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アロハ~~ みなさま、いかがお過ごしですか~? 先日、アーキュトニックのすべてのクラスが終了し 私とおさむは、昨日、カラニリトリートを出てパホアの村から車で15分ぐらい走ったところにある 閑静な森の中の広い一軒家に移って 愛と平穏と官能の日々を送っております。 (ふふ、官能っていうのが、ミソね ) って、前回のブログと180度違うエネルギーに 「一体、どうなってんの?』と思われる方もいるかもしれません。 前回のアップの後「ハラハラしています」とメールをくださったり その時の私の感覚と深く共感してくださった方もいて 本当に遠く離れていても、繋がっているのだなあと感じています。 ありがとうございます いや~、いつもそうだけど、またまた濃~い日々でした。 今回、私が感じたことに関しては、何からお話しすれば、上手く伝わるのかよくわからないし 実際、これは、いろんな角度から捉えることができるので どの視点からお伝えするかによって、全く違ったように表現されるわけで 言葉でお伝えするのは難しいところなのですが それでも、こうして言葉にすることで、私の中で またさらに理解も深まってゆくかなあと。 ですから、お伝えする言葉そのものではなく その奥にあるものを感じてくださったら嬉しいです。 さて、まずは、感情という観点からお話しようと思いますが 今回、去年と引き続きロンとアーキュトニックのクラスの先生として参加してくれたエリンは セラピストであると同時に、東洋医学や惑星に関しての素晴らしい研究者であり 彼女がクラスの中で、奇経八脈のことを話してくれた時に 彼女自身が歩んできたプロセスを話してくれたのですが 今から思うのは、私が今回、体験したのは まさに、そういったプロセスの一つだったのだなあということでした。 東洋医学での陰陽五行というのは、多くの方がご存知のことだと思いますが いわゆる、木火土金水(もっかどごんすい) で、それらは、私たちの様々な側面に現れているわけです。 簡単に説明すると 例えば、感情という面で五行をみてみると、それぞれの要素は 木ー怒り 火ー喜び(がない) 土ー心配、不安 金ー悲しみ、罪悪感 水ー恐れ といったものと結びついています。一方、奇経八脈はすべての根源ともいうべき「大いなる空」からの流れなので この陰陽五行を超えたところにあるものというわけです。 エリンは、それぞれの感情に関して、深いレベルで受け入れ、それぞれを感じきり 奇経八脈との関わりを感覚的に見つけ、その後、理論的に証明していくという プロセスをやってきたそうで そこから得た気づきや洞察は、何千年の東洋医学の叡智を統合し されにそれを超えたところにあって クラスの間中、エリンの発していた愛のエネルギーや人知を超えた洞察力は 参加者のみんなを感動の渦へとに巻き込んでいました。 私のキネシオロジーのセッションでも、クライアントさんによく出てくるのが 「恐れを感じることの恐れ」があるのですが 恐れを感じないようにを排除しようとすればするほど その感情や感覚はさらに抑圧され、奥の方にとどまって大きくなり 抜けることができずに、大いなる空の意識への道が閉ざされるわけです。 エリンは、例えば「恐れ」という感情と向かいあうのに 何ヶ月もかけて、徹底的に感じきってきたそうで だからこそ、すべてを受け入れそれを超えたところが観えているのだなあと。 で、その話は、去年にもエリンは話してくれたので ある程度、知ってはいたのですが 今回、私がクンダリーニ症候群になった後に この五行の感情を徹底的に見せられそれらを受け入れるというプロセスになっていたことに 今さらながら、気づいたわけです。 例えば 木ー大事にされなかった、守られていないという怒り(特におさむを含めた男性全体に対して) 火ー喜びがないという虚無感、虚しさ 土ーいつになったら元の私に戻ることができるのか?という不安感 金ー女性性が抑圧されたことへの深い悲しみやこんな私はダメだという罪悪感 水ー見捨てられることへの恐れ 思えば、私のこれまでの人生の中で 怒りや悲しみという感情は十分に感じきってきたと思うのですが 恐れや不安や虚無感といった感覚や感情は、ほとんど感じたことがなかったということに 今回、改めて気づきました。 これまで私は自分を、そして自分の人生を信頼してきたし 何が起こっても絶対に大丈夫だという感覚は、いつもどこかにあったので 恐れや虚無感というのは、私の中で、あまり感じれない感覚だったのです。 だからこそ、今回、それらを全て深いレベルで感じることができたたことは 本当に大きな宝の体験だったのだなあと。 もちろん、それらの感情や感覚が起こっている最中は 「わ~恐れがやってきた。嬉しいな~」なんてことにはならないわけで ドーンとその感覚の中に入っているわけなんですが 一方で、「いや~、こんな感覚が私の中にあるなんて~。すごい」 と感動もしていたのですよね。 さて、カラニリトリートに移ってからも 私はこの感覚や感情を、また別の形で体験することになり それらを駆け抜けた感じでした。 ちょうど、前回のブログのアップした時は、木火土金水の中で、金の感情である 抑圧された女性性と、男女がわかりあえないことへ悲しみを感じていた時期の 最後の日であって、次の日、そこから一気に抜けて 今は一通りのプロセスが終わった感じです。 ということで、まずは最初から説明すると 今回、カラニに入って、私が最初に感じたのは五行で言えば、水の要素である「恐れ」でした。 これまで、私は子供の頃から、人が怖いと感じたことはあまりないし 例えば、私の父はとても厳しい人でしたが、それでも怖いという感覚はなかったのですが 今回、人に対して怖いという感覚を、生まれて始めて、まともに感じたかもしれません。 しかも、決して嫌いではなく、むしろ大好きな人に対して 怖いという感覚を感じていました。 そして、そのきっかけとなったのが、ロンのパートナーであるドロシーの存在でした。 ドロシーは、私やおさむから見ると、およそ一般的なアメリカ人らしくないというか 多くのアメリカ人にありがちな自己主張やプライドの強さがなく 謙虚で、献身的で、感受性が強く、人情深く、とてもキュートな女性で 私はすぐに彼女が好きになりました。 でも、一方で、彼女の大きな目だけは、そう言った性質とは違って 魔女の目というのか、いわゆるサイキックであることは エネルギーにある程度、敏感な人ならすぐにわかるだろうなあと思います。 実際、彼女はそのサイキック力を生かして、セッションを行っているわけで それ自体は、とても素晴らしい才能です。 そして、少し前のブログにアップしたようにクラス1がスタートする前日 ドロシーのセッションを受けた私は、家系の問題を奥深くまで探り癒していくという素晴らしい経験をしたのですが その直後に私はひどい頭痛に見舞われました。 部屋に戻って、筋反射で見てみると 出てきたのは、魔女系エネルギーというのか いわゆる、呪いやサイキックアタックといったエネルギーでした。 ちなみに、呪いやサイキックアタックなどのエネルギーは 特に珍しいものではなく、サイキック的な力があったり ヒーリングに深いレベルで関わっている方の多くは 魔女狩りやそういった過去世と繋がっていることが多いし 私もこれまで何度か出てきたことがあります。 むしろ、サイキックでそういった過去世と、一度も繋がったことがない人の方が 珍しいかもしれません。 私の身体が伝えてきたのは、ドロシーのセッションを受けている中で 私の過去世とドロシーの持っている何らかのエネルギーがリンクして 私のエネルギーフィールドに入ってきたもしくは私の奥深くから出てきたということでした。 もちろん、これはドロシーの問題ではなく、私の問題であるわけで それらの過去世とエネルギーを解放すると、すぐに頭痛は治まったのですが それから数日間、ドロシーの目を合わせるのが怖いという感覚が 自分の中にあるのに気付きました。 彼女の目は、まっすぐに私の奥に入ってくるのですが その目をまともに見ると、何らかのエネルギーが入ってくる感覚があり フラフラしてきて、目が見えなくなるのです。 恐れがあれば、エネルギーを受けるということはよくわかっていましたが だからといって、恐れを感じないようにしても意味はないこともわかっていたので クラス1がスタートしてからの3日間は それを受け入れながら、夜になると私のエネルギーフィールドにあるものを浄化していくということをやっていました。 この間の私の感覚は、人に対する恐れだけではなく何とも言えない「ここにいない感」や「不安感」の中にいて自分が何者なのか、何を感じているのかもよくわからないのです。まるで、泥の中に首まではまって、どこから抜け出せばいいのかわからなくなってしまった感じでした。 その間、私は何も言わなったですが、参加者の数人から 「こんなに弱っているのりこさん、初めて見ました」 「わざと気配を消しているのかと思って、話しかけられませんでした」とか 「いつもと違って、あまりにも存在感が薄くなっているのにびっくりしました」 などという声をかけてくれて あ~わかる人にはちゃんとわかるんだなあと。 (肝心のおさむは、わかっていなかったのだけどね ) で、日々、少しずつキネシで自己ヒーリングをやっていたのですが クラスがスタートして3日目の夜に 「どんなにセッションが長くなっても 今夜中にはここから抜けよう」と決めて 夕食の後、部屋で自己ヒーリングをしました。 私の身体は「第6チャクラを調整しなさい」と伝えてきたので 一応、チャクラ活性率を見てみると、いつもは第6チャクラは最低でも90%以上の活性率なのに なんと20%代まで落ちていたことがわかり あ~だから暗闇の中にいるような感覚でいたし存在感もなくなっていたはずだよなあと気づいたわけです。 例えば、とても美人なのに、存在感がないなあというような人は 第6チャクラが閉じていることがほとんどで 第6チャクラの開き具合は、その人の存在感に出てくるのです。 (ちなみに、 チャクラの活性率はそれを測る人によって変わってくるので 例えば、私自身が私を見て90%以上であっても もし私より第6チャクラが活性化している人から見れば 数値は下がりますから、あくまでも相対的な数値です) それで、なぜここまで第6チャクラが封印されているのかを見ていって 出てきた要因がやはり、呪い系、特にマインドコントロールや 洗脳的なエネルギーでした。 最初そのエネルギーがどこから来ているのか、わからなかったのですが 筋反射で、だんだんそれが解き明かされてきて(ここでは説明できないのだけど) それらのエネルギーを解除していくにつれて 第6チャクラは、どんどん開いて行き、その日のうちに、90%代に戻りました。 それらが抜けた時の解放感は、もう例えようもなく その日、真夜中の1時を過ぎて、調整が終わった時には 「あ~やった~抜けた~」という喜びに満ち溢れていました。 そして次の日の朝、やはり私が何も言わないうちに、数人の参加者が私を見て 「わ〜、のりこさんが戻ってきた~」 「元気になって、良かったですね~」と言われました。 とにかく、今回のクラスの参加者は、素晴らしい感性の持ち主が多く私は、みんなに救われた感じでした。 それからは、ドロシーの目を見ても、恐れを感じることはなくなりました。 その後、通訳のナツコさんに相談して 彼女の勧めもあって、ドロシーに私がセッション後に感じたことを伝えました。 日本語でも上手く伝えられるかわからない内容だし ナツコさんにサポートしてもらいながら、伝えたのですが ドロシーは、真摯に受け止めてくれて、 彼女自身の家系の問題や男性から抑圧された体験やシャーマニックなワークのこと など語ってくれた後 「だから、のりこと何らかの形でリンクしたのも無理はないわ、 シェアしてくれてありがとう」と私に言ってくれました。 私と彼女が、ヒーリングやエネルギーにおいて見ている観点が違うのは 当然なので、彼女がどう捉えても良かったし、私は彼女に伝えたことで すでに満足していました。 ただ、私がもう一つ、恐れていたことがあって それは、参加者の中で、私のように彼女のエネルギーとリンクして 大変になってしまう人がいるのではないか?ということでした。 ドロシーは、クラス2のATIHの先生であって クラス1は教えなかったので、クラス1の最初の頃にロンから 「クラスが終わった後、ドロシーは個人セッションを受け付けるから クラスのみんなにドロシーを紹介してほしい」と言われ 私はみんなの前で、ドロシーのセッションの素晴らしい体験を話し、紹介したものの その後に私が感じたことに関しては、当然、話せなかったのです。 私の中には、大好きなドロシーのためにセッションを紹介したいという思いと もし、誰かドロシーのエネルギーとリンクして大変になったら セッションを勧めた私の責任だという罪悪感にも近い感覚がありました。 エリン曰く、恐れは、極性で言えば「信頼」の対局にあるものだということを話していましたが それも信頼の欠如から来ている恐れでした。 私自身は、あの地獄のようなクンダリーニ症候群の最中にあっても 自己ヒーリングできることはわかっているので そこは信頼できているのですが 他の人の力は、まだ完全に信頼できていなかったのだなあと。 結局、クラス1で5、6人の人が、ドロシーの個人セッションを受けましたが それぞれ、素晴らしい体験をしたようで その後も具合が悪くなった人はいませんでした。 ただ、クラス3では、数名が、ドロシーとエネルギー的なリンクをしてエネルギーが上がってきているのを感じたのですが それもまたそれが必要な時期に、解放されていくのだろうと。 今は、すべては完璧なプロセスの中にいることを信頼しています。 ということで、恐れが終わった直後から、私が感じることになったのは 「怒り」でした。 恐れの中にいる間は、感じなかった怒りの感情が 恐れから抜けた後、わき上がってきました。 まずは、ドロシーのセッションの後、一旦は収まったおさむへの怒りが再び出てきました。 ドロシーのセッション直後に私が自分自身を完全に見失っている時期にも おさむは私の感覚に、あまり気づいておらず この期間、夜、毎日、自己調整していた私に対して 「いつもいつもよくやるね~」ぐらいの感じで何も言わず、さっさと眠ってしまっていました。 3日目の夜に、私が抜けた後もみんなは私が何も言わなくてもすぐに気づいたのに おさむは私が伝えなければわからないわけです。 女性性と男性性の違いは、ここまでもよくわかっていましたが 本当に男は感じれない生き物なのだなあと。 私がそれを伝えても 「じゃあ、俺にどうしろというのだ」ということになって 要求されている、責められていると受け取ってしまったり今度は逆に腫れ物扱いになったりしてしまうので 女性が求めているケアは得られくなるのですよね。 女性にとっては、共感してくれること、寄り添ってくれることが大切なことで 「今、どんな感じ?大丈夫?」と声をかけてくれたり「今は大変だけど、大丈夫だからね』とハグしてくれたり、共感してくれれば それで十分なのですが、男性にとっては 女性が何を今、感じているのかがわからないわけですから 寄り添いたくても、できないのですよね。 もちろん、そう言ったことは、これまでもよくわかっていたわけでこれまでは、そこを私が甘えてみたり、伝えたりしてきたわけですが今回は、そんな余裕も私にはなくまた、おさむ自身もいろいろなエネルギーの影響を受けていたのでいつもより大変になってしまったわけです。(あ、ちなみに今は、怒りも悲しみもなく、笑いになっていますが ) そして、おさむへの怒りとは別に 私が感じた怒りは、ロンに対してでした。 あ~またまた長い。長すぎる。。 ということで、続きはまた~~ マハロ~~
2017年04月20日
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さて、話は前後しますが、私がクンダリーニ症候群になった経緯を説明する前に Sacred Plants(聖なる植物)のお話を。 以前、よくブログに書いてきたように、古くから先住民やネイティブたちは 大地とのつながりや祖先への敬意、意識の覚醒などのために 様々な植物をセレモニーで使ってきました。 その中でも最も有名な植物として ペルーや南米で使われているアヤワスカがありますが、 今回のクラスの中で、ロンがアヤワスカをペルーで体験した時の話をしてくれましたが アヤワスカを採取することで、音をビジョンとして観ることができるということを シピボ族はわかっていて、それを布やアートに表現してきたわけです。 私とおさむも、以前、アヤワスカやサンペドロや その他の聖なるプラントを体験してみて それは体験としては素晴らしかったですが 私自身は、ここ何年か、そういう体験に対して あまり興味がなくなっていました。 というのも、そういったプラントは、セレモニーや神聖な場所で使ったり ごくたまに体験するぐらいなら問題ないものの もし頻繁に摂取すれば、脳やエネルギーフィールドに 様々な影響があることがわかってきたからです。 以前、カナダで出会った人で、アヤワスカのセレモニーを頻繁に行っている シャーマンがいたのですが ある独特のエネルギーがあって、何と説明したらいいかわかりませんが あえて例えるなら、妖怪のようなエネルギーでした。 もちろん、それが悪いとか良いとかいうことではないし シャーマンとして生きていくのは、それが自然かもしれませんが 私とおさむにとっては、ちょっとヘビーで近寄れない感じでした。 ちなみに、国によって法律が違うので、アヤワスカは ペルーでは合法ですが、アメリカでは違法です。 また、例えば、カンナピズ(大麻)も古くから聖なる植物として使われてきたものですが 日本では違法ですが、アメリカは州によって法律が違って 医療大麻は、過半数の州で認可されていて また嗜好用を認可している州もあります。 ちなみにカンナビスの愛好家たちは、依存性がないことや 身体に無害であることを主張していて 私も昔は、そういうものだと思っていたのですが 決してそうではなく、様々な影響があるのです。 例えば、アルコール中毒のように、アルコールが切れると身体が震える というような依存でなくても、頻繁に摂取すれば、 それがないと、安心感やリラックスできない、ということになり それは依存となります。 また、左右の脳をつないでいる脳梁や交連のつながりを弱くするので 集中力やオーガナイズ力、判断力なども弱くなり 当然、グランディングも弱くなるので 常用すれば、ある種のエンティティがついてしまうことも多いです。 私も、ニューヨークにやってきたばかりの20代の頃 周りの友人たちに誘われて何度かやって 例えば、音が良く聴こえたり、意識が広がるような感覚になったり ビジョンが見えたり、体験としては良かったですが それを取った次の日には、だるくなったり ボーっとしたり、何もする気がしなくなってしまうので、一切やらなくなりました。 もうかれこれ、25年ぐらい前の話なので、当時は何も知りませんでしたが 今から思うと、あの頃、カンナビスを常用していた友人たちの中には エンティティ系のエネルギーが’強い人が何人もいたなあと思います。 さて、話は戻りますが おさむは、ハワイに来る度に、あるプラントを常用していました。 それは、ハワイのジャングルには、自然に自生しているもので ニックさんや他の何人もの方たちは、認可を取って 合法的に栽培されているのですが 私は、おさむに、ハワイに着く前に リトリートの前には、決して取らないように と伝えていました。 特に、今回、私がおさむと共同でワークしたかったことの一つに 宇宙人DNAの調整があるのですが、この調整には かなりの集中力と忍耐力を必要とするので そういったプラントを摂取すれば、とても集中力が続かなくなるのは わかっていたからです。 ところが、おさむはハワイに着いてすぐに、人からそれをもらって すぐにそれを摂取していました。 それを見て、私は「あ~、ダメだこりゃ~」と思っていたのですが 「まあ、いいか」と、その時は、彼にそれほど強く言いませんでした。 ちなみに「まあ、いいか」は、女性性の抑圧に 最も有効な言葉の一つと言えるかもしれません。 「まあ、いいか」と自分の感覚を封印し、感性を鈍らせてしまうのです。 でも、おさむ自身が止めたいと思わなければ 私がとやかく言っても仕方ないと 感覚を抑えていたわけですが 思えば、その時、すでに私の中で、おさむに対しての不信感がありました。 もちろん、私たちは完璧ではないですから 浄化したつもりでいても、何か残ってしまうことはあるし その時々によって、いろんなものが出てくるのは仕方ないことですが セラピストとして、自分のエネルギーに責任を持つのは当たり前のことで ほんの短い間でも自制できず、そういう状態で 人に対してセッションを行うことも許せなかったし そして、リトリートを開催する立場としての意識やそして、私を支えるという気持ちもないことに ある種の失望感を感じていました。 ですから、リトリートの間中 「彼には頼れないから、私がやらなければ」 という意識でいたこともあって、さらに私の責任感は大きくなり それぞれのセッションも長時間になりました。 実際、クラスが終わってから、具合が悪くなった人を 私とおさむでセッションする、ということになった時に おさむにはもう集中力や持続力がなかったので 私がしっかりするしかなかったわけです。 特にリトリートの最中に、父が亡くなった直後は 私自身もぐらついていたこともあって その時期に、精神的に彼に頼ることができなかったことは 正直、辛かったものの ただ「責任感」で自分自身を保っていた感じでした。 こうして、カポホでのリトリートが終わってから、数日経ったある日 おさむはそのプラントを 「のりこもたまには一緒に取ろうよ」と持ってきました。 私はもうプラントはやらないと決めていたのでもしおさむだけだったら、やらなかったでしょうが 一緒にいた他の2人もやるということもあって 「私があまり固いことばかり言っても、みんなが楽しめないな~。 後でキネシで脳の調整をすればいいか」 と、つい一口、小さなかけらを食べてしまったのでした。 そして、しばらく経って、だんだんと意識が朦朧とし始めた時に おさむが部屋に入ってきて、メイクラブをしようと、私のあそこに触れていて 私も最初は気持ちいい感覚になっていたのですが ある瞬間から、訳がわからなくなり、気がつくと嘔吐を繰り返していたわけです。 それがクンダリーニ症候群だったと筋反射で上がってきてわかったのが それから2日後でした。 よくよく考えてみれば、クンダリーニは、性エネルギーですから そういう意識の覚醒に影響するプラントを取って 仙骨のアクセスや性的なアプローチを行えば クンダリーニが活性化してもおかしくはないわけですが その時は、一体どうしてこうなったのか、何が起こっているのか 全くわかりませんでした。 それと同時に、この仙骨にあるブロックとして 男性から守られなかった過去世のエネルギーが 浮上してきたことに加え クンダリーニ症候群で神経系がやられていたので 周りのエネルギーに過剰に敏感となって おさむが持っていたエンティティ系のエネルギーなどが とても不快に感じられて 私もおさむに対する不信感はマックスとなっていたわけです。 そして、おさむのエネルギーが苦しかったので 少し私の身体の状態が落ち着いてきてから、おさむへのセッションを行いました。 すると、おさむのプラントへの依存の問題が浮上してきて おさむの身体は、それをもう完全にやめることが必要だと伝えてきました。 今回、私がクンダリーニ症候群を起こしたのは 私自身のブロックの問題であることもわかってはいましたが 一方で、おさむがその決断をするためには、私がこの体験をする必要があったのかもしれない などと思っていました。 ところが、私が思っていた以上に、おさむはプラントに依存状態に近い状態になっていたため そう簡単には、やめることができませんでした。 なぜやめることができないのか、おさむの身体に聞いて出てきたのは 「つながり感」や「誇らしい気持ち」などでした。 私はそういうプラントを常用している人たちが 共通して持っているプライドやエゴがあるのを感じていました。 プラントは、意識を覚醒する作用があるので そういう体験をすることで まるで、自分は世界を知っているかのような錯覚をするのです。 そして、そういうものを取っている人同士のつながり感。 おさむは、そういったものに依存していたのでした。 それから、2、3度セッションを行って、おさむはそれをやめる決心をしました。 そして、先日のドロシーのセッションで彼女から 「男性の弱さをあなたが抱え込んでサポートする必要はないのよ。 おさむに『これはあなたの問題よ』と言って返すのよ」 と言われたのでした。 クンダリーニ症候群になってから 体調がすっかり戻った後も 私の中で、どこかで抑えていた感覚が出てきて 何かが変わり始めました。「まあ、いいか」と達観することができなくなったのです。 これまでも達観せずに、感じてきたつもりだったけれどいつの間にか達観して、事なかれ主義になっていたことを思い知らされました。いかに今まで、自分の女性性を抑えてきたのかに改めて気づいたのでした。 そして、それに加えて、今回のフィボナッチのクラスでの ロンとの関係で、私はさらにつながり感を失ってゆきました。でも、おさむには、私の変化や感覚を受け止めることができる強さや余裕は ありませんでした。彼にとってもまた、今回の一連のことが、精神的に大きなストレスになっていたし私の言葉や対応が、彼にとって負担になっていました。 そうして、私は深い孤独感へと陥って行きました。 は~、なんというストーリーなのか。この常夏のハワイで、どうして、こんなストーリーにはまっているのかしらん そして、このストーリーは、一体、どういう結末を迎えるのかしら? 自分自身に正直に生きたい。自分を偽らず、誠実でいたい。 その思いはどんな時も私の中にあってその生き方に悔いはないけれど 時として、偽っていた方が楽に生きられるのだなあと。だから、偽って生きる人が多いのですね。 でも、それでも私は真摯に生きたいなあと。 だから、このブログもできるだけありのままにアップすることにしたわけなんですが自分のことだけではないから、どこまで書くのかは難しいです。 ということで、クラスのことなど、お話の続きはまた~~
2017年04月13日
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昨日、4月8日に父の四十九日が終わりました。 その話の前に、まずは、カラニリトリートに入ってすぐに受けた ドロシーとのセッションのことをお話しようと思います。 カラニリトリートで、カナダから来られたロンとエリン そして、イタリアから来られている通訳のなつこさんと再会し そして、今回、ATIHの先生として来てくれている ロンのパートナーのドロシーと初対面しました。 ドロシーは、シャーマンワークにも精通している、心理セラピストでもあります。 いかにもサイキックという鋭い大きな目で 人のエネルギーを読んでいるのが、すぐにわかりました。 夕食の時、私がクンダリーニ症候群になった経緯を二人に話すとロンとドロシーから、それは是非、ドロシーのワークを受けることをお勧めする言われ 次の日、参加者が到着する日の朝に、セッションを受けることになりました。 ドロシーは、家系のカルマや、その家系に代々受け継がれている問題を ワークすることが多いそうとのこと。 深い意識状態でのワークになるので、通訳があった方がいいということで なつこさんが、セッション中の通訳をやってくれることになりました。 まずは、私は目隠しをして、椅子に座り ドロシーは、ヒプノセラピーのように 私がリラックス状態になるように、言葉で誘導してくれます。 私は、すぐに瞑想的なリラックス状態になりました。 ドロシーの質問に答えながら 私とドロシーのビジョンを合わせていく感じなのですが この時、まだ言語中枢や脳梁などがダメージを受けていたこともあって 感覚と言葉が上手く繋がらずドロシーから質問されても、上手く答えれないことがよくありました。 ドロシー「身体のどこかにブロックしている箇所や 気になるところがありますか?」 私 しばらく意識を身体に向けてみる。 「… 仙骨」 ドロシー『その仙骨の色は、何色ですか?」 私 色を見ようするけれど、よくわからない 「… くすんでいて色はよく見えません」 ドロシー「そうですね。くすんでいますね。 それではそこにあるエネルギーの大きさはどのくらいですか?」 私 大きさ? よくわからない 「… よくわかりません」 ドロシー「それでは、その仙骨に意識を下ろして行ってください」 私は意識を仙骨に向けて、下ろしていこうとすると いきなり、深い悲しみがやってきて、ポロポロと涙が止まらなくなり しゃくりあげ始めました。 不思議な感覚でした。 なぜそんな悲しい感覚があるのか全くわからないのですが、仙骨に意識を向けて 仙骨に近づけていくだけで、悲しみはさらに深くなってゆきました。 一方、その悲しみの中に入っている私とは別にそれを冷静に見ている私もいて 「何なの?この感覚は?どこから来るのかしら?」と思っているのです。 ドロシーはしばらく私を泣かせてくれた後、彼女のビジョンを伝えてくれました。 ドロシー「小さな女の子が見えます。 「その子は、弱くて一人ぼっちです」 私は、弱くて一人ぼっちの女の子を見ようとしたのですが そこにはリンとして意思の強い子がいるだけで 弱い女の子はどこにもいませんでした。 私 「… その子は一人だけど、弱くはない。 とても強い子です」 ドロシー 「弱さも感じれないほどになっているのですね。 それでは、なぜその子は、強くある必要があるのですか?」 私 「なぜ?」 しばらく意識をそこに向けてみる。 「… 強くなければ、他の人が幸せでなくなる、、、」 ドロシー 「なるほど。 では、その中でも、最も幸せでいてほしい人は誰ですか?」 私はまたしばらくの間、誰なのか見つけようとしました。 そうして、突然ふっと出てきたのが 「お父さん」 でした。 私の口から父が出てきた時、冷静な方の私は 「は~これまで、散々、インナーチャイルドワークはやってきたのに まだ、お父さんなのね~。 亡くなったばかりだから、出てくるのは無理もないけど」 と思っていました。 ドロシー「それでは、お父さんと手をつなぎ、お父さんの中に入って行って お父さんと一体化しましょう」 こうして、私は父と一つの意識に繋がりました。 もともと、父とは子供の頃から、深いつながりを感じていたし 父と一つになるのは、私にとって特に難しいことではなく 自然に感じれました。 すると、突然、ドロシーが 「あなたのおじいさんが見えます」 と言い出しました。 すぐに私の中にも祖父のエネルギーが感じられました。 ドロシー「おじいさんは、とても厳しい、強い人でした。 おじいさんは女性性をその全く受けいれられませんでした。 そのために、周りの人たちが犠牲になってしまった。 彼は今、とても後悔しています」 もちろん、祖父がどんな人であるのかなんて、事前にドロシーには伝えていませんが ドロシーは、祖父のエネルギーをよく理解していました。 私の父方の祖父とは、私は子供の頃のことを覚えていますが 確かにとても厳しい人でした。 昔、父が、子供の頃、よく祖父に、怒られて、一晩、木にくくりつけられて 過ごしたこともある、などと話してくれましたがその当時の鹿児島の男性ですから 本当に厳しかったのです。 冷静な方の私は 「は~、ここでおじいちゃんが現れるのね~」 と感心しているのですが、一方で、ドロシーの誘導で、私は次第に おじいちゃんと一体化していました。 彼の深い罪悪感と後悔の念がひしひしと感じられました。 時代ゆえに、また育てられた環境ゆえに、強く厳しくならざるをえなかったこと それがゆえに、父が抑圧されそれが受け継がれて、私の中の女性性の抑圧となっていたこと。 「本当に申し訳ない」 何度もなんども、おじいちゃんからの言葉がドロシーの口から伝えられました。 ドロシーもまた泣いていました。 その時、私は、私自身の女性性の抑圧よりも、父がかわいそうという気持ちの方が 大きく出ていました。 祖父に厳しく育てられ、自らも決して楽に生きることを許さなかった父。 それゆえに病気となり、最後まで安らぐことがなかった父の人生を思い 涙が止まりませんでした。 私は祖父そのものとなり「申し訳ない」という気持ちでいっぱいでした。 同時に、こんなにも後悔し、罪悪感を抱いている祖父に対しても 哀れに感じていました。 それから、ドロシーの誘導で、私は 私と父と祖父の3人で手を取り合って、静かに座っていました。 幼い私は、白い服を着て、父と祖父を優しく包み込むように そこにいました。 それは、とても安らかで穏やかな風景でした。 これは、後からドロシーに聞いた話なのですが 私の祖父は、セッションに半ば強引に入ってきた感じで あの時、ドロシーも、完全に私の祖父と一体化していたとのことでした。 「あの時、私はあなたの祖父と一体になっていました。 彼は、本当に癒されることを切望していました。 この時をずっと待っていたのです。 あなたがそれをできることを知っていたからです。 このセッションの中で、結局、あなたが 父方の家系を遡っていて、すべてを癒していったのです」 セッションの間、祖父や父の感覚など、私ははっきりと感じられることが多かったのですが 時々、自分自身の感覚は、よくわからなくなることがありました。 ドロシーが「お父さんにどうして欲しかったですか?」 と尋ねた時、私自身が父に何を求めていたのか、どうして欲しかったのか よくわかりませんでした。 しばらく感じてみても、はっきりと見えなかったので 「優しくして欲しかった」と答えましたが 言ってすぐに、自分は決して、そう感じてはいなかったこともわかっていました。 私は一体、どうして欲しかったのだろう? それから、ドロシーは場面を変えました。 ドロシー「それでは、おさむをここに呼んでみましょう」 もちろん、実際におさむを呼ぶのではなく、私の意識の中で彼の存在を呼ぶということです。 ドロシー「それではおさむと一つになってみましょう」 どんな感覚が湧きあがってきますか?」 私「怒りを感じます」 この質問には、私は即座に答えました。 その怒りは、私がクンダリーニ症候群になってから、大きくなったものの いつもどこかにある感覚でした。 ドロシー「大丈夫です。怒りを受け入れてください。 「なぜ怒っているのか、わかりますか?」 私「…守ってくれなかったから?」 ドロシー「そうですね。 あなたは、お父さんには怒りを表せなかった。 でも、もう大人になったあなたは、安心して怒りを表せるようになったのですね」 それは、明らかに違っていました。 私は父に対して、子供の頃から、戦ってきたし、怒りもよく表していました。 私はドロシーに何も言わず、その怒りがどこからくるのか、感じようとしていました。 ドロシー「あなたの中で、受け入れられないものは何ですか』 何だろう?何を私は受け入れられないのだろう? それもよくわからず、しばらくの間、意識を集中させていました。 そして、出てきたのが「男性性のエゴ」でした。 でも、その言葉と概念が、私の感覚を正しく言い表しているのかよくわからず まだクリアではありませんでした。 そうしているうちに、ドロシーの誘導で次第にわかってきたのが おさむの弱さ、でした。 ドロシーがそこを指摘して 「ああ、彼はとても弱かったから、あなたが守らなければならなかったのね」 と伝えました。 そこで、私の父と祖父の中に内在していた弱さと すべてがつながってきました。 ドロシー「そうだったのね。 あなたは子供の頃から、お父さんやおじいちゃんの中にあった弱さを感じていた。 だからこそ、あなたが強くなければならなかった。 あなたが男性たちを守らなければならなかったのです」 ドロシーの言葉がストンと、私の胸に響いてきました。 幼い頃の私にとって、父はとても厳しくて強い人でしたが 同時にどこか父の弱さや傷つきやすさを、いつも感じていました。 それは、結局、男性性の弱さであり、思考で物事を選択するものの弱さであって だから、私は父を恐れたことは一度もなかったし、私の直感に従って動けば それが、たとえ父への反発となり、父と戦うことになったとしても それが父の意識を変えるために、必要であることを いつもどこかで感じていたのだ、ということに改めて気づきました。 だからこそ、父に打たれても殴られても、私は傷つくことはなかったし 実際、父はいつも必ず、最終的には、私の選ぶ道を理解し、信頼してくれたのでした。 だから、私は父に甘えることができなかったけれど 甘えたいとも感じていなかったのだなあと。 ですから、男性に抑えられて、女性性を発揮できなかった、というより 男性を導き、守るために、自らの女性性を抑えた、というのが、最も近い表現でした。 おさむに対しては、いつもいろんな場面んで甘えているけれど やはり、いざという時は、私が導かなければ、強くなければ と感じてきたわけで だからこそ、おさむから守ってもらえないという現実を生み出したのだなあと。 その時、ようやく、私の中から 「ああ、やっとわかってもらえた」 という思いが出てきました。 怒りは、おさむに対してというより 私自身が、私の女性性を抑えてきたことから出てくるの怒りでした。 でも、逆の見方をすれば、思考で判断するしかない男性を導いてゆくことこそが 本来の女性の役割とも言えるのかもしれないなあと。 その日のセッションを境に、今回、ハワイに来てからずっと抱えていた 私のおさむへの怒りはすっかり消えました。 すべては完璧でした。 父を癒し、父方の家系を癒し、そして、私自身を癒すために 父が亡くなってすぐに、このセッションを受けることができたのは 天の祝福だったなあと。 そして、なつこさんの通訳も素晴らしかった。 セッション中、ドロシーの言葉のほとんどは、理解できたものの なつこさんの訳が入ることで、さらに深く私の中に入ってきたし セッション中の変性意識状態では、日本語でさえ 上手く出てこない場面が多かったので 彼女がいてくれたことは、大きな安心感になりました。 そして、彼女自身の感情を入れず、淡々と通訳を行ってくれたことも セッション中、余計なエネルギーを感じることなく 入り込めた要因でした。 しかし、一方で、もともとグラウンディングが弱っていたところに このディープなセッションを受けたことで、さらにグラウンディングは弱くなり セッション中に、ドロシーの持っていたエネルギーと 私の過去世とつながったこともあり (これはセッション後にクリアになってきたことでしたが) セッション後の丸3日間、私は完全に自分を見失ってしまいました。 そこで何が出てきたのかについては、また後ほどお伝えするとして その次の日からクラス1(アーキュトニックのレベル1とフィボナッチのクラス) が6日間、行われました。 そして、クラス1が終了し、父の四十九日のために クラス2の間、私はハワイを出て ここ福岡に戻ってきたのでした。 4月6日の夜に福岡に到着し、ご仏前の前で手を合わせて 父の位牌の前で「ただいま」の挨拶をしました。 少し前までは、ハワイから家に戻って、父の前で手を合わせたら 「ようやく戻ってくることができた」 という思いがこみ上げてくるだろう と思っていたのですが ドロシーのセッションで、もう十分に父の意識とつながることができたこともあって すでに私は満たされていました。 母から、父の最後の様子や安らかに眠るように逝ったこと 最後まで、看護婦さんが冷たい足をさすってくれたこと お葬式でいとこが素晴らしい挨拶をしたこと お葬式には、遠くからたくさんの人が足を運んでくださったこと など、いろんな話を聞きました。 そのいとこと父は、昔はよく議論を交わして、昔、とても頑固だった父は 彼の進路に関して「親の面倒を見なければならない」と 他の進路を選ぼうとしていた彼を説き伏せたそうで 「他人の人生を自分の考え通りに動かそうとするなんて 本当ひどい話だよね~」と母と父の悪口を言って、笑いました。 私は、昔から、決して父の言うことに従わず 自分で生きたい進路を選ぶことができたけれど 父の子供でもないのに、父に従って人生を選んだ人たちもいるのだなあと。 それも二人とも男性だったから、これは男性性の闇の一つの表れだったのか どちらにしても、それぞれの人生で必然の流れだったのでしょう。 それにしても、さすが私の母は、すでに清々しい感じで 父の遺品もすべて処分し、父の子供の頃のアルバムなども すべて捨ててしまったそうで 弟夫婦にも 「アルバムまで捨てることないのに~」と言われたんだそう。 みんなにそう言われても 「写真は少しだけ残しておけば、十分よ。 アルバムなんて持っていても見ることないし、いらないわよ」と あっさりと笑っている母を見ていると 感傷的で人情深く、思い出や情に浸っていた父とは対照的で ああ、だから私は、子供の頃から 母を通じて、女性のうちに秘めた強さを感じてきたのだなあと。 そして、私自身は、その両方を受け継いできたわけです。 母は、早速、6月には友人たちとオーストラリアに旅行するそうで この9年間、父の介護のために、全く外に出れなかった母は やっと自由になれたわけですから これから、よりパワフルに生きていってほしいなあと。 そして、7日は、弟夫婦と子供が京都からやってきました。 1歳7か月の甥っ子は、去年の10月に会った時には 全くおしゃべりしていなかったのに 今回は、ペチャクチャとおしゃべりしていて、むちゃ可愛いです。 弟の話で、骨壷に入れるために、父のお骨を小さく砕かなければならなかったという 話がとても印象的でした。 父は身体はすべてボロボロだったのに、骨だけはしっかりしていたそうで なかなか崩れなかったそう。 自分の父の骨を砕くという作業に、弟は 「自分の感情を感じないようにして行わなければならなかった」と 話し、私は弟のその時の思いが伝わってきて 弟がその辛い役をやってくれたことに、本当に感謝でした。 そして、4月8日、父の四十九日を家で行いました。 お坊さんがお経を唱えている間、甥っ子は楽しそうにおしゃべりしながら 走り回り、お坊さんに触りたくてたまらない様子で その甥っ子を見ているとおかしくて 事前にイメージしていたような、静かに父への祈りを捧げるセレモニーではなく とても賑やかな四十九日となりました。 きっと父も賑やかな四十九日を楽しんだことでしょう。 納骨した場所には、美しく桜が満開でした。桜が好きだった父は、この時期に見送って欲しかったのかなあと。 納骨した後、みんなで志賀島の和食の店に行き、懐石料理を頂いて 四十九日は終わりました。 そして、今日、4月9日は、私の誕生日。 たまたま、私の誕生日の前日が、父の四十九日にあたるなんて これも宇宙の計らいなのか、父の魂の導きなのか。 49日を終えて、私もまた新たに生まれ変わった気持ちでいます。 今日は、こうしてブログをアップしたり、弟へのセッションを行ったりして 家族とゆっくり過ごす予定です。 (音叉を自己調整のために少しだけ持ってきたのだけど つい目の前にいる人のセッションをしたくなってしまうのよね~ ) 夜は、みんなでお祝いしてくれるのだそう。 そして、また明日の朝には、福岡を出発して、ハワイに戻り 次の日からは、アーキュトニックのクラス3のスタートします。 これから、クラス1のことや ロンのことやドロシーのセッションの後日談など またハワイに戻ってから、アップするつもりです。 実は、このクラス1の間、私はこれまでにはなかった感覚があり 最初は、それはどう受け止めていいのかわからなかったのですが 少しづつ、私の中の感覚もクリアになってきています。 は~久々にむちゃ長くなった~。 ここまで読んでくださって、ありがとうございます~
2017年04月09日
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数日前、2月19日に、私の父が他界しました。享年82歳でした。今から、8、9年前に脳梗塞で倒れてから、奇跡的に回復して一時は、普通に歩いたり、食事をしたりできるようになったもののその後、パーキンソン病を発症しまた、その薬の副作用もあり、身体のありとあらゆる器官がダメージを受け歩くこともできなくなり、入退院を繰り返していたのですがもう去年はずっと入院していました。母曰く、薬の副作用で、記憶がもう曖昧になっていて今、自分が入院していることもわかっていないとのことでしたが去年の10月に私が病院を訪れた時は比較的元気で、食欲もあり、私に「仕事は順調か?』などと聞いてきて、しばらく話をすることもできました。母の話では、こんなにまともに話をしている父を見たのは久々とのことでした。でも、薬の副作用で、足の皮膚が赤黒くなっていて父が痛がるので、医者からもう薬ではどうにもならないから、切断した方がいいと勧められ去年の年末に、足の切断の手術を受けたのですがその手術の後、急に体力が落ちて食べることもできなくなり、意識も朦朧としていました。今回、ハワイに行く前に、母と電話で話をしていよいよもうダメかもしれない、とのことで「私は、このリトリートの最中は日本に戻るわけにはいかないけれど3月になれば、日本に戻ることもできるしもしも何かあったら、ニューヨークの自宅の電話にメッセージを残しておいてくれたらハワイからでも聞くことができるので、すぐに電話して」と母に伝えていました。そして、そのお知らせを受け取ったのは第2班のリトリートがスタートして8日目のことでした。第1班は6泊7日のリトリートですが、この第2班は、9泊10日でリトリート+キネシオロジーのクラスでした。その日の前日に1日ハワイツアーも終えて、残りは3日間のクラスという時でその日の午後は、二人一組で14筋反射の取り方の実践を行っていました。私はみんなの実践の間、それぞれのテーブルに回ってプロセスを見守ったりアドバイスしたりしていたのですがひと段落したので、椅子に座って、マックを開いたら母からの留守電メッセージが入っていることに気づいて胸がドキンとしました。「この日のクラスがまだ終わっていない時に今、ここでメッセ~ジを聞かない方がいいかもしれない」そんな思いがよぎりましたが、それでも聞かずにはいられずマックを持って外に出て、母からの留守電へのメッセージを聞きました。そして、その予想通りそれは父が亡くなったというお知らせでした。ズドンと胸に突き刺さるようなショックを感じました。母の「あなたが帰ってこれる3月までお父さんが持ちこたえてくれるように祈っていたのだけど」という言葉が、こだまのように私の中で響きました。父が逝くことは、8、9年前の脳梗塞の後からずっと覚悟はしてきたのに私が帰ることができないシチュエーションで父が逝ってしまうことを私は意識のどこかで、とても恐れていたということを改めて感じました。修に「お父さんが亡くなった」と伝えると「このタイミングだったのか~」と抱きしめてくれて涙が止まらなくなりました。でも、この日のクラスが終わるまでは、参加者には伝えないでいようと最後までクラスを行いました。そして、夕食の後にみんなにシェアしました。父が亡くなったことは、とても悲しいけど、でもこの8、9年間、ずっと病気で苦しんできた父にとってはやっと楽になれたわけだからむしろ、祝福してあげたい気持ちであること。ただ、父の最後を見送りたかったという思いが私の中で大きかったこと。それでも、やはり、すべては完璧なタイミングで起こっていることを信頼していること。話ながらも、涙がポロポロと流れてきました。すると、参加者の一人が「のりこさん、明日の朝、日本に戻ってください。私たちは、もう十分やってもらったし、残りのクラスはまた次回日本でクラスを開く時にでも、参加させてもらったらいいですから」と伝えてくれました。すると、みんなも「そうしてください、私たちのことは大丈夫ですから」「日本では親が亡くなったら、仕事は休むものです」「私たちはクラスはいつでも受けれるけど、お父さんを見送るのはもう二度とできないのですから」と口々に言ってくれました。このクラスのために、日本からハワイまで来てくれているのに私のために、そう言ってくれるみんなの気持ちが本当にありがたくてみんなの言葉を聞いているうちにもしそれが可能なら、明日の朝、日本に立てばお葬式には参加できるだろうし、そこで父を見送ってからリトリート第3班が始まる前に、またここに戻ってくることができるかもという思いが私の中に芽生えてきました。父が亡くなったというお知らせを聞いた瞬間から、父との思い出が走馬灯のように私の中に出てきていてもう父のスピリットは父の肉体を去ってしまっているとしても最後に一目、父を見たいという思いが湧いていました。でも、同時に、今、ここで日本に戻ったら、それはそれで後悔を残すような気もしていました。もし父なら、こういう時どういうだろう?と思ったら責任感の塊のような父のことだから「そんな仕事をほっといて帰ってくるな。俺のことはいいからそこで自分の仕事をしなさい」というのだろうなあと。みんなは「のりこさんがやりたいようにやってください」と言ってくれたもののお葬式に出て、父にお別れを言って、見送りたいという思いとこのリトリートでみんなと最後まで一緒にいたいという思いの両方が私の中にありこの時、どうしたらいいのか、全くわかりませんでした。感情が高ぶっていたし、とてもその時の私では決断することができず修が「それならカードを引いてみたら」と言ってマップカードを持ってきました。そして、引いた1枚目のカードは「今は自立を求められている。甘えることなく自分がやるべきことをやること」という内容でどう見ても、これはみんなの言葉に甘えるのではなくここに残るという意味に捉えられました。でも、まだそれを受け入れられず、さらにモヤモヤしたので2枚目のカードを引くとゴーストランドというカードで「追憶の中に生きるのをやめて、今を生きなければなりません」という内容で、これもどう見ても、ここに残るという選択を示唆する内容でした。参加者の一人が「ゆうきちゃん、これはどう読む?」とゆうきちゃんのカードのリーディングを聞きました。しばらくの間、黙って、そのカードを見ていたゆうきちゃんは言いにくいことを言う時の面持ちで「私は自分のお父さんが亡くなった時にずっとそばにいることができたしのりこさんにも戻って欲しいと思うのだけど。でも、このカードはここに残れと言っている。どうして?どうしてのりこさんは、残らなければいけないの?」とポロポロ泣いていました。「でも、このカードは、どこにいてもつながっているから大丈夫と言っている」ということも伝えてくれました。ゆうきちゃんのカードリーディングを聞いたことで私の中にあった感覚もクリアになってきました。みんなの申し出はとても嬉しかったし、葬儀に出たい気持ちも大きいけれどやはり、最初に私が決めていたようにこのリトリートが終わるまでは日本に帰らないという決断をすることができました。ここに残ることが、今の私には必要なことでそして、これは単に「仕事の責任感」というようなことだけではなく私の本質が、魂が求めていることだということを強く感じていました。それから、お酒が好きだった父のために一杯飲みたいという私の思いに応えてみんながワインを一杯ずつ付き合ってくれました。一方で、決断はしたものの、今度は私の中に母に対して、こんな時にそばにいてあげることができないことへの罪悪感や不十分感が生まれて、ズドンと落ちて行きました。もう身体も精神も限界でとても次の日、クラスをやれそうになかったこともありこの日の夜に修がキネシオロジーのセッションをやってくれました。父の逝去のお知らせを受けた時のショックで、エネルギー的な統合率は一気に70%まで下がっていてグラウンディングが下がったところに、みんなのエネルギーと共鳴してさらに悲しみや無力感が強くなっていました。セッションの中で、もう父には生きて会えなくなったのだという寂しさや最後のお別れも言えなかったという無念さや母への罪悪感、無力感のような感情が一気に出てきて、ワンワン泣きました。修は静かに抱きしめてくれた後サウンドヒーリングでそれらの感情や思いをリリースしてくれました。ヒーリングが終了した後、すっきりしていつもの自分を取り戻すことができました。 そうしているうちに、弟の奥さんからのメールでお通夜は、次の日、そしてまたその次の日がお葬式になったことが連絡がありその後、母と電話がつながり、母と弟と話しをすることができました。今回、弟夫婦が母のサポートをしてくれていることが何よりも私の心の大きな支えでした。父の最後は、苦しむこともなく、眠るように安らかに亡くなったとのことでした。母が「あなたはこれまで、もう十分にやってくれたからね。今、戻ってこれなくてもお父さんに、あなたの気持ちは届いているから」と言ってくれました。そして、3枚目のカードを引いたのですが、選ばれたたカードは「悲しい抱擁」というカードで内容は「損失は人生の一部です。癒すための時間を取ってください。失望は感じ方の一つの形式です。もし期待と合わなかったのであれば、悲しみと悲観とともに損失感が生まれます。その感情を表して下さい。涙は命を復活させる癒しの雨です」という内容でした。お葬式やお通夜は、故人の為というより残された人たちが、故人と感情的、精神的にお別れをするためのものなのだということをこの時ほど思ったことはありませんでした。でも、その希望が叶わなくても、私はここで父とお別れをすることができるのだということもわかっていました。その日はボロボロ泣きながら眠って次の日の朝、起きた瞬間からポロポロと泣いて私の目はすっかり腫れ上がってしまいました。でも、気持ちはかなりすっきりしていてその朝の弟の奥さんからの「お母さんと、私たち3人(弟夫婦と子供)でお父さんをしっかり見送ってきますからね」という暖かなメールを読みながら私は今、ここでのクラスとみんなに全力を向けようという気持ちになっていました。親が亡くなることは、誰でも経験することであって時間とともに癒されていくのは自然なことですがヒーリングはそのプロセスを一気に早めるなあと。そして、次の日のクラスの内容はインナーチャイルドヒーリングでした。このクラスの参加者は、全員、超エンパスだったこともあり私のエネルギーに共鳴して、それぞれの不十分感が罪悪感が強く出ていました。そのことが、逆にみんなのインナーチャイルドへのアクセスを高めることになりクラスの実践の中で、大きな解放が起こっていました。クラスの後、参加者の一人でサイキック的な力がある人が「解放の最中に、のりこさんのお父さんと会いました。こんな風にお世話になっています、とお礼を言っておきました」と伝えてくれました。そして、この日のクラスを行いながら本当に全ては完璧なのだ、ということをひしひしと感じていました。そして、昨日、2月21日に父の葬儀が終了しました。母曰く、思っていたより多くの人がお通夜とお葬式に来てくれてとてもいいお通夜とお葬式だったとのこと。私のいとこが、お通夜の後「僕はおじさん(私の父)とここで一晩、焼酎を飲みたいので皆さんは家に戻ってください」と言ってくれてお通夜の後は、母は家に戻って眠ることができたとのことでした。父がみんなに温かく見送ってもらうことができて、本当に良かった。私は、このリトリートが終わった次の日、3月3日に一度、日本に戻ろうと思っていたのですがその後、母と電話で話をしたら、3月よりも四十九日法要の納骨の時に戻ってきてほしいということでした。4月はカラニリトリートでのロンのクラスの最中ですがオーガナイザーと言っても、実際のクラスが始まれば特にやるべき仕事はないので修もいるし、私が1週間ぐらい、いないのは問題ないし4月に入ってから1週間ほど、福岡に戻ることに決めました。私は仏教のいうところの、四十九日目に故人が天国と地獄に分かれて旅立つという話は信じていないですがそういうセレモニーを通じて、改めて父とお別れができるような気がしています。こうして激動の第2班リトリートが昨日、終了し明日には、リトリート第3班を迎えます。父のことだけでなく、本当に色々なことがあった第2班リトリートでしたがみんなと喜びも悲しみも分かち合うことができて深いつながり感を持つことができたなあと。お父さん、これまでありがとう。お父さんの娘として、生まれて来ることができてよかった。どうか安らかに天に召されてくださいね。読んでくださって、ありがとうございます。
2017年02月22日
