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最近、つくづく感じるのは、いろんな人たちが気づき始めているというか、変容しているというのか、自分のことをもっと知りたいと感じている人や自分を変えて、もっと自由に人生をクリエイトしてゆきたいという人やこれまで、ヒーリングなどにあまり興味がなかったという方たちもよく来られますし、また、自分でもヒーリングを学んで人の役に立ちたい、という方も増えてきています。ここ1、2年そんなことを感じてきたわけですがIHキネシオロジーをやるようになって、さらにそれを実感しています。この素晴らしい変容の時代に生まれてきたことに大いなる祝福を感じずにはいられません。とともに、私もしっかり自分自身がぶれないようにいつも自分の中心とつながっていないとなあと。そのためにも、ちゃんと自分の休みを取らないと、ヒーラー&セラピストとしての仕事に影響してしまう、そんなことは充分承知なのですが気がつくと、来月も休みが2月28日のみでそれまで1日も休みなしという状態になっていました。(なっていましたって、すべて自分でそうしているわけですが)あさってからコロラドに6日間、行くこともあってどこかに出かけると、その前後はセッションが詰まってくるのはいつものことなのですが、さすがに何かやり方を変える時期に来ているということかなあと。それで、最近、考えていることの一つにこれまで、ずっとレイキのクラスは、プライベートクラスにこだわってきたわけですがそのこだわりを捨てて、レベル1、2に関しては2、3人のグループクラスにしようかなあということ。結局、今、レイキのクラスを受けたいと申し込みされても、1ヶ月以上待って頂かなくてはいけない状態ですから他の方のためにもなっていないのですよね。これまで、プライベートクラスにこだわってきたのは一人一人のニーズに合わせてやってゆきたい一人一人と向かい合ってゆきたいという気持ちからだったですがグループでも2、3人までの少人数だったら、ある程度それもできるしまた他の人とクラスを受けることで、別の気づきや学びもありますしね。もし、それができたら、私も少し時間に余裕も出てくるなあと。先日も書きましたが「こだわりを捨てて」新たな方法を見つけてゆく時期なのかもしれません。でも、ちょうど上手くそれぞれの日程や時間が合うかどうか、など問題はあるので、まだ、検討段階なのですが。さて、一方、レイキとキネシオロジーだけで一杯一杯でタントラはどのようにやっていくのか、ウエブは作るのか?などまだ、ほとんど決めていない状態だったのですが昨日、自分に対するキネシオロジーのセッションをやったら潜在意識の目標は「タントラを積極的に広めてゆく」ヒャ~やっぱり私の魂はタントラも積極的にやっていくつもりなのねサポートとして、出てきたカードはアトランティスカードで「そのことが、もっとも高い目的のために行われることを確認しなさい。あなたの力を人々を救うため使いなさい」というメッセージのカードが出てきて、がつんと言われた感じがしました。タントラのセッションは、場合によっては(というより通常は)私も相手も真っ裸になって行うわけで、私がそこまでやる必要があるのか?今の段階では、レイキとキネシオロジーだけで充分やっているしセックスが大事なことや、タントラが素晴らしいことは充分わかっているけれどそれを私がやらなくてもいいんじゃない?そんな気持ちがどこかにあって今一歩、積極的に広めていくことに抵抗を感じていたのことも事実なのです。(その割には、ここでいろいろ書いていますが)でも、そういう気持ちは私のエゴから来るものであって、私の本質はそれをやることを望んでいるからこそ、タントラマスターコースを受けたのでしょうしそれが宇宙の意志に従っていることなら、覚悟しなきゃいけないかなあと。(ここまでやっておいて、往生際が悪いんだよね~)そうと決まれば、まずはタントラマスターらしく、エロティックな私の写真つきのウエブ作りだな~(ってうそです)先日、ある方に「のりこさんは、セクシャルな雰囲気じゃない感じがいいですよ~」と褒められた(たぶん褒めてくれたのよね?)のでまあ、そういうタントラマスターもありかなあと。カーラ曰く「のりこみたいに、セックスに対してオープンな人は滅多にいないわよ。あなたは、まるで私みたい」だそうなのですが、このセクシャルな雰囲気じゃなくセックスに対してオープンというのもいいのかなあと。一方、おさむも先日、IH キネシオロジーで調整したのですが潜在意識の目標は「気長に構えてゆく」まるで、私と正反対の方向での調整でした。キネシオロジーでは、それぞれの今にとって、必要なものが出てくるわけですがおさむにとっては、今は、結果を焦らず気長に構えてゆくことが私にとっては、積極的に行動してゆくことが必要だということでしょう。まあ、修行体質だったおさむと違って、基本は怠け者で、ひたすら自分に甘い私ですから、こんな時期も必要ということかしらね多くの素敵な人たちと出会い、つながり一緒に変容してゆく素晴らしい機会を私に与えてくださって、本当にありがとう。らぶ
2011年01月30日
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人と人とのコミュニケーションの問題というのは、ほんとうに多くの人にとってのストレスの原因になっています。コミュニケーションが上手くできないことによって様々な誤解を生み出したり、それが感情面のしこりに繋がってしまいます。例えばAさんとBさんがいて、2人は以前、何度か他のグループと一緒に会ったこともあり、それから知り合ってメールでも時々、交流があったとします。ある日、Aさんは、どこかでお茶でもしませんか?とBさんを誘ってBさんがたまたま用事があったので、それを断って、それがたまたま2度続いてしまったとします。Bさんとしては、ほんとうに2回とも用事があっただけなのですが、Aさんは、「これは私と2人では会いたくないってことなのね」と理解し、もう二度と、私から連絡するのはやめよう、と決めます。Bさんの方は忙しいということだけでなく、どちらかといえば、連絡をまめに取るタイプではなかったために、そのまま2人は連絡を取り合わないことになり、2人の関係は終わってしまいます。Bさんの方は何となく終わってしまったなあと感じつつ、特に何も考えていないのですがAさんの方にはしこりが残ってしまっています。ここで、Bさんがまめに連絡を取るタイプではないということが、問題なのではなくて、Aさんが私ならこうするのに、という視点でしか見ていないとそうしないBさんを見て、自分はあまり好かれていないのねと判断してしまうということなのです。これはよくあることで、例えばAさんが自分の誕生日パーティにBさんを誘ったとして、BさんはAさんを好きなのですがパーティが苦手で、多くの人の中にいるのはストレスになるので、断ったとします。ですが、Aさんにとっては、「私の誕生日にも来てくれないなんて、あまり大切に思われていないのね」などと判断してしまうのです。例えば、私のところにもメールがよく届きますがセッションやクラスに関する質問などの場合は私もなるべくすぐにお返事を出すもののそれが近況報告だったりすると、後でお返事しよう、と思いつつ、忙しさでつい忘れてしまったりしますそういう時に「返事がないということは、私の書いた内容が何かのりこさんの気分を害したに違いない」などと判断し、心を痛めてしまったりする方もいるのです。(相手の方が、その気持ちを知らせてくれたので、わかったこともありました)女性は特にセンシィティブですから相手の言動の奥にあるものを読もうとして、考え過ぎてしまい、それが逆に、物事の本質を見失ってしまうこともあります。例えば、朝、夫がバタンと、荒々しくドアを閉めて会社に出かけたとします。妻は「まあ、何か私に不満でもあるのかしら?昨日のあのことが、気に入らないってこと?だって、あれは私がちゃんと説明したはずでしょう?いつだってあの人は、素直に受け入れようとしないのだから」などと判断し、夫が帰ってきても、不機嫌な態度に出ます。夫としても、その妻の不機嫌な様子をみて「これは、まだあのことが不満だと言っているんだな。それについては、改善すると俺は言ったはずなのに。本当にしつこいやつだ」などと考え、2人のムードはギクシャクしたものになってゆきます。ところが、もし、ここで妻が「ねえ、朝、バタンとドアを強くしめて出ていったから気になったのだけれど、私の思い込みや勘違いなのかしら?もし、何か私に問題があったとしたら教えてほしいのだけれど」とけして、相手を責めることなく、聞いたとします。そうすると、夫は「え?そんなことあったっけ?ああ、あの時、俺は両手に会社の資料を抱えていて手でドアを閉めることができなかったから、足で閉めたら、強く閉まってしまったんだよ」なんてことだけだった、ということがわかることもあるのです。相手の本当の気持ちを直接確かめることなく相手の言動だけで、これはこうに違いないと自分の視点で判断をすると、そこに行き違いや誤解が生まれます。もし、相手に不信感を持ったならばきちんと、そのことを相手に伝えること。相手にとっては、全く思いもしなかったことかもしれないのです。もちろん、伝え方も大切で「こういう時はこうするものでしょ」とか「あなたの言葉でこんなに傷ついたのよ」と、自分のやり方を押し付けたり、責めたりすれば、相手は心を閉ざします。あくまでも、自分は理解できなかったからできれば、それを自分に理解できるように伝えてほしい、ということを伝えるのです。さて、そこに、第3者が入ってくると、問題は余計にやっかいなものになってきます。例えば、最初のケースで、AさんとBさんを両方知っているCさんがいたとします。Cさんは、ちょっと人のうわさ話が好きな人なのでAさんにBさんのことをあれこれと伝えます。例えば、「Bさんは、あまり人とのつきあいが好きでないらしいよ」などという情報があったとするとAさんは、「やっぱり私とつきあうのは嫌だったのね。だからあんな風に言ったんだわ」などと、Cさん情報と自分の視点と組み合わせて判断します。ところが、Bさんの真意は全く別のところにあったというようなことは、よくあるのです。ここで大切なのは、ある人との関係において第3者の意見や情報を自分のものとして取り入れないということ。中には「あの人は、こんな風にあなたのことを言っていたわよ」ということを直接言ってくる人もいるかもしれませんがほんとうにその人がそんなことを言っていたのかもし、言っていたとしても、それは本当にその通りの意味なのかそれは、けしてわからないからです。その相手と向かい合った時に、自分が感じる内なる感覚だけでその人と向き合うということ。いくら親しい友人であったとしてもその友人から見たAさんと私からみたAさんは違ってくるのが自然なことですから。これは、とても大切なことで例えば、私の場合、誰かの紹介で来ました~というケースがよくあり、クライアント同士がよく知っているということがあります。その時にAさんから見たBさんの情報を私の先入観に取り入れないということが、セッションを行う上で、何よりも大切になってきます。Aさんが間違っているとか、正しいということではなくあくまでも、それはAさんの捉え方であるということを理解しまっさらな意識でBさんと向き合ってゆく必要があります。また、相手の反応が単に自分自身に向けられたものとは限らない場合もあります。問題をパーソナルに捉えてしまうことに問題が出てくるのでです。上のケースでも、ただBさんはパーティそのものが嫌いということであってA さんに対しての感情は何もないのに、Aさんは、断ったことを自分個人に向けられたものと判断することで、問題となります。また、例え、相手が自分の言葉に反応して、強い態度に出たとしてもそれは、その相手の過去の何かに反応したかも知れず自分の言葉だけに反応したとは限りません。さて、これは私自身の失敗のケースなのですが。レイキマスターコースの基準を最近になって厳しくしたというお話は、以前、ここに書いたと思うのですが以前は、ある程度レイキをやっていて、マスターコースを受けたいという人がいたら、ほとんどオッケーにしていたのですが実際、それではあまり上手く行かないケースもあったので最近は、事前に様々なアンケートに答えてもらっています。もちろん、レイキ交流会にいつも参加していたり私のキネシオロジーのセッションを受けていたりする方だったらアンケートに答えてもらわなくても、よくわかっているので問題ないのですがレイキのクラスを2、3度受けただけの人だと日々、どういう意識を持ってレイキやその他のヒーリングをやっているのかレイキマスターとしての自信はどうなのか?などということがよくわからないからです。これらができていないとマスターコースを受けれないということではなくもし、自信がないなら、自信を持つように変えていく必要があるということです。これは大切なプロセスで、カーラも私はタントラマスターとしてどれくらいやっていける自信があるかタントラについてどう捉えているか、レポートや計画を提出させました。私はそれによって、カーラが真剣にこのタントラを伝えていこうという姿勢を感じることができて、より信頼を深めることができるのです。ところが、時々、私がいろいろと提示したアンケートを見て「ああ、のりこさんは、私がレイキマスターとしては不十分なんだと言っているのだ」などと、判断し「マスターコースをキャンセルさせてください」などということになってしまったりします。その問題を個人的に捉えてしまうことによって、相手の意図とは全く違うように受け取ってしまうのです。自分のレイキのクラスを受けてくださった方が、レイキマスターになってレイキを広めてゆくことほど、レイキマスターとして幸せなことはないのですから、私としても残念な結果になってしまいます。ここで、もし、私の方が改善できる点としたら、このプロセスは、とても大切で、けしてパーソナルな問題ではないということ、私はあなたがレイキマスターとしてのスタートをすることをサポートしたいということ、そういったことを何度も伝えてゆく必要があるということです。(一度「伝えたつもり」では、相手は理解できていないこともあるので)もし、きちんと伝えた上で相手が理解しなかったのならそれはそれで仕方ありません。それは、けして相手が悪いわけではなくそれまでの経験によるものなのですし、タイミングもありますからいつか、理解してくれる時が来るのを待つしかないのです。そう考えていくと、コミュニケーションというのは、本当に大変な問題で、できれば、そんな面倒なことはやりたくないという人が多いかもしれませんが(どちらかと言えば、私も面倒くさがりなのだけれど)そこに大きな学びや気づきがあり、自分自身を知ることにもつながってくるなあと感じます。ちょうど、昨日、ある方が勇気を持ってそして、誠意を持って、私への不信感を伝えてくださったおかげでお互いが持っていた誤解が解けたということがありました。ということで、もし私に不信感を持っている方がいらしたらぜひ一度、ご連絡くださ~い(あ、一度も直接会ったこともなくて、不信感もっているケースはのぞいてです。そこまで対応できませんので)←って、そんな方はここに来られないか。こういうことを言うと、偽善者っぽく見られるかもですが私の場合、誰かを嫌うとか、この人はだめだ、と判断することはほとんどないのです。その人の表面ではなく、魂の部分を見ていけたらいいなあと。もちろん、聖人君主でないですから、たまには怒りを感じたり気分を害したりもしますが、それはむしろ相手に対してよりちゃんと伝えれなかった自分に対するもの。そして、例え、上手く行かなかったとしても自分自身を赦すことも大切なことですね。私もコミュニケーションに関しては、本当に多くの失敗を重ねてきました。あの時、こんな風に伝えれば、きっと相手もわかってくれたのになあ、そんな風に思うこともあります。でも、過ぎ去ったことをあれこれ思っても仕方ないですし次回から、そう変えていけばいいだけのこと。コミュニケーションは、日々の学びですね
2011年01月14日
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IHキネシオロジーと出会ってから、しばらくの間おさむに毎日のようにセッションを行った効果が出て最近のおさむの変化は、ほんとうに驚くものがあります。以前は、コミュニケーションをしていくのが苦手でいつも人といると疎外感を感じる、なんていっていたのに今は人とコミュニケーションをするのが好きだ、楽しい、に変わっていますし、一番変わった点は、以前は修行体質で、いつも何か目指して修行をしていたのに最近は、例えば、ギターを練習するのにも、ヨガするのもけして修行としてではなく、喜びとしてできている様子。この変化は、これまでの彼の生活を見ている私には、驚きです。なにしろ、彼は前世だけで15回ぐらいセッションをやっていますがそのほとんどが修行の前世でしたから、今生では、その修行を手放し、喜びの人生を送ることが必要だったのでしょう。もしこのIHと出会わなかったら、また今生でもずっと修行のパターンだったのでしょうねさて、先日会った友人とも話していたのは「こだわりは手放せば手放すほどいい」ということ。これはこうあるべきだ、とか、こういう人はだめだ、とかこういう言葉を使うなんてだめだ、とか。人は実にいろんなこだわりを持っています。その多くは、周りの人の影響や外からの情報によってそういう風に信じ込んでしまったものや自分のそれまでの経験から来るもの。食べ物や服、嗜好品や家など物質へのこだわりから行事へのこだわり、つきあう人へのこだわり、マナーや習慣のこだわり、お金に関するこだわり美へのこだわり、言葉へのこだわり、仕事のやり方のこだわり、生き方のこだわり、などなど。もちろん、例えば、仕事についてプロになればなるほどこれはこうした方がいい、というものは当然出てくるでしょうがそれが、時にして、そのやり方しか正しくないということになると、他のやり方を批判したり別の可能性を失うことにもつながるかもしれません。何かにこだわっていればいるほど、必ず、人をジャッジするようになりいつも判断、批判をしていて、満たされていることはできなくなってしまいます。言いかえれば、こだわりが多ければ多いほど癒すべきものが多いと言えるのかもしれないなあと。こだわりの多い人の前では、自分がその相手のこだわりに反した言動をしないようにというのが、意識にどこかに生まれるので窮屈に感じてしまったりします。先日会った私の友人は、あらゆることに、おそろしくこだわりがない人なので、彼女の前では、ほんとありのまま、自然でいられます。どんな自分であっても、ジャッジされないで受け入れてもらえるというのは、ほんとうに楽だなあと。かくいう私は、こだわらない人かと思っていたのですが例えば、以前は、私にとっての健康的な食べ物にこだわっていたりしました。今も、もちろん、できる限りは健康的なものを頂きますがオーガニックかどうか、とか、栄養学的にどうか、ということよりも精神的なものの影響の方が、心身に及ぼす影響は遥かに大きいことを実感してからは、特に健康的なものでなくても、感謝しておいしく頂きますし、そうすれば、その食べ物は身体に悪いものとして働くことはないのです。例えばインドの聖者みたいな意識レベルにあれば例え,何を食べたとしても病気にならないだろうなあと。(かといって、そんな人を目指しての修行はまたこだわりになりますが)さて、ここで一つお願いなのですが私がここに書いていることは、あくまでも私にとって感じたことや感動したこと。これが必ずしも、他の人にとっても同じように感じることだとは限りません。私はできるかぎり、自分の内なる感覚に正直になって、お伝えしようと思っていますがいつもブログをアップしながら「これと全く逆の真理もありえるなあ」なんて思っています。もちろん、今の時点では、私はそう感じていることは間違いないのですがそれは刻一刻と変化してゆきますし、また万人にとっての真理とは違います。また、私はこれがお勧めです~なんて勧めといてしばらくたったら、もうやっていない、なんてこともよくあることなので(ここで告白すると、以前お勧めした水シャワーはギブアップ中なのよ)私がよかったと書いていたから、とか勧めていたから、ということではなく、自分自身で調べたり、それが自分にとって必要かどうか、よく自分の内なる感覚を確かめてから、取り組んで頂けたらなあと思います。100人いたら、100人、違った感じ方や捉え方をするのは自然なことですから。自分の言ったことにもこだわらない私は時にいいかげんな人にもなる得るわけですが(というか、いいかげんな人?)それでも自由に感じるままに表現していくことを選択したいなあと思います~もう修行はやめようって言ったのに~~~
2011年01月12日
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今回は、ちょっと昔のNYの思い出話など。私が初めてニューヨークに来たのは1990年の冬。何だかんだでもう21年なんですよねその間、2、3年間は、日本に帰っていた時期があるので合計すると18年間ぐらいですが、それでも随分と長くなりました。NYに最初に来た時、私は誰もNYに知り合いもおらず所持金が全部で確か500ドルぐらいだったと思うのですがそれを持って、生まれて初めての海外であるNYに、旅行ではなく、いきなり、引っ越してきたわけですから今から考えると、それは若さというのか、無謀というのか、、あまり深くは考えていなかったことは間違いなさそうです1990年の頃のNYと、今とでは、かなり変わりました。NYに最初に到着したのは、夜だったのですが当時のJFKは、今から思い出すと、混沌とした印象で、やっとのことで、荷物をピックアップし、防弾ガラスが重々しいイエローキャブに乗ってこれまた混沌としたイーストビレッジに着いた時には、「ひゃ~何だか飛んでもないところに来ちゃったなあ」なんていう気持ちになりました。当時は、たくさんのホームレスが通りにいましたし娼婦やドラッグを売る人たちも、イーストビレッジの家の外に1歩出ればごろごろしていました。(そういった方たちを通りに見なくなったのは、ジュリアーニ市長になってからです)今の安全な雰囲気のNYとは、まるで違っていて私は、最初にNYに来た時には『お財布を持って外に出ないように』と、知り合った人にアドバイスしてもらいました。地下鉄の切符売り場やその他のところでお財布を取り出すと、お金を持っているとみられて襲われるからです。お財布さえ持てないなんて、なんというところじゃ~と思いつつ、そのアドバイスに従って、それからお財布を持つのをやめ万が一、襲われた時に手渡すための現金20ドルは、いつでも持つようにして(お金を少しでも渡さないと殺されると言われていたので)いつもポケットに直接、お金をいれていました。実際、その当時のNYは、危ないこともたくさんあって私がNYに住み始めて、ちょうど1ヶ月後に私のアパートの上の階に住んでいた人の家に強盗が入りその方が殺されたり、私も通りで変な人に追いかけられたり、帰り道に襲われて、バックをひったくられたりといろんなことがありました。当時のNYでは、車の中に何か一つでも物を置いていたら車のガラスを叩き割られて、それを盗られるのでいつも通りには、叩き割られたガラスのかけらが残っていました。当時の私の友人で車を持っている人たちはどんな小さな物でも車内に残さないようにしていましたしそれでも夜中に叩き割られていることはよくありました。なので、常に周りの状況に気を使うという習慣がここで暮らしている間に、すっかり染み付いてしまってやっと安心して、街にお財布を持って出かけることができるようになったのはそれから何年も後のことです。今では、地下鉄内で、ノートブックのコンピューターを開いている人もいますし、ニューヨークは本当に安全な街になったなあとつくづく感じます。それでも、その頃にしみついてしまった周りへの警戒心みたいなものは、無意識レベルで残っているのか時々、シャスタなどにいって、車に鍵をかけるのを忘れたりすると一瞬、ヒェ~となったりニューヨークでも、常に自分の持ち物への意識などはあるのですがでも、昔は地下鉄でうたた寝するなんて、あり得なかったのに、ここ近年は、地下鉄に乗れば、大抵、身体のどこかにレイキしながら、うたた寝していますもちろん、あまり安心し過ぎてはいけませんけどねさて、初めて、日本からNYにやってきた時私はNYでの仕事だけは、すでに日本で決まっていたので、初めて着いたその日に、JFK空港から、直接、仕事場に向かい、早速、その日の夜から働きました。(それもけっこうむちゃくちゃな話ですが)その仕事というのは、クラブでのキーボードの演奏。そのクラブは、生バンドが入っていて、そのバンドのバックでお客は歌うことができるということが売りのお店でした。私は夜7時から朝の4時まで(実際は朝6時すぎまででしたが)そのバンドのキーボーディストとして、演奏するという仕事。という話で、雇われたはずだったのですが実際、NYにやって来てみると、キーボードの演奏の合間にバーテンダーとしての仕事があり、むしろ、そちらがメインでした。もともと、お酒はむちゃくちゃ強かったし好きだったので、バーのお客と話ながら、毎晩、浴びるようにお酒を飲み、ほとんど前後不覚になりながら演奏して朝方には、そのまま店のみんなとカードでのギャンブルにあけくれ昼間になって眠るという本当に今から考えると、あり得ない日々を過ごしていました。(こんな私が今や、ヒーラー、セラピストだなんて人生ほんと何でもありですね)3ヶ月ぐらいそういう生活を送ってある日、ふと鏡を見るとゾンビみたいな顔の自分がいて「ああ、こんなことを続けていたら、早死にするなあ」なんて思ったことを覚えています。その頃の私は「今を生きる」のではなくただ刹那的に生きていたのでしょうね。その当時の私の口癖は「人生暇つぶし」でしたから。でも、その仕事は確かにハードでしたが、あれはあれで楽しかったのは間違いないですし、そういう時期も私にとって必要だったのだろうなあと。いろんな体験をしたことで、今、セラピーを行う上でのプラスになっていることは間違いありませんから。どんな経験でも無駄なものは、何もないですね。そして、当時のイーストビレッジには、アーティストがたくさん住んでいましたから毎晩、店にやってくるお客の多くはそういったアーティストたちでしたし私はすぐに、そういう人たちと親しくなってそれまで知らなかったいろんな世界を知りました。当時、NYで人と知り合えば、必ずと言っていいほど聞かれた質問は『どうしてNYに来たの?』ということ。どうして?というのは、どういう目的で、という意味です。今では、誰でも、特に何かの目的がなくてもNYに来られますが当時は、何かを目指していたり、何かを達成したいと思ってニューヨークに来ているという人がほとんどでした。そんな質問をされる度に私は「何の目的もないです。ただ、ニューヨークに住もうと思ってやって来ました」と答えていました。日本で音楽の才能の限界を感じて、NYに来た私にとっては何かを目指すことそのものをやめたかったのです。そんなある日「人生暇つぶしですから」そんな風に答えた私に、バーで出会った2人のアーティストがお互いに顔を見合わせながら「ふふ~あなたの目はそうは言っていないよ」と言うのでした。そして、私に精神世界の本や哲学や科学について教えてくれました。瞑想というものを最初に教えてもらったのもアインシュタインや科学に興味を持ち始めたのも才能だの何だの考えず、自分のやりたいと感じるままに何でもやってみようと思い始めたのもその当時に出会った人たちの影響がありました。今から思うと、みんなではないけれど、そこで出会った人たちは人との出会いというものは、すべて目に観えない宇宙の采配で大いなる存在からのメッセージであって人生の中で何よりも大切なものなのだということを、魂レベルでわかっていた人が多かったように感じます。だから、初めて出会った瞬間に、古くからの親友のように安心して自分のすべてをオープンにできる、そんな出会いがよくありました。そうして、私は、次第に刹那的に生きるのではなく本当に魂の喜びを感じるような生き方をしようと思うようになりました。今の私にとって、喜びを感じて生きるというのは、一瞬一瞬が最高に満たされているということであって未来のために、今を犠牲にして生きることでも、また、自分の内なる声がやりたいと感じることをやろうとせず、その場限りの楽しみや遊びに逃げることでもありません。(もちろん、その場限りの遊びも日々の生活の中では必要ですけれどね)でも、その両方を体験してきたからこそ、今、そう言えるのかもしれないなあと。刹那的に生きてみたり、または逆に自分は不足している、もっと修行や学びが必要だと感じながら、常に何かを求めて生きていたり、その両方の時期が私にとって必要だったのでしょう。今では、おさむも私もスピリチュアルな学びのために修行をする必要なんて何もない、ということを知っているわけですがでも、これまで修行のようなことを一度もやらなかったとしたらそうは感じなかったかもしれませんから。「修行は必要ないことを知るために、修行をしてきた」そんな風にも言えるかもしれません。ブレインジムのポールデニッソンも「がんばらないことが大切だ、ということを学ぶためにがんばって苦しんだ経験も自分にとって必要だった」というようなことを書かれてあって、深く納得しました。もちろん、経験しなくても、わかる人もいることでしょう。みんなそれぞれが今、経験していることに、何も間違いはないですね。先日は、全く逆の意味だと書きましたがもしかすると、自由に自分の使命を求めることも自分の使命から自由になることも本質は同じことなんじゃないかしら?と。(って、あくまでも誤訳は誤訳だ~)時代はどんどん変化していますし、私たち自身も変化してゆきます。大昔から変わらず、存在している真理もありますし時代とともに変化してゆくものもあります。そして、私にとって、今も昔も変わらない真理は人との出会い、人とのつながりの大切さ。そして、それは、きっと、これから先、例え、何をしていたとしてもきっと変わらない部分だなあと。なんて、今日は、とりとめもない話かもどうして、こんな話をしたくなったのかしら~と、自分の内をよく見てみると私にも何かができるかしら?とか自分を変えることができるかしら?とかそんな不安を持っている方々へ、いつも伝えたいなあと感じるのです。例え、あなたが、今、どんな状態であったとしても日々、思うように行かないことが多かったとしても何が自分にとってのベストの道なのかわからなかったとしても、大丈夫。何で大丈夫なの?って言われてそれを言葉で説明しようとすると、何だか嘘っぽい感じがするので難しいのですが私の中では確信していることだから。絶対に大丈夫なんです!(敢えて絶対という言葉を使いますが)少しでも何かが伝わったらいいなあと願いつつ、、、読んでくださってありがとう~もぐらさんは、元気で暮らしているかしら~♪
2010年12月28日
