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◆家持、越中守へ転出のわけは? 中将姫は史料で名前も確認されない伝説上の人物。だが同時代でその父・豊成をはじめ物語に登場する仲麻呂、家持は 実在し、 『続日本紀』などに特筆される存在だ 。

家持が赴任した越中国の二上山。東峰(二上山、標高274m)と西峯(城山、259m)は、古くは「二神」と呼ばれたとも@富山県高岡市二上
この3人は万葉集によると、天平
18(746)
年正月、大雪で宮中の除雪作業に加わり、一緒に汗を流した官人同士。慰労の酒宴や歌会にも参加している。
一見、宮中の貴族たちののどかな正月風景にも読める。だが 他の記録からは
、このとき内外とも切迫した状況にあったことがうかがえる。
このころ飢饉や疫病、地震が起きており、聖武天皇が恭仁京などへ遷都する
"
謎の彷徨
"
から平城京に戻ったばかり。新羅との関係悪化や、国境管理が手薄な日本海沿岸に唐国を絡めた渤海勢が上陸する動きもあった。
家持が越中守に転出するのは、この年の夏。こうした対外情勢への対応策の一環とみられ、豊成が兼東海道鎮撫使、仲麻呂も兼東山道鎮撫使となる。二上山で家持は花鳥風月を追うだけの毎日ではなかっただろう。

越中国府跡地に立つ勝興寺総門前の大伴家持像。市内の家持像のほとんどが筆を持つ歌人の姿だ@高岡市伏木
古国府
実際、その年の暮れには渤海などから千人以上の集団が許可なく出羽国に上陸する。公式には朝廷が関係国を気遣い穏便に済ませたとされているが、実際はあまり穏やかでもなかった可能性がある。
◆越中・二上山で詠まれた歌は?
渤海勢の出羽国上陸は、夏ごろから噂があったとみられる。そこへ越中に赴任してきた家持が、近況に北辺の印象を含め詠んだと思われる歌が万葉集に収められている。
雁がねは 使に来むと 騒ぐらむ
秋風寒み その川のへに
( 巻一七 3953 雁が使者として来ようと意気込み鳴き騒いでるようだ、秋風寒い川辺では )
雁は外国勢、秋風は大陸から吹く北西風で、日本への渡航で利用される季節風のこと。そうとらえれば、季節の情景に外国勢の動向をしのばせた歌として詠むこともできる
(
『大伴家持の暗号』小林惠子著
)
。
年が明けると、家持は大病をして死にかけたとさえ記している
(
巻一七
3962
注釈
)
。「病」としているが、実際には出羽での戦闘で大けがをして挫折感を強調したとも考えられるという
(
同上
)
。
家持は歌人で高級官僚、また武門の名門・大伴氏の氏の長者という、万葉歌人の中でも稀有な存在だ。世は長屋王の変 (729 年 ) から藤原四家の疫病禍、広嗣の乱、安積親王の変死、橘奈良麻呂の変 (757 年 ) など政争・政変の連続。政権中枢の周辺から、これらを直接見聞きしていた若い家持が翻弄されて当然と言える。
越中と、平城京の朝廷や公卿らとの間で、表面上は山や海の自然をうたう和歌を、情報伝達の手段として活用することは十分あり得たと考えられる。
◆毀誉褒貶の末、謎の空白…
奈良麻呂の変では自身の明確な連座は免れたものの、一族から何人も摘発されて責任を問われ、因幡国守へと
"
左遷
"
される。そして翌
759
年正月、創作活動の筆を折るかのように、万葉集の最後を飾る歌を因幡国庁で詠む。
新しき 年の始 ( はじめ ) の初春の 今日降る雪のいや重 ( し ) け吉事 ( よごと )
( 巻二十 4516 新春に降る雪のように、よいことがもっと積み重なるといい )

越中の冬と家持をイメージしたプロジェクトマッピングの映像@高岡市万葉歴史館の「万葉体験エリア」
このとき家持、まだ 42
歳。 29
歳で越中守に赴任して、 13
年ほど。その後、政敵の失脚で再び出世の道を進むが、長岡京遷都の時期を挟む政争で死後にもかかわらず官位剥奪や財産没収の処罰を受ける。約 20
年後に名誉回復され、一族は苦難から解放される。
毀誉褒貶の極みとも言える波乱万丈の官僚人生である。また因幡での新年の歌から没するまで四半世紀もあったその間の人生で、家持はただの一句も残していない。越中で咲かせた和歌の才能と意欲に、何らかの壁が生じたのか。それとも激しい政争に全ての関心が移ってしまったのか、未だに謎のままだ。
(
完
)
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