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元亀3年(1572年)、信玄は西上作戦を開始する前に、木曽義昌と遠山直廉に命じて飛騨の三木自綱を攻めさせたが、この戦いで直廉が5月18日に戦傷死。 直廉には他に子がいなかったことから、信長が飯羽間遠山氏の遠山友勝をして苗木遠山氏のあとを継がせた。友勝の嫡男友忠の妻は信長の姪である。 さらに8月14日に景任も病死して岩村遠山氏の血統が断絶したので、信長は東美濃の支配権を奪う好機として、岐阜城留守居の河尻秀隆や織田信広を岩村城に派遣して占領すると、自らの子(御坊丸のちの織田勝長)を亡くなった景任の養嗣子として継がせ、叔母のおつやの方を後見人とした。 東美濃の支配権が信長に奪われたことに対して、駿河国に侵攻していた信玄は、伊那郡代秋山晴近[注釈 8]と依田信守を東美濃へ派遣して岩村城の奪還を命じた。 包囲された岩村城には以後も武田氏に仕えた者が多く、降伏して御坊丸を甲斐に人質として差し、信玄の許しを得て秋山が岩村城に入っておつやの方を妻とすることで(遠山氏と武田氏の)和議を成立させた。しかし以後は秋山が城主となるので、岩村での遠山氏の支配は終わりを告げた Ø また、『苗木物語中』によると、苗木勘太郎(苗木物語中はこれを遠山友忠とする)は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いに、兵500余騎を率いて織田氏に加勢して勇名をはせ、美濃国にて2万石を受けたとされるの苗木勘太郎の娘は、永禄8年(1565年)信長養女として武田家に嫁いでおり、織田信長と武田信玄の同盟成立に貢献している。Ø 元亀3年(1572年)には、苗木の遠山直廉と岩村の遠山景任が武田信玄の命により、武田氏から離反した飛騨国の三木自綱と戦ったが、同元亀3年(1572年)中に遠山直廉と遠山景任が相次いで没すると、織田信長が苗木城に飯羽間遠山氏の遠山友勝を、岩村城には織田勝長を送り込んだため、同元亀3年(1572年)末に再び秋山虎繁の軍勢が派遣され上村合戦が起きた。Ø 東濃は、天正2年(1574年)にも武田勝頼の侵攻を受け、遠山十八支城と呼ばれる、苗木、神野、武節、今見、阿寺、馬籠、大井、中津川、鶴居、幸田、瀬戸崎、振田、櫛原、明知は尽く落城した。この時、串原遠山氏、明照遠山氏、安木遠山氏が滅び、天正3年(1575年)には、織田信長の侵攻により、岩村遠山氏、飯羽間遠山氏が滅んだ。 5、「遠山 利景」(とおやま としかげ)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将で明知城主。江戸幕府の交代寄合。旗本明知遠山氏の初代。 美濃国恵那郡明知に生まれる。父は遠山景行というが[2]、兄とされる景玄の子とも言う。 母は三河広瀬城主三宅高貞の娘。室は三河足助城主の鈴木重直の娘で、その母は松平清康の養女(かつ妹)で家康の乳母である随念院(お久)。子に庶長子方景、次男として串原遠山氏から養子とした経景がいたが、後述するように兄の遺児遠山一行を養嗣子とした。 幼くして妙法山満昌寺に入って僧となったが、元亀元年(1570年)12月28日の上村合戦で武田軍の秋山虎繁に敗れた父景行は自刃し、兄の景玄も戦死。 天正2年(1574年)の武田勝頼の家臣山県昌景の侵攻で明知城が落城した際に、もう一人の兄友治も討死にして累代が絶えたことから、家臣一同が相談して還俗させた。 通称を勘右衛門と称し、利景を名乗り、兄景玄の嫡男で遺児・一行を猶子として引き取る。 また一族の串原遠山氏の串原城が武田氏の攻撃により落城した後、城主の子供の遠山経景を養子とし、共に各地で戦功を重ね、江戸幕府成立後に利景は交代寄合となった後、経景にその領地の中から吉良見村、猿爪村の五百石を分け与えた。 その子孫は旗本明知遠山氏の家老として、経景の11代目の子孫の正景の代に「永田」と改姓し、代々幕末まで明知遠山氏を支えた。 同年の長篠の戦いの後、織田信忠は岩村城を攻囲したが、その戦いにおいて利景は小里城を落とし、明知城を奪還した。 天正10年(1582年)の甲州征伐の際には、徳川家康の麾下に属して、一行と方景を伴って参加。そのまま河尻秀隆らと甲府の守りついていた所に、本能寺の変を知って帰還した。 この時、駿河国に赴き、江尻城にいた本多重次を訪ねて、今後は一族は徳川方に従うことを誓ったが、直後に羽柴秀吉より美濃金山城主森長可に従い人質を出すように命ずる書状があり、一行の娘を金山城に人質として送った。
2024年04月27日
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木曾 義元(きそ よしもと、文明7年(1475年) - 永正元年(1504年))は、戦国時代の武将、戦国大名。信濃国木曽谷を支配した木曾氏の当主。父は木曾家豊。弟に義勝。子に義在。従五位下、伊予守。 木曾氏の出自は源義仲の子孫と称えた(当初は、秀郷流上野沼田氏であったとされ、義元の父の代までは「家」を通字としており、源氏風の名前である「義」を通字とするようになったのは義元の代からである。しかし、「家」の字は、木曾氏の遠祖とされる八幡太郎義家の偏諱を代々受け継いだとの見方もある)。 文明7年(1475年)、木曾家豊の子として誕生。初めに左京大夫義清と名乗り、のちに義元と名乗る。 木曾氏当主として勢力拡大に努め、飛騨の姉小路氏・三木氏と抗争した。永正元年(1504年)、白巣峠を越えて進入した姉小路済継の家臣・三木重頼(または重綱か綱良とも、三木直頼の父)に王滝城で敗れ致命傷を負い、その傷が元で死去した。 居城の木曽福島城に退却中の最中とも、帰城後のことともいわれる。享年30。 「武田氏、織田氏の侵攻」Ø しかし、天文24年(1555年)、松尾小笠原氏に続いて木曽氏も甲斐の武田氏に降り、苗木の木曽勢も武田氏の傘下に入った。Ø これにより武田氏と美濃斎藤氏は緊張関係に入り、翌弘治元年(1556年)に斎藤氏は遠山領国への出兵を行っている]。Ø さらに弘治2年(1557年)の織田・斎藤氏の抗争において武田氏は遠山氏を通じて介入している]。武田氏は遠山氏の本拠地である岩村も傘下に収めており、秋山虎繁を派兵し遠山景任の家督継承を支援している。Ø 一方、尾張国の織田氏もおつやの方を遠山景任に嫁がせて婚姻関係を築いている。 4「遠山景任」(とうやまかげとう) 「遠山 景任」(とおやま かげとう)は、戦国時代の武将・大名。岩村遠山氏当主。美濃国恵那郡岩村城主。父は遠山景前。妻は織田信長の叔母(おつやの方)。 三遠山 藤原利仁流の加藤景廉を祖とする美濃遠山氏は、景廉が遠山荘の地頭となり、その子景朝が在地に下りて岩村に居を構えたことに始まる。遠山氏は氏族繁衍して七流に分かれて恵那郡を領したが、これを遠山七頭(七遠山)と言う。 また中でも三頭(三遠山)と言われた苗木・明知・岩村の3つが主要な分家で、景朝の子、景重が明知遠山氏の祖、景員が岩村遠山氏の祖にあたるが、苗木は何度か系譜が絶えている。 鎌倉時代初期においては、美濃源氏たる土岐氏と源頼朝の側近の子孫たる遠山氏は並び立っていたが、南北朝時代には土岐頼遠が活躍して美濃国の守護職を得たこともあって、土岐氏の方が優位となった。 遠山氏も武家方の一勢力として各地を転戦したり、宮方であった隣国の飛騨国司姉小路家と争ったが、『太平記』『遠山家譜』によると岩村城主加藤光直の弟で苗木城主であった遠山五郎景直は土岐頼遠と領土争いの訴訟があって城を追われ、宮方の新田義貞軍に加わっていたという。 足利尊氏に従って各地を転戦した明知遠山氏の(景重の玄孫)景房は武功多く、市島郷の地頭職を与えられたが、元中7年(1390年)その子である頼景は、宗家の持景の養子となって遠山氏の惣領として遠山荘の地頭職を安堵とされている。 略歴 頼景の子が景友(季友)、孫が景前(かげまえ)である。景前の頃には土岐氏は凋落し、東美濃では遠山七頭の国衆が台頭して、諸城を築いて郡外勢力を拒むようになった。岩村遠山氏は惣領格ではあったが、統一されておらず、美濃の動乱の煽りで明確な支配者のいない半独立状態となっていた。 天文23年(1554年)、信濃国を領国化しようとしていた甲斐武田氏が南信濃と美濃の国境である伊那郡を制圧すると、川中島の戦いで長尾景虎(上杉謙信)と争うと同時に武田晴信は弘治元年(1555年)に東美濃にも侵攻して岩村城を包囲したため、景前は降参した。以後、遠山氏のいくらかは武田氏に主従することになったが、引き続き斎藤氏や尾張の織田氏と連携するものも見られる。 弘治2年(1557年)7月13日、その景前が亡くなり、嫡男であった景任があとを継いだが、まだ若かったことから遠山七頭の中に従わぬものがあって後継者争いが起こった。 これに対して武田氏が東美濃に派兵して調停し、その後ろ盾を得た景任が当主となった[4]。 以後、東美濃においては遠山宗家と信玄との主従関係に基づく武田支配が成立し、遠山氏は武田方に人質を出したが、他方で同年、斎藤義龍が道三を長良川の戦いで破って美濃を手中に入れると、遠山氏の中では明知遠山氏の友行が義龍に与して9月の明智城攻めに加わるなど、一時的に斎藤氏にも与した。また従来の織田氏との関係も維持されており、これが台頭して濃尾に勢力を伸ばすとむしろ接近した。 時期は不明ながら、景任が織田信長の叔母(織田信定の娘)を娶って縁戚関係を結ぶなど、複数の勢力に属するという関係を築いていった。特に永禄年間になると、遠山氏は武田氏と織田氏に両属して、その外交関係(甲尾同盟)を仲介する存在となった。 永禄8年(1565年)に武田軍が金山城の森可成と米田城の肥田玄蕃允を攻撃した後、信長が景任の弟直廉の娘を養女として信玄の庶子諏訪勝頼の室とする縁組をまとめたのも、遠山氏を介した織田武田両家の連携の一環であった。
2024年04月27日
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「遠山氏一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「遠山氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「木曽氏・小笠原氏との戦い」・・・・・・・・・・54、 「遠山景任」・・・・・・・・・・・・・・・・・・95、 「遠山利景」・・・・・・・・・・・・・・・・・146、 「森長可の美濃侵略」・・・・・・・・・・・・・167、 「岩村遠山氏」・・・・・・・・・・・・・・・・308、 「明知遠山氏」・・・・・・・・・・・・・・・・339、 「遠山景光」・・・・・・・・・・・・・・・・・3910、「苗木遠山氏」・・・・・・・・・・・・・・・・4411、「明照遠山氏」・・・・・・・・・・・・・・・・5412、「串原遠山氏」・・・・・・・・・・・・・・・・5713、「遠山郡の戦い・上村合戦」・・・・・・・・・・6114、「遠山景村」・・・・・・・・・・・・・・・・・6615、「遠山十八支城」・・・・・・・・・・・・・・・・6816「「遠山景行」・・・・・・・・・・・・・・・・・・8217、「遠山友政」・・・・・・・・・・・・・・・・・・8518、「遠山直廉」・・・・・・・・・・・・・・・・・・9219、「遠山綱景」・・・・・・・・・・・・・・・・・・10020、「串原遠山氏」・・・・・・・・・・・・・・・・・11321、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・118 1、「はじめに」「遠山氏」(とうやまし)美濃の中・近世の武家。加藤景廉が源頼朝より勲功賞として美濃遠山荘地頭職を与えられ,その子景朝が荘内岩村に拠って遠山を称したのに始まる。遠山荘はほぼ現在の岐阜県恵那郡全域,および木曾馬籠辺に及ぶ広大な荘園である。景朝を本宗として一族が荘内を分領し,やがて土岐氏と並ぶ美濃の名族となった。室町時代には将軍家奉公衆となる者が輩出した。7流に分かれ,戦国の争乱には織田・武田両勢力に圧せられた。遠山友政は1583年(天正11)森長可に父祖伝来の苗木城を奪われたが,関ヶ原の功賞として1600年(慶長5)苗木城1万500石余を与えられ,以後苗木藩として明治維新に至る。またテレビ、芝居のあの遠山の金さんは実際にこの家系から生まれた。
2024年04月27日
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2、「遠山氏の出自」「遠山氏」(とおやまし)は、日本の氏族。美濃国恵那郡(現・岐阜県恵那市)によった利仁流加藤氏系が著名である。美濃遠山氏鎌倉時代遠山氏の祖は藤原利仁の子孫加藤景廉である。景廉は源頼朝の重臣として功績を残し、文治から建久(1185年 – 1198年)の頃に遠山荘(現在の岐阜県恵那市・中津川市・瑞浪市の一部)を与えられた。ただし、景廉本人は頼朝とともに鎌倉におり、実際に遠山荘に赴任はしなかった。承久の乱が始まって程なく景廉が死去し、遠山荘の地頭職は長男の景朝が受け継いだ。この後、景朝は遠山荘にちなんで遠山に改姓して遠山氏の初代となった。遠山氏の名が最初に認められるのは、景朝が承久の乱の首謀者の一人である一条信能を遠山荘で処刑した時である(ただし、伊勢加藤氏に対して遠山加藤氏としただけともとれる)。この乱で美濃守護の大内惟信が没落すると美濃国は北条氏の直轄領となり、恵那郡の遠山氏、土岐郡の土岐氏らは北条氏の傘下とされた。その後、元弘3年(1333年)の建武の親政により土岐氏が大きく勢力を伸ばして美濃守護となり、遠山氏もこの勢力下に入った。しかし、遠山氏の勢力は、本拠地岩村城の岩村遠山氏の他、明知、安木、飯間、櫛原、馬籠、神野を有し、康正2年(1456年)に造内裏段銭として12貫225文を室町幕府に収めた遠山左近亮が遠山氏の総領格であったと思われる。また、岩村遠山氏を含めて七遠山または遠山七頭と呼ばれ、居城ごとに分かれて統治を行っていたようである。。 3、「木曽氏、小笠原氏との戦い」戦国時代が始まったとされる応仁元年(1467年)、細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)との間で応仁の乱が発生すると、美濃守護土岐成頼は西軍となって京で戦い留守は守護代格の斎藤妙椿が守っていた。しかし、文明5年(1473年)10月に斎藤妙椿が伊勢遠征を行なうと、その隙をついて、東軍の小笠原家長と木曽家豊が伊那谷と木曽谷から東濃に侵攻した。遠山諸氏はこれを防げず、大井城 (美濃国)を占領され、刈安城まで落城した。 その後、苗木は長らく木曽氏、松尾小笠原氏の支配下にあったようであり、永正元年(1504年)の王滝城(木曽郡王滝村崩越)の戦いでは、中津川、大井、落合の軍勢が木曽義元の家臣として戦っており、また、大永4年(1524年)3月に小笠原定基の家臣高柴景長が神明神社の造営に関わっている。松尾小笠原氏の小笠原定基は、天文年間に入ると鈴岡小笠原氏の旧臣である下条氏と府中小笠原氏に敗れ、天文3年(1534年)に甲斐に逃れた。その過程で落合は下条氏の侵攻を受けている。なお遠山氏では、天文11年(1542年)には遠山景安が笠木社に梵鐘を寄進しており、遠山一族が苗木で勢力を保っていたことがわかる。しかし、『木曽考』によると、天文14年(1545年)に木曽義康の兵が中津川防衛のため上兼(中津川上金)との途中の茶屋坂で戦い、義康の家臣萩原主水(本名遠山)が安田新七郎を討ち取っているため、苗木遠山一族は木曽氏の傘下にあったと考えられる。なお、さかのぼって長享2年(1488年)の『蔭涼軒日録』には「遠山には三魁がある。Ø 第一は苗木、第二は明智、第三は岩村といい・・・」と、信濃国と尾張国を結ぶ木曽川の流通を抑える苗木遠山氏の隆盛が伝わっている。 小笠原 家長(おがさわら いえなが)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏分家・松尾小笠原家当主。松尾城主。父は信濃守護小笠原光康[1]。子に小笠原定基(さだもと)。 応仁元年からの応仁の乱では東軍側に付く。文明5年(1473年)、家長は将軍足利義政の命により、子の小笠原定基や木曾家豊(木曾義元の父)と共に東美濃攻略のため、足利義視方の土岐成頼の居城・恵那郡の大井城や土岐郡の釜戸村にあった荻島城を攻め落とす。 その後、恵那郡の中部と土岐郡の一部は、天文年間(1532年~1555年)まで信濃勢の駐留が続いた。 京極氏のお家騒動(京極騒乱)にも介入、東軍の京極政経・多賀高忠に加勢して西軍の京極高清、多賀清直・宗直父子、六角高頼を打ち破った。『小笠原文書』によると武田兵庫助を介して、文明10年(1478年)、尾張の守護代であった織田敏定の要請で美濃の斎藤妙椿を牽制するため、援軍を送っている。 小笠原家当主の家督を巡り、従兄にあたる信濃守護・小笠原政秀と対立し、文明12年(1480年)、政秀によって討たれた。 なお、寛政重修諸家譜などでは延徳2年(1490年)10月15日死去とされている。
2024年04月27日