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先日、バッチフラワーのAgrimonyをご紹介しましたがバッチフラワーの中でよく出てくるエッセンスの中にELMというエッセンスがあります。これは、仕事ややらなければならないことに、プレッシャーや責任を感じていたり、自分が上手くその状況を乗り越えて、よい仕事ができるかどうか自信がないような状況の時に(潜在意識が)選ぶエッセンスです。これも本当によく出てくるエッセンスで、数えたことはないのですが2、3日に1回ぐらいは、クライアントさんのどなたかが選んでいるように感じます。それほど、多くの人は、仕事や家事や勉強など「やらなければならないこと」をいつも抱えているということでしょう。筋肉反射テストで、中学生の子もこのエッセンスを選びますから、子供でも勉強のプレッシャーを抱えているということです。私たちの多くは、いつのまにか、小さな頃からずっとそんなプレッシャーを感じながら生きているのかもしれませんね。先日のバハマで、ホリスティック医療のバーマン先生が『ねばならないことは、何一つない』と言われていましたが多くの「ねばならない」を私たちは知らず知らずのうちに抱えてしまっています。「もっと勉強しなければならない」「この仕事を~~までに終わらさなければならない」「もっと痩せなければならない」「人と上手くつきあっていかなければならない」「早くメールのお返事を出さなければならない」(←これ少し前までの私)先生は、日々、自分の考えや言葉にどれだけ「ねばならない」があるかを見つめてみなさいと言われていました。私は昔から、この「ねばならない」が好きではなかったのですがもしも「~~ねばならない」という考えが浮かんだ時には、それを「~~したい」に置き換えることができるかどうか自問自答してみます。「もっと勉強したい」「この仕事を~~までに終わらせたい」「もっと痩せたい」「人と上手くつきあってゆきたい」「早くメールのお返事を出したい」そんな風に置き換えてみて、それで、もし自然に置き換えることができたならいくら大変なチャレンジであっても、その実現に向けて行動します。でも、もしも、置き換えるのに心のどこかで抵抗を感じるのならそれはやめるか、別の方法を模索します。(なので、一昨日、ここに書いたように自分の目標や約束を簡単に変えてしまうことにもつながるのですけれどね)自分が本当はやりたいと感じているのにできていないということとやりたくないと感じていて、できないことでは大きく違います。やりたいと感じているのにできないのならそれは潜在意識を調整したり、癒したりしてゆく必要がありますがやりたくないと感じているものはできなくていいのですから。「自分が本当にやりたいと感じることだけをやってゆく」そんなことを言ったら、学校の勉強はしなくてもいいの?仕事はやらなくてもいいの?その責任はどうなるの?なんて言われる人もいるかもしれませんが実際のところ、本当にそれを自分が望むことでないのならやる必要はないと私は思います。もちろん、やらなかったことに対する結果は自分で全部請け負うことになります。勉強したくないから勉強しないとなれば、学校の成績が下がるでしょうがそれによって、影響を受けるのは自分でしかありません。でも、人生、いつでも勉強したくなった時にすればいいのですから。遅すぎることなんて何一つありませんし親や周りの人から言われたからやることは、自分が進むべき道ではないと私は思います。でも、自分でも勉強をしたい、自分には勉強が必要だと思っているのにも関わらず、できないのならそのできない理由を探して、変えてゆく必要があります。また、例えば、家族を養うために、自分の好きではない仕事を「やらなければならない」と考えている人もいるかもしれません。でも、ただ自分が犠牲になってそれをやり続けているのならそれは何かが違うということです。何か別の道を探してゆく必要があるのです。ということで、かれこれ5年前になるのでご存知の方も多いでしょうがAPPLEの創始者スティーブジョブズ氏の講演から印象的な言葉から抜粋してみますね。これはスタンフォード大学卒業祝賀スピーチです。 <日本語翻訳:市村佐登美さん>3つ目は、死に関するお話です私は17歳の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。 「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。 そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」それは、私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝、鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。 「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、 今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て・・・外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て・・・こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば、自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。 全くその通りなのですよね。『ねばならないこと」と思っているのは外部からの期待、自分のプライド、屈辱や挫折に対する恐怖そういうところから起こるのです。ですから、自分が「ねばならない」と思っていることが本当に自分の望むことなのかそれとも周りからの期待や、自分自身のプライド、挫折に対する恐れなのかしっかり見つめてゆくことが大切ですね。そうして、もしそのことが、自分が心から望むことがないとわかったなら周りからどう言われようとも、それをやめたり、変えてゆく勇気も必要だと思います。例え、どんな状況であっても、私たちはやりたくないことをやるために生まれてきたわけではないのですから。この世での人生を終えた時に、後悔しないようにその日、その日が人生最後の1日だと思って、自分のやりたいように生きること。そうすれば「ねばならない」は何一つなくなりますね(そんなこと、そう簡単にはできないって?自分の内側が変わればできるのよ~これが)
2010年12月15日
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キネシオロジーのセッションの中で、調整にフラワーエッセンスが必要だと出た場合筋肉反射テストで選んでゆくのですが、私が持っているエッセンスの中で、まだ一度も選ばれたことがないエッセンスもあれば毎回のようによく出るエッセンスもあります。そして、クライアントの方の潜在意識が選ぶフラワーエッセンスを見ていると、いろんな傾向がわかってきます。その多くの人が選ぶエッセンスの中にバッチフラワーのAgrimonyというエッセンスがあります。これは、自分の感情に蓋をしたり、自分の感じていることを周りの人に話さないという傾向がある方が(潜在的に)選ぶエッセンスです。このAgrimony のエッセンスの効用としてあげられる「自分の感じていることを周りの人に分かち合ってゆく」ということに関して、最近、いろいろ感じることがありました。これができない人って、日本人には案外多いのでしょうね。日本では、あまり自分の感情を表すことや人に自分が感じていることを話すことをよしとしない部分もありますし、潔くないと感じる風潮があるのかもしれません。私は昔からかなりオープンな方だとは思いますが人にシェアするのは、自分の中ですでにその問題が解決ができたものに関してのみ、そこから何か学び、それを昇華した後はどんなことでもシェアできるのですが、それがまだ自分の中で解決されていない時には例え、おさむであってもあまり言わないことが多かったです。これは一つには、例え話したところで、何の解決にもならないことがわかっているから。もちろん、セラピーやヒ-リングなどの場では感じていることをセラピストやヒーラーに話す必要があるでしょうがそれ以外では、自分自身で解決してゆくしかないですしそれを周りの人に話したところで、単なる愚痴や不平不満になりかねません。起こっていることのすべては、例え、意識していなくても自分が招き引き寄せているものであって、自分の選択の結果。私は愚痴や人のことを悪く言うことが何よりも嫌だったので、そういうことを言っている自分を赦せないと感じていたのですね。だから、おさむとの生活の中で、これまで、いろんなことを話していても愚痴や他人を悪く言うような会話は、思い出す限りありませんでした。お互い、すべての責任は自分にある、ということがわかっているので例え、何か私が話したとしても「それはのりこ自身が招いたことでしょ」ということになることはわかっていたし私も「全くその通りよね」ということになってしまうので話す必要性を感じていなかったのです。でも、そういう私が最近、特にこのIHキネシオロジーを初めてから変わってきたなあと。例え、それが問題の根本的な解決につながらなくても、また例え、それが愚痴っぽくなってしまったとしてもその時、その時で、信頼できる人たちにシェアしてしていくのも大切なことだなあと感じるようになりました。つい先日も、ちょっとしたことが起こって私の中で「これはどう自分の中で折り合いをつけていくのかしら?」「一体私はここから何を学ぶ必要があるのだろう」と思っていました。その問題というのは、私がやったことが相手に受け入れられず、認められなかったという事実。もちろん、これは相手の方が悪いのではなく私のやり方に問題があったことは間違いないことでした。でも、その方に対しては、仕事としてではなく、サポートしてきたつもりでいてこれからも私ができる限りのことをしていこうと思っていたのでこの方なら理解できるかも、とどこかで期待していたこともあって(そこに私のエゴもあったのかもしれません)感じたことをそのままお伝えしたのですが価値判断されてしまい、やはり真意はわかってもらえなかったのだなあととてもがっかりもしていました。でも、バハマで過ごしている中で深く自分のうちとつながる感覚があってああ、いいんだ、自分を理解してもらえなかったことに対して例え怒りを持ったとしても、ただそれを感じて、解放してゆけばいいだけなのだということがストンと腑に落ちた時があってそうしたら、その瞬間にその問題はあっさりなくなっていました。そして、バーマン先生の「悪い感情というものは何もない」という言葉が、さらに大きな意味を持って、私の中に入ってきました。それから、NYに戻って、おさむとそのことを話す機会があったので「実はこういうことがあったんだよ~」といういきさつを話したのですが、おさむが即座に「それはひどいわ、腹立つなあ」と言ってくれた時に、さ~~と私の中で、何かが昇華されていくのを感じました。すでに私の中では、その問題はすでに解決したことであってそれに対する怒りの感覚はなかったのですがもっと素直に怒りを感じて、分かち合えばそれでよかったのだなあ、と。それまでは、自分のことを理解してもらおうとすること自体がエゴだと思っていたのですが、例え、そうであったとしても、感情を感じて、解放してゆく必要があったのです。怒りは、もっとも私たちに気づきを与えてくれる感情だとバーマン先生が言われていたように本当に学ぶことが多いですね。IHキネシオロジーの「魂からのメッセージ」というリストの中に『腹を立てたり、怒りをぶちまけたり、怒りのあまりに何かを決心してもいいんだよ」というメッセージがあります。怒りをぶちまけていい、なんてすごいメッセージですが怒りを感じることにたいして、自己非難しないことが何よりも大切だということ。まさに、ちょうど今日、セッションに来られた方の中でその言葉を選んだ方がいらっしゃって、深く納得しました。私はこれまで、人に対しては「素直に怒りを感じてもいいのですよ」と言い続けてきたのに、自分自身が怒りを感じることは、まだ完全に赦していなかったのでしょうね実際、あまり怒らなければならないようなことは、最近ほとんど起こらなかったこともあるのですが今回のことは、そのことを私自身が感じ、実感するためのレッスンだったということに、気づきました。そうしたら、そのきっかけをくれた相手の方へ感謝の気持ちが自然と内から湧き出てきました。けして、きれいごとではなく、そこから本当に学ぶことができればやっぱりすべては感謝になってゆきますね。以前、友人で、普段は滅多に愚痴っぽいことは口にせず自分一人ですべてを解決してしまう人がその時、抱えていた問題について、心の葛藤を話してくれた時に私は信頼されているんだなあと感じて、とてもうれしかったことがありました。もちろん、その方は、すぐに自分自身で解決してゆくことができる人であるのはわかっていたので、私は心配もしていなかったのですがそれでも、シェアしてくれたことに感謝でした。起こっていることのすべては意識しているいないに関わらず自分自身が引き寄せていることであって自分の責任であることは間違いないにしてもそれをふまえた上で、周りの信頼できる人たちに自分が感じていることを分かち合ってゆくことは必要だということをつくづく感じています。Agrimonyのエッセンスは、自分の感じていることを人と分かち合わない人だけでなく自分の感情そのものに蓋をしてしまう傾向がある方もよく選びます。例えば、潜在意識の中では孤独だと感じているのに自分でそれを感じないようにしていたり、悲しみを感じないようにしていたり。そういう感情のブロックは、傷つきたくないという自分自身をプロテクトするために起こっているのですが、でも、その感情を一度はしっかり見つめない限り、本当の意味でそこから抜け出せないのです。自分の感情をしっかり向き合い、そしてそれを人と分かち合ってゆくこと。もちろん、自分が気づかないような深い無意識の部分での癒しが必要なことも多いですし、それだけでは解決できないことも多いのですが少なくとも、自分一人で抱えているより、心は軽くなってゆきますから
2010年12月12日
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バハマ6日目。昨日のバハマの日記を、今読み返してみると何だか気合い入った文だなあといや、その前の日記を読み返してみてもそうなんだけれど書くという行為のために、自分の内面を見つめてみるとこういう文になってしまうことが多いのですが、書いたものが、けして私の感じていることのすべてではないのですよね。いえ、時には後から読み返すと、全く自分が感じていることとは違ったものに感じられることもあるので言葉で伝えてゆくことの難しさを感じます。例えば、昨日の日記を読むと「アセンションに向かってまっしぐらに進むぞ~」というニュアンスだし、実際、そういう想いもあるのは確かなのですが一方で「アセンションなんて、いつかそうなる時はなるし、ならない時はならないのだから、すべては天にお任せだなあ」と思っている部分もあるわけです気合いというのは、自分の人生を創っていく原動力になるわけですが一方で、コントロールしようとしたり、抵抗したりということにもつながってくるかもしれませんね。コントロールや抵抗を手放すこと。フラワーエッセンスでも、そういう効用のものは多いのですが私たちはつい、自分の力の範囲に及ばないところまでコントロールしようとしてしまいます。自分の人生は自分でクリエイトしていくことは確かなことですが一方で、自分が生かされていることに感謝しすべてを天にゆだねることも大切。Surrender(サレンダー)ゆだねること。でもサレンダーは、けして、何もしないということではないなあと。ヨガのポーズの中で、足先を持って前屈するポーズは、サレンダーのポーズと言われていますが先日、久々にこれをじっくりとやった時に、先生からゆだねなさい、と言われても膝や太腿の裏側ががつっぱって痛くて、「こんなに痛いのに、ゆだねられないよ~」という気持ちになったわけです3分ほどそのポーズを保っている間は、サレンダーどころか、心の中は、struggle (もがく)に近いかもところが、3日が過ぎ、筋肉痛もほぼなくなってきてくるとその膝や太腿の裏側がストレッチされるのが、心地よく感じるようになりリラックスして、ゆだねることができるようになってきます。もし、最初から、こんなのは無理とやらなかったとしたらもしくは、できるところまでやらずに、完全に手を抜いてやっていたとしたらこの心地よさはけして得られなかったなあと。つまり、ゆだねるためには、とりあえず、今、自分ができることはやってみなくてはいけないということ。例えば、家を探すのに、いい家が見つかるかどうか?は天にゆだねられているわけですが何もしなくて、ただ待っていても見つかりません。不動産を回ったり、広告を見て探したり、友人に尋ねたり、という行動があって初めて、その結果は天にゆだねるということになるわけです。すべてを天にゆだねるといっても、最初っから、何にもしないで何か変化を待っていても、何も起こりませんから。ゆだねることと、あきらめることは、全く違うこと。自分が今、できることをやっていったら、後はゆだねる。時には、もがくようなこともサレンダーの前には必要なのかもしれません。このバランスが難しいところなのかもしれませんね。自分ができること、というのが、どこまでやることなのかわからなくなる時もありますから。前屈をやるのに、あまりにも無理しすぎて、身体を痛めてしまってはもとも子もないわけですしね。結局は、自分の内なる感覚に従ってゆくしかないなあと。自分の身体がどこまでやったら大丈夫なのか?また精神的、感情的にも、自分が無理をしていることが、わかっていないとゆだねるポイントもわからなくなります。ということで、人生の中では、ゆだねるためのレッスンも大切なのかもしれませんね。レイキは、まさにサレンダー♪自分の力で癒そうとか治そうとかするのではなく宇宙のエネルギーレイキにすべてをゆだねて、無心で手を当てる。癒されようと癒されまいと、その結果は天におまかせです。昨日話した、マントラを唱えたり、祈ったりというようなことも大いなる存在に畏敬の念を持って、ゆだねてゆくためのレッスンなのかもしれません。バーマン先生は、このあたりのバランスがとても取れている方だなあと感じます。日々、様々なことを学び、アセンションへのプロセスを説かれマントラ瞑想には限界がある、そう言われる一方で講話の会場に入る時も、スワミシバナンダの写真に向かって、頭を床に伏せてから入られるし毎朝毎夜の瞑想やチャンティングも欠かさず、参加されて、深く敬意を払われているのを見ると自分ができる最大限のことをやりながらその結果は、天や宇宙にすべてをゆだねるという彼のあり方が見えてきます。ということで、今日のアファメーション♪「私は今、できることをやったら、その結果はすべて天にゆだねてゆきます」さて、今日もバハマはよいお天気いろいろ感じたこと、伝えたいこともあるのですが、これからは、ゆだねる時間。ビーチでレイキに行ってきま~す
2010年12月04日
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今さらですが、この世での年齢って、ほんと関係ないなあとつくづく感じます。私は昔から、自分より年齢が20も30も上の人と友人としてつきあうことがありましたが、今でも、それはかわらない部分。今も、友人としてつきあう人は、ずっと年上だったり、あるいは、私よりずっと年下だったり。強いていえば、友人となるのに必要なのは実年齢ではなく、魂年齢だといえるのかもしれません。私が、数年前に知り合い、いつも美術館や食事に行って、いろんなことを分かち合っている友人もまた、最近知り合ったヒーラーで、気があってよく話をする友人も私より一回り上の年代です。その2人とも、若い頃からのキャリアや実績がある方なのですがそこでのキャリアを捨てて、今から新たなことをやっていこうとしている人たちなので話していると、私もさらなるパワーが湧いてきます。時々、40代なのに、まだこんなことをしていていいのかしら?とか、50になって、今さらこんなことを始めても意味があるのかしら?などと言われる方もいますが40歳、50歳なんて、どんなことを始めるのでも遅くない年齢。いえ、60歳だって、70歳だって、遅くはないと思います。先日、友人とも話をしたのですが、アメリカの素晴らしいところの一つとしてこのくらいの年代の人たちのパワーがあること。どんなスピリチュアルやヒーリングのワークショップやクラスに行っても必ずといっていいほど、50代、60代、70代の人たちが参加しています。それもただ暇つぶしで参加しているのではなくこれから、自分のことをもっと知ろうとか人に貢献するために何かを学ぼうとしている人たちです。以前、ペンデュラムのワークショップに参加した時も80歳ぐらいの男性が参加されていたしまた、エンジェルヒーリング(キリスト教としてのエンジェルではなくスピリチュアルヒーリングとしてのワーク)のクラスの参加した時も、かなり年配の男女が参加されていました。もし、これが日本でパワーストーンやエンジェルのワークショップだったらきっと、参加するのは20代、30代の女性ばかりなんじゃないかしら?と思うのです。昨日、久々に参加したヨガのクラスにも80歳ぐらいの女性で、初心者の方が参加されていました。でも、日本もこれから大きく変わってゆくのでしょうね。だって、これまでの常識にとらわれないでいる20代、30代、40代方たちがこれから60歳、70歳となってゆくのですから。私も70歳になったら、静かに家でテレビでも見て過ごそう、なんて全く思いませんしね人生を通じて、学び、自分のことをより深く知ったり自分の新たな可能性を見いだしてゆくこと、そして、それをまた何かの形で社会や人々に還元してゆくことは、私たちみんなに与えられた大きな喜びと祝福です。もちろん、この何かの形で、というのは、必ずしもそれを仕事としてやるということだけに限りません。自分の意識レベルがあがれば、周りへの影響は必ずあるのですから、それはもう還元していることになりますから。何かを学んだり、勉強したりする時にそれをやるべきかどうか?というのは、それを学ぶことが本当に自分にとって楽しいかどうか?が何よりも大切だなあと。それを学ぶこと自体が楽しくてたまらないのなら今さら、それを学んで何になるのだろう?などいうことにはなりませんから。その延長上に、これを仕事としよう、ということが出てくるわけであってそれを「それを仕事とするために、この勉強をする」のは本来は逆なんじゃないかな~と思います。いつでも、学びたいと思った時が学ぶ時。何かを学ぶのに遅すぎることなんてないのです。私も死ぬまで、何かを学び続けたいし、自分の中の新たなる可能性を見つけてゆきたいなあと思います。
2010年11月09日
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よく人は幸せになりたい、といいますが、幸せというのは、何かそういう素晴らしい状況があるから感じるのではなくて幸せを感じる心があるかないか、だけだなあと思います。幸せになるかならないか? ではなく、幸せを感じるか感じないか? ですね。人から見て、羨むような恵まれた環境にあっても幸せではないと感じている人はとても多いですし逆に、とても大変な状況にように見えても幸せを感じて日々を生きている人もいます。では、なぜ似たような状況でも、幸せだと感じる人と不幸だと感じる人といるのはなぜなのかしら?そのことを最初に考え始めたのは、私が20代前半の頃でした。(ちょっと今日は昔話になりますが)当時、私は学生時代からつきあって、結婚しようとしていた彼がいたのですがその彼が、突然、結婚はできないと一緒に暮らしていた家を出ていってしまって新たな人生を模索し始めていました。新居も構え、親から家具など買ってもらい、後は結婚するだけという時のことでショックと、親に申し訳なく思う気持ちとともに、なぜか「これで、私の人生は新たな可能性が出てきたんだ」という、何か冒険を始めるような気持ちがあるのを、どこかに感じていました。その頃、私は音楽の仕事での才能に限界を感じてしまっていてこのままでは、どうせ音楽家としてたいしたことはできないのだし結婚でもして、適当に仕事していよう、と結婚に逃げようとしていたことは、自分でも充分にわかっていたことでした。(まだ20代前半なのに、才能に限界を感じてあきらめるなんて、今から考えると、ばかばかしいのですけどね)そして、結婚できなくなったことで、「逃げないで、自分の道を歩いてゆきなさい」と天に言われたような気がしていました。それで、積極的にいろんな人と関わってゆくようになったのですがその頃、知り合ったある男性と、初めてのデートをすることになりとあるバーで待ち合わせました。その彼は、その当時、40代の人でしたから、当時の私よりもずっと様々な人生の経験があり、海外での経験が長い人でした。その待ち合わせのバーに着くと、その彼が一人の女性と話しています。(もう人をデートに誘っておいて、他の女性を口説いているんだからなあ)と、半ばあきれつつ、2人が話している席に向かうと、彼は全くわびることなく「おお、中村!よく来た。この人は~~さんだ」と私を彼女に紹介してくれました(私の名字は中村です)そして、しばらく3人で話をした後、彼女が去って私とその彼と2人になってから、彼が私に言うことには「中村。今度、あの彼女と2人で会って、きみから話をしてあげてくれないか?さっき、彼女は一人でバーに座って飲んでいて、その表情があまりにも悲しみに満ちていたので、声をかけたのだよ。そうしたら、やはり、かなり落ち込んでいて長年、つきあっていた彼に振られて、もう死にたいというのだ。だから、俺は、世界中のいろんな子供たちの話をしてあげていたところなんだ。世界中には飢えて死にかけている子たちもたくさんいるそれでも日々、小さな幸せを感じながら、一生懸命、生きている子たちがたくさんいる、そんな世界のことを話していたんだ」その彼は、そんな人間愛に満ちた人でした。と、そんないきさつがあり、何で私が話をする必要があるのかよくわからないまま、私はその彼女と後日、2人で会うことになりました。今なら、もっとその彼女にいろんなことが言えたのでしょうが当時20代前半の私は、ヒーリングなんて言葉さえ知らない時代でしたし自分だって、彼に振られたばかりで、仕事もこれからどうしていくかわからず、何も見えていない時でした。それに、その相手の女性は30代半ばでしたし、そんな年上の人に向かって気の効いたことなんて何も言えないし、一体、私に何を話せというのかしら?と思いつつ、私は彼女に会うと、自然と自分の経験してきたことを話していました。それは結婚のことだけでなく、私がそれまで経験してきた様々なことでした。私の話を聞いていた彼女は、とても驚いた様子で「信じられない。よくあなたはそんな辛い経験をして、今まで生きて来れたわね。私ならとっくに死んでいるかも。私より不幸な人っているのね」というのです。この言葉には私の方が驚きました。私が経験してきたことは、それほど不幸な状況なのかしら?もちろん、大変な状況はいくつかあったもののいくら考えても、私のそれまでの経験が不幸だったとは到底思えませんでした。(実際に、それよりもっと大変な状況は、その後、山ほどありました)その後、何度か彼女と会って、カウンセリングのように彼女の話を聞きました。そして、彼女は「何だかあなたの話を聞いていたら、勇気が湧いてきたわ。私もあなたのように強く生きなくては」そういって、すっかり元気になっていったのでした。自分の経験したことをシェアすることが、誰かにとって勇気や元気をもたらすことがあるのだということを初めて知った時でした。そして、幸せか不幸かは、けしてその人の置かれている状況ではないということとともに、なぜ、こんなに捉え方が違うのだろう?と考えるようになりました。当時は、それは考え方の問題だと思っていました。もし、あの時、20代前半で結婚してしまっていたらその後、ニューヨークに来ることもなくいくつかの素晴らしい出会いもなくそして、今、最愛のおさむとの出会いもなかったのだなあと思うと、あの時、結婚をやめて、出ていってくれた彼には、いつもよくぞ、出ていってくれたよね~と感謝なのです。(その彼は、今も私のよき友ですが)仕事にしても、もしも何か音楽で満足する仕事ができていたら今のように、ヒーリングの仕事で喜びを得ることはなかったかもしれません。最も不幸だと感じるような出来事も、最も幸せだと感じることへとつながる道かもしれないのです。だから、今、起こっていることをよいことだとか悪いことだとか、あれこれ判断しても仕方がないなあと。でも、これは理屈ではなく、自分で体験してきたからこそわかったこと。今、辛いと感じている人にそんな風に言っても何も始まりません。私のところにメールをくださる方の中にもご自身の今の大変な状況を書いて来られる方がいてそれはもちろん、その方にとっては大変な状況なのですが本当の問題は状況そのものなのではなく、その状況に対する感じ方。感じ方は、考え方ではないのですからその方が幸せを感じる力を持たない限り、何も変わらないでしょう。では、幸せを感じる力って何だろうなあと思った時にやはり、今、この瞬間に生きることができるかどうか、なのだなあと。いつも過去や未来に生きている限り、幸せは感じることができないのですね。そして、今、この瞬間に生きるために、潜在意識の中にある手放す必要があるものは、手放してゆく必要があるのだと。幸せを感じれない要因を一つ一つ手放してゆくこと。人は、どんな人でも大いなる祝福を受けています。でも、自分の中に曇りがあれば、それに気づくことはできません。潜在意識の奥深くにある不必要なものを手放すことによってもともと誰もが持っている大いなる祝福と光に気づいてゆくことができるのだなあと。だから、癒しやヒーリングは、今この瞬間を生きて、幸せを感じるためのものなのだなあと、思うのです。と、長々書いたわりには、なんか上手く伝えきれない感があるのだけれど、、このままアップしちゃいます~
2010年11月01日
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先日、昔の書類を整理していたら、小さなメモ帳が出てきて中を開いてみたら、かれこれ16、7年ぐらい前、おさむとも出会う前の時期にメモしたノートでした。それは、その頃、読んで感銘を受けた「聖なる予言」に基づいて、書いたものだったのですが今、読み返すと、ああ、この頃の私はこんな風に感じていたんだなあとかこの部分は今も変わっていないんだなあ、など、とても感慨深く感じました。その中に書いてあったのは、1)これまでの私の人生に起こったシンクロニシティのこと2)今持っている過去からの思い込みと、変えたいと思っていること3)これから欲しいと思っていることやもの4)今の私の人生で一番大切なもの5)私が一番素晴らしいと思う人の特質6)今、頭の中でずっと考えていること7)私が抱えている問題点8)私が変化しつつある点9)自分の思い込みを変える言葉といった内容。この中で(3)の「これから欲しいと思っていることやもの」は(1)お互いを愛し、共に信頼して人生を歩いてゆけるパートナー(ソウルメイト)(2)自分の好きな仕事によって、収入を得ることができる状況(3)人前でも普段の実力を出せること(4)マックやキーボードなど作曲に役立つ道具(5)快適な広さの部屋と書かれてあって、それらは今、どれも叶っているのだなあと思うと何だか感動で、感謝で一杯になりました。(人前でも普段の実力を出せること、というのが叶っているかどうかは微妙ですが)また「私の人生で一番大切なもの」というところでは(1)私を勇気づけ、暖かく見守ってくれている友人たち(2)地球が美しく平和な星であってくれること(3)愛し、愛されること(4)自然に触れることと書かれてあって、これは、今もあまり変わらない部分ですがその頃から、そういう風に感じていたことはすっかり忘れていました。そして、今は、また親しい友人以外に、大切だと感じる人たちが増えたことはさらに幸せなことだなあと。一方「私が一番素晴らしいと思う人々の特質」には(1)自分自身と他人を信頼し、周りの人々に愛を与えることができる人(2)自分の限りない可能性を信じ、どんな困難にも負けずに強く生きている人(3)物質より精神の充実に重きを置いている人(4)やりたいことがいつもたくさんあって、またそれをやっている人(5)前向きでいつも前進しており、それでいて謙虚な気持ちで取り組んでいる人と書かれてありました。確かに、ここに書いているのは、素晴らしい人だと言えるのでしょうが、「どんな困難にも負けずに」とか「いつも前進して」なんてそんな人で居続けるのは疲れるよなあ、なんて、感じました。今なら、たまに落ち込んでもオッケー、立ち止まってもオッケーがんばらなくてもオッケーだよと、言いたいところですけどねその頃の私は、常にこういう人でありたいと、がんばっていたのでしょうね。また、「私が変えたいと思っていること」に関しては(1)自分の中にある不安や怖れ、自己否定の感情を完全に取り除き、自己を信頼すること。(2)すぐに頭で考えすぎてしまうことをやめて、直感に従うこととありました。そうか~この頃は、まだ完全に自分を信頼していなかったのね~と。また、直感に従うこともできていなかったのですね。(今は、ほとんど考えることなく、すぐに行動に移す感じになっていますが)そして、「今、抱えている問題点や行き詰まっている部分」に関しては(1)物質より精神のあり方が私にとって、最も重要であると知っているのに コンピューターや快適なアパートを求めようとしていること。(2)私の望むことは、何でもできるということを知っているのにまだやりたくない仕事をやっていたり、上手くいくかどうか不安を感じていたりすることと書かれてありました。この(1)の部分は、思わずくく~笑ってしまったのだけれど、その頃の私にとっては、重要な課題だったのでしょうね。今なら、自分にとって必要な道具や生活を豊かにしてゆくことが別に精神の学びを阻害することにはならないとわかっているわけですがその頃の私は、何か物質を欲すること自体が、精神の学びを妨げることだと思っていたのです。また(2)に関しても、自分はどんな風にも人生を切り開いてゆくことができる、ということを、充分に学んだはずなのに、まだ生計を立てるためにやりたくない仕事を、やっている自分に対して、ジレンマを感じていたのだなあと。「頭の中でいつも考えていること」に関しても同じように1)早く、今の仕事をやめて、好きなことで収入を得たいということ2)私は他人に対して、何をしてあげれるのか、この地球に対して何ができるのかということ。というのが書かれてありました。その頃の私は、自分の好きなことで収入を得れないことと自分は何も社会や人に対して貢献できていないと感じていてそれが何よりも大きな問題でした。そして、私が本当に好きなことだけをして暮らしていけるようになるまでにはこのメモを書いてから、10何年かの年月がかかったわけです。その年月をかけて、自分の中の不必要な感情や執着を手放しすべてを信頼して、あるがままにゆだねることを学ぶことが必要だったのだなあと。スピリチュアルな学びをしていく過程の中で自分の意識は変わったのに、自分のいる状況は変わらないことに対して苛立ちを感じることがあります。(ちなみに、そういう時によいのが、アラスカンエッセンスのポーラーアイス。変容の時に焦らず、じっくりと待つことを促してくれます)でも、それもまた一つの大切な過程。起こるべきことは、必ずベストなタイミングで起こるのですから。もしも、タイムマシーンがあるのなら、16、7年前の私に「大丈夫。あなたが望むことは全て叶えられるよ。自分の人生を完全に信頼して」そう言ってあげたいなあと。「自分の人生を信頼すること」ちょうど今日、キネシオロジーのセッションに来られた方の中にもその目標で潜在意識を調整された方がいました。そう、何が起こったとしても、起こらなかったとしても必ず、自分の人生がベストな方向に向かうことを信頼していること。一見、周りの環境や今の状況が変わらないように見えたとしても信頼してゆだねてゆけば、必ず導かれてゆくのですから。ほっこり出てきた昔のメモ帳から、またいろんなことを感じました。さて、これから10年後、20年後の私は、今の私にどんなメッセージを伝えたいと思うのかしらね~楽しみです♪いつだって、あなた自身とあなたの人生を信頼していてくださいね
