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10「蛮社の獄」蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、天保10年(1839年)5月に起きた言論弾圧事件である。高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた。天保年間(1830年代)には江戸で蘭学が隆盛し新知識の研究と交換をする機運が高まり、医療をもっぱらとする蘭方医とは別個に、一つの潮流をなしていた。渡辺崋山はその指導者格であり、高野長英・小関三英は崋山への知識提供者であった。この潮流は旧来の国学者たちからは「蛮社」(南蛮の学を学ぶ同好の集団、社中。「蛮学社中」の略)と呼ばれた。後に蛮社の獄において弾圧の首謀者となる鳥居耀蔵は、幕府の文教部門を代々司る林家の出身であった。儒教を尊んできた幕府は儒学の中でもさらに朱子学のみを正統の学問とし、他の学説を非主流として排除してきた。林家はそのような官学主義の象徴とも言える存在であり、文教の頂点と体制の番人をもって任ずる林一門にとって蘭学は憎悪の対象以外の何物でもなく、また林家の門人でありながら蘭学に傾倒し、さらに多数の儒者を蘭学に引き込む崋山に対しても、同様の感情が生まれていた。以上の通説に対して田中弘之は、林述斎(耀蔵の実父)は儒者や門人の蘭学者との交流に何ら干渉せず寛容であり、また後述するように述斎はモリソン号事件の際、幕府評定所の大勢を占める打ち払いの主張に反対して漂流民の受け入れを主張しており、非常に柔軟な姿勢がうかがえること、鳥居も単なる蘭学嫌いではなく、多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して反対するなど、その実用性をある程度認めていたこと、そもそも林家の三男坊にすぎなかった鳥居耀蔵は鳥居家に養子に入ることにより出世を遂げたため、鳥居家の人間としての意識のほうが強かったことを指摘している。また、崋山の友人である紀州藩の儒者・遠藤勝助は、救荒作物や海防について知識交換などを目的とした学問会「尚歯会」を創設したがこの会の常連であったために「蛮社=尚歯会」「蛮社の獄=尚歯会への弾圧」という印象が後世生まれたが、尚歯会の会員で蛮社の獄で断罪されたのは崋山と長英のみであり、その容疑も海外渡航や幕政批判・処士横議で、会の主宰であった遠藤をはじめ他の関係者は処罰されておらず、そのような印象は全くの誤解だとしている。対外的危機と開国への期待天保年間、日本社会は徳川幕府成立から200年以上が経過して幕藩体制の歪みが顕在化し、欧米では産業革命が推進されて有力な市場兼補給地として極東が重要視され、18世紀末以来日本近海には異国船の来航が活発化し始めた。寛政5年(1793年)のラクスマンの根室来航を契機として、幕府老中松平定信は鎖国祖法観を打ち出した。幕府の恣意的規制の及ばない西洋諸国との接触は、徳川氏による支配体制を不安定化させる恐れが強く、鎖国が徳川覇権体制の維持には不可欠と考えたためである。一方でこの頃から、蘭学の隆盛とともに蘭学者の間で西洋への関心が高まり開国への期待が生まれ始め、庶民の間でも鎖国の排外的閉鎖性に疑問が生じ始めていた。文政7年(1824年)には水戸藩の漁民たちが沖合で欧米の捕鯨船人と物々交換を行い300人余りが取り調べを受けるという大津浜事件が起こっている。また、異国船の出没に伴って海防問題も論じられるようになるが、鎖国体制を前提とする海防とナショナルな国防の混同が見られ、これも徳川支配体制を不安定化させる可能性があった。そのような中で出されたのが文政8年(1825年)の異国船打払令である。これについては、西洋人と日本の民衆を遮断する意図を濃厚に持っていたと指摘されている。また、文政11年(1828年)には幕府天文方・書物奉行の高橋景保が資料と引き換えに禁制の地図をシーボルトに贈ったシーボルト事件が起こり、幕府に衝撃を与えており、天保3年から8年(1832年 – 1837年)にかけては天保の大飢饉が発生して十万人余が死亡し、一揆と打ち壊しが頻発した。特に天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱・生田万の乱は全国に衝撃を与えた。また、対外関係は、19世紀初頭に紛争状態にあった北方ロシアと関係改善されるも、インド市場と中国市場を獲得したイギリス政府が日本市場を狙い台頭する状況から、イギリスの小笠原諸島占領計画、モリソン号渡来が蛮社の獄に影響し、これら内外の状況が為政者の不安と有識者の危機意識を掻き立てていた。ただし、これについては田中弘之は、当時のイギリスは清国との関係が急激に悪化しており、そのため日本人漂流民の送還もアメリカ商船モリソン号に委ねなければならなくなったと指摘している。小笠原諸島は清国との有事の際のイギリス商人の避難地およびイギリス海軍の小根拠地と考えられていたにすぎず、香港を獲得するとイギリスの占領計画も自然消滅しており、当時の幕府もイギリスの小笠原諸島占領に全く無関心であったとしている。モリソン号の来航を機に鎖国の撤廃を期待したのが高野長英・渡辺崋山らで、崋山は西洋を肯定的に紹介して「蘭学にして大施主」と噂されるほどの人物であった発端モリソン号事件蛮社の獄の発端の一つとなったモリソン号事件は、天保8年(1837年)に起こった。江戸時代には日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていたが、この事件の渦中となった日本人7名もそのケースであった。彼らは外国船に救助された後マカオに送られたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・W・キング(英語版)が、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図した。この際に使用された船がアメリカ船モリソン号である。天保8年(1837年)6月2日(旧暦)にマカオを出港したモリソン号は6月28日に浦賀に接近したが、日本側は異国船打払令の適用により、沿岸より砲撃をかけた。モリソン号はやむをえず退去し、その後薩摩では一旦上陸して城代家老の島津久風と交渉したが、漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられて船に帰された後に空砲で威嚇射撃されたため、断念してマカオに帰港した。日本側がモリソン号を砲撃しても反撃されなかったのは、当船が平和的使命を表すために武装を撤去していたためである。
2024年02月29日
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9「シーボルト事件で連座で高野長英獄死」軟禁状態のシーボルトは研究と植物の乾燥や動物の剥製つくりをしてすごしたが、今までの収集品が無事オランダやバタヴィアに搬出できるかどうか心配であり、コレクションの中には個人的に蒐集していた標本や絵画も所有しており、これが彼一人の自由には出来なくなっていた。シーボルトは訊問で科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、捕まった多くの日本人の友人を助けようと彼らに罪を負わせることを拒絶した。自ら日本の民になり、残りの人生を日本に留まることで人質となることさえ申し出た。高橋は1829年3月獄死し、自分の身も危ぶまれたが、シーボルトの陳述は多くの友人と彼を手伝った人々を救ったといわれている。しかし、日本の地図を持ち出すことは禁制だと彼自身知っていたはずであり、日本近海の海底の深度測定など、スパイの疑惑が晴れたわけではない。シーボルトは高野長英から、医師以外の肩書は何か、と問われて、「コンテンス・ポンテー・ヲルテ」とラテン語で答えたと渡辺崋山が書いているが、これは「コレスポンデントヴェルデ」であり、内情探索官と訳すべきものである。高野 長英(たかの ちょうえい、文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))は、江戸時代後期の医者・蘭学者。通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。実父は後藤実慶。養父は叔父・高野玄斎。江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け死去した。1898年(明治31年)7月4日)、その功績により正四位を追贈された。主著に『戊戌夢物語』『わすれがたみ』『三兵答古知機』など。また、オランダ語文献の翻訳作業も多く行っている。誕生陸奥国仙台藩の一門である水沢領主水沢伊達家家臣・後藤実慶の三男として生まれる。養父の玄斎は江戸で杉田玄白に蘭法医術を学んだことから家には蘭書が多く、長英も幼いころから新しい学問に強い関心を持つようになった。文政3年(1820年)、江戸に赴き杉田伯元や吉田長淑に師事する。この江戸生活で吉田長淑に才能を認められ、師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。シーボルト事件文政3年(1820年)、父の反対を押し切り出府して、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となっている。文政11年(1828年)、シーボルト事件が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、長英はこのとき巧みに逃れている。まもなく豊後国日田(現在の大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたという(異説もある)。この間、義父玄斎が亡くなっており、長英は故郷から盛んに帰郷を求められるが、逡巡したもののついに拒絶。家督を捨て、同時に武士の身分を失っている。天保8年(1837年)、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。翌天保9年(1838年)にこれを知った際、長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。長英はそうした意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し、内輪で回覧に供した(ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回っている)。天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢終身刑の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった。獄中記に『わすれがたみ』がある。弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた非人栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。脱獄の際、三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処すとの警告を牢の役人から受けたが、長英はこれを無視し、再び牢に戻って来ることはなかった。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも(江戸では人相書きが出回っていたためと言われている)硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続け、大間木村(現:さいたま市緑区)の高野隆仙のもとに匿われた[2]。その際の高野家離座敷は文化財として公開されている。その後、一時江戸に入って鈴木春山に匿われ、兵学書の翻訳を行うも春山が急死。その後、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は、当時としては最高の技術を結集したものとされる。しかし、この生活も長くは続かず、しばらくして江戸に戻り、「沢三伯」の偽名を使って町医者を開業した。医者になれば人と対面する機会が多くなるため、その中の誰かに見破られることも十分に考えられた。そのため硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛された。何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命したという。勝海舟 「高野長英は有識の士だ。その自殺する一ヶ月ばかり前に横谷宗與の照会で、夜中におれの家へ尋ねて来て、大いに時事を談論して、さて帰り際になって、おれに言うには、拙者は只今潜匿の身だから、別に進呈すべき物もないけれど、これはほんの志ばかりだといって、自分が謄寫した徂徠の『軍法不審』を出してくれた」
2024年02月29日
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長崎奉行の収入奉行は、格式は公的な役高1000石、在任中役料4400俵であったが、長崎奉行は公的収入よりも、余得収入の方がはるかに大きい。すなわち、輸入品を御調物(おしらべもの)の名目で関税免除で購入する特権が認められ、それを京・大坂で数倍の価格で転売して莫大な利益を得た。加えて舶載品をあつかう長崎町人、貿易商人、地元役人たちから八朔銀と呼ばれる献金(年72貫余)や清国人・オランダ人からの贈り物や諸藩からの付届けなどがあり、一度長崎奉行を務めれば、子々孫々まで安泰な暮らしができるほどだといわれた。そのため、長崎奉行ポストは旗本垂涎の猟官ポストとなり、長崎奉行就任のために使った運動費の相場は3000両(現在の価値でおよそ3億円)[3]といわれたが、それを遥かに上回る余得収入があったという。長崎在勤奉行の交替江戸詰めの奉行が、長崎在勤の奉行と交替するため長崎に向け出立すると、その一行が諫早領矢上宿に到着する頃に、長崎在勤奉行は町使と地役人の年行司各2人ずつを案内のため、矢上宿に遣わす。そして奉行所西役所では屋内だけでなく庭の隅々まで清掃して着任する奉行を出迎える用意をする。さらに在勤奉行の代理として、その家臣1人が蛍茶屋近くの一ノ瀬橋に、西国の各藩から派遣されている長崎聞役は新大工町付近に、年番の町年寄は地役人の代表として日見峠に、その下役の者達は桜馬場から日見峠の間に並ぶ。そして長崎代官高木作右衛門は邸外に出て、それぞれ新奉行を待つことになる。矢上宿に一泊した奉行は、駕籠の脇に5人、徒士5人、鎗1筋・箱3個、長柄傘・六尺棒その他からなる一行で出発。日見峠で小憩を取る際に、町年寄らが出迎え、奉行の無事到着を祝う。ついで沿道の地役人らが両側に整列する間を一行は進む。在勤奉行代理の家臣が、その氏名を1人ずつ紹介するが奉行はそれに対しては特に言葉を返さない。桜馬場まできたところで、出迎える諸藩の聞役の名を披露され、そこで初めて奉行はいちいち駕籠を止めて会釈する。ついで勝山町に進み、代官高木作右衛門と同姓の道之助が出迎えるのを見て、奉行は駕籠を出てこれと挨拶を交わす。西役所に一行が到着するのはこの後である。長崎の地役人や先着の家臣達が奉行所の門外や玄関でこれを迎え、奉行が屋内に入ったところで、皆礼服に改め、無事に到着したことを祝い、奉行もまたこれに応える。その後直ちに立山の長崎在勤奉行の下に使者を遣わして無事到着を報告する。これを受けた立山奉行所はそれを祝い、鯛一折りを送り届ける。到着した奉行は、昼食の後、立山奉行所に在勤奉行を訪問し、然るべき手続きを終え、西役所に戻る。その後、地役人らの挨拶があるが、これには新奉行は顔を出さない。その後、立山から在勤奉行がここに返礼に来る、というものであった。時代劇作品、文献長崎奉行は『大江戸捜査網』、『暴れん坊将軍』、『長七郎江戸日記』、『水戸黄門』など多くの時代劇作品で演じられる作品は多い。大概は被害者役(大体は無実の罪で切腹し、妻や娘などの縁者による敵討ちを、主人公が助ける)か、悪の黒幕役(大体は不正蓄財をして、江戸に戻り権勢を張ったが、最後に主人公により悪事を暴かれ成敗される)に分かれる。後者の代表作が『雪之丞変化』でたびたびドラマ・舞台化されている。萬屋錦之介が主人公で長崎奉行を演じた『長崎犯科帳』がある。最終回で江戸へ帰還した。詳しくは項目参照。原作は、地元の郷土史家森永種夫『長編小説 長崎奉行犯科帳』(五月書房、1958年)、森永自身からの資料提供を元に、池田一朗(後の作家隆慶一郎)が起こした。なお森永は『犯科帳 長崎奉行の記録』、『流人と非人 続長崎奉行の記録』(各岩波新書、版元品切だが重版多数)を著し、郷土出版物で多くの資料文献を編纂・出版した。他に長崎市出身の歴史学者外山幹夫『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』(中公新書、1988年、品切)。大部な学術書で、鈴木康子『長崎奉行の研究』(思文閣出版、2007年)、一般向けで同『長崎奉行 ─等身大の官僚群像』(筑摩選書、2012年4月)がある。長崎県諫早出身の脚本家・作家市川森一は1990年代に、奉行として赴任した遠山景晋・遠山金四郎父子を主人公とした時代小説『夢暦長崎奉行』を刊行し、NHK金曜時代劇でドラマ化した。2005年に長崎歴史文化博物館で再刊された。
2024年02月29日
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近隣大名が長崎に来た際は、長崎奉行に拝謁して挨拶を行なったが、大村氏のみは親戚格の扱いで、他の大名とは違い挨拶もそこそこに中座敷へ通し、酒肴を振舞うという慣例だった。任務奉行は天領長崎の最高責任者として、長崎の行政・司法に加え、長崎会所を監督し、清国、オランダとの通商、収益の幕府への上納、勝手方勘定奉行との連絡、諸国との外交接遇、唐人屋敷や出島を所管し、九州大名を始めとする諸国の動静探索、日本からの輸出品となる銅・俵物の所管、西国キリシタンの禁圧、長崎港警備を統括した。長崎港で事件が起これば佐賀藩・唐津藩をはじめとする近隣大名と連携し、指揮する権限も有していた。17世紀頃までは、キリシタン対策や西国大名の監視が主な任務であった。なお、貿易の管理と統制を目的に1630年代に長崎奉行の職務を規定したお触れを出している(いわゆる鎖国の前段階)。新井白石の頃に、海舶互市新例が発布された頃は貿易により利潤を得ることが長崎奉行の重要な職務となってきた。江戸時代も下ると、レザノフ来航、フェートン号事件、シーボルト事件、プチャーチン来航など、長崎近海は騒がしくなり、奉行の手腕がますます重要視されるようになる。長崎に詰めている奉行を長崎在勤奉行、江戸にいる方を江戸在府奉行と呼んだ。在府奉行は江戸の役宅で、江戸幕府当局と長崎在勤奉行の間に立ち、両者の連絡その他にあたった。在勤奉行の手にあまる重要問題や、先例のない事項は、江戸幕府老中に伺い決裁を求めたが、これは在勤奉行から在府奉行を通して行なわれ、その回答や指示も在府奉行を通して行なわれた。オランダ商館長の将軍拝謁の際に先導を務めたのも在府奉行であった。奉行による仕置長崎の町の刑事裁判も奉行に任されていた。他の遠国奉行同様、追放刑までは独断で裁許出来るが、遠島刑以上の刑については、多くはその判決について長崎奉行から江戸表へ伺いをたて、その下知があって後に処罰されることになっていた。長崎から江戸までの往復には少なくとも3ヶ月以上を要し、その間に自害をしたり、病死したりする者もいた。その場合は、死体を塩漬けにして保存し、江戸からの下知を待って後に刑が執行された。幕府の承認を得ず、独断専行すれば、処罰の対象とされた。大事件については、幕府からの上使の下向を仰ぎ、その指示の下にその処理にあたった。奉行所の判決文集である「犯科帳」で、本文の最後に「伺の上」として処罰が記してあるのは、その事件が極刑にあたる重罪である場合や、前例の少ない犯罪である場合等、長崎奉行単独の判断では判決を下せない時に、江戸表に伺いをたて、その下知によって処罰が決まったことを指した。その江戸表への伺いの書類を御仕置伺という。遠島以上の処分については、長崎奉行は御仕置伺に罪状を詳しく記した後、「遠島申し付くべく候や」という風に自分の意見を述べた。下知は伺いのままの場合が多かったが、奉行の意見より重罪になることもあれば軽くなることもあった。なお、キリシタンの処罰については、犯科帳には記述されていない。遠島刑は、長崎からは壱岐・対馬・五島へ流されるものが多く、大半は五島であった。まれに薩摩や隠岐にも送られた。天草島は長崎奉行の管理下にあったが、そこには大坂町奉行所で判決を下された流人が多かった。遠島の場合、判決が下っても、すぐに島への船が出る訳ではなく、天候や船の都合、判決の前後する犯人を一緒に乗船させる都合等により、かなり遅れることもあった。そのため、遠島の判決文には、末尾に「尤も出船迄入牢申し付け置く」と書き添えてあるものが多かった。長崎で判決を受けた流人の大部分は五島に送られたが、その流人の支配については五島の領主に一任された。五島の領主から、流人がさらに罪を重ねたり島抜けをしたり等の報告があった場合には、奉行所の記録にもそのことが付け加えられた。天草島の流人は長崎から送られる者は比較的少なかったが、天草は長崎奉行の支配下にあったため、長崎奉行所の記録には天草流人の様子を伺うものが多い。流人が島で罪を重ねた場合、天草は長崎奉行の支配下のため、奉行がその処罰を直接指示した。壱岐・五島・対馬などの場合は、処罰はその領主家来の支配に委ねられるが、その連絡報告を長崎奉行から求められた。奉行所の取り調べや処分について不平不満のある市民は、それについて意見を述べたいと思ったら町役人を通じて訴える必要があった。手続きの煩雑さや、上申しても願いが通る可能性が低いことから、町役人も手続きをしようとしない場合が多かった。これに対して市民は、願いを文書にして奉行所に投げ込む「投げ文」「捨て訴え」、直接役人や役所へ陳情する「駕籠訴え」「駈けこみ訴え」等を行なった。これらの非正規の手順は、「差越願(さしこしねがい)」として却下され、投げ文をした者の身元が分かれば、本人を町役人付き添いで呼び出し、目の前で書状は焼き捨てられた。しかし、表面上はそれを却下しながら、奉行所でそれを元に再吟味をし、市民の要求が通る場合もあった。唐人やオランダ人に対する処罰は日本人と同じにする訳にはいかず、手鎖をかけて中国船主やカピタンに身柄を渡し、貴国の法で裁いて欲しいと要求する程度だった。罰銅処分(過料)か国禁処分になる場合が多く、国禁処分になった唐人は唐人屋敷に閉じこめられ、次に出港する船で帰国させられ、日本への再渡航を禁じられた。しかし開港後は、多くの外国人によるトラブルが発生し、従来のように唐船主や出島のカピタン相手に通達するだけでは済まず、各国の領事に連絡し、しかもその多くは江戸表へ伺いをたてねばならなくなった。江戸やその他の場所では、非人に対する刑罰はその頭の手に委ねられていたが、長崎の場合は直接奉行によって執行された。
2024年02月29日
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8「江戸露見説と長崎奉行調べ」1996年に旧来の説を否定する論文が出され、オランダ商館長の日記や長崎商人の中野用助による報告書の写しから江戸で露見したとする江戸露見説が有力になっている。長崎市鳴滝にあるシーボルト記念館の研究報告書である『鳴滝紀要』第六号(1996年)発表の梶輝行の論文「蘭船コルネリウス・ハウトマン号とシーボルト事件」で、これまで通説だった暴風雨で座礁した船中から地図等のご禁制の品々が発見されたという説が後日の創作であることが判明した。コルネリウス・デ・ハウトマン号は1828年10月に出航を予定していたが、同年9月17日夜半から18日未明に西日本を襲った猛烈な台風(いわゆるシーボルト台風)で座礁し、同年12月まで離礁できなかったのである。従来の説は壊滅的な被害を受けて座礁した船の中から、禁制品の地図類や三つ葉葵の紋付帷子などが見つかっていたことになっていたが、座礁した船の臨検もなくそのままにされ、船に積み込まれていたのは船体の安定を保つためのバラスト用の銅500ピコルだけだった。2,019年、三井越後屋の長崎代理店をしていた中野用助が江戸に送った報告書を本店で写した資料が見つかった。中野の報告書によると事件は江戸で露見し、飛脚で長崎に通報され、長崎奉行所がシーボルトを取り調べて様々な禁制品が見つかったと述べられており、オランダ側の資料とも一致する内容となっている。関係者の取り調べと処分江戸で高橋景保が逮捕され、これを受けてシーボルトへ高橋より送った「日本地図其の他、シーボルト所持致し居り候」ため、シーボルトの所持する日本地図を押収する内命が長崎奉行所にもたらされ、出島のシーボルトは訊問と家宅捜索をうけた。長崎奉行(ながさきぶぎょう)は江戸幕府の遠国奉行の一つ。遠国奉行首座。戦国時代大村氏の所領であった長崎は、天正8年(1580年)以来イエズス会に寄進されていたが、九州を平定した豊臣秀吉は天正16年(1588年)4月2日に長崎を直轄地とし、ついで鍋島直茂(肥前佐賀城主)を代官とした。文禄元年(1592年)には奉行として寺沢広高(肥前唐津城主)が任命された。これが長崎奉行の前身である。秀吉死後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は豊臣氏の蔵入地を収公し、長崎行政は江戸幕府に移管された。初期は竹中重義など徳川秀忠側近の大名が任ぜられたが、やがて小禄の旗本が、のちには1000 - 2000石程度の上級旗本が任ぜられるようになった。長崎奉行職は幕末まで常置された。幕府直轄地であり、警護は福岡藩と佐賀藩が交互に務めた。機構当初定員は1名で、南蛮船が入港し現地事務が繁忙期となる前(6月頃)に来崎し、南蛮船が帰帆後(10月頃)に江戸へ帰府するという慣習であった。しかし、島原の乱後は有事の際に九州の諸大名の指揮を執るため、寛永15年(1638年)以降は必ず1人は常駐することになった。寛永10年(1633年)2月に2人制となり、貞享3年(1686年)には3人制、ついで元禄12年(1699年)には4人制、正徳3年(1713年)には3人制と定員が変遷し、享保期(1716年 – 1736年)以降は概ね2人制で定着する。天保14年(1843年)には1人制となったが、弘化2年(1845年)からは2人制に戻った。定員2名の内、1年交代で江戸と長崎に詰め、毎年8月から9月頃、交替した。また、延享3年(1746年)以降の一時期は勘定奉行が兼任した。奉行は老中支配、江戸城内の詰席は芙蓉の間で、元禄3年(1690年)には諸大夫格(従五位下)とされた。その就任に際しては江戸城に登城し、将軍に拝謁の上、これに任ずる旨の命を受ける。当初は、芙蓉の間詰めの他の構成員は全員諸大夫だったが、長崎奉行のみが布衣の身分で、しかも芙蓉の間末席であった。牛込重忝が長崎奉行を務めていた時期、当時の老中久世広之に対し長崎奉行が他の構成員と同様に諸大夫になれるようにという請願がなされたが、大老酒井忠清に拒否された。その理由は、「従来長崎奉行職は外国商人を支配する役職であって、外国人を重要視しないためにも、あえて低い地位の人を長崎奉行に任じてきた。しかし、もしここで長崎奉行の位階を上昇させれば、当然位階の高い人をその職に充てなければならなくなる。そして、これまで外国人を地位の低い役人が支配していることにより、それだけ外国において幕府の威光も高くなるとの考えから遠国奉行の中でも長崎奉行の地位を低くし、しかも芙蓉の間末席にしてきた。そのため、長崎奉行の地位を上げるような願いは聞き届けられない」というものであった。しかし、川口宗恒が元禄3年(1690年)に従五位下摂津守に叙爵された後、長崎奉行は同等の格に叙されるようになり、元禄12年(1699年)には京都町奉行よりも上席とされ、遠国奉行の中では首座となったが、それでも後に起こるフェートン号事件の際、警備を担当していた佐賀藩が、長崎奉行松平康英の指揮に機敏に対応しなかったとし、事件後、引責自決をした康英は、遺書に「奉行には大身の者を充てられたし」と残している。奉行の役所は本博多町(現、万才町の一部分)にあったが、寛文3年(1663年)の大火で焼失したため、江戸町(現、長崎市江戸町・長崎県庁所在地)に西役所(総坪数1679坪)と東役所が建てられた。寛文11年(1671年)に東役所が立山(現、長崎市立山1丁目・長崎歴史文化博物館在地)に移され、立山役所(総坪数3278坪)と改称された。この両所を総称して長崎奉行所と呼んだ。奉行の配下には、支配組頭、支配下役、支配調役、支配定役下役、与力(10騎)、同心(15人)、清国通詞、オランダ通詞がいたが、これら以外にも、地役人、町方役人、長崎町年寄なども長崎行政に関与しており、総計1000名にのぼる行政組織が成立した。奉行やその部下、奉行所付の与力・同心は、一部の例外を除いて単身赴任であった。奉行所の玄関には、鉄砲100挺、弓20張(矢2箱)、長柄槍50筋などがあり、他に棒火矢50挺、百目長筒1挺、弓18張、鉄砲20挺、槍5筋が武具蔵に用意されていた。
2024年02月29日