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先日、クライアントさんから「貧困意識について、また今度~とブログに書かれてありましたがあれはどうなったんですか?』と聞かれたのでああ、そう言えば、それについて書こうと思っていたのだった、と思い出し今日は、貧困意識について、アップしてみますね。ちなみに、私の記憶力は非常に偏っているというのか、都合のいいようにできているというのか例えば、セッションで上がってきた脳の情報などは大量であっても、メモなしでほぼ記憶しているのに、私がセッション中にクライアントさんに伝えたことや、ブログに何気なくアップしたことに関してはほとんどすぐに忘れているんですよね先日も、飲み会で「のりこさん、先日~~と言われていましたが、それどういう意味ですか?』と聞かれて「へ~そんなこと言ったの、私?う~ん、その時、どういう意味で言ったんだろうね~」と私もよくわからなかったりしたわけです特にセッション中は、クライアントさんの意識と同化してその人の身体からの声を、そのエネルギーのまま伝えていることもあって私自身が個人的に~~に対して、どう思っているか?ということに関してはほぼ意識してないということもありますがメールやブログで書いたことなども、すっかり忘れているところを見るととにかく、私の記憶というのは、かなりアテにならないのは確かです。メールでのお返事も、私は考えて返事を出す、ということはしなくて読んだ時にそのまま会話と同じ 感覚で答えているので後から読み直すと、ひゃ~こんなこと書いてるし、、、 ということも多いです。それで失敗したとしても、その失敗からまた気づきがあったりするわけでまあいいか~と。(私の辞書には、後悔という概念はないのか) ということで、メールでもブログでももし何か私が忘れていたら、リマインドしてくださいませ。さて、今日の本題に戻って、貧困意識。これは、実際にその人が貧困ということではないですしその人がどれだけ貯金があったり、今、お金を稼いでいるか?などということとも関係ない意識です。まず、ほとんどすべての人にとって、魂レベルで望んでいることの一つに「自由に生きること」ということがあります。一体、何が本当の自由なのか?ということは様々なレベルを含んでいるので、一概には言えないのですがクライアントさんの潜在意識の声を聞いていると多くの人の中に「お金」というのが、自由に生きるための一つの要因になっています。つまり「お金がないと自由に生きられない」という意識があるということです。この意識があるということは、お金に縛られているということでありお金によって、自由や幸せが左右されることであってそれを私は豊かさの意識の反意語として、貧困意識と呼んでいます。貧困意識であれば「やりたいことをやるため(自由になるため)にはお金が必要」「(だから)今、やりたくないことをやってお金を得る」という魂の本質からずれたことになってしまうわけですね。しかも、やりたくないことをやれば、エネルギーは必ず枯渇しますからほぼ永遠にやりたいことには向かわないわけです。将来のお金に対する不安がある、という方は、もちろん貧困意識ですが楽してお金を得てはいけない、とか好きなことだけやっていれば、生きていけない、など中には、未だに「お金持ちは自分勝手で傲慢な人が多い」などの清貧思想を持っている方もいます。先日、お越しになったクライアントさんで「楽して(一生懸命働かずして)お金を得るなんて、いつかバチが当たる、って思っています」と言われた方がいたので、思わず笑ってしまったのですが実は、楽してお金を得てない状況(を作り出している意識)こそがバチが当たっている状態と言えるんですよね~。バチと言っても、罰という意味ではなく自分の無意識レベルでの恐れやそこからの信念がそのままの現実として表れているということです。例えば、一昨年、去年に、おさむが何度か急に仕事がぱったり入ってこない時期があってお金の問題が出てきたことがありました。彼はヒーラーとしての力はあるし これは仕事やお金の潜在的なブロックだなあとセッションを行ったのですが、やはり、貧困や奴隷としての過去世がたくさん出てきたのと彼の場合は、人に与えることができなかった過去世や人を抑圧してきたカルマなどもあったのでそれを解除したら、その次の日からまた前に戻って、バンバン仕事が入ってくるということが、何度かありました。もちろん、彼の意向や顕在意識に関係なく起こっている無意識レベルでの問題なんですがそれを変化させると、本当、不思議なぐらいすぐにそれを現実として見せてくれるんですよね~。さて、貧困意識は例えば「今、安売りだから、ついでに買っておこう」とか「せっかく、ここに行くのだから、ここにもついでに行ってみよう」とか「今は使ってないけど、将来使うかもしれないから、とりあえず、捨てずに取っておこう」などというのも貧困意識から生まれる思考パターンです。「一つ買えば20ドルだけど、二つ買えば34ドル」「今だけ、特別キャンペーンで、料金割引」などというのはこの多くの人が持っている貧困意識を煽るビジネスのやり方ですね。でも、貧困意識から生み出されるものは、やはり貧困意識なので最初は得したつもりでいても、本当は一つしか必要なかったので結果的に無駄なことになってしまったりまた、そういうビジネスを提供している方も料金を安くした時だけしか購入してもらえない、などという現実が生まれ豊かさのサイクルを生み出さなくなってしまうのです。また、物を購入する時に、それに関するあらゆるものを比較検討してからでしか決めれない、というのも貧困意識です。貧困意識の根底にあるのは「自分は不十分」「足りない」という意識なので損をするのがとても恐いわけです。ですから、貧困意識だと、目先の損得勘定に走って選択してしまいます。そして、目先の損得勘定で動くと、ほとんどの場合、自分の人生にとって本当の得にはならず、結果的に損をする、ということになるのです。例えば、わかりやすい例を取って言えば少しでも安くて気に入った物を買おうと、比較検討しながらあちこち人混みの中、歩き回って、結果的に身体が疲れてしまい(この場合、憑かれていることも多いですが^^ )しばらくの間、やりたいことができなかった、とかまた例えば、アルバイトをしていて、それがやりたい仕事でなくても何もやらないよりマシだ、と必要以上に、臨時で仕事を入れたり、残業したりしてそれでストレスが溜まり、ストレス発散のために、無駄な物を購入したり食べ過ぎたりしてしまった、とか。お金は、自分を豊かさにするエネルギーの一つにしか過ぎないわけですがお金のために、自分の心地よさや喜びを犠牲にしているという主従が逆になっている状態なわけですね。物を買っても買っても、すぐに他のものが欲しくなる、とか他の人が持っていたら、欲しくなる、というのも貧困意識です。また、例えば、何か興味のあることを学びたいと思っていてもそのクラスをとって、それがすぐに役に立つかどうかクラス料金の元を取れるかどうか?などという目先の損得で考えるとなかなかクラスを受ける気にならずいつまでも変化できなかったり、何も生み出さなかったり。貧困意識の人は、決断力がなく、行動が遅い方が多いのは喜びのための選択ではなく、目先の損得で考えてしまうからです。さて、今、お金が不十分だと思っている人は、ほとんど貧困意識ですが今、お金が十分にある人が、貧困意識ではないかというと必ずしもそうではないんですよね~。私は資産と言えるようなものは、何も持っていませんが(資産は、音叉ぐらいだな~。いや、それより私自身が資産なのだ~~)⇨なんて言ってみた私のクライアントさんには、ビルなど不動産を何件も持っているとかレストランを何件も経営している、とか株を多く持っているとかいわゆる、資産家も何人もいらっしゃるのですが案外、セッションの中で、貧困の過去世などが、上がってきたりします。そうすると、やはり、お金があっても、やりたくない仕事をやって稼いでいてなかなかやりたいことには踏み出せないでいるとか入ってくるお金も大きいけど、出て行くお金はさらに大きく不安定とか 新たなビジネスを展開したいのに、リスクを負うのが怖くて進めないなどという、今の現実が生まれているんですよね。いくら、たくさんお金を持っていたって、やりたくないことをやっていたのでは何のためのお金なの?という話なのですが貧困意識があれば、失うことの恐れは常にどこかにあるわけですからどうしてもそうなってしまうのです。ですから、人生が上手くいっていると感じている人のほとんどは実際にその人がお金をどれだけ持っているか?ということに関係なく豊かさの意識ということになるんですね。貧困意識であれば「何を持っているか?」に常に意識があるため人が持っているものを羨ましいと感じたりいくら自分もいろいろ持っていたとしても、人と比較すると自分は、まだまだ不十分である感覚になります。先日も、クライアントさんで「友人が成功していると素直に喜べなくて逆に嫌な気持ちになるんですよね」と言われていた方がいましたが貧困意識であれば、例え喜んであげたいと思ったとしてても「自分は不十分」なので、妬ましく感じてしまうわけです。人の成功や幸せを喜べないのは、とても苦しいことだと思うし幸せ感や喜びの人生とはかけ離れて行きます。「清貧」ー清く貧しくーというのは実際にはないわけで本当は「清豊」ー清く豊かーだなあと。また、貧困意識は、分離意識とも言えるかもしれません。無限の豊かさ=ソースから分離しているわけですから。貧しいと、助け合って生きるというイメージがありますが案外、貧困意識の人は、人に迷惑をかけてはいけないという思いで、甘えられない、頼れない人が多いんですよね。お金を持っていなくても、旅先でいろんな人と繋がりながらそこにステイして、世界中をあちこち旅しているケントくんみたいな人を見るとお金と自由さは関係ないなあと、つくづく感じます。さて、私はキネシオロジーを始めてからいや、正確には、自分の経験からだけではない深い意識レベルに目を向けるようになってから、自分の中(とも言えないけど)の貧困意識にも気づいてその度に解放しつつ、年々、さらに豊かさの意識は高まっているなあと感じていますが基本的に、若い頃から、周りの友人や知りあいがお金持ちや豊かな人が多かったこともありまた、私自身が「人のお金は自分のお金、自分のお金は人のお金」みたいな意識でいたこともあって自分がお金を持っていなくても、意識はなぜかお金持ちの感覚でいたのがつくづくラッキーだったなあと。(まあ、いわば勘違いでもあるわけですけどね )20代、30代は、実際にお金はなかったですがいつもやりたいことはすべてやれてきたのもその意識でいたからなんですね。もしかすると、この話も何度も書いたかもしれないけど私が、初めてニューヨークに来た時も、貯金はゼロ。というより、むしろマイナスで当時、楽器などカードのローンもたくさんある状態だったわけですが友人や知りあいの人たちから、寄付してもらって誰も知っている人がいなかった、このニューヨークに一人で移住してきたわけです。そして、着いて生活必需品を買うと全財産500ドルだけだったことを覚えていますが思い出す限り、不安というものはなかったのは意識のどこかで、人と繋がっている感でいたからなのかなあと。(ま、その頃、どう感じていたのか、記憶は確かではないですが)実際に、ニューヨークに暮らしてしばらくしてから楽器が欲しいな~と思い始めた頃、知り合った友人が使わないシンセサイザーと録音機材を貸してくれたりレコーディングしたいな~と思えば、無料でスタジオを貸してくれる人が現れたり、3万ドル必要な時には、投資してくれる人が現れたり。もちろん、友人に食事をおごってもらうなんてことはほぼ日常のことでした。(当時は、まだ役立たずゲーム真っ最中だったしね)これまでの人生で、お金だけに限らず、たくさんの人にお世話になったのですがお金は循環するエネルギーだというのは、10代後半から知っていたので感謝はあっても、申し訳ないという気持ちは持ってなかったなあと。だって、受け取ることも喜びであり、与えることも喜びであるのですから。受け取ることは、相手に与える喜びを与えていること、なんですよね。先日「甘えることを学ぶために、勇気を出してクラスのお金を寄付してくれるようにFBで呼びかけたい」という方がいらっしゃったんですがその方の呼びかけ文では、ヒーリングを学んで人を助けたいから、そのためにクラスを受ける必要がある、という「お金を受け取る理由」を書かれていました。(結果的にアップはされなかったのですが)「人を助けるために必要なお金」として大義名分を掲げている限り全く、甘える学びにはなっていないんですね。甘えることができる人は、何も受け取る理由がなくてもまた、勇気を出して告知しなくても周りの人たちから、いろんな形で受け取ることができるのです。日本人は世界一、貯金する国だそうですが私は全く先のことを計画できない母の影響なのか若い頃から、貯金しなければ、という発想は、ほぼゼロでした。・というより、どちらかといえば貯金をしたら、エネルギーが’滞るのであまりよくないという感覚でいたのが長かったなあと。お金に対する感覚は、その人の本質的な意識と関わっているので同じような感覚の人とつながるんですよね。もう20年以上前ですが、幾つかのサロンを経営しているオーナーで、親しくしていた友人が「お金は油断をすると、すぐに貯まって(溜まって)しまうから気をつけないと」と言われていて「おぉ、その感覚、好きだなあ」と思ったことを今でもよく覚えていますが私の場合、当時、入ってくるものも少なかったので貯まらないように気をつける必要もなかったのですが将来のために、今、やりたいことを抑えて貯金する、いう人の感覚は全く理解できませんでした。だから、昔から、友人や周りにお金の不安を持っている人は、ほとんどいなかったのだなあと。とはいえ、実は、この「お金が貯まるのが怖い」という感覚も探っていくと、貧困意識の裏返しだったりするのですけどね。私の場合は、成功して妬まれたという前世的、集合無意識的なエネルギーとかなり多く繋がっていたこともあって意識のどこかで、お金を多く持つことなく、循環している状態でいたいというのが無意識にあったわけですがこのあたりは、ここ最近になって、ようやく解放できたところかもしれません。(まだどこかに残っているかも、だけど)私の貧困意識はお金に困っている人に同情するということに出ていたので、以前、何度かそういう人に無料でとか安くしてセッションをやってしまったりしたことがあリました。同情やギルティ感からではなく、ただサポートするのが喜びだからやっていることは問題ではないのですが、同情するということはその人のお金を生み出す潜在的な力を信頼していないということであって逆にその現実(のように見えるもの)を生み出してしまうわけです。そういう過去世や集合無意識と繋がっていると、時々感情的にどうしてもやらずにはいられなくなったりするわけですね。 与える喜びは、与える側に、同情やギルチィ感や義務感がないからこそ純粋に感じることができるし、そして相手も申し訳ないという気持ちからではなく、受け取る喜びとなり豊かさのサイクルとなるのです。私の場合、貧困の過去世もありましたが、過酷な労働をやった過去世がかなり多くて、一時期、自己ヒーリングで毎回のように上がってきていました。特にヒーラーとしての使命を持った過酷な労働の過去世は、一体どんだけ~とほとほと呆れるほど。いくら好きなこととは言え、過酷な労働であれば寿命を縮めますからね~先月、予約を取らないことに決めることができたのもそのあたりの過去世が解除できたからかな~と、思っているのですが。ということで、2017年は私と出会う人、つながる人の全てが、さらなる豊かさの意識で自由に生きてゆくことができる世界をクリエイトするためにさらに私も豊かさの意識を高めて参りたいと思います~
2017年01月10日
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昨日、小さな決断をしたので、そのお話を。少し前に、自己ヒーリングを行った時に「今はもう必要のないものを手放す」というのが情報として出てきてそれは物ではない、事柄だと身体から伝えてくるのですが今、やりたくないことなんて、何もやってないしな~と何も思いつかずその時は、それが何を示すのか、よくわからないでいました。一方、少し前に来年8月の予約が終了し、9月もあっという間に埋まっていってこの数日で一気に9月前半までの予約枠がすべて終了してしまいました。2~4月はハワイに滞在するし9月後半から、10月末までは、キネシのクラスや日本滞在のために通常のセッションはお休みなので、その他の月の予約枠はすぐに埋まってゆくわけですが次の予約を取るとしたら、来年11月からになってしまいます。そこで昨日の朝、起きがけにふっと湧いてきた選択が「今後、これ以上は、もうセッションの予約を取らないでおく」ということでした。この決断をする前にも、もう今の予約システムが機能していないことを伝えるメッセージはいくつもありました。例えば、先日、予約を忘れてしまって、セッションをミスされたクライアントさんが数人、続けていらしたこともそうでした。中には、時間を無駄にさせて、申し訳ないからキャンセル料を支払います、などと言ってくださった方もいましたが、随分前に予約されていて私もリマインドのメールは送っていないので忘れてしまうのも自然なことですし家がサロンなのですから、待っている時間を無駄しているわけではないので私としては、忘れられても特に問題はないため、キャンセル料などは頂かないでいます。でも、とても楽しみにしていて残念だから、他の日に振替えられないでしょうか?と言われると、私の休みの日以外は、もう他には当分、空いていないので入れることができないケースもあり長い間待っていてくださったのになあと、すっきりしない感が残るのです。また、例えば、新規の方のセッションをした後その方が、病気や身体の不調などの問題を抱えていてすぐにまた別のセッションを受けたいと言われることも多く私も何回か続けて行えば、体調が改善されることがわかっていることもあってそういう方には、セッションをすぐにやりたい気持ちで一杯になるのですが次の予約は10か月後、というのも何だかな~とすっきりしない感じがありました。 すっきりしない、ということは何らかの変更が必要、ということなんですがそれでも、先の予約を取っていたのは定期的にセッションを受けたい人たちがいることそして、日本から来られる方たちが、前もって予約を入れておかなければ、ずっと受けれないことになってしまうことというのがあったからでした。そして、私自身、セッションをすることは喜びであるので予約が先まで入っていること自体はそれほどストレスにはなっていなかったこともありました。でも、それがいよいよ変更の時期に来たのだなあと。今が12月で、来年11月までの予定が決まっている状況はやはり自由さを失ってしまっているわけですし結果的にクライアントさんへの対応もフレキシブルには出来なくなってしまっているわけですから。その決断をした後、この選択にわくわくしている自分を感じています。来年11月から自分が何をしたいと感じるのか、それも楽しみなのです。やっぱり、もっとセッションをやりたいとなればクライアントさんに一斉メールを送って、1か月ごとぐらいの予約を取るのもいいしどこかに長期で旅をするのもいいし音楽制作をしばらく集中的にやるのもいいし日本滞在を伸ばして、キネシオロジーのクラスをニューヨークや東京だけでなく、福岡など他の土地でやってみるのもよさそうだし、、その時になって決める、という自由さを味わってみようと。その決断をした後、この決断に関して引いてみたマップカードが「Wishing well 」の正位置。「願望は人生を生み出していくために、最も重要な衝動です。今、あなたは願望とひらめきの関係を見て、新しい人生の開始を予感し真実の瞬間を感じているでしょう。このカードは、新しいことが始まる目に見えない力の存在についてあなたを目覚めさせます。あなたの意図を形づくり、願望の井戸にコインを落として行動を起こしてください。驚かされることを覚悟しておいてください」わ~い どんな驚きが待っているのかしら。ということで、当分の間、セッションのご予約は受け付けないことになりましたので、どうぞよろしくお願いいたします~。(今、入っている分は大丈夫です)あ、もちろん、おさむの方は予約をいつでも受け付けていますのでぜひおさむのセッションを受けられてくださいね。 さて、明日は冬至。 冬至は、身体のデトックス、人間関係のデトックス、物の処分エネルギー的な浄化などデトックスには最適の時期です。例え、以前は必要だったものでも、今は不要になったものや事柄を手放して新たな年を迎えましょうね
2016年12月20日
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このところ、ノンデュアリティだ、宇宙人だという話題が続きましたが 今日はまた全く違う観点から、書いてみようかと。 あらゆることは、見る観点や次元を変えると 全く違った話になってくるわけで、何とでも言えるわけなんですが 全体的なエネルギ-として伝わるといいなあと。 時々「自己価値を高めるにはどうしたらいいのですか?」 とクライアントさんから質問をされることがあるので これまで何度も伝えてきたことですが、再び、自己価値について。 何度かお伝えしてきたように 自己価値、というのは、私たち人間を形成している一つの意識で 「自分が(例え、何もしなくても)そのままで存在価値があるという感覚」 のことだと私は捉えています。 このことは、キネシオロジーのクラスでもお話しするのですが これは頭で言葉として意味を理解できていても、多くの人は それを感覚として理解しているわけではないんですね。 なので「自己価値を高めるために、~~しなければ(私は不十分)」ということ自体が すでに自己価値が低い、ということになってしまうので この意識のまま何をやっても、自己価値は低いまま ということになるわけです。 ですから、どうしたらいいのですか?と聞かれれば 「特に何もする必要はありません」としか答えることができないわけです。 そもそも自己価値というのも一つのエネルギーである以上 それを紐解いていけば、例えば、脳の要因だったり、親からの遺伝の性質だったり インナーチャイルド(子供の頃の意識)だったり 前世のエネルギーだったり、はたまた惑星のエネルギーだったり 色々な次元やレベルでの要因が関わっているわけです。 ですから、私のセッションでは その意識に関わる様々なエネルギーを 本来の自然なものに戻してゆくプロセスを行うことで 結果的に自己価値も高まってゆくようにするということで 何か考え方や捉え方を変えているわけではないわけです。 それでも、セッションを受けること以外にできることは?と聞かれたなら 私がお勧めするのは 「役立たずになること」だなあと。 つまり 「役立たずの自分を受け入れ、愛すること」 自己価値を受け入れている意識自体は、人の役に立つ、立たないには関係ないのですが 人の役に立ちたい、と願っている人、もしくは 人の役に立とうと頑張っている人の多くは 根底には自己価値の低さがあり 人の役に立つことで、自分の価値を(自分で)認めたい、という意識が あるからなので、一度、徹底して、役立たずでいる、というのは 自己価値を高めるプロセスとしては、決して悪くないわけです。 人の役に立つのは難しい、と思っている人は多いかもしれませんが 実は、役立たずになる方が、難しいことかもしれません。 ということで、自己価値を高めるゲーム 題して「役立たずゲーム」のルールをアップしてみると。 (ゲームですから、遊びですよ、遊び ) その1)役立たずですから、人の期待に応えて何かをしたら、減点です。 その2)人を喜ばせてしまうと、減点です。 その3)どんなことであれ、本当は自分がやりたくないことをやると スタ-ト地点に戻ります(スゴロクか?) その4)自分でもできることを、人が代わりにやってくれたら、得点。 その5)あなたって、わがままな人よね~と友人や家族やパートナーから言われたら、得点。 その6)あなたって、いい加減な人よね~と友人や家族やパートナーから言われたら、倍得点。 その7)人が自分に何かをやってくれた時に相手にお返しをしようとしたら、減点。 をの8)自分が何もやってないのに、相手から与えてもらったりやってもらっても 何も罪悪感を感じなかったら、さらに得点。 その9)人から頑張ってるね~と言われたら、減点。 その10)友人や家族やパートナーから、あなたって本当、何もできない人ね~、とか 何も知らないんだなあ~などと言われたらボーナス得点。 その11)そんな人の役に立たないでいる自分が、むちゃ大好き~と感じられたら、ゲーム終了。 ぷぷ、こうして改めて書いてゆくと笑えますが 私は、このゲーム、高校生の時から30代前半ぐらいまでやっていたんですよね~。 もちろん、当時は、自己価値を高めるために、と思っていたわけではなく 全くの無意識でやっていたのですが、今から思うと、この時期が私にとって 自己価値を高めるという、癒しの原点だったのだなあと思うわけです。 自己価値というのは、人との関係の中で自分が感じている感覚であるので 人と全く接しない人は、ゲームそのものができないんですけどね。 小学校の頃の私は、自分のことが嫌いでした。 多分、私の人生で一番、自分のことが嫌いだった時期だろうなあと。 なぜかというと、成績も良かったし、先生にも気にいられていて いわゆる優等生だったからです。 今から思えば、私は、例えば、算数などで難しい問題があると 寝るのも忘れて、夜中まで夢中で解いていたり、夢中で本を読んでいたりしていて 単に勉強が楽しかったんだなあと思うのですが それを母がよく「本当あなたは頑張るわね~」と褒めたことで 「え?これって頑張っていることなの?」とわからなくなり だんだんと「私は親や先生にほめられるために勉強をやっているのかしら?』 と、自分の気持ちがわからなくなったわけなんです。 これは以前にも確かブログで書いたかもですが、小学校5年の時に、 先生に「みんなが抱えている悩みを紙に書いてください」と言われて 初めて人に打ち明ける気持ちで書いた内容が 「私は自分をまるで偽善者のように感じていて、自分のことが嫌いです」 ということでした。 あ、話は逸れますが、私は子供の頃、将棋が大好きだったんですが 数学や将棋を解いていく楽しさというのは まさに、今、私がキネシオロジーがワクワクする感じと同じなんですね。 数学で、宇宙の成り立ちやも説明できるわけですし 黄金律やフィボナッチ数列など、花や貝の作り一つを取っても 数字で表されるわけで、数字は自然であり、宇宙であり、エネルギーだなあと思っているのですが 一方で、将棋も羽生さんの脳などを見ると、直観力が普通の人より飛び抜けているそうで 数学も将棋も論理的な思考とともに、直感的なものが 何よりも大切だと思うわけです。 私は、そう言った意味で、自分のことをヒーラーやセラピストというよりは 研究者やオタク?に近いと思っているわけですが 子供の頃、夢中で算数や将棋をやっていたように 人の身体や精神やエネルギーの仕組みを紐解いていくのが楽しいのだなあと。 と、話を戻しますが、小学校の時に 自分のことが嫌いだった私が やりたくないことはやらない、人の期待には沿わない、人に尽くさない、ということを 実践するようになってからは 自分のことが諸手を上げて、大好きになってきたわけです。 自分が大好きになると、人のことも大好きになるんですよね~。 人の期待には添わない、と決めてからの私は 今から思うと、まるで反抗期の子供であって 例えば、大学のクラスで、バイオリンが嫌いだ、となると いくら先生からバイオリンの練習をするように言われても、全く練習して行かなかったり 会社に入って、上司が会社内では帽子を脱ぐように、と言われても 脱がなかったり まあ、今から思えば「クラス受けるんだから、練習ぐらいしろよ」とか 「社内で帽子ぐらい脱いでもいいんじゃない?」って話なんですが その頃の私にとっては、徹底して 人からの期待や要求に応えないでいる必要があったわけです。 それが反抗期の子供と違うのは、決して相手に反抗しているわけではなく 自分がやりたいことでなかったらやらない、ということなんですが クライアントさんを見ていると、反抗期がなくて、ずっといい子でいたり 親や周りの期待に沿っていた人のほとんどは 自分の感覚とつながることが苦手で、内観力が弱い傾向があります。 さて、このゲームでは、頑張ると、減点対象ですから 思い返せば、長い間、人から「頑張っているね」と言われると 「頑張っているからやっているんじゃない、好きだからやっているの」 ということを一生懸命、説明していたよなあと。 相手は単に軽い気持ちで激励してくれているだけなんですが 私にとっては、頑張っていると認められるとまずいわけで一生懸命、それを否定していたわけですから 今から思うと、それも笑えますが。 以前、おさむにもよく「のりこは、ほんと人の期待に応えないやつだな」と 言われていましたが、それは内心「やった~得点」 という感じでした。 こうして「役立たず」を実践していく中で、わかってきた感覚というのが 私は何て愛されているんだろう、ということでした。 大学時代も、私は学校の授業もろくろく受けず、バイトに明け暮れていたんですが クラスのみんなは、テストの前になると、ノートを持って 私の家までやってきてくれたり 軽音楽部の先輩からや仲間からも、そして会社に入ってからも いつも周りの人たちに愛されていることを 感じていました。 ニューヨークに来た後で、当時付き合っていた彼によく 「のりこは、ほんと経済力も生活力もないな~」とか 「のりこは、普通のことができないよね」 と言われていたですが、私にとっては、それはもう最高の愛の表現でした。 それは、もちろん本当にできないわけではなくて、やろうと思ったら 本当は何でもできるわけですが 何もやらない、役に立たない、何も尽くさない私を愛してくれている というのは無条件の愛であって そして、私も無条件に人を愛することを学んだわけです。 この「例え、自分でできても(やりたくなければ)やらない」というのは 特に女性には、大切なことなんです。 自己価値の低い女性は、男性に尽くすことで 愛されようとします。 でも、そうすれば、彼に認められたとしても 女性として大事にされなくなってゆくわけです。 例えば、力仕事や高い場所での電球を替える、というようなことがあって 女性が自分でもできるから、といつもやっていると 「僕がやらなくても、君はできるから」 となり、男性は女性のためにやってあげたいという気持ちを 失ってゆくわけですね。 自己価値が低い人は「できなければ自分はダメ~」という意識でいるので 自分ができることをやろうとしてしまうんですよね。 セッションを通じて、いろんな女性の身体からのメッセージを聞いてゆくと 例えやりたくなくても、自分でできるから、という理由で やってしまっている方がとても多いなあと。 できないからやらないのは普通ですが できてもやらないのが、自己価値の高さ。 この自己価値が高いと、今度はできなくても、やりたいことはやる ということになるんです。 失敗することを恐れるのは、失敗=自分はダメな人間、となり もともと自己価値が低い人(自分で自分の価値を受けれていない人)は それによって傷つくことを恐れているからです。 自己価値の高い人は、何かができないことが自分の価値を下げることには 繋がらないので、失敗することも、できないことも怖くないのです。 何かを達成しなければ、という意識も自己価値の低さからくる意識です。 例えば、筋反射。 最初のうちは、誰でも、はっきりと感覚がつかめず、よくわからないのは当たり前で 多分、私も最初の500回ぐらいは、曖昧な感覚があったわけですが 自己価値が低い人にとっては、できない自分はダメ、となり その自分を見たくはないので、すぐにチャレンジすることをやめてしまうわけです。 どんなキネシオロジーのクラスを受けても、すぐにやめてしまう人がいるのは そのためです。 クラスを受ける前には 「自分で筋反射が取れるようになって、生活のあらゆる場で活用できたら どんなに楽しいだろう」とワクワクして受けたとしても クラスの後、もう1か月ぐらいで、モチベーションを失ってしまったりするのです。 自己価値が低い人は、人に尽くさないと自分の価値はないわけですから 筋反射が上手く取れないと、相手に申し訳ないと感じたり 人に役立つ自分でいたいので、これは自分には向いてないかも? とすぐに諦めてしまうんです。 私も今回、クラスをやってみて 特に自己筋反射はその傾向が強く出ることがわかってきました。 私のクラスの中では、自己筋反射と他の人への筋反射を学ぶのですが 他の人への筋反射はできるのに、自己筋反射は取れない、という人たちが 何人かいることに気づきました。 これはどういうことなのか?最初はヨゥわからなかったのですが クラスの後、そういう人たちに何人かセッションを行って 全員に共通していたのが、人に尽くさなければ、人を喜ばせなければ の意識が強く、基本的な自己価値が低いということでした。 人を喜ばせなければ、という意識が強いと、自分がどうしたいか、ということより人のためになること選んでしまうので、自分の本当の感覚を受け取る力は弱くなり当然、ハートチャクラは閉じてしまって自己筋反射は上手く取れなくなるんですよね。 逆に自己価値が高い人は、まだ感覚を掴めないな、ということを受け取るだけだし 逆にできないことにチャレンジすることが楽しい、と感じるわけです。 クラスが終わった後、どんどん筋反射を使って、自分を解放していったり 様々な場面で活用していく人と そうでない人の違いは、最終的には、自己価値だなあと感じます。 私がクラスの中で、筋反射は自分への信頼がすべてです、とお伝えしているのは 「自分はできている」ということを信じる、ということではなく 「(例え、今は上手く掴めていない状態であっても)私は大丈夫」 という信頼と安心感があるということ。 それは決して、頭だけ理解していても、わからない感覚なのです。 こうして、人生のどの時期でも、このゲームを一度、クリアしてしまえば 基本的に、怖いものは何もなくなります。 役立たずの自分を愛し、自己価値を受け入れてくれば 初めて、自分が本当は何をやりたいのか?がはっきりと見えてきます。 その意識からの行動は、さらに大きな喜びのエネルギーを生み出すのです。 「役立たず」を受け入れ、愛することで 結果的には、人の役に立つようになる、という宇宙の仕組みになっているんですよね~。 一旦、役立たずの自分を愛する、ことが十分にできた上で人の役に立っても自己価値は失なわれないのですが最初から人の役に立っている状態、もしくは立たなければ自分はダメだと感じている状態はまずいわけです。 さて、私は役立たずゲームを散々やってきた後で 出会ったのがおさむ、だったというわけでそれからは、また違った問題が出てきたわけですが その時期も越えて、ようやく私の女性性と男性性のバランスも取り戻し ここ最近、やっとあらゆることのバランアスが取れてきたなあと。それでも ヒーラー業というのは、つい「役立つ喜び」に行きがちなので 修に思いっきり甘えつつ、役立たずになりつつバランスを取っているわけです。 ということで、この人生、まだ一度も役立たずゲームをやったことがない方は 一度、トライしてみてくださいませ~。 (その効果や結果については、保証しかねます。よって返品自由 )
2016年12月06日
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さて、ノンデュアリティの大和田菜穂さんのサットサンですが感想をアップするのはやめようと思っていたものの何度か、筋反射で身体からのメッセージが出てきたことと先日、何気に引いたマップカードが「自分の失敗もさらけ出し気づいたことをシェアする必要があります」という、まさに痛いところを突いてくるな~というものであ~やっぱり伝えるのか~と。こんなことを書いたら申し訳ない、なんて気持ちこそが幻想であることもわかっているのですけどね ブログという媒体を通じて発信するのは、個人に関わることは本人の了承がない限りは、アップできないわけですが菜穂さんの場合は、個人がいない、誰もいない、という意識の方なので問題は何もないものの、そこに関わって来られた方たちのことを思うと今一つ、腰が上がらなかったわけです。 とはいえ、そういう感覚もストーリーでしかないわけでもうぶっちゃけ〜で行きます もちろん、これはあくまでも私とおさむの意識を通じて感じている 「デュアリティな」感覚と言えるかもしれないのでいわば、私たちのストーリー、夢物語だと聞き流してもらえたら幸いです。さて、お会いした菜穂さんの第一印象は、ごく普通の可愛らしい女性という感じでした。私はランチの時に彼女の近くに座っていたので「パリの住み心地はどうですか~」という質問をしたのですが「住みにくいですね~」というお答えでした。「どうしてですか?』と聞いてみると「日本と比べて何もかもスムーズではないんですよね」というお答えで、ここだけ取ってみるとごくごく普通の会話でした。ノンデュアリティの意識状態にある人というのはいつも圧倒的な祝福と喜びと一体感の意識状態にいる人みたいなイメージがあったのですがそういうのとは違うのですね。。以前、私が何度か体験した一瞥体験や至高体験みたいなものはその度に感覚は違っていました。壁や他のすべてのものと境目がなく、一体化していた時もあれば過去と未来と今すべてが今、この瞬間に存在していて意識を向けた瞬間に全てそこにある、という感覚だったりまた、この身体というものを超えて、私は生命そのものであったのだ~という圧倒的な祝福のエネルギーが溢れてきて、涙が止まらなかったり清水友邦先生のリバーシングの時には、自分が巨大化していくようだったり体験が終わった後も、通り行く人すべてにハグしたい衝動だったり その時々によっていろいろでしたがどの体験にも共通していたのは、ハートが完全に開いた状態になっていたという事そして 、すでにこの感覚はずっと知っていたやっとここに戻ってこれた〜という絶対的な安心感の中にいたということでした。「私はいない」というより「すべては私」という感覚に近かったです。 そういった過去の体験から、ノンデュアリティの意識状態の人は変性意識状態ではなくても、常にハート全開の状態になっていると勝手なイメージがあったのですが菜穂さんに会ってみてすぐに感じたのはそういうことではなく、ただ彼女は「私はいない」という感覚でいる、ということでした。サットサンは、まず彼女の言葉は「先ほどの、たまちゃんの料理はどこに行ったのでしょうか?」という問いかけで始まりました。「それはどこにもないのです。何も起こっていないのです」という言葉でした。それを聞いた瞬間、さっきまでのたまちゃんの料理によって感じていた暖かな優しい感覚を、まるで打ち消されたかのような虚しさが一瞬起こりましたが、もちろん、彼女が伝えているのは「体験したと思っていることも、実際は起こっていないなぜなら、それを体験する個人がいないから」ということであるしその言葉自体にも意味はないわけです。彼女は、「私はいない」「何も起きていない」「体験している人がいない」「ただ湧いているだけ」という、メッセージを繰り返し、伝えられていてメッセージそのものには、違和感はなかったのですがただ違和感を感じたのはその場にいると、ハートがどんどん閉じていくと’いう私の感覚の方でした。その時は、多分、私はこの場の参加者のエネルギーを受けてしまって私の中の何らかの問題(エネルギー)が出てきているのかなと思っていました。サットサンが終わった後で、親しい方が「メッセージはわかるんですけど、何かこのあたり(ハート)がモヤモヤするんですよね」と言われていたのですが私もそのモヤモヤ感を感じていたにも関わらずそれは菜穂さんとは関係ないところで起こっているのだろうと思っていたわけです。そして、その日、私は家に戻ってから、急に感情が爆発してそれは最初は、おさむに対する不信感として出てきました。いきなり「もう何もかもいや~!すべてが虚しい。もうおさむと別れたい~~」などという言葉が私の中から突然出てきて、半分の意識では「おいおい、何でいきなりそうなるのよ。それ、おかしいだろ~」と感じているのですが、その感情の爆発はどうにも止められないのです。最初、なだめていたおさむも、次第にその感情に反応して『じゃあ、俺にどうして欲しいっていうんだ、一体何が不満なんだ?』と怒りながら、聞いてきた時にす~っと、その怒りの感情がなくなっていって「え?どうして欲しい?」「え~と、う~ん、優しくして欲しいの、かな?」と自分で言いながら、ぶぶ、とおかしくなって笑い出しおさむも「俺はいつも優しいよ~」といつもの二人に戻ったわけです。 そして「私、絶対におかしい〜、調整して〜」とそのまま、おさむに軽くセッションをしてもらい幾つかの男性からの抑圧に関する過去世のエネルギーが出てきてそれを解除し、とりあえず、落ち着いたのでした。それにしても、おさむは特に何もしていないのになぜ急にそんな感情の爆発が起こったのか、私の中で何があるのかわからなかったのですが、その時はそれ以上、見ませんでした。そして、その次の日から2日間、おさむは菜穂さんのサットサンでサウンドヒ-リングを行いました。私はセッションで2日間とも行けなかったわけですがどこかでその場所に行けなかったことにホッとしているのを感じました。なぜか「あの空間にはいたくないな」という感覚があったのでした。 そして、2日間のサットサン&サウンドヒーリングが終了しその翌々日、おさむが「俺、ノンデュアリティ・シンドロームにでもなったのかな?何だか、すべてが虚しくて、何もやる気がしない。いつもはセッションも楽しいのに全く楽しいという感覚が湧いてこない何もかもが虚しい感覚なんだよね」と言い出したので「ぶぶ、きっとサットサンの会場で、他の人のエネルギーから何かもらってきたんじゃないの?」などと言いつつ、では、さっとセッションして浄化しとく?とおさむのセッションをスタートしたわけです。ところが、セッションをスタートしてみると、何やらいつもとは様子が違います。何か強烈なエネルギーがそこにはありました。「何なの、このエネルギーは?」と、あれこれとスキャンリストから選ばれた中に「洗脳」というワードが上がってきました。「え?洗脳?』と意味がわからず、さらに詳しく’見ていくうちに様々なワードが上がってきて、それらを統合してみていく内に少しずつ何が起こっているのかが観えてきました。もちろん、菜穂さんは何の意図も意思もないわけで彼女に洗脳されていたわけではなく菜穂さんから発していたあるエネルギー体に、洗脳、ではないけれどそれに近いほどの強い影響を受けたということでした。そのエネルギー体が一体、何であるかも、はっきりと出てきたのですが(ここで言わなくてもわかる人にはわかるかも)それらのエネルギー体は「ピュアさ」「人を見下す」「人を愛せない」「冷酷さ」「特別意識」という性質のものでした。そうして、私が菜穂さんに会って漠然と感じたものが何だったのかも次第にわかってきました。菜穂さんが、もともと、つまりノンデユアリティの意識になる前から人との共鳴力が低く、自分の感覚を受け取りにくい性質や脳であることはこれまでたくさんん方の脳や性質を見てきたので、何となく気づいていました。だから、何も質問する気が起こらなかったのだなあと。質問しても、この人は言葉の真意を受け取らない、理解できないという感が半端なくあったからです。ノンデュアリティの意識だから、彼女のような答え方になるのではなく、もともとそういう性質や脳なので参加者の質問に関しても、それぞれの意識に合わせてわかりやすく話をすることはできないわけです。というよりは、彼女は発信している、という意識にはいないのでわかりやすく話をしようという気もないわけですね。もちろん、それが決して悪いわけではなく、そういうのも一つの表現として面白いな〜と思っていたわけですが確かにわかりずらいわけです。例えば、菜穂さんが「たくさん批判のメールが届くのよね~」と言って、ケラケラ笑った後に参加者の一人が「それでは菜穂さんは、批判のメールが来た時にそれをどう捉えるのですか?」という質問をしました。「ふ~ん、という感じかな」と菜穂さん。その方は「それじゃあ、そういうメールが来てもふ~んと捉えておけばいいってことですね?」「実際は、ふ~んとも思っていないかな。何も感じない」と菜穂さん。きっと、これでは伝わらないなあ~と漠然と感じていました。 そもそも批判されている、ということ自体が個人としての意識であり菜穂さんは、私という感覚がないので批判されている、という認識そのものがない、ということなんですよね。でも、もし、批判された〜と感じているのにも関わらずそれを頭でコントロールして、何も感じないようにしようとしてもそれは、自然な感覚や感情が抑圧されるだけだなあと。「批判する人は、何か人のせいにしたいのよね」と菜穂さん。それで、気づいたのは、菜穂さんは「私はいない」という感覚でいるのですがだからといって、ワンネスや一体感の中にいるわけではないということでした。 菜穂さんが、感受性が強く、繊細で臆病な子供だったというのも今の彼女を見ていてよくわかるのです。 人との共鳴力やつながり感がなければ、世界は怖いものにしかないからです。おさむの身体から出てきたものは、菜穂さんに存在しているエネルギー体の影響ですがこれは菜穂さんの身体にアクセスしているわけではないので彼女がどうなっているのか?はわかりません。ただ、そのエネルギー体がどう言ったものかはわかります。 例えば、野生のトラやキリンが「自分はこうしたい」などという個別の意識がないのと同じようにそのエネルギー体にも、分離意識はないものでした。ある意味、一体感というのは、分離した個人という意識がベースにあってその上でつながっていると感じている人間特有の感覚であって動物は一体感を感じているわけではなくただ全てがある、という感覚でいるわけですね。菜穂さんが言われているノンデュアリティの意識がそこにありました。 そして、それは何も邪や悪意はなく、ピュアなエネルギー体でした。面白いことに、このサットサンの後たまたま友人から別件でメールがあり「菜穂さんのサットサン行ってきたよ~。おさむちゃんのサウンドヒーリングよかった~」というので「正直、サットサン、どう感じた?』と聞いてみると驚いたことに、彼女は私が筋反射で導きだしたエネルギー体の存在を、菜穂さんの目を見ていて気付いたのだそう。すごいな~。私はといえば、ミカさんのメールの「あの人は本物だから」という言葉が意識のどこかにあり「ミカさんの言うことだから間違いない」という先入観とも言える感覚となっていてそれがサットサンで、自分のハートの感覚を受け取ることを妨げてしまっていたわけです。確かに、ノンデュアリティ意識という意味では本物でした。ただ、そこに人間意識ではないエネルギ−体の存在があったというのは私はサットサンの時には、わからなかったのですが後で彼女の目や言動を思い出してみると、感じられます。そして、あの日、私の感情が爆発したのは、そのエネルギーの影響を無意識に手放そうとしていたのでした。ちょうど、昨日、ブログにアップした後一通のメールを頂きました。ブログ見ましたー。いや~ん、続きが気になるーっ、楽しみーっ な終わり方。そう思っているのは きっと私だけじゃ~ないはず、ですよ。サットサン。わたしは CRSでの初日に伺っていたんですがね。へ~、ふ~~ん、うんうん、うーむ、ん? ほー 、と 過ぎ去りサラリと流した感じで。あ、どんな人やどんなコトバに出会っても 必要以上に 揺さぶられることも持っていかれることもなくなってきてるなぁ、わたし♪ と思っていたのですが、翌日 まさかのじんましん。笑その後も、珍しく 子どもからの stomach flu しっかりもらっちゃってダウン数日、珍しく オットが仕事がらみで 頭から湯気出して怒ったことに わたしが ものすごくものすごくブチ切れたり、やたらと眠い日々そして、実際メチャ眠りが深い。サットサンの影響か、お月さまの影響か何か知りませんが~。こんなことも 意味はないのですね~きっと。ただ湧いているだけ なのですね~。ですか?ん?あは。 と、モロモロ カラダに出ましたが、それはそれとして これをおもしろく感じているのも、オモシロイと感じられているのも、IHとのりこさんに出会えたからなんだなぁ♡ わたしも 変わりました。というか、 戻った と言うのかな?これも面白い報告だな〜と。本当に何が起こっているのか?はこの方の身体に直接聞いてみないとわかりませんが多分、蕁麻疹や感情の爆発、深い眠りによって身体が自然にそのエネルギーの影響を浄化しようとしているのでしょうね。おさむは3日間、続けてサットサンに参加したこともあり洗脳だと身体から出てくるだけあって、そのエネルギーの影響はかなり強く調整は、結構大変で、もし今年の夏にカナダでアーキュトニックのレベル2、3を受けていなかったら調整することは、できなかったかもと思うほどでした。。私のセッションの後も、おさむは2度ほど、自己ヒーリングをしたそうですが、まるで魂が抜かれて、ハートがぽっかり穴が開いたような状態になっていたとのことでした。これは単に3日間一緒に過ごしたから、というだけではなくそのエネルギーを受けてしまう要因が、おさむの中にもあったからでだから、いくら菜穂さんと一緒にいてもみんなそうなるわけではないわけです。それで思い出したのですが日本に行く前に、ある方からメールをいただいてその方はサイキックの方なのですが菜穂さんのサットサンに何度か通ったそうでその後、何ヶ月も、虚しく何もする気がしないという感覚が抜けれなかったということでした。 そのメールを頂いた時には「まあ、新たな意識状態になる前にはそういうこともデトックスみたいなものとしてあるよね~」ぐらいにしか捉えていなかったのですが今、思えば、その方もそのエネルギーの影響を受けられていたのだろうなあと。今日の日記のタイトルに「ノンデュアリティの光と闇」とつけたのはもちろんノンデュアリティ自体は闇も光もないわけですが「ノンデュアリティのメッセージを聞く」という行為はどこからそのメッセージが出ているかによってまた受け取り手の状態によっては さらに二元の世界を複雑化していく可能性も大きいということに改めて気づいたからでした。ノンデュアリティのメッセージを聞いて、虚しくなったりまたは楽になったり、ということ自体が二元の世界にいるということなんです。 これも思い出したのだけど、東京のキネシオロジ-のクラスでの質問で「すべては起こっていない、などのメッセージを聞くと何をやっても意味がない、無駄だという感じがして虚しくなるんですがのりこさんは、どう捉えていますか?」というものがありました。本来ノンデュアリティは虚しくなるようなものではないのでなぜ、みんなそういう感覚になるのかしら?とその時は思ったのですが今回の菜穂さんのサットサンに参加して(あくまでも私の体験として)理解できたわけです。 このサットサンで、参加者の一人が「私はこれまで自分を高めようと、いろいろ頑張ってきたり努力してきてそれなりにやったと思っているんですがそれも全部、無駄だったということですか?』と菜穂さんに質問された方がいました。 それに対して、菜穂さんが答えたのは「はい、その通りです」 だけでした。 確かに、こういう質問自体が、この方が「何かを頑張って乗り越えることが自分の価値」というストーリーの中にいるということを意味しているんですが 菜穂さんの答えには、どの部分が「その通り」なのかという説明はなくただこの答えだけでは 、この方は、自分がやってきたことがすべて無駄だった人生は虚しいという(二元の)思いが生まれたかもしれないなあと。 では、このメッセージを聞いて楽になったという人はどうなのか?ってことなんですが。例えば、夫に虐待されている、とか、会社で酷い体制で働かされているとか、やりたくないけどやらなければ、などと自分が一体どうしたいのかわからない、この苦しい状況をどうしたらいいかわからない、という人たちが「ああ、私はいないのだ。だから、これを個人的に捉える必要がないんだ」と、頭でノンデュアリティを受け取ることで、苦しいという感覚を麻痺させ楽になるような気がするということがあります。でも、 それでは自分の意識は何も変わっていないので実際は、その「現実」に居続けることになるんですよね〜。 菜穂さん曰く、病気や痛みもただ起こっているだけそれが個人に起こっていると思うところから、苦しみがあると言われていて、彼女の父親もガンだそうですが苦しみはないとのことでした。確かにそれも真実なのですが一方で、病気というもの自体が人間の自然な姿からはずれているというのも真実なのです。この次元では、病気はただ起こっている、わけではなく本来の自分からずれた時に、身体からのメッセージとして現れているだけですから。 最近、私のところにセッションに来られる方の中には自分がどうしたいのか全く感じることができず周りの期待や周りがどうしたいか、というところだけでずっと生きてきて、結果的に病気になってしまった方が何人かいらっしゃるのですが、その方達の病気を癒していくために一番大切なことは「私」がどう感じているのか?「私」はどうしたいのか?を感じることなのです。「私はいない」というのと「すべては私」というのは本質的には同じことなので、私が何を感じているかを受け取りそれに従うことは、全体の流れでもあるわけです。 まさに昨日、ノンデュアリティ・ナビゲーターであるというジュンコ・セレンディーという方の動画を見たのですがこの方は、脳や身体の機能や心理学などからノンデュアリティを伝えられていてとてもわかりやすいです。この方の伝えられている内容は、「自分の中にすべての答えがある」「自分の意識=現実」というまさにキネシオロジー的ノンデュアリティ。ぜひご覧になってみてくださいね。 「私」という現象を語る。 人間はなぜ探求し、探求をやめないのか? 自分がこの現実世界を創っている? この2番目の動画で言われている「回避メカニズム」これは、キネシ的にはまさに「サバイバルプログラム」なんですね。まだ私も2、3つ見ただけなんだけどこの方の発しているエネルギーからは、人生は虚しいという感覚は生まれないんじゃないかな〜と、ご紹介することにしました。 ノンデュアリティ自体は私たちが本質的に持っている意識であって真実ですが、それを自分の外にあるメッセージとして受け取れば結局、二元の現実でしかない。 キネシオロジーでやっていることは自分の内なる意識にすべての答えがあってそれを身体からの声として見ていくと、これまで自分の潜在意識の中にあるどんなストーリーが今の現実を作っていたのか?が明らかになりそれをエネルギー的に変化させる(元に戻す)ことで自分の持っていたその感覚そのものが変化し結果的には新たな現実(世界)を生み出していく、ということ。 例えば、批判された〜、つまりそれが現実〜だと感じているのにふ〜んと無視しておこう、と感情や感覚を抑えてみても必ずまた同じ「現実」が出てきます。でも、自分の内を見ていけば「過去に批判されて傷ついた」という何らかのエネルギーが出てくるので、そのエネルギーを変化させると不思議なことに「批判される」という現実(のように見えるもの)がなくなってゆくわけなんですね。それは、少し前にも書いたように、その事実(ここでは批判)そのものがなくなるということかもしれないしもしくは、自分が批判された〜と勝手に感じていただけで実は批判ではなかった、とわかることかもしれない。でも、どちらにしても自分の意識(潜在意識、無意識含めて)が創り出している現実にしか過ぎないので例えば 、批判されないように相手に合わせたりなど、外に向かって何かをする必要は何もないということなんです。 って、ノンデュアリティのこと話していて、結局キネシの話になってるし〜〜 昨夜、おさむが作ってくれた美味しいお蕎麦を頂きながら二人で「食事って、最高に人間的だよね」と話していたのですが確かに、動物にとって、食事はただ本能で取るものであっても人間にとっては、様々な意味を持つしだからこそ、それが喜びにも、また不安にも恐れにもなり得るわけですね。動物も他のものもすべてノンデュアリティなのに人間だけがデュアリティの中で生きている。これってすごいことだなあと。それは、人間に与えられた制限とも言えるけれど一方で、その制限を持ちつつ、そこを超えてゆくプロセスを(個人ではなく)人間全体として体験していると言えるのではないかと。このゲーム、素晴らしくチャレンジで面白いから、ここにやってきているわけですね。人生は虚しい、何をやっても無駄、というストーリーも一時的には決して悪くないけどその二元から抜けると、最高にゲームは楽しいよ。 あ~やっぱり、むちゃ長くなった~。マイストーリーに付き合ってくださって、ありがとうございます
2016年11月20日
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さて、今回の日本での私の物語は、東京でのキネシオロジー初級クラスからスタートしたわけですが今朝、おさむがこのクラスの様子を写真つきでブログにアップしていました。この最後の写真に「倭姫のりこと大和撫子たち」というのがあって思わず笑ってしまったのですがこれはどういうストーリーなのか、ちょっとお話してみますね。彼女のことは、以前、ブログにも書いたことがあったのですが数年前に日本に訪れた時に、一度セッションを受けに来てくださった方がいてその時、彼女と初対面だったにもかかわらず、魂を揺さぶられるような感覚があり二人で抱き合って号泣したことがありました。それは、私にとって、初めて体験する感覚であってその感覚が一体何なのか、言葉では表現できなかったのですがきっと彼女とは過去世からの深いご縁があったのだろうと感じていたわけです。その彼女が、今回、クラスに参加してくださるということで再会を楽しみにしていました。そして、出会った彼女は、数年前と変わらず深い人間愛に満ちた方でしたが気づいたことは、私が以前と同じような感覚にはもうならなかったということでした。相変わらず、彼女のことは大好きなのですが、以前のような「苦しい時を一緒に分かち合ってきた仲間と長い年月を経て、ようやく再会できた」というディープな感覚ではなくまるで、先日、別れたばかりの飲み友達と今日も出会った、というような軽い感覚なのです。この数年の間に、私の中で何らかの意識が変化していたのを感じていました。でも、彼女の方は、まだその深い感覚を持っているのが伝わってきました。これはクラスの最後に一人一人感想を伝えてくださった時に彼女がお伝えしてくれたのですが彼女の中では、私は「倭姫(やまとひめ)」としての存在でありだから、クラスの最初の頃はおさむと私がクラスの中でいちゃいちゃしているのが(って、私は全くいちゃついたつもりはなかったですが)嫌だったということでした。彼女はサイキックなので、その過去世での記憶がビジョンとしてあったのでしょうが私にとっては、倭姫としての私というのが全くビジョンとしても感覚としてもないわけです。でも、その話を聞きながら、なぜか、直感的にその倭姫は巫女的な役割をしていた人なのだなと感じて、自然と受け入れている自分も感じていました。もっとも、私たちはありとあらゆる過去世(的なエネルギー)とつながっているので例え「過去世で一緒に奴隷として働いていました」と言われたとしても特に驚くことでもなかったでしょうし様々なつながりの中で、一つの過去世での物語に囚われても仕方ないわけです。そして、彼女自身、そのことはよくわかっていてこのクラスでを通じて、その物語が終わるのを感じたそうで最後に「今生の、のりこ(という存在の形)は最高です」と言ってくださったのが何だかうれしかったです。そして、今回、その話を彼女から聞いた、ということ自体が私にとっての物語の一つとなっていた、ということを後から気づいたわけです。その東京のクラスが終了して10日後阿蘇神社で、おさむが奉納演奏している時に私の中に何とも言えない、もやもや感みたいなものがわき上がってきていました。最初は、そのもやもや感がおさむの言動によって起こっている、と思っていました。というのも、奉納演奏の前に、宮司さんがお祓いをして、祝詞を上げてくださりその後で、参加者代表として、おさむが榊(玉串)を祭壇に供え二拝二拍手一拝するという作法がありました。で、おさむは、全く神道の作法なんて知りませんから玉串は根元を手前に置いてるわ、二拝二拍手一拝もわからないわ~で宮司さんがそばで、いちいち「二拍手」とか「一拝」と小声で指示しなければ、何もできない始末で私は後ろで見ていて「おいおい、榊の供え方はわからないにしても二拝二拍手一拝を知らないって、今まで何度、神社で参拝してきたんじゃ~」と心の中で、つっこんでいたわけです。そもそも、宮司さん立ち会いのもときちんとした奉納演奏を行うとはこの神社に着くまで全く知らず、たぶん神社の庭の隅かどこかで行うのだろうと私自身、汚れてもいいような普段着でやってきたせいもあって正装している宮司さんに対しても何とも申し訳ない気持ちというか、居心地が悪かったということもありました。でも、その挙動不審なおさむとは打って変わっておさむは奉納演奏になると、堂々として素晴らしく私もその音に引き込まれていったのですが今一つ、すっきりしなかったので後で、筋反射で調べてみたわけです。それで出てきたのが、巫女としての前世でありそのもやもや感は、巫女としてのプライドから来ている、と身体が伝えてきました。巫女としてのプライドって言われても巫女になったこともないのに、なんじゃそりゃ~という感じですがもしかして、倭姫と関係するの?と聞いてみても、答えはノー。それであれこれとスキャンリストから筋反射で見ていって出てきたのが、私の母方の先祖との(エネルギー的な)つながりでした。その時は、そこまでピンと来なかったのですが実家に戻った時に、さりげなく母に尋ねてみたわけです。私の母の両親、つまり私の祖父母は、神社の神主だったのですがその神社の成り立ちに関しても先祖に関しても、これまで一度も母に尋ねたことはなかったし、私は何も知りませんでした。そして、母が今回、初めて教えてくれたのは母の父の母、つまり、母にとっては祖母であり、私にとっては曾祖母に当たる人がいわゆる、今でいうサイキックであり、霊能者であり当時で言えば、巫女的な人で、神からのお告げということで人々にメッセージを降ろしていた人だということでした。そのお告げで多くの人たちが救われた、と集まってくるようになり正式な神道の家系ではないのですが、曾祖母は神社の神主として何百人もの信者たちを、一人で取りまとめて祭り事を行っていたそうで母も子供の頃、年に2回の祭りでは、100以上のお膳を作るのを手伝っていたそう。曾祖母は、とにかく、自分が持っているものをすべて人に分け与えるような人で、信仰心がないという母が「あの人は本物だったのね」と言ったのが、心に残りました。母の父は、長い間、市会議員をした後、神主を受け継ぎ亡くなった後は、母の母、つまり、私の祖母がそれを受け継ぎました。でも、母は、そういった特殊な家庭に生まれ育ったことが嫌で嫌で仕方なかったそうでだから、そういった話を一切、子供である私たちにはしなかったのでした。私が子供の頃、年に2回、神社のあった熊本の実家に戻った時には、毎日拝殿で家族全員で祝詞をあげていたのですが母が家で祝詞を上げたり、神棚に祈ったりするのを一度も見たことがありませんでした。「私は全く信仰心ないから」というのは、母の「普通の家庭に生まれたかった」という想いであり子供の頃からの抵抗だったのだなあと。そして、祖母が亡くなった後、神社は誰も受け継ぐことがなくなり今はすべて広かった境内の敷地も、一般の住宅として売られなくなってしまいました。母は、そういった家庭に生まれて、それが嫌だったにも関わらずその繁栄した神社が取り壊されてなくなってしまったことも淋しく感じているようでした。今回、母からその曾祖母の話を聞いた瞬間に神に身を捧げ、人に尽くしてきたその想いをひしひしと感じて私の中にわき上がる想いがありました。そして、筋反射で調べて、わかったのが私が(無意識レベルで)つながっていたのは、その曾祖母でありそのつながりが、これまで私を導いてきたということでした。私は神のお告げを伝える人ではないしただ筋反射を使って、それぞれの身体からのメッセージを伝える人なので曾祖母のように大きな責任を背負っているではないですがどこかでその曾祖母のエネルギーの影響を受けていたのだなあと。それでまた納得したのは、実は日本に来る前に私がいつもセッションをやりすぎてしまうことについておさむからセッションを受けた時におさむが「何だかのりこは、母方のおばあちゃんとつながっているみたいだよ」と筋反射で出てきたものを伝えてくれたのですが私は祖母とは、全くつながり感を感じたことはなくその時はピンと来ていなかったのです。でも、それは祖母ではなく、曾祖母だったのだなあと。私のスキャンリストには、曾祖母という言葉はなかったので最も近いものが選ばれたわけです。そして、それと同時に母の「普通の家庭でいたかった」という想いも私の意識のどこかで受け継いでいたことも、今回、気づきました。だからこそ、不思議なぐらい、これまで一度も母に神社のことを尋ねようという気持ちにならなかったのではないかと。そして、私が特殊なサイキックや霊視ではなく学んで練習さえすれば、誰にでもできる筋反射という形でヒーリングを行うことになったのも、母のごく普通でいたいという想い(エネルギー)の現れだったのだなあと。そして、その後、無意識のストーリーの中で私の中に生きていたその曾祖母の想いを昇華し同時に母の想いも癒すためのセッションを行い今回、また一つの物語が終わったのを感じています。そうすべては夢物語だとするならこれから人々と分かち合ってゆきたいのは、苦労をともにする物語ではなくただ子供のように、楽しみ遊んでゆく物語だなあと。ということで、忘れてしまわないうちに、一気にまとめてみたけどきっと、このストーリーも年月とともに変化してゆくのでしょうね。今日のマイストーリーを聞いてくれてありがとうございます
2016年11月04日
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明日、ノンデュアリティの大和田菜穂さんとサットサンでお会いできることになりとても楽しみです。さて、ノンデュアリティで「誰もがそれぞれの物語の中で生きている」と言われていますがまさにそうだなあと感じます。これまでキネシオロジーで、自分が無意識に作っていた意識(物語)を見つける度に「なんだ、こういう物語が(無意識レベルで)できていたのね」とわかって、とても面白いのですがそれをワークした後は、もうその物語は終わるわけです。私たちは、そう言った物語を無意識レベルで作り上げてあたかも、それが真実であるかのように感じてしまっているわけでそれが物語だ、とはわかっていないんですね。例えば、20歳の時に、10歳の頃の自分を振り返って「私はその頃、父の言葉で傷ついていました」と感じたとしても、40歳の頃に10歳の頃を振り返るとそれはまた違った感覚となり、自分の中の捉え方や意識(物語)が変化していることは誰もが経験したことがあるのではないかしら?特にキネシオロジーのようなヒーリングを受けていると真実だと思っていたものは、あっという間に物語へと変わってゆくのです。とはいえ、私自身もまだ物語はたくさんあって、それが出てくる度になるほどな~と感心しつつ、さらに軽くなってゆくのを感じています。例えば、一つ例を挙げると、これは、東京に出発する直前のことですが東京でのクラスを開催するサロンスペースとのメールをやり取りしていてマッサージベッドを10台の有無を再確認したのですが驚いたことに、担当者からの返事で、マッサージベッドは6台しかなくスペース的にも、10台置くのは無理、という返事が返ってきたわけです。ここは、最初に友人が見つけてくれた場所で彼女がこのサロンとのやり取りしてくれていて私とおさむは直接ここに連絡していなかったのですが彼女がこのサロンと話をした時には、10台大丈夫と’いう話だったのですぐに料金を支払っていたのですが一体、これはどうなっているのかしら?とすぐにその友人に連絡したわけです。その時は、もし、ここに10台置けないということになれば別のところを探すか、それとも人数を分けて2回、クラスを行うかという選択だな、と思ったのですがこれから、10台借りれるところは見つかりそうになくまたクラスを二つに分けると、さらに6日間は東京での滞在が延びてしまうので福岡の実家に戻って、ゆっくり過ごすことともできなくなるわけでどちらにしてもハードになるなあ、と覚悟したわけです。でも、これが物語である、ということはわかっていたのでとにかく、これは一体何が起こっているのかしら?と、その夜、おさむにキネシオロジーのセッションをやってもらいました。すると、出てきたのは、波乱万丈で、困難な前世やリーダーとして責任を負った前世などで私が持っていた物語としては「いつどんな緊急自体が起こるかわからない」「何かが起これば、例え、自分が大変になってでも責任を取る」と’いう無意識の感覚でした。で、それをワークしてもらったのですがおさむが音叉を鳴らしている間、私はそのまま眠ってしまいました。そして、数時間後に目覚めた時には全ては解決していたわけです。私がセッションを受けている間に、友人がサロンと連絡を取ってくれていて実はサロン側の勘違いであって、10台用意できるということとスペースも、最初に設置してあるテーブルと椅子を置いたままでは10台置けないという意味で、テーブルを横にずらせば、置くことができるのこと。つまり、最初から何も問題はなかったわけですね。これはおもしろいなあ、と改めてノンデュアリティで言われている何も起こっていない、とか、起こることが起こる、ということをわかりやすく伝えてもらった感じでした。つまり、私の無意識レベルでは何か緊急事態が起こって、それを何とか乗り越えるというストーリーができていたわけです。何か「問題」が起これば、それに対して対応する、というのが、私たち多くの人が持っている感覚だと思うのですが実際は、外に向けて対応する必要なんて何もないわけだなあと。それがどんな物語であれそれが、物語だとわかっていれば面白いし、楽しいものです。子供の頃、不思議の国のアリス、とか秘密の花園とか、オズの魔法使いとかガリバー旅行記とか不思議なストーリーや冒険物語が大好きで毎日のように、いろんな物語の本を読んでいましたがでも、それが本の中での物語だとわかっているから、ワクワクしたりドキドキしながらも、完全に安心しているわけですよね。でも、それが物語だとわかっていなければ「私はどうすればいいのだろう?』などと考えたりどちらを選んだらいいか、選択を迷ったりするわけです。多くの人たちが「数々の困難を乗り越えて、最後はハッピーエンド』みたいな物語が大好きです。それは、物語としては面白いわけですがでも、その物語の中にいることに気づかないでいると「今は辛いけど、いつか幸せになりたい」という意識でずっと困難な人生になってゆくのです。お金がなくてやりたいことができない、とか夫と通じ合えない、とか、彼に気持ちをわかってもらえない、とか会社が忙しくて、休めないので仕方ない、とか子供が学校で勉強についていけなくて心配、とか友人が病気になって大変、とかそれが自分が無意識レベルで作り上げている物語だとは気づくことなく様々な物語の中で生きているわけですね。そう言った意味で、キネシオロジーは本質に戻って行く旅のお供とも言えるし無意識にはまっている物語に気づいて、それを手放すプロセスとも言えるかなあと。ストーリーは自由にクリエイトしていくことができれば最高に楽しいものなのです。ふふ、これもまた私が作っている物語なんですけどねと、今回の日本での物語を話そうと思っていたですが前置きが長くなってしまった。また続きは後ほど~
