全444件 (444件中 1-50件目)
*「宇都宮 隆綱」(うつのみや たかつな、寛永4年(1627) ~- 元禄13年(1700))は下野の戦国大名宇都宮氏の嫡流の子孫で、水戸藩家老。宇都宮義綱の子。室は徳川頼房の十二女、梅子(浄雲院)。子に宇都宮宏綱。弥三郎。官位は下野守従五位下。取次役として1000石を賜り、のちに家老、城代となる。元禄3年(1690)10月、家督を子の宏綱に譲り隠居する。元禄13年、74歳で没する *「宇都宮 宏綱」(うつのみや ひろつな、寛文4年(1664)~ - 正徳元年(1711)5月)は下野の戦国大名宇都宮氏の嫡流の子孫で、水戸藩家老。宇都宮隆綱の子。子に宇都宮寿綱。弟に宇都宮陳綱(兵庫、尾羽城之介綱栄、綱英)、尾羽綱利(尾羽平蔵)。経歴、貞享4年(1687)正月、小姓頭列となる。元禄3年(1690)10月家老であった父が致仕し、家督を継いで700石を賜る。そののち、書院番頭、大番頭、大寄合頭を歴任して、宝永4年(1707年)44歳で家老となり、計1000石を給される。 ※「宇都宮氏も一時は一族は隆盛を誇ったが、内紛と周辺大名らに翻弄され、豊臣秀吉に理不尽な改易に没落を余儀なくされた。しかし、嫡流は細々血脈を繋ぎ江戸時代まで残ったらしいが、他の庶流はそれぞれ宇都宮家を受け継ぎ残った。了
2024年03月31日
コメント(0)
参戦武将宇都宮軍宇都宮軍宇都宮尚綱、多功長朝、多功房朝、上三川頼成、薬師寺貞村、薬師寺勝朝、三田綱知、大門資長、大門資忠、蒲生信朝、清水高信、横田五兄弟(横田綱維、横田維業、横田弥業、横田茂業、横田業通)、今泉泰高、今泉泰光、河田安盛、小倉盛長、長山通兄、吉田安政[1]、塩原越前守、満川忠親、紀清両党那須軍[編集]那須軍那須高資、芳賀高照、大田原資清、大田原綱清、大関高増、福原資衝、佐久山義隆、芦野資泰、伊王野資宗、千本資俊、興野隆致、稲沢俊吉、鮎ヶ瀬実光佐竹軍荒巻為秀晩年天正4年(1576)8月7日、病のために32歳で死去した。晩年はずっと病床にあったといい、その期間は死が伏せられていた可能性もある。 *「宇都宮 国綱」(うつのみや くにつな)は下野国の戦国大名。天正4年8月7日(1576年)8月30日)、父・広綱の死とともに宇都宮氏22代目を継承する。しかし、年少であったことと父の死に付け込まれて、壬生氏や皆川氏などの国内の反対勢力が活発化したこともあり、後北条氏の侵攻がさらに激化することとなった。これに対し国綱は常陸国の佐竹氏や下総国の結城氏、甲斐国の武田勝頼、さらには豊臣秀吉と手を結んで対抗する。しかし、小田原征伐直前には、鹿沼城、真岡城、壬生城などの周辺諸城が全て北条に寝返っており、国綱は拠点を平城の宇都宮城から山城の多気城に移さざるを得ない状況にまで追い詰められ、施策としては秀吉の出陣を願うのみとなっていた。天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐に参陣、石田三成の指揮した忍城攻撃などに参加し、下野国18万石の所領を安堵された。 その後は秀吉に従い、文禄の役にも参陣している。また、秀吉の力を背景に家中の統制を強め[1]、文禄3年(1594)には豊臣姓を下賜された。しかし慶長2年10月13日(1597)11月22日)、突如として秀吉の命により改易された。これには諸説あるが、宇都宮興廃記によれば、国綱には継嗣が無かったため、五奉行である浅野長政の三男・長重を養子として迎えようとしたが、国綱の弟である芳賀高武がこれに猛反対し、縁組を進めていた国綱側近の今泉高光を殺害してしまった。長政がそれを恨みに思ったため、その讒言により改易されたとしている。傍証として、慶長2年10月7日の佐竹義宣から父・義重に宛てた書状がある。そこには、宇都宮氏を与力大名とし、姻戚関係もある佐竹氏にも改易命令が出されたが石田三成の取りなしによって免れたことや、「上洛して一刻も早く秀吉に挨拶すべきだが、浅野弾正の検使が宇都宮領の調査に向かっているので、それに覚られないように密かに上洛するように」という三成から指示を受けたことが書かれている。このことからも、宇都宮氏の改易に浅野長政の関与があったことが窺える。他に、太閤検地に際して結果が秀吉が安堵した18万石ではなくその倍以上であった、という石高詐称によるものという説もある。更に国綱と今泉ら側近が進めてきた家中の統制強化に長年にわたって宇都宮氏の実権を握ってきた門閥重臣を代表する芳賀氏が反発し、門閥対側近による合戦に至ったことが原因とする説もある。その後、国綱は宇都宮を追放されて備前国の宇喜多秀家の下に預けられた。秀吉から「朝鮮での戦功次第では再興を許す」との言を受け、宇都宮氏を再興すべく慶長の役にも参陣し、順天城の戦いで武功を立てた[5]。しかし、秀吉の死により再興はかなわなかった。その後、諸国を流浪し、慶長12年(1607年)に江戸浅草の石浜で失意のうちに病死したと言われている。享年40歳。息子の義綱は成人後、水戸藩士となった。国綱の妻・小少将は徳川和子の乳母となり、和子入内に従って上京した。 *「宇都宮 義綱」(うつのみや よしつな、慶長3年(1598) - 寛文4年4月2日(1664)4月27日)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士。宇都宮国綱の嫡男。母は佐竹義重の養女(佐竹義久の娘)。弥三郎。子に宇都宮隆綱、板倉重大(板倉勝重三男)室。下野国の大名であった父の国綱は、豊臣秀吉の命により突如改易され備前国の宇喜多秀家預かりとなった。その後、秀吉から「朝鮮での戦功次第では再興を許す」との言を受け、宇都宮氏を再興すべく慶長の役にも参陣したが、秀吉の死により再興はかなわなかった。諸国を流浪の末に江戸浅草の石浜で病死した。義綱は、成人したのちの寛永年間に召しだされ、水戸藩家臣となり、高家格百人扶持を賜った。家督は隆綱が継ぎ、1000石を賜り、子孫は明治維新まで水戸藩に仕えた。
2024年03月31日
コメント(0)
そして下野各地を侵攻し、統一に乗り出す。大永の内訌から始まった宇都宮氏の衰退はピークを迎え、滅亡の危機に晒された。当時、広綱は5歳という幼少であったため、家臣の芳賀高定に守られて宇都宮城を落ち延び、真岡城にて高定の補佐を受けて育つ。2年後の天文20年(1551)、芳賀高定が謀略を駆使して父の仇である那須高資を殺害。弘治元年(1555)には、高定が反抗的な家臣芳賀高照を真岡城へ誘い出して暗殺。さらに同年、宇都宮城を占領していた壬生綱房が急死したが、綱房の嫡子の壬生綱雄が新たに宇都宮城主になっている。この間も壬生氏による激しい侵攻が続いており、祖母井城、八ツ木城などが落とされている。その後、高定の尽力によって勢力を徐々に盛り返し、外交手腕によって北条氏康を味方につけ、弘治3年(1557)、氏康の命で広綱・高定を支援するために佐竹義昭が5000騎の兵を連れて下野に出陣し、飛山城に在陣したという。芳賀高定の尽力によって宇都宮城は広綱の手に戻り、滅亡を回避することができた。永禄元年(1558)には越後上杉勢が下野に侵攻してきたが、家臣の多功長朝の奮闘によって撃退に成功している。上杉謙信との同盟その後、家臣の芳賀高定の外交手腕によって佐竹義昭の娘南呂院を妻に迎えており、強固な同盟関係が築かれた。広綱は上杉謙信と同盟を結んで関東制覇を目指す後北条氏やその北条氏よりの諸大名と徹底して対立する。永禄7年(1564)には上杉謙信、佐竹義重と共に北条方の小田城主・小田氏治を小田城の戦いで敗走させている。皆川俊宗の乱広綱は生来病弱であり、元亀3年には花押も押せないほどにまで病状が悪化していた。宇都宮氏の重臣皆川俊宗はこの状況を利用して宇都宮城乗っ取りを計画する。武田信玄、北条氏政による甲相同盟の締結によって、下野南部が北条、武田の二大勢力によって脅威に晒されることになったことが俊宗による宇都宮城乗っ取りが起こった主な原因である。元亀3年(1527)1月14日の夜、上杉謙信との外交を任されていた宇都宮氏の筆頭重臣岡本宗慶が俊宗によって暗殺され、その翌日、宇都宮城は皆川氏によって占拠された。占拠されてから約1年間の間は皆川俊宗が宇都宮氏の主導権を握っており、俊宗は徐々に後北条氏寄りの立場を取るようになる。このために一時的だが、宇都宮氏は北条氏に屈した形となった。元亀4年(1573)には同盟国の佐竹義重らとともに、皆川氏討伐を行っている。「喜連川五月女坂の戦い」(きつれがわそうとめざかのたたかい)とは天文18年(1549)9月17日下野国喜連川及び五月女坂で行われた合戦。別名・喜連川早乙女坂の戦い、早乙女坂の戦いなど。戦国大名宇都宮俊綱は、天文の内訌を克服し、芳賀高定を芳賀氏に送り込むなどで家中の安定化に一応の成功を収めた。しかし、新たな問題も発生しており、結城氏家臣水谷正村による宇都宮攻めによって家臣の中村玄角や八木岡貞家を失う。天文の内訌が原因で、壬生綱房の台頭することを許し、また一族の武茂氏・松野氏が佐竹氏に、塩谷氏が那須氏にそれぞれ離反しており、宇都宮氏の統制から離れつつあった。そのため俊綱は勢力の回復を図っていた。一方、戦国大名那須高資は宇都宮侵攻の野心を抱き、天文の内訌後に白河に逃れていた芳賀高経の子芳賀高照を誘引し、宇都宮攻めの大義名分を得る。天文18年(1549)9月17日に高資は300騎の軍勢を率いて宇都宮領に侵攻した。このため尚綱は古河公方足利晴氏の下知を受け2500騎の軍勢を率いて喜連川に出陣してその地で戦った。最初は兵の勝る宇都宮軍が圧倒的優勢だったため、那須高資は五月女坂に伏せておいた伏兵を使い、宇都宮軍を混乱させ、形勢は逆転した。状況を打破しようと宇都宮家臣の多功長朝や笠間家臣の満川忠親や横田氏の横田五兄弟らが奮闘し、那須軍の侵攻を食い止めるが、満川忠親、横田五兄弟は討ち取られた。天文18年9月17日(1549年)9月7日)、宇都宮尚綱は混乱を鎮め、自軍を統制するために前線に出たが、そこを伊王野資宗の家臣である鮎ヶ瀬実光に射抜かれて絶命し、合戦は那須高資率いる那須軍の勝利で終わった。戦後宇都宮尚綱が討死すると、宇都宮氏の宿老壬生綱房が下克上を果たし、宇都宮城を占拠してしまう。城内にいた幼い伊勢寿丸(宇都宮広綱)は芳賀高定に連れられて真岡城に逃れた。宇都宮城主となった壬生綱房は芳賀高照を迎え入れ、傀儡として利用し、実権を掌握。塩谷義孝ら宇都宮氏の重臣達も綱房に従わざるを得なかった。 那須高資も壬生綱房と結び、宇都宮氏は滅亡の危機に晒されることとなった。
2024年03月31日
コメント(0)
一方、壬生綱房や永山忠好は宇都宮忠綱に与して家臣団は二つに分裂してしまった。こうした宇都宮・壬生氏対芳賀・塩谷氏といった対立構図は天文の内訌でも再び起こっている。猿山合戦(さるやまかっせん)とは大永3年(1523)8月に下野国で行われた合戦。宇都宮氏と結城氏は宇都宮成綱が姉を結城政朝に嫁がせて同盟を結んでおり、15世紀初頭に勃発した永正の乱では両者共に足利高基の古河公方擁立を目論み、竹林の戦いで共闘するなど良好な関係を維持してきた。しかし、成綱が没し、宇都宮忠綱が当主となると関係は大きく変わってしまった。両勢力の境界付近にある『中村十二郷』は永享12年(1440)の結城合戦により宇都宮氏が所有し、その最前線の中村城には闘将と謳われる中村玄角を配置していた。この『中村十二郷』を巡って両者の対立は激化した。当時の宇都宮氏は成綱の活躍により、古河公方の威光も手中に収め、北関東で最も力のある勢力にまでなっていた。忠綱はさらなる躍進を狙い、強硬な家中支配の強化などを行ったが、それが家臣らの不満となり芳賀高経、笠間氏などが忠綱と対立するようになる。結城政朝は、そうした当時の宇都宮氏の政情を利用し、芳賀高経らに加担し分裂を促すなどして弱体化を図った。大永3年(1523)8月、結城政朝は宇都宮領に侵攻し、宇都宮忠綱は猿山で迎え撃った。境界付近にある『中村十二郷』の中村城は中村玄角が守り切るも猿山の合戦では結城氏が勝利し、宇都宮一門の今泉盛高が討たれるなど宇都宮氏が大敗し結城氏は旧領の回復を果たした。宇都宮忠綱は宇都宮城に撤退したが、芳賀高経ら反忠綱の家臣が成綱の末子でまだ幼い宇都宮興綱を擁して叛乱を起こし、忠綱の帰城を妨害した。忠綱は芳賀氏らと対立している重臣の壬生綱房を頼り鹿沼城へと逃れた。忠綱は綱房の保護下で再起を図るが、うまくいかないまま没してしまう。宇都宮家臣団は興綱を傀儡として利用し、その結果、芳賀氏や壬生氏の増長が著しくなり、近隣勢力に大きく後れを取ることになった。 一方結城氏は勢いのあった宇都宮氏を潰すことに成功し、また、数年後には、小山氏に一族を送り込むことに成功するなどその影響力は北関東随一となり、全盛期を迎えることとなった。鹿沼城から再起を図る宇都宮城から追放された忠綱は、重臣の壬生綱房を頼り鹿沼城へ逃れた。忠綱派の家臣団は忠綱が追放されると永山忠好のように国外へ逃亡したり、壬生氏のように反忠綱派に徹底抗戦するなど忠綱追放は周囲に深刻な影響を及ぼした。大永3年から4年に渡り、宇都宮領内やその周辺で激しい合戦が何度もあったとされ、忠綱派の家臣と反忠綱派の家臣が激しく争っていた。忠綱は鹿沼を拠点とし、古河公方足利高基と頻繁に連絡を行い宇都宮城への帰城を目指したが叶わず大永7年7月16日(1527)に忠綱は没した。一説によると忠綱派の一角だった壬生綱房が忠綱を見限り、反忠綱派と通じて謀殺したという。忠綱の死により内訌は収束した。 「宇都宮 尚綱」(うつのみや ひさつな、永正10年(1513) - 天文18年(1549)9月17日(は、戦国時代の下野国の大名。宇都宮氏20代当主。結城政朝の娘を妻とした。初名は俊綱。初め、僧となるために宇都宮氏ゆかりの慈心院(宇都宮二荒山神社の神宮寺)に入っていたが、天文年間初めに宇都宮興綱が芳賀高経によって幽閉された後に還俗してその家督を継いで宇都宮氏20代当主となる。この頃になると宿老・壬生綱房の専横がさらに目立つようになる。天文8年(1539年)、結城氏・小山氏と結ぶ高経を壬生綱房とともに討ち、家中を掌握する。その後、尚綱は芳賀高照(高経の子)を追放して芳賀高定を送り込み、積極的な勢力拡大に乗り出したが、天文18年(1549年)9月17日、喜連川五月女坂の戦いにおいて、2千を率いて那須高資を攻めるが敗れて戦死した。那須軍の奇襲を受けて動揺する自軍を統制しようと前線に出たところを那須氏家臣鮎ヶ瀬実光に射抜かれて絶命したという。享年37歳。後継者の宇都宮広綱は5歳と幼く、壬生綱房に宇都宮城を奪われ、綱房や芳賀高照・塩谷義孝ら重臣団が宇都宮氏の実権を掌握する。広綱は芳賀高定に伴われ真岡城に逃亡し、宇都宮氏は一時宇都宮城を失った形となった。 「宇都宮 広綱」(うつのみや ひろつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての下野国の大名。宇都宮氏21代当主。宇都宮尚綱の子。母は結城政朝の娘。幼名は伊勢寿丸。正室は佐竹義昭の娘・南呂院。子に宇都宮国綱・結城朝勝・芳賀高武。誕生天文14年(1545)に誕生。戦国時代、下野国は伊勢信仰が流行しており、その影響を強く受けていたためか、幼名は伊勢寿丸である。宇都宮氏滅亡の危機天文18年(1549)、父・尚綱が喜連川五月女坂の戦いで敗死すると、宿老・壬生綱房が野心を剥き出しにし、宇都宮城を乗っ取ってしまう。綱房は芳賀高経の子芳賀高照を傀儡として利用するために当主として迎え入れ、塩谷氏などの宇都宮重臣らを従え、広綱に敵対する。
2024年03月31日
コメント(0)
11、「宇都宮家滅亡への道」「宇都宮 興綱」(うつのみや おきつな)は日本の戦国時代の武将で、下野の宇都宮氏第19代当主。出自宇都宮興綱の出自については、大きく三つの説に分かれる。従来の説では、第16代当主宇都宮正綱の子で俊綱(尚綱)の父、享年61歳とされている(宇都宮正綱次男説)。下野国誌を始めとして、数多くの文献や古典は、これを通説として書かれている。しかし、一方で宇都宮氏の系譜には忠綱・俊綱(尚綱)・興綱を兄弟とするものも存在している[3]。この宇都宮成綱三男説を裏付けるものとして1524年に古河公方足利高基から上総武田氏一族の長南三河守に充てた書状に「宇都宮事、名代若輩故、しかゞゝ共無之様候之間」と記され、当時の当主であった忠綱に代わって“若輩の名代(当主代行)”が擁立されたことが判明する。忠綱が当主を追放されて以降、興綱以外の人物が擁立された事実を示す史料もないことから、当時の興綱が少年であったことを示している。また、最初は芳賀氏の養子となって同氏を継いでいたと言われているが、これについても否定的な説もある。但し、興綱については忠綱の子であるとする説(宇都宮忠綱子息説)もあり、それを裏付ける文献もいくつか存在している。宇都宮成綱次男説あるいは宇都宮忠綱子息説の場合の興綱の享年は23歳である。日光輪王寺の常行堂大過去帳には、興綱の享年が61歳1と記されており、これに基づいて法要が行われていた事、さらに那須記等においても興綱を成綱の弟と明記している事、秋田塩谷系譜では孝綱を四男と明記している事など、通説通り興綱を正綱の子とする証拠が多々あり、これら事情から宇都宮正綱次男説が未だ有力とされているが、興綱については、正綱、成綱、忠綱の誰の子とするかは、いずれも決定的な確証がなく未だに議論が絶えないのが実状である。事績1523年、結城政朝が猿山合戦で宇都宮忠綱を破って宇都宮城から放逐した際に、忠綱の圧政に不満を抱いた芳賀高経ら反忠綱派の家臣と図って擁立された(大永の内訌)。だが、興綱が成人して独自の行動を取るようになると芳賀高経、壬生綱房と対立するようになり、やがてその争いに敗れた興綱は隠居を余儀なくされ、その後に自害した。「大永の内訌」(だいえいのないこう)は、戦国時代初期の大永年間に起こった下野宇都宮氏18代当主の宇都宮忠綱と芳賀高経ら芳賀氏を中心とした家臣団との対立で起こった下野宇都宮氏の内訌である。背景文明9年(1477)に下野宇都宮氏17代当主となった宇都宮成綱は家臣団の再編を行い宇都宮錯乱、永正の内訌といった大きな内紛の克服を成し、古河府の内紛に介入し娘婿の足利高基を次期古河公方へ擁立、積極的な軍事行動と周辺勢力との婚姻外交などを駆使して急激な勢力拡大に成功。没落しつつあった下野宇都宮氏の中興の祖となり、佐竹義舜ら周辺勢力の連合軍を竹林の戦い・縄釣りの戦いで破るなど北関東の覇権を制したも同然だった。その勢威は下野国、常陸国、下総国に及び足利高基、結城政朝、那須資親、小田成治・政治父子などを従え大きな洞を形成しさらなる躍進を狙うが、成綱は永正13年(1516)に病に倒れこの世を去った。宇都宮成綱死没前後を境に周辺勢力の関係は大きく変化した。上那須氏の那須資親は永正の乱(足利政氏・高基父子の対立)では成綱とともに高基派であったが、永正11年(1514)には資親が没し後継者争いが勃発し結果滅亡した。成綱は宇都宮一族の者を継がせ再興を図ったが那須資房による上下那須氏の統一により叶わなかった。結城氏の結城政朝は成綱死没後に宇都宮領となっている旧領中村十二郷の奪還を目論むようになり宇都宮氏と敵対関係になるといったような宇都宮成綱が没したことで不穏な空気が迫りつつあった。一方、敵対関係だった佐竹氏は佐竹義舜が永正14年(1517)に没し、子の佐竹義篤が当主になっており、後に関東南部で急激に勢力拡大している北条氏綱を危惧していた小田政治と同盟を結んでいる。宇都宮忠綱と家臣団の対立永正9年(1512)に父成綱の策で下野宇都宮氏18代当主となった宇都宮忠綱は永正13年(1516)に実権を握っていた父が病没したことで名実ともに当主となった。忠綱は父の遺志を継ぎ、勢力の拡大や宇都宮家中の支配強化を行っていくが、偉大だった父のようにはうまくいかず、強硬な支配強化に家臣の多くが不満を抱き、忠綱と対立している。この対立は単純に支配強化を巡った対立だけでなく、宇都宮錯乱などで活躍した新興勢力の壬生綱重・綱房父子ら壬生氏の躍進に対しての不満や、宇都宮錯乱以後宇都宮城で逼塞されたままである芳賀高孝、芳賀高経ら芳賀氏の処遇を巡った対立といった側面もあった。芳賀領の統治は忠綱の叔父にあたる宿老の塩谷孝綱が代行していたが、こうした芳賀氏の扱いに塩谷氏の塩谷孝綱、笠間氏の笠間資綱・綱広父子などの宇都宮一門が反発し芳賀氏側に与して忠綱と対立している。
2024年03月31日
コメント(0)
宇都宮成綱の功績戦国時代初期には、第17代当主で、「奇蹟の武人」、「宇都宮氏の中興の祖」と呼ばれ、宇都宮氏の全盛期を築き上げた名将宇都宮成綱が現れた。正綱が陣没したために幼くして家督を相続する。家督相続後、その結果に不満を抱いて叛乱を起こした武茂氏を重臣芳賀高益・芳賀景高の力を借りて鎮圧し、古河公方足利成氏の支援を得て再臣従させる。小山持政が没して混乱している小山氏に対し、幼いながらも成綱はその好機を逃さずすぐさま小山領を攻め込んで勢力版図を拡大。優れた外交手腕を発揮し、古河公方足利成氏の二男で次期関東管領とされている上杉顕実の娘を自らの妻として娶り、更に娘の瑞雲院を次期古河公方足利高基に嫁がせるなど古河公方家や関東管領上杉家との緊密な関係を築いた。その他にも上那須氏当主那須資親や小田氏当主小田成治から娘を妻として娶り、結城氏当主の結城政朝に自分の娘を嫁がせるなど味方を増やし、北関東での支配的地位を磐石なものとした。家臣団も再編し、有力一門の塩谷氏や武茂氏に兄弟を継がせるなど、宇都宮氏当主を頂点とする戦国期宇都宮家中を形成した。宇都宮氏に臣従した者には名前に「綱」の一字を与え、家臣たちとの結束力を高めようとした。永正年間に古河公方家の争いが勃発すると、成綱を頼り宇都宮へ逃れてきた娘婿足利高基を庇護し、高基の古河公方擁立を企てた。高基派には上那須氏、小田氏、結城氏といった成綱との関係が深い勢力が多かった。しかし、筆頭重臣芳賀高勝が足利政氏の支持を表明し成綱と対立した。高勝は成綱を失脚させ、成綱の嫡子忠綱を当主に擁立しようとしたため、成綱は敢えてその策に嵌まり、忠綱に家督を譲り、隠居の身となった。成綱は忠綱に後見人として成綱の弟の塩谷孝綱を付け、忠綱が高勝の傀儡になることを防いだ。成綱は1512年に高勝を殺害すると宇都宮錯乱が勃発、2年かけて鎮圧した。その後は1514年に古河公方足利政氏派の佐竹義舜と岩城氏と下那須氏が2万騎以上の連合軍を率いて下野国へ攻め込んで来て、宇都宮の北東である竹林で両軍は衝突。結城政朝、足利高基らの援軍も駆けつけている。この合戦は政氏派と高基派による事実上の決戦であり、当時の北関東最大規模の合戦となった。合戦は宇都宮勢の勝利となった(竹林の戦い)。この合戦の勝利によって足利高基の古河公方就任は名実ともになり、成綱ら高基派による足利高基の古河公方擁立は成し遂げられた。その2年後の1516年に再び佐竹義舜と岩城氏の連合軍が下野国へ侵攻。成綱は病気で動けなかったため忠綱が成綱の名代で出陣し、連合軍に対して圧勝した。この合戦の勝利の背景には、成綱の策により、竹林の戦い後、那須氏を高基派へ引き入れることに成功したからである(縄釣の戦い)。成綱の代で宇都宮氏の勢力は安定化し、全盛期を迎えた。 10,「宇都宮氏の衰退」成綱の死後、嫡男である18代宇都宮忠綱は強硬な家臣団の支配強化などを行ったために家臣の叛乱を招くことなった。その結果、大永の内訌が勃発してしまい、宇都宮氏当主の権威は大きく失墜し、大きく弱体化することとなる。19代宇都宮興綱、20代宇都宮俊綱の頃は宇都宮氏当主は家臣団の傀儡となっていた。武茂氏や松野氏といった一門も佐竹氏に降伏して離反している。21代宇都宮広綱の時代には、父・宇都宮尚綱が喜連川五月女坂の戦いで那須氏に討ち取られると、宿老壬生綱房・壬生綱雄父子に宇都宮城を乗っ取られ、下克上されてしまう。この窮地を重臣芳賀高定が救い、1557年には北条氏康や佐竹義昭らの協力を得て宇都宮城を奪還することに成功している。その後は、上杉謙信や佐竹義重らとともに、古河府足利氏の弱体化に伴って関東に台頭した北条氏と対峙した。広綱は佐竹義昭の娘・南呂院を娶り、佐竹氏との関係を強化した。22代宇都宮国綱は防衛に向かない宇都宮城を家臣へ任せ、過激化する北条氏や壬生氏、那須氏、皆川氏の攻撃に耐えられるよう、多気山城を北関東最大規模の山城へと改修し、そこを新たな本拠とした。豊臣政権期以降天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻撃で小田原征伐で北条氏が失墜し、宇都宮氏は下野国18万石の所領を維持した。国綱は1592年の朝鮮出兵にも参陣し、帰還後は豊臣姓を賜り従五位下に任じられたが、1597年、突然改易され備前国配流となり、1608年に江戸浅草の石浜で失意のうちに病死する。これにより、22代・500年に亘って繁栄した関東の名門・宇都宮氏は歴史の表舞台から去ることとなった。改易の理由は、太閤検地の為に派遣された浅野長政に石高不正を訴えられたことや、浅野長政の次男・長重と宇都宮家の養子話のこじれがあった等と言われている。さらに関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に組するのを国綱が拒んだため、大坂の陣による豊臣政権崩壊後も家名の再興は認められなかった。国綱の子、宇都宮義綱は水戸藩・徳川頼房に仕え、子の宇都宮隆綱は家老に取り立てられた。以降、子孫は水戸藩士として江戸時代を過ごし、明治維新を迎えた。
2024年03月31日
コメント(0)
縄釣の戦い永正11年(1514)の竹林の戦いで佐竹義舜・岩城由隆勢に勝利してから2年後の永正13年(1516)6月、常陸国の戦国大名佐竹義舜は再び陸奥国の戦国大名岩城由隆とともに大軍を率いて下野国に侵攻。成綱は病による病状があまりよくなかったため嫡子の忠綱を名代として出陣させ、佐竹義舜・岩城由隆勢と下野国上那須庄浄法寺縄釣で対峙し、一戦した。結果は大勝で佐竹義舜・岩城由隆勢は撤退。宇都宮勢はそのまま追撃し、下野国武茂庄で一戦し勝利、さらには常陸国の月居まで侵攻して佐竹義舜・岩城由隆勢に壊滅的な被害を与えた。宇都宮忠綱の近臣である永山忠好の文書から、この合戦で佐竹方の城や砦を多数落としたことが判明している。この合戦で足利政氏の敗北は決定的になり、足利高基は名実ともに古河公方となった。これによって高基の義父である成綱や義兄弟である忠綱の権威も相対的に強化され、北関東一の確固たる地位を獲得した。また、佐竹氏との覇権争いに勝利し、宇都宮氏は当時の関東の中で強い影響力を持つようになり、この頃の宇都宮氏は北関東随一の勢力となった。実質的に成綱は北関東の覇者たる存在となった。この合戦によって佐竹・岩城両氏は多大な被害をうけた。武茂の合戦両軍は下野国武茂庄 (栃木県那珂川町) で再び対峙、ここでも一戦している。この地は宇都宮領であり宇都宮一門の武茂氏の管轄地であり、当主の武茂兼綱は宇都宮成綱の弟である。佐竹・岩城連合軍はこの地でも宇都宮成綱率いる宇都宮軍の勝利となり、佐竹義舜・岩城由隆らは再び撤退。月居の合戦敗走する佐竹・岩城連合軍を、宇都宮軍はさらに追撃し、常陸国月居 (茨城県大子町袋田)で再び対峙。ここで一戦し、ようやく佐竹義舜・岩城由隆は宇都宮成綱による苛烈な追撃から逃れることができた。宇都宮軍はこの戦い後、追撃をやめて下野国へ引き上げている。この合戦は下野宇都宮氏の大勝で終わった。宇都宮軍は、5000もの首級を挙げたという。佐竹・岩城両氏は壊滅的な被害を受けた。宇都宮軍の追撃宇都宮成綱は撤退する佐竹義舜・岩城由隆を良しとせず上那須庄浄法寺縄釣から佐竹・岩城連合軍を追撃している。武茂の合戦両軍は下野国武茂庄 (栃木県那珂川町) で再び対峙、ここでも一戦している。この地は宇都宮領であり宇都宮一門の武茂氏の管轄地であり、当主の武茂兼綱は宇都宮成綱の弟である。佐竹・岩城連合軍はこの地でも宇都宮成綱率いる宇都宮軍の勝利となり、佐竹義舜・岩城由隆らは再び撤退。依上の合戦成綱は佐竹・岩城両氏を滅ぼすために、さらなる追撃をかけた。宇都宮成綱・忠綱父子は八溝山地を越え、このまま常陸国に侵攻し、両軍は常陸国依上保で対峙。ここで一戦している。依上保は元々は白河結城氏の領地であったが、永正7年 (1509) の永正の変以降は、佐竹義舜が侵攻し、佐竹領となっていた。この地でも宇都宮軍が勝利し、佐竹・岩城連合軍は敗北し、撤退している。合戦後の影響佐竹義舜・岩城由隆は永正11年(1514)の竹林の戦いに続き、この合戦でも敗北してしまったために政氏派の武将はさらに劣勢になった。さらに小山氏が高基派に寝返ったことによって、足利高基は名実ともに古河公方となり、高基の義父である下野宇都宮氏の宇都宮成綱の権威も相対的に強化されている。これによって覇権争いに勝利した下野宇都宮氏の勢力は全盛期を迎えることになり、さらなる飛躍の可能性があったが、永正13年11月8日(1516)12月1日)に宇都宮成綱が没し、さらにその翌年の永正14年3月13日(1517)4月3日)には佐竹義舜が没した。これらの出来事によって結城政朝による下野国侵攻など北関東の情勢も大きく変わることになった。金砂城の戦い(かなさじょうのたたかい)とは、治承4年11月4日(1180)11月22日)、常陸国金砂城(現茨城県常陸太田市金砂郷地区)における源頼朝率いる軍と常陸佐竹氏との戦いである。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱のうちの一つ。治承4年(1180)10月、富士川の戦いに勝利した源頼朝は敗走する平家を追撃すべしと命じるが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄らが、まず佐竹氏を討つべきと主張した。その意見を取り入れた頼朝は平家追撃を諦め佐竹討伐に向かうことにする。10月27日、頼朝は軍勢を引き連れ佐竹氏のいる常陸に向かって出発する。この日は頼朝の衰日(陰陽道で行動に支障があるとされる日)にあたり、周囲は出発に反対したが、頼朝は「27日こそ以仁王の令旨が到着した吉日である」として反対を押し切って出陣した。11月4日、頼朝は常陸国府に入る。そこで軍議が開かれた。まず、上総広常が、縁者である佐竹家の嫡男・佐竹義政を矢立橋に誘い出し誅殺した。