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15、「北畠氏の最期」「三瀬の変」(みせのへん)は、天正4年(1576)11月25日に伊勢国三瀬御所の北畠具教や同国田丸城に招かれていた長野具藤らが同日に襲撃され、討死した事件である。永禄12年(1569)、織田信長は伊勢国に兵を進めて、伊勢国司9代目北畠具房と戦い、大河内城の戦いで北畠家を追い詰めた。和睦の条件として信長は次男茶筅丸(後の織田信雄)と具房の妹の雪姫を婚姻させ、茶筅丸を北畠氏の養継嗣とさせる事に成功。元亀元年(1570)に具房の父具教は出家して不智斎と号し三瀬御所(現三重県多気郡大台町)に隠居した。元亀3年(1572)に茶筅丸は元服し北畠具豊と改名、同時に雪姫と正式に婚姻の上大河内城を廃して田丸城を新たに本拠とした。天正3年(1575)には信長の圧力によって具房も隠居に追い込まれ、具豊は信意と改名し北畠家10代目当主となる。これで名実共に北畠家を掌握したかに思われた織田氏であったが、具教と立場を失ったその側近達は心服しておらず、元亀4年(1572)3月に具教は西上作戦の途上であった武田信玄の陣に鳥屋尾満栄を遣わせ、信玄上洛の際には船を出して協力するという密約を結んでいた。この事は天正4年(1576)には信長も知るところとなっており、この年の正月の挨拶に岐阜城に訪れた満栄を信長は待たせたまま対応せず、満栄が帰ろうとした所でわざわざ呼び戻し、進物を庭の白洲に置かせ満栄を座らせたままで縁側で刀を抜くなど挑発的な行動を見せたという。同年夏には信意が紀伊国熊野攻略を狙ったものの堀内氏善の反撃で逆に加藤甚五郎を討たれ、紀伊長島城を失うという失態を演じたが、熊野勢には元は伊勢国司の家臣であった者もいたためさらに対立は深まった。三瀬御所天正4年(1576年)11月、ついに信長・信意親子は北畠一族の抹殺を画策。信長は藤方朝成・長野左京進亮・奥山知忠の3名を呼び出し領地の朱印を与えて誓紙を書かせ具教殺害を指示した。この内、奥山知忠は病と称して出家してしまい直前で計画から外れたが、長野左京進は参加し、また藤方朝成も直接の参加を避けたものの結局は家臣の軽野左京進を参加させた。11月25日、滝川雄利・柘植保重・加留左京進の3名の軍勢が三瀬御所を密かに包囲。内通していた具教の近習である佐々木四郎左衛門が長野ら3人を通し、具教に面通りさせると長野がいきなり槍で具教を突き、具教はこれを躱して太刀で反撃しようとしたが佐々木に細工された太刀は抜くことが出来ずそのまま討ち果たされた。しかし一説には具教は19人を斬り殺し、100人に傷を負わせたという。その後長野左京亮によって討ち果たせりた。その後、三瀬御所に討ち入った軍勢によって具教の四男徳松丸、五男亀松丸らも殺害され、北の方(具教正室)らも走って逃げようとするなど御所内は大混乱となった。三瀬御所では具教と2人の子の他に北畠家臣14人の武将が殺害され、30人余りの家人もそれに殉じた。田丸城一方で信意も同日11月25日に北畠家臣やその一門を一斉に集め、この機を逃さず根絶やしにしようと計画していた。まず、朝に饗応の席と偽って田丸城へと呼び出した長野具藤(具教次男)・北畠親成(具教三男)・坂内具義(具教娘婿)の3名を招き入れて、やがて信意が合図の鐘を鳴らすと城内の北畠家臣の抹殺を命じた。これらの知らせを聞いた田丸直昌も北畠一門の家柄であったので防備を固め警戒したが、直昌を殺すつもりは無かったのでこれは信意が使者を送って宥めた。田丸城に呼び出された北畠一門の中で助命されたのは信意の養父ということになっていた北畠具房ただ一人であり、具房の身柄は変後滝川一益預かりとなって長島城に幽閉された。変後の戦い一連の粛清の手を逃れた北畠の将たちは北畠政成の守る防御能力の高い霧山城(多気御所)に集結し抵抗を試みたが、信長は即座に羽柴秀吉・神戸信孝・関盛信ら15000の兵を送り込んで霧山城を包囲。12月4日には霧山城は陥落して守将の北畠政成・波瀬具通らが自害して果てた。霧山城下は灰燼と化し、霧山城も焼け落ちたのでそのまま廃城となった。同年12月15日には信意の側近で変にも参加していた津田一安が信長の命を受けた日置大膳亮によって田丸城の普請場で斬殺されている。その後、一族誅殺の報を聞いて激怒した具教の弟である奈良興福寺東門院院主が伊賀に潜伏し、そこで還俗して北畠具親を名乗り挙兵。天正5年(1577)に鳥屋尾満栄・家城之清ら北畠旧臣の協力を得て三瀬谷・河俣谷・多気・小倭衆らの在地武士と飯高郡森城に旗揚げしたが、信意麾下の日置大膳亮・日置次太夫兄弟らの活躍によって年内にはこの反乱も鎮圧され、具親は毛利輝元を頼って安芸国にまで亡命した。これによって信意の伊勢掌握の妨げになっていた旧北畠具教・具房家臣の一門一派はほぼ伊勢から駆逐され、要衝には信意の側近たちが配置される事となり織田氏による北畠氏簒奪が完了した。了
2024年04月26日
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4、「江戸時代以降」中院通勝の子親顕が北畠家の名跡を継承したが、寛永7年(1630)、親顕が没し、跡継ぎがなく北畠家は断絶した。明治4年(1871)7月、久我建通の子通城が分家して北畠姓に改姓し、家名を再興した。後に北畠親房、顕家らを祭る霊山神社の宮司を務めた。歴代当主1、北畠雅家(1215~1274)2、北畠師親(1244~1315)3、北畠師重(1270~1322)4、北畠親房(1293~1354)5、北畠顕能(1326~1383)6、北畠顕泰(1361~1414)7、北畠満雅(1382~1429)8、北畠教具(1423~1471)9、北畠政郷(1449~1508)10、北畠材親(1468~1518)11、北畠晴具(1503~1563)12、北畠具教(1528~1576)13、北畠具房(1547~1580)14、北畠具豊(1558~1630)※ 1582年、織田に復姓。北畠男爵家1871年、久我家から分家。1、北畠通城(1849~1888)2、北畠克通(1875~1943)3、北畠義郎(1897~1961)子孫]宗家第9代当主北畠具房に男子はないとされ、その父北畠具教と具房の弟たちは第10代当主・具豊こと織田信雄に討たれたため、宗家の男系子孫は落胤を称する家を除いて知られていない。第8代当主北畠具教の娘・雪姫(千代御前)は織田信雄正室となり、父の横死後も信雄正室の地位を保ち、その長男と次男を生んだ。成長した長男・織田秀雄は信雄の没落後、豊臣秀吉から越前国大野郡に5万石を領したが、関ヶ原の戦いで西軍に属したため改易され、さらに子女なく早世したため、その子孫はいない。第7代当主北畠晴具の次男(あるいは三男)で北畠家支流の木造家に養子に入った木造具政の娘は織田信雄の側室(のち継室)となり、信雄の四男で上野国小幡藩2万石を与えられた織田信良を生んだ。小幡藩主家は信良の子織田信昌の死後に信良の異母弟の家系から養子を入れたため、北畠家の子孫としては残らなかったが、信良の娘の系統を通じて勧修寺婧子が仁孝天皇の母となり、現在の皇室へと繋がっている。木造氏北畠顕能の子・木造顕俊が木造庄に入って木造氏を名乗ったことに始まる。木造氏に養子に入った北畠晴具の子・木造具政の子孫は孫の代までしか系譜に見えないが、具政の義弟である木造具次の子俊宣が江戸幕府に仕え、子孫は旗本木造氏として存続した。また、木造氏の出身で滝川一益から滝川姓を与えられた滝川雄利の系統は江戸初期に大名、のち旗本として存続した。幕末に大目付になり、鳥羽・伏見の戦いの戦端を開いた滝川具挙は子孫にあたる。星合氏北畠政郷の子・星合親泰が一志郡星合城に入って星合氏を名乗ったことに由来する一族。星合具種は後に坂内氏の養子となり、具種の子の星合教房が星合氏を継いだ。しかし、教房とその子である弥十郎は早死にしてしまい、教房の兄教賢の子具泰が星合氏の家督を継いだ。以降は堀江氏(嫡子・嫡孫以外は星合の名乗ることは許されなかった)を称し、具泰は大和国吉野に潜伏したが、伊勢国が織田氏の支配下になると帰国して復姓し、織田信雄の家臣となった。のち織田秀雄の家老となり、秀雄の死後、幕府に召しだされて旗本となり、以降は幕臣として幕末まで続いた。このほか、幕臣に星合氏と同族を称する藤方氏がいる。神戸氏神戸氏は元は桓武平氏の末裔とされる関氏の庶流であった。北畠政郷の子(材親の子とも)・神戸具盛が神戸為盛の養子として入り、北畠一門となった。具盛は岸岡城と高岡城を築いて一族や有力家臣を入れ、河曲郡一帯を支配し神戸氏の最盛期を築いた。信長の伊勢侵攻では敗れ、信長の三男・神戸信孝を養子として招いた。しかし具盛は信孝を粗暴に扱ったため、近江国日野城に幽閉され、一門衆は粛清されて神戸氏は滅亡した。具盛の末子に高島氏の名跡を継いだ高島政光がおり、その子の神戸政勝は神戸宗家の滅亡を嘆き、自分の子である高島政房を具盛の養子として継がせた。政房の子は神戸良政と名乗り、紀州徳川家に仕えてのちに「勢州軍記」「伊勢軍記」等を著作した。
2024年04月26日
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また、天正3年(1575)に具教は隠居城として伊賀国丸山城の築城を決め、同地域の土豪を説得、天正4年(1578)正月より人夫衆を動員し作事を行ったが、織田信長と不和になり三瀬館に引き上げた。具教と立場を失ったその側近達は信長に心服しておらず、元亀4年(1572)3月に具教は西上作戦の途上であった武田信玄の陣に鳥屋尾満栄を遣わせ、信玄上洛の際には船を出して協力するという密約を結んでいた。また、信長に敵対する紀伊熊野勢に蜂起を勧めていたとされる[3]。最期]天正4年(1576)11月25日、具教は信長と信雄の命を受けた旧臣(長野左京亮、加留左京進(藤方朝成の名代))たちの襲撃を受けて、子の徳松丸・亀松丸、および家臣の大橋長時・松田之信・上杉頼義ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害された。享年49歳。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・田丸城において殺害された。これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた(三瀬の変)。なお、具教の首級は、加留左京進の家臣である伊東重内らにより運び出されたが、変に気付き駆け付けた芝山秀時、大宮多気丸らに奪い返され、秀時の父である芝山秀定により御所尾山に埋葬された。】しかし、具教の子・具房の代になると、伊勢国は度々織田信長の侵攻を受けるようになり、北畠家の旗下であった神戸氏、長野工藤氏が次々織田家に服属して信長の弟・子を当主に迎え、織田家に乗っ取られていった。永禄12年(1569)8月、織田信長の侵攻を受け、大河内城を包囲・攻撃され、10月に将軍・足利義昭の仲介で和議を結んだ(大河内城の戦い)。 13、「北畠 具房」(きたばたけ ともふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名・公家。伊勢国司北畠家の第9代当主。天文16年(1547)、第8代当主・北畠具教の嫡男[1]として生まれる。永禄6年(1563)、父・具教が隠居し家督を相続した。永禄12年(1569)8月、織田軍に大河内城(現在の三重県松阪市)を攻められ、籠城して死守するも、10月に父と共に織田信長と和睦した(大河内城の戦い)。和睦の条件として、信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を養嗣子として迎えることになる。ただし、谷口克広はこの戦いではむしろ織田方が次第に劣勢となり、信長の要請を受けた将軍・足利義昭の仲介で和議に入ったとする説を出している。また、久野雅司は信長が茶筅丸の入嗣を強要したことで義昭の不快感を招き、信長と義昭の対立のきっかけになった事件とする見方をしている。天正3年(1575)、茶筅丸が具豊として北畠家の家督を継ぐと、具房は中の御所と敬称されるようになる。天正4年(1576)11月、大台の三瀬台に隠棲していた父・具教が信長・信意(具豊改め)父子によって殺害される(三瀬の変)と、具房は幽閉の身となり、その身柄を滝川一益に預けられて安濃郡河内に3年間幽閉された。後に幽閉は解かれ、名を信雅(のぶまさ)に改めた。その直後の天正8年(1580)1月5日に死去。享年34歳。人物・逸話かなりの肥満体であり、馬に乗ることも出来なかったといわれる。父・具教と大河内城に篭城した際には、敵方の織田軍から「大腹御所の餅喰らい」とからかわれている。このような具房に、塚原卜伝の高弟・具教は不満を感じていたらしく、『勢州軍記』は具房は父から疎外されていたと記している。昌教という落胤があったとされており、昌教の名は北畠氏の系図でも確認できる。ただし具房には嗣子が無く、そのために中院通勝の次男・親顕を養子に迎えたとされていることから、昌教の実在には疑問もある。丹波柏原藩士系図に拠ると具房には一女があり、信雄に養われて織田高長の寵臣中山正就に嫁いで一男一女を生んだとされる。 その結果、信長の次男・織田信雄を北畠具房の養子とし、かつ先代・具教の娘・雪姫(千代御前)の婿に迎えるという織田家に有利な形で講和することとなった。信雄は天正3年(1575)北畠家の家督を相続する。この時、木造氏の当主は具教の実弟・木造具政であったが、織田家に内通している。天正4年(1576)11月、三瀬御所に隠居していた具教は、信長の命を受け信雄が放った刺客により館を急襲され、四男・徳松丸、五男・亀松丸と共に暗殺された。次男・長野具藤、三男・北畠親成は田丸御所にて、大河内教通、波瀬具祐、岩内光安、坂内具義と共に殺害され、坂内御所においては坂内具房、霧山御所においては城代・北畠政成、および波瀬具通が殺害された(三瀬の変)。北畠一門抹殺の理由としては、足利義昭の信長包囲網に組する武田信玄の西上作戦に際して、具教が船を出すと密約を交わしていたことなどがあげられる。具房はその身柄を滝川一益に預けられ、安濃郡河内に3年間幽閉された後、天正8年(1580)1月5日に京都で死去した。これら一連の信長の行動により北畠家は名実ともに織田家によって乗っ取られた。天正10年6月、信長が本能寺の変で死去すると、備後に逃れていた具教の実弟・北畠具親が伊勢五箇篠山城に戻り再挙するが落城、後に蒲生氏のもとに客臣として迎えられた。変後の清洲会議にて、信雄は織田家の後継者になろうと画策し、織田姓に復したため、伊勢国司家としての北畠家は滅亡した。
2024年04月26日
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永禄3年(1560)、小浜景隆ら志摩国の国人達を援助して九鬼氏の本拠地・田城を攻めさせ、一時的に九鬼氏を滅ぼして(城主の九鬼浄隆は戦死、弟の九鬼嘉隆は逃亡)志摩国での支配体制を固めた。さらに『勢州軍記』「秋山謀叛事」によれば、永禄初年に大和国宇陀郡の国人領主・秋山教家が三好氏の婿として権勢を奮い、具教の命に従わなかったため、具教は教家の居城の神楽岡城を攻め、教家の父を人質に取ったという。このように具教は北畠家の支配範囲を順調に広げていき、北畠家の最盛期を築き上げた。 永禄6年(1563)、父の晴具が死ぬと喪に服して官職を辞し[3]、嫡男の具房に家督を譲って隠居する。しかし北畠家の実権は依然として具教が握っていたようである。ところが、永禄11年(1588)以降、尾張国の織田信長が伊勢国に侵攻し、神戸氏・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。そして、永禄12年(1569)に8月に信長自ら北畠領内への侵攻を開始した。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が織田氏に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末に降伏する形で和睦した(大河内城の戦い)*「大河内城の戦い」(おかわちじょうのたたかい)は、戦国時代の永禄12年(1569年)に伊勢国大河内城で行われた合戦である。尾張国の戦国大名・織田信長と、伊勢国の国司である北畠具教・具房親子との間で行われた。 合戦までの経緯永禄10年(1567)、織田信長は神戸具盛、長野具藤を降し、北伊勢の八郡を手中に収め、残る南伊勢五郡を支配する国司大名・北畠家と対立していた。北畠家の当主は北畠具房であったが、実権は隠居した前当主・北畠具教が握っていた。永禄12年(1569)5月、木造城主・木造具政(具教の弟)が源浄院主玄(後の滝川雄利)と柘植保重の献策により、織田側につく。織田側の武将・滝川一益の調略であった。対する具教は5月12日、木造城を包囲し攻撃するも(『桑名志』)、滝川、神戸氏、長野氏の援軍もあり、8月に入っても木造城は持ち堪えていた。開戦同年8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、総勢7万といわれる軍で岐阜を出陣。23日、木造城に着陣した。北畠軍は既に囲みを解いており、1万6千の兵を天険の要害である大河内城とその支城に分散させ籠城していた。大河内城の北畠軍の兵数は約8千であったといわれる。8月26日、織田軍の木下秀吉が阿坂城を攻撃、落城させる。信長は他の支城は放置し、大河内城へ向かった。8月28日、織田軍は四方より大河内城を包囲し、城の周囲に鹿垣を2重3重に作った。9月8日、信長は丹羽長秀・池田恒興・稲葉良通に夜討ちを命じる。しかし雨が降り出して鉄砲が使用不能になったため、後退した。翌日9月9日、信長は兵糧攻めを狙い、滝川一益に命じて多芸城を焼き討ちさせる。さらにその近辺にも放火し、住民を大河内城へと追い込んだ。この後、1ヶ月ほど間が空く。滝川一益が魔虫谷から攻め込んだが失敗に終わったというが、詳細は不明である。10月3日、織田家と北畠家は和睦した。この時の和睦の条件は、信長の次男である茶筅丸(織田信雄)を具房の養嗣子とすること。大河内城を茶筅丸に明け渡し、具房、具教は他の城へ退去すること。という、織田側に有利なものであった。大河内城を明け渡し、具教は霧山城に近い三瀬館(現在の三重県多気郡大台町)、具房は坂内城に移ったものの、少なくとも4年後の天正元年(1573年)9月迄実権を保ち続けた。なお、谷口克広は信長の北畠氏との戦いはむしろ信長方が次第に劣勢となり、足利義昭の仲介で和議に入ったとする説を出している。また、久野雅司は、信長が茶筅丸の入嗣を強要したことで義昭の不快感を招き、信長と義昭の対立のきっかけになった事件とする見方をしている。 このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる。具房にはまだ子がなかったため、具教の娘の雪姫が信雄(茶筅丸)に嫁ぐこととなった。ただし、谷口克広はこの戦いではむしろ織田方が次第に劣勢となり、信長の要請を受けた将軍・足利義昭の仲介で和議に入ったとする説を出している。また、久野雅司は信長が茶筅丸の入嗣を強要したことで義昭の不快感を招き、信長と義昭の対立のきっかけになった事件とする見方をしている[5]。その後、元亀元年(1570)5月、出家して天覚、更に不智斎と号し、三瀬谷(現在の三重県多気郡大台町)に移る。しかし、少なくとも天正元年(1573)6月迄は具豊(信雄)に実権を渡しておらず、天正3年(1575)6月の家督譲与まで具教、具房奉公人(教兼、房兼)の文書発給が続いている。
2024年04月26日
