、セッションを行う上で、何よりも大切になってきます。Aさんが間違っているとか、正しいということではなくあくまでも、それはAさんの捉え方であるということを理解しまっさらな意識でBさんと向き合ってゆく必要があります。また、相手の反応が単に自分自身に向けられたものとは限らない場合もあります。問題をパーソナルに捉えてしまうことに問題が出てくるのでです。上のケースでも、ただBさんはパーティそのものが嫌いということであってA さんに対しての感情は何もないのに、Aさんは、断ったことを自分個人に向けられたものと判断することで、問題となります。また、例え、相手が自分の言葉に反応して、強い態度に出たとしてもそれは、その相手の過去の何かに反応したかも知れず自分の言葉だけに反応したとは限りません。さて、これは私自身の失敗のケースなのですが。レイキマスターコースの基準を最近になって厳しくしたというお話は、以前、ここに書いたと思うのですが以前は、ある程度レイキをやっていて、マスターコースを受けたいという人がいたら、ほとんどオッケーにしていたのですが実際、それではあまり上手く行かないケースもあったので最近は、事前に様々なアンケートに答えてもらっています。もちろん、レイキ交流会にいつも参加していたり私のキネシオロジーのセッションを受けていたりする方だったらアンケートに答えてもらわなくても、よくわかっているので問題ないのですがレイキのクラスを2、3度受けただけの人だと日々、どういう意識を持ってレイキやその他のヒーリングをやっているのかレイキマスターとしての自信はどうなのか?などということがよくわからないからです。これらができていないとマスターコースを受けれないということではなくもし、自信がないなら、自信を持つように変えていく必要があるということです。これは大切なプロセスで、カーラも私はタントラマスターとしてどれくらいやっていける自信があるかタントラについてどう捉えているか、レポートや計画を提出させました。私はそれによって、カーラが真剣にこのタントラを伝えていこうという姿勢を感じることができて、より信頼を深めることができるのです。ところが、時々、私がいろいろと提示したアンケートを見て「ああ、のりこさんは、私がレイキマスターとしては不十分なんだと言っているのだ」などと、判断し「マスターコースをキャンセルさせてください」などということになってしまったりします。その問題を個人的に捉えてしまうことによって、相手の意図とは全く違うように受け取ってしまうのです。自分のレイキのクラスを受けてくださった方が、レイキマスターになってレイキを広めてゆくことほど、レイキマスターとして幸せなことはないのですから、私としても残念な結果になってしまいます。ここで、もし、私の方が改善できる点としたら、このプロセスは、とても大切で、けしてパーソナルな問題ではないということ、私はあなたがレイキマスターとしてのスタートをすることをサポートしたいということ、そういったことを何度も伝えてゆく必要があるということです。(一度「伝えたつもり」では、相手は理解できていないこともあるので)もし、きちんと伝えた上で相手が理解しなかったのならそれはそれで仕方ありません。それは、けして相手が悪いわけではなくそれまでの経験によるものなのですし、タイミングもありますからいつか、理解してくれる時が来るのを待つしかないのです。そう考えていくと、コミュニケーションというのは、本当に大変な問題で、できれば、そんな面倒なことはやりたくないという人が多いかもしれませんが(どちらかと言えば、私も面倒くさがりなのだけれど)そこに大きな学びや気づきがあり、自分自身を知ることにもつながってくるなあと感じます。ちょうど、昨日、ある方が勇気を持ってそして、誠意を持って、私への不信感を伝えてくださったおかげでお互いが持っていた誤解が解けたということがありました。ということで、もし私に不信感を持っている方がいらしたらぜひ一度、ご連絡くださ~い(あ、一度も直接会ったこともなくて、不信感もっているケースはのぞいてです。そこまで対応できませんので)←って、そんな方はここに来られないか。こういうことを言うと、偽善者っぽく見られるかもですが私の場合、誰かを嫌うとか、この人はだめだ、と判断することはほとんどないのです。その人の表面ではなく、魂の部分を見ていけたらいいなあと。もちろん、聖人君主でないですから、たまには怒りを感じたり気分を害したりもしますが、それはむしろ相手に対してよりちゃんと伝えれなかった自分に対するもの。そして、例え、上手く行かなかったとしても自分自身を赦すことも大切なことですね。私もコミュニケーションに関しては、本当に多くの失敗を重ねてきました。あの時、こんな風に伝えれば、きっと相手もわかってくれたのになあ、そんな風に思うこともあります。でも、過ぎ去ったことをあれこれ思っても仕方ないですし次回から、そう変えていけばいいだけのこと。コミュニケーションは、日々の学びですね