2024年03月31日
コメント(0)
竹林の戦い永正11年(1514) 7月頃に、古河公方家の内紛で足利政氏を支持していた芳賀氏が、宇都宮錯乱を経て足利高基を支持していた宇都宮成綱・忠綱の支配体制に取り込まれることによって、当時祇園城に移座していた足利政氏の背後の守りがなくなった。これに危機感を覚えた古河公方足利政氏は、佐竹氏・岩城氏に参陣要請を出し、それに応じた佐竹義舜・岩城由隆・佐竹氏と同盟関係であった那須氏の那須資房は永正11年7月29日に出陣し、2万もの大軍を率いて下野国に侵攻。同時に、宇都宮氏と佐竹氏による北関東の覇権を巡っての争いの1つでもあった。それに対し嫡子の宇都宮忠綱が成綱の名代として出陣。17歳という若さで総大将を任された。忠綱は佐竹・岩城勢と那須口で対峙し、一戦している。那須氏は足利政氏を支持しており、佐竹氏と同盟関係を結んでいたためにここでの合戦は宇都宮勢にとって不利だった。ここで忠綱は敗北し、宇都宮に撤退。佐竹義舜・岩城由隆は撤退する忠綱に追撃をかけた。下野国宇都宮竹林で両氏は再び対峙した。成綱も援軍として駆けつけており、同盟関係の結城氏の結城政朝・山川朝貞・水谷勝之などの援軍によって撃退に成功している。また、同じ時期に裳原(茂原)の戦いで成綱は足利政氏派と戦っている。竹林の戦いの後、成綱は、調略を行い政氏派である那須氏の那須資房を高基派へと引き込み、佐竹氏・岩城氏らとの同盟関係を絶たせて、宇都宮氏と同盟を結ばせている。この同盟が、縄釣の合戦で大いに機能した。合戦以前の情勢下野宇都宮氏15世紀末、下野国では下野国守護の宇都宮成綱は室町時代に起こった小栗満重の乱、永享の乱、享徳の乱などの争いで没落した下野宇都宮氏を立て直すために積極的に周辺地域を侵攻し、勢力を拡大。また、外交も巧みに活用し、古河公方足利政氏の子高基に娘の瑞雲院を嫁がせ、姉の玉隣慶珎大姉を結城氏の結城政朝に嫁がせ、また、初代古河公方足利成氏の孫娘である上杉顕実の娘を自らの妻としたりなど、周辺勢力間で有利になろうとしていた。父・宇都宮正綱の代に自立的だった塩谷氏、笠間氏、上三川氏、壬生氏などの宇都宮一族が従属性を強め、宇都宮一族の庶流や芳賀氏、益子氏などが直臣化している。これによって宇都宮成綱の時代には宇都宮一族と多くの家臣団で構成される宇都宮家中が成立した。成立当初、宇都宮家中で最も影響力を及ぼしていたのは芳賀氏と武茂氏であり、武茂氏が芳賀氏との政争に敗北すると、芳賀氏の政治の専横が始まった。永正3年(1506)、古河公方足利政氏と息子の足利高基が家督を巡って対立する永正の乱が勃発すると、成綱は勢力の拡大を図り、古河公方家の争いに介入した。この間に足利高基は宇都宮に逃れ義父である宇都宮成綱のもとに身を寄せていた。古河公方家の争いで、成綱は婿である高基を支持したが、政治を専横していた芳賀氏の芳賀高勝は、足利政氏を支持。権力者二人の意見が相違したことによって、宇都宮家中は大混乱。かつて享徳の乱などで起きてしまった家中の分裂が再び起ころうとしていた。宇都宮成綱はそれを恐れ、芳賀高勝と対立。家中の完全掌握を狙った。芳賀高勝が成綱の器量を恐れ、成綱の嫡男宇都宮忠綱を擁立し、成綱を強引に隠居に追い込もうと謀った。そこで成綱は忠綱に家督を相続させ、隠居する。また、同時期に成綱は弟の孝綱を塩谷氏に送り込み家督を継がせていた。また、同じく成綱の弟の兼綱も武茂氏の家督を継承している。隠居後も成綱が実質的な当主であり、芳賀高勝による忠綱擁立と成綱隠居の真相は、実は宇都宮成綱による家中の完全掌握を狙った謀略の1つであった。その最後の手段で、永正9年(1512) 、成綱は芳賀高勝を殺害し、宇都宮錯乱が勃発。芳賀氏与党は成綱に激しく抵抗するが、2年後の永正11年(1512)7月頃には錯乱を鎮圧し、芳賀氏は宇都宮成綱を頂点とする支配体制に取り込まれた。しかし、それと同時に芳賀氏を中心とする武士団・清党も大きく弱体化してしまった。
2024年03月31日
コメント(0)
だが、これは古くからの家臣で宇都宮氏が上野国守護を務めていた時代に守護代を務めたこともある筆頭重臣芳賀氏と家中での発言力を高めていった塩谷氏・皆川氏・壬生氏らとの対立を生むことになり、宇都宮氏の内部をより不安定にすることになった。文明9年(1477)に家督を継承した宇都宮成綱は、当主の権威回復に努めていたが、実際には芳賀景高が実権を握っており、その景高が明応6年(1497)に没した後は、息子芳賀高勝が引き続き権力を掌握しており、高勝が成綱に代わって公事の免除を命じたり、当主である成綱発給の文書に高勝が連署するものが見られたのはこの時期である。永正3年(1506)、古河公方足利政氏と息子の高基が家督を巡って対立する永正の乱が勃発すると、高基の舅であった成綱は高基支持を打ち出した。ところが、家中の実権を握る芳賀高勝は政氏支持であったためにこれに同意せず、宇都宮氏の家中は分裂状態になった。永正9年(1512年)4月、宇都宮成綱が芳賀高勝を殺害、それをきっかけに芳賀氏が反乱を起こした。これを宇都宮錯乱と呼ぶ。また、この年に成綱は息子の忠綱に家督に譲っている。家督移譲の時期は不明であるが、忠綱の当主としての最古の発給文書は同年3月であるため、家督移譲はそれ以前に発生して芳賀高勝が関わっている可能性もある。高勝の殺害によって家中の実権を取り戻した宇都宮成綱は若い忠綱を後見する形で芳賀氏の鎮圧に乗り出すことになる。だが、家中の実権を握ってきた芳賀氏の勢力は宇都宮氏に匹敵するものになっており、成綱は足利高基や高基派の小田政治らの支援を受ける形で永正11年(1514年)以降に積極的な攻勢に転じ、遅くても同年の7月には芳賀氏の反乱を鎮圧した。その後、政氏派である佐竹氏や岩城氏の侵攻を受けるものの、成綱・忠綱は8月16日の竹林の戦い、永正13年6月の縄釣の戦いにてこれを破って当面の危機を回避することになった。芳賀氏の反乱を鎮圧した宇都宮成綱は芳賀高経(景高の子・高勝の弟)・高孝(景高の弟)を助命して宇都宮城に抑留し、まだ幼児であった末子の興綱に芳賀氏を継承させ、実弟の塩谷孝綱に芳賀氏の所領を管理させた。成綱は永正13年(1516)、宇都宮氏の混乱鎮静を見届けるかのように病死する。父の死によって、名実とともに当主となった忠綱は家中の統制と勢力の拡大に強めるが、宇都宮氏の家中全体が忠綱に服した訳ではなかった。大永3年(1523)、芳賀高経が結城政朝の下に奔り、政朝が高経を助けるために宇都宮へと兵を進めた。宇都宮忠綱はこれを迎え撃つものの、猿山合戦にて大敗すると、宇都宮城は高経に呼応する反忠綱派に占拠され、やむなく壬生綱房の鹿沼城へと落ち延びていった。芳賀高経は結城氏支援を背景にして、忠綱の末弟である芳賀興綱を宇都宮氏の新しい当主に押し立て、自分は芳賀氏当主の地位を取り戻すことに成功する。その後、失意の忠綱は病死するも、今度は成人した宇都宮興綱が芳賀高経と対立、天文年間に入ると高経は興綱を幽閉後に殺害し、更に僧となっていた俊綱(後の尚綱、忠綱の弟で興綱の兄)を擁立する。その後、今度は宇都宮俊綱が芳賀高経を殺害するなど、宇都宮氏と芳賀氏の対立を軸とした家中の内紛は永正・大永・天文と続き、宇都宮氏の衰退に拍車をかける結果となった。】 永正9年(1512)4月、成綱は、芳賀高勝を謀殺した。これによって芳賀氏与党が大反乱を起こし、成綱は、芳賀氏側の重臣の城館を一斉に攻撃している。永正の内訌は、宇都宮錯乱と呼ばれる大きな内紛へと発展した。足利高基による支援や家臣の壬生綱重らの活躍により、約2年かけてこの乱を鎮圧。芳賀氏は宇都宮成綱・忠綱を頂点とする新しい支配体制に取り込まれる形で宇都宮錯乱及び、永正の内訌は収束した。永正9年、宇都宮成綱・結城政朝を筆頭とした反対派勢力に圧迫されていた古河公方・足利政氏は古河城を退去し、子の高基が古河城に入城した。これにより、父子争いに勝利した足利高基が古河公方に就任した。佐竹義舜との覇権争い上那須氏乗っ取りの企て永正11年(1514)、成綱の正室の実家で婚姻同盟関係だった上那須氏の那須資親が没し、同年那須資永と山田資久の後継者争いが勃発し上那須氏が滅亡すると成綱は血縁関係を理由に宇都宮一族の者(宇都宮興綱)を上那須氏へ継がせ再興し、那須氏を内部から完全掌握しようと目論んでいたが、その脅威を察知した下那須氏の那須資房によって先手を打たれ那須氏は統一を果たしたためその野望は実現しなかった。成綱の岳父にあたる上那須氏当主の那須資親は永正の乱では成綱に従い足利高基を支持していたが、統一那須氏当主となった那須資房は佐竹義舜や小山成長らとともに足利政氏に与して成綱と対立関係になった。
2024年03月31日
コメント(0)
要害山城を手中に収めた長沼政義は北上を目論む宇都宮成綱に対し、蘆名盛高や会津田島の自領からの援軍を受け三依の戦いで宇都宮勢を退けることに成功した。さらに要害山城の大改修を行うなど成綱に対抗した。奥州長沼氏は下野国国境付近から陸奥国南部を支配し全盛期を迎えた。また、蘆名盛高が奥州長沼氏に協力する理由としては、下野国進出への野心があったからだという。片角軍萱の戦い永正6年(1509)、長沼政義は蘆名盛高ら蘆名勢の援軍を率いた連合軍で塩谷領の片角軍萱へ侵攻した。塩谷家臣の関谷氏は長沼政義に内通しており、今回の塩谷領侵攻に深く関わっていたという。宇都宮成綱ら宇都宮勢もこれを迎え撃った。成綱は関谷氏の裏切りに気づき攻撃した。結果、蘆名・長沼連合軍は総崩れとなり、宇都宮勢の大勝となった。長沼政義は塩原を捨て会津田島へ後退した。要害山城を手にした成綱は要害山城城主に塩原氏の塩原綱宗を任命した。合戦後の影響片角軍萱の戦いで長沼政義・蘆名盛高連合軍を破ったことにより下野国へと広がりつつあった奥州長沼氏の勢力圏は大きく後退。蘆名氏、奥州長沼氏との争いに決着がついた形となった。 以降、要害山城は慶長2年10月13日(1597)11月22日)の豊臣秀吉による下野宇都宮氏改易まで宇都宮方の奥州勢に対する城として機能した。永正6年(1509)、蘆名盛高が長沼政義を先頭に関谷片角原に出陣してくる。それに対して成綱は紀清両党、一門である塩谷氏やその家臣である大館氏、山本氏、塩原綱宗などを率いて、和田山片足坂の三郎淵で対陣した。平貞能の末裔である田野城主の関谷氏が突然宇都宮勢から蘆名勢に寝返り、宇都宮勢の動きを蘆名勢に密告しようとしたが、成綱はこれに気づき、攻撃する。その結果、蘆名勢は総崩れとなり、成綱ら宇都宮勢の大勝となる(片角原の戦い)。これによって、塩原領は永正7年(1510)、宇都宮成綱の物となり、弟の塩谷孝綱に与えた。成綱はこの合戦で奮戦した塩原綱宗に恩賞として塩原城城主へと任命した。永正の内訌戦国時代初期の永正期に、宇都宮成綱と芳賀高勝の間に起こった大きな内訌で、最終的には宇都宮錯乱にまで発展した。内訌が勃発した背景には、永正3年(1506)に古河公方足利政氏とその子足利高基の政治方針の違いによって対立し、高基の妻・瑞雲院の父である宇都宮成綱の元へ逃れており、宇都宮氏はこの公方家の争いで重要な位置を占めていた。古河公方家内紛への介入永正3年(1506)、古河公方足利政氏と息子の足利高基が対立して永正の乱が勃発すると、成綱は宇都宮へ逃れてきた婿の高基を庇護し、古河公方家の争いに介入。この争いに乗じて勢力の拡大を図った。成綱は婿の足利高基を支援し、高基の父足利政氏と対立した。ところが、家中の実権を握る芳賀高勝は足利政氏を支持したためにこれに同意せず、宇都宮氏の家中は分裂状態になった。永正4年(1507)には家臣の笠間氏と小貫氏の争いがあり、笠間城主の笠間綱親が小貫城主の小貫信高(芳賀信高)を攻めており、成綱は小貫氏の救援に向かい小貫信高の窮地を救っている(小貫城の戦い)。こうした家臣同士の争いは宇都宮氏と芳賀氏の対立に影響されたために起こった可能性がある。成綱隠居と忠綱擁立成綱は宇都宮家中が一致していないことを危惧し、また自身への権力の集中も兼ね、芳賀氏の粛清討伐を決意する。永正8年頃(1511)、成綱と芳賀高勝の争いが激化し、武力衝突にまで発展するが、高勝の謀略によって成綱は強引に隠居させられた。同時に、芳賀高勝によって嫡子の宇都宮忠綱が擁立され、遅くとも永正9年(1512)には、宇都宮氏第18代当主となった。しかし、隠居後も成綱が実質的な当主であり、実権を握っていた。また、成綱はこの間に弟 (忠綱にとっては叔父)の孝綱を塩谷氏に送り込み家督を継がせており、また、同じく成綱の弟の兼綱も武茂氏の家督を継承している。さらには16世紀初頭に下総結城氏の結城政朝に姉の玉隣慶珎大姉を嫁がせており、同盟関係を築いていた。この成綱の隠居と芳賀高勝による忠綱擁立の真相は、実は成綱による家中の完全掌握を狙った計略の1つであった。 「宇都宮錯乱」(うつのみやさくらん)とは、永正9年(1512)から同11年(1514)に下野宇都宮氏で発生した内紛。宇都宮氏は享徳の乱において、伝統的に足利将軍家に近い立場を採っていたのも関わらず、関東公方が宇都宮城に近い古河御所に本拠を移した(古河公方)ためにその政治的・軍事的圧力を受けることになり、乱中にたびたび旗幟を翻す行動を繰り返した。また、宇都宮氏の庶流やその他下野国中部の中小武士の間にはこの動乱に対応するために、下野国で最も有力な武士であった宇都宮氏との関係を強めてその傘下に入る者もいた。
2024年03月31日
コメント(0)
上野台合戦この頃になると成綱は室町時代の度重なる内乱で没落した下野宇都宮氏を立て直すために尽力し、積極的に勢力拡大していた。 延徳3年(1491)に成綱は鹿沼に侵攻して、鹿沼氏と上野台で対陣し、勝利する。この合戦で鹿沼城主の鹿沼教清は討死し、鹿沼氏は断絶。鹿沼城は宇都宮勢によって落ち、加園城の渡辺氏、南摩城の南摩氏も成綱に従うようになる。こうして鹿沼地方は宇都宮領になった。蘆名氏・長沼氏との戦い片角軍萱の戦い(かたかくいくさがやのたたかい)は、1509年(永正6年)に下野国で行われた合戦。別名・片角原の戦いなど。名門武家長沼氏の故地である下野国への進出を狙う奥州長沼氏の長沼政義(鴫山城)は会津の戦国大名蘆名盛高や主家である宇都宮氏を裏切り、長沼政義に内通した塩谷家臣関谷氏の協力を得て、下野国片角軍萱に侵攻したことに対し、下野の戦国大名・宇都宮成綱が迎え撃ち、蘆名・奥州長沼連合軍を撃退した戦いである。開戦に至る経緯長沼政義、下野侵攻明応4年(1495)、蘆名盛高に対し松本輔豊、伊藤民部らが謀反を企てるがすぐに発覚して、鎮圧された。その後、松本輔豊らは宇都宮成綱を頼り下野国を目指し逃れた。その際、長沼政義は逃亡者を30人ほど捕らえ討ち取るなど盛高へ協力的な姿勢をとった。さらに同年、長沼政義は下野国塩原に侵攻。下野小山氏の一族橘伊勢守が拠る要害山城へ攻め込んだ。橘伊勢守は要害山城の出城である狭間城で徹底防戦するが討ち取られてしまい、橘氏は滅亡した。塩原荘は長沼氏の祖である長沼宗政の領土でもあり長沼氏の旧領であった。政義は旧領の奪還を果たしたのであった。長沼政義、三依の戦いに勝利要害山城を手中に収めた長沼政義は北上を目論む宇都宮成綱に対し、蘆名盛高や会津田島の自領からの援軍を受け三依の戦いで宇都宮勢を退けることに成功した。さらに要害山城の大改修を行うなど成綱に対抗した。奥州長沼氏は下野国国境付近から陸奥国南部を支配し全盛期を迎えた。また、蘆名盛高が奥州長沼氏に協力する理由としては、下野国進出への野心があったからだという。片角軍萱の戦い永正6年(1509)、長沼政義は蘆名盛高ら蘆名勢の援軍を率いた連合軍で塩谷領の片角軍萱へ侵攻した。塩谷家臣の関谷氏は長沼政義に内通しており、今回の塩谷領侵攻に深く関わっていたという。宇都宮成綱ら宇都宮勢もこれを迎え撃った。成綱は関谷氏の裏切りに気づき攻撃した。結果、蘆名・長沼連合軍は総崩れとなり、宇都宮勢の大勝となった。長沼政義は塩原を捨て会津田島へ後退した。要害山城を手にした成綱は要害山城城主に塩原氏の塩原綱宗を任命した。合戦後の影響片角軍萱の戦いで長沼政義・蘆名盛高連合軍を破ったことにより下野国へと広がりつつあった奥州長沼氏の勢力圏は大きく後退。蘆名氏、奥州長沼氏との争いに決着がついた形となった。 以降、要害山城は慶長2年10月13日(1597)11月22日)の豊臣秀吉による下野宇都宮氏改易まで宇都宮方の奥州勢に対する城として機能した。文亀3年(1503)、積極的に勢力を拡大する成綱は、下野国塩原の地を巡って会津の長沼氏との争いが頻繁に起こるようになる。また、同時期に蘆名氏の蘆名盛高も宇都宮領である下野国箒根を狙い北関東に侵攻しようとする動きを見せていた。 「片角軍萱の戦い」(かたかくいくさがやのたたかい)は、1509年(永正6年)に下野国で行われた合戦。別名・片角原の戦いなど。名門武家長沼氏の故地である下野国への進出を狙う奥州長沼氏の長沼政義(鴫山城)は会津の戦国大名蘆名盛高や主家である宇都宮氏を裏切り、長沼政義に内通した塩谷家臣関谷氏の協力を得て、下野国片角軍萱に侵攻したことに対し、下野の戦国大名・宇都宮成綱が迎え撃ち、蘆名・奥州長沼連合軍を撃退した戦いである。開戦に至る経緯長沼政義、下野侵攻明応4年(1495)、蘆名盛高に対し松本輔豊、伊藤民部らが謀反を企てるがすぐに発覚して、鎮圧された。その後、松本輔豊らは宇都宮成綱を頼り下野国を目指し逃れた。その際、長沼政義は逃亡者を30人ほど捕らえ討ち取るなど盛高へ協力的な姿勢をとった。さらに同年、長沼政義は下野国塩原に侵攻。下野小山氏の一族橘伊勢守が拠る要害山城へ攻め込んだ。橘伊勢守は要害山城の出城である狭間城で徹底防戦するが討ち取られてしまい、橘氏は滅亡した。塩原荘は長沼氏の祖である長沼宗政の領土でもあり長沼氏の旧領であった。政義は旧領の奪還を果たしたのであった。長沼政義、三依の戦いに勝利
2024年03月31日
コメント(0)
9、、「再興する宇都宮 成綱」(うつのみや しげつな)は戦国時代の武将・戦国大名で、下野の宇都宮氏17代当主。戦国時代初期に、室町時代から続く度重なる内乱、戦乱で没落した下野宇都宮氏を立て直し、支配体制、家臣団を再編する。佐竹氏の中興の祖と呼ばれている佐竹義舜や蘆名氏の中興の祖蘆名盛高、那須氏や長沼氏、岩城氏など近隣の大名と争い大きく勢力を伸ばし、北関東最大の勢力にまで成長させ、下野宇都宮氏の最盛期を築き上げた。また、下野宇都宮氏の戦国大名化に努めたため、宇都宮氏の中興の祖と呼ばれる。成綱は実質的に北関東の覇権を制した。応仁2年(1468)、下野国守護の宇都宮正綱の嫡男として宇都宮城で誕生した。母は常陸国佐竹氏の一族である石塚義親の娘。父・正綱は芳賀盛高の子で芳賀高益と兄弟だと伝えられてきたが、近年の研究では、正綱は宇都宮等綱の次男で宇都宮明綱の実弟とする新説が浮上した。宇都宮氏は南北朝時代の宇都宮氏綱の代に下野国守護、上野国守護、越後国守護を任され、三国を領する絶頂期を迎えた。薩埵山体制の中心勢力にまで飛躍したが、体制崩壊後に一気に没落。宇都宮持綱の代に幕府から上総国守護、京都扶持衆を任されるなど幕府派として重用されていたが、関東公方との度重なる対立によって再び没落していった。叔父・宇都宮明綱や父・宇都宮正綱の頃から古河公方派に外交方針を転換し、宇都宮氏を再興するために腐心していた。また、宇都宮明綱の小山氏との血縁関係を理由に宇都宮明綱・正綱の代は宇都宮領南部や都賀郡の一部の譲渡を条件に小山持政からの後見を受けており、実質的に小山家中に組み込まれていた。しかし、そのおかげで小山氏からの侵攻を受けずに済んでいた。成綱が生まれた時には京では応仁の乱の最中であり、関東でも享徳の乱の最中であり、戦国の乱世が到来しつつあった。「家督相続」父・宇都宮正綱は文明9年(1477)正月に、来年宇都宮社の式年遷宮を行う予定で縁起絵巻の転写など準備していたが、同年9月に、上野国白井の川曲の陣中で病死した。そのため同年、成綱は10歳という若さで下野宇都宮氏17代当主となった。また、宇都宮社の式年遷宮は予定通り文明10年(1478)、成綱によって行われた。家督相続後、成綱は小山氏の名将小山持政が没した混乱に乗じて、小山領の都賀郡などを侵攻するなど、幼いながら器量の高さを遺憾なく発揮し、宇都宮氏は瞬く間に勢力を盛り返している。武茂氏と芳賀氏の政争父・宇都宮正綱は下野宇都宮氏の庶流である武茂氏の家督を一時の間継いでいたので、成綱が宇都宮氏の家督を継いだ際、側近の多くは武茂氏の重臣達だった。武茂氏の重臣達は、まだ若い成綱を軽視し、政治を専横した。さらに成綱の宇都宮氏家督相続に不満を抱いていたために成綱の弟である武茂兼綱を擁立して叛乱を起こす。成綱はこの状況を打破し、支配権を確立するために、成綱を支持する芳賀高益・芳賀景高とともに、武茂氏の重臣達を武力で一掃し実権を手にした。さらには古河公方足利成氏からの公認も得て、圧伏させた。 この一連の騒動は当時勢いのあった家臣である芳賀氏と武茂氏の権力争いであり、この政争で敗北した武茂氏は権力中枢から脱落し、芳賀氏の台頭を招いた。また、この間に芳賀氏内でも権力争いがあったといわれており、その闘争に勝利したのが芳賀景高である。 芳賀氏は芳賀高久以降、宇都宮一門化しており、絶頂期を築いた宇都宮氏綱の代には芳賀禅可が活躍している。宇都宮家中の形成享徳の乱の乱中に、成綱は自立的だった一族の塩谷氏、笠間氏、横田氏、多功氏、今泉氏、上三川氏、壬生氏、西方氏などの従属性を強めさせ、家臣化させることに成功している。また、これに平行して、宇都宮一族の庶流(武茂氏、松野氏など)、芳賀氏、益子氏などの直臣化を進めており、遅くとも15世紀の後半には、宇都宮成綱を頂点とする宇都宮家中が形成された。この宇都宮家中が、戦国時代の宇都宮氏の家臣団の原型となった。芳賀氏の台頭宇都宮家中形成当初、家中で絶大な影響力を有していたのは芳賀氏、武茂氏であり、成綱の代には芳賀高益、芳賀景高、芳賀高勝が芳賀氏の当主だった。 武茂氏との政争に勝利した芳賀高益は引き続き成綱を補佐する。その芳賀高益が長享2年(1488)に没した後は、芳賀景高が成綱を補佐している。 明応6年(1497)に芳賀景高が没した後は、息子の芳賀高勝が権力を掌握しており、高勝が成綱に代わって公事の免除を命じたり、当主である成綱発給の文書に高勝が連署するものが見られたのはこの高勝が芳賀氏の当主だった時期である。この頃から成綱と高勝の間に確執が生じている。
2024年03月31日
コメント(0)
「長尾景春の乱」(ながおかげはるのらん)は、文明8年(14761476年)から文明12年(1480)にかけて起こった関東管領上杉氏の有力家臣長尾景春による反乱。太田道灌の活躍によって鎮圧された。永享11年(1439)の永享の乱で室町幕府によって滅ぼされた鎌倉公方足利持氏の遺児成氏は新たな鎌倉公方に迎えられたが、父を殺した関東管領上杉氏を憎み、享徳3年(1454)に関東管領上杉憲忠を暗殺、上杉氏との全面戦争を始めた。成氏は上杉氏を支援する幕府軍の攻撃を受けて鎌倉を逃れ、下総古河城に拠って古河公方と称し、両上杉家(山内上杉家、扇谷上杉家)及び幕府から派遣された堀越公方足利政知(8代将軍足利義政の異母兄)との抗争に突入した(享徳の乱)。山内上杉家と扇谷上杉家は上杉氏の同族だが、関東管領職は山内家が継承しており、扇谷家はその分家的な存在で所領も山内家の家宰長尾氏の半分もなかった。古河公方との戦いで扇谷家は山内家を支え、特に扇谷家の家宰太田資清(道真)・資長(道灌)父子の活躍によってその力を増していた。資清・資長父子は岩槻城を修築し、河越城、江戸城を築いて関東における守りと攻めの拠点とした。享徳の乱は互いに勝敗を分けながら20年以上に及び続いた。古河公方と対立する両上杉家の主力は北武蔵の五十子陣に陣を敷いて18年に及び対峙していた(五十子の戦い)。挙兵文明5年(1473)、五十子陣で山内家家宰の長尾景信(白井長尾家)が死去した。白井長尾家の家督は子の景春が継いだが、家宰職(家務職とも)は当主上杉顕定が景春の叔父で惣社長尾家の長尾忠景に与えた。家宰職は陪臣ながら関東管領の補佐役とあって関東では大きな権力となっていた。長尾氏は白井長尾家、惣社長尾家、犬懸長尾家、鎌倉長尾家(後の足利長尾家)に別れ、持ち回りで家宰職を務めていた。しかし、本来は長尾氏の嫡流である鎌倉長尾家とそれに次ぐ犬懸長尾氏から輩出され、両家が当主の不在や幼少などで適任者を欠く場合に白井・惣社両長尾家の長老から選ばれる仕組みであったと考えられている。だが、上杉憲忠殺害事件の時に鎌倉家当主長尾実景とその息子で犬懸家を継いでいた憲景がともに殺害された影響で、家宰職が景春の祖父景仲、景信と2代続けて白井家から出る事になった(景仲次男であり、景信の弟である忠景は対抗馬になり得ない)。この論理で行くと、次期家宰職の最有力者は足利長尾家(鎌倉長尾家が足利荘に移転した)の長尾景人であったが、景信の死の前年に若くして没し、後を継いだ息子の定景や犬懸家当主である景人の弟房清は家宰職を務めるには余りにも若かった。そのため、一族の長老となり、景仲よりも以前に家宰を務めていた養父の長尾忠政の没後に武蔵守護代など家中の要職を務めてきた忠景が家宰職になる事はこれまでの選出方法から考えれば不自然な人事ではなかった。その一方で2代続けて家宰職を出した白井家の力が強くなりすぎることを嫌った上杉顕定は家宰職を景春ではなく忠景に与えたという側面もあった。だが、景春はこの人事を深く恨んだ。更に白井家が家宰職の占めた時期に同家と関係を結んで所領の給与や安堵を受けた山内上杉家傘下の武士の中には家宰職が白井家から惣社家に移る事で今までの権利を失うことを危惧して景春が家宰職を継いで従来通りの安堵を受ける事を望む者もいた。特に家宰職とともに継承されてきた所領では問題が現実化し、白井家側の武士と惣社家側の武士との衝突も発生している。景春は縁者(従兄弟)である太田道灌に同心を求めるが、道灌はこれを拒否して直ちに五十子陣にいた顕定と主君の扇谷家当主上杉定正のもとへ向かう。道灌は顕定と定正に景春を懐柔すべく、忠景が景春に武蔵守護代を譲るように進言するが景春が自分に次ぐ立場になる事を嫌った忠景は異例の両職兼任を行い、それならば忠景を一時的に退けるよう進言するも顕定はこれを受け入れず、ならば直ちに出兵して景春を討つよう進言するが、古河公方成氏と対峙している状況ではそれもできないと取り上げなかった。そして何よりも足利長尾家(長尾景人)亡き状況で、長尾一族の長老である忠景が家宰に就任するのは当然で、景春の主張は不当のものだという考えが、顕定・忠景だけでなく他の上杉氏重臣の間にも強く、忠景を一時退ける様に顕定に諫言した道灌は却って父の道真に叱責される有様であった(『太田道灌状』)。道灌が今川氏の内紛介入のために駿河に滞在していた文明8年(1476年)6月、景春は武蔵鉢形城に拠って反旗を翻す。顕定・忠景は未だ景春の力を軽視していたが、景春は優れた武勇の士であり、2代続けて家宰職を継いだ白井家の力は他の長尾氏一族よりも抜きん出ていた。五十子陣の上杉方の武将達は動揺し、勝手に帰国する者が続出する。翌文明9年(1477)正月、景春は2500騎を率いて五十子陣を急襲し、顕定と定正は大敗を喫して敗走。18年に渡り、対古河公方戦の最大の防御拠点だった五十子陣は景春の僅かな兵によって落とされてしまった。顕定と定正は上野へ逃れる。
2024年03月31日
コメント(0)
8、「正綱と享徳の乱・長尾景春の乱」(うつのみや まさつな)は室町時代後期から戦国時代初期の武将・守護大名で、下野の宇都宮氏16代当主、宇都宮氏庶流の武茂氏の当主も兼ねていた。文安4年(1447)、宇都宮等綱の二男として誕生した。武茂氏・宇都宮氏の当主となる。宇都宮氏宗家の家督は兄の宇都宮明綱が継いでいたため、父等綱の実家である武茂氏の家督を継承し、武茂氏の当主となった。寛正4年(1463)死去した兄・宇都宮明綱に子がなかったので、宇都宮氏本家の家督も継承し宇都宮氏、武茂氏両氏の当主となった。この頃の宇都宮氏の勢威は衰退しきっており滅亡の危機に晒されていたが、明綱・正綱兄弟は小山氏当主小山持政の甥であるため、持政からの後見を受けていた。しかし、その代償として都賀郡や南部の宇都宮領を小山氏に譲渡することになった。また、当時は小山氏は最盛期を迎えており、持政に宇都宮家中を介入されたりもしていた。戦国期宇都宮家中の原型を成立、正綱は塩谷氏、武茂氏といった主要な宇都宮一族を臣従化させ、宇都宮家中の原型を形成させた。 臣従のあかしとして宇都宮氏惣領の通字である「綱」の一字を実名に与えていることが特徴であり、こうして形成された宇都宮家中は室町時代の頃の盟約的な一族結合である「一家中」とは明確に異なっていた。そのため宇都宮正綱の代から少しずつ戦国大名化していった。塩谷氏は文正元年(1466)時点だと塩谷周防守(塩谷氏惣領)、塩谷安芸入道といった人物が活躍していたが宇都宮氏とは敵対的であり、次代の塩谷民部少輔の代には正綱に臣従している。以降、宇都宮氏と塩谷氏の関係が大きく変わっているため塩谷民部少輔は塩谷周防守の子ではなく別の宇都宮氏流塩谷氏出身である可能性も指摘されている。正綱が塩谷民部少輔を取り立て、塩谷氏惣領の家督を継承させた。『秋田塩谷系譜』に基づけば、塩谷民部少輔は塩谷隆綱である可能性があるが定かではない。武茂氏は正綱自身が継いでいたが、後に嫡男の兼綱に武茂氏を継がせて武茂氏当主にさせている。また、宇都宮一族の壬生氏も壬生胤業の子に綱の一字を与え壬生綱重と名乗らせた。但し、これらのことは次代の宇都宮成綱が行った可能性もある。上三川氏、今泉氏、横田氏、多功氏といった宇都宮一族は以前から宇都宮氏惣領に従順だった。正綱が原型としての宇都宮家中を成立させ、次代の『中興の祖』宇都宮成綱がそれを発展させて家臣団の再編が成し遂げられた。享徳の乱享徳の乱以降関東においては古河公方足利成氏と関東管領上杉氏が対立しており、正綱は小山持政に従い、成氏方について転戦していた。しかし、1470年頃になると成氏方は押されつつあり、厳しい状況になっていた。その際に重臣芳賀高益の献策により宇都宮氏は一時的に上杉方に寝返っている。1476年、上杉方の長尾景春が反乱を起こした(長尾景春の乱)。1477年正月には、翌年に行われる予定の宇都宮社社殿の式年遷宮に向けて日光山と宇都宮社の関係を説き描いた『日光山縁起』絵巻の転写などの準備をしていた。1477年、正綱は成氏に従い長尾景春の救援に向かったが、上野国の川曲の戦いで陣没した。更に従軍していた宇都宮一族の横田綱親・保業・清業父子、今泉盛泰も討死し、紀党の棟梁益子唯正・延正父子も討死する等甚大な被害を受けた[10]。享年31歳。宇都宮社社殿の式年遷宮は翌年(1478)に、宇都宮氏17代当主となった成綱により無事行われた。系譜旧説の正綱の子の宇都宮興綱(芳賀興綱)に関しては様々な説があり、通説である宇都宮正綱の次男とする説の他に、宇都宮成綱の末子とする新説、又は宇都宮忠綱の子とする説もある。興綱については、正綱、成綱、忠綱の誰の子とするかは、いずれも決定的な確証がなく未だに議論が絶えないのが実状である。また、新説の場合、成高寺と宇都宮正綱・成綱父子の関係など芳賀氏が宇都宮氏に養子縁組した旧説の課題点も残されている。