2016年11月03日
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カナダから戻ってから、しばらくニューヨークはとても涼しかったのですが昨日、今日のニューヨークは、とても暑いです。みなさま、夏を楽しんでいらっしゃるかしら〜?私は毎日、夜になると、ダーリンとサンセットパークに出かけてゴザの上で寝転んで涼んでいます。いつもダーリンは、アーキュトニックのチューニングフォークを持ってきて私の背中や足のツボに当ててくれるのですがその間、私はほぼ爆睡状態。私はカナダから戻ってから、セッションが終わった後も、テキスト制作やなんだかんだとほとんど休みなく忙しい日々なのですがオサムが毎日、美味しい夕食を作ってくれるのとこのひと時の公園&トリートメントでなんとか元気でいる感じです。ということで、カナダのクラスで気づいたことや、ここ最近のクライアントさんから頂いた感想やセッションでの気づきなどシェアしたいな〜と思っていたのですが今日は、とりあえず、今朝頂いたメールの中で「5月、6月のブログ ”栄光と達成していない感”と”やりたい事を先延ばしーー”で触れられている目標とビジョンの違いに関してブログでお話し頂けますでしょうか?!このブログ以来、目標とビジョンの違いがなんなのかどうしても分かりたくて私なりにあれこれ感じ取ろうとしていたのですがとうとうメールをしてしまいました」というものがあったのでそれについて書いてみようかなと。基本、私は話すことは「その場限り」の人なので「ビジョンと目標の違いについては、またいつか〜」などと書いておきながら質問されるまで、そんなことを書いたことさえ、すっかり忘れていたわけなんですがこうして私が何気なく書いたことが、誰かが何かを感じるきっかけになっている、というのはそれはそれでいいのだなあと。こういったことは言葉の定義も意識も、人それぞれ違うわけですから「正解」なんてものは何もないのですが今の私の感覚を言葉にしてみる、という意味でやってみますね。さて、「目標」は、例えば「試験に合格する」とか「このプロジェクトを成功させる」とかあるいは「ピアノでこの曲が弾けるようになる」など何かができるようになったり、またはやり終えたり、といった「達成すべきもの」であり、それによって何かを得る(または得ることができると感じる)ものですがビジョンは、自分、または自分を含む全体の方向性として自然と「観えているもの」でありそれによって何かを得ようとするものではない、ということだと私は捉えています。(結果的に何かを得たとしても)これまでいろんな方を見てきた中でこの『ビジョンがない』というのが問題というのは身体から伝えられることが多いものの一つです。ビジョンがない状態で、目標を持ってやり続けていると例えその目標が叶っても、叶わなくてもいずれ情熱やモチベーションを失うんですよね。例えばよくある例で言えば、「この大学に入るのが目標」と頑張って、勉強していたとして合格したら「目標が叶った」ので、大学に入ってからは、勉強せずにただバイトや遊びに明け暮れた、とか仕事で次々と、プロジェクトを「達成」してきてあらゆることをやり尽くしたけれど、最近はもうやりたいことがなくなってきたなどといったことが起こるわけです。また「ヒーラーになることが目標」とか「ギターが弾けるようになることが目標」とか「デザインの仕事をするのが目標」などと最初の頃は、それを目指して頑張っていてももし何か上手くいかないことが起こればモチベーションを失うということにもなりがちです。何かを目指して頑張ったけれど、途中でやる気がなくなってやめてしまったという経験を持つ人はけっこう多いと思います。でも、ビジョンがある状態での選択であれば、何があったとしても情熱もモチベーションも失われないということが、なんとなく観えてきたわけです。例えば「アーティストになることが目標」というような目標を持っている方に「では、どうなったら、その目標が達成された、ということになるのですか?」と尋ねればかなり曖昧な答えが返ってくることが多いでしょう。アーティストに限らず、何かの仕事に就くことが目標になっている方の場合ビジョンがないということが多くなので、目標自体も明確でないものになっていることがあるのですよね。私の例で説明すると、私は自分のことを説明するのにとりあえず「キネシオロジストです」とか「セラピストです」と言うことにしていますがでもキネシオロジストやセラピストになることを目標にしたことは一度もなくいつの間にかやっていた、わけです。キネシオロジストが「筋反射を使ってヒーリングを行う人」という意味では、最初に筋反射を学んだ瞬間から、と言えるかもしれないし筋反射である感覚を掴んだ、という意味では1000回ぐらいセッションを行った後ぐらいから、と言えるかもしれないしキネシオロジーを使って、お金を稼ぐという意味では最初のクラスが終わって2週間後から、と言えるかもしれないですがどちらにしても、いつの間にかキネシオロジーを仕事としていた、わけでセラピストやヒーラーということになれば、さらにいつからなのかわかりません。つまり、キネシオロジーやヒーリングは私にとってのビジョンの中での一つの道ですがそれが目標ではなく、何かが達成されるかどうか?というところに意識がなかったので例え何があったとしても、挫折感を味わうこともなければ情熱もモチベーションも失われなかったのだなあと今になって、思うわけです。とは言え、私自身、しっかりこれまでビジョンを持っていたのか?と言うと、全くそうではなくどちらかと言えば、これまでの人生のほとんどは行き当たりバッタリ、その場限りの生き方をよしとしてきたわけでそういったビジョンがなんとなく観えてきたのはごく最近のことかもしれません。それも、はっきりと言葉に表して説明できるようなものではないし漠然としたイメージに近い感じなのです。もちろん、ビジョンの中で、はっきりとした短期的な目標が出てくることはよくあります。私は今、キネシオロジーのクラスを開いたり、ハワイでフィボナッチのクラスをオーガナイズしていますがそれらもそれを目標としてきたわけではなく流れで、いつの間にかこうなっていたという感じです。そして、それでは今度、キネシの初級クラスを開くことになった時にまず最初に「プログラムを考えて、テキストを完成させる」ということが目標として出てくるわけですね。目標なので、当然「達成するため」に動くわけですがこれは短期的なもので、いわば、大きなビジョンの中でのゲームの一つとしてそのゲームを楽しめるのだなあと。。ゲームは終わらせる必要があるので目標は明確であればあるほどいいわけですがビジョンはここまで出来たら終わる、というものではないので明確なものではなくてもいいし、だんだんそれが様々なプロセスを通じて、色づいてくるものと言えるのだなあと。ですからビジョンを持っていてもその道には、あらゆる可能性があるわけなので実際の行動としては、いくらでも変化して’いくし今の行動が自分のビジョンに沿ったものであるかどうか?という行動の選択の見直しをする必要は、所々訪れるわけです。今回、最初は、私たちがレベル2、3のクラスのオーガナイズやカナダに行って学ぶことが、ビジョンとずれているのではないか?という、不確かな感覚があったのですが実際にカナダに行ってみると、むしろこれまでのビジョンがさらにはっきりと膨らんできた感じがしました。実際にやってみなければ、わからない部分もたくさんあります。目標は、常に「先にある」という感覚がありそれに向かっていくものなのでそこに達成するまで、ある種の「不十分感」を同時に味わうことになるわけですがビジョンは、未来にも今にも(そして過去にも)あるという感覚なのでどこにも不十分感はないのです。ですから、もしビジョンがなく、目標だけで動いていればどこまで行っても、満たされることはないのですがビジョンは満たされた感覚がベースにあって観えてくるものだと言えるかもしれません。目標は自分の思考であり、意図的なものから出てきますがビジョンは、自分の意図や思考とは関係なく「自然に」観えているものですからビジョンを持つために考えたり、頑張ったりして持てるものではないということもわかるのです。そして、そのビジョンを観ることを妨げるものとして様々な信念体系や感情、それに関連した脳の問題などがあるわけですがビジョンを観る力として私がもっとも大切だなあと感じているのが、これまでも説明したように脳の「松果体」なのです。多くの人の松果体は、様々なストレス、化学物質などから石灰化してほとんど機能していない状態になっています。ですから、今回、レベル2、3のクラスの中で、惑星フォークを使った松果体の活性化について知ることができただのは、本当に私にとって必要な学びだったわけです。松果体に関しては、これまでも色々やってきたわけですが最近は、ほぼ毎日のようにクライアントさんにこの方法をやってきて気づいたのは、これは松果体だけでなく、視床下部と脳下垂体も同時に活性化しているということでした。この松果体、視床下部、脳下垂体の3つのつながりは私たちの洞察力、内観力、ビジョン、クリエイティビティなど私たちの知性や叡智に関することに深く関係しているのだなあとあらためて感じています。そして、前にもお伝えしたように、フィボナッチヒーリングはその人が本来持っている脳の青写真そのものを書き換える働きがあるのでこの松果体活性を、フィボナッチを行った後に行うとさらにパワフルなのです。あ〜この感動は、とても伝えきれないぐらいなんですが。と話しはソレましたが、考えてみれば、私も若い頃にはビジョンを持てずいつもあれこれと達成目標を探しつつ、何かに向かっていたわけなんですよね。それに嫌気がさして20代の中盤に「人生は暇つぶしだ〜。私は何も目標を見つけないぞ〜』と日本を飛び出してニューヨークにやってきたわけですがやっぱり、このニューヨークで達成したいことを見つけてその目標に向かっていたわけです。その頃もとても楽しかったですが、今から思えばどこかで漠然とした不安みたいなものはあったなあと感じます。(自分ではそれが不安だとは認識していなかったですが)今はそういう感覚はすっかりなくなりましたがあのビジョンがなくて、目標に向かっていた時の感覚というのはたまに、旅の車の中で音楽を聴いていると、ふっと思い出したりして何とも甘酸っぱい感じがするのです。あ〜こんな感覚、他の人も持っていたりするのかしら?と、ザザ〜と書いてみましたが、こんな説明でビジョンと目標の違いが伝わるのかどうかわかりませんが、何となくお伝えできればいいなあと。と言いつつ、私は自分で始めたゲームをさらに楽しくするためにここ最近、テキスト作成に力を入れてやっているわけなのですけどねということで、また〜。
2016年08月14日
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ここしばらく来年ハワイのクラスの申し込みやお問い合わせに関するメールのやり取りそして、9月に行なうキネシオロジー初級クラスのためのプログラム作りまた10月の上級クラスのためのオーガナイズなど一気にいろんなことが来ているので、けっこう忙しいのですがエネルギー的には満ちていて、何とかオーガナイズできている感じです。(って、問い合わせたのに、まだ返事来てないよ、という方、お知らせください)先日、アーユルヴェーダのみささんのところに行った時に彼女がいつものように脈診を見てくれるのですが私がクラスのことなど何も言っていないのに「何だかやる気に満ちていて、たくさんのことをきちんとオーガナイズできている感じです」と言われて、そういうことも脈に出るものなのね~とちょっと感動でした。まあ、よく考えてみれば、筋反射で見れるのだから、脈で見れるのも当然ですよね。あ、みささんから「エネルギーに満ちているのですが、筋肉自体は衰えていますよ。これは確実に運動不足ですね」とも言われました。はい、これは、脈診するまでもなく、見た通りです。。。さて、ニューヨークでの初級クラスは、詳細が決まってからブログで告知しようと思っていたのですがすでに告知前に直接たくさんの方から、申し込みがあり告知しない前に定員が埋まってしまうという状態になりました。それで、最初は広い場所を借りてやろうかと思ったのですが今回、初級クラスは私にとっては初めてということもあり(過去に1日筋反射クラスは開いたことがありますが)できれば私の目が行き届く人数ということで今回のクラスに限って、定員は10名に決めすでに申し込みのあった方の中で、先着順に決まってしまいました。ブログで告知があったら申し込もうと思っていた方、ごめんなさい。ニューヨークではまた来年に行いますので、ぜひその時に参加されてくださいね。ということで、10月に2週間ちょっとの間、日本に戻るのでその時に日本で初級クラスを開こうかなあ~とは思っているのですが、場所を探す時間もないのでまだ何も決まっていない状態です。もしやるとしたら、東京か地元の福岡のどちらかでやりたいなあとは思っているのですがもしみなさまの中で、適当な場所をご存知の方がいらしたら、ぜひご連絡ください。(はい、こういう時は人任せ、宇宙の流れ任せ、なのです)日本では、定員14~20名ぐらいかな、と思っているのでそうなると、マッサージベッドが7~10台必要になります。その場所でマッサージベッドが借りれること、そしてそれを置くスペースがあるところです。クラスは9時~6時ぐらいまでで、5日間のクラスです。さて、一方で、ここ最近、おさむと音楽のレコーディングをやっているのですがこれがまたとても楽しいのでほんと身体が5つぐらいあったらいいのになあと。とりあえずは、私の女性性が反乱を起こさないようにバランスを取ってゆくことが優先なんですけどね。さて、今日はやりたいこと、やるべきことを先延ばしにしてしまう、ということに関して先月「栄光と達成していない感」の中でお話したのですがそれをもう少し別の観点からお話してみようかと。物事を先延ばしにしてしまう人がどうしてそうなるのか、その脳や性質、またはその方の親からの影響などこれまでたくさんの方を見てきた中で、いろいろとわかってきたことがあります。それには脳にも、遺伝的な性質も関わっているのですがまずは、その前に少し前にクライアントさんから紹介してもらったTEDの講演ビデオでとてもおもしろいものがあったので、ぜひご覧になってください。『先延ばし魔の頭の中はどうなっているか?』http://headlines.yahoo.co.jp/ted?a=20160511-00002458-tedその仕組みや脳についてどんなことを話してくれるのかしら?とわくわくして見ていたら「脳の中に怠け者のモンキーがいる」って。。。むちゃ笑えます。この講演では、何の解決法も示してはないので、これを見ても怠け者の猿は、いなくはならないと思いますがでも、だらだらとネットサーフィンしている途中で「あ、怠け者の猿が今、舵を取っているな」ということに気づけば少しそれを制御するきっかけにはなるかもしれません。この方が言われているように、大学で卒業論文を提出する、とか仕事でいついつまでにこれをしなければならない、など締め切りがあるものは、先延ばし屋でも最終的には行うことになるのですが締め切りがないもの、個人事業主やアーティストなど自分が動かなければ何も起こらないものに関しては永遠に先延ばしをしてしまう、ということ。この講演の中で印象的な言葉が「彼らの苛立ちは、夢を実現できないことではなく夢を追いかけることさえできないことなのです」では、なぜ「怠け者の猿」が出てきてしまうのか?ということですが(あくまでも私のセッションで得た感覚ですが)まず、先延ばしにする方は今、本当の自分はやりたくないと感じていることをやっている人もしくは過去にやりたくないことをかなりやっていた人です。やりたくないことをやったことがない人は、ほとんどいないでしょうからそう、ほとんどの人は度合いの差はあれやるべきこと、やりたいことを先延ばしにする傾向があるということです。だから、この方の講演も、みんなが共感するんですよね。そして、その仕組み自体はとてもシンプルなんです。私たちのエネルギーは、やりたくないことをやる時間とやりたいことをやっている時間とでは全くその消耗率が違うのです。例えば、自分にとって本当にやりたい仕事を5時間やるのと本当はやりたくない仕事を5時間やるのとでは同じ時間であっても、そこで使っているエネルギー量は大きく違ってきます。ですから、やりたくないことをやっている人ほどエネルギー消耗率は大きくなるため本当の自分がやりたいことにかけるモチベーションやエネルギーは枯渇してしまうとりあえず、その場ですぐに楽になりたい、自由でいたいという「怠け者の猿」が出てくるわけです。で、物事を先送りにする人の傾向として多いのが責任感が強い、人からの評価に傷つきやすい、完璧主義、生真面目、物わかりがいい、達成感を求めるという性質です。例えば、今はある会社で働いているけれど将来的にはイラストレーターとして独立したいとか、いつかヒーラーとして仕事をしたい、などと思っていたとします。でも、責任感が強く、人からの評価に傷つきやすい、物わかりがいい性質があれば今の会社で必要以上にがんばって働いたり周りに合わせたりするのでそこでエネルギーを使い果たしてしまい会社が終わってからは、新たなイラストを書いたりヒーリングの勉強をしたりする気力もエネルギーもなくなりとりあえず、友人とお酒を飲んでおしゃべりする、とかネットサーフィンをしてだらだら過ごす、とか連続ドラマを見る、などというように怠け者の猿、大活躍状態で、日々が過ぎてゆくわけです。(あ、ちなみに友人とお酒を飲むのも、ネットサーフィンをするのも、連続ドラマを見るのも私は大好きですし、それ自体が悪いということではありませんので)で、そのうち、最初はやろう、と思っていたのに、だんだん「私はこれを本当にやりたいのだろうか?こんなにやる気がないんだから本当は私はこれをやりたいわけではないのではないだろうか?』などという気持ちになってきてさらにモチベーションは失われてきます。でも、潜在意識下では、本当に自分がやりたいことをやっていないという想いが強くなるので、以前、書いたように「達成していない感」が大きくなるため無意識に目の前のことに夢中になってとりあえず、今この瞬間の達成感を味わおうとするわけです。ですが、いくら会社でその日の目標を達成したり、それによって人から認められたりしてその場限りの達成感を得たとしても本当にやりたいことはやっていないのでやればやるほど、エネルギーは枯渇しいつまで経っても、自分が本当に行きたい方向には向かえない、という悪循環に陥ります。私のキネシオロジーのセッションを受けて、独立したり、起業したりする方はけっこう多いのですがそういう方の身体に聞いていくと「今すぐ、今の会社を辞めて独立する」と身体から出てくる場合もありますが多くの場合は、今の会社や仕事を続けながら、独立のために動いてゆくという移行期間が必要で、その移行期間にどうすればいいのか具体的に身体が指し示してきたりそれが楽にできるように性質や脳を変化させるという調整になります。その移行期間に、これまでと同じように、目一杯、今の会社で働いてエネルギーが枯渇してしまえばいつか独立したいと思っていても、ずっとそこにエネルギーを向けれない状態になるのでその根底にある意識を変化させる必要があるわけです。これが例えば、主婦で子育てしながら、いつか~~の仕事をしたいなどと思っている方でも、もし責任感が強かったり、生真面目だったり達成感を求めるタイプの人だとしたら、家事や子育てのための時間にエネルギーを費やしてしまうのでいつまで経っても、そこに向かう時間やエネルギーがない、ということになります。家事や料理というのは、実はけっこうなエネルギーを使っています。私の母のように「料理が好きで好きでたまらない、何時間キッチンに立っていても全く疲れない」というような人もいますが子供のために毎日栄養バランスが取れたものを作らなければという責任感や完璧主義でやっていれば毎日の家事だけでも、かなりのエネルギーを消耗するのです。ですから、もしいつか~~の仕事をしたい、思って何かを始めたい、という移行期間にはいかに子育てや家事の手を抜けるか、が大切になります。例え、少々家事や料理で手を抜いたとしても、1日の間に少しの時間であっても、子供と遊んだり、楽しんだりする時間があれば子供はパパやママから愛されている、守れているつながっている、という感覚を持つことができます。主婦の方の中には、一日中、家事や子育てに追われているのに子供と向かい合って遊ぶ時間はほとんどないという人たちはけっこう多いのです。もっとも女性の方で、将来的には仕事をするけれど今は子育てにフォーカスして楽しむ、と身体から言われる方も少なくないです。そういう方は、まだ本当にやりたいことが見つかっていない状態だったり女性性を高めるためにも今はのんびりと過ごしながら、子供と触れ合うことが必要だったりするわけで実はその期間で得た経験や感覚が将来の仕事へとつながったりする方もいらっしゃるのです。さて、人からの評価に傷つきやすい、完璧主義、責任感が強いといった傾向は多くのケースで自己表現のブロックにつながり最初の一歩を踏み出すまでに、時間がかかることになります。例えば、先日私が「初級クラスをやりたいな~」とブログに書いた時にはただ、ふっとそう思っただけで、どんな内容を教えるのかそして、クラスを教える時間が取れるのか、など全く考えていない状態だったわけですがそう言った「ちょっとした自己表現」が、何かを動かすということを昔から私は無意識にわかっていたので例え、それをやる時間がなくても、何をやるのかよくわからなくても、とりあえず周りに「言ってみる」わけです。それでもし状況に何らかの動きがあれば、そこで時間を作ってプログラムを考えるとか、何とかスケジュールを調整する、という第一歩が始まります。これは、無意識に自分自身に締め切りを課している、ということだったのだなあとこのビデオを見てあらためて気づきました。ところが、これが、完璧主義だったり、人の評価を気にする人だと「ちゃんとプログラムを考えて、何をするかはっきり決めてから人に話そう」とか「もっと練習して上手くなってから、ヒーリングのモニターになってもらおう」となるので、締め切りのない状態のまま、日々のことに追われているうちにいつのまにか、そのモチベーションも失われてゆくのです。言うまでもなく、自由な自己表現ができなければ先延ばしの問題だけでなく、人生のあらゆるところに影響が出ます。そして、先延ばしにする人の多くは、子供の頃にいい子で、親の言う通りに本当はやりたくなかったことをやってきた人何かを続けること、達成することが素晴らしいことだと教えられてきた人に多い傾向なのです。上司や、親や、先生や同僚など人からの期待や要求に応えようしている人ほど無意識レベルでの自由感が失われているため怠け者の猿がすぐに出てきてしまい最も肝心な、自分自身の要求には応えることができなくなるのですね。さて、一方でやりたいことをどんどん実現させる、ことはいいのですが女性には、ホルモンバランスがあるので、その日、その日の感情や感覚によって変化させてゆく必要があるのでやりすぎるとバランスを崩します。女性ホルモンのバランスが崩れれば、性欲は失われて最終的には婦人科系の病気になったり、更年期の症状が出たりします。またセロトニン分泌にも影響が出てリラックス感、満たされ感はなくなり、イライラしがちになります。なので、例えやりたいことだけをやっていたとしても女性の場合は、できるだけ、エネルギーチャージをする時間が必要です。ネットサーフィンなどは、エネルギーチャージどころかエネルギーを消耗する一方です。私は、やりたくないことはやらないけれどやりたいことはついやりすぎてしまう、ためホルモンバランス、特にエストロゲンが不足しがちとなりよく自己ヒーリングで調整しますが公園の芝生に根っころがって、夕日を眺めるとかおさむの身体に触れながら、キスしたり、いちゃいちゃするということも、エネルギーチャージだなあと。このエネルギーチャージがあるから、次へのエネルギーに向かうのです。例えば、女性の方で、ストレスがあると買い物で発散するという人もいますが、これはエネルギーチャージではなくさらなる渇望や欠乏感につながってしまっていることもあります。ですが、自分にとって美しいと感じるものを見るというのは、ありなんですよね〜。 ここは私が随分昔から、たまに覗いているインテリアショップ、ABC carpet & Home.(ホワイトガネーシャが美しかった♪)ここのエネルギーはとてもよくて、店内でぶらっとディスプレイを見ているだけで、エネルギーが湧いてくる感じがするのです。私はあまり買い物には興味がなく、どちらかと言えば物を減らしたい人なので、購買欲はほとんどないのですが女性にとって、美しいものを見るというのはそれだけでエネルギーチャージになるのだなあと。ということで、話がまたあれこれと飛んでしまいましたがまとめると、やりたいことを先延ばしにしないためには責任感の強さ、完璧主義、傷つきやすさ、物わかりのよさ、生真面目さ人からの評価を気にする、達成感を求める、といった性質を変化させできるだけ、やりたくないことをやらない、もしくは手を抜いて本当にやりたいことだけに集中できる環境を作る必要があるということそして、具体的な方法がはっきりとわからなくても、今すぐそれに向かってちょっとした何かをやってみるまたは周りの人たちに話してみる、ということ。目標達成型思考で進んでいけば、いずれは達成する目標が見つからなくなり行き詰まります。よくどんなことでも続けなければ、とか一度始めたら、簡単に辞めてはいけないと思っている方がいますがやりたいことを続けていけば、その人にとっての実力となりますがやりたくないことを続けていれば、トラウマとして潜在意識に記憶され本当にやりたいことのモチベーションも失われてゆくのです。ですから、達成目標は必要ないのですが、ビジョンを持つことは必要なのです。目標とビジョンの違いに関しては、また長くなってしまいそうなのでまたいつか~。あ、それと、やりたいことを先延ばしにしてしまう要因の一つとして貧困意識、があります。(貧困意識と実際の貧困とは関係ありません)それについても、また今度〜。(そう、ブログは上手くまとまらくても、中途半端でも、アップしちゃうのです)
2016年06月25日
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私のセッションにお越しになる方からよく上がってくる問題としてやりたいことを先延ばしにしたり、やりたいと思って始めたのに途中でモチベーションが下がってやめてしまって、やりたいのかどうかわからなくなったりするということがあります。そうなってしまう要因は人それぞれ違っているのですがその共通にある本質的な要因について、書いてみたいと思います。まずは、先日私がアップしたブログにセッションの感想とともに、送ってきてくださった方がいらっしゃってまた別の見地での説明になるかも、とその方の了承を得て、掲載させて頂くことにしました。ありがとうございます。ふと、今日のお昼に読んだ、のりこさんのブログの最新のエントリーともつながるんです。のりこさんのブログの質問をされた、その方のおっしゃっていること質問したかった事、よくわかる気がします。一般的に、という意味で、セラピストの方のブログの体験記を読んでいるとわー、凄い、私もこうなりたい~という気持ちが強くなってセッション後の夢見る少女になってしまうんですよね。セッション後はドラスティックな変化が起きる”はず”と大の期待をしてセッションを受けるのでその後、目に見えて、自分が描いていた状態にならないと、あれ~、何かブロックがあるんだろうか何故私が思い描いていた結果が出てこないんだろうと思ってしまうんです。私もそうでした。2014年におさむさんのセッションを受けて元々は物事を最後までやり遂げないこと、自分では逃げているようで、それが以前からいやだなと思っている、という事を話をしたうえで、セッションをしていただきました。そして、、、その時は直ぐに見える形で出ているのではない”気”でしたがでも、実は時間が経過して、その時を振り返るとその時凄い勢いの波に乗り、わーーーと物事が進んでいて、旅行代理店から、それは無理ですよ、と言われたある国のビザをとり1か月もしない間に、そこに飛んで、初のそこでの案件を終わらせたんです。つまり、一つの事を最後までやり遂げていたんですよね。のりこさんがおっしゃるとおリ、その最中ってわからなくって後になって、そういえば、、、という結果が出ているという事を後になってわかってから目標設定は、”気づき”の気づき、(ややっこしいですね)じゃないのかなと思うようになりました。今までは見えていなかった見方、角度、アプローチ、ものの考え方等目の前にあったんだけれども、見えないかったものを気付かせてくれるきっかけを与えてくれるような事という言い方でしょうか・・・のりこさんのエネルギーの方向性、というのは、なるほどなとなんとなく、わかるような気がします。さて、少し話はずれますが、以前にもお話したのですが、私が使用しているスキャンリストでセッション後の好転反応を防ぐためのリストがあります。そのリストの項目に反応する数が多ければ多いほど、セッションの後に好転反応が起こりやすいということになるので、セッション終了前にチェックして調整しておくわけです。その中には身体的な要因や細胞レベルや電解質などがあるのですが量子学的な要因として、その方の持っている意識、というものがあり「知性、愛、Being、真実、栄光、、」といった言葉が並んでいます。私自身、このリストの意味を教えてもらったわけではないので最初の頃は、意味がよくわからないものがあったのですがそれぞれのクライアントさんの身体が何に反応するかを見てゆくうちにだんだんとわかってきました。例えば、Being というのは、ただそこにいること、という意味ですがこれが反応する方は、いつも何かをしている、Doingであるか頭であれこれと考えているか、という人です。そして、気づいたのは、この中で「栄光」に身体が反応する方は「達成していない感」もしくは「成功していない感」を持っている方だということでした。私のセッションにお越しになる方のたぶん90%以上は、この「栄光」に身体が反応します。つまり「達成していない感」「成功していない感」を持っているということです。大人の方がその人生で、遥かにいろんなことを「達成」してきたはずなのに子供であればあるほど「栄光」の感覚を持っている確立は高くなるという事実を見てみてもわかるように「達成していない感」というのは、実際にその方が何かを達成しているかいないかは、全く関係なく存在している感覚です。例えば、健康な身体を持っていない人にとっては「健康な身体を持つこと」が達成目標になりますし結婚願望がある方にとっては「結婚すること」が達成目標になりお金が足りないと感じている方にとってはお金持ちになること、が達成目標でありやりたいことが見つからない人にとってはやりたいことを見つけることが無意識レベル、顕在意識レベルでの達成目標になっているわけです。ところが、実際にそれを達成したとしてもこの栄光の感覚がなければ、けして満たされることはないわけです。例えば、あんなに結婚することを望んでいたのに実際に結婚してみると、自分が思い描いていたものと違って今度は、また次の達成目標を探してしまうのです。さて、ここで話を元に戻しますがやりたいことを先延ばしにしてしまう人やり始めたのに途中でモチベーションが下がってしまう方何がやりたいのかわからない方のほとんどはこの「栄光」感を失った状態になっているということです。ちなみに、これは「今あるもので満足すれば、何も変化しなくてもいい」ということではないということです。キネシオロジーのセッションでは、例えば今のビジネスを大きくするためにどうしたらいいか?とか、いくつかの選択肢の中で、どの仕事にフォーカスしていくのか?など具体的な提示を身体が伝えてくることもよくあります。でも、それは達成目標ではなくそれが、その方の本質が求めているプロセスの一つということ。ですから、満たされるということの本質は一瞬一瞬変化してゆく、とも言えるのです。人生ってしょせんこんなものだ、とあきらめるのではなく満たされている感覚でありつつやりたいと感じることをただやっている状態。それが栄光であり、この栄光感を失っていればいるほど人生は困難になってゆくと言えます。例えば、簡単な具体例を上げるとある女性が、結婚していないことが何か不足している感、成功していない感、になっていたとします。すると、無意識であれ意識的であれ男性とつきあった時に「この人と信頼できるパートナーシップを築けるかどうか?』とか「結婚できるかどうか?」という目標達成型の意識でいてしまうので自分がどう感じているのか?には意識は向かずそれは多くの場合「相手次第」ということになってしまい相手のあり方に翻弄されてしまうことになります。そうなると「彼がこう言うということは、私のことを大事にしていないということではないか?」など、自分の中で意味付けになりいわゆる妄想状態、に入ってしまうわけです。それで、その男性との関係が上手くいかなくなると傷ついて「もう結婚は私には向いていないのかもしれない」などとさらに「達成していない感」を強めてゆくわけです。また例えば、何をやっても途中でやめてしまう方も同じくその「達成していない感」から、何かを「達成するために」それをやろうとするのですがもし、途中でそれは私には達成できないかも、と感じてしまうとモチベーションが下がってしまうので、途中でやめてしまい結果「達成」できなくなるのです。つまり、達成していない感が強ければ強いほど、達成できなくなるという矛盾した状態になります。もし栄光の感覚があれば、やりたいことをただ夢中になってやっていてふと気がついて振り返ってみると、いろんなことを「達成していた」ということになります。そして、この「達成していない感」があればどうしても「人から認められること」が無意識レベルでの達成目標になりがちです。やりたいことを先延ばしにする方の多くは本当はやりたくないと感じていることを一生懸命やってしまう傾向がありそこでエネルギーを使ってしまってやりたいことにはエネルギーを向けれない、という状態になっていることが多いです。例えば、いつか今の仕事をやめて、自分の得意なイラストを仕事にできたらいいなあと思っていたとしても、達成していない感があれば今の会社で認められるために必要以上にがんばっていたり人に気を使ったりするためにエネルギーを使ってしまって肝心な自分のやりたい作品を制作することにはエネルギーを向けれずいつも、先送りにしてしまったり、いつのまにかこのイラストを本当にやりたいのかどうかわからなくなったりするわけです。こういったことは、考え方の問題ではなくエネルギーの問題なのでそのエネルギーをセッションで変化させるということです。そのエネルギーがどこから来るのかは、脳の問題であったり、前世や遺伝だったり個人レベルではいろいろなのですが今の時代は、これが全体的なシフトとして起こっていてそれがいろんな形として現れている感じがします。つまり、ある人の中のエネルギーが変化すると、全体的なエネルギーも変化するのでこの社会でやりたいことをやりたいように自由に生きる人たちが増えてくるということです。その感覚を得るのに、年は関係ありません。年代別の傾向というものはありこの「達成していない感」は20代、30代は「焦り」や「将来への不安」や「渇望」へ40代、50代、60代になってゆけば「あきらめ」や「達観ぐせ」になってゆくことが多いです。そして何歳からであろうが、変化するべき時に変化がやってくることになっているのです。昨夜も友人とお酒を飲みつつ、話していのは自分の中にあるエネルギーを変化させていくことはそれが最大の社会貢献だよね〜ということでした。もちろん、社会貢献が達成目的になってしまえばまた本質からずれてしまうのです。そして、このブログも、誰かに何か伝えるため、というよりただ書きたいと感じたことを思いつくままにアップしているわけです。こういったことは、セッションを受けたり、何らかのことで意識が変化しない限り本当の意味では伝わらないことも充分わかっているのですが例え、一見、意味のないことであったとしてもそこで動いた何らかのエネルギーが全体的なエネルギーの変化をもたらしていくということも日々感じています。マトリックスエナジェティクスのリチャード博士の言葉「変化させようとしない時に、変化が起こる」ということの意味が、本当によくわかるのです。ということで、意味のないブログも今日はこのあたりで〜(と走り去る。。。)
2016年05月09日
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早いものでハワイから戻ってきて、約2週間が過ぎました。もう、ハワイでの日々が遠い昔のことのように感じます。ハワイから戻った後、忙しすぎて(仕事も遊びも)落ち着かない感じがあったのですがようやく、ここ数日で自分のセンターに戻ってきた感じです。今、自分がどんなところにいるのか?そして、これから何が必要なのか?あらためて観えてきたような気がします。ということで、いろいろ話したいことはあるのですがまずハワイから戻ってから4、5日間は何となく自分の中で今一つ気持ちが乗らない感じがありました。いつもなら、仕事の前に朝起きると「よ~し、今日もやったるで~」みたいなちょっとしたわくわく感を感じるのですがそれがなく、何かが胸に引っ掛かっている感じ。とはいえ、クライアントさんが来られて、セッションが始めるとエネリギーが湧いてきて、が~と集中したり友人とお酒飲むのも楽しいし、クローゼットの片付けを集中的にやってみたりなどはやる気があるのですがとにかく、これからのことに対する決断と選択ができないのです。決めるべきことを決められないので、メールのお返事も溜まりまくり。いつもはすぐに返事をする私からの返事がないのでロンから『のりこ、何かあった?」とメールがあったほどでした。この一つの要因としては、私の身体から上がってきたのはハワイから戻ってきた翌日に起こった熊本での地震による集合無意識にアクセスしていたことがわかりました。こういった地震や災害によって、人の悲しみや恐れ、不安、虚しさといったものが集合無意識として強くなるわけですがその集合無意識にアクセスするのは実際に被害を受けたかどうか、地震を体験しているかどうかなどには全く関係がないのです。少し前にも、熊本の地震が起こったことで不安感が出てきたというクライアントさんが来られたのですがその方の身体に聞いてゆくと、災害や被害にあった前世とのつながりとともに集合無意識とのつながりが出てきました。とはいえ、311の時にそれは充分に体験していたしまた私が今回もアクセスしているとは全く思っておらず。私の実家の福岡でも震度4ぐらいの地震があったそうなのですが私は「うちは大丈夫だな」と感じたので地震の後もしばらく電話もしなかったぐらいでした。何人かの人たちに、実家の状況を聞かれたこともあって10日以上経ってから、ようやく電話したのですがやはり全く大丈夫で母の実家は熊本なので、親戚が熊本にいるのですが熊本在住の叔父や叔母たちも水が止まったり、ガラスが割れたりしているものの大きな被害はなく無事でした。と、これはどうでもいいことなんですが、地震のことで、電話したら私の母が「わざわざ電話してくれたの?やさしいのね〜」と言ったので、え?そうなの?と。いや、普通、実家の近くで地震があったら心配して電話するものだろ〜と思うのだけど。。(しかも10日以上経ってるし、、)地震や災害に対する恐れや不安がないのも遺伝かしら?今も福岡でも時々、揺れているそうで母の周りでは夜、眠れない人たちもいるそうですが母は、子供の頃から地震には慣れていることもあっていつもぐっすりと眠っているとのことでした。(このあたりまさに遺伝だね、とおさむに言われたのだけど)そんな私が、今回、なぜ集合無意識につながったかというと熊本の地震のニュースを聞いた時に一番最初に思い浮かんだのは1ヶ月前に南阿蘇に引っ越しした友人のことでした。彼女は私にとっては、ソウルファミリーであっていつも愛に溢れたエネルギーを送ってくれる、大切な友人。彼女自身は無事でしたが、彼女の家は半壊してしまいしばらく避難生活だったので、いろいろと気になり実際の被害の様子を知りたくて熊本地震に関する報道写真をあれこれとネットで見ていました。崩壊した家の前で呆然と立ち尽くすおばあちゃんとかわんわんと泣きながら電話している高校生とかの写真を見ているとそこにあった、人々の無念さとか、不安とか、悲しみのエネルギーが強烈に伝わってきました。あらためてこういった写真や映像のエネルギーを伝える力は、すごいなあと。そして、その友人との魂レベルでの深いつながり感がさらにそこにアクセスすることになっていました。私の場合、集合無意識にアクセスしていてももともと、将来や災害などに対する不安や恐れはないのでただ何となく気分が乗らない、という程度でしたがもともと将来に対する不安があったり人に同情したり、人をケアする気持ちが強くて人のエネルギーと共鳴しやすい方たちはこういったことが起こると、それぞれの中の不安や恐れや悲しみや怒りが増幅されてしまうだろうなあと。遥かニューヨークに暮らしている人でさえ、そういうこともあるのですから日本でいつも地震のニュースや映像を聞いている人たちの中には人と共鳴しやすい人たちも多いだろうしましてや、実際に地震の被害にあった方たちや今も続いている余震の中で暮らしている方たちの不安や恐れや悲しみはどれだけ大きいことでしょう。だからこそ、外にいる人たちの今の意識やエネルギーが大切だなあと。いろんなところで、私たちができることをやっていきましょうと言われていますが、もちろん、私たちができることは物資やお金の援助をすることだけではなく愛を送ること、祈ること、いろんなレベルでありますが何よりも大切なのは、遠くにいる私たち一人一人が今、この瞬間に人生を楽しんでいるということ。それが全体的な集合無意識に影響を与えてゆくのだと感じるのです。ということで、そこへのアクセスを解除した後は私が今、やるべきことをやれるようになったわけですが今回、決断と選択ということに関してあらためていろんな気づきがありました。誰にとっても、人生は決断と選択の連続。細かいところで言えば、今から、Aに行くかそれともBにするか、彼女と明日会うどうか、これを買うとか買わないとか私たちは毎日、数限りなく、選択を繰り返しています。そのほんのちょっとの選択の違いが、人生を大きく変えた、ということなんて山ほどあり、あの時、たまたま~に行って、偶然、あの人にあったから今、私はこの仕事をしているなどと、いうことは数限りなくあるわけですよね。そして、特にこういった災害にあったら自分はどういった決断をするのか?と誰もが一度は考えたことがあるでしょう。でも、不安や恐れ、心配がベースにあると様々なことを選択していくのは難しくなるのです。だから、外部の人たちが「疎開すればいいのに」などと思ったとしても実際に被害にあっている状況だったりショックや悲しみや不安がまだ残っている状態では自分や家族にとって、これからどうすればいいのかを選択する力は弱くなってしまうのは当然のこと。選択の力、決断力というのはチャクラで言えば第6チャクラ(直感)とハートチャクラ(自分の感覚を受け取る力)なのですが恐れ、不安ベースの時は、ハートが閉じてしまうのですぐに決められなくなるのです。今回、私自身で、集合無意識にちょっとアクセスしていただけで選択や決断力が弱まることを実感してそのことをあらためて感じたわけですがさらに、どんな決断や選択でも、他の人が多く関わってくればくるほど難しくなるということを実感しています。というのも、ここ最近、私は来年の私とおさむで開くハワイでのリトリートや次回のフィボナッチ&アーキュトニックのクラスについてできるだけ早く決める必要性に迫られているからなんですが。ロンは『のりこが船長だから、すべてのりこの意向に従うよ」と言ってくれてその気持ちはとても有り難かったのですがこれが自分だけのためのことだったら、さくさく決められるのだけどいろんな人たちのためのものである以上すぐに決断できない様々な要因が出てくるわけですね。私の持っている限られた日程の中で、すべてをどうオーガナイズすればいいのかどこで開くのか、どういうカリキュラムで、日程は何日にするのかいくつかの選択の可能性が出てきます。で、そういう時は、焦って決めるのではなく、いくつかの選択肢の中からある程度の布石を打ってみてそれが、どう流れてゆくのか状況を待ったりまたは何らかの明確なサインが来るのを待って最終的に決めるという選択のやり方を私はよくやります。すると、不思議と自然とある道に導かれてゆくことが多いのです。先日メールをくださった方から「きっとのりこさんのお心が動いたタイミングが私たち受講生にとってもベストな気がします」とあって、とてもうれしかったです。この場を借りて、ありがとうございます♪どんなことであれ、例え、私が選択していたとしても本当は「私」の選択ではない、と言えるのだなあと。話はかわりますがたまたま、先日、おさむと「魔法少女まどか」なるアニメを見たのですがこの幼稚とも言えるキャラクターとは裏腹に、かなり難解なストーリーでその中で、決断と選択に関することがありなかなか興味深かったです。簡単にストーリーを説明するとまどかは、ごく普通の一見、何の取り柄もない高校生(中学生?)で家族や友達との時間を楽しみ、幸せに暮らしていたのですがある時、魔法少女として生きるかどうか?の選択を迫られます。その内容は端折りますが、いろいろあって、最終的には、この次元では彼女自身は魔法少女への道を選択しなかったのですが別の次元、パラレルユニバースでは彼女はその道を選択しておりそして、またある次元では、魔法少女にはならないけど魔法少女たちや世界を救うための神の化身のような存在となるという道を選択するわけです。その神の化身のような存在になるためには、両親や友達とも別れ両親や友達の記憶にも彼女の存在自体が残らない、という状態になるわけですがその中で彼女が「私は両親や友達の側にいたかった。でも神の化身への道を選択したことに後悔はなく、これでよかった」というようなことを言うわけですね。ある「私」は両親や友達と一緒にいたいでもまた別の「私」は神の化身となり世界を救いたい。なるほどな〜と。どちらも「私」であり、そのどちらの道も喜びである以上は例え、どちらを選んだとしても、後悔はないのですがどちらを選んでも、もう一つの道への憧れは残るのかもしれないなあと。自分のための選択をするのは自分軸で生きるという意味で大切なことなんですが一方で、果たしてそれがどのレベルの「私」なのか、によって選択は変わってくるわけですね。もちろん自己犠牲の選択はあらゆる次元での歪みをもたらしてしまうのでそれが喜びベースである必要は確かなことなんですが。この様々なレベルでの「私」のバランスを取りつつどう選択をしていくか?が、去年からのテーマであることは漠然と感じていたのですがここ最近、さらにそれを強く感じているわけです。言葉にすると、ワンネスの喜びを体現していく「私」としての選択と分離した個人としての喜びを体現してゆく「私」としての選択ということになるのかなあ。もっとも「私」という言葉自体が、全体からの分離を表しているので本来はこの表現はおかしいのですがどこからどこまでが「私」もしくは「私という意識」だと言えるのか?はとても曖昧なものだなあと感じます。そして、女性の場合は「女としての私」というある意味、別の次元とも言える「私」があるのでさらにバランスを取るのが難しくなって、おもしろいのかも(「女としての私」としては「船長」と言われると、ちょっと微妙なんだけど。。)ということで、私の今の感覚を上手く伝えることをできたかどうかわからないのですがとりあえず、今日はここまでで〜〜♪
2016年04月28日
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今日はここ最近、何人かのセッションで出てきたオーソリティ•イシューに関して私のメモとして。Authority Issue オーソリティ•イシューとは、直訳すると「権威的な問題」ですがアメリカ人のクライアントさんに「今日のテーマは、Authority Issue だと身体が言っています」とお伝えすると、だいたい、すぐに納得されますが日本ではあまりなじみがない概念だなあと感じます。オーソリティ•イシューは、例えば警察や政府、と言った社会的な権威としての抵抗や恐れ、怒りといったものから自分の親や上司、先輩、先生、目上の人など自分にとっての権威的な立場にある人に対する葛藤など幅広くあります。その要因を調べてゆくと、前世、または集合無意識などのエネルギーとして権威に対する抵抗があるという方も少なくはないのですが多くには、その方の子供の頃の父親との関わりが大きく関連しています。父親というのは、家族の中では権威的な存在を象徴するものなのでその父との関わり方が、その人の人生での権威との関わりに深くつながってくるのです。例えば、お父さんが怒ると怖い人で、子供の頃、怖かった、とかお父さんに認めてもらえなかったというのは権威への恐れや抵抗、怒りにつながりますが一方で、父親が頼りなくて、指導してくれなかったというのも、問題として上がってくることもあります。私の子供の頃、友人が、友達のようなお父さんだと言っていたのを聞いて当時の私の父はとても厳しく、まさに権威そのものだったので友達のようなお父さんっていいなあ、と思ったことがあったのですが今、クライアントさんの身体の声を聞いているとそういう友達のような父親が、その子にとってバランスが取れるということでもないということがわかります。父というのは、男性性の象徴であり、権威の象徴ですから父親が友達のようであると、男の子にとっては頼れるリーダーを必要としているのに、それを得られなかったという思いが残り大人になって、人をリードしたり、守ってゆくという男性性を持つことのブロックになったり女の子にとっては、女性は男性に守られるという意識の欠如につながってゆくのです。ですから、、女性性、男性性の観点から見るとオーソリティ•イシューというのは、明らかに男性性の問題であって上司に認められるとか、社会で認められている、という仕事やキャリアなどの問題に関わってきます。もちろん、女性でも男性性はありますからオーソリティ•イシューはあります。ちなみに、オーソリティ•イシューに関わらず認められたい、というのは男性性の問題であり愛されたい、というのは女性性の問題であると私は捉えています。ですから、例えば、女性が愛されたい、と美しさを追求したり、彼に甘えるのは問題がないのですが、認められたい、という意識が強く、例えば「こんなに私は育児をがんばっているのに」とか「私はこんなに仕事をやっているのよ」と彼やパートナーに認めてもらおうとすればするほどパートナーとの関係が上手くいかなくなるケースが多いのです。おさむが以前「のりこには、全く認められたいという意識がないよね〜。どうしてだろう」と言っていたので、そうかなあと見つめ直してみると全くないわけではなかったですがたぶん、これも私の父親との関わり方にあったのだなあと。私の父は、昔は頑固で柔軟性がなく、彼のやり方を押さえつける人でしたから子供の頃から、それに対する抵抗はありました。私はほとんど忘れていたのですが、母曰く「あなたは、よくお父さんに反抗して、殴られて目の下にあざを作って、学校行っていたわね~」だそうですからかなり抵抗していたわけですがでも、私の意識上では父は、私がきちんと自分の気持ちや考えを説明したり情熱を持って伝えれば、最後には必ず何かしらの理解を示してくれたし、父の愛情深い面も感じていたので例え殴られても、傷ついた、という認識は残らなかったのだなあと。むしろ、尊厳のある父をとても尊敬していたのでその父と戦い、認められた(あくまでも意識の上でですが)という感覚が私にとっての自己価値につながっていたわけです。それもあってか、昔から、信頼できる先輩や上司やオーナーや先生と出会いそういった立場の方から、かわいがってもらったり、認めてもらうことが多かったのは「自分を偽らず、誠意を持って伝えれば、必ず相手に通じる」という父との関係で生まれていた感覚とやはり父から受け継いでいた義理堅さや忠誠心や人情が強かったからだなあと。(それらも調整しましたが)ところが、一方で、女性としては認めてもらおう、とすればするほど女性は愛されなくなる、というのが、10代後半から感覚的にわかっていたこともあって彼に対しては、できない自分、だめな自分を無意識に出していたこともあり愛されたいはあっても、認められたいという意識は全くなかったわけです。昔、つきあっていた彼に経済的にも完全に頼っていて家事も気が向いた時にしかやらず毎日、彼のお金で飲んだくれたり、遊んでいるだけの時期があったのですがその彼に「のりこは、ほんと何もできないんだよなあ」としみじみと愛おしく言われたことがあってその時に「何もできない(やらない)私なのに、愛されている〜〜」とものすごく、うれしかったことをよく覚えています。私が自分でやる、とか、経済的に自立する、ようになったのはおさむとつきあい始めてからで(もちろんこれはサバイバルモードですが)ここ2、3年で、ようやく、その二つの極端なあり方のバランスを取ることができるようになってきたかなあと。あ、これはちょっとオーソリティ•イシューから話がずれました。一方で、私もオーソリティ•イシューは40代中盤まで抱えていてそれは、子供の頃に権威であった父親と闘ってきた(という意識)に加え前世的な要因から、権威=抑圧するもの、自由を奪うもののという認識であり、それに対する怒りや抵抗はいろんな形で現れていました。私の権威との戦いは、中学校から、信頼できない先生の言うことに従わないという形で現れ、高校でも、当時の彼との交際を学校と親から禁止されて反発して学校に行かない時期があったり大学に入っても様々な問題がありました。大学の頃、嫌いだった先生の個人授業で、バイオリンの練習をしなかったので「すぐにここから出ていけ〜お前は学校始まって以来の恥さらしだ」などと怒鳴られたりしていたのですがそのことで落ち込まないどころか、むしろ当時の私にとっては「権威に服従しなかった」という誇りであり周りのロックミュージシャンの友人たちに話しては「さすがのりこだね〜」などと共感されてさらにそれは加速していったわけです。まあ、ありがちなロック少女でその当時から、人に認められようとする、ことや、人の期待に添うことは私にとっての心地よさに反するものであったわけですが今思うと、そんな私をいつも無条件で受け入れてくれる友人たちに恵まれていたからこそ人への信頼やつながり感を持ち続けていられたのだなあと。大学を卒業し、会社に入ってからは、会社が私にとっての権威の象徴となりました。例えば、当時、帽子事件、というのがあってその頃、私は帽子が好きで、室内でも被っていたのですが会社内で、私が帽子をかぶったままでいる、ということが問題になり帽子を脱ぐように上司から言われたことがありました。まあ、ごく一般的なマナーを言われているだけなんですがその当時の私は「私が何を着ても、被っても自由」などと、頑として帽子を脱ごうとしませんでした。「それでクビになるなら、どうぞ。そんな会社はこちらから辞めよう」ぐらいの気持ちだったなあと。(あ〜「おまえは、ほんとめんどくさいやつだな〜」とニャンコ先生から当時の私に言ってやってほしい)で、結局、私が帽子を脱がないことで、私の直属の課長が処罰されるという事態になり、義理堅い私としては、それはあり得ないと帽子を脱ぐことになったわけです。当時の私にとっては、その一連のことがまるで権威からの抑圧のように感じていたわけですがもちろん、実際に抑圧されていたわけではなく私の抱えていたオーソリティ•イシューがそういった形で現れていただけで、そこに投影していたわけですね。オーソリティ•イシューは、必ずと言っていいほど「自由」に関わる意識が関連していて抑圧される、自由を奪われることへの抵抗や恐れというのが、根底に潜んでいます。で、そんな私のオーソリティ•イシューは、さらに政府や警察への怒り、という形で現れてきて30代の私にとっては、政治や闇の世界の真実を知ることや原発などの問題に関しては、つねに最も大切な問題でした。政治や何らかの反対運動などをやっている方の多くはこのオーソリティ•イシューを様々な形で抱えているのではないかなあと。それがスピリチュアルなことに意識を向けるようになってから徐々に顕在意識の上で抜けてきていたのですが潜在意識レベルでほぼ完全に抜けるきっかけとなったのが今から思えば、2011年にマトリックス•エナジェティクスのクラスを受けてカウアイ島に行ったあたりから。IHでも何度か前世的な要因は出てきたので調整をしたこともありますがマトリックス•エナジェティクスは、非二元的(ノンデュアリティ)な意識の変容なので、善と悪、抑圧するものと抑圧されるものという二元的な物の見方が抜けたということもあるのかもしれません。つまり、私が経験した、と感じているオーソリティ•イシューに関するあれこれはいわば、私の意識が作り出したストーリーにしか過ぎず真実とは全く違うのです。このあたり、詳しく説明しだすとまた長くなってしまうのですが。そのことを再認識することになったのが去年、フランスに行った後のある日おさむが「俺はのりこに対して、オーソリティ•イシューを投影させていた」と言い出したことにありました。最初は「へ?どういう意味?」とすぐには理解できませんでした。つまり、私がおさむにキネシオロジーを教えたり伝えてきたこともあって、おさむにとってはヒーリングという分野でのオーソリティが私であり私に認められたい、という意識が無意識に強くあったということです。それで納得したのは、私のちょっとした言葉やアドバイス例えば「これはこうやったら?」などという言葉に対してもおさむにとっては「俺は認められていない」と抵抗感になっていたのだなあと。一方で、私の認識としては私は、彼のキネシオロジーの実力も充分認めていたのでだからこそ私が感じていることを率直に伝える、という意識だったわけですから私から見ると、なぜ?こんなに認めているのに、となるわけですね。もちろん、これは彼の父親との関係から生まれていたオーソリティ•イシューを私に投影させていたから起こっていたことでそれをおさむは、自己ヒーリングで認識したということでした。は〜私としては女性として「のりこは何にもできないやつだな〜」などと言われつつダーリンにいろいろとやってもらって甘えたかったのに男性性の最も象徴であるオーソリティとして、見られていたんじゃこりゃ女性として守られないわけだよなあとおさむ曰く「のりこはあまりわかっていないけど、俺だけでなくのりこに対して、オーソリティイシューを投影させているヒーラーやセラピストは、けっこう多いと思うよ」ということ。なるほど、今まで、そういう風に見たことはなかったのですがそういう視点で見てみると、いくつか思い当たることがありました。私をとても慕ってくれていたのに例えば、私が何かのお誘いを断った、というようなちょっとしたことであっても私がその人を認めなかった、と勘違いして、いきなり疎遠になってしまったり傷ついた〜と言われるようなことが、何度かあってなぜそんなことに相手が大きく反応してしまうのかその時の私は単に、被害者意識が強く傷つきやすいのだなあと捉えてしまっていたのですがそれは、私に対して、オーソリティ•イシューを投影させていたからなのかもと。私は相手そのもののエネルギーは見ていても相手が私をどう見ているか?には意識を向けていないことが多いのでそこに気づかなかった(気づかないようにしていた)のもあるなあと。このオーソリティに抵抗していた私自身が今度はオーソリティとして投影されているなんてほんと人生っておもしろい。もちろん、それは投影している本人のオーソリティ•イシューの問題であって私の問題ではないわけですが一方で投影されるということ自体もやはり私自身が無意識に持っている「何か」のエネルギーであるわけです。それから、キネシオロジーで調べてみると、やはり私がつながっていたオーソリティとしての前世やら何やらが出てきてそこで、またいろんな気づきがありました。あ〜だから、なぜか昔から「民衆=無知」みたいな意識がどこかにあって「民衆」という言葉から来るイメージがどうも嫌いだったなあ、などということもわかったし、また昔から先生という立場になることが多かったのに一方でリーダー的な立場になることへの抵抗もありそういったことの根本要因も去年の暮れになって、いろいろ見えてきたわけです。そういう風に見ていくと、私は権威に関してある次元では、権威への抵抗や怒りがありある次元では、権威への忠誠や義理がありある次元では、権威そのものでありこれだけを取っても、いろんな関わり方があったわけで人は、ほんとうに多次元的だとも言えますが実際はそこに何も実体はないわけだなあと。(いや、単にめんどくさいやつ、というだけなんですが)と、いうことで、今日はこれまでの私のオーソリティ•イシューの物語でしたがこれからの人生、権威に対する抵抗も、また権威そのものとして投影されることもなく(?)生きていけるいいな〜とま、このあたりは、私の頭で考えて選択できることではないのでまた何か出てきたら、それはそれで完璧なのですけどね。
2016年01月25日