2011年01月14日
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IHキネシオロジーと出会ってから、しばらくの間おさむに毎日のようにセッションを行った効果が出て最近のおさむの変化は、ほんとうに驚くものがあります。以前は、コミュニケーションをしていくのが苦手でいつも人といると疎外感を感じる、なんていっていたのに今は人とコミュニケーションをするのが好きだ、楽しい、に変わっていますし、一番変わった点は、以前は修行体質で、いつも何か目指して修行をしていたのに最近は、例えば、ギターを練習するのにも、ヨガするのもけして修行としてではなく、喜びとしてできている様子。この変化は、これまでの彼の生活を見ている私には、驚きです。なにしろ、彼は前世だけで15回ぐらいセッションをやっていますがそのほとんどが修行の前世でしたから、今生では、その修行を手放し、喜びの人生を送ることが必要だったのでしょう。もしこのIHと出会わなかったら、また今生でもずっと修行のパターンだったのでしょうねさて、先日会った友人とも話していたのは「こだわりは手放せば手放すほどいい」ということ。これはこうあるべきだ、とか、こういう人はだめだ、とかこういう言葉を使うなんてだめだ、とか。人は実にいろんなこだわりを持っています。その多くは、周りの人の影響や外からの情報によってそういう風に信じ込んでしまったものや自分のそれまでの経験から来るもの。食べ物や服、嗜好品や家など物質へのこだわりから行事へのこだわり、つきあう人へのこだわり、マナーや習慣のこだわり、お金に関するこだわり美へのこだわり、言葉へのこだわり、仕事のやり方のこだわり、生き方のこだわり、などなど。もちろん、例えば、仕事についてプロになればなるほどこれはこうした方がいい、というものは当然出てくるでしょうがそれが、時にして、そのやり方しか正しくないということになると、他のやり方を批判したり別の可能性を失うことにもつながるかもしれません。何かにこだわっていればいるほど、必ず、人をジャッジするようになりいつも判断、批判をしていて、満たされていることはできなくなってしまいます。言いかえれば、こだわりが多ければ多いほど癒すべきものが多いと言えるのかもしれないなあと。こだわりの多い人の前では、自分がその相手のこだわりに反した言動をしないようにというのが、意識にどこかに生まれるので窮屈に感じてしまったりします。先日会った私の友人は、あらゆることに、おそろしくこだわりがない人なので、彼女の前では、ほんとありのまま、自然でいられます。どんな自分であっても、ジャッジされないで受け入れてもらえるというのは、ほんとうに楽だなあと。かくいう私は、こだわらない人かと思っていたのですが例えば、以前は、私にとっての健康的な食べ物にこだわっていたりしました。今も、もちろん、できる限りは健康的なものを頂きますがオーガニックかどうか、とか、栄養学的にどうか、ということよりも精神的なものの影響の方が、心身に及ぼす影響は遥かに大きいことを実感してからは、特に健康的なものでなくても、感謝しておいしく頂きますし、そうすれば、その食べ物は身体に悪いものとして働くことはないのです。例えばインドの聖者みたいな意識レベルにあれば例え,何を食べたとしても病気にならないだろうなあと。(かといって、そんな人を目指しての修行はまたこだわりになりますが)さて、ここで一つお願いなのですが私がここに書いていることは、あくまでも私にとって感じたことや感動したこと。これが必ずしも、他の人にとっても同じように感じることだとは限りません。私はできるかぎり、自分の内なる感覚に正直になって、お伝えしようと思っていますがいつもブログをアップしながら「これと全く逆の真理もありえるなあ」なんて思っています。もちろん、今の時点では、私はそう感じていることは間違いないのですがそれは刻一刻と変化してゆきますし、また万人にとっての真理とは違います。また、私はこれがお勧めです~なんて勧めといてしばらくたったら、もうやっていない、なんてこともよくあることなので(ここで告白すると、以前お勧めした水シャワーはギブアップ中なのよ)私がよかったと書いていたから、とか勧めていたから、ということではなく、自分自身で調べたり、それが自分にとって必要かどうか、よく自分の内なる感覚を確かめてから、取り組んで頂けたらなあと思います。100人いたら、100人、違った感じ方や捉え方をするのは自然なことですから。自分の言ったことにもこだわらない私は時にいいかげんな人にもなる得るわけですが(というか、いいかげんな人?)それでも自由に感じるままに表現していくことを選択したいなあと思います~もう修行はやめようって言ったのに~~~
2011年01月12日