2024年03月31日
コメント(0)
この時に尊良親王の近侍であった中将二条為冬が戦死した。13日には伊豆国府を尊氏軍が奪回し、義貞軍は東海道を総崩れで敗走した。天竜川に架かる浮き橋を義貞が遅れてくる味方のために残したと、どちらかというと足利寄りの『梅松論』には書かれているが、一方南朝寄りの『太平記』には浮き橋を斬って退却したと、全く逆に書かれている。 7、「南北朝時代の宇都宮氏」鎌倉時代末期に河内国で楠木正成らが挙兵すると、第9代宇都宮公綱は討伐軍に参加し、正成から公綱を「坂東一の弓取り」、紀清両党を「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と宇都宮氏の武勇を高く評された。「宇都宮 公綱」(うつのみや きんつな)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。宇都宮氏第九代当主。父は宇都宮貞綱。母は長井時秀の娘か。子に宇都宮氏綱。名将・楠木正成に坂東一の弓取りと評され恐れられるほどの武勇を誇ったといわれている。楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。乾元元年(1302年)、宇都宮貞綱の子として生まれる。初めは北条氏得宗家当主・北条高時の偏諱を受けて宇都宮高綱(たかつな)を名乗っていたが、後に改名した。元弘の乱の1333年1月、北条高時の命を受けて上洛し、紀清両党を率いて摂津国四天王寺にて官軍側の名将・楠木正成と戦った。このとき、正成は公綱より兵力では勝っていたが、公綱の武略を恐れて直接対決を挑もうとはせず、持久戦に持ち込んでいる。公綱もまた、正成の武略を恐れて直接には相対せず、結局勝敗はつかずして引き分けた。正成は四天王寺で対峙した際に宇都宮氏が坂東一の弓取りであること、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評している。その後、千早城攻めなどにも参戦し、活躍したが、六波羅探題滅亡後、後醍醐天皇の綸旨を受け、官軍側に降伏し、包囲軍瓦解のきっかけとなった。幕府滅亡後の建武の新政下では雑訴決断所の奉行職を務めた。1335年の中先代の乱後に足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は尊氏軍と戦ったが敗れ(竹ノ下の戦い)、翌年に尊氏に降伏してその家臣(北朝方)となった。北朝方になると南朝方の北畠親房の将、伊達行朝、中村経長(中村城主)の軍勢に真岡、烏山が攻め込まれ、重臣の芳賀高貞父子が討ち取られてしまったが、尊氏が九州に落ちると再び天皇のもとに帰参する。その後は北畠顕家のもとで各地を転戦し、顕家の死後も東国における南朝側の中心勢力の一人として活躍し、後村上天皇からも厚い信任を受けた。しかし晩年は不遇だったと言われている。正平11年/延文元年(1356年11月25日、55歳で死去した。正成を恐れさせたほどの武勇を持つ反面、和歌にも優れた才能を発揮し、『新続古今和歌集』には公綱の作品が修められている。 幕府滅亡後に後醍醐天皇の建武の新政がはじまると雑訴決断所を務める。足利尊氏が鎌倉で新政から離反した後も公綱は南朝方として動いたが、子の10代宇都宮氏綱は足利氏に属した。足利家の内紛から発展した観応の擾乱では尊氏方に就いた氏綱が武功を上げ、尊氏の意向で上野・越後国守護職を務め、北関東及び関東全体での支配的地位を磐石なものとした(薩埵山体制)。ところが、尊氏が死ぬと鎌倉公方であった足利基氏(尊氏の子)は自分の腹心でありながら観応の擾乱では尊氏と敵対した前上野・越後守護職上杉憲顕を強引に関東管領に復帰させた上に、上杉憲顕が上野・越後守護職を氏綱から強引に返還させようとして氏綱がこれを拒むと、基氏は関東管領への反抗を理由に氏綱を追討した。その後、下野守護職の小山義政に氏綱の子11代宇都宮基綱が殺害されると鎌倉公方は宇都宮氏を支援した(小山氏の乱)。庶流から宇都宮氏に入った13代宇都宮持綱が上総国守護職に任じられると、一転して鎌倉公方の警戒を受けて討伐を受けた。こうした鎌倉公方の方針に不満を抱いた宇都宮氏は室町幕府直属の京都扶持衆に加わって鎌倉公方に対して抵抗を続けながら勢力挽回を図った。なお、宇都宮氏綱・基綱親子が下野国守護に補任されたという説があり、これを支持する新川武紀・磯貝富士男とこれを批判して小山氏の世襲が継続されたとする松本一夫・江田郁夫の論争がある。この論争を抜きとしても小山持政が没して小山氏が衰退した15世紀後半の宇都宮正綱・成綱の時代には宇都宮氏は下野国守護職の地位を獲得したとされている。
2024年03月31日
コメント(0)
6、「宇都宮公綱と竹ノ下の戦」(うつのみや きんつな)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。宇都宮氏第九代当主。父は宇都宮貞綱。母は長井時秀の娘か。子に宇都宮氏綱。名将・楠木正成に坂東一の弓取りと評され恐れられるほどの武勇を誇ったといわれている。楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。元元年(1302年)、宇都宮貞綱の子として生まれる。初めは北条氏得宗家当主・北条高時の偏諱を受けて宇都宮高綱(たかつな)を名乗っていたが、後に改名した。元弘の乱の1333年1月、北条高時の命を受けて上洛し、紀清両党を率いて摂津国四天王寺にて官軍側の名将・楠木正成と戦った。このとき、正成は公綱より兵力では勝っていたが、公綱の武略を恐れて直接対決を挑もうとはせず、持久戦に持ち込んでいる。公綱もまた、正成の武略を恐れて直接には相対せず、結局勝敗はつかずして引き分けた。正成は四天王寺で対峙した際に宇都宮氏が坂東一の弓取りであること、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評している。その後、千早城攻めなどにも参戦し、活躍したが、六波羅探題滅亡後、後醍醐天皇の綸旨を受け、官軍側に降伏し、包囲軍瓦解のきっかけとなった。幕府滅亡後の建武の新政下では雑訴決断所の奉行職を務めた。1335年の中先代の乱後に足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は尊氏軍と戦ったが敗れ(竹ノ下の戦い)、翌年に尊氏に降伏してその家臣(北朝方)となった。北朝方になると南朝方の北畠親房の将、伊達行朝、中村経長(中村城主)の軍勢に真岡、烏山が攻め込まれ、重臣の芳賀高貞父子が討ち取られてしまったが、尊氏が九州に落ちると再び天皇のもとに帰参する。その後は北畠顕家のもとで各地を転戦し、顕家の死後も東国における南朝側の中心勢力の一人として活躍し、後村上天皇からも厚い信任を受けた。しかし晩年は不遇だったと言われている。正平11年/延文元年(1356年)11月25日、55歳で死去した。正成を恐れさせたほどの武勇を持つ反面、和歌にも優れた才能を発揮し、『新続古今和歌集』には公綱の作品が修められている。箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、建武の新政時代の1336年1月24日(建武2年12月11日)に、足利尊氏の呼びかけに応じた足利軍と、後醍醐天皇の宣旨を受けた新田義貞に、参集した軍勢との間で行われた合戦。後醍醐天皇が建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために新田義貞を派遣したが失敗し、建武政権崩壊の第一幕となった。現在の静岡県小山町竹之下周辺で行なわれた。1333年(元弘3年/正慶2年)鎌倉幕府を打倒して成立した建武政権であったが、現実から乖離した政策の数々に武士は不満を募らせた。1335年(建武2年)発覚した西園寺公宗と北条泰家の陰謀は失敗に終わったが、これをきっかけに全国の旧北条氏所領で北条残党の蜂起が相次ぐ。特に7月信濃で諏訪氏の支援のもと蜂起した北条時行は、各地の反建武政権勢力を吸収し、足利直義を追い出し、鎌倉を占領する勢いを見せた。(中先代の乱)これに対し、足利尊氏は時行を討つために自分を派遣するように後醍醐天皇に再三要請するが、尊氏が自立することを怖れた後醍醐はそれを許可しなかった。 しかし尊氏は無断で関東に出兵する。後醍醐は追認で尊氏を征東将軍に任じた、結局、時行の反乱は鎮圧された。戦後、尊氏は対立関係にあった新田義貞の所領を勝手に没収し、建武政権では恩賞方が行う恩賞として分配するなど自立の意思を示した。後醍醐は再三帰洛命令を出すが尊氏は無視し、義貞を非難する文書を送り返すだけであった。義貞は反論の文書を提出し、審議の結果義貞の訴えを認め、尊氏を討伐することに決定し、義貞に宣旨を下した。11月、義貞は尊良親王を奉じ、軍を率い東海道を下った。尊氏追討軍には多数の公家も参加している。朝敵となることを恥じた尊氏が出家するなど足利側の士気が上がらなかったため、尊氏軍は直義が中心となり作戦行動に出る。義貞は三河矢作川、遠江の鷺坂、駿河の手越河原の戦いで迎撃に出た直義軍を次々と打ち破った。義貞軍は投降してきた軍勢を吸収し、伊豆国府(三島)を占領し、鎌倉へ着々と軍を進めた。義貞が箱根に迫ったとの報に接し、一時出家していた尊氏が直義の説得に応じ、戦線に復帰する。京側は 義貞が三島で軍を集結させると軍を二方面に分け、自らは搦め手軍の大友・菊池など7万騎を率いて箱根峠に進み、大手軍は実弟脇屋義助を副将軍に 竹ノ下へ中務卿親王(尊良)、諸庭の輩、北面の輩(500余騎)、ら7千騎が向かい足柄峠へ進軍させる。尊氏軍は直義が箱根に布陣し、尊氏は竹ノ下前面の足柄峠に布陣。京側は箱根には新田義貞・大友・菊池など7万騎が向かう。12月11日両軍は激突する。箱根方面では義貞軍が直義軍を押し気味に戦局が展開する。尊氏と義助の主戦場は足柄峠のすぐ西にある竹ノ下となった。尊氏の参陣で志気が上がる尊氏軍が押し気味に戦局が展開し、さらに翌日になって大友貞載と塩冶高貞が尊氏軍に寝返ったため、義助軍は総崩れとなり敗走する。その報を受けた義貞は、箱根口の戦いでは大勝しながらも、退路を断たれるおそれが出たため軍を撤退させる。この情勢を見て手越河原の戦いで投降し義貞軍に加わっていた佐々木道誉も尊氏軍に寝返り、義貞軍も総崩れとなった。
2024年03月31日
コメント(0)
「宇都宮 満綱」(うつのみや みつつな、天授2年/永和2年(1376) - 応永14年(1407)は室町時代中期の武将で、下野国の宇都宮氏第12代当主。第11代当主宇都宮基綱の子。母は細川頼元の娘。子に第13代当主宇都宮持綱室。1380年、父が裳原の戦いで小山義政に敗れ戦死し、家督を継承した。とは言え、まだ幼少であったため、初めは叔父の氏広が補佐役として当主の職務を代行していたものと思われる。正確な時期は分かっていないが、やがては元服し、第2代鎌倉公方足利氏満より偏諱の授与を受けて満綱と名乗る。家督継承時に勃発した小山義政の乱の後、下野国守護職は結城氏のものとなっていたが、1399年には、前年に就任したばかりの第3代鎌倉公方足利満兼(氏満の子)から結城氏や小山氏などとともに関東八屋形に任じられている。 尚、翌1400年には鎌倉公方と対立した叔父の氏広が反乱(栗原郡三迫の戦い)を起こしているが、満綱がこれに加担した形跡はみられない。1405年、宇都宮城下の下河原に長楽寺を建立した。長楽寺は既に廃寺となっているが、満綱が造立した本尊は「汗かき阿弥陀」として宇都宮市一向寺に現存し、国の重要文化財に指定されている。男子がなく、後継には一族の武茂氏から持綱を婿養子に迎えた。応永14年(1407年)10月3日、鎌倉で32歳で病没した。 *「宇都宮 持綱」(うつのみや もちつな、応永3年(1396)~ 応永30年(1423)は室町時代中期の武将で、下野国の宇都宮氏第13代当主。武茂綱家の三男で12代当主宇都宮満綱の婿養子。第14代当主宇都宮等綱、芳賀成高室、蘆名盛詮室の父。常陸介。下野宇都宮氏の一族、武茂氏の出身。応永14年(1407)に急逝した宇都宮氏本家の満綱に男子がいなかったのでその養子となり家督を継承した。鎌倉公方足利持氏に臣従してその偏諱を受けて持綱と名乗る。上杉禅秀の乱では関東の諸将が上杉方につき一族にも呼応の動きがある中で、室町幕府の討伐軍に協力して乱を鎮圧、その功によって上総国守護、京都扶持衆に任じられるなど幕府に重用されたが、持氏より那須郡三依郷を長沼義秀に譲って欲しいと懇願された時に拒否したことなどから持氏に警戒されるようになり、のち小栗満重の乱に荷担したとして討伐を受けた。持綱は反鎌倉府の活動を命じる幕府からの御内書を受けていたとみられている。応永30年(1423年)8月9日、一族の塩谷教綱によって殺害された。塩谷氏・芳賀氏ら、家中の親鎌倉府派による離反があったとみられている。 *「宇都宮 等綱」(うつのみや ひとつな、応永27年(1420)~ 長禄4年(1460)は、室町時代中期の大名で、下野の名門宇都宮氏第14代当主。父は13代当主宇都宮持綱、母は宇都宮満綱の娘。武茂綱家の孫。幼名は藤鶴丸、官位は下野守。妻は小山満泰の娘(小山持政の妹)、那須氏資の娘。15代当主明鋼・16代当主正鋼の父。応永30年(1423)8月、父の持綱が鎌倉公方足利持氏と対立した末に横死し、持氏に擁立された庶流と推定される宇都宮家綱(伊予守)に家督を奪われた。藤鶴丸は宇都宮を脱出して諸国を流浪し、後に持氏と対立していた篠川公方足利満直の庇護下に入った。『満済准后日記』応永31年(1424)3月3日条には藤鶴丸が室町幕府に使者を派遣したことが記されている。永享3年(1431)に持氏と室町幕府6代将軍足利義教が一時和睦した際にも義教が藤鶴丸を宇都宮家の正当な当主とする態度を示している(『満済准后日記』永享3年4月10・13日条)。また、宇都宮家中も2つに分かれ、塩谷氏や芳賀氏は家綱を、武茂氏は藤鶴丸を支持していたと考えられている。永享7年(1435)までに持氏が元服して等綱と名乗った藤鶴丸の宇都宮家継承を認めている(「鹿島神宮文書」371号鎌倉公方足利持氏御教書)。その後、永享の乱で持氏が敗死したのを機に宇都宮に復帰し、続く結城合戦においては等綱は戦功を挙げ、結城方についた家綱が討ち死にした(『結城戦場記』)ため、等綱の地位がようやく安定した。しかし、持氏の子・足利成氏が鎌倉公方に復帰するとこれに従って江の島合戦で戦功を挙げる。享徳3年(1454)、成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したために享徳の乱が勃発し、等綱のもとにも幕府から成氏討伐令が下されると、父の恨みを晴らすために一転して成氏討伐の兵を挙げて鎌倉から追放した。成氏の怒りは相当のもので、那須資持に対して等綱を批難する書状を送っている(『那須文書』所収(康正元年)5月1日・7月29日付那須資持宛足利成氏書状)。だが、康正2年(1456)、古河に逃れて古河公方となった成氏によって宇都宮城は包囲され、等綱は成氏軍の圧力と重臣の裏切りによって宇都宮城から追放され、家督を子の明綱に譲って出家隠棲する。その後、一時上洛して還俗したと推定され、長禄2年(1458)に奥州白河の大名・結城直朝に保護された。長禄4年(1460年)、宇都宮に戻れないまま41歳で没した。 *「宇都宮 明綱」(うつのみや あきつな、嘉吉3年(1443)~- 寛正4年(1463)は室町時代後期の武将で、下野の名門宇 都宮氏十五代当主。十四代当主宇都宮等綱の子。母は小山満泰の娘。小山持政は伯父にあたる。下野守。父の等綱が足利成氏と不仲で宇都宮城を追われ、奥州において出家・隠棲したので後を継いだ。外交方針を転換し成氏方に鞍替えし、宇都宮家の再興に腐心したが、1463年、21歳で没した。子がなかったので、弟の正綱が後継になった。
2024年03月31日
コメント(0)
*「宇都宮 景綱」(うつのみや かげつな)は鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人。宇都宮氏第7代当主。父は宇都宮泰綱。母は北条朝時の娘。建長4年(1252)4月、宗尊親王の近習として仕える。正嘉元年(1257)には御格子番、弘長3年 (1263)には御鞠奉行に任じられるなど、宗尊親王から重用された。その後も下野守に叙任され、引付衆や評定衆に任じられるなどして、幕政の中でも重きを成した。弘安6年(1283)には御成敗式目に基づき宇都宮家式条(宇都宮家弘安式条)を制定した。弘安8年(1285)11月、内管領平頼綱によって安達泰盛が滅ぼされた霜月騒動では、景綱は安達氏の縁戚(泰盛と義兄弟の関係)であった事から失脚するが、永仁元年(1293)に平禅門の乱で頼綱が滅ぼされると幕政に復帰した。永仁6年(1298年)5月1日、64歳で死去。歌人としても優れた才能を持っていたといわれている。安達義景の娘を正室に迎えたが、諱(実名)の「景」の字はその義景から一字拝領したものと考えられている[1]。 *「宇都宮 貞綱」(うつのみや さだつな)は、鎌倉時代中・後期の武将。鎌倉幕府御家人宇都宮氏第8代当主。宇都宮景綱の子。母は安達義景の娘。興禅寺を開基したことで知られる。北条氏得宗家(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時の偏諱を受けて貞綱と名乗る。弘安4年(1281)の元寇の弘安の役では8代執権・北条時宗の命を受けて山陽、山陰の6万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した。その功績により戦後、引付衆の一人に任じられた。時宗の死後は北条貞時に仕えて嘉元3年(1305)、嘉元の乱では貞時の命を受けて北条宗方誅殺に協力した。正和元年(1312)、亡母の13回忌に全国的にも珍しい巨大鉄製塔婆を奉納した(宇都宮市清巌寺蔵:国の重要文化財)と言われている。正和5年(1316)7月25日、51歳にて死去した。法名は蓮昇、法号は興禅寺。 「宇都宮 氏綱」(うつのみや うじつな、嘉暦元年(1326)~ 建徳元年/応安3年(1370)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。下野宇都宮氏第10代当主。下野、上野、越後3国の守護職を任された。父は宇都宮公綱。母は千葉宗胤の娘。妻は足利高経(斯波高経)の娘。長男(嫡子)に宇都宮基綱、次男に宇都宮氏広(うじひろ)がいる。父が南朝側に仕えたのに対し、氏綱は北畠顕家が上洛途上で鎌倉を攻撃したとき、顕家から離反して足利尊氏の家臣として仕えた。尊氏から偏諱(「氏」の字)の授与を受けて「氏綱」と名乗ったのもこの頃とされる。そして尊氏の下で武功を挙げたため、観応の擾乱で足利直義方についた上杉憲顕が剥奪された上野・越後両国の守護職を与えられ(1352)、鎌倉公方足利基氏の家臣として仕えた。薩埵山体制の一翼を担うが、基氏の信任が厚かった上杉憲顕が赦免されると、憲顕が上野・越後守護職の返還を求め、氏綱がこれを拒むと基氏の怒りを買ってその追討を受け、守護職を剥奪された(1362年・武蔵国比企郡岩殿山合戦)。基氏死後の1368年、これに不満を覚えていた氏綱は武蔵国の武蔵平一揆に乗じて反乱を起こしたが、今度は基氏の子・足利氏満の追討を受けて降伏した。一命こそ助けられたが、失意のうちに1370年7月5日に紀州に出陣中に45歳で病死した。 5、「室町時代の宇都宮氏」「宇都宮 基綱」(うつのみや もとつな、正平5年/観応元年(1350)~ 天授6年/康暦2年(1380)は室町時代中期の武将で、下野国の宇都宮氏第11代当主。第100代当主宇都宮氏綱の子。弟に宇都宮氏広。妻は細川頼元の娘で、その間の子として第12代当主宇都宮満綱がいる。下野守。父が仕えていた初代鎌倉公方足利基氏から偏諱を賜り、基綱と名乗る。しかし、のちに父は上野・越後両国の守護職をめぐる問題で基氏と対立、討伐を受けて職を剥奪された(1362年)。基氏の死後もその子・足利氏満(第2代鎌倉公方)と対立して反乱を起こすがその追討を受けて降伏(1368)、子である基綱・氏広兄弟も含め、以後は氏満に臣従するようになる。それからまもない1370年に父が病没し、これを受けて家督を継いだ。宇都宮氏は朝廷から代々下野国司の職を授かる身分であったが、武士から身を立て下野守護を務めていた小山氏が国内で勢力を拡大する動きを見せると、国司の立場からこれを牽制してきた。小山義政の代になり、小山氏が台頭する動きをするようになると、基綱は度々これを鎮圧した。しかし、後に義政が宮方と通じ謀反を起こしたとして氏満にその討伐を命じられ出陣したが、逆に裳原の戦いで義政に敗れ戦死した。享年31歳。これが小山義政の乱および、その後に弟の氏広が起こす栗原郡三迫の戦いの発端となる。
2024年03月31日
コメント(0)
結果北条義時は牧の方の娘婿である朝雅を担ぐ父時政を切り捨てる事によって、無実の重忠を討ったという御家人達の憎しみの矛先をかわし、混乱に乗じて朝雅と秩父一族の稲毛重成・榛谷重朝ら有力者を一掃して武蔵国の掌握に成功した。以降、武蔵国は代々北条得宗家の支配下に置かれ、執権政治の安定化後は執権・連署が「武蔵守」・「相模守」を占める事例が増加する。北条家内では梶原景時、比企能員など強力な政敵の排除には団結していたが、先妻の子義時・政子らと後妻牧の方との間には以前から亀の前事件などの諍いがあり、共通の敵が居なくなった事、牧の方所生唯一の男子で北条本家の後継者と目されていた政範の死によって、両者の対立が表面化していた。畠山の乱に端を発した牧氏事件で時政を追放したことにより、幕府は時政の専制政治から義時・政子姉弟主導による寡頭体制によって専制政治が継続された。鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書『吾妻鏡』において、梶原景時が悪人と断じられているのとは対照的に、重忠は賛美した記事が目立っている。重忠討伐の際、重忠を擁護したという義時は、その後重忠の遺児や縁者を庇護し畠山氏の所領を与えたなどという形跡はなく、畠山氏の所領は政子によって重忠を討った者や政子の女房に配分されている。義時・政子の姉妹である重忠の妻には畠山氏本領が与えられ、その妻は北条氏の縁戚足利義純に再嫁し、足利義純が畠山氏の名跡を継承した事により、重忠の血筋は断絶している。その後出家していた重忠の末子重慶は乱の8年後、建保元年(1213年)9月に謀反の疑いを受けて殺害されている。その際に3代将軍源実朝は「重忠本より過ちなくして誅を被る」と述べている。『吾妻鏡』における義時の重忠擁護、重忠の過剰な賛美記事は、父時政を追放し、武蔵の英雄を滅ぼした義時(得宗家)弁護のための作為と考えられている。ただし、近年の研究では北条宗家ではなく分家の江間家の初代とみなされる義時が、時政の意思を拒否できた可能性が低いことも考慮する必要があるとする説も出されている。現在、横浜市旭区、相鉄鶴ケ峰駅の近くには畠山重忠の終焉の地として石碑が建てられている。その後と影響時政はその後、二度と政界に復帰することなく建保3年(1215)、腫物のため北条の地で死去した。また、牧の方も夫の死後は朝雅の元妻で公卿の権中納言・藤原国通に再嫁した娘を頼って上洛し、京都で余生を過ごした。そして、北条氏の第2代執権には義時が就任(ただし、承元3年(1209)就任説もある)、義時のもとで北条氏は幕府内における地位を確固たるものとしていくのである。ただし、この事件は、後に北条氏内部で起こる執権職をめぐっての内紛の先駆けにもなった。】 源頼朝をして「関東一の弓取り」と言わしめた宇都宮朝綱は第3代宇都宮氏当主である。また第5代宇都宮頼綱(藤原頼綱)は武人で奥州藤原氏討伐にも功績があったが、鎌倉幕府から謀反の嫌疑をかけられたのを機に法然に帰依して出家、実信房蓮生と号して京に隠棲して宇都宮歌壇を確立した。京都嵯峨野の小倉山麓の庵に住まい、その襖色紙には親交があった藤原定家によって選じられた首歌が書かれ、これが小倉百人一首の起源として伝統文化に受け継がれている。浄土宗を信仰した頼綱は、京常盤、桐生、宇都宮に念仏堂を建立し、現在もそれぞれ入逢山西方寺、梅田山西方寺、芳宮山清巌寺に受け継がれている。頼綱は幕府から許された後の1215年には園城寺(現在の三井寺)再建に尽力し、その功によって伊予国守護に任じられた(1220~1235)。鎌倉時代中期、第8代宇都宮貞綱は元寇の際、鎌倉幕府による討伐軍の総大将として九州に赴き、これに勝利すると鎌倉幕府引付衆に任じられた。貞綱は亡母の13回忌に全国的にも珍しい巨大鉄製塔婆を奉納した(宇都宮市清巌寺蔵:国の重要文化財)と言われている。*「宇都宮 泰綱」(うつのみや やすつな)は、鎌倉時代前・中期の人物。藤原姓宇都宮氏第6代当主。官位は正五位下で下野守、修理亮を歴任。鎌倉御家人でもあり評定衆、美濃国守護に任じられた。宇都宮歌壇の歌人としても著名。宇都宮頼綱の子で宇都宮景綱の父。母は北条時政の娘。建仁2年(1202)に生まれる。元服時に母方の従兄にあたる北条泰時より偏諱を賜って泰綱と名乗る。1238年、将軍・九条頼経に仕えて上洛し下野守に叙任された。泰綱が『吾妻鏡』に登場する1230年頃の官職の記述が従五位下相当の修理亮となっているから、下野守に任ぜられる前の1230年頃には既に従五位下の官位を余されており、その官位のまま下野守に任ぜられたものと推定される。その後1241年に下野守を満了した折には従五位上に昇進したとされる。1243年、幕府評定衆の一人に任じられた後は、没するまでその職に在り続け幕政で重きを成した。1249年頃には幕府内職位として美濃の守護職も与えられている。一方、官位の方も1246年に正五位下に昇進したようであるが、その後については不詳である。 1260年11月1日、父・頼綱の後を追うように59歳にて京都で死去した。歌人としても優れており、藤原定家は修理(泰綱)の和歌は「骨を得ている」と評価(『明月記』嘉禎元年5月1日条)し、宇都宮歌壇を盛り立てた。玉葉和歌集や続拾遺和歌集には泰綱の作品が数多く修められている。吾妻鏡では、下野守を満了した後の泰綱を「下野前司」と記している。
2024年03月31日
コメント(0)