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今日は大晦日。ニューヨークは、まだ大晦日の昼過ぎですが、日本ではもう年が明けたのですね。私は今年のセッションは一昨日に終了したのですが、昨日、今日の二日間で溜まっていたメールへのお返事やセッションレポートをほぼ終えてようやく一息ついているところです。みなさまにとって、2015年はどんな年だったかしら?これは毎年のように思うのですが1年を振り返ってみると、その1年の間に出会った人たちや起こったことで1年前の自分の感覚は随分と変わっているなあと。何よりも人との出会いやつながりが、私の中に眠っていた様々な気づきを目覚めさせてくれるかのように感じます。時々ふと、日本「袖振り合うも多生(たしょう)の縁」という美しいことわざを思います。たしょうが多少ではなく、多生だと知ったのはいつのことだったか忘れましたが道で袖が触れ合ったような出会いであっても、いくつもの人生ー前世からのご縁というこのことわざを思うとちょっと触れ合ったぐらいでも、前世からのご縁だとしたら今生で、深く関わっている人たちは、いかに深いご縁でつながっているのかしらと。ここにお越しになるクライアントさんとも、多生でいろんなご縁があるのかもしれませんね。思い返してみると、あの時、あの人と出会ったから、今、これをやっているのだなあ、とかあのクライアントさんが来られたから、この精神疾患について深く研究することができたのだなあなど、今の私を作っているものの多くはこれまでの様々なご縁からつながってきたものです。もちろん、これまでの人生の中では、あまりいい関係で終わらなかったものもいくつかあり例えば「わかってもらえなかった」「誤解された」などという感覚がその後に残ったものもありましたがそれがあったからこそ、その感覚を深くひも解いていくと辛い前世とのつながりや、私の遺伝的な性格の問題などとリンクしていてそういった出会いもまた、私の中にある闇を引き出させてくれた大切な出会いだったのだなあと感じます。不要な出会いというのは何一つないんですね。さて、今月、8年ぶりに再会した方は最初にお会いしたその瞬間から、多生のご縁だと感じた方でした。彼女の名前は山下景子さん。彼女と出会ったのは、8年前、伊豆でのスェットロッジと富士山でのペルーの長老の祈りのイベントに参加した時のこと。一目彼女に会った時から、私は強い親しみを感じそして、彼女の方も同じように感じてくれてすぐに長年の親友のように意気投合したのです。そして、あの時、景子さんが私にドランヴァロのフラワーオブライフを勧めてくれたのがドランヴァロを知る最初のきっかけでした。その後、私とおさむはドランヴァロのワーク、ATIHをロンから受けて私は2012年にロンのフィボナッチのクラスを受けそして、来年2016年に、そのロンを招いてハワイでフィボナッチのクラスを開催することになったわけでもしも、あの時に彼女との出会いがなかったら、この流れがあったかどうか。彼女とは、それ以来、連絡は取り合っていなかったのですがこの12月にニューヨークに来られると連絡がありこれは何としても会わなければ、と出かけていったのです。久々に出会う彼女は会社の経営者としての貫禄みたいなものがプラスされていましたが率直でパワフルで暖かいエネルギーはあの時のままでした。彼女は数秘術や様々なヒーリングを教えている方ですが人のエネルギーも読める人なので数秘術と私のエネルギーから、様々なことを読んでアドバイスしてくれました。私は筋反射で直接身体に触れないと詳しいことはわからないのですがある程度のことは、その方の話を聞いたりその人のエネルギーで読める部分もあるのでお互いに酔っぱらいつつも、感じるままにああした方がいい、それはやめた方ががいいなどと言い合っていました。こういう時、相手が自分軸を持っている人だと何でも好きに言えるので楽なのですよね。8年前にたった一度会ったきりとは思えない感じでホテルのバーで語り合い、飲み明かしました。その時の写真です。彼女は来年ニューヨークでも数秘術の講座を開くそうなのでその時は、またご案内いたしますね。こちらが彼女のサイトです。http://www.clair-v.com/pro/index.htmlさて、今年、私にとって、とても大きかった意識の変化と言えば何といっても、おさむとの関係からでした。特に、今年の中盤以降は、けっこう辛くて何度も泣いたり、怒ったりと感情が揺れ動いた年でもありました。それは、単におさむと私の関係ということではなくおさむの抱えていたカルマとも言える、深い闇に関連していて今年最後になって、ようやくそれも解放に向かった感じです。それもこれも、9月におさむに対して行なったフィボナッチ以降ですからフィボナッチは、時には、魂レベルでいくつもの生で抱えてきた不要なものを吐き出させる強烈なヒーリングであることをつくづく感じさせられました。もちろん、私が辛かったのは、あくまでも私の女性性の部分であってもし私がセラピストとしておさむと向かい合っているだけだったとしたら例え、彼のセッションで何が出てきたとしても、特に何も感じないし「ああ、なるほど、こうなっているのね」で終わっているわけですが女性としての私の部分は、おさむの身体から筋反射で様々なことが上がってくる度にこれまでおさむと関わってきた20年間の様々な感情や感覚がよみがえってくるわけです。例えば、二人の間で起こったことで「え?おさむはあれをそういう風に捉えていたの?」というようなものがおさむの身体の声から明らかになるにつれ私自身もそのことで、ショックを受けたりしました。もちろん、おさむが何をどう感じていたとしても、誰のせいでもないしそう感じたということは、そこに何かがあることを知らせるサインでしかないことも充分にわかっていますが、一人の女性としてはそうはいかないわけでパートナーに対してセッションを行うというのはかなり強力な精神的な強さを要求されるなあと毎回のように思います。私の場合、いろんな方から「のりこさんは強いですね」と言われるように本質的な強さを持っているゆえに昨日の感想の方のように、個としての、また女性としての自然な感情を抑圧してしまう傾向があることもよくわかっているのでそこは抑えてしまわないようにおさむのセッション中でもわんわん泣いたり、セッションの後にも私自身のセッションを行なって、その悲しみを癒してゆくというようなことが何度かありました。ここを解放しておかなければ私の女性性の抑圧へとつながってしまうのです。なので、しばらくの間は私はもう彼へのセッションはやらない、と何度も思ったのですがおさむのハイヤーセルフというのは、かなり厳しいお方のようでおさむに少しでも、何らかの闇、例えば、傲慢さや現実逃避、自分への信頼の欠如など、彼にとっての真実から離れればすぐに身体の痛みとして知らせてくる、というのが今年の後半から始まった彼のプログラムでした。急に歯が痛くて、動けなくなったり、背中に激痛が走ったりそれは、時には耐えれないほどの痛みとしてやってくるので私もほっとくことができず、彼へのセッションをやることになったわけですがセッションをすると、その痛みにつながっている前世やらカルマやら何やらが出てきてそれらを調整した途端、その痛みはなくなるのです。毎回、思うのは、普通の人はこういった痛みが起これば病院に行ったり、薬を飲んだりするのでしょうが本当はそういった深い要因から、その痛みが起こっている可能性は高いわけです。だから、そういう場合は病院に行っても、根本治癒にはならないわけでその人の本質的なものが解放されるまで、それは何度でもやってきたり形を変えて、やってくるのだなあと。身体は潜在意識だけでなく、さらに深いレベルの意識とつながっているので痛みや不調や予期せぬ出来事というのは、その方が抱えている様々な要因のお知らせ装置のようなものと言えます。なぜその痛みや不調が起こっているのかがわからなければそのせっかくのお知らせも無駄になってしまうのですがそれに気づいた時は、すべてのことは感謝と祝福になるのです。ということで、今年後半は私は自分の意思や思いとは関係なく、彼へのセッションをやらされている感があったのですが今、思えば、そういったプロセスを経ることがさらに真実の生き方へ向かうために、二人にとって必要なことだったのだなあと。もちろん、まだ出てくるのかもしれませんけどね。もともと、いつも一緒にいるし、とても仲はいいのですが今はなんと言うか、どんな闇や問題が出てきたとしてもこの愛はけして揺らぐことはない、という深い確信みたいなものをさらに強く感じることができた年でした。そして、おさむの変化につれて、おさむが私へのセッションを深いレベルでやれるようになったのも今年からでした。おさむのセッションをやることで傷ついた私の女性性を癒すために今度は、おさむが私の身体に聞きながら、ヒーリングしてゆくのですから一見、効率が悪いというか。ま、考えてみれば、人間って、すべてが効率の悪い生き物ですけどね。もともとは、大きなるソースとつながっていたのにこの世に生まれて、そのソースから切り離されてそして、そこで様々なことを学んだり、気づいたりしながらそれを取り戻すプロセスを経て、いずれは、またソースに戻ってゆくという。最初から、つながったままでいいじゃん、という感じですがそのプロセスをわざわざ体験したい、といういわば人間みんなマゾみたいなものですね景子さん曰く、来年の私は大きな変容が起こるとのこと。今年のその変容のプロセスの大変さを思うと「え〜?また変容ですか?もう落ち着きたいんですけど」と思わず言ってしまったのですが落ち着く前に、まだ大きな変容があるそうです。きゃ〜ドキドキ。人生の中では、魂の学びは、そう楽な道は歩ませてくれないこともあります。もちろん、わざわざ苦しい方向を選んだり、困難を乗り越えなければ成長しない、などという信念や思い込みは不要ですが、例え、そういう思い込みがなくても、変化するべき時には変化を促される何かが起こるわけですね。そして、何が起こったとしても、結局、自分にとってそれは必要な変化のプロセスであり後から思えば、必ず、あ〜あれがあったからここまで来れたのだなあと感じるのです。ということで、新たな年のドキドキの変化を楽しみにしつつ。みなさまにとっても、2016年がさらに輝く年になりますようにお祈りしつつ。どうぞよいお年を!
2015年12月31日
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今年もいろいろありましたね。今年最後の時をみなさまいかがお過ごしかしら〜?私はこのところ、相も変わらず忙しかったのですがこういう忙しい時には、1日の中で力を抜いたり遊ぶ時間が必ず欲しくなるもので夜寝る前に、おさむとYoutubeで連続もののアニメを何話か見るのが日課になっていました。ここ最近は、以前にもご紹介した「夏目友人帳」を見ていたのですが二度目だけれど、やっぱりこのアニメに描かれている世界観は好きだなあと。毎回、見終わった後は「あ〜どんな出会いも別れも、人生の祝福だなあ」と、ほんわりしてます。少し前に、おさむに「のりこは、最近『ニャンコ先生化』してきたよね」と言われて、それって女としてどうなのよ?とちょっと微妙〜な感じですがニャンコ先生ファンとしては、妙にうれしかったり。一応、ご存知ない方のために説明すると、ニャンコ先生は夏目たかしの用心棒であってあやかしもの(この世のものではないもの)の中でも低級霊ではなく、格の高い霊という設定なのですが普段は仮の姿である猫となって、たかしと暮らしていていつも「腹減ったぞ、まんじゅう食わせろ〜」とたかしに要求し、毎晩酒を飲み歩いて、好き勝手しているのだけどたかしが妖怪に襲われたり、いざ危険になった時には本来の姿に変身して、襲ってくる妖怪たちを倒したり猫のままの姿でも第6チャクラから光を放ち、妖怪を追い散らしてきっちり用心棒としての仕事をする、というそのギャップが最高で、変身した時にはしびれるぐらいかっこいいのです。私は猫ラバーではないのですが、ニャンコ先生なら絶対に欲しいで、私が「ニャンコ先生化」しているところはいざという時はきっちり仕事をする、というところではなくいつも仕事が終わったあと、おさむに「腹減った〜、もう死ぬ〜。なんか食わせて〜」と要求するところということで、ニャンコ先生を食わせるためにおさむは、このところ毎日のように、夕食を作ってくれています。仕事が終わった後、おいしい食事がすでに準備されている時の幸せ感って半端ないこれ以上の幸せってあるのか〜と、噛み締めています。さて、話は変わりますが、先日、ようやくハワイでのフィボナッチのクラスの参加者の最終支払いが1名を除き全員終了したので、ほっと一息しているのですが最終支払いに入る直前になって、参加者の中で4人ほどキャンセルがありキャンセル待ちされていた方々が、すぐにそのスポットに入ることになりました。最初のデポジットは、今年の7月には支払って頂いていてそれは返金不可のデポジットということで決めたのですがロンから「最終支払いが終わった後はリトリート側に支払わなければならないので、返金はできないけれどその前にキャンセルされた方たちには最初のデポジット分をお返ししたい」と申し出てくれて、ロンの暖かさにまた感謝でした。返金の手続きやら、新たな参加者の追加やら何やらでロンに手間を取らせてしまったので彼に「何度も変更があったのに、いつも暖かく対応してくださってありがとう」とメールを送ったら、そのお返事が「私は、のりこからキャンセルが入りました、というメールが来る度にあ〜今回はこの方とはお会いできないんだなあとちょっと悲しい気持ちになってその後、のりこが新たな参加者の名前を送ってくるとあ〜今回、この方とお会いできるんだなあと、うれしくなります。この二つの感情を感じれることに、喜びと祝福を感じていますよ」と書かれてあって、やっぱり私はこんなロンが大好きだなあと。今回、キャンセルされた方たちは私とおさむはよく知っている人たちで中には、本当に来たかったのに来れなかった方もいて今回、ハワイで会えなくなったことが本当に残念だったのですがロンは、全くその人たちのことを知らないのに「会えなくて、ちょっと悲しい」という気持ちを持ってくれたことがうれしかったしそして、それを率直に私に伝えてくれたことに感謝で一杯でした。もちろん、ロンは、完全に宇宙の流れを信頼している人なのですべては完璧で、今回このクラスが必要な人たちが来られることもわかっているし一喜一憂するような人ではないのですがそれでも『人をケアする」という意識で、ハートが全開なのでいつもとても暖かいのです。例えば、ある悟者が「死というのは存在しない。私たちの魂は死なないし、もともと生まれていないのだから」と人が死んでも悲しむことはない、と言っているのを聞いたことがあるのですがもちろん、例え、ある次元では、死は存在しないというのが真実であってもやっぱり誰かがこの世を去ってしまったら、悲しいし、さみしいと感じることができるのが、私は好きだなあと。だから、いつも書いているように多次元的に存在していたいなあと思うのです。すべてはベストのタイミングで動いていることを知っているから何一つ動じることはないし、安心しているけれどでも、やっぱり会えなかったらさみしい。これが私たちに必要な自己表現なんだよね。私のところに、日本からお越しになって続けてセっションを受けられる方たちが増えているのですが出会いはいつも喜びであり祝福でありそして、また必ずやってくる別れは、ちょっぴりさみしいのです。でも、またいつか会えることを知っている(祈っている)からちょっぴり、なのだけど。日々、私たちは、出会いと別れを繰り返しながらそして、いつかは、大いなる一つの意識の中へと戻ってゆくのだろうなあ。さて、たまたま今日のセッションでも期せずして「あやかしもの」と向かいあうことになったのですが「夏目友人帳」や「XXXホリック」で描かれているようなあやかしの世界が私にとっては、けして、もう特殊な世界のことではないのがいいんだか悪いんだか。こんな時、ニャンコ先生が側にいたら、おもしろいだろうなあなんてふと思ったり目に観えない世界と目に見える世界に生きている人ってつくづく不思議な生き物ですね。
2015年12月13日
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今日は夕方からのセッションの方が予約を忘れてしまってお越しにならなかったのですがおかげでこのブログをアップする時間ができたのでささっと、「知性」について書いてみようと。このところ、精神疾患について研究していたこともあってここ最近は、IHキネシオロジーのセッションでそういう調整も多くなりました。精神疾患と言っても、統合失調症や解離性障害、境界性人格障害など明らかに病的なものや脳の障害として出てくるものもあれば例えば、コミュニケーション障害や被害妄想など、そういう性質があるという感じで出てくるものもありどこまでが病気で、どこまでが正常というレベルなのかの境目は曖昧です。そして「知性の欠如」と身体が反応する時にはそういった様々な性質や傾向を自分自身で認識できてない状態の時であってそういった精神疾患的な性質を持っているかいないか、ではないのです。例えば、被害恐怖など、自分の中であれこれと被害的なイメージをしていていわゆる被害妄想状態になっていたりまたは依存性人格障害で、人に依存する傾向があったとしてもそれを自分自身で気づいていれば、知性の欠如にはならないですがそれが認識できていなければ、知性の欠如となります。また、例えば、アスペルガーなどの症状も、脳の調整が必要だと出てくる場合は知性の欠如、となりますが性質や傾向としてのものだけでは、知性の欠如にはつながらないということも、ここ最近、身体からの反応でわかってきました。本人が全く精神疾患を認識していない場合つまり、知性が欠如している状態の時に、どこまでそれをクライアントさんにお伝えするのか?ということで、私は毎回、その方の身体に聞いているわけですが身体から「今は伝えない」と出てくれば、伝えることはありません。でも伝えると出てくれば、いくら知性が欠落していたとしてもご本人にお伝えなければならないわけでこれがこれまでの私にとっては少々、ストレスだったというか私が何をどう言っても相手は、今の段階では理解できないことはよくわかっているのでできれば伝えないでそのまま調整していけたらいいなあとと思うこともあったのですが、ここ最近はそういったストレスもなく、お伝えできるようになりました。ちなみに、知性というのは、学校の勉強ができるとかいろんな知識を持っている、とか仕事が特別にできる、などということとは全く関係ありません。知性は判断力、理解力、内観力、洞察力など様々な側面がありますが感性とも関連しているので知性である第6チャクラが大きく閉じていれは、ハートチャクラも閉じているケースが多いです。先日、友人からのメールで「エドガーケイシーは、知性は惑星から与えられる、と言ったそうですよ〜。本当の知性というのは愛が伴っているものだと思うし」とあったのですが、ちょうど私もこのところ「知性と愛」についてあれこれと思うところがありました。例えば、相手の気持ちを理解する、とか自分の感覚を受け取る、とかそれを的確な言葉に表現する、という知性がなければ人とのコミュニケーションは上手くいかなくなるし愛の状態でいることは難しくなってしまいます。でも、子供の学習障害や自閉症などのケースでは、例え第6チャクラが閉じていてもハートチャクラはまだ大きく開いていることもありそういったケースでは、その親がその子の障害や性質をそのまま受け入れていてその子は愛の状態でいれることがわかるので、とてもうれしくなります。一方で親から愛を与えられなくても(天から)知性を与えられたので愛を持ち続けることができる人たちもいます。よく親が育児放棄したとか、虐待した、といった事件がありますがそういう親に欠けているのは愛というよりは、知性なのだなあと。以前は、そういうことを子供に対して行う人はその方自身が親から愛されなかった人たちなのだ、と思っていましたがもちろんその要因も大きいものの例え、どんなに親から愛を与えられずに育っていたとしてもむしろ人への愛に溢れている人もいてそれは知性を与えられていたからなのだと。ですから、この世に生まれて、もしも知性を与えられずそして愛を与えられなかったとしたらそれはもう幸せな人生を歩むことはできなくなってしまうわけです。知性ということで調整すると、まず間違いなく身体から出てくる要因は脳の調整、そして、性質や性格としての親の遺伝の問題ですがそれと平行してよく出てくるのが、前世やカルマの問題です。ですから知性というのは、今生で与えられたものではなく前世やカルマ的な影響が大きい、ということもここ最近のセッションで気づいてきました。(エドガーケイシーが知性は惑星から与えられると言ったというのもそういうことなのかはわかりませんが)よく日本のことわざ?で「バカは死んでも治らない」なんていう酷い言葉がありますが身体から上がってきた様々な要因を見ているとそんな言葉に妙に納得してしまうのです。ちなみにカルマ的なことで言えば「前世での自殺」や「前世での暴力、冷酷」などとという要因が上がってくる人の多くにその人の今生での親や、その人自身の知性に問題を抱えているケースが多いです。(もちろん、これはあくまでも傾向であって、すべてではありません)前世での自殺、などという要因が身体から上がってきた場合はそんなことを知ったとしても意味はないし余計なイメージを受え付けるだけですので私はそのことをクライアントさんにお伝えすることはまずありません。(ごくごくたまに、そういうイメージや夢を持っていて気づいている人もいますが)知性は、第6チャクラに関連しているので第6チャクラが著しく閉じている人は知性や明晰さが欠落していることが多いです。それに関して、少し前のセッションでおもしろいなあと思ったのはある女性のセッションで、その方の身体から「知性の欠如」「何も観えていない状態」という言葉が上がってきたのですが不思議なことに、第6チャクラは他のチャクラよりもずっと開いている状態になっていたことでした。これは一体どういうことなのだろう?とさらに見てゆくと『何も観えていない』というのと同時に、ほんの少し『観えすぎている」にも身体の反応があります。ほんの少し、というのは、身体の抵抗が起こっている状態だったので大きくは反応しないけれど「観えている」という性質もどこかにあるということ。それで、ご本人に「何も観えていない、と身体から出てきているのですが。まるで頭が霧の中にあるような状態みたいなのですけど」と聞いてみると「いや、まさにそうなんです。子供の頃から私は自分では何も判断したり決めたりできなかったので私はバカなんだと思って、すべて親の言うとおりにするしかなかったのです」というお答えでした。それで、ピンと来たのは、もし本当に知性がなかったとしたら誰にも言われたことがないのに、自分に知性がないことに気づくことはできないわけでこの方は「自分は何もわからない、ということに気づく知性を持っている」ということでした。それでさらに探ってゆくと、出てきたのはやはり前世の要因でした。その方がつながっていた前世は、サイキック的であり、観えすぎている状態だったのですがそのせいで、責任を負わされ、人を救うことができなかったギルティ感を持つことになりそれで、今生では、自分自身で(もちろん無意識レベル、魂レベルで)知性や観える力を封じていた、ということでした。だから、この方にとっては、何もわからない状態で他の人の言うとおりにやっていれば「安全」だったわけです。同時に、その方はずっとヒーリングをやりたいと思っていたにも関わらずなぜかこれまで実現できなかった、というのも、その前世の要因でした。おもしろいと思ったのは、この方が、今生では判断力、理解力、内観力、洞察力、決断力などの知性を封じてしまって、何も観えていない状態になっていたのにも関わらず第6チャクラだけは開いていた、ということです。つまり、チャクラの開き具合というのは、今生だけのものではなく前世的なもの、魂レベルでのことも反映しているわけですね。チャクラは、ある程度、日々のちょっとしたことでも開いたり閉じたりしますが一方で、その人にとって、生まれてからずっと弱いチャクラ、とかここだけはいつも開いているチャクラ、などがあり弱いチャクラは、その人の今生での課題やテーマでもあるわけです。この方は、それが4回目のセッションだったのですがこの日のセッションで、一気に彼女の目が輝き始めたのを感じました。まさに知性は第3の目であり、知性を高めることは目を開く、ことなのだなあと。その他にも、知性をブロックする要因はいろいろありますが例えば、たまに上がってくるのがその方の親がダブルバインドだった、というのがあります。ダブルバインド、というのは、表情やエネルギーと言葉や行動が一致しない人のことです。例えば、親が子供に対して、こちらにおいで、と口では言っていながら子供が来ると表情やエネルギーは嫌な表情をする、とかあなたを愛しているのよ、と言いつつ、殴る、など子供が混乱を招くような性質を親が持っているとその子の理解力や判断力などの知性は失われてゆきます。大抵の場合は、その親はダブルバインドであるという自覚はないですしもしその子が遺伝的にその性質を受けつげばその子は親が酷かったとかいう意識さえ、持っていないのでそうなるとそれを本人に気づかせるのは、大変なのですがその方が本当の知性を取り戻すには、必要なプロセスなのだなあと。ヒーリングは、こういった様々なプロセスについていかにそれを淡々とやっていくことができるか、だなあと感じます。そういった意味で、ヒーリングを極めてゆけばゆくほど「感情が揺れ動く」という女性性が失われてサムライ、になってしまうのかもなので、私の弱いチャクラは、やはり女性性と感情のセンター第2チャクラなのですよね〜。何年か前に、ロンにチャクラを見てもらった時にも「特に第6チャクラは大きく開いていて他のチャクラもほとんど開いているが第2チャクラは若干、閉じ気味です」と言われたことがありましたが先日、おさむに見てもらったら、やはり第2チャクラが弱いと出てきてこれはやっぱり私の今生でのテーマでもあるのだなあと。私にとっては、音楽が女性性と密接につながっているようで占星術の松村先生にも、音楽は私自身のバランスを取るために必要と言われたのですがセックスより何よりも、音楽をおさむとやっている時間は女性性が高まることに、最近気づいてきました。ということで、これからさらにダーリンとのを深めてゆくのだ〜(←なぜか走る)
2015年12月02日
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ここ1ヶ月、ひたすら走り続けていた感がありましたがようやく昨日、一段落した感じです。明日はセッションが入っているものの、3日後にはフランスに出発です。(ここ最近メールのお返事が遅れています。ごめんなさい!)あれから二転三転とあり、昨日になって、おさむも一緒にフランスに行くことになり急遽、飛行機や列車のチケットを購入しました。このあたりの経緯は、いろんな要因があるので、説明しずらいのですがすべては、落ち着くべきところに収まった、という感じがしています。まず、先日の3日間、松村潔先生の占星術のクラスを受けてきました。「のりこさんが、占星術なんて意外〜」と何人かの方にも言われましたが確かに占星術はスピリチュアルというより、統計学という認識だったこともありこれまでは私自身も興味がない分野でしたがここ最近「〜星座の〜〜の影響を手放す」というようなものがクライアントさんから、上がってくることが少しずつ出てきたこともありそれなら、一度、占星術について学んでみようかしら?と思っていたところにたまたま、日本でIHヒーリングを教えている雪乃さんが主催する松村先生のクラスがNYでありまた、クラスの初日が「たまたま」私が約1ヶ月のバケーション(ではないのですが)に入るまさにその日のタイミングだったので、参加できたわけです。占星術には全く興味がなかった、と言っておいて何ですが実は、20年以上前に、エドガーケイシー財団から占星術のリーディングレポートを送ってもらったことがあり、今回、占星術のクラスを受けるに当たって久々に思い出したので、その時の資料を探してみたら、ありました。当時から、スピリチュアルなことには興味はあったもののレポートに書かれてあった内容が、あまりにもぶっとんでいてその頃の私にはピンと来なかったこともありちらっと読んで、そのままになってしまっていたのですが今、あらためて読み返してみると、私のアトランティスの前世やサイキック能力のことだとか前世でのキリストやエジプトとの深い関わりのことだとか詳しく書かれて、その真偽のほどはともかく、おもしろいものだなあ、と。今年の5月に福岡で見てもらったリーさんにも「あなたは、前世でのキリストとの関わりも深いのよね〜」と言われていたのですが私は、いわゆる「キリスト教」には、全く興味がないこともあってその時は「え?キリストですか?」とあまりピンと来ていなかったもののその後、よくよく考えてみれば、例えば「巡礼の地」と言われるようなものに対してなぜか強烈に惹かれてしまう感覚が昔からあって今月のフランスの旅も、サンティエゴ巡礼のフランス側の出発地点であるルピュイアンバレーの写真を一目見て、もうドキューンという感じでここに行かなければ!と即決したのです。まあ、だからといって、前世でキリストに縁がある、ということにもならないわけですが何となく、今度の旅は、遊びに行くというよりどこか一人で修行にでも行く感じがしていたわけなんですね。さて、占星術では、自分の生まれた時間や場所によって10の惑星(太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星、海王星、天王星、冥王星)と12のサイン(牡羊座、牡牛座などの12の星座)と12のハウスの関係をコンピューターでチャートを出して読んでゆくのですがリロケーションと言って、その人が今、どこに住んでいるか?によって、その人が持っている性質やその出方も変わってくるということを今回のクラスで、初めて知りました。例えば、私の場合、日本での惑星の位置では社会的な立場である10ハウスに太陽が入っていてお金に関わる2ハウスにも惑星が二つあるので仕事での成功や社会的な立場の確立や経済的な面では、ニューヨークより断然日本の方がいいですがまたもしハワイに移ると、意外にも今よりも、さらに仕事中心の人生になるのだそう。でも、どこに行っても変わらないものもあって、私の惑星の配置から目に観えない世界との関わりは、世界中、どこにいても深くなるのだとか。クラスの中で、松村先生に個人的なリーディングもして頂いたのですが私が今、どういうところにいるのか?といった占星術的な立場から見た私の運命、みたいなものが、何となくわかってきました。クラスの他の参加者の方では「これからどういった道を進むのがいい」などと言われた方もいましがが、私の場合はこれから2018年までは、冥王星が毎年のように逆転するのでどうなってゆくのか、全くわからず思考錯誤しながら進んでいくしかないとのこと。松村先生曰く「あなたは、もう個人的レベルで動ける状態ではなくいろんなものを背負っている状態なので頭で考えて今、何かを決めても無駄です」「2012年にあなたのガードが破られて、本来の素質が出てきたので例え、どこに行ったとしても、そこから逃れることはできません」とのこと。私個人の思いや意思でどうにもならない状態なんて、たぶん、以前の私だったら否定していただろうなあと。例えば「私は〜に使命を感じてやっています」というのはあくまでもその人が、それをやるのを選択して好きで楽しくてやっていればいいのですがそれを選ばざるを得ないというのなら、それは自己犠牲的になりそれは、どちらかと言えば、自己価値の低い人たちがやることだと私は思っていました。多くの人は「私は何もしなくても、そのままで価値がある」という本来の存在価値を認めることができないので「この使命のために、自分を犠牲にしてでもやっている」という自己満足感で自分の価値を認めたい、と思っているケースを何度も見てきたこともあります。なので、個人の思いや意思では避けられないものがあるなどというのは、どこか嘘っぽく感じてしまってどんなものであっても変えていける、と思っていたわけなんですね。でも、少し前にも書いたようにここ最近は私の意思や思いとは関係なく、物事がどんどん進んでいく感じでシンクロやサポートも半端なく起こり「何かに動かされている感」が半端なくこれは何かがある、と感じざるを得ない状態が続いていました。もちろん、私にとって喜びであることしか選択していないのは確かですが一方で「ここまで自分自身の時間を削っても私は本当にこれをやりたいのか?」と思うとちょっと微妙なのです。以前、リバーシングのみかさんに「これから、個人的な時間は、ますます減ってゆきますよ」と予言されたのですが、確かに、私自身のための時間というかもともとは好きだった、ぼーっとしたり、料理をしたりその日の朝にやりたいことを決めたり、といった時間はここ最近は、全くなく家のことにしても、買い物も料理も片付けも私はする余裕はないので、すべておさむがやってくれていました。でも、占星術でそう出ている、というのを聞いて、逆にそれならそれで受け入れることも必要なのかも、とすっきりしました。おさむとの関係についても占星術で見てもらうと例えば、太陽は男性的なエネルギーであり、表に出ていく性質であり月は女性的なエネルギーで、内に入っていく性質ですが私とおさむの場合は、私が太陽で、おさむが月というバランスがベストとのこと。おさむは、占星術的に見て、ソフトで柔軟ではあるけれど一方で何かを発案したり、物事に深く切り込んでいく力は弱いのでおさむが男性性を発揮して、私をリードしていくよりこれまでのように、私がリードしておさむが受けに周る方が自然と上手く行くのだそう。そう考えてみると「のりこはドラエモンで、俺はのび太」というこれまでの二人の構図もある意味、占星術的には、自然な形だったのかもしれないなあと。今年のマカハのリトリートでも、何人もの方に「のりこさんのセッションがジェットコースターのように有無を言わせない感じで、どんどん引っ張られていくのに対しおさむさんのセッションでは、私自身に寄り添ってもらって一つ一つ確認しながら進んでゆく感じで安心できてすごくベストなバランスでした〜」と言われたのですがそういう意味でもこれまでのバランスが自然だったのだなあと。それを、無理に、おさむが男性性を発揮してリードしようとしたり独自性を出そうとしても占星術的には、上手く行かないわけですね。もちろん、占星術が統計学ということなら必ずそうなるわけではないでしょうが松村先生のリーディングは、かなり細かいところで的を得ていたのでいろんなことが納得できました。ですが、一方で、私は先祖のカルマや遺伝であっても、キネシで調整できるのだから占星術におけるそれぞれの運命のようなものも調整できる、と考えていてこれから、おさむが持っている占星術的に見た仕事面での弱さみたいなものを変化させていけるのではないかとも思っているわけなんです。おさむのアップダウンの激しさなども、占星術的には自然だそうですがそれらを調整できたら、さらに彼のよさが出てくるなあと。「こういう星のもとに生まれてきたのだから」とそれに甘んじてしまう必要はなく「人が持っているもので、変えれないものは、何一つない」ということをより深いレベルで信頼したいなあと。ということで、Zodiacや太陽や月のチューニングフォークはすでに持っていたのですが10つの惑星すべてを持っていなければ、たぶん占星術の影響の調整は無理なので早速、アーキュトニック社に冥王星や海王星など他の惑星のチューニングフォークをオーダーしました。このあたりの行動力についても、松村先生曰く星の位置から、私は「何の結果についての保証がなくても、行動を起こしていける人」なのだそう。これから占星術の影響を調整するための研究をおさむを実験台に、しばらくやってみるつもりです。そして、この占星術のチャートを見てもらってから私の中で、何かが吹っ切れた感じもあって今回の旅も「もし私が何らかの目に観えないものを背負っているのだとしたらできるだけ私自身が楽する道を選んでもいいんじゃない?』と思えるようになりそれなら、一人で旅するより、おさむも一緒に来てもらって彼にサポートしてもらおう、と。それでおさむの身体に、そういう理由でフランスに行けるかどうかを聞いてみるとオッケーが出たので、一緒にフランスに行くことになりました。おさむのここ1ヶ月ぐらいの変容ぶりも大きくて彼自身の深いところにあった闇を見つめることで女性の痛みを感じたり、寄り添ったりする部分だけではなく多くの人が持っている深い闇も光も包み込んでゆく包容力が出てきたように感じています。どちらにしてもこのタイミングで、占星術のクラスを受けたのも上手くできているんだなあと。(もちろん、これも単なる「意味付け」かもしれませんけどね)ま、所詮、人生は暇つぶし、ですから。(暇つぶしすることがが多すぎて、暇が全くない状態だけど)修行の旅、にするのもいいけどそれよりも、そのこと自体を遊んで楽しんでいきたいな〜と。おさむ曰く「もう俺はのび太を恥じない。のりこは『帰ってきたドラエもん』だね」ということで、私は、再び「ドラえもん侍」になったようですPSこちらは、占星術のクラスの後、ゆきのさんとちずちゃんと4人でタパスの店へ行った時の写真。(のび太+魔女3人組という噂が)ゆきのさんに、手作りのオルゴナイト(しかもフラワーオブライフ入り)などとても素敵なプレゼントを頂きました〜♪
2015年09月20日
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前回のブログの続きです。さて、先日お話したように、9月の旅のことがきっかけで私自身抱えていたもの、そしておさむが抱えていたことに気づいてきてその中で、おさむが決定的に人の痛みを感じることができないという性質が観えてきたわけです。それが、はっきりとわかったのは、ケントくんの講演会のことでした。あの時、私はみんなが見ていたのとは違うビジョンを見ていてそれをどう捉えていいのか、はっきりとはわからず数日間は、おさむともシェアすることなく自分自身の内面を見ていました。もちろん、おさむが人の痛みをわからないと言ってもたぶん、一般的なレベルでは、ごく普通であって彼は昔に比べると、とてもやさしくて、サポートもしてくれるし私のわがままも受け入れる余裕もあるし普段の生活の中では、特に何も問題は感じていなかったのですがどうしても、共有できない部分があってそれは一体何だろう、とどこかで感じていました。でも、私がその部分を深く観れなかった要因として私自身のスピリチュアル的な学びがありました。キネシオロジーもそうですが、精神的な世界では「自分の感情は自分の責任」「人の感情は人の責任」ですから例えば、私がおさむの言葉で傷ついたとしてもおさむに人を傷つけようという意図がない限りおさむの問題ではなく、あくまでも私の問題なわけです。ここは男女の関係だけでなく、コミュニケーションにおいてとても大切なところで人の言動にいちいち傷ついて「あなたのせいで傷ついた」と被害者意識になってしまえば人間関係は上手くいかず、ずっと苦しいままですからまず第一に、自分の感情は自分の問題傷つく選択をしたのは自分なのだ、ということを受け入れることは、第一のステップなのです。ですから、その度に私自身の傷と向かい合い、解放してきたので少々のことでは傷つかなくなるわけなのですがそれでも、どうしても傷ついてしまうこともありました。例えば、私たちには子供はいませんし今ではそれが本当に私の魂が選んだ道だと思っていますが40代初めまでは、私の意識のどこかに子供が欲しいという思いがあったので何度かおさむと話し合ってきました。おさむは子供を持つことには全く興味がなかったし私自身も絶対に子供が欲しい、というわけではなくやりたいことも山ほどあったのでおさむが欲しくないのなら、子供を持たない人生もいいわねと納得してきたわけです。それでも、どこかで「この選択でよかったのかしら?」という思いはあったのですが2008年にシャスタに行った時に、シャスタクラブのサイキックの治美さんに私から何も聞いてないのに「あなたは、今生では、子供を生まない人生を選んできましたよ」と言われた時に、救われた気持ちになったわけです。それですっきりはしていたのですが、ある時、自己ヒーリングで卵巣の調整をしていた時に「子供が欲しかったのに生めなかった」という悲しみのエネルギーが出てきたことがあり、その時におんおんと泣きました。これは、たぶん私だけでなく、多くの女性が本能的に持っている思いなのだなあと実感したのです。それから、何年か経ち、50歳を過ぎた後でもう、その悲しみもすっかり癒されたこともありその時の思いをおさむにシェアしました。私としては、おさむを責める気持ちはなくただ、その時の悲しみや辛さをシェアしたかったのですがおさむが一言、軽い調子で「じゃあ、これから子供でも作ろうか」と言ったのに深く傷ついてしまったわけです。「もう50歳を過ぎて閉経になろうかという時になって、そんなこと言うか〜」という怒りも湧いてきたのですがおさむにしては、全く私を傷つけるつもりなどないわけなのですね。そもそも、子供を欲しい、という本能が男にはないのにそれを理解しろ、というのが無理な話なわけです、そんなこともいろいろあって、男と女は身体の構造自体が違い本能的に持っているものが違う以上本当にわかりあうことは難しい、ということを認識はしていたのですがそれは身体の構造や本能というだけではなくDNAが関わっていて、男性でもそれを感じれる人はいる、ということもわかってきたわけです。よく本やブログなどで、男性の悟者が、様々なスピリチュアルな真理について話している中で感じていたのは「それはもっともなことなんだけど、どこか心に響いてこないなあ」ということでした。その感覚が何なにか、よくわからなかったのですがこれは、女性としての感性だったのだ、ということが今はよくわかります。そのことに気づいてから、数日経ってからおさむに私の気づきについて話をしました。おさむは、そのことを真摯に受け止めてくれて私のセッションを受けたい、という話になりました。それは、私とおさむのこれまでの信頼関係があったからこそなのだなあと、おさむには感謝で一杯でした。それは5時間以上に渡るセッションで、私にとっては辛いセッションとなりました。最初のうち、おさむに悲しみを感じてみて、というと彼のハートチャクラが閉じてしまうのです。それは、彼自身が彼の母の悲しみや辛さを子供の頃に感じるのが辛かったから、女性の辛さを感じないようにハートを閉じてきた、ということがありました。そして、またDNAの問題とともに、やはり前世での問題も上がってきました。それは、まさに私がケントくんの講演会の時に感じたビジョンでした。このセッションは、私自身の願いやエゴを完全に手放さない限り正確に筋反射は取れなくなるので私にとって、自分自身への深い信頼を試されるセッションでした。そのセッションの中で、おさむの身体がたくさんのアファメーションの中から「私の魂は、ソウルメイトを受け入れます」というのを選んだ瞬間に私は思わず、おんおん泣きました。これまでの私のおさむへの深いコミットメントが報われた気持ちでした。人の痛みや悲しみを感じるためには、まずは自分自身の悲しみや痛みとしっかり感じる力が必要なのだなあと。そのためには、いかに自分を深く信頼しているか、がすべてなのです。ですから、人の痛みや悲しみを感じれない人というのは実際は、とても弱い精神力であって弱いので、傷つかないように感覚を封印してしまうわけなんですね。私たちに必要なのは、傷つかないことではなく例え、傷ついても自分を信頼し、その感覚を感じきる力なのです。これまでのおさむにその力がなかったのは彼が彼自身への深い信頼への欠如でした。昔、リバーシングのみかさんがおさむに「一度、死んできてください」と言っていたのを思い出して「あの時、すでに彼女はここまで観えていたのかな〜」とおかしくなりました。DNAや前世レベルで深く抱えてきたこれらの要因は普通なら一度死なないと一生変わらなかったかもしれません。そして、セッションの次の日、おさむの顔が変化しているのに気づきました。彼の目にこれまでは感じなかった慈愛のエネルギーが出てきた、というか。あ〜、これが本来のおさむだったのだなあと。人の意識の解放は、どこまでも深いですね。男と女が本当にわかりあえる時代になるためには私たち一人一人の意識の解放がかかっているなあとつくづく感じます。ここ数日、日本から来られてセッションを受けられている方がまさに男性に傷つけられてきた深い闇を越えてそれを光に統合してゆくためのセッションになっていていろんな意味でシンクロしていました。これは男性が加害者で女性が被害者という2元的な構造としてではなく私たち人間が長い歴史の中で抱えてきたものでありそれを今。個人レベルでの解放を通じて全体レベルの意識を変えてゆくという新たな時代に入ってきているののだなあと。おさむと深い関わりの中で、私はいろんなものを見せられてそして、私自身の深いところが解放されていくに従ってまた、それがいろんな形で還元されていくのを感じます。ヒーラーは自分自身の闇を見つめていくのと同時にクライアントさんによってヒーラーとしての力が育ってゆく、と私は思っていますが、ヒーラーとしての私を育ててくれたのは誰よりも、おさむだったのだなあと。(できれば、もうこのあたりで勘弁してほしい〜)ということで、その後も次々と新たな気づきはあるのですがまた次回〜♪
2015年09月07日
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ここ最近の私の気づきと変容について、できる限りシェアしたいなあと思うのですがそのために、まずは遺伝のお話を。最近、クライアントさんのセッションでDNAの調整がよく上がってきています。遺伝の問題というのは、意識しているいないに関わらず実に幅広くあらゆることに関わっています。例えば、一般的に知られているのは、太る体質、アレルギー体質など体質の遺伝や大腸、腎臓、生殖器など内臓や器官の遺伝、皮膚や髪などの遺伝また、よく出てくる調整では、脳の遺伝があります。右脳活性のための調整にも遺伝は関わっていることが多いですし言語中枢や脳幹、また原始反射でさえ遺伝が関連しています。私もいくつか自分自身の遺伝の調整を自己ヒーリングでやってきたのですがその度にかなり変化を実感してきました。例えば、私はもともと便秘体質で、10代、20代の若い頃は1週間以上続くような、かなり強力な便秘体質だったのですがこれは父の大腸に関する遺伝だったので、それを調整してからは便秘になることは、ほとんどなくなりました。また、少し前に、私のくせ毛が強くなってきて、前髪がぐるんぐるんになってどうにもまとまらないようになったので、これは両親の髪質の遺伝だな〜と自己ヒーリングで調整をしてみたのですがその2日後に、たまたま美容院に行ったら「のりこさん、くせ毛がやわらいでる〜」とヘアースタイリストさんに言われて調整後、たった2日で髪質が変化しているのにびっくり。確かに、その調整以来、私の前髪のぐるんぐるんはなくなって落ち着いていました。(スタイリストさんが一人一人の髪質まで覚えていることにもびっくりでしたが)そして、ここ最近私が多くやっている調整は性格や性質に関する遺伝です。例えば、心配性やすぐに感情的になる性格とか神経質やおとなしい、人目を気にする性格プライドの高さ、感受性が強い、競争心が強いなど性格や性質は、インナーチャイルドや、脳や原始反射の影響なども大きいですがそれだけでなくDNAレベルで受け継がれていくのです。私も最近、父方からの遺伝であった情の深さやすぐに結論を出さないと気がすまない忍耐力の欠如に関する遺伝の調整をやりました。気が早い、というか忍耐力がないというか例えば、これをしたいと思ったら何が何でもすぐに行動せずにはおられない、とかこれが問題、だとわかったら、すぐに調整せずにはおられないといった性質は、私の父から受け継いだものでおさむにも、いつも「のりこは、待てない女だな~」と言われていましたがこの調整をした後は「待てる女」になってきたようですまた、遺伝的に受け継いでいた情の深さも、変化を感じていてエネルギーに敏感なクライアントさんからは「のりこさん、最近エネルギーが変化した〜。以前より、ちょっとドライな感じ」などと言われるようになりました。さて、両親のどちらかの性質を遺伝的に受け継いだとしてもある『ストレス』がかからなければ、その遺伝子は活性化しないということは以前にもブログに書きました。例えば、母が消化器系が弱く、その遺伝を受け継いだとしても人生の中でストレスがそれほど多くかかっていない状態ではそのDNAの影響は受けないわけです。ですから、普通は年を取れば取るほどいろんなストレスを体験してゆくのでいろんな意味で親に似てくるわけです。例えば、私の弟などは、彼が小さな頃は全く父に似ていなかったのに最近はいろんなところが父に似てきていてあ~父のDNAが活性化してるな~と。私自身は、いろんなところで年とともに母の影響が強く出てくるようでこれからまた発声や皮膚の遺伝について調整していこうと思っています。さて、そのDNAが活性化するためのストレスというのは一般的に考えられているストレス、というだけではありません。DNAは、ウイルスの影響も大きく受けるので例えば、風邪を引いたりすると、そこでDNAの情報が書き換えられたりするのはよく知られていることですが信念体系や思い込みなどから来る感情的なストレスの影響も受けるし実は、過去生などのエネルギーもDNAに大きな影響を与えているのです。IHヒーリングのDNAのプロトコルには過去のエネルギーをダウンロードするというプロセスが含まれているのですがこれはほとんどの場合、過去世のエネルギーなので最初の頃は「どうして、DNAに過去世が関連するの?」その意味がよくわかりませんでした。でもいろいろ調べていくうちに、その関連性がわかってきました。例えば、父方からの感情的なDNAの影響を手放すための調整をしていたとしてそれに、過去生が関わっていると出た時にどんな過去生が関わっているのかを見てゆくと波瀾万丈の激しい前世だったり、平穏に生きれなかった前世だったりするわけです。これは、そういった過去世があるからカルマ的にその家系を選んで生まれてくる、ということもあれば逆に生まれた後で、インナーチャイルドやその他の影響から何らかの過去世のエネルギーとつながりそのエネルギーが、DNAの情報を変化させる、ということもありうるのでどちらが先か、ということはわかりませんがとにかく、DNAと過去世とインナーチャイルドは密接な関連性を持っているということがわかってきたわけです。さて、ここでやっと今日の本題に入るわけなんですが(前振りが長い!)このDNAの問題が男と女がわかりあうことができない問題に関して大きな要因の一つである、ということなのです。例えば、男性の浮気性。もちろん、女性でも浮気性の人はいますが全体的に見れば、圧倒的に男性の方が多いわけです。それは、遺伝子レベルで受け継がれてきているからだということは少し前から、わかってきました。つまり、お父さんが浮気症だったら、その息子も浮気性になる可能性は大ということになります。そして、男性が女性の心の痛みを理解できない、といったこともこの遺伝が関連しているのです。よく「女の気持ちがわからない」と言いますがこの女性の気持ちを理解しないDNAを持った男性がけっこう多いということに、最近気づきました。だから、なぜ彼女が「そんなことで」傷つくのかわからないしそれを女性に責められたりすると、男性の方は逆に被害者意識になり自分は彼女から理解されていない、信頼されていない、という思いを持つことになってしまうわけです。これには「女性の気持ちがわからないDNA」と「人の痛みや悲しみがわからないDNA」の二つがあって後者の方は、女性で持っている方もいます。人の痛みをわからないDNAを持った両親から生まれて、育てられれば自分自身の気持ちは親から理解してもらえないので、深いところで傷つくしそして、自分も人の気持ちを理解できない人になってゆくわけです。では、なぜ人の痛みや悲しみを理解しないDNAを持つ人が、男性に多いのか?ということなんですがこれは、この地球上の歴史を見てみると男性が領土を勝ち取ったり、世界を制覇したりするために人の痛みや悲しみなんて感じていたら、できなかったわけで暴力、人への抑圧、コントロール、権力そういったものを男性が持つことで、いわゆる「成功」を収めてきたわけです。だからこそ、遺伝子レベルで、それを受け継いでいくことが男性にとって必要だったからなのだ、ということがいろんな方のセッションを通じて、すとんと落ちてきました。ですから、人の痛みや悲しみを感じないDNAを持った男性に人を抑圧してきた男性としての過去世が出てくるのも納得なのです。そして、今からの時代は、もうその遺伝子は必要ないのだなあと。逆に人の痛みや悲しみを感じすぎてしまうと、リーダー力というのは失われるケースが多いのも確かなのです。私のセッションにお越しになる男性には、どちらかと言えばやさしすぎる、人にすぐに同情するという方も多いので、男性性を高めるセッションを行うこともよくあります。もちろん人として、人の痛みや悲しみを感じることができるのは素晴らしいですし、そういう彼や旦那さんを持った女性たちは幸せですが一方で、それが強すぎれば、仕事での成功やリーダー力に支障が出てくるわけです。ですから、そううった方は逆に男性性を高め一人一人の気持ちにフォーカスするのではなく達観した意識で物を見て、自分がやりたいことをやってゆくという調整になってゆきます。どちらにしても、バランスなのですね。そして、その「女の心がわからないDNA、人の痛みがわからないDNA」を持っていたのが、私の愛するダーリン、おさむなのでした(泣)あ〜文字制限になって、アップできなくなったのでこの続きはまた次回〜〜。
2015年09月06日
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有名なアインシュタインの言葉に「私たちの生き方には二通りしかない。奇跡など全く起こらないかのように生きるかすべてが奇跡であるかのように生きるかである。」というもののがありますがまさにすべては奇跡だ、と感じている今日この頃です。食べることができず、話すこともできず、記憶も混乱していてほぼ廃人のようになっていた私の父が最近になって、急にもりもり食べだして、話もできるようになり奇跡的な回復を遂げて、退院して、病院側から「神懸かり」と言われた話を、先日ブログに書きましたが毎日のセッションの中でもたぶん普通なら、とても信じられないようなことがよく起こります。ここ最近のセッションは、またさらに加速的にすごいことになっている感じでいつか、そういったお話もここでシェアできる日が来るかなあと。今日の午後からの、壮絶なセッション後にクライアントさんと「ちょっとすごすぎて、こういう話はとてもブログには書けないね」という話をしていたのですが私たちは多次元的な存在であって、それぞれの人生は壮大なスケールでつながりを持っているのだなあとつくづく感じます。そんなに大きなミラクルではなくても日々の生活の中での小さな奇跡やシンクロは、数限りなく起こっています。例えば、今日のことで言えば、今朝、セッションの予約が入っていたクライアントさんから昨日になって急にキャンセルしたいと、メールがありました。ちなみに、セッションの直前にキャンセルされるのはその方の潜在意識での抵抗ということもありますがそのクライアントさんは、これまで何度もセッションに来られている方で今、いい感じになってきている方ですしクライアントさん自身の抵抗ではないことは、明らかでした。普通ならば、キャンセル待ちの人たちが4〜50人いらっしゃるのでどなたかに連絡してセッションを入れたと思うのですが昨日は、かなりハードなセッションの後だったこともありまた、たまたま、昨夜は二人の友人と「ちょい飲み」しようという約束があったため「これは、身体を休めろということなのかそれとも、ちょい飲みではなく、本格飲み?になるのかも〜どちらにしてももう予約は入れないでおこう」と、飲みに出かけたわけです。ところが、昨夜は、スペイン料理の店で友人とサングリアを飲みながらあれこれと話をして、とても楽しかったのですがなぜか、いつものように「さあ、もっと飲むわよ〜」みたいな気持ちにならないのです。充分食べて、飲んで、おしゃべりしたし、とそのレストランだけで2軒目は行かず「さ、今日は帰ろ〜」とあっさり夜11時頃には、二人と別れて12時頃には家に戻りました。これまでのパターンで言えば、次の日の朝、セッションが入っていれば、お酒も節制してそれほど飲まないものの、もし朝にセッションが入っていなければほぼ間違いなく「とことん飲み」になっていたので私にしては、あり得ないパターンでした。おさむも「へ〜意外に早かったんだね〜」とこれまでの私の習性を知っているだけに、驚いていたのですが今朝になって、あれは前回のセッションの効果なのだ、ということにはっきりと気づきました。「人と感動や喜びをシェアしたい」という思いが強すぎてバランスが崩れていた、のでそれを調整したわけですがこの酒を飲み交わす、というのも、私にとっては喜びの分かち合い、だったのでその思いがなくなると、酒飲みもほどほどに飲めるようになるわけですねなるほど〜普通の人はいつもこんな感覚だったのね〜とあらためて、これまでの自分の感覚のずれに気づいたわけで「ハランスが取れた人はおもしろくない」わけではないことも実感できたわけです。そして、話はそれだけで終わらず今朝10時になって、ピンポンとベルが鳴る音が!おさむがドアを開けてみると、別のクライアントさんがいらっしゃっていて今日の朝10時に予約が入っていると言われます。私は、午前中はセッションが入っていないから、と寝坊をして起きたばかりで顔も洗っていなかったので「ひゃ〜〜〜〜」となりつつ予約を見てみると、その方は今日ではなく、別の日に予約が入っています。その方は、前回、お越しになった時に予約されているので日にちを間違えたのが、私なのか、その方なのかはわからないのですがとにかく、これは、今朝は、その方をセッションをすることになっているのだということだけは、はっきりわかったのですぐに支度をして、セッションを行いました。そして、その方が今日、セッションを受けることになったのも私の中では、またベストのタイミングであってそのセッションの中での、ちょっとした気づきが今日の午後からの壮絶なセッションを行う上でのヒントにもなっていて、ほんと上手くてきでいるな〜と感じたわけです。もし昨日の夜にキャンセルになっていなければ、ダブルブッキングになってしまっていたわけですがなぜか、ほとんどの場合、こういったことが起こって上手く回っていくので、すごいなあと。ですから、今回だけでなく、こういったことはよく起こるので私は例え、セッションの直前のキャンセルであってもキャンセル料などは一切取っていないわけなんです。必ず、それが双方にとって、いや、もっとたくさんの人との関わりや多次元レベルで、上手いタイミングになっているのですね。ほんと人生はミラクルだな〜とま、究極、私たちが今、ここに肉体を持って存在しているということ自体が、ミラクルなんですけどね。ということで、ここ最近のことだけでまだまだ話したいことは山ほどあるのですが(これもシェアしたい病だわね)とりあえず、また次回〜
2015年09月03日
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さて、ここ最近の私の変容のきっかけは、ここ数年間、私ととおさむの恒例になっていた9月に行う予定の旅がきっかけでした。9月のおさむの誕生日前後に、また旅に出かけようと今回はおさむがギリシャに行きたい、というので何ヶ月か前には、以前宿泊したギリシャのサントリーニのホテルを予約していました。ですが、今回、おさむの身体が旅に出るのを許可しません。旅に行くのを身体が許可しない、というと変ですが、つまりは、本当のおさむは旅に行きたくないもしくは、今は旅に出るタイミングではない、ということなんです。試しにマップカードを引いてみましたが、私が引いてもおさむが引いても、答えはノー。私一人で旅に出る、と出てしまいます。おさむに至っては「あなたは荒れ狂う波を簡単に乗りこなせる波だと甘く考えていませんか?今は、あれこれ行動せず、ただ波に漂っている時です」などというカードばかりが出てきます。考えられる一つの理由には、経済的なことがありました。毎年、おさむの誕生日の旅は、私がお金を出していたので、今年もそうするつもりだったのですがそれがここ最近のおさむのテーマであった、自立や男性性、に引っ掛かっているのだろうと、おさむの身体を調べてみましたが、どうやらそういったことだけではないようです。じゃあ、もう今回の旅はやめよう、としたのですがそうすると私の身体からの声として「一人の時間を持ちなさい」とか「これまでのパターンを捨てる時です。そうしなければ、おもしろくない人に成り下がってしまいます」などというものが上がってきました。確かに、5月に日本から戻ってから、この約3ヶ月、ずっとセッション詰めだったこともあって9月はモードを変えるためにも、短期間であってもどこかに旅に出たいという思いはありました。でも、おさむが行かないのだったら、一人で行ってもなあと。それで、まず、おさむに私のセッションをやってもらって出てきたのが「人と感動を分かち合いたい」という私が潜在意識に持っていた思いでした。旅で美しい景色、おいしい料理、楽しい体験、そういったものを一緒に分かち合いたい一人で体験しても、それをシェアできないのはつまらない、という思いです。セッションで年齢退行していくと、子供の頃からの思いが出てきました。私には3歳下の妹と、7歳下の弟がいますが、私の記憶の中で、例えば誰かからお菓子やケーキをもらったら、まずは弟に食べさせてあげなきゃとか、みんなで一緒に食べよう、と思ったことを思い出しました。いわゆる、典型的な長女体質ですね。私にとって、人と感動や喜びをシェアすることは、当たり前のことであってそれが問題であるとは全く思っていませんでしたがそれが私の自由さのブロックになっていたとは。そのセッションの後、一人旅をする決心がようやくついてさてどこに行こう?と思ったら、その日のうちに、ネットでフランスのモンサンミッシェルの写真を見たので、いつか行きたいと思っていたこともありフランスに決めて、チケットを取りました。が、この時点では、私の意識はそこまで大きくは変化していなかったのです。その後、おさむが「いいな〜やっぱりおれも行きたい」と言い出したのでやっぱり、おさむも一緒に行った方がいいよね、とおさむが何とか一緒に行けるようにセッションで調整してみることになりました。が、その日のセッションで、おさむの身体から出てきたのは「子供の頃に甘やかされた」「与えてもらって当たり前」「感謝できない」「人をうらやむ」「人の痛みがわからない」と言ったディープな要因が次々と上がってきて、はてはDNAやら脳の問題まで上がってきてとても1回や2回で調整できるようなものではなく夜中3時頃、途中まででギブアップしました。次の日「私がお金を出すことには問題がないのにやはり、無理なのかな?おさむのハイヤーセルフは厳しいね」と話していた時におさむが一言「いいな〜、おれも一人旅したい」と何気なく言った一言がひっかかりました。「あのな〜、私が何とか一緒に行けるようにと夜中までセッションやっていて俺も一人旅したい、じゃないでしょ?」とその時はプンプン怒ったものの、また次の日には私は忘れてしまっていました。そして、それから、2日後、仕事のことについてのおさむのある一言で今度は頬をバシバシ殴られた気持ちになりました。まるで誰かに「目を醒ませ〜!」と言われているかのようでした。「あ〜私はこれまで何をやってきたのだろう」と。思えば、おさむが2年前にキネシオロジーを仕事にすると言い出してからのことでした。彼が一人前になれるように彼のクライアントさんが増えるように、彼が認められるようにあらゆる資料を手渡し、教えて私のクライアントさんたちを紹介してその方たちがおさむのセッションを気に入ってくれたら私が認められるよりもうれしくて時には夢の中のシーンにまで出てくるまでになっていたのでした。そして、私のそういった行為やあり方が、逆におさむの自立を防いでいたことに気づかなかったのでした。私は彼の食事の世話をしたり、洗濯してあげたりはしない人なので彼に尽くしている感覚は全くありませんでしたがこれじゃあ、過保護のお母さんと同じだなあと。(これがおさむ曰く、何でも出してくれるドラエもん状態だったわけですが)本当の意味で、私は彼の力を信頼できていなかったのですね。もちろん、これは私自身の問題です。いや〜人のことはよく見えるのに、自分のことは全くわかっていなかったというか。情けないというか。クライアントさんなら、ニュートラルに観えてきますが自分のパートナーとの関係となると、ただありのままに見ることって難しいですね。という経緯がいろいろあって、一人で旅に出ることにもまた、おさむの問題は、おさむに任せておくことももう何の抵抗も罪悪感もなくなりました。考えてみれば、10年ぐらい前までは、コスタリカに一人旅したり一人でアメリカ各地に行くこともあったのに年々、やらなくなってしまっていました。一緒に感動を分かち合うことも素晴らしいけど一人で体験することもまた人生でのエッセンスだなあと。そして、私がその調整をした後、2週間の間に「人と感動を分かち合いたい」という思いが問題、とクライアントさんの身体から上がってきたケースが、3回もありました。人と感動を分かち合いたいために、本当の自分のやりたいことを優先できなかったりまたは、何でも分かち合えなければ、さみしい感覚になっていたり自分だけが幸せだと罪悪感を感じてしまっていたりとそれぞれの人によって、状況は違いましたがまさに私がそこから抜けたから、出てきたのね〜と感じる要因でした。感動を分かち合うことは素晴らしいことだし分かち合う心は必要ですが一方でそれが強すぎて「分かち合わなければ」になってしまうと自由さを失ってしまったり、無意識のストレスになってしまったりするのですね。ということで、これまでも自由に生きてきたつもりでしたがさらに自由に生きてゆきます〜
2015年08月31日