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7、「禁制品持ち出し発覚」蘭船積み荷発覚説旧来の説では禁制品を積んだ船が暴風雨(いわゆるシーボルト台風)に見舞われて座礁し、積み荷から地図などが発見されたという蘭船積み荷発覚説が知られていた。シーボルト台風(シーボルトたいふう)は、グレゴリオ暦の1828年9月17日、(旧暦文政11年8月9日)に日本に襲来し、九州地方や中国地方にかけて大被害をもたらした台風である。襲来した文政11年が戊子に当たることから、子年の大風(ねのとしのおおかぜ)とも呼ばれる。有明海・博多湾などで高潮が発生し、佐賀藩だけで死者が約1万人、九州北部全体で死者約1万9千人に達する被害が出た。この台風は襲来年の干支にちなんだ「子年の大風」、あるいは元号にちなんだ「文政の大風」の名で長年呼び習わされていた。後に気象学者の根本順吉は、この台風によって当時日本に滞在中だったドイツ人学者・シーボルトの乗船が座礁し、船の修理の際に積荷の内容物が調べられたことで日本地図の国外持ち出しが発覚、世に言うシーボルト事件に至った事実に着目。そこから1961年、この台風に「シーボルト台風」の名を与えた。なお、シーボルト事件に関しては1996年に出された論文で、1828年8月9日(グレゴリオ暦)の暴風雨でオランダ船が座礁したが、オランダ側の資料などから座礁船の積み荷から地図などが発見された事実はないとして旧来の蘭船積み荷発覚説を否定する説が出されている。オランダ商館長の日記や長崎商人の中野用助による報告書の写しなどからシーボルト事件は江戸で露見したとする江戸露見説が有力になっている[2]。詳細はシーボルト事件の項参照。近代的な気象観測が始められる以前の台風であり、発生や消滅の時期は定かではない。しかし被害地域の藩が作成した報告書により、大体の進路が推測できる。久留米では四時半(午前0時)ころから暴風となり、北東風から東南に、門司では亥の刻(午後11時)に吹き始めた巳午(南南東)の風が寅卯(東北東)に変ったと言う。これら各地の報告書を総合すれば、新暦9月18日の午前2時頃に現在の長崎県西彼杵半島に上陸し、55㎞/hの速さで北東に進行、関門海峡に至った後山口市付近に再上陸し、中国地方を縦断したものと思われる。なお、当時長崎にいたシーボルトは、オランダ屋敷が倒壊する直前に952hPaの最低気圧を観測している。勢力や風速に関して、気象学者の高橋浩一郎は九州来襲時の中心気圧は900hPa、最大風速50m/s、総雨量300㎜と推測。一方、小西達夫は中心気圧は935hPa、最大風速55m/sと推測した。過去300年間に日本を襲った台風の中では最大級のものとされている。平成3年台風第19号や平成11年台風第18号、平成16年台風第18号など近代の著名な風台風と似た進路を取ったため、暴風や高潮による被害が顕著であった。有明海では最大で4㎡もの高潮が発生し、6千町歩の耕地が水没、埋没。暴風などによる家屋の全半壊は約5万軒に上る。さらに磁器の名産地・伊万里では操業中の登り窯が損壊、漏れた炎が暴風に煽られて町をなめつくし、1,200軒を焼失、115人の焼死者を出した。以上は佐賀藩のみの被害である。また、周防灘、博多湾でも3mを超える高潮が発生したと推定されている。いずれにせよ、平安時代の989年に近畿地方を襲ったとされる台風(永祚の風)、1281年、弘安の役のいわゆる「神風」で元の兵士10万人が溺死した事件、1856年に関東地方を襲い10万人余りの死者を出した台風(安政3年の台風)とならんで、日本史上最大級の被害をもたらした台風といえる。各地の被害肥前国佐賀藩耕地の水没・埋没6,021町歩、家屋全壊33,490軒、同半壊14,565軒、大火での焼失1,173軒、死者8,550人、負傷者8,665人、牛馬の斃死753頭、橋の流出250ヶ所、土砂崩れ2,828ヶ所、往来筋だけでの倒木320,295本、破船105艘、堤防の決壊294ヶ所。肥前国大村藩家屋全壊3,000余軒、同半壊1,720軒、死者3,107人、焼失家屋318軒、牛馬の斃死107頭、土砂崩れ31ヶ所、耕地の水没1,200石余、壊船1,921艘。肥前長崎と近隣の村落(天領)家屋全壊2,780軒、同半壊1,049軒、死者45人、負傷者103人、破船283艘、石垣の崩壊428ヶ所、焼失家屋86軒、さらにオランダ屋敷が倒壊。筑後国柳川藩新田6万石に海水が流入、死者3,000人以上、負傷者1,800人以上、全壊家屋1,630軒、流出家屋3,200軒。牛馬の斃死、倒木に関しては「調方行き届かず」。筑後国久留米藩家屋全壊10,078軒、城下町並びに周辺村落での出火473軒、死者208人、負傷者563人。牛馬の斃死、倒木、石垣の崩落、橋梁の被害に関しては「調方行き届かず」。筑前国福岡藩博多湾で顕著な高潮。家屋全壊22018軒、同半壊17,132軒、死者2,353人、負傷者3,420人、破船420艘。福岡城の御殿が全壊、二の丸・櫓が半壊。豊前国英彦山領英彦山神宮の本殿が大破。神殿の扉が筑前国まで吹き飛ばされたという。豊前国小倉藩小倉城城下のみで、家屋全壊318軒、死者53人、負傷者107人、破船18艘。その他の地域は不明。長門国長州藩下関だけで、家屋半壊412軒、死者65人、負傷者200余人。海側の石垣、塀、土蔵は残らず崩壊、流出。
2024年02月29日
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シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた(シーボルト事件)。開国ペリー来航によって日本が開国されることになった翌年の1855年(安政2年)に日蘭和親条約締結によってオランダ人の長崎市街への出入りが許可された。1856年には出島開放令と共に出島の日本人役人が廃止され、3年後の1859年には、出島にあったオランダ商館も閉鎖され、事実上「出島」としての存在意義は失われた。1860年、「長崎海軍伝習所絵図」でオランダの軍人を教師に、幕府海軍の海軍士官を養成した。明治以降出島のある長崎港は、明治以降埋め立て等の改修・改良工事が度々実施されており、その中でも明治時代の二度の大規模な港湾改修事業は、出島の姿を大きく変えることになった。1882年(明治15年)から始まった最初の港湾改修(第一次長崎港港湾改修事業)では、1886年(明治19年)から実施された中島川の変流工事に伴う川幅拡張により北側の敷地(出島全体の4分の1に相当)が削り取られ、1888年(明治21年)には東側の護岸部分から築町との間が埋め立てられ、陸続きとなった。 次いで、1897年(明治30年)に始まった港湾改修(第二次長崎港港湾改修事業)では南側の埋め立てが進められ、1904年(明治37年)の竣工時には完全な陸続きとなり、往時の扇型の姿は完全に失われた。 敷地内も時が経つにつれて住宅や医院、商店が建ち並ぶようになり、出島が国の史跡として登録された1922年(大正11年)時点では、道路を除くすべての土地が民有地となっていた。復元への動き19世紀に日本で作られたこの模型は、復元事業において貴重な資料となった出島を抱える長崎市は、オランダ側の働きかけもあり第二次大戦終結後の1951年(昭和26年)頃より出島の整備計画に着手。翌1952年(昭和27年)からは出島史跡内の民有地を用地買収する公有化事業に着手し、事業開始から半世紀が経過した2001年(平成13年)に完了した。1969年(昭和44年)からは1978年(昭和53年)には出島史跡の整備方針を検討する「長崎市出島史跡整備審議委員会」を設置しているが、この時点で後の復元事業に繋がる19世紀初頭の出島を復元するという指針が示された。1984年(昭和59年)から2年にわたって、かつての出島の範囲を確認する調査を行った。その調査によって東側・南側の石垣が発見されている。また、当時の出島との境界がわかるように道路上に鋲を打った。蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた和人地の対語である。渡島半島周辺を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。なお、アイヌ人はそれらの島々をアイヌモシリと呼んだ。中島翠堂によって1853年に描かれた世界地図。蝦夷地も描かれ、いくつかの地名が載っている。江戸時代まで日本では北の境の認識が希薄だったといわれている。15世紀から16世紀にかけて渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏は豊臣秀吉(関白、太閤)・徳川家康(征夷大将軍)から蝦夷地の支配権、交易権を公認された。江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列し、松前藩となる。北海道太平洋側と千島を東蝦夷と呼び、北海道日本海側と樺太を西蝦夷地と呼んだ。ところが寛政から文化期に入ると幕府は南下政策を強力に推し進めるロシアを警戒し、1799年(寛政11年)に東蝦夷地を、1807年(文化4年)に西蝦夷地を天領として、1809年、カラフト島の呼称を北蝦夷地と正式に定めた上で東北諸藩に警備を目的とした出兵を命じた。緊張が緩和したと思われた1821年(文政4年)には蝦夷地の大半を松前藩へと返却したが、諸外国との緊張が再び高まった1855年(安政2年)には渡島半島の一部を除いて再び天領とした。幕府は財政負担軽減のために仙台、盛岡、弘前、久保田、松前の東北の大藩に対して沿岸の警備義務を割り当てて、会津と庄内の2藩もそれに続いた。当時の古地図1712年(正徳2年)発行の「和漢三才図会」には「蝦夷島」の項があり、古地図の挿絵がついている。それによると、蝦夷島内の地名や、周辺の島々の名称が数多く記入されているため貴重な資料といえる。ただし、蝦夷島の形状はまったく不正確である。1854年(嘉永7年)千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅作)名称ロシアの進出に伴い江戸時代末期になると「異民族の住む地」を意味する「蝦夷地」のままではいけないという意見がみれたものの江戸時代には改称は実現しなかった。明治時代1869年6月27日(明治2年5月18日)の箱館戦争終結をもって戊辰戦争が終わると、同年9月20日(明治2年8月15日)に新政府は太政官布告によって蝦夷地に北海道の名前を与え、北蝦夷地は樺太と改名した。ほどなく旧幕府各藩をはじめとし、諸勢力に対して蝦夷地を分領することでその開拓を促したが、命じられた藩が早々に辞退を申し出るなど成果に乏しく、困難を極めた。そこで明治政府は再び蝦夷地を直轄化し開拓使にそれを統括させて現在に至る。なお、この時最後まで蝦夷地であった地域には北海道11国86郡のうち下記の令制国が置かれた。和人地であった地域に置かれた令制国(渡島国・後志国)はここに記載しない。
2024年02月29日
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臨席した者たちから様々な質問がなされ、それをヨーロッパの筆記具で返答を書いて差し出す。この時、随行の医官にも医学上の質問などが投げかけられた。外套を脱ぐ。顔がよく見えるよう、上体を起こして座る。帽子や衣服、帯剣などの持ち物が回覧される。立ち上がってあちこち歩く・挨拶をする・踊る・跳ねる・酔払いの真似をする・日本語やオランダ語、ドイツ語を話す・絵を描く・歌を歌う。等であった。廻勤拝礼と蘭人御覧が終わると江戸城を退出し、幕府高官の役宅を訪問して、無事に謁見をすませた御礼の挨拶をする。これを「廻勤(かいきん)」という。廻勤先は、老中・若年寄・側用人・寺社奉行・南北の両町奉行で、拝礼登城に同行した宗門奉行と長崎奉行は屋敷まで廻勤の必要はないと城中で挨拶があるため省略される。廻勤の前には各屋敷には、外国の反物類やブドウ酒などの「贈り物」が届けられている定めであった。通詞と長崎屋源右衛門が随行、先導を務め、それぞれの屋敷では、家老や書記役に鄭重に迎えられ、通された部屋の簾や障子の後ろには、女性の見物人が大勢いた。移動する際の道筋も見物の群衆でごったがえした。廻勤には拝礼当日も含めて2、3日かかり、長崎屋に帰るのは夜五ツ時(=午後8時)になったという。暇乞い江戸を出立する許可が下されると、出発の前日に「暇乞い」の挨拶をするためにカピタンは江戸番通詞に付き添われ再度登城する。大広間三ノ間に通され、老中が列座する前で宗門奉行が貿易に関する五ヵ条の法規「御条目」をカピタンに読み聞かせ、通詞がこれを通弁する。カピタンがそれを請けたまわった儀も通詞が通弁・言上し、カピタンは殿上の間に退去する。その後、カピタンは大広間三ノ間へ再び祗候(しこう)し、将軍と世子からの返礼である時服30領の拝領が仰せつけられる。大目付が通詞に伝達、通詞がカピタンにそれを伝え、カピタンは敷居際まで出座して頂戴し、老中に一例をして退去した。長崎屋に帰ると「贈り物」を贈られた幕府高官たちから使者による返礼と品々が届けられるのが通例となっていた。 出島(でじま)は、1634年江戸幕府の外人流入防止政策の一環として長崎に築造された人工島。扇型で、面積は3,969坪(約1.5ヘクタール)。1636年から1639年まで対ポルトガル貿易、1641年から1859年までオランダ東インド会社(AVOC、アムステルダムに本部のある)を通して対オランダ貿易が行われた。出島全体は1922年(大正11年)10月12日、「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されている。明治以降は、長崎港の港湾整備に伴う周辺の埋立等により陸続きとなり、扇形の人工島であった頃の面影は失われたが、1996年(平成8年)より、江戸当時の姿への復元を目指す出島復元整備事業計画が長崎市により進められている。建設出島は1634年から2年の歳月をかけて、ポルトガル人を管理する目的で、幕府が長崎の有力商人に出資させて作らせた。建設費銀200貫目(約4,000両)これを今のお金に換算すると約4億円となる。江戸中期に長崎貿易を調査した大岡備前守清相の『崎陽群談』には、面積3924坪船着き場45坪と記載されている。築造費用は、門・橋・塀などは幕府からの出資であったが、それ以外は高木作右衛門、高島四郎兵衛などの長崎の25人の有力者(出島町人)が出資した。ポルトガル人は、彼らに土地使用料を毎年銀80貫支払う形式となっていた(初代のオランダ出島商館長(カピタン)となったマクシミリアン・ル・メールが交渉し、借地料は銀55貫目、現在の日本円で約1億円に引き下げられた)。鎖国1638年の春に幕府は、島原半島と天草諸島のキリシタンの百姓が起こした島原の乱を鎮圧した。それ以降幕府は、キリシタンの摘発をより強化し、禁教の徹底のためにカトリック国であるポルトガルとの関係を断絶しようとした。しかし、現実には、ポルトガルがマカオからもたらす中国産の生糸などが当時の日本にとって必要不可欠であり、オランダ東インド会社への信頼に不安を感じていたため、幕府は、1638年にはポルトガルとの貿易の断絶に踏み切れず、その代わり、マカオから江戸に派遣されたカピタン・モールの将軍への謁見を拒否するだけにとどまった。1639年、オランダ商館長のフランソワ・カロンが江戸に参府し、ポルトガルとの関係の断絶を幕閣に訴え、オランダがポルトガルに代わって、日本が求める輸入品を確実に提供できることを主張した。幕閣はカロンから、台湾や東南アジアから渡航する中国人が、直接長崎に来航することが問題ないことや、オランダがスペインとポルトガルに妨害されず長崎に来航できること、台湾に渡航する中国人を通じて、オランダが日本が求める輸入品を確保でき、かつ、台湾に渡航する中国人が明朝の渡航証明書を持っていることなどを確認し、ポルトガルとの関係を断絶しても支障がないと判断した。その結果として、同年、幕府は長崎奉行や九州地方の大名に「第5次鎖国令」を発布して、ポルトガル人を出島から退去させた。翌年の1640年には、マカオからのポルトガルの使節が、貿易再開を要求して長崎に渡来した。これに対して幕府は、ポルトガルの使節を処刑することで、ポルトガルとの貿易を改めて再開しない意思を示した。その後、出島は無人状態となり、貿易利潤の損失だけでなく土地使用料も入らなくなったために、長崎の町は困窮した。幕府は出島築造の際に出資した人々の訴えを踏まえ、1639年に建設された倉庫の破風に西暦年号が記されているのを口実として、1641年に平戸(ひらど、現在の平戸市)のオランダ東インド会社の商館を出島に移すように求めた。オランダ側にはこれに反対する意見もあったが、商館長カロンはこれを受け入れた
2024年02月29日
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江戸参府道中長崎から下関までは、当初は海路だったが、船旅の危険を避けるため、万治2年からは陸路を主とした。それぞれの旅路を長崎 - 下関 ⇒ 「短陸路」下関 - 室(むろ)、または兵庫 ⇒ 「水路」大坂・京都 - 江戸 ⇒ 「大陸路」(東海道を利用)と称した。途中宿泊する宿は、休憩か一泊するために利用するもので、大名の参勤交代に準じて各宿場の本陣や脇本陣が使用された。それらとは別に、江戸・京都・大坂・下関・小倉の5都市では往路・復路ともに数日間の宿泊を許されており、それらは阿蘭陀宿と呼ばれた。江戸 長崎屋源右衛門京都 海老屋大坂 長崎屋下関 大町年寄・佐甲家、同伊藤家小倉 大坂屋江戸の阿蘭陀宿・長崎屋ではカピタン一行の逗留中は普請役の役人や町奉行所の同心が日夜詰めて厳重に監視し、オランダ人との接触も役人たちとの立ち合いのもとで行われた。一行に随行・警固する検使は、全てにわたってカピタンたちに指示を出す立場であったが、その検使も江戸では普請役からの指図を受け、前例の無い事柄には勘定所からの指示を受ける必要があった。京都の海老屋は、建物がさほど大きくないため、一行を周辺の寺院や旅籠に分宿させるために毎度奔走するのだが、それとは別にオランダ人やオランダ通詞の不取締りで迷惑を蒙っていた。江戸や大坂の阿蘭陀宿のように役人の目が無いためか、カピタンたちは芸者や遊女を呼んで羽目を外すことが多かったという。大坂では、銅座と本陣を兼ねる長崎屋を定宿とし、往路に内納しておいた贈り物を、復路で大坂に逗留する際に「本目録」をもって大坂城代と東西の大坂町奉行に差し出し、饗応を受け、使者による下され物を受けとるのが通例だった。また、日本側の主要な輸出品の1つである銅(棹銅)を造る住友(泉屋)銅吹所を見物することが慣例となっていた。その後に住友の主人から饗応されるが、この時には大勢の見物人が泉屋を取り囲み、泉屋はこれら見物人に炊き出しをふるまったという。銅吹所見物は、宝永6年(1709年)から慶応3年(1867年)の間に合計46回行なわれている。下関では、当地の大町年寄を務める伊藤家と佐甲家が、交代で阿蘭陀宿の業務を務めた。両家とも蘭癖で有名で、一行を西洋風の趣向をもって歓待し、収集した西洋の品々を披露し、滞在したカピタンからオランダ雅名を貰った人物もいた。下関での滞在中、カピタンたちは神社仏閣の見物も行なった。長崎街道の終点である小倉の阿蘭陀宿・大坂屋では、カピタンは出島の留守役に手紙を出して道中の経過を報告をした。長崎手前の矢上で通詞たち出迎えの人びとに迎えられ、出島に到着すると、検使の出役を得て、荷物は出島へ搬入される。進物や反物の残品などがあった場合も、改めのうえ蔵へ入れられる。拝領の時服・夜具・手廻品・食事道具・日用品なども当日のうちに改められ、オランダ人に引き渡される。カピタンは長崎奉行所へ帰着御礼に出頭し、会計上の決算が済めば、江戸参府の全てが終了となる。なお、江戸を出立する際に旅費が不足した場合は江戸の長崎屋が営む人参座に借用を願い出て、許可を得て金を拝借し、長崎に帰着した後に長崎会所でその金額を返納するという規定になっている。江戸滞在時の行事カピタンの拝礼拝礼の許可が下りると指定日[7]に江戸城に向かうことになる。宗門奉行と長崎奉行が連名で翌日の拝謁のことを通知し、拝礼当日には江戸在府の長崎奉行がカピタンが宿泊する長崎屋に赴き、座敷で待つ間に通詞や警固の検使の挨拶を受けた後、支度を整えたオランダ人一行を従えて江戸城に向かう。オランダ人たちはヨーロッパの式服ということで「黒い絹の外套」を着用する。江戸城本丸の百人番所で控えている間に番頭(ばんがしら)からの挨拶を受け、出役した宗門奉行とも会い、時間を見計らって登城となる。拝礼はカピタン1人だけが大通詞の介添えを得て大広間で行い、その間、他のオランダ人随員や長崎屋主人の源右衛門は殿上の間次に控える。小通詞はカピタンらが式の稽古をし、拝礼の指揮を行うことの一切を見習う。これらの稽古・式・見習いなどが円滑に取り運ばれるには、城の坊主衆の世話を受けねばならず、在府の長崎奉行と通詞は坊主衆に事前に挨拶をし諸事万端頼み込んでおく必要があった。迎えに来た宗門奉行と長崎奉行が、カピタンを大広間落椽(おちえん)の上から3本目の柱のところに控えさせる。宗門奉行が合図をすると、長崎奉行がカピタンを大広間へ引き上げ、1本目の柱より2枚目の板のところまで進んで平伏し、カピタンも奉行の左で平伏する。ここで奏者番が「オーランダのカピターン(オランダ・カピタン)」と大きな声で呼び、その声に応じて将軍への献上品が並べてある場所と、将軍のいる高い座所との間で、命じられた通りひざまずき、頭を畳にすりつけ手足で這うように進み出る。奉行がカピタンの衣服の裾を引いて合図をすると、一言も発さず「ザリガニと同じように」再び引き下がった。奉行も後から退出し、カピタンは落椽を通って殿上の間へ退出。大通詞はカピタンが控えていたところまで付き添っていたが、拝礼が終わった頃に落椽の末まで引き退って控えて、カピタンとともに退出する。蘭人御覧将軍への拝謁が終わった後、オランダ人たちは御殿奥に招じ入れられ、本丸の白書院で、将軍の妻や、一族の姫、そのほか大奥の女たちの前に連れ出され見物される。将軍は女たちと一緒に簾(すだれ)の後ろにいてその隙間から覗いていたが、老中や拝謁に陪席を命じられた他の高官たちは、オランダ人からも見える所に座った。これを「蘭人御覧(らんじんごらん)」と言ったが、オランダ人たちはこれを「猿芝居」の第二幕目と呼んでいた。そこで行われたのは、将軍のいる側に向かって、命じられるままに、床につくほど頭を下げ、将軍の方へ這うように進み出て、日本式にお辞儀をする。総督の名において恭しく挨拶し、日本において自由な貿易が許された好意に対して謝意を述べる。
2024年02月29日
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6「事件の発端の日本地図の持ち出し」シーボルトは、江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた伊能図を見せられた。地図は禁制品扱いであったが、高橋はその写しをシーボルトに渡した。後のシーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。事件の露見シーボルトらが1826年7月に江戸参府から出島に帰還し、この旅行で1000点以上の日本名・漢字名植物標本を蒐集できたが、日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を手に入れたく、間宮宛に丁重な手紙と布地を送ったが、間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出した。カピタン江戸参府(カピタンえどさんぷ、)は、オランダ商館責任者である商館長=カピタンの、日蘭貿易「御礼」のための江戸への旅。「御礼参り」「拝礼」とも称される。長崎のオランダ商館はオランダ東インド会社の日本支店であり、商館長であるカピタンは対日貿易の維持・発展を願って、貿易業務を終えた後の閑期に江戸へ参り、将軍と世子に対する謁見(拝礼)と献上物の呈上を行った。その際には、老中や若年寄といった幕府の高官たちへも進物を贈った。カピタンの「御礼」に対し江戸幕府側は、貿易の許可・継続条件の「御条目(ごじょうもく)」5ヵ条の読み聞かせと「被下物(くだされもの)」の授与をもって返礼とした。オランダ人の初の拝礼は慶長14年(1609年)の使節ニコラース・ポイクによる駿府での徳川家康との謁見であった。その後、オランダ商館が平戸に建設され、寛永10年(1633年)より毎年春1回に定例化するまで江戸参府は不定期に行われた。寛永18年(1641年)にオランダ商館が平戸から長崎の出島に移された後も参府は続けられ、寛政2年(1790年)に貿易半減に伴って4年に1回と改定された後、嘉永3年(1850年)にまで計166回行われた。なお、開国後の安政5年(1858年)にドンケル・クルチウスが行った参府はこれに含まれない。参府の時期は、当初は前年の暮れに長崎を出発し、翌年の正月(旧暦正月)に江戸に到着して拝礼を行っていた。寛文元年(1661年)からは正月に長崎出島を出立し、3月朔日(太陽暦で4月上旬)または15日に拝礼をするのが慣例となった。長崎への帰還は5,6月頃で、所要日数は通常90日ほどであった。一行の人員は、使節であるカピタンの他、オランダ人の随員は当初は書記や医師など3,4人いたが、後に書記官と医官が各1名ずつとなった。日本人は、長崎奉行所の役人から任命される正・副の検使、通弁や会計を担当する江戸番大通詞と江戸番小通詞、町使2人、書記2.3人、料理人2人、定部屋小使が数人、他に日雇頭や宰領頭などがおり、規定では総勢59人となっていた。見習いとして若年の通詞が従ったこともたびたびあった。しかし、様々な名目で一行の人数はそれ以上となることが多かった。江戸参府が4年に1回となった寛政2年以降は、参府休年には参府年の半分の量の献上物を運んで通詞が代参した。江戸番大通詞は、通常は年配者がその任に当たり、道中での金銭管理や他のあらゆる事柄に気を配り、カピタンの「遣銀(出費)」の出納管理も担当した。「御条目」の読み聞かせは万治2年(1659年)から始まり、寛文元年に「新文」が加えられ、寛文6年(1666年)に例文のほかに「別の条約一章」を渡された。そして延宝元年(1673年)にさらに「新加の文」が追加され、以後、この条文が用いられるようになった。カピタンへの「被下物」は、明暦元年(1655年)に小袖30領を時服として下され、以後、小袖30領の拝領が通例となった。世子が下される分は、小袖20領であった。通詞にも小袖2領が下されたが、天和3年(1683年)に「銀10枚」になり、貞享2年(1685年)に「銀5枚」と変更され、以後は銀5枚となった。江戸での滞在は半月から1ヵ月間に及ぶ場合があった。この期間に蘭癖の諸大名や、官医や天文方、陪臣の医師や民間の学者など大勢の日本人が訪問し、通詞を介してオランダ人と様々な情報交換をした。カピタンたちとの交流を望む人々以外にも、土産物を売り込みに来る「定式出入り商人」と呼ばれる指定商人たちも訪れた。カピタンの参府旅行中は、商館員の1人留守居役に任命して権限を委譲し、朱印状を入れた漆塗りの箱と、東インド会社の秘密書類を入れた樟(くすのき)製の箱1個を預ける。カピタンが出島に帰還した後、留守居役は重要書類の入った箱や鍵、留守中の日記を渡し、留守中の出来事を報告した。献上物・進物カピタンからの贈り物のうち、将軍および将軍世子に対する贈り物を「献上物」、幕府高官への贈り物を「進物」と呼んでいる。進物は、江戸滞在中に老中・若年寄・側用人・寺社奉行・南北の町奉行・宗門奉行・長崎奉行に贈られ、長崎への帰路では京都で京都所司代と東西の京都町奉行に、大坂で大坂城代と東西の大坂町奉行のそれぞれに贈られた。その他、警固の検使・江戸番通詞のほか、江戸・京・大坂・下関・小倉の阿蘭陀宿(後述)にも若干の品々が贈られた。献上される品は、毛織物・絹織物・錦織物類といった反物が主で、他に珍陀(チンタ)酒(赤葡萄酒)や葡萄酒など嗜好品も多かった。献上物や進物に使った反物の残品は阿蘭陀宿が買い取った。これを「為買反物(かわせたんもの)」または「御買せ反物」という。贈り物として使用する分よりも多くの品を江戸まで運び、残品を旅費の一部にあてるという名目で売却していた。これは習慣化・制度化されて定着し、オランダ商館の帳簿にも計上された。阿蘭陀宿の他、進物を贈られた幕府の高官も、為買反物を市価の5割増しで買い取り、それをさらに約3倍の値段で売りさばいた。献上物・進物の残品販売は、通詞が代参する参府休年にも行われていた。
2024年02月29日