平賀朝雅と重保の争い元久元年(1204)11月4日、京の平賀朝雅邸で、将軍実朝の妻坊門信清の娘(信子)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われた。その席で朝雅と重忠の嫡子重保との間で言い争いとなり、周囲の取りなしで事は収まったが、これが後に大きな争いの火種となる。翌5日、重保と共に上洛していた北条時政と後妻牧の方鍾愛の子・政範が病で急死した。そして政範の埋葬と重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届く。翌元久2年(1205)4月11日、鎌倉に不穏な形勢ありとして御家人たちが集まりはじめ、所領の武蔵国に隠居していた稲毛入道重成が舅の時政に呼ばれ、郎党を引き連れて鎌倉へやって来た。何か起こるのではないかとの噂が流れたが、この騒ぎは静まり5月3日には大半の御家人が帰国した。6月21日、朝雅は重保に悪口を受けたと牧の方に讒訴し、牧の方はこれを重忠父子の叛意であると時政に訴えた。朝雅は牧の方の娘婿であり、重保は時政の先妻の外孫にあたる。時政が子の義時と時房に重忠討伐を相談すると、2人は重忠の忠勤を訴えて謀反など起こすがはずがないと反対したが、牧の方の兄大岡時親に「牧の方が継母だから仇をしようと思っているのだろう」と迫られ、やむなく義時は重忠討伐に同意したという。翌22日早朝、鎌倉は大きな騒ぎとなり、軍兵が謀反人を誅するべく由比ヶ浜へ先を争って走った。同じ秩父氏の稲毛入道に招かれて鎌倉にいた重保も郎従3人と共に由比ヶ浜へ駆けつけると、時政の意を受けた三浦義村が佐久間太郎らに重保を取り囲ませる。自分が謀反人とされている事に気づいた重保は奮戦したが、多勢に無勢で郎党共々殺害された。時政の命により、鎌倉へ向かっている重忠を道中で誅殺するべく大軍が派遣された。大手の大将軍北条義時に従ったのは先陣・後陣に葛西清重・堺常秀・大須賀胤信・国分胤通・相馬義胤・東重胤、そのほか足利義氏、小山朝政・三浦義村・三浦胤義・長沼宗政・結城朝光・宇都宮頼綱・八田知重・安達景盛・中条家長・苅田義季・狩野介入道・宇佐見祐茂・波多野忠綱・松田有経・土屋宗光・河越重時・河越重員・江戸忠重・渋河武者所・小野寺秀通・下河辺行平・薗田成朝、ならびに大井氏・品河氏・春日部氏・潮田氏・鹿島氏・小栗氏・行方氏、児玉党・横山党・金子党・村山党らが従い、関戸(多摩市関戸)の大将は北条時房・和田義盛として鎌倉を出陣した。二俣川の戦い重忠は鎌倉に騒ぎがあると聞き6月19日に菅谷館を出発しており、22日午後、二俣川で討伐軍に遭遇した。重忠の弟長野重清は信濃国、六郎重宗は奥州へ行っており、重忠が率いていたのは二男の重秀、郎従本田次郎近常、乳母父の榛沢六郎成清以下130~140騎程度に過ぎなかった。今朝重保が殺された事、自分に追討軍が差し向けられた事を二俣川で初めて知った重忠は、館へ退くことはせず潔く戦う事が武士の本懐であるとして大軍を迎え撃つ決断を下す。そこへかつての旧友安達景盛と主従七騎が先陣を切って突入し、義時の大軍と少数の兵で応戦する重忠主従との激戦が4時間余り繰り広げられたのち、重忠は愛甲季隆の放った矢に討たれ、首級を取られた(享年42歳)。重忠の死を知った重秀以下は自害した(重秀・享年23歳)。『愚管抄』では重忠は自害したとしている。23日午後2時頃、軍勢を鎌倉へ引き上げた義時は、合戦の様子を聞いた時政に対し、重忠の一族は出払っていて小勢であり、謀反の企ては虚報で、重忠は無実であった。その首を見ると涙を禁じ得ず、大変気の毒な事をしたと述べた。時政は黙って引き下がった。この日の夕方、鎌倉内で重忠の同族で討伐軍に加わっていた稲毛重成父子、榛谷重朝父子が重忠を陥れた首謀者として三浦義村らによって殺害された。7月8日、少年の将軍源実朝に代わり、尼御台・北条政子の命により、畠山氏の所領は勲功として重忠を討った武士たちに与えられ、同20日にも政子の女房たちに重忠の遺領が与えられている。閏7月19日、この事件をきっかけに時政は失脚し、牧の方と共に子の義時・政子姉弟によって鎌倉を追放され、同26日、京にいた平賀朝雅は義時の命によって誅殺された(牧氏事件)。残された重忠の所領は時政の前妻の娘である重忠の妻に安堵され、妻は足利義純に再嫁して義純が畠山氏の名跡を継いだ事により、平姓秩父氏の畠山氏は滅亡した。乱の意味武蔵国は相模国と並んで主要な将軍知行国であり、頼朝の時代には源氏門葉の平賀義信が国司を務め、秩父氏の総領である留守所職は河越重頼であった。河越重頼と平賀義信の妻は頼朝の乳母比企尼の次女と三女で、武蔵国の郡司である比企氏の家督は比企尼の甥比企能員が継承し、武蔵国は頼朝の縁者によって治められていた。河越重頼が源義経の謀反に連座して誅された後は、畠山重忠が留守所職となり、平賀義信の後の武蔵国司は子の朝雅が引き継いでいた。朝雅は後鳥羽上皇の信任厚く、上皇と舅の時政と牧の方の威光を受けて京都守護・知行国主となり、将軍並の処遇となって権勢を強めていた。比企能員の変で滅ぼされた有力豪族比企氏の縁戚児玉党など、武蔵国には比企氏と繋がりをもつ者が多く、比企の跡を勢力下に収めようとした時政の武蔵進出は、武蔵武士団の棟梁である重忠の勢力圏への進入であり、比企の乱後の戦後処理を巡って時政と重忠は対立する関係となっていたのである。『明月記』元久元年(1204)正月18日条によると、都で「北条時政が畠山重忠と戦って敗北し山中に隠れた。大江広元がすでに殺されたとの事だ。」という風聞が流れ、広元の縁者がそのデマに騒ぎ荷物を運び出す騒動になるなど、両者の対立は周知の事となっていた。乱の背景には武蔵国の支配を巡り、留守所畠山氏と国司朝雅を背景とした時政との対立があった。
2024年03月31日
コメント(0)
出家後頼綱はその後法然の弟子証空に師事したが、建保2年(1214)頃までには鎌倉政庁の許しを得、5月には園城寺改修を拝命、山王社及び拝殿の修復に努めている。浄土宗に帰依した頃よりその潤沢な財力をもって京常盤や宇都宮、桐生などに念仏堂(庵)を建て、その由緒は現在もそれぞれ光明寺流「西方寺」、宇都宮「清巌寺」、桐生「西方寺」として受け継がれていると云われる。建保4年(1216)、頼綱が伊賀国壬生庄の地頭を称し春日大社領を押領していると、興福寺の僧信賢が朝廷を介して鎌倉政庁に訴えて来たが、幕府の訴訟の範疇でないため記録所で示談された。承久3年(1221)6月、 承久の乱が起きたが、頼綱は鎌倉留守居を務め、その功績から戦後、伊予国の守護職を与えられた。建長2年(1250)3月、京の閑院殿の改築に際し、その造営雑掌の西二封の当番となる。嘉禄3年(1227)に発生した嘉禄の法難の際には、延暦寺の僧兵から法然の遺骸を守るために、蓮生(頼綱)の他、弟である信生(塩谷朝業)、法阿(東胤頼)、道弁(渋谷七郎)などの出家者や六波羅探題の武士団らと共に、東山の法然廟所から二尊院までの遺骸移送の護衛にあたった。また、同族である藤原定家と親交が厚く、娘をその嫡男である為家に嫁がせている。為家が安貞元年(1227)信濃国の知行国主になると、東国の事情に明るい頼綱が定家・為家親子の相談役として信濃国統治に関する助言を行っている。正元元年(1259)11月12日、京にて死去。享年88歳。その遺言により京西山三鈷寺の証空の墓の側に葬られたとされる。現在、この善峯寺のほか、栃木県宇都宮市清巌寺と同芳賀郡益子町地蔵院にも墓碑がある。頼綱は父譲りで歌人としても優れており、同族である藤原定家と親交を深め、宇都宮歌壇を京都歌壇、鎌倉歌壇に比肩するほどの地位に引き上げ、これらを合わせて日本三大歌壇と謂わしめる礎を築いた。百人一首は京の別荘小倉山荘に住まった折に、定家に選定してもらった和歌98首をその襖絵として飾ったことに始まるといわれている。十三代集に頼綱の作品が多数修められている。】 5、「鎌倉時代と宇都宮氏」「牧氏事件」(まきしじけん)は、鎌倉時代初期の元久2年(1205)閏7月に起こった鎌倉幕府の政変。牧氏の変ともいわれる。発端正治元年(1199)に頼朝が死去した後、頼朝の妻・北条政子の実父である北条時政は、有力御家人である梶原景時や頼家の外戚である比企能員一族を滅ぼして、北条氏の地位を一段と高めてゆく。そして遂には建仁3年(1203)、頼朝の後継者の源頼家も廃して弟の源実朝を新将軍として擁立し、自らは執権となる。元久元年(1204)、京の平賀朝雅邸で、将軍実朝の妻坊門信清の娘(信子)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われた。その席で時政の後妻牧の方の娘婿である朝雅と時政の前妻の娘婿畠山重忠の嫡子重保との間で言い争いとなる。周囲の取りなしで事は収まったが、さらに重保と共に上洛していた時政と牧の方の子政範が病で急死した。そして政範の埋葬と重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届く。元久2年(1205)、この重保と朝雅の対立を契機として、時政は畠山氏の討滅を計画する。このとき、時政の息子である北条義時は、重忠とは友人関係にあり、あまりに強引な畠山氏排斥を唱える父に対して反感を抱く(『吾妻鏡』)。しかし、父の命令に逆らえず、武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼした。しかし、人望のあった重忠を強攻策をもって殺したことは、時政と牧の方に対する反感を惹起することになった(畠山重忠の乱)。「畠山重忠の乱」(はたけやましげただのらん)は、鎌倉時代初期の元久2年6月22日(1205)7月10日)、武蔵国二俣川(現神奈川県横浜市旭区保土ケ谷区)において、武蔵国の有力御家人・畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件。鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人排斥の一つ。鎌倉幕府創設者である初代将軍源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き正治2年(1200)の梶原景時の変、建仁3年(1203)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は14歳の3代将軍源実朝を擁する北条時政が握っていた。畠山重忠は秩父氏が代々継承してきた武蔵国の武士団を統率する留守所総検校職の地位にあり、その武勇と人望により頼朝の時代には常に先陣を務め、その死に際して子孫を守護するように遺言を受けた有力御家人であった。また時政の前妻の娘婿であり、梶原景時の変、比企能員の変ではいずれも北条氏側に協力していた。武蔵国は将軍によって国司が推挙される関東御分国(将軍家知行国)の一つであり、数多の武士団が存在し、鎌倉防衛の戦略上の要地であった。この頃の武蔵国司は、時政の後妻牧の方の娘婿平賀朝雅であり、比企能員の変の翌月の建仁3年(1203年)10月、朝雅は京都守護のため上洛し、朝雅の上洛後に時政が将軍実朝の命によって武蔵国務職に任じられ、武蔵国衙の行政権を掌握していた。
2024年03月31日
コメント(0)
建久3年(1192)に嫡男・業綱が夭逝すると、朝綱は出家して益子の上大羽に尾羽寺を建立した。建久4年(1193)4月2日、頼朝が那須野に狩りに出た際、小山朝政・八田知家と共に千人の勢子を献上する。建久5年(1194)5月に下野守・野呂行房から百町の公田を横領したと朝廷に訴えられる。同年6月28日、頼朝より東大寺改修の助成を拝命し、観音の改修を受け持つ。7月28日、中納言・一条能保より飛脚があり、朝綱の罪が確定し土佐国国府への配流が申し渡される。これに連座して、孫の頼綱及び朝業もそれぞれ豊後国および周防国に配流となる。また、廷尉の源基重および右衛門忠・豊島朝経も洛中から追放となった。2年後の建久7年(1196)に罪を許されて土佐国から益子上大羽に戻るまで、幕府には従弟の所信房が出仕した。帰国した朝綱は、配流先であった土佐国の賀茂神社を勧請して綱神社(栃木県芳賀郡益子町上大羽)を建立、余生をこの地で送り、元久元年(1204)8月6日、83歳で死去した。 *「宇都宮 業綱」(うつのみや なりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。宇都宮氏4代当主。宇都宮朝綱の子。「業綱」は初名で後に「成綱」とも名乗った。そのため、宇都宮成綱と呼ばれることもある。子の朝業は塩谷氏に養子として入嗣し、宇都宮支族としての塩谷氏の祖となった。なお、子にも同名の「業綱」がいる。文治5年7月19日(1189)9月8日には、奥州合戦に発向する大手軍に父・朝綱と共に参加する。吾妻鏡の同年7月25日(9月14日)の記述によると、この時既に子の頼綱は小山政光の猶子に出されている。その3年後の建久3年(1192年)、父朝綱に先立って早逝した。子の頼綱と朝業は歌人として著名であるが、業綱自身も歌道に優れていた。 3、「頼綱と公田掠領騒動・牧氏の変・」(うつのみや よりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士・御家人・歌人。藤原姓宇都宮氏5代当主。伊予国守護を歴任。歌人としても著名で藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築いた。治承2年(1178)頃、宇都宮業綱の子として誕生。その後、源頼朝の乳母であった寒河尼に預けられ、その夫・小山政光の猶子となった。文治5年(1189)の奥州合戦に紀清両党を従えて従軍し功績を立てる。建久5年(1194)2月には北条義時の嫡男金剛(後の泰時)の元服の儀に参列する。公田掠領騒動建久5年(1194年)5月、祖父・宇都宮朝綱が下野国司の野呂行房より公田掠領(百余町)を訴えられ、朝廷によって豊後国国府預かりの身と裁定されてしまう。これは、征夷大将軍でもなかった源頼朝が、名目上では自身のみの采配では配下への扶持等を決裁できなかった時期に、朝廷の決裁を仰がず頼朝が単独で部下の所領配分を行ってしまったために起きた騒動であり、頼朝はこの件を大変憂慮したと云われている。鎌倉の勢力と行動を共にしていた頼綱ら関東の武人達は、名目上は朝廷に直接仕える身であったとはいえ、実際には源頼朝勢の意向に従って行動しており、実質、朝廷の命令であってもそれに実効力を与えていたのは源頼朝であったことから、一説によると頼綱らは頼朝の意向に従い配流地には赴かなかったとも云われている。何れにせよ、頼朝の働きかけにより頼綱は早々に赦免され、同じく赦免された祖父・朝綱は出家して下野尾羽にて隠居生活を送ることとなり、このとき頼綱が宇都宮家を継いだものと考えられる。頼朝の死後、頼綱は正治元年(1199)6月に夭逝した頼朝の次女・乙姫の葬儀に供奉し、その10月には他の有力御家人と共に梶原景時の変で景時弾劾に参加している。牧氏の変元久2年(1205)6月22日、畠山重忠の乱(畠山事件)が起きる。この際、頼綱は北条氏側に与して功を挙げた。しかし同年閏7月、頼綱の姑にあたる牧の方と北条時政が3代将軍・源実朝の殺害を謀った牧氏の変が発生し、翌8月には頼綱自身に謀反の嫌疑をかけられる。8月7日、頼綱が一族郎従を率いて鎌倉参上を擬し謀反を企てているとの風聞があり、北条義時、大江広元、安達景盛らが北条政子邸に合し、小山朝政を召し出して評議が行われた。その席で大江広元は頼綱の非道と将軍家に対する不忠について指摘し、小山朝政に頼綱を追討するよう主張したが、朝政は頼綱と義理の兄弟である事を理由にその追討を断ったため、頼綱は鎌倉政庁による追討からは逃れられた。8月11日、頼綱は朝政を介して鎌倉政庁に書状を送り謀反の意が無いことを陳述、その後の8月16日には下野において出家するに至った。この折、一族郎従60余人も出家したと伝えられている。8月17日、頼綱は宇都宮を発って鎌倉に向かい、8月19日に鎌倉に到着、北条得宗家に面会を求めるが一度は拒絶される。そこで一族の結城朝光を介して献髪し陳謝の意を表して実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)と号し、京嵯峨野の小倉山麓に庵を設けて隠遁したと云われる。頼綱出家の後、頼綱の子等は全て幼少であったため、弟・宇都宮朝業が宇都宮家を代表して幕府に出仕することとなる。
2024年03月31日
コメント(0)
2「宇都宮氏の出自」「宇都宮」(うつのみや)氏は、日本の氏族。摂関家藤原北家道兼流を称する大族。下毛野氏、中原氏の流れを汲むともいわれる。藤原氏一族の藤原北家の藤原道兼の曾孫を称する藤原宗円が、源頼義、義家の奥州安倍氏討伐(前九年の役)での功により宇都宮(現・栃木県宇都宮市二荒山神社の別称)別当職に任じられ、宗円の孫の宇都宮朝綱から苗字(名字)として宇都宮氏を名のる。しかし『宇都宮市史』や『姓氏家系大辞典』では、宗円を藤原道兼の子孫とするのは後世の仮冒で、宇都宮氏は中原氏の出、あるいは古代の毛野氏の後裔とされているなど、諸説ある。宇都宮氏嫡流(下野)宇都宮氏は下野国が本貫であったため、各地の庶流に対してしばしば下野宇都宮氏といわれることもある。下野国一之宮名神大社であった宇都宮二荒山神社座主および日光山別当職等を務め、紀清両党を率い22代・500年に亘って下野国、さらには日本国土の治安維持を司った名家。国司や守護も歴任し、現在では戦国大名とも評されている。*「藤原 宗円」(ふじわら の そうえん)は、平安時代後期の人物。後に下野国を地盤に活動した宇都宮氏の初代当主と目される。『尊卑分脈』や宇都宮系図などの各種系図上では、藤原氏北家の関白藤原道兼の流れを汲み(道兼流)、道兼の孫である兼房の次男とされる。前九年の役の際に河内源氏の源頼義、義家父子に与力し、凶徒調伏などで功績を認められ、康平6年(1053)に下野国守護職および下野国一宮別当職、宇都宮座主となるが、もともと石山寺(現在の大谷寺との説もある)の座主であったとも言われ、仏法を背景に勢力を拡大したと考えられている。宗円は毛野氏の支配下にあったと推測される下野国一宮において、その神職者より上座に座したことが伝えられており、このことから毛野氏の流れを汲む人物(毛野氏への藤原氏の落胤)と推察されているほか、室が益子正隆の娘であったことや、次代の宗綱が八田姓とされる点などから、その勢力は下野国のみならず常陸国西部付近(現在の茨城県下館市付近)にも達しており、芳賀氏、益子氏、八田氏をその勢力下に置いていたと推定されている。天永2年(1111年)10月18日に没する。一説に宇都宮城を築城し、城内に天台宗宝錫寺を建立したといわれる。 *「八田 宗綱」(はった むねつな)は、平安時代後期の人物。父は藤原兼仲、母は益子正隆の女。養父に藤原宗円。宇都宮氏2代当主。八田権守(はったごんのかみ)を称した。宇都宮宗綱、中原宗綱とも呼ばれる。藤原兼房の子兼仲の子で、母が身篭って間もなく、兼仲が応徳2年(1085)に没すると、母は、その弟(または兄)である宗円の妻となり、生まれた宗綱が、その家督を継ぐ。一説に、宗綱は八田(常陸国、現在の茨城県下館市八田)を政治基盤としていたといわれる。これは、宗綱自身が八田を称していたことはもとより、諸氏系図で父・宗円が益子の豪族である益子正隆の娘を室としていることや、宗綱自身が常陸国大掾の平棟幹(大掾棟幹)の娘を室としていること、小田氏始祖となる次男の知家も八田を号されていること、嫡男の朝綱の母が八田局と号されていることなどが背景にある。この場合、宗円と宗綱は八田の政治基盤を背景に、真岡の芳賀氏を傘下に加えながら毛野川(鬼怒川・田川)沿いに宇都宮に入り、宇都宮氏の基盤を整えたとされる。応保2年(1162年)8月20日、77歳で没する。娘の寒河尼は源頼朝の乳母を務め、小山政光の後妻となって結城氏の祖となる朝光を生んでいる。 *「宇都宮 朝綱」(うつのみや ともつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鳥羽院武者所、白河院北面武士。藤原姓宇都宮氏3代当主。宇都宮三郎朝綱。八田宗綱の子。大番役で上洛し鳥羽院武者所、後白河院北面を務め、左衛門尉に任官される。この間、京女の醍醐局を室としその間に嫡男・業綱が生まれる。治承4年(1180)8月、京に滞在中に源頼朝が伊豆国で挙兵、関東を本拠地とする朝綱は平清盛に抑留される身となる。常陸国で反頼朝の烽火を上げた志田義広に対し、頼朝は小山朝政に討伐を下知、これに呼応した弟の八田知家や従弟の城井信房が討伐軍に参軍して功を挙げた。寿永元年(1182)9月19日、頼朝の嫡男・頼家誕生にあたり、畠山重忠や梶原景時等と御護刀および馬200余頭を献上する。元暦元年(1184)5月24日、朝綱は平家の家人・平貞能のとりなしで帰国を許されて頼朝に従い、本領安堵のうえ伊賀国壬生野郷の地頭に任じられた。同年11月14日)、平氏追討の功で佐々木盛綱等と共に西国に所領を賜る。元暦2年(1185)7月7日、平家一門の都落ち後に行方不明になっていた平貞能が頼朝への助命を求めて突如朝綱の元を訪れたため、朝綱が頼朝を説得して貞能の身柄を預かることとなる。文治元年(1185年)10月24日、勝長寿院の落慶供養に参列する。『吾妻鏡』の記述には、五位六位の参列者32人のうちの一人として朝綱の名がある。文治5年(1189)7月の奥州合戦で朝綱は嫡子・業綱、宇都宮一門(八田知家ら)ならびに紀清両党と共に参陣して功績を挙げ、頼朝から「坂東一の弓取り」と賞賛された。この奥州攻めの往路で、頼朝軍は宇都宮に立ち寄り宇都宮社に戦勝を祈願した。これにより戦勝を収めた帰路、再び宇都宮に立ち寄り、戦勝の礼として宇都宮社職には荘園と囚人の樋爪季衡を捧じた事が『吾妻鏡』に見える。建久元年(1190)11月には頼朝の上洛にも従った。
2024年03月31日
コメント(0)
「宇都宮氏一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「宇都宮氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・33、 「頼綱と公田掠領騒動と牧氏の変」・・・・・・・94、 「鎌倉時代と宇都宮氏」・・・・・・・・・・・145、 「室町時代と宇都宮氏」・・・・・・・・・・・306、 「宇都宮公綱と竹ノ下の戦い」・・・・・・・・357、 「南北朝時代と宇都宮氏」・・・・・・・・・・408、 「正綱と享徳の乱・長尾景春の乱」・・・・・・449、 「再興する宇都宮成綱」・・・・・・・・・・・5210、「宇都宮氏の衰退」・・・・・・・・・・・・・8911、「宇津宮氏の滅亡」・・・・・・・・・・・・・9212、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・112 1「はじめに」中世下野の武家。北関東の名族で知られ、室町時代には「関東八屋形」(やかた)にも数えられた。出自については、下毛野氏、中原氏、藤原氏などの諸説がある。各種系図では、関白藤原道兼の曾孫宗円を祖とする者が多い。鎌倉初期に宇都宮二荒山神社の検校職や伊賀、九州、四国などの地頭職を安堵された。一時勢力拡大を極めた宇都宮公綱も評定衆、引付衆として幕府中枢にも地位を得、所領支配を目的にした「宇都宮家式条」は最も初期に属する武家家法である。ところが家臣の内紛を機に宇都宮家の屋台は崩れ、収拾、再興がままならぬ状況に打つ手はなかった。しかし学芸の家柄としても優れ、特に和歌では「宇都宮歌壇」という一大歌壇を形成した。「新〇和歌集」は宇都宮国綱功績が大きい、又、弓道の武芸でもその名を馳せたが、豊臣秀吉の小田原攻めに佐竹氏らとともに参陣したが、しかし、慶長2年(1597)突如、所領を理不尽にも秀吉から改易で没収され滅亡した。
2024年03月31日
コメント(0)
12、「大内氏の傍流・庶流」清和源氏義光流の大内氏周防国の大内氏多々良朝臣姓、石見の大内氏豊前国の大内氏豊後国の大内氏佐伯氏流の大内氏。佐伯系図に佐伯弥四郎惟直の子惟篤が大内次郎と名乗ったとある。紀伊国の大内氏紀伊国の牲川氏が、源姓大内氏または多々良姓大内氏の後裔とする。秀郷流藤原姓結城氏流の大内氏下野国安蘇郡大内邑が発祥。『尊卑分脈』によると結城氏第3代当主結城広綱の子、宗重が大内邑を拠点として大内弥三郎、大内新左衛門尉と名乗った。下野芳賀の大内氏下野国芳賀郡大内荘が発祥。専修寺の建立に関わった真岡城主の大内国行がいる。『姓氏家系大辞典』では同郡出自の芳賀氏と同じ清原氏の一族ではないかと述べている[1]。越智宿禰河野氏流の大内氏伊予国和気郡大内郷が発祥。『越智系図』に河野親清の子、盛家の子、家則が大内太郎と名乗ったとあり。同系図には他に家則の子、大内家澄、大内家資、大内信資を乗せる。また『河野系図』には河野親清の子、盛家が大内氏また福角氏と名乗り、子に信家、家重、増栄、盛資とある。『予章記』には南北朝時代の人物として、大内大蔵少輔、大内式部少輔、大内九郎左衛門尉をあげている。『予陽記』では平田村にあった大内城が大内氏の居城であるとする。『河野分限帳』に大内伊賀守信泰が見られる[1]。摂津国の大内氏但馬国の大内氏丹後国の大内氏丹後国与謝郡大内郷が発祥[1]。清和源氏佐竹氏族の大内氏桓武平氏相馬氏族の大内氏陸奥国行方郡大内邑が発祥。相馬氏一族、泉氏の庶流[2][1]。陸奥国菊池氏流の大内氏陸奥国安達郡小浜城主の大内氏。多々良宿禰を称する。陸奥国四本松石橋家重臣、のちに伊達仙台藩家臣。大内義綱・定綱父子が知られる。『伊達世臣家譜』の説によると大内持世の子、太郎左衛門義世の子孫であるとする。また別の説として、安達郡戸沢の『菊池系図』に「11代武政、永正元年(1504)田向城に生る。菊池大阿弥丸のち大内太郎左衛門尉、丹波守、菊池を改めて、外祖父の氏をもって大内と称す。永禄11年(1568)正月卒す」「15代顕綱、天文4年(1535)田向城に生る、はじめ武時、大内大阿弥丸、左京進、太郎左衛門尉、四本松主石橋家に属し、数々軍功あり、石橋松丸・四本松城を逃れ、その後三春の主田村清顕に属す」。『積達館基考』には「往古、田向の菊池が氏族分かれて、月山に住し、南方を押さえて大内次郎左衛門、大内掃部などを称せしが、田村清綱に攻落さる」とあるように菊池氏の一族であるとする説がある。他の由来として『奥相茶話記』には「大内は昔の公方の庶流のものとて、召し連れ下り給う、京家の者なり」とあり、『相生集』には「大内氏は大崎家の旧臣にて、はじめ若州小浜を守居たりしに、大崎家の勘気を受け、石橋家の臣下となり、当所小浜に城を築いて移る。今の名は若州小浜を移したるべしと大権記に見ゆ」とある。この大内氏に関係する人物として、木幡山治隆寺弁財天文明14年(1482)10月の棟札に「大旦那源朝臣(石橋)家博、大内備前守宗政、大内備後顕祐」。戸沢村羽黒権現延徳2年(1490)4月8日棟札に「大旦那源氏(石橋)、大内備前守宗政建立」。治隆寺永正10年(1513)4月2日棟札に「大内左京亮乗義」また天正5年(1577)棟札に「当旦那大内備前守、同太郎左衛門顕徳」という名前が記録されている。陸前伊具の大内氏陸奥国伊具郡大内邑が発祥。胆沢の大内氏陸奥国胆沢郡の柏山氏家臣。出羽国の大内氏秀郷流藤原姓田原氏流の大内氏武蔵国埼玉郡の鷲宮神社社家。陸奥国田村郡の大内氏儒学者の大内熊耳が知られる。駿河国の大内氏駿河国庵原郡大内邑が発祥。庵原氏の一族であり、『吾妻鏡』正治2年(1200年)1月23日条には「大内小次郎」が見られる。室町時代の応永年間に大内安清が西山本門寺を建立している。尾張国の大内氏
2024年03月30日
コメント(0)
大内氏の後継を自認する輝弘であったが、実は大友宗麟の影響を受け、キリシタンであったといわれる。そのため大内縁故の寺院を焼いたとされ、これは後の大友宗麟の「耳川の戦い」でも見られたことである]。長門国赤間関に陣を敷いて九州攻略の指揮を執っていた毛利元就は、13日に急報を受け取ると九州からの撤退を指示。15日から九州撤退を開始し、18日に長府に到着、21日に吉川元春と福原貞俊が10000の兵を率いて山口に急行する。元春は大内方に組した者たちを徹底的に討伐しながら進軍した。この時、大友宗麟は退却する毛利軍を追撃しておらず、毛利軍を追い払うことのみを目的として輝弘らを捨て駒にしたと考えられている。山口への救援としては石見国津和野の吉見正頼の家臣である上領頼規も嫡男・頼武や伊藤実信、吉賀頼貞らを率いて駆けつけ、山口の宮野口で城井小次郎率いる輝弘軍1000と交戦。この戦いで上領頼武や伊藤実信らが戦死している。高嶺城が落ちない一方で輝弘軍への包囲が始まりつつある状況を知った大内遺臣は、次第に輝弘軍から離散し始めた。「大内輝弘の最期」10月25日、輝弘の手勢は800となり、上陸地である秋穂浦へと撤退する。しかし、すでに軍船はなく(毛利軍による襲撃、もしくは大友水軍の帰国)、輝弘は東へと向かった。その途中で、南方就正率いる防府の右田ヶ岳城の城兵にも攻撃されて敗走。三田尻でも船はなく、浮野峠を越えて佐波郡富海まで逃げてきた。しかし、この先の椿峠には杉元相や由宇正覚寺別当の周音らの手勢が集まってきており、従う兵が1000人に過ぎなかった輝弘はこの方面への撤退を諦めて浮野峠の茶臼山に引き返した。後方からは吉川元春率いる毛利軍主力が迫ったため、最期の一戦を試みるが衆寡敵せず壊滅。輝弘の自刃で乱は終結した。自刃した輝弘らの首級は福間元明によって挙げられて長府まで送られ、元就の本陣で首実検が行われた後に埋められたと言われている(豊後塚)。なお、騒乱が鎮圧された直後、旧大内家臣の吉田興種・武種父子は輝弘への内通を疑われて討たれている。「毛利氏」毛利軍はこの反乱を鎮圧した後、尼子氏再興に向けて挙兵していた尼子勝久・山中幸盛らを討つべく出雲国へ向かった。最終的に、大内・尼子両氏の残党を掃討することに成功した毛利氏は、周防国・長門国・出雲国などの支配を確立する。一方で、この戦いのために主力軍を撤退させた豊前国では、門司城などの一部を残して拠点を失った。さらに畿内を制した織田信長と対峙するようになった毛利氏は九州進出から手を引き、以後、毛利氏が筑前国・豊前国の覇権を掛けて大友氏と戦うことはなくなった。「大友氏」大内輝弘は敗死したものの、後方攪乱によって毛利軍を撤退させることに成功、さらに毛利氏に奪われていた筑前国の領地・諸城も奪回した。この戦いで最大の利益を得たという点で、勝者と言える。その後、九州への干渉がなくなった毛利氏との戦いは無くなり、替わって九州の覇権をめぐり龍造寺氏や島津氏との対立を深めていく。「大内氏」大内輝弘は、子・大内武弘と共に親子で自害したため、大内氏は名実共に滅亡した。ただし、大内氏の血筋としては、応永の乱で足利義満に反乱を起こした大内義弘の次男・大内持盛を祖とする山口氏(牛久山口氏)が尾張国に残っており、江戸時代は常陸国牛久藩を治め、明治維新まで譜代大名として存続している。 「豊後大内氏」永禄2年(1559)、室町幕府将軍足利義輝は大内義長の実兄である大友義鎮(後の宗麟)に対して九州探題の職とともに大内氏の家督を認める御内書を発給している「大友家文書」。永禄12年(1569)、大内氏の一門である大内輝弘は大友宗麟の後ろ盾を得、加勢の兵を糾合し周防山口に侵攻した。周防においては大内氏旧臣らの帰参が相次ぎ一時は山口の占拠に成功するが、大友氏との交戦をやめ北九州より反転してきた毛利軍主力の逆襲に遭い、攻められ自害した(大内輝弘の乱)。 「江戸時代」江戸時代牛久藩主であった山口氏は、大内氏分家であり大内義弘の次男・大内持盛の系統であるといわれる。初代藩主は、もと織田家に仕えていた山口重政で、明治維新まで譜代大名として存続した。大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。古来より大内という地名は日本各地にあり、そのため以下のさまざまな大内氏が存在する。
2024年03月30日
コメント(0)