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儒学に通じた文化人である一方、仏教に深く帰依した信心厚い人物でもあったといわれている。 戦国・安土桃山時代戦国時代に入ると、英主・北畠晴具が現れ、北畠家は南伊勢、志摩国、伊賀国の南部、大和国の南部、紀伊国の東部にまでに及ぶ一大勢力となった。他方、北伊勢の雄たる長野工藤氏とは激しく争ったものの、決着をつけることができなかった。晴具の子・具教の代には、長野工藤氏を従わせて北伊勢に進出し、志摩への支配も強めるなど、戦国大名として最盛期を迎えた。また、永禄5年(1562)5月に長野稙藤と長野藤定が死去したため、長野氏の支配権を完全に握った。 11、「北畠 晴具」(きたばたけ はるとも)は、戦国時代の大名・公家。伊勢国国司北畠家の第7代当主。子に具教、木造具政、具親ら。文亀3年(1503)、第6代当主・北畠材親(具方)の嫡男として生まれる[1][2]。永正7年(1510)、叙爵、侍従となる。この頃は親平を名乗っていた。永正8年(1511)、父から家督を譲られて相続し、伊勢国司家第7代当主となる。永正13年(1517)、従五位上となる。この頃に具国に改名した。永正15年(1518)、左近衛中将となる。また、同年に第12代将軍・足利義晴から「晴」の字を拝領して晴具と名乗った。大永5年(1525)、正五位下となり、同8年には従四位下、参議となった。享禄2年(1529)、高国・足利義晴が三好元長・柳本賢治に敗北し、近江朽木谷へ逃亡した。高国は娘婿の晴具に援軍を要請するため伊勢へ下向した。その後、享禄4年(1531)に晴具の支援を受けた高国は再起を図り摂津まで侵攻し、細川晴元や三好元長と摂津天王寺で戦うも敗北し、大物浦で討死した(大物崩れ)。天文年間、晴具は志摩の鳥羽城を攻撃し、支配下に収める。そして小浜氏ら国人を掌握して志摩国をほぼ制圧した。その後、大和にも進出して吉野郡と宇陀郡を制圧し、支配下に収めている。しかしこの大和侵攻により、大和諸国人との対立が発生し、筒井氏・越智氏・十市氏・久世氏らと合戦に及んでいる。紀伊へも進出し、熊野地方から尾鷲・新宮方面までを領有化、十津川まで支配領域を広げた。晴具は伊勢国内でも北伊勢の雄たる長野氏と対立して争った。天文12年(1543)には長野藤定が北畠の領する南伊勢に侵攻すると、晴具は垂水鷺山に出陣、合戦となった(垂水鷺山の戦い)。北畠軍は家城之清、豊田五郎左衛門、垂水釈迦坊を、長野軍は細野氏・分部氏をそれぞれ主力にし、激しい戦闘の末、決着はつかずに双方退却することとなった。天文16年(1545)から天文18年(1547)にかけて、晴具は長野氏に反撃を仕掛け、葉野の戦いで長野方の分部与三衛門を討ち取るなど一志郡内で攻防を続けたが、長野氏を降すことはできなかった。長野氏が降伏するのは次の具教の代である。また、伊勢山田三方の神人層の対立にも介入し、天文3年(1534)1月に山田三方が自身の命令に従わないことを理由に出兵、宇治・山田の両門前町の軍勢を宮川の戦いで討ち、両門前町を支配下におさめている。天文5年(1536)、出家して「天祐」と号した。天文22年(1553)、隠居して家督を嫡男の具教に譲った。永禄6年(1563)、多気御所で死去、享年61歳。人物晴具は文武両道の名将で、弓馬の達人で和歌・連歌・茶道をよくし、能書家でもあった。特に和歌は、大永元年(1521)には細川高国らとともに歌合せを本拠地の多気御所で実施し、大永2年(1522)には連歌師の宗長を多気御所に招き、逗留させて連歌の興行も行っている。また、高国が多気御所に造った庭園は、現在北畠氏館跡庭園と呼ばれ、国指定の名勝となっている。 12、「北畠 具教」(きたばたけ とものり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名・公家。伊勢国司北畠家の第8代当主。出生享禄元年(1528)、第7代当主で参議・北畠晴具の長男として生まれる。天文6年(1537)、従五位下侍従に叙任[。以後も天文21年(1552)従四位下参議に叙任されて公卿に列し、天文23年(1554)に従三位権中納言に叙任されているなど、朝廷から官位を授かって順風満帆な青年期を過ごした。この間の天文22年(1553)に父・晴具の隠居により家督を相続して第8代当主となる。弘治元年(1555)、父・晴具の命により伊勢国安濃郡を支配していた長野工藤氏と戦い、永禄元年(1558)に次男・具藤を長野工藤氏の養嗣子とする有利な和睦を結ぶことで北伊勢に勢力を拡大し、永禄5年(1562)5月5日に長野稙藤と長野藤定が同日に死去したため長野氏の支配権を完全に握った(具教による暗殺説もある)。
2024年04月26日
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8,「北畠 教具」(きたばたけ のりとも)は、室町時代中期の公卿。権大納言、正二位。伊勢国司北畠家の第4代当主で、伊勢国の守護大名でもある。北畠満雅の子。父が戦死した時は7歳とまだ幼少であった為、叔父の大河内顕雅が政務を代行していた。嘉吉元年(1441)、19歳で伊勢国司となり、将軍の足利義教から一字を賜って教具と名乗った。同年、義教が暗殺される事件(嘉吉の乱)が起こると、その首謀者の一人で伊勢国に逃亡してきた赤松教康の保護を拒否して自殺に追い込み、幕府に恭順を誓った。文安5年(1448)に長野氏と所領を巡り合戦を行っている。宝徳3年(1451)に正四位、参議に叙任。翌年正月には従三位に叙任。享徳2年(1453)に正二位に叙任。康正2年(1456)3月に権中納言に叙任。長禄2年(1458)には従二位に叙任する]。応仁元年(1467)の応仁の乱では北畠家は東軍についたが、教具は足利義政から上洛を許されず大和国長谷寺にいて洛中の戦闘には参加していない。同年8月に在京していた一族の木造教親を通じて伊勢に亡命してきた足利義視を保護するため、9月6日に長谷寺を離れ、伊勢に御所を造っている。応仁2年(1468)2月、伊勢守護は西軍の一色義直であったため、東軍の土岐政康が新たに伊勢守護に任じられて伊勢に攻め込んだ。同年4月、上洛の勅書が届いたため、足利義視は丹生を発った。義視と教具が平尾に着くと伊勢、伊賀の国人が尽く伺候したが、土岐政康は背いたため、林崎・若松・柳・楠原の諸城を攻め落としている。文明元年(1469)8月に権大納言に叙任。 9、「北畠 政郷」」(きたばたけ まささと)は、室町時代中期の武将・公家。伊勢国司北畠家第5代当主。居所は多気御所。元服に際して、室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱を与えられ、政具(まさとも)と名乗る。文明3年(1471)父・北畠教具の死後、家督を相続し北畠家当主となる。諱を政具から政郷(まささと)に改めたのもこの頃とされる。元々南朝方だった北畠家は、室町幕府と和解して後も、伊勢国司の他、大和国宇陀郡分郡守護に任ぜられる、畿内でも独特な存在であった。幕府の勢力圏である北伊勢には当初は幕府側の守護が置かれたが、北畠家との和解後は北畠家が守護に任ぜられることが多かった]。政郷は家督を継ぐと同時に守護にも任命され、北伊勢進出への大義名分としていたが、文明11年(1479)新たに一色義春が守護に任命されると、北伊勢の雄である安濃郡の国人長野氏の長野政高ら諸豪と北畠家との抗争が再燃した。政郷はしばしば北伊勢への進出を図ったが大敗し、文明12年(1480)に和解を余儀なくされた。この年に政郷から政勝(まさかつ)に改名した。文明18年(1486)に出家して無外逸方と号し、家督を嫡男・具方(ともかた、のち材親)に譲ったといわれる。未だ40代半ばであったという。政郷の代に宇治山田合戦が再発すると、文明18年(1486年)頃に介入したという記録がある。明応4年(1495)に発生した、材親と木造師茂との内紛の際には、師茂の側を支援していたともいわれる。生没年ははっきりしないが、一説には永正5年(1508)11月4日または12月4日に多芸にて没したという。享年60とも、62歳とも言われている。】文明2年(1470)には北上し、三重郡・朝明郡にも進出した。文明3年(1471)3月23日、伊勢で死去した。享年49歳。死因は腫物であったようである。跡を嫡男の政具が継いだ。伊勢北畠氏からは木造氏(一志郡)、大河内氏(飯高郡)、坂内氏(飯高郡)、田丸氏(度会郡)、星合氏(一志郡)、波瀬氏(一志郡) 、岩内氏(飯高郡)、藤方氏(安濃郡)の諸氏が分かれ出て、それぞれ御所と称された。木造御所は北畠庶流の筆頭であったが、木造御所の官位は北畠宗家・多芸御所を上回ることもあり、度々宗家と対立した。そのため、田丸御所・坂内御所・大河内御所の三家が北畠三御所となり、なかでも大河内氏は筆頭とされ、宗家が絶えたときは、これを継ぐ立場にあった。また、奥州・津軽には、北畠顕家の子孫説や北畠顕信の子孫説、または顕家(または顕信)の子孫が入婿となったとされる北畠庶流が浪岡御所として存続していた。 10、「北畠 材親」(きたばたけ きちか)は、伊勢国の守護大名・公家。伊勢国司北畠家の第6代当主でもある。応仁2年(1468年)、第5代当主・北畠政具(のち政郷、政勝に改名)の長男として生まれる。はじめ具方(ともかた)を名乗るが、のちに第10代将軍足利義材(のちの義稙)から偏諱を受けて材親と改める。若い頃から父と共に二元政治を行い、また父と共に伊勢北部の神戸氏や長野氏らの領土に侵攻して勢力を拡大した。伊勢南部においても、宇治山田の神人層と対立して抗争し、勢威を拡大した。永正5年(1508)の父の死去により、家督を継いで当主となる(実際にはかなり前に譲られていたとの説もある)。この際、伊勢守護職に任じられた。永正8年(1511)、病を理由に剃髪し、家督を嫡男の晴具に譲って飯高郡大石村に隠居した。永正14年(1517年)に死去。享年50歳。
2024年04月26日
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当初は有力守護大名による衆議によって政治を行っていた義教だが、長老格の三宝院満済、山名時熙の死後から次第に指導力を発揮するようになった。義教は将軍の権力強化を狙って、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者を家督に据えさせた。永享11年(1439)の永享の乱では、長年対立していた鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶達が根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなった。足利将軍の中では父の3代将軍足利義満に比肩しうる権力を振るった義教だが、猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられた。当時の公家の日記には、些細なことで罰せられ所領を没収された多くの者達の名が書き連ねられている。中には遠島にされたり、殺された者もいた。伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』は義教の政治を「万人恐怖」と書き記している。満祐の隠居この頃、幕府の最長老格となっていた赤松満祐は義教に疎まれる様になっており、永享9年(1437)には播磨、美作の所領を没収されるとの噂が流れている。義教は赤松氏の庶流の赤松貞村(持貞の甥)を寵愛し、永享12年(1440)3月に摂津の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。同年5月、大和出陣中の一色義貫と土岐持頼が義教の命により誅殺された(大和永享の乱)。「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は「狂乱」したと称して隠居した。嘉吉元年(1441年)4月、持氏の遺児の春王丸と安王丸を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝の結城城が陥落した(結城合戦)。捕えられた春王丸、安王丸兄弟は、護送途中の美濃垂井宿で斬首される。これより先の3月、出奔して大和で挙兵し、敗れて遠く日向へ逃れていた義教の弟の大覚寺義昭も島津忠国に殺害されており、義教の当面の敵はみな消えたことになった。6月18日、義教から家督介入の圧力を受けた富樫教家が逐電、弟の泰高が後を継いだ。23日には吉良持助が出奔している。将軍暗殺6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招いた。『嘉吉記』などによると、「鴨の子が沢山できたので、泳ぐさまを御覧下さい」と招いたという。この宴に相伴した大名は管領細川持之、畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熙貴、細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちであった。他に公家の正親町三条実雅(正親町三条公治の父、義教の正室正親町三条尹子の兄)らも随行している。一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音がたった。癇性な義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた正親町三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えた。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまった。酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名達の多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑った。山名熙貴は抵抗するがその場で斬り殺された。細川持春は片腕を斬り落とされ、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負い、後日死去した。公家の正親町三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向うが、切られて卒倒。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化した。赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名は退出した。貞成親王の『看聞日記』は「赤松を討とうとして、露見して逆に討たれてしまったそうだ。自業自得である。このような将軍の犬死は、古来例を聞いたことがない」と書き残している。暗殺後の対応管領細川持之を始め諸大名達は、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもってしまった。彼らは赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は、必ず同心する大名がいたに違いないと考え、形勢を見極めていた。実際には、義教暗殺は赤松氏による単独犯行であった。満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害するつもりでいた。ところが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去した。これを妨害する大名は誰もいなかった。】応仁元年(1467)の応仁の乱では、戦火を逃れて伊勢にやってきた足利義視を保護している。北畠家は東軍方に付いたが、洛中の戦闘には参加していない。他方、敵対する北伊勢の長野工藤氏は西軍に付いている。室町時代後期、教具・北畠政郷・北畠材親の三代に関しては、幕府から伊勢守護に任命され、伊勢国司と守護を兼任した。
2024年04月26日
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7、「北畠 満雅」(きたばたけ みつまさ)は、室町時代前期の武将・公家。伊勢国司北畠家の第3代当主。北畠顕泰の次男。元服時に室町幕府第3代将軍・足利義満から偏諱を賜い、満雅と名乗る。これは義満が子の義持に将軍職を譲る応永元年(1394)までに済ませているであろう。応永6年(1399)11月、同じく義満から1字を賜った長兄の北畠満泰が応永の乱に幕府側の山名時煕軍に加勢する形で参戦し、大内軍との激闘の中で戦死。これに伴って、戦後代わって嫡男(跡取り)となる。父・顕泰から北畠家の家督を譲られたのはこれより間もなく、応永9年(1402)前後のこととされている。この年に満雅は伊勢国司に就任している。皇統が明徳の和約に反し、持明院統から大覚寺統に譲られないことを不服とし、応永21年(1414)に幕府に条件履行を迫って伊勢で挙兵した。大和宇陀郡の沢氏・秋山氏といった国人らも満雅に味方した。満雅は幕府方の城や足利方についた北畠一族の木造俊康の坂内城を攻め落とし、坂内雅俊(まさとし、木造俊康の実弟、坂内氏初代)を木造城に、実弟・顕雅(大河内氏初代)を大河内城に入れ、玉丸城・多気城・坂内城にも一族を配し、満雅自身は阿坂城に入る。応22年(1415)4月、この挙兵に対し第4代将軍足利義持は、土岐持益を大将とし伊勢に侵攻、阿坂城まで迫る。しかし、これを攻め落とすことができず、8月に後亀山法皇の仲介のもとに和睦した。正長元年(1428)7月、称光天皇が崩御して持明院統の嫡流が断絶すると、同年1月に第6代目の将軍に就任した義持の弟・足利義教は、前もって後小松上皇と謀り、持明院統の伏見宮家の彦仁王(後花園天皇)が践祚した。これに不満を持った後亀山法皇の孫・小倉宮聖承は満雅を頼り、居所の嵯峨から逃亡した。満雅はこの当時幕府と対立していた鎌倉公方・足利持氏と連合し、小倉宮を推戴して反乱を起こした。だが、満雅の反乱に激怒した義教により派遣された伊勢守護・土岐持頼(世保家)率いる幕府軍に攻められる。北畠勢は雲出川の戦いにおいて幕府軍を大破・敗走させるが、更に幕府から土岐持益・長野満藤・赤松満祐・山名持豊らが派遣された。同年(1429)12月12日、満雅は伊勢阿濃郡岩田川で長野満藤・仁木持長・一色義貫らと戦い、討ち死にした(岩田川の戦い)。この戦いで北畠家は一志郡・飯高郡を失い、それぞれ長野満藤、土岐持頼に与えられた。満雅が戦死したとき、子の教具はまだ7歳であった為、実弟の大河内顕雅が職務を代行し、北畠家を存続させた。一度は和睦したが、正長元年(1428)7月に嗣子のなかった称光天皇が崩御した際も北朝傍流の後花園天皇が後継に選ばれたため、小倉宮聖承を担いで再び反乱を起こしたが、幕府の大軍に攻められ、同年(1429)12月に安濃郡岩田川にて討ち死にした(岩田川の戦い)。この戦いで北畠家は一志郡・飯高郡を失い、それぞれ長野満藤、土岐持頼に与えられたが、のちに幕府から返還された。嘉吉元年(1441)、足利義教が暗殺された嘉吉の乱が起きると、首謀者の1人で縁戚関係にある赤松教康が国司北畠教具を頼ってきたが、保護を拒否して自害させ、幕府への恭順を示している。「嘉吉の乱」(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。赤松氏の隆盛赤松氏は播磨の地頭であったが、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄に応じて挙兵、鎌倉幕府打倒に大きく尽力し、その功績により守護に任じられた。しかし、恩賞への不満から南北朝時代の争乱では初代将軍足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となり、播磨の他に備前、美作を領し、幕府の四職の1つとなっていた家柄である。応永34年(1427)に満祐が家督を相続した時、元将軍足利義持は播磨を取り上げて寵臣である赤松持貞(満祐の又従兄弟でもあった)に与えようとし、満祐が京の屋敷を焼いて領国に引き上げる事件が起こった。義持は激怒して満祐を討とうとするが、幕府の重臣達はこれに反対した。そのうち、持貞は将軍側室との密通が露見したとして処刑されてしまい、満祐は赦免され3ヶ国の守護職を相続している。義持の死後に弟の義教が6代将軍となると、満祐は侍所頭人に就任し、義教と満祐の関係は比較的良好であった。万人恐怖4代将軍義持は、応永35年(1428)に後継者を定めないまま死去した(嫡男の5代将軍義量は早世していた)。宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟達の中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。籤引きの結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し(後に義教と改名)、6代将軍に就任した。この経緯から義教は世に「籤引き将軍」と呼ばれる。