2010年10月24日
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いくら好きな仕事でも、やはり定期的に休むことが大切だなあと最近、つくづく感じたので、今週から隔週で週休2日にすることにしてこの日は約4ヶ月ぶりの2連休でした。この日、友人とベジタリアンインディアンレストランで食事をしてきました。信頼できて、どんなことでも話し合うことができる友人とのおしゃべりの時間は、いつでも心に暖かさと新たな勇気と活力をもたらしてくれますその私の友人が、昨日、こんな言葉を送ってくれたのでご紹介しますね。友人とは自分を刺激し、高めてくれる人のことです。私のすべてを知り、あなたのすべてを知り、それでもいっしょに生き抜いていこうと思ってくれる人です。利害のみの人、感情でふりまわす人、相手のことを考えようとしない人、自らを成長させようとしない人など、友人とは言えません。友人とは、その人にとって選ばれた、必要な人なのです。だれとでも友人になるというのはできません。必要でもありません。人のよいところをできるだけ見るようにはしていきますが、だれとでも友人になるのはちがうと思います。自分にふさわしいよい人と出会い、その人を大事に思い、つきあっていく。それが大切なことではないでしょうか。ー ハイブロー武蔵私はこのハイブロー武蔵さんという方は知らなかったのですが本当に、すべての人はみんないいところがあってそれぞれ素晴らしいのですが、友人としてつきあうことができるのはそんなに多くはないなあと感じます。私が何よりも友人関係において大切だと思うのは完全に信頼できる関係であるということ。時々、友人だと思っていたのに、裏切られたなどという方もいらっしゃいますが、それは、それは最初から友人ではなかったといえるかもしれません。また、気がつけば、いつも一方的に友人の話ばかり聞いているなどという方もいますが、それも本当の意味での友人関係ではないと思います。相手の話を聞くばかりというのは、一方的にサポートしているわけですしエネルギーを相手に与えているだけということになりますから。私はヒーリングのセッションでは、相手の話を聴く側にあるわけでもちろんそれが仕事ですし、セッションを進めてゆくために必要なのですが、友人としては、一方的に話を聞く関係にはなりません。もちろん、自分のことを話しても、それが相手にとっても興味があることだったり相手がそれを聞くことで何かプラスになることを話すのはエネルギーを奪うことにはならないです。といっても、実際の会話の中では、これは彼女にとって興味があるかしら?などと、あれこれ考えていては、何も話しはできませんからどんなことでも話せる関係であるのはいいのですがお互いが相手のことを理解しようとする姿勢でいて相手の話を聞いたり、自分のことを話したりのバランスが取れていることは大事なことだなあといつも感じます。うれしいことがあった時に、一緒に喜びを分かち合うことができるのも大切な友人ですし、困った時、問題にぶつかった時にそれを分かち合うことができるのも友人。単に愚痴や不満を相手に言うのではなく一緒にその問題についてのアイデアや考えを出し合ったり解決するための道に向かうことができる関係を築くことができるのは素敵ですね。さて、キネシオロジーのセッションで信頼する友人が欲しくても、なかなかできないという問題を持った方が時々いらっしゃいます。周りにはそういう人はいない、信頼できる人に出会わない、そういう方の潜在意識を調べてみると大抵、その方自身が、人を信頼していなかったり自分をオープンにできないという問題を抱えています。頭では信頼したいと思っているのだけれど潜在意識では信頼できないと感じているので引き寄せの法則の通り、実際、信頼できない人しか出会わないのです。そういう方も、潜在意識の中で、人を信頼できないと感じている部分をクリアリングしていくことで、信頼できるようになってきますしオープンにできない理由をクリアリングすればだんだんオープンになってゆきます。人を信頼できなくなった要因、人に対してオープンにできなくなった要因がそこには必ずありますから。その要因は、幼児の頃にあったり、大人になってからの人間関係にあったり、はたまた前世にあったり、と人によって、様々ですが、自分はコミュニケーションが上手くできない、苦手だからとあきらめてしまうのではなく、どんな人でも、その方が望むならば、信頼しあう友人関係を作ってゆくことはできると思います。やはり、人と分かち合ってゆくことは、多くの人にとってとても大切なことですから。それでも、本当に信頼しあい、尊敬しあい、様々なことを分かち合うことができる友人というのは人生の中で、それほど多くはありませんから真の友人は、天から与えられた大きな宝物ですね
2010年10月18日
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このブログに何度か、unclutter(不要なもの処分)のことを書いてきたのですが最近、断捨離(ダンシャリ)という言葉が日本で流行っているというのを知って調べてみたら「入ってくるいらない物を「断つ」不要なものを「捨てる」物への執着心から「離れて」自在の空間へうつる」ヨガの心の執着を手放す行法哲学「断行・捨行・離行」からできた言葉とのこと。読んでみると、特に新しい概念ではないですし内容は、カレンキングストンなどが言われていることと同じなのですがこの3つの漢字「断捨離」と書くと、バシっとした勢いがあって、インパクトがありますね。物を処分する気合いが入りそういろんな雑誌で取り上げられて、流行っているというのもわかります。こちらは、断捨離の提唱者、やましたひでこさんの家を紹介した番組の映像。驚くのは、この中でひでこさんの家のクローゼット。このまるで1週間の旅の量ぐらいの服が彼女のオールシーズンの全ての服なのだそう。これだけでも何十種類の組み合わせが着こなせるのだそうで徹底的に着て、古くなったら捨て、新しいのを買うのだとか。ここまで徹底するのはすごい以下は、やましたひでこさんのブログから断捨離流の整理術は、収納法でもなく、モノに焦点をあてるのでもなく、自分とモノとの関係性をひたすら問う手法。結果、おのずと、自分と自分自身との関係が明らかになってくる。身の回りにあるモノたちが、自分の住空間にどのようなカタチで、存在しているのか、まず気がつくところからスタート。たいていは、モノが主役になっている。自分にとっての要・不要ではなく、ましてや、自分にふさわしいなど云々することなどなく、モノが日常的に堆積しているのが、私たちの住まい。それは、住まいと呼べるはずもなく、モノ置場か、はたまたゴミ置場か。そう、自分は、モノ置き暮らしがふさわしい人生なのか、ゴミ置き場暮らしがふさわしい人生なのか、問いかけるところから断捨離はスタート。この問いで、ほとんどの方が、もう着もしない洋服がギチギチに詰まった箪笥の谷間で、自分が暮らしていたことに気づく(..)あるいは、二度と目を通すことのない雑誌や本の山の中で、息をしていたことにも。モノに取って代わられた住まい。モノに主役の座を明け渡した自分。そして、そのことに慣れきって、気づきもしなかった自分。いつの間にかモノに与えてしまった、時間と空間とエネルギーを、自分に取り戻していくのが断捨離のプロセス。ゴミ置場やモノ置き暮らしを卒業して、住まいをさらに 自在空間 へと、整えていくのが断捨離行法。物を捨てれない人って、ほんと多いのですね。実は、私の両親もそうで、実家に戻る度に「ああ、ここにあるもの、ほとんど捨てたら気持ちいいだろうな~」という衝動にかられますけして、心地よいと言えないような貰い物の博多人形や飾り物、大きなタンスの中は、もう着なくなった服でぱんぱんになっていて大きな食器棚にも食器がぎっしり。本当に好きな食器も使えない状態だなんてなんのために素敵な食器なのだか。前回、戻った時は、母と相談して、かなり捨ててもらいましたがやっぱり、それでも「もったいない」という意識があってなかなか捨てれないようです。さて、私は、ここ数年、毎日のように、今日は何を処分しよう?とやってきて、洋服、本、CD、書類などはかなり処分できたものの先日からようやくキッチンのクリアリングを始めました。私の家は、キッチンの壁全体に備え付けの収納スペースががあって全体の3分の1ぐらいは、何も入っておらず、スペースにゆとりがあったので、もっと物を減らそうと思わなかったのですが改めて見直してみると、けっこう必要ないものがありましたチーズなんて、何年も食べていないのに、チーズ卸器や電動泡立て器も、卵や生クリームを取らない今となっては不要だしれんげが1ダースとか(たぶん、昔パーティで1、2回使っただけ)巨大なグラタン皿や(もう何年も使っていない)缶オープナーやワインオープナーも、1つで充分なのに数個ずつあったり(旅の度に買っていたため)。。。レイキ交流会などで人を招くので、ある程度のお皿やティーカップなどは処分できないのですが現在、使っていないものは、処分となりました。理想は、もし、1週間後に、引越しがあると決まった時にでも処分するものがなく、段ボールに詰めるだけの状態にしておくこと。その物を処分するかどうか迷った時には、遠い海外への引越先にも持っていきたいか?が処分の目安です。こうして物を処分してゆくと、物を増やすことが嫌になるので無駄なものを買うというのは、あまりなくなります。(時々、買って失敗することもあるので、全くではないですが)ただ、私がばんばん購入しているものは、やはり、ヒーリングに使用するもの。フラワーエッセンスや音叉などは、セッションに使うものは、どんどん増えてゆきますしアロマオイルや、エネマの器具などデトックスやヒーリングのためのものは、自分用でもネットで購入します。最近、キネシオロジーのセッションでクリスタルボウルがよく出るので(クライアントさんの身体がクリスタルボウルを選ぶことが多い)今度、ハンド付きのクリスタルボウルを購入しようかと思っていますがまた物が増えてしまうことを考えると、ちょっと躊躇してしまいます。こういったヒーリングの道具はなければなくても、セッションはできるのですが多くのヒーリング方法があった方が、より幅広く対応できますから。ヒーリングに使うものは、私にとっては仕事道具なので増えていくのは仕方ないのですけれどね。と、少々、物を減らしていっても、私には絵の作品が山ほどあって、それはけっこう大きいものが多いので、やはり、引越は大変になるでしょうが一方、断捨離を実践といっても殺風景な部屋は、やはり居心地は悪いですし、風水的にもエネルギーの流れが悪いといわれているので植物を置くとか、好きな絵を飾るとかそばにあると癒されるもの、豊かな気持ちになるものを周りに置いて、心地よいスペースしてゆくことは大切だなあと。今、必要がないものは処分した方がいいですが、ただ物が少ないことだけにこだわると、そこに制限が生まれてしまって新たな可能性もなくなってしまうなあと。例えば、絵を描いてみたいけれど、もしかして後で描かなくなって、絵の具が必要なくなるかもしれない、などと考えて買わなければ、何もクリエイトしていけませんから。あくまでも、今の自分にとって、それが必要かどうか?を見直すことが大切ですね。また、必要という基準もやはり人それぞれ感覚が違います。人によっては、実用的なものだけが必要という人もいるかもしれませんが私にとっては、植物も、絵も、クリスタルもよいエネルギーで、生活に彩りを添えるものは、必要なもの。生活空間にスペースやゆとりがなければ、豊かではないと言えるのでしょうが物があることによって、生み出される豊かさもありますから。自分にとって、常に今、何が必要なのか?を見直して今、必要ないもの、使っていないものはどんどん手放して、必要なものは、また新たに取り入れてゆくそんなライフスタイルでいたいなあと思います。
2010年10月15日
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キネシオロジーのセッションの中で、潜在意識の調整(ヒーリング)が終了した後サポートとして身体がアファメーションを必要だと伝えてきた場合アファメーションBookを使っています。この本の中には5500個のアファメーションが載っていてページ数や番号で選んでゆくので、私もクライアントの方もそこにどんな言葉が書かれてあるのかは、知らないのですが毎回、選ばれる言葉は、本当にその方にとって必要なとても大切なメッセージであることが多いのです。と、先日、ある問題で調整された方がサポートとしてアファメーションが必要と身体が示したので選んでいったら、選ばれた言葉は「悲しんでもいいんだよ」というもの。一見、そのセッションの目標とは一致しないように感じたのでどうして、これが選ばれたのだろうなあと思いつつ何度、確かめても間違いはないので、身体が示す通り2週間、そのアファメーションを唱えてもらうことにしました。その時は、彼女の方もそのアファメーションにあまりピンと来ていなかったようなのですがその後、メールを頂いて、その意味が理解できたということでした。それは、昔、彼女の父が亡くなった時に彼女は悲しみの感情を抑えてしまっていて、ほとんど泣くこともなかったとのこと。それが、今回、彼女が面している問題と重なり、セッションの後ある日、とても悲しくなって思いっきり泣くことができたとのことでした。ああ、そういうことだったのだなあと両親や親しい人が亡くなったり、とても悲しい出来事があった時に、まだ充分にそれを受け入れることができない時期だと、その悲しみを封印してしまうことがよくあります。そして、その悲しみは何らかのことがきっかけで、解放される時を待っているのです。今回のその方のセッションのテーマとなった問題は、昔、充分に感じることができなかった悲しみの感情を潜在意識から解放するための役割があったのですね。(ちなみに、このお話は、ここにご紹介してもいいとの了承を頂いて書いています)そして、さらに素敵なことは彼女がとても悲しい感情が止められなくなったのは、通勤途中の朝の時間だったそうで、それで、とりあえず、近くのマック入ったそうですが泣いている彼女を見て、そこの店員のおばちゃんたちがもらい泣きしながらハグしてくれたり、お水もってきてくれたり”明日はきっといい日になるよ”っていってくれたりしたのだそう。それを読みながら、ありありとその情景が思い浮かぶようでした。もうかれこれ20年近く前のことですが、私も同じような状況があって、そのことを思い出しました。その時の私は、このニューヨークで一人だという孤独感をひしひしと感じていたのですが、暖かな声をかけてくれたのは、街ですれ違ったおばちゃんでした。例え、寂しくても、そんな見知らぬ人たちからの愛を受けると心の中に小さな火が灯ったように暖かくなるのです。アメリカは、そんな暖かさがあるところなので私は好きなのかもしれません。このお話を聞いて、街で見かけて泣いている人がいたら一言、声をかけてあげれるような人になりたいな~と。彼女のメールから『あと多分、ニューヨークに来てから更に強くなったと思いますが、人に弱みを見せたくないという思いが勝ってしまってとてもオープンにすることなんてできなかったのですが、この調整をしていただいたことで少しずつ”人に話してもいいんだ”という感覚がよみがえってきたような感じがします』そうなんですよね。ニューヨークのような場所で女性が一人で生きていくのは強くならざるを得ないですから、知らず知らずのうちに、自分の様々な感情さえ、どこか潜在意識の奥深くに押しやってしまったり、弱みを見せまいとオープンにできなくなったりしてしまうのです。でも、本当の強さは、自分の弱さもさらけ出すことができる人、かな~と私は思うのです。自分の感情に素直になること。そして、自分の弱さもオープンにすることができること。それが、本当の意味での強さなのではないかしらと。だって、こんなことを言ったら、人からどう思われるだろうか?という恐れを持っていないのですから。悲しんでもいいんだよ嘆いてもいいんだよさみしがってもいいんだよあれこれ理屈をつけて、納得するのではなく時には思いっきり、自分の中にある感情を味わうことを自分に許してくださいね。Blessings
2010年10月08日
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さて、昨日の清水さんのオフ会で、清水さんとお話できました。彼は、先日の私の体験談を書いたブログを読んでくださっていて「何の誇張も装飾もなく、あの時の体験をそのまま書いていましたね」と言ってくださって、ああやっぱり、私があの時、感じていたことを全てわかっていらっしゃるのだなあ、とあらためて感じました。けして口では多くは語らない方ですが(twitterでは、多くを語られていますが)いろんなことがよく観えていらっしゃるのでしょうね。そして、どんな素晴らしい体験であっても、過ぎ去ってゆくということを言われていました。これはヴィパッサナー瞑想の時に、ゴエンカ氏が何度も言われていたことで瞑想をやっている中で、いくら素晴らしい体験をしたとしてもけして、あんな体験をもう一度やってみたい、とか、もっと素晴らしい体験をしたいという期待をしないことの大切さを説かれていました。そういう期待は、執着を生み、苦しみのもとになるからです。ですが、最初の段階において、こんな体験を自分もしてみたい、と思わないとそれをやってみよういう気になりませんから、瞑想にしても、ブレスワークにしても、レイキにしても初めは、そういう思いでスタートしてもいいかも、と私は思っています。大切なのは、人と比較して判断しないこと。他の人の体験談はいろいろと参考にはなりますし、自分もそれを体験してみようというモチベーションを高めることにもなりますが例え、自分が他の人と同じ体験をしなかったからといってがっかりしたり、自分には向いていないと判断したりしないことが大切ですよね。私がこのブログにいろんな体験談を載せるのは、どなたかがその体験を読んで、自分の中にある同じような何かに気づいたりまた、自分もそれをやってみようというきっかけになったなら、という思いがあるからなのですがでも、100人いたら100人それぞれの体験があるはずですからどれが正しい体験というのはないのです。そんなことを清水さんとお話ししたのですが、私にとって、今回の大きな気づきは、ある境地まで行けば、浄化さえも必要なくなるということ。清水さんは、ニューヨークに来られてからも連日、あの超ハードなブレスワークのセッションを行っても全く浄化を必要としないのだそう私も、あのブレスワークの後例え、ハードなキネシオロジーのセッションを行っても全く浄化を必要としないと感じるほどエネルギーに溢れていることを先日書きましたが、この感覚は新たな発見でした。もちろん、これがどこまで続くのかはわかりませんしまだまだ清水さんのようにはいかないでしょうからこれからもできるだけ、瞑想も含め、自分自身の浄化を心がけてゆこうと思っていますが、今回、肉体には限界がない、限界を作っているのは思考だという清水さんの言葉を実感することができてよかったです。こちらは、今日の清水さんのtwitterのつぶやきから。『好きな仕事をしてお金を戴く。そうすると仕事も人生の喜びとなる。自分には無理だ。そんなことはとてもできないと思いながらいやいや仕事をやっているのならその仕事は人を束縛する。人生の真の喜びを恐れずに追い求めて、冒険の旅に出ることは誰もが可能だ』『感情や思考を自己と思い込むと、それが作り出す苦悩に自己は同一化してしまう。苦痛と感じているのは感情や思考であって自己ではない。肉体の感覚や感情、思考を含めた全体、それを観照しているのが自己だ』『病気や挫折などの人生の苦悩は、深い気づきが起きてその人を成長に導くチャンス。それはサナギが蝶に変容するようなもの、苦悩は今までの古い自我に別れを告げて新しい自我が生まれる陣痛でもある。そこから眼をそらすと死の恐怖が生じて退行し、蝶に成長できなくなる』自分の中をしっかり見つめて、あらゆることから目をそらさず、成長してゆきたいですね。限界は私たちの思考にしか存在しないのですから。さて、さきほど、今日のキネシオロジーのセッションがすべて終了しました。これから、昨日の交流会の片付けをして、ようやく明日からのシャスタへの旅の準備に取りかかります。おさむは、今朝、シャスタに持ってゆく楽器はどれが必要なのか彼の潜在意識(身体)に聞いていましたが(といっても、私が調べるのだけれど)ネイティブアメリカンフルートとネイティブのラトルのみという今回は、超シンプルなセットが選ばれました。それと、セントジャーメインのオーラソーマ♪ギターも必要なしと出たので、今回は持っていかないとのこと。身体は、楽に運べるものがお好みのようです。明日は朝4時半にはここを出て、タクシーでJFKへ向かうので今夜は、ほとんど寝る時間はなさそう今回は、ノートブックも持っていかないので1週間、メールチェックもできないかもしれません。また戻ってきてから、シャスタ報告いたししますので、どうぞ読んでくださいね、今回のシャスタは、特に何の予定も立てていないのですがただただシャスタの美しい自然の中にいようと思っています。(先日お話したように、ブルートケイブには行く予定でいますが)それでは行ってきま~す
2010年09月20日
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7月に参加したヴィパッサナー瞑想クラスの中の、ゴエンカ氏のお話の中で人はみんな自分で自分のイメージを作り上げ、そのイメージを周りの人にも、植え付けようとしている、というようなお話がありました。その中の例え話として、ある大学の教授がいて、道ばたでつまづいて、転んでしまい道に座っていた男に「どこ見て歩いているんだ」と、どやされたという場合。Aのケース。教授は、一人で歩いていて、つまづき、道ばたの男にどやされた。Bのケース。教授は、生徒たちと歩いていて、つまづき、道ばたの男にどやされた。Cのケース。教授は、一人で歩いていて、つまづき、 道ばたの男にどやされたが、その男を見てみると自分の息子だった。Dのケース。教授は、生徒たちと歩いていて、つまづき、 道ばたの男にどやされたが、その男を見ていると自分の息子だった。この4つのケースで比較した場合、教授が転んでつまづき、男にどやされた、という事実はみんな同じでも、教授の気持ちや感情は、違ってきます。Aのケースでは、教授は「私(のように素晴らしい人間)ともあろうものが、こんな男にどやされるなんて」とショックを感じながらもそれは自分に対して持っていたイメージが壊れるだけです。Bのケースでは、教授は、つまづいて道ばたの男にどやされる姿を生徒たちに見られてしまい自分自身に対して持っていたイメージが壊れるだけでなく周りの生徒たちに植え付けようとしていた(素晴らしい教授としての)イメージががらがらと壊れてしまい、Aのケースよりもさらにショックを受けます。Cのケースでは、教授は、こともあろうに、自分の息子からどやされたことで、さらにショックを受けます。『私の息子』「私の』という所有の意識です。Dのケースでは、Cのケースのショックに加えて、それを周りの生徒から見られて、息子からどやされている姿を見られるなんて、と自分の教授としてのイメージがさらに壊れて、最高のショックを受けます。この教授の場合は、自分のイメージというのが、例えば、知的で威厳があって、尊敬されているというようなもので、それを自分自身に対して持っているとともにまた周りの人たちにもそのイメージを植え付けようとしているわけなのです。もっとも、道ばたに座っていた息子からどやされて、ショックを受けない方が不思議ですしもし、親がそれに対して何も感じないほどに悟っていたら、そんな息子にならないかも?とも思いますが、Dのケースで、それを人から見られたショックというか外部の人に対して、自分と家族とのイメージを植え付けるというのはよくわかります。この自分に対して持っているイメージというのは、知らず知らずのうちに、自分の中に存在してそのイメージを周りの人たちにも植え付けようとしてしまうのですね。よく、あの人は私のことをわかっていないなどという言葉を聞きますが、それは、その人が自分の見てほしいイメージで自分のことを見てくれないという意味なのだなあと。その人は、その人なりの見方で見ているわけですから案外、わかっていないのは、自分の方だったりするわけです。先生としてのイメージ、上司としてのイメージ母親としてのイメージ、ヒーラーとしてのイメージ~~としてのイメージ。そういった、いわゆる「~~らしい」という仕事や立場から来るイメージの他にその人の経験に基づいて、できあがってきたイメージがあります。私も、これまで、何度もそういうイメージを自分の中に持っていることに気づいたことがありました。例えば、たいしたことではないのですが、お酒に対するイメージ最近は、たまに少量を飲む程度ですが、私は昔は大酒飲みだったので、当時は私の周りの人たちも、私に対して、みんなそんなイメージを持っていたと思います。どこに行っても「のりこはお酒が強いから」とか「ほんとお酒が好きだね」とか言われていたし私も自分自身でそう思っていました。でも、ある時、本当の意味でお酒が好きなのではないことに気づきました。というのは、一人でいる時はそれほど飲みたいとは思わなかったからです。当然、当時の友人は、みんな酒飲みばかりでしたから、例えば、友人と食事をして周りの「お酒が好きで強い、のりこのイメージ」を崩してはいけないというような意識が働いて、必要以上のお酒を飲んでしまっていました。(もっとも、途中からは、ほんとに止まらなくなって飲み続けるわけですが)本当は誰も私にそこまでお酒を飲むことなんて、期待していないわけで例え「今日は飲まないわ~」と断ったとしても、それはそれで関係が崩れるわけではないのです。では、この心理はどこから来ているんだろう?そう考えた時、何か私にとって酒を飲む人のイメージというのが堅苦しい人間ではないというイメージであり大らかな人格で、自分をオープンにすることができる人でありつきあいがよくて、楽しい人間であるというイメージであることに気づきました。これは、酒飲みだった私の父の影響も強くて「酒を飲まないやつは信用できない」などという言葉を小さな頃から聞いていたこともあるでしょう。父の理屈では、酒を飲まないやつは心をオープンにしないということだったのですが、本当は、酒を飲まないと心をオープンにできないことの方が、はるかに問題ですよね。これは最近のことですが、何がコンプレックスですか?と聞かれて「私はまじめすぎることです」と答える方が、たまにいらっしゃいます。自分が好きなように行動していたら、それがまじめでもいいんじゃない?と思うのですが「私は酒も飲まないし、夜遊びもしないので、まじめでおもしろくない人間だ」なんて思っている人って案外多いのですね。そして、昔の私はまさに、お酒にとことんつきあう人づきあいがよいイメージでありまじめじゃない楽しい人間であるというイメージを周りの人に持ってほしかったのだなあと。まじめかまじめじゃないか?なんて、全くどうでもいいですし自分の本当にやりたいと感じるままに自然でいていいのにそんな小っぽけなイメージによって、自分の言動がコントロールされてしまっていたのですね。今考えると、全く笑ってしまうのですがお酒一つに対してさえ、そんな様々なイメージから自然なありのままの自分でいることができなかったのです。社交的で友人にいつも囲まれているというイメージ仕事も何でもバリバリこなす、有能な人というイメージいつも落ち着いて冷静な人というイメージ世話好きで、周りの人たちのために尽くすというイメージいつもがんばり屋さんというイメージ優しくて親切な人というイメージ人それぞれ、自分に対していろんなイメージを持っていますが中でも「いい人のイメージ」から抜けれない方は案外多いなあと感じます。別に悪い人になる必要はないですし、人に親切にすることは大切なのは間違いないですが常にいい人でいなければならない、という意識があると、例え、ノーと言いたい時があったとしてもイエスと答えてしまったり、いい人を演じることになってしまいます。自分や他人に対して愛を持っていることといい人でいることとは、違うことですね。自分の中にある自分を制限しているイメージに気づいて、そこから自由になること、それが、本当に自分の人生を生きることにつながると感じています。そのためには、やっぱり、その時、その時に自分が本当に感じていることをしっかり見つめていくことだなあと思います。
2010年09月02日