この晴賢の強引な手法に不満を持つ者も少なくなく、義隆の姉婿であった吉見正頼が石見三本松で反旗を翻し、鎮圧の最中に安芸の最大勢力であった毛利元就も反旗を翻して、安芸国内の陶方の諸城を攻略した。弘治元年(1555)、安芸国宮島で晴賢は元就の奇襲攻撃の前に自害して果てた(厳島の戦い)。家中を牛耳っていた晴賢の死により、大内家内部はもはや統制のきかない状況となった。弘治2年(1556)、元就は晴賢亡き後の大内領への侵攻を開始した。それにも関わらず杉氏や陶氏、内藤氏が山口周辺で内紛により衝突。親族の吉見氏も毛利氏へと従属。まともな戦闘能力を失った大内義長は内藤隆世の守る長門且山城に逃亡。弘治3年(1557)に隆世と義長は自害。戦国大名としての周防大内氏はこの時点で滅亡してしまった(防長経略)。しかし、大原氏との間に生まれた義隆の四男である義胤は石見に落ち延びて益田氏重臣の城一氏に匿われて生き延びた。「大内輝弘の乱」(おおうちてるひろのらん)は、戦国時代後期の永禄12年(1569)に周防・長門国で起きた騒乱。「旧大内家の動向」弘治元年(1555)から始まった毛利元就の防長経略によって大内氏は滅亡し、周防・長門国は毛利領となった。大内家臣の多くは新たな領主となった毛利氏に従ったが、これに不満を持つ大内遺臣もいた。毛利氏の支配が始まった直後から、毛利氏の支配が確立して間もない弘治3年(1557)11月には、旧大内氏の重臣格であった杉氏・内藤氏・問田氏らが大内義隆の遺児とされる問田亀鶴丸を奉じて挙兵、山口近郊の障子岳に籠もった。この反乱は、毛利氏の支配を覆すべく挙兵した大規模なものであったが、毛利家臣となっていた内藤隆春・杉重良らが鎮定。その後も、小規模の反乱が山口周辺で発生するも、山口支配責任者として高嶺城に入っていた市川経好がよく平定して毛利氏の支配を強化していた。一方、豊後国の戦国大名・大友氏の客将に、大内義興の弟である大内高弘の子大内輝弘がいた。高弘は大友親治(大友宗麟の曽祖父)の誘いに乗り、大内重臣杉武明と謀って義興に謀反を起こしていたが、失敗して豊後国に亡命していた。輝弘は山口に帰国して大内家を再興しようとしていたが、頼ろうとした大内家残党(陶・内藤旧臣)が永禄8年(1565年)6月に周防屋代島に集まったところで毛利麾下の来島通康勢に討ち取られてしまっていた。「毛利氏の九州進出」永禄9年(1566)に出雲国の尼子氏を滅ぼした毛利元就は、永禄11年(1568)には伊予国へと出兵、河野氏を支援して後方の憂いを断った(毛利氏の伊予出兵)。そして、永禄12年(1569)に大内氏の後継を自認して博多の権益を狙い、大友領であった豊前国・筑前国への侵攻を開始した。同年5月、博多を守る要衝であった立花山城を攻略、大友宗麟と全面対決へと至った。九州へ侵攻した毛利氏は、筑前国の国人らを味方に引き入れた。「輝弘の周防上陸」立花山城付近で毛利軍と大友軍の対立(多々良浜の戦い)が続く中、大友家臣の吉岡長増は、毛利氏を九州から撤退させるべく毛利軍の後方撹乱を狙った。少なくとも同年3月に大友氏から備前国浦上宗景に送られた書状で、輝弘の派兵を示唆する内容が見受けられる。そして、6月に尼子残党の尼子勝久・山中幸盛の出雲国侵入(尼子再興軍の雲州侵攻)に呼応して、山口へ大内輝弘を送り込むことを画策した。 毛利氏は大内一族を山口に乱入させる策を大友氏が企んでいることを数年前から知っていたが、戦線を拡大していた毛利軍は手薄であり、対応が遅れることになった。大内氏再興の機会を得た大内輝弘は、豊後国から若林鎮興率いる大友水軍に護衛されて軍勢2000を率いて周防国へ渡航した。 この記録は当時豊後国にいた宣教師の書状にも見える。 永禄12年(1569年)10月11日、先だって7月と8月に威力偵察を行っていた吉敷郡南岸、秋穂浦・白松の海岸への上陸。大内一族の復帰を知った秋穂・岐波・白松・藤曲等の大内遺臣が大内輝弘の軍に加わり、その勢力は一気に増した。翌日の山口侵入時には6000にまで膨らんだとされる。山口での攻防10月12日、大内輝弘は陶峠から山口に侵入[6]。毛利方は、平野口を山口町奉行の井上善兵衛尉就貞が、小郡口を信常元実が守っていたが、数に勝る輝弘勢が糸根峠で激戦の末に井上隊を打ち破り、就貞は戦死した。続いて、三河内次郎右衛門尉、波多野備後守、二宮弥四郎などを斬り、輝弘軍は龍福寺と築山館を本営として毛利勢の籠もる高嶺城攻略を開始。高嶺城主の市川経好は九州へ出陣中であったため、内藤就藤や山県元重、国清寺の住持・竺雲恵心らがわずかな城兵でその留守を守っていたが、在郷の士である有馬善兵衛、津守輔直、寺戸対馬守らが乗福寺の代僧と共に急遽登城して籠城に加わり、経好の妻・市川局も鎧を身にまとって城兵を鼓舞したため、この日は高嶺城は落ちなかった。輝弘は翌日も高嶺城への攻撃を再開したが、高嶺城の出城も落とすこともできず戦線は膠着した。なお、この山口侵攻によって大内縁故の寺院の多くが焼け、宝物が失われている。
2024年03月30日
コメント(0)
11、「大内氏の終焉の混乱」「大内 義長」(おおうち よしなが)は、周防・長門両国の戦国大名。周防大内氏の第17代で事実上最後の当主。出生・大内家の猶子天文元年(1532)、豊後大友氏の20代当主・大友義鑑の次男として生まれる。実兄はキリシタン大名で有名な大友宗麟。天文12年(1543)に尼子晴久との戦いで大内軍が敗走する際に義隆の養嗣子である晴持が死去したため、継嗣を失った義隆は天文12年(1544)に姉婿である義鑑の次男である八郎晴英を猶子とした。室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を与えられ、晴英(はるひで)と名乗る。晴英はあくまで養嗣子ではなく猶子であり、これは義隆に将来実子が生まれなかった場合に家督相続人とする含みを持っていたが、大友氏ではこれを歓迎した。しかし、天文14年(1545)、義隆に実子の義尊が誕生したため、猶子関係を解消され、帰国した。この時の義隆の実子誕生と晴英の縁組解消は九州諸大名にかなりの衝撃を与えたとされている。「傀儡の当主」その後、義隆の重臣・陶隆房が義隆に対して謀反を企てると、隆房は天文20年(1551)5月に晴英を大内氏の新当主に迎えることを望んだ。晴英の兄・大友義鎮は、当初から隆房が晴英を傀儡として擁立するだけで、自分の政権が揺ぎないものとなれば廃位されるに違いないと疑い反対したが、晴英自身が大内氏の当主となることを望み「この要請を断り中傷を受けることの方が悔しいので、命は惜しくない」と主張したため、義鎮もこれを認めた。そして9月に謀反(大寧寺の変)が実行され義隆・義尊父子が殺され、大内領内における混乱がひとまず収束した後の天文21年(1552)3月3日、山口に入って大内家の新当主として擁立された。この時、大内氏の祖先とされる百済の琳聖太子が上陸したと伝えられる周防国の多々良浜に上陸して山口に向かっており、大内氏の故事を踏襲して当主としての正統性を示そうとしたと考えられている。また、隆房も晴英を君主として敬うことを内外に表明するため、晴英から偏諱を拝領し、晴賢と改名した。この時の政治に関しては文書形式も奉書・直書も義隆時代と同様であり、晴英の命令を晴賢が奉じる形になっていた。ただし偏諱を受ける場合はあくまで当主の諱の下字を受けるものであるが、晴賢の場合は上字を受けており、晴英と晴賢の主従関係が通常とは全く異なる事を意味している[5]。天文22年(1553)春、室町幕府13代将軍・足利義藤(のちの義輝)から偏諱を受けて義長(よしなが)と改名し、同年閏1月27日、従五位下左京大夫に叙任された。これは歴代当主にならって大内家当主である事を強調するためであった。しかし当主になったとはいえ、実質的には晴賢の傀儡であった。天文23年(1554)3月には、三本松城主の吉見氏討伐のため総大将として出陣するが、全軍の指揮は事実上晴賢が執っている(三本松城の戦い)。また、弘治2年(1556)には、勘合貿易の再開を求めて明に使者を派遣したが、明からは正統な大内氏当主としての承認を拒まれている。「防長経略と最期」弘治元年(1555)、晴賢が毛利元就との厳島の戦いで敗死すると、血縁があるとはいえ外様出身で一度解消された経緯のある養子だった義長の求心力は低く、ただでさえ晴賢の謀反やその他の内訌で弱体化していた家臣団は完全に崩壊し、大内家は急速に衰退していく。義長は兄義鎮に援軍を求めたが、義鎮は元就との間に大内領分割の密約を結んでいたために応じなかった。また義鎮は大内家の家督に興味を示さず、何ら野心の無い事を元就に約していたという。こうして後背の安全を得た毛利氏は防長経略で弘治3年(1557)3月、山口へ侵攻。義長は寡兵をもってよく防戦したが、結局高嶺城を放棄し、重臣・内藤隆世の長門且山城へ敗走した。しかしすぐに毛利軍の福原貞俊により且山城を包囲され、隆世は義長の助命を条件に開城し自刃した。義長も長門長福院(現在の功山寺)に入った後に毛利軍に囲まれて自刃を強要され、陶鶴寿丸(晴賢の末子とされる)らと共に4月3日に自害した[6]。享年26歳。辞世の歌は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」。義長の死により西国の名門大内氏は滅亡したが、後に大内輝弘が大友氏の支援を受けて周防に上陸し、大内氏再興を試みている(大内輝弘の乱)。また、早くから分かれた傍流の山口氏が江戸時代に大名として存続した。また、元就は義長没後の弘治3年(1557年)5月14日に大友義鎮に対して大内家の復興に関して所存を求めたが、義鎮は大内家の断絶を勧めて復興は拒絶している。永禄2年(1559)には室町幕府将軍足利義輝が、義鎮に対して九州探題の職と共に大内氏の家督継承を認める御内書を発給している。「偏諱を受けた人物」晴英時代(「晴」の字)陶晴賢(前述した通り、初名は隆房である)※前述の通り、もともと「晴」の字は第12代将軍・足利義晴から賜ったものであり、これを与えたということは晴賢が義長からかなりの待遇を受けていたことが分かる。義隆の死後、陶隆房は義隆の甥で以前義隆の猶子であった大友氏出身の大友晴英を当主として擁立、偏諱を受けて晴賢と改名した。晴賢が実権を掌握し、大内義長と改名した晴英を傀儡として頂点に抱くという形で大内氏は存続した。
2024年03月30日
コメント(0)
両名は内藤興盛と共に何か画策している」という根も葉もない讒訴を行なった。つまり、隆房が謀反を起こそうとしており、その対立が生じた責任を杉重矩1人に押し付けて、自らには責任が無いと申し立てたのである。どちらかというと義隆擁護派であった重矩が隆房の謀反に協力するようになったのは、隆房を疑わない義隆に失望したとも、相良武任申状で讒訴されたことを知ったからともされる。4月に義隆は、武任を周防に連れ戻して出仕させた。それに対抗するように隆房らは翌5月、大友義鎮の異母弟・大友晴英(義隆の姉の子=義隆の甥)を大内新当主として擁立する旨に協力を願う密使を大友氏に送る。北九州における大内領の利権を割譲する代わりに、晴英を貰い受けることで、晴英の快諾と義鎮の許諾を得ている。「陶隆房の蜂起」8月10日、武任は隆房を恐れて、大内家から三度目の出奔をして筑前に逃走する。8月20日、隆房は興盛らと共に挙兵。陶軍は最初に東の厳島の神領と桜尾城を接収、呼応して出陣した毛利軍も佐東銀山城や近隣地域(広島市安佐南区)を接収して、山陽道の要衝を押さえた。8月28日に若山城から出陣した陶軍は、隆房率いる本隊が徳地口から、陶家臣の江良房栄・宮川房長率いる別働隊が防府口から山口に侵攻した。山口に入ったのは同日正午頃で、杉・内藤の軍勢も呼応して陶軍の陣営に馳せ参じた[4]。陶軍は兵力5000〜10000と言われる。これに対して、義隆の対応は非常に鈍かった。23日には陶軍の山口侵攻の噂で騒然としていたとされるが、豊後大友氏からの使者等を接待する酒宴を続けており、隆房出陣前日の27日には能興行を行っていた。隆豊は杉重矩邸への討ち入りを提案するが、義隆は「杉と内藤は敵にはならないだろう」と答えたと伝わる(大内義隆記)。隆房の侵攻を伝える注進が届いてようやく義隆は、大内氏館・築山館を出て、多少でも防戦に有利な山麓の法泉寺に退く。本堂に本陣を置き、嶽の観音堂・求聞寺山などを隆豊らが固めたとされるが、一緒に逃亡した公家たちや近習らを除けば、義隆に味方した重臣は隆豊くらいであり、兵力も2000〜3000人ほどしか集まらなかった。組織的な抵抗もほとんどできず、空となった大内氏館や周辺の近臣邸は、火をかけられたり、宝物を略取されたりした。前関白の二条尹房は興盛に使者を送り、"義隆は隠居して義尊を当主とする"という和睦斡旋を懇願するが、拒否されている。法泉寺の義隆軍は逃亡兵が相次いだことから、翌29日には山口を放棄して長門に逃亡。法泉寺には、陶隆康が殿として残って討ち死にしている。なお、継室のおさいの方は、山口宮野の妙喜寺(現在の常栄寺)に逃れた。義隆は、足を痛めながらも明朝には長門仙崎にたどり着き、海路で縁戚に当たる石見の吉見正頼を頼って脱出を図ったが、暴風雨のために逃れることができなかった。引き返した義隆らは長門深川の大寧寺に籠り、隆豊らと共に戒名を授かると、9月1日の10時頃に自害した(中国治乱記)。隆豊は義隆の介錯を務めた後、陶軍の中に突撃して壮絶な討死をしたと伝えられる。また、義隆の嫡男・大内義尊は従者と共に逃亡するが、2日に陶方の追っ手によって捕らえられ、現在の俵山温泉下安田にある麻羅観音の奥で殺害された。また三男の大内歓寿丸は女装して山中に隠れて生活していたが、翌年に捕らえられ同じく麻羅観音の奥で殺害された。ただし、義隆の次男(義尊の弟)である問田亀鶴丸は、母方の祖父が内藤興盛の孫(興盛の娘の子)ということもあり助命された。さらに、義隆を頼って京より下向していた二条尹房や前左大臣三条公頼(武田信玄正室・三条の方の父)、そして継室おさいの父官務家小槻伊治らの公家も殺害された。特に、前権中納言持明院基規は悲惨な最期だったとされており、義隆を取り巻いていた公家達は、謀反を起こした隆房ら武断派の憎悪を買っていたと思われる。相良武任と、武任を匿っていた杉興運ら義隆派は、隆房が筑前に送り出した野上房忠の軍勢により花尾城で攻め殺される。武任の首は、隆房によって山口で晒された。9月4日、元就は東西条の大内領に兵を進め、義隆派の平賀隆保が籠もる頭崎城を攻めた。隆保は頭崎城から逃亡して、槌山城の菅田宣眞の元に入った。元就は、吉川・小早川・宍戸らと共に軍勢4000で槌山城を攻め、11日に降伏させた。10月、陶氏と姻戚関係にあった石見七尾城主の益田藤兼が、義隆方の吉見正頼を攻撃[7]。しかし、吉見氏の支城能登呂山城攻めは、吉見家臣・下瀬頼定の防戦により失敗した。また、相良武任の子である虎王を捕らえて殺害している。天文21年(1552)1月に隆房は、杉重矩を長門万倉(宇部市)の長興寺で自害に追い込む。これは、重矩が義隆に隆房を讒訴していたことを知ったため(変後に相良武任申状を入手した)と言われている。同年3月には、大友晴英を山口に迎えた。新たな大内家当主として家督を継がせた晴英を、大内義長と改名させると、隆房自らも新たな主君・晴英(義長)へ忠誠を誓う証として晴賢へと改名。こうして、晴賢は義長を傀儡の当主として大内家の実権を掌握した。
2024年03月30日
コメント(0)
10、「大寧寺の変」(たいねいじのへん)とは、天文20年8月28日 – 9月1日(1551)にかけて起こった、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により、自害させられた政変。この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。後年の本能寺の変と並ぶ下克上の事例ともいわれる。天文10年(1541)、大内氏の傘下の毛利氏を攻めた尼子氏は敗退した(吉田郡山城の戦い)。これを契機に、周防の戦国大名である大内義隆は、大内家臣団でも武功派である陶隆房らの主導のもと、天文11年(1542)に大軍を率いて尼子氏の本国・出雲国への遠征に臨んだが、月山富田城に籠もって徹底抗戦する尼子晴久を攻めあぐねる(第一次月山富田城の戦い)。ついには、越年した天文12年(1543)2月に大内軍は総崩れとなり、大将・義隆は周防に敗走、甥で養子の大内晴持に至っては敗走途中の揖屋浦で溺死するなど、大内方は散々な結果を迎えた。これにより、勢力の回復を図ろうとして活発化する尼子氏に対して、安芸・石見・備後などでは大内諸将や毛利元就らが対抗して出陣するなど、慌ただしくなっていた(布野崩れ、神辺合戦など)。一方の義隆は、出雲遠征を主導した陶隆房ら武功派を国政の中枢から遠ざけた。出雲での大敗が極端なまでの厭戦気運を助長したばかりでなく、政務を文治派の寵臣・相良武任に一任して政務から遠ざかり、学芸・茶会などに没頭、公家のような生活を送るようになり、国内治政さえ顧みなくなった。さらには多額の出費を賄うために年貢の増徴も行われ、土豪や領民も増税に苦しむようになった。このため、大内家の主導権を巡って武功派の陶隆房・内藤興盛ら(ひいては、武任の偏重に反発する大内家の評定衆全体)が、文治派の相良武任を敵対視するようになった。「謀反に至るまで」天文14年(1545)になると険悪関係は深刻度を増し、相良武任は隆房を恐れるあまり大内氏を辞仕、出家後に肥後に隠棲して身の安全を図った。隆房らの巻き返しを受けての武任ら文治派の失脚の影響と言われる。しかし、天文17年(1548)には義隆の要請を受け大内家に再出仕した。この頃、豊前守護代である重臣杉重矩が、不穏な動きをする隆房について義隆に進言したが聞き入れられなかったとされる(相良武任申状)。天文18年(1549)2~5月に、大内氏と毛利氏の同盟を強化するための義隆の計らいで、元就が息子たちを連れて山口を訪れて義隆に謁見する。しかし、毛利に近づくための陶の招きとも言われており(相良武任申状)、隆房の嫡男・陶長房を通じて密書のやりとりがあったとも言われる。また、 この長期の滞在の間に隆房と吉川元春は義兄弟の契りを結んだ。天文19年(1550)になると、武任と隆房との対立が決定的となり、武任暗殺まで謀られるに至るが、事前に察知した武任は義隆に密告して難を逃れた。しかし、隆房が謀反を起こすという伝聞が流れるまでになり、義隆の側近である冷泉隆豊は義隆に隆房の誅殺を進言するほどだった。武任は、美貌で評判だった自分の娘を陶長房に嫁がせることで和睦を図ろうとしたが、隆房が家柄の違いを理由に縁談を拒否し、融和案は決裂した。8月24日付けで隆房は、毛利元就・隆元宛と吉川元春宛に2通の密書を書き送り、「杉や内藤と相談し、義隆を廃し、義尊に跡目を継がせたい」として協力を求めているのが、隆房が謀反を示す最初の史料とされる(吉川家文書)。また、元就を通じて隆房の意向は、天野隆綱など他の安芸国人にも伝えられており、隆房への協力の見返りに所領を与えることが約束されていた(天野毛利家文書)。9月15日に仁壁神社・今八幡宮で行われた例祭での参詣を義隆は急遽欠席し、右田隆次を代参させた。これは「隆房が、義隆・武任を幽閉する」という噂で、義隆側が警戒したものと考えられている。翌16日に義隆は隆房を呼び出して詰問するが、隆房は無実を主張した[4]。他方、武任は同日(16日)に再び大内家から出奔し、石見の吉見正頼の元に逃げていた。11月下旬より隆房は、病気と称して居城若山城(周南市)に籠もり、年が明けた2月の修二月会大頭役の勤めも果たさなかった(隆房が同役を勤めることは前年から決まっていた)。この時、義隆も隆房らの謀反を恐れて、自ら甲冑を着けて居館に立て籠もり、さらに隆房に詰問使を送るなどしたことから、義隆と隆房の仲は最悪の事態を迎えた。天文20年(1551)11月、出奔していた武任が、筑前守護代の杉興運によって身柄を確保された。この一連の騒動で義隆から責任を追及されることを恐れた武任は、相良武任申状において弁明し、「陶隆房に謀反の疑いがあると主張したのは(普段より隆房と不仲であった)杉重矩である。しかし、その注進が受け入れられなかった重矩は、(隆房の怒りを買わないように保身のため)讒訴を自分(武任)がしたとすり替えて隆房に近づき、対立していたはずの隆房に寝返った。
2024年03月30日
コメント(0)
「月山富田城の戦い」末次城に本陣を移した尼子再興軍は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる。宇波(島根県安来市広瀬町宇波)、山佐(同町山佐)、布部(同町布部)、丸瀬など月山富田城の周囲に10箇所あまりの向城を築くとともに、毛利氏方の城を8箇所]。攻略して月山富田城を孤立化させた。 そして永禄12年7月中旬(1569年)8月下旬、尼子再興軍は月山富田城攻めを開始する。このとき、中国地方の毛利軍は元就の命により多くの者が九州へ出陣していたため、月山富田城も例に漏れず天野隆重ら率いるわずかの兵しか残っていなかった。このような不利な状況を打開するため、城主である隆重は一計を案じ尼子再興軍へ書状を送りつける。隆重より「月山富田城を開放し降伏したい」とする書状が送られてきた尼子再興軍は、その真意が図りかねたため、秋上宗信に兵を率いさせ月山富田城へ向かわせる。 月山富田城へ到着した尼子再興軍は、隆重の書状のとおりさしたる抵抗もなく城の奥深くまで進むものの、七曲りの終点付近(三の丸の前)において待ち構えていた毛利軍より急襲を受ける。隆重の降伏は嘘だったのである。隆重の書状を信じ攻撃は無いと油断していた宗信は、毛利軍より鉄砲・弓矢を射かけられ部隊が混乱し、反撃する間もなく多数の犠牲者・負傷者を出し末次城へ撤退した。その後、尼子再興軍は山中幸盛と立原久綱らに1000の兵を率いさせ再び月山富田城を攻める。しかし攻略することはできなかった(戦いの内容は史料によって異同あり。)。退却する際、城内より神代大炊介が70~80人の兵を率いて追撃してきたが、牛尾弾正忠が殿となりその攻撃を防ぎ無事に帰還した。「戦後の影響」月山富田城を攻略することはできなった尼子再興軍であったが、その後、出雲国内において16の城を攻略、その勢力を6000余りにまで拡大させた。そして7月下旬(9月中旬)頃には、出雲において「在々所々の者共、残す所無く彼牢人(尼子再興軍)に同意候」と天野隆重が書状で伝える様に、出雲国一円を尼子再興軍が支配する状態となった。出雲国内の支配を着々と進める尼子再興軍であったが、その拠点である月山富田城については、石見からの毛利救援軍との戦い(原手合戦)や隠岐為清の反乱(美保関の合戦)などによって時間をとられ攻略することができないでいた。しかしながら、引き続き月山富田城を包囲して圧力を強め続けていたため、城内では兵糧が欠乏し、また、馬来、河本、湯原氏らが尼子再興軍へ投降するなど[40]、優位な情勢で月山富田城攻略を進めていた。一方、毛利軍は大友軍との争いの末に立花城を奪取するも、引き続き大友軍が立花城に留まり続けたため軍を動かすことができないでいた。10月11日には、大友氏の支援を受けた大内輝弘が海を渡り、その翌日には周防国の大内屋敷跡を襲撃してその地を一時占拠する事態も発生した(大内輝弘の乱)。毛利氏の領国支配体制は一転、最大の危機を迎えるのである。ここに至って毛利氏の当主・毛利元就は、北九州に在陣する毛利軍の撤退を決定する。10月15日、立花城に在陣する毛利軍は、乃美宗勝、桂元重、坂元祐等わずかな兵を残して撤退を開始し、その他の北九州に在陣する毛利軍も随時撤退していった。11月21日には城に残っていた宗勝らも退却し、 毛利軍は門司城を残して北九州から全て撤退した。永禄12年(1569)10月13日、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰着すると、10月25日頃に大内家再興軍の反乱を鎮圧する。輝弘は富海で自刃し、大内家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した(大内輝弘の乱)。反乱を鎮圧した毛利軍は、12月23日(1570)に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還した。永禄13年(1570)1月6日、本国に帰還した毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、休むまもなく尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。毛利軍は北上して出雲国へ入国すると、尼子方の諸城を攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。 そして2月14日、毛利軍は尼子再興軍と布部の地(現在の島根県安来市広瀬町布部)で戦い勝利する(布部山の戦い)。翌日2月15日には、城内の兵糧が全く無くなり落城寸前であった月山富田城を尼子再興軍の包囲から開放し救援に成功した。これにより以後の尼子再興軍と毛利軍との攻守は大きく入れ替わり、尼子再興軍は衰亡していくこととなった。
2024年03月30日
コメント(0)
8月13日の夜に総攻撃[8]が行われ、小白鹿城と呼ばれる出丸を占拠し、牛尾久清にも手傷を負わせたものの、本丸を落とすことはできなかった。また、元就は石見銀山から鉱夫を数百人呼び寄せて、白鹿城の水を絶つために坑道を掘らせたが、毛利氏の掘り進める坑道に気付いた籠城軍は妨害した。なお、この戦いの最中には、矢文の戦いがあったとの逸話が残されている9月下旬になって、尼子側は義久の弟である尼子倫久らが援軍を白鹿城に送ったが、毛利軍多の包囲網を突破することはできなかった。後詰が敗退したことで城兵の士気は下がり、10月に降伏した(白鹿城の戦い)。「月山富田城の包囲戦」白鹿城を制圧した毛利元就は、尼子氏の拠点を次々と制圧した。毛利水軍によって海上も封鎖し、福原貞俊に鉄砲隊を与えて海岸線の守りを固めており、永禄8年(1565年)春頃には月山富田城への補給線はほぼ断ち切られていた。4月17日、毛利軍は月山富田城への総攻撃を行った。月山富田城には城内に通じる道が3つあるため、正面の御子守口(おこもりぐち)を元就率いる軍勢、南側の塩谷口(しおだにぐち)を元春の軍勢、北側の菅谷口(すがたにぐち)を隆景の軍勢が攻めた。それに対して尼子軍は、御子守口を尼子義久率いる軍勢、塩谷口を尼子倫久・山中幸盛らの軍勢、菅谷口を尼子秀久らの軍勢で防いだ。この時、隆元の嫡子・毛利輝元と、元春の嫡男・吉川元長が初陣として参戦している。しかし、士気旺盛な尼子軍は善戦し、連日攻め立てる毛利軍の城内侵入を阻止した。28日に総攻撃を中止した元就は、洗合城に一時撤退した。同年9月、再び毛利軍は月山富田城を包囲した。この時、飯梨川を挟んで対峙していた両軍の中で、山中幸盛(鹿介)が品川将員(狼介)を一騎討ちで討ち取ったとされる(山中幸盛・品川将員の一騎討ち)。しかし、毛利軍は力攻めを行わずに兵糧攻めを続けたため、やがて城内の兵糧が窮迫した。その頃には投降者も出始めていたが、毛利側は城兵の降伏を一切認めず、投降した者は処刑された。こうすることで、孤立した城内に多くの兵が籠もることになり、補給のない中で城の兵糧を食い尽くさせる作戦であった。やがて、冬になり兵糧が底をつき始めたところで降伏を認める高札を立てたため、尼子方の籠城兵が集団で投降するようになった。さらには、尼子氏の譜代の家臣までも投降し始めた。一方の尼子側は、宇山久兼が私財をなげうって購入した兵糧を密かに間道から月山富田城に運び入れつつ、奮闘を続けていた。しかし、尼子義久が讒言を信じて宇山久兼を殺してしまうという一件があり、士気を沮喪していった。永禄9年(1566)11月21日尼子氏は降伏。毛利側は義久ら尼子一族の生命を保証し、28日に城を出た義久らは安芸国に引き取られ幽閉された。なお、和睦の交渉をしている間も逃亡兵が続出していたため、開城時の城兵は僅か300余名だったとされる。また、熊野城など残っていた尼子方の城も月山富田城陥落後に開城した。大内氏に続いて尼子氏を滅ぼした毛利氏は、中国地方最大の戦国大名となった。後方の憂いを断ち切った毛利氏は、永禄11年(1568年)に河野氏を支援して伊予国へ出兵し、さらに翌年永禄12年(1569年)には本格的に大友氏との戦いを始めるなど、その勢力をさらに拡大していく。なお、開城した月山富田城には、当初は福原貞俊と口羽通良が城代として入城したが、翌年には天野隆重が城代となる。そして、隆重の要請により元就の五男毛利元秋が城主となった。一方、尼子氏の降伏に不満を持つ山中鹿介こと山中幸盛は、叔父である立原久綱らとともに尼子氏再興の活動に奔走した。毛利軍の九州侵攻、及び尼子再興軍の雲州侵攻、尼子氏を滅ぼし、中国地方をほぼ手中に収めた毛利氏が次なる目標に定めたのは、北九州を治める大友氏の討伐であった。 永禄11年6月(1568)7月、元就は伊予国に出兵していた吉川元春・小早川隆景の両軍を本国である安芸国に帰還させると(毛利氏の伊予出兵)、同年8月に両将を北九州へ派遣し大友氏の討伐を開始する。 永禄12年4月(1569)には、元就も居城である吉田郡山城を発ち長門国へ向けて出陣する。そして同年5月に長府に入ると、ここに本陣を構えて大友氏討伐の拠点とした(多々良浜の戦い)。このとき、元就の出陣にあわせ山陰地方の多くの国人達にも九州への出兵が命じられており、山陰地方の毛利領の警備は手薄となっていった。一方、滅亡した尼子氏であったが、尼子諸牢人の中には一族の再興を目指す者がいた。その中心となった人物が山中幸盛である。 永禄11年(1568年)、幸盛は各地を放浪した後に京へ上ると、京の東福寺で僧となっていた尼子氏一門の尼子誠久の遺児・尼子勝久を還俗させ、尼子再興軍の大将として擁立する。そして各地の尼子遺臣らを集結させると、密かに尼子家再興の戦いを企てていた。永禄12年(1569)8月6日、毛利氏が大友氏を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると、挙兵の機会をうかがっていた幸盛ら尼子再興軍は出雲国へ侵攻を開始する。 尼子再興軍は但馬国から数百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する。勝久ら尼子再興軍がここで再興の檄を飛ばすと、国内に潜伏していた旧臣らが続々と集結し5日の内に3000余りの軍勢になったという。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略すると、続いて宍道湖北岸に位置する末次(島根県松江市末次町。現在の松江城の建設地。)に城を築いてここを拠点(末次城)とした(尼子再興軍の雲州侵攻)。