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今、ダーリンが夕食を作ってくれていてちょっと時間があるので、今日は2つ目の日記を。今朝アップした日記の中で「自分が望むこと、やりたいことをやる」ということに関連して人それぞれ4つの状態に分かれるなあと思います。1)自分がやりたいことが何なのかわからない状態。2)自分がやりたいことが何なのかはわかっているが、今はやれておらず 先延ばしにしている状態。3)自分がやりたいことのある部分は今、やっているが ある部分は先延ばしにしている状態。4)自分がやりたいことをすべて今、やっている状態。もちろん4の状態がベストですが例え、やりたいことがわからない状態であってもそれもまたその人にとっての、人生のプロセスである、とも言えます。ですが、それぞれの要因を探ってみると多くの人に共通した要因が浮かび上がってくるのです。1の状態の方についての要因は、前回のブログに書いた通りですがそれでは、2や3の「やりたいことがわかっていても、やれていない状態、やりたいことを先延ばしにしている状態」についてはどうかと言うと最も多く上がってくる要因の一つが左脳型思考パターンであり「何かができること、何かを達成していることが自分の存在価値になっている」という問題です。私が「目標達成型思考」と(適当に)名付けた、その意識は実に多くの人たちにとって、根本となる意識になっていてそれが様々なストレスやアンバランスさをもたらしています。その意識の元ではやりたいことをやろうとした時に「これをやるためには~が必要」とか「今の自分ではまだ不十分」など先のことや達成するために必要なことを考えて、今の行動を決めてしまうので今すぐにやりたいことができなくなるわけです。自分がやりたいことをやるためには自分の能力や技術がまだ足りない、とかお金が足りない、とか時間が足りない、とか周りのサポートが足りない、とか情熱が足りない、など人それぞれ不足していると感じているものは違いますが何かをやるためには何かが必要という意識ではいつかやりたい、と先延ばしになってゆくのです。そして、その「いつか」は自分自身の内面を変えない限り、やって来ないのでそのうち、それが本当に自分のやりたいことなのかわからなくなってしまう方も多いのです。また、何かを達成した時に感じる達成感自体には問題がないですが達成感を求めて何かをやろうとすると今取るべき行動、本当の自分が今すぐやりたいことが見えなくなります。やりたいことは、それを達成する、しないに関わらず今すぐに何かしらの形で取り組んでゆくことが大切なのですがこの目標達成型思考では、失敗することへの恐れが出てくるのです。まさに、前回のブログでご紹介したジョージバーナードショーの言葉「ミスをしながら過ごした人生は、何もしないで過ごした人生よりも立派なだけでなく、十分な使い道があります」にもあったように失敗は、自分にとっての新たな気づきや成長の糧となるものですが多くの人はすぐに達成したい、成功したいと思うわけですね。私も振り返ってみると、例えば、今のように筋反射が正確に取れるようになったのはたぶんセッションの回数で言えば、500回は軽く越えていたと思うのですがそれまでは、筋反射だけでなく、目標の立て方も何もかもがよくわかっておらず、上手くいかないこともたくさんありました。その頃は、なぜそうなっていたのか、気づいていなかったことも多いのですがでも、そういった経験を積んできたからこそ、今の私がありそして今、キネシオロジーを教えてゆく立場になってからキネシオロジーを学んだ多くの人たちが、どこでつまづいてしまうのかどうして筋反射があやふやになってしまうのかどういう目標設定にすると効果が上がらないのか、などがよくわかるのです。だから、私がやってきた上手く行かなかったプロセスがすべて「使い道があった」ということなんですね。この他にも過去に上手くいかなかったことが、今は大切な「使い道」になっていることが、たくさんあります。でも、それは、困難があってもがんばらねば、という意識ではなくただ、結果にとらわれずその時々でやりたいことをやってきただけなのです。ということで、やりたいことを先延ばしにしてしまう方はこの目標達成型思考を手放すことや左脳型から右脳型に調整することになるケースが多いです。また3のやりたいことをある部分ではやれていてある部分ではやれていない、ということに関してですが好奇心が強く、やりたいことが山ほどあるという人はそれ自体が問題であるケースもありますから、内観力を高めることで本当に自分がやりたいことを見極めてゆくことが必要なことがあります。例えやりたいことが山ほどあっても、今の自分にとって必要なことやりたいことは、それほど多くはないものです。また、いくつかやりたいことがある人は時間やエネルギーの使い方も問題となってきます。私は、これまでその時々で最もやりたいことをやってきた人なので特に何かが問題だとは思っていなかったのですがある時期は音楽ばかりやっていたかと思うと、ある時期は絵ばかりやっているという感じになりがちでいろんなことをバランスを取ってやってゆく、というのは苦手でした。ここ数年は、音楽や絵をなかなかやれなかったのは日々キネシオロジーのセッションに、エネルギーを費やしそこで大きな喜びや楽しみを得ていたので、満足していて他のことをするモチベーションが上がらなかったことやエネルギーや時間がなかったことがありました。そういう意味で言えば1〜4ではなく、5として「やりたいことをやり過ぎている状態」だったと言えるかもしれません。少し前に、自己ヒーリングをやったら年齢退行で18歳〜22歳が上がってきたのでさらに、スキャンリストから身体の声を聞いてゆくと「バランスを取ることへの恐れ」と言うのが出てきました。その当時の私はジャニスジョップリンのような破滅的とも言える情熱的な生き方に憧れていたたので、一つのことに情熱を燃やして燃え尽きるまでやることが素晴らしいと思っていてバランスよくいろんなことをやる人なんて、つまらない、と思っていたわけです。例え、酒を飲むのでも、バランスよくほどほどに飲んだりするのはつまらない「飲むならとことん飲むわよ」という感じだったのですね『バランス調整』であるキネシオロジーを何年もやっていて「バランスを取ることの恐れ」を持っていたのはちょっとおもしろいですがまだ自分の潜在意識に若い頃の思いが残っていてそれが無意識に影響していたわけですね。ということで、ここ最近、ようやく少しずつやりたいことをやる上でのバランスが取れるようになってきたかな~と。ということで、やりたいことは「いつかやろう」ではなく今すぐやることそのためには不要な思い込みやこだわりを手放したり思考パターンを変えることが必要だったりと必要なことは、人それぞれ違いますが大切なのは、お金や能力や状況の変化を待つのではなく自分の意識、内面を変えることだけなのです。
2015年08月28日
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ニューヨークは、このところ暑い日が続いていますがみなさま、いかがお過ごしでしょうか?もっとも暑いとは言っても、冷房なしでやっていけるレベルですし夜は涼しくなるので、私とおさむは近くのサンセットパークによく夕涼みに行っていますが、日本はもっと暑いのでしょうね。さて、前回のブログのアップから、次々とハワイのフィボナッチのクラスにお申し込みがありすでに20名の方の参加が決まりました。最初は、10月末ぐらいまでに決めればいいね~ぐらいの感じだったのですがリトリート施設からのメールで昨日までにリトリート施設の方に20%の部屋代のデポジットを支払う必要があったため参加者のみなさんには、もうデポジットを支払って頂いていますがここまでの流れがあまりにも早すぎて、息つく暇もなく。部屋はまだ少し空いているので、あと数名の追加は大丈夫ですがそれ以上は、もう部屋がないため、それで予約の受付終了になってしまいます。まだ検討されている方は、もし決まりましたら、できるだけ早くご連絡くださいね。そして、前回、クラスで使用する本の翻訳の方が、ご縁で決まったことを書きましたが続いて、ハワイのクラスの通訳の方も、これもまた不思議なご縁で決まりました。私の友人の一人から、イタリア在住の通訳の方のご紹介があり最初はイタリア在住なので、ハワイまでの旅費など考えるとちょっと難しいかなと思ったのですが「旅費は自前で出します」と言ってくださっているとのこと。そして、その友人からメールを受け取った直後に、また別の友人からもメールがあり何とその友人も、同じそのイタリアの通訳の方を紹介してくださっていたのでこれは何かありそうとその通訳の方は、ドランヴァロのAITHも受けていらっしゃってドランヴァロつながりの有名なスピリチュアルティーチャーキャサリンの通訳もされているとのことだったのですがロンにメールをしたところロンもキャサリンの友人だったので、すぐにキャサリンと話したそうでキャサリンがロンに、その通訳の方を強く勧めてくれた、といういきさつもありそのイタリアの方に決まりました。この一連のやり取りもこれからクラスでの通訳の方を見つけていこう、と意識を向けた矢先2、3日の間に、起こったあっという間の出来事でした。ロンから「これまで世界中でワークショップを開いてきていろんなオーガナイザーと仕事をしてきたけどのりことおさむは、特別だ、こんなに明確で迅速なオーガナイズは他では見たことがないよ」とメールがあり『わ〜い、またロンに褒められたよ〜♪」と二人で子供のように喜んでいたのですが正直なところ、これは全く私とおさむのオーガナイズの力などではなくていろんな方たちのサポートがあり、「勝手に」どんどん進んでいる感じなのです。まさに宇宙に導かれて進んでいるんだなあ、とひしひしと感じています。力を貸してくださった方々、本当にありがとうございますさて、一方、10月にニューヨークの私の自宅で開く予定のキネシオロジー上級講座の参加者も決まりそれもまたわくわくしています。内容は、ほぼ去年と同じですが、去年からこの1年間に私が気づいてきたことを加えるつもりでいるのでさらに充実した内容になるかなあと思っています。また、去年、私の上級講座を受けてくださった方たちに向けて1日特別クラスを開く予定でいますからそこでまたみなさんと再会するのも、楽しみです。そして、来年2月にはハワイのマカハの朱実さんのところでまたリトリートを開くことになりました。今年の2月、3月に開いたオアフのマカハのリトリートはその後も、みなさんからいろんな変化や気づきのご報告を頂いていまだに、まだその余韻が続いている感じです。先日も「あれは魂の救済のリトリートでした。あのリトリートで私の魂は救われました」とメールで伝えてくださった方がいましたが本当にやってよかったなあと、おさむも私も朱実さんも実感しているので来年もまた行うことになったわけです。料金などの詳細はまだしばらく後になりますが決まり次第、ブログでお知らせいたしますね。フィボナッチクラスはヒーラー向けのクラスですがこのマカハでのリトリートは、もちろんどんな方でも参加できます。でも、不思議なことに、今年のマカハのリトリートに参加された方の中にはそれまでヒーリングを仕事にするなんて、全く考えていなかったのにマカハでのリトリートの後、一気にヒーリングの道に進まれる方が何人かいらっしゃってこれもまたすごいことだなあと感じています。さて、私の方は、ここしばらくの間、キネシのセッションをやっているかコンピューターの前で、メールをパチパチ打っているか(おさむ曰く)の状態が続いてしまったので、完全に運動不足、というより、休み不足だったので昨日は久々に身体がだるくなり、あ〜これはまずいなあ、と昨日の午後は、私の友人と会う約束をキャンセルさせてもらって徹底的に、自己ヒーリングしました。やってみると、交感神経優位の状態で甲状腺ホルモンやノルアドレナリンのバランスが崩れていたりメールのやりすぎて、電磁波の影響を受けすぎていたりとあれこれ出てきました。自己ヒーリングのおかげで、今日はすっかりエネルギーを取り戻しましたがやっぱ、やりすぎはいかん、ですね~ちょうどこのところ、暑くなったこともあって冷たいものばかり飲んでいたことも体力不足につながったようです。(このところ、家の近くのメキシカンレストランで、フローズンマルガリータ飲むのが習慣化していました)そうそう、近況報告と言えば福岡に住んでいる私の弟夫婦に、元気な男の子が生まれたこともここ最近のうれしい出来事でした。来年もたぶん日本に行くことになると思うので、初対面が楽しみです。さらに、正直なところ、どう見てももう長くはないな〜と思っていた入院中の父が最近、病院側から「神懸かり」と言われるぐらいの奇跡的な回復を見せて、とりあえず退院することになりそうなのも世の中、一体何が起こるかわからないものだなあと。クライアントさんの中で、フィボナッチを受けた後、受けた本人ではなく家族やパートナーに大きな変化があったという話をいくつか聞いたのですがヒーリングはあくまでも受けた本人のためのものですからそういった出来事にスピリチュアルな意味づけをしすぎるという意味では正直、その事実とフィボナッチを結びつけるのは微妙だなあと感じていたもののこの父の奇跡的な回復の話を聞いて私が最近、おさむからフィボナッチを受けていたからかも?と思わず、意味付けしてしまったぐらいのあり得ない出来事でした。もちろん、そういう意味付け自体は、意味がないことですけどね。ということで、私の近況報告でしたがみなさま夏バテにお気をつけて、この夏を楽しんでくださいね。
2015年07月31日
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私とおさむは、一日の終わりに「今日はどんな1日だった?」とお互いに気づいたことを話し合うことが多いのですがたった1日の間にも、日々、いろんな気づきがあります。それは人とのメールのやり取りや出会いの中であったり自然の中の気づきであったり、本や映像からだったりセッションの中での気づきだったり、特に何もないけどふっとした瞬間に感じた感覚だったり。最近、あらためて気づいたことの中に私は何かを夢中にやっている自分が、とても好きなのだということ。それだけ聞くと、そりゃよかったね、という感じですがこれが問題となってしまうレベルなのです。昔から、私は直感的というか、衝動的に動くタイプですが一方で、後先を考えて行動することができず時間の枠の中でセッションをする、とか明日のことを考えて、早めに寝る、とかできないというより、やりたくないのです。それが、様々な面でバランスを崩してしまうこともよくわかっているのですがこのバランスが取れていない自分のことががまた好きなのでなかなか、やめられないわけですね。さて、ここ最近、クライアントさんに教えてもらって思わずはまってしまったのが「宇宙兄弟」というアニメ。ただでさえ、あれこれと時間が足りないのにここしばらく、夜中3時過ぎまで夢中で見てしまって、かなり寝不足でした。宇宙飛行士の話で、ストーリーもかなりおもしろいですが登場人物のセリフが、またなかなかいいのです。例えば、ある優秀な人が宇宙飛行士になるためのテストに不合格になって「どうして私はテストに落ちたのでしょうか」と試験官に尋ねた時に「きみは、どの企業で働いてもトップレベルで、リーダーとしてやっていける人だと思う。でも一つだけ君に欠けているところがある、それが『人に頼る』ということだ」というセリフだったり。また主人公の六太が、決断に迷った時に小さな頃から六太をお母さんのように見守ってきた天文学者の’シャローン博士が「六太、頭で考えても決断はできないわ。決断はここ(ハートを指差して)でやるものよ。迷った時は、どちらが楽しいか、で決めなさい」というセリフだったり。いや〜全くそうなのよね〜。何でも自分一人でやろうとする人は、どんな仕事であっても必ず行き詰まってくるしまた、左脳的に理屈や条件で選択を考える人は、決断力が弱くなるのです。と、ここ最近、アニメも止まらなくなってしまっていますが興味のある方はぜひ無料動画がいくつもあるので見てみてくださいね♪さて、これはもう3週間ぐらい前の話なのですがシンゾーさんのタントラ指圧マッサージを受けました。シンゾーさんは以前と変わらず、ソフトでありながら、エネルギッシュな方。私と会った途端「お、いいエネルギーだね~」と言ってくださったのですがたぶん、私の身体を触れば、働き過ぎはすぐにわかってしまうだろうなあと「いや~調子はいいのですが、ちょっと働き過ぎで」とまるで、試験の前に成績が悪いのを言い訳する子供のように言っている私がいて自分でおかしくなりました。「そうなの?どれどれ」とシンゾーさんの指圧が始まりました。前回もそうでしたが、痛すぎず、やさしすぎず、絶妙な圧で身体のあちこちをトーニング(ボイス)とともに指圧してゆき私はどんどん深いリラックス状態に入ってゆきました。前回の時は、白い光の中にいて、まるでセックスの時のオーガズムのような感覚になったのですが今回は、その感覚とはちょっと違って、静かな瞑想状態のような感じ。しんぞーさん、永遠にやめないで、と言いたくなるほど気持ちがいい。セッションが終了して、しんぞーさんに言われたのが「開かれたエネルギーだね。このオープンさは素晴らしいけど、とにかく集中し過ぎ、一生懸命やりすぎ、ビジョンが見え過ぎ。この親指を見てみて、こちら側に寄っているでしょ。これは、がんばってグランディングしている感じ。いや、こりゃ意図的にグラウンディングしている感じだな。でも、これは子供の頃からずっとだな」集中しすぎる、夢中になりすぎる、というのは確かに子供の頃からずっと。小学生の頃、数学の問題を解くのが楽しくて毎晩、夜中遅くまで起きてやっていたり将棋を夢中になってやり続けたり学校の工作に夢中になって、とことんやり続けたり。両親にも「あなたはすぐに夢中になる(周りが見えておらず)我が道を行く人ね」と言われ続けていました。何かやりたいことをやっている時の私の集中力は半端ないようで今も1日10時間以上立ちっぱなしで、セッションをしても集中力が途切れることは、ほとんどなくセッション中に私が立っている場所から、見えるところに時計を置いているのですが集中しすぎて、その時計を見ることさえ、忘れてしまうこともよくあります。「好きなことに夢中になりすぎ、集中しすぎが問題です」というクライアントさんは少なくどちらかと言えば、やりたいことを先延ばしにする、どれにも情熱が持てない自分がやりたいことがわからない、という人の方が断然多いので私が持っているこの問題は、人に対してのセッションの上では問題にはならないもののそれでも私自身にとって(また結果的には全体として)様々な限定を生み出していることも確か。特にやはり身体としては問題であり長時間。身体を動かさないで立ちっぱなしなので、リンパの流れが悪くなり筋肉も凝ってしまいます。自己ヒーリングで1週間に1度はリンパの調整をしてたまにアーユルヴェーダやリンパマッサージも受けますがそれでも追いついていない状態。だから「意図的に」グラウンディングしてないと、身体がもたないわけですね。しんぞーさん曰く「今はまだいいけど、これが続いていくとまずいよ。でも、僕も以前はそうだったのだけどね。家にいるとついセッションをどんどん入れてしまって、やり過ぎてしまう。とうとう。これじゃあだめだと、その当時は3ヶ月集中して仕事したら何週間か強制的に休みを取って、どこかに行くということをやっていたよ。どこか別のところに行けば、セッションを入れないからね」私も最近は、長期の休みを取るスタイルにはなっているもののやはり、本来は、日々のセッションをバランスを取ってやれるように調整した方がいいなあと。が、夢中でやる自分が好き、なので、自分ではそのブロックを外すことに抵抗があり調整できないので、今日は、とうとうおさむにIH+フィボナッチのセッションをやってもらいました。『ビジョンが見え過ぎ」というしんぞーさんから言われた要因も今日のおさむのセッションで身体から上がってきましたがセッションを重ねるごとに、クライアントさんのの抱えている問題と様々な要因との関連や調整するポイントがクリアにわかるようになってゆくこともありついやりすぎてしまうのです。フィボナッチは、来年ハワイでおさむも学ぶ予定ですがここ最近、実験的におさむに教えてみたら回を重ねるごとに、上手くなって今日のセッションでは、言葉ではとても言い表せないぐらいかなり深い意識状態になりました。もちろん、おさむはロンからクラスを受けていないのでまだクライアントさんに対してはできないものの私がおさむから受けてみて、この強力なヒーリングはやっぱりすごいとフィボナッチのすごさをあらためて実感しています’。今日は、バランスもいい感じで、それほど一つのことをやりすぎることなく上手く回っている感じです。さて、話が戻って、しんぞーさんのタントラ指圧ですが今回おさむもセッションを受けたのですが、おもしろいことに予約したのは、ちょうど私たちが日本でお互いの実家に離れて過ごしている時だったので別々に予約したのですが、ひと枠だけ、私のスケジュールに合った日に予約したらそれが、たまたまおさむのセッションの前の枠だったことが後からわかりました。なので、その日、私とおさむと続けて、しんぞーさんのセッションを受けることになったのですがこれがまたよかったです。私がセッションが終わった後、部屋に入ってきたおさむにしんぞーさんは「この人(私のこと)はね。Gスポットに指を入れて、手の腹はここに当ててもう一つの手は、下腹に当てて、じっと動かないでいると、勝手に開いてくる人だよ」などとあれこれ説明してくれて「わ〜そうなの、たまにじっと動かないでいてほしい時があるのよ〜」とうれしくなりました。もちろん、しんぞーさんは、今回の指圧の中で私のGスポットに触れたわけではなくごく普通に(普通じゃないけど)指圧マッサージを行ってくださっただけですがそれでも私のそういったエネルギーの特徴をつかんでしまうんだなあと。そのセッションの後、しばらくして、おさむは、NYで行われたしんぞーさんのタントラクラスを受けました。タントラと言っても初級のクラスだったので、そこまで深いところはやらなかったそうですがそれでもおさむはクラスで学んだ、タントラマッサージをそれからよく私にやってくれて、それがまたとても気持ちいいのです。特に一日中、セッションをやりすぎて、リンパや筋肉が滞っている時にやってもらうと一気に身体やエネルギーが緩んできます。おさむも言っていたけど、これはぜひ世の中の男性に受けてほしいクラスだなあと。男性がこういうマッサージを女性にできたらまさに女性のとっての天国。女性たちの女性性も一気に高まってくるでしょうね。ということで、今日は脈絡なく書いてしまいましたが(今、少々酒が入っていることもあり)これから「宇宙兄弟」寝不足にならない程度に見ま〜す
2015年07月17日
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私のキネシオロジーのセッションで「人の話をまともに受け取りすぎる」「人の言葉に左右される」という問題がクライアントさんの身体から伝えられることがよくあります。人の話をまともに受け取りすぎる人はコミュニケーションが大変になってしまったり自分本来のあり方を見失ってしまうことになったりするのですね。「人の話は話半分(に聞く)」と言う言葉(格言?)がありますが私が子供の頃に母がよく言っていました。それは例えば、友人が「夫と上手くいっていないの」などという悩みを相談してきたのでそれに対して「大丈夫かしら?」と同情したり、心配したりしていたらしばらく経って、その人に会ったらすっかり問題も解決していて、幸せそうで「なんだ、あれこれ心配していたのに」となったりまたは反対に友人が「うちの息子はこんなに素晴らしいのよ」などと言っていてそれはよかったね~と思っていたらしばらくすると、その息子さんが不登校になった、などという話を聞いたなど、人の話は、その時々で変化したり、誇張が入ったりするものだからまともに受け取らず、半分は聞き流しておきなさいという意味です。これは母自身が、人の言葉によって一喜一憂したくないということから、そう言っていたのでしょうがこの「人の話は話半分」というのを私なりに解釈してみるともちろんこれは、人を信頼しない、ということではなく人の言葉を疑うということでもなく人は移り変ってゆくものなので、その時はその人はそう捉えていても変化するかもしれないから人の話は、ただその時の話として受け取っておく、ということ。そもそも言葉を使ったコミュニケーションは制限があって言葉の定義自体が人それぞれ違うし、その人が使う言葉がその人の本当の気持ちや感覚を正確に伝えているわけではないことも多いです。「人の話を話半分」に聞けない方は基本的には生真面目な方が多いので「人と約束をしたら、必ず守る」とか「言ったことは実行する」という性質も持ち合わせていることが多いです。そうなると、自分では当たり前のことであっても相手がそうでなければストレスになったりまた自分自身もがんじがらめになって、生きづらくなってしまうのです。人が発した言葉は「この人は今、そう感じているのだな~」とか「その人にとっては、それがいいのだな」と受け取ったりまたはその言葉そのものではなく、その人が発しているエネルギーで何を伝えようとしているのか、感じたりという柔軟性が、楽なコミュニケーションのために必要なのですよね。私の場合、そういった(いいかげんな?)母の影響なのかおさむから以前は「のりこは言っていることが、ころころ変わる」と言われて確かに、若い頃から友人にもそう言われることが多かったなあと。その時は、本気でそう「思って」いたのだけど、変化したということもあるし自分が感じていることを言葉にした後にしばらくして、いや実はそうではなくて私はこう感じていたな、と言葉を置き換えることもあったり。実は、このブログを書こうと思ったのも先日、おさむが「のりこはみんなから信頼されているからのりこの言葉をまともに(自分のものとして)受け取って翻弄されてしまう人もいるわけよ」と言うので、なるほどな〜と。信頼してもらうのはとてもうれしいことですがセッション以外での、私の話は話半分、に聞いてもらった方がいいなあと今日は、この内容でアップしているわけなのですけどね私のセッションの中で、クライアントさんの身体から発せられた言葉はそれはクライアントさん自身の心の声、身体の声、魂の声なのでそれはまともに受け取ってもらった方がいいですがそれ以外のところでの私の言葉は(このブログの内容も含めて)すべての人にとって当てはまるわけではないし(人によっては、全く逆のことが必要だったりします。例えば中には「人の話をきちんと聞く」ことが必要な人もいますから)また私自身がどんどん変化するわけですから前に書いた私の感覚も、今になってみれば違うな~と感じることもあります。だいたい数日経つと、もうその時の感覚と違っていたりするんですよね。(なので、私の過去のブログを今、全部読んでます、なんて言われるとひぇ~となってしまうわけですが)さて、まじめな方がやってしまいがちなのは成功者や何かを達成している人の話や体験をまともに受け取って、それが正しいやり方だ、という信念体系になってしまうことです。これはどんな分野でもありますが、成功者はその人がどうやって成功したか、ということをその人の体験として話しますが、確かにその人にとってはそうであってもまた一部の人にとっては有効でもすべての人にとって有効な方法とは限らないのです。そして、最近多いのが、スピリチュアルな教えや本の言葉をまともに受け取ることで自分の新たなる思い込みになってしまっているケースです。まともに受け取る、というのは、実は頭で考えて(理屈をつけて)受け取るということで、本質とはずれていることも少なくありません。例えば、私もよく使う言葉ですが、スピリチュアルでよく言われる「流れにゆだねる」ということに関してその言葉だけ受け取って、それを信念体系として組み込んでしまうと本当の魂の流れには、ゆだねられない現実が生まれてきます。例えば、仕事場をくびになって辞めた、ということがあったとしてそのくびになった本当の要因を見ようとしないで「この仕事を辞める時期だったね」と「流れにゆだねて」同じことを繰り返してしまっていたりまた仕事を得るための活動をする必要があるのに「(モチベーションが上がらないのだから、モチベーションが上がるまでやらないでいようと)流れにゆだねて」行動せず、先延ばしにしていたりまたは、例えば、会社や人から、本当は自分はやりたくないことを求められた時に「流れにゆだねよう」と引き受けて、無意識のストレスになっていたりまた、本当は仕事のやり方を変えるのが必要なのにお金がなくなったのは、もうこの場所から移るということだなと「流れにゆだねて」問題の本質を見なかったり。本来は「流れにゆだねる」というのは、何も行動しないということではないしやってきたものを断らないということでもないのですがそういう方は「流れにゆだねる」ということが「考え方」「信念」になっていてその時々に「流れにゆだねる」ための思考の意味付けをしているので本当の自分の感覚に従って生きれなくなってしまうのですね。その他、スピリチュアルで言われている中で「人に与えること」とか「ポジティブに捉える」「今の自分に満足する」「感謝すること」「ありのままの自分を受け入れる」「わくわくすることをやる」なども、信念体系になりやすい言葉です。また「人の言葉をまともに受け取って」しまっているためにその人本来のクリエティビティが発揮されないこともあります。例えば、ヒーリングを学んだ中でそのヒーリングの創始者や教えた先生の言葉を信じきってしまってそれ以外の可能性や自分自身の創造性を発揮できないでいる方もいます。私はキネシオロジーの上級クラスを開いていますがクラスの参加者にお伝えしているのが、私のやり方にもとらわれないでそれは一つのやり方として受け止め、自分なりのクリエイティビティを発揮してゆくということです。これはあくまでも、私自身の何千の臨床から導きだされたやり方であってもちろん可能性はこれだけではないし、また私自身も変化していくのでまた新たな方向に向かうかもしれないからです。さて、人の話は話半分、の私ですが少し前に、おさむが私のセッションをやってくれた中で出てきたのが「忠誠心」『へ?忠誠心?一体、私、誰に忠誠しているの?」それで、おさむが私の身体に聞いて出てきた答えが私が忠誠しているのは人ではなく『クライアントさんの身体からの声」でした。ふむ。確かに。以前「司令官との会話」という内容で書きましたがクライアントさんの身体からの声は、私にとっては絶対服従。ほんのちょっとした身体からの反応も、すべて聞き逃さないように全神経を集中させているし一つのメッセージを導きだすのにもありとあらゆる角度から質問してゆきます。だから、導きだされたことに、絶対的な信頼があるし例え「あ~こんなこと、私個人としては言いたくないな~」と思うような内容であったとしても、躊躇することなく伝えることができるわけです。もちろん、だからこそ、変化も大きく起こりますが私の場合、問題だったのはクライアントさんの身体からの声を正確に読み取る、というのが一つの信念体系にまでなっていて1回のセッションで徹底的に聞いてゆくためセッション時間が(尋常ではないレベルで)長くなってしまうわけですね。(もっとも、セッション時間が長くなるのは、忠誠心だけでなくやっていることに夢中になりすぎる、集中しすぎるという要因も大きいのだけど)ということで、少し話はそれましたがその人の身体からの声を聞くことなしに人にアドバイスすることなんて、できないなあとつくづく思います。(つい、見かねてやってしまう時もありますが)実は、少し前に、おさむのセッションを行った時にもおさむの身体から「人の意見に流される」というのが出てきたので誰の意見に流されているのか?と思って身体に聞いてみたら「私の意見」でした。は〜で、(あくまでもクライアントの身体の声に忠実な私は)おさむに「私の意見に流されるなって、おさむの身体は言ってるよ」と「何だか微妙だな〜」と感じつつ、伝えることになったわけです。セッション以外の時に、私が何気なく「こうしたらいいんじゃない?』などと言った適当な思いつきやアイデアにおさむが惑わされてしまうこともあったわけですね。(最近は、大丈夫になったようです)ということで、また話が長くなってしまいましたが(これも夢中になる傾向なのだけど)「人の話は話半分」というのが信念にならないようにブログの内容は話半分、に聞いていてね。(何が言いたいか意味わからん? ああ言葉って難し~~)
2015年07月12日
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今日は、私が日々のセッションの中で感じている男性と女性の関係についてあれこれと。「物わかりのいい女」とタイトルにつけましたが今回、マカハでのリトリートを受けた方の身体に筋反射で聞いていって「これが問題です」とスキャンリストから反応したものの中で、最も多かったのがこの「物わかりがいい」という要因でした。たまたま、このリトリートに、物わかりのいい女性たちが集まったのかそれとも全体的に多いのかはわかりませんが。物わかりがいい、というのは、男女関わらず、一般的にはよい特質のように捉えられていますが、この物わかりのよさがその方自身の本来の道を歩いていく上でのブロックになっていることがとても多いのです。本当の自分はこうしたい、のだけど、相手の立場や気持ちを考えるとそれはできない、とがまんしたり言いたいことを言えなかったり、やりたくないこともやってしまったり。ハート(気持ち)はノーと伝えていたとしても理屈で納得させてしまって、相手に合わせてしまうので本来の自由な生き方を防いでしまうわけです。大抵の場合、物わかりがいい人になるのは、子供の頃に親の言うことをちゃんと聞く、いわゆる聞き分けのよいいい子でいた方が多いです。でも、女性というのは、本来、わがままな生き物なわけです。「女心と秋の空」というように、女性の心は移ろいやすく感情の揺れが男性よりも激しくなってしまうのは生理や子宮という女性の身体の性質上、自然なことなのですが物わかりがいい、というのは、頭で考えて感覚的なものを抑え、理屈に従う、ということなんですね。本来、感覚的な生き物である女性が、物わかりがよくなってしまうと様々な問題が生まれます。これは、あくまでも私の感覚ですが、物わかりがいい女性はセックスレスになる傾向が高いということ。女性が本来持っている感覚的なものを抑えるために男性マインドになってしまうからだなあと。また物わかりのいい女性は、パートナーである男性と表面的には上手くいくのですが、その男性の成長や気づきにとってはマイナスになっていることもあります。女性のわがままを受け入れる余裕もなく、女性のサポートもできない男性(毒舌な私の母の言葉を借りれば「使えない男」)のパートナーでいるのがこの物わかりのよい女性であるケースをよく見ます。「彼が働けなくても私が働けるのだから、私が家計を支えよう」とか「彼が仕事に忙しくて、私と一緒にいる時間がなくても、仕方ない」など、彼の立場や気持ちを考えて、自分の本当の感情を抑えていれば結果として、男性はさらに女性をサポートすることができない男になってゆきます。そして、それはその男性自身の本来の姿ではなく様々な可能性のブロックにもなってしまうのです。一方、反対に「要求する女」ですがこのタイプは、夫の給料が少ない、彼が〜〜してくれない、などと、常に不満、不足感を持ってあれしてこれして、どうして〜しないの?と要求する女性のことです。これは「渇望型」とか「不満型」と私たちは呼んでいますが両親が不満感、不足感を持っている人だとそうなりやすいですが、子供の頃から親にダメだしされていたり充分に認めてもらえなかった人も、満足できない性質になってゆきます。この不満型、渇望型の人のそばにいるだけで、周りの人はエネルギーを奪われますから男性との関係だけでなく、周りとも上手くいかないことが多いです。私のところに来られる男性の中には、女性からの過度の要求にうんざりしている方もいます。男性というのはシンプルな生き物なので、極端な話ご飯が食べれて、そこそこセックスができて、仕事である程度、認められていたら大方は満足しているわけですが(最近の男性は違ってきているものの)女性の場合は、そうはいかないわけです。おしゃれな服も着たいし、それも一種類だけでなくいろいろ着たいしあちこちを旅して見てみたいし、素敵なレストランにも行ってみたい愛されている感覚をもっと感じたい、などと何かと欲求が大きい生き物であるわけです。これは、女性にとっては、美しさとか気持ちよさという感覚が人生に必要なエネルギーとなっているからなんですが男性からしてみると、どうして、そんなに次から次へと欲求が多いか理解できないのですね。キネシオロジーのセッションに来られるのも、男性の場合仕事やコミュニケーション能力のアップとか、健康の問題など何かしらの問題解決のためにお越しになる方が多いですが女性の場合、問題うんぬんより、ただ受けてみたいという方も少なくありません。女性にとって、様々な感覚を体感する、感じるということが大切なことなのです。だから、女性の自然な欲求は男性にとっては不可思議なことに感じられます。例えば、どうして、毎日奥さんや彼女に「愛してるよ」と伝えなきゃいけないのか理解できないわけですね。女性は、今を感じる生き物で、日々変化していることが自然なので「昨日は愛していても、今日はどうなの?」ということになるのですが男性の場合は、過去の情報から未来を導きだすという左脳的な考えなので一度、気持ちを伝えたら、永遠にわかってくれていると思ってしまうのです。ですから、そういった男性の性質を理解せず、女性の欲求をそのまま男性に要求したとしても男性にとっては、面倒なことやプレッシャーになってしまうだけです。かと言って、物わかりのいい女になってしまえば女性の本来の自然な欲求から、逸れてくることになります。私はもともとは物わかりのいい女ではなく男性に対して、自分の感情や思いをそのまま伝えることができる人でしたが以前、おさむと上手く行かずに別れて、それから2年半後に再び、彼とつきあい始めた後、物わかりのいい女になっていました。以前のようにやっていると、上手くいかなる、と判断したので今度は上手くいくように、物わかりがよく、なってしまったわけですね。それで、おさむとの関係が上手くいくようになったのでこれがベストなのだ、と無意識に抑えている感情には気づかないでいました。それが私の女性性も抑えて、セックスへの情熱も失っていたことに何年か前に気づき、ワークしていく中で今度は「彼にケアされていない」などという感情も出てきてその都度、それを手放してきたわけです。先日、ハワイで何日か一緒に過ごした友人が「のりこさんが意外にわがままなのにびっくりした~。こんな風にわがままでいいんですね」と言ってくれたのですが今のように、私の本来の欲求を自然に表現することができてそして、おさむもそれを自然に受け入れて、サポートしてくれるようになったのはほんとうに、ここ最近のことだなあと。さて、キネシオロジーのセッションで行うのはまずは、不満型、渇望型の方は、頭ではなく潜在的に満たされることが、大切になります。これは頭で考えて「〜〜だから、満足しなければ」ということではなく、今の自分自身に満たされて相手に対してもそのままを受け入れているということです。そして、その上で「物わかりのいい女」になって、状況に満足するのではなく「わがままに甘える女」になるということ。渇望、欠乏感がある状態で、相手に何かを求めると要求になりますが満たされた状態で、相手にお願いする、甘えると要求にはならないのです。そして、そのお願いが女性にとっては自然なことであっても男性にとっては、わがままなことである、と受け入れること。女性が、それをやってくれるのが当たり前、と思っていれば男性もやる気を失うし、例えやってもらっても感謝や喜びは湧いてきませんから。物わかりのいい女性が、自分の本当の欲求に気づく中でこれまで自分が抑えていた思いや感情がわき上がり一時的にパートナーに対して、怒りがこみ上げてきて「セッションの後、大げんかしてしまいました」などというケースがたまにあります。これは、デトックスの一つなので、心配はする必要はなくこれまで相手と調和するために抑えていたものが出てきているだけです。けんかや不調和を恐れて、自分を抑えていても本当の満たされ感にはなりませんから女性が自由にわがままを表現するためには例え、けんかしても大丈夫(愛されている)という安心感も必要です。でも、こういったことは、頭で理解することではないのでこれを読んでも、自分がどんなところに陥っているのかわからない方も多いかもしれません。ここでは〜タイプ、と簡単にまとめましたが実際は、人それぞれ様々な要因がからみあっています。例えば、基本的には「不満、渇望型」だけど頭で満足しなければと考えて「物わかりがいい」ことになっているケースもあるし(このケースが一番、大変ですが)または、女性も仕事にやりがいがあったり、認められたりするとそこで満足してしまって、男性に対する期待もなくなりそれで自然と物わかりがいい、ことになっているケースも少なくありません。どちらかと言えば、私もそのケースで物わかりがよくなったのは、ちょうどレイキやヒーリングの仕事がおもしろくなってきた頃で、そこで満たされていたのでおさむに対して、何の期待も不満もなくなったこともあります。つまり、男性マインドになってしまっていたわけです。ただ、男性の場合、男性マインドでいいのですが女性の場合は、男性マインドでいればセックスを含め、様々な問題が出てくるのです。更年期障害などホルモンバランスの乱れも男性マインドの方が起こりやすい傾向にあります。頭で考えずに感じる、と言っても、多くの人は思考が自然に働くので、その意味を「考えて」しまいます。先日、来られたクライアントさんの中で「彼から責められているように感じる、のは自分が被害的に受け止めているからだ」と頭で理解しようとして、自分を抑えていた方がいました。その方の身体に聞いてみると、以前は被害者意識があったので本当に「責められていると感じて」いたわけですがそこから抜けた後、今度は実際にその男性が自分を大事にしない状況であっても「これは被害者意識だからそうなるのだ」と頭で理解しようとして、物わかりがよくなってしまったわけです。例えば、男性から虐待を受けているのに、別れられない女性などもこういったケースの一つです。相手の気持ちを理解しなければ、とするあまりに自分の気持ちー「大事にしてほしい」「守ってほしい」という感覚を抑えてしまい、男性にコントロールされる状況になってしまうのです。こういうケースでは、もし男性自身が変わらなければ、別れるという選択が身体から出てきます。いくらわがままに甘えたくても、守ってほしくても男性に全くそれを受け入れる要素がなければ女性は、自分自身を守るためにそういう男性とは離れる選択が必要なのです。日々、いろんな女性や男性の身体に聞いていく中でいろんな男女のあり方が見えてきて、なるほどな~と私自身の学びや気づきにつながっています。本当にいろんな形があるので、一概には言えないことは確かですがここで最もお伝えしたかったのは「物わかりのよさ」「ポジティブ思考」「達観すること」「人との調和」「人を思いやる気持ち」「無欲でいる」「満足している」など一般的によいとされる性質が、自分自身を含め、様々なことのバランスを崩していることも少なくない、ということです。これは女性に限らず、男性でもそうですが「物わかりのよさ」は自分軸で生きることを防ぐ要因の一つなのです。ということで、女性のみなさま渇望や不満や要求を手放しつつさらに、わがままに自由に生きてゆきましょうね〜
2015年04月23日
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みなさま〜〜お元気〜〜久々の日記になりました。「のりこ、今年になって、さらに忙しくなってない?』とおさむに言われましたがこの1月は、2月8日出発のハワイの前にキネシオロジーのセッションが立て込んで入っていることもあり今年に入って、新たなことをいろいろ始めてしまったこともありあれよあれよと過ぎて、気がつけばもう1月の末。ほんと日々が過ぎるのは早いですね。ハワイでは1ヶ月間のリトリートの後に、バケーションとして1ヶ月滞在するのですが、その予定も、まだほとんど決まっておらず具体的にはハワイに行ってから決めることになりそうです。でも、忙しさの中でも、今年に入って、生活を見直したこともあり身体の調子はいい感じです。前にも書きましたが、私は昔からルーティーン(繰り返し、規則正しく行うこと)が嫌いでその時々の気分で、今やりたいことを決めたい人なので寝たくなったら寝る、お腹が空いたら食べる、という感じでした。ここ数年、キネシオロジーのセッションが朝10時から入っている日が多いので朝8時ぐらいに起きていたのですが夜も寝たくなった時に寝る人なので就寝時間がつい3時を過ぎてしまうこともあり睡眠不足の日もあれば、たくさん寝る日もあったりまた、朝から晩まで、ずっとセッションで、食べる時間がない時がもあれば続けて食べたり、夜遅くに食べたり、とセッション以外のことはすべて不規則。それでも、その時々の身体の調子を感じながら調整しているので何となくバランスを取っていたわけです。それで特に問題は感じていなかったのですが去年の暮れに、ルーティーンに対する抵抗を手放したこともあり規則正しい生活をやってみようという気に初めてなって今年に入ってから、夜12時ぐらいには就寝、朝7時起床朝からヨガと軽い瞑想をやりシャワーの前には、オイルでヘッドマッサージや全身のリンパマッサージ食事も、野菜やキヌアなどのグレイン中心の食事をきちんと取りワインも週に1回ぐらいにとどめて(これが一番の難関でしたが)たまにワークアウトもするようにしたら、身体が随分と軽くなってきました。また、去年の12月からプライベートのボイストレーニングを受け始めたこともありボーカルの練習も少しずつ、ルーティーンとして取り入れています。これまでは、ルーティーンが私にとって「自由を奪うもの」「その時々の直観に従えなくするもの」という認識だったのがようやく「日々のルーティーンを楽しむ」というようになってきたかな〜と。もっとも、ハワイに2ヶ月間滞在するので、また生活は変わりますからこれからどうなるかはわかりませんが。ということで、私の近況はそのあたりにして今日は、このところ、セッションの中でクライアントさんの問題としてよく上がってくる「目標達成型思考」について書いてみようと思います。「目標を達成しようとする」「達成感を求める」というのは、一見、とてもよいことのように見えますが実は、それが様々な問題の根本的要因になっている方は少なくありません。例えば「自分のやりたいことがわからない」とか「やりたいのになかなかやれない」などという人のほとんどは、この目標達成型思考になっています。自分の魂レベルでは『〜〜をやりたい」と感じていたとしても目標達成型思考の方はすぐにそれをやった後の結果やゴールに意識が向かってしまうので「私はこれをやっても、きっと目標には達することはできないな」とか「私にはそこまでの才能はないな」とか「そこまでやるのは、いろいろ大変そうだな」「もしこうなったら、こうなるから私には無理だな」などとなってしまうため、マインドはそれをやりたい、と感じなくなったりモチベーションが下がったりするのです。私はよくみなさんにお話するのはもし私が目標達成型思考だったら、きっとキネシオロジーはやっていなかったしこんな風に日々、喜びをみんなとシェアすることはできなかっただろうということ。5、6年前、私がキネシを学ぼうと思った時に私の周りにキネシオロジーのことを知っている人は、誰一人いなかったし私自身もどんなものかよくわからずなので、それが仕事になる、とも思わなかったしましてや、今のように予約が何ヶ月待ちになるほど多くの方たちが来られるようになるなんて、みじんにも想像できず。こんな風になりたいという目標があったから始めたわけではなくただ「おもしろそう、やってみたい」とスタートしたわけです。学んですぐに、セッションをスタートしそうすると、当然、日々、様々な問題にあたり、その度に試行錯誤しながら新たに学んだり、研究したりそれがだんだんと情熱につながっていったのであって始めから、キネシオロジーに対して情熱があったわけではないのです。行動することから、情熱は生まれて来るのですが情熱を感じるものに行動を起こそうとすれば、永遠に情熱はやってこないのです。もしも、タイムマシンがあって、今現在の私が過去の私に会ったとして過去の私は、今の私を見て、それが目標と見たとしたら「何千回もセッションをやって、いろんなことを学び日々テクニックを磨いてこうなるのだとしたら私はそこまでがんばれないし、才能もないしこんな風になるのは無理だな」と思ったかもしれません。でも、ここを目標にやってきたわけではなく、何も目標にせずただ感じるままにやってきたから、ここまで来れたのだなあと思うのです。ですから、あんな人になりたい、とか、こんな風にならなければという目標があればあるほど、途中でやる気を失いやすくなります。そして、自分のやりたいことがわからない、という方たちが共通して持っている目標は「人に貢献すること」です。そこを目標としている限り自分が本当にやりたいことがわからなくなってしまいます。「やりたいことがわからない」という方の「やりたいこと」は何かを身体に聞いてゆくと「使命」や「人に貢献できること」なのです。私が作成したセッションで使用するスキャンリストの中に「達成していない感」という言葉がありますがこれに身体が反応する方が、とても多いです。「自分はこの人生で何も達成していない」という感覚です。目標達成型思考というのは、その目標が達成するまでの自分は不十分、という感覚です。では、その何かを達成したら満足できるのかと言えば、そうではなく目標達成型思考の方は、例え、その目標を達成したとしてもけして満足することはありません。例えば、結婚するのが夢、結婚がゴールという方がいます。その方にとっては、結婚していない自分は不十分という感覚になります。では、その方がもし結婚したとしたらこれで目標達成した、これでもう私は満足〜というようには、けしてならないのです。一旦、その目標に到達すれば、それはもう当たり前の感覚になりマインドは、次なる目標を探し始めます。もちろん、結婚なんて、全くゴールではありません。何十年一緒にいても、パートナーとの関係は日々変化してゆくしいろんなことがありますからその都度、向かい合って変化し続けてゆく必要があるのです。仕事も同じです。こうなったら達成、という目標に向かっていたとしてもその目標を達成しても、それに満足するのは一瞬で(一瞬もない場合もあります)もし次なる目標が見つからなければ、モチベーションが上がらずまた不十分な感覚に戻ります。実を言うと、私も去年の暮れに10日間ほどですが目標達成型思考に落ちいってしまっていましたボイスのレッスンを受け始めたのですがその先生が「のりこの持っているエネルギーも声の質も申し分はないから、後はテクニックね」と言って、はげましてくれたのですがその先生のありとあらゆる声を自由自在に出すテクニックを見ていると「彼女ぐらいまでのテクニックを得るには一体、どのぐらいの練習と年月が必要なのかしら?」と私の思考は考えはじめ、一気にモチベーションが下がってしまったのでした。そのクラスの日から全く練習する気がなくなったのですが次のクラスの前日になって「あ〜全然練習してない、こりゃ何とかしないと」とキネシオロジーで自己ヒーリングしてみたらこの「目標達成型思考」に身体が反応しあちゃ〜、私もいつのまにかこの思考に陥っていたんだなあと。なので、いかに、人がこの意識に陥りやすいのかということも今回、音楽を通じて、あらためて実感したのでした。私たちは、小さな子供の頃は、これをやって何になるんだろう?とかこれをやっても人の役に立たないなんて考えずに、ただやりたいことをやっていたはずなのに(小さな頃からそれができなかった人もいますが)いつのまにか、これをやって仕事になるのか?とかこれをやって人に役に立つのか、とかやり遂げられるのか、などという目標達成型思考でがんじがらめになってしまっているのだなあと。何かを成し遂げた人が素晴らしい。人に貢献した人が素晴らしい。それ以外は人としての価値がない。という意識を私たちはどれだけ親やこの社会から受け継いできたのでしょうね。そしてもうそれを手放してただ今、本当にやりたいと感じること今の自分にできることをやってゆく。そんな時代が多くの人に訪れているのを日々、キネシオロジーのセッションを通じて、感じています。いつか〜〜しよう、などという目標にする未来は永遠にやって来ないのです。人生は、ただ「今」の連続なのですから。そんな新たな意識の時代に生まれることができて何とラッキーなのかしらね〜ということで、みなさまとこの素晴らき時代に今、存在していることへの祝福の乾杯〜
2015年01月25日
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今日、明日で今年も終わりですね~今年もいろいろあったな〜と振り返っている方も多いでしょう。私は基本、過去を振り返らない、先のことを考えない人ですが何だか最近、昔は私はこうだったなあと懐かしく思いだしていました。そして、2014年を振り返ってみるとそういう過去の私がいろんな形で再び出てきてそれを手放してゆくプロセスになっていました。私の周りでは、この2014年は、大きな変化変容の年になっている人が多いです。結婚、離婚、出産、転居、転職、別れなど、その人の人生にとって大きな出来事が今年あったという人もけっこう多いしまた大きな出来事ではなくても、自分のこれまでの価値観や生き方が根底から変わるような意識の変化を体験されている方もいます。これはたまたま私の周りやクライアントさんに多いだけなのかそれとも全体的に多いのかはわかりませんが。そういう変化のプロセスの最中は、けっこう苦しいのですよね~。もちろん離婚や別れなどの変化は、ストレスになることは多いですが例え、自分が前からやりたかった新たな仕事を始めるにしてもその前にはいろんな葛藤があったり結婚や出産といったハッピーな変化であっても人によっては、結婚式や新たな人間関係でのストレスだとか不妊で悩む時期だとか、妊娠中も思い描いていた状態で過ごせなかったとか必ずしもいつも楽でハッピーとはいかないこともあるわけです。もちろん、それらもすべてマインドの作り上げた困難や苦労なのでそこから抜け出せば、楽に生きれるのですが。私も今年を振り返ると、充実して楽しかったけど今から思えば、けっこう苦しかったこともあったなあと。特に2月のエジプトの旅の後と、5月の日本の後。そしてキネシプロ養成講座の後の11月の始め。これは、身体的にも、食中毒やぎっくり腰などデトックスが起こったこともありますが何よりも、精神的なデトックスが大きかった。私はこれまで自分がやりたいことだけやってきたしそれはとっくに手放したと思っていた「人を救わなければ、世界を救わねば、慈悲と共感と使命感」の意識がまだ強く根付いていてそれを再び、手放してゆくプロセスとなり私にとっては、たぶん10年ぶりぐらいの大きな変化になりました。古く慣れ親しんだものから抜け出す時というのは、何らかの勢いが必要でそれが身体からのサインだったり、ヒーリングだったり旅だったりするわけですね。そのおかげで、一昨年、去年よりも、大幅に休みの日は増えて一昨年の月に休みは1、2日しかない状態から考えるとここ最近は週に2日休みを取っても、ギルティ感は全く感じないし今年から長期での休みも取れるようになって来年も2月から2ヶ月間ハワイに滞在して1ヶ月間は仕事としてリトリートを開きますが残りの1ヶ月は完全バケーションというここ20年ぐらいできなかったこともできるようになりました。そして、今年はおさむとの関係におけても様々な変化がありました。ここ1、2年、おさむがキネシオロジストになってからというもの私とおさむは、毎日毎日、片時も離れず一緒にいるようになりさらに深くつながっていって、それに従ってたまに、どこまでが私でどこまでがおさむなのかよくわからなくなってしまったところがありそのあたりの境界線を、最近あらためて意識することになりました。そして先日、おさむが私にセッションをしてくれたのですがその目標の一つが「おさむから自立すること」これまで自分のやりたいことを自由にやってきたもののここ1、2年、私がおさむに対して過保護になっていたというかどこかに、おさむを一人前にしなきゃ、みたいな気持ちがあったなあと。例えば、おさむがしばらく仕事が少ない時期があった時など心配はしていないけれど、どこかで気になっているというか。以前はおさむを置いて一人旅などもやっていたのにここ最近は一人で何かをやりたいという気持ちが全く湧いてこなかったわけです。やりたいと感じることだけが、魂の方向とは限らないということを先日も書きましたがこれからおさむから離れて何かを行うことも再びやってゆく時期に入ってきたということなのかなあと。「このセッションは俺からのクリスマスプレゼントだよ」とおさむは言っていましたが、彼が私の中のこういう要因を引き出せるようになったということがすでに次のステージに来ているというサインなのですね。と、これからの変化もまた楽しみですがそのセッション後のデトックスとして、クリスマスに映画を見に行った時に私はおさむのちょっとした態度に腹を立てるという一幕がありました。ま、私は怒ったらがまんしたりせずに、思いっきり出してしまう人なので帰りにはもう怒りは消えて「あ~私ってなんて幸せ~♡」となっていたのですが怒っている時の私の感情としては「いつもおさむはそうだった。私はずっとがまんしていた」と、おさむを責める気持ちが吹き出てきました。私は出来事の記憶力が悪いこともあって過去のことを持ち出して文句を言ったりすることは苦手なのですがこの時ばかりは、昔からおさむはこうだった~という恨みつらみを言いたい気持ちが止まらないわけです。ブンブン怒りながらも、これはどこから来ているんだろう?と感じているのですが、感情というのはどうにも止めれないわけですね。さて、その要因を再びおさむに見てもらったら「楽しい時に一緒に盛り上がらない人への怒り」というのが出てきました。クリスマスの日におさむのテンションが低かったので私が怒りを感じたのですがおさむは基本、いつも淡々としていて、盛り上がらない人であることは20年近くつきあってきてよくわかっているしこれまで、特に気にもならなかったのに何で今更、そんなところに反応してるの?と自分でもよくわからなかったのです。筋反射で見てゆくと、これは、私の「いつも人と感動を分かち合いたい」「パーティや祝いの場では最大限に楽しみたい」という思いから来ていておさむだけでなく、みんなで楽しんでいる時などに一人テンションが低い人がいると気にしないようにしていても、居心地が悪くなるし酒を飲まない=盛り上げれない=喜びを分かち合えないの図式もまだ残っていました。根本要因は、もちろん私の両親からの影響。母は、とにかく楽しいことが好き、みんなで盛り上がるのが好きな人でそういう場で盛り上げれない人はおもしろくないまじめな人はつまらない、とよく言っていたし父は一緒に酒を飲まないやつはだめなやつだ、という信念でその両親から育てられまた大学時代に酒の場で盛り上げることを叩き込まれ当時から、私が酒をとことん飲んだり、盛り上げる人だったので先輩や上司やオーナーから、かわいがられた記憶、があり私の中では、酒飲み=自己価値、にまでなっていたわけですね。しばらくお酒を飲まなかった時代もあるので、自分ではもうとっくに手放してきたつもりでしたがたぶん、一昨年のギリシャやイタリアへの旅あたりからワインを飲まない食事なんて、人生楽しめないという思いが強くなってきたのだなあと。こういうプロセスって、けっこうあるのですよね。例えば、子供の頃に責任感や義理人情が強くて20代、30代は、そういうのから抜け出してやりたいことだけを自由にやってきたのに40代になって、再びもともと持っていた責任感や義理人情が強く出てきてそして、最終的にそれらが最も適切な形で統合される、というようなプロセスで極端から極端に移った後で、中庸になる、という感じです。私はこの極端から、その対局の極端に移るパターンが人生でとても多いということに気づきました。朝から焼き肉を食べるような人だったのに、ある時からビーガンになって何年間か肉も魚も乳製品も一切食べなくなり、そして今はその中庸というか肉は特に食べようという気にはならないけど、魚は普通に食べるし乳製品もたまに取ります。毎日のように酒を飲んで朝まで盛り上がって、という破壊的な生活を何年か送っていたかと思えば、ある時から、ほとんど酒も飲まず朝から毎日瞑想、ヨガして健康的なことしかしない時期もありました。今は、基本は健康的ですが、不健康なこともたまにやります。物の持ち方一つにとっても、いろんな物をあれこれ持っていた時期もあればできるだけ物を手放して、家には冷蔵庫とコンピューター以外の電化製品は一切ない状態だった時期も何年かありここ最近は、電子レンジやテレビは持たないけど掃除機やドライヤーなどはまた使うようになりました。(とうとうiphoneも最近買ったし)この両極端を体験することで最終的には、どちらの状況も楽しめるようになるというか物がない生活も、物があるのも楽しいし健康的なことも、不健康なことも楽しいし人に貢献するのも、全く貢献せずにただ受け取るのも楽しい。その中で、バランスを取って、今はどの立場を取っていく、ということができるようになったのだなあと。だから、両極端にやってみる、というのはヒーリングをしないでバランスを取っていく一つの方法だとあらためて思います(時間はかかってしまうけど)昔は、この「バランスが取る」ということさえ否定していて極端な人や劇的人生やこだわりが強い人などがおもしろかったし、好きでしたがどちらかに片寄れば片寄るほど、本来の私たちの自由さを失ってゆくということがわかってからは、いかに自分の中のいろんな面のバランスを取ってゆくかがキーだなあと感じます。つい先日も、おさむと、久々にオラクルカードを引いて遊ぼうと二人でそれぞれ筋反射でカードを選んだのですが私に出てきたカードは「あなたはスピリチュアルティーチャーであり、人々を光の方に導いていく役割を与えられた人です」というカードでした。そのメッセージを読んでいたおさむが「そんなん、わかっとるわい!」と言ったのですが確かに、数年前ならともかく、今はそのあたりはさすがに受け入れているしむしろ今、そういう使命感を手放そうという時になぜ今更このメッセージ?と思ったのですがそこはバランスを取っていきなさい、ということなのだなあと。極端に走りがちな私のことなので使命感を手放した途端「1年間セッションお休みします〜」ぐらいのことになりがちだし私の本質(魂とか宇宙でも)としてはそのあたりの私の役割はしっかり認識しながらもそこにとらわれず、やりたいことを自由にやっていけということなのかしら〜と。12月は手放す時期というのかいや、古いものを手放して新年を迎えたいという多くの人たちが持っている無意識がそうさせるのかこの12月はけっこう苦しかった~と言われる方もけっこう多いのですよね。私もこの2014年の終わりになっておさむとの関係や酒のこだわりを手放すというデトックスがあり私にとっては、酒との関わりは人との関わり方につながるものだったので古くから持っていた意識を覆すような変化だったわけです。もっとも最近はもうワイン2、3杯で充分満足~という感じでお酒も弱くなっているし、昔のような飲み方はしなくなりましたが(なぜかハードリカーはけっこう飲めるのだけど)少なくとも、酒飲まないと楽しめない、という意識はなくなるのでしょうね。ということで、明日の大晦日は7人で集まって私が昔働いていたレストランにそばとお寿司を食べにいく予定です。とことん飲むわよ〜!!もとい!ほどよく飲むわよ〜新たな年もまたいろいろあるでしょうが、すべてはプロセス。人生に目標地点はないですからあらゆるプロセスを楽しんでゆきましょうね。今年もたくさんの方々にお世話になりました。ありがとうございます。みなさまどうぞよいお年を!!