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地図作成・事後処理11月上旬から測量データをもとに地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させた。地図製作には妻のエイも協力した]。完成した地図は12月21日に下勘定所に提出した。12月29日、測量の手当として1日銀7匁5分の180日分、合計22両2分を受け取った。忠敬は測量に出かけるときに100両を持参しており、戻ってきたときは1分しか残らなかったとの記述があるため、差し引きすると70両以上を忠敬個人が負担したことになる。後世の試算 によると、このとき忠敬が負担した金額は現在の金額に換算して1,200万円程度であった。また忠敬はこのほかに測量器具代として70両を支払っている。忠敬の測量について、師の至時は「蝦夷地で大方位盤を使わなかったことについては残念だ」としながらも、測量自体は高く評価した。そして、間重富宛ての手紙で、「このように測ることは私が指図はいたしましたが、これほどきちんとやれるとは思いませんでした」と綴った。また、当初の目的であった子午線1度の距離について、忠敬は「27里余」と求めたが、これに対する至時の反応は残されていない。第十次測量(江戸府内)第九次測量と並行して、江戸府内を測る第十次測量を行った。これまでの測量では、たとえば東海道では高輪大木戸を、甲州街道では四谷大木戸を起点としていた。今回の測量は、各街道から日本橋までの間を測量して、起点を1つにまとめることが目的である。測量は71歳になった忠敬も参加し、文化12年(1815年)2月3日から2月19日まで行われた。測量を終えたところで、忠敬は、昔に測った東日本の測量は西日本の測量と比べて見劣りがすると感じた。そこで景保と相談し、もう一度詳しく測り直す計画を立てた。しかし幕府はこれを採用せず、代わりに江戸府内の地図を作るよう命じた。この測量は文化13年(1816年)8月8日から10月23日まで行われた。忠敬もたびたび指揮を執ったが、おそらく作業の大部分は下役と弟子たちが行っていたと推定されている。地図作成作業と死測量作業を終えた忠敬らは、八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業に取りかかった。文化14年(1817年)には、間宮林蔵が、忠敬が測量していなかった蝦夷地の測量データを持って現れた。また同年、忠敬は破門していた平山郡蔵を許し、作業に参加させた。地図の作成作業は、当初は文化14年の暮れには終わらせる予定だったが、この計画は大幅に遅れた。これは、忠敬が地図投影法の理論を詳しく知らなかったため、各地域の地図を1枚に合わせるときにうまくつながらず、その修正に手間取ったためと考えられている。忠敬は新しい投影法について研究し、資料を作り始めた。しかし文化14年秋頃から喘息がひどくなり、病床につくようになった。それでも文化14年いっぱいは、地図作成作業を監督したり、門弟の質問に返事を書いたりしていたが、文政元年(1818年)になると急に体が衰えるようになった。そして4月13日、弟子たちに見守られながら74歳で生涯を終えた。死後地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められた。文政4年(1821年)、『大日本沿海輿地全図』と名づけられた地図はようやく完成した。7月10日、景保と、忠敬の孫・忠誨(ただのり、幼名三治郎)らは登城し、地図を広げて上程した。そして9月4日、忠敬の喪が発せられた。忠敬の子の秀蔵は文化12年、素行がよくなく忠敬に勘当されていた。忠敬の死後は佐原で神保姓を名乗り、手習い師匠となった。孫の忠誨、銕之助のうち、銕之助は忠敬の死の翌年に亡くなった。忠誨は、忠敬の喪が発せられた年、15歳で五人扶持と85坪の江戸屋敷が与えられ、帯刀を許された。忠誨は佐原と江戸を行き来しながら、景保らの指導も受け、さらに佐原の伊能家の跡継ぎとしても期待されていたが、文政10年(1827年)、21歳で病死した。忠誨の死により、忠敬直系の血筋は途絶えた。また測量隊の中には、忠敬が測量できなかった霞ヶ浦などを測量しようという意見もあったが、忠誨の死によりその案も立ち消えとなった。忠敬は死の直前、「私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、死んだあとは先生のそばで眠りたい」と語った。そのため墓地は高橋至時・景保父子と同じく上野源空寺にある。また佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓がある。佐原の名家の一つである伊能三郎右衛門家は、忠誨の没後も一族の管理下に置かれて存続するものの、当主不在が続くなかで家業の不振は深刻化していき、天保年間には酒造業は廃業に追い込まれている。こうした中で同族の伊能茂左衛門家および三郎右衛門家の分家的扱いであった清宮家 が、佐原における三郎右衛門家の地位を継承することになる。茂左衛門家・清宮家を中心とした伊能家一族の協議の末、三郎右衛門家に養子を迎えて再興させる話が実現するのは、忠誨の死から34年が経過した文久元年(1861年)のことである。なお、伊能茂左衛門家は楫取魚彦 を、清宮家は清宮秀堅 を輩出したことで知られ、特に清宮秀堅は文久の伊能三郎右衛門家再興時に清宮家当主として大きな役割を果たしている。
2024年02月29日
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伊能忠敬の後半生高橋至時に師事弟子入り寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ行き、深川黒江町に家を構えた。ちょうどそのころ、江戸では今まで使われていた暦を改める動きが起こっていた。当時の日本は宝暦4年(1754年)に作られた宝暦暦が使われていたが、この暦は日食や月食の予報をたびたび外していたため、評判が悪かった。そこで幕府は松平信明、堀田正敦を中心として、改暦に取り組んだ。しかし幕府の天文方には改暦作業を行えるような優れた人材がいなかったため、民間で特に高い評価を受けていた麻田剛立一門の高橋至時と間重富に任務にあたらせることにした。至時は寛政7年(1795年)4月、重富は同年6月に出府した。忠敬が江戸に出たのは同年の5月のため、2人の出府と時期が重なる。改暦の動きは秘密裏に行われていたが、この時期の符合から、忠敬は事前に2人が江戸に来ることを知っていたとも考えられている。その情報元として、渡辺一郎は、忠敬の3人目の妻・ノブの父親である桑原隆朝を挙げている。桑原は改暦を推し進めていた堀田正敦と強いつながりがあった。そのため桑原は、堀田から聞いた改暦の話を忠敬に伝えていたのではないかという説がある。同年、忠敬は高橋至時の弟子となった。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳だった。弟子入りしたきっかけについては、昔の中国の暦『授時暦』が実際の天文現象と合わないことに気づいた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからだという話が伝えられている[82]。そして至時に必死に懇願して入門を認めさせたとのことであるが、至時が多忙な改暦作業のなかで入門を許した理由についても、渡辺は、桑原と堀田正敦の影響を指摘している。一方で今野武雄は、麻田剛立の弟子で大名貸の升屋小右衛門とのつながりを推測している。暦学への取り組み弟子入りした忠敬は、19歳年下の師・至時に師弟の礼をとり、熱心に勉学に励んだ。忠敬は寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていた。至時は弟子に対しては、まずは古くからの暦法『授時暦』で基礎を学ばせ、次にティコ・ブラーエなどの西洋の天文学を取り入れている『暦象考成上下編』、さらに続けて、ケプラーの理論を取り入れた『暦象考成後編』と、順を追って学ばせることにしていた。しかし忠敬は、すでに『授時暦』についてはある程度の知識があったため、『授時暦』と『暦象考成上下編』は短期間で理解できるようになった。寛政8年(1796年)9月からおよそ1年半の間、至時は改暦作業のため京都に行くことになり、その間は間重富が指導についた。同年11月に重富から至時に宛てた手紙の中では、「伊能も後編の推歩がそろそろ出来候。月食も出来候」と記されており、すでに『暦象考成後編』を学んでいたことが分かる。天体観測忠敬は天体観測についても教えを受けた。観測技術や観測のための器具については重富が精通していたため、忠敬は重富を通じて観測機器を購入した。さらには、江戸職人の大野弥五郎・弥三郎親子にも協力してもらい、こうしてそろえた器具で自宅に天文台を作り観測を行った。取り揃えた観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかった。観測はなかなか難しく、入門から4年が経った寛政10年(1798年)の時点でもまだ至時からの信頼は得られていなかった が、忠敬は毎日観測を続けた。太陽の南中を測るために外出していても昼には必ず家に戻るようにしており、また、星の観測も悪天候の日を除いて毎日行った。至時と暦法の話をしていても、夕方になるとそわそわし始めて、話の途中で席を立って急いで家に帰っていた。慌てるあまり、懐中物や脇差を忘れて帰ったりもした。忠敬が観測していたのは、太陽の南中以外には、緯度の測定、日食、月食、惑星食、星食などである。また、金星の南中(子午線経過)を日本で初めて観測した記録も残っている。長女の勘当と再婚長女・イネの夫・盛右衛門は伊能家の江戸店を任されていたが、忠敬は盛右衛門に、イネとの離縁を言い渡した。この理由は定かではないが、盛右衛門が商売で何らかの不祥事を起こしたためだと伝えられている。しかしイネは盛右衛門との離縁を受け入れず、夫に従った。そのため忠敬はイネを勘当した。ただし勘当した時期については、忠敬隠居後ということは分かっているが、正確には明らかになっていない。一方忠敬は江戸に出てから、エイ(栄)という女性を妻に持った。至時は重富に宛てた手紙の中で、この女性のことを「才女と相見候。素読を好み、四書五経の白文を、苦もなく読候由。算術も出来申候。絵図様のもの出来申候。象限儀形の目もり抔、見事に出来申候」と褒め称え、勘解由は幸せ者だと綴っている。江戸で忠敬が行った天体観測についても、一人で行える内容ではないため、妻の手助けがあったのではないかと推測されている。エイについては、長年にわたり謎の人物とされていたが、1995年、この人物は女流漢詩人の大崎栄(号は小窓、字は文姫)であることが明らかになった。エイはのちの忠敬の第一次測量のときは佐原に預けられたが、その後は忠敬の元を離れて文人として生き、忠敬と同じ文政元年(1818年)にこの世を去っている。
2024年02月29日
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松前において探索の結果報告の作成に取りかかり、師の村上島之丞の養子である村上貞助に口述を筆記させ、『東韃地方紀行』、『北夷分界余話』としてまとめ、文化8年(1811年)1月、江戸に赴いて地図と共に幕府に提出した。江戸において林蔵は伊能忠敬の邸に出入りして測量技能の向上に努めた。文化8年(1811年)4月、松前奉行支配調役下役格に昇進。同年12月、ゴローニン事件の調査のため松前に派遣される。文政5年(1822年)、普請役となる。文政11年(1828年)には勘定奉行・村垣定行の部下になり、幕府の隠密として全国各地を調査し、石州浜田藩の密貿易の実態を掴み、大坂町奉行矢部定謙に報告し検挙に至らせる(竹島事件)などの活動に従事する。探索で培った、蝦夷・樺太方面に対する豊富な知識や海防に対する見識が高く評価され、老中大久保忠真に重用され、川路聖謨や江川英龍らとも親交を持った。また、当時蝦夷地の支配を画策していた水戸藩主徳川斉昭の招きを受け、水戸藩邸等に出入りして斉昭に献策し、藤田東湖らと交流を持った。晩年は身体が衰弱し、隠密行動も不可能になったという。天保15年2月26日(1844年4月13日)、江戸深川蛤町か本所外手町において没した。梅毒を死因とする説もある。実子は無かったが、浅草の札差青柳家から鉄二郎(孝順)が養子に入って家督を相続した。墓所は、東京都江東区の本立院及び、茨城県つくばみらい市上柳の専称寺にある。1904年(明治37年)4月22日、贈正五位。蝦夷地測量伊能忠敬が間宮に測量の技術を教授し、間宮の測量の精度があがったという。忠敬がスケジュールの都合上全ての蝦夷地を測量できなかったとき、残りの蝦夷地測量を間宮が代わりに測量して測量図を作った。その結果、大日本沿海輿地全図の蝦夷以北の地図は最終的に忠敬の測量図と間宮の測量図を合体させたものになったという。その他生年については、間宮家の菩提寺である専称寺の過去帳に基づいて安永9年(1780年)とされるが、天保15年(1844年)に林蔵の跡目相続の際に幕府へ提出された伺書に記された年齢に基づいて安永4年(1775年)とする説もある。林蔵とアイヌ人女性との間に生まれた娘の子孫が現在でも北海道に在住している。間宮林蔵顕彰会によると郷土史研究家の調査で子孫と確認された。東京都江東区の本立院の墓は、生前に自ら建てたとされ、墓石には「間宮林蔵蕪崇之墓」と刻まれているが、文字は水戸藩主・徳川斉昭が選したものであった。この墓は1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で破損したが、戦後の1946年(昭和21年)5月に拓本を基に再建された。1955年(昭和30年)には、当時総理大臣であった鳩山一郎揮毫による記念碑「間宮林蔵先生之塋域」が境内に建てられた。茨城県つくばみらい市上柳の専称寺の墓は、蝦夷地探査に先立って決死の覚悟を持って建てたとされる。墓が建てられた正確な年代はわからないが、「間宮林蔵墓」と記された文字は林蔵の自筆であると伝わる。1955年(昭和30年)、茨城県の史跡に指定された。隣には両親の墓が並んでおり、墓前に明治43年に志賀重昂らによって建立された林蔵の顕彰碑がある。茨城県つくばみらい市上平柳には、林蔵の生家跡に隣接して、旧伊奈町が顕彰事業の一つとして建設し、関連資料や遺品等を展示した「間宮林蔵記念館」及び、移築した生家がある。茨城県取手市の小貝川岡堰には「間宮林蔵立像」がある。宗谷岬から西に3㎞、北海道稚内市第二清浜地区には林蔵が樺太に渡った際の出発推定地として「間宮林蔵渡樺出港の地碑」が建てられており、林蔵が樺太行きに際して持参したと伝わる墓石がある。北海道稚内市の宗谷岬には、生誕200年を記念して昭和55年7月に建てられた彫刻家・峯孝氏作のブロンズ像「間宮林蔵立像」がある。1999年(平成11年)9月、アマチュア天文家・渡辺和郎が発見した小惑星12127番は、間宮林蔵にちなんで「Mamiya」と命名された。 5「日本地図初の作成者伊能忠敬」伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年2月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人・天文学者である。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。1883年(明治16年)、贈正四位。幼少期延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は三治郎。父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現・横芝光町)にあった酒造家の次男で、小関家には婿入りした。三治郎のほかに男1人女1人の子がおり、三治郎は末子だった。
2024年02月29日
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高橋 景保(たかはし かげやす、天明5年(1785年) - 文政12年2月16日(1829年3月20日))は、江戸時代後期の天文学者。通称、作左衛門。天文学者である高橋至時の長男として大坂に生まれた。渋川景佑の兄。文化元年(1804年)に父の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事する。文化7年(1810年)、「新訂万国全図」を制作した(銅版画制作は亜欧堂田善)。一方で伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。忠敬の没後、彼の実測をもとに『大日本沿海輿地全図』を完成させる。文化8年(1811年)、蛮書和解御用の主管となり、「厚生新編」を訳出する業務を始めている。文化11年(1814年)には書物奉行兼天文方筆頭に就任したが、文政11年(1828年)のシーボルト事件に関与して10月10日に伝馬町牢屋敷に投獄され、翌文政12年(1829年)2月16日に獄死している。享年45。獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌年3月26日に、改めて引き出されて罪状申し渡しの上斬首刑に処せられている。このため、公式記録では死因は斬罪という形になっている。ワリシー・ゴローヴニンの『日本幽囚記』(1816年)がロシアで出版された際には、その誤った記述を正すため、ゴローヴニン事件でともに逮捕したムール少尉の「獄中上表」をオランダ語訳し、ヨーロッパで出版する計画を推進したが、シーボルト事件により果たせなかった。墓は上野の源空寺。高橋至時・伊能忠敬・高橋景保の大日本沿海輿地全図組三人頭の墓地が並んでいる。 4「日本の探検家」間宮 林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の徳川将軍家御庭番、探検家。名は倫宗(ともむね)。元武家の帰農した農民出身であり、幕府で御庭番を務めた役人であった。生年は安永4年(1775年)とも。樺太(サハリン)が島である事を確認し間宮海峡を発見した事で知られる。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。常陸国筑波郡上平柳村(後の茨城県つくばみらい市)の小貝川のほとりに、農民の子として誕生。戦国時代に後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏分流間宮氏の篠箇城主の間宮康俊の子孫で間宮清右衛門系統の末裔である。当時幕府は利根川東遷事業を行っており、林蔵の生まれた近くで堰(関東三大堰のひとつ、岡堰)の普請を行っていた。この作業に加わった林蔵は幕臣・村上島之丞に地理や算術の才能を見込まれ、後に幕府の下役人となった。寛政11年(1799年)、国後場所(当時の範囲は国後島、択捉島、得撫島)に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び享和3年(1803年)、西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島までの地図を作製した。文化(1807年)4年4月25日、択捉場所(寛政12年(1800年)クナシリ場所から分立。択捉島)の紗那会所元に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られたニコライ・レザノフが復讐のため部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)たちに行わせた同島襲撃(文化露寇)に巻き込まれた。この際、林蔵は徹底抗戦を主張するが受け入れられず、撤退。後に他の幕吏らが撤退の責任を追及され処罰される中、林蔵は抗戦を主張したことが認められて不問に付された。文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索することとなり、樺太南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)でアイヌの従者を雇い、松田は西岸から、林蔵は東岸から樺太の探索を進めた。林蔵は多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上するが、それ以上進む事が困難であった為、再び南下し、最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断して、西岸クシュンナイ(久春内郡久春内村)に出て海岸を北上、北樺太西岸ノテトで松田と合流した。林蔵はアイヌ語もかなり解したが、樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見、その生活の様子を記録に残した。松田と共に北樺太西岸ラッカに至り、樺太が島であるという推測を得てそこに「大日本国国境」の標柱を建て、文化6年6月(1809年7月)、宗谷に帰着した。調査の報告書を提出した林蔵は翌月、更に奥地への探索を願い出てこれが許されると、単身樺太へ向かった。林蔵は、現地でアイヌの従者を雇い、再度樺太西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進んで黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が半島ではなく島である事を確認した。更に林蔵は、樺太北部に居住するギリヤーク人(ニヴフ)から聞いた、清国の役所が存在するという黒竜江(アムール川)下流の町「デレン」の存在、およびロシア帝国の動向を確認すべく、鎖国を破ることは死罪に相当することを知りながらも、ギリヤーク人らと共に海峡を渡ってアムール川下流を調査した。その記録は『東韃地方紀行』として残されており、ロシア帝国が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず、清国人が多くいる状況が報告されている。なお、現在ロシア領となっているアムール川流域の外満州はネルチンスク条約により当時は清領であった。間宮林蔵は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名した。海峡自体は「タタール海峡」と記載している。樺太北部の探索を終えた林蔵は文化6年旧暦9月末(1809年11月)、宗谷に戻り、11月に松前奉行所へ出頭し帰着報告をしている。
2024年02月29日
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天文方の各家渋川家渋川春海の改暦の功績により、貞享元年(1684年)天文方となる。養子縁組を繰り返しながらも幕末まで継承された。渋川春海-昔尹-敬尹-敬也-則休-光洪-正清-正陽-景佑-(敬直)-佑賢-敬典猪飼家御徒であった猪飼正一(豊次郎)が享保元年(1716年)渋川敬尹の暦作御用手伝となり、元文元年(1736年)天文方になる。寛保元年(1741年)に正一が没すると後継者なく、1代限りとなる。西川家長崎の天文家である西川如見の息子の西川正休が延享4年(1747年)天文方となり、2代続く。(西川如見)-正休-忠喬山路家山路主住が宝暦の改暦(宝暦暦)の際に渋川則休と西川正休の補暦御用手伝となり、明和元年(1764年)に天文方に任命されたのに始まる。2代之徽は天文方に任命されなかったが、3代徳風以後、幕末まで天文方を継承した。なお、徳風の玄孫愛山は、作家として知られている。山路主住-(之徽)-徳風-諧孝-彰常-(彰善)-(愛山)吉田家佐々木長秀(後に吉田秀長)が宝暦の改暦(宝暦暦)の際に西川正休の息子忠喬の作暦手伝となり、明和元年(1764年)天文方に任じられ宝暦暦修正事業を命じられた。以後、吉田家は幕末まで天文方を継承した。吉田秀長-秀升-秀賢-秀茂奥村家奥村邦俊が明和2年(1765年)に新暦調手伝となり、天明7年(1787年)天文方に任じられた。1代限りである。高橋家高橋至時が寛政7年(1795年)に天文方に任命されたのに始まる。至時の長男である景保がシーボルト事件に関与して獄死したため、高橋家は2代で終わるが、次男の景佑が渋川家の養子となっている。高橋至時-景保足立家足立信頭が寛政の改暦(寛政暦)のために高橋至時の助手となり、天保6年(1835年)天文方に任じられた。幕末まで2代にわたり天文方を務めた。足立信頭-(信順)-信行渋川春海が天文方に任じられた翌貞享2年(1685年)に牛込藁町の地に司天台を設置した。元禄2年(1689年)に本所、同14年(1701年)に神田駿河台に移転する。春海の没後、延享3年(1746年)に神田佐久間町、明和2年(1765年)に牛込袋町に移り、天明2年(1782年)に浅草の浅草天文台(頒暦所とも)に移った。この時に「天文台」という呼称が初めて採用された。高橋至時や間重富が寛政の改暦に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んだのも浅草天文台であった。その後、天保13年(1842年)に渋川景佑らの尽力で九段坂上にもう1つの天文台が設置されて天体観測に従事した。明治2年(1869年)に天文方とともに浅草・九段の両天文台が廃止される事になる。天文方の廃止大政奉還、鳥羽・伏見の戦い後、土御門晴雄は朝廷に願い出て、歴算、頒暦の権限を土御門家に取り戻し、天文方は廃止されて、同職にあった渋川敬典・山路彰常に代わって、晴雄が陰陽頭として責任者の地位に就いた。土御門家は明治2年の作歴を行うが、同年晴雄が没し、土御門家を11歳の子・和丸(土御門晴栄)が継ぐ事となり、明治3年(1870年)、天文暦道の権限は文部省の天文暦道局に移され、同年天文暦道局は東京に移され、学局と改称された。星学局には旧天文方の渋川敬典も任用された。同年末、土御門晴栄は大学御用係を免職となり、暦道における土御門家の特権は廃止された。書物奉行(しょもつぶぎょう)は、江戸幕府の職名の一つ。寛永10年(1633年)に設置。定員は通常は4名で、増減(3~5名)があった。若年寄の支配を受け、役高200俵、役扶持7人扶持、焼火の間席であった。職務は、江戸城の紅葉山文庫の管理、図書の収集、分類、整理、保存、調査である。著名な奉行に、青木昆陽、高橋景保、近藤重蔵、渋川敬直らがいる。書物奉行の配下に同心がおり、持高勤めで、元禄6年(1694年)に4人、以降増員され江戸後期には21人いた。古参の同心は世話役を務めた。また塗師・蒔絵師がいる。慶応2年(1866年)に廃止された。書物奉行の職務記録として、宝永3年(1706年)から安政4年(1857年)までの記録である全225巻の『御書物方日記』がある。実際の職員の例安政3年(1856年)当時(『諸向地面取調書』より)御書物奉行 石井内蔵允、中井太左衛門、島田帯刀、武嶋安左衛門御書物同心都甲斧太郎、持田鎌太郎、坂田周之助、大柳甚之助、小田雄之助、海賀雅五郎、山本清右衛門、樋口賢之助、中嶋祖兵衛、鈴木栄次郎、木本佐一郎、府馬清兵衛、市野平、星野益太郎、市野市郎左衛門御用達町人出雲寺萬次郎
2024年02月29日
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日本のオランダ商館平戸オランダ商館1609年(慶長14年)、オランダとの正式国交が開けた時に平戸に設置され、ヤックス・スペックスが初代商館長となった。民家72戸分を立ち退かせて建設した。1628年にタイオワン事件で一時閉鎖されたが、1632年に再開。しかし1640年、建物の破風に西暦年号が記されているのを口実に江戸幕府はオランダ商館の取り壊しを命じ、当時の商館長フランソワ・カロンがこれを了承、1641年に長崎の出島へ移転した。以後、幕末に至るまでオランダ船の発着、商館員の居留地は出島のみに限定された。平戸の商館跡地は、1922年10月12日に「平戸和蘭商館跡」として「出島和蘭商館跡」と共に国の史跡に指定された。オランダ商館が出島に移った後、この付近は商人地となっていたが、オランダ塀、オランダ井戸、オランダ埠頭、護岸石垣など商館時代の遺構は現在でも残っている。1987年から本格的な発掘調査が開始され、2000年の日蘭通商400周年をきっかけに復元計画が進み、2011年には1639年建造の倉庫(長さ約46m、幅約13m、約2万個の砂岩を使った2階建てで日本初の洋風建築)が復元され、同年9月に「平戸オランダ商館」としてオープンした。各地から収集された絵図、書物、絵画、航海用具、日用品、貿易関係品、武器等が展示されている。出島オランダ商館長崎港内に築かれた人工島の出島は、面積3,969坪(約13,000 m2)で4区画に分かれ、オランダ人、日本の諸役人、通詞の家や倉庫など65棟が建っていた。出島に滞在するオランダ人は商館長(カピタン)、次席(ヘトル)、荷倉役、筆者、外科医、台所役、大工、鍛冶など9人から12~13人で、自由だった平戸とは違い「国立の牢獄」と呼ぶほど長らく不自由な生活を送っていた。商館長は年に1回(のち5年に1回)江戸に参府し、将軍に謁見した。オランダ商館は長崎奉行の管轄下に置かれ、長崎町年寄の下の乙名がオランダ人と直接交渉した。出島乙名は島内に居住し、オランダ人の監視、輸出品の荷揚げ、積出し、代金決済、出島の出入り、オランダ人の日用品購買の監督を行った。乙名の下には組頭、筆者、小使など40人の日本人がいた。通詞は140人以上いた。出島商館への出入りは一般には禁止されていたが長崎奉行所役人、長崎町年寄、オランダ通詞、出島乙名、組頭、日行使、五箇所宿老、出島町人は公用の場合に限り出入りを許された。ナポレオン要するフランスにより、オランダはいったん事実上の国体を失うが、1811年にイギリスがオランダ領東インドを制圧してから1815年にオランダが再独立を果たすまでの間、当時の商館長ドゥーフは出島のオランダ商館に旧オランダ国旗を掲げ続け、「世界唯一のオランダ国」であったことでも知られる。1856年に出島解放令が出され、出入りは全く自由となった。1858年、日蘭通商条約の成立により商館長は外交代表に任命され、1860年には商館はオランダ総領事館を兼ね、商館長は総領事となった。出島のオランダ商館には、江戸初期から幕末に至る230年余りの出来事などを記した『オランダ商館日記』が保存されていた。なお、1793年にオランダ(ネーデルラント連邦共和国)がフランス革命軍に占領されて滅亡してから1815年にオランダ(ネーデルラント王国)が建国するに至るまでの22年間、オランダの領土はこの地球上に存在していない。そのため、1797年にオランダ東インド会社と傭船契約を結んだアメリカの船が出島に入港するようになり、1799年にオランダ東インド会社が解散してもなお、アメリカの船は1809年まで出島に入港して貿易を行った(詳しくは黒船来航を参照)。天文方(てんもんかた)は、江戸幕府によって設置された天体運行および暦の研究機関。主に編暦を司った。元々、編暦作業は朝廷の陰陽寮の所轄であり、土御門家があたっていたが、貞享元年(1684年)に渋川春海が貞享暦を作成し、従来の宣明暦から切り替えると、幕府は寺社奉行のもとに天文方を設置し、同年12月1日(1685年1月5日)に春海が天文方(役職名としては「天文職」とも)に就任した。以来、編暦作業の実務は幕府に移り、天文方で行われた。初めは寺社奉行の下に位置したが、延享4年1月23日(1747年3月4日)に若年寄支配となっている。俸禄は100俵で、他に役料として5ないし10人扶持が加算された。天文方は世襲制であったが、時には天文学に通じた人物を追加あるいは養子縁組して世襲を許したために、幕末までに渋川家、猪飼家、西川家、山路家、吉田家、奥村家、高橋家、足立家の8家が任命され、状況により優秀な人材が登用された。もっとも家系が断絶した家もあり、西川如見(子の正休が徳川吉宗によって天文方に招聘)や高橋至時の子孫も幕末までは継承されず、最終的には渋川家・山路家・足立家のみが存続した。文化8年(1811年)に高橋景保の提案によって、外局として蛮書和解御用が設置され、安政3年(1858年)の蕃書調所設置まで続いている。幕末には編暦以外にも天文や測量、地誌、洋書翻訳なども取り仕切った。東京大学の起源の一つである。