2024年04月26日
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7、「北畠 満雅」(きたばたけ みつまさ)は、室町時代前期の武将・公家。伊勢国司北畠家の第3代当主。北畠顕泰の次男。元服時に室町幕府第3代将軍・足利義満から偏諱を賜い、満雅と名乗る。これは義満が子の義持に将軍職を譲る応永元年(1394)までに済ませているであろう。応永6年(1399)11月、同じく義満から1字を賜った長兄の北畠満泰が応永の乱に幕府側の山名時煕軍に加勢する形で参戦し、大内軍との激闘の中で戦死。これに伴って、戦後代わって嫡男(跡取り)となる。父・顕泰から北畠家の家督を譲られたのはこれより間もなく、応永9年(1402)前後のこととされている。この年に満雅は伊勢国司に就任している。皇統が明徳の和約に反し、持明院統から大覚寺統に譲られないことを不服とし、応永21年(1414)に幕府に条件履行を迫って伊勢で挙兵した。大和宇陀郡の沢氏・秋山氏といった国人らも満雅に味方した。満雅は幕府方の城や足利方についた北畠一族の木造俊康の坂内城を攻め落とし、坂内雅俊(まさとし、木造俊康の実弟、坂内氏初代)を木造城に、実弟・顕雅(大河内氏初代)を大河内城に入れ、玉丸城・多気城・坂内城にも一族を配し、満雅自身は阿坂城に入る。応22年(1415)4月、この挙兵に対し第4代将軍足利義持は、土岐持益を大将とし伊勢に侵攻、阿坂城まで迫る。しかし、これを攻め落とすことができず、8月に後亀山法皇の仲介のもとに和睦した。正長元年(1428)7月、称光天皇が崩御して持明院統の嫡流が断絶すると、同年1月に第6代目の将軍に就任した義持の弟・足利義教は、前もって後小松上皇と謀り、持明院統の伏見宮家の彦仁王(後花園天皇)が践祚した。これに不満を持った後亀山法皇の孫・小倉宮聖承は満雅を頼り、居所の嵯峨から逃亡した。満雅はこの当時幕府と対立していた鎌倉公方・足利持氏と連合し、小倉宮を推戴して反乱を起こした。だが、満雅の反乱に激怒した義教により派遣された伊勢守護・土岐持頼(世保家)率いる幕府軍に攻められる。北畠勢は雲出川の戦いにおいて幕府軍を大破・敗走させるが、更に幕府から土岐持益・長野満藤・赤松満祐・山名持豊らが派遣された。同年(1429)12月12日、満雅は伊勢阿濃郡岩田川で長野満藤・仁木持長・一色義貫らと戦い、討ち死にした(岩田川の戦い)。この戦いで北畠家は一志郡・飯高郡を失い、それぞれ長野満藤、土岐持頼に与えられた。満雅が戦死したとき、子の教具はまだ7歳であった為、実弟の大河内顕雅が職務を代行し、北畠家を存続させた。一度は和睦したが、正長元年(1428)7月に嗣子のなかった称光天皇が崩御した際も北朝傍流の後花園天皇が後継に選ばれたため、小倉宮聖承を担いで再び反乱を起こしたが、幕府の大軍に攻められ、同年(1429)12月に安濃郡岩田川にて討ち死にした(岩田川の戦い)。この戦いで北畠家は一志郡・飯高郡を失い、それぞれ長野満藤、土岐持頼に与えられたが、のちに幕府から返還された。嘉吉元年(1441)、足利義教が暗殺された嘉吉の乱が起きると、首謀者の1人で縁戚関係にある赤松教康が国司北畠教具を頼ってきたが、保護を拒否して自害させ、幕府への恭順を示している。「嘉吉の乱」(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。赤松氏の隆盛赤松氏は播磨の地頭であったが、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄に応じて挙兵、鎌倉幕府打倒に大きく尽力し、その功績により守護に任じられた。しかし、恩賞への不満から南北朝時代の争乱では初代将軍足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となり、播磨の他に備前、美作を領し、幕府の四職の1つとなっていた家柄である。応永34年(1427)に満祐が家督を相続した時、元将軍足利義持は播磨を取り上げて寵臣である赤松持貞(満祐の又従兄弟でもあった)に与えようとし、満祐が京の屋敷を焼いて領国に引き上げる事件が起こった。義持は激怒して満祐を討とうとするが、幕府の重臣達はこれに反対した。そのうち、持貞は将軍側室との密通が露見したとして処刑されてしまい、満祐は赦免され3ヶ国の守護職を相続している。義持の死後に弟の義教が6代将軍となると、満祐は侍所頭人に就任し、義教と満祐の関係は比較的良好であった。万人恐怖4代将軍義持は、応永35年(1428)に後継者を定めないまま死去した(嫡男の5代将軍義量は早世していた)。宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟達の中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。籤引きの結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し(後に義教と改名)、6代将軍に就任した。この経緯から義教は世に「籤引き将軍」と呼ばれる。
2024年04月26日
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堺では幕府軍の総攻撃を撃退した大内勢が意気を揚げていた。しかし、幕府軍は火攻めを計画して左義長(爆竹)を用意して道を整え、12月21日早朝に総攻撃を開始した。幕府軍は強風に乗じて城中に火を放ち、矢倉を倒して激しく攻め寄せた。杉備中守は今日が最後の戦いになると覚悟し、山名(河口)満氏(氏清の子、宮田時清(既述)の弟)の陣に突撃して見事な討死を遂げた。これを見ていた義弘は項羽の討死の故事を引き、自分も後代に残るような最期を遂げようと決意する。義弘は幕府軍の北側の陣へ斬り込み大太刀を振るって奮戦。管領畠山基国の嫡子満家の軍勢200騎がこれに挑むが、義弘はよき敵であると僅か30騎でさんざんに戦った。その時、石見の住人200騎が幕府軍に内応してしまう。激怒した義弘は石見勢に攻めかかり、恐怖した石見勢は逃げ散った。義弘はなおも満家を討ち取ろうと戦い続け、幕府軍はこれを取り囲んで攻め立てた。義弘の手勢は次第に数を減らし森民部丞ひとりになってしまった。森民部丞は義弘を守って敵陣に斬り込み奮戦して討死した。一人になった義弘は満家を目がけて戦い続けるが、取り囲まれ遂に力尽きて「天下無双の名将大内義弘入道である。討ち取って将軍の御目にかけよ」と大音声を発して、討ち取られた。南側を固めていた杉豊後守は義弘の死を知らされて敵陣に切り込んで討死。東側を固めていた弘茂は今川勢、一色勢を相手に戦っていたが、手勢も討ち減らされ、最早これまでと自害しようとした。平井備前入道が押し止めて降伏を勧め、弘茂もこれに従った。その他の大内勢も落ち延びるか自害して、堺は落城した。鎌倉公方足利満兼は武蔵府中から下野足利荘(栃木県足利市)まで進軍するが、義弘敗死の報を聞いて鎌倉へ引き返した。戦後応永7年(1400)3月、鎌倉公方足利満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪した。満兼を謀叛に誘った今川了俊は幕府から討伐の命を受けたために上洛して謝罪し、助命された。但し遠江・駿河守護職は取り上げられ、甥の今川泰範に与えられている。以後は政治活動は起こさず、和歌、連歌に没頭することになる。その後の論功行賞で、義満は大内氏の分国和泉・紀伊・石見・豊前を没収。和泉を仁木義員、紀伊を畠山元国、石見を京極高詮に、周防・長門を降参した弘茂に与えた。しかし、周防・長門の本拠を守っていた盛見はこれに従わずに抵抗。弘茂は幕府の援軍とともに盛見を攻めてこれを追うが、応永8年(1401)に九州で盛見は再挙し、数度の合戦の後、弘茂は佐加利山城(現在の下関市長府)で滅ぼされた。盛見は更に安芸、石見まで勢力を伸ばす。幕府もこれを認めざるを得なくなり応永12年(1405)頃に盛見に周防・長門の守護職を与え、更に豊前・筑前の守護まで加えてようやく帰順させた。こうして、いったんは没落しかけた大内氏は再び勢力を盛り返すことになった。】 また、重臣鹿伏兎氏(かぶとし)に伝承した言い伝えでは、このとき鹿伏兎孫太郎忠賀に命じて、南朝最後の大将楠木正勝(正成の孫)とその息子の正顕・正尭兄弟ら楠木党を幕府の兵に変装させて、城内から救ったとされ、その後、正顕は伊勢楠木氏の祖として北畠家に仕えている(『鹿伏兎記』『鹿伏家楠氏詳伝』『邑戦異闘家記系図』)。乱後は義満から軍功を賞されて伊賀半国と近江甲賀郡を賜ったという。同9年(1402)10月に没したとする『南方紀伝』の説[11]は誤りだが、国司の発給した御教書の変遷から考えると、この年前後に二男満雅へ家督を譲った可能性が高い。同13年(1406)12月、上洛して義満に謁見。その後しばしば上洛して裏松重光や山科教言・教興を訪問しているが、これは幕府との関係を円滑に維持するための交渉であろう。特に同19年(1412)6月に斯波義教の館を訪問した際は重光も同席しており、顕泰側が次代の皇位継承につき何らかの条件を提示して交渉を行ったと思われる。ところが、同年8月に持明院統(旧北朝)の躬仁親王(称光天皇)が践祚。顕泰はそれを見届けるかのごとく、翌月伊勢に下向した。その後の消息は不明であり、死没を伝える史料もない。しかし、『公卿補任』には、養子の木造俊康が応永21年(1414)7月30日に「養父」の喪を終えて復任したと見えており、この「養父」は顕泰のことと解されよう。服解は数か月に及ぶのが通例であるから、顕泰はこの年の前半に薨去したのではないかと思われる。室町時代に入っても伊勢で独自の勢力を持ちその支配形態は国司体制を維持するいわば公家大名というべきものであった 。幕府の伊勢守護の勢力圏が北伊勢に限られたのに対し、雲出川以南の一志郡、飯高郡、飯野郡、多気郡、度会郡といった南伊勢は北畠家が掌握していた。また、歴代の当主は一志郡の多芸城(霧山城)を居城とし、多芸御所と呼ばれた。南北朝合一後、明徳の和約が守られず北朝系によって天皇位が独占されるようになったことに反発し、応永22年(1415)に北畠満雅が室町幕府に対して挙兵した。
2024年04月26日
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義弘は一門重臣たちと対応を内談。弟の弘茂は上意に従い参洛することを主張。平井備前入道も恭順して嘆願すべきであり、さもなくば朝敵となり御家滅亡になると義弘を説得した。一方、杉豊後入道は将軍は当家を滅ぼそうとしていると抗戦を主張した。義弘は絶海中津と面談。絶海中津は将軍家が義弘を滅ぼそうとしているとの噂を信じず、上洛して将軍家に謝罪すべきことを説く。義弘は将軍家からの御恩の深さを感謝しながらも、今川了俊に従軍しての九州での戦い、明徳の乱、南北朝合一、少弐氏退治での自らの功績を述べ、それにも関わらず将軍家は和泉と紀伊を取り上げようとし、先年の少弐氏との戦いで討ち死にした弟の満弘の子への恩賞がない不満を述べる。絶海中津は義弘の忠節は隠れ無きものであり、世の噂を信じるべきではない、また満弘の子への恩賞がないのは上洛しないために行賞できないからだと重ねて上洛を促した。これに対して、義弘は政道を諌めるため関東(鎌倉公方足利満兼)と同心しており、ここで上洛すれば約束を違える事になる、来月2日に関東とともに上洛すると言い放った。事実上の宣戦布告である。絶海中津は説得を諦めて帰京する。もっとも、「応永記」などに描かれた義弘の姿には必ずしも実際の流れに則していたとは言えない。この時、既に関東の鎌倉公方足利満兼から義弘の元に興福寺に対して決起を促す御教書が届けられていたが、その御教書が実際に興福寺へ届けられたのは11月4日であった。堺と奈良の距離を考えると、この書状が堺を出たのは絶海中津との会談から数日経っていたと考えられ、義満が実際に義弘討伐の軍を発向させるまで、義弘の心中では義満と戦うか否かで迷っていた可能性が高い。絶海中津からの報告を受けた義満は翌10月28日に義弘討伐を命じる治罰御教書を出した。ただちに細川頼元、京極高詮、赤松義則の先発隊6000余騎が淀から和泉へ発向する。11月8日、義満は馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構えた。11月14日、義満は八幡まで進み、管領畠山基国と前管領斯波義将が率いる主力3万騎が和泉へ発向した。義弘は評定を開き作戦を談じた。弟の弘茂は城を構えて和泉、紀伊に割拠して持ちこたえる策を提案。杉豊後入道は機制を制して舟で尼崎に上陸して八幡の陣を突き決戦することを主張した。かねてから謀反を諌めていた平井備前入道は出戦は無益であるとし篭城策を説いた。義弘は篭城策を採った。義弘は材木を集め、井楼48と矢倉1000余を建てて堺に方18町の強固な城を築き、「たとえ百万騎の軍勢でも破ることはできない」と豪語した。一方で、義弘は討死を覚悟して、かねて帰依していた僧を招き自らの葬儀を執り行った。また、周防に残した母に形見と遺言を送り、弟の盛見には分国を固く守るよう申し送った。義弘に従う者たちもみな討死を覚悟した。城攻め幕府軍3万余騎は堺を包囲し、海上は四国・淡路の海賊衆100余艘が封鎖した。義弘は河内国の森口城で戦っていた杉九郎と鴨山に配備した杉備中守を立退かせて堺に兵力を集中させた。義弘の軍勢は5000余騎。11月29日、幕府軍が一斉に鬨の声をあげて総攻撃を開始した。大内勢はこれに応じて、矢倉からさんざんに射まくった。管領畠山基国の軍勢2000余騎が北側の一の木戸、二の木戸を打ち破り、三の木戸まで攻め寄せ700人余が死傷する激戦を展開する。畠山勢に代って山名時熙の軍勢500余騎が攻め寄せ、城内からは杉豊後ら500余騎が出撃して戦う。義弘も200余騎を率いてこれに合力する。伊勢国司の北畠顕泰の軍勢300余騎が山名勢に加勢、子息の満泰が討死する程激しく戦った。細川勢、赤松勢の5000余騎は南側から、六角勢、京極勢は東側から攻め寄せる。戦いは夜まで続き、無数の死傷者が出た。反義満派の蜂起その頃、義弘に同心した土岐詮直が挙兵して尾張へ討ち入り、美濃国へ侵攻した。美濃守護の土岐頼益は大内攻めの陣にいたが、直ちに美濃へ引きかえして詮直を打ち破る。宮田時清も義弘に同心して丹波へ討ち入り、京へ侵入して火を放ち、300余騎で八幡の幕府軍本陣を目指して突入した。時清の軍勢は幕府軍の陣を次々に打ち破るが力尽きて退却した。京極秀満は近江で挙兵して、京への侵攻を図った。三井寺の衆徒500人が勢多で橋を焼いてこれを待ち受ける。秀満はやむなく森山に陣を構えて対峙した。大内攻めに加わっていた京極勢1000余騎が引き返して森山へ迫ると、秀満は土岐詮直と合流すべく美濃へ向かうが途中で土一揆の蜂起に遭って潰走、秀満は主従2騎で落ちて行方知れずになった。なお、秀満の官職が金吾(左衛門尉)であったことから、この挙兵だけを指して金吾騒動(きんごそうどう)とも称する。鎌倉公方足利満兼は1万騎余を率いて武蔵府中高安寺まで進んだが、関東管領上杉憲定に諌められて兵を止めた。落城
2024年04月26日
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しかし、間もなく幕府からの懐柔策で旧領を安堵されると、一転して幕府に帰順する姿勢を表明。同年9月に伊勢参宮途次の将軍足利義満を招宴し、長男親能が偏諱を賜って満泰と改名した。応永元年(1394年)11月、上洛して伝奏広橋仲光を訪問しているが、仲光を介して何か幕府に期するところがあったらしい。この後出家を果たしたことにより、幕府から「伊勢国司」の称号と併せて伊勢南半国(度会・多気・一志・飯高・飯野郡)の遵行権を承認され、実質的に守護と同格の権門として位置付けられた。同6年(1399)11月の応永の乱に際しては、300余騎を率いて和泉堺浦に出陣して山名時熙とともに大内義弘軍と戦い、この時満泰が討死している。 *「応永の乱」(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399)に、守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱である。室町幕府の将軍は有力守護大名の連合に擁立されており、その権力は弱体だった。3代将軍足利義満は将軍権力を強化するため、花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強した。また、義満は有力守護大名の弱体化を図り、康暦元年(1379)、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させた(康暦の政変)。康応元年(1389)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下す(土岐康行の乱)。そして明徳2年(1391)、11カ国の守護となり「六分の一殿」と呼ばれた大勢力の山名氏の分裂をけしかけ、山名時熙と氏之の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させた。さらに、時熙と氏之を赦免して氏清と満幸を挑発、挙兵に追い込み滅ぼした。山名氏は3カ国を残すのみとなってしまった(明徳の乱)。守護大名大内氏大内氏は百済聖王(聖明王)の王子琳聖太子を祖と称し、周防に土着して武士となり、鎌倉幕府の御家人に連なった。南北朝の争乱では南朝に付くが後に北朝に帰順して九州の菊池氏らと戦い、幕府から周防・長門・石見の守護職に任じられた。大内義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられた。明徳の乱では義弘は大いに奮戦して武功著しく、和泉・紀伊の守護職を与えられる。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになった。義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていた。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていた。周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6ヶ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘った。義満と義弘の対立応永元年(1394)義満は将軍職を嫡男の義持に譲り、太政大臣に昇る。もちろん、実権は掌握したままだった。応永2年(1395)には太政大臣を辞して出家し、道義と称した。諸大名、公家はこぞってこれに追従して出家し、義弘もまた出家した。この頃までは義満と義弘の関係は良好だったが、応永4年(1397)、義満は北山第の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めた。しかし、諸大名の中で義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれに従わず、義満の不興を買った。同年末、義弘は少弐氏討伐を命じられ、筑前で戦い弟の満弘が討死するがその子への恩賞の沙汰が無く不満を募らせ、義満が裏で少弐氏と菊地氏に義弘を討つように命じていたとの噂もあり憤慨していた。応永5年(1398)、来日した朝鮮使節から義弘が莫大な進物を受け取っていたことを斯波義将らが「義弘は朝鮮から賄賂を受け取っている」と義満に讒言し、それが義弘に聞こえて激怒させている。大陸との貿易の推進を図る義満にとっても朝鮮と強いつながりを持つ義弘の存在は目障りなものになった。義満は度々義弘へ上洛を催促するが、「和泉、紀伊の守護職が剥奪される」「上洛したところを誅殺される」との噂が流れ、義弘を不安にさせた。追い込まれた義弘は鎌倉公方足利満兼と密約を結んだ。この密約は今川了俊が仲介した。了俊は義満によって一方的に九州探題を解任され、遠江・駿河半国守護に左遷されていた。さらに義弘は、先年の土岐康行の乱で没落していた美濃の土岐詮直、明徳の乱で滅ぼされた山名氏清の嫡男宮田時清、近江の京極秀満(出雲守護京極高詮の弟)や比叡山・興福寺衆徒、楠氏(楠木正勝とその二子の正盛(正顯)・正堯)・菊地氏(菊池肥前守=菊池武照もしくは菊池兼朝)ら旧南朝方と連絡をとり挙兵をうながした。挙兵応永6年(1399)10月13日、大内義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着き、家臣の平井新左衛門を入洛させるが、自身は参洛しなかった。義満の元に大内義弘謀反の噂が伝わる。義満は青蓮院門跡尊道法親王に仕える伊予法眼を堺へ送り上洛を促すが、義弘は「意に沿わないことがある」と参洛に応じない。10月27日、義満は禅僧の絶海中津を使者として堺へ派遣した。