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今回は、ちょっと昔のNYの思い出話など。私が初めてニューヨークに来たのは1990年の冬。何だかんだでもう21年なんですよねその間、2、3年間は、日本に帰っていた時期があるので合計すると18年間ぐらいですが、それでも随分と長くなりました。NYに最初に来た時、私は誰もNYに知り合いもおらず所持金が全部で確か500ドルぐらいだったと思うのですがそれを持って、生まれて初めての海外であるNYに、旅行ではなく、いきなり、引っ越してきたわけですから今から考えると、それは若さというのか、無謀というのか、、あまり深くは考えていなかったことは間違いなさそうです1990年の頃のNYと、今とでは、かなり変わりました。NYに最初に到着したのは、夜だったのですが当時のJFKは、今から思い出すと、混沌とした印象で、やっとのことで、荷物をピックアップし、防弾ガラスが重々しいイエローキャブに乗ってこれまた混沌としたイーストビレッジに着いた時には、「ひゃ~何だか飛んでもないところに来ちゃったなあ」なんていう気持ちになりました。当時は、たくさんのホームレスが通りにいましたし娼婦やドラッグを売る人たちも、イーストビレッジの家の外に1歩出ればごろごろしていました。(そういった方たちを通りに見なくなったのは、ジュリアーニ市長になってからです)今の安全な雰囲気のNYとは、まるで違っていて私は、最初にNYに来た時には『お財布を持って外に出ないように』と、知り合った人にアドバイスしてもらいました。地下鉄の切符売り場やその他のところでお財布を取り出すと、お金を持っているとみられて襲われるからです。お財布さえ持てないなんて、なんというところじゃ~と思いつつ、そのアドバイスに従って、それからお財布を持つのをやめ万が一、襲われた時に手渡すための現金20ドルは、いつでも持つようにして(お金を少しでも渡さないと殺されると言われていたので)いつもポケットに直接、お金をいれていました。実際、その当時のNYは、危ないこともたくさんあって私がNYに住み始めて、ちょうど1ヶ月後に私のアパートの上の階に住んでいた人の家に強盗が入りその方が殺されたり、私も通りで変な人に追いかけられたり、帰り道に襲われて、バックをひったくられたりといろんなことがありました。当時のNYでは、車の中に何か一つでも物を置いていたら車のガラスを叩き割られて、それを盗られるのでいつも通りには、叩き割られたガラスのかけらが残っていました。当時の私の友人で車を持っている人たちはどんな小さな物でも車内に残さないようにしていましたしそれでも夜中に叩き割られていることはよくありました。なので、常に周りの状況に気を使うという習慣がここで暮らしている間に、すっかり染み付いてしまってやっと安心して、街にお財布を持って出かけることができるようになったのはそれから何年も後のことです。今では、地下鉄内で、ノートブックのコンピューターを開いている人もいますし、ニューヨークは本当に安全な街になったなあとつくづく感じます。それでも、その頃にしみついてしまった周りへの警戒心みたいなものは、無意識レベルで残っているのか時々、シャスタなどにいって、車に鍵をかけるのを忘れたりすると一瞬、ヒェ~となったりニューヨークでも、常に自分の持ち物への意識などはあるのですがでも、昔は地下鉄でうたた寝するなんて、あり得なかったのに、ここ近年は、地下鉄に乗れば、大抵、身体のどこかにレイキしながら、うたた寝していますもちろん、あまり安心し過ぎてはいけませんけどねさて、初めて、日本からNYにやってきた時私はNYでの仕事だけは、すでに日本で決まっていたので、初めて着いたその日に、JFK空港から、直接、仕事場に向かい、早速、その日の夜から働きました。(それもけっこうむちゃくちゃな話ですが)その仕事というのは、クラブでのキーボードの演奏。そのクラブは、生バンドが入っていて、そのバンドのバックでお客は歌うことができるということが売りのお店でした。私は夜7時から朝の4時まで(実際は朝6時すぎまででしたが)そのバンドのキーボーディストとして、演奏するという仕事。という話で、雇われたはずだったのですが実際、NYにやって来てみると、キーボードの演奏の合間にバーテンダーとしての仕事があり、むしろ、そちらがメインでした。もともと、お酒はむちゃくちゃ強かったし好きだったので、バーのお客と話ながら、毎晩、浴びるようにお酒を飲み、ほとんど前後不覚になりながら演奏して朝方には、そのまま店のみんなとカードでのギャンブルにあけくれ昼間になって眠るという本当に今から考えると、あり得ない日々を過ごしていました。(こんな私が今や、ヒーラー、セラピストだなんて人生ほんと何でもありですね)3ヶ月ぐらいそういう生活を送ってある日、ふと鏡を見るとゾンビみたいな顔の自分がいて「ああ、こんなことを続けていたら、早死にするなあ」なんて思ったことを覚えています。その頃の私は「今を生きる」のではなくただ刹那的に生きていたのでしょうね。