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2022.12.23
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カテゴリ: 歴史の探索


大きな礎石が並び、
金堂跡とされる区域に建つお社。この辺りで、 聖武が 大仏の芯柱の綱を引いたという =滋賀県甲賀市信楽黄瀬の史跡紫香楽宮跡(寺院跡)
​
大仏建立の跡、 地中に眠る! ​​
​​ ​​ ◆ ​​​ ​ 民衆の自発的参加、行基ら協力 ​ ​ ​ 紫香楽宮駅に近い雑木林の中、 内裏野地区に現存する 国分寺遺跡( 史跡 紫香楽宮<寺院> 跡) 。参道らしき坂道の手前に立つ説明板に、聖武天皇の「大仏建立の詔(ミコトノリ)」が掲げられていた。​​​


​ ​要約すれば、「国じゅうの銅を集めて 盧遮那仏 (ルシャナブツ)を鋳造し、大きな山に安置する。知識に協力してもらい、皆で菩薩の境地に至りたい。富と権力を持つ私が造るのは容易だが、それでは意味がない。一枝の草、一握りの土でもいいので、参加してもらいたい」といった内容。 ​​

​​ 「知識」とは、仏教用語。対等な立場でともに仏に帰依(キエ)する人々、その行動や労力、財産などを言うそうだ。当時の河内国に 智識寺 という寺院があり、そこでは、そうした人々によって寺や本尊の盧遮那仏が造られていた。 ​​

​​ 官営の寺院や有力豪族らの氏寺しか知られていなかったとされる時代。そのどちらでもない民衆自身による自発的な寺や仏像の造営が実践されていたのだ。 ​​

​ ​立ち寄った聖武は感動し、知識寺の方式から国家の力に拠らない大仏建立を発起したと、『続日本紀』は伝える。天平12(740)年。年末には恭仁京へ遷都する年の2月だった。
​​
​ ​このとき聖武は即位して16年。相次ぐ天災や疫病に政情不安。長屋王の変でも自覚させられた自らの血統の問題。それでもその2年前、娘を前代未聞の女性皇太子に立てていた。 ​​

​ ​娘の将来と皇統への不安を克服するには、それまでの国家や血統には頼らない何かが必要だった。それが、智識寺の盧遮那仏だった可能性は十分考えられる。詔の趣旨からも、国の中枢がある平城京からの離脱、即ち遷都は必然だったのではないか。 ​​

​ ​しかし聖武の一大プロジェクトは、財政難による恭仁京の建設停止、紫香楽宮反対派の放火らしい山火事の頻発などのため、平城京への撤収を余儀なくされる。 ​​

​ ​   ◆◆ ◆◆ ◆◆ ​


国分寺金堂の入り口となる中門の遺構 ​
= 滋賀県甲賀市信楽黄瀬
​​説明板のあった入り口から、 参道の緩やかな坂と階段を上ると、 木立の中に南北に並ぶ形で いくつかの平地の区画が現れてきた。それぞれ 異なる 配置の 礎石があり 、中門や金堂、講堂、僧坊などと小さな石柱で示されている。金堂跡には小ぶりの社が建つ。
​ ​​​ ​​ ​  "仏都構想"、いまだ幻? ​
​ ​◆見えない遺構、「 地中に 痕跡はある」 ​​  場所は、宮町地区の宮殿跡から南へ約2kmの丘陵地頂上付近 ​ ​。「宮殿からの方角や高台の地形など、 大仏の伽藍が計画されたのは 、この場所しか考えられない」と甲賀市教委 歴史文化財課で担当の Kさんは断言する。
甲賀寺跡だとすれば、民間仏教指導者の行基らが協力して土木工事に参加したのも
、 聖武 自らが 体骨柱(芯柱)の 綱を引いたのも この一角 になる。
​​
​ しかし目に見えない、そんな遺跡が今も本当に残っているのだろうか。仮にここが甲賀寺跡だったとして、廃都された後に国分寺が建てられた際、人々に遺跡を保護する意識があったとも思えない。​
​ 遺跡は無造作に破壊され、跡形もなく消えたという心配はないのか。通りすがりの一素人の疑問に過ぎないが、内裏野地区を直接調査してきた滋賀県教育委員会に尋ねた。​
​ 「もちろん掘ってみないと分からないが、当時はブルドーザーのような重機はない時代。柱や礎石を抜いて土砂で埋めたとしても、その痕跡は残る。それが並んでいれば、並び方から建物の性格も分かる」と文化財保護課の担当者Fさん。ただし、そこに甲賀寺があったとすればの話ですが、との断りつきだ。しかし「あったと考えている」。 ​​

​​ 現在の地表面に残る礎石などの遺構も文化的に貴重な国史跡。やたらと掘り返すわけにはいかない。最近になって、大仏の体骨柱に絞って痕跡などを調査をしたが、今のところ分かっていないという。 ​​

​ ​それでも最近はネット上に紫香楽宮ファンのサイトもでき、情報発信が盛んだ。地中に埋もれた大仏建立事業のナゾがファンを惹きつけるのかも知れない。 ​​

​ ​ ​  ◆◆ ◆◆ ◆◆ ​ ​​

​ ​ ◆ 天皇、大仏 に北面し" 三宝の奴 "に 恭仁京遷都からの取り組みは、結局すごろくのように、ふり出しの奈良・平城京に戻りながら、大仏造立事業は完結したように見える。聖武のめざしたものは、大仏とともに達成されたのだろうか。 ​​

紫香楽宮から事業が受け継がれ、完成した奈良・東大寺の大仏•盧舎那仏
​​​​

​ ​史書によれば、聖武は天平勝宝元(749)年に娘の 孝謙天皇 に譲位。東大寺に安置した盧舎那仏を前に、臣下としての「 北面」の 形を取り、仏のしもべを意味する「三宝の奴(ヤッコ)」を自称する。さらに、「王を奴と成すとも、奴を王と云ふとも汝の為(セ)むままに(王と臣下を自由に代えていい)」とも伝えたとされる。 ​​

​ ​聖武の言葉は、皇位で血統にはこだわらない姿勢とも取れる。孝謙は、後に自ら譲位した数年後、淳仁天皇を廃位させる際の詔に父の言葉を盛り込む。また嫡子のいない自身の皇位継承を巡る 僧侶•道鏡の問題 では、それを受けた言動もあり、失敗する。
​​ ​​ 血統克服へ、その途絶も​? ​​ 大仏建立事業は、聖武が自らの血統の欠陥を克服しようとして試みた宗教政策だったともみられている。それは、 20年がかりで 招致した唐僧・ 鑑真からの受戒や、 中国女帝・則天武后の仏教政策の援用 など念入りなものだった。
だが 聖武の 死後、 遺詔による孝謙の後継指名 は覆り、 天武天皇以来の皇統は娘の代で 途絶える。"彷徨"を否定しきれない結末のようにも見えるが、自ら
を 盧舎那仏 の臣下のように ​ ​​​位置づけて 皇統を相対的にとらえた 聖武には、 もはや想定•容認の範囲内のことだったようにも思える。
​​​ ​ ​​《 ➄ ⇚ 》​​​ ​  ➅ =完 ​ ​ ⇒ ​❶​ ​​ ​ ​​​​


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最終更新日  2023.05.12 17:43:30
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