2014年12月30日
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これまで、キネシオロジーのセッションでいろんな方の身体の声を聞いていく中で多くの人は、それぞれの人生の中でいろんな上手くいかなかった時期や出来事を経験していますがそこから「人生は大変」とか「人生はそう簡単には上手くはいかない」という思い込みを生まれる人と同じようにいろんなことがあっても全くそう感じていない人といます。これはもちろんストレス対応能力、グランディング力といったものも関係していますがそれだけでなく、その人の人生が上手く回らなくなった時や何か困難が起こった時にどういう選択をする思考になっているか?が大きく作用しています。例えば、結婚や離婚、就職や転職、出産や病気、別離など人生にはいろんな事件や出来事が起こりますが何か上手くいかないことがあってそれを何とか解決しようとがんばってしまう人とそこで何とかしようとするのをやめて、新たな発想や視点でこれまでとは違った道を選択する人とでは同じようなことが起こったとしても、全く別の学びとして脳やエネルギーフィールドに記憶されていきます。何か起こった時に、何とかしようとがんばっていたのにも関わらず思い通りにならなかったりすると「人生はそう簡単には上手くいなない」という思い込みが生まれその現実がさらに強化されてゆきますが一方で、何か起こった時に、そこで抵抗するのをやめて流れに従った選択をすることができれば困難は単に自分の人生の方向を軌道修正してくれる気づきのきっかけにしかならず何か上手くいかないことも、新たな可能性へのチャンスとなるのです。この「流れに任せる」「ゆだねる」ということはあきらめる、とか。そのままそれに対して何も行動しないでいるということとは、全く違います。全く違うことをやってみる、環境を変えてみる自分がこれまでやってみなかったことに対して何らかの行動を起こしてみることが人生の流れに身をゆだねることにつながる場合もあるです。つい先日、私の福岡に住んでいる弟から近いうちに結婚することになったとお知らせがありました。私の弟は、去年の夏にニューヨークに3ヶ月ほど滞在してそれから福岡に戻ったのですがその後、彼の希望していた職種での就職が決まり、しばらくして素敵な彼女もできて、この度めでたくl結婚することになったとのこと。彼曰く『NYに行ってから、なにか今まで錆びて動くことがなかった歯車が一気に回り出した感じがする」と、とてもうれしいメールでした。NYに来る前の彼は、東京を引き上げて福岡に戻ったものの福岡での就職がなかなか決まらず、実家でもんもんとしている状態で私は去年の5月に彼と何十年かぶりに実家で会った時にあ〜これは環境を変えた方がいいなあ、と思い「NYにしばらく来てみたらどう?」と勧めました。でも、彼は、前々からアメリカには全く興味がなく海外より日本が好き、という人でしかも、どちらかと言えば、目標達成型思考なのでただニューヨークでしばらく暮らしてみるなんてことは、なかなかしそうになかったこともあり私は「英語を習得して、それで就職活動したら?』と勧めたわけですが正直なところを言えば、たった3ヶ月の滞在で英語を修得うんぬんということよりただ環境をしばらく変えてみる必要性を感じたからでした。多くの場合、就職活動をしているのにも関わらず、就職が決まらないという状態が長く続いてくると「自分は社会に必要とされていない」という思いが強くなり本質的な自信や自分への信頼を失ってゆくことになりがちです。でも、それは、限られた狭い世界だけを見て判断した思い込みであってちょっとその環境を変えてみれば、世界にはいろんな場所がありその人ができること、その人を必要とする環境もたくさんあることに気づきます。私の弟は、たぶん最初は、NYにわくわくしてやってきたとは言い難たい感じだったのでしょうがそれでもNYにやってきたのはこれは、彼にとっての「ゆだねる」レッスンだったのだなあと今から振り返ってみれば思うのです。もちろん、NYに来たというだけではなく滞在中に私やおさむのセッションを受けたこともあるし学校に通い海外の人たちと交流したり、NYでボランティアで働いたりしたことで彼の中の何らかの意識が変化していったのは間違いなくそしてそれが、日本に戻ってから、違う流れになっていったのだなあと。人生に行き詰まった時に、これまでとは全く違うことをやってみる違う場所に住んでみる、違う人と会ってみるというのは、けして逃げることではなく流れにゆだねることであり、自ら人生を切り開いてゆくことでもあります。自ら人生を切り開くことと、流れにゆだねることは一見、正反対のことのように見えて、実は同じことなのです。私もこの人生で何度も行き詰まった時がありましたがその度に環境を変えたり、新しいことを始めたりすることにつながったので、人生は大変、という信念は生まれませんでした。もともと私がアメリカにやってきたのも、25歳の頃に音楽の仕事に行き詰まりを感じて、では結婚でもするか〜と結婚の準備をしていたにも関わらず、結局、彼と別れることになりすべてに行き詰まったのがきっかけでした。じゃあ結婚しないのなら、と前から一度ニューヨークに住んでみたかったので行ってみることに決めたわけですがその頃の私には全く貯金もなく、飛行機代さえない状態でしたがニューヨークに行きたい、と周りに伝えたら、いろんな方のサポートがありニューヨークでの仕事を紹介してもらって着いたその日から働くことができたのでした。上手く行かないことや困難はチャンスや新たな可能性ににつながってゆくという学びを若い頃から、たくさん経験してきましたがそれは、何か上手くいかなかった時にそこで無理して何とかしようとがんばったりせず、方向転換したり発想を変えたりしてきたからです。ニューヨークに最初に来た時も、ここで何かを達成しようとか成功しようと目指してやってきたわけではなくただ環境を変えたかったからでした。何かを始めるために、何かをやってみるのに目的や目標は必要ないと私は思っています。ただ何となくやってみたかったから、とか勢いでやってみた、とかたまたまそういう話があったら、などというのが実は、最も人生の、つまりは宇宙の流れにゆだねていることにつながることは本当によくありますから。ということで、今、もし流れが上手くいっていない、とか人生で何度か同じパターンを繰り返している感じがする、とか何かが行き詰まっている感覚がある方はもちろん、そこでがんばることも必要な時もあるかもしれませんががんばるのをやめて、全く発想を変えてみたり、全く違うことをやってみると何か人生の流れが変わり、新たな展開が開けてくるかもしれません。(責任は負えないけどね)例え、何かそれを解決するしか道はない、と思っていても実際は、選択は無限にあり単に今の自分にはそれが見えていないだけですから。Good Luck
2014年12月11日
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少し前にハワイのリトリートの申し込みの予約がすべて埋まったことを書きましたがその後「急に仕事が入って行けなくなってしまいました」と何人かのキャンセルがありました。キャンセル待ちの方も何人かいらっしゃっるのでまた上手く埋まってゆく感じで(まだ一枠は空いていますが)朱実さんと「本当に必要な方が来られるようになっているのでしょうね」と話していた通りになるのだなあと感じていますがちょっとそのことで感じたことをシェアしてみますね。その方たちは、一度、行こうと決めて申し込みをしたにも関わらず仕事や他の用事で行けなってしまう、という状況になってしまったわけですが予定は柔軟に変更してゆくことも必要ですからもしその仕事や用事が、その方にとって、魂が喜ぶことでありこのリトリートに参加することよりも、やりたいことであれば何も問題はないわけです。ですが、一方で、リトリートに行きたかったのにも関わらず仕事を断ったり、休むわけにはいかずにリトリートをあきらめたという方は、今回に限らず、その方の人生のほとんどの場面で「外からの要因によって人生が左右されてしまう」ことになっていたり「物事はそう簡単には上手くいかない」というようになっている可能性が高いわけですね。(これが潜在意識での「ヒーリングを受けて変化することへの抵抗」とも言えるわけですが)この「物事はそう簡単には上手くいかない」という感覚を持っている方というのはそう簡単には行かない人生を自ら選んでいることがほとんどです。その根底にある意識というのは「人に迷惑をかけてはいけない」「仕事は責任」「人のために貢献しなければ」「調和が何よりも大切」「人に頼むのは申し訳ない」など人それぞれですが、そういう意識が潜在的にあれば人生は簡単にはいかなくなるのです。なぜ「人に迷惑をかけてはいけない」という思いが強いことや責任感が強いことが問題になるのか、というと常に「他の人の気持ちや立場を考えて行動する」という思考パターンになり自分が本当にどうしたいのか?で動くことができなくなってしまうからです。つまり自分の言動の軸が、自分自身ではなく、他人や会社など外のものになっているわけです。もちろん、これは人に迷惑をかけろ、とか、仕事には責任がない、などということを言っているわけではありません。本当の意味で人に迷惑をかけないで生きている人なんて、この世にはいないわけで私たちはサポートし合って生きてゆくようになっているのですがこの思いが強すぎると、人に頼む必要がある時に頼めなかったり、自分がやる必要のない(本来の自分はやりたくない)ことまでやろうとしてしまったりすることが問題ということです。人の気持ちや立場について、頭で考えれば考えるほど本質的なことや、今、ここで自分が本当に何をすることが必要なのか?が見えなくなってゆきます。ですから、親が子供に対して「人の気持ちを考えなさい」などと教えていれば子供は頭で考えなければならなくなり、感じる力をどんどん失ってしまうのです。自己中というと、日本ではあまりいいニュアンスで使われない言葉ですが自分の中心にいること、そして、自分を(世界の)中心として捉える意識はとても大切なことです。でも、自己中心とか自分優先という言葉から受けるニュアンスに抵抗を感じる方も多いので私は最近「自分軸」という言葉を使っています。統計を取ったわけではないですが、私のところにセッションにお越しになる方の8割ぐらいは自分軸でなく他人軸になっていて、自分軸で生きていない人は本当に多いのだなあと日々感じています。人からの評価や人にどう見られるかが気になる人からの期待をプレッシャーに感じるといったことも、自分軸で生きられなくなる要因です。多くの場合、子供の頃から親の期待に添わなければ、という思いが強かったり、または親が苦労していたので、わがまま言えなかったりいい子でいたりした人が、そのまま大人になって自分軸で生きられなくなってゆく傾向があります。長い間、他人軸で生きているといつも他の人にとって何がいいのか?やどうしたら人に貢献できるのか?に意識があり本当の自分はどうしたいのか?が見えなくなってゆくのです。自分がやりたいことがわからない、という人は他人軸で生きていると言えます。キネシオロジーのセッションをやっていく中でわかってきたことはすでに3歳までには、自分軸で生きれるか、または他人軸になるのか?の傾向が出てくるということです。3歳までの感情が蓄えられている脳の扁桃体(本当は扁桃体だけに感情があるわけではなくハイアーチャクラと連動して記憶されているのですが)にどんな感情があるか?を筋反射で見てゆくとそこにギルティ感、ごめんなさいやかわいそうという感情または人への献身といった感覚が入っていると他人軸になってゆく傾向があります。そして、子供の頃の親との関係がそれをさらに強くしてゆきます。でも、これはあくまでも傾向であって必ずしもずっとそうなるとは限りません。私もそういった感情は、扁桃体にあったのですが10代後半から自分軸で生きれて来れたのは10代からの反抗期が長く、かなり親に反抗した時期があったからということもあるでしょうし青年期に自分軸で生きることの大切さを様々な場面で学んできたからかもしれません。この子供の反抗期というのは、自分軸で生きていくために大切な時期だと私は捉えていて、その間、親の言いなりにならない、親の期待に添おうとしないということを通じて、人の期待や評価に左右されない生き方を模索しながら学んでいるのだなあと。ですから、一度も親に反抗したことがない、いつもいい子だったという方は他人軸になっていることが多いのです。そして、この自分軸でいながら、人をサポートする、愛を与えてゆくという意識があれば、人生のほとんどは上手くいきます。人に愛を与えてゆく、人をサポートする、という意識がなければ本当の意味で、自分も愛を受け取ることはないですし人間関係も満たされたものにはなりませんが一方で、他人軸で人に与えていれば、必ず、人生に様々な「困難」が生じます。もちろん、その困難や問題は悪いことではなく自分の中のバランスが崩れているよ〜というお知らせにしか過ぎないわけですからその度、変化してゆけばいいわけです。また、日本語の「自己満」「自己満足」という言葉もあまりいいニュアンスで使われないですが自分に満足していることは、人からの評価に左右されない、ということでもあり不足感、不十分感から行動しないので、本当に自分にとって必要なことをやっていくということにもつながります。自分が本当に満たされていれば、自然と人への愛やサポートの意識が生まれるようになっています。頭でサポートしなければと考えることではなく、与えることに喜びを感じる意識です。私たちは誰でも、他人の望む人生や他人が期待する人生を生きるためではなくそれぞれの人生を生きていくために生まれてきています。人が何を望んでいるのか、人がどう思うのか?ではなく自分は本当は何を望んでいるのか?どうしたいのか?に意識を向けてゆく。そして、それに従って自分自身が本当にやりたいことを自由にやり輝いてゆくことが、結果的には周りも幸せにしてゆくことにつながってくるのです。さて、先日、おさむが彼のブログに「愛の気づき」と題して今回の私のぎっくり腰のことで、与えることや頼られることへの喜びに気づいたということを書いていて、それはうれしかったのですが(それにしても任侠道、侍意識って、一体どないやねん。。。。)彼が人から頼られることにプレッシャーを感じる人であることは何も今さらわかったわけではなく、20年近く前に彼とつきあい初めて数週間もしないうちに「こいつには頼れんな〜」とわかっていたことなので私の中で自然と人に頼るとか甘えるという意識が失われていったわけです。でも、それも人生の一つのプロセスであり、だからこそ、今、自立してヒーリングの仕事ができていることもあります。そして実際には、彼に全く頼ることができなかったわけではなく音楽を通じて、彼に守られているという感覚を持つことができていたことをここ最近、音楽を少しずつスタートしてゆく中で感じるようになりました。私がこの数年、音楽を必要としなくなっていったのは音楽がなくても、彼に守られている感覚を持てるようになったからということもあったのだなあと。そしてこれからはまた別の意識で音楽をやっていくということも感じています。ということで、話はまた変わりますが先日、急にふと思いついて、新たな楽器を購入しました。クリスタルリュラ(別名クリスタルハープ)クリスタル100%でできていて、これはクリスタルボールが7つが一つにまとまっている感じで、ヒーリングのための道具にもなります。先日、家にこれが届いたその日から、早速キネシオロジーのセッションの中でクライアントさんの身体が調整法としてこれを選ぶことが何度かありました。これから音楽にもヒーリングにも活躍してくれそうです。と、今日もあれこれと散漫な日記になってしまいましたが明日はサンクスギビング(感謝祭)です。丁度、この日は、以前セドナにも一緒に行き、先日プロクラスも受けてくれたみゆきちゃんが日本に旅立つ前日でもあるので明日はみんなで私たちの家に集まって送別会も兼ねてのパーティを行う予定です。ということで、みなさまもどうぞ素敵なサンクスギビングをお過ごしくださいますように(日本ではお祝いしませんが)
2014年11月26日
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ここで何度かご紹介した奈央さんのブログ「幸せなセックスの見つけ方」に先日、私のブログを紹介してくださっていて、びっくり。奈央さ〜ん、ありがとうございます先日の私のブログの中で書いた「閉経の時には、赤ワインで祝ってもらおう」という内容を紹介してくださったのですがそれに対して、奈央さんのメルマガで、奈央さんの彼は奈央さんが閉経になったらどうやって祝いたいかが書かれてあってそれが夕日や赤いバラのお風呂など、とってもロマンチック♡日本の男性でも、こんなことを言われる方もいるのね〜素敵〜♪と思ったもののいや、これは奈央さんが女性性を存分に発揮していてとてもかわいい女性だから、男性もそうなるのだなあと。私たちもロマンチックとは言えないものの普段からダーリン、ベイビーで呼び合っているので今回も私は「ダーリン、私の閉経の時は赤ワインで祝ってね。チュ♡」と、一見、かわいく迫ってみるわけですが(けして、閉経になったら祝え〜!!と脅したりしてないのよ)これが、本当にお祝いとなったら、私が「今日は祝いよ、閉経よ、めでた〜い、酒持ってこ〜い、がんがん飲むわよ〜」という感じになりがちでこうなると全くロマンチックでなくなる可能性大なのですよね〜。お酒飲んでもかわいい女性、でいれるよう潜在意識、調整できるかしらん閉経って、終わる時期がはっきりしない方も多いらしいので私の場合、下手すると3回ぐらいお祝いしてもらうことになるかも。(そうならないように、もし閉経したかどうかあやふやだったら筋反射で身体に聞いてみるつもりなのだけどね)奈央さんが、このブログの中でいつかNYでコラボをやりたいと言ってくださって、うれしいな〜〜♪これは私がいつか奈央さんをNYに呼んでコラボをやりたいな〜とお伝えしたのを受けてくださったのですが考えてみれば、コラボというからには私も何かやるわけではて、もしそうなったら奈央さんはいろんな性のお話をしてくださるのでしょうが私は一体、何をするのかしら?と。私も、一応ダキーニ(タントラティーチャー)ではあるけど100人ぐらい集めて、タントラのブレスワークするわけにいかないしな〜(イメージしただけで、すごそう〜)と、よくわからなかったのですがとにかく奈央さんとのコラボというアイデアはわくわくするのでいつかもしチャンスがあって実現することになったら、その時になれば何か具体的に出てくることでしょう。それまで、私の女性性を磨いておきま〜す♪(ホンマかいな〜というおさむのつっこみあり)最近、おさむから、「のりこは心臓に毛が生えているね」とか「のりこ、何かを心配したことある?」などとけして女子としてはうれしくない褒め言葉をかけられていますがたぶん、ヒーラーとしては、それぐらいドンとしていた方がいいわけでこの女性性とセラピスト意識とのバランスは、私のテーマだなあと。女性は、子宮で感じているわけですから、揺れる部分があるのは自然で男性に甘えたり、頼ったりすることでそのバランスを取り男性も女性に頼られて、その男性性を発揮していきますが一方で私はヒーリングすればするほど、グラウンディング力というかヒーラー、セラピストとして何がやってきても動じない安定感もあるのでその一見、相反する二つの意識のバランスを取っているわけなのです。一般的に仕事というのは男性性の要素が大きいので(すべてではないですが)女性であっても、外では自分の中の男性性を発揮していく必要もありますから女性は、外で仕事をすればするほどプライベートでは男性に甘える、頼る、守られるという女性性を発揮してバランスを取ってゆく必要が出てきます。私の場合、家が仕事場であり、プライベートなのでさっきまで、おさむにパシバシと教えていたかと思えばね〜ダーリン〜♡と甘えてみたり、と我ながらカメレオンのようだなあと思いつつもいくら私が揺れてみてもおさむは、私の安定感を見抜いていることもあって今一つ、女性性やセクシャリティの表現が弱くなってしまうんですよね〜。う〜んということで、あれこれ独り言のように書いていますが明日から2泊3日でNYのアップステートにドライブ旅行に行くことに急遽、決めたので、今、その準備をしています。ここしばらくはキネシオロジーのクラスの指導者としての男性性発揮の私だったのでこの2泊3日は、ダーリンに存分に甘えつつ、女性性を発揮してラブラブの旅にしようと思います〜〜(ホンマかいな〜という二度目のおさむのつっこみあり)
2014年11月02日
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久々の日記です。書きたいことはあれこれあったのですが(書こうと思っているうちにほとんど忘れてしまったけど)ここ最近クライアントさんの身体から最もよく上がってきた問題が「まじめさ」だったので、それについて書いてみようと。人によっては「いい加減に生きる」とか「ちゃらんぽらんに生きる」なんて言葉が目標として選ばれたぐらいここ最近はまじめな方が多かったです。まじめさというのは、日本では昔から美徳とされてきたわけでそれが、日本人のいいところでもあるのですがその性質が、生き辛さにもつながっていることが多いのですよね〜。まじめさと言っても人それぞれいろいろで時間をきっちり守る、掃除や片付けをきちんとする、身だしなみをきちんとするという「生活をきちんとする」というまじめさもあるしまたは「仕事はできるだけ休まない」」「怠けない」「仕事は責任を持って行う」などの仕事に対する姿勢というのもあるしまたは「人の話はきちんと聞く」とか「人との約束は守る」とか「人の悪口は言わない」とか「人に対して、失礼のない言葉使いをする」など人とのつきあいやコミュニケーションに関することもあるしまたは「充分に考えてから(計画を立てて)行動を起こす」とか「一度やったら最後まで行う」など言動のあり方に関することもあります。クライアントさんの中には、すべての領域においてまじめであるという人も多くそういう方は、やはりストレスを抱えやすくなります。大抵の場合、まじめな人は、その親もまじめなので、親から「人に迷惑をかけてはいけません」とか「人の話はきちんと聞きなさい」とか「よく考えてから、行動しなさい」とか「いつも一生懸命にやりなさい」などと言われて育ってきたりするわけですね。先日おもしろかったのは(たぶんここで書いてもいいと思うから書いちゃうけど)ある方のセッションで、身体に聞いていくと子供へのギルティ感というのが出てきたのでその方にどういうことなのか話を聞いてみると子供がアンパンマンの話をしてくるのだけどその話に興味がないので申し訳ないな〜という気持ちになっていて今度アンパンマンについて勉強しなきゃ、と思っているのですがなかなかやれていないのですということでした。その方の身体にどうしたらいいかを聞いてみると、身体からのお答えは「(子供の話を)聞き流す」まあ、そうですよね。子供がアンパンマンが好きで、ママに一生懸命話しをするからと言ってママも一緒にアンパンマンを好きにならなくてもいいわけなんです。子供は、単に自分が好きなことをママに話しているのがうれしいだけなのですから。この「人の話をちゃんと聞かなければ」「人の話に興味を持たなければ」というまじめさを持った方って案外多いのですよね。もちろん場合によっては、真摯に相手の言葉を聞くことも必要でしょうが人の話を聞き流す気楽さ、も必要なのです。逆に私の母は昔「人の話は話半分(に聞いておく)」とよく言っていたので私はそんなもんだと思って育ってきたわけですがこれは話そのものを、まじめに受け取りすぎないというのか例えば、友人から悩みを相談されてそのことをまじめに捉えすぎてしまって、あれこれと解決法を考えたり心配していたら次にその友人に会った時は、その友人はあっさりとその悩みは解決していたなんてこともあるわけで人が持っている悩みや問題に翻弄されない、ことが大切だなあと。私の母がいつも口癖として言っていたのは「まじめな人はおもしろくない」「(冗談を言ったり、ばかをやって)楽しまなきゃつまらない」母は、いつも軽い自虐ネタというのか母自身や父のことを題材にみんなの笑いを取るようなところがあって私もそれを受け継いでいるところがあるのを最近感じているのですが(そういえば、おさむも最近その傾向あるな〜)私がそういうことを言うと、たまにまじめな方は「のりこさんは、そんなことないですから大丈夫ですよ」なんて、慰めてくれるわけです。私としてはいや、そこは慰めてほしいところじゃなくて、笑ってほしいところなんだけど~となるわけですね。人の話をまじめに受け取りすぎると人が軽く言った話や冗談もあまり通じなくなってしまいます。クライアントさんの中には親から「まじめが一番」と言われて育ったと言われていた人がいて、そういう方はなかなかまじめさから抜け出せないわけですが一方で「まじめな人はおもしろくない」という母の価値観を潜在的に受け継いだ私は例えば、まじめに学校に通う、とか次の日に備えて早く寝るなどということも抵抗があったしはめを外して遊んだり、予定をすぐに変更したり、ということはしょっちょうだったので大学時代から彼や友人に「のりこにはついていけん〜」とか「のりこはほんといい加減やな〜」とよく言われてきたわけですが今から思うと、それはどこかで私にとって心地いい自己イメージだったのだなあと。ところが、一方でしっかりと私の父のまじめさを受け取っていて一度引き受けたら、責任を持ってとことんやる人と真摯に向かいあうなどの性質は受け継いでいておさむにもよく「のりこはほんといい加減やな〜」(言ったことを守らない、すぐにそれを変更することなど)と言われたかと思ったら「のりこはほんとまじめやな〜」(クラアイントさんと深く向かい合う、きちんとキネシの資料を作成するなど)などと、まじめさといい加減さが混合しているわけなんですね。先日もおさむが私のセッションをやっていて「のりこ(潜在的な思考パターンを見つけ出すこと)は難しい〜」と言っていましたが、両親のどちらからもいろんな要因を受け継いでいるからであってこれは私だけでなく、多くの人が両親から影響を受けていて一見、相反する価値観が一人の人の中に混合していることがよくあるのです。話はまたそれますが、今年、日本に戻った時に、母が私に向かって「あなたは私の楽天的な性格とお父さんの頭のよさを受け継いでいいとこ取りで、ほんといいわね〜」と言っていたのですがもちろん、受け継いでいるのはそれだけでなく母の記憶力の悪さ、とか母の人の空気を読まない部分、とか父の感受性の鋭さ、とか父の人情深さ、とかいろんな要因を受け継いでいるわけです。その中には、キネシで調整したので、今はあまりない性質もありますが例えば、出来事記憶に関しての記憶力は、私は学生時代から極端に悪くて誰が何を言った、とか、私自身が何を言ったとかやったとか出来事に関するものは、どんどん忘れるのですがいまだに私が持っている性質です。これは、もともとは母の「(過去はさっさと忘れて)今を楽しく生きたい」という思いから来ている性質なのだなあと。私の場合、読んだ本や資料をすぐに記憶する、という記憶力はいいのでこの出来事記憶に対する調整は、まだやっていないのですがたまに他の調整をやっていると、私の身体から「記憶力の調整をしろ〜」と言われるのでもう、そろそろやらないとなあと。私がそれをやらないでいるのは、セッションでそれぞれのクライアントさんと深く向き合ってゆくことは楽しいけどそれをいちいち覚えていたくないというかセッションが終わったらすぐにその内容を忘れることが私にとって、気持ちをすぐに切り替えることにつながっているからなのだなあと。自分や相手の言動をすぐに忘れるというのは、いいかげんさにつながりますし私にとって、楽に生きることになっているわけですね。(書いたことも忘れるので、たぶんこの話も前に書いていると思うけど)さて、このまじめさの中で、私の両親ともに持っているのが「人に迷惑をかけてはいけない」と「謙虚さ」それも私は10代後半から30代にかけて、人に迷惑をかけまくってきた人なのでそこはもう抜けているかと思ったらここ最近、かなり強くその意識が出ているのを感じて若い頃には、あれだけ人に迷惑をかけても平気な人だったのにどこかで、それはずっと深く根付いていたのだなあと。先日もそれを感じることがあったのですがそれは、セドナつながりのNYファミリーの面々が、私とおさむを家に招待してごちそうしてくれたのですが(おさむがブログに書いていますが)その日、いつものように酒を飲んで、調子に乗ってしゃべりまくって、すっかりいい気分で家に戻ってきたのですが次の日、珍しく二日酔いで胃がむかむかするのでこれはキネシで調整しておこうとセッションをやってみました。するとその二日酔いに関連した感情として出てきたのが「ギルティ感」おさむ曰く「酒飲んで(酔っぱらって)みんなを巻き込んでそのギルティ感から、自分で(もちろん無意識に)二日酔いになったんやね」そうなんです、ただお酒飲んだだけでは、二日酔いにはならないんですよね〜。いや、私は酔っぱらっていたことと、もともと人と話した内容をあまり覚えていない人なのでその夜、私が何を話したのか、たった一つの単語さえ思い出せないのですが、おさむの様子からそれが、どれだけひどかったのかはわかるし「(みんなの中で)のりこが80%ぐらいは、一人でしゃべていたよ〜」「熱くヒーリングを語っていたよ」とおさむに言われて、もう恥ずかしいやら申し訳ないやらの気持ちが出てきたわけです。これまでの人生で散々、酒飲んで暴れてきたのに何を今更、罪悪感なんだかという感じですがそんなわけげわからない状態で、ヒーリングについて一体私は何を熱く語っていたのか一応、メンバー全員キネシオロジーやヒーリングをやっていることもあってみんな忘れて〜という感じでした。ずっと私一人だけがしゃべっていた、というのも何とも申し訳ないというか。でも、それもたどっていけば「一人だけで話してはいけない、人の話も聞いて、バランスよく会話をしなければ」とか「謙虚でいなければ」などというまじめさなのだなあと。今回のセッションでは、脳の扁桃体の問題が出てきたのですがこの扁桃体は0〜3歳までの感情が蓄えられているところで私は2歳の時にギルティ感を感じたらしい。らしいというのは、もちろん私は覚えていないのですが身体がそう反応するのでわかったことですがそういう脳の本質的なところに、そういう感情があるのですぐに申し訳ない、という感情が生まれてくるわけですね。ということで、そのギルティ感を調整した私は一体どうなるのか。酔っぱらって、一人しゃべりまくっても、もうギルティ感を感じないのかいや案外、はめを外さなくなるのかも?お酒の調整は、スペインから戻ってきてからやろうかなあと思っているのですけどね。ここでも「はめを外さない人はおもしろくない」「酒を飲まないやつはおもしろくない」という私の両親から受け継いだ価値観からお酒を飲んではめを外す、というのが、私にとってのサバイバル(生きていくのに必要だと潜在意識が作り出したプログラム)になっている可能性大なんですよね。ということで、たまにクライアントさんから「のりこさんも調整することなんてあるんですか〜?』なんて言われますがまだまだ山ほどありま〜すでもそんな不完全な私が、今この瞬間は完璧なのです。(え?完璧だなんんて言ってないで、いい加減、酒の調整してほしいって?ふふ、そう簡単には調整しないのよん)←脅し?開き直り?ということで、また巻き込んでしまったら、ごめんなさい〜(とにかく先に謝っておこう)
2014年09月14日
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先日、ブログに私が責任感を手放す調整を行ったことを書きましたがその後、何人かの方に「私たちはクラスを受けたいだけですから、のりこさんが責任を感じる必要なんてないので自由にやってください」とか「責任感を手放されたので、私のお願いを引き受けてくださるとは思っていませんでした」とか「責任感を手放されたと読んだので、ここまでセッションをやってくださるなんて思っていなかったので感謝です」などのお言葉を頂きました。う〜ん、言葉って伝えるのが難しい。ブログでは私にとって基本的なことは、すっ飛ばして書かないでいるので説明不足になっていることもありますが。私をケアしてくださるお気持ちは、とてもありがたいのでそこはありがたく受け取りますがそういう意識が、私たちが持っている不要な責任感だということをお伝えしたかったのですけどね。「相手に責任感を感じさせてしまったら申し訳ないという責任感」みたいな感じかしら?例えば「人に気を使わせてしまうと申し訳ないと(自分が)気を使う」というようなことって、よくあるのですよね。例えばメールの返信でも、私は返信する必要があると感じればするし時間がなかったり必要ないと感じればしない人ですが「お忙しいでしょうから、返信は不要ですので」などと、気を使ってくださると気遣いはありがたいものの、例え私が返信したいと思っても私が気を使って返信したと思われて(相手の方が)気を使われるから返信しないでおこう、などと、わけがわからないことになってゆくわけです。また「セッション時間が長くなって申し訳ないです」と言われる方がいらっしゃると私はその方に求められてセッションが長くなっているわけではないので今度は私の方が「申し訳なく感じさせてしまうのは、申し訳ない」などと感じなければならなくなり(って感じてないけどね)「申し訳ない合戦」みたいになってきます。責任感の強い方は、どこまでが自分の責任でどこまでが自分の責任でないかを理解されていないことが多いです。基本的に「自分の感情はすべて自分の責任。人の感情はすべて人の責任」です。ですから、私が責任感を感じていたのは、私の責任であって誰の責任でもありません。一応、念のために書いておくと私はこれまでの人生で自分がやりたくないと感じることをやったことはほとんどない人なので(これは10代後半からなのですが)いくら人に頼まれたとしても、人から期待されたとしてもやりたくないことはけしてやらないし自分がやりたいと感じることのみに従っています。クラスを開くのは、みなさんからの要望があったことがきっかけではありますが何よりも私自身が教えることがわくわく大好きだからです。セッションにおいても、やっている時に結果を出さなければという思考はありません。私のセッションを受けた方ならわかるでしょうが全く時間のことなど意識せず夢中で集中してやっていて「ぎゃ〜もう3時間になる〜〜」みたいな感じです。ですが、そのやりたいことであっても例えば、私の意識のどこかに「このヒーリングをもっと広めたい」「多くの人がキネシオロジーの素晴らしさを感じてほしい」という思いがあればそのためには「みんなができるキネシオロジストになれるようにクラスで教えたい」という無意識の思考が働きます。クラス自体は、例え明日行うとしても特にストレスを感じることなくある程度やれるでしょうが「みんなが理解できるように(完璧な)資料を作成しなければ」などという責任感や完璧主義になると「旅なんてのんびりしている時間はないかも?」などという思考へとつながってゆくわけです。もちろん、できるだけ理解できるように伝えていくことは必要でしょうが実際にそれを参加者が理解できるかどうかは参加者それぞれにゆだねられていることであって、私の責任ではないのです。ですから、〜〜したいという強い思いは〜〜しなければ、になり状況をコントロールしようとしていることになります。なので、この場合の責任感を手放すというのは「〜になってほしいという願望を手放す」私がやりたいことをやって、結果は天にゆだねるということなのです。また例えば、セッションで早く幸せを感じてほしい、早く問題を解決してあげたいという思いが強ければ「セッションで必ず効果を出さなければ」という思考になり責任感につながります。与えられた時間の中で、効果を出すためにベストを尽くすのは私の責任ですが効果が出るかどうかは、天にお任せです。ですから「早く幸せになってほしい」という期待や願望を手放していることが大切なのですが、私もそんなことはよくわかっていたものの5月の父のことで、潜在的にその思いが強くなっていたわけです。ですから、お願いを引き受けるのは、責任感からではありません。そのお願いを引き受けることが、私のやりたいことであり今の流れにゆだねることであると感じた時には、ありがたく引き受けます。一旦、引き受けた以上、それは引き受けた私の選択であり、責任ですから(といっても、一度、お願いを引き受けたら断れないという意味ではなく)お願いされた方が「忙しい中、申し訳ない」などと感じる必要はないのです。もし私が無理して引き受けているのなら、それはお願いした方の責任ではなく私の責任なのです。つい先日もクライアントさんに「忙しい友人と会う時に、忙しい中にわざわざ時間を裂いて来てもらっていると思うので申し訳なく感じる」という問題が上がってきましたがこういう風に相手の立場を考えすぎて余計や責任感や申し訳ない感を持っている方って、多いのですよね。どんなに相手が忙しかったとしても、相手は会いたいから会うのでしょうしもし相手が無理して会っていたとしたら、それは相手の問題であって自分があれこれと気遣ったりする問題ではないのです。今日もクライアントさんとお話していたのですが私たちは、子供の頃から相手の立場を考えなさい、人の気持ちを考えなさい人に迷惑をかけてはいけません、と言われて育っているので余計な気遣いや責任感が生まれそれが、人間関係やコミュニケーションを面倒な複雑なものにしているのですね。また、人からの期待に応えることが責任、になっている方も多いです。日本には「人の期待を裏切る」というわけがわからない言葉がありますが期待と言うのは、その人が「勝手に」感じている欲求であってそれに応えなければ、裏切ったことになるなんて全くおかしな話なのです。ちなみに、人をがっかりさせたくない人の期待を裏切りたくないと感じている人には二つのパターンがあります。一つは、人の期待に応えようとがんばるケースこれが自分のやりたいことだったらそれほど問題ないのですが(ですが、やりすぎになる可能性はあります)もしやりたくないことだったら、ストレスや抑圧になってゆきます。またもう一つは、人の期待を裏切りたくない、がっかりさせたくないので逆にやりたいことを始めからやらないケースです。こういう方は、できるだけ人からの期待がかからないようにするので例え、自分のやりたいことであってもやれないということになります。どちらも人の期待に応えなければという不要な責任感です。でも、実際は「人から期待されている」と感じてプレッシャーになっているのは本人の思い込みで他の人は期待しているよ〜と言っても、実際はそこまでの期待ではなくもし期待通りにいかなくても、何とも思わないことも多いのですけどね。相手が不要な責任感がなく、人の期待に応えようとしない人だからこそ気軽にお願いしたり、サポートを頼むことができます。頼む方は気軽にお願いする頼まれた方は(自分がやりたくなければ)気軽に断るそれが楽でシンプルなコミュニケーションなのですがどちらかに「断られたら(自分が否定された感覚になるので)怖い」とか「断ったら申し訳ない」などという思いがあればストレスを生み出します。ですから、不要な責任感を手放すためには例え、相手の期待に添えなくてもまたは、相手からお願いを断られたとしても自分は受け入れられている、認められているという自己価値を持っている必要もあるわけです。自分自身があれこれと人の気持ちや立場を考えたりせず不要な責任感を手放し、楽なコミュニケーションができていたなら周りもそんな人が自然と集まってくるのですよね。ということで、あれこれ書きましたが、今日の「のりこの教訓」は1)自分の感情は自分の責任、人の感情は人の責任。2)人の気持ちや立場は考えてみてもわからないものである。(なので考えない。必要ならば相手に聞く)3)人からの期待は単なる幻想である。こんなん出ました〜(責任は負わないよ)
2014年08月24日
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あっという間にもう7月が終わりますね〜私の方は6月末から、7月中旬ぐらいまで遠方から来られている方が重なったり、緊急セッションなどでほとんど休みがない状態がしばらく続いていましたが今週から、週休2日になって、落ち着いてきました。と言っても、やはり一昨年、去年ぐらいまでの感じに比べるとかなり余裕があるなあと。去年の5月に日本に行く前までは、ほんと引きこもり仙人?と言われるぐらいひたすらセッションをやっていて、外に出ることも滅多になかったのですが最近は友人と夕方からのワインティスティングのワークショップに出かけたり街をぶらぶら買い物したりサンセットパークで夕涼みしながら、ワイン飲んだりする時間の余裕があってようやく人間としての生活を取り戻した感じですそうそう、最近、おさむと始めたバドミントンが楽しくてはまりつつあります。サンセットパークでは、チャイニーズが多いせいかバドミントンをやっている人をちらほら見かけていたのですが先日、突然「バドミントンやってみよう」という話になり早速、次の日にバドミントンのラケットを購入して始めました。最初の日はバドミントンというより羽子板?という感じでラリーも5回も続かなかったのが2日目からなぜか二人とも急に上達して、40回以上ラリーが続くようになってきました。とても楽しいので、しばらくしたらコートに入っていずれバドミントンクラブ作ろうか、などと盛り上がっているのですけどね。二人でスポーツにはまるなんて、これまでにはないパターンかも。私とおさむは、1日が終わるとその日、それぞれが気づいたことや感じたことについてあれこれと話が尽きないのですがキネシオロジーやヒーリングについては、語っても語っても語り尽くせないぐらい出てきます。ほんとうに人の身体やエネルギーや心の仕組みは奥が深いですね〜。おさむに「のりこはいつも熱いよね。のりこに情熱がなかった時期なんて見たことがない」と言われて確かにいつも何かに夢中になってやっているなあと。では、なぜ情熱の持てない人たちがいるのか?について二人で話し合ったのですが私がクライアントさんのセッションを通じて感じているのは情熱がない人は、情熱ができてから行動しよう、と思っているのに対して情熱がある人は、行動しているうちに情熱が自然と湧いてくる、というプロセスになっているということです。例えば、私もキネシオロジーを始める時に今のような情熱があったわけではなくというより、一体どんなものかもわからずただおもしろそうだし、試しにやってみようと気軽に初めてそれをやっているうちに、どんどんと情熱が高まってきたわけです。だからたまに「今、私はそれを本当にやりたいかどうかわからないです。それに対する情熱があるのかどうかわからないので、まだ始める気にならないんです」などと言われる人がいますがたぶん、そういう方はそのままでは、ずっとスタートすることはないのだろうなあと。行動によってのみ情熱は生まれるのであってスタートしなければ、情熱は出て来ないのですから。だから、とりあえず何かをやりたいと少しでも感じたのなら結果を考えず、ただやってみるそうしたら、もっと学んでみようとか、もっと研究してみようとかさらに深くやってみたくなる、それが自然と情熱につながってくるのです。もちろんやってみても、やる気が湧いてこなければやり方を変えるのか、それとも自分にとってそれは必要ないものなのかはその時々でまた感じてみればいいだけです。とてもシンプルなのですが行動より先にあれこれ考えすぎてしまう人は、なかなかできないのですよね。さて、昨日は世界を着物で放浪中のケント君とNYファミリーと私たちが呼んでいる8人で集って楽しい時間を過ごしました。ケント君が「これからの日本について語り合いましょう」と言うのでお〜♪いいね、いいね〜と昔に戻った感覚で、語り合いました。おさむに「のりこは昔から男同士のつきあいが好きだからなあ」と言われてえ〜男同士って何よ〜、とつっこみつつ確かに、酒飲んで、人生について熱く語り合うという男のようなつきあいは昔は好きだったなあと。だから、昔は友人も男性が多かったですがいつのまにか、女性ばかりになってきて最近は、むしろ、女性の方が熱くてパワーがある感じがしていたのだけど久々に男性パワーもいいなあと。ケント君のようにリーダーとしての男性性の資質とゆだねるという女性性の資質の両方がバランスが取れている人は貴重な存在です。ケント君のように、これからの私たちの生き方について、真摯に意識を向けながら自由に行動している若者(私も若いけどね)を見るとほんとこれからの未来はさらに楽しくなりそうです。だからこそ、今、多くの人が彼をサポートしたりつながったりしているのだなあと。世界中を旅して、その場所その場所で深く人と関わって生のコミュニケーションを楽しんでいる彼ほどの行動力と人との深いつながりがあればどんなことでも実現可能でしょう。そうそう、人とのつながりということでつい先日、私の友人がアップしていた動画が気になったので紹介しますね。(英語ですが)https://www.facebook.com/photo.php?v=761916027187909&set=vb.253946261318224&type=2&theater先日、レストランで食事をしていたら、隣の親子が子供はIpadでゲーム、お父さんとお母さんは携帯でネットをチェックしていて3人で食べているのに親子の会話がない情景を見かけました。この親子だけでなく、カップルでカフェにいるのに別々にスマートフォンを見ている、なんていう光景をよく見かけます。もともと人と深くつながっていくツールとしてのスマートフォンやテクノロジーが逆に人との深いエネルギーの交流や様々な可能性を防ぐことにもなっているわけですね。ネットでのつながりで人とつながったような気分になっているだけでその場その場の目の前にあるリアルな会話やエネルギーの交流やアクシデントを楽しむという最も大切なコミュニケーションができなくなっているのだなあと。この動画にもあるように、携帯など下を見ながら歩くのではなく頭を上げて、目と目を合わせて人とつながり、共鳴してゆく。それが情熱にもつながってくるように感じるのです。さて、私とおさむは来年2月11日から1ヶ月ハワイのカリスマロミロミヒーラーである朱実さんとコラボでリトリートを開くことが決定しました。まだ詳細は後ほどアップしますが、1回のリトリートは、5泊6日でそれを4回、つまり1ヶ月間行う予定です。1回のリトリートの人数は6人限定です。朱実さんは、ペルーやセドナやシャスタの聖地にたくさんの人を案内してきた人でもあります。5泊6日の間に、私とおさむのキネシオロジーによるプライベートセッションあり、おさむのサウンドヒーリングあり朱実さんのロミロミあり、聖地巡りありの盛りだくさんのプログラムになる予定です。詳細が決まり次第、お知らせしますね〜そこでどんな人と出会うことになるのか、今からとても楽しみです。これはワインテイスティングのクラス風景。この先生、とてもワイン詳しくて、ワインについて話すのが楽しそうでほんと好きなことを仕事にしているんだな〜という感じでした。昨日の飲み会。この写真じゃわかりにくいけど、今回はケント君の他、Tくんが着物での参加で着物二人の男性は、とてもかっこよかったです。いつものサンセットパークの夕日。
2014年07月27日
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私のキネシオロジーのセッションの中でクライアントさんの身体から、女性性の問題がテーマとして上がってきた時にその人にとって、女性性のどういった特質が欠けているのかを筋反射で調べていて、よく反応するのが「甘えること」です。女性性の特質は、感じる力や情熱、人との親密さなど様々なものがありますが甘える、という特質も女性性の一つです。これが女性性のブロックの一つとして出てくるということは甘えることが苦手である、ということ。それでクライアントさんに伺ってみると「どういう風に甘えたらいいかわからないんです」というお返事がよく上がってきます。また「どういう時に甘えたらいいのですか?』とか「甘えることによって、何を得るのですか?」などと質問してくる方もいます。そういう質問が出てくること自体が物事を目的や結果の論理性で捉えるという男性性の特質であり女性性が弱いことを意味しているわけですが私にとっては、それは例えば「どういう時に笑うのですか?」とか「何のために笑うのですか?」という感じに聞こえます。つまり、笑う時はこういう時、と決まっていないように甘えたい気分の時に甘えるわけで笑うことに目的がないのと同じで(目的をもって笑う場合もありますが)甘える理由や目的を上げるとしたら、それが楽しいからであり甘えるというのは、男女間において、愛を高める遊びの一つなのです。そもそも「甘える」という言葉を辞書で引くと「かわいがってもらおうとして、まとわりついたり、ねだったりする」という表現としての甘える、というものと「それではお言葉に甘えて、頂きます」などというように相手の厚意を受け取る、お願いするという行為としての甘えるがあります。行為としての甘えるは、男性にも必要であって人からのサポートを(申し訳ないと言う気持ち抜きにありがたく)受け取るということにつながります。そして、相手からサポートを受け取れない、お願いできないわがままではいけないと思っている女性は表現として甘えることも苦手になります。また、なぜ男性に甘えれないか?をクライアントさんの身体に聞いてみると「男にこびる感じで嫌」とか「負けた気がする」とか「フェアじゃない」「プライドが許さない」などという言葉が上がってくることもあります。特に女性性を受け入れていない上に、(不要な)正義感が強い人はその傾向にあります。男性と対等意識というか、男女は同じでないといけない、という思い込みや信念体系が男女の本質的な違いを理解することや自分の内なる感覚をブロックしてしまっているのです。ですから、甘えることが苦手な女性は同時に人との親密さや感じる力も弱い傾向にあるのです。笑い方にいろいろあるように、甘え方にもいろいろあり普通は女性は、自分の母親が父親に対して甘えていたやり方で無意識に甘え方を学んでいます。母親が父親に全く甘えない人だったり、または自分自身が子供の頃に親に甘えられなかったりすると、甘え方がわからなくなってしまうわけですね。私はおさむによく甘えていますが例えば、1日中、仕事をした後、あ〜今日もよくやったな〜おさむに話を聞いてほしい〜などという時に、おさむが自分の音楽制作やギターの練習に打ち込んでいる、というような状況があります。そういう時、わがままはいけない、と思っている女性は相手のじゃまになってはいけないから、と自分の話を聞いてほしい、という気持ちを抑えてしまうのです。気持ちや感情を抑えれば、それは不要なエネルギーとして溜まってゆくので、何かの時に怒りや不満という形で出てきます。私は甘えたい気分の時には例え、おさむが何か自分のやりたいことをやっていても、とりあえず「かまって〜〜」と(ハートマークを飛ばしながら←ここが肝心)甘えます。すると、おさむは自分のやっていることを中断して私に構ってくれる時もあればそうではなく、とりあえずハグして「どう、どう、どう」と(馬をなだめるように)私をなだめて「後で相手してあげるからな」などと言って、彼がその時やっていることにさっさと戻ることもあります。それはその時々の二人のエネルギーのよって変化しますが、どちらにしても私の甘えたいという気持ちは彼に受け取ってもらえたので私は満たされるわけです。私にとっては、絶対におさむに構ってもらわないと困るというようなことではなく甘えるという行為を通じて、その瞬間私のエネルギーとおさむのエネルギーを交流させるという彼とのコミュニケーションにおける遊びの一つだからです。でも、私がそういう風に甘えた時に、もしおさむが「俺は今、音楽をやりたいからじゃましないでほしい」などと言ったとしたら私の甘えたい気持ちは受け取ってもらえなくなります。(もちろん「50を過ぎた女が構って〜はないだろう」なんて言う化石のような古い意識の男は対象外よ)また、女性の甘えをまじめに受け取りすぎる男性にも女性は甘えられなくなります。昔、私がつきあった男性で、私としてはただ甘えるつもりで「今日は仕事を休んで、一緒に遊ぼ〜よ〜」と言うと本当にいつも仕事を休んでしまって「のりことつきあいだしてから、仕事休んでばかりだ」なんてことになったり何でも私の願いを叶えようとするので、うれしい反面気軽に甘えられなくなったことがありました。男性は、女性の甘えを受け取りながらも場合によっては、上手く受け流すことも必要なのです。女性の甘えはあくまでも「あなたのことが好きよ〜」という愛情表現の一つでありそこに目的はないのですから。ですから、女性が甘えることを受け取れない男性やまた受け取りすぎる男性に対しては女性は甘えることは愛情表現であり、遊びの一つなのだ、ということを上手く伝えていく必要が出てくるわけです。もっとも、甘えるにしても、もし私が状況を全く感知せず例えば、おさむがクライアントさんとの仕事の間や真剣なレコーディングの最中に「かまって〜〜」と言ったとしたらそれはもう甘えるという遊びを超えてしまっています。つまり、本当に相手にとって迷惑になることは、甘えるとは言わないわけですね。ですから、甘えるためには、人との共鳴力が必要になってくるわけです。甘えられない女性は、自分の欲求があると「どうして〜〜してくれないの?』などと論理的に相手を責めることになりがちでそうなると男性も「俺は仕事が忙しくて疲れているのだからそんなこと言っても仕方ないだろう」などということになり「やっぱりあなたは私を大事にしてくれないのね」などと発展しそれでは、どこまで論議しても、男女の愛の高まりにはつながらないわけです。そういう時に女性が「話せなくて、さみし〜〜い」(ハートマークは必要)と甘えさえすれば男性も自分が責められていると感じません。つまり女性が「彼と一緒にいたい」という思いがあるのに一方で「わがままではいけない」という意識があれば自分の思いを伝えるのに、自分がわがままであるということを認めない形でそれは相手に問題があるからだ、というように伝えてしまうので話がややこしくなるわけですね。ですから、最初から「これは私のわがままなのよ〜」というエナジーで相手にやってほしいことを伝えると、相手にとっては自分のやり方が否定されたことにはならず、負担にならないし女性の気もちを受け止めてあげたいと感じるわけです。(それでもそれを感じない男性は、調整必要よ)甘えることは、甘えられた相手にとってはけして負担ではなくむしろ愛を受け取ることであり、喜びそのものなのです。さて、もちろん私はいつもおさむに甘えているわけではなく日によって、その瞬間瞬間によって、私のエネルギーは変化しますからおさむとの関係においても、さばさまと語り合う友人になる時もあれば何かを教える先生になる時もあり、またはヒーリングをやっている時はヒーラーとしておさむと接するわけで、そこには、甘えるエナジーはありません。また私たちには子供がいないので、親としての自分は味わえませんがセドナつながりの仲間などが家に来た時などは私たちはみんなのお父さん、お母さん的な感覚もあるので私はおさむに対して「おとうさ〜ん、娘が今、来ているわよ〜」などという対応になったりします。つまり、ここで私がお伝えしたいのは一つの性格やキャラや立場に自分が限定されないでその場、その場で感じるままに自分の持っているものを出していくということです。多くの人は、例えば、父親として母親としての自分とか会社の社長として、先生としての自分、などというように自分の立場や環境によって、自分のあり方を限定してしまいます。例えば、昔、子供が生まれる前は、二人はラブラブな雰囲気だったのに結婚して子供が生まれたら、母親としての自分だけになってしまって夫に甘えることがなくなってしまいました、とかまたは、会社を設立して女社長としてやっていくうちに男性に甘えれなくなってしまいました、などということになってしまうのです。ですから、子供といる時は母親でも、旦那と二人になればパパとママとしてではなく恋人のようであったりまた会社では社長としてとかリーダーとしての対応をしていてもプライベートでは、一人の女性として彼に甘えたりとその場、その場で、自分のエナジーを自在に変化させていくことが大切なのです。これは相手に合わせなければ、というようなことではなくて相手と共鳴しながら、その環境や状況に合わせて自分の持っているものを自然と出すということです。実はこれはとても楽しいことなのです。もともとすべての人は「これが自分だ」というものは何もないのですから自分の中には様々な自分があるのは自然なことであってその時々の相手との関係における、自分の中のエナジーの変化を日々感じていくとA-HA(あ〜なるほど!)という感覚が頻繁に訪れます。ですから、人との直接会って行うコミュニケーションは何よりも自分自身の内面を見せられるし、感じられるわけですね。ということで、まだ書き足らない感じはあるのですが今日の講座はここまで〜(もっともらしいので、何でもかんでも講座にしてしまおう)