2024年02月29日
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クルーゼンシュテルンはエストニアのハグディ(現在のラプラ周辺)で生まれた。彼の家族はバルト・ドイツ人だったが、スウェーデンの貴族でエストニアがロシアに割譲された後も当地に留まった von Krusenstjerna家の子孫でもあった。1787年、彼は海軍士官学校を出てロシア帝国海軍に入り、1793年から1799年までの間はイギリス海軍に派遣され学びながら軍務についた。1803年、彼は皇帝アレクサンドル1世と露米会社支配人ニコライ・レザノフ男爵の支援下でロシア最初の世界一周艦隊の指揮官となった。クルーゼンシュテルンの乗る旗艦ナジェージタと、ユーリー・フョードロヴィチ・リシャンスキー中尉の乗るネヴァ(Neva)の二隻からなる艦隊の目的は、清および日本との交易の確立、南米との交易拡大、カリフォルニアをロシアの植民地にするための事前調査であった。二隻の艦隊は遣日使節ニコライ・レザノフと仙台藩出身の津太夫ら4人の日本人漂流民、ロシアやヨーロッパ各地の博物学者・天文学者・画家らを乗せ、ロシア海軍のバルト海の軍港クロンシュタットを出港した。途中デンマーク、イギリス、カナリア諸島、ブラジルに寄港し大西洋を横断しホーン岬を回って北太平洋に向かった。二隻は航海の間、詳細な地図と記録、動植物の標本を作ったが、艦隊の隊長になっていたレザノフと海軍軍人のクルーゼンシュテルンとは事あるごとに対立した。太平洋を横断した艦隊は1804年秋、カムチャツカ半島から日本に向かったが、長崎での幕府との交渉は不調に終わり、半年後に長崎を離れカムチャツカに戻った。喜望峰経由で1806年8月に母港クロンシュタットに戻ったクルーゼンシュテルンは詳細な航海記(『アレクサンドル1世陛下の命令下、1803年、1804年、1805年、1806年にナジェージタとネヴァにより行った世界周航の記録』)を書き、1810年にサンクトペテルブルクで出版した。1811年-1812年にはベルリンで出版し、1813年には英訳版がロンドンで出版された。またフランス語、デンマーク語、オランダ語、スウェーデン語、イタリア語でも出版された。太平洋の地図などを含む図録は1827年にサンクトペテルブルクで出版され、ロシア科学アカデミー会員に迎え入れられる栄誉を得た。彼は1816年にエストニアのキルツィにある荘園を得たが、この荘園で1846年に没した。 異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)とは、江戸幕府が1825年(文政8年)に発した外国船追放令である。無二念打払令(むにねんうちはらいれい)、外国船打払令(がいこくせんうちはらいれい)、文政の打払令(ぶんせいのうちはらいれい)とも言う。しかし、外国についての情報を考えると何が起こるか分からないので「薪水給与令」として異国船打払令は数年で廃止された。1808年10月(文化5年8月)に起きたフェートン号事件、1824年の大津浜事件と宝島事件[1]を受けて発令されたと言われているが、同じ1824年に発生した、水戸の漁民たちが数年前から初夏の頃、沖合で操漁している欧米の捕鯨船の乗組員と行っていた物々交換が発覚し300人余りが取り調べを受けた事件が重要な動機で、西洋人と日本の民衆とを遮断する意図を濃厚に持っていたという説も出されている[2]。フェートン号事件と大津浜事件との間においてイギリスは熱心に開国を試みた。1816年には琉球に通商を請い、1817年から1822年まで浦賀に何度も船をよこしていた。打払い令が出た1825年はイングランド銀行からヨーロッパを巻き込む恐慌が起こった。この3年後にはシーボルト事件が起きた。内容日本の沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃し、追い返した。また上陸外国人については逮捕を命じている。しかし、日本人漂流漁民音吉・庄蔵・寿三郎ら7人を送り届けてきたアメリカ合衆国商船モリソン号をイギリスの軍艦と誤認して砲撃したモリソン号事件は日本人にも批判された。また、アヘン戦争での大国清の惨敗の情報により、幕府は西洋の軍事力の強大さを認識し、1842年(天保13年)には異国船打払令を廃止し、遭難した船に限り補給を認めるという薪水給与令を出して、文化の薪水給与令の水準に戻すことになった。阿部正弘の政権の下では、外国船の出没が頻繁になったために、打払令の復活の可否が議論された。しかし、沿岸警備の不十分さを理オランダ商館(オランダしょうかん)は、オランダ東インド会社によって設けられた貿易の拠点。東南アジアのオランダ商館オランダはアジアにおける植民地経営とアジアでの貿易の独占を目指して1602年に東インド会社を設立した。オランダはポルトガルとの競争で優位に立つためにアジア各地に商館を建設した。オランダ東インド会社設立の翌年である1603年、ジャワ島のバンテンに商館を設置。さらに貿易の中心地としてバタヴィア(のちのジャカルタ)を建設し、香辛料の産地であるモルッカ諸島にも根拠地を建設した[1]。1623年にはオランダとイギリスの間でアンボイナ事件が発生している。
2024年02月29日
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日本学における貢献シーボルトは当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理学など多岐にわたる事物を日本で収集、オランダへ発送した。シーボルト事件で追放された際にも多くの標本などを持ち帰った。この資料の一部はシーボルト自身によりヨーロッパ諸国の博物館や宮廷に売られ、シーボルトの研究継続を経済的に助けた。こうした資料はライデン、ミュンヘン、ウィーンに残されている。また、当時の出島出入り絵師だった川原慶賀に生物や風俗の絵図を多数描かせ、薬剤師として来日していたハインリヒ・ビュルゲルには、自身が追放された後も同様の調査を続行するよう依頼した。これらは西洋における日本学の発展に大きく寄与した。日本語に関しては記述は少なく、助手だったヨハン・ヨーゼフ・ホフマンが多く書いている。2005年、ライデンにシーボルトハウスが開館した。シーボルト旧宅を、シーボルトのコレクションや日蘭関係史を展示する博物館として公開したものである。生物学生物標本、またはそれに付随した絵図は、当時ほとんど知られていなかった日本の生物について重要な研究資料となり、模式標本となったものも多い。これらの多くはライデン王立自然史博物館に保管されている。植物の押し葉標本は12,000点、それを基にヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニと共著で『日本植物誌』を刊行した。その中で記載した種は2300種になる。植物の学名で命名者がSieb. et Zucc.とあるのは、彼らが命名し現在も名前が使われている種である。アジサイなどヨーロッパの園芸界に広まったものもある。動物の標本は、当時のライデン王立自然史博物館の動物学者だったテミンク(初代館長)、シュレーゲル、デ・ハーンらによって研究され、『日本動物誌』として刊行された。日本では馴染み深いスズキ、マダイ、イセエビなども、日本動物誌で初めて学名が確定している。献名シーボルトに対する献名として、学名にまたはが命名されている生物は数多い。植物サクラソウ ミセバヤ ヘビノボラズ ・キセルアザミ ・ウスバサイシン スダジイ チョロギ ゴマギ ヤマナラシ 動物・アコメガイ(イモガイの一種)・ベニガイ(サクラガイに近縁の二枚貝)1855)・シーボルトミミズ(大型のミミズ)1883)・オニヤンマ(日本最大のトンボ)1854)・ヌマムツ(コイ科の淡水魚)1846)・ヒメダイ(フエダイ科の海水魚)1857)・アオバト(森林性のハトの一種)1835)親族直系シーボルトの娘、楠本イネの子供に楠本高子(山脇たか)がおり、手記が公開されている(シーボルト記念館ウェブサイト・長崎市)。シーボルトの息子アレクサンダー・フォン・シーボルトは、シーボルト再来日時に同行している。1859年(安政6年)以来日本に滞在、イギリス公使館の通弁官(通訳)を務め、1867年(慶応3年)に徳川昭武らのフランス派遣(パリ万国博覧会のため)に同行している。陸奥宗光・井上馨などの明治元勲との付き合いも深く、後年は外務卿井上の特別秘書となる。日本語訳された著書に『シーボルト最後の日本旅行』(斎藤信訳、平凡社東洋文庫、1981年)。2009年10月5日付の『産経新聞』で、アレクサンダーが明治政府からの派遣団に同行し、偽札防止のための「小印紙」注文に関わったことを示す、アレクサンダーから伊達宗城に宛てた書簡が発見されたことを報じた。なお、アレクサンダーは日本語を宇和島藩士から学んでいたようである。楠本高子の手記によれば、三瀬諸淵も日本語を教えている。躰道、ファウストボール選手で医師の堀内和一朗は直系の7代目にあたる。次男ハインリヒ・フォン・シーボルト(別名小シーボルト)も日本に滞在し、日本で岩本はなと結婚して1男1女をもうけた。またオーストリア=ハンガリー帝国大使館の通訳官外交官業務の傍ら、考古学調査を行い『考古説略』を発表、「考古学」という言葉を日本で初めて使用する。ハインリヒの没後100年にあたる2008年には、各所において記念企画が行われ、3月に行われた法政大学での記念シンポジウムには、ハインリヒの子孫でシーボルト研究家の関口忠志も招かれた。日本語訳された著書に『小シーボルト蝦夷見聞記』(原田信男訳、平凡社東洋文庫、1996年)がある。2010年12月から2011年1月にかけて、シーボルト記念館にて2008年のハインリヒの没後100年展にて展示された資料を中心に企画展が開催された。ハインリヒの子孫の関口忠志一家が長崎を訪問した。ヴュルツブルクには、次女ヘレーネの末裔ブランデンシュタイン・コンスタンティン・ツェッペリン(次女子孫がツェッペリン伯爵家と婚姻)が会長を務めるドイツ・シーボルト協会が存在する。また日本では、次男ハインリヒの末裔・関口忠志や国内のシーボルト研究家が集まり、日本シーボルト協会の設立準備委員会が2008年に発足している。この2者がシーボルト末裔の代表的存在として各地の研究会に参加している。 探検家「アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン、イヴァン・フョードロヴィチ・クルゼンシュテールン」(ドイツ語: ロシア語: 、1770年11月19日 – 1846年8月24日)は、エストニア出身のロシア海軍提督であり探検家。ロシアで最初に世界周航(1803年 – 1806年)を行った。彼はこの航海で「日本海」を通り、後に彼が作成した地図には「日本海」を "MER DU JAPON" と記したとされ、「日本海」を最初に命名した人物として日本の百科事典類には記されている。
2024年02月29日
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再来日とその後1854年に日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。貿易会社との契約が切れたため、幕府からの手当で収入を得る一方で、プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い、その他フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて頻繁に日本の情勢についての情報を提供する。並行して博物収集や自然観察なども続行し、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述を残す。江戸・横浜にも滞在したが、幕府より江戸退去を命じられ、幕府外交顧問・学術教授の職も解任される。また、イギリス公使オールコックを通じて息子アレクサンダーをイギリス公使館の職員に就職させる。1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国する。1863年、オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進、オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される。日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示し、コレクションの購入をオランダ政府に持ちかけるが高価を理由に拒否される。オランダ政府には日本追放における損失についても補償を求めたが拒否される。1864年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰った。同年5月、パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力する一方、同行の三宅秀から父・三宅艮斉が貸した「鉱物標本」20-30箱の返却を求められ、これを渋った。その渋りようは相当なもので、僅か3箱だけを数年後にようやく返したほどだった。バイエルン国王のルートヴィヒ2世にコレクションの売却を提案するも叶わず。ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催、1866年にはミュンヘンでも開く[11]。再度日本訪問を計画していたが、10月18日、ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去した。70歳没。墓は石造りの仏塔の形で、旧ミュンヘン南墓地 にある。年表1796年2月17日 - 神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルクに生まれる1805年 - ハイディングフェルトに移住1810年 - ヴュルツブルクの高校に入学1815年 - ヴュルツブルク大学の哲学科に入学。家系や親類の意見に従い、医学を学ぶことに1816年 - バイエルン王国の貴族階級に登録1820年 - 大学卒業。国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業1822年 - ゼンケンベルク自然科学研究学所通信会員、王立レオポルド・カロリン自然研究者アカデミー会員、ヴェタラウ全博物学会正会員に任命1822年 - オランダのハーグに赴く1822年7月 - オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる1822年9月 - ロッテルダムから出航1823年3月 - バタヴィア近郊のヴェルテフレーデン(ジャカルタ市内)の第五砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任1823年6月末 - バタヴィアを出航1823年8月 - 来日1824年 - 鳴滝塾を開設1825年 - 出島に植物園を作る1826年4月 - 第162回目のオランダ商館長(カピタン)江戸参府に随行1827年 - 楠本滝との間に娘・楠本イネをにもうける1828年 - シーボルト事件1830年 - オランダに帰国1831年 - オランダのウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜され、コレクション購入の前金が支払われる1831年 - 蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託される1832年 - ライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設1832年 - バイエルン王国・ルートヴィヒ1世からバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る1832年 - オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』刊行開始1844年 - オランダ国王ウィレム2世の親書を起草1853年 - アメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、早急な対処(軍事)を行わないように要請1857年 - ロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草1845年 - ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚。3男2女をもうける。1854年 - 日本開国1858年 - 日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除1859年 - オランダ貿易会社顧問として再来日1861年 - 対外交渉のための幕府顧問に1862年5月 - 多数の収集品とともに長崎から帰国する。1863年 - オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進1863年 - オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される1863年 - 日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示1864年 - オランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰る。1864年5月 - パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力1864年 - ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催1866年 - ミュンヘンで「日本博物館」を開催1866年10月18日 - ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去
2024年02月29日
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東洋学研究を志したシーボルトは、1822年にオランダのハーグへ赴き、国王ウィレム1世の侍医から斡旋を受け、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる。近年の調査により、バタヴィアの蘭印政庁総督に宛てたシーボルトの書簡に「外科少佐及び調査任務付き」の署名があることや、江戸城本丸詳細図面や樺太測量図、武器・武具解説図など軍事的政治的資料も発見されたことから、単なる医師・学術研究者ではなかったと見られている。日本へ9月にロッテルダムから出航し、喜望峰を経由して1823年3月にバタヴィア近郊のヴェルテフレーデン(ジャカルタ市内)の第五砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任するも滞在中にオランダ領東インド総督に日本研究の希望を述べ認められる。6月末にバタヴィアを出て8月に来日、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。本来はドイツ人であるシーボルトの話すオランダ語は、日本人通辞よりも発音が不正確であり、怪しまれたが、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」「山オランダ人」と偽って、その場を切り抜けた。本来は干拓によってできた国であるオランダに山地は無いが、そのような事情を知らない日本人にはこの言い訳で通用した。エンゲルベルト・ケンペルとカール・ツンベルグとの3人を「出島三学者」などと呼ぶことがあるが、全員オランダ人ではなかった。来日した年の秋には『日本博物誌』を脱稿]。出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。塾生は、後に医者や学者として活躍している。そしてシーボルトは、日本の文化を探索・研究した。また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝された。1825年には出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培した。また、日本茶の種子をジャワに送ったことにより同島で茶栽培が始まった。日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある。シーボルトが江戸で多くの蘭学者らと面会したときに「あなたの仕事は何ですか」と問われて、「コンデンスポンデーヴォルデ」(内情探索官)と答えたと渡辺崋山が書いている。1826年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭する。地理や植生、気候や天文などを調査する。1826年には将軍徳川家斉に謁見した。江戸においても学者らと交友し、将軍御典医桂川甫賢、蘭学者宇田川榕庵、元薩摩藩主島津重豪、中津藩主奥平昌高、蝦夷探検家最上徳内、天文方高橋景保らと交友した。この年、それまでに収集した博物標本6箱をライデン博物館へ送る。徳内からは北方の地図を贈られる。景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図を与える見返りとして、最新の日本地図を与えられた。来日まもなく一緒になった日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネを1827年にもうける。アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksaと命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をつけていると牧野富太郎が推測している。1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、地図返却を要請されたがそれを拒否したため、出国停止処分を受けたのち国外追放処分となる(シーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だった。帰国1830年、オランダに帰着する。日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰る。滞在中のアントワープで東洋学者のヨハン・ヨーゼフ・ホフマンと会い、以後協力者となる。翌1831年にはオランダ政府から叙勲の知らせが届き、ウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜され、コレクション購入の前金が支払われる。同年、蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。1832年にライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設。ルートヴィヒ1世からもバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る。オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草している。1853年のアメリカの東インド艦隊を率いたマシュー・ペリー来日とその目的は事前に察知しており、準備の段階で遠征艦隊への参加を申し出たものの、シーボルト事件で追放されていたことを理由に拒否された。また、早急な対処(軍事)を行わないように要請する書簡を送っている。1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断する。48歳にあたる1845年には、ドイツ貴族(爵位は持っていない、戦前の日本であれば華族ではなく士族相当の層)出身の女性、ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚し、3男2女をもうけた。
2024年02月29日
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2「シーボルト事件の起因」(シーボルトじけん)は、江戸時代後期の1828年にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。役人や門人らが多数処刑された。1825年には異国船打払令が出されており、およそ外交は緊張状態にあった。文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した(その後死罪判決を受け、景保の子供らも遠島となった)。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。当時、この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。樺太東岸の資料を求めていた景保にシーボルトがクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などを贈り、その代わりに、景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈った。この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとした。 3「シーボルトの履歴」フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ語:, 1796年2月17日 – 1866年10月18日)は、ドイツの医師・博物学者。標準ドイツ語での発音を日本語で一般的な方法で音写すると「ズィーボルト」だが、日本では「シーボルト」で知られている。出島の三学者の一人。生涯祖父のカール・カスパール・シーボルト。ドイツ近代手術の礎を作った一人と言われる誕生神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルク(現バイエルン州北西部)に生まれる。シーボルト家は祖父、父ともヴュルツブルク大学の医師であり、医学界の名門だった。父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルト。シーボルトという姓の前にフォン (von) が添えられているが、これは貴族階級を意味し、シーボルト家はフィリップが20歳になった1816年にバイエルン王国(ナポレオン戦争の終結に際してヴュルツブルク一帯を領土に加えた)の貴族階級に登録された。シーボルト姓を名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、学才に秀で、医者や医学教授を多数輩出している。父ヨハン・ゲオルク・クリストフは31歳で死去した。父の死は1歳1か月のときである。以後、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられる。妻マリア・アポロニア・ヨゼファとの間に2男1女をもうけたが、長男と長女は幼年に死去し、次男のフィリップだけが成人した。大学時代フィリップが9歳になったとき、母はヴュルツブルクからマイン川を半時間ほど遡ったハイディングスフェルト(ドイツ語版)に移住し、1810年ヴュルツブルクの高校に入学するまでここで育った。12歳からは、地元の司祭となった叔父から個人授業を受けるほか、教会のラテン語学校に通う。1815年にヴュルツブルク大学の哲学科に入学するも、家系や親類の意見に従い、医学を学ぶことになる。大学在学中は解剖学の教授のイグナーツ・デリンガー(ドイツ語版)家に寄寓した[4]。医学をはじめ、動物、植物、地理などを学ぶ。一方で、大学在学中のフィリップは、自分が名門の出身という誇りと自尊心が高かった。またメナニア団という一種の同郷会に属し議長に選ばれ、乗馬の奨励をしたり、当時決闘は常識だったとはいえ、33回もの決闘をして顔に傷も作った。江戸参府のときに商館長ヨハン・ウィレム・デ・スチューレルが学術調査に非協力的だとの理由で彼に決闘を申し入れている。植物学との出会いデリンガー教授宅に寄宿し、植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授の知遇を得たことが彼を植物に目覚めさせた。ヴュルツベルク大学は思弁的医学から、臨床での正確な観察、記述及び比較する経験主義の医学への移行を重視していた。シーボルトの家系の人たちはこの経験主義の医学の『シーボルト学会』の組織までしていた。各恩師も皆医学で学位をとり、植物学に強い関心をもっていた。エーゼンベック教授、デリンガー教授がそうであり、エーゼンベックはコケ植物、菌類、ノギク属植物等について『植物学便覧』という著作を残している。1822年にはゼンケンベルク自然科学研究学所通信会員、王立レオポルド・カロリン自然研究者アカデミー会員、ヴェタラウ全博物学会正会員に任命され、フランクフルトに新設の博物館用の標本見本の収集を依頼される。1820年に卒業したシーボルトは国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業する。しかし既に述べたように名門貴族出身だという誇りと自尊心が強く町医師で終わることを選ばなかった。