2024年03月30日
コメント(0)
9、「月山富田城の戦い」(がっさんとだじょうのたたかい)は、1542年から(1543~1565)から1566年に尼子氏の本拠である出雲国の月山富田城(現:島根県安来市)を巡って発生した合戦である。この合戦は、大内義隆が毛利氏などの諸勢力を引き連れて攻め込んだ第一次月山富田城の戦いと、大内氏滅亡後に毛利元就が行った第二次月山富田城の戦いに分けることができる。なお、第二次の合戦により尼子氏は滅亡したが、その後に尼子氏の再興を目指す勢力が起こした戦いについても、併せて本項で記述する。「第一次月山富田城の戦い」天文10年(1541)に尼子晴久率いる尼子軍は、毛利氏の本拠である吉田郡山城を攻めたものの、大内軍の援軍を得た毛利軍に撃退された(吉田郡山城の戦い)。この尼子氏による安芸遠征の失敗により、安芸と備後の国人衆は、尼子氏側だった国人領主たちを含めて、大内氏側に付く者が続出した。さらに、安芸・備後・出雲・石見の主要国人衆から、尼子氏退治を求める連署状が大内氏に出されたことを受け、陶隆房を初めとする武断派は出雲遠征を主張。相良武任や冷泉隆豊ら文治派が反対するが、最終的に大内義隆は、出雲出兵に踏み切ることになった。なお、大内氏出陣の少し前となる、天文10年11月には、尼子経久が死去している。「合戦の経過」天文11年1月11日(1542)1月26日に出雲に向かって大内軍本隊が出陣。大内軍は義隆自らが総大将となり、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包らが兵を率いていた。また、義隆の養嗣子大内晴持も併せて出陣する。1月19日に厳島神社で戦勝祈願をしたのち、出雲に向かう。毛利軍も毛利元就、小早川正平、益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆を集めて大内軍に合流した。4月に出雲に侵入したものの、赤穴城の攻略に6月7日から7月27日までの日数を要し、10月になって三刀屋峰に本陣を構えた。その後、年を越して月山富田城を望む京羅木山に本陣を移す。天文12年(1543)3月になって攻防戦が開始されたが、城攻めは難航する。また、糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に苦しむ。そして、4月末には、尼子氏麾下から大内氏に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返った。『陰徳太平記』によると、城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと言われる。これにより大内方の劣勢は明白となった。5月7日、大内軍は撤退にとりかかり、出雲意宇郡出雲浦[ へ退いた。だが、尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島源三郎親弘・右田弥四郎たちが防ぎ戦死している。このとき、義隆と晴持は別々のルートで周防まで退却を図った。義隆は、宍道湖南岸の陸路を通り、石見路を経由して5月26日に山口に帰還する。しかし、中海から海路で退却しようとした晴持は、船が事故で転覆したため溺死した。また、毛利軍には殿が命じられていたが、尼子軍の激しい追撃に加えて、土一揆の待ち伏せも受けたため、壊滅的な打撃を受けた。安芸への撤退を続ける毛利軍であったが、石見の山吹城から繰り出された軍勢の追撃によって、元就と嫡子隆元は自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる。この時、毛利家臣渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、僅か7騎で追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。この犠牲により元就は吉田郡山城への撤退に成功した。この遠征は、1年4ヶ月の長期間にも及んだ挙句に大内側の敗戦となり、寵愛していた晴持を失った義隆はこれ以後政治に対する意欲を失ってしまう。この戦いは大内氏衰退の一因となった一方、尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ、最盛期を創出する。また、大内氏の滅亡後には石見国を巡って毛利氏と尼子氏が熾烈な争いを続けることとなった。「第二次月山富田城の戦い」周防・長門を攻略して大内氏を滅ぼして勢力を拡大した毛利氏は、石見銀山を巡って尼子氏と対立していたが、弘治2年(1556年)の忍原崩れと永禄2年(1556年)の降露坂の戦いでは敗れていた。しかし、永禄3年(1561年)12月に尼子晴久が亡くなると、嫡男尼子義久が家督を継いだ後に、雲芸和議を経て永禄5年(1562年)には石見銀山を手中に収めることに成功する。一方の尼子側は、家臣団における不和や雲芸和議による不満の噴出もあって、出雲西部・南部国人衆の多くは毛利側へと離反していた。「白鹿城の戦い」永禄5年(1562年)7月3日、元就は3人の息子と軍勢を率いて吉田郡山城を出陣。途中、九州の大友宗麟が豊前の毛利氏領を脅かしたため、毛利隆元は遠征軍から離れてその対応に当たった。毛利軍は石見路を経由して出雲国へ侵攻、12月には宍道湖北岸に本陣となる洗合(あらわい)(荒隈)城を築いた。月山富田城の防衛網である「尼子十旗」と呼ばれる支城群のうち、赤穴城や三沢城などいくつかの城は戦わずして毛利に降っているが、白鹿城などは毛利軍に抵抗。白鹿城には城主の松田誠保とその父松田満久、さらに援軍である尼子氏家臣牛尾久清が軍勢を率いて籠もっていた。白鹿城は月山富田城の日本海側の玄関口ともいうべき役割の城で、月山富田城を孤立させるためには、この城を落とすことにより船で日本海から兵糧を運び込ませるのを防ぐ必要があった。白鹿城攻略のため、白鹿城の北にある真山(新山)城を元春が占拠して布陣し、さらに和久羅山を押さえ、中海に児玉就方麾下の水軍を派遣して封鎖するなど、白鹿城と月山富田城の分断を進めた。永禄6年(1563)、幕府の仲介を得て大友氏との和議を結んだ隆元は、遠征軍に合流すべく白鹿城に向かう途上に安芸の佐々部で急死した。元就は悲しみを顔に出さず「隆元への追善は尼子氏の撃滅のほかになし」と将兵を諭したので、全軍の士気は奮い立った。
2024年03月30日
コメント(0)
この年、後奈良天皇の即位礼に合わせて銭2千貫を朝廷に寄進し、翌年あらためて大宰大弐への叙任を申請する。天皇は一旦許可したものの、これは1日で取り消されている。天文5年(1536)、ようやく大宰大弐に叙任され、北九州攻略の大義名分を得た義隆は、9月に龍造寺氏とともに肥前多久城での戦いで少弐資元を討ち滅ぼし、北九州地方の平定をほぼ完成させた。このとき龍造寺氏の本家の当主・龍造寺胤栄を肥前守護代に任じている。天文6年(1537)、室町幕府第12代将軍・足利義晴から幕政に加わるよう要請を受けて上洛を試みるが、山陰を統一して南下の動きを示していた尼子氏に阻まれ、領国経営に専念するためにこれを断念した。天文7年(1538)に将軍・義晴の仲介により宿敵・大友義鑑と和睦している。天文8年(1539)、父の代からの補佐役であった陶興房が病没している。天文9年(1540)、尼子経久の孫・詮久(のちの晴久)が安芸国へ侵攻し、大内氏の従属下にあった毛利元就の居城である吉田郡山城を舞台に戦った(吉田郡山城の戦い)。義隆は陶興房の子・隆房(後の晴賢)を総大将とした援軍を送り尼子軍を撃破する。以後は尼子氏に対して攻勢に出ることになり、天文10年(1541)には尼子方の安芸武田氏(武田信実・信重ほか)と友田氏(友田興藤)を滅ぼして安芸国を完全に勢力下に置いた。「文治体制」天文10年11月、尼子経久が死去すると、天文11年(1542)1月に義隆自ら出雲国に遠征して尼子氏の居城月山富田城を攻囲するが、配下の国人衆の寝返りにあって晴久に大敗した(月山富田城の戦い)。しかもこの敗戦により寵愛していた養嗣子の大内晴持を失ったことを契機に領土的野心や政治的関心を失い、以後は文治派の相良武任らを重用するようになった。このため武断派の陶隆房や内藤興盛らと対立するようになる。天文16年(1547)、天竜寺の策源周良を大使に任じて最後の遣明船を派遣している。天文17年(1548)、龍造寺胤信と同盟する。胤信は義隆からの偏諱によって隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に隆信の家督相続に不満があった家臣たちを抑え込んだ。天文19年(1550)8月、山口に来たフランシスコ・ザビエルを引見したが、ザビエルが汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たない、義隆の放蕩振り・仏教の保護・当時一般的だった男色などを非難する、など礼を大いに欠いていたことから義隆は立腹し、布教の許可は下さなかった。ザビエルは畿内へ旅立った。同年、陶・内藤らが謀反を起こすという情報が流れ、義隆は一時大内軍を率いて館に立て籠もったという。このときの反乱は風評に終わる。側近の冷泉隆豊は陶ら武断派の討伐を進言したが義隆はこれを受け入れなかった。天文20年(1551)4月下旬、ザビエルを再び引見する。ザビエルはそれまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを学んでおり、今回は一行を美麗な服装で飾り、珍しい文物を義隆に献上した。献上品には、本来なら天皇に捧呈すべく用意していたポルトガルのインド総督とゴア司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったという。義隆は、ザビエルに対して布教の許可を与え、その拠点として、大道寺を与えた。「人物・逸話」幼少時の逸話として、子供達が銭を玩具にして遊んでいたのを見て、義隆も銭で遊びたいと守役の杉重矩に言った。すると重矩は「主君となるべき人が、銭のような汚らわしい物を見るのは恐れ多い」として銭を黄金の笄で突き刺し、そして笄と一緒に銭を汚物の中に投げ捨て、それを義隆に見させて銭が如何に武士にとって賤しいかを認識させたという(『武者物語』)。大内氏は家督継承の度に内乱が発生していたが、義隆相続のときは数少ない例外である。父・義興の力もあるが、歴代で義隆の政権初期が最も安定していたことも伺える。義隆は文化的関心が強く、文治主義的な戦国大名として知られている。三条西実隆などの文化人とも交流し、和歌や連歌、芸能など公家文化への関心を示す。また、朝廷への進物を行って官職を望み、束帯姿で牛車に乗るなど貴族趣味を持っていたと言われる。学問においても古道を好む事や花押の形式などから、復古主義的な性格を持った人物であったと考えられている。しかしそれは大内氏歴代に見られる傾向であり、またこの時代の山口は西の京として繁栄の極みを迎えた。政策においても保守的で、奢侈禁止令や段銭徴収に関する法令を発布する。寺社の復興に寄進し、大宰大弐となると大府宣を布告した。さらに義隆とその家臣団の官位も他の戦国大名のような自称官位ではなく、朝廷に奏請して賜っている本当の官位である[9]。このように、復古的な政治が多く見られる。中国の明や李氏朝鮮と交易を行い、大内氏は管領家の細川氏と抗争して日明貿易(勘合貿易)を独占する。朝鮮からは『大蔵経』などを典籍を輸入し独自に大内版を出版する。義隆は山口を京都のような条坊制の都市に整え、城郭は構えずに大内館を居所とした。キリスト教の宣教師で来日していたイエズス会士 フランシスコ・ザビエルを招いて山口における布教を許可するなど、野心に富み、開明的な人物であった。
2024年03月30日
コメント(0)
8、「大内義隆の全盛期時代」この時代には周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領するなど、名実共に西国随一の戦国大名となり、大内家は全盛期を迎えた。さらには細川氏とも争って明との交易を独占し、義隆が学問・芸術に熱心でキリスト教布教を許し、公家や宣教師を積極的に保護したことから、大内領内には独特の山口文化(大内文化)が生まれ、文化的にも全盛期を迎えた。*「大内 義隆」(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主 。第15当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。また義隆の時代には大内文化が爛熟し、西国の地方政権大内政権を築いて大内家は領土的に全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた一族でもある家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。「出生から少年期まで」永正4年(1507)11月15日、周防・長門・石見・豊前4か国の太守である大内氏の第15代当主・大内義興の嫡子として大内氏館で生まれる。母は長門守護代の内藤弘矩の娘である。幼名は亀童丸(きどうまる)と言うが、これは父や祖父の政弘ら歴代当主の名乗った幼名であり、義隆は幼少時から嫡子としての地位を明確にされ、同時に大内家で歴代に渡り家督相続時に発生した内紛を予防するために名乗らされていた。義隆は幼児期は乳母や多くの女に囲まれて成長した。少年期になると介殿様と呼ばれたが、これは周防介の略であり、大内家当主の地位として世襲されたものであり、義隆が嫡子として扱われていた証左である。なお、義隆が周防介になった年は明確ではないが、永正17年(1520)の時点で義隆を介殿様と記している事から、この頃に従五位下・周防介に叙任されたと考えられている。また、その前後に将軍・足利義晴から偏諱を受けて元服し、義隆と名乗っている。「家督相続」元服後の大永2年(1522)から父に従い、大永4年(1524)には父に従って安芸国に出陣する。この時は5月に別働隊を率いて岩国永興寺へ、6月に厳島へ入り、7月に重臣の陶興房とともに安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかし8月に尼子方として救援に赴いた毛利元就に敗退する。また山陰の尼子氏とも干戈を交えた。この頃に京都の公卿・万里小路秀房の娘・貞子を正室に迎えた。この最中の大永3年(1523)に寧波の乱が勃発しており、その後大内氏は東シナ海の貿易を独占している。享禄元年(1528)12月に父が死去したため、義隆は22歳で家督を相続する。大内家では家督相続の際に一族家臣の間での内訌が起こることが常態化していたが、義隆相続の際には起こっていない。これは義隆の弟・弘興の早世による親族の欠如と、重臣の陶興房の補佐によるところが大きいとされている。享禄2年(1529)12月23日に従五位上に叙され、享禄3年(1530)10月9日に父祖と同じ左京大夫に任命された。「勢力拡大」享禄3年(1530年)からは九州に出兵し、北九州の覇権を豊後国の大友氏や筑前国の少弐氏らと争う。家臣の杉興運や陶興房らに軍を預けて少弐氏を攻めた。そして肥前国の松浦氏を従属させ、さらに北九州沿岸を平定して大陸貿易の利権を掌握した。しかし杉興運に行なわせた少弐攻めでは、少弐氏の重臣・龍造寺家兼の反攻にあって大敗を喫した(田手畷の戦い)。*「田手畷の戦い」 (たでなわてのたたかい)は、享禄3年(1530)、北九州の覇権をめぐり周防国の大名大内氏と肥前国の大名少弐氏との間で起きた戦い。大内氏と少弐氏とは、室町時代を通じて北九州(大宰府)の覇権を争う宿敵同士であった。明応6年(1497)には大内義興は少弐政資を滅ぼし、かつては鎮西の覇者であった少弐氏を肥前の一地方勢力に転落させることに成功している。大内義隆(義興の子)は宿敵の少弐資元(政資の子)に止めを刺すべく筑前国守護代杉興運に命じて大内方の北九州の諸将を率いさせ、資元の居城肥前勢福寺城を攻撃させた。少弐方の諸将(龍造寺家兼や馬場頼周など)が奮戦するが、兵力で劣勢の少弐勢は、敗色が濃厚であった。しかし、鍋島清久・清房父子や石井党らが率いる赤熊奇襲隊の活躍もあって、遠征してきた興連を敗走させた。大内方は横岳資貞・筑紫尚門などが戦死している。この戦いの後、佐賀平野南部の有力領主らを味方につけ戦勝に貢献した龍造寺氏が、少弐家中での発言権を強め、戦国大名化していく契機となった。この勝利に勢いづいた少弐氏は逆に大宰府に侵攻するなど一時勢力を回復させたが、大内家の周防国守護代陶興房が九州に乗り込んでくると再び劣勢になり、さらには義隆が自身で大軍を率いて攻勢をかけて来ると、頼みの家兼にも見放された。天文4年(1535)には、資元は自刃して果てたため、少弐氏は一時滅亡した。)天文元年(1532)、大友氏が少弐氏と結んで侵攻してくると、義隆は長府に在陣し、北九州攻略の大義名分を得るために大宰大弐の官職を得ようと朝廷に働きかけるが失敗した。天文3年(1534)、龍造寺家兼を調略して少弐氏から離反させ、少弐氏の弱体化を図った。また陶興房に命じて大友氏の本拠地豊後を攻略しようとするが失敗する(勢場ヶ原の戦い)。しかし、義隆は一方で北肥前にいた九州探題・渋川義長を攻め、渋川氏を滅亡に追い込んだ。
2024年03月30日
コメント(0)
*「鏡山城の戦い」(かがみやまじょうのたたかい)は、戦国時代の大永3年(1523)、安芸国西条の鏡山城で起きた尼子氏と大内氏の戦いである。鏡山城は安芸西条(現・東広島市)にある山城で、安芸支配を目論む周防・長門の大内氏が長禄・寛正年間(1457~1466)に築城し、安芸支配の拠点としていた。大永2年(1522)、大内義興は陶隆房を総大将として安芸に派遣。3月から8月まで5ヶ月間滞在して、新庄小幡(現・広島市西区新庄町)や大塚(現・広島市安佐南区沼田町大塚)を攻めるも、安芸武田軍の防戦により特段の戦果はなかった。一方、安芸・備後に勢力を伸ばしていた出雲の戦国大名・尼子経久は、義興が九州北部へ出陣へしている隙を突いて、鏡山城を落とすべく西条に進軍。尼子氏に臣従する安芸国人衆らと共に鏡山城の攻略を開始した。なお、吉川氏は有田中井手の戦いの翌年に尼子氏の傘下に入っており、同様に毛利氏も尼子傘下にあった[2]。「戦いの経過」大永3年(1523年)6月13日、まだ9歳であった毛利氏の当主・毛利幸松丸の後見人を務める毛利元就は、吉川国経らと共に4000の軍勢で城攻めを開始した。一方、大内方は蔵田房信とその副将として叔父の蔵田直信が鏡山城に入って、尼子軍を迎え撃った。奮戦する房信は尼子軍を容易に城へ寄せ付けず、戦線は膠着状態に陥った。そこで元就は一計を案じ、蔵田家の家督を継がせることを条件に直信を寝返らせ、城内(直信が守備する二の丸)に尼子軍を手引きさせた。尼子軍の侵入を許した城内は大混乱をきたし、城将・房信は本丸に籠もって最後の防戦を一昼夜続けるが、28日に落城。房信は、妻子と城兵の助命と引き替えに自害した。落城後に経久は、房信の申し出は承認したものの、直信については寝返りを非難して処刑を命じた。元就は弄した策を反故とされたばかりか、戦功一番であったにもかかわらず毛利氏への恩賞も与えなかったとされる。この攻城戦で、経久は智勇優れた元就を警戒し、元就も経久に不信感を抱いた。経久は元就を警戒し、同年に毛利家当主・幸松丸が病死した際には、家臣の亀井秀綱を使って、毛利家の家督相続問題に介入した。元就の弟・相合元綱を擁立させるべく画策するが、機先を制した元就が元綱とその支持派を粛清したことにより、介入は失敗し、元就が当主となった。大永5年(1525)、安芸での勢力回復を図る大内氏が攻勢に転じる。それまで尼子側に留まっていた元就は、3月に尼子氏から離反して大内氏の傘下に入り、陶興房率いる大内軍の米山城攻めに参戦。米山城主・天野興定らの降伏を仲介している。元就が尼子氏から離反したのは、鏡山城の戦いでの経久の仕打ちも要因と言われる。大内軍は鏡山城の奪回にも成功し、安芸国内の尼子勢力は減少した。なお、鏡山城は比高も低く、要害の地でも無いため、大内氏は新たに曽場ヶ城を築き、さらに後には槌山城も築いて本拠とし、鏡山城は廃城となった。) そして京都を追われた放浪将軍足利義稙を保護した。永正5年(1508)に細川高国と協力し、足利義稙を擁して中国・九州勢を率いて上洛を果たした。上洛後は管領代として室町幕政を執行し、表面上は一大勢力を築き上げた。しかし長期の在京は大内氏にとっても、その傘下の国人や豪族にとっても大きな負担となり、先に帰国した安芸武田氏の武田元繁や出雲の尼子経久らが大内領を侵略し、足元を脅かす存在となった。その対応に苦慮した義興は京都を引き払い帰国して、尼子氏や安芸武田氏と戦った。享禄元年(1528)に義興が死去すると、嫡子の大内義隆が家督を継いだ。
2024年03月30日
コメント(0)
*「船岡山合戦」(ふなおかやまがっせん)は、永正8年(1511)8月23日、室町幕府将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間で起きた、幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦いである。応仁の乱の際に船岡山を巡って発生した戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」ともいう。明応2年(1493)の明応の政変により将軍足利義材を追放し、自身が擁立した足利義澄(義高)のもとで権力を誇った管領細川政元であるが、実子がいなかったため3人の養子を迎えたものの、後継を巡り養子同士(細川澄之、細川澄元、細川高国)3派での権力争いが発生した。永正4年(1507)6月23日に澄之派の重臣香西元長や薬師寺長忠らによって政元が暗殺(永正の錯乱)、澄元と側近の三好之長も屋敷を襲われ、一旦近江甲賀郡に逃走するが国人の力を借りて勢力を盛り返し、8月1日には京都に侵攻して澄之・元長・長忠を討ち取り、翌2日には義澄に対して細川氏の家督継承を承認させたが、これが内乱の幕開けとなった(両細川の乱)。細川氏の混乱に乗じ、京都への復帰を計画した前将軍足利義尹(義材)が、周防の戦国大名大内義興を伴い上洛を開始すると、これに細川氏家督の奪取を企てた細川高国が呼応し永正5年(1508)に挙兵、義澄は近 江の水茎岡山城に、それを担ぐ澄元・之長は近江から最終的には阿波へそれぞれに逃亡した。戦いに勝利した義尹は義稙と改名して将軍に復職し、高国と大内義興の連合政権が成立した。再起を図っていた義澄・澄元は永正6年(1509)に復権を図ったものの敗北(如意ヶ嶽の戦い)した。その後、永正8年(1511)に畿内の諸勢力を糾合し反撃に転じる。深井の合戦、次いで芦屋河原の合戦に勝利して摂津国中嶋城に入城、そのまま京都に入洛してこれを奪還する。こうして義稙達を一旦は丹波に逃亡させた。しかし、義稙達は次第に勢力を盛り返し、京都に再度迫りつつあった。「戦いの状況」開戦の直前、義澄の擁護者であった近江国六角氏において内紛が勃発、その結果、当主である六角高頼が義澄方への与力をあくまで主張する守護代の伊庭氏を抑えて義稙方に寝返り、それを知った盟主である義澄が失意のうちに病死するという大事件が起きたが、澄元達の戦意は衰えず、澄元方の細川政賢を主将として丹波と山城との要衝である船岡山に陣取り防戦を試みた。しかし、西国の国人領主の大半を動員した大内軍は強大であり、澄元方の援軍として京都へ向かっていた赤松義村は北摂津の伊丹城にて高国方の抵抗に遭遇して京都に入れず、澄元方の切り札であった阿波細川・三好軍の畿内上陸もなかった。京都を脱出した義稙・高国・義興は依然として2万を越える兵を維持していたのに対して、京都に入った澄元方は細川政賢の2千・細川元常の1千・山中為俊の3千の合わせて6千人であったとされる。大内軍を含んだ高国方が夜襲をしかけると、政賢は戦死するなど澄元方は敗れ、京都は再び義稙の手に帰した。「戦後の影響」澄元は実家の阿波に逃亡し再起を図り、之長に擁立され抵抗を続け、永正17年(1520)に畿内に上陸して一時京都の回復に成功したが、等持院の戦いで之長が高国の前に敗死、結局没落して同年に死去した。義澄の遺児は播磨の赤松義村と阿波の細川之持(澄元の実兄)に託され、後の足利義晴と足利義維(阿波公方)となる。一方で、勝者である大内義興も長期間在京する間に出雲の尼子氏や安芸武田氏などが不穏な動きを見せはじめ、さらに旗下の国人達の離反が続出したので、永正15年(1518)に周防に帰国し、以後勢力の回復に忙殺され再び上洛することなく享禄2年(1529)に病没した。残された高国は澄元を撃破して当主の座を強固にしたが、やがて義稙と対立し、大永元年(1521)に義稙を追放し足利義澄の子義晴を次の将軍として擁立するものの、今度は澄元の子晴元と対立し、大永7年(1527)に桂川原の戦いに敗れて自身が没落することになる。そして享禄4年(1531)の大物崩れの敗北で再起の可能性も無くなり自害させられることになる。
2024年03月30日
コメント(0)
永正9年(1512)、嵯峨野の西芳寺において「かくばかり 遠き吾妻の 不二がねを 今ぞみやこの 雪の曙」とうたった記録がある。義興は父・政弘ほどではないが文人的一面があったとされる。和歌に関しては後柏原天皇以下多くの公卿から賞賛され、連歌では宗祇の弟子・宗碩を招いて古今の伝授を受けた。) *「芦屋河原の合戦」(あしやがわらのかっせん)は、戦国時代初期の永正8年(1511)7月26日から8月26日まで摂津国鷹尾城と芦屋河原周辺で行われた合戦。細川澄元軍は軍勢を二分して進軍、一隊が阿波国より堺に上陸、7月13日に深井城の合戦となり、もう一隊が兵庫に上陸、芦屋河原の合戦となった。別名葦屋河原の戦いや鷹の尾城の戦いとも呼ばれている。永正4年(1507)の永正の錯乱で室町幕府管領細川氏の跡目をめぐる内紛がおき(両細川の乱)、永正6年(1509)の如意ヶ嶽の戦いで細川高国・大内義興連合軍は勝利し細川氏当主は高国になったが、細川澄元軍は阿波に帰国し再び上京の機会を計画していた。永正8年(1511)5月1日、鷹尾城の築城をめぐる小規模な戦いがおこる。きっかけは高国が被官であった瓦林正頼に鷹尾城築城を命じたことに始まる。同地域は阿波から京都に向かう進路にあたり、澄元の進路を塞ぐ意味で築城を計画したのであるが、古来より西国との交通の要街でもあり、肥沃な灘筋を抑える意味でもここに進出したものとも思われている。しかし、同地域にある灘五郷には惣と呼ばれる村落自治組織があり、権門の所領荘園という事を口実に守護の命にも従わなかった。誇張された表現も含まれるが灘五郷には地侍が3千名とも4千名ともいたと記され(『瓦林政頼記』)、彼らが同地域を支配していた。武家の封建権力に抵抗していた灘五郷は、鷹尾城の築城に刺激され、灘五郷は多年にわたり不和であった本庄衆と西宮衆と同盟を組み鷹尾城に対抗する動きに出る。この動きを察知した正頼は鷹尾城より討手20余人を出し、中心人物を討ち取った。この中心人物は正頼とは同族でありながら澄元方であったと見られる。これが5月1日の話である。この時正頼は、本庄衆に対して高国の命に従わず討手に敵対した処罰として、鷹尾城の外堀を作らせ用水を樋でかけよように命じる。用水は田畑を耕すもので、これを取り上げられることに納得のいかなかった本庄衆は、5月6日に灘五郷衆の応援を得て2000名で攻め寄せた。鷹尾城に詰めていた23名の与力衆は神水を飲み、主力の本庄衆300名に突入し20余名余りを討ち取ると、本庄衆は敗走しこれを見た他の寄せ手は逃亡してしまった。この報は澄元の耳に入り、挙兵することになる。まず6月に近江に退避していた足利義澄と呼応して、京都を挟み撃つ手はずを整え、四国の兵を集め総大将に細川政賢、細川元常を任じ、7月7日に堺に上陸し深井城に陣をはった。これに対して高国は摂津国人衆の池田氏、伊丹氏、三宅氏、茨木氏、安威氏、福井氏、太田氏、入江氏、高槻氏の総勢2万に出陣を命じ、同月13日に深井城の合戦となったが敗れ、澄元軍は中嶋城まで攻撃した。「戦いの状況」一方、鷹尾城は淡路国守護細川尚春が総大将となり兵庫に上陸との連絡が入ると、正頼は高国に注進、高国は馬廻り衆として、柳本宗雄、波多野稙通、能勢頼豊、荒木大輔ら30余名と援軍3000を派兵して芦屋浜に布陣、正頼は鷹尾城を中心に山方を固めた。細川尚春軍には灘五郷の地侍衆が加わり、7月26日戦闘が開始された。高国の援軍は芦屋川の河原で戦いとなり、正頼は山方で戦闘になったようである。この時の戦闘の様子は「マクツマクラリツ、逐ツヲワレ花火ヲチラシ戦」(『瓦林政頼記』)とありかなりの激戦であった。またこの時正頼の一族と思われ、細川澄元に与していた瓦林新五郎なる人物が鷹尾城へ詰め、外城を落城させたことにより、澄元から感状が賞されている。『兵庫県の不思議事典』によると、本城は山頂にあった主郭部分(鷹尾山城)、山麓には外構え(芦屋城)が形成されていたとしている。鷹尾城の外城は落城したが、正頼は勝ちぬき、尚春軍の200余人を討ち取った。その後追撃戦となり有馬郡湯原村まで追いたてた。一方、隣国の播磨守護赤松義村は澄元の側に付いていた。義村の義母洞松院は細川勝元の娘であったことから、義村は澄元に与したのである。また澄元の兄の阿波守護細川之持は義村の姉婿という縁もあり、高国とは敵対関係にあった。そのような間柄により澄元は援軍を要請、8月上旬に義村は御着城を出立し加古川周辺で軍勢を整え、大蔵谷周辺で尚春・灘五郷敗残軍と合流、8月5日に兵庫浦に到着する。この時の総数は2万ほどであった。8月8日には鷹尾城を包囲、戦闘は翌9日より開始されようである。「さかしき谷、高き岸ともいわず」攻め立てとあり(『細川両家記』)、「息もさせず」攻め立てたとあることから(『瓦林政頼記』)、赤松軍は攻撃を仕掛けた。戦闘は10日間続き、城方は何回も応戦したが死傷者が3千名出た。翌11日には火攻めがあるという噂が流れ、正頼は開城を決意、10日夜城兵を引き連れ伊丹城に退却した。戦後の影響、義村・尚春・灘五郷連合軍は、鷹尾城をただちに占領、米、銭、兵具を略奪し城に火をかけたようである。この敗戦の様子を聞いた三条西実隆は、「世上安危知り難し、如何々々」(『実隆公記』 永年八年八月十一日条)と記しており、この戦いは京都の安危にも影響をあたえ、憂慮している事が伺え知れる。