2024年04月26日
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結局、後光厳の系統は称光の代で途絶え、後南朝を牽制するために伏見宮家から皇統を迎えて後花園天皇(崇光の曾孫)とし、以降皇位は伏見宮家から擁立することとなった。武将間の対立一度直義に与した武将達と、一貫して尊氏に従った武将達との間で派閥が現れ、守護大名を勢力の中心として2つの派閥が拮抗する情勢が生まれた。義詮の晩年の頃には、この対立が顕著になっていた。】 その後、多気に帰って兵力を休め、回復の機会を窺っていたことであろう。かくして兵勢はまたもや盛んとなり、同年10月には阿坂城に来攻した細川元氏・土岐頼康らを迎撃。翌正平8年/文和2年(1353)2月には伊勢から兵を率いて大和宇陀郡に進出し、その先陣は南都に達したという。同年6月、京都回復の作戦に顕能自らは参加していないが、背後には伊勢の軍事力が関与していたと見て大過ない。北勢・伊賀へ進出これ以降は史料に乏しく、顕能の活動について多くを知ることは難しい。ただ、伊勢の動向にしばらく変化が見られないことからして、顕能は依然伊勢国司として南朝の藩屏を確保していたのであろう。近世に成立した南朝関係の軍記は、晩年に至るまで以下のような戦歴を伝えるが、これらの真偽の程は明らかでない。正平10文和4(1355)5月六角氏が伊賀に侵入するも、これを防いだ春日部高貞が戦死したため、自ら数千騎を率いて六角勢を退ける。正平15年/延文5年(1360)2月足利義詮・畠山国清が行宮に来攻したため、3000余騎を率いて伊賀・大和の国境に出陣し、敵の糧道を断つ。正平24年/応安2年(1369)9月土岐頼康が伊勢に侵入したため、子の顕泰を大将としてこれを退け、三重郡に諸城を築いて要害の地とする。建徳2年/応安4年(1371)6月安濃郡に出陣して土岐康行を破り、同郡を領する。建徳3年/応安5年(1372)3月朝明郡に出陣して仁木義長を破り、同郡を領する。(以上、主に『桜雲記』・『七巻冊子』・『伊勢之巻』などによる)正平16年/康安元年(1361)敵対していた伊勢守護仁木義長が南朝に降ると、顕能はこれを機に北勢・伊賀方面へ進出したが、義長を美濃から攻める土岐氏とも衝突し、伊勢は北畠・仁木・土岐の三者が鼎立する情勢となった。また同じ頃、伊勢在国のまま内大臣に任じられたらしく、このことは『古和文書』にある正平24年(1369)10月3日付の御教書に「北畠前内大臣家」と見えていることからも裏付けられよう。伊勢国司としての活動の終見は、『南狩遺文』にある建徳3年(1372)4月日付の御教書だが、『桜雲記』・『南方紀伝』などによれば、顕能は文中元年(1372年)従一位・右大臣に叙任され、天授2年(1376)二男顕泰に国司職を譲ったとされるので、晩年は伊勢経営から引退して吉野に伺候していた可能性もある。『南朝公卿補任』によれば、天授5年(1379)東宮傅となり、翌年出家したとあるが、確実でない。顕能が薨去したのは、『桜雲記』・『南方紀伝』によると、弘和3年/永徳3(1383)7月のことである。その根拠は明らかでないが、同年冬には強硬派の長慶天皇から和平派の後亀山天皇への譲位が行われているので、南朝の柱石であった顕能の死は9年後の南北朝講和へ向けて舵を切る契機となったのかも知れない。享年は58とも伝え、一説に臨終に際して准后宣下を受けたという。終焉の地は多気であろう。人の兄と同様、南朝護持のため戦闘に明け暮れた生涯を閉じた。葬地は多気金剛寺(『伊勢之巻』、正しくは金国寺か)や室生寺(『北畠家譜』)と伝える他、津市美杉町下之川にある五輪塔跡(塚原中世墓)を墓に比定する伝承もある。なお、公家らしく歌人としての一面もあり、『新葉和歌集』に18首入集した「入道前右大臣」とは顕能に比定されるのが古来通説である。全て題詠か題知らずの歌で、歌会に参加した形跡のないことは、顕能が天皇に近侍せず、長く辺地にあって藩屏を全うしたことを窺わせる。特に「いかにして伊勢の浜荻吹く風の治まりにきと四方に知らせむ」(雑下・1246)の1首は広く知られており、顕能を祀る北畠神社にはその歌碑がある。また、『新続古今和歌集』にも読人不知として1首入集する。 6,「北畠 顕泰」(きたばたけ あきやす)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公卿・武将。右大臣北畠顕能の二男。父から伊勢国司を継ぎ、南朝方として多気を拠点に活躍したが、南北朝合一後は室町幕府に帰順した。『南方紀伝』によれば、天授2年/永和2年(1376)に権中納言・伊勢国司に任じられたと伝えるが、『古和文書』にある文中2年(1373)9月8日付の御教書写が顕泰の発給に係るものとすると、当時既に国司を継いでいた可能性も否定できない。やがて正二位・権大納言に至り、右近衛大将を兼任する。元中6年/康応元年(1389)3月、北伊勢に進出し、武家方の一色詮範・仁木満長らと交戦。この年には大和宇陀郡を攻略したというが、先の元中4年/嘉慶元年(1387)に同郡室生庄下司の間で起きた違乱に関して、顕泰がその調停に介入していることから、当郡は元来北畠氏の勢力圏にあったと考えられよう。元中9年/明徳3年(1392)の南北朝合一の際に講和を受諾した形跡はなく、幕府に対して抵抗を続けたとみられ、翌明徳4年(1393)1月に伊勢鈴鹿郡で土岐康政と交戦してこれを破った。
2024年04月26日
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この中で道誉の息子佐々木秀綱が戦死、義詮は美濃にまで落ち延びる。義詮は独力での京都奪還を諦め尊氏に救援を求める。尊氏が鎌倉から上京すると時氏らは京都を放棄し撤退、足利方は京都を回復した。元来道誉は佐々木家庶流として武家方の事務官僚として恩賞の沙汰などを取り扱っていた。しかしながら天皇不在という緊急事態の解決や、南朝との戦において功績を示した。よってこの頃から義詮第一の側近としてその存在感は著しく大きなものとなった。彼は事実上の武家方の最高権力者となり政権の舵取りをするようになる。しかしながら彼にはトラブルメーカー的な側面も大きかった。これ以後道誉と対立した武将が武家方から離反もしくは放逐され南朝方に帰順するという政変・戦が繰り返されることになる。直冬蜂起近畿、関東において上記のような争いが続く間、九州では直冬が猛勢を誇っていた。もともと九州では尊氏が北畠顕家に敗れて落ち延び、その後上京した際に一色範氏(道猷)を九州探題として残していたが、道猷が在地の守護層と厳しく対立していた上、後醍醐天皇が自身の息子懐良親王を征西大将軍として派遣し、懐良親王は菊池武光を指揮下に入れ勢力を伸長させていた。このような複雑な情勢の中で、国人層は恩賞を求め右往左往していた。直冬は九州へ到来するやいなや文章を多数発給し新たな主のもと勢力の伸長を目指す国人層から一定の支持を得た。尊氏は師直らと図り一色派の守護に直冬討伐令を出す。直冬は尊氏と対立する身でありながら、尊氏の実子という自らの立場を利用し勢力を伸ばしていた。一方で尊氏からは直冬討伐の令が発令されるという事態に対して直冬は「これは師直の陰謀である」と宣伝するという対応を取った。直冬は尊氏の本心が奈辺にあるのか一番よく分かっていたであろうが、直冬には尊氏の実子という立場以外この時頼るものはなかった。尊氏の直冬への憎悪自体常軌を逸した一種のパラノイアのようなものであり、遠く離れた九州の武士達には理解が及ばず、「尊氏の実子直冬が、逆賊師直を討伐すべく九州で兵を集めている」という直冬が提示した分かりやすい大義名分は次第に支持を集めていった。直冬の勢力伸長に対して、在地の守護の筆頭であった少弐頼尚は道猷を打ち破る為の旗頭として直冬に注目する。こうして正平5年/貞和6年(1350)に直冬と頼尚は連合し、道猷を打ち破り博多を奪う。しかしながら正平7年/観応3年(1352)に直義が死亡すると直冬の勢力は一気に崩壊、諸武士の離反が相次ぐ中で頼尚だけは最後まで直冬を支え続けたが結局直冬は九州から逃亡する。 この際、直冬は九州を統治することではなくあくまで上京し尊氏・義詮を殺害することを目的としていたから、中国地方へ対する政治工作を活発に行なっており、直冬派が九州で崩壊した後も直冬は中国地方、特に長門と石見では勢力を保っていた。正平9年/文和3年(1354)5月には、桃井直常、山名時氏、大内弘世ら旧直義派の武将を糾合すると直冬は石見から上京を開始する。正平10年/文和4年(1355)1月には南朝と結んで京都を奪還する。しかし神南の戦いで主力の一角山名勢が道誉、則祐を指揮下に入れる義詮に徹底的に打ち破られ崩壊する。直冬は東寺に拠って戦闘を継続したが、義詮は奮戦し徐々に追い詰められてゆく。そして最後には尊氏が自ら率いる軍が東寺に突撃し直冬は撃破され敗走した。尊氏は東寺の本陣に突入したあと自ら首実検をして直冬を討ち取れたか確認しており、尊氏の直冬への憎悪の程が推察される。直冬勢は結局このまま完全に崩壊し、直冬は西国で以後20年以上逼塞することになり、消息は明確でない。なお、大内弘世と山名時氏は正平18年/貞治2年(1363)には幕府に帰順している。なお尊氏はこの一連の戦闘の間に受けた矢傷が原因となり4年後の正平13年/延文3年(1358)に戦病死している。室町将軍の権力確立この乱により、師直と直義に分割されていた武家方の権力は、将軍尊氏と嫡子義詮のもとに一本化され、将軍の親裁権は強化された。また、直義の目指した鎌倉幕府の継承路線は形骸化され、師直が推進した将軍の命令とその実施を命じた執事の施行状・奉書の発給によって上意下達が行われていく室町幕府の指揮系統が確立されることになる。その後、将軍を継いだ義詮によって執事の廃止と更なる将軍の親裁権の強化が図られたが、その早世によって挫折する。そして、幼少の3代将軍義満を補佐するために、執事が引付頭人の職権を吸収した新たな役職「管領」が成立することになる[10]。南朝の延命室町将軍の権威強化の一方で師直によって吉野を落とされ滅亡寸前にまで追い込まれた南朝は、直義・尊氏が交互に降りたことで息を吹き返し、その結果南北朝の動乱が長引いた。北朝内の皇統対立後光厳、後円融、後小松、称光と4代にわたって後光厳系が皇位についた一方、兄筋の崇光上皇の子孫は嫡流から排されて世襲親王家である伏見宮家として存続し、北朝内部でも皇位継承をめぐる両系統間の確執があったとされている。
2024年04月26日
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これを正平一統(しょうへいいっとう)と呼ぶ。12月23日には南朝方が神器を回収した。実質的にこれは北朝方の南朝側への無条件降伏となった。尊氏は義詮に具体的な交渉を任せたが、南朝方は、北朝方によって任じられた天台座主始め寺社の要職を更迭して南朝方の者を据えることや、建武の新政において公家や寺社に与えるため没収された地頭職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め、北朝方と対立する。義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。一方尊氏は直義追討のために出陣、12月の薩埵峠の戦いや相模国早川尻の戦いなどで直義方を破り、翌正平7年(観応3年、1352年)1月には鎌倉に追い込んで降伏させた。その後浄妙寺 (鎌倉市)境内の延福寺に幽閉された直義は2月26日に急死した。公には病没とされたが、この日は高師直の1周忌にあたり、『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。破談南朝方はこの和議を受けて増長する。後醍醐天皇の側近北畠親房を中心に、京都と鎌倉から北朝と足利勢力の一掃を画策した。まず閏2月6日に南朝は尊氏の征夷大将軍を解き、これに替えて宗良親王を任じる。すると新田義興・脇屋義治・北条時行らが宗良親王を奉じて挙兵し鎌倉に進軍した。鎌倉の尊氏は一旦武蔵国まで引いたため、同18日には南朝方が一時的に鎌倉を奪回した。しかし尊氏は武蔵国の各地緒戦で勝利し、3月までに新田義宗は越後、宗良親王は信濃に落ち延び、鎌倉は再び尊氏が占領した(武蔵野合戦)。一方閏2月19日には北畠親房の指揮下、楠木正儀・千種顕経・北畠顕能・山名時氏を始めとする南朝方が京都に進軍、七条大宮付近で義詮・細川顕氏らの軍勢と戦い、翌日には義詮を近江に駆逐して入京した。24日には准后宣下を蒙った北畠親房が17年ぶりに京都に帰還、続いて北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を南朝方本拠の賀名生へ移した。後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へと移して京をうかがった。義詮は、近江の佐々木道誉、四国の細川顕氏、美濃の土岐頼康、播磨の赤松氏らに加え、足利直義派だった山名時氏や斯波高経らの与力も得て布陣を整え、3月15日には京へ押し返してこれを奪還、さらに21日には男山八幡に後村上天皇を包囲し兵糧攻めにした。この包囲戦は2か月にもおよぶ長期戦となり、飢えに苦しんだ南朝方は5月11日に後村上天皇が側近を伴い脱出、男山八幡は陥落した(八幡の戦い)。こうした事態を受けて尊氏と義詮は相次いで3月までに観応の元号復活を宣言、ここに正平一統はわずか4か月あまりで瓦解した。北朝の再擁立尊氏が南朝に降った時に南朝が要求した条件に、皇位は南朝に任せるという項目があったため、北朝の皇位の正統性は弱められる結果となった。京都は奪回したものの、治天の君だった光厳上皇、天皇を退位した直後の崇光上皇、皇太子直仁親王は依然として南朝にあり、さらに後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたため、北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態に陥った。また武家にとっても尊氏が征夷大将軍を解任されたため、政権自体が法的根拠を失ってしまう状況になった。最終的な政治裁可を下しうる治天・天皇の不在がこのまま続けば、京都の諸勢力(公家・武家・守護)らの政治執行がすべて遅滞することになる。幕府と北朝は深刻な政治的危機に直面することになったのである。事態を憂慮した道誉、元関白の二条良基らは勧修寺経顕や尊氏と相計って、光厳・光明の生母広義門院に治天の君となることを要請し、困難な折衝の上ようやく受諾を取り付けた。広義門院が伝国詔宣を行うこととなり、崇光上皇の弟・弥仁が8月17日践祚、9月25日後光厳天皇として即位した。9月27日、北朝は正平統一はなされなかったとして従来の観応からの改元を行い、文和元年とした。良基は神器なしの新天皇即位に躊躇する公家に対して「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている(『続本朝通鑑』)が、当時、過去に後白河法皇が後鳥羽天皇を即位させた例にあるように、即位に当たって神器の存在は必ずしも要件とはなっておらず、治天による伝国詔宣により即位が可能であるとする観念が存在していた。南朝方が治天を含む皇族を拉致したのはそのためだが、北朝方はその盲点を衝くかたちで女院を治天にするという苦肉の策でこの危機を乗り切ったのである。だが、この一連の流れは正平一統と相まって、後に北朝でなく南朝に皇統の正統性を認める原因の1つとなり、幕府と北朝の権威は大幅に低下した。時氏離反と道誉の伸長南朝との戦において一時は旧直義派との協力関係を構築できたかに見えた尊氏・義詮派だったが、正平8年/文和2年(1353)には道誉と山名時氏・師義父子が所領問題で対立し、時氏が再び将軍側から離反するという事態を招く。時氏は出雲に侵攻し道誉の部将吉田厳覚を打ち破り出雲を制圧、そのまま南朝の楠木正儀と連合し6月、京都に突入する。義詮は正平一統破談の後に天皇を奪われ足利政権崩壊の危機を招いた経験から、まず天皇の避難を最優先に行なった。天皇を山門に避難させると、自らは京都に残り京都の防衛を試みたが結局打ち破られ天皇共々東へ落ち延びることになった。
2024年04月26日