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先月に参加した10日のヴィパッサナー瞑想クラスでのゴエンカ氏のお話の中でdesire 何かを欲すること、願うことは、すべての不幸のもとだというお話がありました。確かに、人の欲にはきりがありません。例えば、女優になりたいという夢があって、それに向かってがんばって晴れて女優として仕事ができるようになったとしてその一瞬は達成感があっても、もう次の瞬間には、『もっと大きな舞台に立ちたい」という夢ができてそれが叶わないとまた苦しくなってそしてそれが叶ったら「賞を取りたい」という願望が生まれそれが叶わないとまた不幸になる。最初は、「仕事さえあれば幸せ」と思っていたのにだんだんそれでは幸せを感じれなくなってゆく。自分の夢や願望が達成されないと、幸せではないしまたもし達成されたとしても、もうそれは当たり前のことになりそれでは満足できなくなってしまうのです。いつも「~~があれば幸せなのに」「こうなりさえすれば幸せなのに」という状態であってどこまでいっても幸せにはならないのですよね。だから、何かを願うことは不幸のもとだというゴエンカさんのお話もとても納得なのです。では、一切の夢や目標を持つことはいけないのか?と言うと私はそんな風には思わなくてやっぱり今の夢や目標を持つことは生き生きとした日々を過ごすためにも必要だし願いをかけたり、祈ったりすることも宇宙へ自分の意志、エネルギーを送ることになりそれを引き寄せることにもつながります。大切なことは、その夢や目標や願望に執着しないこと。それに執着してしまうと、それが叶わないと幸せでない、ということになりますしもしかすると、自分にとって本当に進むべき道ではなく別の可能性があるのに、それを見逃してしまうことにもなりかねません。時々、自分の夢や目標に縛られてしまって幸せであるはずの道が苦しみになっている方もいます。人生のすべてにおいて無駄なことはないのですからその時は、その目標に向かってがんばることも必要ですがもし「この方向は違うのかな?」と感じたらさっと方向転換する柔軟性が大事だな~と思うのです。私の場合は、あまりにも、この「変化に柔軟に対応してゆく」ので昔から周りの人に「前に言っていたことと違う」などとよく言われましたその時は本当にそう思って、がが~とそれに向かって進んでいたとしても「あれ?これは私が目指すこととは違ったかも?」と感じると、その日からすぐに方向転換。よく言えば、柔軟に変化する、ですが悪く言えば、言うことや、やっていることがころころ変わるになるのですけどね(だから、私がプログで書いていることもすべて信じないでね~)でも、人からどう思われるか?なんてことを気にしていたらこの短い人生、悔いが残りますからいいかげんに思われようが、どうしようがその時、その時に感じた自分の感覚に素直に従っていく道を選んでゆきたいなあと思うのです。夢や目標を持って、でもけしてそれに執着しない生き方これが私にとっては、ベストだな~と。ゴエンカ氏が、「昨日の私と今日の私とは、全く違う人間だ」と言われていたことの意味が本当によくわかります。人も環境も、すべてのことは、一瞬一瞬変化していくことだけが確実な真実なのですから。ということで、このブログに書いた中でもいろいろと変化がありました。2008年に末に「近いうちにシャスタに住む」と決心したにも関わらずやっぱりNYでしばらくやっていくことに決めて、今にいたっています。時々、前の記事を読んだ方から、シャスタに移住するのですか~?というご質問があるので、一応、今のところはしばらくNYに住む予定でいることをお知らせしておきま~す。(でも、これもまた変化していくかもしれませんけどね)それともう一つ、最近、大きな心境の変化がありました。去年の9月頃に、私は音楽をやめるという決心をして約1年間、ほとんど音楽をしなかったのですが最近、再び、音楽をやってゆくことにしました。これは先日、キネシオロジーで、私の潜在意識の問題探しをしていて見つかったのが「fear of using your gift」(あなたの才能を使うことへの恐れ)でした。何に関する才能か、と調べてみると、それは音楽でした。去年の段階では、もう音楽に関して充分にやった、という気持ちがあったのですが最近、久々におさむと一緒に音楽を遊びでやった時に、とても素晴らしい時間だったのでやっぱり、音楽をやってゆきたいな~と感じたこともあってこの問題が上がってきた時には、なるほど~と思いました。でも、この1年、音楽を全くやらないでいて、本当によかったなあと。「私には、音楽がある」その意識が、ヒーラーとして生きてゆく上で、どこかで逃げ道になっていたことに音楽をやめてから、初めて気づいたからです。なので、音楽をやめてから、徹底して、ヒーリングの方に打ち込むことができたしインテグレイテッド キネシオロジーに出会ったのも音楽をやめていたからかも知れないなあ、と。でも、レイキとともに、本当に確信するヒーリング法にも出会うことができてヒーラーとしての覚悟というか、ゆるぎないものができてきてその後で、初めて、この音楽の問題が浮上してきたのを見るとやっぱりすべてに無駄なことはなくて、その時、その時感じた通りにやっていけばいいのだあと感じます。これからも、さらに大きな目標に向かって、進みながらも、自分が今、本当にやりたいことだけをやってあらゆることに執着をせず、変化してゆく生き方をしてゆきたいなあと思います
2010年08月23日
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今日のニューヨークは、1日中曇り空。でも、今朝から、踊りたくなるようなハッピーな気分。人ってどうして、あれこれ難しく考えてしまうのかしらね今生での自分の使命だの何だの、ってあれこれと考える前にその瞬間瞬間を感じ、喜び、祝う。Blessingsそう私たちは、みんな祝福されて、この世に生まれでた魂なのだから。生きているって、ほんとうにすごい。ここに生まれてきたこと、そのものが奇跡。この時代に生まれたこと、それはすごい祝福。今日の夕方、一人で歌い、踊っていました。歌うこと、踊ること、音楽って、すごい♪それは、生きている喜びそのもの。身体ってすごい♪身体は魂の乗り物。そして、その様々な感覚を通じて私たちにいろんなことを伝えてくれる。これから、しばらく瞑想します。瞑想も、今、この瞬間を最大限に感じるための手段。呼吸ってすごい♪毎日がCelebration お祝い、だね。その瞬間、瞬間をどう祝うかは、人それぞれ、みんな自由。ある人は、音楽を奏で、ある人は、風を感じ、大地をかけぬけある人は、光輝く月を愛でてある人は、手作りの食事を味わい楽しむ。どんなやり方だって、与えられた恵みに感謝しこの瞬間を祝福することはできるのだものね。今日のお祝いのプレゼントyoutubeの映像から(クリックしてね) ↓Thomas Newman Earth Songいのちってすごい♪地球ってすごい♪今日の終戦記念日に。1日も早く、すべての戦争が終わりますように。 ↓Michael Jackson Earth Songこれは、以前の日記で紹介したものだけれど、私の大好きな映像。何度見ても、何度聴いても、美しくて泣けてくる。 ↓The Gentle and Forgotten Art of Blessings「Blessing -祝福することは、いつも愛の中心で、目覚めを高めてゆくための完璧な道です。毎日が恵みです。すべての瞬間に、私たちが感謝できるものがたくさんあります」みんなみんな祝福されています今日、ここに来てくださった、あなたへ。生まれてきてくれて、ありがとうそして、今、生きていることに、おめでとう@Shasta
2010年08月15日
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今日2つめの日記になりますが、ちょっと思いついたので。おとといに、ヴィパッサナー瞑想コースから戻ってきて昨日はレイキのセッションやクラスが入っていましたが今日は、久々のオフの1日だったので、のんびりと過ごしています。昼頃、私がランチの用意をしていると、おさむがギターを弾き始めました。その美しい音色を聴きながら、思わず、涙がボロボロこぼれてきました。ああ、これが私にとっての答えなんだなあと感じました。もしも、私が、あらゆることに反応しないとしたらもしも、私がこれまで悲しみや苦しみを感じたことが全くなかったとしたらこの音楽に感動することはけしてないでしょう。悲しみを知っているから、苦しみを知っているからこの音の一つ一つが、胸に響いてきてそれが、どんなに美しいものであるかがわかるのです。私にとって、苦しみも悲しみも、最終的な喜びや感動のためのものでしかないそのことをあらためて感じています。もちろん、ヴィパッサナーで言われていることは、ブッタが説いた真理であり、けして間違ってはいません。私とおさむの2人の関係だけを見てみても、以前は、不満や争いが絶えなかったのに、その後、様々なヒーリングや方法で、いろんな浄化をしてきたおかげで以前とは、全く違った、とても幸せなものになったことは間違いないからです。でも、以前の苦しみも悲しみも、私たちの人生の経験にとって、やはり必要なものでした。もし、それがなかったとしたら、今、これほど幸せを感じることもなかったかもしれません。だから、先日の私のサンカーラの日記を読んで「ああ、私には、まだまだ、たくさん浄化しなければならないサンカーラがある」などと思って、がっかりしないでくださいね。(そういう風にメールをくださった方が何人かいらしたので)もしも、人生にたくさん、反応の種、サンカーラがあるのならそれを手放す喜びもまた、たくさんあるということです。周りの出来事や人の言動にいちいち反応してしまうとけして幸せではないですから心の平安を保つために、自己浄化していくことは大切だと感じますが一方で、例え、怒りを感じて、怒ってしまったとしても悲しくて、わんわんと泣いてしまったとしても思いっきり反応してしまったとしてもそれはそれでいい、私はそんな風にも感じています。どんな苦しみであっても、悲しみであっても癒されるべき時に、それは癒されてゆくのですから。私たちそれぞれの人生にとって、必要なことしか起こっていません。それぞれが選択した道が、ベストの道だと私は思っています。どうか、あなたがあなたでいることに幸せを感じていますように。Love & Blessings
2010年07月18日
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(しばらくアップしないといいつつ、ついアップしている私です)最近、思考が現実化するスピードが、早くなってきているように感じています。これを引き寄せようとか無理に思わなくても、かなりの確立で現実化してしまう。ある意味、今、自分がどんな状態でいるのかを見せられているようです。最近、こうなったらいいな~とふと思ったことがすぐにそうなることがあって、小躍りしたくなるような、うれしいことも、ちょっと信じられないようなこともありました。そして、先日、またおもしろいことがあったので、これは忘れないうちに、ここに書いておこうと。友人と久々に会って、カフェで話をしたのですがその時に、その友人がBed Bugにやられた、という話をしたのです。ベッドバグとは、日本語で言うと南京虫なのですが、ニューヨークではけっこう増えているらしく、少し前に偶然道で出会った友人も同じようにやられたと言っていました。このベッドバクにやられると、そのベッドは捨てなければならなかったり家中の壁に穴をあけて、殺虫剤をまいたり、服も全部クリーニングに出さなければならない、など、とにかく大変なことになるそうです。で、その友人の話を聞いているうちに『そんなのが、もし、うちにやってきたらいやだな~」と、私はいつのまにか、心配モードになっていたのでした。ベッドバグが来てもいないうちから、心配しても全く仕方がないのですがその夜、何となくすっきりしないまま、ベッドに入りました。そうしたら、何と、次の日、朝起きたら私の足に大きな虫さされの跡が二つあるではないですかえ~~??ベッドバグ~~??前の日に話を聞いたばかりで、ちょっと信じられなかったのですがもしかして、その友人の服にでも付いてた?などと、友人にあらぬ疑いまでかけながらこりゃ大変なことになるな~と思ったのですが、その虫さされは、どんどん火ぶくれのように膨らんでいって、猛烈なかゆみが出てきました。こんなかゆみは初めてというぐらいかゆいのです。で、結局、いろいろ調べた結果それはベッドバクの仕業ではないことがわかりました何の虫だったのかは、まだわかりませんがでも、蚊以外の虫にさされたことなんて、ここに住んでからただの一度もなかったのになぜ、友人からそんな話を聞いた夜に、そんな虫にさされたのか、本当に不思議。まるで、私の思考が即現実化したとしか考えられませんでした。そこで、その心配のエネルギーを浄化したらもう、それ以来、虫には刺されていません。すべでのカルマを清算すると、思考が即現実化するなどと言われますが、ある意味、これまで思考が現実化するスピードが遅いので、助かっていた部分もあったものの即実現となると、本当に自分の状態をクリアにしておく必要があるなあと。そうして、今日、オラクルカードを引いてみたら「The law of attraction 』(引き寄せの法則)まるで作り話みたいなのですが、ほんとうなのです。もし、私たちが、今、それぞれ感じていること、考えていることがすべて即現実化したとしたら、それは一体どんな世界になるのでしょうね(写真アップする暇なしなので、このままアップしま~す)
2010年06月19日
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最近、いくつか頂いたメールの中に「立て続けに、けがをしたのですが、これにはどんな意味がありますか?」とか「大切にしていたお守りが壊れたのですが、これはどんな意味がありますか?」とか「今度も彼と別れることになったのですが、これはどんな意味があると思いますか?」など「その出来事にどんな意味があるのか?」というご質問がありました。え~、率直に申し上げますと、私には意味わかりませ~んその人にとって意味がないことは起こらない、と私は思っていますが出来事そのものに意味はありません。意味を見つけるのは、その人自身です。そこからどういうメッセージを受け取るのか?は人それぞれであって『お守りが壊れるのは、こういう意味です』ということではないのです。例えば、前回のリバーシングのワークショップの時に会場に運んだおさむのクリスタルボールが割れていました。では、これにどんな意味があるのか?その楽器を使っているのはおさむなので、私にとってはそれは何の意味もありませんでしたが、おさむはそこに意味を見いだしていました。そのクリスタルボールは、ハートチャクラに対応しているものだったのですがおさむは「たくさんの楽器を持っていなくても大丈夫。自分自身のハートを開いていきなさい」というメッセージだと受け取ったのだそうです。そして、その日、いつも彼のサウンドを聴いている私が聴いていても、クリスタルボールが足りないなどと感じることは全くなくむしろ、いつもよりも素晴らしい演奏だと感じました。ちょうど、その頃、おさむは、自分の収入のすべてをつぎこんででも、次々と、素晴らしいと感じる楽器を購入しようとしていました。でも、例え多くの楽器を持っていなくても、彼自身が光の状態でいることができればそれでいいのだということを、彼はこの時に深く理解したのです。実際、彼は、子供のおもちゃのような小さなラトル2本だけを使って聴いている人を深いリラックスや、変性意識状態に持っていくことさえできます。その時、そのクリスタルボールが割れたことは、おさむにとって、そのことを思い出すために、とても大切な意味を持ちました。でも、別の人だったら、それはまた違った意味になるでしょう。クリスタルボールが割れたこと自体には何の意味もありません。形あるものは、どんなものであっても、いずれその形を失うことは間違いないしそれが今、そうなったからといって、悪いとかいいとかいうことではありませんから。意味は、その人自身が感じるもの。それはピンと来るという感覚なので、考えたらわかるというものでもないし無理して意味を見いだす必要はないと私は思います。私は、何かが起こった時、それに対して自分はどう感じているのか?とか、どう対応してゆくのか?ということは内観してゆきますがこの出来事にどういう意味があるのか、がすぐにはわからなくてもわからないままにしておきます。ここでも何度か書いたと思いますが、もう15年以上前のことですが、私は轢き逃げの交通事故に合いました。当時、私は、日本で結婚しようとしていた人と別れることになって、心身ともに疲れて、一人NYに戻った直後でNYで働きはじめた仕事で、誤解されて、くびになり急性胃炎で倒れて、救急車で運ばれ、(まあ、一般的に言うならば、災難続き?)そして、その後に、この轢き逃げの交通事故だったのですが病院で意識を回復した時に、最初に感じたのは「あ~私は生かされたのだ」ということ。そして、こういうことが続くのは、きっと何か意味があるんだろうな~と漠然と感じました。ならば、そのことの良い悪いをジャッジすることなくそのまま受け入れようと。実際、その交通事故は、私の人生の中の大きな転機になりました。今は、その事故の意味は、自分なりにわかっていますがその当時は、どこかで何かを感じてはいたもののはっきりとわからなかったのです。おさむと2年半の間別れていた時期にもその当時にはわかりませんでしたが今では、あの別れていた2年半があったからこそ2人の意識が変容して、今の2人の関係を築けるようになったということが、よくわかります。でも、もしも私が、それから別の素敵な人と出会い、その人と結ばれたならおさむと別れたことは、また別の意味を持つことになるでしょう。だから、出来事が起こったその時には、その意味がわからないことが多いのです。ということで、その出来事の意味は、他の人にはわからないのですよね。出来事は、それ一つが独立して存在するのではなくいろんなことと関連しながら起こっていますから。おさむが、いろいろと楽器を買おうとしていた時にたまたまワークショップでクリスタルボールが割れたことから、その意味を自分で感じたのであって私には、そのメッセージや意味は受け取れないのです。例えば、けがということをとっても、いつも忙しくしている人ならば「これは、焦らず、一度立ち止まってゆっくりしなさい」という意味だと受け取るかもしれませんし普段の自分の身体に対するいたわりが欠けている、という意味に捉えるに人もいるかもしれませんしけがをした時に、周りのやさしさに気づいてその怪我は、周りの人への感謝を思い出すための意味だと受け取る人もいることでしょう。それぞれが受け取った意味に、どれも間違いはないですよね。そういうことでいえば起こることは、その人の魂からのメッセージだと言えるかもしれません。でも、かといって、すべてを深刻に捉える必要はないと思います。わかる時になれば、自然とわかりますし例え、他の人に意味を見いだしてもらっても、本当の気づきにはなりませんから。この人がこういっているから、または一般的にこう言われているから、これはこういう意味があるのだ、ではなく、自分で何かの意味を感じればそういう意味になるし例え、その時は、わからなくてももしかすると、1ヶ月たって、または10年たってから意味がわかることもあるかもしれません。(この世を去るまで、わからないかもしれないけど)どちらにしても、自分にとって必要がないことは起こらないので大丈夫。答えはすぐにわからないところが、おもしろいところでもありそして、一度こうだと思った答えさえも、年月ととともに変化してゆくところも、またおもしろいのですこんなところに顔♪(この石の存在の意味は)
2010年06月15日
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先日の日記で、キネシオロジーの筋肉反射テストで出てくる答えはハイヤーセルフの答えというわけではない、と書いたのですが、ただ、いつも私が感じているのは、その方が、この問題を解決したい、とか、私はこういう風に変わりたい、とか特に目的はないけれど、急に思い立ってレイキやセラピーを受けてみようとここに来てくださるタイミングみたいなものはハイヤーセルフや高次元のところで決めているのだろうなあということ。あらゆることには、癒されるべきタイミングというのがあってそれを大きなる自己=ハイヤーセルフがこのタイミングだと決めるのでしょうが、それが、何か、目に観えない力で引き寄せられるようにシンクロしていることもあってそのタイミングはいつも絶妙だなあと感じます。レイキのクラスやヒーリングに来られた方には何かしら、深いご縁を感じることも少なくないですしキネシオロジーのセラピーの場合は、ある程度、はっきりした問題やテーマを持って来られる方が多いのですがその問題やテーマが、その時の私の問題とリンクしていたりすることもあります。少し前ですが、私はある時、しばらく食べ過ぎが続いていた時期があってそのことはわかってはいたものの、「いつでも調整すればいいわ~」と、あまり問題視はしていなかったのですがその週に過食に関しての問題がある方が、3人続けてセラピーに来られたことがあってああ、これはどうみても、私にこの問題を調整しなさいというメッセージだと気づいたり。女性性エネルギーの解放が、今の私のテーマだなあと思っていた時は立て続けに、同じようなことを感じている方が来られたり。本当に、世界はつながっているなあと感じることが多いのです。「ニューアース」のエックハルトトールの言葉に「いうまでもなく、究極的には、「他人」など存在しません。わたしたちが会っているのは常に「自分自身」なのですという言葉があるのですが、まさにその通りだなあと。これはヒーリングやセラピーの場だけではなくあらゆる場でそういうこと言えるのでしょうね。例えば、自分の内面が平穏でなかったり焦っていたりすると、地下鉄や銀行やお店などで、あまり感じのよくないな~というと出会ったりすることがあります。逆に、先日、とても穏やかなエネルギーに満ちた状態で買い物に行った時は、キャッシャーの人が、とても、素敵な女性でお互いに目を見つめて、暖かな言葉をかわすことができたり。お会計をしているほんの短い間であってもその場に愛のエネルギーが流れるのを感じました。そういう時は相手を見ていてああ、今日の私はとてもいい(エネルギーの)状態なんだな~ということがわかるのです。そうやってみれば、宇宙のやり方は、とてもシンプルと言えるのかもしれませんね。自分の目の前にいる人を見てみれば、今の自分の状態がわかるわけですから。これはホオポノポノの世界の捉え方。まさに、今日のレイキのクラスに来られた方ともそういうお話をしたのですが自分の内側が変われば、世界も変わるのですよね。これは、以前ここにも書きましたが「自分(の潜在意識)が感じている通りに、現実は作られる」ということと同じこと♪「引き寄せの法則」というのも、そういうことですしねですから、本当に自分の願いを引き寄せられるかどうか?というのはいかにクリアリングできるかどうか、だと言えるのでしょうね)かと言って、周りがこういう状態なのは、自分がだめだからだ~と自分自身を責める必要は全くないのです。そこに何かが起こっているのは、何かが起こる必要があるということですから。起こっていることをジャッジすることなく、ただ受け入れていく。そういう状態を作っている自分の中の必要のない思い込みや感情をクリアリングしていくと同時に、すべてを委ねてゆくことが大切だなあと感じます。この渦巻きが気になる~~♪
2010年06月09日
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前回の日記を書いた後で、気づいたことがあったので今日2つ目の日記になりますが、またお話させてくださ~い。前回の日記へのコメントに「ムキになっているのを感じた」とコメントくださった方がいましたが、全くその通りで私も書きながら「何をムキになっているのかしら?」と感じていたわけなんです。「ヒーラーやセラピストがお金を取らなければならない理由」をここまで上げて説明する必要もないだろうとたぶん、このブログに来てくださっている、ほとんどの方はわかっていることでしょうし(そうでなければ、ここには来られないでしょうから)それで、その時は、信頼する友人に自分のことをわかってもらいたいという意識なのかな?と思っていたのですがこれをアップした後、少し内観してみて、すぐにそうではないことに気づきました。私が反応していたのは、私の中にある「受け取ることに対する恐れ」の感情だったのです以前、ここにも何度か書いたのですが、私は受け取ることが下手な人で、いつも受け取ることより与えることをやってしまう人でした。これが、どこかが来ているかはよくわかっていて私の両親、とくに父親から来ていました。私の父は、自分たちが質素な食事をしていても、外では大盤振る舞いするような人でしたし、二言目には「お金に汚いやつは、人間として最低だ」と言っていました。そんな父を尊敬していた私は、大人になって例え、自分にお金が充分になくても、人に奢ったりするような人になりました。以前、妹に「なんで初めて会った見知らぬ人に、そこまでしなければならないの?」と怒られたことがあったのですが、私はそういう風に与えてゆくことで自分の価値を見いだそうとしていたのかもしれません。その後、そのことに気づき、やたらめったら人に与えるようなことはしなくなったのですがそれでも、自分がやっている仕事に対して正当なお金を取ることも時々躊躇することがありました。正当な料金を頂くことが、大切だとわかっていてもそうすると、何か自分が心が狭い、極悪非道の人間のように思えてくるのです。そして、ヒーラーやチャネラーなど、いろんな方たちに出会う度に与えることと受け取ることのバランスが取れていないことを指摘されました。そして、ようやく、去年頃から、それが自分にとっても相手にとってもよいことではないということにあらためて気づいてお金にしても何にしても、受け取ることと与えることのバランスを意識するようになりました。つい「そのお金はけっこうです」と言ってしまいそうになる自分がいたり私がやるべきこと以上のことをやろうとしてしまうのですね。以前、本間先生のキネシオロジーの調整を行った時にも「お金」に対して調べてみたら、身体(潜在意識)が反応したので、それについて、詳しく調べていったことがあるのですがそれは、「お金に対する不安」ではなく「お金に汚い人だと思われなくないという恐れ」だったということがセラピーを通じて、わかったのでした。その時に、潜在意識を調整したつもりでいたのですが、今回、このように反応したというのは、調整が戻ったということなのでしょう。また調整し直すことにしま~すつい先日、セドナのイルさんに出会った時も私のそんな面を全く話してもいないのに「のりこさんはgiver(与える人)だね~」と言われてドキっとしたのですが、イルさんもgiverなので、そのことがよくわかるのでしょう。もちろん、それは悪い意味ではないのでしょうが私の中で、与えることと受け取ることのバランスを取る必要があることをまたしみじみと感じていました。そんな矢先に、昨日友人から、「ヒーラーやセラピストが報酬を受け取るのは嘘くさい」というコメントがあったので、私の中の潜在意識が反応してしまったのです。それはその人だから反応したのではなく私とつながっている方だったら、誰であっても、たぶん反応していたでしょう。先ほどの日記は、その方に対するものというよりむしろ、自分自身に対して、言い聞かせていたものだったのかもしれませんね。ということで、自分の中に、まだ残っていた恐れに今回気づくことができて、それを気づかせてくれたその方に感謝しています。あ~前回の日記を書いた時は、何かもやもやしていたのですが今、自分の潜在意識の感じていたことがわかって、すっきりした~~ありがとうございます♪
2010年06月03日
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昨日、ヒーラーやセラピストは、人間愛でその仕事を行っているならばお金を取っている人は胡散臭いというコメントをtwitterで友人がしていました。そういう風にヒーリングやセラピーを受け取っている人がいることは以前から知ってはいましたが。胡散臭いと言われて、正直、ちょっとがっかりもしましたが(直接お会いしたことはなくても、大切な友人だと感じていたので)でも、世の中には、ヒーリングやセラピーに関してそのように捉えている人が、まだまだ多いということなのでしょうね。実際、ヒーリングやセラピーの世界には、確かに胡散臭い人たちもたくさんいてそれを受ける方たちは、充分に気をつけなければならないことも事実。でも、真摯にヒーリングやセラピーを学んで、訓練や練習を積んでいる人たちもたくさんいます。例えば、セラピストを例にとってみればアロマテラピーのセラピストでも、ミュージックセラピストでも、栄養コンサルタントのセラピストでもカウンセラーでも私がやっているキネシオロジーのセラピーでも、フラワーエッセンスのセラピストでも、どれも熟練の先生や講師について、学ぶ必要があることでありお金も時間もかかります。そして、一度学べばそれで終わりというものはなかなかなくて生涯をかけて勉強しても、学びきれないような深いものばかりです。そして、準備を行い、時間や労力をかけて、そのセラピーを行っているのです。レイキは1日クラスを受ければ、その日から、誰でもレイキヒーリングができるようになるという、超お手軽ヒーリングですがレイキマスターとしてやっていくには、いろんなことを学び実践して経験を重ねていく必要があります。もしも、その方たちが、ヒーリングやセラピーでお金を受け取れないとしたら別のところで生活費を稼がなければならないでしょう。ヒーラーが、他の仕事で労力や時間を使って、くたくたに疲れてしまったとしたらそれで、他の人へのヒーリングを行っていくことができるかしら?セラピストが、そのセラピーをより深く学ぶための勉強にかけてゆく時間もなくなるかもしれません。それができる方は、そうすればいいのですがそうなれば、ヒーラーやセラピーを行うことができる人は、今よりずっと減ってしまいそれを必要としている人たちが受けることはできなくなるでしょう。愛があれば、ヒーラーはお金を取らないのが当たり前だ、という考え方は愛があれば、教師は無料で教えるのが当たり前だ音楽家は無料でコンサートをするのが当たり前だ医者は無料が当たり前だ、などといっていることと全く同じこと。愛は、ヒーラーやセラピストだけではなく、すべての職種にとって必要なものだと私は思います。一方、日本では、欧米のようにカウンセリングを受けたりすることが一般的でないこともあって、こういうサービスにお金を払うという発想がない方も多いのでしょう。先日もホリスティック医療を学ばれている方が栄養のアドバイスをプロに受けるという方が日本では少ないと言われていました。もちろん、ヒーリングやセラピーの場でその方の実力やそのヒーリングやセラピーの種類によって妥当な料金というものがあります。安いからいいとか高いからよくないとかではなくあくまでも、それに見合った妥当な金額であることが大切だと思います。どうみても、実力や、労力以上の価格を要求しているところもありますが、受ける方がそれを見極めていくしかないのです。まだかけ出しのヒーラーやセラピストならば最初は自分自身の経験を重ねていくために、無料や安い料金で行っていく必要もあるでしょう。でも、ある程度の経験を積んだ後、プロとしての意識を持ってやっている方は、きちんと妥当な料金を取るものです。人は無料で受け取ったものには、無料の価値しかおきません。もしも、私がレイキのクラスを無料で行ったとしたら誰も真剣にレイキを学ぼうとしないでしょう。それだけのお金や労力をかけてでも、学びたいせっかくお金をかけたのだから、真剣に学ぼうという意識が大切なのです。だから、例え親しい友人であっても、私はきちんと料金を頂いています。(レイキのクラスに関しては、おさむに対してさえ料金を頂きました)実は、そういうことについて、先日もセドナのイルさんとお話したばかりでした。彼女曰く、例え、親しい友人関係であっても、セラピーやヒーリングの場でお互いにきちんとお金を払ったり、受け取ることができない人とは、つきあわないと言われていました。そういうことを曖昧にしていると、必ずどこかで関係が崩れてくるからです。お金=汚いもの、という意識が、どこかにあるとヒーリングやセラピーでお金を取ることを汚いことだと思うのかもしれません。でも、お金は、単なるエネルギーでしかありません。もしも、お金というものがなかったとしたらヒーラーが、ある人にヒーリングを行ったらその代わりにその人は音楽を奏でるかもしれないし、ある人はパンを焼くことでしょう。ただそれだけの話なのです。もちろん、ヒーラーやセラピストが、貧しい国に出かけて無料で奉仕したり、子供たちに無料でセラピーやヒーリングを行ったりすることはとても素晴らしいことだと思います。それは、個人に対して行っていることではなく、社会全体に対して行っているということだからです。と、いつになく熱く語ってしまいました普通はそんな意見を聞いたとしても、聞き流してしまうのですが大切な友人には、わかってもらいたかったという、私の中の執着心かもしれません執着があるのなら、手放していく必要がありそうです。いくら親しい人であっても、人それぞれいろんな考え方がありますし例え、自分のやっていることを理解してもらえなくても、それは仕方ありません。読んでくださってありがとう~この空の色はニューメキシコ特有の青さ♪