2024年02月29日
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「シーボルト事件」1、「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、「シーボルト事件の経緯」・・・・・・・・・・・・・・33、「シーボルト履歴」・・・・・・・・・・・・・・・・・44、「日本の探検家間宮林蔵」・・・・・・・・・・・・・・375、「日本地図初の作成者伊能忠敬」・・・・・・・・・・・446、「事件の発端、地図の持ち出し」・・・・・・・・・・・797、「禁制品持ち出し発覚」・・・・・・・・・・・・・・・1058 「江戸露見説と長崎奉行の調べ」・・・・・・・・・・・1109、「連座で高野長英の獄死」・・・・・・・・・・・・・・12410、「蛮社の獄」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13111、「事件後」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14812、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・149 1、「はじめに」シーボルト事件。江戸時代後期蘭学者弾圧事件。ドイツ人P・F・シーボルトは滞在中幕府の保護を受け多くの日本人に医学、自然科学を教授し、研究資料を収集していたが、天文方高橋景保と普請役間宮林蔵に送った手紙と贈り物が露見。以後警戒され、1828年(文正1)帰国の際、所持品から国外持ち出し禁制の日本地図(伊能忠敬)「大日本沿岸興地全図」除荷が発見されたことで、シーボルト禁制品提出の上出島軟禁、地図を渡した景保は逮捕された。捜査は景保の家族、部下から通詞、シーボルト門人等に及び、多くの物品が押収された。シーボルトへの尋問は再三にわたり、結局「以来国申付」と長崎奉行で国外追放が宣告された(1829年9月)日本退去(同年2月)。葵の紋服を贈った土生玄碩は改易が下され、江戸と長崎で約50人が処分を受けて(1830年3月)一件落着。事件の密告者に間宮林道説、景保門下生説があるが、シーボルトが押収前に写し取った地図を持ち出して出版、間宮海峡の名を世界に知らしめた。この事件は幕府の許容範囲を超えた国際学術や交際への厳しい一撃で、蘭学者の言動を一時期委縮させた。
2024年02月29日
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40、【上田騒動】「上田騒動」(農民一揆)(うえだそうどう)とは、信濃国上田藩で発生した農民一揆である。宝暦11年(1761年)、上田藩(藩主松平忠順)の農民約13000人が上田城へ押し掛けた。 この一揆での願いは、年貢の軽減、農民を人足として使う事をやめる、中村弥左衛門をはじめとする郡奉行(検見を行う役人)の不正の取り締まりであった。この郡奉行は、その年から年貢の徴収方法を従来の定免法から古来の検見法に戻し、農民を踏み台にして得た年貢で立身出世を謀ろうとした、とされている。一揆に参加した農民は、夫神村、田沢村、当郷村、村松郷、入奈良本村、下奈良本村(以上現・長野県小県郡青木村)、川西、諏訪部、別所、福田、舞田(以上現・上田市)、千曲川東岸の農民がほとんどであった。12月11日、諏訪部の河原に集合した農民たちは夜明けとともに上田城下になだれ込んだが、彼らが入城したとき藩主は江戸に出府中で、家老の岡部九郎兵衛が代わりに願いを聞いた。岡部は農民達を前にして、「もし願いが聞き届けられなかった場合は、農民たちが見ている前で切腹する覚悟だ」と話したと言われている。その翌日に、農民たちは城下町で打ち壊しを行ったほか、小牧村(現・上田市)の庄屋が役人と結託しているとして、庄屋の家を襲撃した。宝暦12年(1762)1月9日、上田城に呼び出された農民は岡部から、不正を行っていた郡奉行達を罷免したことと、たとえいかなる事情があっても、騒動や直訴は御定法(違法行為)なので、騒動の首謀者を発見し、取り調べると言い渡した。農民たちにすれば、自分達の要求の大半が受け入れられたため、一揆は成功したことになったが、首謀者たちは役人による追及を受けることになった。呼び出しから10日後、首謀者が夫神村の農民・清水半平と中沢浅之丞、庄屋の西戸太郎兵衛であることが判明。宝暦13年(1763)3月2日に半平(60歳)と浅之丞(39歳)は死罪、太郎兵衛は永牢となった。なお、太郎兵衛は20年後の天明3年(1783)に出獄し、寛政2年(1790)に84歳で死去した 了
2024年02月28日
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39、【虹の松原一揆】「唐津藩領明和8年一揆」1771年(明和8)肥前国藩領で起った一揆。参加農漁民は1万人とも2万3000人とも言われている。普代藩の唐津藩で、1762年(宝暦12)に土井利里から水野忠任へ藩主交替し、新藩主が転封費用などによる財政窮乏打開策にために年貢増微策を実施した。これが反対し既得権を守ろうとする農漁民が蓑、笠、鎌などを携え、7月20日、城下町近くで幕府領との境に位置する虹の松原に屯集した。虹の松原一揆とも呼ばれ、要求内容は無年貢地への課税廃止や新規運上の廃止など、水野氏新政策への反対である。一揆勢は7月24日に解散するが、この後も庄屋層が藩側と交渉し全面譲歩を勝ち取る。首謀者は平原村大庄屋の富田才治らと言う。 ◎「虹の松原一揆」は、1771(明和8年)に肥前国唐津藩で発生した一揆である。唐津城に近い虹の松原(現在の佐賀県唐津市)に集結した農民が新税の撤回を要求、藩にこれを認めさせた。なお、「虹の松原」は明治時代以後の呼称であり、当時は「二里松原」と呼ばれていた。この事件ももとは「松原寄り」と呼ばれていた。当時の唐津藩主水野忠任が課した農民への増税に対して不満が高まり、これに対して一揆が計画された。虹の松原は、もともと唐津藩の初代藩主寺沢広高の命令で植林された防風林であるが、当時は幕府の直轄領(天領)となっていた。唐津城にも近い松原に集団で立てこもることで武力的に威嚇するとともに、天領での事件ということで幕府から唐津藩への処罰をも懸念させる事態とした。また、役人達に発覚しないように、統制のとれた行動ができるよう、緻密な計画を立て実行された。最終的には武力的衝突もなく、一滴の血も流さず、農民は唐津藩に増税を撤回させることに成功した。しかし、面目を潰された藩は以後厳しい取り調べを行ったため、その翌年、指導者であった冨田才治ら4人は見かねて首を差し出すことで合意、西の浜で処刑されることでこの事件を終結させた。 ◎唐津藩(は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城(佐賀県唐津市)。寺沢広高は豊臣秀吉に仕え、1592の文禄の役では肥前名護屋城の普請役、後方兵站の責任者を務めて功績を挙げたことにより、1593年に秀吉から名護屋を含む上松浦郡一帯およそ8万3000石を与えられ、長崎奉行に任じられた。慶長の役には朝鮮に渡海して活躍している。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して功績を挙げたことから、戦後に肥後国天草一郡およそ4万石を加増され、都合12万3000石を領する大名となって栄華を極めた。しかし広高の死後、その跡を継いだ寺沢堅高のとき、島原の乱が起こるとその乱が天草にも飛び火し(堅高は松倉勝家ほどではないが、やはり領民に厳しい政治を敷いていた)、戦後にそれを幕府から咎められて天草4万石を没収される。堅高はほどなくして心労により自殺し、堅高には嗣子がなかったため寺沢家は改易となった。その後、播磨国明石藩より大久保忠隣の孫の大久保忠職が8万3000石で入る。その跡を継いだ大久保忠朝は、1674年に庄屋が領内を転勤する「転村庄屋制度」を創設、以後この制度は幕末まで続けられた。忠朝は下総国佐倉藩へ移封となった。入れ替わりで松平乗久が7万石で入り、孫の松平乗邑のとき、志摩国鳥羽藩へ移封となる。入れ替わりで土井利益が7万石で入り、利益から4代目の土井利里のとき、下総国古河藩へ移封となる。代わって水野忠任が三河国岡崎藩より移されて6万石で入った。1771年、水野忠任が科した農民への増税を契機に、虹の松原一揆が起こり、農民は無血で、増税を撤回させるに至った。忠任から4代目の水野忠邦のとき、遠江国浜松藩へ移封される。忠邦は、天保の改革を行なったことで有名である。代わって陸奥国棚倉藩より小笠原長昌が6万石で入り、以後は小笠原氏の支配で明治時代を迎えることになる。唐津藩最後の藩主となった小笠原長行は幕末期に老中・外国事務総裁を兼任して幕政を担った。しかも1868年の戊辰戦争では旧幕府軍に与して箱館まで転戦するなど、最後まで幕府に忠義を尽くした人物である。しかしこのため、長行を歴代藩主として数えず、その養父である小笠原長国をもって最後の藩主とする史料も多い。唐津藩は表向きの石高は6万石から12石であったが、実高は20万石前後だったと言われている。また、藩主家が中途半端に変わることが多く、長期間による藩主家の一大支配がなかった土地柄であった。 *「富田才治」(1724~1772)1771年(明和8)に肥前国唐津藩領で起こった唐津藩領明和8年(虹の松原一揆)一揆の首謀者と言われる。平原村の大庄屋であり、隣村半田村長頭らとともに一揆指導者として自首し処刑された。従来、一揆後に書かれた記録によって、富田の深謀遠慮が強調されてきたが、佐賀藩多久領の家臣の一揆見聞録によると、彼は最後まで実力行使を避けようとした。中下層農民の突き上げにより虹の松原に屯集する一揆が起こったとされる。 ※「唐津藩領明和8年一揆」譜代大名の唐津藩で土井利里から水野忠任へ藩主交替に伴って、新藩主が転封費用の捻出に年貢増微を実施した。この増税に農漁民1万人とも2万3000人と言われる一揆が勃発した。蓑、鎌、笠などを携え「虹の松原」に集結した。その後庄屋層も藩側と交渉し全面譲歩を勝ち取った。農民一揆の首謀者は平原村の大庄屋富田才治、自分が首を差し出すことで事態の収拾がつくのであればと,自首し、西の浜で処刑された。
2024年02月28日
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38、「文政一揆」(1822)石川の奥山村・ 山田の対岸石川は文政百姓一揆の発端地として有名である。文政五年(1822)宮津藩は、藩主本庄宗発が幕府の寺社奉行加役の重職にあって江戸に出仕し、丹後はほとんど重役に委せきりであった。そのために莫大な費用を要し、藩の財政が窮乏したために、御勝役頭取沢辺淡右衛門、元締松山源五右衛門、郡奉行飯原鎮平、郡奉行見習代官頭取古森乙蔵らが画策して、年貢として先納米、先先納米をとったあげく、万人講と称する人頭税を考えついた。そしてこの徴税のために責任を大庄屋に押しつけ、これを助けるために出役庄屋を設け、大庄屋と出役庄屋には年貢の一部を手数料として渡すことにした。これを知った江戸家老栗原理右衛門の庶子関川権兵衛が、分宮の祭礼の時に奥山村の吉田為治郎(喜右衛門)に話した。為治郎は急ぎ奥山へ帰り、姉さくの夫である吉田新兵衝(滋蔵・中部常吉村より入聟)に話した。一刻も猶予できないと文政五年十二月八日領内一二○ヶ村の百姓にひそかに激をとばした。 同年十二月十三日の霜の降る夜、みのかさをかぶり、手に手に鎌、なた、竹やりなどを持った加悦谷の百姓たちは続々と野田川べりの加久屋僑につめかけた。夜半に浪江要助という者が橋詰にのろしを上げると同時にかねてから手はずのあった三河内の中田、宮津の狼煙山より合図ののろしが上がり、手はじめに上山田の大庄屋小長谷安四郎、石川村大庄屋芦田庄兵衛、出役庄屋八郎兵衛宅を打ちこわした。これに呼応して与謝郡内百姓はもとより、中郡、竹野郡、加佐郡の一部の百姓が蜂起してその勢約五万人、各地の大庄屋、出役庄屋、ちりめん問屋等を打ちこわして宮津城の大手門に押し寄せた。驚いた宮津藩ではなすすべを知らず、ちょうど江戸表より帰城した家老栗原理右衛門をして百姓の要求をのませてようやく十七日になって鎮まった。ところが翌六年石川村に潜入した藩の密偵が駄菓子屋の主人から新兵衝、為治郎のことを聞きこみ、二月十五日未明村上淡右衛門ら捕手が奥山を急襲して両人を召捕った。新兵衝の妻さくはその時、汁をよそおうと見せかけてすばやく連判状を火にくべた。処刑者が意外に少いのはそのためである。そののち奥山村元蔵をはじめ石川村からも次々と三五名の百姓が召捕られて入牢し、きびしい拷問にも唯一人として口をわらず、この間奥山村の与治右衛門と、宮津町大久保稲荷大工の長五郎は牢死し、結局文政七年(1824)2月22日、新兵衝と為治郎の二人のみが処刑された。また関川権兵衝は、百姓に同情して事実を知らせた罪により切腹させられている。 一揆を事実上指揮した総髪の大男といわれる宮津大久保稲荷の神主坂根筑前(清太郎)はいち早く大阪へ逃亡したといわれる。 二人の首級はある夜ひそかに石川福寿寺の住職が盗み出して奥山村に埋めたといいそのような大騒動が起きたども思えぬような静かな奥山の墓地には、 元来宮津藩は田辺、峰山両藩と異なり、領主が次々とかわって、それも悪政が多かったため、一揆が群をぬいて多く発生している。江戸時代に府下で五六件の一揆のうち.田辺藩二回、宮津藩十回、峰山藩では一回も起きていない。『丹後路の史跡めぐり』より引用。 ※宮津藩文政一揆は藩主松平宗発が江戸にて重職にあって、重役家臣にまかせっきりで藩の財政は困窮していた。年貢の増微に万人講という一人一日3文の徴収で増収を図った。この人頭税に百姓は反発、一挙一揆に勃発していった。与謝郡石川から始まった庄屋、大庄屋への打壊しは、中郡、竹野郡へと広まって、百姓蜂起は膨れ上がり約5万人が、ちりめん問屋、出役庄屋から宮津城の大手門まで迫った。宮津藩ではなす術もなく、江戸表より帰城した家老粟原理右衛門が百姓の要求を受け入れてようやく鎮まった。その後一揆の首謀者として次々捕縛され、35名の農民と厳しい取り調べが行われた。厳しい拷問に誰一人首謀者を口をわらなかったが、大工の長五郎が牢死、新兵衛と為治郎が処刑され、百姓に同情し事実を知らせた関川権兵衛は切腹をさせられた。
2024年02月28日
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36、【紀州藩領文政6年一揆】「紀州藩領文政6年一揆」紀ノ川流域の村々で発生した水争いから発展して、紀州藩にたいして農政政策の転換を要求した一揆。1823年(文政6)5月干ばつを契機に村々で水争いと打毀しが発生した。6月8日伊都郡名倉村で蜂起以降は惣百姓一揆に転化し、酒屋、米屋、質屋などを襲撃するとともに、年貢の減免、商品流通を統制する御仕入れ方の廃止、他所米移入の許可などの要求を藩に突き付けた。一揆勢はさらに紀ノ川沿いに西進し、和歌山城下北方で町奉行の説論を了承して居村へ引き返した。その直後有田郡でも小前農民が小作者としての要求を掲げて一揆に立ち上がった。一揆の終焉後、藩は「皮多身分」の者を含む33人を獄門に処するなど厳罰に処した。「文政の百姓一揆」 財政に苦しむ紀州藩 18世紀に入ると,紀州 藩では藩の収入に比べて支出が多くなり,財政が苦しくなっていたので,たびたび節約の御お触れを出した。このような時期,1789(寛政元)年に徳川治宝が10代藩 主 になり,藩財政 の立直しに取り組んだ。まず武士の教育に力を入れ,才能がある武士を役人にして,役所の費用を減 らす工夫を命じた。藩の収入を増やすために,橋本町(橋本市)などで御仕入方 という役所を新たに 設けて,特産物や他の藩から入ってくる米などを,御仕入方を通して売り買いさせるように改め、そのもうけの一部を藩へ納めさせました。広がる百姓一揆 1823(文政6)年は、春先に雨が降ってからのち日照りが続き、各地で田植が出来なかった。植えた稲が枯れそうになる被害が広がった。なかでも紀ノ川下 流 域の村々で水不足がひどく,宮井用水(和歌山市)の水を使う村々の農民が、大勢が上流の村へ押しかけ,用水の取入れ口や庄屋の家をこわすなど,さわぎを起しました。 同じころ,亀池(海南市)の水に頼 たよ る亀ノ川下流域の農民たちも、上流の村へ押し寄せ水争いをしまし た。こうして田植をめぐって,各地で村と村の水争いがしだいに広がりをみせてきた。 6月8日の朝,久しぶりに少しばかりの雨が降りましたが,伊都郡名倉村(橋本市)の農民たちが,雨 乞の祈りをしようと集まりまった。 話をしているうち に「米の値段が上がってきたのは,米屋が値を上げているからだ。」と不満の声が強まり,村中に呼びかけて,米 屋などを打ちこわし始めた。当時一 揆 き はきびしく禁 止されていたが,彼らは,近くの村々へも参加す るよう強く働きかけ,多くの農民たちを引き連れて,庄 屋や米屋など豊かなくらしの家々を襲 った。そして 次の日には,騒動 は主に橋本市北岸から,大和国や河内国 付近まで広がった。 河原 に集まった一揆の群衆をしずめようと,伊都郡役 所の役人が出て行きたが,農民たちの要求は強く,農民の願いを取りまとめた農民の代表が,物資 の流通に深くかかわっていた御仕入方役所を廃 止することなどについて回答を求めた。 水争いから始まった 第3章 紀州徳川家の時代 文政一揆の記録(個人蔵) 文政の百姓一揆153 一揆が,紀州藩の政治のやり方を改めてほしいと要求する一揆 へと,大きく変わって行った。 役人は,藩へ報告してから返答すると説得しましたが,一団 はすぐに回答するよう求め,一揆の勢いは強まるばかりで,役 人の態度に憤慨 した農民たちは,10日には和歌山城をめざして 進み,行く先々で金持ちの家をこわし,物を持ち出した。 そして11日には数万人の農民が和歌山城近くの地 蔵 の辻 まで 押し寄せた。藩は鉄砲まで出して守りを固めて,農民たちを押しとどめた。藩は農民たちの代表が出した要求の受 入れを約束したので,4日間も続いた大百姓一揆は収まった。 紀ノ川流域の一揆がしずまったころ,有 田 川流域の村々でも打ちこわしがおきましたが,藩は素早 い対 応をとり,藩役人の説得と藩 兵を出して守りを固め,一揆の広がりを防いだ。 今までにない紀ノ川流域の大百姓一揆で農民の願いは通ったが、藩は騒 動 を引き起こした中心者を つぎつぎと捕 とら え,その数は384人にものぼりった。 きびしい取り調べが続き,死 刑 にされた者は33名に達した。一方長く藩の政治をおこなってきた治宝は,翌1824年に藩主を退 き,隠 居されらえた。 これは百姓一 揆を招いた責任をとったからだと言われている。武士の支配が大変強い時代でしたが,農民がくらしを守るために,藩へ政治の改革を求めて立ち上がっ たことは紀州藩では例がなく,新しい時代の幕開けを予感させる出来事であった。 地元の役所へ訴えないで,直接幕府の役所などへ訴えでること。(和歌山の歴史より) ◎「皮多」中世期・近世の被差別部落の名称。皮田、河田とも書く。皮革業に従事したが、農村では農業で生計を立てるところも多かった。掃除・下級行刑・皮革の役を課せられ、斃牛馬処理を行った。1526年(大永6)駿河の今川氏親朱印状に「かわた彦八」小田原北条家領伊豆のにも「かわた」が見える。◎「小前」元々も意味は大前に対して小前で、財産の少ない家、貧乏人。江戸時代の百姓について田畑を少ししか持たない者(小前百姓・小百姓)をさす。具体的には、①村役人を含めた本百姓。②村役人・村役人層以外の本百姓。③無高もふくめ弱小な百姓。④小作人、の4種類の者が見られる。幕府・領主が基本的な農民の階層として把握していた本百姓は、村の支配体制の上では、村を治める庄屋・名主あるいは組頭=小前という関係に置かれていた。①②はこうした関係に基ずいた用法である。村役人も退役すれば小前の身分とされる。
2024年02月28日
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35、「天保騒動」(てんぽうそうどう)は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。甲斐東部の郡内地方(都留郡)から発生し、国中地方へ波及し1国規模の騒動となった。別称に郡内騒動、甲斐一国騒動、甲州騒動。甲斐国は1724年(享保9年)に幕府直轄領(天領)化され、甲府町方を管轄する甲府勤番と三分代官による在方支配が行われていた。甲府盆地を抱く国中地方では近世に新田開発が進み穀倉地帯となり、国内で産出した米穀は甲府問屋仲間が統括し、一部は信濃国から移入された米穀とともに鰍沢河岸に集積され、富士川舟運を通じて江戸へ廻送された。一方、山間部である郡内地方の生業は耕作地が少ないことから山稼ぎや郡内織の生産など農間余業の依存が強く、必要な米穀は国中や相模国、駿河国からの移入に頼っていた。寛政年間には甲府問屋仲間が弱体化し、鰍沢宿の米穀商が買い占めを行い廻米として移出される米穀が増加し、信濃から買付を行う商人も進出したため米価の高騰が発生していた。 1833年(天保4年)には全国的にも冷夏による凶作のため米価高騰や飢饉が発生しており(天保飢饉)、冷夏の影響は郡内地方において深刻で、国中でも八代郡夏目原村(笛吹市御坂町)の百姓夏目家の日記では冷夏の影響を「五十年以来無覚之凶作」とし、天保騒動で打ちこわしの対象となる山梨郡万力筋熊野堂村の奥右衛門家ではこの頃既に打ちこわしの空気が発生しており、甲府町方でも世情不安が伝わり動揺が生じている。郡内勢は当初、武七・兵助に統率され百姓一揆の作法に則った活動を行っていたが、国中に至ると「悪党」と呼ばれる国中百姓や無宿人らが参加し、騒動は激化・無秩序化する。無宿人に率いられた国中勢は郡内勢と分かれると暴徒化し、鉄砲や竹槍などで武装し盗みや火付けなどの逸脱行為を行い、村々に対して一揆への参加を強制した。国中勢は8月22日には石和宿(笛吹市石和町)を襲撃すると二手に別れ、一方は甲州道中から甲府町方(甲府市)へ向かい、一方は笛吹川沿いに南下した。甲州道中を進んだ一揆勢は翌8月23日に甲府町方を守備する甲府勤番永見伊勢守、甲府代官・井上十左衛門の手代らの防衛戦を突破すると甲府城下へ乱入し、城下の穀仲買や有徳人らの屋敷を打ちこわし、火付けも行った。甲府城下の打ち壊しをおこなった一揆勢はさらに二分し、一手は遠光寺村から巨摩郡中郡筋西条村(昭和町)へ進み、西青沼町から飯田新町と打ち壊しを続け、荒川を経て巨摩郡北山筋上石田町(甲府市)、西八幡村・竜王村(甲斐市西八幡・竜王)まで進み、打ちこわしや火付けを行うと、釜無川を渡河せず笛吹川筋で打ちこわしを続けた。天保騒動に対して伊豆国・駿河国・武蔵国・相模国の幕領を管轄する韮山代官の江川英龍(太郎左衛門)も、騒動の波及を危惧して情報収拾に務めている。江川は騒動の発生した天保7年8月に伊豆・駿河の廻村を終えて韮山代官所へ帰還したところで騒動の発生を知り、幕領である武蔵・相模への波及を警戒し同月29日に手代の斎藤弥九郎らとともに甲斐へ向かっている。江川は9月3日に甲府代官・井上十左衛門から騒動の鎮圧を知ると8月に帰還した。騒動の鎮圧に失敗した三分代官に対しては吟味への参加を許さず、番所や牢の新築に際した経費を負担させている。吟味では無宿人の頭取をはじめとする500人(うち130人あまりが無宿人)以上が捕縛され、酒食や炊き出しを提供した有徳人や村々の騒動関与者も厳しく追及され、頭取ら9人が死罪、37人が遠島となる。また、関与者を出した村々には過料銭が科せられたほか、三分代官も処罰されている。一方で、積極的に騒動鎮圧に協力したものに対しては褒賞が与えられている。 *武七は、天保7年当時70歳。五人家族で持高は一石六斗であるが、徐々に減少し農閑余業を行っていた。また、無宿人・無頼の徒らを従える親分であったという。兵助は、天保7年当時40歳。姓は水越で、3人家族。犬目宿で旅籠屋を営む。屋号は「水田屋」。水田屋の経営は先代の代から悪化し、兵助は蜂起に際して妻に離縁状を出している。なお、武七・兵助両名の騒動後の動向は後述。武七・兵助は「身分不相応之者」から貧民救済のため米・金を五カ年賦で借り受けて貸し付け、国中の熊野堂村(笛吹市春日井町熊野堂)・奥右衛門家に代表される国中富裕農民に米の買い占めを停止され米穀を郡内に放出させる計画を目論む。熊野堂村の小河奥右衛門は郡内へ米穀を商う穀物商で、天保飢饉に際しては米穀を買い占め、郡内では米価高騰の元凶と認識されていたという。両名は郡内百姓の集結を促し郡内勢を率いると山梨郡万力筋熊野堂村の奥右衛門を標的に国中へ向けて出立し、道中各地で打ちこわしを行い、奥右衛門宅の打ちこわしを行うと帰村した。 ※甲州一揆は甲州騒動、天保騒動、騒動の郡内騒動など多くの呼び名がある。規模でも最大級の一揆である。甲斐30万石山地は86%の天領で、生産力の弱い郡内地方の農民は賃織り、養蚕、馬方、棒手(行商)日雇い、出稼ぎなどの収入の暮らしである。天候異変や凶作で米価は高騰、幕府の江戸江戸廻米(大量の米を地点から地点へ輸送すること)や郡内へ「穀留」を行った。農民は米穀商や代官所に米の放出を嘆願したが、一向に効き目がなかった。堪り兼ねた百姓たちは、米穀商、両替商7件に打壊しをした。甲州街道沿いの村々から一揆勢に加わり、武装された甲府役人や代官所と交戦しながら広まって行った。日雇い人、無宿人、浪人、神主、被差別部落民も加っていった。一揆衆は数万人と概算された。打壊しをされた家屋、村数118村、家319軒に及んだ。藩側は近隣諸藩より出兵900人の応援をえて鎮圧することが出来た。その後の一揆首謀者処罰で下和田村治左衛門が牢死した者一人と298人の処罰をしたのみで、村割で富裕層から冥加金をとりたて、極貧者に救済金に当てられた。
2024年02月28日
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34、【甲州一揆】「甲州一揆」(甲州騒動)1836年(天保7)8月、甲斐(かい)国(山梨県)に起きた百姓一揆。当時、甲斐国騒立(さわぎだち)、甲州百姓騒立、のちに甲州騒動、天保(てんぽう)騒動、郡内(ぐんない)一揆、郡内騒動、その他さまざまの呼称でよばれた事件で、全国的にも最大規模のもの。甲斐30万石は山地86%の天領で、ことに生産力の低い郡内地方の農民は、郡内絹の賃織り、養蚕、馬方、棒手(ぼて)(行商)、日雇い、山稼ぎなどによる収入で暮らし、米穀類は主として国中(くになか)地方(甲府盆地地域)から求めていた。ところが1830年代の初めから続いた天候不順による凶作は、米穀類の暴騰を招き、不況による低賃金のなかで重税の取り立てのみ厳しく、病人、餓死、投身、家出、乞食、盗賊が続出した。国中地方の米穀商は、江戸の米価暴騰に対してとられた幕府の江戸廻米(かいまい)令に乗じて、米の買いだめ、売り惜しみを行い、郡内へ「穀留(こくどめ)」を行った。農民は、国中の米穀商との交渉や、代官所への嘆願を繰り返したが、まったく効果がなかったので、ついに米穀商に対して米の押買(おしが)いを目的とした一揆を起こした。これとは別に郡内領谷村(やむら)(都留市)付近の農民は、8月17日の夜から翌日の明け方にかけて谷村の米穀商、両替屋など7軒を打毀した。甲州街道沿いの農民は同月20日、白野宿(大月市)のはずれの天神坂林で決起大会を開き、下和田村(大月市)の治左衛門(じざえもん)、犬目宿(上野原市)の兵助(ひょうすけ)らを頭取に選び、その行動綱領を定めた。郡内の一揆衆は21日の早暁、笹子(ささご)峠を越えて国中地方に入ると同地方の無数の農民が加わり、無原則的な打毀を続けた。治左衛門は当初の計画から甚だしく逸脱してしまったので歌田村(山梨市)から、そのほかの郡内衆は、22日、熊野堂村(笛吹市春日居町)の奥右衛門方の打毀を見切りに郡内へ引き揚げた。国中の一揆衆は、打毀の先々で貧農層のほか、村役人層をはじめ日雇人、無宿者、浪人、神主、修験者、被差別部落民も加わって、武装された甲府勤番士や、代官所の役人らと交戦してこれを退けて打毀を続けた。一揆衆の数は数万と概算され、その行動区域は国中地方中心部の全域にわたり、甲州街道筋では信濃境までに及んだ。打毀の対象は米穀商、質屋、酒屋、太物(ふともの)屋、大地主、豪農などで、それらのうちで金品、酒食、武器などを提供してその難を免れた者も多かったが、打毀された村数118、家数319に及んだ。幕府は信濃の高島藩、高遠藩、および駿河(静岡県)の沼津藩よりの出兵約900をもって鎮圧を図った。この事件は、いち早く江戸の瓦版によって各地に伝えられ、水戸(みと)藩主徳川斉昭はこれを契機に、幕政改革を促す建白書をしたため、大坂の大塩平八郎(おおしおへいはちろう)は、この事件から強い衝撃を受けた。江戸幕府は3か年に及ぶ調査と、政治工作ののち、1838年(天保9)5月、下和田村の治左衛門(1836年11月牢死)ほか298人の処罰をしたのみで、各村々から村割の過料銭を、富裕層から冥加(みょうが)金を取り立て、極貧者の救済金にあて、あわせて両3年間の貢租の大幅減免などをもって事件の決着とした。