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足利直冬の台頭、直義派の決起この年の4月に長門探題に任命されて備後に滞在していた直冬は、事件を知って義父の直義に味方するために中国地方の兵を集めて上洛しようとしたが、尊氏は師直に討伐令を出したため九州に敗走し(9月)、今度は九州で地盤を固め始めた。尊氏方は出家と上洛を命じるが従わなかったため、再度討伐令を出した。直冬は拡大させた勢力を背景に大宰府の少弐頼尚と組み、南朝方とも協調路線をとって対抗した。翌正平5年/貞和6年(1350年)、北朝は「貞和」から「観応」に改元。この頃各地で南朝方の武家が直冬を立てて挙兵する。10月28日、西で拡大する直冬の勢力が容易ならざるものと見た尊氏は自ら追討のために出陣、備前まで進んだ。しかし、この直前の10月26日に直義は京都を出奔していた。直義は大和に入り、11月20日に畠山国清に迎えられて河内石川城に入城、師直・師泰兄弟討伐を呼びかけ国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏、吉良貞氏、山名時氏、斯波高経らを味方に付けて決起した。これが擾乱の始まりである。関東では12月に関東執事を務めていた上杉憲顕と高師冬の2名が争い、憲顕が師冬を駆逐して執事職を独占する。直義方のこうした動きに直冬討伐どころではなくなり、尊氏は同月に備後から軍を返し、高兄弟も加わる。北朝の光厳上皇による直義追討令が出されると、12月に直義は一転してそれまで敵対していた南朝方に降り、対抗姿勢を見せた。高一族の滅亡正平6年/観応2年(1351)1月、直義軍は京都に進撃。留守を預かる足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びた。2月、尊氏軍は京都を目指すが、播磨光明寺城での光明寺合戦及び2月17日の摂津打出浜の戦いで直義軍に相次いで敗北する。南朝方を含む直義の優勢を前に、尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てて直義との和議を図った。この交渉において尊氏は表向きは師直の出家(助命)を条件として挙げていた。しかしながら実際には氏直には直義に"師直の殺害を許可する"旨を伝えるようにという密命を伝えていた。2月20日、和議は成立するも、果して2月26日、高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の上杉能憲(憲顕の息子、師直に殺害された上杉重能の養子で、仇討ちという形になる)の軍勢により、摂津武庫川(兵庫県伊丹市)で一族と共に謀殺される。長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰、九州の直冬は九州探題に任じられた。直義と尊氏の対立高兄弟を失っていったんは平穏が戻ったものの、政権内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、それぞれの武将が独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていった。高一族滅亡から半年も立たないうちに、尊氏は直義派の一掃を図るため、戦果の恩賞や処罰を自派に有利に進め、またの武将の処罰や自派の武将への恩賞を優先した。謁見に訪れた直義派の細川顕氏を太刀で脅して強引に自派へ取り込むなど直義派の懐柔も図った。一方戦役の武功に準じた報酬や裁定を挙げられない直義の政治は武士たちに受け入れられず、これも直義派から武将が離反する原因となるなど、徐々に形勢は尊氏方に移っていった。南朝へ帰順を示した直義は、北朝との和議を交渉したが不調に終わる。調停を担った南朝方の楠木正儀は、このときの固陋な南朝方の態度に怒りを覚え、今南方を攻めるなら自分はそれに呼応するとまで口走ったとされている。3月30日直義派の事務方の武将である斎藤利泰が何者かに暗殺され、5月4日には直義派の最強硬派である桃井直常が襲撃され辛くも危機を脱するという事件が発生した。尊氏は、近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐らが南朝と通じて尊氏から離反したことにして、7月28日に尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵することで東西から直義を挟撃する体制を整えた。8月1日、事態を悟った直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である北陸・信濃を経て鎌倉へ逃亡した。この陰謀については道誉が首謀者であるとの説がある。このとき直義は光厳上皇には比叡山に逃れるよう勧めているが、受け入れられなかった。正平一統、成立京から直義派を排除したものの、直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を伸ばしていた。尊氏は直義と南朝の分断を図るため、佐々木道誉らの進言を受けて今度は南朝からの直義・直冬追討の綸旨を要請するため、南朝に和議を提案した。南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件とした。明らかに北朝に不利な条件だったが、観応2年(1351年)10月24日尊氏は条件を容れて南朝に降伏し綸旨を得た。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月7日北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭された。また元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年に統一された。
2024年04月26日
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特に延元3年/暦応元年(1338)に明確な理由がないまま上杉重能が出仕停止の処分を受け、同じく上杉憲顕が関東執事(後の関東管領)を高師冬(師直の従兄弟)に交替させられ、重能の代わりに上洛を命じられた事が、上杉氏及び直義の高氏への反感を高めたと考えられている。南北朝時代の初期に楠木正成・北畠顕家・新田義貞ら南朝方の武将が相次いで敗死し、高師直・師泰兄弟らの戦功は目覚ましかったが、延元4年/暦応2年(1339)に後醍醐天皇が没して後の畿内は比較的平穏な状態となったため師直は活躍の場を失い、直義の法・裁判による政道が推進されるようになる。しかし、師直が率いていた武士たちが秩序を軽んじて狼藉する事件が多く発生し、興国2年/暦応4年(1341)に塩冶高貞が直義派の桃井直常・山名時氏らに討たれ、翌興国3年/康永元年(1342)に土岐頼遠が北朝光厳上皇に狼藉を働いた罪により直義の裁断で斬首されるなどした。こうした裁定に不満をもつ武士たちは師直を立て、直義はなおも権威と制度の安寧にこだわった。両派の間はますます険悪になりつつあった。正平2年/貞和3年(1347)に入ると、南朝の楠木正行が京都奪還を目指して蜂起して京はにわかに不穏となった。まず9月に直義派の細川顕氏・畠山国清が派遣されてこれを討とうとするも敗北を喫し、11月に山名時氏が増援されたが京都に敗走してしまった。代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌正平3年/貞和4年(1348)1月5日の四條畷の戦いで正行を討ち取り南朝軍を撃破、勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、後村上天皇ら南朝方は吉野の奥の賀名生(奈良県五條市)へ落ち延びた。「四條畷の戦い」(しじょうなわてのたたかい)は、南北朝時代の正平3年/貞和4年(1348)1月5日、河内国讃良郡北四条(現在の大阪府大東市北条)で発生した、南朝総大将楠木正行・実弟正時と、北朝室町幕府執事高師直・師泰兄弟・引付方頭人佐々木導誉との間の戦い。圧倒的に兵力で勝る師直軍に対し、正行が奇襲を仕掛け熾烈な戦いとなったが、結果としては南朝側は正行含め27人もの武将が死亡、死者計数百人に及ぶ大敗となった。これにより、南朝側は同月末に臨時首都吉野行宮を喪失した。なお、史実での戦闘発生地に基づけば「北四条の戦い」(あるいは正字で「北四條の戦い」)となるはずだが、軍記物『太平記』での創作が有名なため普通「四條畷の戦い」(現在の四條畷市という自治体名に基づく表記)あるいは「四條縄手の戦い」(『太平記』流布本による表記)と呼称される。延元元年/建武3(1336)5月25日、楠木氏の棟梁楠木正成が湊川の戦いで敗死したため、しばらく楠木氏は宗家ではなく同族大塚氏の和泉守護代大塚惟正(楠木惟正)らが指揮をとって南朝方として戦っていた。やがて、正成の子楠木正行が成長して延元5年/暦応3年(1340年)ごろから棟梁としての活動を始め、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、摂津国南部の住吉・天王寺周辺まで神出鬼没に戦い、足利方を脅かすようになった。正平2年/貞和3年(1347)9月、楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破った。正行の怒涛の攻勢に、室町幕府は本格的な南朝攻撃を決意し、執事高師直を総大将、その弟の高師泰を第二軍の大将とする大軍を編成して河内に派遣することを決定した。正平2年/貞和3年(1347)12月14日、まずは第二軍の高師泰(執事高師直の弟)が先に出陣し(『師守記』『田代文書』)、和泉国堺浦(現在の大阪府堺市)に向かい、同地で待機(『淡輪文書』)。11月から幕将淡輪助重が南朝からの攻撃に対し和泉井山城(現在の大阪府阪南市箱作に所在)に立てこもっていたが、師泰の出陣を待って合流した(『淡輪文書』[2])。総大将高師直の出発は初め18日夜と噂されていたが(『園太暦』)、なぜかそれより遅れ、25日(『東金堂細々要記』『建武三年以来期』)もしくは26日(『師守記』)に京を立ち、八幡に到着、諸国の兵の到着を待った。この月、南朝・北朝・幕府の三勢力とも国家の存亡を決める決戦の気配を感じたのか、盛んに戦勝祈願を行った。例を挙げれば、17日、南朝の後村上天皇は、東寺に対し、後宇多天皇・後醍醐天皇の遺志を継いで「天下一統」を達成できた暁には、この寺を取り立てると約束して、戦勝祈願をさせた(『東寺文書』)。24日、北朝の光厳上皇は院宣を発して、醍醐寺に天下静謐を祈らせた(『醍醐地蔵院日記』)。26日、幕府の将軍弟足利直義は、天下静謐のため、東寺と神護寺に大般若経を37日間転読するように要請した(『東寺文書』『神護寺文書』)。年が明けて正平3年/貞和4年1月1日、諏訪部扶直ら幕府の諸将が八幡に到着(『三刀屋文書』[8])。他の有力武将としては、引付方頭人でバサラ大名として著名な佐々木導誉や(『三刀屋文書』)、足利氏支流佐野氏の武将佐野氏綱がいた(『古今消息集』。1月2日、高師直は八幡を出発し、河内国讃良郡野崎(現在の大阪府大東市野崎)に逗留(『園太暦』)。5日、師直は野崎を出て、正行の本拠地である東条(現在の大阪府富田林市東条)に向けて進軍し、讃良郡北四条(現在の大阪府大東市北条)に差し掛かったところで、待ち伏せしていた正行ら南朝軍から攻撃を受け、熾烈な戦いとなった(『園太暦』)。しかし、ついには圧倒的な兵数差によって決着が付き、幕府方が大勝した。南朝では楠木正行とその弟(楠木正時)、そして和田新発(わだしんぼち。和田賢快とも。正行の従兄弟)が自害(『園太暦』)。
2024年04月26日
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閏2月20日、京都の南朝方楠木正儀、北畠顕能は、足利尊氏不在の隙を突き、急遽和議を破り足利義詮へ攻撃を開始した。不意を突かれた北朝方は苦戦に陥り、七条大宮の戦いで細川頼春が戦死し、足利義詮は近江に逃れた。南朝方は南北朝分裂以降初めて京都を奪回した。北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王は南朝方に捕われ、賀名生へ移された。後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へ移した。なお同じ時期、関東でも新田義貞の遺児新田義興・新田義宗らが征夷大将軍に任じられた宗良親王と共に挙兵し(武蔵野合戦)、一時的に京都・鎌倉の双方が南朝方の支配下となった。近江へ逃れた義詮は、各地の守護の力を結集し、勢力回復を図った。佐々木道誉、細川顕氏、土岐頼康らに加え、足利直義派だった斯波高経らも義詮の味方となった。勢力を盛り返した北朝方は3月15日に京都を奪還。続いて、後村上天皇の仮御所のある男山八幡を包囲した。北朝方は守りの固い男山八幡に対し、包囲し兵糧攻めを行った。包囲戦は約二ヵ月におよび、飢えに苦しむ南朝方から熊野湯川荘司等、北朝方へ寝返る武将も現れた。後村上天皇は5月11日に側近とともに包囲を脱出し、男山八幡は陥落した。この時、後村上天皇を守るために四条隆資、一条内嗣(経通の子)、滋野井実勝ら公卿が戦死している。この戦いにより正平一統は破棄された。一時は南朝方が京都・鎌倉の両方を占領した。足利尊氏は関東で南朝方との戦いに追われており上方の危機に対応できなかったが、足利義詮は有力守護の助力を得て京都を奪還することができた。しかし、北朝の三上皇と皇太子は賀名生に捕らわれており、また北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたため、足利幕府の法的根拠を失ってしまう状況になった。北朝方は8月17日に神器無しで強引に後光厳天皇を即位させたが、先に尊氏が南朝に降伏したこともあり、北朝の権威を傷つけることとなった。参加人物南朝勢後村上天皇、北畠親房、楠木正儀、北畠顕能、千種顕経、四条隆資北朝勢、足利勢足利義詮、佐々木道誉、土岐頼康、細川顕氏、細川頼春、細川頼之、細川頼有、斯波高経、山名師義、赤松光範 *「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。足利直義派と高師直派の対立初期の足利政権においては、足利家の家宰的役割を担い主従制という私的な支配関係を束ねた執事高師直が軍事指揮権を持つ将軍足利尊氏を補佐する一方で、尊氏の弟足利直義が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する二元的な体制を執っていた。なお、尊氏には高師直を筆頭に守護家の庶子や京都周辺の新興御家人が、直義には司法官僚・守護家の嫡子・地方の豪族がついており、概ね前者が革新派、後者が保守派と見られる。訴訟を担う直義は、荘園や経済的権益を武士に押領された領主(公家や寺社)の訴訟を扱うことが多かった。直義は鎌倉時代の執権政治を理想とし、引付衆など裁判制度の充実や従来からの制度・秩序の維持を指向し、裁定機能の一部を朝廷に残したため、有力御家人とともに公家・寺社の既存の権益を保護する性格を帯びることになった。これに対し、幕府に与した武士の多くは天皇家や公家の権威を軽んじ、自らの武力によって利権を獲ようとする性向があり、師直はこのような武士団を統率して南朝方との戦いを遂行していた。それぞれの立場の違いから、必然的に両者は対立するようになっていく。また、師直は将軍尊氏の執事として将軍の権威強化に努めたが、それは師直自身の発言力の強化にもつながるものであった。この対立は師直と直義のような次元では政治思想的な対立という面もあったが、守護以下の諸武士にあっては対立する武士が師直方につけば自分は直義方につくといった具合で、つまるところ戦乱によって発生した領地や権益を巡る争いで師直、直義、尊氏、直冬、そして南朝といった旗頭になる存在を求めただけという傾向が概して強く、今川範国や細川顕氏の例に見られるように、自己の都合でもって短期間の内に所属する党派を転々とすることもしばしばであった。更に両者の対立の背景には足利尊氏の家督継承の経緯と外戚上杉氏の問題もあったとされる。元々、尊氏の父貞氏は、嫡男であった高義に家督を譲って家宰の高師重(師直の父)に補佐させていたが、高義の死によって改めて異母弟の尊氏が後継者になった。ところが、家宰として尊氏を補佐しようとする高氏と長年庶子扱いされてきた尊氏兄弟を支えてきた上杉氏の間で対立が生じ、尊氏が家宰である高氏を政務の中心として置いた一方、直義は脇に追いやられた上杉氏に同情的であった。
2024年04月26日
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主に摂関や天皇の外戚・生母などに与えられる准三宮の待遇が、一介の「大納言入道」に過ぎない親房に与えられたことは、南朝におけるその権勢を物語る。正平3年/貞和4年(1348)に四條畷の戦いで楠木正行ら南朝方が高師直に敗れると、南朝は吉野からさらに山奥深い賀名生行宮に落ち延びる。その後観応の擾乱で足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、これに乗じて親房は一時的に京都と鎌倉の奪回にも成功した。正平9年/文和3年(1354)4月に賀名生で死去、享年62歳。親房の死後は南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は衰退への道をたどっていく。親房は阿部野神社(大阪市阿倍野区)や霊山神社(福島県伊達市)に顕家と共に祀られている。墓は終焉の地賀名生にある。また、室生寺にも親房のものと伝えられる墓がある。親房の三男北畠顕能は伊勢国司となり、以後の北畠家宗家は伊勢に定着した。 5、「北畠 顕能」(きたばたけ あきよし)は、南北朝時代の公卿・武将。准三后北畠親房の三男で、顕家や顕信の弟とするのが通説だが、一説には中院貞平の子で、親房の養子になったともいう。建武政権期に父兄とともに伊勢国へ下り、同国司に任じられた後、多気を拠点に退勢著しい南朝軍事力の支柱として武家方に対抗した。伊勢北畠氏の祖。多気入城伊勢国司の由来については確実な史料がないが、延元元年/建武3年(1336)10月親房・顕信に従って伊勢へ下向した後、度会家行の援助で玉丸城を築き、延元3年/建武5年(1338)閏7月従四位上・伊勢守に叙任されたとみられる。同年9月東国に向けて出航した親房・顕信の委任を受け、玉丸城に本拠を置いて伊勢経営の大任を負った。延元4年/暦応2年(1339)8月伊勢守護高師秋が前線の神山城に攻撃を加えるが、翌月愛洲氏らとともに立利縄手でこれと戦って撃退する。興国2年/暦応4年(1341)佐々木高氏の協力を得た師秋が攻撃を再開すると、加藤定有らが奮闘して防戦に努めたが、翌興国3年/康永元年(1342)7月さらに仁木義長も師秋に加勢したため、南軍の戦況は次第に不利となり、8月玉丸城などの諸城が陥落。間もなく顕能は一志郡多気の地へ退居のやむ無きに至った。正平2年/貞和3年(1347)秋には、河内の楠木正行と連携して南朝勢の回復を図るも、翌年に正行が戦死して作戦は失敗に帰している。二度の京都回復正平6年/観応2年(1351)、足利氏の内訌(観応の擾乱)に乗じ、顕能は伊勢で再び軍を起こして勢力を拡大した。幕府では、この討伐軍として守護石塔頼房に4か国の軍勢を付けて派遣することが議せられたというが、南朝勢は容易に屈服せず、依然抵抗を続けたらしい。同年11月に北朝の崇光天皇が廃されて正平一統が成ると、京都警固の任に当たるため右近衛大将(本官は中納言か)となり、すぐに上洛するように命じられている。翌正平7年(1352)閏2月、後村上天皇が住吉を発して男山へ向かうと、伊勢・伊賀の兵3000余騎を率いて鳥羽から入洛。楠木正儀・千種顕経とともに南軍の先鋒として、七条大宮辺りで武家方の細川顕氏・頼春らを破り、足利義詮を近江へ駆逐した。こうして京都回復を果たした顕能は勅命を奉じて持明院殿に至り、光厳・光明・崇光の3上皇と東宮直仁親王を男山八幡に移し、さらには義詮を追撃すべく近江へ出陣しようとしたが、実際は佐女牛若宮に駐在し、入洛した親房とともに庶政の処理に当たった。しかし、南朝による京都支配も長くは続かず、同年3月に義詮が勢力を挽回して上洛すると、顕能を大将とする南軍は京都を退却。赤井河原と淀大渡に陣を構えて斯波高経・氏経と奮戦するも、衆寡敵せずして男山東麓の園寺口まで退いた。4月25日に始まる男山合戦では、顕能は伊勢・伊賀の兵3000余騎を率いて園寺口で防戦し、武家方から天皇の行在所を警固することに努めたが、配下の部将であった湯川荘司が細川顕氏の陣に投降したために南軍の敗北は必定となり、5月11日夜半に法性寺康長や名和長生とともに天皇を奉じて下山し、大和路を経て賀名生へ没落するに至った。 *「八幡の戦い」(はちまんのたたかい、男山の戦い、男山八幡の戦いとも)は、南北朝時代の観応の擾乱の余波として発生した合戦の一つ。正平7年/文和元年(1352)閏2月から5月にかけて、山城国京都から男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)において、後村上天皇ら南朝方の軍勢と、足利義詮ら北朝方の軍勢との間で行われた合戦である。観応の擾乱により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂した。直義派による高師直・高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、正平6年/観応2年(1351)直義は自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉に入った。尊氏は直義討伐を優先し、南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た。尊氏は、嫡子足利義詮を京都に残し、東海道を東進した。尊氏の南朝へ降伏したことにより北朝の崇光天皇は廃され、年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一された(正平一統)。正平7年/文和元年(1352)2月、鎌倉で足利直義が急死。北朝方の混乱を見た北畠親房は、正平一統を破棄。尊氏の征夷大将軍を解任し、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てた。