2024年03月30日
コメント(0)
このため、義尹は代わりとして山城守護も与え、京都や奈良の公家や寺社も義興の寺社本所領の保護を公言する義興の態度に好感を抱いた。このエピソードはちょうど60年後に足利義昭を奉じて上洛した織田信長が役職よりも堺の支配を望んだのと逆を行ったことになるのだが、この事は後日思わぬ形で義興に跳ね返ることになる。義尹の将軍復帰という役割を果たし終えた義興は不安定な領国情勢を危惧して帰国を望むようになるが、現実には細川澄元・三好之長らは京都奪還を目指してたびたび反攻してくるため帰国もままならなかった。そんな最中の永正5年12月に奈良の東大寺が 延徳2年(1490)以来、大内氏に押領されたままの周防国の国衙領の返還を求めて閉門を行ったのである。義興は先の堺南荘の件で寺社本所領の保護を公言してしまったために東大寺の閉門を止めさせるために国衙領の返還を求める朝廷や幕府の要請に頭を悩まされる事になる。一方、東大寺側も興福寺などの他の有力寺院に同調を呼びかけたものの、義興が寺社本所領の保護政策を放棄することを恐れた彼らから同調を拒絶されたために孤独な戦いを迫られた。義興はやむなく翌永正6年(1509年)に国衙領を東大寺に返還することを表明して事態の収拾を図らざるを得なかった。永正6年6月に如意ヶ嶽の戦いに勝利して細川澄元らが四国へと落ち延びていくと、永正7年(1510)1月には細川高国と共に近江に侵攻するが、逆に敗北してしまった。これにより足利義澄方は一大決戦を決意し、永正8年(1511)7月には摂津に侵攻(芦屋河原の合戦)して決戦を挑んでくる。これに対して義興は細川高国と共に迎撃するも、摂津でも和泉でも敗北(深井城の合戦)して丹波に逃走した。しかし8月14日に足利義澄が急死するなどの好条件にも助けられて、8月23日に船岡山城の決戦で細川澄元軍を破り、京都を奪還したのである(船岡山合戦)。なお、この時、万一周防へ退却することも考えた義興は安芸の国人であった多賀谷武重に堺の堅守を命じた。多賀谷はこの役目を果たしたが、これが結果的に細川澄元の支援する四国からの援軍を防ぐ効果をもたらしたとも言える。この時の義興の活躍は相当のものだったようであり、永正9年(1512)3月にはその武功により、従三位に上階されて公卿に列せられた。これは将軍である足利義尹の意向を押し切って後柏原天皇自らの決断で決めた決定(『実隆公記』永正9年3月26日条)であったが、義尹は最終的な判断は天皇に任せる旨を述べたため同意せざるを得なかった。また、娘を足利義維(義澄の次男)に嫁がせ将軍家の親族ともなった。永正13年(1516)には大内氏に日明貿易(遣明船派遣)の管掌権限を恒久的な特権として与えるとする御内書と奉行人奉書が与えられた。これは細川高国の反対を押し切ったものであり、後の寧波の乱の原因となる。しかし次第に将軍・足利義稙(永正10年(1513年)義尹より改名)や細川高国と不仲になり、さらに長引く在京に耐え切れなくなった領国の石見や安芸の国人の中で勝手に帰国する者が相次いだ。そこへ出雲の尼子経久が侵攻を開始してきた。義興ははじめ在京して尼子氏を討つため、永正14年(1517)に石見守護となり、益田氏や吉川氏など石見在地の豪族と手を結んだ(ただし、尼子経久の侵攻と義興の石見守護補任については異なる解釈もある)。しかし尼子氏の勢力拡大は抑え難かったため、永正15年(1518)8月2日に管領代を辞して堺を出発、10月5日に山口に帰国した。「尼子氏との戦い」帰国した義興がもっとも力を注いだのは在京中に離反の姿勢を見せた安芸国の武田元繁・光和父子や友田興藤との戦いであった。だが、大永3年(1523)に尼子経久が安芸進出を目論み、武田・友田とも通じたことから、尼子氏の大内領への侵攻が本格化していく。石見の波志浦は尼子軍に攻略され、安芸では大内家に従属していた毛利氏が尼子方に寝返った。尼子経久は毛利家当主・毛利幸松丸の後見役である毛利元就を利用して、大内氏の安芸経営の拠点である安芸西条の鏡山城を攻略(鏡山城の戦い)させるなどして、一時は大内氏を圧倒した。これに対して義興は安芸・石見に出兵して連年のように尼子氏と戦うが、思うように戦果が上がらなかった。しかし大永4年(1524)に安芸厳島にあった友田氏の拠点桜尾城を攻略し、武田氏の拠点佐東銀山城の攻防戦で尼子軍を撃破し、大永5年(1525)には毛利氏を継いだ毛利元就が再び帰参したため、安芸における勢力をやや回復する。また、尼子氏も山陰地方東部を支配しかつ備後国の守護でもあった山名氏との戦いもあったため、石見における勢力も義興は奪い返した。さらに北九州の少弐資元らとも戦い、有利に戦況を進めている。やがて、備後国は北から進出した尼子経久と西から義興の命で大内軍を率いる陶興房に侵攻を受けて守護の山名誠豊の支配が衰え、同国は尼子氏と大内氏の争奪戦の舞台となった。興房は大永7年(1527年)に細沢山の戦いで尼子経久を破り、山名誠豊・山内直通らとともに尼子氏に対抗した。享禄元年(1528年)7月、安芸門山城攻めの陣中で病に倒れ、山口に帰還直後の12月20日に死去した。享年52歳。跡を嫡男の義隆が継いだ。
2024年03月30日
コメント(0)
「九州進出と前将軍亡命」大内氏は長い間北九州で大友氏や少弐氏らと合戦を繰り広げながら、勢力を拡大してきたが、大友政親が大内政弘の妹を妻として婚姻関係を結び、次いで彼女が生んだ大友義右が家督を継いだことから義興と義右が従兄弟として協力することになり、安定した関係が築かれた。ところが、明応5年(1496)に義右が急死すると、義右が対立していた父の政親が毒殺したという噂が流れ、実権を取り戻した政親は北九州の大内領侵攻のために兵を挙げた。ところが、政親の乗った船は遭難して事もあろうに大内氏の本拠地である長門国に辿り着いてしまう。義興は激怒して政親を捕らえて切腹させてしまった。事件の背景には大内氏の勢力拡大と北陸地方に亡命中の前将軍・足利義材との連携を恐れた細川政元の暗躍があったとみられる。その後、義興は大友親実(大聖院宗心、大友親綱の子)を大友家の後継者にしようとしたが、政親の弟大友親治の反抗によって失敗している。また、前述のように明応8年(1499年)に反乱に失敗した義興の弟・大護院尊光が亡命したのも大友親治の下であり、彼は細川政元が擁していた将軍足利義高(義澄)の偏諱を受けて大内高弘と名乗っている。一方、筑前国の奪回を狙っていた少弐政資・高経父子も大友政親・親治兄弟と結んで肥前国から筑前国に兵を進めて大内軍と戦っていたが、義興も明応5年(1496)暮れには赤間関に兵を結集させ、12月13日に筑前に向けて出陣した。明応6年(1497)3月13日に博多の聖福寺門前で、15日には筑紫村と高鳥居城で戦い、筑前に攻め込んだ少弐父子を破って肥前へと侵攻。3月23日、肥前朝日城を攻略。4月14日、少弐政資を小城城に包囲した。いったん山口に帰国した義興は16日、周防国一宮の玉祖神社、二宮の出雲神社、三宮の仁壁神社、四宮の赤田神社、五宮の浅田神社に参詣した。18日、小城城は落城し少弐政資は逃亡したがのちに自害した。その後も少弐氏に攻められていた九州探題の渋川尹繁を支援する。明応7年(1498)8月27日、肥前国綾部城に攻められていた尹繁のもとに援軍として派遣した仁保護郷が、肥前基肄郡養父郡で戦い勝利している。また9月17日にも護郷は肥前三根郡で戦いここでも勝利した。このように義興の軍勢は勝利を重ね肥前国における自らの勢力も広げた。 一方で大友氏との戦いでは防戦を強いられる。明応7年(1498)11月、豊後国に右田弘量と末武長安を派兵するが、11月7日豊後玖珠郡青内山での戦いで大内軍は敗れ弘量は戦死、長安は負傷する。宇佐郡の郡代であった佐田泰景が一時大友軍の捕虜にされるなど苦戦している。そんな最中の明応8年12月30日(1500年1月30日)に諸国を亡命していた前将軍・足利義尹(明応7年(1498年)義材より改名)が義興を頼って山口に入った。義尹は自らを現在でも現職の将軍であると主張して山口に自らの幕府を置き、義興も細川政元に対抗して義尹を擁して上洛しようとしていた。これに対して、足利義高・細川政元は大友親治・大内高弘・少弐資元(政資の3男)・菊地武運・阿蘇惟長らに義興討伐を命じるとともに、文亀元年閏6月9日(1501年7月23日)には後柏原天皇から義興討伐の綸旨を獲得した。こうして義興は「朝敵」ということになり、続いて将軍義高の御内書と奉行人奉書が出されて改めて西日本の大名・有力国人28名に義興討伐が命じられた。 文亀元年(1501)閏6月20日、大友親治・少弐資元の軍勢が豊前国の要所であった馬ヶ岳城を攻める。神代与三兵衞尉や仁保護郷が戦うが、護郷は戦死し馬ヶ岳城は陥落する。だが7月23日に杉弘依が援軍として駆けつけ馬ヶ岳城を取り戻すことができた。 東では義興の討伐命令の受けていた安芸国の毛利弘元を味方に引き入れることに成功している。間もなく、義興は足利義尹の仲介により大友親治と和睦し、永正4年(1507)には少弐資元とも和睦し、北九州の勢力を保っている。「天下人へ」義興は永正元年(1504)頃から上洛の具体的な構想を描いて領国内で臨時の段銭徴収などを行っていたが、永正4年(1507)6月、足利義澄を11代将軍に擁立して幕政を牛耳っていた細川政元が暗殺された(永正の錯乱)。その後も細川氏内部では抗争が続いたため、畿内進出の好機と見た義興は、前将軍・足利義尹の上洛を口実として九州・中国の諸大名に動員令を発した。11月25日には右田弘詮らに本国の留守を任せて山口から進発し防府に出て、12月に備後にまで進出した。これに対して細川家では、政元の養子であった細川高国が義興と通じて、同じく政元の養子である細川澄元と対立・抗争し、永正5年(1508)3月に細川澄元は高国・義興らに圧迫され、足利義澄と共に近江に逃走した。4月27日に義尹を奉じて和泉国堺に入った義興は畿内の澄元方を平定にあたっていた細川高国との連携を強め、5月5日には高国を細川京兆家(細川氏宗家)当主と認める義尹の御内書が出された。そして、6月8日に義尹と義興は上洛を果たした。上洛を果たした義興は、7月1日には足利義尹を将軍職に復帰させ、自らも左京大夫(京兆)・管領代として細川高国と共に幕政を執行する立場になった。義尹は軍功により、義興に相国寺崇寿院領であった和泉国堺南荘(すなわち堺の南半分)を与えたものの、義興は「何事も元のように寺社本所領を返付されよ」と述べて恩賞を辞退して相国寺に返還してしまった。
2024年03月30日
コメント(0)
7、「戦国時代の大内氏」乱の終結後は、九州での復権を目論んで挙兵した少弐氏・大友氏を再び屈服させた。それだけに留まらず室町幕府にも影響力を及ぼす守護大名としての地位を保持し続けた。また、分国法である「大内家壁書」を制定し、守護代ら重臣の台頭を抑えようとした。戦国時代、政弘の後を継いだ大内義興は、少弐氏を一時滅亡に追いやるなど北九州・中国地方の覇権を確立し、その勢力基盤を確固たるものとした。*「大内 義興」(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名。周防の在庁官人・大内氏の第15代当主。父は周防守護で大内氏の第14代当主・大内政弘。弟(一説に庶兄とも)に大内高弘(隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる。正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。]「家督相続と内訌」文明9年(1477年)、大内氏の第14代当主・大内政弘の子として生まれる。幼名は亀童丸。長享2(1488)1月30日に京都にて元服し、将軍・足利義尚から「義」の字を許されて「義興」の名を与えられた。明応元年(1492)、父の命令で六角高頼討伐(長享・延徳の乱)に参戦する。ところが、その最中の明応2年(1493)に管領細川政元が将軍足利義材を幽閉する明応の政変が発生する。義興は兵を摂津国の兵庫に引き上げたまま事態の推移を見守っただけであった。この政変に関連して、細川政元派の武田元信の配下によって当時京都に滞在していた義興の妹が誘拐される事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)や父・政弘が義興の側近に切腹を命じる事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年8月4日条)などが発生しており、細川政元らが大内政弘が足利義材を支援することを恐れて人質を取って若年の義興に圧力をかけ、その対応の拙さが本国の政弘の怒りを買ったと推測される。だが、一方でこの出兵が京都生まれの義興と本国の被官との関係構築に大いに寄与する事になり、家督継承後の義興の支配に資することになった。明応3年(1494)秋、父が病気により隠居したため、家督を譲られて大内氏の第15代当主となり、 暫くの間、義興は父である政弘の後見を受けるが、明応4年(1495)9月18日に父が死去すると、名実ともに大内氏の当主となる。ところが、義興への家督継承の前後から大内家中で不穏な事件が相次いで発生する。まず、先の畿内出兵中に義興に従って出陣しながら、突如出奔して出家してしまった陶武護が帰国して、代わりに家督を継いだ弟の陶興明を明応4年(1495)2月に殺害した。そして武護は「長門守護代の内藤弘矩が弟の尊光を擁立しようとした」と義興に讒言した。それを信じた義興は明応4年(1495年)2月28日に兵を防府にさしむけて、弘矩と子の弘和を誅殺してしまった。ただし、後に内藤父子の冤罪を知り、讒言した武護を誅殺し、弘矩の娘を正室に迎えて弘矩の弟である内藤弘春に内藤氏を再興させ、同じく陶氏も末弟の陶興房に継がせて再興させた。弟・大護院尊光の擁立に関しては明応8年(1499)に現実のものとなり、重臣の杉武明が反乱を起こしたが、義興はこれを鎮圧して武明を自殺させ、尊光は大友氏を頼って豊後に亡命した。ところが、内藤弘矩・陶武護・杉武明の誅殺については通説と異なる話(例えば、内藤弘矩は陶武護とともに謀反を起こそうとして先代当主である政弘に殺された説(『晴興宿禰記』明応4年3月21日条)の存在や、杉武明が直前まで義興の信任を受けていたこと)が伝えられ、大内氏内部により複雑な政治的対立があったとも考えられている。そして、父・大内政弘の存命中に陶弘護(武護・興明・興房兄弟の父)・内藤弘矩が亡くなり、有力重臣である陶氏・内藤氏を一時没落させたことが、後を受けた義興の地位を安定させることにもつながった。
2024年03月30日
コメント(0)
勘合貿易が行われるようになると倭寇(前期倭寇)は一時的に衰退し、輸入された織物や書画などは北山文化や東山文化など室町時代の文化に影響した。応仁の乱以降には堺を本拠とする管領家の細川氏や、乱で兵庫を得た大内氏、博多や堺などの有力商人が経営するようになった。大永3年(1523)の寧波の乱の結果、大内氏が権益を握り、天文5年(1536)に大内義隆は遣明船派遣を再開する。天文20年(1551)に義隆が家臣の陶晴賢による謀反(大寧寺の変)によって滅亡すると、後を継いだ大内義長(大友義鎮の弟)は、弘治2年(1558)と翌年に兄・大友義鎮とともに貿易再開を求める使者を派遣する(『明実録』)が、明側は義長を簒奪者と看做してこれを拒絶、また弘治3年(1557)に義長が防長経略で討たれて大内氏が名実ともに滅んだ事によって、公貿易再開の見込みが絶たれ、東アジアでは商人や倭寇(後期倭寇)による私貿易・密貿易が中心となった。以降は明の海禁政策の緩和もあり、民間貿易による取引量は勘合貿易時代をも上回る活況となり、のちに16世紀末ごろになると日本人の海外交易の統制の必要性から朱印船による朱印船貿易が行われるようになった。「商品」*輸出品 - 硫黄、銅などの鉱物、扇子、刀剣、漆器や屏風ほか*輸入品 - 明銭(永楽通宝)、生糸、織物、書物ほかこの貿易において、日本の銅は国内よりも非常に高値で明に輸出された。この理由としては、中国の歴史上慢性的とも言えた銅の不足の他に、日本の銅には銀が少なからず含有しており、当時の日本にこれを抽出する技術は無かったが、明はそれを持っていたためである。結果、「銅にしては高いが銀にしては安い」価値で交易されていた。)義廉は寛正6年の段階で畠山義就と山名宗全(政弘の義理の祖父)と繋がっていて、政弘も宗全と連携、これらの確執が応仁の乱の際に反細川氏側につく要因となる。応仁の乱では西軍の山名宗全に加勢して、応仁元年(1467年)7月に上洛、およそ10年間にわたり畿内各地を転戦する。京都の東寺に陣を構えた際には兵力1万であったと伝えられる。応仁2年(1468年)7月、西軍に将軍として擁立された足利義視は政弘を左京大夫に任ずる。これに対し、東軍側にいた将軍足利義政は山名宗全・大内政弘らを朝敵として討伐を命じる御内書を2度にわたって発した。これを受けて12月には東軍方の少弐教頼と宗盛貞が政弘の不在を突いて筑前に侵攻するが撃退されている。しかし、文明元年(1470)に少弐氏、細川氏らにけしかけられた叔父・教幸(道頓)が赤間関(現在の下関市)で謀反を起こす(大内道頓の乱)。政弘は益田貞兼を急遽帰国させ、留守を守っていた重臣・陶弘護の反乱鎮圧に加わらせた。弘護らの活躍もあり、豊前にまで追い込まれた教幸は、文明4年(1472)に自害し、乱を鎮圧された。文明5年(1473)、山名宗全・細川勝元が相次いで病死し、山名・細川両氏が和解した後も政弘は足利義視を京都の自邸に迎え入れて、戦いを継続する。だが、戦いは小競り合いとなり、足利義政も文明6年(1474)11月13日に改めて政弘を(東軍による)左京大夫に任じるなどの懐柔に乗り出す。最終的に文明8年(1476)9月に政弘は足利義政による東西和睦の要請を受諾し、文明9年(1477)に入ると幕府は東軍による大内領攻撃を禁じるとともに、政弘が和睦の要件としていた河野通春の赦免に応じたことで一気に戦いは収束に向かい、10月に新将軍になった足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵され、11月に政弘と最後まで西軍方であった諸大名が帰国のために京都を出たことで、応仁の乱は収束した。応仁の乱が収束すると文明9年(1477年)12月23日に山口に帰国、文明10年(1478)には九州に出陣して少弐氏と戦い、豊前・筑前を確保する。安芸、石見の豪族や国人らを臣従させ、北九州や瀬戸内海の海賊衆を平定するなど西国の支配権確立に力を傾ける。ところが、政弘の留守中に大内教幸の反乱を鎮めた陶弘護が領国を掌握し、政弘と弘護は対立を深めていく。そんな最中の文明14年(1482年)山口の政弘の館で陶弘護が吉見信頼に殺害される(山口大内事件)。通説では陶氏および縁戚の益田氏と吉見氏の対立が原因とされているが、弘護から実権を取り戻したい政弘が背後にいたとする説もある。殺害の理由はどうあれ、家中で最も力を持った重臣が消えたことで、政弘は家中を掌握することに成功し、政庁機構の再編・専制確立を意図した自らの権力強化・戦場になった領国の再建に力を注ぐことになった。大内家壁書はこうした一連の政策の集大成と言える。再上洛、文明12年(1480)に相伴衆となる。長享元年(1487)、9代将軍・足利義尚が行った近江国の六角高頼討伐(長享・延徳の乱)には家臣・問田弘胤を代理として参陣させた。延徳2年(1490)、政弘は朝廷が東大寺領として与えていた周防国の国衙領の目代に息子の尊光を任じて、以後国衙領の租税は大内氏が徴収して東大寺に納めることとしたが、実際に徴収された租税が東大寺へ送られる事はなく、大内氏の領国の中で東大寺が独自の地位を築いてきた周防国の国衙領を押領することに成功した。延徳3年(1491)、10代将軍・足利義稙に従い再度の六角高頼討伐に従軍するため再び上洛。翌明応元年(1492)には嫡子・義興も参陣させている。しかし、明応3年(1494)、中風が悪化したため義興に家督を譲って隠居。明応4年(1485)に死去した。享年50歳。
2024年03月30日
コメント(0)
6、「応仁の乱の大内氏」大内政弘は、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱で西軍の山名宗全に属して勇名を馳せ、宗全の没後に山名氏が戦線を離脱すると、西軍における事実上の総大将になった。*「大内 政弘」(おおうち まさひろ)は、室町時代の守護大名。大内氏第14代当主。父は大内教弘、母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘。最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し、強勢を誇った。応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築く。「出生と家督相続」文安3年(1446)、大内教弘の子として生まれ、のち元服時に室町幕府第8代将軍・足利義政より偏諱を賜い、父・教弘からも1字を与えられて政弘と名乗る。なお、康正3年(1457)に父・教弘が幕府に無断で安芸武田氏を攻めた際に勘気を受けて、幕府によって当時亀童丸と呼ばれていた政弘が大内氏当主に立てられ、それが寛正4年(1463)に教弘が赦免されるまで続いたとする研究がある。寛正6年(1465)、父・教弘の死により19歳で家督を相続し、周防・長門・豊前・筑前の守護も継承した[4]。「細川氏との対立」父に引き続き日明貿易(勘合貿易)をめぐり管領細川勝元と争い、細川氏と敵対する伊予の河野通春を支援する。*「日明貿易」(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易。特に室町幕府や大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。室町幕府3代将軍の足利義満は、博多商人肥富より対明貿易が莫大な利益を生むことを聞いていた。義満は応永8年(1401)に、肥富と僧祖阿を明へ遣明使として派遣し、彼らは翌年に明の国書を持ち帰国する。明使の在日中に靖難の変で永楽帝が即位すると、明は再び国書を送り、日本と明の間に国交と通商の合意が成立した。応永8年(1401)から天文18年(1549)まで、19回に渡り交易が行われた。応永11年(1404)以降は勘合符を所持した者に限られるようになり、永享4年(1432)に宣徳条約で回数などが規定される。勘合符とは木の札に字を書いてから、中央で二つ割りにしたものである。両者が片方ずつ所持し、照合のさいに合わせてみて、ぴたりと合えば本物ということになる。勘合には「日字勘合」と「本字勘合」の2種類が存在した。制限貿易で、日本→明は「本字勘合」、明→日本は「日字勘合」が使用された。公式の貿易が行われた他、博多や堺などの有力商人も同乗し、明政府によって必要な商品が北京にて買い上げられる公貿易や明政府の許可を得た商人・牙行との間で私貿易が行われていた。遣明船に同乗を許された商人は帰国後に持ち帰った輸入品の日本国内の相場相当額の1割にあたる金額を抽分銭として納付した。当時の明王朝は、強固な中華思想イデオロギーから朝貢貿易、すなわち冊封された周辺諸民族の王が大明皇帝に朝貢する形式の貿易しか認めなかった。そのため勘合貿易は、室町幕府将軍が明皇帝から「日本国王」として冊封を受け、明皇帝に対して朝貢し、明皇帝の頒賜物を日本に持ち帰る建前であった。日本国内の支配権確立のため豊富な資金力を必要としていた義満は、名分を捨て実利を取ったといえる。しかしこの点は当時から日本国内でも問題となり、義満死後、4代将軍足利義持や前管領の斯波義将らは応永18年(1411)貿易を一時停止する。具体的な理由として、足利義持が重篤な病にかかった時に、医療への再認識が高まり、朝貢貿易の主要物が薬膳(生薬)と合薬、それも南方産の香薬が主で、それらは中国では産しないことから朝鮮・琉球との通交が確保できることを前提に対明断交に踏み切ったとされている。朝鮮・琉球との貿易で日明間の朝貢貿易を肩代りさせ、評判の悪い冊封関係を断ち切ろうとしたものである。しかし6代将軍足利義教時代の永享4年(1432)に復活することになる。明は貿易を対等取引ではなく、皇帝と臣下諸王の朝貢と下賜と捉えていたことから、明の豊かさと皇帝の気前のよさを示すため、明からの輸入品は輸出品を大きく超過する価値があるのが通例だった。日明貿易がもたらした利益は具体的には不明であるが、宝徳年間に明に渡った商人楠葉西忍によれば、明で購入した糸250文が日本で5貫文(=5000文)で売れ、反対に日本にて銅10貫文を1駄にして持ち込んだものが明にて40~50貫文で売れたと記している。また、応仁の乱以後遣明船を自力で派遣することが困難となった室町幕府は有力商人にあらかじめ抽分銭を納めさせて遣明船を請け負わせる方式を取るようになるが、その際の抽分銭が3000~4000貫文であった。そのため、その10倍に相当する商品が日本に輸入され、抽分銭や必要経費を差し引いても十分な利益が出る構造になっていたと考えられている。 また、文明15年(1483)に派遣された遣明船は大内政弘や甘露寺親長が仲介する形で朝廷が関与していたことが知られ、貿易の収益の一部は朝廷に献上されている。
2024年03月30日
コメント(0)
*「大内 教弘」(おおうち のりひろ)は、室町時代中期の守護大名。周防・長門・筑前・豊前・肥前守護。大内氏第13代当主。第11代当主大内盛見の子(一説には大内持盛の次男)。教幸の弟。妻は山名宗全の養女(山名熙貴の娘)。政弘、娘(大友政親室)、娘(山名政理室)、娘(佐伯親春室)の父。幼名は六郎、のち元服に際して6代将軍・足利義教より偏諱を受け教弘と名乗る。通称は新介、周防介。官位は左京大夫、大膳大夫、従五位下、従四位下、死後に従三位。従兄弟の第12代当主大内持世の養嗣子となる。嘉吉元年(1441)、持世が嘉吉の乱(将軍・義教の暗殺事件)に巻き込まれて死去したため後を継いで当主となり、周防・長門・筑前・豊前の4ヶ国を領する。 当主就任後は幕命に従って嘉吉2年(1442)に九州探題渋川教直と共に少弐教頼と交戦し、宗氏を頼って対馬へ逃れた少弐氏を討伐するために李氏朝鮮に対して対馬の一部割譲を提言している。嘉吉3年(1443)山名氏との関係強化のために石見守護であった山名熙貴の娘を宗家の持豊(宗全)の猶子として娶る(『建内記』嘉吉3年6月3日条)。文安3年(1446)、長門国守護代鷲頭弘忠を解任し、文安5年2月17日に弘忠を長門国深川城にて攻め滅ぼした。鷲頭氏は大内氏と同族でかつ大内氏が周防国を征服するまで同国の守護を務めていた名家であったことに加え、弘忠が筑前国粥田荘の本家(仁和寺)代官の地位を利用して領家(金剛三昧院)代官を追放して支配下に置こうとしたことが教弘の怒りを買ったともいわれている。教弘は領内の荘園を保護する一方で、事実上の東大寺領であり大内氏歴代当主も手を出しづらかった周防国の国衙領にも夫役を課すなど、守護権力の強化に努めた。大内氏は安芸東部の東西条(東広島市)を領有していたが、安芸中央の分郡守護武田信繁・信賢父子と対立し文4年(1447)に安芸へ侵攻、長禄元年(1457)、婿の厳島神社神主佐伯親春が信賢に所領を横領されたため教弘を頼り、教弘は信繁の居城佐東銀山城と己斐城を攻めたが、幕府の命令を受けた毛利煕元・小早川煕平・吉川之経らの救援で両城の奪取に失敗した上、幕府は教弘の大内氏当主の地位を剥奪し、嫡男・亀童丸(後の政弘)に与えることとした。なお、長禄3年(1459)には、長禄合戦に敗れた斯波義敏が亡命している(寛正6年(1465年)に上洛)。寛正2年(1461)には幕府は斯波義敏を匿っていることを理由に教弘討伐を決め(『教覚私要鈔』寛正2年1月22日条)、教弘の領土だった東西条を武田氏に与え、引渡しの命令を伝えるために小早川煕平を山口に派遣する検討をしている。これに反発した教弘は平賀弘宗・小早川盛景らと共に東西条に出陣、細川氏及び幕府の支援を受けた武田氏と戦い、大内氏の勢力を安芸・石見・肥前に拡大した。細川氏と朝鮮との交易(日朝貿易・日明貿易)を巡って争い勝利、朝鮮と通交する。寛正4年(1463)になると、先の処分が取り消され、名実ともに大内氏当主に復帰する。この頃、出家したとみられている。寛正6年(1465)6月に幕府は先の東西条を武田氏の渡す命令を取り消して大内氏への返還を決めるが、管領として幕政に大きな影響を与えていた細川氏との対立は幕府との関係を悪化させていく。この年の8月、幕命に従って伊予の河野通春討伐に伊予に渡海。すると逆に通春と手を結んで四国における細川勝元の軍に対して優位に戦ったが、9月3日、興居島で死去。享年46歳。死後、家督は長男の政弘が継いだ。また、文化に対しても造詣が深く、雪舟を招聘して明に渡海させようとした。和歌や連歌にも通じていた。