その当時の私の口癖は「人生暇つぶし」でしたから。でも、その仕事は確かにハードでしたが、あれはあれで楽しかったのは間違いないですし、そういう時期も私にとって必要だったのだろうなあと。いろんな体験をしたことで、今、セラピーを行う上でのプラスになっていることは間違いありませんから。どんな経験でも無駄なものは、何もないですね。そして、当時のイーストビレッジには、アーティストがたくさん住んでいましたから毎晩、店にやってくるお客の多くはそういったアーティストたちでしたし私はすぐに、そういう人たちと親しくなってそれまで知らなかったいろんな世界を知りました。当時、NYで人と知り合えば、必ずと言っていいほど聞かれた質問は『どうしてNYに来たの?』ということ。どうして?というのは、どういう目的で、という意味です。今では、誰でも、特に何かの目的がなくてもNYに来られますが当時は、何かを目指していたり、何かを達成したいと思ってニューヨークに来ているという人がほとんどでした。そんな質問をされる度に私は「何の目的もないです。ただ、ニューヨークに住もうと思ってやって来ました」と答えていました。日本で音楽の才能の限界を感じて、NYに来た私にとっては何かを目指すことそのものをやめたかったのです。そんなある日「人生暇つぶしですから」そんな風に答えた私に、バーで出会った2人のアーティストがお互いに顔を見合わせながら「ふふ~あなたの目はそうは言っていないよ」と言うのでした。そして、私に精神世界の本や哲学や科学について教えてくれました。瞑想というものを最初に教えてもらったのもアインシュタインや科学に興味を持ち始めたのも才能だの何だの考えず、自分のやりたいと感じるままに何でもやってみようと思い始めたのもその当時に出会った人たちの影響がありました。今から思うと、みんなではないけれど、そこで出会った人たちは人との出会いというものは、すべて目に観えない宇宙の采配で大いなる存在からのメッセージであって人生の中で何よりも大切なものなのだということを、魂レベルでわかっていた人が多かったように感じます。だから、初めて出会った瞬間に、古くからの親友のように安心して自分のすべてをオープンにできる、そんな出会いがよくありました。そうして、私は、次第に刹那的に生きるのではなく本当に魂の喜びを感じるような生き方をしようと思うようになりました。今の私にとって、喜びを感じて生きるというのは、一瞬一瞬が最高に満たされているということであって未来のために、今を犠牲にして生きることでも、また、自分の内なる声がやりたいと感じることをやろうとせず、その場限りの楽しみや遊びに逃げることでもありません。(もちろん、その場限りの遊びも日々の生活の中では必要ですけれどね)でも、その両方を体験してきたからこそ、今、そう言えるのかもしれないなあと。刹那的に生きてみたり、または逆に自分は不足している、もっと修行や学びが必要だと感じながら、常に何かを求めて生きていたり、その両方の時期が私にとって必要だったのでしょう。今では、おさむも私もスピリチュアルな学びのために修行をする必要なんて何もない、ということを知っているわけですがでも、これまで修行のようなことを一度もやらなかったとしたらそうは感じなかったかもしれませんから。「修行は必要ないことを知るために、修行をしてきた」そんな風にも言えるかもしれません。ブレインジムのポールデニッソンも「がんばらないことが大切だ、ということを学ぶためにがんばって苦しんだ経験も自分にとって必要だった」というようなことを書かれてあって、深く納得しました。もちろん、経験しなくても、わかる人もいることでしょう。みんなそれぞれが今、経験していることに、何も間違いはないですね。先日は、全く逆の意味だと書きましたがもしかすると、自由に自分の使命を求めることも自分の使命から自由になることも本質は同じことなんじゃないかしら?と。(って、あくまでも誤訳は誤訳だ~)時代はどんどん変化していますし、私たち自身も変化してゆきます。大昔から変わらず、存在している真理もありますし時代とともに変化してゆくものもあります。そして、私にとって、今も昔も変わらない真理は人との出会い、人とのつながりの大切さ。そして、それは、きっと、これから先、例え、何をしていたとしてもきっと変わらない部分だなあと。なんて、今日は、とりとめもない話かもどうして、こんな話をしたくなったのかしら~と、自分の内をよく見てみると私にも何かができるかしら?とか自分を変えることができるかしら?とかそんな不安を持っている方々へ、いつも伝えたいなあと感じるのです。例え、あなたが、今、どんな状態であったとしても日々、思うように行かないことが多かったとしても何が自分にとってのベストの道なのかわからなかったとしても、大丈夫。何で大丈夫なの?って言われてそれを言葉で説明しようとすると、何だか嘘っぽい感じがするので難しいのですが私の中では確信していることだから。絶対に大丈夫なんです!(敢えて絶対という言葉を使いますが)少しでも何かが伝わったらいいなあと願いつつ、、、読んでくださってありがとう~もぐらさんは、元気で暮らしているかしら~♪