2024年04月26日
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大町桂月は、これを「この一節、仁政を力説す。頼朝・泰時は虚にして、仁政は実なり。親房の頼朝・泰時を襃むるは、即ち仁政を襃むる也。千古の公論なり」と云っている。また治承・寿永の乱の混乱期に神器を欠いた状態で後白河法皇の院宣により行われた後鳥羽天皇の即位自体を否定していないという矛盾も指摘されている。全体として、保守的な公家の立場を主張し、天皇と公家(=摂関家と村上源氏)が日本国を統治して武士を統率するのが理想の国家像であるとし、特に公家や僧侶を「人(ひと)」、武士を「者(もの)」と明確に区別しているところに彼の身分観の反映がなされていると言われる。その一方で、君臣が徳のある政治を守ってゆく事で、「正理」の元に歴史は誤った方向から正しい方向へと修正されるという能動的な発想を兼ね備えていた。北畠親房が常陸国で籠城戦を繰り広げていた時期に執筆がなされており、手元にある僅かな資料だけを参照に書いているため、(当時知られていた)歴史的事実に関しての間違いも散見される。】親房の長男北畠顕家は、父とともに義良親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州鎮定に赴き、建武政権から離反した足利尊氏を京都から追い、次弟の北畠顕信とともに南朝勢力として足利方と戦った。 4、「北畠 親房」(きたばたけ ちかふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。著書の『神皇正統記』で名高い。北畠家は、村上源氏の流れを汲む名門であり、正応6年(1293年)6月24日、生後わずか半年で叙爵。徳治2年(1307年)11月、左少弁に在任の際、清華家の北畠家よりも家格の低い名家出身の冷泉頼隆が弁官となったことに憤激して職を辞したという(『公卿補任』)。延慶元年(1308)11月、非参議従三位として公卿に昇進。延慶3年(1310年)12月、参議に任じられ、翌応長元年(1311)7月に左衛門督に任じられ検非違使別当を兼ねた。同年12月、権中納言に昇進する。後醍醐天皇が即位すると、吉田定房・万里小路宣房とならんで「後の三房」と謳われるほどの篤い信任を得た。そして後醍醐天皇の皇子世良親王の乳人をゆだねられたほか、元応2年(1320年)10月には淳和院別当に補せられ、元亨3年(1323年)1月、権大納言に昇進し、同年5月には奨学院別当を兼ね、正中2年(1325年)1月には内教坊別当をも兼ねて、ついに父祖を超えて源氏長者となった。元徳2年(1330年)、世良親王の急死を嘆いて38歳で出家し、いったん政界を引退した。法名は宗玄。正中の変にはじまる後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画には加担してはいなかったようである。鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇による建武の新政が始まると、親房は政界に復帰したが、後醍醐天皇の専制政治には批判的で、必ずしも表舞台に立ったとは言えない。奥州駐屯を命じられた長男の顕家に随行し、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城へ赴く。建武2年(1335年)に北条氏の残党による中先代の乱が起き、討伐に向かった足利尊氏が鎌倉でそのまま建武政権から離反、こののち西上して京都を占領すると、建武3年(1336)1月親房は尊氏を討伐するために京へ戻り、新田義貞・楠木正成とともにいったんは尊氏を駆逐する。しかしに九州に落ち延びた尊氏は急速に体制を立て直し大軍を率いて西上、これを迎え撃つ義貞・正成の軍勢を同年5月湊川の戦いで撃破すると進んで京都を再占領、比叡山に逃れた後醍醐天皇は再度の退位を迫られる。しかし後醍醐天皇が京都を脱出し、吉野に行宮を開くとそのまま南朝方に合流、尊氏によって擁立された光明天皇の北朝方に対抗する。延元3年/暦応元年(1338年)5月に顕家が堺浦で戦死し、同年閏7月には義貞が越前国灯明寺畷で討ち取られると、南朝方の総司令官となった親房は伊勢国で度会家行の協力を得て南朝方の勢力拡大を図る。ここで親房は家行の神国思想に深く影響を受けることになるが、家行の唱えた伊勢神道自体に対しては批判的だったといわれている。こののち関東地方に南朝勢力を拡大するために結城宗広とともに、義良親王・宗良親王を奉じて伊勢国大湊(三重県伊勢市)から海路東国へ渡ろうとするが、暴風にあって両親王とは離散し、同船していた伊達行朝・中村経長等と共に常陸国へ上陸。はじめは神宮寺城(現在の茨城県稲敷市)の小田治久を頼り、佐竹氏に攻められ落城すると阿波崎城、さらに小田氏の本拠である小田城(現在の茨城県つくば市)へと移る。陸奥国白河の結城親朝はじめ関東各地の反幕勢力の結集を呼びかけたが、宇都宮公綱・芳賀高貞が北朝方に味方したため伊達行朝・中村経長を遣わし芳賀高貞・高朝の父子を討ち取った。この時期に『神皇正統記』と『職原鈔』を執筆したといわれている。興国元年/暦応3年(1340)、北朝方が高師冬を関東統治のために派遣すると、小田氏に見限られた親房は関宗祐の関城(現在の茨城県筑西市)に入り、伊達行朝や中村経長を始め、行朝、経長と同族の伊佐城(筑西市)の伊佐氏、大宝城(現在の茨城県下妻市)の下妻氏など常陸西部の南朝勢力とともに対抗する。親房の常陸での活動は5年に渡った。しかし、南朝方に従った近衛経忠(南朝の関白左大臣)が藤氏長者の立場で独自に東国の藤原氏系武士団の統率体制を組もうとしたこともあって、親房の構想は敵と身内の両方から突き崩される結果となり、興国4年/康永2年(1343)に両城が陥落すると吉野へ帰還している。これ以降、すでに死去していた後醍醐天皇に代わり、まだ若い後村上天皇を擁して南朝の中心人物となる。
2024年04月26日
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2、「北畠氏の出自」「北畠家」(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、公家の一つ。村上源氏中院家庶流。武家としての通字は「具(とも)」。南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名、戦国大名として戦国時代まで命脈を保った。また、大名化しても公家としての意識は持ち続け、伊勢国司家の歴代当主の花押は武家ではなく公家のものであった。なお、明治維新後、北畠家の家名は中院流久我家の分家として再興され、男爵に叙されている。北畠 雅家(きたばたけ まさいえ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。北畠家の祖]。大納言・源通方の子。建保3年(1215)、中院家の祖である源通方の次男として誕生。母は権中納言・源雅頼の娘。弟・中院通成は生母が鎌倉幕府・執権北条氏と親交が深かった一条能保の娘であったため中院家の嫡子とされたが、一方で源雅頼の娘を生母に持つ雅家は庶子とされた。のちに洛北の北畠に邸宅を構え、北畠を称した[1]。北畠家が歴史の表舞台に登場するのは曾孫の親房の代からである。文永12年(1274)3月、死去。享年61歳。 3、「北畠 雅家」(きたばたけ まさいえ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。北畠家の祖。大納言・源通方の子。建保3年(1215)、中院家の祖である源通方の次男として誕生。母は権中納言・源雅頼の娘。弟・中院通成は生母が鎌倉幕府・執権北条氏と親交が深かった一条能保の娘であったため中院家の嫡子とされたが、一方で源雅頼の娘を生母に持つ雅家は庶子とされた。のちに洛北の北畠に邸宅を構え、北畠を称した。北畠家が歴史の表舞台に登場するのは曾孫の親房の代からである。子孫の動向曾孫の北畠親房は南朝の中心の一角を担い活躍し、政治面だけでなく『神皇正統記』を著すなど文化面でも優れた人物であった。親房の子孫は伊勢国司として、北畠政郷の代に戦国大名化し、北畠晴具の代には伊勢国の南半分、志摩国、伊賀の南部、大和の南部、紀伊国の東部にまでに及ぶ広大な所領を有した。晴具の息子・北畠具教の代には長野工藤氏を従わせて、北伊勢に進出した。だが、具教は織田信長の侵攻(大河内城の戦い)に敗れ、信長の次男・織田信雄を息子・具房の養継嗣として受け入れるという屈辱的な和睦を強いられた。その後、具教は謀反を画策するが露見し、信長の命によって一族郎党もろとも討ち取られた(三瀬の変)。しかし、晴具の息子・木造具政の娘が信雄に嫁ぎ、織田信良を生んだことによりその血脈は保たれることとなった(「系譜」を参照のこと)。その他、庶流の星合氏や藤方氏、滝川氏、田丸氏などは江戸幕府の旗本として残った。田丸氏からは江戸時代末期に田丸直允が出たが、天狗党の乱で捕縛のち処刑され宗家は断絶した。幕末まで武家として続き(『寛政重修諸家譜』)現在確認できる末裔は星合氏と雄利系滝川氏があり、武家以外では晴具の流れをくむ皇室などがある。】中院家の家祖通方の子、雅家が洛北の北畠(現在の京都御苑北部)に移ったことから「北畠」を称し、代々和漢の学をもって仕えた。鎌倉時代末期に北畠親房が出て、後醍醐天皇の建武の新政を支え、後醍醐没後には南朝の軍事的指導者となり、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を記した。 *『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書である。はじめに序論を置き、神代・地神について記している。つづいて歴代天皇の事績を後村上天皇の代までのべている。伝本によりこれを上中下または天地人の3巻にわけている。その場合、序論~宣化天皇・欽明天皇~堀川院・鳥羽院~後村上天皇と区分している。神代から後村上天皇の即位(後醍醐天皇の崩御を「獲麟」に擬したという)までが、天皇の代毎に記される。つまり皇位継承を中心とした歴史である。そして、その史的著述の間に、哲学・倫理・宗教思想と並んで著者の政治観が織り込まれている。君主の条件としてまず三種の神器の保有を皇位の必要不可欠の条件とする。だがその一方で、『仏祖統紀』や宋学(特に「春秋」・「孟子」・「周易」)の影響を受け、血統の他に有徳を強調している。従って、承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇は非難され、逆に官軍を討伐した北条義時とその子北条泰時のその後の善政による社会の安定を評価して、「天照大神の意思に忠実だったのは泰時である」という一見矛盾した論理展開も見られるが、これも徳治を重視する親房から見れば、「正理」なのである。
2024年04月26日
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「北畠氏一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「北畠氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「北畠雅家」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44、 「北畠親房」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・85、 「北畠顕能」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・136、 「北畠顕能」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・507、 「北畠満雅」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・648、 「北畠教具」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・739、 「北畠政郷」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7410、「北畠材親」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7711、「北畠晴具」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8112、「北畠具教」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8513、「北畠具房」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9214、「江戸時代以降」・・・・・・・・・・・・・・・・・9815、「北畠氏の最期」・・・・・・・・・・・・・・・・・10416、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・105 1「はじめに」 中世の武家。村上源氏。中院雅家(1215~1275)が京の北畠の地に住んで北畠の姓を称したのに始まる。鎌倉時代には正二位・大納言を極官とする公卿であったが、南北朝時代に北畠親房が出て後醍醐天皇の信任を受ける。その子北畠顕家・北畠顕信・北畠顕能も南朝側として活躍、顕能は伊勢国司となり、同国一志郡の多気城を本拠とする。その後も後南朝方の中心勢力になり、正長元年(1428)には北畠満雅が後亀山上皇の孫小倉宮を奉じて挙兵した。満雅は同年12月に戦死するが、室町幕府は弟北畠顕雅を赦免し一志・飯高両郡を安堵した。これ以降、北畠氏は南伊勢、志摩、伊賀、大和に勢力を持つ大名として発展する。一族には、大河内・木造・田丸をはじめとする庶民が分立し、その勢力は伊勢中心にも及んだ。戦国時代には、伊勢の有力国人長野氏とも同盟をしたのは、天正3年(1575)にはあ信長の次男信雄が家督を継ぎ、翌年北畠具教を自殺させて事実上北畠氏は滅んだ。
2024年04月26日