2014年07月09日
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日本からニューヨークに戻って、早1週間。次の日からキネシオロジーのセッションが入っていましたが一昨日は1日オフの日だったので、のんびりしました。その一昨日におさむも一足遅れて、日本から戻ってきたのでいつも通りのニューヨークでの生活に戻っています。日本でセッションを行ったり、また街の人々を見ているとニューヨークでの習慣の違いを改めて感じることも多くて日本は、力を抜いて暮らすのが難しいところなんだなあと感じます。だから、多くの人があれこれ頭で考えなければならなくなってしまったり人に気を使いすぎて疲れていたりするのだろうなあと。例えばサービスなんかも日本は素晴らしいけれど行き届いているというより、過剰な感じだったりそんなことまで必要ないところにサービスしている感じがして私にとっては、ニューヨークのゆるくて、それでいて暖かいサービスの方が落ち着くのですよね。日本では「お客様は神様です」ならニューヨークでは「お客様は友達です」という感じかしら。例えば、ニューヨークのレストランに行くとウエイターやウエイトレスの人たちは大抵どこもフレンドリーで、先日も食事をオーダーして待っていると「もうすぐできるからね〜」とか声をかけてくれたり自然なサービスをやってくれるので安心していられるのだけど日本でレストランに行くと、お客様〜という感じで過剰に気を使われることがあるかと思えば一方で店によっては、オーダーをなかなか取りに来てくれないとか、ワインを注がないでボトルだけ置いてさっさと行ってしまうとかいうところもあって、この落差がおもしろいなあと感じます。ニューヨークのレストランでサービスが悪かった、なんてことは何年もここで暮らしてきてほとんど記憶にないけど、日本では短い滞在の中でも案外あるのですよね〜。もちろんこれは、アメリカではウエイターやウエイトレスは基本チップ収入なのでチップをもらうためサービスをよくする、というのもあるのですがそのサービスが、日本のようにマニュアル化されたものでなくてフレキシブルなものであるし、それでいてお客が心地よいレベルでケアしてくれるので、楽なんだなあと。例えば、日本では、服など購入してレジで包んでもらってそれを受け取ろうとしたら店員さんが「そこまでお持ちします」と言って、レジから出てきて店の入り口まで一緒に出てきて入り口で、うやうやしく買ったものを差し出される、とかけっこう当たり前にあって、なんだかすごいなあと思うのですが先日はハンカチを友人へのおみやげに買った時も「お包みしましょうか?」と聞かれてそれも素晴らしいサービスなんだけど定員さんが「包んだらすぐにお持ちしますので」と言って丁寧に包んで後から持ってきて、うやうやしく差し出してくれてあの〜ハンカチだよ~、と思わずつっこみたくなりました。うちの母が美容院で髪を切った後「下までお送りします」と言われるそうで『「いえ、私は一人で歩けますから」と言って断るのよ。ついて来られても面倒だし』と言っていましたがほんとそんなサービスいらん、という感じです。いかにもサービスしてます、という感じより相手に余計な気を使わせない方が本当の意味でのケアなんじゃないかしらと。スーパーのレジに並んでいても私の前に一人しかいなくて、ほとんど待っていないのに「申し訳ありません。大変お待たせいたしました」と言われて、それが決まり文句だとわかっていても「え?今並んだばかりで、全く待っていないんですけど』と思うわけです。NYなら、ホールフーズでも銀行でも郵便局でもどこも長蛇の列だし銀行や店によっては、店員が一人しかいなかったりまたは作業が遅くてかなり時間がかかっていたりしても誰も文句を言わないで、当たり前に待っているのが逆にすごいと言えばすごいかもしれません。話はまたそれますが少し前にNYでボイス瞑想というか、トーニングのクラスに行った時のこと3分ぐらい遅刻だなあ、と走りながら、クラスの会場に着いたらビルの前に10名以上の人たちが待っていたことがありました。そのクラスの先生もいて、何でもそのクラスを行う部屋のカギを持っている人がいないとのことで、その人の到着を待っているとのこと。冬の気温零下の時期にみんな凍えながらも外で待っていて10分以上経ってようやく、かぎを持った人が到着したわけですがこういう時、アメリカ人って何か事情があって遅くなったのだから仕方ないという感じで、誰も文句言わないしイライラしたりしないし、おおらかなんですよね。先生もその人も、みんなに対して特に詫びれることもないですが日本なら、みなさんを寒い中、外にお待たせして申し訳ないとなるだろうし、そもそもこういうことはあり得ないだろうなと。一方、日本の伝統文化であるおじぎも久々に日本に戻るとやっぱり新鮮に感じます。空港で飛行機までの乗り継ぎバスで向かっていた時飛行機の前で待っていた係の女性がバスが到着する前に、深々とバスに向かっておじぎしているのを見ておさむが「おぉ、もうおじぎしているよ〜」と外国人のごとく感動していましたが、駅でも空港でも駅員さんや職員さんが無駄におじぎしているようで、思わず「おつとめご苦労さまです」と声をかけたくなります。私とおさむが屋久島に行った時JR屋久島ホテルで日帰り温泉に入ろうとホテルのカウンターで、温泉に入りに来たことを告げると「こちらのエレベーターで1階に降りて、そこで温泉の受付をされてください」と言われたのですが係の女性がエレベーターまで見送ってくれて、私たちのエレベーターが閉まるまで、深々ときっちり90度に頭を下げておじぎをしていたのでドアが閉まった途端、私とおさむは思わず吹き出してしまいました。「俺たち宿泊客でもないし、温泉入りに来ただけなのにね~。こう深々とおじぎをされると、こっちの方が恐縮するよね~」と話したのですが、そこまでしなくていいのに~と思う場面がとても多いです。だから、みんな仕事でストレス抱えることになるんじゃないかなあと。(もっともニューヨークでも力を抜けず、ストレスを抱えている人は山ほどいますが)みんなと同じでなけければ、外れてはいけないみんなが画一化した行動を取る、というのは今の日本に限ったことではなく、昔からですが例えば、携帯のマナーモード。何年か前に、日本に一時帰国した人に「日本に行って、電車の中で携帯で小声で少しだけ話しをしたのだけどおじさんにしつこく注意されたのよ。ほんの短い間、話しただけなのにね〜」という話を聞いていたので日本では、バスや電車の中では、携帯で話すことは御法度なんだということは知っていたもののほんとうに誰一人もバスや電車の中で携帯で話したりしないんですね~。他人に迷惑をかけてはいけないという日本人気質はセッションの中でもよく出てきますがその気持ちが強いあまり、こだわりすぎるというか、臨機応変に対応できないというか。みんなが画一化しているということで言えばたくさんの人がマスクをしているというたぶん外国の人から見たら、ちょっと異様な風景。ニューヨークでマスクしている人は見たことがないですがもしいたら、結核かなにか大変な病気を持っているような病人に見られるんじゃないかしら。日本は花粉症対策なのか、インフルエンザなのかマスクをしている人がほんと多いなあと思っていたら何でも最近は、伊達マスクというのもあるそうで人に顔を見られないためにマスクする人もいるとのこと。精神的に病んでるなあという感じですが、日本人は人にどう見られるか?を気にしている人が多いからなのでしょうね。でもさすがに、日本人のマスクにも慣れたなあ~と思っていたのですが今回初めて、マスクの上にさらにヘルメットみたいな帽子のつばが顔全部を覆っているものをつけて歩いている人を見て、一瞬、ぎょっとしました。あれも花粉症対策?アメリカであれをやったら、銀行強盗か何か、かなり怪しい人だと思われて警官に呼び止められそうです。そういうところは、人にどう見られてもいいのかしら?ほんと不思議な国だ〜。とまあ、こちらに長く暮らしていると日本に戻ると、外国人みたいな視点になってしまうのか一昨日、アーユルヴェーダのみささんのところに行って彼女もこちらが長い人なので「日本って大変だよね〜」などと話していたのだけどそんな中で、日本にいても周りの人に無理に合わせたりすることなく自然な形で自分を出すことができて、それでいて孤立することなく周りとつながっている人たちも、最近少しずつ増えている感じがします。最近は、海外に長く暮らしてから日本に帰国する人も多いわけだしこれから日本も変わってゆくのかもしれませんね。ということで、旅から戻ると、また違った視点でここでの暮らしを見つめることができてまた自分の中の感覚も何かが変わった感じがしておもしろいです。さて、今日もニューヨークは最高のお天気です今日もこれから1日セッション、楽しみます〜♪
2014年06月06日
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今日は完璧主義について。私のセッションで実際に人数を数えたことはないのですが完璧主義は、10人中8人ぐらいは持っているプログラムかもしれません。クライアントさんに「完璧主義だと身体が反応していますが」とお伝えすると「いえ、トンでもない、私は全く完璧になどやれていないです」などというお答えが返ってくることもありますが「完璧主義というか、自分はまだまだ不十分という意識です」と説明すると「ああ、それならあります」と納得されます。なので私は完璧主義と言わず「まだまだ感」とお伝えすることも多いです。さて、この完璧主義「まだまだ感」ですが私は大きく二つのタイプに分けてみています。一つはいくら行動をやってもやっても満足しないという「まだまだやりたい」という完璧主義。もう一つは、自分自身の能力が実力などに対して「まだまだ私は不十分」という完璧主義。最初の「まだまだ感」の人は、行動をやり過ぎてしまう人です。やり過ぎてしまう理由として1)人から認められたい、受け入れられたい、という人からの評価を得るための人。2)人に与えたい、貢献したい、という意識の人。3)その仕事や事柄への探究心や喜びから もっともっととやりすぎてしまう人(そう、先日私が調整したように)どのタイプも行動がやり過ぎなので身体が疲れてしまっていたり、健康面での問題が出てきたりします。一番大変なのは、1)の人から認められるためにがんばってやってしまう人でこれはストレスも多いし、続かなくなるので結局、ある時、燃え尽きてやめてしまったりする方が多いです。そうなると、今度は、なかなか次の行動に移せなくなるというパターンになりがちです。「自分は怠け者だ」と思っている人の多くは案外このタイプの完璧主義の方が多くやるからにはとことんやらねば、と思っているために意識のどこかでそれがストレスになっていてそこから逃げ出したくなる、怠けたくなってしまうのです。また2のタイプの方は、例えば、子供に与えたい、と自分を犠牲にしてでもやってしまうお母さんやまたはいつも人を助けたり、サポートばかりして自分のことは後回しになってしまっているという方です。何よりも人に与えることに喜びを見いだしているので自分が本当にしたいことがわからなくなってしまっている人も多いです。3)のタイプの方は、自分がやりたいこと喜びとなることをやりすぎるぐらいやれているのですから基本的にはハッピーに生きている人が多くまた、その分野でとことん極めていたり、社会的に成功されている方も多いのですが一方でやり過ぎてしまって、他とのバランスが取れなかったり身体に影響が出てきたりします。ですから、身体を優先して、全体とのバランスを取ってゆくための調整が必要になるのですがやっていることが純粋な喜びの場合バランスを取ってゆくのは難しいのですよね。(これは私自身が身を持って実感しているわけですが)さて、2番目の自分自身の能力が実力や存在そのものが「まだまだ不十分」という完璧主義の方は、なかなか行動に移せないタイプの方です。このタイプも、さらに二つに分かれます。4)人からの評価や人との比較によって自分はまだまだ不十分、と感じている人。5)他の人からはそれなりに認められているにも関わらず理想が高いので、自分はまだまだ不十分だ、と感じている人。ここで問題なのが、4)の人との比較や人からの評価によって自分はまだまだと感じているタイプです。このタイプの人は、もっと上手くなってから始めよう、とか今の能力では不十分、という意識なのでやりたいことをほとんど行動に移せていない方が多いです。漠然といつかはやりたい、という思いは持っていたりしますが意識を変えれないので、ずっとやれないままでいたりします。また「私の英語はまだ不十分」などという意識でいるのでアメリカ人との会話がおっくうになってしまうなどという人もこのタイプです。5)のタイプの方は周りからの評価は得ているのに理想が高く私はまだまだ不十分、となっている方です。これは、一部では自分の能力を向上させていくための原動力になっているケースもありますが自分で自分の能力を認めていなければ今一つ自分自身のアプローチができなかったり行動に限界ができたりするので必ず、自分の能力を認めることが必要となってきます。おさむも音楽に対して、この完璧主義がありました。去年、私の絵の個展のオープニングでおさむのサウンドヒーリングをやって参加された方たちがみんな「感動しました」とか「涙が出ました」などと感想を言ってくれていたのですがその数日後、おさむは「俺はやっぱりダメだ〜。ライブでベストの演奏ができない」などと落ち込んでいました。私はこれまでおさむの演奏を20年近く聴いてきたのでその日の演奏は彼にとってのベストではないことはよくわかっていたもののそれでもあるクオリティには達しているわけでみんなが満足してくれているのですからそれでいいじゃんと思っていたのですが音楽に対して完璧主義であるおさむにとっては満足できなかったわけです。(もちろん、その後、ライブでベストの演奏ができるために必要な調整をキネシオロジーのセッションで行ったのですけどね)ということで、完璧主義の中でいくつかのパターンを上げてきましたが実際は、これらの複合パターンが多いです。例えば、1)の人に認められるために(あまりやりたくない仕事でも)やり過ぎてしまい、そこでエネルギーを使い果たしてしまっていて一方で、本当に自分がやりたいことは4)のまだまだ私は不十分の意識なのでなかなかスタートできていない、などのケースです。そうして見ていくと、つくづく人ってやっかいな生き物だなあと。やりたくないことを「やりすぎて」しまっていて本当にやりたいことは「やれない」でいる、なんて全くおかしな話なのですが、それから抜け出せないでいる人案外多いのですよね~。これらのほとんどの完璧主義ーまだまだ感に関わっている要因がもちろんインナーチャイルドです。子供時代に、親から「今のあなたはまだ不十分よ」というメッセージを受け取ってしまった人です。「だからあなたはできないのよ」とか「〜〜ちゃんはよくがんばっているのに」とか「こんな成績では〜〜に入れないわよ」などと言われて育てば、間違いなく重度の完璧主義になります。直接そんな風に言われていなくても例えば「もっとがんばりなさい」とか「やればできるのよ」などと言われて育った人も同じです。また親自身が完璧にやる人だった、などというケースも子供はほとんどの場合、完璧主義になります。ですから、このインナーチャイルドが完全に癒されない限り、完璧主義ーまだまだ感はなくならないわけです。さて、この完璧主義が手放されるとどうなるかというと「自分がやりたいこと、喜びとなることを適度に全体や身体とのバランスを取りながら、やっていくことができる」つまりは「完璧」になるのです。そう、完璧主義が「完璧でいる」ことを防いでしまっているわけなのですよね〜。ということで、あなたはどのタイプの完璧主義かしら?(ブログ書き出したら、とことん書きたくなってしまうというのも完璧主義?)
2014年05月04日
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ここ最近のキネシオロジーのセッションで、正義感をテーマに調整された方がなぜか多くて、まるで正義感ウィーク、正義感monthでした。昨日だけでも二人に出てきたのですがアメリカ人にも日本人も、みんな正義感が問題だと出てきて私の中ではちょっとした正義感ブームです。正義感と一言にいってもいろいろありますが権威への抵抗、とか、社会のあり方や環境に関する正義感もあれば「人が困っていたら、必ず助けなければならない」とか「いつも人情深くなければならない」「義理は果たさなければならない」「人に迷惑をかけてはいけない」など人間関係に関わってくるものもあります。最近セッションを受けられた人の中にはいつも友人や知り合いがお金に困っていたら貸してあげたり助けてあげてしまう方で、それなのに相手から裏切られるようなことになったりいろんな問題が起こってしまったりまたは、いつも彼女や両親のサポートばかりする方は自分の人生を歩めなくなっていたりまた「人に迷惑をかけてはいけない」という思いが強い方はすぐに申し訳ない気持ちになって、気楽にいることができなかったりまた、友人の言動が自分の正義感にいちいち反するので人といるのが嫌になってしまう方や義理人情が強く、いつも自分を犠牲にしてしまう方や他にはテレビやネットでの政治的な情報などを見ては怒りが湧いたり、気分が落ち込んでしまっている方などまあ、いろんなタイプの正義感がありました。私自身も正義感は、昔から、かなり強くて特に政府や警察などの権威に対する不信、環境などに関わる企業や人々への不信などはつねにありました。確か、10年ぐらい前にセントジャーメインの言葉に出会った時に自分の持っていた正義感が二元性を生み出し逆にそういった社会を生み出していることに気づいて少しずつ抜けてはきたものの、まだ潜在的レベルでは残っていたのですがマトリックスエナジェティクスを始めた頃に、それが一気にスコンと抜けたのを感じました。あ~もう自分の中に正義感はなくなったかなあ、と思っていたのですがエジプトに行った直後に「困っている人がいたら、何としてでも助けなければ」みたいな正義感がドカンと出てきて、ようやくそれを手放したことは少し前にこのブログにも書きました。それとは別にエジプトから戻ってからすぐに、私が行った調整の一つに「政府から守られていることを信頼する」というものがありました。以前の私だったら、あり得ない目標設定ですがちょうど、確定申告の前に、ちょっと憂鬱な気持ちになっている自分に気づいてどうしてなのか、自分の中に意識を向けてみたら「政府は市民から搾取する」みたいな感覚があるのに気づいたのであ~これも私が作り出している現実なのだなあと。現実は私たちの意識が作り出すものであるから守ってくれる政府を現実に作り出すためには私たちがその意識でいるのが先なのですよね。とはいえ、私の身体はその調整には、かなり抵抗しましたけどね以前、政府やFRB(アメリカ中央銀行)911の真実なども含め、いろんな情報を見ていたし私たちが所得税を支払うことで、R家に金利が回る仕組みだとかいろいろなことを知って「政府は私たち市民から搾取し、一部の銀行家や企業だけが得するシステムになっている」というのは、私の頭の中に叩き込まれていたわけです。それを今更「政府は私たちを守ってくれる」なんて意識に変換するのは、私のマインドとしては絶対無理~という感じでしたがエジプト以降、私自身の根源に残っていた正義感を手放したことで何とか調整することができました。そして、調整後は、確定申告に行っても搾取されているような気もちにならずにすっきりしていたしまたその意識に変えたからなのか、税理士さんの力もあって今回予想していたよりずっと納める税額が少なくて済んだのでやっぱりすべての”現実”は私たちの意識だなあと。正義感というのは、どうしても被害者意識と結びつきます。政府に搾取される私たち、とか誰かに抑圧されている~~とか~~に迷惑を被っている私、とか必ずそこには、搾取するものとされるもの抑圧する人とされる人、迷惑をかける人とかけられる人という構造があって、正義感というのは常に被害にあっている人の立場で物を見ているわけです。そして、一旦、その立場で物を見るとそれを証明するかのような出来事ばかり起こるわけですね。おさむは以前、自転車で走っていたら、信号無視やちょっとしたことで警察に罰金を取られたりしたことが、何度もあったのですがそれもそういう私たちの権威への抵抗の意識が引き寄せていたと言えるかもしれません。そして、また問題なのは、同じ被害にあっている人でも見る人によって、全く違ったところを見ているので正義感もみんなそれぞれ違ってくるわけです。例えば、食や健康を大事にする人の正義感から見ると「被爆した野菜を販売するなんて、許せない」となるし一方で、とにかく食べ物やお金があって生活することが大事だとする人の正義感から見れば「風評被害で福島の人たちが食べれなくなるなんて、許せない」となるかもしれません。また例えば、犯罪を犯した人に対して「こんなひどいことをする人は許せない」という正義感もあれば犯罪を犯した人に対して偏見の目で見る人に対して「過去にそんな風に犯罪を犯したからと言ってそんな風に人を扱うのは許せない」という人もいてそのどれも「正義感」であるわけです。つまり、正義感と言えば聞こえはいいですが根本的なところを見てゆくと、価値判断なのですね。それもたいていは、その人の人生の中で親との関係から、こうしなければならない、とか人としてこうあるべきだ、などと植え付けられてきた先入観から来ています。一旦、その価値判断を持ってしまうと、他の視点から物を見れなくなるので絶対に自分の感覚が正しいかのように感じてしまいそれに反する人に対して怒りや抵抗を感じるのです。また、よく正義感の強い人に出てくるのが「偽善」に対する抵抗です。私自身、すでに小学校の時に「偽善者にはなりたくない」と作文に書いたことがあるぐらい偽善に対する抵抗は大きくて、長い間、根強く持っていました。いかにも私は人のためにこれをやっていると言っていながら自分のためなのがミエミエな人を見ると、ほんと嫌になったしたぶんIHをやり始めた頃は、まだかなりあって例えば、愛と平和のためにヒーリングを行うなどと公言して実は、お金や自分が認められるためにやっているのが見えてしまう人に対する怒りなどは、よく感じていました。それも、いつの間にかなくなってきて例えそういうのを見たとしても、大変そうだなあと思うだけで何も感じなくなっていたのですが少し前に正義感の調整をした時に、身体が「オープンさ」に反応したので何かと思って調べてみれば「ヒーラーはオープンでいなければならない」という価値判断でした。確かにヒーラーの中で、実際はその人は問題だらけなのにも関わらずブログなどで自分には何も問題がないようなことを言っていたりするとそれを見るのが嫌になってしまうので、他のヒーラーのブログなどはできるだけ見ないようにしていたところがありました。もちろん誰でも問題があるのは当たり前なのですがそれを自分には問題がないという感じでヒーリングを行っている人が偽善だと感じていたわけですね。(もちろん本当は偽善ではなく、その人が自分を守りたいためにオープンになれないだけなのですが)だから、私自身やおさむとの関係で問題があれば、すべてオープンにしなければ気が済まない気持ちになっていたのです。(なので、ここまで書くか〜というほど書いてしまうのだけどね)もちろん、オープンでいることに問題はないですが「いつもオープンでいなければ」になると問題(マインド)となってしまうわけです。そして、正義感と関連しているのが、エゴです。私もそうでしたが、正義感を持っている人のほとんどはエゴや自分勝手を受け入れていません。だから、エゴや自分勝手に見える人を許せなくなるのです。以前、私もずっとエゴを敵視していたのですが(これは、以前ブログにも書いたことがありますが)ある時、覚醒体験をした時に全くエゴのない状態になってそこからエゴの存在を感じてみたら「あ~エゴもそこにいてもいいんだよ」という愛しい気持ちになって、全くエゴを排除しようという気持ちにはならなかったわけです。エゴを排除しようとすればするほど、またエゴを否定すればするほどエゴは増大していくのですから。ただそれがエゴであることを認識さえしていればいいわけですね。ところが、その体験が終わると、またもとのマインドに戻ってしまうわけでやっぱり、どこかでエゴや自分勝手を受け入れない部分があってそれは事あるごとに問題として出てきました。少し前にも、またそのあたりの問題が出てきたのですがまたその話は長くなるので、また今度ということで。正義感や責任感が強ければ強いほどいろんなことで大変な人生になってきます。「お互い様」という言葉があるように、時には人に迷惑をかけてしまうこともあるしまた、時には人が困っていても助けない方がいいこともあるのです。もちろん人を助けることは素晴らしいことだけど自分はサポートを受け取らずにいつも助ける立場になってしまっていればバランスが崩れます。テレビやインターネットで知った社会の不正を嘆いてみても何も始まらないどころか、自分のエネルギーは落ち込んでゆきますから。正義感のもとになっている「正しい」「間違っている」という二元性は、さらに分裂した社会や人間関係を生み出してゆきます。一つの視点からだけでなく、あらゆる視点から見てゆくこれが正しい、間違っている、で選択するのではなく心地よく感じることを選択してゆく。内なる自分に従って、本当に心地よいことだけをやっていくことが結局、周りにとっても、すべての人にとってもベストになってゆくのです。ということで、あなたの中にある正義感、見直してみてね
2014年04月04日
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昨日の夜は、友人と久々にお寿司を食べに行きました。つい調子に乗って飲み過ぎてしまい最後は、友人にべらべらと話していたのは覚えていますが何を話していたのかほとんど覚えてない。。。(たぶん、キネシのこと話していたんだと思うけど)今朝はしっかり起きて(というより、おさむに叩き起こされて)朝から夜までセッションでした。セッションに入ると集中できるので、関係ないですがやっぱり、飲み過ぎはいかんですね〜。(と本気では思っていない?)さて前回のブログで、私自身のコミュニケーションの問題と書いたものの基本的に人とつきあうのは好きだしどう見ても、これはコミュニケーションそのものの問題ではないなあと。私の根本的な問題は、他の人の問題を見てしまうと、その要因を解明してヒーリング(本来のその人のあるべき姿に戻すこと)したくなってしまう、というヒーラー根性というのか、ヒーリング中毒。そして、それに伴って起こっている時間がないという問題。この時間がない、という問題は何かにつけて出てくるのですがさすがに、一時期のように1ヶ月に休みが1日しかない、なんて状況にはならなくなったものの今年の公約だった?週休2日はいまだ実現せず。あらかじめ予定を立てている時は、一応、週2日で休みを取っているのですが緊急にセッションが必要な人が現れるとつい休みの日にも入れてしまったりするので、週1日休みを取るのがやっと。最近の私のスケジュールは半年先まで一杯なのですぐにセッション受けたい方は、できるだけおさむに受けてもらったりもしますが私自身もディープな問題を見てしまうとすぐにやりたくなってしまうのです。セッションをすぐに行えなくてクライアントさんに申し訳ないというギルティ感は、以前、調整したこともあって今、それほど大きな問題を抱えていない方の場合は例え、半年待ってもらったとしても、気にならなくなったのですが(もちろん、問題に大きいも小さいもないものの)おさむに対しては、彼自身が自分でできるようになったので以前のように毎日のように夜中までヒーリングを行うことはなくなりましたが私のヒーリング中毒は、相変わらず。これがあるおかげでプライベートでの人とのつきあいやコミュニケーションが昔に比べると、おっくうになってしまっているのは確かです。このヒーリング中毒、わかっちゃいるけど、やめられない考えてみれば、確か2012年の6月にフロリダに行った時に、それが問題だと出てきたのですがいまだに、調整されていないわけですから私の潜在意識としては、よほどそれを変えたくないのですよね。小さな頃から勉強でも何でもやりだすととまらない、探究心、好奇心の強さが私のよさでもあり、欠点でもあり。それがあったからこそ、ここ何年間か、ほとんどクレイジーなほどヒーリングに取り組んできたわけですしヒーリングは、私にとっての何よりの喜びですがそれが故に起こってしまう問題もあるわけです。ヒーリングに対する探究心、好奇心、情熱は持ちつつも例え、友人や家族が問題を抱えているのを見てもセッションしたいと感じないようにするなんてことができるようになるかしらね。もちろん、相手が望んでいなければ、私もやりたいなんて思わないわけで人それぞれの選択でいいのですが相手が望んでも、今の私には時間的にも無理なことが多いですから。例えば、父の病気に関しても、父には父の人生の選択があるのだから、と私は父にヒーリングしたい、とは思っていなかったわけですが今年5月に日本に戻った時に、父がセッションを受けたいと言い出しセッションをやり始めると、私自身がもっとセッションをやりたくて仕方なくなりました。父の場合、脳だけでなく、内臓も骨も筋肉もありとあらゆるところに問題があり、私が実家に滞在する間の数回のセッションでは焼け石に水かも?と思っていたのですがその数回のセッションでも、かなりの効果があったこともあってもっとセッションを重ねれば、さらに回復することも目に見えています。結局、来年の5月にまた実家に戻って、父にセッションを行うことに決めたのですがきっとその滞在期間中に何度かやったとしてもまたさらにもっとやりたくなってしまうのだろうなあと。NYに住んでいて昔は親しかった友人たちと、なかなか連絡を取らなかったりするのもそのもどかしさを感じたくないからというのがあるかもしれません。もっとも友人というのも、変化してゆくものですし今の自分が一緒にいて楽な人といればいいわけですけどね。昨日の彼女は、私のセッションを定期的に受けていることもあっていろんな意味で一緒にいて楽でむしろ、最近はプライベートの時には私の方が話を聞いてもらっていることが多いかもしれません。以前は、バーバラアンブレナン博士などの著書で書かれてあるようにセラピストは、クライアントとはプライベートでつきあわないというのは、セラピストとしての鉄則だと思ってましたがそれも最近の私にとっては、違ってきたなあと。最近は、私のところにクライアントさんとして来られた方の中に友人としてつきあってゆきたい方たちもいらっしゃっるし癒されれば癒されるほどお互い楽につきあうことができるようになるわけですから。どちらにしても、セラピストといっても、カウセリングなどとは違ってキネシオロジーは筋反射というマインドには全く左右されないでその人の中にあるものを見ることができるものがあるのですからプライベートでつきあっても関係ないわけですけどね。さて、明日は冬至です。去年の冬至にセドナで過ごしてから、1年が過ぎました。この1年、本当に濃い内容でした。あのセドナでの自分の意識とは違っている自分がいます。ほんとうに不思議。これからまたどんな意識になってゆくのか1年後は、また違う自分がいるのかしらね。その頃までには、ヒーリングホリックも何か変化しているかも。 みなさま、どうぞ素敵な冬至の1日をお過ごしくださいますように。Blessings
2013年12月20日
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本来コミュニケーションは、とてもシンプルなものですが私たち人間は、言葉を使って行う必要性があるため様々な問題が生まれ、複雑になりがちです。またメールでのコミュニケーションは、直接会って話すのとは違って相手の動作やエネルギーから相手の気持ちを読む取ることができないので誤解を招きやすくなりますからよりシンプルに、わかりやすく相手に伝えることが必要となってきます。もっとも大切なのは、自分の気持ちや意向や感覚を率直に伝えるということ。人とのコミュニケーションでそれができない人はとても多いです。例えばAさんがBさんに対して、あることをヘルプしようと「もし必要なら、私が今度手伝いますが、いかがですか?」と聞いたとします。ところがBさんが「Aさんはお忙しいですし、どうぞ無理をなさらないでください」などということだけを伝えたら、Aさんには、Bさんが自分の手伝いを受けたいのに遠慮しているのかもしくは、助けを受けたくないのか伝わりません。それで、もう一度、AさんはBさんに「私の方はちょうど今は手が空いているしもしヘルプが必要なら遠慮しなくていいですよ」などとBさんの意向をさらに尋ねる必要が出てきてシンプルなコミュニケーションが、ひとつ手間(複雑)になるのです。Bさんとしては、もしヘルプを受けたいのにも関わらずそういう微妙な言い方をしてしまったとしたら「ヘルプはありがたい、でも相手に迷惑に思われたら嫌だ。それだったら一人でやった方がいい」などという気持ちがあり迷惑になったらなぜ困るかと言うとそれによって相手が嫌な思いをするのではないか?という恐れであり自己価値が低いから。ですから、自己価値をしっかり自分自身が受け入れていない人はシンプルなコミュニケーションができなくなってしまいます。この場合、Aさんに聞かれた時、Bさんが伝えるべきことはシンプルです。サポートを受けたいのか、今回は必要ないのか、自分の感覚や思いや意向をそのまま伝えるだけなのです。もちろん、例えばA さんが本当に忙しい人で人のためにちょっと無理をしがちな方だったら「ありがたく申し出を受けさせてください。でも、もし急に予定が入ったり、疲れていたらいつでもキャンセルしてくださいね」などと相手を思いやる言葉を伝える必要も出てくるかもしれません。(これも場合によっては、不要な気遣いとなりますが)人に気を使う必要はなくても人をケアする気持ち、思いやる気持ちは大切ですから。人に気を使う人は、逆に相手にも気を使わせてしまうことになりがちで本当の意味では相手のことを思いやることができていないこともあります。さて、ここでBさんだけでなく、Aさんも自己価値が低かったりあれこれと人に気を使う(思考でコミュニケーションする)人の場合は、話は余計に複雑になります。Aさんは「Bさんが無理をしないでください、と言ったのは私のサポートを迷惑だと思っているからかもしれない」などと考えたりして、サポートをするのをやめたりすればそこでBさんは「やっぱりAさんにとっては迷惑だったのだ」などと思って、事態はわけがわからないことになってゆくのです。Aさんとしては「Bさんは私のことを〜〜〜だと思っていると思っていた」でBさんとしては「Aさんは私のことを〜〜だと思っていると思っていた」でお互いに相手がこう思っているのではないか?と思って(妄想して)いるわけです。このことは、以前も書きましたがこれを「幻想のコミュニケーション」と私は名付けていますが相手がこう思っているのではないか?とあれこれと予想することに何も真実はありません。「相手の気持ちがわからなければ、率直に相手に尋ねる」コミュニケーションは本当にシンプルなのです。自己価値が低ければ、相手のために何かができる自分や相手の迷惑にならない自分でいなければならなくなってしまうので乗り気がしないなあとどこかで感じつつも、無理をして引き受けてみたりまたはBさんのように自分の気持ちを率直に伝えないことで話が面倒なことになってしまったりで自由でオープンなコミュニケーションを持つことはできなくなってゆきます。またプライドを持っている人も、コミュニケーションは苦手になります。プライドというのは持っていれば、必ず傷つくものだからです。ですから、無意識にそのプライドが傷つかないように相手の気持ちを探るような遠回りな言い方をしたり自分の気持ちを率直に相手に伝えることができなくなります。実は、プライドがあるというのは、自己価値が低いということの裏返しなのです。自己価値をしっかりと受け入れていれば、どんな時でも「心から自分のやりたいと感じることだけをやる」ことができます。私はプライベートでつきあう相手は、自分にとって本当に楽しくて心地よいと感じる人だけです。また例え、いくら大好きな人であってもその時に他にやりたいことがあって今回は大切な友人とのつきあいよりも、そちらをやりたいと感じれば「今回はやめておくわ〜」とか一度約束していたとしても「ごめん〜やっぱり明日はゆっくり休むことにします〜」などと自分の感覚を優先します。私が断ることによって、その方との信頼関係は揺らぐことはないとわかっているからです。ですから、私が断ったことで傷ついたり余計な気を使ったりする必要がある人とは友人としてつきあうことはなくなります。(もっとも、基本、酒を楽しく飲むことができる人なら誰でも大丈夫だったりするのだけど)←結局それかい!どんな時でも相手に無理に合わせたりせず自分が本当にやりたいと感じたことだけをやる。そのためには自己価値をしっかり受け入れ、人と共鳴しながら自分の今の気持ちや感覚を率直に相手に伝えること。本来とってもシンプルなことなのに複雑になってしまうのは人それぞれ様々な要因があります。そういっている私自身もここ数年感じているコミュニケーションの問題がありそれはまだ調整していないのですが。もともと私は、基本的にオープンな人なのでほとんどの人には出会ってすぐに何でも自分の感覚を伝えることができていたしコミュニケーションに関しての問題というのは感じていませんでした。が、これはキネシオロジーを初めてからの職業病に近いのですが例えば友人と話して、友人から何かを相談されたとしてもそれに対してただ話を聞いたり、何かアドバイスを伝えるということができないのです。筋反射を取って、その人の(頭で考えている問題ではなく)本当の問題や本当に何が必要なのかを見てからでない限り私のアドバイスが、その人の道に添っているかどうかわからないし場合によっては、そのアドバイスが、友人のブロックになることもあり得るということが、よくわかっているからです。普通、友人同士では、何か悩みなどがあってもお互いに話をするだけで満たされたりしますが私の場合、プライベートで何か悩みを話されたりすればその問題は、一体どこから起こっているのかしら?となって、カフェで筋反射を取り始めることにもなりかねないしそうなると、プライベートでも仕事モードになってしまいます。また、これまで何千回もセッションをやってきたこともあって筋反射を取らなくても、会って話をすれば「あ〜原始反射があるなあ」とか「インナーチャイルド、かなり残っているなあ」とか「これは脳神経の問題がありそうだなあ」などとある程度は見えてくるので、そうなるとさらにセッションをしなければ何も変わらないということもよくわかるのでセッションをせず、ただ友人の話を聞いている、ということがもどかしく感じてしまいがちです。毎日のセッションでは、人と深いレベルで共鳴することができてもプライベートで人とつきあう時にはたまに、無意識に第6チャクラを閉じているような感じになりなるべく相手の本質的な問題を感じないようにしてしまう傾向がここ数年できているのも、よくわかっています。(なので、私が酒を飲んで酔っぱらっていれば相手の本質的な問題は観えてこないので、楽なのよね〜)友人の中でも、私のセッションを何度も受けていたりある程度、本質的なものが癒されている人だとそういう意識を持つことなく、楽につきあうことができるのですが。もちろん、どちらにしても、私にとって心地よい人としか友人としてはつきあえないのは確かなことですが例え、その人のことが好きであっても職業柄、つい問題の本質的な要因を追求しようとしてしまったりそれがどこから来ているのか、わかりすぎてしまうためにプライベートでのコミュニケーションが面倒になってしまうというのは完全にマインドの問題ですからこれは私の意識を変化させる必要がありそうだなあと。楽でないもの、シンプルでないものは私たちの本質ではないですから。ということで、コミュニケーションは癒されれば癒されるほどさらにオープンに、さらに自由に、さらに楽に、なってゆくのです。
2013年12月18日
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さて、今日はお金のお話。ここ最近、お金がテーマのセッションがいくつかありました。お金というのは、その人の潜在意識にあるものがそのまま現実化するよい例ですから潜在意識にあるお金に対する思い込みやブロックを外してゆくのが先決となります。お金に対する思い込みは、わざわざ筋反射で調べなくても自分である程度わかります。例えば、いくつかあげてみると1)私はお金が大好きです。2)私はお金がいつも充分にあります。3)私はたくさんのお金を受け取るに値する人間です。4)お金を好きなように使っても、途切れることなく入ってきます。5)私はお金を稼ぐことを楽しんでいます。6)私はスピリチュアルであり、裕福です。7)私はお金を喜んで受け取り、与えることができます。8)お金について人に話すことは安全です。9)私は楽をしてお金を得ることができます。10)自分のためにお金を使うことは安全です。11)私はお金をあげたい人に自由にあげることができます。こういった文章を読んでみて、何か引っかかる感じがあったり心地悪い感覚があったら、お金に対する思い込みがあるということです。例えば、いつも子供や家族のためにはお金を使うことができるけれど自分のためには使うことができていない人は10が居心地悪く感じるでしょうしお金について話すことはみっともないことだ、と感じている方は8が居心地悪く感じます(年配の方には多いです)ちなみに「お金を稼ぐことを楽しんでいます」という文についてですが例え、自分自身でお金を稼いでいなくてもパートナーや家族が稼いだお金を喜んで受け取ることができているということです。もし潜在意識で「お金を稼ぐためには、嫌なこともやらなければならない」とか「お金を得るためには、必死で働かなければならない」と感じていれば、そういう人生になるしお金は使えばなくなるものだ、と思っていてば、そういう人生になります。こういったお金に対する思い込みができるのは、いろんな要因があります。親のお金に対する思い込みや価値観を受け継いでしまっているケースや(例えば、親が「お金を稼ぐことは大変なのよ」とか「お金について話すことは、はしたないことよ」など子供に伝えているなど)または、逆に親のあり方に反発してそれが思い込みになっているケース。(親が財産相続のことなどでお金で揉めたりしたのでお金は不幸のもとだ、などと感じているなど)または、大人になってお金で苦労したという経験からきている思い込み(それも、もともとあった思い込みが現実化してさらに強くなっていることが多いですが)また、案外、お金に関する前世の影響などもよく出てきます。私自身も、以前セッションをした時にお金のない人からセッション料金としてお金を受け取ることの抵抗というのが出てきたので、調べてみたら前世で貧困や迫害された人々と関わっていたことが出てきました。ですから、潜在意識を変化させるには、親であれ前世であれ影響を受けているエネルギーを変化させる必要があります。いくら、頭で「私はいつも充分なお金があります」などと言い聞かせてみても、そのエネルギーが変わらなければ何も変わらないからです。さて、私はお金に対する意識は、もう何年も前からワークしてきたし今は、ほとんどマネーゲームから脱出しているつまり、やりたいことをいつでも自由にやることができる豊かさを持っていると感じていたので私のお金に対する思い込みは特にない、と思っていました。ところが、少し前にあらためて筋反射でお金に対する思い込みのアファメーションをチェックしてみたら一つクリアになっていない意識が出てきました。それは「私は貯蓄することへの抵抗を手放します」というもの。は〜確かに〜昔から、稼いだお金を貯蓄するという発想は全くなかったなあと。「お金は循環するエネルギーである」「人に与えれば与えるほど入ってくる」ということを若い頃に学んだこともあって20代の頃は、例えば1日100ドル稼いだら、その100ドルをどう使い切ろうか?と思っていました。お金に限らず、溜め込むというのは、エネルギーが滞ることであって私にとっては、溜めることより出すことの方が大事でしたし貯めるという発想は、未来に向けて何かをするということであって今を生きていない、と感じていたからです。年を取っても、お金は入り続ける、というのはなぜか昔から漠然と感じていたので、将来に対する不安はなかったし子供もいないし、欲しいものは何でも買うことができているのでお金を貯める必要性を感じたことがないというのもあります。さすがに、40代になる頃から稼いだお金を使い切るというようなことはなくなりましたがお金が溜まってくると、どこかで居心地の悪さを感じていたのは確かだなあと。もちろん、節約して貯蓄をしていれば、それは豊かさの意識ではないですから私の魂は、お金を貯める必要性を伝えてきたわけではなくやりたいことを自由にやった上で、余ったお金を貯蓄してもそれに対して心地よく感じていなさい、ということです。これまでのクライアントさんへのセッションでお金を得ることや受け取ることに対しての調整はたくさんやってきましたが貯めることの問題がほとんど出てこなかったのは私自身に抵抗があったからなのでしょうね。ちなみに、何かの目的のために借金をする、というのは常に負のエネルギーを意識のどこかに持ち続けることになりますから何か欲しいもの、やりたいことがある方は借金をしてそれをすぐにそれを叶えることより貯蓄してからそれを得た方が、流れとしてはずっといいです。カードの先払いですぐに欲しいものを買ってしまうという方は、欠乏感と渇望のエネルギーに基づいていますから豊かさの意識とは離れてゆきます。また同じ貯蓄をするのであっても「老後に病気になった時のために」というのと「自分のやりたい新たなビジネスを始めるために」というのでは、そこにあるエネルギーは全く違いますから現実も変わってきます。病気になった時のために貯蓄をすれば意識は病気にありますから実際に病気になりやすくなります。お金の問題は私たちがクリアにしておく必要がある一つの要因ですがそれはただお金自体に対する意識だけの問題ではありません。「お金さえあれば、自分の問題はすべて解決する」と思っている方は、問題は他にあります。実際、お金をたくさん持っていても自分の持っている才能を生かしながらやりたいことを自由にやることができない、いつも満たされないという問題を抱えている方はとても多いです。お金が欲しい理由として今の仕事を辞めたいから、遊んで暮らしたいから、と答える方はもし、たとえ何らかのことでお金を得たところで本当に幸せな満たされた意識にはならないでしょう。本質的な問題は別にあるからです。それがクリアになった時、お金もその他の問題もなくなるし本当に満たされた人生になるのです。
2013年12月12日
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NYは、今日は雪でした今年も残すところ、あと20日。ここ1週間ほど、家からほとんど出ないで、朝から夜までキネシ三昧です。師走、と言っても、ほとんどセッションルームの中で立ちっぱなしで筋反射取っているだけなので年末だから忙しい〜〜という感はないのですけどねでも、この日々のセッションを通じて、様々な出会いや再会がありそして、それぞれの人生の物語を一緒に読み解きながら感動したり、共鳴することができて、今年も最高だったなあとしみじみ感じています。さて、いろいろとお話したいことはあるのですが今日は思考のお話を。先日の修のプログに「今日もバッタバッタとマインドをたたき切る、侍ヒーラーのりこ」などと書かれてありましたがこの超やさしいヒーラーを捕まえて、侍ヒーラーだなんて人聞きが悪いじゃないのよ〜とつっこみつつ今日もクライアントさんのマインドをたたききるもとい、マインドとやさしく対話している私ですいやはやマインド(思考)っていうやつは、ほんと困ったものです。あれこれ思考を働かせて出てくるものと言ったら「こうなってああなったら、どうしよう?」「やっぱり自分にはこれは向いてないんじゃない?』「きっとこれはまだ私には無理」などというもののオンパレード。それでも、その思考が問題だ、と自分自身で気づかれている方はある程度、内観できているということですが思考と同化してしまっている方もけっこう多いです。例えば、キネシオロジーのセッションをやっていて私が筋反射で反応した言葉をその方に伝えると「ああ、確かに、いつもどこかでそういう風に思っています」などという答えが返ってくることが多いのですがでも、セッションの前に「そういう風に思ってしまうことが問題なんです」と言われる人は少ないのです。つまり、思考に自分自身が同化してしまっていてそれは思考である、自分は今、そういう風に考えているのだということには気づいていないわけです。思考型の方は、つねに思考が働いている状態でいますから思考を客観的に見る、ということができない状態になっています。例えば「何かを決断するために、十分に検討し、考えなければならない」と潜在的に感じている人はいつも思考を働かせることになります。私たちの人生は選択の連続であってあらゆる瞬間に何かを選択していっているわけですがそれを考えて(思考で)選択しようとすると「いや、これはこの点ではいいけれどこの点ではこちらの方がいいしでも、こちらはやっぱりこの点ではいいし」などと思考を働かせれば働かせるほど、選択できなくなってゆくのです。決断は左脳の作用、選択は右脳の作用と言われていますが実際、本当に自分にとって大切な道を選択するのは自分の内なる感覚に従うしかないのです。ですが「考えて」選択しようとすればなかなか決断できない、行動できないということになりがちです。例えば、過去に自分が不用意に使った言葉で、相手を怒らせてしまったなどという経験があると次から(相手を怒らせないように)よく考えてから発言しなければ、という安全装置が働きます。その安全装置が、思考の正体。次からは失敗しないように、と常にあれこれと思考を働かせるようになります。つまり、思考ーマインドの基本は恐れ。例えば「私はヒーラーとして向いてないのではないか?」という概念があったとしてヒーラーとして向いていないと思われる理由を過去の様々な自分の経験や他の人から聞いた話などからマインドは次から次から出してきます。そして、それがまるで真実であるかのように感じてしまうわけです。そして、その恐れによって、さらに思考は意味付けをしようとします。例えば「私がヒーリングをすることに意味はあるのだろうか?」とかはたまた『すべては完璧だと言うけれど、それならヒーリング自体に何の意味があるのだろうか?』などと、自分の経験、これまで聞いた話などと照らし合わせながら「正解」を見いだそうとマインドは休むことなく、あれこれと働き続けます。そうすると、どんどんどつぼにはまっていって全く意味のない意味づけになってゆくのです。この何か現象や行動についての意味付けをする、というのも思考の得意技です。それは、意味がないことをやりたくない、間違った選択をしたくないという恐れから起こります。あらゆる事象に意味づけしようする方もよくいます。例えば「すべては完璧である、ならばなぜヒーリングをしなければならないのですか?」とか「『あなたはそのままでいい』ということと『変化を受け入れること』は矛盾しているように思うのですが」などというご質問を受けるのですが「(この時に)ヒーリングを受けて潜在意識を変化させる」というプロセスも含めて、完璧なのです。「ありのまま」というのは、変化も含めてすべてということであって何一つ変化しない、ということではありません。(もっとも、ある次元では何一つ変化しないのですが)でも、いくら「すべては完璧である」という状態を頭で考えてみたところで、その感覚を持っていなければ意味付けすることで、それは制限になってゆきます。ということで、ここで話は変わりますが私は、人に説明する際に、わかりやすく説明するために潜在意識、顕在意識、思考、魂、などの言葉を使っていますがもともと、言葉にはできないものを言葉に変換して説明しているわけですから実際は、そういう風に 区切られているわけではありません。例えば「潜在意識」と言っても、人それぞれの定義は違ってきます。ですから、ここを明確にしておく必要があるかもしれませんが私にとって「思考」というのは気づいていること(顕在意識)も気づいていないこと(潜在意識)も含めて脳で作り出している概念のことを言います。でも、潜在意識というのは、思考だけでなく、感情も含めたエネルギーであって、脳にあるわけではありません。では、潜在意識はどこにあるか?ということですが実際は、身体を含めた私たちのエネルギー体に存在しています。感情的なものなら、アストラル体に精神的なものなら、メンタル体にというある傾向はありますが、必ずしもそうではなく感情的なものが肉体に宿っていることもあります。その何らかの滞っているエネルギーが最初に起こりそして次にそのエネルギーに基づいた脳のプロセス(思考)が生まれます。ですから、ヒーリングのセッションで、潜在意識の感情的なものやエネルギーを変化させるだけでは不十分なことが多いのです。ある一定のエネルギーが溜まれば脳のプロセスはパターン化してしまって例え、もともとあったエネルギーを変化させても同じ思考プロセスを行うようになるからです。いろんなヒーリングを受けてきて、それなりに変化はしているけれどいつも同じような思考に陥ってしまう人は、脳のプロセスそのものを変化させる必要があります。子供の場合、セッション後にすぐに変化するのはそこまでエネルギーが溜まっていないのでまだ脳のプロセスとして確定(パターン化)していないからです。そのことに気づいてから、私のセッションは例え、どんな問題に関しての調整であっても脳の調整が多くなっています。ということで、話は戻りますが大切なことは、何かの事象に意味づけしようとしないこと。食事をすることの意味をあれこれ考えても意味がないようにヒーリングをすることやダンスすることや自分のやりたいことの目的や意味をあれこれ考えても意味はないのです。もちろん、ヒーリングを受ける側は病気を癒したいとか、彼との愛を深めたいとかコミュニケーション力を高めたいとか経済的な豊かさを実現したい、など人それぞれヒーリングを受ける目的はあっていいのですが(目的がなくてもいいのです)私自身は、基本的にこの仕事が最高に楽しいからやっています。もちろん、プロとしてやっていくにはある程度、確実な効果をあげていく必要性は出てきますがそれでも結果に関わらず、それを行うことそのものに喜びがなければ情熱は湧いてきません。過去の私もそうでしたが何かやりたいことがあるのに、それに向けての情熱がない人は「何かのためにこれをやらなければ」という目的意識や、そこに意味付けをしていることが多いです。例えば、ヒーリングを行う目的として世界の平和のために、とかみんなが幸せになるために、とかヒーリングが必要ない世界にするために、など目標を設定すれば、そこに隠れている意識は「今では不十分だ」という欠乏感であり、渇望ですからそれらは必ず、限界を生み出してゆくのです。すべてのものは、ただそこにあるべくして存在しています。彼を好きな理由を考えなくても、好きなものは好きでいいしダンスをする理由を考えなくても、踊りたいから踊るでいいし自分の人生の目的や意味を考える必要もないのです。設定した目標に向かってやってゆくという時代はさらに終わりを告げるように思います。これからは「目標達成型人生」ではなく今、この瞬間瞬間を最大限に楽しむ、だけですね。私にとっては、こうやって日記をアップしている時間もまた最高に楽し♪です。ということで、みなさま暖かくしてお過ごしくださいませ〜