2024年02月28日
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33、「山陰・坪谷村一揆」(やまげ・つぼやむらいっき)は、1690年(元禄3年)に九州東部の延岡藩で起きた農民の逃散による一揆である。山陰一揆、山陰騒動とも呼ばれる。江戸時代の延岡藩内、東臼杵郡にあった山陰村および坪谷村(日向市東郷町山陰および坪谷)では数年間にわたって大雨と洪水が続いた。農作物が不作となったにもかかわらず厳しい年貢の取り立てが行われ、たまりかねた農民たち300戸1422名が1690年(元禄3年9月19日)、牛馬家財とわずかな武器を携えて隣接する高鍋藩内への逃散を試みた。農民たちは薩摩藩まで行くことを望んでいたが、途中の股猪野(都農町又猪野)で高鍋藩に止められ一旦高鍋藩内に逗留することになった。延岡藩からの使者に藩内に戻るよう説得されたが聞き入れず、元禄4年正月に高鍋藩立ち会いのもと再度延岡藩と交渉したが物別れに終わり、ついには江戸の評定所へ訴え出て江戸幕府の裁定を仰ぐことになった。2月に延岡藩側の代表として郡代梶田十郎左衞門と代官大崎久左衞門が、農民側の代表として21名がそれぞれ江戸に呼び出された。道中は高鍋藩から武士百数十名がついて護衛にあたった。また、高鍋藩は食糧を持たない者に食糧を支給したり、仮住まいのための小屋を建てたり、医師を派遣するなど農民たちを支援した。尚、支給された食糧は後に延岡藩から返済されている。6月23日、幕府は農民側に非があり延岡藩内に戻るよう指示するとともに、延岡藩郡代(梶田十郎左衛門)と代官(大崎久左衛門)は追放するという裁定を下した。農民側の首謀者2名は磔、5名は斬首刑、7名は八丈島への流罪となり、首謀者の家族も罰せられた。これを受け7月4日、延岡藩と高鍋藩が農民のうち178名を招いて延岡藩内へ戻るよう説得した。農民たちはこれを受諾し7月14日、延岡藩に戻った。その後11月₈日、江戸幕府は一連の騒動の責任として延岡藩藩主有馬清純に糸魚川藩への転封を命じ、山陰村と坪谷村は天領となった。一方農民たちは高鍋藩の支援に対して恩義を忘れず、廃藩置県後に高鍋へ移住する者もあったという。
2024年02月28日
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32「中野騒動」(なかのそうどう)は、旧信濃国北部の幕府領・旗本領を管轄する中野県で明治3年に発生した世直し一揆である。主張は年貢削減、特権的豪商の告発、新税廃止など。明治3年9月17日(1870年)に伊那県から分立して中野県が成立した。高石和道大参事は民部省の意向を受け、増税策を次々と打ち出したが、兼ねてより贋金の流入による経済の混乱や、米価の上昇によって困窮する農民の不満は増大していた。近隣の松代藩や須坂藩で発生した一揆勢の要求項目の一部が藩当局に聞き入れられると、中野県にも波及することとなった。12月19日(1871年)、高井郡高井野村(現上高井郡高山村)から発生した一揆勢約2000人が、羽場村(現同郡小布施町)に集結して中野町(現中野市)に向かい、特権的豪農や商家を打ちこわしし、中野県庁を焼き討ちし、県吏を殺害した。高石大参事は逃亡し、松代藩に匿われ謹慎となった。これを受けて松代藩ほか各藩兵が鎮圧に向かい、12月21日になって一揆勢は退散した。翌年Ⅰ月6日から明治政府軍(佐賀藩兵を主力とする)によって一揆の参加者の探索が進められ、約600名が逮捕された。2月27日には斬首刑6名、絞首刑22名、徒刑十年124名、その他処罰数百名などが刑に処された。後任の立木兼善権知事は中野での県庁再建を断念し、長野への移庁を政府に上申し、太政官布告によって、7月25日に長野県が成立した。
2024年02月28日
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31、「松代騒動」(まつしろそうどう)は、明治3年(1870年)に信濃松代藩で小平甚右衛門が主導して発生した世直し一揆。一揆の原因となった手形には麒麟の絵があしらわれており、「午札」(うまさつ)と呼ばれていたことから、午札騒動(うまさつそうどう)の別名がある。幕末の松代藩は年貢収入の頭打ちにより、発達しつつあった商品経済や流通に着目し、財政安定化を目的として産物会所を設立した。同藩は慶応4年/明治元年(1868年)からの戊辰戦争で活躍したが、戦費は膨大となり、財政赤字に拍車をかけた。明治2年(1869年)には産物会所を改めて松代商法社を設立し、御用商人であった更級郡羽尾村(現千曲市)の大黒屋大谷幸蔵を頭取とした。折柄の贋二分金(チャラ金)の流通による経済の混乱に際して、藩はその回収を目的として済急手形を発行し、更に翌明治3年(1870年)には商法社が大量の手形を発行し、領内の生糸や蚕種等の諸産物を領内から独占的に買い占め、海外輸出を目論んだ。しかし、輸出相場の暴落により裏付けの準備金を欠損して破綻し、それに伴って商法社が発行した手形も暴落し、正貨である太政官札を大幅に下回る価格でしか流通しなくなった。そこで明治維新政府は同年末までに藩札を回収するよう厳命したが、既に38万両分の流通高があり、回収に苦しんだ藩は3年分の石代金を藩札で上納させることとし、11月24日には金10両に対して籾4俵半の相場と藩札の太政官札に対する2割5分引きを領内に告示した。その結果、藩札を引き受けた庶民の生活は困窮を極め、松代騒動の勃発に至った。同年11月25日、更級郡山田村(現・千曲市)の名主の弟であった小平甚右衛は、周辺の農民に対して松代城下(現・長野市)への強訴を呼びかけ、一揆勢は千曲川畔に集結し、羽尾村の大黒屋宅を焼き払った後、26日朝には約3000人が城下に突入した。事態を重く見た知藩事の真田幸民は金10両に対して籾7俵として石代相場を相対的に引き下げることと、藩札の額面通用、太政官札との等価兌換を約束し、甚右衛らは一旦帰村したが、一揆は領内全域に波及し、酒屋、米穀商、質屋などが打ちこわしに遭った。26日夜には惣一揆となって再び城下に突入し、真田桜山大参事や高野広馬権大参事以下、藩の要人の邸宅がことごとく焼き討ちされ、隣接する善光寺領でも贋金を流通させた商人が打ちこわされた。27日になって一揆は武装した藩兵の大挙出動により鎮圧され、28日になると、藩は直ちに実務者を更迭し、新たに河原均大参事と山寺常山権大参事を中心に藩政を進めることとし、領内を廻村させ、知藩事の諭達を伝えるとともに、財政の逼迫を領民に説得し、併せて嘆願事項を書面で提出させるように指示した。12月に入り、維新政府は弾正台や民部省の官吏を派遣し、一揆の参加者の探索を進め、事件の収束にあたらせた。翌明治4年(1871年)4月に真田桜山、高野広馬は閉門、真田幸民を謹慎とし、松代商法社は解散、5月には620名余りが検挙され、400名余が入牢し、甚右衛門らは斬罪に処されたほか、9名に徒刑10年、1名に徒刑5年、2人に徒刑3年などが下された。
2024年02月28日
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30、「近江天保一揆」(おうみてんぽういっき)は、江戸時代後期に起こった百姓一揆。甲賀騒動・甲賀一揆・三上騒動・百足山騒動・天保十三年近江天保一揆などとも言う。典型的な『惣百姓一揆』(代表越訴型一揆と異なり、庄屋等の村役人層に指導された全村民による一揆、大規模で政治的要求を掲げた)である。天保13年10月16日((新暦)1842年11月18日)近江野洲郡・栗太郡・甲賀郡の農民が、江戸幕府による不当な検地に抗議し、『検地十万日延期』の証文を勝ち取った。一揆後、幕府により数万人を超える農民に対して苛烈な取り調べが行われ、土川平兵衛等指導者11人が江戸送りとなった他、千余人の一揆参加者が捕縛され、その中の多くが獄死や帰村後衰弱死したと伝えられている。これら犠牲になった人たちのことを近江天保義民(天保義民)と言う。編集]国内の状況一揆が起こった天保13年(1842年)は、天保の大飢饉(天保4年(1833年) – 天保10年(1839年))の直後で、当に飢饉により多くの人が餓死し、米価高騰や一揆・打ち壊しの姿がまだ生々しい記憶として残っていた。天保7年(1836年)だけで大小129件もの一揆・騒動があったと伝えられる。代表的な一揆としては天保2年7月26日(1831年9月2日)に長州藩で起きた『防長大一揆(長州藩天保一揆・天保大一揆とも呼ばれる)』、天保7年₈月14日(1836年9月24日)に天領の甲斐で起きた『天保騒動(郡内騒動・甲斐一国騒動・甲州騒動とも呼ばれる)』、9月21日(10月30日)三河の加茂郡挙母藩で起きた『加茂一揆』、天保9年5月22日(1838年7月13日)に天領の佐渡で起きた『佐渡一国一揆(佐渡一国騒動)』などがあるが、天保11年11月23日(1840年12月16日)庄内藩など三藩の領地替え(三方領知替え)に反発した『三方領地替反対一揆(庄内天保一揆)』、天保12年12月4日(1842年12月15日)に徳島藩で起きた『山城谷一揆』など、国や藩の政策を批判する一揆が起き始めていた。農民等の一揆・騒動に加え、天保₈年(1837年には、2月19日(3月25日)大阪で、飢饉による米不足の中更なる利を求め米買占めを行う商人や、民衆の窮状を省みない役人に反発し救民を訴えた大塩平八郎による反乱(大塩平八郎の乱)が起き、6月1日(7月3日)越後柏崎では国学者生田万が貧民救済を掲げ蜂起(生田万の乱)し、天保10年5月14日には幕府の鎖国政策を批判した高野長英等の蘭学者を捕縛した蛮社の獄が起きた。いずれも幕府や役人への批判が元といえる。
2024年02月28日
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29「新潟明和騒動」(にいがためいわそうどう)とは、1768年(明和5年)越後国新潟町(現新潟県新潟市)において町民が藩政に抵抗しおよそ2ヶ月にわたる町民自治を行なった事件。当時新潟町は長岡藩の支配下にあり、正徳3年(1731)に仲金制が敷かれて以降、新潟町の御用金は長岡藩の重要財源となる。加えて長岡藩の土地柄による恒常的な洪水や飢饉、宝暦3年(1753年)に長岡藩の重要財源の一つである長岡船道の信濃川水運特権が近隣の藩の苦情を受けての幕府の裁定により剥奪となったことで新潟町の御用金の重要度は増す傾向にあった。前年からの飢饉もあって長岡藩は1767年(明和4年)新潟町に1500両の御用金を2年の分納で課した。しかし、飢饉による米の流通の減少から新潟湊への入港量が減少しており新潟町もまた不景気に苦しんでいた。さらに米の高騰もあって困窮していた新潟町民は2年目の750両を工面できなかった。町民は涌井藤四郎(わくい とうしろう)らを中心に延納の嘆願書を出すべく寺に集まったが八木屋市兵衛がこれを徒党として密告。代表者の涌井は町奉行所に出頭を命じられ投獄された。これに激昂した町民は9月26日の夜12時頃、早鐘を合図に一斉蜂起し、町役人宅や八木屋市兵衛宅、米屋などを打ち壊した(この時、打ち壊し騒動の指揮を取った黒装束の男数名がいたと言われる)。新潟町奉行側は鉄砲隊で攻撃したが町人側は薪を投げて応戦し町役人を敗走させた。事態の沈静化を図った町奉行側は涌井を釈放。打ち壊しは翌日も行なわれたが、涌井は町奉行所打ち壊しに向かっていた町民等を説得、事態は沈静化した。これにより涌井らが藩に代わって町政を掌握し約2ヶ月にわたる町民自治を行なった。長岡藩は新潟への派兵を試みたが町民側は新潟港での藩兵の荷降ろし作業を拒否。町民側の結束に長岡藩も涌井を総代として承認せざるを得なかった。長岡藩は町民懐柔の為、米1,000俵の配給を実施。さらに当事者であった町役人等を取り調べる為と称し町人側の関係者を次々に召喚した。11月22日に長岡藩へ出頭した涌井らは藩側の策略により捕らえられた。長岡藩は事件の首謀者と目された黒装束の男等を捜索したがついに捕らえることはできなかった。1770年(明和7年)₈月25日、涌井は一切の責めを負わされ腹心の須藤佐次兵衛(すどう さじべえ、岩船屋佐次兵衛)と共に市中引き回しの上斬首された。涌井の首は往来に晒されたが彼に恩のあった女性が役人の目を盗んで首を奪い密かに葬ったと伝えられる。涌井らは後に義人として墓や慰霊碑が建てられ、明治になってからは新潟市の古町愛宕神社内に佐倉惣五郎を分霊した口之神社を建てて祀られた。新潟市の白山公園内に「明和義人顕彰之碑」がある。ちなみに『天保十亥年正月 貞享元子年より諸役人留』(1839年頃の史料)によると長岡藩側は従来の新潟町奉行就任者の石垣忠兵衛及び佐野与惣左衛門に加えて大田を新潟町奉行に任命して、本来より1名多い3名体制でことにあたり、明和6年(1771年)に石垣と佐野は新潟町奉行を辞任している。
2024年02月28日
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28、「一揆の犠牲者例」多数の犠牲者を出した山中地域には、犠牲者の墓、供養塔や顕彰碑などが残っている。· 徳右衛門御崎(真庭市仲間):「享保十二未三月十一日」「清眼則勇信士」「俗称池田徳右衛門」などと刻まれた石碑。嘉永年間(1848年〜1854年)に近くの大庄屋、庄屋、年寄などが建立したもの。かつては刀、鎌、鍬、幟などが奉納され、願い事がかなうとして賑わった。真庭市指定重要文化財。· 義民樋口弥治郎碑(真庭市見尾):見尾集落東方に1917年(大正6年)に建立された顕彰碑。弥治郎は近くの山の洞穴に身を潜め、そこに愛犬が弁当を届けていたといわれる。弥治郎が隠れていた山は「弥治郎嶽」と呼ばれている。また、この碑に寄り添そうように義民弥治郎忠犬塚も建てられている。真庭市指定重要文化財。· 清水寺の供養碑(真庭市久見):1965年(昭和40年)に旭川の土居河原で発見され、清水寺に移築された石碑。「過去亡霊二十五人為菩薩 供養 大仏頂陀羅尼一万八千遍誦之 乃至法界 平等利益」「享保十二未天正月十三日 清水寺」とある。土居河原で処刑された25人の供養のために、経を1万8000回唱えたことが分かる。· 大林寺の妙典塚(真庭市黒杭):石塔本体には「奉納大乗妙典書写 一石一部塚」「于時享保十二丁未天九月日 教音書写」と記されている。台座には、山中一揆で処刑された51人の名前と命日などが刻まれ、山中一揆犠牲者全員の供養のために建てられたものといえる。苔むして文字は明確でないが、菩提を弔う人々は津山藩の暴政の犠牲者であると刻まれている。天保4年(1833年)に建立。真庭市指定重要文化財。· 社田(こそだ)義民の墓(真庭市蒜山西茅部):享保12年1月25日に処刑された真庭市蒜山西茅部出身の治郎右衛門の墓で、自然の石で作られた墓には、「刃了禅定門」「享保十二未天」「正月 十三日」などの文字が刻まれている。地元では毎年6月の第一日曜日を義民祭としておまつりをしている。真庭市指定重要文化財。· 田部義民の墓(真庭市蒜山西茅部):山中一揆で処刑された西茅部出身者らの墓で、もとは別々の場所にあったものが徐々に寄せ集められ、まつられるようになったもの。地蔵の一部には、「笠木 忠右衛門」「三右衛門」など、享保12年1月13日に土居河原で処刑された西茅部の農民の名前が確認できる。真庭市指定重要文化財。· 大森の七左衛門父子祠(真庭市東茅部):七左衛門・喜平次父子を祭る祠。父の七左衛門は奥山中の総大将格で、16歳の喜平次は総大将徳右衛門の幕僚として活躍した。父子はともに津山送りとなり、津山で処刑された。村々の救済に身をささげた父子を顕彰するために、1958年(昭和33年)に大森集落の藪の影から現在の場所に移し、供養を続けている。真庭市指定重要文化財。· 剣のみさき(真庭市鉄山):美甘村鉄山の大槌に湯本下河原で処刑になった七郎兵衛を祭ったもの。この祠のそばには1926年(大正15年)に建てられた200年際を記念する石碑がある。命日の正月25日には毎年祭礼が行われている。また近くの墓地には、真庭市指定重要文化財の七郎兵衛の墓がある。· 湯谷義民の墓(真庭市田口):享保12年1月12日に今井河原で処刑された田口出身の長右衛門と三郎右衛門の墓。1961年(昭和36年)に当時の美甘村長が発起人となって建立された。そのそばには、長右衛門のものと伝えられる自然の石を積み上げた墓(真庭市指定重要文化財)がある。· 萩原の万霊供養の道標(真庭市見明戸):見明戸の萩原地区のはずれ、大山方面と美甘方面に分かれる旧道の分岐点に、自然石に「萬霊 右 大山みち 享保十三年申三月十二日」と読み取れ、施主として三人の名が刻まれている。この日付は徳右衛門ら6名が津山で処刑されたときから、ちょうど1年を経過した日にあたる。· 三倉の善六みさき(真庭市種):土居河原で処刑になった善六を祭っている。· 樫村の道全の供養塔(真庭市樫村):久世で処刑された樫村の新兵衛の供養塔。道全は法名。· 院庄の首無し地蔵(津山市院庄):院庄滑川刑場で処刑された首謀者6人の地蔵様。享保12年6月中旬:山中一揆の民衆側にたって書かれた騒動記「美国四民乱放記」が成立。筆者は高田(現 真庭市勝山)の住人神風軒竹翁(しんぷうけんちくおう)である。竹翁の素性は明らかではない。この一揆の騒動記は10点を超えるが、そのなかで最も内容が整っているとされる。1982年(昭和57年):徳右衛門らが捕らえられた土居村の柿の木坂付近に「義民の丘」を整備。全犠牲者の名を記した山中一揆義民慰霊碑を建立。毎年5月3日に慰霊祭「山中一揆義民祭」が行われている。題字は当時の岡山県知事である長野士郎による。
2024年02月28日
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27、「津山藩による郷蔵事件」11月24日、幕府から「津山藩の石高を10万石から5万石の半減とする」との知らせが津山に届く。久保新平は、減封の対象が真島・大庭の両郡であると判断する。領地を取り上げられる前に年貢米を持ち出そうと、大庭郡久世村(現 真庭市久世)に出張中の役人である井九太夫に、久世の郷蔵から年貢米を運び出すことを命じる。11月28日、年貢米を船に積んで旭川を下ろうとしたところを農民に見つかる。農民は米を戻すことを要求するが、翌朝に船はそのまま下る。農民の藩への不信が爆発する。経過一揆勢の集結・交渉12月3日、真島・大庭の両郡の北部にあたる山中地域(現 真庭市の湯原、蒜山の全域、真庭市の勝山、美甘地区の一部、真庭郡新庄村)の農民3000~4000人が久世村に集結。4日、久世周辺の農民と合流。一揆勢の指導者6人(仲間村牧分の徳右衛門、見尾村の弥治郎、小童谷村の半六、大森村の七左衛門・喜兵次、土居村の忠右衛門)が井九太夫と交渉。井九太夫は「藩の正式代表が来るまで」と、久世の郷蔵を一揆勢に渡す。一揆勢は近辺の大庄屋、中庄屋などの屋敷の打ちこわしを行う。この知らせが津山に届くと、城中で緊急の評定が開かれる。一揆の状況はすでに津山藩領の東部にまで伝わっており、領内全土に一揆が起こりかねない状況であった。大庭郡代官の山田丈八と真島郡代官の三木甚左衛門が藩の代表として派遣され、6日以降一揆側と交渉することになる。12月10日、一揆側は以下の6つの要求のうち、4を除く5つを津山藩に認めさせ解散した。*の未納分の14%は納入を免除すること*作付高に対し四歩加免は免除すること*大庄屋から借りて払った年貢米を免除すること*米以外の大豆納、炭焼き、木地挽き等の諸運上銀を免除すること*藩が任命する大庄屋・村庄屋を廃止して、農民が選んだ状着(農民代表)を置くこと*大庄屋・中庄屋・村庄屋に与えられた特別の権益を廃止し、諸帳簿を農民に渡すことこの後、4.の要求が拒否されたことに刺激され、津山藩領の全域に百姓一揆が派生し、藩は概ね上記と同様の要求を認めた。これにより百姓一揆は一旦収まった。19日、津山藩はこの騒ぎのすべての責任を久保新平に負わせ、牢に入れ家財を没収する。山中地域での強訴12月21日、大庭郡樫村と西西条郡西谷村、東谷村の農民が、大庄屋・中庄屋に四歩加免と14%の年貢米の返納と、ここ数年の年貢帳簿の引き渡しを要求する。大庄屋・中庄屋はこれを拒否し、代わりに米切符を渡す。この話が山中地域に広がり、徳右衛門、弥治郎、半六を頭取として大庄屋・中庄屋を襲撃し、米切符や米俵等を得る。29日、状宿・状着を選出し、農民の自治の試みが実現される村も出始める。30日、山田・三木の両代官は山中地域に1800俵の米切符を出し、引き上げる。山中が天領になれば、津山藩の米切符は無効になるため、徳右衛門らは米への交換に向けた戦いを組む。津山藩による鎮圧享保12年(1727年)正月3日、津山藩は城内で評定を開く。5日、山田・三木の両代官に「生殺与奪の権」が与えられ、武力弾圧を決議。6日、山田兵内が率いる40名の鎮圧隊が久世に入る。鎮圧隊は山中地域の大庄屋とともに翌7日の山中への攻め込みを決定。一方、一揆勢の農民800余人は山中の入口にあたる大山道の三坂峠に集結。7日、この噂を聞いた鎮圧隊は出雲街道から山中の裏側にあたる美甘・新庄に進行する。 8日、美甘・新庄の状着2人が鎮圧隊に捕まり、偵察を条件に助命。また、津山から大規模な戦闘部隊が到着し、真島郡黒田村(現 真庭市黒田)、三坂峠、旭川川筋(久世~帰路峠~山久世~旭川上る)の3方面から攻める。11日、状着2人の偵察により真島郡土居村(現 真庭市禾津)の徳右衛門宿の様子を三木代官に報告。12日、山田・三木の両代官は真島郡田口村の2人、真島郡新庄村の3人を新庄今井河原で処刑し、首切峠などにさらす。両代官は農民に案内させ、徳右衛門らの集結する土居村に潜入。土居の柿の木坂で徳右衛門、忠右衛門、喜平次ほか32人を捕まえる。13日、32人のうち52人を土居河原で処刑し、うち13人を三坂峠、12人を帰路峠にさらす。14日、徳右衛門と喜平次の2人を津山に護送。見尾村の弥治郎も中庄屋の密告により捕まる。15日、大森村の七左衛門が捕まる。16日、山中の百姓は、惣百姓の連名で詫び証文を出す。17日、弥次郎、忠右衛門、七左衛門が津山に送られる。20日、最後まで抵抗した目木触(現 真庭市久世周辺)、河内触(現 真庭市川東、河内周辺)が鎮圧される。24日、小童谷村の半六が捕まる。25日、湯本大庄屋預かりの₈人を湯本下河原で処刑し、熊居峠にさらす。閏正月2日、目木触と河内触の指導者7人を久世河原で処刑する。これらの村々が詫び証文を出し、四歩加免以外は認められず、取り返した米も返納させられた。状宿・状着の制度は廃止し、庄屋制が復活した。3日、半六を津山へ護送。結末2月10日、半六が御赦免(所払い)となる。3月12日、津山送り27人のうち6人が正式の裁判により処刑となる。徳右衛門、弥次郎は津山を引き回しの上、院庄の滑川の刑場において、磔になった。享保12年5月、真島郡と大庭郡は天領となり、大庄屋は廃止された。
2024年02月28日
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26、「頸城騒動」(くびきそうどう)は、江戸時代に天領・越後国頸城郡で発生した騒動。頸城質地騒動、越後質地騒動ともいう。同地の農民たちが質流れになった田畑を取り戻そうとした質地騒動といわれる一揆の1つで、享保7年(1722年)4月に発布された質流地禁止令を契機として起きたものである。流地禁止令の御触れが頸城郡の天領にまで伝えられたのは享保7年(1722年)11月のことであったが、田畑の質流れは認めないという同法令が引き起こす混乱を恐れ村役人たちはこれを百姓たちに読み聞かせなかった。しかし、百姓たちは、流地禁止令の御触れを独自に入手し、下鶴町村・米岡村・角川村・新屋敷村・四ツ辻村・角川新田・田中村・荻野村・野村などの村々の質置人たちが集まって、座頭の円歌と医者の祐益の2人に法令を読んでその内容を解説してもらった。2人は条文を田畑を質入れした百姓たちに有利なように解説し、それを聞いた百姓たちは、富裕な者や町人の元に田畑が集まり、百姓が田畑から離れることを気の毒に思った御上が、御慈悲をもって元金済崩しを仰せ付けたと考えた。そして、その趣旨に沿うためとして、質地(質入れしたり、質流れになったりした土地)を取り返すべく、質地の40パーセントは金主に渡し、残り60パーセントは質置主の方に返還するなどの4ヵ条の要求を掲げて代官所に訴え出たが、受け入れられなかった。要求を拒絶された新屋敷村の金右衛門ら20名は、鶴町村・沖村の金主の家を襲って米などを強奪。代官所側はこれに対し、質置人たちを集めて法令の内容を説明して説得に努め、同時に事件の首謀者を捕えて投獄した。その一方、質置人たちの代表が江戸に行って法令の解釈について当局に問い質したり、金主たちが集まって協議したりと様々な動きがあったが、130日目に入牢者の全員を釈放したことで事件は一旦は落着した。騒動と判決しかし、同8年3月15日に騒ぎは再燃し、150ヵ村の約3000名の農民が集い、吉岡村(上越市)の市兵衛ら数人が首謀者となって質地奪回のための実力行使に出た。代官所の役人も金主たちもこの一揆勢を止めることはできず、隣接する高田藩に逃げ込み、役人は江戸に救援を要請し、金主たちもこのことを幕府に訴えた。高田藩側では、この騒動が自領にも波及することをおそれ、このまま放置するわけにはいかないので自分たちで取り締まりをする旨、代官所役人と幕府に伝えた。高田藩以外の隣接諸藩からの要請もあり、幕府は享保9年(1724年)3月11日、頸城郡の天領を高田藩(藩主・松平定輝、10万7000石)・会津藩(藩主・松平正容、7万石)・長岡藩(藩主・牧野忠寿、6万4000石)・館林藩(藩主・松平清武、4万7000石)・新発田藩(藩主・溝口直治、4万3000石)の5つの藩へと分散して預け地とした上で、これらの藩に騒動の鎮圧を命じた。高田藩主の松平定輝は、家老の服部半蔵・久松十郎右衛門を御用掛とし、質置人の願いを聞き届けるとだまして、出頭した農民の主要人物を捕縛する。他の関係諸藩も強行措置に出て、同年6月30日までに関係者全員が捕えられた。翌10年(1725年)3月11日に下された判決では、市兵衛以下7人が磔刑・獄門11人・死罪12人・遠島20人・所払い19人・過料28人となり、赦免されたのは9人であった。付加刑として闕所・家財没収となった者は63人で、没収されたのは総石高は97石7斗余、土蔵1棟、馬屋17棟、持仏堂1棟、馬1頭におよんだ。判決時には、処刑の判決を受けた者のうち、半数以上が既に牢内で死亡していた。これら処罰を受けた者たちのほとんどが、4石以下の零細農家であったという。騒動の終結後出羽国村山郡の天領で発生した長瀞騒動も同様に流地禁止令の解釈をめぐって大きな騒動に発展した。数々の問題を引き起こした同法令は、騒動の決着前の享保₈年(1723年)8月28日に廃止されている。高田藩主の松平家は、鎮圧の功績が幕府に認められたとして、寛保元年(1741年)に松平定賢の代になって陸奥国白河藩へ転封となった
2024年02月28日
