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◆「継子いじめもの」の源流か 中将姫の伝説は主人公の優れた才能や容姿、生母の早世、継母の虐めなど話の骨格が大津皇子の悲劇と重なる。後の世に多い「継子いじめ譚(たん)」の源流とも言われる。
大津の場合、
継母は
実母の死後、母の妹だった鵜野皇女 (
後の持統天皇 )
だ。
天武が生前、異母兄弟同士の皇子
6
人を集めた
"
吉野の盟約
"
で草壁皇子を後継者と宣言。その実母である鵜野を各兄弟に
"
共通の母
"だ
と確認させた。しかし大津は、その母に死罪を宣告される。

大津皇子の墓の可能性が高いとされる鳥谷口古墳。約40年前に発掘され、コンクリートや土に覆われている@奈良県葛城市染野
皇子の埋葬地を見ておきたいと考えていたが、それがどこかは、まだ確定していない。
二上山頂に
宮内庁管理の陵墓があるものの、
明治政府が
大伯皇女の
「
二上山を弟背と…
」の歌を参考に
治定
(
公式認定
)し
た場所という。考古学的な根拠はないとされる。
また、一度罪人とされた人物の墓が都から見えそうな山頂にあるのは、当時も考えづらいことだったそうだ。そこで昭和期に中腹で発掘され、地名などから大津皇子の墓の可能性が高いとされる鳥谷口 ( とりたにぐち ) 古墳に向かうことにした。
當麻寺を出て、北方の山麓の集落や蛇行する林道を抜け、 1km 余り。やや大きな溜池で視界が広がると、上の斜面に入り口を格子で塞がれ、山腹に覆われたような墳丘が見えてきた。
下の道から土のままの階段を上ると、古墳の正面に。説明板に、一辺 7m 余の小方墳で、横口式石槨の構造とある。石室と内部が格子越しにのぞける。
石室の 側壁には他の石棺の蓋石の未成品が使用されている。素人目には分からないが、急ごしらえで、何か想定外の状況のため既存材が再利用されたものとみられる。染野という 皇室管理をうかがわせる 地名からも、大津皇子の再葬が十分想定されるという。
墳丘から池越しに葛 󠄀
城市の市街地や奈良盆地が広がる。その中に大和三山の耳成山らしい緑の塊が島のように浮かんでいる。背景に、うっすら三輪山などの山並みも。
「二上山が弟」と
詠んだ大伯皇女に、移葬後の墓は見えたのかどうか。

◇ ◇ ◇
皇子の刑死は、当時の都人にも衝撃的な事件だったに違いない。優れた人物であればなおのこと、怨霊化や祟りへの恐れが人々の間に広がる。後ろめたいことがあった当事者たちには、さぞ深刻だったことだろう。持統天皇が建立にかかわった 薬師寺 の『薬師寺縁起』には、山麓に慰霊の寺社の記述があるという。
◆マニアック「 加守廃寺」の謎 その一つとされる「加守廃寺」を訪ねようとしたが、さすがにカーナビでは見つけにくいマニアックな名称。同乗者の大きめのタブレット検索でも迷っていると、近くの商店で地域の歴史に詳しい初老の男性に出会った。
尋ねると、地元・葛 󠄀 城市議の名刺をいただき、「そこなら遺構は埋めてしまって、今は草ぼうぼう。何も見えないよ」。以前の発掘調査で、「長六角堂」の遺構が見つかってはいるという。

加守廃寺跡。水田の下に、長六角形の建物の遺構が見つかったが、埋め戻され雑草地に@奈良県葛城市加守
場所を教わると、徒歩で 5 分程度だったが、言われた通りの状況。草むらに立つ奈良県教委の掲示板には、「水田跡の下に長六角堂を検出、他に類例を見ない特殊な形で貴重な遺構」といった説明があった。
長六角堂とは、平面が長方形の両側に三角形が張り出したような、細長い形。故人を弔い祀る意味があったとされる。市議は、その長六角堂の礎石が、當麻寺の塔頭に移され今も残る と聞いているという。

遺構の一部が、當麻寺にも残っている? とすれば、皇子の死が當麻寺ともつながるということか。半世紀以上を隔てた中将姫の鎮魂逸話も、あながち空想とは言えない、何らかの出来事があったのかも知れない。
仮に鳥谷口古墳から當麻寺まで、大津皇子の埋葬と移葬、そして手厚い慰霊があったとすれば、謀叛の罪を負う人物の取り扱いではなかった可能性が浮かぶ。
それはすなわち、持統天皇がわが子可愛さのあまり大津皇子に仕掛けた謀略の裏付けとなるのか。が、二上山も古墳も廃寺跡も、イマイチ決め手に欠けていて、何かが分かったようで、よく分からなくなる。
また、皇位継承で草壁皇子と微妙な関係だった大津皇子が、その時期に都を出て伊勢神宮に出向くこと自体の問題も指摘される。皇統で鵜野に劣らない姉との会話が軽視されないこともあるからだ。
積み重ねられた歴史の、読みきれない謎の一つかと。