2010年06月02日
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あなたは、けしてひとりぼっちでないことを知ってほしい。例え、周りに誰もいなくても。家族も恋人も友人さえもいなくても。たくさんの目に観えない存在たちから守られていることをどうか知ってほしい。だからこそ、あなたは今ここに存在しているのだから。あなたがここに生まれてきたのはけして偶然ではないのだから。あなたはこの世界に必要な人間であることを知ってほしい。愛されている存在であることを。祝福された存在であることを。どうか、風の音を聴き、木を抱きしめて太陽の光を全身で感じてみて。あなたがどんなに祝福された命を受けているのかを感じることができるから。ここに今、存在していることが、どんなに素晴らしいことかを感じることができるから。あなたは幸せになるために、この世界に生まれてきたのだから。時々、思いっきり落ち込んでもいい。泣いてもいい。でも、あなたはけしてひとりではない。この世界とつながっているのだから。身体は別々でも、意識はすべてつながっているのだから。どうか、いつもそのことを覚えていて。だから、今日、あなたは、ここに来てくれたのだから。ありがとうLOVE
2010年04月30日
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先日、おさむが「ビッグニュースがあるよ」と言って家に戻ってきました。それは、彼が今、シェフとして働いているマクロビオティックのレストランが4月の中旬で改装のため閉店するのだそう。改装期間は、半年以上かかるのだそうで、事実上、働いている人たちは、そこでの仕事は辞めて、別の仕事を探すことになります。おォ~、きたね~トランスフォーメーション自分の力の及ばないところで、何かが起こった時それは、変化していくための、天からのメッセージ。次の日、私は久々にオフの日だったので、おさむと友人と3人で映画を見た後(ちなみに映画は「不思議の国のアリス」これはちょっと期待外れ)私たちが気にいっているレストランcounterにて、彼の新たなる旅立ちに乾杯しました。このマクロビのお店での2年半の経験は、彼にとっていろんな意味で大きかったみたいですしここで働くことができて、本当にありがたいね~と言っていたのですが、こんな形で辞めることになったわけだし、これはまた新たな始まり。次にどんな仕事をすることになるのか彼もわくわくしているのだそう。こういう時に不安になると、マイナスのエネルギーを生み出し、直感力も働かなくなるし、何のクリエイトもできなくなってしまいます。こういう時こそ、安心して宇宙にすべてを委ねて、最高の豊かさの感覚に包まれていることが大切ですね。なので、先日、レイキ交流会で使ったアバンダンスオイルとアバンダンスプログラムのガイドをおさむに渡しました。私も経験がありますが、豊かさのワークは、こういう時にやると効果抜群。「お~すでに豊かさがやってきた」と、早速、彼も取り組んでいました♪でも、彼の新しい仕事探しは、5月のアリゾナへの旅が終わってからになるので、6月のシャスタへの旅は、さすがにちょっと無理かもということで一応、保留となりました。6月のシャスタの旅は、もともとおさむがシャスタで行われるシャーマンワークショップへ参加したいということで、私も同行することに決めただけで特に6月でなくてもよかったし、5月のアリゾナと続けて行くより少し間をあけた方がよかったかもしれません。できれば、シャスタには8月ぐらいに行けたらいいなあ。明日から、おさむはシャーマンワークショップへの参加のために一人でペンシルバニアのニューホープへ出かけることになっています。これまで、私は何度も一人旅をしてきたのですが彼にとっては、これは初めての一人旅(といっても、2泊3日ですが)さて、彼はそこでどんな体験をしてくるのかしら?いきなり、ペルーのシャーマンみたいになって帰ってきたらどうしよう?(って別に困らないけど)あのさわやかだった彼は、いずこへ~(ほんとかい)様々な変化は、予期せずに訪れてくるもの。ここ数年の私たちの変化のスピードはすごかったように感じていますが、今年はますます加速してゆきそう2006年、おさむが、お坊さんみたいだった頃。今は、ロン毛のシャーマンになっていま~す
2010年03月25日
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これは、前の日記の最後にちょっと書いてみたのですがやはり、きちんとお答えした方がいいかも、と思い書き直しています。先日、ブログを読んでくださっている方からこんなメッセージを頂きました。ブログの中で、お返事してもいいということでしたので掲載させて頂きます。『世の中にはたくさん苦しんでいる人がいて、私も今まだ人生が充実しているとは言えない時期に入っていますが、ノリコさんは今までヒーラーとして活躍されてきたり、ご自身もセラピー等受けてきて、どれが一番効果的だったと思いますか?個人的によっても違うと思いますが、今これだけ沢山ヒーラーがいるのでやや混乱している事もあり、個人的にノリコさんのご意見は信頼出来るのでお尋ねしたいと思いました』これに対して、私が言えることは、ただ一つ、「自分の経験することのすべてに無駄なことはない」ということです。1000人いたら1000人、それぞれの感じ方も効果も違いますからヒーリングは、どれが一番効果的なんてけして言えないのです。もちろん、私にとって、レイキやキネシオロジーは効果的だったから今、それをやっているわけですがそれだけでなく、これまでのいろんな経験が、すべて今の私を作っていると思います。他の人が感じた効果が、自分にとって同じように効果があるとは限らないですし結局は、自分でやってみて体感していくしかありません。また、例え、何かのヒーリングを受けてその時、効果的でないと思っていても、後から効果を感じたりいろいろ体験していくうちに、後から、なぜあれが効果的でなかったのかが、わかってきたりします。すべての経験は、プラスにしかならないし最終的には、人生の中で失敗なんて、何一つないのです。病気や不調や困難は、大切なことを自分に気づかせるための一つの愛の形でしかありません。私たちが体験していることは、すべて、宇宙の、そして自分の魂からの愛のメッセージの一つの在り方なのです。それに気づくかどうかは、自分次第。例えば、病気になったおかげで、それを癒そうとヒーリングを始めて、結局、ヒーラーになった人など山ほどいますし家族と上手く行かなかったから、その傷を癒すためにいろんなヒーリングをやっていくうちにヒーリングの世界に入ってゆく人もいます。私の友人や知っているセラピストやヒーラーの中で過去において、家族との関係に問題があった方がとても多いのは、その方たちがその困難から学んだり、気づいてゆく必要があったからです。そういう方たちは、みんな口を揃えて、こんな風に言います。「あの時、病気になってよかった~。でなければ、今、このヒーリングには出会わなかったから」「自分のことを理解してくれない家族を持ってよかった。だからこそ、人の痛みがよくわかる自分になれたから」「あの時、あの仕事をくびになって本当によかった~。だから、今、この素敵な仕事に出会えたのだから」そう、今、起こっている困難や病気や不調はけしてマイナスのことではなく大切な気づきのためのレッスン。先日、私が「闇は光とともにある」という日記を書いたのはそういうことを言いたかったのでした。だから、その深い愛を知ると、最終的には、あらゆることは、ただ感謝になってゆくのです。世の中にヒーリングもセラピーも溢れていてどのセラピストやヒーラーがいいのかわからないというのもわかりますがもし、そういうものを受けたいと思うのなら、自分の人生を信頼して、少しでもピンとくるものがあったなら、試してみるそれしか、方法はないと思います。そして、もしかすると、ヒーリングやセラピー以外のことから何か道が開けてくるかもしれません。今、体験していることはすべて後から大きな光の一部となります。例え、今、どんなに辛い状況にあったとしてもどうか、そのことを心の隅にとめておいてください。いつか必ず、大きな光を感じることができる日がやってきますから。Love & Blessings
2010年03月17日
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昨日から3月。NYは、昨日、今日と、とても温かく、日中は7度ぐらいまで上がりました。今年に入って、怒濤のごとく日々が過ぎてその流れのまま、3月に入りました。これから2週間、急にレイキのクラスやセッションでスケジュールが一杯になったのに加えて、修正中の英語版のテキストを来週までに仕上げなければならなくなったことやもうすぐ予定しているレイキ交流会のことも考えなければならないしその他、急な予定外のこともいくつかあって、いろんなことが一気にやってきた感じです。しかも、以前から予約していたオープンセンターの週1の4回ワークショップを受けたり、またその他のイベントにも既に申し込んでしまっていてひゃ~重なる時は重なるものだなあ、ちょっと予定を詰め過ぎてしまった~~と反省しつつ、何とかなるでしょう、という気持ちもあったのですが、そんな中、今朝、オラクルカードを引いてみると、大天使サンダルフォン現実化を早める天使と言われています♪また、そのメッセージは「平和と喜びの感情で、この瞬間を過ごすこと。今、この瞬間にフォーカスすること。それぞれのフィーリングや経験を充分に感じること」ふむ~自分にとって喜びの仕事ができて、他にもいろいろとやることがあるのは、とても幸せで、ありがたいなあと感じる一方でやりすぎてしまうと、今のこの経験を充分に消化したり、味わったりすることができずに、意識が先へ、先へと行ってしまいがち。だから、常に今、この瞬間にフォーカスしていくことが大事だなあ、などと、納得していたのですが、さきほど、急に、明日のレイキのクラスを予約されていた方が今月末へと変更となり、思いがけず、明日1日の余裕ができました。変更された方は、仕事が入って急なことで申し訳ないと言われていましたがこれは、間違いなく、私にちょっと一息入れなさい今を充分に感じなさいというメッセージまさに、今朝、おさむに「これは、さすがに時間が足りないよ~~」と言っていたのですが、それをサンダルフォンが聞いて急きょ、休みを与えてくれたかのよう。やっぱり、すべてを安心して任せておけば大丈夫。お~し、時間はたっぷりある~~♪と、急に余裕のモードになったのでした。(もともとの性質が「水」の人なので、一瞬でモードが変わります)一瞬、一瞬、すべての瞬間を最高に味わい、感じながら、日々を過ごしてゆきたいです~ありがとうございます@New Mexico「一体、何をジタバタやっているのかしら。私は今、この瞬間に生きているわよ」
2010年03月02日
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先日も書きましたが、今、辛い立場にある方、苦しんでいる方、意味もわからず辛いと感じている方、身体の調子が悪い方など私のところに、いろいろな相談メールをくださる方がいます。中には、今の状況を詳しく書いて伝えてくださる方もいらっしゃいます。NYにいる方でしたら、こちらにセラピーやヒーリングに来られてくださいと言うこともできますが、遠くではそうはいきません。また、私は日本やアメリカの他の地域のヒーラーなどはよくわからないので、この人がいいとお勧めすることもできません。かといって、私がメールでその方たちにこうしたらいいとか、アドバイスをすることもできません。そうしたい気持ちもありますが、それを一人一人にやっていると自分の時間や余裕が全くない状況になって、私自身が疲れてしまい私のところへセラピーやヒーリングに来られた方たちを癒したり、ヒーリングを教えたりする仕事ができなくなってしまうからです。自分の時間を大切にすることは、私が最も学ぶ必要があることなのです。なので、この場で、まとめてお返事をすることにします。どうぞお許しくださいね。ただ、私が言えることは、自分の人生を信頼するということだけ。今の状況もすべて、自分の学びに必要だから与えられていますし自分自身が(潜在的に)引き寄せているものだとも言えます。誰も答えなんてわかりません。一人一人、それぞれ学びは違うので、これはこうだ、とかあなたにはこれが必要だ、などと言えないのです。もし、自分自身が、ヒーリングやセラピーを受けたいと求めていれば、きっと必要な時に、近くでそういう人と出会うでしょう。また、自分の人生を変えるような本と巡り会うことで考え方や捉え方が変わることで、人生が開けてくる人もいます。また、いろんな出会いや経験を通じて気づきを得たり、学んだりする人もいます。苦しむ期間が必要な人もいるかもしれませんし、すぐに立ち直ることできる方もいるでしょう。私もこれまでの人生の中では、何をやっても上手く行かないとか、自分は必要とされていないと感じていた時や生きてゆくのは、むなしいと感じていた時もありましたでも、その時期があったことも、私は今、とてもとても感謝しています。それがなかったら、今の私はなかったでしょうから。起こっていることのすべてに感謝すること。感謝できない状況の時こそ、感謝を学ぶチャンスですから。呼吸ができることご飯を食べれること手足が動くこと今、生きていること感謝できることは山ほどあります。これは当たり前だと思っていることはある人にとっては、当たり前のことではありません。ありがとうと唱えれば、すべては上手くいくなんて私は言いません。でも、自分が出したエネルギーは必ず受け取ることになるということは、間違いないのです。祝福すること、感謝すること同じことです。生を祝福し、心から感謝するエネルギーは、必ず、宇宙に届きますから。私たちの魂が、肉体を持って、この地球上にやってくることができたということ自体が、ものすごい奇跡であって、素晴らしい体験です。すべての人は祝福されています。誰もが、この宇宙で必要不可欠な存在です。私たちは、ここに生まれてくる前は、そのことを知っていたのに今は、そのことを忘れてしまっているだけなのです。自分が闇の中にいると感じていても実は光の中でもあるのです。光はつねに闇とともに存在しています。私たちは、遠くにいても、意識レベルでは、つながっています。どこかで、私たちがつながっていることに深い感謝を捧げます。どうぞ、あなたが、あなたを取り囲んでいる光の存在に気づくことができますようにありがとうLove & Blessings
2010年02月23日
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以前にも「柔軟に生きること」というタイトルで書いたので、重複になってしまうのですが若さって柔軟性だなあと、つくづく感じます。実際に、実際の年齢よりずっと若いな~と思う方にはとても柔軟な方が多いです。私の友人で、私より一回り以上、年上の女性がいるのですが見かけもとても若いのですが、その柔軟さにはいつもびっくり彼女は、プロのセラピストではないのですが長い間、ヒーリングやセラピーの現場にいた方なのでほとんどプロに近い多くの知識や経験を持っている人です。でも、そういった知識や経験に囚われることなく何でもよさそうだと思ったら、すぐに取り入れてゆく方。例えば、私が「これ、よかったですよ~」などと言おうものならもう次の日には、予約をしたり、調べたり、すぐに取り組んでみたり。知識や経験があるにも関わらず、とても柔軟な姿勢を持っているのは素敵♪また、私の別の友人で、やはり少し年上の女性ですが日本で長い間、バリバリのキャリアウーマン(言い方が古いかしら?)だったのですが、そのキャリアも安定した収入も捨てて、ニューヨークに来て、アルバイトをしながら、大学に入り、全く一から学び直している方がいます。この人もかなり柔軟な方で、どんなことに対してもけして決めつけたりしないし、受け入れていく人でそういう人と一緒にいるのは、本当に楽しい♪人は、年を重ねてゆくにつれてこれまでの経験や知識から「自分にはこれが合っている」とか「自分にはもう必要ない」とか、まだ経験したことがないことに対しても「これはこうだ」と判断してしまいがちになりますよね。これまでの知識や経験、常識などがじゃましてしまって、自分の枠の中でしか、捉えられなくなってしまう。新たな可能性や発見を見逃してしまうのです。そうして、柔軟性を失い、自分の価値観を広げられなくなってしまった時それが「老い」というものかなあと。(若くても、そういう人はいるかもしれませんが)どんなことであっても、自分が経験してもいないことを判断することはできませんが自分が経験したことでさえ、それが永遠にその通りだとは限りません。例えば、ある病を持っていた人が、マクロビオティックの食事法で完治することができたとして、その人にとっては、もうマクロビの食事が絶対的なものになって何年もそれをストイックに続けてしまうことになったりするのですが身体も変化していくので、その食事法が、ずっとその人にベストかどうかはわかりません。昔は合わなかったのに、今は合うようになったとかいうこともよくあります。だから、自分のこれまでの価値判断をいつでも変えることができる柔軟性を持っているのは、大切なことだなあと。そのためには、「今の」自分の身体と潜在意識が何を感じているかをいつも真摯に見ていくこと、そして、興味を持ったら、あれこれ考えずにトライしてみることあらゆることは、ベストのタイミングで自分のところにやってくるのですから何をするにも遅すぎることはありませんものね。そういう意味でも、一般的にやはり女性の方が柔軟性を持っている人が多いように感じます~最近、レイキやキネシオロジーの予約のメールや電話で「レイキもキネシオロジーもよくわからないけれど、一度受けてみたい」という女性が多いですが、そういう風に何だかよくわからないけれどやってみたいというのは、やはり女性が多いのではないかしら?男性の場合は、しっかり理屈があってから、興味を持たれる人が多いように感じます。だから、女性の方がいつまでも、バイタリティがある人が多いのでしょうね。(って、男性でも柔軟な方はたくさんいますけれどね)年を取るにつれて、身体は堅くなってしまいますので柔軟な身体をキープしておくことは、若さの大切な秘訣だと感じますが身体だけでなく、精神にとっても柔軟性はキーワード♪もちろん、年を重ねることは、とても素敵なこと。私は日々のすべてがおもしろくて仕方なくなったのは40歳を過ぎてからですし、これから、ますます楽しみシーエッセンスの中に、柔軟性を養うクラゲのエッセンスがありますがくらげのような柔軟な生き方、してゆきたいものです~(え?柔らかすぎて、安定感がない?)@NYの水族館のクラゲ水槽そのうちの一匹
2010年02月21日
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今日、ミキシィでマイミクさんが、とっても素敵なことを言われていて全くそうだなあと、つくづく感じるので、そのことについて書いてみますね。それは「この世のすべての存在は、それぞれが個性を持った違った存在であるということ」だから、それぞれが自由に自分の感じるままに生きていくことが大切。あれが好き、これが嫌い、そんな本来の自分の感覚を大事にして素直にワガママに生きること。そして彼曰く、そんな風にワガママに生きるためには、一つだけ当たり前のことを体感している必要があってそれは「 “全てが愛でできている”と 体感していること」以下、彼の言葉からの抜粋(そのまま抜粋します)これからの時代… 個人個人のスキキライがよりハッキリとしていき よりハッキリと『区別』されていく… もちろん「差別」はアカンけど 『区別』は逆にせなアカンで! 『区別』せな大変なんやで! 『区別』って、『愛』のモト、 個人個人の違いを認識すること! やで。 「みんな同じ」やないんやで! 自然には何ひとつ、全く同じモノなんて 存在せーへんねんから、全く同じ人間なんて おるわけないわけで 全員違うわけでね… 60億、人間がおったら、 60億の個性があるねやん 人間が『個性』とゆー存在である時点で 人間は生まれつき『区別』されてるってことなんな~ だから、これからの時代 どんどん『区別』がハッキリしていく… でも(ここらへんが宇宙システムの ほんまにスゴイとこやと感心するんやけど、 『区別』がハッキリしていけばいくほど… 人々の『繋がり』は、より強くなっていくねんなぁ… 全てを許容し、受容した上で、元々の自分 自身のカタチに戻ってく感じ… これからは、宇宙のシステムに基づいて、 一人一人が生まれついてのピースのカタチ… 『個性』を取り戻し、 更に全てが『愛』だとゆーことを体感し、 それを想い出した人々が区別しつつ繋がり愛、 永年完成されることのなかった世界平和・地球平和の ジグソーパズルが完成されていく… 丁度、昨日見た「地球少女アルジュナ」で全くこれと同じことを言っている場面がありました。 「この地球上のものは、人も生き物も、みんな、それぞれ違っているから、一つのものなんだよ」(正確な言葉は忘れましたが、そんな内容のことです)ほんと、この監督、素晴らしいなあと それぞれが全く違って、それぞれが好きなように生きていくからこそ 宇宙全体としては調和しているのです。 それをみんなが同じ方向を向いてしまうと、それは一つではなくなってしまう。私が、時々、レイキのクラスの中で、みなさんに説明していることの中で例えば、自分の身体の中で「足の親指」と「耳」は全く違うことをやっているわけだけれど、だからこそ、私という身体の中で一つにつながっていて、調和している。 それを私の身体の部分が、みんな「耳」になってしまったら、もう私としては機能しなくなってしまいます。(身体が全部「耳」になった映像を思い浮かべるとすごいけど)逆に言えば、私の「親指」と「耳」は、全く違ったことをやっていて「私とあなたは関係ないよ」と思っているかもしれないけれど私の身体(宇宙)の中では、一つのものとしてつながっている。ワンネス(一つのもの)というのは、みんな違っているからこそ、実現されるということ。個性は愛の形の一つ周りのやっていることを気にしたり、周りの風潮に流されたりせず自分が本当に感じるままに、自由に生きてゆくこと、これからの時代、ますます、それが大切になってくると感じています。植物たちも、それぞれの個性を存分に表現しているね
2010年02月06日
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今日の話は、前の日記に書いた、天からのメッセージを受け取って与えること、ということとは、一見、逆のことのようになるのですが。先日、みかさんが言われていたことの一つに、クライアントに対するメールや電話でのアドバイスはしないということがありました。私はレイキのクラスやヒーリングを受けた方やキネシオロジーのセラピーを受けた方に対しては、その後のフォローとして、レイキやセラピーに関する質問はいつでもどうぞ~と言っています。そのこと自体は全く問題ないのですがそれが、時には、レイキ以外のことに関する質問や悩み相談、人生相談になったりすることもあります。まあ、それもレイキマスターの仕事の一つだと思ってこれまでやってきたのですが、みかさん曰く、それをやっていると自分自身が持たなくなってしまうし、メールや電話で答えても相手が本当に癒されることはないということ。実際に会った中でしか、癒しは起こらない。だから、何か悩みがあるのなら、こちらに来てもらってセラピーなりヒーリングなりを受けてもらうようにしなければならないということです。考えてみれば、これはプロとしては当たり前のことなんですが、つい、やってしまうのですよね。もしかすると、私以外に相談できる人がいないかもしれない、私が今、できることをしてあげるのが、私の役目なのではないか?そう思うと、できることをやってあげたくなりますしそれをしないでいるのは、とても自分が冷たい人間のように思えてくるのです。でも、それをやることが、自分自身を大事にしないことにつながりそして、それはけして相手のためになっているとは言えないのですね。一方、去年頃から、私のHPやブログを見て、私のクラスやヒーリングに対するお問い合わせではなく日本やアメリカの別の地域の方から、いろんな質問が送られてきます。NYまで行けないので、自分の地域で誰かいいレイキマスターを知らないか?とか、自分の病気はレイキで回復すると思いますか?とかシャスタやセドナのお勧めスポットや行き方を教えてほしい、とかフラワーエッセンスは、どこで購入できるのか?クリスタルの選び方を教えてほしい、こういうクリスタルを持っているのだけれど、どう思いますか?など、さまざま。私はNY以外の別の地域でレイキを学んでいないので知りませんしまた、レイキは、人それぞれ、効果は違いますからその人にとって、どんな効果があるかなど言えません。それでも、病気で困っていると言われるとほっておけない気持ちになるので、以前は、そういう質問にも、私が答えることができる範囲で、できるだけ答えてきました。でも、私がいくら時間を割いて、リンクをはったりして、詳しくメールに書いてもその半分ぐらいの方は、その後、たった一言のありがとうのメールもなくそのアドバイスを実行したのかどうかも、何も知らせてこない方でした。ああ、こんなことをしていたら、自分がだめになってしまうなあ、ということを何度も感じました。例え、自分の時間をけずって、メールを送っても相手にとっては、たいした助けにもなっていないのなら全く意味はないのですしね。そして、それはその方たちが悪いというのではなくそういう方たちを引き寄せてしまっていたということなのだなあと。こうやってメールをくださり、私が何か少しでもお手伝いできるのは有り難いことだという気持ちもあるものの去年から、やはり、これは変えていかなければ、と思い始めていたのですが先日、みかさんに会った時に、見事に指摘されました。は~やっぱり、わかってしまうのね~つまり、私は与えることと受け取ることのバランスが取れていなくていつも、与えるばっかりになってしまっているとのこと。受け取る学びもやらなければならないのです。これは、もしかすると、私にとって根深い問題なのかもしれません。以前から、例え友人関係にしても何でも、与えることの方が多いのは確かですし与えていることに、喜びを感じていたのですがだから、バランスが取れなくなってしまっていたのですね。みかさんも言っていましたが、そういう相談を断るのは罪悪感が出てくるものだけれど、それをエイ!と切らなければその循環は断ち切れないとのこと。ふ~これは私にとっては、けっこう大きな課題だなあそんなことを考えながら、先日、アセンテッドマスターのオラクルカードを引いてみたらイシスのカード。『毎日、優先事項のために時間を割くことで、前向きな方向へエネルギーをすばやくシフトさせることができます。自分自身の欲求が満たされているか確かめてください。自分の時間をとるために、現実的ではない要求にはノーと言ってください。自分自身に正直になり、仕事と家庭生活の間に健全な境界線を引いてください」なんとわかりやすいもちろん、これからも、私のクラスやヒーリングに関するお問い合わせや、クラスやキネシオロジーのセラピーを受けた方たちへの、レイキやセラピーに関する質問は答えてゆくつもりですが、それ以外の質問や悩み相談には、メールでのアドバイスはせずセラピーやヒーリングのセッションの中で、話すようにしようと思います。ごめん!(って、謝る必要はないのか)みかさん曰く「宇宙はいじわるだから、そういうことを決めた途端いろいろやってくるのよ」と言われていましたがまさに今週は、一気にいろんな相談メールがあった週でしたそのうち、お一人は、どうしてもほっておけなくてついアドバイスをしましたが、それをとても前向きに捉えてくれて今後、私のセラピーを受けたり、自分を癒すためにいろいろやってゆきたいと言ってくださったので、よかったなあと。こういう、うれしいご報告があると、とても幸せな気持ちになるので私も受け取っていることになるし、またヘルプもしたくなるのですけどねおさむ曰く、のりこはヒーラーというよりティーチャーだから、クライアントとヒーラー、セラピストという割り切った関係はできないんだよと言います。ふむ~確かに。レイキというヒーリングの性質上、私がその方を癒すというより、その人自身でレイキヒーリングができるようにするというのが、目標なので、私にとってクライアントという意識はないのですがこれがキネシオロジーのセラピーになると、また違ってきます。このあたりの立場も、完全なセラピストやヒーラーとは違っているのかもしれません。どちらにしても、これからは、与えるばかりにならないように、与えることと受け取ることのバランスを取ってゆきたいなあと思います。(ちょっと自信ないけど)
2010年01月31日
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今夜は新月新月になるのは、NY時間の夜中2時、日本は夕方4時です。今年最初の遠隔レイキの会はNY時間23時から、もうすぐスタート、楽しみですふと気がつけば、もう1月の半ばですね。今年に入って、私はさらに変容が加速的に起こってきている感じがしていますが他の方はどうなのかしら?ほぼ毎日、アセンテッドマスターと大天使のオラクルカードを引いていますが最近、いつも出てくるのが、クリアなintention や、リーダーシップ勇気、チャレンジ、といったカード。ふ~さらなる、チャレンジなのね上からのメッセージは、最近、いろんなことからひしひしと感じているので、やっぱりとにかく行動してゆくしかないなあと。と、そんなことをぼんやり考えていたら今日、送られてきた穴口恵子さんのメールマガジンの中で「自分の枠をはずすこと」というのがありました。自分はこうだ、と思い込んでいることをどんどんはずしていくことで、新たな才能が開かれてゆく、そんなことについて書かれてありました。チャレンジしつづけること。先日の脳科学者の茂木さんの本に書かれてあったのは「不確実性を楽しむ」ということ。彼曰く、自分ができるとわかっていることをやっているのは脳は喜ばないのだそう。それがどういう結果になるかわからないという不確実であるからこそ、わくわくどきどきするし、それが達成された時や意外な可能性を見いだした時の喜びは、大きいのですしね。もちろん、毎日、生きているだけで幸せであることは間違いないしご飯が食べれること、身体が動くこと、住む家があることこれだけでも、本当に有り難いことです。その感謝の気持ちはいつも持っていたい。でも、だからといって、このままでいいや~ということではなくやっぱり、未知なる可能性、新しいことにチャレンジしていく勇気と行動力はいくつになっても持っていたいな、と思うのです。先日、何かの小説の内容の説明を読んでいたら「40代の中年男女のピュアな恋」みたいなものがあったのですが私にとっては、40代だからピュアじゃないという前提そのものが何だかとっても違和感。60代であろうが、80代であろうが、ピュアに人を好きになったり恋を楽しんだり、無邪気にじゃれあってもいいわけで年齢によって、自分の枠を作ってしまう風潮は、まだまだ日本には多いのかしら、なんて考えました。年齢に限らず、自分のこれまでの経験からも枠を作ってしまっている人もいるかもしれませんね。経験もないのに、今更、こちらの方に進んでも遅すぎる、とか特別な才能もないのに、きっと私には無理、とか。人がそれぞれ潜在的に持っている力のすごさに気づけばそんな枠なんて、全く意味がないことに気づくのですけどね。ここ数年、私が出会う方は、そういう枠に囚われないで自由に羽ばたいている人ばかりなので、私もパワーを頂いたり、刺激されたりすることが多くて、ほんと幸せです♪そして、これからは、そんな「枠なし人間」がますます増えてゆきそうな予感今年もチャレンジで行きましょう~~今日のチャレンジ♪家の中で、玉ボケ撮影。(って、そんなチャレンジかい!)