2010年12月28日
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先日、バッチフラワーのAgrimonyをご紹介しましたがバッチフラワーの中でよく出てくるエッセンスの中にELMというエッセンスがあります。これは、仕事ややらなければならないことに、プレッシャーや責任を感じていたり、自分が上手くその状況を乗り越えて、よい仕事ができるかどうか自信がないような状況の時に(潜在意識が)選ぶエッセンスです。これも本当によく出てくるエッセンスで、数えたことはないのですが2、3日に1回ぐらいは、クライアントさんのどなたかが選んでいるように感じます。それほど、多くの人は、仕事や家事や勉強など「やらなければならないこと」をいつも抱えているということでしょう。筋肉反射テストで、中学生の子もこのエッセンスを選びますから、子供でも勉強のプレッシャーを抱えているということです。私たちの多くは、いつのまにか、小さな頃からずっとそんなプレッシャーを感じながら生きているのかもしれませんね。先日のバハマで、ホリスティック医療のバーマン先生が『ねばならないことは、何一つない』と言われていましたが多くの「ねばならない」を私たちは知らず知らずのうちに抱えてしまっています。「もっと勉強しなければならない」「この仕事を~~までに終わらさなければならない」「もっと痩せなければならない」「人と上手くつきあっていかなければならない」「早くメールのお返事を出さなければならない」(←これ少し前までの私)先生は、日々、自分の考えや言葉にどれだけ「ねばならない」があるかを見つめてみなさいと言われていました。私は昔から、この「ねばならない」が好きではなかったのですがもしも「~~ねばならない」という考えが浮かんだ時には、それを「~~したい」に置き換えることができるかどうか自問自答してみます。「もっと勉強したい」「この仕事を~~までに終わらせたい」「もっと痩せたい」「人と上手くつきあってゆきたい」「早くメールのお返事を出したい」そんな風に置き換えてみて、それで、もし自然に置き換えることができたならいくら大変なチャレンジであっても、その実現に向けて行動します。でも、もしも、置き換えるのに心のどこかで抵抗を感じるのならそれはやめるか、別の方法を模索します。(なので、一昨日、ここに書いたように自分の目標や約束を簡単に変えてしまうことにもつながるのですけれどね)自分が本当はやりたいと感じているのにできていないということとやりたくないと感じていて、できないことでは大きく違います。やりたいと感じているのにできないのならそれは潜在意識を調整したり、癒したりしてゆく必要がありますがやりたくないと感じているものはできなくていいのですから。「自分が本当にやりたいと感じることだけをやってゆく」そんなことを言ったら、学校の勉強はしなくてもいいの?仕事はやらなくてもいいの?その責任はどうなるの?なんて言われる人もいるかもしれませんが実際のところ、本当にそれを自分が望むことでないのならやる必要はないと私は思います。もちろん、やらなかったことに対する結果は自分で全部請け負うことになります。勉強したくないから勉強しないとなれば、学校の成績が下がるでしょうがそれによって、影響を受けるのは自分でしかありません。でも、人生、いつでも勉強したくなった時にすればいいのですから。遅すぎることなんて何一つありませんし親や周りの人から言われたからやることは、自分が進むべき道ではないと私は思います。でも、自分でも勉強をしたい、自分には勉強が必要だと思っているのにも関わらず、できないのならそのできない理由を探して、変えてゆく必要があります。また、例えば、家族を養うために、自分の好きではない仕事を「やらなければならない」と考えている人もいるかもしれません。でも、ただ自分が犠牲になってそれをやり続けているのならそれは何かが違うということです。何か別の道を探してゆく必要があるのです。ということで、かれこれ5年前になるのでご存知の方も多いでしょうがAPPLEの創始者スティーブジョブズ氏の講演から印象的な言葉から抜粋してみますね。これはスタンフォード大学卒業祝賀スピーチです。 <日本語翻訳:市村佐登美さん>3つ目は、死に関するお話です私は17歳の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。 「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。 そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」それは、私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝、鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。 「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、 今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て・・・外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て・・・こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば、自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。 全くその通りなのですよね。『ねばならないこと」と思っているのは外部からの期待、自分のプライド、屈辱や挫折に対する恐怖そういうところから起こるのです。ですから、自分が「ねばならない」と思っていることが本当に自分の望むことなのかそれとも周りからの期待や、自分自身のプライド、挫折に対する恐れなのかしっかり見つめてゆくことが大切ですね。そうして、もしそのことが、自分が心から望むことがないとわかったなら周りからどう言われようとも、それをやめたり、変えてゆく勇気も必要だと思います。例え、どんな状況であっても、私たちはやりたくないことをやるために生まれてきたわけではないのですから。この世での人生を終えた時に、後悔しないようにその日、その日が人生最後の1日だと思って、自分のやりたいように生きること。そうすれば「ねばならない」は何一つなくなりますね(そんなこと、そう簡単にはできないって?自分の内側が変わればできるのよ~これが)
2010年12月15日
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キネシオロジーのセッションの中で、調整にフラワーエッセンスが必要だと出た場合筋肉反射テストで選んでゆくのですが、私が持っているエッセンスの中で、まだ一度も選ばれたことがないエッセンスもあれば毎回のようによく出るエッセンスもあります。そして、クライアントの方の潜在意識が選ぶフラワーエッセンスを見ていると、いろんな傾向がわかってきます。その多くの人が選ぶエッセンスの中にバッチフラワーのAgrimonyというエッセンスがあります。これは、自分の感情に蓋をしたり、自分の感じていることを周りの人に話さないという傾向がある方が(潜在的に)選ぶエッセンスです。このAgrimony のエッセンスの効用としてあげられる「自分の感じていることを周りの人に分かち合ってゆく」ということに関して、最近、いろいろ感じることがありました。これができない人って、日本人には案外多いのでしょうね。日本では、あまり自分の感情を表すことや人に自分が感じていることを話すことをよしとしない部分もありますし、潔くないと感じる風潮があるのかもしれません。私は昔からかなりオープンな方だとは思いますが人にシェアするのは、自分の中ですでにその問題が解決ができたものに関してのみ、そこから何か学び、それを昇華した後はどんなことでもシェアできるのですが、それがまだ自分の中で解決されていない時には例え、おさむであってもあまり言わないことが多かったです。これは一つには、例え話したところで、何の解決にもならないことがわかっているから。もちろん、セラピーやヒ-リングなどの場では感じていることをセラピストやヒーラーに話す必要があるでしょうがそれ以外では、自分自身で解決してゆくしかないですしそれを周りの人に話したところで、単なる愚痴や不平不満になりかねません。起こっていることのすべては、例え、意識していなくても自分が招き引き寄せているものであって、自分の選択の結果。私は愚痴や人のことを悪く言うことが何よりも嫌だったので、そういうことを言っている自分を赦せないと感じていたのですね。だから、おさむとの生活の中で、これまで、いろんなことを話していても愚痴や他人を悪く言うような会話は、思い出す限りありませんでした。お互い、すべての責任は自分にある、ということがわかっているので例え、何か私が話したとしても「それはのりこ自身が招いたことでしょ」ということになることはわかっていたし私も「全くその通りよね」ということになってしまうので話す必要性を感じていなかったのです。でも、そういう私が最近、特にこのIHキネシオロジーを初めてから変わってきたなあと。例え、それが問題の根本的な解決につながらなくても、また例え、それが愚痴っぽくなってしまったとしてもその時、その時で、信頼できる人たちにシェアしてしていくのも大切なことだなあと感じるようになりました。つい先日も、ちょっとしたことが起こって私の中で「これはどう自分の中で折り合いをつけていくのかしら?」