2013年12月10日
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久々の日記です。少し前まで、おさむに「馬車馬のように働くヒーラーやな」などといつも言われていましたが先週から、少し落ち着いてきた感じです。書きたいことはいろいろ浮かぶのですが、書き出すとつい止まらなくなってしまうので、ここ最近、ブログ自粛傾向にありました。さて、近況というか、最近は自分の身体のメンテナンスにいそしんでいました。きっかけは、1ヶ月ほど前に受けた、2年ぶりぐらいのマッサージ。それは温水の特殊なマットの上に、寝るだけで気持ちよくソフトなタッチでマッサージしてゆくやり方法なのですがこの最近の働き過ぎがたたって、リンパの流れも悪く、筋肉もコリコリになっていて軽く触られただけでも、痛みでビクっとする状態。「これはひどいですね〜」とマッサージしてくれた方に言われました。確かに朝10時から7時まで9時間、夜に予約が’入っている日は12時間時にはほとんど休みなく、立ちっぱなしで筋反射を取り続けているのですからかなり自己メインテナンスしていかない限りリンパの流れも悪くなるし、筋肉も固くなることはよくわかってはいたものの時間がないことを言い訳に、なかなかメンテナンスもできないでいました。それで、そのマッサージの次の日キネシオロジーでリンパや筋肉の調整をしてみたらリンパに関しては、20%ぐらいしか機能していなかったことが判明しました。キネシオロジーでリンパの調整をする場合はマッサージとは違って、身体のあちこちを触ったりするわけではなく筋反射テストで、リンパに関するあらゆる情報をピックアップしてゆきます。例えば、リンパの流れに関して、動脈や毛細リンパ管などの細かな器官の情報やリンパ節にしても、手で触ってもわかりやすい脇の下や扁桃のリンパ節だけでなく例えば小腸のバイエル板というリンパ小節や子宮頸部のリンパ節など、マッサージでは難しい部分もキネシで調整することができます。リンパの場合、調整自体は、リンパ節に働きかけるのではなく脳へのアプローチを行います。今回、1回のセッションでは無理だったので、3回かけてリンパの調整をしたらその前まで冷えぎみだった身体が暖かくなり、軽くなってきました。筋肉に関しても、中斜角筋、下後鋸筋など身体の滞っているすべての筋肉をピックアップしてゆくのですが筋肉やじん帯、腱などの調整の場合は、直接、筋肉に手を当てたりチューニングフォークを当てて、調整してゆきます。さらに、久々にヨガをやってみたら、寝っころがった時に背骨の一部が痛むことがわかったので、骨の調整も行いました。骨格もキネシオロジーで調整できます。これも例えば緻密骨組織や軟骨組織、骨芽細胞など、骨に関するあらゆる情報を筋反射でピックアップしてゆきます。基本的に骨の調整の場合は、時間がかかるので側湾症などの問題になると、多くのセッション回数が必要となりますがそれほど大きな問題でなければ、3、4回ぐらいでかなり改善されるケースが多いです。そして、先日、今度は別の方のリンパマッサージを受けに行ってみたら前回のマッサージの時に感じたような、ひどいコリコリ感もなく強い圧で触られても気持ちいいレベルでした、リンパも筋肉もキネシオロジーで調整すればマッサージではできない部分まで調整できるのですがマッサージも、身体やエネルギーのことをよくわかっている方から受けると触られているだけで、いろんなことに気づくのですよね。私は、昔からマッサージはあまり受けない人なのですがこれからは、1ヶ月に一度ぐらいは受けていこうかなあと思っています。自分が好きなことだけをやっている人は少々やりすぎても、病気にはなりにくいです。クライアントさんでも、やりたいことだけをやっている人はかなりタイトなスケジュールで動いていても身体の不調としては出てきていない方が多いです。それでもやはり、身体は休ませないとバランスを崩しますし特にリンパや免疫系は多くの人が影響を受けやすい部分です。ですから、これに万が一、何か精神的な負担が加われば実際の身体の不調として出てきます。病気にはなっていないけれど、病気予備軍のような状態です。先日もある音楽家の方の調整を行ったら「幸せのために(身体を)自己破壊する」というプログラムが出てきました。その方も病気ではないけれど、病気予備軍でした。自分にとって、魂レベルでの喜びの仕事をやっていってそれが周りの人々から求められるものになってゆくと自分にとっての幸せと、さらに他人を幸せにする喜びとが重なってそれは両方にとって幸せなことなのですが一方で、つい自分の身体を休ませることより喜びを得ることになって、やりすぎになってしまいがちなのです。ということで、身体の調整に前後して私が少し前に行った自己ヒーリングのテーマが「Being」(存在すること)でした。私が使っているキネジェティクスの好転反応を防ぐためのフォーマットには、呼吸器系、免疫系、生殖器系など身体の器官や機能がかかれてあって、それに反応したところがその人の弱い部分なので、セッションが終わった後なるべく好転反応が起こらないように、その要因を調整するわけですがおもしろいのは、身体の機能だけでなく「Love」「 Intelligence』(知性)『Spirit 』(魂)『Glory 』(栄光)『Truth 』(真実『Being 』(存在すること)、音楽、などメタフィジカルな要因もあれこれ書かれてあります。例えば「Love」に反応があれば、その人の今の人生に愛が足りないということですし、知性が足りない、と反応すれば洞察力や内観力、理解力など知性に関する何かが足りないということです。その日のテーマに関わらず、その人の弱い部分を見てゆくためにこのフォーマットは最適なので、私はほぼ毎回のセッションでこれを使っているのですが、最近の私自身へのセッションで一つだけ反応していた言葉が、この「Being」でした。時間がないこともあってここ2、3年ぐらい、私のほとんどはDoing (行為)になってしまっていていつも何かをしている状態。1週間の一度のオフも、やりたいことは山ほどあります。私は基本的に、やりたくないことはやらない人なのでやっているのはやりたいこと、好きなことだけなのですが何もしない状態というのが、最近ほとんどなくただ今ここにいるために行うヨガや瞑想でさえDoing になってしまっているなあと感じていました。その調整が終わった後から、いろんな意味で余裕ができてきてBeingとDoing のバランスが取れてきたように感じます。そして、さらにリンパや筋肉などの調整を行ったおかげなのかその副産物のように、おさむとの「love Life」も最近、とてもいい感じです女性のクライアントさんで「性欲がない」という問題を持ってこられる方がけっこういるのですが女性の性欲がなくなる理由の中に、動き過ぎ、働き過ぎがあります。女性は、心の余裕がダイレクトに性欲に反映されがちなのです。例えば、女性ホルモンであるエストロゲンは、発情ホルモンと言われていますがまずは、脳の脳下垂体からFSH(卵胞刺激ホルモン)が卵巣に向けて出されてそのFSHを受けて、卵巣からエストロゲンが出てきます。忙しいというマインドでは、脳からのFSHの分泌が滞ってくるので発情ホルモンであるエストロゲンの分泌にも影響し、性欲がなくなってしまうのです。私もかなり忙しかった時期には、セックスが超めんどうになってやる気がない時がありました。女性は、お姫さまのように男性に守られてゆったりと暮らしている必要があるのですよね。(少なくとも、馬車馬のように働いてはいけません)もちろん、自分がやりたいこと、情熱を持てることをどんどんやれるのはとても幸せなことなので、そのあたりのバランスは難しいところですが、やはり、性エネルギーは、生命のエネルギー。性エネルギーが解放されないでいると他のところにもあれこれと問題は出てくるのです。ということで、また書きたいことがいろいろあるのですが別に書きます〜
2013年11月17日
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「人生に失敗はない」私が何度もこれまで書いてきたテーマなのでまた〜という感じもありますがでもこれを頭での理解でなく腹で理解している人は、少ないなあと感じます。私たちは人生の中でいつも選択や決断を行っています。結婚するかどうか、仕事をやめるかどうか、子供を生むかどうか新たなビジネスを始めるかどうかなど、その決断によって大きく人生が変化するような時だけでなく人生はあらゆる瞬間において、選択の連続です。キネシオロジーのセッションの中でこの選択や決断が苦手な人を見ていくと最もあがってくる感情が「失敗することの恐れ」です。失敗への恐れがある、ということはこれまでの人生での選択に何か失敗があった、と感じているということです。そして、その根底には、人生には到達するべき目標や何かがあってそこにすぐに到達しなければ、失敗だと認識する、ということを意味します。ですが、人生はすべてプロセスです。例えば、ある人が今、Aの仕事にするか、Bの仕事にするか迷っていたとして本当の問題はどちらを選ぶか?ということではないのです。もしその人が迷ったあげく、Aの仕事を選んだとしてそれが上手くいかなかったとしたら「やっぱりBを選ぶべきだった」と後悔するかもしれません。その後悔を経験をすると、次はなかなか決断できない人になってゆきます。でも、実際は、もしBを選んだとしても上手くいかなかったかもしれないしAを選んでやってみたことで、そこから何かを得て新たにCという道が見えてくることもあるのです。上手くいかないことから学ぶことは、とても大きいのですが多くの人は最初から上手くいくことをよしとしてしまいます。自分の天職や使命を知りたい、という人は多いですが人が最も喜びに満ちてできる仕事を天職と呼ぶとしたらその天職にたどりつくために、他のことを学ぶ必要があることもあります。これも何度か以前に書いてきましたが今のヒーリングやセラピーの仕事は私にとっての天職だと思っていますがここに辿りつくまでにシンセサイザーのデモンストレーターや楽器の営業職やホステスや塾の講師やバーテンダーやウエイトレスなどいろんな仕事を経てきました。それらの仕事をやっている時に、これが天職だ、とは感じていなかったですがそれでもベストを尽くしてきたし、最大限に楽しんできました。何よりそれぞれの場所での人間関係やコミュニケーションから学んだことは今の私のヒーリングの仕事にすべてプラスになっていてそこでの学びがなければ、今の私はなかったと思うのです。もちろんこれは、ヒーラーになるためには、いろんな仕事を経験しなければということではありません。人によっては、一足飛びにヒーラーやセラピストへの道を歩む人もいるでしょうしそれはそれでその人にとってベストの道なのです。例え、今あなたが何をやっていたとしてもそれはあなたの人生で必要なプロセスです。ですから、決断できない人の問題は、どちらを選ぶか、ではなくなぜ決断できないか?ということにあります。例えば、AかBか迷っていて、サイキックや占いの人にあなたは「Aですよ」と言われて、Aを選んだとしても自分で決断できないことの問題はより深くなります。私のキネシオロジーのセッションで、その人の魂レベルではどちらを選択したいか?ということを身体に聞いていくこともありますがそれと同時に、その決断を防いでいるものが何かを見てそれを手放し、決断できる人になることが何よりも大切だと感じます。さて、決断できない人は本当の自分はどうしたいのか?が見えていないつまり前回書いたように内観の力の弱さとともに自分の選択を信頼することができない人が多いですが少し前に「自由でいたいという意識」のところで書いた他の人の感情にまで責任を取ろうとしている人も他者との関係において、決断力が弱くなります。会社で今後の新たな方針を決定する、などの大きな問題でなくても例えば、友人と食事に行くのに、自分がレストランを選ぶともしそのレストランの料理がおいしくなかったら困るなどと感じ、自分では決断できずいつも相手に任せるとしたらそれは、不要な責任を負っている、ということです。そういう人は相手がレストランを選んで、例えおいしくなかったとしてもいいのですが、自分が選んでおいしくなかったら責任を感じてしまうのでその責任(実際は負う必要がない)から自由でいるために、自分で決断できないのです。親が子供に対して、子供が失敗しないようにといつも気を使っているようなケースでは子供の決断力は弱くなる傾向にあり大人になっても決断できない人になってゆきます。親は、子供に対して「あなたは何をどうやっても大丈夫よ」と信頼し例え、上手くいかなかったとしても、あたふたせずにそれはそれで経験できてよかったね、というスタンスでいれば子供は失敗を恐れなくなるし、自分で決断することができるようになります。一方、キネシオロジーのセッションを受けて、多くの人たちが言われることの一つに「もっとこれを早く受けておけばよかった。なぜもっと早くこのヒーリングに出会わなかったのかしら?」ということがあります。すべてはベストのタイミングで起こることをよく知っているおさむでさえ「俺がもし子供の頃にこのヒーリングを受けていたとしたら小学校からずっと苦痛な学校生活を送る必要はなかったのに〜」と半分冗談、半分本気で言っていました。ですが、やはりヒーリングやセラピーを受けるタイミングもすべて完璧であって失敗はないのです。おさむは、その辛い子供時代を過ごしてきてヒーリングでそれらの抑圧された感情や思い込みを手放して人とコミュニケーションを楽しむ自分に変化したことでより今の喜びを感じることができるしそして、それは彼がセラピーをやっていく上で同じ問題を抱えた人たちの要因がどこにあるのかが見えてきます。(その問題を抱えたままでは、何も見えてきませんが)そして、私はそのおさむを通じて人とのコミュニケーションが上手く取れない人たちの問題に気づくことができるのです。例えば、自分への深い信頼、ということにおいて私はこれまでの人生で、何かができないから自分はだめだと感じたことは、たぶん一度もないように思います。キネシオロジーのセッションを始めたばかりの時も当然、筋反射を上手く取れないこともあったし、目標設定が上手くできないことも何度もありましたが、私にとってはそれはそういうもので、いずれ見えてくるだろうと思っていたので、どんどんセッションを重ねることができたしだからこそ、今、ここまでやれるようになったわけです。一方、おさむは、今は変わりましたが以前は、簡単に落ち込む人ですぐに「おれはだめだ〜」になってしまう人なので私はよく「ひゃ〜また落ち込んでる〜(エネルギーがよどんでいるので)近寄らんどこ〜」などと冗談で言っていました(←慰めないひどいやつ?)彼の場合は、何かが上手くできないということが自分への不信頼につながるのです。おさむだけではなく、簡単に落ち込んだり挫折する人は多いです。例えば、ヒーリングのクラスなどで新たな技術を学んできて実際に家族や友人にやってみると、クラスの中では簡単にできたことが上手くいかない、などということが起こります。そして、何人か続けて上手くいかないと「私にはこれは向いてない」とやめてしまう人が多いのです。たった3人ぐらいで挫折する人が多いので「3人挫折パターン」と私は呼んでいますがそういった人たちの何が根本的な問題なのか?例え、私自身の経験からはわからなくても、おさむや他の人たちを通じて、見えてきます。人はその1回の人生では、すべてを経験することはできません。ですが、出会う人たちを通じて自分が学んでいないものに気づくことができます。先日、クライアントさんで「夫と価値観が違うのですが」と言われた方がいらっしゃったのですが私から見ると、最初から周りの人たちと全く同じ価値観だなんてなんとおもしろくない人生かしら?と思います。違う価値観、違う人生経験、違う考え方、だからこそ自分が気づかなかった意識を知ることができて人生はより深く、豊かになってゆくのですから。一方で、また話がちょっとずれてしまうかもですが「人生に失敗はない」のは普遍的な真理ですがかといって「人は経験から学ぶ」とは限らないということです。苦労や辛い経験を超えた人が、何か真理を学んでいるわけではありません。ここを理解していないと、苦労自慢する人になったり困難を乗り越えなければ人として成長しないなどという歪んだ信念体系ができあがります。人は時にその経験から学ぶべきこととは、全く違うことを「学んで」います。あるクライアントさんでその方は、以前、自分がわくわくする分野で得意だと感じていたことを学んだ後それを仕事をしようとあらゆることをあれこれやってみたけれど結局、上手く行かず挫折して今は他にやりたいことを探しています、という方がいました。その方は、自分はさんざん努力してもだめだった、もう他には道がなかったと「その経験から学んだ」と思っているのですが身体の声を聞いてゆくと、要因は別のところにありました。上手くいかなかったのは、その人が、人からのサポートを得ることをせず自分だけの頭で考えて、あれこれやってきたことにあったのです。人が自分で知っていることなんて、ほんのわずかなものですがいろんな人の力やアイデアを得ることができれば自分の得意な分野でそれを生かしてゆく道が必ずあります。その人がその経験から学ぶべきことは「その仕事は自分には向いてない」ということではなく「自分一人でやらず、他の人とつながって人からのアイデアや力を得る」ということでした。でも、例えその方が今、キネシオロジーのセッションを受けなかったとしてもいずれ、あれこれと他の仕事を探してみて、結局、自分にはこれしかなかったということに気づくかもしれません。それが何年先か、今すぐか、の違いだけです。そして何年先になったとしても、そのプロセスもまた必要ということです。キネシオロジーは、その人の人生での学びのプロセスを加速させると私は感じています。時には、その人が何年もかけて気づいてくることをたった1回のセッションで気づくことにもなります。もしも、おさむが子供の頃にこういうセラピーを受けて人とのコミュニケーションを楽しむことができたとしたら全く違う人生になったことは間違いないですが結論から言うと、どちらでもいいのです。ゲームのステージ1からスタートするのもステージ7からスタートするのも両方のよさがあります。人生はすべて自分の選択の結果だとも言えるし、その選択するということも含めて人生はすべて運命で決まっている、とも言えます。ですから、小さな子供の頃にセッションを受けてもそれはそれでベストのタイミングです。わざわざ苦労や困難を経験してから、それを癒すというプロセスを経てゆく必要はありません。子供の頃からこういうセッションを受けていればより楽に人生を歩くことができますがまた別のレベルでの学びが必ず待っていますから。困難から学ぶ、というあり方ではなく喜びから学ぶというあり方です。人生は何かを達成したら終わりではなく、永遠にプロセスです。ですから、今、あなたがどんな場所にいても完璧であって何を選択したとしても、何一つ失敗はないのです
2013年10月29日
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キネシオロジーのセッションで例えば、グラウンディングや結婚や仕事に関連して問題となっている感情や意識を見ていく中でよく出てくるものとして「自由でいたい」という思いが上がってくることがよくあります。上がってくるというのは、身体が反応して伝えてくるという意味です。この「自由でいたい」という思いが意識の根底にあると例えば、結婚が苦手、とか、結婚しても子供は生みたくない、とかグループでの活動が苦手とか、一つの仕事を長く続けれない、深く関われないなどという問題が出てきます。結婚=自由でいれなくなる、グループでいると自由でいれなくなる一つの仕事を続けていると自由でなくなると潜在意識では感じてしまうということです。以前は私自身もそうだったのですが、こういう人は例え好きな人と結婚しても、束縛を感じてしまい離婚になったりまたは結婚したいと頭では思っているのにいつも相手としてコミットメントできないような人を引き寄せたりまたは、仕事も一つのことを深く極めたり、長く続けることができなかったりします。また大抵の場合、自由でいたい人は、人からのサポートを受け入れるのが苦手です。人からサポートを受けると、相手にお返ししたりしなければならないという意識で自由を感じれなくなるので、人に頼んだりせず何でも自分でやろうとするのです。つまり、自由でいたい、と潜在的に感じているということは言い換えれば、私は自由ではない、という意識の現れです。過去に自由ではなかった何らかの抑圧があるということなのです。その抑圧されたエネルギーが残っているので自由でいたい、と無意識に感じてしまうのです。宇宙の真理から言えば(この言い方は微妙ですが、私たちの本質という意味で)「自由でいる」ということは、環境や状況によるものではなく私たちの意識のあり方です。お金があるから自由でいられる、わけでもなく一人でいるから自由が得れる、わけでもありません。自分自身が自分を制限しているものがなければ、自由なのです。例え、子供がいようと、結婚していようと、一つの仕事に深くコミットしていようと「私は自由である」という感覚を持つことはできます。でも、過去に抑圧されたものがの残っていると、真の自由な感覚が持てないので一人でいるとか、結婚しない、とか子供がいない、とか一つの仕事にコミットしない、など、無意識のうちに自分の状況や環境によって自由感を得ようとしてしまうのです。自由と責任というのは、よく潜在意識の中でセットに捉えられています。例えば、何か新しい仕事にチャレンジしたいと思っていても自分の力がまだ十分でないので、相手に迷惑がかかるなどと感じていれば、その責任感に縛られるのが嫌なのでなかなか始めることができない、などということになります。つまり、その人の潜在意識の中では、チャレンジしないことや何も行動を起こさないことが自由でいることになっているということです。このチャレンジに関わらず「自由でいたい」と感じている人は案外、責任感が強い人が多いです。もし「君の人生に責任が負えないから、私は君と結婚できない」と彼が言ったとしたら、その彼は責任感がないのではなく責任感が強すぎる、というより、責任を負う必要のないところに負わなければならないと感じているということです。実際は、その方が意識のどこかで感じている「責任」というものは幻想であって存在しません。前にも書きましたが、責任は自分の人生に対して取るべきものであって(自分の感情の責任は自分にあることを認識する、ということや起こっていることをただ受け入れるという意味ですが)他人の人生や他人の思いに取ろうとしても、その実態はどこにもないのです。例えば「私が今やりたいことをやってその結果、他の人にとって満足がいかないものになったら恐い」などと感じている人がいますがこれは他人の人生や感情に責任を取ろうとしていることになります。また、例えば、人と深く関われば自由でなくなる、などと感じているとしたら「相手を喜ばせるためには、自分の言いたいことを自由に言うことができない」とか「相手に合わせなければならない」となどという自分の意識が、自分をがんじがらめにしているのであって自由を失わせているのは、ただ自分自身のマインドなのです。例えどんな人の前でも、自分が感じたことを感じたように伝えることができたとしたら、自由でいられるのです。ですから、私のキネシオロジーの調整では自由でいたい、という思いを潜在的に持っている方は「私は(どんな状況であっても)すでに自由である」という意識に変化させてゆきます。結婚していようが、一つの仕事に深くコミットメントしようがそれらは自分自身が選んだことであって本当に相手のことが嫌になったり、仕事が嫌になればいつだってやめることはできるし、不要な責任感はもう必要ないのだ相手に合わせて自分を抑える必要はないのだということを深いレベルで理解した時私たちは、真の自由な意識になることができます。むしろ、自由でいたいという意識のままでは、自分が人生を歩いてゆきたい人と一緒にいることを選択できなかったり本当にやりたい仕事に、深く携わることができなかったりと真の自由さからは離れてゆくのです。ではなぜ、自由でいたい、と感じるようになってしまうのか?なのですが多くの要因は、子供時代にあります。子供の頃、コミュニケーションにおいて自由に自己表現ができなかったり何らかの抑圧を感じていれば自由でいたい意識が芽生えてきます。ですから、今、自由な意識を持つためには過去の抑圧された意識を解放してゆくしかないのです。自由に関する調整では、前世とのつながりもよく出てきますがこれも過去の抑圧されたエネルギーであって前世というよりも、誰もが持っている集合無意識とも言えるものです。束縛された自由でなかった前世とつながっている人は多く私たちの多くがいかに自由がなくなることを恐れているか?がよくわかります。そういえば、私も昔、意識のどこかに持っていたものとして「刑務所に入る恐れ」というのがありました。(もちろん、刑務所に入らなければならないようなことはしていないけどね)大学時代にえん罪について調べていて何の罪もないのに自由を奪われることの怒りや絶望感というのはどんなに大きなものだろう、と思ったことを覚えています。私が刑務所に入った前世とつながっていたのかそれとも刑務所=自由がない象徴としてなのかはわかりませんがこういうヒーリングをやるようになってから自然とその恐れはなくなっていました。私が長い間、警察や権威的なものに対する抵抗が大きかったのも権威=自由を奪うもの、という認識が強かったからだなあと。と、私も以前「自由でいたい」人だったのでそのあたりの心理やメカニズムは、ずっと探求してきたというのもあります。以前の私にとっては、結婚や安定した生活なども、全く魅力的ではなかったし安定は自分の成長を妨げるものだ、という認識がありました。私が最初に結婚しようとしたのは、大学卒業2年後ぐらいでしたがその時は、相手がコミットメントできない人で結婚を決めた後、彼がやめると言い出し、別れたのですがその時の私は傷つきながらも、人生が安定しなかったことに対してどこかでほっとしていました。自分の意識がコミットメントできない相手を引き寄せていたわけのです。次に結婚しようと決めた相手は、コミットメントできる人で彼自身は、私を守りながらも、私を自由にさせてくれる人でしたが彼の家庭環境が私を自由にさせないものであったために(というより、私がそれに合わせなければいけないと必要以上に負担に感じていたために)私の方がコミットメントできず、結婚しませんでした。そうして出会ったおさむは、これまでもブログに書いてきましたが全くもってコミットメントできない男で私よりもさらに自由でいたい意識、つまり自由ではない意識を持っている人でした。今は、もちろん二人でいろんなことを楽しむことができますが昔は、例えば、彼のギターを弾きたい時間に、私が食事に誘ったりすればおさむは「俺の自由を奪おうとしている」と感じてしまい不機嫌になっていたし、彼のそういう意識は長い間、何かにつけて出てきました。その当時は、それが過去の抑圧された思いから来ているとは全くわからなかったしそれでも、よく18年もつきあってきたものだなあと決断力、行動力はあるけど、忍耐力はなかった私なので(最近は少しはあるかなあ)自分でも不思議です。「自由でいたい意識」を持っている男性は、けして女性を守ることはできません。女性は、いつ相手が自分から去っていくかもしれないという状況の中で守られる意識を持つことはないからです。おさむとつきあう中で、男性に守られるという私の女性性がどんどん失われていって、いつ別れてもいいように経済的にも精神的にも自立していったわけです。一見、それはお互いに自由な存在であるかのように感じていて頭の意識では満足していたのですが男女の深いつながりというところで、気がつかないうちにひずみをもたらしていました。近年、そのことに気づいて女性性のワークやセッションをあれこれやってきてそれと同時に、私の中の「自由でいたい意識」もだんだん変化してきました。それまでは波瀾万丈の人生こそが、自分を成長させてくれるという意識がいつもどこかにあったのですが安定を受け入れ、それとともに常に変容してゆくという意識に変化してきたのだと感じます。(まだ、若干、波瀾万丈の気はあるのだけどね)今回のイタリアの旅を通じて、さらに深いレベルでおさむから守られるという意識を持てるかどうか、のレッスンがありました。それに関しては、おさむの準備ができたらまたいつかゆっくり書こうと思っていますが。安定していても、人生は常にチャレンジなのです。「自由でいたい」という意識は同時に孤独感にもつながっています。属したくない、深く関わりたくない、その意識を持っている限り孤独からは逃れられません。そして、この孤独ー分離感こそが私たちが抱えているほとんどの問題の源なのです。例えば、お金は、生存に関わる恐れとして認識されているケースが多いです。つまり、お金がなくなる=生きていけなくなる、という恐れです。でも、もし例え、その人が、お金がなかったとしても周りに助けてくれる友人や家族がたくさんいていつでも喜んでヘルプを与え合うことができる環境にいたとしたらお金の問題は、生存の恐怖として認識されないのです。今回の旅で、ダマヌールのコミュニティを通じて人と深いレベルで関わってゆくことの大切さをあらためて感じました。そこに住む人々の意識が自由であるからこういうコミュニティに深く関わってゆけるのだなあと。自由な感覚と一体感を持つこと。一見、矛盾するように見えるこの意識は、実は全く矛盾していないのです。すでに私たちは自由な存在でありそして、孤独な存在ではないのです。
2013年10月07日
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ほんとうに月日が過ぎてゆくのは、早いですね。少し前に、7月の予約が一杯になり、8月の予約がスタートしてあれよあれよという間に、8月も埋まってきて、残り10枠ちょっととなりもう9月の予約も、ぼちぼち入り始めています。おちおちしていると、まとまった休みは取れなくなってしまうので最近はできるだけ、早め、早めに予定を立てるようにしていますが8月27日頃から約2週間の予定で、ヨーロッパに旅行に行くことに決めました。ですから、9月は半分ぐらいしかセッションのための日数が取れないので9月もすぐに埋まってしまいそうです。そして、あっという間に10月になるのかしら。そうこうしていると、もう今年も終わる~って感じになりそう。先日は、久々にレイキのレベル1のクラスを行いました。参加者は4名で、とても和やかで楽しいクラスでした。最近は、キネシオロジーの予約ですぐに埋まってしまうのでレイキのクラスのための時間がなかなか取れずレベル1、2は必ず何人かのグループで行っていますがそれでも時間は取れないので、レベル1、2ですぐにクラスを受けたい方は、おさむを紹介しておさむからクラスを受けてもらったりしています。おさむも、最近、テキストを何度も作り直して練り上げたりレイキのクラスにも力を入れているので、安心して任せています。「レイキと太陽と月と」というブログタイトル、いいかげん変えた方がいいんじゃない?とおさむにも言われたのですが確かに、最近はレイキのことは、ほとんど書かなくなってキネシオロジーのことばかり書いているわけでそれで時々問題となるのが、私のブログを読んでレイキのセッションの予約をされた方が実はキネシオロジーのセッションのつもりだったなんてこともあって確かに、ブログタイトルがレイキだったら、私がやっているのが、キネシオロジーなのかレイキ何なのかちょっと読んだだけでは、よくわからない人もいるのかも~と。かといって、キネシに完全にシフトするというのはやっぱり寂しくキネシは最高に楽しいですが、レイキのクラスもやっぱり楽しくていつも、ああ、もっとレイキも教えたいなあと思うのです。先日、レベル1のクラスを受けてくださった方々もみなさんすぐにでもレベル2のクラスを受けたい、と言ってくださったのですがなんせ、8月までたった1日も空いている日はなく。こういう時、なんでもっと余裕を持ったスケジュールにしておかなかったかしら~と、反省です。さて、先日、私へのセッションの中で出てきたのが自己破壊プログラムとして「遊びを犠牲にする」という言葉が出てきました。私は昔は、遊ぶ人だと自分では思っていたのですが確かに、ヒーリングに関しては、緊急のセッションが入ると、どうしても、オフの日も入れてしまいがち。このヒーリングの緊急セッションというのはすぐにセッションをやらなければ死んでしまう、なんていう緊急さはないにしても例えば、身体の具合が悪くて痛みがある人も緊急だし彼と別れて落ち込んで、ご飯もろくろく食べれない、という人も緊急だしストレスで不眠が続いている、という人も緊急だし近いうちにオーディションや舞台があって、緊張しているのでそれまでにリラックスして望めるようになりたい、というのも緊急で子供の具合が悪いなんていうのは、かなり緊急です。そういういろんな方の緊急のセッションを入れているとどんどん休みがなくなってゆくのですよね。もちろん、私はキネシオロジーのセッションをすることは大好きでよくクライアントさんからも「のりこさん、セッション中、ほんと楽しそう」と言われるのですがこれが遊びという面から言うと、自己破壊ということになってしまうのだなあと。う〜ん、何でもやりすぎるとバランスを崩すというのはわかってはいることですが。少し前に、おさむが私へのセッションをやってくれて、出てきたのが「人が癒されてほしいという願いを手放す」ということ。人が癒されてほしい、という願いはハートではなくてマインド(思考)であることは私もわかりすぎるほと、十分にわかっていたつもりでしたしそこは、ある程度は手放しているつもりでしたが、それでも、やはり、その気持ちが潜在的に残っていたからこそここまで日々勉強したり、研究したりしてきたということもあって手放せない部分があったのだなあと。おさむも言うように世の中のほとんどは緊急なセッションが必要な人と言えるかもしれないしもちろん、私一人ですべてを請け負うことはできないこともわかっているしすべてはベストのタイミングでやってくることも充分にわかっているのですでに予約が一杯の時は、躊躇なくお断りするのですが自分の休みがあると、まあ、いいか、と入れてしまうのですよねそれとセッションでもう一つ出てきたのが、完璧主義。完璧主義はセッションでよく出てくるテーマですが私にもまだ出てくるとは。とほほ。。自分の見たくないところは、つい見ないようにしてしまうものですね完璧主義には二つのタイプがあって一つはいつまでたっても自分に満足しないタイプ。私は「まだまだ感」と呼んでいますがこのタイプは、もう充分に実力や才能があるにも関わらず自分はまだまだ、と思って、完璧にできてから実行に移そうなんて思うのでなかなか実行に移せなかったり、チャレンジができなくなりがちな人です。もう一つは、あらゆることを完璧にこなそうとするタイプ。このタイプは、いろんなことをすべて完璧にやろうとするので知らず知らずのうちに無理をしていたり、ストレスを溜め込んでいたりします。私は前者の「まだまだ感」というのは、昔からなくて基本的には自分に満足しているので例え、中途半端でも、どんどん行動に移してゆくタイプなのですが(例えば、このブログでも、あまり深く検討せずに感じたことをバンバン書いているので、後で見直すとヒエ~となることも多いわけですが)この後者の、何でも完璧にこなそうとする、というのは昔から持っている傾向であって、最近はかなり手放されてきたものの未だにまだ残っていたのだなあと。私の場合、好きなことだけしかやっていないので例え、少々やりすぎても、ストレスは溜まらないものの私の身体は、適当に手を抜くこともやりなさい、と伝えてきました。確かに、最近、キネジェティクスを統合してからというもの1回の調整で、少し前の3倍ぐらいの量のセッションをやるようになったのですがセッション時間もかなり長くなり一つのセッションにかける私自身のエネルギー量も増えてきました。私は、昔から、一期一会という言葉が好きで例え、そのクライアントさんが次のセッションの予約をされていたとしてもこの回のセッションが、その方との最後のセッションだ、という思いでできるだけ多くのヒーリングを行いたい、と思っていました。でも、これまでは、例えやりたくても、それ以上行うと好転反応が大きく出るので身体は「今日はこれ以上は無理」と伝えてきてできなかったことがキネジェティクスを学んでからというもの最初の目標設定から「もっとこれもこれもできるよ〜」とクライアントさんの身体は伝えてくるわけです。クライアントさんの身体というのは、私がどんなテクニックを持っていてどこまで調整できるかを、完全に知っているのです。ですから、多くの調整を一度にできるようになったことは私にとっての喜びでもあり、クライアントさんの身体ができると言っているのに適当に手を抜いて調整するということは、やはり私にはできないなあと。(もちろん、これもマインドなわけですが)とはいえ、1回3時間近くのセッションを1日4人もやるのは私のエネルギー的にも無理がありいろいろ検討した結果、とりあえずセッションは1日3人までにしようと決めました。今入っている分までは、4人やりますがこれからのご予約はできるだけ1日3人までということに。なので、夜の緊急セッションは、さらに少なくなってしまいますしより待たせてしまうことにもなってしまうのですが。と、考えてみれば、5月の日本でのセッションは東京では、1日4人を5日間、計22セッション行うわけですからこれはかなりのチャレンジになりそうです。それまでに、何とかできるだけセッション時間を短くする方法を見つけなくては。いや、体力をつけておく方が先かしら。ということで、ヒーリングも遊びもラブメイキングも何でもやりたい私の魂としては、一つに片寄りすぎるとあれこれと言ってくるわけですがマインドとのバランスも上手くとりつつ、やっていきたいと思います〜
2013年04月12日
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みなさま、お元気かしら?しばらくお会いしていない方も。時々セッションでお会いしている方も。そして、まだ一度もお会いしたことがない方も。最近は、初めてセッションに来られた方から「のりこさんのブログをずっと読んでいるので初めて会った気がしません」なんて、言ってくださる方も増えてきました。私の方は、もちろんその方のことを全く知らないのにその方は私のことをよくわかってくださっているのですから初めてお会いしているのに「すでにもうわかっていらっしゃるかと思いますが」という感じで話すことになるのは、ちょっと不思議な感じがします。最近は、セッションの最初に「どういうことが今の問題やこれからのテーマですか?」とお聞きすると「グラウンディングが問題だと思います」とか「インナーチャイルドがまだ癒されていません」とか「もっとハートを開きたいです」とか「頭でっかちスピリチュアルなんです」などというお答えが返ってきたりしておぉ、本当にブログをよく読んでくださっているのね〜〜それでは話も早い、と、早速セッションに入って身体の声を聞いてゆくとやっぱり、その方が感じている通りのテーマが出てきたり。そういう意味では、こうして感じたままをつらつらと書くのも意味はあるかなあと。でも、一方で、こういったブログなどに書かれてある言葉がその方にとっての思い込みや信念体系になってしまっていることもあって例えば、何かが起こった時に「これが起こったということは、こういう意味やメッセージに違いない」などと無理やりストーリーを作り上げてしまって本当のところを見失ってしまっていたり逆に本当に自分の感じていることを抑えてしまうことになってしまったり。例えば、慈愛を持つ、とか、高い次元でみるなどというスピリチュアルな教えも時として思い込みや信念体系につながるのです。先日、来られたクライアントさんが、とてもよい例を話してくれました。彼女は新しい家に引っ越しして、しばらくたった頃上の階の人が、毎日何時間も、家で運動をしてバタンドタンとひどい騒音を立てるようになったそうでせめて床に絨毯でも引いてほしいとお願いしたりいくら少し静かにしてほしいと頼んでも、相手は一向にやめる様子はなく床にも何も引いてくれず。彼女は、とてもスピリチュアルな方なので、「これは私が引き寄せているのではないかしら?」と自分を見つめ直してみたり上の階の方に愛のエネルギーを送ってみよう、と送ってみたりいろいろやったそうですが、何も変わらず、それは半年近く続いていたそうです。ほとほと困り果て、どうしたらいいのか全くわからなかったそうですがある日、彼女の旦那さんもとても柔和な方なのですがとうとう、彼の方が切れてしまって上の階にどなり込んでゆき、廊下で「あなたはうるさすぎなんだよ!!!!!」と大声で怒鳴ったそうです。そうしたら、それ以来、ぴったりと騒音を立てることはなくなったのだそう。彼女曰く、たぶんその声をアパートの他の住人も聞いていてその方たちも、騒音に対する文句を言ったのではないかと思ったそうですがとにかく、この状況に必要だったのは、愛のエネルギーを送ることではなくて怒鳴りつけることだったわけです。もしここで(無理矢理)引き寄せの法則を適用するとしたら彼女も旦那さんも、怒鳴ったり、怒ったりすることはよくないことだ物わかりがよい人、愛がある人でいなければ、という思い込みがあったために怒鳴ったり、怒りを表したりしなければ解決できない問題を引き寄せてしまった、と言えるかもしれませんし怒りを表現しなければ解決できない問題もあるということを学ぶためのレッスンだと言えるかもしれません。もちろん、何でも怒鳴れば解決するというわけではないですしその状況によって、自分がやるべきこと取るべき態度は変わるのが自然であってどんなスピリチュアルな教えであってもすべての人や状況に当てはまることはないのです。どんな聖者であっても、覚醒者の言葉であってもその言葉そのものに捕らわれないことです。ワンネスをある意識で感じている、ということは素晴らしいことですが一方で、私たちは別々の身体を持って生きているわけですから分離も理解して、他人の境もしっかり引いている必要があるのです。ですから、例えば、昔はとてもわかりあえていたのだけど最近は、何かの意識のずれを感じてしまったり一緒にいって、あまり心地よく感じることができない友人といて昔のように心からの愛を与えれない自分に対してギルティ感を持つ必要はなくていつかまたつきあうことがあるかもしれないけれど今は距離を置いてみる、というのも大切な選択なのです。もちろん、これも一つの選択であって、何かちょっと嫌なことがあっただけで、いつも大切な人と、簡単にばっさり縁を切ってしまうような方はまた別の学びが必要かもしれません。その人にとって、その時その時に、何が大切でどうしたらいいのか、はけして他の人がわかることではなく本当の自分だけが知っていることです。ですから、私はそう簡単には人にアドバイスすることはできないなあといつも感じます。私がいくらその方の状況を聞いて「こうしたらいいのに」と思ったとしてもその人の身体に(魂に)聞いてみると、また違ったものが見えてきたりするので本当のところは、話を聞いているだけではけしてわからないからです。クライアントさんの身体が選ぶ言葉や目標はいつも私にとっても新たな視点を与えてくれます。私自身も昔は「いつも慈愛を持って人と接したい」と思っていてキネシオロジーを始めた頃は自分のセッションの目標としてそれを上げたりしていたですがこれまで何千回とセッションをやってきた中で「ハートを開きます」とか「人と共鳴します」という目標は選ばれても「慈愛を持ちます」という目標が、クライアントさんの魂の目標として選ばれたことは一度もありませんでした。私のところにセッションに来られた方の中でマザーテレサのように慈愛の人になろうとして無理して自分の身体を酷使し、健康を損ねてしまった方もいましたし自分の身体を壊してしまえば、結果的には誰も助けられないことになりますから自分が満たされていないのに慈愛を持とうとすればやはりどこかで歪みはできるものだなあと。本当の意味で、満たされて幸せを感じていれば自然と慈愛の意識でいれますしそして、自分を犠牲にする形ではなく本当に相手にとって必要なサポートを行うことができるのでまずは、その人があらゆるところで満たされていることだなあと感じます。ということで、また長くなりましたが。今週も新たな出会いがいくつもありました。また、昔から知っている人と感動することもありました。また、おさむの間で、新たな気づきもありました。日々のすべての瞬間が愛おしく感じます。「あ、このことを今度ブログに書こう♪」と思っていても時はどんどん過ぎてゆくので、あっという間にその思いも過ぎ去ってゆきますからすぐに書き留めておかないと、それはもう過去の感覚になってゆきますがその感覚の変化がまたおもしろいものです。明日は一体何を感じるのかしらね。どうかこれを読んでくださっているあなたがこの瞬間、満たされていますように
2013年03月17日
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日々、いろんな方の問題やテーマを聞いていますがコミュニケーションや人間関係、自己表現というのはたぶんナンバー1のテーマじゃないかなあと思います。これまでの人生でコミュニケーションや人間関係が全く問題なかったなんて人には、まだ一度も会ったことはないですがコミュニケーションは、仕事でも家庭でも恋愛でも友人関係でもほとんどの人の人生の上で大きなテーマとなっている問題です。まず、多くの人が持っている問題として「自分が本当に感じていることを相手に率直に言えない」または「言わない」ということ。このことによって、どれだけ人間関係が面倒なものになっているでしょう。もちろん、例えば大人が子供に向かってそのままを話しても子供は理解できないように相手の理解度が同じ意識レベルまで達していなければ今は言わないでいる、ということもありですが相手に受け入れられるために言わないでいる、となるとどこかで歪みが出てきます。でも一方で、自分の思いを伝えるために、相手を責めることになればそれはまた新たな歪みを生み出します。つまり、人間関係で最も大きな弊害となっているのが「正当性」です。「こういう時にはこうするのが、当たり前でしょう?」とか「あなたが~~しないから、こうなったのよ」などという「これが正当である」という表現方法は実は自分の本当の思いを伝えていることではなく自分の本当の気持ちを見ないようにしていることなのです。この「正当性」は、時に、愛という仮面をかぶって現れるので要注意です。「こうするのが人としての愛じゃない?」とか「こういう時に〜〜しないなんて、愛がないってことよね』などという感じです。愛は行為ではありません。でも、多くの人にとって、愛=行為になっていてその人の行為によって、愛の深さを計ろうとします。そして、人それぞれ、その愛と行為のバロメーターの度合いが違うのでAさんにとっては、その行為は愛があることであってもBさんにとっては、その行為と愛とは関係なければAさんから見ると、Bさんは愛がない、という価値判断になります。例えば、Aさんがあることで困ったことがあって、BさんとCさんに「〜〜にヘルプに来てもらえない?」とサポートを求めたとして。Bさんは、本当は行きたくないのだけど、Aさんの願いを断ればAさんから冷たい人だと思われるのが嫌だしそれが他の人にもそういう風に広まっていくのも嫌なのでまあ仕方ないか、とそれを引き受けることにしました。Cさんは、Aさんを助けてあげたいという気持ちはあるのですがこのところ、仕事も忙しくて、ゆっくりする時間もなかったので「申し訳ないけど、今回は行けないわ」とお断りして、家でのんびり過ごしました。行為としてだけみればBさんはAさんを助けた、けれどCさんは助けなかったわけですから、Bさんの方が愛があるということになるわけです。でも、そこに流れているエネルギーは、Bさんの場合自分を犠牲にしているので、必ずどこかで歪みが出てきます。その歪みが、例えば、思いのほか、Aさんから感謝されなかったから不満が残って、それを夫に対して当たってしまう、ということになるのかまたは、自分の体調が悪くなる、ということになるのかわかりませんが自分の感情を抑えたり、言いたいことを言わないでいれば必ず、何かしらのバランスは崩れるしそれは全体として見れば、愛の行為ではないのです。また、もし、ここにDさんがいたとしてDさんは、そのサポートをすること自体がとても好きな人なので「ぜひヘルプさせて」という風になればもちろん、それは双方にとって、ベストなわけですがなかなかいつもそういう状況になるとは限りません。では、人には簡単にヘルプを頼めないわ、となりがちですが困った時にヘルプやサポートを求めるのは、誰にとっても必要なことでAさんの行為自体には何も問題がないのです。ただ、もしAさんが、自分の願いを相手が引き受けなかった時に「なんと非情な人なのかしら』とか「自分は受け入れられていない」とか「大事にされていない」という思いやエネルギーを持っていれば問題はさらに深くなってゆきます。さて、なぜ人は自分の正当性を主張しなければならなくなるかというと自分のニーズ(必要性)が満たされなかったからです。そして、それは多くの場合、自分を認めてもらえていないとか、充分に愛されていない、などという思いから来ています。例えば、彼女が彼に「どうして電話もしてくれないの?遅くなるならなるって、一言電話ぐらいしてくれたっていいじゃない?」と言うのは、自分のニーズを伝えているのではなく正当性を主張しているだけなので彼にとっては、自分を責められた感覚にしかならず例え、それからは電話するとしても、自分の意思ではないのに、彼女にやらされている感覚にしかなりません。でもそれを「もし今度遅くなる時に、電話をもらったとしたらとってもうれしいな。あなたが遅くなると何か事故でも合ったんじゃないかって心配になってしまうから」などと言ったとしたら、彼は責められている気にはならないし彼女のニーズを満たすための愛の行為として電話をすることができるのです。(もっとも私もこんなかわいい言い方はしないけどね)もっとも、この場合、彼が電話してくれないことが自分を充分にケアされていないという思いにつながっていればどこかで相手を責める気持ちが出てきます。ですから、やはり最も必要なのは「自己価値」なのです。自分の価値を自分自身がしっかり受け入れていなければ相手の行為によって、自分が認められていない、とか受け入れられていない、などということになってしまうのです。それぞれが自己価値をしっかり受け入れた二人がコミュニケーションする場合はとても楽でオープンな関係になります。反対に、もし二人とも自己価値を受け入れていない場合はどこまでいっても、幻想の(思考で作りだした)コミュニケーションにしかなりません。私には月に1、2度、一緒にご飯を食べに行く友人がいて彼女はずっと毎月1回は、私のセッションを受けに来てくれているのですが価値判断もしないし、自己価値もきちんと認めているので一緒にいて、とても楽です。これを話したら相手がどう思うだろうとかなどとは考えないので、何でも話せるしここで断ったら悪いなどと考えることもないので、無理もしないしそれでいてお互いをリスペクトし合えているのでとても心地いいのです。ちなみに、念のために書いておくとこういうコミュニケーションの内容を読んで、私のセッションを受けられた方の中には「のりこさん、私のことを書いているんじゃないかしら?』なんて思う方もいらっしゃるかもしれませんが(たまに、そういう風に言われる方がいらっしゃるので)率直に言うと、10人のうち9人は幻想のコミュニケーションをやっていると言っても過言ではなくて私はほぼ毎日のように、それを何らかの形で見ているので誰がどうだったか、などというのはほとんど覚えていないし、私にとっては意味がないことなのです。今日も、原始反射が残っているために「起こってもいないことをあれこれ考えてしまう」という特質を持っていた方がいて私が「多くの人は、起こってもいないことをあれこれ考えているものだしもしかすると相手の方もそうかもしれませんね」とお伝えしたら「え〜私だけでないんだ〜」とびっくりされていましたが原始反射なんて、ほとんどの人が残っているわけですから人間関係やコミュニケーションに問題があったりスムーズにいかない人が多くても当たり前なのです。自分の意識が変われば、人とのつきあい方も自己表現の仕方も変化してゆきます。相手を変えようとしないこと。変えることができるのは自分自身だけですしそれは、いくらでも無限に変化させることができます。そして、本当の意味での自己価値を受け入れ受け入れられているという安心感を持った時に幻想から抜けることができるのです。インラケチ
2013年03月08日
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