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25、「貞享騒動」(じょうきょうそうどう)とは、1686年(貞享3年)に信濃国松本藩で発生した百姓一揆である。中心となった多田加助の名前から、加助騒動とも呼ばれる。 1686年の安曇平における作柄は、例年と比べて不作であったが、松本藩は年貢1俵あたりの容量を3斗から3斗5升に引き上げる決定を行った(Ⅰ斗=18.039リットル、1升=1.8039リットルに換算)。周辺藩の基準は1俵あたり2斗5升であり、1.4倍以上(軽度の脱穀作業も求められたため)という著しい増税状態となった。 また、灌漑が未発達だった当時の安曇野平では、生産する米の7割が長いノギの付く赤米であり、以前はノギが付いたままの赤米を換算して納めさせていた。藩は換算比の変更と伴にノギの除去作業を命じたが、ただでさえ忙しい脱穀と俵詰めの間にノギ取り作業を加えることは農民にとって重労働だった。安曇郡長尾組(組は藩領を分割する大単位、現在の長野県安曇野市三郷・堀金地域)中萱村の元庄屋、多田加助(嘉助)を中心とした同志11名は、ひそかに中萱の熊野神社拝殿に集まり百姓たちの窮状を救うための策を練った。その結果松本の郡奉行所へ行って直接郡奉行に1俵あたり2斗5升への減免等を求める5か条の訴状を提出することになった。実行日は10月14日。この計画が藩内各組に伝わったため、1万とも伝えられる百姓が松本城周辺へ押し寄せる騒ぎとなった。当時の藩主、水野忠直は、参勤交代のため不在であった。事態を重く見た城代家老は、早々に騒動を収拾するべく、10月18日に多田加助ら百姓側の要求をのむとして引き取らせた。そして、翌19日の夜組手代らに年貢減免するとの回答書を手渡した。一方、江戸表の藩主に早馬で注進。藩主の裁可を得た上で年貢減免の約束を反故にし、翌月関係者の捕縛に臨んだ。最終的には11月22日、多田加助とその一族、同志は、安曇郡(中萱村、楡村、大妻村、氷室村)の者は勢高刑場で、筑摩郡(三溝村、堀米村、浅間村、岡田村、梶海渡村、執田光村)の者は出川刑場で、磔8名(加助、善兵衛含む)、獄門20名の極刑に処された。処刑された者の中には加助の参謀格であった小穴善兵衛の16歳になる娘しゅんも含まれる(当時の習慣としては女子が処刑されるのは異例)。さらに、善兵衛の妻さとが正月明けに出産した男児にも死刑宣告が下された(ただし、翌月にその男児が病死したため処刑とはならなかった)。騒動の後、2斗5升までの年貢の減免は認められなかったが、元通りの3斗に引き下げられ、ノギ取り作業は免除されることになる。一説には、江戸詰であった鈴木伊織という一藩士が多田らへの仕置きに反対し、藩主から処刑中止の許しを得たという。鈴木は自ら騎馬で伝達に走ったが、松本に入った付近で乗馬が倒れ、鈴木自身も昏倒したために処刑に間に合わなかったという。馬が倒れた場所は「駒町」として地名に残っている。鈴木は領民保護に尽力した事で知られ、その徳を讃え名付けられた「伊織霊水」という井戸が松本市内に復元保存されている。加助神社1725年、時の藩主水野忠恒が江戸城内で刃傷沙汰に及び改易となり、知行権が戸田松平家に移ったのを契機に義民の顕彰が始まった。事件発生後50年を迎えた1736年、多田家では加助や処刑された一族を祀る祠を屋敷神として敷地内に建てた。また、貞享騒動五十年忌の供養塔も地元の人々によって楡(小穴善兵衛の地)の精進場に建てられた。騒動二百年祭(1880年)に際しては多田家の祠を旧郷倉跡に移し、社殿を造営。これが加助神社の始まりである。その際、多田家以外の義民も合祀された。なお、明治になって水野家から加助坐像と金一封が加助神社に寄贈された(この坐像は騒動後、「加助のたたり」を怖れた元藩主水野氏が作らせて邸内に置いてあったもの)。またこの際、水野忠直も合祀された。自由民権運動と貞享騒動明治近代国家成立後、加助ら犠牲者の権力への抵抗の姿勢が、「時の民権家」として自由民権運動の中に織り込まれていくことによって「義民化・物語化」が進むことになる。1878年に地元出身の松沢求策が民権家加助をテーマに新聞寄稿を始め、翌年「民権鑑加助の面影」として脚色、松本常盤座で初演、穂高ほか各地で上演され、広く好評を博した。こうして貞享騒動は、民権運動を推進していく手段として高く評価されつつ人々の間に深く浸透していった。加助ら義民をよみがえらせたものは、こうした自由民権運動のような歴史創造の営みだったのである。また、木下尚江らによる中信地方における普選運動にも影響を与えた。1916年には半井桃水の新聞小説「義民加助」が朝日新聞に連載され、全国的に知られることとなった。義民塚1950年10月16日、松本市城山の南斜面(勢高神社裏)における市立丸ノ内中学校建設現場にて人骨が発見された。約1か月後の11月17日までに合計18体の人骨が確認された。そのうちの1体だけ(最初に見つかった人骨)埋葬の仕方が他と違い、残りの17体とは別の原因で埋められたと考えられた。また、当時の歴史・医学関係の研究者により17体の人骨は貞享騒動刑死者たちのものであり、この勢高の地が松本藩の臨時の刑場跡とされた。1952年にはその慰霊のための義民塚もつくられた。(鳥羽とほる著の随筆「中央線」より)貞享義民社1950年代後半には石の鳥居の建立、拝殿や社務所の新築と加助神社の形も整ってきた。そして1960年、神社本庁より宗教法人「貞享義民社」と認められた。春秋2回の例大祭が奉賛講の人々により執り行われている。1986年の騒動300年祭を記念して大糸線最寄の駅中萱駅の駅舎を貞享義民社に模して改築した。
2024年02月28日
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24「小浜藩領承応元年一揆」(おばまはんりょうじょうおうがんねんいっき)とは、江戸時代に小浜藩領内で発生した一揆。承応元年(1652年)に指導者である松木荘左衛門が処刑されたことからその名がある。小浜藩では年貢として大豆を徴収する例があり、元は大豆Ⅰ俵あたり4斗であった。ところが、藩主である京極氏が4斗5升(一説では5斗)に引き上げ、新しく領主になった酒井氏もこれを維持したために農民の間で反対運動が起きた。寛永17年(1640年)に小浜藩内252か村の惣代が年貢引き下げの訴願を行い、以後も繰り返されたが認められず、8年後の慶安元年(1648年)になって、 藩側は松木荘左衛門ら惣代を逮捕した。惣代たちは藩の厳しい吟味によって次々と藩に屈服したが、松木のみは最後まで主張を取り下げず、承応元年(1652年)になって松木を磔にしたものの、年貢は旧に復した。このため、松木は義民として祀られることになった。評定所御詮議懸りによる郡上一揆の吟味ではまず幕府役人の吟味が先行したが、宝暦8年(1758年)7月の吟味開始直後から事件に関係した大勢の郡上藩役人、農民らが江戸に出頭を命じられ、江戸へと向かった。郡上から江戸に向かった農民は総勢309人に及んだとの記録も残っている。また江戸に潜伏していた駕籠訴人の切立村喜四郎、前谷村定次郎は、宝暦8年8月26日(1758年9月27日)に、切立村吉十郎、前谷村吉郎治とともに御詮議懸り依田正次の邸に駆け込み訴えを行い、そのまま入牢となった。評定所御詮議懸りによる吟味は、以前の駕籠訴吟味の時とはうって変わって農民たちに厳しいものとなった。郡上藩役人、農民、そして石徹白騒動の関係者に対する吟味は、幕府役人に対する判決言い渡しが終了した宝暦8年10月29日(1758年11月29日)以降、集中的に進められた。吟味ではまず農民が新たに開発していた切添田畑の有無について確認した上で検見取を正当化し、続いて一揆の組織や首謀者について厳しく追及した。拷問を含む厳しい取調べによっても農民たちはなかなか口を割らなかったが、宝暦₈年11月3日(1758年12月3日)には、駕籠訴、箱訴人を厳しく取り調べた結果、一揆勢の指導者が判明した。藩主金森頼錦以下、郡上藩役人らの吟味も進められた。金森頼錦への尋問は、郡上藩の年貢徴収法改正に対して幕府役人である美濃代官が介入した件についてどのような関与を行ったかと、気良村甚助の違法な処刑、そして石徹白騒動の処理についてであった。吟味の最中、宝暦8年9月26日(1758年10月27日)に金森頼錦は松平遠江守に預かり処分を受けた。そして郡上藩士の多くが江戸に呼び出されている状況が続いているとして、宝暦8年10月2日(1758年11月2日)には彦根藩に対して治安維持を目的とした郡上への出兵が命じられた。宝暦8年(1758年)11月以降、厳しい尋問によって病人、そして牢死者が続出することになる。宝暦8年12月末の判決言い渡しまでに、駕籠訴人の切立村喜四郎を始め名が明らかである農民だけで16名が牢死した。また切立村喜四郎の遺体は取り捨て扱いとされた。厳しい取調べは農民ばかりではなく郡上藩役人らにも及び、郡上藩の検見取採用時に活躍した黒崎佐一右衛門も牢死した。また幕府高官から農民に至るまでの大勢の人々を連日のように取調べることは、評定所御詮議懸りにとっても負担が大きかったようで、御詮議懸りの勘定奉行菅沼定秀は宝暦8年12月11日(1759年1月9日)、評定所で体調不良を訴えて退席し、宝暦8年12月24日(1759年1月22日)に死去する。そして厳しい尋問が続く中、吟味が大詰めとなった宝暦8年(1758年)12月には、駕籠訴人、箱訴人、そして一揆の指導者から「公儀を恐れず」という発言が飛び出し、評定所御詮議懸りは更なる厳しい取調べを命じることになった。一揆勢に対する判決宝暦8年12月12日(1759年1月10日)には郡上一揆と石徹白騒動についての判決がほぼ固まり、宝暦8年12月15日(1759年1月13日)には申渡書が作成された。判決言い渡しは5名の老中、側用取次の田沼意次、御詮議懸り5名らが列席する中、宝暦8年12月25日(1759年1月23日)夕刻から翌日早朝までかけて行なわれた。判決の中で一揆勢の、騒動の原因は郡上藩の年貢徴収法改定の違法な押し付けで、百姓が安定して生活が営めることこそが国が上手く治まる条件であり、幕府の御慈悲によって郡上藩などの不正を取り締まることによってその実現を願っているとの主張を退け、逆に検見法の採用によって切添田畑の存在が明るみに出ることによる課税強化を恐れ、領主の申しつけに逆らって強訴を行い、更に駕籠訴を起こした上に、強訴と駕籠訴吟味の際には切添田畑の存在を隠したと、一揆勢を厳しく断罪した。その他、駕籠訴人が郡上への帰国の際に帯刀したこと、公儀を恐れない行為の首謀者となったこと、村の秩序を破り庄屋らを脅し証文を取ったこと、騒動の活動資金を集める帳元となったこと、歩岐島騒動において藩役人らの命令に従わず暴動を起こしたこと、村預け処分でありながら脱走したこと、駕籠訴の判決を待たずして事実に反する内容で箱訴を行なったことなど、判決ではこれまでの一揆勢の行動全般にわたって断罪された。判決では一揆勢の頭取と判断された切立村喜四郎、前谷村定次郎、歩岐島村四郎左衛門、寒水村由蔵の4名が獄門とされ、駕籠訴人の東気良村善右衛門、東気良村長助、那比村藤吉、箱訴人の歩岐島村治衛門、二日町村伝兵衛、市島村孫兵衛、東俣村太郎衛門、向鷲見村弥十郎、剣村藤次郎、そして鷲見村吉右衛門の10名がやはり一揆の頭取同様に当たるとして死罪を言い渡された。その他遠島1名、重追放6名、所払い33名など、一揆勢は大量処分を受けた。判決後、獄門、死罪を言い渡された者たちは腰に獄門、打首と書かれた札を付けられ、次々と刑場に引かれ処刑が行なわれた。
2024年02月28日
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23、「山代慶長一揆」(やましろけいちょういっき)とは、江戸時代慶長年間に、周防国山代(現山口県岩国市本郷町および錦町)で発生したとされる、一揆である。山代地方の歴史山代地方は、周防国の東端、安芸国との国境に位置する。戦国時代には大内氏の支配下にあったが、実際には刀祢と呼ばれる有力地侍達による自治が行われていた。その後、毛利氏の大内氏領への勢力拡大に伴い、弘治2年(1556年)頃には毛利領となる。この際に成君寺城の戦いが発生し、山代の地侍達は大内方と毛利方に別れて戦っている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に加担した毛利氏は、中国地方8カ国120万石から防長2カ国29万石へと減封となるが、山代地方は毛利氏の支配が続くこととなった。一揆のきっかけ毛利氏は太閤検地の一環として天正15-18年(Ⅰ587-1590年)に領国内の検地を実施しているが、このときの山代地方の石高は5,300石と言われている。その後、慶長5年にも検地を行い、石高11,901石とされた。毛利氏は、関ヶ原敗戦後の減封に対処するため、慶長12年から15年(Ⅰ607-1610年)に再度検地を実施しており、防長2カ国で、実高539,268石となったが、幕府には369,411石と上申し、これが表高とされた。山代の検地は慶長12年に行われ、実高は28,325石とされ、慶長5年検地時の2.5倍となった。僅か10年で生産力が倍増する訳も無く、これは田一反あたりの石盛を高く設定したことに加え、小成物と呼ばれる各種作物も対象とすることにより、人為的に石高を高く見積もったものであった。毛利氏の年貢率はもともと73%と高く、農民の負担は途方もないものとなった。この過酷な課税が山代一揆の原因となる。一揆の決行一揆の実態は不明であるが、慶長13年(1608)10月、11人の庄屋を中心に多数の農民が参加したとされる。一揆を代官所の人数だけで鎮圧することは難しく、代官所は減税の方向で一揆の鎮撫に努め、一揆を解散させた。結果73%の年貢率は40%に減額されたと言われている。一揆首謀者の処分翌慶長14年3月28日(1609年5月2日)、代官所より一揆の指導的人物である北野孫兵衛に対し、首謀者である庄屋全員を翌日に出頭させる旨の書状が届く。一同は出頭後直ちに捕縛、引地峠の刑場に連行され斬首、物河土手に裊首された。北野孫兵衛のものとされる首塚は現在も成君寺近くに残る。なお、僧休伝が追善供養にあたり、寛文4年(1664)浄土門の寺一宇建立を許されたとされる。これが建立寺で、現在も十一庄屋合同位牌が安置されている。その後明治6年(1873年)より、新政府は増税を目的とした地租改正を実施するが、山口県ではそれに先立ち明治5年より調査を開始した。この際主導的立場にあったのが、小郡宰判大庄屋林勇蔵である。この調査は独自の方法によって実施されたために、政府は再調査を実施した。勇蔵は大蔵省の再調査にも毅然とした態度で臨んだが、これは勇蔵が慶長一揆のことを山代の大庄屋であった三分一健作から聞き知っていたためと言われている。結果、勇蔵の調査の厳密さが証明され、明治7年(1874年)2月、全国に先駆けて山口県の地租改正は認可された。明治15年(1882年)6月、勇蔵は健作へ郵書を送り、慶長一揆のことをさらに詳しく調べるように依頼している。この返書を受けて、同年12月14日、吉敷郡鯖山禅昌寺において、11人のために大施餓鬼が実施された。明治32年(1899年)に至り、成君寺住職の発議で山代各村長に呼びかけて資金をつのり、十一庄屋頌徳の碑が建てられた。処刑400年目にあたる平成21年(2009年)11月14日、山代義民顕彰会により「義の心」と刻まれた石碑が、岩国市本郷総合支所向かいの市有地に設置された。
2024年02月27日
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「越前一向一揆」B一方、信長はこの年から領国全域で道路や橋を整備するなど、各地での戦いに備えていた。そして5月には武田勝頼との合戦に大勝(長篠の戦い)、余裕の生じた信長は越前の一向一揆の分裂を好機ととらえ、越前への侵攻を決める。信長は8月12日に岐阜を出発し、翌13日に羽柴秀吉の守る小谷城に宿泊。ここで小谷城から兵糧を出し、全軍に配った。14日、織田軍は敦賀城に入った。一揆勢の配置は以下だったという。· 板取城 下間頼俊と加賀・越前の一揆勢· 木目峠 石田西光寺と一揆勢· 鉢伏城 専修寺の住持、阿波賀三郎・与三兄弟、越前衆· 今城・火燧城 下間頼照· 大良越・杉津城 大塩の円強寺衆と加賀衆· 海岸に新しく作られた城 若林長門守・甚七郎父子と越前衆· 府中・竜門寺 三宅権丞このほか、西国の一揆勢も加わっていたという。8月15日、風雨の強い日であったが、織田軍は大良(福井県南条郡南越前町)を越え、越前に乱入した。対する一向一揆側は、円強寺勢と若林長門守親子が攻撃してきたが、羽柴秀吉・明智光秀が簡単に打ち破った。羽柴隊・明智隊は200~300人ほどを討ち取ると、彼らの居城である大良越・杉津城および海岸の新城に乗り込み、焼き払った。討ち取った首はその日のうちに敦賀の信長に届けられた。この日の夜、織田勢は府中竜門寺に夜襲をかけ、近辺に放火した。背後を攻撃された木目峠・鉢伏城・今城・火燧城の一揆勢は驚き、府中に退却していったが、府中では羽柴秀吉・明智光秀が待ち受けており、2000余りが討ち取られた。この時、鉢伏城に拠った杉浦玄任は討死、城将の阿波賀三郎・与三兄弟は降伏して許しを求めたが、信長は許さず塙直政に命じて殺害した。8月15日、織田軍は杉津城に攻撃を開始する。この城は大塩円強寺と堀江景忠が守っていたが、織田の大軍が来襲してきたことを知ると、景忠は森田三左衛門や堺図書助らとともに内応して織田勢に寝返った。これを受けて、板取城の下間頼俊、火裡城の下間頼照、そして今庄の七里頼周は逃亡。一向一揆指導部は完全に崩壊し、一揆衆は組織的な抵抗が不可能な状況に陥った。16日、信長は馬廻をはじめとした兵Ⅰ万を率いて敦賀を出発し、府中竜門寺に布陣すると、今城に福田三河守を入れて通行路を確保させた。下間頼俊、下間頼照、専修寺の住持らは越前の山中に逃亡・潜伏したが、一揆衆の不利を悟って織田方に寝返った安居景健に殺害された。景健は下間らの首級を持参して信長に赦免を請うたが許されず、自害を命じられた。この時、景健の家臣の金子新丞父子・山内源右衛門ら3人が切腹して殉死した(信長公記)。18日、柴田勝家・丹羽長秀・津田信澄の3人が鳥羽城を攻撃し、敵勢500~600を討ち取って陥落させた。金森長近、原長頼は美濃口から根尾~徳山経由で大野郡へ入り、数箇所の小さな城を落として一揆衆多数を斬り捨て、諸口へ放火した。一揆は完全に崩壊し、一揆衆は混乱の中取るものも取りあえず右往左往しながら山中へ逃げていった。しかし信長は殲滅の手をゆるめず、「山林を探し、居所が分かり次第、男女を問わず斬り捨てよ」と命じた。一連の合戦において、一揆衆は1万2250人以上が討ち取られた。さらに奴隷として尾張や美濃に送られた数は3万から4万余に上るとされる。9月2日には一向一揆の味方をしたことを問われた豊原寺が全山の焼き討ちを受けた。こうして、越前から一向衆は完全に駆逐された。また、1932年(昭和7年)に小丸城跡(武生市、現在の越前市の一部)から発見された瓦に、5月24日(1576年(天正4年)のと比定される)に前田利家が一揆衆千人ばかりを磔、釜茹でにしたことを後世に記録して置く、という内容の書き置きがある。
2024年02月27日
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22、「越前一向一揆」(えちぜんいっこういっき)は、天正年間に越前国に起きた一向一揆のこと。天正2年(1574年)に越前国で発生した富田長繁対石山本願寺と結託して一向一揆となった土一揆との戦いと、天正3年(1575年)8月から9月にかけて行なわれた織田信長対一向一揆の戦いとに区別して解説する。天正元年(1573年)8月、織田信長の越前侵攻により朝倉義景は攻め滅ぼされ、朝倉氏の旧臣の多くが信長に降伏して臣従することにより、旧領を安堵された。 信長は朝倉攻めで道案内役を務めた桂田長俊(前波吉継)を越前「守護代」に任命し、事実上、越前の行政・軍事を担当させた。しかし朝倉氏の中で特に重臣でもなかった長俊が守護代に任命されたことを他の朝倉氏旧臣は快く思わなかった。特に富田長繁などは長俊と朝倉家臣時代からの犬猿の仲であったため、長俊を敵視するようになった。さらに桂田はこれら元同格の者たちに対して無礼で尊大な態度を取ったため、天正2年(1574年)1月、ついに富田長繁は長俊を滅ぼそうと考え越前中の村々の有力者と談合し、反桂田の土一揆を発生させた。対して、七里頼周と杉浦玄任も長繁を討つべく北ノ庄方面より集められた一揆勢5万人を差し向け、両者は浅水の辺りで激突した。このとき、長繁勢は一揆衆より兵力では圧倒的に劣勢であったが奮戦して一揆勢の先鋒を崩壊させ、潰走する一揆勢を散々に打ち破った(『越州軍記』)。次いで17日夕刻、長繁は浅水の合戦に参戦せず傍観していた安居景健、朝倉景胤らを敵対者と見なし、彼らの拠る長泉寺山の砦に攻撃を仕掛けた。しかし、一揆衆との合戦の影響で疲弊した長繁勢はさしたる戦果を挙げられなかった。長繁は翌18日に再度総攻撃を下知したものの、無謀な合戦を強いる長繁に対して配下の不満と不信が高まり、18日早朝からの合戦の最中、長繁は配下の小林吉隆に裏切られ、背後から鉄砲で撃たれて討死、長繁勢は瓦解した。その首は19日、一揆軍の司令官の一人である杉浦玄任の陣に届き、竜沢寺で首実検が行われた。またこの日、一揆勢は白山信仰の拠点であった豊原寺を降伏させて味方につけている。4月に入ると、一揆衆の攻撃は勢いを増し溝江城(別名金津城、溝江館)を落城させ、溝江景逸と溝江長逸ら溝江氏一族は舎弟の妙隆寺弁栄、明円坊印海、宗性坊、東前寺英勝および小泉藤左衛門、藤崎内蔵助、市川佐助らとともに自害して果てた(長逸の一子、溝江長澄だけは溝江城から脱出した)。4月14日、一揆勢は土橋信鏡(朝倉景鏡)の居城である亥山城を攻撃、信鏡は城を捨てて平泉寺に立て籠もったが、平泉寺は放火されて衆徒も壊滅。信鏡は逃亡を図ったものの、最期はわずかな家臣とともに敵中に突撃、討死した(『朝倉始末記』)。5月には織田城の織田景綱(朝倉景綱)を攻撃する。景綱も奮戦したが寡兵であったことから夜陰に乗じて家臣を見捨て、妻子だけを連れて敦賀に逃走した。こうして、朝倉旧臣団は一向一揆に通じた安居景健、朝倉景胤など一部の将を除いてことごとく滅ぼされ、越前も加賀に続いて「百姓の持ちたる国」となった。結果・影響この結果、信長は越前を失陥することになった、しかし、当時織田氏は武田氏、長島一向一揆、大坂の石山本願寺など他の敵対勢力との抗争に忙殺されており、すぐに失地回復のための討伐軍を派兵することは不可能であった。ところが、七里頼周や新しい越前の領主として石山本願寺から派遣された下間頼照ら坊官の政治は、越前の豪族や寺社勢力、領民の期待に沿うような善政ではなかった。下間らは自らの私利私欲を満たすため、織田氏との臨戦体制下であるという大義名分のもと、桂田長俊以上の重税や賦役を彼らに課した。このため、下間らの統治に不満を抱く層による一揆内一揆が発生、一揆勢は内部から崩壊し始めた。前述のとおり、顕如が越前「守護」として派遣した下間頼照や大野郡司の杉浦玄任、足羽郡司の下間頼俊、府中郡司の七里頼周ら大坊主らは、討伐した朝倉氏旧臣の領地を独占し、さらに織田軍との臨戦態勢下にあると称して、重税や過酷な賦役を越前在地の国人衆や民衆に課すなど悪政を敷いた。このため、越前における天台宗や真言宗らが反発し、真宗高田派(専修寺派)をはじめ国人衆や民衆、遂には越前の一向門徒までもが反発。天正3年(1575年)頃から、一揆衆は内部から崩壊しつつあった。
2024年02月27日
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「籾摺騒動」「中沢 浅之丞」「忍足 佐内」19、「籾摺騒動」(もみすりそうどう)とは、江戸時代に宇都宮藩で起きた百姓一揆である。寛延4年(1751年)に宇都宮城主の松平忠祇が財政難のため「上納米は籾1升6合摺の割合で納入すべし」と百姓に命令した。それに対し百姓たちは「代々の領主は年貢は5合摺だった」との嘆願書を出した。さらに、城に出入りする商人数名にも「役人に頼んでほしい」と繰り返し訴えるが効果がなかった。宝暦3年(1753年)9月13日に領内の百姓約45,000人が八幡山に集結。打ちこわしを開始した。城の役人が非常召集され、大目付の松野源太夫が百姓たちに事情を聞き、場を収めた。しかし翌14日も暴動が起きる。15日に平定された。16日に隠し目付により指導者4人が捕らえられ拷問を受けた。白状したことにより多数の首謀者が捕らえられた。だが、御田長島村(現・宇都宮市御田長島町)の庄屋である鈴木源之丞だけが捕まえられなかった。9月下旬に小頭たちが源之丞を発見したが、抵抗され撤退する。源之丞は危険を感じたため妻のキミを離縁しようとしたが、「運命をともにする」と言われた。翌日の明け方に寝込みを襲われたが抵抗はしなかった。この後に百姓の願いは認められた。しかし10月19日に鈴木源之丞と水沼亀右衛門(上平出村庄屋後見)と増淵六平(小左衛門〈今泉〉新田庄屋)が市中引き回し・打ち首にされ、篠崎太郎左衛門(羽牛田村)が水牢、山崎嘉七(御田村)が追放の刑に処せられた。源之丞は法名を「義徳院宇領済源居士」と付けられ「喜国源之丞大明神」にまつられた。亀右衛門は平出雷電神社にまつられた。宇都宮市御田長島町に六角の大谷石が建っているが、何も記されていない。罪人の墓は建てることができなかったため、村人が藪の中に隠して建立した供養塔である。宝暦7年(1757年)・明和元年(1764年)・明和3年(1766年)に宇都宮で大洪水が起き、人々に「源之丞洪水」と呼ばれた。 20「中沢 浅之丞」(なかざわ あさのじょう、享保10年(1725年)? - 宝暦13年3月2日(1763年4月14日))は、江戸時代中期上田藩で起こった農民一揆(宝暦騒動)の指導者、義民。上田藩領夫神村(長野県小県郡青木村)組頭。経歴・人物信濃国小県郡夫神村生まれの人物、同村の組頭。宝暦11年(1761年)に上田藩領で起きた年貢減免などを要求した上田藩宝暦騒動の頭取のひとり。越訴の罪で同村の清水半平と共に中島河原で死罪となった。法名は竿外道刹信士。同騒動についての書である『上田騒動実記』には2人の処刑の際のやりとりや辞世の句が、『上田縞崩格子』には抵抗権思想の萌芽とみられる文言がそれぞれ記載されている。大正13年(1924年)宝暦義民之碑が、昭和57年(1982年)には宝暦騒動の句碑が建立された。また、2人の墓は小県郡青木村の旧夫神村域で昭和16年(1941年)に発見された。 21、「忍足 佐内」(おしたり さない、享保13年(1728年) - 明和8年11月29日(1772年1月3日))は、江戸時代中期の義民。安房国平郡金尾谷村(現在の千葉県南房総市富浦町福澤)の名主。通称は善兵衛。忍足左内と記されることもある。重税に悩む農民を救うため、安房勝山藩の江戸藩邸に直訴し、処刑される(忍足佐内事件、勝山藩西領騒動)。しかし、所領を支配する奉行の不正が認められ、後に名誉が回復される。現在も義民として慕われている。忍足佐内事件安房国勝山藩領では、明和7年(1770年)に旱魃に見舞われ、特に平郡金尾谷村・白坂村・深名村・小原村の4か村の被害は甚大であった。4カ村の代表は、勝山(現在の安房郡鋸南町勝山)の陣屋に年貢の減免を嘆願した。嘆願を受けたのは、国許の仕置を任されていた陣屋奉行の稲葉重左衛門、および代官の藤田嘉内であった。稲葉は、深名村のみ減免を認めたが、これは私的理由によるものとされる[4]。願いを拒否された3村の代表(金尾谷村の代表が忍足佐内であった)は江戸の勝山藩邸に赴いて門訴し、藩主酒井忠鄰に、村人が困っていることや、奉行の悪政を訴えようとした。門訴の目標は達成できず、彼らは処分保留のまま帰村を余儀なくされた。稲葉は彼らを恨み、帰村した佐内を捕らえて、勝山の大黒山中腹の岩牢に幽閉。明和8年(1771年)に稲葉は藩主の指示を無視して独断で、佐内を白塚川原(現在の福沢川白塚橋付近)で処刑してしまった。享年44。これらの事件を忍足佐内事件、あるいは勝山藩西領騒動ともいう。名誉回復と顕彰これに対して、忍足佐内の遺族らは奉行や代官の悪政を訴え、佐内の汚名返上を願い出た。この願いは藩により聞き入れられ、奉行や代官の悪事を認め、佐内の名誉が回復された。「忍足佐内殉難の地」(富浦町福澤字大白塚)は、1974年(昭和49年)4月25日に富浦町指定史跡(市町村合併に伴い南房総市指定史跡)となっている。
2024年02月27日
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18、「斎藤 彦内」(さいとう ひこない、1709年 – 1750年5月22日(寛延3年4月17日 (旧暦)))は、江戸時代の陸奥国伊達郡(現・福島県)の農民。「天狗廻状騒動」の名で知られる一揆の指導者の一人で、義民として祀られている[3]。伊達郡長倉村に斎藤実盛の家柄に生まれる[4]。寛延2年(1749年)、信達地方は冷害により「田方立毛青立」(田畑の作物が実らない)と記録されたほど農作物は深刻な被害を受けた[3]。信達地方は寛延2年より前から不作が続いており、福島藩およびその周辺では、徳川幕府の代官所により、年貢が引き下げられた。しかし、隣接する桑折の代官は地元の農民からの度重なる年貢の減免の訴えを退け、逆に年貢を2分5厘引き上げた。追い詰められた農民たちは、「わらだ廻状」(のちに「天狗廻状」とも呼ばれた一揆の連判状)を信達地方の68の村に廻し、密議の上、総代として長岡村の彦内、鎌田村の猪狩源七、伊達崎村の蓬田半左衛門らを選出した。彦内らは数回に渡り年貢の減免を代官に願い出たが聞き入れられなかったため、16,800人余りの農民による一揆を起こした。一揆ののち、年貢は引き下げられたが、多くの組頭や百姓代が捕縛され厳しい取り調べを受けた。見かねた彦内は首謀者として出頭し、一揆翌年の4月17日、現在の伊達市と桑折町に隣接する河床で半佐衛門・源七と共に処刑された。彦内は42歳(数え年)だった。顕彰彦内ら3人にまつわる逸話は壱千九百八年、半井桃水によって東京朝日新聞で小説「天狗廻状」として連載され、広く知られることになった。この作品はのちに映画化もされ、大きな反響を呼んだ。1918年に、刑死した3人を称える石碑が伊達町(現在の伊達市)に建立された。60年後の1979年には、伊達町・福島市・桑折町の協力により、処刑の現場を記念する記念碑も建立された。彦内の墓は、斎藤家の菩提寺の、福島県伊達市の福源寺にある。彦内は義民として尊崇を受け、毎年4月17日に「寛延三義民供養祭」が行われている。2016年と2017年の供養祭では、福源寺境内での讃歌の奉納、墓前での読経や焼香などが行われたことが記録されている。
2024年02月27日