「一体私はここから何を学ぶ必要があるのだろう」と思っていました。その問題というのは、私がやったことが相手に受け入れられず、認められなかったという事実。もちろん、これは相手の方が悪いのではなく私のやり方に問題があったことは間違いないことでした。でも、その方に対しては、仕事としてではなく、サポートしてきたつもりでいてこれからも私ができる限りのことをしていこうと思っていたのでこの方なら理解できるかも、とどこかで期待していたこともあって(そこに私のエゴもあったのかもしれません)感じたことをそのままお伝えしたのですが価値判断されてしまい、やはり真意はわかってもらえなかったのだなあととてもがっかりもしていました。でも、バハマで過ごしている中で深く自分のうちとつながる感覚があってああ、いいんだ、自分を理解してもらえなかったことに対して例え怒りを持ったとしても、ただそれを感じて、解放してゆけばいいだけなのだということがストンと腑に落ちた時があってそうしたら、その瞬間にその問題はあっさりなくなっていました。そして、バーマン先生の「悪い感情というものは何もない」という言葉が、さらに大きな意味を持って、私の中に入ってきました。それから、NYに戻って、おさむとそのことを話す機会があったので「実はこういうことがあったんだよ~」といういきさつを話したのですが、おさむが即座に「それはひどいわ、腹立つなあ」と言ってくれた時に、さ~~と私の中で、何かが昇華されていくのを感じました。すでに私の中では、その問題はすでに解決したことであってそれに対する怒りの感覚はなかったのですがもっと素直に怒りを感じて、分かち合えばそれでよかったのだなあ、と。それまでは、自分のことを理解してもらおうとすること自体がエゴだと思っていたのですが、例え、そうであったとしても、感情を感じて、解放してゆく必要があったのです。怒りは、もっとも私たちに気づきを与えてくれる感情だとバーマン先生が言われていたように本当に学ぶことが多いですね。IHキネシオロジーの「魂からのメッセージ」というリストの中に『腹を立てたり、怒りをぶちまけたり、怒りのあまりに何かを決心してもいいんだよ」というメッセージがあります。怒りをぶちまけていい、なんてすごいメッセージですが怒りを感じることにたいして、自己非難しないことが何よりも大切だということ。まさに、ちょうど今日、セッションに来られた方の中でその言葉を選んだ方がいらっしゃって、深く納得しました。私はこれまで、人に対しては「素直に怒りを感じてもいいのですよ」と言い続けてきたのに、自分自身が怒りを感じることは、まだ完全に赦していなかったのでしょうね実際、あまり怒らなければならないようなことは、最近ほとんど起こらなかったこともあるのですが今回のことは、そのことを私自身が感じ、実感するためのレッスンだったということに、気づきました。そうしたら、そのきっかけをくれた相手の方へ感謝の気持ちが自然と内から湧き出てきました。けして、きれいごとではなく、そこから本当に学ぶことができればやっぱりすべては感謝になってゆきますね。以前、友人で、普段は滅多に愚痴っぽいことは口にせず自分一人ですべてを解決してしまう人がその時、抱えていた問題について、心の葛藤を話してくれた時に私は信頼されているんだなあと感じて、とてもうれしかったことがありました。もちろん、その方は、すぐに自分自身で解決してゆくことができる人であるのはわかっていたので、私は心配もしていなかったのですがそれでも、シェアしてくれたことに感謝でした。起こっていることのすべては意識しているいないに関わらず自分自身が引き寄せていることであって自分の責任であることは間違いないにしてもそれをふまえた上で、周りの信頼できる人たちに自分が感じていることを分かち合ってゆくことは必要だということをつくづく感じています。Agrimonyのエッセンスは、自分の感じていることを人と分かち合わない人だけでなく自分の感情そのものに蓋をしてしまう傾向がある方もよく選びます。例えば、潜在意識の中では孤独だと感じているのに自分でそれを感じないようにしていたり、悲しみを感じないようにしていたり。そういう感情のブロックは、傷つきたくないという自分自身をプロテクトするために起こっているのですが、でも、その感情を一度はしっかり見つめない限り、本当の意味でそこから抜け出せないのです。自分の感情をしっかり向き合い、そしてそれを人と分かち合ってゆくこと。もちろん、自分が気づかないような深い無意識の部分での癒しが必要なことも多いですし、それだけでは解決できないことも多いのですが少なくとも、自分一人で抱えているより、心は軽くなってゆきますから
2010年12月12日