2010年01月14日
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人はどうしてこう、自己を傷つけたり、苦しめたりすることが好きなんだろうかと時々、感じてしまいます。自分のこんなところがだめこうでなくてはいけないのにまた今日もこれができなかったこんな自分は情けないそんな思いを持って、日々を過ごしている人が何と多いことでしょう。ああ、もう私たちの魂は、本当に喜びだけを持って存在しているというのに。すべてのことは、ただ愛を感じるために存在しているだけなのに。どうか、自分のすべてを愛してください。だめなところも弱いところも。~~でなければならないなんてことは何一つないのですから。他の人と比べないこと。誰れが何をできていようが誰が素晴らしい活動をしていようが自分は自分。もちろん、素敵な生き方だなあと、それをまねるのもよし。でも真似しようと思っても、できないこともあります。人それぞれ、みんな進むペースもやり方も違うのですから。今の自分を変えたいなら、変えることができる時に変えればいいだけ。これまでどうだったからとか、そんなことは全く関係ないことだから。自分のことを100%愛せない人がどうして人のことを受け入れることができるでしょう。自分のだめなところも、弱いところもすべて好きになったら他の人のだめなところも弱いところも好きになるのです。自分を愛せないから他の人の嫌な部分が目につくのです。それは単に自分の中の嫌な部分を見せてくれているだけ。どうか、恐れないで。ハートを開いていくことを。もう年齢がどうだとか、今の仕事がどうだとか経済的にどうだとかそんな見せかけのものに囚われないで。私たちの魂は、みんな輝いているのだから。私たちは存在しているだけで、素晴らしいのだから。@Shasta
2009年12月13日
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今を生きること。少し前にご紹介したエハンさんの講演の中で、あるイギリスの探検家のお話が印象的でした。(俳優ラルフ フィエネスの叔父さんだそう)彼は、北極や南極、など世界各地を周り最高年齢である65歳でエベレスト山の頂上へ登った人なんだそうですがその彼に、なぜそんな超人的なことができたか、その秘訣をエハンさんが尋ねたのそうです。すると、彼の答えは「この頂上への道が、永遠に終わらないと思うこと」なんだそう。なるほど~と思いました。あとどのくらい登らなければならないと考えるととても辛くなってしまって、もう無理だとか不安になったり、恐れを抱いたりすることになってしまいます。そして、あそこまで登れば幸せになれると思うとあそこまで登らない間は不幸になってしまうということなんですね。だから、これは永遠に終わらないと思えばそれは単に「今、道を歩いている」ということにしかならないわけですから辛くも何ともないのです。ただ今、歩いているだけなのです。不安や恐れは、過去に生きたり、未来に生きているから起こることであって今この瞬間に生きている限り、そんなものはあり得ませんから。でも、多くの人は過去や未来に生きてしまっています。例えば、『~~の仕事ができたら幸せなのに』『~~に行けたら幸せなのに』「お金があれば、全ての問題は解決するのに」という感じで。夢を持つことはとても素敵なことであるのは間違いないけれどその夢を叶えなければ幸せになれない、というのでは永遠に幸せにはならないのです。例えば、女優として生計を立てるという夢があって例え、その夢を叶えても、次は、大きな舞台に立ちたいという夢が出てきて、また次はあの役をやってみたいという夢が出てくる、、、という感じで、永遠に目標とするものには終わりがないのですから。昨日もそのことを書いたけれど夢を叶えることが、大事なのではなくその夢に向かう途中の一瞬一瞬に何を感じてゆくかがすべてです。漠然と、先に行けば何かが待っている、未来には、何かがあるように感じて毎日を過ごしてしまったりする人もいるかもしれません。だから、今は、何かが足りないような気になったり意味もなく焦ってしまったり。でも、それはどこまでいっても変わらない。例えば、~~を旅したい、という夢が叶って晴れて、その土地に行くことができたのにそこにいる間、次にとる行動のことを考えていたりまた、ずっとビデオやカメラ撮影ばかりしてまるで、その旅が終わった後で「あ、ここきれいだったね」と思い出すために、その土地に行っているかのようだったり。せっかく、そこに行けたのにその瞬間、その場所での自分の感覚を感じようとはせず意識は常に未来に行ってしまっているのですね。今を感じるということは、自分の目で見て、風や匂いを感じ、大地や木々に触れ、自分の五感のすべてを使って感じること。(もちろん、ビデオやカメラが悪いということではなく、写真を撮るためだけに旅に行くということもあるでしょうが)私たちは、食べ物を頂く時も本当にその食べ物を味わって食べていないのかもしれません。せっかくおいしい料理を食べながら、別のことを考えていたらその食べ物を本当に感じることはできませんから。例えば断食の後の、シンプルなおかゆが、とてもおいしく感じるのは単にお腹が空いているというだけでなく、そのおかゆを充分に味わって食べようとして、全ての意識が口の中のおかゆに向けられるからなのかもしれませんね。以前、目をつぶって食べ物を食べるという実験をやったことがありますが意識が目に入ったものに向けられず純粋に、味覚だけに意識が向かうため、いつもとは違った食べ物の感覚がありました。レイキでも最初のうちは、ヒーリングをしながら、『ああ、あと5分、手を当てなければならない』なんて考えて4、5分でさえ、時間がとても長く感じてしまう人もいるようです。これが純粋に、その時のエネルギーを感じるようになると違った時間の中にいれるようになります。ただ、そのエネルギーを感じているといろいろなことを考えることがなくなるのです。自分が持っている全部の感覚をフルに使って、今、やっていること、今いる状況のすべてを感じる。それが今に生きるということ。そういう意味で、瞑想も今、ここにいることを感じるためのものですね。今、この瞬間に生きる。それが悟りというものなのかもしれませんね@New Mexicoかくゆう私も、カメラを持つと、ついどう写真を撮るかということばかり意識が向いてしまっている時がありますそれはそれでまた楽しなのですが、その瞬間、その場所でのすべてを感じていない時もあるなあと。何も持たずにそこへ行ってみるのもいいですね。
2009年12月10日
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あちらこちらで耳にする「引き寄せの法則」何年か前に話題になった『ザ シークレット』以降引き寄せの法則に関するいろんな本が出ていますね。これについて、私が今感じているのは、この法則が真に意味するところは自分にないものを強く願って引き寄せるというのではなく人はそれぞれ、自分が見たい現実を見ている、というだけのことなのだなあということ。例えば「今は不況だ、生活は大変だ」と思えば、そういう現実の中で生きるし「人生は甘くない」と思えば、甘くない現実の中で生きる。反対に私の人生は本当に恵まれていると心から感じていれば、恵まれた人生になります。これを「引き寄せた」とも言えるし「見たいように見ている」とも言えます。例えば本当は自分の現状は辛い、苦しいと感じているのに幸運を引き寄せようと意識して「私は~~があって幸せです」と何万回、頭でイメージしてみたところで、たぶん、その現実はやってこないでしょう。私たちは、誰もがこれが現実だと思っていますが、それはあくまでも、自分が見たいと感じている現実であって、隣の人は、全く違う現実に生きています。もしも、同じ出来事が二人の人に同時に起こったとしても選んでいく現実は別々です。例えば、会社をリストラされたということが起こったとして一人は「俺は何て不幸なんだ、これからどうすればいいのだろう」という現実を選択する人もいれば別の一人は「お、これはここで働くのはもう終わりにしろということだったのだな。これから何が起こるか楽しみだ。わくわくするなあ」という現実を選択するかもしれないのです。起こったことそのものに、よいことも悪いこともありません。ただ、それをよいことと捉えるか、悪いことと捉えるかのその違いがあるだけです。これはポジティブシンキングでいきましょう、なんてことではありません。前回の日記で書いたように、あの日私たちは、いつも暮らしている家にいても、違う次元で、全く別の現実を見ていました。そして、その異次元でも、それぞれ違う現実があります。私たちが見たものは、愛と光と喜びしたがもしかすると、そこで闇と毒と苦しみを見る人もいるかもしれません。どこに行こうと、その人の見たい現実のままに世界は現れます。そして、それがだめだとかすごいとかいうことではなくただ、それぞれが選んでいる現実だというだけなのです。すべては、その人の「今」を映し出しているだけなのですね。どの現実、どの世界を選択するかは、その人それぞれの全くの自由。どれがいいとか悪いとかの問題では全くないのです。それはそれぞれの人が決めることであって周りが決めてゆくことはできません。自分がどんな現実を見てゆきたいかどんな現実を選択するのか私たちは見たいように世界を見ることができますから♪今日は、おさむとドラムサークル♪約2年ぶり?にパーカッションを叩きました。叩いていると、身体の底からわき上がってくる熱いエネルギー今回、二人でドラムを合わせるのは初めてでしたが、ほんと楽しかった~♪リズムってすごい♪振動ってすごい♪身体で感じることができる喜びに感謝です~
2009年12月07日
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すべての感情や想いは、自分の選択の結果です。これは私のベースにある考え方であり、キネシオロジーのセラピーなどをやっていてもわかるのですが例えば、誰かに対して、怒りの感情を持ったり傷ついたりするのもそれは、その相手の問題ではなく、あくまでも自分の問題だということです。例えば、同じことを二人の方に言ったとしても、それぞれの反応は全く別です。なので、それぞれがどのような感情を選択するかは、人それぞれ。怒ったり、傷ついたりする人は、「怒り」や「傷つく」という選択をしているだけです。それを理解していないと、相手があんなことをやったから私は不快になったとか、こんなことを言われたから傷ついたということで、いつも原因を自分の外に持っていってしまいます。中には自分が怒っていることや傷ついていることをその相手に伝えようとします。「私はあなたのせいで傷ついたのよ」とか「私はその言葉で怒りを感じたのよ」という感じです。自分がいかに傷ついたか、怒っているかを相手に知ってほしいと思うのですね。(昔は、私もそうでしたけどね)でも、自分のことを理解してほしいというのは、自分の価値観を押し付けることであり、エゴでしかありません。自分が持つ感情のすべては、自分の選択なのです。怒りという感情を選択するかしないかの違いですから。自分がその感情を選択しただけなのに、それを相手の責任にしていても何も解決しませんものね。だからといって、怒りや悲しみを感じることは、けして悪いことではありません。むしろ、さらなる成長のための大きなきっかけだと私は思っています。大切なことは、怒りを感じた時に、「私は怒ってなんかいない」とけして自分の感情を否定しないこと。否定してしまうと事態はもっと悪くなってしまいますから。なので、もし怒りを感じたなら、それを否定せずに「お♪きたきた~、この怒りの感情はどこから来ているんだろう?何が自分に怒りを感じさせているんだろう?」と見つめ直してみること。(実際は、そうわくわくしないかもしれませんが)例えば、怒りの原因の多くは自分は相手に理解されていないと感じていたり認められていないと感じる時に起こります。それは理解してくれない相手が悪いのではなく、強いていうなら、理解できるようにしていない自分の責任です。それぞれ別の人間なのですからそう簡単に人のことなんてわかりません。いえ、自分のことすらよくわかっていない人がほとんどかもしれません。また、時には、自分に対する自信のなさが、怒りに結びついている場合もあります。その自信のない部分を相手の言葉で刺激されると、怒りが湧いてくるのです。つまり、相手の言動によって、すでに自分の中にあった何かが引き起こされただけということもあるのです。また「あなたの言葉で傷ついた」というのも同様に自分が自信がないと感じている時に起こります。例え相手に「あなたの歌ってだめね~、やめた方がいいんじゃない?」と言われたって、もし自分の歌に自信があるなら「え?そう?それは感覚の違いじゃないかしら?これがいいっていう人もいるのよ~」と傷つくことはないのですから。(普通は、そんな言い方をしてくる人とはあまりつきあいたくはないですけどね。これは昔、私の母によく言われたことなので)そういうことに気づいてくると、例え怒りを感じることがあっても「あなたの言葉で私は怒ったのよ」ということにはけしてならないはずですし、自分のエゴに気づいたり、必要のないものを手放していくチャンスになるなあと感じます。私はこれまで「怒り」を感じた時に、なぜそう感じたかを自分の中に見ていって、そして自分自身に原因を見いだせなかったことは一度もありませんでした。「怒り」の影には、必ずといっていいほど、自分では気づきたくないと感じているエゴが潜んでいます。エゴに気づくことは、特に最初の段階では、とても勇気がいることです。(慣れてくると、おお、ここに隠れていたか~って感じで一瞬で気づきますが)すべての責任は自分にあるということを認めるわけですから。誰だって、あの人がこういったから、とか、彼が何をしたからとか、人のせいにしていたいのです。人のせいにしていた方がずっと楽に感じるからです。でも、いつまでもそれをやっている限り魂の成長はないと私は思っています。私たちはもう次のステップへと行かなければなりませんものねそうしてゆくと、相手の言動によって自分の感情を左右されなくなってきますから、本当の意味での心の安らぎが生まれてくると思います。さて、それでは、周りの人に「あなたのせいで傷ついた」とか「怒っている」と言われた場合、どうするか?ですが。相手を傷つけようとして何かをわざわざ言う人は少ないのですし(中にはいますけれど)例え、あなたがよかれと思ってやったことであっても人は何に反応するかわからないので、相手が怒ったり傷ついたりすることがあります。でも、あなたの中に相手を傷つけようという気持ちがなかったのならあなた自身が罪を感じる必要はないと思います。ただ、相手を傷つけるつもりはなかったことを伝える必要はあるかもしれません。そして、あなた自身も相手を変えようとしていなかったかどうか再度、見なおしてみます。相手の今をそのままを受け入れること成長のスピードもそのやり方もそれぞれですから。キネシオロジーのセラピーでは普通はアドバイスはせずその方の願う通りに調整してゆくのが基本ですが私も別の場面になると「このことは私が言わないと彼は誰にも言われないだろうし、ずっと気づかないんじゃないかしら?」と変な使命感を感じて、ついアドバイスしてしまうことがあります例えば、そういう時、今のおさむだと、「やっぱりそうだよね、俺もどこかでそれを感じていたんだよ」と、すべてを前向きに捉え、自分のやり方をあらためてゆくことができる人なのでお互いにとって、プラスに働きますがそれは、あくまで深い信頼関係があってのこと。その信頼関係がないと、中には自分を否定されたような気になってしまう人もいるかもしれません。いえ、本当は、例え、夫婦間であっても、相手が自分で気づいてゆくのを待つしかないのでしょうね。気づく人は気づく、今は気づかない人も、またいつか気づくかもしれないし、例えずっと気づかなくても、それはその人の人生の選択であり、それでよし。そう考えると、相手がアドバイスしてほしいと望めば別ですがそうでない限り、アドバイスなんてものは無駄だと言えるのかもしれません。(だから、この日記は自戒をこめて書いているのですけどね)すべての感情は自分の選択であることを理解すること。自分のことをわかってほしいというエゴを捨てること。相手を変えようとしないこと。いつも心にとめて、自分のエゴをしっかり見つめてゆきたいと思います相手を変えることはできないけれど、自分を変えることはいつでもできますものね
2009年11月29日
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先日、これまで見た映画の中でワースト3に入るぐらいの大失敗の映画を見ました。それは「Apocalypoto』(アポカリプト)ご存知、メルギブソン監督の、マヤ文明の舞台とした映画です。3年ぐらい前の映画ですが、友人がおもしろかったと言っていたし、マヤ文明とあれば、一度見てみたいなあと思っていたので、図書館で取り寄せて借りてみました。NYの図書館は、大抵の映画のDVDは揃っていて、ネットで調べてホールドしておけば、自分が行く図書館のブランチに配達してくれて、届いたらメールで知らせてくれるのでとても便利。かなりマニアックな映画もあるので、最近、よく借りてきて見ています。さて、この映画の何がひどいって、時代考証とか、史実と違うということだけならまだいいのですが、マヤ文明を野蛮で邪悪な文明のように描いてまさに白人から見た、原始人の野蛮さを強調。最後の方にキリストの宣教師たちが船でやってくるのですがそれがまるで、この部族同士の野蛮な戦いを終わらせるかのように描かれていて、暗に、あの非業なスペインの侵略を庇護するかのような演出。そして、この残虐さ。こんなこと絶対にあり得ないというようなマヤ民族の残虐な処刑の仕方や目を覆いたくなるシーンばかり。「こんな映画作って許せん!」と、おさむが怒っていました。(最初は、まあまあとなだめていた私でしたが次第にあまりのひどさに愕然)こんな映画をマヤの長老、ドンアレハンドロが見たら、どう感じるかしら。高度な文明を築いたマヤ民族を、今もまとめているマヤの長老ドンアレハンドロは、深い叡智に溢れ、世界中で平和を訴え続けている人です。そのマヤ民族を、こんな風に描くなんて、白人の傲慢さ以外何者でもありません!(と、久々に「のりこも怒るの巻」に)途中で見るのをやめればよかったのですが、せっかく見出したのだし、もう少し何か感じる場面もあるだろうと最後まで見てしまって、終わりまで残虐なシーンのオンパレード。こんな残虐なシーンの数々を見てしまったら、意識しなくても、潜在意識にしっかり残ってしまうのでおかげで、次の日1日、そのクリーニングに費やすことになってしまいましたさて、全くひどかったこの映画ですが一つだけ、狩猟民族の酋長の言葉で、心に残る言葉がありました。「Fear is sickness」怖れは病気である。酋長曰く、怖れというのは、伝染病のように人々に広がってしまうということ。ほんとそうですね。私が、テレビも持たないし、新聞も読まないのは、怖れや不安を抱かせるような余計な情報を潜在意識にインプットしないため。それは、全く知らず知らずのうちに、私たちの思考を蝕んでしまうのです。いつだったか、「なんだか、ここ2、3日、思考がネガティブな方へ流れがちだなあ」と気づいて、その原因を探ってみたら、たまたまあるレストランにあった日本の新聞の記事を読んだからだったということがわかったことがあります。その新聞記事には、日本のひどい不景気のことと共にある30代の男性の悲惨な現状が記事として載っていたのですが、それを読んだ私の中に「もし、私もこんな風になったら?」という怖れが無意識にしっかり残ってしまっていたのでしたそれに気づいて、すぐにクレンジングしたのですぐにそのネガティブな意識はなくなったのですが本当にメディアというのは、人に怖れや不安を植えつけるようにできているんだなあと痛感。先日書いたインフルエンザの情報に対するメディアのやり方は、その典型的なものです。恐れによって、正常な思考と選択が妨げられてしまうのです。そして、この映画も「人間の持つ残忍さ」という怖れを抱かせるものでした。まさに、Ron Amilton が言うところの「ダークサイド」(あのレクチャーを受けて以来、私とおさむとの間で、「これはダークサイド!!」というのが流行中)本当に私たちが、見るもの、聞くものを選ばないといけません。テレビをつけっぱなしにして寝る人も要注意。寝ている間に流れている情報も、しっかり潜在意識には入ってしまうので、例え、入れたくない情報でも選択できませんから。私たちの潜在意識というのは、まるでテープレコーダーのように目や耳から入ってくる情報を正確にインプットしているのです。以前、自分は見ていないけれど、旦那さんが隣の部屋でよくホラー映画を見ているという方がいらしたのですがそのために彼女のエネルギーが落ちて、調子が悪くなっている人がいました。直接、映像を見ていなくても、自然に耳に入ってくる情報にも充分に気をつけてくださいね。もちろん、ネットでの情報も同様です。お互いを誹謗しあうようなコメントを読んだりすればエネルギーは下がります。そのページを開いた時、読んだ時に感じるエネルギーに、注意してくださいね。(え?このページでダウンするの~~?)また、そういうネガティブなことを相手の意識にインプットしようとする人もいますがそういう人と一緒にいるのも要注意かも。(え?いつも近くにいるの~~?)ネガティブな情報というのは「あなたはたいしたことはできないのよ」とか「あの病気は、とても恐ろしいものなのよ」とか「ますますこれから生活は苦しくなっていくのよ」とか「あなたの願いが叶うわけはないのよ」とか「年を取っていくのは悲しいことよ」とかあなたに無力感、不安、怖れといったものを植えつけてしまう情報のことです。でも、もし、見てしまったり、聞いてしまったら潜在意識の情報をクリーニング。それはもちろん、レイキでも、その他、自分の好きなヒーリングでもポジティブなアファメーションもいいですね。気づけば、一瞬でクリーニングすることができますので、大丈夫(ほっ)ちまたには、ダークサイド、溢れていますから(笑)特にテレビはコマーシャルなど選択できないものも流れるし、いろんな意味で危険なものです。ちなみに、新聞、テレビのニュースだけ見るという方もいますがこれもけして真実を伝えていないので、注意が必要です。新聞、テレビは「事実の一部」を切り取って伝えます。ほとんどの新聞(特に大手の新聞)テレビは、スポンサーや企業、政治、一部の宗教団体と密接につながっているためそれらにとってよくない部分はカットされ、全体としては、伝えていることは真実ではなくなってしまうのです。真実の情報を知りたいと思ったら、テレビ、新聞の情報には頼らないことが大切です。(もちろん、ネットでも嘘の情報はたくさんありますが)自分にとって、本当に必要な情報(映像も含みます)のみ選択していくことが、これからますます大切になってくると思います。自分の思考や感情の状態を常にチェックしてネガティブな情報を入れないようにしてくださいね~PIPI『NORI 怖れないで~~!!』 PIPIとNORIの冒険物語より(最近、写真不足なので、昔描いていたイラストでごまかしています)参考までに『プレアデス 地球をひらく鍵』より p114~115 この情報の時代において、自分で知識を収集するという自然なやり方からあなた方は遠ざけられてきました。 テレビこそすばらしい情報源だと信じ込まされてきました。 しかし、あなた方のメディアは、あなた方を楽しませて意識を眠った状態にしておこうと願っている存在たちによって所有され、支配されているのです。 彼らは選択された一定の現実のヴァージョンだけを売りつけ、他のヴァージョンの存在は完全に無視しています。 テレビはあなたの進化のプロセスを遅らせ、あなたを制限します。 ことに幼い子どもの場合は、それが著しいのです。 子どもの時のさまざまな印象、想像力が人生の展開においてきわめて重要な役割を果たします。 テレビはあなた方を非常に狭い感情表現の領域に制限してしまいます。 基本的には混乱と恐怖だけです。 今日、かつてなかったほどの勢いで、テレビをよしとするキャンペーンが展開されています。 ケーブルテレビを無料にしたり、テレビで放送されていることが、 あたかもいまこの瞬間にもっとも重要なことであるかのように、 スキャンダルや暴力事件についての最新のニュースに釘づけにしようと誘惑します。 テレビを見ている時、あなたがどのように感じるか、いまちょっと感じてみてください。 それは周波数のコントロールです。 このコントロールは途方もなく加速されており、テレビを通して 世界中に恐怖がばらまかれています。 地球上の人々の大半は、いまこの瞬間にもテレビによって 催眠術にかけられています。 テレビに時間を明け渡してしまうと、あなたの意識は損なわれ、意識が持っている潜在的な才能は損なわれてしまいます。 想像力が押さえられ、あなたが持っている最大の贈り物を使わなくなってしまうのです。 何世紀かのちには、20世紀の後半にテレビによって人々は半分眠った状態にされ、コントロールされ、病気になっていたことが理解されるでしょう。 どんな番組であれ、テレビを見るのは時間の無駄です。 テレビはあなた方を人生の実体験から切り離し、 体験の代わりの役割を果たします。 みなさんに言っておきますが、体験こそ学ぶための最前の方法です。
2009年10月28日
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昨日、突然、大学時代の友人から連絡があって、とても懐かしくて久々に当時のことを思い出しました。なんでも、彼女の妹さんの友人がNYに住んでいて、私のことをご存知だそうで、最近、妹さんから私の話を聞いて懐かしくなって連絡してくれたのだそう♪その方がどなたかはわからないのですが、世の中、狭いとはよく言いますけどほんと、みんなどこかでつながっているのだなあと感じます。昔の自分を知っている人というのは、何だかとても不思議な感じです。今の私とは性格も考え方も全く違う私を見ていたわけで、それは私自身でさえ、もう定かではない感覚になっているのだけどでも、たぶん、彼女の中では私というものは今出会ったとしても、あの頃から変わらずに存在しているのだなあと最近出会った方が私に対して感じていることと、昔の私を知っていて、今の私を知る人とでは私への感じ方は、全く違うのでしょうね。先日、おさむと話していたことは、「10年前のことを思い出すと、まるで前世の記憶のように感じるね」ということ。私たち二人の1年の間で起こる変化のスピードは、とても早いので1年前とは感じ方も考え方もかなり変わっていくのだけど特にここ10年で、私たちの感じ方や思考、性格、すべては全く変わってしまったように感じます。二人の関係も、以前とは全然違います。もちろん、私たちが本来持っているスピリットは、変わらずそこにあるわけなんですが感じ方も考え方も変わるので、当然、以前とはやりたいことも違うし出会う人たちも変わってくるわけで、そういう意味では、まるで違う人間として存在しているかのように感じてしまうのです。よくリバーシングワークや、スエットロッジなどで同じ肉体を持っていながら、rebirthー生まれ変わりを体験するということがありますが、まさに私たちは、この10年で、何度かの生まれ変わりを経験して、今に至っているのだと感じます。(それを起こしたのは、レイキだったり、大自然だったり、様々なセラピーだったりするのでしょうが)これが大学時代、20年前となると、もう二つ前の前世の記憶みたい例えば、今、モヒカンで鼻ピアスでジャンキーの人を見たらふ~理解できない、と一瞬はなるのかもしれませんがよく考えてみると、当時の私は限りなくそれに近くというより、その精神そのものであってそれは、この社会に対する怒りや反抗を表したかったのだなあということは今になってよくわかります。なので、当時は、音楽も社会への反抗を歌うロックに傾倒していったし悲哀を歌うブルースに惹かれたのです。今の私には、全くといっていいほど、その要素はなくなっているのだけどでも、私のスピリットが経験した一つとして、どこかに残っているのです。もしも、前世の自分を思い出すことができたとして例えば、前世では、戦士として戦い、大勢の人を殺した時のことを思い出したとしたら、その時の感覚や感情や考え方は理解できるでしょうが、でも今の自分とは違う人間なのですから今同じ感情にはならないし、同じことをしたいとは思わないわけです。本当は同じ魂なのに、感じていることも考えていることも違うのです。そう考えていくと、出会う人すべてに、自分を見いだしていくことができるなあと。通りで酔いつぶれているおじさんにも怒りで相手を責めることしかできないお母さんにも自分とそれを取り巻く社会に絶望し、何もやる気がなくなった若者にもそれはすべて私の過去(または過去生)の一部であり、もしかすると私が今までの私の道を歩いてこなかったとしたら今、そうなってしまっていたかもしれない人たちかもしれません。リチャードバックの「ONE」という小説は、まさにこの感覚をとてもよく表している不思議な小説でこれを読むと、他の人たちを、また世界を見る視点が変わってきます。人それぞれは、みんなユニークな存在でありそれぞれに個性があって、全く別々のものです。でも、一方で、今の自分とは全く違う人間であったとしても過去のどこかで、または未来のどこかで、または違う次元で一つのものでつながっている。いえ、ひとつのものだと言えるのでしょう。それを過去や未来に意識を飛ばして理解するのではなく今、この瞬間に理解した時それがワンネスの意識なんだなあと。それぞれはみんな別々の個性であることを認識しながらも究極的には一つであることを意識しているいつも、そんな感覚でありたいなあと思うのです。だからこそ、ここにヒーリングやセラピーに来られる方々の持っている悩みや課題は、すべて私の中のどこかで存在していたものであると、感じることができるしだからこそ、先日紹介したルーミーの詩で表現された「誰でもおいで」が深くハートに響いてくるのです。な~んてことを、大学時代の友人からメールがあって久々に当時のことを思い出したら、いろいろ考えてしまいました。今、この瞬間に私が感じていることもきっと1年後には、顕在意識からはなくなってしまうでしょうからここに残しておくことにします~。(残さなくてもいいことなんだけどね)上手く伝わらなかったかもしれないけれど読んでくれてありがとう~二つ前の前世(20年前) → 一つ前の前世(10年前)→ 今生(現在) ヨガやっているんだか、瞑想だかわからなくなってしまった
2009年10月27日