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17、「新本義民騒動」(しんぽんぎみんそうどう)は、江戸時代において備中国下道郡(現在の総社市)で起こった農民一揆、民衆騒動である。この事件で犠牲となった4人の村民を(新本)義民四人衆(ぎみんよにんしゅう)と呼ぶ。岡田藩5代目藩主伊東長救の時に起こった。江戸時代の慶長20年7月(1615年)、岡田藩初代藩主・伊東長実が藩領の備中国10か村にある村民の共有林である入会山[1]を順次取り上げ藩有林としていった。岡田藩領であった同国下道郡新庄村・本庄村(現・総社市新本地区)においては1661年(万治4年/寛文元年)頃より入会山の藩有化が行われた。藩側は山を造林し、「留山」として村民の入山を禁じた。さらに約50年後の1716年(正徳6年/享保元年)頃には、残されていた共有山であった新庄村の大平山・本庄村の春山の大部分を取り上げた。また、造林を伐採し、割り木・用材とし、それを藩庁のある同郡岡田村(現・倉敷市真備町岡田)まで運搬することを村民に命じた。それに伴い村民に支払われる運賃は、1駄(約42貫)4分5厘という低い額であった。低賃金の上、重労働・農作業その他生活の時間が奪われることになり、生活に支障を来す事態となったため、新庄・本庄両村民(203人とされる)は会合を開き、留山とされた山の返還と割り木・用材運搬の中止を嘆願することを決意。それらを主な内容とした三箇条の嘆願書を作成し、享保2年(1717年)に藩側へ提出した。しかし藩と村民の意見は対立した。この事態に同郡川辺村の蔵鏡寺住職など識者が仲裁を行い、数度にわたる藩側と村民側との話し合いが行われた。結果、一部の山を開放し、下草を取ることが許可された。同年3月15日、村民側は会合を開き、開放に制限があることに不満があるも譲歩し、これを受け入れた。しかしながら、村民は全留山の開放を求めることを誓い、神文誓書を作り、鎌で切った指の血で署名し、これを本庄村にある稲荷山の大岩の下に埋めたといわれる。 4月14日、住職等の協力の下、藩と村民の間に正式に調停が成立。役人が来村し、山の引き渡しを行った。翌享保3年(1718年)、藩側が開放許可された山において、許可していない木々の伐採行為が行われていることを疑い、取り締まりを強化。同年12月30日に盗伐が発覚。藩は盗伐調査を行い、盗伐者の出頭を命じた。しかし、村民からは誰一人として出頭する者はなく、藩と両村民は激しく対立することとなり、庄屋が投獄される事態になった。村民は江戸の屋敷にいる藩主・伊東長救に直訴を決め、松森六蔵(まつもり ろくぞう)・荒木甚右衛門(あらき じんえもん)・森脇喜惣治(もりわき きそうじ)・川村仁右衛門(かわむら にえもん)の4人を村民代表として選出、要求書を持たせ、同年2月13日に江戸の藩主の元へと派遣した。数日後、4人は無事江戸へと到着し、藩主への要求書提出を成功させた。嘆願要求は、ほぼ内容通り実現されることとなったが、それと引き替えに4人の村民代表は反上の罪により処刑、その家族は国外追放、さらに財産没収および家屋取り壊しとなることとなった。享保3年6月7日(1718年7月4日)、新本川の飯田屋河原とよばれる川原で、村民の目前で4人は打ち首によって処刑が実行された。享年はそれぞれ六蔵77、甚右衛門44、喜惣治36、仁右衛門44だったとされる。なお、処刑こそ逃れたが、罪に問われた者は多く、60名弱に及ぶ。村民は4人を義民と呼び、厚く弔い、それぞれの出身地、仁右衛門は本庄村稲井田集落、他の3人は新庄村小砂集落内(西明寺)に墓を建てた。現在も墓が残っている。年譜慶長20年(1615年)7月 - 岡田藩が領内の共有林・入会山を藩有(留山)化し始める。万治4年/寛文元年(1661年)頃 - 新庄・本庄両村内の入会山の留山化が始まる。正徳6年/享保元年(1715年)頃 - 新庄・本庄両村の大部分の入会山が留山となる。また、留山を伐採して用木とし、岡田村まで運搬する賦役が始まる。享保2年(1717年)1月 - 会合を開き、三箇条の嘆願書を作成、藩へ提出。後日、村民と藩の間で会合が開かれる。3月15日 - 神文誓書を稲荷山の巨岩下へ埋める。4月14日 - 村民と藩の間で、制限付きで留山が一部開放する調停が成立する。4月24日 - 引き渡された山と留山の境界に杭が打たれる。4月25日 - 村民一同で祝いをする。9月15日 - 藩が留山の取り締まりを強化。12月30日 - 村民が藩の指示を守らず、相当数の立ち木を伐採。享保3年1月15日(1718年2月14日) - 藩の役人が村の状態を調べる。2月8日 - 盗伐の疑いがある村民51人に出頭が命じられる。2月9日 - 村民は誰一人として出頭せず。2月10日 - 庄屋が投獄される。2月12日 - 村民は会合を開き、江戸の藩主への直訴を決める。2月13日 - 逃散を装って、代表者4人が江戸へ向かう。2月14-17日 - 村民一同が、庄屋の帳面につく。2月29日 - 代表4人が江戸へ到着。3月4日 - 藩主へ直訴を成功させる。3月19日 - 村民15人が投獄される。5月29日 - 代表4人が有井村の牢に投獄される。6月7日 - 村内の川原にて、代表4人の処刑が実行される。6月16日 - 代表4人の親族が国外へ追放される。義民社義民社(ぎみんしゃ)は、新本義民騒動で犠牲になった義民四人衆に深い感謝と哀悼の意を示し、その霊を手厚く弔うために、騒動後に新庄・本庄両村民が建立した祠・神社である。現在の総社市立新本小学校の裏手(北側)にある山麓に鎮座している。毎年、義民祭の前夜と当日朝に社前祭(しゃぜんさい)と呼ばれる儀式が行われる。義民碑義民碑(ぎみんひ)は、総社市新本地区薙田にある石碑・記念碑である。岡山県道80号上高末総社線沿い、新本川北岸沿いにある。
2024年02月27日
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「杉木 茂左衛門」「鈴木 三太夫」「多田 加助」14、「杉木 茂左衛門」(すぎき もざえもん、寛永11年(1634年)? - 貞享3年(1686年))は、江戸時代の義民。上野国(群馬県)の農民。代表越訴型一揆の代表的存在である。磔 茂左衛門(はりつけ もざえもん)とも呼ばれる。1662年、沼田藩主真田信利の悪政が始まる。1680年、大飢饉の発生により、経済状況がより悪化。1681年、沼田領77村の農民のために直訴を決意。大老酒井忠清を訪ねるが門前払いにあう。茂左衛門は知恵をめぐらし、輪王寺の紋箱に入れた訴状をわざと茶屋に置き忘れ、茶屋の主人に届けさせた。主人は将軍徳川綱吉に訴状を届け、沼田藩主真田信利は改易となった。1686年、茂左衛門は直訴の罪で妻子もろとも磔刑に処された。実は赦免の使者が出ていたのだが、使者が到着する前に刑が執行されてしまったと言われている。村人は千日堂を建立し、茂左衛門を祀った。明治期に駒形壮吉・野口復堂らにより杉木の存在がクローズアップされ、1926年には藤森成吉によって戯曲「磔茂左衛門」があらわされて人気が沸騰した。千日堂は杉木の死後、相当の期間が経過して忘れられていたが、1922年に再建され、1971年には再建された。15、「鈴木 三太夫」(すずき さんだゆう、生年不詳 - 貞享元年4月27日(1684年6月10日))は、江戸時代前期の相模国海老名郷大谷村(現・神奈川県海老名市大谷)の名主(庄屋)、義民。本名は三左衛門(さんざえもん)と言い、「三太夫」は死後に贈られた名とされる。人物大谷村は幕府領であったが、延宝2年(1674年)に旗本の町野幸宣が領主となった。町野幸宣のもとで農民の年貢負担は重くなった。天和3年(1683年)に子の町野幸重が家督を継ぐが、年貢徴収はさらに厳しさを増し、凶作に伴って死者も出た。名主であった三左衛門は、江戸幕府に直訴を企てたが、事前に密告されて捕えられ、貞享元年(1684年)4月27日に今里の代官所(現・神奈川県立中央農業高等学校の位置)で斬首に処せられた。三左衛門には子が二人いたが同罪として処刑され、事前に離縁していた妻も自害している。父子の亡骸は妙常寺の住職に引き取られて同寺内に葬られた。元禄14年(1701年)、町野幸重は改易処分を受けた(地元では「三左衛門の死後間もなく」「悪政が露見したため」改易されたと伝えている)。村人のために犠牲になった三左衛門は、地元で「三太夫」として語り継がれた。郷土史家中山毎吉は、「三太夫」は徳の優れた人物に贈った名(諡)であると推測した。1938年(昭和13年)には三左衛門の屋敷跡に「鈴木三太夫翁之碑」が立てられた。1952年(昭和27年)には「鈴木三太夫霊堂」が建設され、1973年(昭和48年)には大谷自治会によって「鈴木三太夫霊堂」内に「義民の碑」と題する顕彰碑が立てられている。1977年(昭和52年)に海老名史跡探勝会が制作した海老名郷土かるたにもその事績がうたわれている。また、命日の4月27日には地元の人々による供養が行われる。6、「多田 加助」(ただ かすけ、寛永16年(1639年)2月 - 貞享3年11月22日(1687年1月5日))とは、1686年(貞享3年)に信濃国松本藩で発生した百姓一揆である貞享騒動(加助騒動)を主導した百姓。別名、多田嘉助。一説には陽明学を身につけていたと言われる。貞享騒動家は代々、安曇郡長尾組中萱村の庄屋(名主)であったが、参謀格の同郡楡村の庄屋・小穴善兵衛と同様強訴を起こした時点では庄屋の身分は取り上げられていた。安曇野で数年続いた不作により疲弊した百姓に対してこの年下されたのは年貢の増徴命令であった。そこで同郡中萱村の熊野権現の拝殿にて密議のすえ年貢減免を訴えることになった。10月14日(旧暦)5カ条の訴状を松本城下に赴き郡奉行に提出した。それを知った何千もの百姓が城の周りに結集し、中には狼藉を働いた者もいた。訴えは4日後にいったん聞き入れられたものの1か月後に覆され、11月22日 (旧暦)には首謀者の加助ら8名が磔、20人が連座で獄門に処せられた。その間藩主水野忠直は江戸詰のため不在であったが、早馬で事の次第を把握しており、約束の反故と捕縛・処刑の裁可を下している。加助は磔にされるとき、役人から口を極めて嘲弄侮辱されたのに対して、「きっと怨みを晴らしてみせる」といい、刑場の矢来の外に集まって涙にむせぶ千余人の領民に向かって、「今後年貢は5分摺2斗5升だ」と絶叫しつつ刑死したといい、加助が松本城天守閣を睨んだ瞬間に大きく傾いたという伝説がある。助ら、勢高刑場で処刑された者の遺体は川手往還(城下から川手組に通ずる)の新橋付近で、善光寺街道沿いの出川刑場で処刑された者は刑場脇付近で、それぞれ梟首された。義民の顕彰1725年、水野家6代目である水野忠恒は江戸城内で刀傷事件を起こし、水野家は改易された。翌年戸田家が松本藩に入封したのが義民顕彰のきっかけとなった。小穴善兵衛の故地であった楡の共同墓地精進場に長尾組・上野組の人々による「貞享義民五十年忌経典二千部供養塔」が建てられた。明治になり自由民権運動が吹き荒れる中、地元穂高出身の松沢求策が民権家としての加助を新聞紙上で取り上げて連載した。翌年(明治12年、1879年)にはそれを「民権鑑加助の面影」として舞台化させ、松本常盤座で初演。各地で上演された。1916年には半井桃水の新聞小説「義民加助」が朝日新聞に連載され、全国的に知られることとなった。墓は貞享義民社(長野県安曇野市三郷明盛)隣にある。 貞享義民社とは、多田家敷地内で加助らを祀った小さな祠が騒動200年祭を期して旧郷倉跡に移されて加助神社に改められたものがその始まりである。騒動の後「加助のたたり」を怖れた水野家が屋敷内に祀るために作らせた加助坐像が、後年水野家から加助神社に寄贈され、本尊となっている。
2024年02月27日
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13、「小松 三郎左衛門」(こまつ さぶろうざえもん、正保2年(1645年) - 延宝6年10月25日(1678年12月8日)は、江戸時代の義民。金沢山の入会権をめぐる争いで、金沢村 (長野県)の代表として紛争の解決に当たり、村のため裁許状をくつがえそうと、江戸へ直訴しようとして藩主の怒りにふれ、処刑された。信濃国金沢宿本陣の問屋。経歴・人物この節の出典甲州街道四十四次の四十三番目の宿場、信濃国金沢宿(現在の長野県茅野市金沢区)に生まれる。本陣問屋場の主は代々世襲制で、諏訪高島藩金沢宿、本陣問屋、四代目小松三郎左衛門を襲名する。この宿場は街道の分岐点にあり、高遠や飯田に通じるので伝馬地かつ人馬継立を問屋として責務を負っていた。一方金沢村の村民達は農耕に従事し、薪炭肥料の資を鳴沢山と金沢山から得て暮らしを立てていた。明暦2年(1656年)に金沢村と隣の千野村との間に山論(金沢山の山林の所有権を巡る争い)が起きた。その時、二代藩主諏訪忠恒の裁定により、高道下境塚を起点とし、松倉峠(金沢峠)に至る一線を画し、境界が確定していた。しかし、忠恒没後、三代藩主諏訪忠晴の時代になった当時、大水害、飢饉が続き、藩内では死者が1200人も出るなど諏訪藩の財政難で藩は財源確保を模索していた。 延宝5年(1677年)千野村は、鳴沢山はもちろん金沢山をも入会地と称し訴訟した。それを受け、延宝6年、藩は「先の確定は田地堺を定めたもので、山境にあらず」とし、金沢山全部を含め、両村入会地との裁許状を下した。先の確定が蹂躙されたことを憤慨し、一村の荒廃に関わる一大事に、裁許状をくつがえそうと、三郎左衛門は金沢村の代表として紛争の解決に当たった。延宝6年(1678年)10月25日、三郎左衛門は宮川沿い矢ノ口河原であったところで磔にされ、村民が見守る中で命を絶たれた。享年34歳の若さだった。その罪状は、山論に没頭するあまり、本来の問屋業務を疎かにしたというものであった。しかし、実態は三郎左衛門が、山論の正当な解決を直訴しようとしたことへの処罰、江戸に出向いて直訴する行為が近隣の村々に悪影響を及ぼすことを恐れた藩主による見せしめであった。執行されたこの処罰は、諏訪地方における唯一の磔刑であったという。妻子は追放、闕所(財産没収)となる。結局、金沢山の土地も千野村の所有になることは無く、後に藩に収公された。その後、諏訪藩は、藩内の二十ヶ村に入会権を与え、二百年に亘る定着した財源になったという。三郎左衛門死後それから100年後の寛延2年(1749年)三郎左衛門の磔にされた桟敷場に子孫によって供養の地蔵尊が建てられたが、いつの頃か度重なる水害にあい流失したものと思われる。寛政12年(1800年)別の場所に地元の人々に祀られた如意輪観音を地蔵の見替わりに、毎年命日に供養が行われ今日に至る。人々には「みょうり様」と呼ばれ親しまれている。さらに、三郎左衛門の死後200年の明治13年(1880年)金沢村の村民達が宮城上等裁判所に提訴した。村民の誠意と真実に心を動かされた裁判所によって、金沢村の土地であるという勝訴判決が出された。昭和25年(1950年)青柳神社境内に頌徳碑、三郎左衛門の墓のある泉長寺裏の墓地に供養塔を、金沢村の人々によって奉納される。地蔵尊再建明治31年(1898年)の水害の復旧工事の時、台石だけが付近の河原より見つかり、台石を失った青面金剛像がその台石上に祀られた。金沢村史編纂会は昭和62年(1987年)山論に関係のあった高道調査の帰り、宮川の川底より行方不明となっていた三郎左衛門を祀る首を失った地蔵尊を発見した。地蔵尊の首を復元し、下町にある青面金剛像の載る台石に刻まれている施主氏名を復刻し再建した。平成3年(1991年)3月20日茅野市金沢区健之す。
2024年02月27日
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12、「松木 庄左衛門」(まつのき しょうざえもん、寛永2年1月25日(1625年3月3日)-承応元年5月16日(1652年6月21日))は、江戸時代前期の小浜藩の義民。実名は不詳。法号より長操(ちょうそう)とも称される。若狭国遠敷郡新道村(現在の福井県三方上中郡若狭町新道)の庄屋。経歴寛永17年(1640年)、16歳で庄屋の地位を継ぐ。小浜藩では関ヶ原の戦いで木下勝俊が改易されて京極高次が新藩主となったが、これまでの後瀬山城に替わって新たに小浜城を築城したために財政が苦しかった。このため、大豆納の年貢1俵の基準を1俵あたり4斗から4斗5升に改めて増徴を図った。築城で多くの農民が駆り出されたこともあって領民の生活は苦しくなり、藩側に大豆納を元に戻すように要求したが受け入れられなかった。寛永11年(1634年)に京極忠高(高次の子)に替わって小浜藩主となった酒井忠勝も引き続き税制を維持したために人々の不満は高まった。そこで寛永17年(1640年)に入って、若狭国内252ヶ村の名主が集まって郡代官所に陳情を行うことになり、この年に名主となったばかりの庄左衛門他20名を総代として陳情を行った。以後、数十回にもわたって直訴を繰り返したために、承応元年(1652年)に総代全員が捕らえられ、獄中で厳しい拷問を受けた。だが、Ⅰ人庄左衛門のみはこれを耐えて、獄中でもなお大豆納の引き下げを求めた。これに驚いた藩はやむなく大豆納を元の4斗に戻すことに応じたが、代わりに庄左衛門は同国日笠河原で磔に処せられ、28歳の命を終えた(小浜藩領承応元年一揆)。以後、領民は大豆の初穂を神前に供えて彼の威徳を謝した。墓所は日笠河原に近い正明寺にある。昭和になってから、彼を祀った松木神社が建立された。
2024年02月27日
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11、「長州藩天保一揆」1831年(天保2)長州藩領内のほぼ全域に起こった一揆。防長一揆ともいう。防長一揆ともいう。藩内農民の皮迷信(秋口に皮類を扱うと凶作になる)による皮騒動を発端とし、瀬戸内側や近接地域で一揆が拡大し第一期(7月下旬から8月上旬)と藩の一揆が鎮静工作の過程で、各地域での様々な矛盾に表面化し、一揆が同時多発化し第二期(8月下旬から11月上旬)と続く。第一期では藩の産物取り立て政策による。米価・諸物価格高騰で苦しく下層・貧困層の、産物会所、米穀商人、村役人への打毀しが先行し第二期も米穀不足の状況下で村役人の不正疑惑や村政運営への不満が爆発、各農民層を巻き込んだ広範囲で長期の抵抗が続いた。同藩では1830年と1837年の一揆があり、藩体制は動揺した。 ① 「長州天保大一揆」1831年(天保2)防長両国にわたり、藩府の専売制強化に反対して起こった大百姓一揆。参加者は15万~20万ともいわれる。一揆の原因は、藩府が安い値段で各地の特産物を買い上げる「御内用産物方」を設置したことによる。この制度は、藩の専売制の強化策であった。一揆の発端は、長門(ながと)国吉敷(よしき)郡小鯖(おさば)村(山口市)の皮番所で、産物方用達が禁忌を犯して犬皮を用いていることを見とがめられた事件に始まり、これを契機に、またたくまに藩内12地区に次々と広がった。一揆勢は各村の御内用方(庄屋(しょうや))宅を打毀(うちこわ)したが、その数は741軒に達した。藩府は同年末から主謀者の検挙を行い、死罪10名、遠島24名という処分をした。 ② 「長州一揆」1831年(天保2年)、小鯖[おさば]村(山口市)で中関の御用商人石見屋嘉右衛門[いわみやかえもん]が駕籠に犬の皮をしいていたのを農民が見つけたことから騒ぎとなり、一揆に発展しました。当時、稲の穂が出る頃に皮革類が田の回りを通ると風雨をくと言われており、農民達は皮革類を持ちこませないように見はる小屋を立てて、通行人の荷物を調べていました。石見屋は、皮革類を持ち歩くことで天候をくずし、米の値段が上がるのを利用してもうけようとした、と思われたのです。一揆勢は各地で村役人や商人の家を打ちこわし、どんどんその人数を増やしていきました。この一揆は最終的には、三田尻宰判だけでなく長州藩全体を巻き込む一揆となり、十数万人が一揆に参加したと言われています。この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させ、こちらの資金として充てる。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764)、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)の港整備を行う。港の改良により回船の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い、利益を得る。撫育方がほぼ全てにあたった。また、塩田開発も進め、明和年間には21万石に上がる収益を得たと言われている。この他にも製紙、製蝋、製糖などにも力を入れた(防長三白)。一方で、過度な年貢取り立てなどの政策は一揆に悩まされることにもなった。天明元年(1781)、徳川家治の嗣子に一橋家の男子の豊千代が決定し、徳川家斉と改名すると、“しげなり”の“なり”が将軍嗣子の本名と同じだったため、読みを“しげなり”から“しげたか”に改める。天明2年(1782)に家督を四男・治親に譲って隠居し、自身は三田尻の三田尻御茶屋に住んだ。7年後の寛政元年(1789)に死去した。享年64。 ※長州藩天保一揆は「皮迷信」によりことから端を発し、その皮迷信は(秋口に皮製品を扱うと凶作になる)という言い伝えで一揆が始まった。藩は各地の特産物に「御内用産物方」が皮番所で禁止を犯して犬皮用いたことを見とがめられた事件に始まり、当時稲の穂が出るころに皮革類が田の周りを通ると暴風雨になるという。農民たちは皮革類を持ち込ませないように、見張り小屋を建てるほどだった。石見屋は皮を持ち歩くことで天候を崩し、米価が上がることを画策、これを知った農民は商人、御内用方(庄屋)を打毀し、その数741件に達した。一揆の数十数万人に達したという。その後幕府は首謀者の逮捕行い、死罪10名、遠島24名の刑に処した。
2024年02月27日
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10、「武左衛門一揆」江戸時代後期に南予(伊予南部)の伊予吉田藩で発生した百姓一揆である。寛政2年(1790)、吉田藩は紙座を設けて御用商人の法華津屋に紙の専売権を与えたため、製紙産業に従事する領民の収入は激減した。このため、吉田藩領の日吉村の百姓武左衛門(嘉平)が桁打ち(浄瑠璃語り)に身をやつして3年間にわたり農家を戸別訪問して大一揆を纏(まと)め上げ、彼らは法華津屋を打ち壊して専売制を改めさせようとした。一揆衆は吉田藩の宗家である宇和島藩に訴えるために伊吹八幡神社前の河原に集結し、その総勢は7500名を数えた。一揆勢に対し、吉田藩は家老の安藤継明(儀太夫)が八幡河原に出向き、責任と解決のために一揆勢の前で切腹した。また宇和島藩は一揆勢の主張を全て認め、一揆の主導者は処罰しない事を約束した。しかしこの約束は吉田藩の裏切りにより破棄され、吉田藩の役人は百姓らに酒を与えて「首謀者を士分に取り立てたいから教えてほしい」と計略をめぐらせて武左衛門の名前と所在を聞き出し、捕縛して斬首した。武左衛門の出身日吉村(現在の北宇和郡鬼北町)では、武左衛門ら一揆の主導者を義農として崇敬顕彰している。安藤継明も安藤神社に祀られ、現在も同地の町民には「安藤様」として崇敬されている。 *武左衛門・没年:寛政6(1794)生年:生年不詳・江戸中期の義民。寛政5(1793)年伊予国(愛媛県)吉田藩に通称吉田騒動と呼ばれる百姓一揆が発生した。吉田藩は特権商人と結託し,特産物である紙の専売化を計画し,紙生産者である小百姓に税を賦課し始めた。百姓たちは,吉田藩の本家である宇和島藩への越訴を実行した。このとき,一揆勢およそ9600人を指揮し,宇和島藩との交渉に当たった頭取が武左衛門である。その結果百姓側の要求は全面的に受け入れられた。しかし,吉田藩は頭取の追及を開始し,武左衛門は捕縛され,斬首のうえ獄門とされた。後世,武左衛門に対する義民伝承が生まれた。また大正8(1919)年には,顕彰碑も建立されている。
2024年02月27日
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8、「丸亀藩・多度津藩領寛延3年一揆」讃岐国丸亀、多度津両藩にまたがり、1750年(寛延3)13箇条の要求をして数万の農民を動員した強訴、一揆。要求には未納年貢の諸雑税、代銀納による実質的増税、蔵役人による規定量以上の要求に反対、干鰯(ほしか)運上の停止などがる。多度津藩三井組は正月15日雨霧山へ、亀山藩多度・那珂郡の農民は正月19日吉原村へ、西讃勢は正月19日から本山川原に集合した。23日には両藩の役人と善通寺客殿で会合し、干鰯運上などの停止などを除き10箇は即刻聞き届けられた。7月28日には一揆の中心人物の処刑があり、中心の大西権兵衛ら4名は極刑、丸亀33名、多度津8名の追放も処された。 ◎丸亀藩は、讃岐国(香川県)の西部を領し、丸亀城(丸亀市)を本城とした藩。藩主は生駒氏、山崎氏、京極氏と続き廃藩置県を迎えた。なお生駒氏は、高松城を本城とし讃岐一国を領したため、生駒氏が領した西讃を丸亀藩と呼ぶには適さないとも考えられるが、現在ではその頃も丸亀藩の歴史の一部として語られることが多いため、ここにも含める。1587年(天正15年)讃岐国へ織田信長と豊臣秀吉の下で功のあった生駒親正が封じられる。1597年(慶長2年)亀山に丸亀城を築き始める。1602年(慶長7年)丸亀城が完成し、親正の嫡子である生駒一正が居城とする。1705年(宝永2年)初めての藩札を発行する。1781~1788(天明年間)うちわの製造が藩士の内職として盛んに奨励される。1794年(寛政6年)藩学校正明館を創立する。1838年(天保9年)金毘羅街道の一つである丸亀街道の起点の目印として、江戸に住む人々の浄財により、太助灯篭が作られる。1858年(安政5年)西讃府志が完成する。1871年(明治4年)廃藩置県により丸亀県となる。丸亀藩は金刀比羅宮への参道である丸亀街道、多度津街道の起点を持ち、参拝客を相手とした観光業は藩財政を大きく潤おしていた。幕末になり財政が逼迫すると、江戸詰の藩士たちに隣に屋敷を構えていた大村藩の藩士たちからうちわの作り方を学ばせ、国元に返し内職で作らせ、金毘羅参りの土産物として売るなどの策をとり、財政を立て直した。その後、うちわづくりは一般町民にも広まり始め、丸亀の名物となる。 ◎多度津藩は丸亀藩の支藩である。多度津周辺(香川県仲多度郡多度津町)で1万石を領し、多度津に陣屋を構えた(前半は丸亀城内に居館を置いた)。丸亀藩3代藩主の高或が3歳で藩主となったため、庶兄である高通を後見人として幕府に分封を願い出た。1694年(元禄7年)1万石の分封が認められここに多度津藩が成立した。後見人とはいえ高通自身も4歳での封襲であったため、陣屋は構えず、丸亀城内に居館を置いた。高通は1711年(正徳元年)になって実質的に多度津藩主として政務を執った。その後、3代高文まで丸亀城内に居住した。4代高賢は1827年(文政10年)、幕府に陣屋の建設を願い出て認められ、その年に陣屋を構えた。1871年(明治4年)廃藩置県により倉敷県となる。その後、名東県を経て香川県に編入された。 *大西権兵衛1703~1750 江戸時代中期の一揆(いっき)指導者。元禄(げんろく)16年生まれ。讃岐 (香川県)の人。寛延3年飢饉(ききん)で困窮する農民6万5000人を代表して,租税減免の嘆願書を丸亀藩に提出。農民の要求はききとどけられたが,同年7月28日他の首謀者6人とともに強訴の罪により処刑された。48歳。 ※丸亀・多度津地方は寛延年間(1748~1750)は数年来の風水害に襲われ、丸亀・多度津藩領内の那珂、多度、三野、豊田の百姓は生活は困窮を極めた。それに加え蔵役人や庄屋が横暴、不法、租税の増加などにより「如何なる隠順なる四郡の民も忍ぶに忍び難く」という状態に百姓たちは徳政を訴え申立書も庄屋たちは握りつぶした。城内まで自分たちの苦しさや思いが伝わらず、一揆しか方法がないと農民は「一揆しかあるめー」と決起へと走り出した。一揆を計画指導をした丸亀藩5人、多度津藩2人の7人の百姓だった。三野郡笠岡村の神社の宇賀神社の山門楼の上に集まり密議を行ったという。丸亀藩から大西権兵衛・弥一郎・嘉兵衛の三人、三野郡大野村からは兵治郎、那珂村から小山金右衛門、多度津藩から多度碑二殿村の甚右ヱ門と三井村の金右ヱ門の二人で全部で7人、大西権兵衛が指導者格だった。寛延3年(1750)多度郡の百姓の仲介で、三野村から豊田村の百姓あてに金倉川河原に集まるように廻し状が送られ、当日には4万人が集まったという。農民の一揆に参集した民衆に驚いた丸亀藩は三野、豊田郡の百姓に、願いの筋を申し出よと伝えたが、莚旗の農民は鳥坂を超え善通寺に合流した。その時には6万人余りに達していたという。4郡の一揆勢は善通寺の客殿で、13箇条の嘆願書を示された。その要旨は、年貢の未納米の1000石の年賦弁済、夫食米の給付、年貢米の斗升搔不正の中止、相場並みの銀納値数、出費の多い役人の出張回数の軽減なであった。藩側から「内10箇条の重要項目の要求を認め、3箇条は追って沙汰をいたす」の回答に、ほぼ百姓の嘆願を認めたことになった。各地で頻繁に起こり一気に幕府は危機感を募らせ、一揆、強訴の禁止などを命令が下り、一揆関係者を次々に捕らえていった。大西権兵衛ほか首謀者7人は金倉川河畔に於いて磔、斬首、獄門の処せられた。処 罰は権兵衛の子供及び9歳の末っ子まで打ち首の処された。その後、権兵衛はじめ7人の義民は七義士と呼ばれ密かに弔われた。明治36年には権兵衛ゆかりの笠田村に神社を建立、七人の義民は神として祀られた。(讃岐の風土記より参考)
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