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バハマ6日目。昨日のバハマの日記を、今読み返してみると何だか気合い入った文だなあといや、その前の日記を読み返してみてもそうなんだけれど書くという行為のために、自分の内面を見つめてみるとこういう文になってしまうことが多いのですが、書いたものが、けして私の感じていることのすべてではないのですよね。いえ、時には後から読み返すと、全く自分が感じていることとは違ったものに感じられることもあるので言葉で伝えてゆくことの難しさを感じます。例えば、昨日の日記を読むと「アセンションに向かってまっしぐらに進むぞ~」というニュアンスだし、実際、そういう想いもあるのは確かなのですが一方で「アセンションなんて、いつかそうなる時はなるし、ならない時はならないのだから、すべては天にお任せだなあ」と思っている部分もあるわけです気合いというのは、自分の人生を創っていく原動力になるわけですが一方で、コントロールしようとしたり、抵抗したりということにもつながってくるかもしれませんね。コントロールや抵抗を手放すこと。フラワーエッセンスでも、そういう効用のものは多いのですが私たちはつい、自分の力の範囲に及ばないところまでコントロールしようとしてしまいます。自分の人生は自分でクリエイトしていくことは確かなことですが一方で、自分が生かされていることに感謝しすべてを天にゆだねることも大切。Surrender(サレンダー)ゆだねること。でもサレンダーは、けして、何もしないということではないなあと。ヨガのポーズの中で、足先を持って前屈するポーズは、サレンダーのポーズと言われていますが先日、久々にこれをじっくりとやった時に、先生からゆだねなさい、と言われても膝や太腿の裏側ががつっぱって痛くて、「こんなに痛いのに、ゆだねられないよ~」という気持ちになったわけです3分ほどそのポーズを保っている間は、サレンダーどころか、心の中は、struggle (もがく)に近いかもところが、3日が過ぎ、筋肉痛もほぼなくなってきてくるとその膝や太腿の裏側がストレッチされるのが、心地よく感じるようになりリラックスして、ゆだねることができるようになってきます。もし、最初から、こんなのは無理とやらなかったとしたらもしくは、できるところまでやらずに、完全に手を抜いてやっていたとしたらこの心地よさはけして得られなかったなあと。つまり、ゆだねるためには、とりあえず、今、自分ができることはやってみなくてはいけないということ。例えば、家を探すのに、いい家が見つかるかどうか?は天にゆだねられているわけですが何もしなくて、ただ待っていても見つかりません。不動産を回ったり、広告を見て探したり、友人に尋ねたり、という行動があって初めて、その結果は天にゆだねるということになるわけです。すべてを天にゆだねるといっても、最初っから、何にもしないで何か変化を待っていても、何も起こりませんから。ゆだねることと、あきらめることは、全く違うこと。自分が今、できることをやっていったら、後はゆだねる。時には、もがくようなこともサレンダーの前には必要なのかもしれません。このバランスが難しいところなのかもしれませんね。自分ができること、というのが、どこまでやることなのかわからなくなる時もありますから。前屈をやるのに、あまりにも無理しすぎて、身体を痛めてしまってはもとも子もないわけですしね。結局は、自分の内なる感覚に従ってゆくしかないなあと。自分の身体がどこまでやったら大丈夫なのか?また精神的、感情的にも、自分が無理をしていることが、わかっていないとゆだねるポイントもわからなくなります。ということで、人生の中では、ゆだねるためのレッスンも大切なのかもしれませんね。レイキは、まさにサレンダー♪自分の力で癒そうとか治そうとかするのではなく宇宙のエネルギーレイキにすべてをゆだねて、無心で手を当てる。癒されようと癒されまいと、その結果は天におまかせです。昨日話した、マントラを唱えたり、祈ったりというようなことも大いなる存在に畏敬の念を持って、ゆだねてゆくためのレッスンなのかもしれません。バーマン先生は、このあたりのバランスがとても取れている方だなあと感じます。日々、様々なことを学び、アセンションへのプロセスを説かれマントラ瞑想には限界がある、そう言われる一方で講話の会場に入る時も、スワミシバナンダの写真に向かって、頭を床に伏せてから入られるし毎朝毎夜の瞑想やチャンティングも欠かさず、参加されて、深く敬意を払われているのを見ると自分ができる最大限のことをやりながらその結果は、天や宇宙にすべてをゆだねるという彼のあり方が見えてきます。ということで、今日のアファメーション♪「私は今、できることをやったら、その結果はすべて天にゆだねてゆきます」さて、今日もバハマはよいお天気いろいろ感じたこと、伝えたいこともあるのですが、これからは、ゆだねる時間。ビーチでレイキに行ってきま~す
2010年12月04日
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