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昨日の記事をミキシィに書いたら、何人もの方からコメントを頂いたのですがその中で、友人からのこんなお話がありました。その彼女は、NYに住んでいて、無農薬の野菜を自分で作って、子どもに食べさせているような人ですから、ワクチンの危険性はもう前からわかっていたことだったので、先日、子どもさんの学校で任意のワクチン接種があった時も受けさせなかったそうです。ところが、それを見ていたある子どものお母さんが「なぜ、受けないの?インフルエンザで死ぬこともあるのよ」と、とても怒ったのだそう。そして、その後、そのお母さんから「責任が持てないので、私の子どもとは遊ばせません」とメールでお知らせがあったのだとか。私の友人曰く「子供の生命力を信じられないこと、予防は日頃の生活から、とか普通のことで大丈夫なのに。かかったって大丈夫。あー、みんなどうして聞いたことや教えられたことに依存するんでしょう。自分で考え、調べること、識別することを怠ってはいけないです。いつも親の無知で被害を受けるのは子供です。 いつもどこでも、真実はひとつです」ワクチンを打たせないことが、親の責任を果たしていないかのように言われてしまう社会なんて、本当におかしな社会です。実際は、子どもの健康を危険な目に合わせているのはそのお母さんの方でしょう。「無知は罪です」と何かに書かれていましたが知らないことが問題なのではなくて知ろうとしないことが問題なのです。もちろん、知らなくてもいいこと、または知りようもないこともたくさんありますが、子どもの身体の中に入れるものが一体どんなものからできているか、どんな作用をもたらすのかそんな最も大切なことを自分で調べようともせず医療機関や先生が言われた通りに行うことが親の責任を果たしているとは、けして言えません。その友人は超ポジティブでとてもパワーがある人ですのでそんなことにへこたれるような人ではないのは、わかっているのですが彼女のように、本当の意味で、子どもを守ろうとしているお母さんたちにがんばれ~~っと、心から声援を送りたいです。(あ、お父さんたちもいるかな)自分が信じたことを実行しようとすれば、時には周りの賛同を得れない場合もあるかもしれません。でも、どうか、勇気を持って、その道を選択してくださいね。そして、もし真実に気づいたら、できるだけ周りに伝えてあげてくださいね。自分が毒であること知っていて、でも隣の人は知らないで食べようとしていたら、やっぱりとめるでしょ?”スピリチュアルな”人たちの中には「嫌な役をするのはやめましょう、楽しいことだけを話しましょう」と言う方たちも多いのですが私は、自分や自分の家族だけが安全だったらいいという考え方はけしてスピリチュアルな生き方だとは思わないのです。とはいえ、実際、伝えなくていかなければならないと感じることは山ほどあって、このブログでもそれを書いていくと、ほんときりがなくなってそれはまた私の意図したいところとも違うブログになってしまうので、どこまで書いてゆくかの選択は、とても難しいところなんですけどね。自分も周りもみんながハッピーでないとねということで今日も読んでくれてありがとう~(え?今日初めて?)遠くアコマへと続く道。母なる大地への祈り。こんな景色を見ているといろんなことの答えが自然と出てくるように感じるのです。やっぱり自然とともにある生き方が真実なんだなあと。私たち誰もが本来持っている生命力に心からの感謝を捧げて。
2009年10月26日
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先日、阿部さんのプログでテーマが「個人的な秘密」ということで 読者の方に匿名でいいので、この場でそれぞれの秘密を ぶち明けてくださいと呼びかけていました。 そうしたら、とてもたくさんの方がそれぞれ誰にも言えない秘密について 語っていて、こういうスピリチュアル系のブログ?でさえ こんな風に感じている人がたくさんいるのだから 世の中には、ほんとうにいろんなことで一人で悩み、 苦しんでいる方が、多いのだなあと、あらためて感じました。 こちらが、そのブログと、みなさんからのコメント。 女性の場合の秘密は、男性との関係や性に関することが多く やはり今の性に閉鎖的な社会では (風俗などがこれだけたくさん存在していることも 性に閉鎖的な社会の現れですしね) 女性は一人で悩んだり、苦しんだりされている方は多いのでしょう。 でも、例えば「借金がある」とか「家賃が払えない」とか、 なんでこんなことが多くの人にとって秘密なんだろうと思って考えてみたら、 これは精神的に強いとか弱いとかには関係なく お金がないことや借金していることを 「恥」だと捉えているからなんだってことに気づきました。 考えてみれば、私たちは小さい頃から知らず知らずのうちに 「こういうことは恥ずかしい」と いろんな形で植え付けられてしまっているのかもしれません。 「お金がないことは恥ずかしい」 「あんな仕事をするのは恥ずかしい」 「こんな身体の特徴を持っているのは恥ずかしい」 「こんな病気になるのは恥ずかしい」 「男が女に養ってもらうのは恥ずかしい」 「女性からセックスを求めたり、性的な感情を持つことは恥ずかしい」 などなど。 例えば、仕事がない、次の家賃のめどが立たない、 など、 これまでの私の人生の中でも数えきれないくらいありましたが (それに関しては、今でも綱渡りの人生かな) それは単なる現象であって、私が人間的に劣っているということではないので 友人と話す機会があれば、現状を話したり、相談してみたりすることもありました。 すると、友人から「こうしたらいいんじゃない?』という思いがけず 素敵なアイデアをもらったり、また、よい仕事先を紹介してもらったりして 新たな可能性を見つけることができたことが何度かありました。 もし、それを、「恥」だと考えて、個人的な秘密にしてしまっていたら きっと何の解決にもならなかっただろうと思うのです。 また、身体や病気や性に関して、恥を感じることも同じ。 神様はいろんなタイプの人間を作ったのですし、 例え、みんなと違っていたとしても、それは自然なことですから。 なので、どんな状況であったとしても「自分を恥じない」というのは これまで植え付けられてきた価値観を見直して、 変えてゆくということにつながるのかもしれません。 また「恥」と同じように、多くの人は、「自分は罪深い人間だ」という罪悪感を持っているのだということも気づきました。 「旦那がいるのに他の人を愛してしまった」 「心の中で嫌っている人がいる」 「いつも周りにはいい人である振りをしている」 「万引きをしたことがある」 「中絶をしたことがある」 などなど。 私の好きな本「からだの声を聞きなさい」に 罪悪感について、こう書かれてあります。 恐れとともに、ほとんどの人の人生を支配しているのが罪悪感です。 実際に罪深いことと、罪悪感を持つことのあいだには、非常に大きな違いがあります。 人間は罪悪感を持つことに関しては、天才的であると言ってもいいくらいです。 多くの人が、実際は罪深くないのに、大きな罪悪感を持っています。 「罪深い」というのは、自分自身、ならびに他者に対して 意図的に害のあることを何かした場合のことです。 心の中を調べてみましょう。 ああたが、人を害そうという明確な意図を持って行動した最後の日はいつですか? あなたが相手に迷惑がかかるとひそかに知っていながら、敢えてそれをしたのは いつですか? たぶん、それらは遠い昔のことだろうと思います。 それは当然のことです。 というのも、本当に「罪深い」人というのは、実際はほんのわずかしかいないからです。 自分が完全であるということを受け入れるのは、罪悪感から解放されるために とてもよい方法です。 どんなに素晴らしい人だって、人生の中で一度や二度は人を嫌ったり、 よくないことを考えてみたりすることがあると思うのです。 でも、それに気づくことが大切で それに対して自分はだめな人間だと 罪悪感を持つことはないのになあ、と。 例えば中絶という問題にしても、 それ自体はよくないことかもしれないけれど、 始めからそうしたいと思ってする人は誰もいないのですし、 本当は罪悪感を感じる必要はないのですよね。 もちろん、特に人に話す必要がないことは言わないでいいですが、 自分の中に抱え込んで、苦しむ必要もないと思うのです。 人生の中では、間違った選択をしてしまうことは 多々あるわけで、それに気づいたら、次から変えていったり、 持っている感情を浄化したりすればいいのですが、 それに対して罪悪感を持つと そこから先に進めなくなってしまうように思います。 一方、他人に罪悪感を植え付けようとする人たちもいるので、 注意が必要ですが。 「あなたのせいで傷ついたのよ」と。 そういう人たちの言うままに罪悪感を持つことは エネルギーを奪われてしまうこと。 もちろん、失敗や失言があったなら、素直に謝り 改めることが大切だと思いますが、 だからといって罪悪感を持ち続けるのは 結果、双方にとってよくない結果となると思います。 以前、この日記でも書きましたが 人間の意識レベルを図る科学について書かれた デビットホーキンズ博士の『パワーかフォースか』でも 恥と罪悪感は、人間の意識レベルの中で一番低いレベルであって 怒りや恐怖よりもずっと低いレベルなのです。 (これはホーキング博士が人間の意識や価値観について 20年間、数千人を対象に、数百万回に渡って計測し続け、 体系化してまとめ、 人間の意識のレベルを1000段階で表現したもの)それが意識レベルの数値です。 エネルギーレベル 20 恥 エネルギーレベル 30 罪悪感 エネルギーレベル 50 無感動 エネルギーレベル 75 深い悲しみ エネルギーレベル 100 恐怖 エネルギーレベル 125 欲望 エネルギーレベル 150 怒り エネルギーレベル 175 プライド エネルギーレベル 200 勇気 エネルギーレベル 250 中立 エネルギーレベル 310 意欲 エネルギーレベル 350 受容 エネルギーレベル 400 理性 エネルギーレベル 500 愛 エネルギーレベル 540 喜び エネルギーレベル 600 平和 エネルギーレベル700~1000:悟り ちなみに、200以上がパワー、それ以下はフォース。 人として幸せに生きるには、200以上になることが、 大切だそう。 これを見ると、恥=20 罪悪感=30は 死=0に限りなく近いのです。 だから、恥や罪悪感が強くなると 自殺ということにつながってくるのですね。 ネガティブな感情というと、ほとんどの人は 怒りや悲しみというものを考えますが、 案外、恥や罪悪感を持っている人の方が多いのかもしれません。 例えば、「怒り」に関していえば、戦争や環境破壊に対する怒りから 平和活動や環境運動を始める人もいますし 自分を高めようと努力する人もいるかもしれませんが恥や罪悪感は、自己否定や自分を愛せないことにつながっていきます。では、どうしたら、恥や罪悪感を手放すことができるかどうか、 それには、まず、一人一人がみんな身体も考え方も 生き方も違っていて当たり前だという認識を持つことではないかなあと。 私たちはそれぞれの人生の中で、それぞれ違う課題をこなしていくのですから。 そして、その時々で、それは自分にとって必要な学びだということを 知ること。 そうして、それぞれの個性が、宇宙の中ではタペストリーのように織り合って 全体としては、完璧な世界を作り上げているのだと思うのです。 それぞれの苦難は、全く違うようでいても、偉大なる宇宙の創造主からしてみたら私たちが抱えている問題なんて、五十歩百歩。そのことを知れば、本当は何も恥に感じることも、罪に感じることも ないのですよね。 私たちが一人一人の中にある、恥と罪悪感をなくしていかない限り 人類全体の意識レベルが上がることもないし 結果、本当の意味での平和な社会へとも 結びついていかないのだなあと感じます。 これから生きていく中で、自分の中に、 自分を恥じる気持ちや罪悪感があるのではないか、 自分の心をよく見つめてみて、もし、それがどこかにあるのに 気づいたらのなら、手放していくことが大切ですね。 と、長くなってしまいましたが、、 読んでくださってありがとうございます@Sedona
2009年10月06日
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「すべての答えは自分の中にある」以前の日記でもそのことについて書きましたが今日は、もっと掘り下げて書いてみようと思います。外に答えを求めている以上、いつまでたっても、本当の自分の在り方は見つからないと思います。賢者と言われる人や、偉大なる科学者や哲学者の書いたこと言ったことに感銘を受けたり、感動したりするのはそれが自分の中にすでにあったからです。でも、どんなに素晴らしい賢者であってもそれを盲目的に信じたり、この人の言うことだから間違いないと決めつけたりすることは、本来の自分の進む道を見失ってしまうこともあると思います。私はこうしてブログを書いている時にいろんな方たちの言葉を引用したり紹介したりしていますが、それぞれの方たちの言われていることのすべてを納得しているわけでも、信じているわけでもありません。例えば、私が随分昔から読んでいて好きな著者の中に船井総研の船井幸雄さんがいらっしゃいますが彼のたくさんの書物を読んでいく中でここは自分とは感じ方や捉え方が違うと思う箇所もたくさんありました。また、私は江原さんや美輪さんが大好きですがかといって、彼らの教えや言葉をすべて受け入れているわけではなくそういう見方もあるし、そうとも言えるけど今の私には違うなあと思うこともあります。だから、私はどんな素晴らしい人だと感じる人であっても今の自分にとって、必要だと思う考え方だけを取り入れています。一つには、その人が伝えようという対象によっても、その言葉は変わってくるということ、そして、肉体を持った人間である以上、いくら素晴らしい人であっても、すべてを知ることは到底無理だということ。そして、私がこういうプログで引用するのは、自分の中で受け入れられた部分だけなので受け入れらない部分に関しては、ほとんど触れませんから(それは批判することへとつながってしまうので)人によっては、私の日記を読んだだけで私はその紹介した人のすべてを信じているのだと誤解をします。以前も、そういうことに関してのご忠告のメールを頂いたことがありますが私にとっては、はじめから、すべてを取り入れているわけではないので伝えることの難しさをあらためて感じさせられました。そういう意味でも、チャネリングというのはいくら優秀なチャネラーであっても本来はチャネリングを受ける人は、自分の内面をしっかり見つめることができる人だけが受けるべきではないかと思っています。このチャネラーにこう言われたからとか、前世がどうだったと言われたからということで、自分の生き方を左右するのではとても愚かなことですから。私が先日書いたチャネリングのセッションのことも私にとって音楽はもう終わったと言われて納得したのは、私の中にすでにその感覚はあってそれを確認したに過ぎないのです。もし、私が、音楽をやりたい、とその情熱に燃えている時に同じように言われたとしても(それはあり得ないかもしれませんが)「そういう見方もあるのね」ぐらいにしか捉えなかったでしょう。だから、音楽をやめるというのも、あくまでも「今」の決断であってもしかすると、将来、私がまた音楽をしたくなり、再び始める可能性だってあると思っています。また、言葉というのは、とても一方的であり物事の側面しか見ることはできません。例えば「人のために生きることが大切だ」とある賢者が言ったとします。この言葉を素晴らしいと感じて、「私は人のためにこれをやっています」そう言って何かをやっていたらそれは偽善者だと言われるでしょう。一方、人のことばかり世話をして自分を犠牲にしている人に対しては賢者は「自分が幸せになることが何より大事だ」と言うかもしれません。その言葉をそのまま「私は自分の幸せのために生きます」と言ったなら、あなたは自己中心的で他への愛のない人だと見なされるかもしれません。『人のために生きる」ということも『自分のために生きる」ということも、両方真実であって、究極的には同じことを言っているのですが、言葉そのものを見ると逆のことを言っているように思えるのです。結局、すべての言葉は矛盾をはらんでいるし真実は、人それぞれ、その時々で変わってゆきます。もうそれを全部を言葉ではとても言い表せないのです。昨日私が書いた『働き過ぎている暇はない』という日記ですがこれを読んで、ある方が「自分はもっと時間を大切にしなければならない」と感じたというのを知って、これは素晴らしいなあと思いました。私が言葉として書いたのは、全く正反対のこと。一分一秒を無駄にしてはいけないと、休みなく働いている方たちへ「ゆっくり休んでいたしていても、それは無駄な時間ではないんです」というメッセージのつもりでした。これを書いたのは、たまたま私の周りに働き過ぎだと感じる方々がいらっしゃったこととクマールのメッセージを読んだことがつながっただけ。もし、私の周りに、いつも時間を持て余している方ばかりだったら『自分に命令しないものは、奴隷にとどまる』というゲーテの言葉や『あなたが、無駄に過ごした今日は、昨日、死んだ人が、死ぬほど生きたかった明日』などという言葉を引用して書いていたかもしれませんしね(実際は、私はどちらかと言えば、無駄ばかりの人生で、その無駄から学んできた人なので、この言葉はあまり私の中では生きていないんですが)でも、その彼は、私の昨日のメッセージから今の彼にとっての必要なメッセージを受け取ったのです。つまりは、使われている言葉がどうであっても自分の心で見ることができる方にとっては、どんなメッセージからでも、自分に必要なメッセージを受け取ることができるのだということなんですね。それは、言葉そのものからではなく、その言葉の向こうにあるものを見つめることができるということかもしれません。私も、素晴らしい方々や素晴らしい民族から学ぶ姿勢を持つと同時にその時々で、自分の中にすでに存在している答えを見つけていきたいなあと思っています。ということで、これは、誰に対するメッセージでもありませんが今日も私のひとり言におつきあいくださってありがとうございます
2009年09月29日
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もしも、あなたが、スピリチュアルな世界に興味を持ちはじめていたり何か自分にもできることをやって、世界をよくしていきたい、そう願い、何かこれまでとは違う変化を感じ始めているとしたら、その時の、周りの反応は様々です。「それは素敵なことだ」と一緒に変容していく勇気を持っている人もいるでしょう。でも、反対に、そういう考えややり方に拒否反応を起こす人もいます。多くの人は、変化することを怖れています。これまでずっと続けてきた生活や考え方というのは、その人にとってとても居心地のよいものであり、それを根本的に変えるような変化は多くの人は望んではいないからです。もし、あなたが、自分自身のエゴを見つめて、手放そうとしたり浄化したりヒーリングしたりしようとしたらあなたの周りには、もしかすると「そんなことが何の意味があるの?怒ったり、悲しんだりすることが人間味があることなのよ」そんな風に言う人もいるかもしれません。もちろん、怒ったり悲しんだりすることは、人間らしいことですが怒りを見つめて手放していったり、悲しみを癒したりすることもまた人間らしいことなのです。いえ、それこそが、動物ではなく、人間に授かった特権とも言えるのかもしれません。人間がすることのほとんどは、人間らしいこと、ですものね。例えば、浄化やヒーリングを何か特別なものと勘違いしている人もいます。もちろん、その方にとっては、特別なものなのでしょうが、私にとってはエネルギーを浄化することは毎日、歯磨きを行うのと同じ行為であり、日常です。有機の質のよいものを食べたり、断食をしたり、日用品や食品から有害な化学物質を排除したり生活をできるだけシンプルに美しく変えて、必要のないものはなくしたり、日々、ヒーリングや瞑想をしたり、平和の祈りを捧げたり、、、今の私にとっては、ごく自然で心地よい生活スタイルも別のある人にとっては、とても制限された生活スタイルであるかのように感じます。私も例えば20年前に、今の私の生活をいきなりやれと言われたらきっと、そう感じたでしょう。その時に、例え、浄化やヒーリングが必要だとか周りに光を流していくだとか、誰かに言われたところで(まあ、そういう時には、周りにはそういう人は現れないものですが)受け入れられなかったでしょうね。人は変わる時には変わる。それは、いろんなタイミングでやってきますし人生を通じて、やってこない人もいます。それはその人が選んだ生き方でありその人にとっては必要なことなのでしょう。だから、それぞれが今の自分にとってベストだと感じる道を進んでいくしかありません。でも、もし、これは間違ったやり方なのかも?と自分の中の何かがささやいたら周りの声やこれまでのやり方にとらわれず変化を受け入れる勇気を持っていくこと。いつでも、今の現実を変えていくことはできるのです。でも、何かが違うと感じながら周りの人に合わせて人の噂話をしたり、おしゃれやグルメやダイエットや人よりもよい生活をするのことにばかり意識を向けたり(グルメやダイエットが悪いということではないですよ)自分の内なる声を無視して、変えようとしないのならたぶん、あなたを取り巻く現実は何も変わっていかないでしょう。世界中の人々は、それぞれ違う日常、現実を生きています。同じ日本人であっても、同じ土地に住んでいてもその人が見ている現実は全く違います。先日、私が経験したサンペドロやアヤワスカについてこんなことがあることを知ってよかった~と言ってくれる人がいる一方でそんなことは現実からの逃避だ、とか、人間味がないと言われる方もいました。私たちは日々の生活をしっかり生きなければならないと。全くその通りです。日々の生活すべてが、その人の精神性を現すものであることは確かなことでしょう。私たちの心の中に対立がある限り本当の平和なんて訪れるはずはありませんから。でも、100人いたら100人それぞれの日常、それぞれの現実があるということも忘れないでください。たぶん、私の見ている現実と、その方の見ている現実は全く違ったものでしょう。先日、アヤワスカの民、シピボ族の生活の映像を見ましたが彼らにとっては、アヤワスカは、ごくみじかな植物であり時には子どもであっても、治療やセレモニーで服用します。シピボの人たちにとっては、それは生活の一部であり、まぎれもない現実なのです。私はシピボ族ではありませんがそういう別の現実を経験してみることで、これまでの価値観を見直したり、これからの人生を生き方をクリエイトしていくことができると感じるのです。もちろん、経験してみて、自分には必要ない現実だとわかることもあります。でも、レイキヒーリングをほとんど体験したことがないのにレイキは必要ないとかあるとか、批判したり判断することはできません。しかし、自分が理解できないもの、経験したことがないものに対して、拒否反応を示す人もまた多いのです。それは自分の見ている現実しか見ようとせず変化を怖れるから。そして、自分の親しい友人や家族が、そのように新しい世界への変容を始めることに、怖れを持ってしまうのです。あなたは、もう昔とは変わってしまった、そんな風に感じる人もいるのかもしれません。でも、あなたの生活スタイルや考え方が変わったとしてもそれはあなたの本質とは全く関係ありません。例え、あなたの性格が変わっても、です。私たちの本質はそういうものとは別のところにあるのですから。もし、最初は周りが理解しなかったとしてもあなたが、自分の内なる声を信じてそれに素直に従って生きていれば、必ず、あなたの周りに、同じように感じている人たちが現れます。あなたと同じように、自分の無限の可能性を試していきたい、何かこの世界にとって大切なことをやってゆきたい世界を少しでもよい方向に変えてゆきたいと願う人たちが。謙虚でいることは、とても大切なことだと思います。でも、謙虚さとは、自分はここまででいい、自分にはこれぐらいがあっているとそれぞれが持っている無限の可能性をあきらめてしまうことではありません。本当の謙虚さは、他の人や他の民族の生き方から学んだり、吸収していく姿勢を持っていること、そして例え、今の自分にとっては学べない生き方であっても、それを受け入れ、認めていくことにあると私は思うのです。私は、もしも80歳になっても、100歳になっても(あくまで、そこまで生きれたらの話ですが)自分に必要だと感じたら、それまでのやり方や生き方を全部変えることになったとしても、自分にとってよりよい生き方を選択していきたいな~と思っています。それが「今、この瞬間瞬間を大切に生きる」ということにつながってゆくのだと思います。最後に私が20年前に出会ってからずっと、私の心にあって私を支えて続けたリチャードバックの言葉から。『君たちにはいつでも選択が任されている。別の未来、そして別の過去も』変化していくことを怖れずそれぞれにとって望ましい現実をクリエイトしていきたいですね。@Peru
2009年09月25日
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日々、いろんな出来事が起こりますがすべてはベストのタイミングでやってくるものだなあとつくづく感じます。素晴らしい人との出会いも、人生を変える本との出会いも、、、すべてタイミングですよね。あの時、これに出会っていなかったら、今はこうやっていなかっただろうなんてことは、誰もが数えきれないほどあると思います。私のところにレイキを学びに来られる方も、そういう不思議なタイミングで、私の存在を知ってくださって来てくださる方ことがとても多いのです。今日、レイキのクラスに来られた方も「何か見えない力で、導かれたとしか思えない」とおっしゃって、私のところに来てくださるまでのその素敵なタイミングのお話を聞きましたすると、ふっと彼女のかばんの中にハリーポッターの本の表紙が見えたので英語の本のお話や、私がつい最近初めている「やさしくたくさん」のことなどの話になったら丁度、彼女も、英語を本格的に学び直したいと考えていたそうでこの情報も、今の彼女にとって必要な情報だったということがわかったり♪もう、まさに必要なものは必要な時に現れる、のだなあと。そういうお話を聞くのは、いつもわくわくします。こういうことが次々と起こり始めるのは今、自分が宇宙の流れと共鳴している証拠そうすると、いろんなことが急速に変化しはじめます。自分の本当にやりたいと思うことを見つけたり周りの友人関係が一掃したり。時には仕事を変わったりすることもあります。私も以前、そういうことがありましたがとても大きな変化をすると、今までよくつきあっていた友人と合わなくなって、自然に縁が切れたりすることが起こるのですね。波動が合わなくなってしまうのです。その代わり、今の自分と共通する波動を持った人たちとの新しい出会いがあります。類は類を呼ぶですから、必ず、同じような波動を持った人たちが引き合うようにできているのですね。なので、自分の周りを見渡してみて「素敵な人ばかりだな~」と心から感じられたらあなたも間違いなく素敵な人ですまた、人との出会いだけでなく、自分の波動が上がっている時には信じられないほど、いろんなことがスムーズに進んだり上手くいったりします。実は、今朝、レイキのクラスの前にちょっとしたことがあって思わぬ雑念が湧いてしまいました。レイキのアチューメントは、雑念があってはできませんので「きゃ~これは失敗 早く、浄化しなければ~」と思いつつ部屋の浄化もしなければならないし、ちょっと時間が足りないな~と思ったら、その途端、電話のベルがなって「クラスの開始時間を1時間遅くしてください」と連絡があったのです。おかげで、ゆっくりと準備ができて、まさに、天が助けてくれたのね~という感じで心から感謝しました。反対に、自分の波動が下がっている時は何だかタイミングが合わず、物事がスムーズにいきません。なので、そういうことが続いたら、自分自身を振り返ってみることが大切だと思うのです。そして、ベストタイミングやシンクロニシティを起こすためにはいつも自分の直感やインスピレーションに従って、行動を起こすようにすること。もちろん、一見、タイミングが悪いと感じることも後から考えるとやっぱりベストタイミングだった~と思えることもよく起こりますので、その場だけではわからないこともあります。自分の波動を高めて、素敵なシンクロニシティやベストタイミング、どんどん引き起こしていきたいですね~これはアチューメントの時に使っている椅子なんですが、、朝、その椅子に向かって、一筋の光が差し込んでいたので、思わず
2009年09月13日
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いくつになっても柔軟性を持った人は魅力的ですね。一般的には、やはり若い世代の方の方が柔軟性があるようです。それほどの経験を積んでいないので「こうあるべき」というのがないからです。でも、年配の方でも、とても柔軟な生き方をされている方を見るとなんて素敵な方なのだろうと、いつも感動します。これが正しい、これが間違っているなんていう価値観なんてちょっと見方を変えれば、全く違った見方ができますものね。あの人は、こんなことを言った、こうしたこれはこうあるべきなのに、そんなことにこだわっている人は、ずっとそこにとどまったままです。ほんのちょっとだけ、全く反対の立場や視点にたってその出来事を見つめてみるといろんなものが見えてくると思います。自分のエゴも見えるでしょうし、相手のエゴも見えてくることもあります。でも、相手のエゴに気づいても、それを受け入れてあげるのです。自分にエゴがあるように、相手にもエゴがあるのですから。自分が完璧でないのですから、相手にも完璧を求めないこと。誰もあなたを傷つけたいわけではありません。怒る人のほとんどは、自分が傷つけられることへの恐れです。自分の築いてきた価値観が否定されたと感じることへの怒りです。なので、様々な経験を積んだ人生の達人ほど、自分の築いてきた価値観に縛られてしまうということが起こります。でも、あなたのやってきた経験はあなただけのものでしかないこともわかってください。それを他の人に押し付けることはできません。みんな様々な環境や経験の中で、いろんな価値観を持っています。でもそんな違いはたいしたことではないのです。それが愛に基づいたものであるかどうか大切なのはそれだけなのですから。自分のこだわりが、多くの人への愛に基づいたものだと本当に確信しているのなら、そのままでいいでしょう。でも、こだわりの多くは、つまらないプライドです。そんなものは、どんどん捨てて世間で言われているような価値観にとらわれず、自分の考え方や行動をその時、その時で、よりよい方向へと変えていく、そんな自由な生き方をしていく方がどんなに大きな魂の成長があるでしょうか?私がここで書いていることも、実はすべては間違いだったということもあり得ます。でも、それでもいいのです。私はいつでも、気づいた時に、そのやり方や考え方を修正していくことができるのですから。私たちにできることは、その日、その日を精一杯生きていくだけ。他人の失敗や失言にこだわっている暇なんてないのです。もちろん、自分の失敗に対しても次から変えていけばいいだけ。たまに、以前はこんなことを書いていたのにとか、昔はこう言っていた、となどと言う方がいらっしゃいますが、それは、あくまでもその時、その時に感じていること。もちろん、自分の核となる部分は変わらないのですが価値観や考え方なんて、変化していくことも多いのです。私が肉体を去った後に、今の私と同じ価値観を持ち続けているとは到底、思えないですものいつでもあなたは、自分の行動や考え方を変えることができます。今すぐにでも♪できるだけオープンになって柔軟に生きるということこれからの新しい時代の私たちに求められていることだと思います。
2009年08月31日