2024年03月30日
コメント(0)
5、「大内氏と対外関係」室町期の大内氏に関して特筆すべきこととして、対外関係に深く関わっていた点がある。朝鮮、特に朝鮮との関係においては、「倭寇禁圧」という現実的な問題を抱えていた高麗や李朝は、あくまでも「日本国王」との通交しか認めて来なかった明とは異なって、北九州や瀬戸内海沿岸などの海上勢力および彼らに影響力を及ぼせる有力武家との交渉にも力を注いでいた。特に「百済の子孫」を称していた大内氏はその親近感も相まって、その遣使は将軍による「日本国王使」に次ぐ「巨酋使」と位置づけられていた。巨酋使」の待遇を受けていたのは他に三管領や少弐氏が挙げられるが、三管領が朝鮮に遣使する機会は限られ、日本国内においても大内氏の競合相手の1つであった少弐氏は大内氏によって没落させられると、大内氏は朝鮮側からは室町将軍に次ぐ政治権力とみなされ、対馬国の宗氏と並んで重要視されるようになった。また、朝鮮から日本へ派遣される使節は必ず、大内氏領の赤間関(現在の下関市)を通過する事になっており、瀬戸内海の海賊勢力から使節を安全に護送するためにも大内氏の協力は不可欠なものであった。大内義弘の時代の天授5年/康暦元年(1379)には高麗からの要請を受けて倭寇勢力と戦い、慶尚道までも追跡したものの、現地の高麗軍の非協力によって敗退し、高麗側より謝意の使者が送られている。だが、室町幕府から派遣されていた九州探題今川了俊が大内氏ら諸大名と朝鮮間の直接通交に対して規制をかけていたためにその後の通交は途絶え、再開されたのは了俊が失脚した応永2年(1395)以降であった。朝鮮側からは主に倭寇の禁圧を、大内氏側からは大蔵経などの請受を求められたと考えられている。室町幕府は大内氏を朝鮮との取次と位置づけて、その直接通交を黙認しており、それは応永の乱で足利義満に叛旗を翻した義弘が討たれ、続いて追討の対象になった大内盛見が実力で大内氏の家督と領国を勝ち取り、義満がそれを認めざるを得なくなった以降も変化はなかった。むしろ、それに歯止めをかけたのは大内氏と少弐氏の北九州および博多を巡る武力抗争と、将軍足利義教時代の外交一元化策と大内氏ら守護への規制圧力であったと考えられている。大内氏からの使者は大内盛見時代の応永30年(1423)に派遣されたのを最後に途絶し、永享12年(1440)に次代の大内持世が秘かに朝鮮に遣使していた事実を、嘉吉の乱による持世の急死で後を継いだ大内教弘が知らなかったとされている。なお、大内持世は少弐氏とその同盟者である対馬の宗氏を滅ぼすために、朝鮮に対馬を割譲しての軍事同盟を意図していたものの、朝鮮側にそれを持ち出す前に突然の殺害によって具体化する前に立ち消えになったとされている。過去の大内氏による直接通交の経緯も知らないまま家督を継いだ大内教弘が朝鮮側の要請によって直接通交を再開したのは嘉吉3年(1443)の事であった(応永27年(1420)生まれとされる大内教弘は大名が朝鮮と通交することは前例がないことだと考えていた)。その後、享徳2年(1463)になって朝鮮から大内氏に特に通信符と呼ばれる印が与えられ、大内氏の使者に対する特権付与とともに偽使排除の役目を担った。当時の大内氏は教弘と実兄の教幸の家督を巡る対立があり、教幸側も博多商人や宗氏と結んで朝鮮との通交を探っていたからである。その問題が現実化するのは、教弘が急逝し、後を継いだ政弘が応仁の乱で西軍の一員として上洛し、東軍はこれに対抗して教幸を大内氏当主と認めて家中が分裂した時のことである。政弘の不在中、大内氏の偽使が横行し、乱の終結後文明11年(1479)に朝鮮に派遣された政弘の使者は過去10年余りの使者は全て偽使であると否認したが、実際には教幸側の派遣した「正使」も含んでいた可能性もある。文明以降は2年から4年おきに1回のペースで派遣され、また大内氏は本来は足利将軍だけが持つはずの牙符を入手して「日本国王使」を派遣できるようになるなど、三浦の乱・寧波の乱による対外的緊張を挟みながら進むことになる。16世紀になって、対馬の宗氏が通交の独占を図ろうとするものの、それを唯一阻むのは赤間関と博多を掌握した大内氏の存在であった。少弐氏の没落後、大内氏と宗氏は協調関係にあり、宗氏が大内氏の了承を得て大内氏の偽使を派遣した例もある。大内氏の滅亡後、宗氏は大内氏および少弐氏の滅亡の事実(少弐氏は大内氏の2年後に滅亡)を豊臣政権による日本全国平定でその事実を隠せなくなるまで、朝鮮側には両氏滅亡の事実を隠して大内氏の偽使を派遣して通交の独占を図ることになった。
2024年03月30日
コメント(0)
乱の経過将軍暗殺、6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招いた。『嘉吉記』などによると、「鴨の子が沢山できたので、泳ぐさまを御覧下さい」と招いたという。この宴に相伴した大名は管領細川持之、畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熙貴、細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちであった。他に公家の正親町三条実雅(正親町三条公治の父、義教の正室正親町三条尹子の兄)らも随行している。)*「大内 持世」(おおうち もちよ)は、室町時代中期の武将、守護大名。周防・長門・豊前・筑前守護。大内氏の第12代当主。第10代当主大内義弘の子で持盛、教祐の兄。第9代当主大内弘世(祖父)の子とする説もある。養子に教弘。官位は刑部少輔、修理大夫、正五位上、従四位下、従四位上。大内介。幼名は九郎。元服時に第4代将軍・足利義持より偏諱の授与を受けて持世と名乗る(「世」は弘世の1字により)。永享3年(1431)、叔父の第11代当主大内盛見が大友氏・少弐氏と戦って筑前で敗死した後、大内氏内部では跡継ぎを巡って争いが起こった。生前、盛見は持世に家督と長門を除く所領を、持世の弟持盛に長門を継ぐように遺言していたとされる。ところが、別の記録では当初持盛が大内家の家督と周防国と安芸国の一部の所領を継がせ、持世に長門国・筑前国・豊前国を継がせ、一族の大内満世(義弘・盛見の甥)に石見国迩摩郡と長門の一部を与える予定であったものが、室町幕府との交渉にあたっていた大内氏の重臣内藤智得が盛見の遺志を持ち出して持世に大内家の家督を継がせ、持盛に長門国と迩摩郡・安芸の一部を継がせる方針に変えるように幕府に申し入れて認められたとされる。これに不満を抱いた持盛は永享4年2月10日に九州出陣中であった持世の陣を襲って反乱を起こし、満世を見方につけて大内氏領国の掌握に成功、持世は石見国の三隅氏を頼って逃亡した。しかし、持世は国人衆の支持を背景にして翌月には山口を取り戻し、持盛・満世は大友持直を頼る。第6代将軍・足利義教(義持の弟)は持世を支持して修理大夫の官途を授けた。一方、持世も幕府に働きかけて大友親綱と菊池兼朝をそれぞれ豊後国と筑後国の守護に任命させて味方に取り込む。永享5年(1433)4月、持盛は豊前国で満世は逃亡先の京都で討ち取られた。これに先立つ同年3月に幕府から大友持直・少弐満貞追討命令が出されると九州に下向、安芸・石見・伊予の国人衆や河野通久・大友親綱らと協力して少弐満貞・資嗣父子を討ち取り、大友持直と戦い勝利して勢力を拡大した。翌年に少弐嘉頼・大友持直が再挙兵すると永享7年(1435)に再び九州に向かい北九州を平定、少弐氏を滅亡寸前までに追い込み、続いて九州千葉氏の内紛にも関与した。永享11年(1439年)九州遠征を終えた持世は山口に帰還するが、大内氏の勢力が急速に拡大していくことに不安を覚えた将軍・足利義教(義持の弟)は6月に持世が上洛命令に応じないことを理由に安芸国の所領を没収する。持世は、永享12年(1440)に足利義教に少弐嘉頼・教頼兄弟との和睦を取り持ってもらうことで少弐氏を存続させ、合わせて自身も上洛した。これは、少弐氏と同盟関係にある対馬の宗氏との関係悪化を恐れたとも言われているが、一方で持世が李氏朝鮮に対して対馬の割譲と引き換えに軍事同盟を結んで少弐・宗両氏を滅ぼそうと計画していたものの、突然の殺害によって立ち消えになったと言われている。当時、足利義教によって一色義貫・土岐持頼が殺害される事件があり、持世の身の上も危惧されたが、嘉吉元年(1441年)3月に持世が義教に反抗していた異母弟の義昭を匿っていた薩摩国の島津忠国を持世が説得してその首を差し出させたことが義教に評価されて信頼を得た。だが、この年の7月、赤松満祐が結城合戦の戦勝祝いにと祝宴を開いた時、持世も義教に従って臨席していたが、義教は満祐に暗殺され持世も重傷を負い、それがもとで7月28日に死去してしまった(嘉吉の乱)。享年48歳。跡を従弟(甥とも)で養嗣子の教弘が継いだ。死に臨んで、赤松征伐こそ最大の供養であると遺言したという。法名は澄泉寺あるいは長泉寺殿道厳正弘大禅定門。墓所は山口県山口市の澄泉寺。当主として有能なだけではなく、和歌にも優れた教養人であり、『新続古今和歌集』には多くの作品が遺されている。その一方で、大内氏の歴代当主の家督継承時にはさまざまな理由で嫡子継承や円滑な家督継承が行われず、室町期の兄弟間の家督争いだけでも5件が知られている(義弘―満弘、盛見―弘茂、持世―持盛、教弘―教幸、義興―高弘)。このため、教弘の子政弘は父祖の年忌法要や系譜の整備を行うとともに、これまで漠然とした形でしか主張されていなかった「百済の子孫」という主張を一歩進めて「琳聖太子の子孫」であるという先祖説話を強調するようになる。その背景には朝鮮との外交関係上の便宜という意味もあったが、一族・家臣に対する当主の権威づけを図ったものであった(実際に朝鮮に対する大内氏関係の「偽使」とされるものには教弘・政弘父子と家督を争った大内教幸(道頓)が朝鮮へ派遣したとみられるものも含まれており、応仁の乱の一時期に教幸が室町幕府から大内氏家督を認められていた経緯からすると、「正使」と解することもできるものも含まれていた)。また、これと同時に朝廷においても歴代当主への贈位の働きかけなどを行っている。
2024年03月30日
コメント(0)
「反義満派の蜂起」その頃、義弘に同心した土岐詮直が挙兵して尾張へ討ち入り、美濃国へ侵攻した。美濃守護の土岐頼益は大内攻めの陣にいたが、直ちに美濃へ引きかえして詮直を打ち破る。宮田時清も義弘に同心して丹波へ討ち入り、京へ侵入して火を放ち、300余騎で八幡の幕府軍本陣を目指して突入した。時清の軍勢は幕府軍の陣を次々に打ち破るが力尽きて退却した。京極秀満は近江で挙兵して、京への侵攻を図った。三井寺の衆徒500人が勢多で橋を焼いてこれを待ち受ける。秀満はやむなく森山に陣を構えて対峙した。大内攻めに加わっていた京極勢1000余騎が引き返して森山へ迫ると、秀満は土岐詮直と合流すべく美濃へ向かうが途中で土一揆の蜂起に遭って潰走、秀満は主従2騎で落ちて行方知れずになった。なお、秀満の官職が金吾(左衛門尉)であったことから、この挙兵だけを指して金吾騒動(きんごそうどう)とも称する。鎌倉公方足利満兼は1万騎余を率いて武蔵府中高安寺まで進んだが、関東管領上杉憲定に諌められて兵を止めた。「落城」堺では幕府軍の総攻撃を撃退した大内勢が意気を揚げていた。しかし、幕府軍は火攻めを計画して左義長(爆竹)を用意して道を整え、12月21日早朝に総攻撃を開始した。幕府軍は強風に乗じて城中に火を放ち、矢倉を倒して激しく攻め寄せた。杉備中守は今日が最後の戦いになると覚悟し、山名(河口)満氏(氏清の子、宮田時清(既述)の弟)の陣に突撃して見事な討死を遂げた。これを見ていた義弘は項羽の討死の故事を引き、自分も後代に残るような最期を遂げようと決意する。義弘は幕府軍の北側の陣へ斬り込み大太刀を振るって奮戦。管領畠山基国の嫡子満家の軍勢200騎がこれに挑むが、義弘はよき敵であると僅か30騎でさんざんに戦った。その時、石見の住人200騎が幕府軍に内応してしまう。激怒した義弘は石見勢に攻めかかり、恐怖した石見勢は逃げ散った。義弘はなおも満家を討ち取ろうと戦い続け、幕府軍はこれを取り囲んで攻め立てた。義弘の手勢は次第に数を減らし森民部丞ひとりになってしまった。森民部丞は義弘を守って敵陣に斬り込み奮戦して討死した。一人になった義弘は満家を目がけて戦い続けるが、取り囲まれ遂に力尽きて「天下無双の名将大内義弘入道である。討ち取って将軍の御目にかけよ」と大音声を発して、討ち取られた。南側を固めていた杉豊後守は義弘の死を知らされて敵陣に切り込んで討死。東側を固めていた弘茂は今川勢、一色勢を相手に戦っていたが、手勢も討ち減らされ、最早これまでと自害しようとした。平井備前入道が押し止めて降伏を勧め、弘茂もこれに従った。その他の大内勢も落ち延びるか自害して、堺は落城した。鎌倉公方足利満兼は武蔵府中から下野足利荘(栃木県足利市)まで進軍するが、義弘敗死の報を聞いて鎌倉へ引き返した。「戦後」応永7年(1400)3月、鎌倉公方足利満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪した。満兼を謀叛に誘った今川了俊は幕府から討伐の命を受けたために上洛して謝罪し、助命された。但し遠江・駿河守護職は取り上げられ、甥の今川泰範に与えられている。以後は政治活動は起こさず、和歌、連歌に没頭することになる。その後の論功行賞で、義満は大内氏の分国和泉・紀伊・石見・豊前を没収。和泉を仁木義員、紀伊を畠山元国、石見を京極高詮に、周防・長門を降参した弘茂に与えた。しかし、周防・長門の本拠を守っていた盛見はこれに従わずに抵抗。弘茂は幕府の援軍とともに盛見を攻めてこれを追うが、応永8年(1401)に九州で盛見は再挙し、数度の合戦の後、弘茂は佐加利山城(現在の下関市長府)で滅ぼされた。盛見は更に安芸、石見まで勢力を伸ばす。幕府もこれを認めざるを得なくなり応永12年(1405)頃に盛見に周防・長門の守護職を与え、更に豊前・筑前の守護まで加えてようやく帰順させた。こうして、いったんは没落しかけた大内氏は再び勢力を盛り返すことになった。「応永記」この乱の内容は、軍記物語である『応永記』(別名『大内義弘退治記』)に記されている。作者や成立年は不詳だが、乱の終結からあまり時間をおかずに成立されたと推定される。別名の通り幕府(足利義満)側の視点で記録されているが、乱の史料として信憑性は高いとされる。写本として『堺記』がある。)義弘の死後、領国の大半は義満に取り上げられ、周防・長門2ヶ国の守護職は義弘の弟である大内弘茂に安堵され、大内家の勢力は一時的に衰退した。しかし、乱の際に領国の留守をしていた義弘のもう1人の弟・大内盛見がこの決定に反抗、再び家督を巡って抗争が起こり、弘茂は盛見に殺され、幕府の命令を受けた周辺の国人衆も盛見の前に降伏したため、幕府は盛見の家督を追認せざるを得なかった。室町時代当主になった盛見は義弘時代の栄華を取り戻すため、北九州方面に進出した。了俊の後任となった九州探題渋川氏に代わって北九州を担当、幕府の信任を得て豊前国守護にも任命されたが、少弐満貞・大友持直との戦いに敗れ、永享3年(1431)に敗死した。しかし、跡を継いだ甥の大内持世(義弘の遺児)は盛見に匹敵する人物であり、6代将軍足利義教の信任を受け筑前守護に任じられ、少弐氏・大友氏を征伐するなど、大内氏の北九州における優位を確立した。また、この頃山口氏の系統が興った。大内持世は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱に巻き込まれ非業の死を遂げるが、いとこで養子の大内教弘(盛見の子)が勢力を引き継いだ。
2024年03月30日
コメント(0)
戦いの経過「挙兵」応永6年(1399)10月13日、大内義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着き、家臣の平井新左衛門を入洛させるが、自身は参洛しなかった。義満の元に大内義弘謀反の噂が伝わる。義満は青蓮院門跡尊道法親王に仕える伊予法眼を堺へ送り上洛を促すが、義弘は「意に沿わないことがある」と参洛に応じない。10月27日、義満は禅僧の絶海中津を使者として堺へ派遣した。義弘は一門重臣たちと対応を内談。弟の弘茂は上意に従い参洛することを主張。平井備前入道も恭順して嘆願すべきであり、さもなくば朝敵となり御家滅亡になると義弘を説得した。一方、杉豊後入道は将軍は当家を滅ぼそうとしていると抗戦を主張した。義弘は絶海中津と面談。絶海中津は将軍家が義弘を滅ぼそうとしているとの噂を信じず、上洛して将軍家に謝罪すべきことを説く。義弘は将軍家からの御恩の深さを感謝しながらも、今川了俊に従軍しての九州での戦い、明徳の乱、南北朝合一、少弐氏退治での自らの功績を述べ、それにも関わらず将軍家は和泉と紀伊を取り上げようとし、先年の少弐氏との戦いで討ち死にした弟の満弘の子への恩賞がない不満を述べる。絶海中津は義弘の忠節は隠れ無きものであり、世の噂を信じるべきではない、また満弘の子への恩賞がないのは上洛しないために行賞できないからだと重ねて上洛を促した。これに対して、義弘は政道を諌めるため関東(鎌倉公方足利満兼)と同心しており、ここで上洛すれば約束を違える事になる、来月2日に関東とともに上洛すると言い放った。事実上の宣戦布告である。絶海中津は説得を諦めて帰京する。もっとも、「応永記」などに描かれた義弘の姿には必ずしも実際の流れに則していたとは言えない。この時、既に関東の鎌倉公方足利満兼から義弘の元に興福寺に対して決起を促す御教書が届けられていたが、その御教書が実際に興福寺へ届けられたのは11月4日であった。堺と奈良の距離を考えると、この書状が堺を出たのは絶海中津との会談から数日経っていたと考えられ、義満が実際に義弘討伐の軍を発向させるまで、義弘の心中では義満と戦うか否かで迷っていた可能性が高い。絶海中津からの報告を受けた義満は翌10月28日に義弘討伐を命じる治罰御教書を出した。ただちに細川頼元、京極高詮、赤松義則の先発隊6000余騎が淀から和泉へ発向する。11月8日、義満は馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構えた。11月14日、義満は八幡まで進み、管領畠山基国と前管領斯波義将が率いる主力3万騎が和泉へ発向した。義弘は評定を開き作戦を談じた。弟の弘茂は城を構えて和泉、紀伊に割拠して持ちこたえる策を提案。杉豊後入道は機制を制して舟で尼崎に上陸して八幡の陣を突き決戦することを主張した。かねてから謀反を諌めていた平井備前入道は出戦は無益であるとし篭城策を説いた。義弘は篭城策を採った。義弘は材木を集め、井楼48と矢倉1000余を建てて堺に方18町の強固な城を築き、「たとえ百万騎の軍勢でも破ることはできない」と豪語した。一方で、義弘は討死を覚悟して、かねて帰依していた僧を招き自らの葬儀を執り行った。また、周防に残した母に形見と遺言を送り、弟の盛見には分国を固く守るよう申し送った。義弘に従う者たちもみな討死を覚悟した。「城攻め」幕府軍3万余騎は堺を包囲し、海上は四国・淡路の海賊衆100余艘が封鎖した。義弘は河内国の森口城で戦っていた杉九郎と鴨山に配備した杉備中守を立退かせて堺に兵力を集中させた。義弘の軍勢は5000余騎。11月29日、幕府軍が一斉に鬨の声をあげて総攻撃を開始した。大内勢はこれに応じて、矢倉からさんざんに射まくった。管領畠山基国の軍勢2000余騎が北側の一の木戸、二の木戸を打ち破り、三の木戸まで攻め寄せ200人余が死傷する激戦を展開する。畠山勢に代って山名時熙の軍勢500余騎が攻め寄せ、城内からは杉豊後ら500余騎が出撃して戦う。義弘も200余騎を率いてこれに合力する。伊勢国司の北畠顕泰の軍勢300余騎が山名勢に加勢、子息の満泰が討死する程激しく戦った。細川勢、赤松勢の5000余騎は南側から、六角勢、京極勢は東側から攻め寄せる。戦いは夜まで続き、無数の死傷者が出た。
2024年03月30日
コメント(0)
*「応永の乱」(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399)に、守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱である。室町幕府の将軍は有力守護大名の連合に擁立されており、その権力は弱体だった。3代将軍足利義満は将軍権力を強化するため、花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強した。また、義満は有力守護大名の弱体化を図り、康暦元年(1379)、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させた(康暦の政変)。康応元年(1389)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下す(土岐康行の乱)。そして明徳2年(1391)、11カ国の守護となり「六分の一殿」と呼ばれた大勢力の山名氏の分裂をけしかけ、山名時熙と氏之の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させた。さらに、時熙と氏之を赦免して氏清と満幸を挑発、挙兵に追い込み滅ぼした。山名氏は3カ国を残すのみとなってしまった(明徳の乱)。「守護大名大内氏」大内氏は百済聖王(聖明王)の王子琳聖太子を祖と称し、周防に土着して武士となり、鎌倉幕府の御家人に連なった。南北朝の争乱では南朝に付くが後に北朝に帰順して九州の菊池氏らと戦い、幕府から周防・長門・石見の守護職に任じられた。大内義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられた。明徳の乱では義弘は大いに奮戦して武功著しく、和泉・紀伊の守護職を与えられる。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになった。義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていた。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていた。周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6ヶ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘った。「義満と義弘の対立」応永元年(1394)義満は将軍職を嫡男の義持に譲り、太政大臣に昇る。もちろん、実権は掌握したままだった。応永2年(1395)には太政大臣を辞して出家し、道義と称した。諸大名、公家はこぞってこれに追従して出家し、義弘もまた出家した。この頃までは義満と義弘の関係は良好だったが、応永4年(1397)、義満は北山第の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めた。しかし、諸大名の中で義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれに従わず、義満の不興を買った。同年末、義弘は少弐氏討伐を命じられ、筑前で戦い弟の満弘が討死するがその子への恩賞の沙汰が無く不満を募らせ、義満が裏で少弐氏と菊地氏に義弘を討つように命じていたとの噂もあり憤慨していた。応永5年(1398)、来日した朝鮮使節から義弘が莫大な進物を受け取っていたことを斯波義将らが「義弘は朝鮮から賄賂を受け取っている」と義満に讒言し、それが義弘に聞こえて激怒させている。大陸との貿易の推進を図る義満にとっても朝鮮と強いつながりを持つ義弘の存在は目障りなものになった。義満は度々義弘へ上洛を催促するが、「和泉、紀伊の守護職が剥奪される」「上洛したところを誅殺される」との噂が流れ、義弘を不安にさせた。追い込まれた義弘は鎌倉公方足利満兼と密約を結んだ。この密約は今川了俊が仲介した。了俊は義満によって一方的に九州探題を解任され、遠江・駿河半国守護に左遷されていた。さらに義弘は、先年の土岐康行の乱で没落していた美濃の土岐詮直、明徳の乱で滅ぼされた山名氏清の嫡男宮田時清、近江の京極秀満(出雲守護京極高詮の弟)や比叡山・興福寺衆徒、楠氏(楠木正勝とその二子の正盛(正顯)・正堯)・菊地氏(菊池肥前守=菊池武照もしくは菊池兼朝)ら旧南朝方と連絡をとり挙兵をうながした。
2024年03月30日
コメント(0)
4、「南北朝時代の大内氏」建武の親政において大内氏は周防守護職に任じられ、親政後は北朝側につき足利尊氏を支援。尊氏の九州下向の際に引き続き周防守護職に任ぜられる。南北朝時代に入ると家督争いが起こり、当主・大内弘幸と叔父の鷲頭長弘が抗争した。このため大内弘幸は一時的に南朝に帰順。正平5年/観応元年(1350年)、弘幸は子の大内弘世とともに長弘討伐に乗り出し、鷲頭氏の後を継いだ鷲頭弘直を従属させ、南朝から周防守護職に任じられた。*「鷲頭氏」(わしずし)は、日本の氏族。多々良氏大内氏の庶流。出自、百済の聖明王の第3王子琳聖太子の後裔と称する多々良氏は、平安時代後期には在庁官人として大きな勢力を持ち始めたと推定されており、平安時代末期の当主多々良盛房は周防国の最有力実力者となっていた。周防権介に任じられた盛房は、その後大内介と名乗り、以降歴代の当主も世襲した。大内盛房の三男である盛保は、周防都濃郡鷲頭庄(現・山口県下松市の切戸川流域)を領地として鷲頭氏を称した。鷲頭氏の居館は、現在の下松市にある旗岡山または鷲頭山の山麓にあったと推定される[2]。その周囲にある、白坂山や茶臼山(いずれも同市)にも城を構えていた。南北朝時代、鷲頭盛保の嫡男・親盛が後継者のいないまま死去したため、その娘である禅恵尼が養子として宗家から大内弘家の次男を鷲頭長弘として迎えた。元弘元年(1331)に発生した元弘の乱で、大内弘幸は周防守護・北条時直に協力した。そのため、元弘3年/正慶2年(1333)に鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が始まると、後醍醐天皇は大内弘幸に代わって叔父にあたる鷲頭長弘を周防守護職に任じた。建武政権が崩壊して室町幕府が成立しても、足利尊氏に取り入っていた長弘は引き続き周防守護であった。周防守護の長弘は、庶流でありながら大内豊前権守や大内豊前権守入道と称して大内氏惣領として君臨し、宗家である弘幸と対立していた。興国2年/暦応4年(1341)に大内氏の氏寺である氷上山興隆寺が焼失したのは、長弘方の放火とされる。幕府内の内乱(観応の擾乱)が勃発し、足利尊氏に対抗する足利直冬の勢力が九州から中国地方にまで及ぶようになった正平5年/観応元年(1350)には、鷲頭長弘・大内弘幸共に直冬陣営に与した。同年10月には、直冬討伐に遣わされた高師泰らの軍勢と石見国で戦っている。この時、長弘は一旦周防守護職を解かれている。足利尊氏(北朝)が一時的に南朝と和睦(正平一統)するなど、中央の情勢が目まぐるしく変化する一方、鷲頭氏討伐を画策する大内弘幸とその子・弘世は、同年に数万と伝わる軍勢を率いて東大寺領吉敷郡椹野庄(現・山口市)に乱入、南朝に帰順の意志を示して長弘らに対抗した。翌正平6年/観応2年(1351)に長弘が亡くなると、次男・鷲頭弘直が尊氏に帰順して再び周防守護を継ぐが、同年7月に南朝より弘世も周防守護職に任じられた。これによって周防守護職は、北朝が任じた鷲頭弘直と南朝が任じた大内弘世が対立する事態となった。正平7年/観応3年(1352)2月には弘世が鷲頭庄を攻めており、翌3月には弘幸が亡くなるが大内氏の攻勢は続いている。その後、経緯は不明ながら鷲頭家の家督は弘直の弟(長弘の三男)・貞弘に移ったと見られるが、ついに正平9年/文和3年(1354)に鷲頭氏は大内宗家への従属を余儀無くされた。室町時代以降11代大内家当主・大内盛見の頃、鷲頭氏は長門国深川(ふかわ)に代官として遣わされたとされる。応永17年(1410)には鷲頭弘忠が大寧寺を創建している。弘忠は大内持世の信任を得て、永享4年(1432)に長門守護代に任じられ、深川城(現・長門市)に居城を築いた。しかし、嘉吉元年(1441)に大内教弘が新たな当主となると、文安3年(1446)に長門守護代を解かれた。教弘の攻撃を予期した弘忠は、亀山城・堅田城・沢差城・岩尾城などの支城を築いて深川城の守りを固めたが、文安5年(1448)に大内教弘によって攻め滅ぼされた。弘忠は討死し、嫡男・弘貞をはじめ一族郎党も討ち取られた。その後、鷲頭氏は衰退していくが、大内家臣や毛利家臣に鷲頭姓の人物が仕えている。) また長門国守護の厚東氏と戦い、正平13年/延文3年(1358)にその拠点霜降城を攻略して厚東氏を九州に逐ったことで、大内氏の勢力は周防国と長門国の2カ国に拡大した。防長二国が南朝方の大内氏によって統一されたことは、北朝方にとっても影響が大きかったので、足利尊氏は弘世を防長二国の守護職に任ずることを条件に、北朝側に引き入れることに成功。弘世は上洛して、将軍足利義詮に謁した。弘世は本拠地を山口(山口県)に移し、正平18年/貞治2年(1363)に北朝の室町幕府に再び帰服した。弘世の跡を継いだ嫡男の大内義弘は九州探題今川貞世(了俊)の九州制圧に従軍し、南朝との南北朝合一でも仲介を務め、元中8年/明徳2年(1391)には山名氏の反乱である明徳の乱でも活躍した。結果、和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の6カ国を領する守護大名となり、李氏朝鮮とも独自の貿易を行うなどして大内氏の最盛期を築き上げた。しかし義弘の勢力を危険視した室町幕府3代将軍足利義満と対立し、鎌倉公方の足利満兼と共謀して応永6年(1399)に堺で挙兵するも敗死した(応永の乱)。
2024年03月30日
コメント(0)
全444件 (444件中 1-50件目)