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感謝すること、感動すること日々の中で一番大切なことかなあって思います。それがなくなったら、毎日はたいくつな繰り返し。そして、何かに感動したり、また誰かから勇気や元気をもらったり、素敵なメッセージをもらったりした時にその相手に一言でも感動や感謝の気持ちを伝えることってとても大切なことですね。私が、日々レイキを伝えていく中でも感動を伝えてくれたり、感謝してくださる方に対してはこちらも伝えてくれたことに、感謝で一杯になって、もっともっとやれることはないかな~と思うのです。もちろん例え何も伝えてくれなくても誰かのために、何かができること自体が、喜びであるのは間違いないのですがもし、少しでもその気持ちをシェアしてもらえると、喜びはずっと大きくなっていくのですね。そういう意味でもレイキのクラスはいつも最高に楽しい今日もレイキのクラスでしたが、終了後「とても充実した1日でした~」と素敵な笑顔で言ってくださるとああ~ほんとうに一生懸命やってよかった~と思うのです。なので、ついレイキ以外のことにもその方に必要な情報はどんどん伝えていきたいなあとあちこちと脱線してしまうのですけどね私のところに来てくださる方はなぜか、どの方も素敵な方ばかり。もちろん、いろんな性格や考え方の方がいらっしゃいますがみんなピュアな魂の持ち主ばかりだなあと感じるのです。でなければ、レイキなんて学びに来ないのかもしれませんね。いつもこんな素敵な方たちと出会うことができてなんて幸せなんだろうと思っています。レイキ以外のことでも、先日、日本で私の絵を買ってくださった方が送った絵をとても大好きだと言ってくださってもう涙が出るくらいうれしかったです。その一言があると、もうもっとがんばろ~って思えるのですね。以前は、自分の周りのすべてが素敵な人間関係だなんて想像もしていませんでした。もちろん、これまでに上手く行かない人間関係がたくさんあったからこそそこから学んだことも大きくて今は、そういう方にもとても感謝しています。自分自身が、すべてに感謝して周りに感謝や感動を伝えていくようになると周りも自然とそんな人ばかりになってくるのですね。今日、ここに読みに来てくださった方々にそして、すべての存在に本当にありがとうございます愛をこめて@Costa Ricaこれは私が撮ったものではなくて、一緒にコスタリカでのエコツアーに参加した方から送ってもらった写真です。
2009年08月28日
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今日、友人からメールで「自分を受け入れる」っていうのはどういうこと?自分の中に嫌な部分があって、それに気づいた後そんな自分を受け入れるってどういうこと?どうやったら受け入れられるの?という質問を頂きました。案外、自分のこういう部分が受け入れられないと思っている方は、けっこう多いように感じています。なので、私なりに感じていることを書いてみますね受け入れるというのは、ジャッジしない(裁かない)判断しないということ。自分の嫌な部分に気づいてもだから自分はだめだとかそのことで自分を責めるのではなく「ああ、私にはこういうところがあったのね」とその事実をそのまま受けとるということです。多くの人は「こうあるべき」という価値観をそれぞれ持っていてそれに合わないと、だめだと判断してしまいます。そういう判断をしないで「今の私の状態はこうなんだ」と認識するだけです。それは永遠のあなたの資質ではありませんから本当に変えたいと思ったなら、いつでも変えることができます。では、どうやったら、受け入れられるか?実は、受け入れるためには、自分の内面を見つめて自分が持っているエゴや思考パターンに、気づかなければならないのですね。だって、自分の奥深くでは何を感じているか?を知らなければ、自分のすべてを受け入れることなんてできませんから。嫌な部分に蓋をかぶせてごまかしていては、ありのままの自分を受け入れることはできないのです。例えばある人が「自分は、他人に嫌われたくないと思うあまりについ自分の本心を隠して相手に合わせたりノーが言えなかったり、八方美人な部分がある」と気づいたとします。この気づくというのが、大きな第一歩。自分の言動が自分の内面の何を現しているかに気づかないで過ごしている人はたくさんいますから。受け入れるというのは、気づくことから始まるのですね。では、次になぜそうなのか?を内観してみること。なぜ、人に嫌われたくないと感じるのか?なぜ、ノーと言ったら、嫌われると思うのか?そんな風に見ていくと、もしかすると自分は充分に愛されていない、そのままの自分では愛されない。自分には価値がないなどと、どこかで感じている、ということにつきあたるかもしれません。ここで、なぜそのままの自分では愛されないと感じるのか?なぜ、自分は価値がない人間であるかと感じるのか?その答えは、もちろん、内観してわかることもあれば、ふと何かのきっかけで根本的な原因に気づいたりさまざまなセラピーやヒーリングを通じてわかってくることもあるでしょう。何にしても、例え、自分がどうであってもそこにはそうなった原因ともいうべき理由が存在するということ。例えば、親に充分な愛を受けなかったと感じるような出来事があれば、そういう感情を持つようになることはごく自然なことですし、でも親にもそういうことをした理由が存在するわけですから誰が悪いということではなくそれはそういうことがあったというだけ。つまりは、学びのための一つのプログラムにしか過ぎないのです。なので、そこまで見つめていくとあらゆることが、いいとか悪いとかいうことではなくああ、私はこういう理由でこういう感情を持つようになっただなあとそのまま受け入れられるようになるのです。自分をありのままに受け入れることができる人は他の人に対しても同じことができる人です。人に対して、私たちは意識していなくても、「あの人はこういうところがあるからだめだ」と判断したり、裁いたりしていることがありますよね。例え、それが自分にとって、あまり好きな部分でなかったとしても裁かない、そのまま受け入れることは、とても大切なことだと思います。この判断しない心を持つのは、簡単にはできないかもしれません。かくいう私も、時々、無意識に判断している自分に気づきます。でも、判断していることに気づいたら、すぐに手放すことにしています。そう、自分の嫌な部分に気づいたら、そのことを認めた後、手放していけばいいのです。だから、エゴや欠点があることがだめなんではないのですね。エゴや欠点に気づいて、手放す努力をする自分を認める自分を受け入れる、そのままの自分を愛することが大切だと私は思うのです。では手放すってどういうこと?ということなのですが(これも質問にあったので)例えば、~~に対する恐れを手放すというのは、自分の中にその恐れがあることを認めた後でそれを乗り越えること、つまり、それに対する恐れの感情がなくなること。そして、どうしたらそんなことができるの?ということですが、これは、本当にいろんな方法があるのでその人がその時よいと思ったものをやっていくしかありません。レイキでもキネシオロジーでも、どんなヒーリングやセラピーでも必要のない感情や想いを手放していくためのものなのですし例えば、究極の浄化法、スウェットロッジではそういう潜在意識に奥深く眠っている感情やトラウマが一気に出てきて、手放すことができます。でも、大自然の中にいたり、パワースポットのような場所にいるとそういう浄化が起こることもあります。また、特別なことをしなくても簡単なイメージトレーニングだって、効果があると思います。以前、ご紹介したアバンダンスプログラムの中であったのですが自分のイメージの中で大きな箱を用意して恐れや不安などの必要のない感情をそれに全部つめてその箱にたくさんの風船をつけて、空高く飛ばしていくというイメージ瞑想がありました。そういうイメージを持って瞑想するののもいいし『私は~~に対する恐れを手放します』といったアファメーションを唱えるのもいいですしね。もちろんレイキができる方は、そういうイメージやアファメーションをしながらレイキを行うとより効果的。ただ単にハンドヒーリングを日々行っているだけでそういう感情を手放していくこともあります。(まさに、私がそうでしたから)キネシオロジーでは、目標設定をしたり恐れの感情をもった状態で筋肉の状態を調べてオフになっているところを調整して、潜在意識を変化させます。キネシでは、自分の意志の力とは全く関係なく一瞬で潜在意識を変えるのでえ?これで私の恐れはなくなったの?と最初はピンと来ないことが多いんですよね。でも、一瞬で解決することがいいかどうかはまた別問題。必要のないものを手放すためにあれこれ努力することそのものが魂の成長の過程でもあるのですから。キネシオロジーの素晴らしいところは、一瞬でそれを手放すことにあるのではなくその恐れや不安や自分が持っている様々な感情に気づくきっかけになるということでしょう。どちらにしても、この質問をしてきた友人はもう受け入れる準備も手放す準備もできていると感じます。自分の中に「受け入れられない」と感じる部分があると気づくそれをどうしたら受け入れられるのか?またもう必要ないと感じたことを手放すためにはどうしたらいいのか?そんな風に考えていることがもうそこに向かっているということですから自分のありのままを受け入れてそして、必要ないと感じたことはどんどん手放して、より軽くなっていきましょ~~と、なんかまたごちゃごちゃ書いてしまいましたがこういう自分(つい、ごちゃごちゃ書いてしまう自分)を受け入れます!!(手放す気はなし?)この前の日記に書いた私の中の恐れを手放すことができたベルロック。大いなる自然は、私たちにいろんな気づきを与えそして、不要なものを手放すお手伝いをしてくれます。
2009年08月19日
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今日、久々にミキシィのマイミクさんの日記を読んでいたらある方がこんな風に書かれていました。「スピリチュアルな本を読んでいると、『すべては上手くいっている』とか『すべてのことは必然である』とか書かれているけど、現実のところは、上手くいかないことの方が多いし、スピリチュアル的に上手くいっているというのはどういうことなんだろう」この方の疑問とするところは、よくわかります。いくら上手くいっていると言われても実際はちっとも上手くいっていないことばかり、って思ってしまいますよね。でも、やっぱり上手くいっているんです私たちの魂の学びとして。例えば、会社をクビになった、とか恋人と別れてしまった、とか一見、「上手くいかないこと」は人生の中で山ほどでてきます。でも、その会社をクビになったおかげで、自分にとって素晴らしい仕事に出会えたり恋人と別れたおかげで、新しく素敵な出会いがあったり。一見「上手くいかないこと」であっても結果的に見れば、必ず、あの時、あんなことになってよかったな~と思えるようなことになるのです。ところが、もし、その経験から何も学んでいない時には何度も、会社をクビになったり何度も恋人と別れたりと、「上手くいかないこと」が続きます。その人が本当に学ぶべきことを学ぶまで続くんですね。私は人生の中で交通事故に3度もあって、最初の2回の時は、そこから何も学ぼうとせず「なんてアンラッキーなの」と思っただけでした。そして、3度目の交通事故は14年前、NYだったのですが、日本で結婚するはずだった恋人と別れてすぐのことでした。轢き逃げで、生きていたのが不思議なくらいとても大きな事故でした。その恋人と別れた直後に私はNYに戻ってきて新しく始めた仕事をクビになり、その後、急性胃炎で倒れて、救急車で運ばれたのですが交通事故はそのすぐ後にやってきましたもう「上手くいかないこと」がこれでもか~~と立て続けにやってきたのですねその時にようやく私は気づいたのです。病院で目覚めた時から何かが私の中で変わっていました。なんで私はこんな目ばかり会うの、とそういう気持ちは全くなく「ああ、私は生かされたのだ、そしてこの事故にはきっと大切な意味がある」そう感じることができたのです。私が何かに引き寄せられるようにしてスピリチュアルな本を読んだり、学んだりするようになったのはその交通事故からです。今考えると、あの事故があったから、今の私があるしその恋人と別れたから、ソウルメイトのおさむと出会えたのです。もちろん、おさむと出会ってすぐに今のような関係になったわけではなくいろんなことが起こりました。私たちは上手くいかない時期があって、2年半の間、完全に別れていました。でも、それがきっかけとなり、私は食事や生活習慣を変え、レイキマスターになり身体的、精神的に大きく変化しました。一方で、おさむも、私と別れてから、たばこをやめ、スポーツやヨガを始めて、瞑想も習慣にするようになり、食事も全部変えて、ベジタリアンになっていました。そして、再び会うようになった時にはもう以前とは全く違う二人になっていました。(変化度でいったら、おさむの方がすごかったです以前は、ほとんど音楽しか興味がない人だったのですがいろんなことに興味を持ち始め、体重も13キロぐらい痩せて、脂肪だけでなく必要のないものをたくさん落としていました)もし、私たちがあの時、別れていなかったら、お互いに、このような変化はなかったでしょう。本当にすべてのことは必然であり、上手くいっているのですねただ、その「上手く行かないこと」が起こった時に「結果的にはすべてが上手くいく」と思えるかどうか。それが大切だと思うのです。もちろん、その学びは、その時にはわからないこともたくさんありますがそれを意識していると、ある時「ああ、あれはこういう意味だったんだ」とわかるのです。一度、本当に理解したら、同じ「上手くいかないこと」は起こりません。(もちろん、別のことで学ぶ必要のあることは起こりますが)おさむと一度別れた時には、私はもうこれは結果的に私にとって必要な経験になるだろうということはわかっていました。もちろん、悲しくなったり、不安になったりもしましたがそれを信じる気持ちの方が大きかったので、悲しみに落ち込まずに、その時に自分にとって必要だと感じたことを、どんどん取り入れていくことができました。そして、本当に彼と別れてよかった、また出会えたこともよかったすべて私にとって、とても大切な学びだったと心からすべてのことに感謝することができた時、これまでとは全く違う、新たな二人の関係が始まっていたのです。今生で私たちが学ぶべき課題があってすべてのことは、それを学ばせるためのプログラムといえるのかもしれませんね。だから、経験そのものがよいわけでも悪いわけでもないのです。とても苦労をしたおかげで、人を信じないようになったり性格がひねくれたりする人もいれば、逆に苦労をしたことで人の痛みがわかって、慈愛に満ちた人になる人もいます。同じような辛い経験をしても、結果は全く違ってきますよね。私たちの人生はすべて私たちの選択であるというのはそういう意味なんですね♪そこから学んで次のステップへ行くのか、不満を言って毎日を過ごすのか、悲しんだままでいるのかそれによって、次に経験するものが変わってきます。失敗したことも、結果的には「すべては上手くいく」ために必要なことです。私はこれまでに、本当にたくさん失敗しましたが(特に人間関係において*^^*)でも、それが、今、セラピーやヒーリングを行う上でとても大切な経験となっていると感じています。もちろんこれは「すべては必然である」といって自分の失敗を正当化するということではありません。失敗そのものが必然なのではなく、そこから学んだことが、必然なのですから。学ばなければ、何度も同じ失敗を繰り返します「すべては上手くいっている」このことを本当に理解すると(頭での理解ではなく、腹にストンとおちる感じの理解で)恐れとか不安はなくなってゆきます。だって、例え何が起こっても、最終的には上手くいくとわかっているのですものねそして、だんだんと「上手くいかないこと」も少なくなってきます。もちろん、予想しなかったいろんなことが起こるかもしれませんが経験したことは、あくまでもプログラムの一つ。そこから、いろいろと学んでいって、無事卒業したいですね@Peru人それぞれ、今生で学ぶべきことも違いますね
2009年08月09日
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以前、アセンテッドマスターのオラクルカードのことについて書きましたが、しばらくは使っていなかった天使のオラクルカードを最近また、よく使っています。オラクルカードはネガティブな意味を持つカードはないのでいつでも、引いた後は、気分が明るくなるのがいいですね。たいていは、朝、瞑想やリチュアル、レイキの発霊法などをやった後45枚のカードをシャッフルして、「今日1日のメッセージをください」と願って1枚、選びます。これは不思議なもので、たいてい出てきたカードはやっぱりね~と納得できることが多いですね。おもしろいことに、いつもよく引くカードと、今まで、一度も引いたことがないカードがあります。今日引いたカードは、このところ2、3回続けて引いている大天使アズラエルのカードでした。「大天使 アズラエル」カウンセラー「あなたは生まれつきのカウンセラーです。多くの人が、あなたのアドバイスや信頼のおける言葉に助けられるでしょう」あなたの人生の目的は、人を明るい気持ちにし、やる気を出させ、慰め、癒しやインスピレーションを与えることです。あなたは真のスピリチュアルなカウンセラーです。あなたは人々から信頼されています。これからは、もっと数多くの人たちを助けていくことでしょう。カウンセリングの仕事を、さらに次のレベルへと高めましょう。私、大天使アズラエルを呼んで導きとサポートを求めて下さい」こういうカードを見ると、よし、今日もがんばろう~という気持ちになりますねでも、私はたまたまレイキやセラピーをやっているけれど必ずしも、それを仕事としていなくても誰もがカウンセラーになりうるんですよね。Aさんは、Bさんにとって癒しの存在でありBさんはCさんにとって目指すべき憧れの存在でありCさんはDさんといると、勇気が湧いてくる、、、そんな風に。誰でも、自分が他の人にとって何か癒しや元気を与える存在であると知ることは生きる喜びにつながります。と、まさに今日、見た「アルプスの少女ハイジ」の場面は足が悪く、いつもみんなの世話になってばかりだったクララが、ある時、本を読んであげたおばあさんからとても感謝されたことで、自分も誰かの役にたつのだとわかり生きる希望が湧いてくるというお話でしたこの場合、おばあさんにとってクララは、素敵な声で本を読んでくれた天使のような存在であり一方で、クララにとって、おばあさんの暖かい感謝の言葉は自分の価値を教えてくれて、生きる喜びを与えてくれたのですから両方がお互いにカウンセラーなんですね。人と人との関係って、こんな風にお互いが感謝しあって支え合う関係でいるのが理想だなあと思います。と、これはちょっとまた別の話になるのですが、、、今日、レイキのクラスが終了した後、たまたま、おさむも仕事が休みだったので二人で、近くの公園に夕日を見に出かけたのです。と、公園に着くと、随分会っていなかった知り合いの女性とばったり会いました。実は、ちょうどその2日前、私は別の友人と「彼女とは随分会っていないけど、元気かしら?」とその女性のことを話していたばかりだったのでばったり会った時に、ああ、これは引き寄せたんだ~とわかりました。ふっと思い出した人と、ばったり会ったり急に連絡が来たりすることはよくあるのです。ところが、出会ってすぐ、彼女は、最近、彼女に起こった様々な出来事についていきなり愚痴を言い始めました。私とおさむは、何よりも人の悪口や愚痴が苦手です。愚痴を聞くのは、まるでゴミを投げつけられているかのような気持ちになります。実際、エネルギー的には人に対して愚痴や悪口を言うことはその人にゴミを投げつけていることと、全く同じことなのですけどね。例えば、セラピーやヒーリングの時にその人が抱えている問題を私に話してくれることは何かそれを解決する手がかりやヒントがあるかもしれないので有り難いのですがこういう人は、そういう問題解決のためではなく、ただ単に愚痴を言うのですね。実際、彼女は、私がセラピーをやっていることも知りませんから誰でもいいから、この話を言わずにはいられないという感じでした。もともと、どちらかといえば、ネガティブな意識が強い方でしたが、久々に会った人に、いきなり、あまり聞いていて楽しくない愚痴を延々と話だすのですから、よほど大変なのだなあ~ということはよくわかりますが。「ああ、おさむはきっとここから逃げ出したいと思っているわね」そう思って彼女の話を聞いていると、案の上「おれ、先に芝生に座っているわ」とおさむは行ってしまいました私は、今朝引いた「カウンセラー」のカードのことがふと頭にあってこれは、彼女の話を聞けということなのかしら~例え、何の解決にならなかったとしても話を黙ってきくことが、彼女にとって何かの癒しになるのかも?そう思って、彼女のマシンガンのようなネガティブな言葉の羅列をしばらく聞いていました。もちろん、ネガティブなエネルギーからのプロテクションのためにしっかりグラウンディングし、レイキのシンボルを使ってプロテクトしていたので彼女の話は聞いていても、意識には入ってこないので大丈夫でしたがそして、ふと思いついて、今私がやっているキネシオロジーのセラピーが少しでも役にたつかも?と思ったのでキネシについて、ちょっと説明をしてみましたが自分のストレスを手放したいとは思っていないようでした。キネシオロジーは、その問題そのものを変えるのではなくその問題に反応している自分を変えるもの。このストレスを自分の中からなくしたいとか、自分を変えたいと思わないかぎり、ピンとこないものですよね。そして、いつか彼女が、自分に起こっているすべての不幸や災難は自らが発しているネガティブな想念や言葉が引き寄せているものだいうことに気づかない限り、きっと彼女のアンラッキーなことはずっと続くのでしょう。例え、私が「カウンセラー」であったとしても、今は、どうしようもできない人もいるなあということも感じました。その人を何とか助けてあげたいと思ってもその人自身が、助けを必要としていなかったらどうしようもありませんものね。でも、また時が変われば、状況も変わることもあるでしょう。結局、私もおさむも、この日、夕日が沈むところをすっかり見損ねてしまいましたがまたいろんな学びの多い1日でした。そう、ここに来られているあなたも、きっと、誰かにとっての癒しや元気を与えるカウンセラーなのでしょうね。でも、いやだからこそ、あなた自身を大切にしてくださいね。自分が元気でないと、本当に癒しや勇気を与えることなんてできませんから@MachuPichu, Peru
2009年08月06日
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先日、ペルー在住のヒーラー&ヒーリングリトリートの経営者、ダイアンの著書 「CUSCO」を翻訳することになったといういきさつをこのブログにも書きましたが、NYに戻ってしばらくして、その本の翻訳をスタートしました。が、やってみると、これは予想以上に大変~~英語の本を読んでいるだけと、実際に日本語に訳していくのとはもう大きな隔たりがあるのですね。今回、初めて翻訳するというのが、いかに大変な作業なのか実感。私は翻訳本で一番読みづらいのは、そのまま直訳してあるような本だと思うのです。先日も「オーラヒーリング」という本を読んでいたのですが瞑想としての文章に『私に関わる人々の至高善のために~~してください』などと訳されてあって、至高善なんて、普通、私たちがあまり使わない言葉では瞑想もやりにくいよね~などと思ったり。他にもとても堅い文章で読みにくい翻訳の本もよくあります。読んでいて自然な日本語であって、しかも、あまり原文とかけ離れてしまわないように訳すのって、思った以上に難しいのですね。例えば『By grace, I could do ~~』のようなシンプルな文章でさえ直訳すれば、「神の恵みによって、私は~~できた」とか「神の賜物によって」とかなるんでしょうが、そんな言い方は日本では一般的にしないし、「有り難いことに」とか「幸運なことに」とかになるのでしょうか。とまあ、ああでもない、こうでもないとやってはいたものの予想以上に時間がかかります。本は約300ページもあるのに、まだ序章を訳している時点で、こりゃ大変なことを引き受けちゃったわ~私は翻訳家になりたいわけではないし、他にやりたいことは山ほどあるっていうのに、こんな風にちんたらやっていたら、1年かかってもできるかどうか、あの時、ペルーで直感に従って、ダイアンに交渉したのは間違いだったのかも?などと、ちょっと弱気になりかけていました誰でも、無限の可能性がありますからどんなことでもやってみなければわからないといつも私は思っているのですがでも、この翻訳という作業をやってみて、わくわくしないところをみると、これは私がやるべき仕事ではないんだなあとでも、やはり、すべてのことは上手くいくようになっているんですね~ちょうどその同じ時期に、私の友人で長年通訳をやっている方が私のレイキの英語版テキストの文章を修正してくれると申し出てくれたので、やって頂いたのですが彼女の仕事の正確さや早さ、そして柔軟性を見てこれは、彼女と共著としてできないかどうか話してみようと思い立ちました。実は、ダイアンに交渉をする時点で、この友人のことは頭にあって私が訳した後で、彼女に修正してもらうことは考えていました。彼女は、長年バーバラブレナン学校の通訳をしていた実績もあり彼女自身もスピリチュアル系の本はたくさん読んでいる人なのでまず間違いないと思ったからです。そして、この本のことを、まだ誰にも話していない時に期せずして、彼女の仕事の仕方を実際に見る機会が訪れああ、これは、彼女と一緒に、この本の出版をやれというメッセージなのね~とすぐに感じました。考えてみれば、彼女とのつきあいはけっこう長いのにまさに今回のペルーへの旅の前後に、彼女の方から私のレイキのHPの英語の部分やテキストの修正をやってくれると申し出てくれたのも、何だかすごいタイミングだなあと♪(これまで、私のレイキのクラスを受けにこらえる方のほとんどは日本人なので、英語版テキストはかなり適当な英語で作ってしまっていました)もちろん、テキストの修正はかなりの量があるので彼女には、お礼として、キネシ10回無料ぐらいやらなければと思っていますがということで、彼女に相談したところ、2つ返事で引き受けてくださってしかも、二人で一緒に訳していたら時間がかかるからということで彼女が訳者として、ほぼ全部を訳し、私はその日本語を修正して監修者という形をとることに決まったのですつまり、私が最初に考えていたのとは、全く逆。でも、私の負担はずっと減ります。また、私は、いつか自分の本は書きたいな~とは思っていますが訳者としての実績は必要ないですしこの本を出版することによってペルーやピサックとのつながりができたり、ヒーリングをやっていく上での何らかのプラスがあればそれでいいと思っていたので彼女に訳を任せるのが、一番いい方法だと感じました。さすが、彼女は仕事も早く、私が何日もかかって訳した序文を1日で訳してしまいました。やっぱりどんなことでも、そのことが本当に好きでないとやれませんね~。特に翻訳という作業は、英語が好きな人であっても、かなり苦しい作業なんだそう。もともと英語が好きとは言えない私にとってはさらにとても荷が重い作業になったことでしょう。なので、一気に肩の荷が降りた感じです~~やはり、今回、直感に従って、ダイアンと話したこともよかったしそしてまた、直感に従って、友人に話してみて、彼女に翻訳を任せたこともよかったなあと。(直感というより、これは宇宙の流れというべきものかもしれませんが)すべては、落ち着くところに落ち着いた感じです。もちろん、好きなことを仕事にしても、大変なことはたくさん起こりますがでも、本当にそれが好きだったら、その大変なことも、それほど大変だと感じることなくやっていくことができますよね。レイキやキネシの仕事やするのに気が重いと感じたことは一度もありませんからやはりその人に天から与えられたこと、やるべきことというのはその人がわくわくすること、好きなことだなあとこれからも、その時、その時に感じることを大切にしながら私がやるべきこと、私が本当に好きだと感じることだけをやっていくことにします~@Pisaq, Peru
2009年07月28日
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今年の2月に日本に行った時、1週間だけの滞在でしたし、毎日、病院と家との往復で友人にも誰にも会えなかったのですが、一度だけ、母の弟である私の叔父には約20数年ぶりに再会することができました。この叔父は、40歳を越えてから、プロのボディビルダーを目指しアメリカに渡って、アメリカでアジア人として初のプロのボディビルダーとなった人なのです。(ボディビルをやっている方なら、ほとんどみなさん、名前を知っていると言われます)で、その叔父に会って話したら、びっくりもう私にそっくりなのです。私の親兄弟の家族の中でスピリチュアルなことに興味があるのも、アートや音楽や文を書くことが好きなのもまたヒーリングをやったり、自然食や健康のことをやったりするのも私だけなのですが、この叔父さんは、そういうところが、すべて私と似ていて、私の考え方や、生き方まで共通するところばかりでした。二人でカフェで話ながら、『同じや~ん』と言って何度笑ったことでしょう。叔父は、大手の広告代理店に勤めていたのですがみんなの反対を押し切って退職し、最初は、ロスではなくNYに来たそうなんですがお金もほとんど使い果たしていたために、NYに着いたその日から、皿洗いのバイトをしたというところまで私と似ています(私も約19年前、会社を辞め、ほとんどお金もなく、初めてNYに着いたその日からバーテンダー兼キーボーディストとしてバーで働いていました)また、叔父は、病気や不調を、すべて自然食と代替医療、ポジティブな思考やエネルギーで治し、薬を何があっても絶対に飲まないというところも同じ。彼は65歳の時にひどい交通事故に会い、頭を70針以上縫う大手術をしたのですがその後、医者から出された痛み止めや化膿止めなども一切飲まなかったそう。「飲んだらその時は痛むが和らぐだろうけど、その薬を飲んだら、その後何年も身体を崩す原因となるし、後で辛い思いをすることはわかっていたからね」と言っていました。さすがに私もこのような状況で(頭を70針縫うなんて、きっとむちゃくちゃ痛いでしょうし)薬を飲まないでいられるかどうかは自信がないですがこんな話を聞くと、とても勇気が湧いてきます。叔父とは、何十年もメールのやりとりさえなかったですしそれぞれが別のところで生きてきたのに同じところに辿り着いていることが何だか不思議でした。血がつながっている人の中で自分と同じような感覚を持って生きている人がいることをこの日、初めて知ってとてもうれしくなりました。さすがにレイキのことは知らないだろうな~と思いつつ「今、NYでレイキというヒーリングを教えているのですよ~」と言ったら「え!レイキ!今、俺習ってるよ!」というのでさらにびっくり。70歳を越えて、次々と新たなことに取り組む意欲も素敵だなあと。彼は、ずっとロサンゼルスに住んでいたのですが交通事故をきっかけに、4年前に日本に拠点を移し、これからは、日本で健康や心の仕組みや精神世界のことを伝えていきたいと最近、福岡で「健幸塾」を開いています。また、祖父を受け継いで、神主としても月に1回、仕事をしながら、波動を測定する機械を導入してヒーリングを始めたり初めてのHP作りに取り組んだり、九州でいろんな人との交流を始めたり、、「もう俺、やりたいことばかりなんだよ。時間がいくらあっても足りないよ」と、とても生き生きしていました。見た目もとても70歳には見えません。人生はいつからだって、自分が望めば新たな可能性を見つけることができるし始めるのに遅すぎることなんて、何もない叔父を見ていると、つくづくそう思います。「やっぱりもうすべては感謝なんだよね~。どんな病気になったとしても、心からそれに感謝すれば自然と治っていくんだよ。そして、自分に起こったことのすべては自分の学びに必要なことだったんだなあってわかるから、また感謝なんだよね~」「のりちゃん、これからが本当に素晴らしい時代になるよ。一見悪いことが起こっているように見えてもすべてはよくなっていくための道なんだよまさに、光の世界がやってくるよ」叔父と話していると、楽しくてあっという間に時間がたってしまいました。私も叔父のように、光を持ち続けて人生、ずっとチャレンジしていきたいな~@Arizona
2009年06月01日
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