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「上総の武田氏」上総武田氏は武田信満の子・武田信長に始まる家系である。古河公方足利成氏によって上総国の支配を認められて同国を支配した。信長の息子・信高の死後、本家は庁南城に、分家は真里谷城に本拠を構えた。嫡流は地名を取って庁南氏(ちょうなんし)を名乗ることもあった。上総武田家最後の当主・武田豊信は地元の伝承では甲斐武田氏の武田信玄の三男・信之と同一人物とされており、織田氏による甲斐武田氏滅亡後に弟の仁科盛信の家族を匿ったとする説がある。以後、豊信は北条氏傘下の将として反織田氏・反豊臣氏路線を貫き、1590年に小田原征伐中の豊臣軍によって居城を囲まれると自害し、同氏は滅亡した。一方、真里谷城の分家は真里谷氏(まりや/まりやつし)と名乗った。戦国時代前半には上総国西部から中部一帯を領有する大勢力となった。真里谷信清は古河公方足利政氏の子・義明が家督争いの末に出奔するとこれを迎え入れて「小弓公方」と名乗らせ、自らは「房総管領」を名乗ったと言われている。だが、庶出ながら一人息子であった信隆に家の実権を譲った後に正室から次男・信応が生まれると、「嫡出の信応を後継者とすべき」とする一派と「一度信隆を後継者と決めた以上は変えるべきではない」とする一派に家臣団は分裂してしまった。信清の死後、当主になった信隆ではあったが、程なく信応派が足利義明や里見義堯と同盟を結んで信隆を真里谷城から追放してしまう。このため、信隆は北条氏綱の元へと亡命することとなった。これが第一次国府台合戦の一因とも言われている。同合戦後、北条軍に攻められた真里谷信応とその支持者は降伏して信隆が当主に復帰したが、信隆の死後に里見義堯が信隆の跡を継いだ信政を攻め滅ぼして真里谷氏を支配下に収めるのである。だが、第二次国府台合戦後には再び北条氏に屈服し、豊臣氏の小田原征伐によって所領を奪われて那須氏のもとへ亡命、真里谷氏も庁南の本家と運命をともにするのである。本家庁南氏の豊信の子・氏信が生存し、庁南城落城の後家臣団に守られて近隣に移住、郷士として土着したともされている。この子孫を名乗る家系は現在も血筋が続いている。分家真里谷氏のその後は不明である。 「因幡の武田氏」因幡守護・山名氏の家臣に若狭武田氏傍流の一族がいる。いつ頃から因幡山名氏に仕えたのかは不明だが、『蔭涼軒日録』延徳3年(1491)11月6日条に山名豊時家臣として「武田左衛門大夫」の記述が見える。 天文14年(1545)、山名誠通の家臣武田国信が久松山城(後の鳥取城)を改築したが、あまりに堅固過ぎたため、主君より謀叛の疑念を買い謀殺された。(国信の最後に関しては諸説あり、天文9年の橋津川の戦いで討ち死にしたとする説もある)天文年間に鵯尾城が築城され、国信の嫡男武田高信が入ると弟の武田又三郎に鵯尾城を任せ、自らは鳥取城に入り守護山名豊数に対抗するような姿勢を見せる。永禄6年(1563)、安芸の毛利氏と結んだ高信は鹿野城主・山名豊成(誠通の子)を毒殺、同1563年(永禄6年)4月の湯所口の戦いで豊数を破った。布勢天神山城を追われた豊数は鹿野城へ逃れたものの、後に病死した。天正元年(1573))、出雲の戦国大名尼子氏の支流・新宮党の遺児である尼子勝久と山中幸盛が因幡に侵入し、甑山城に入城する。武田氏は山名豊国・尼子勝久連合軍と戦うため、これを攻撃するが破れ、鳥取城を主家 山名氏に明け渡し、鵯尾城に退いた。天正6年(1578)、美作の国人領主・草刈氏が因幡国智頭郡に淀山城を構え、勢力を伸ばすと、山名氏はこれを討伐するため、同国佐貫の大義寺に陣を敷き、武田高信に軍議に応ぜよと招聘した。高信が寺に入ると門を閉ざし、これを討ったため、因幡の武田氏は滅亡した。なお、近年の研究によって武田高信の死は天正元年(1573)5月以前であることが判明しており、同天正元年(1573)5月4日付の「小早川隆景書状」(『萩藩閥閲録』)には「不慮に相果て」と記されている。また、数年後の毛利氏側の史料には織田方との密通が明らかになったため、山名豊国によって切腹させられたと記されている。『陰徳太平記』『因幡民談記』などによれば、高信の遺児・武田源五郎は南条元続の元に、源三郎(武田助信)は毛利秀包の元に身を寄せたという。この内、武田源三郎は村岡藩主となった山名豊国が200石をもって召抱えたとされる。明治元年(1868)1月の『山名家加封之時藩士格録人名』には武田氏の名前が見えており、因幡武田一族の一部は山名家に仕え、村岡藩士となり、明治維新を迎えたことが分かっている。*武田国信(豊前守)*武田高信(嫡男)*武田助信(村岡藩士となり、山名豊国に仕える)14、「おわりに」武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、天正3年(1575)長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、天正10年(1582)織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)。徳川家康の計らいで最初は武田家臣の穴山信治(武田信治)に継がせ、のち家康自身の五男の福松丸に武田信吉と名乗らせ、家督を継がせたが、断絶した。天目山の戦いの後、信玄の次男・竜芳(海野信親)の子の信道は織田氏による残党狩りから逃れた。その後、信道は大久保長安事件に巻き込まれて伊豆大島へ流されたが、その子・信正の代で許されて元禄13年(1700)に幕臣となり高家として仕えた。大正4年(1915)、大正天皇御大典を機に信玄が従三位に叙せられた際、当時の当主武田信保に信玄に対する位記宣命が渡された。以後、この家系が信玄に最も近い正統とされ、現当主武田英信へ受け継がれて現在に至っている。
2024年04月25日
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13、「その他の武田家の分家筋」「戦国時代の安芸武田氏」応仁の乱の最中の文明3年(1471)1月、武田信繁の四男で代官として安芸分郡を治めていた武田元綱が兄である若狭武田氏の武田信賢から独立する。安芸武田氏と西軍の周防守護大内氏とは対立関係にあり、応仁元年(1467)に始まった応仁の乱でも東軍方について参戦したが、元綱は大内氏の圧力に屈し西軍に転じた。その後、若狭武田氏と和解したが、元綱の子の武田元繁も、足利義材を奉じた永正5年(1508)の大内義興の上洛に際してこれに属し、第11代将軍足利義澄方であった若狭武田氏と決別した。しかし、永正12年(1515)、大内義興が元繁を帰国させると尼子氏らと組んで大内氏に対抗した。安芸武田氏9代武田信実の時代、天文10年(1541)に大内氏の命を受けた毛利元就によって銀山城は落城し滅亡した。戦国時代末期から安土桃山時代にかけて毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊は、信実の従兄弟である武田信重の子にあたるとされ、安芸武田氏の中で唯一後世に著名な人物である。江戸時代前期、朝廷や徳川将軍家、諸侯の診療にあたった武田道安も、安芸武田氏の流れをくむとされる。また、光和の庶子である武田小三郎は毛利氏に従い、以降代々仕えた。毛利氏の防長移封に従ったため、周防武田氏と称している。毛利氏の家臣録である萩藩閥閲録によると、高杉氏が提出した家譜録では高杉晋作の祖先は備後国高杉城主の高杉小四郎春時とされ、安芸武田氏庶流の祝氏を名乗り、後に高杉と名字を変え、初代:春時 → 春光 → 春貞 → 就春 → 春俊 → 春信 → 春善 → 春明 → 春豊 → 春樹 → 春風(晋作)と続いた。「若狭武田氏の成立」若狭武田氏は安芸武田氏4代武田信繁の嫡男である武田信栄が、室町幕府第6代将軍・足利義教の命を受けて、永享12年(1440)に一色義貫を誅殺した功績により若狭守護職を任命されたことによって始まる。足利将軍家および細川京兆家の信任が厚く、歴代の多くが始祖武田信光以来の武田伊豆守の名乗りを許されていたこと・武田氏一門の中で一番高い官職に任じられていたこと・丹後守護を兼ね幕府のある畿内周辺で二ヶ国もの守護に任じられていたことなどから、武田氏の本流という見解も存在する。信繁の嫡男である信栄は、一国守護となったのを機会に安芸から若狭に武田氏の本拠地を移した。ゆえに安芸武田氏の嫡流は若狭武田氏である。信栄の代は、一色氏の被官が多く若狭屈指の港湾都市として栄えていた遠敷郡の小浜(現・小浜市)には入れず、大飯郡高浜(現・高浜町)に武田氏の館があったといわれている。信栄は永享13年(1441)28歳で病死するが跡を弟の武田信賢が継ぎ、安芸国と平行して若狭国経営に乗り出した。信栄の墓所は本拠地のあった大飯郡高浜に現存する。 「戦国時代の若狭武田氏」信賢は若狭国内の一色氏残党や一揆を次々に鎮圧して国内を固める一方、応仁元年(1467)からの応仁・文明の乱では東軍に属して丹後国に侵攻するなど活躍し、室町幕府からの信頼も厚く、また文化人とも積極的に交流している。信賢以後、武田家は分裂し、安芸武田氏は信繁四男・武田元綱が継ぎ、若狭武田氏は信繁三男・武田国信が継いだ。国信は若狭国、丹後国加佐郡を中心に領国経営を行う一方で幕府の出兵要請に応えて頻繁に京へ出兵する。丹波守護の細川京兆家の要請による丹波への出兵も多かった。文明18年(1486)には禁裏御料所の小浜の支配も認められている[10]。国信の子・武田元信と孫・武田元光の代に若狭武田氏は最盛期を迎える。元光は大永2年(1522)小浜に後瀬山城を築き、大永7年(1527)に管領細川高国に頼られ12代将軍足利義晴を奉じて上洛したが、細川晴元方の三好氏と波多野氏に敗北した(桂川原の戦い)。その後、周辺諸国からの圧力、有力国人の離反などが相次いで国内での勢力を弱めていった。元光の孫・武田義統の時代には家督争いも加わりさらに弱体化が進行した。義統は、永禄9年(1566)8月に義理の兄である義統を頼って入国した室町将軍家子息・足利義昭を庇護したが、足利義昭は若狭武田家中の混乱を見かね早々に越前朝倉を頼って出国した。若狭武田氏も2年後の永禄11年(1568)8月に、越前朝倉氏の若狭進攻によって領国を失う。武田元明は、朝倉氏によって一乗谷城居住を強いられていたが、天正元年(1573)に織田信長によって朝倉氏が滅亡すると若狭に帰国した。しかし信長より若狭国を任されたのは丹羽長秀であり、元明は大飯郡南部の石山3000石のみの領有を許されただけであった。天正10年(1582)の6月の本能寺の変では、旧領回復を狙って丹羽長秀の居城・佐和山城を陥落させ、信長を滅ぼした明智光秀に加担するも、光秀に勝利した羽柴秀吉・丹羽長秀によって自害を命じられ、若狭武田氏は滅亡した。子の義勝は津川姓、のち佐々姓を名乗り、京極高次に仕えた。
2024年04月25日
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12、「武田 勝頼」(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573)には信玄の死により家督を相続する。強硬策を以て領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では新府城への府中移転により領国維持を図るが、織田信長、徳川家康らの反攻(甲州征伐)を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く甲斐武田氏は(戦国大名家としては)滅亡した。近世から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、悲劇の当主とする肯定的評価など相対する評価がなされており、武田氏研究においても単独のテーマとしては扱われることが少なかったが、近年では新府城の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。「出生から武田家世子へ」天文15年(1546)、武田晴信(信玄)の四男として生まれる。生誕地や生月日、幼名は不明。母は信虎後期から晴信初期に同盟関係であった信濃国諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人(実名不詳、乾福院殿)。武田氏は勝頼の祖父にあたる信虎期に諏訪氏と同盟関係にあったが、父の晴信は天文10年(1541年)6月に信虎を追放する形で家督を相続すると諏訪氏とは手切となり、天文11年(1542年)6月には諏訪侵攻を行い諏訪頼重・頼高ら諏訪一族は滅亡する。晴信は諏訪残党の高遠頼継らの反乱に対し、頼重の遺児・千代宮丸(寅王丸)を奉じて諏訪遺臣を糾合し、頼継を制圧する。晴信は、側室として諏訪御料人を武田氏の居城である甲府の躑躅ヶ崎館へ迎え、天文15年(1546年)に勝頼が誕生する。頼重遺児の千代宮丸は諏訪惣領家を相続することなく廃嫡されており、同年8月28日には千代宮丸を擁立していた諏訪満隆が切腹を命じられており、反乱を企てていたと考えられている。躑躅ヶ崎館で母とともに育ったと考えられているが、武田家嫡男の義信や次男・信親(竜宝)に関する記事の多い『高白斎記』においても勝頼や諏訪御料人に関する記事は見られず、乳母や傅役など幼年期の事情は不明である。なお、『甲陽軍鑑』では勝頼出生に至る経緯が詳細に記されているが、内容は疑問視されている。信玄が諏訪御料人を側室に迎えることには、武田家中でも根強い反対があったとも考えられている。信玄は信濃侵攻を本格化して越後国の上杉氏と対決し、永禄5年(1562)には川中島の戦いにおいて信濃平定が一段落している。信玄は信濃支配において、旧族に子女を入嗣させて懐柔する政策を取っており、勝頼の異母弟である盛信は信濃仁科氏を継承して親族衆となっているが、勝頼も同年6月に諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪氏の通字である「頼」を名乗り諏訪四郎勝頼となる(武田氏の通字である「信」を継承していない点が注目される)。勝頼は跡部右衛門尉ら8名の家臣団を付けられ、武田信豊らと共に親族衆に列せられている。勝頼は城代・秋山虎繁(信友)に代わり信濃高遠城主となり、勝頼の高遠城入城に際しては馬場信房が城の改修を行う。 勝頼期の高遠領支配は3点の文書が残されているのみで具体的実情は不明であるものの、独自支配権を持つ支城領として機能していたと考えられている。ほか、事跡として高遠建福寺で行われた諏訪御料人の十七回忌や、永禄7年(1564)に諏訪二宮小野神社に梵鐘を奉納したことなどが見られる。初陣は、永禄6年(1563)の上野箕輪城攻め(武蔵松山城攻めとも)。長野氏の家臣・藤井豊後が、物見から帰るところを追撃し、城外椿山にて組み打ちを行い討ち取った。その後の箕輪城、倉賀野城攻め等でも功を挙げた。その後、信玄晩年期の戦のほとんどに従軍し、武蔵滝山城攻めでは北条氏照の家老・諸岡山城守と三度槍を合わせたとされ、小田原城攻めからの撤退戦では殿を務め、松田憲秀の家老・酒井十左衛門尉と馬上で一騎討ちを行ったとされる。永禄8年(1565)、異母兄で武田家後継者であった義信の家臣らが信玄暗殺の密謀のため処刑され、義信自身も幽閉されている。同年11月には勝頼と尾張の織田信長養女(龍勝院)との婚礼が進められており、この頃の信玄は従来の北進戦略を変更し、織田家と同盟して信濃侵攻や東海方面への侵攻を具体化しており、家臣団の中にも今川義元の娘を室とする義信派との対立があったという。次兄の竜宝は生まれつきの盲目のために出家し、三兄の信之は夭逝していることから、勝頼が信玄の指名で後継者と定められた。
2024年04月25日
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「天目山の戦い」3月7日に織田信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類や重臣を探し出し、これを全て処刑した。この時に処刑されたのは武田信友・諏訪頼豊・武田信廉らである。『信長公記』では親族衆の一条信龍の名も記されているが、『家忠日記』によれば、信龍は3月10日に徳川家康を先導した穴山信君に対応するため市川(市川三郷町)へ着陣しており、同日に本拠の上野城(市川三郷町上野)が降伏し、子息の信就とともに処刑されたとされる。新府城を放棄した勝頼とその嫡男の信勝一行は郡内を目指すが、その途上で小山田信茂の離反に遭う。『甲陽軍鑑』では勝頼一行は鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待ったが、3月9日夜に信茂は郡内への入り口を封鎖し、勝頼一行を木戸から招き入れると見せかけて鉄砲を打ちかけたという。『理慶尼記』では信茂の離反を3月7日とし、郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市)としている。一方、『甲乱記』では信茂が離反した日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)から駒飼(甲州市大和町)へ移動する途中で離反を知ったとしている。いずれにせよ、勝頼一行は岩殿行きを断念し、天目山(甲州市大和町)を目指して逃亡した。なお、天目山は室町時代の応永24年(1417)に武田家の当主・信満が上杉禅秀の乱に加担して敗走し、自害した地でもある。3月11日、家康と穴山梅雪は信忠に面会し、今後についての相談を行った。同日、勝頼一行は天目山の目前にある田野の地で滝川一益隊に対峙する。勝頼の家臣土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。また、阿部勝宝も敵陣に切り込み戦死した。勝頼最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退した。しかし衆寡敵せず、3月11日巳の刻(午前11時頃)、勝頼・信勝父子、桂林院殿は自害した。武田信廉の子息とされ勝頼の従兄弟にあたる甲府・大竜寺の住職・大竜寺麟岳もともに死去しており、『甲陽軍鑑』『甲乱記』によれば、麟岳は勝頼から自らの死を見届け、脱出して菩提を弔うことを依頼されるがこれを断り、信勝と刺し違えて死去したという。勝頼に随行した家臣では長坂光堅、土屋昌恒・秋山源三郎兄弟(土屋昌恒・秋山源三郎はともに金丸筑前守(虎義)の子で、それぞれ土屋氏・秋山氏を継承した)、秋山紀伊守、小宮山友晴、小原下野守・継忠兄弟、大熊朝秀らも戦死した(跡部勝資も殉死したとする説もあるが、諏訪防衛戦で戦死したとも。いずれにしても『甲陽軍鑑』記載の長坂・跡部逃亡説は史実に反する)。これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった『楯無』(現在甲州市恵山上於曽の菅田天神社に伝来する国宝「小桜韋威鎧」に比定される。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた。物を着せて元服式を執り行い、その後父子とも自刃したという悲話が残る。その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。勝頼父子の首級は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首された。「武田宗家の終焉」信長は、勝頼自刃の時には信濃国境すら越えておらず美濃国の岩村城に滞在していた。唯一、田中城の依田信蕃だけは抵抗を続けていたが、穴山梅雪の勧告もあって開城した。この時、徳川家康は彼を家臣に誘ったが、「勝頼の安否が分かるまでは仕えられない」と言われ断られた。3月14日、浪合(長野県下伊那郡阿智村)に進出していた信長の元に勝頼・信勝父子の首が届いた。同日、依田信蕃は本拠の春日城に帰還している。その後、依田は織田信忠の元に出仕しようとしたが、徳川家康の使者から「信長が処刑を予定している武田家臣の書立(リスト)の筆頭に依田の名前がある」と言われ、密かに家康の陣所を訪れた。そこで家康から徳川領内への潜伏を勧められ、遠江に身を隠した。ちなみに他にも武川衆や後の徳川四奉行といった多くの人材が旧武田家臣で家康に帰参していた成瀬正一のもとに潜伏している。『信長公記』『甲乱記』によれば、3月12日もしくは16日には武田信豊が勝頼の命により小諸城(長野県小諸市)へ赴き、城代の下曽根浄喜(覚雲斎)に背かれて次郎や生母・養周院とともに自害した。『信長公記』『甲乱記』『甲陽軍鑑』によれば、小山田信茂は織田家に投降を試みたが信忠から「武田勝頼を裏切るとは、小山田こそは古今未曾有の不忠者」と言われ、6月24日に母と妻子、武田信堯、小山田八左衛門、小菅五郎兵衛らとともに甲斐善光寺(甲府市善光寺)で処刑され、郡内領は無主となった。信玄の次男で盲目ゆえ仏門に入っていた海野信親(竜芳)は、息子の顕了信道を逃した後、自刃した。信道の系統は大久保長安の業績に絡み、数奇な運命を辿りながらも後世にその血脈を伝えている。論功行賞と武田残党の追討3月21日に織田信長は諏訪に到着し、北条氏政の使者から戦勝祝いを受け取った。3月23日と3月29日には参加諸将に対する論功行賞が発表された。*滝川一益:上野一国、小県郡・佐久郡*河尻秀隆:穴山梅雪本貫地を除く甲斐一国、諏訪郡(穴山替地)*徳川家康:駿河一国*木曾義昌:本領(木曾谷)安堵、筑摩郡・安曇郡
2024年04月25日
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11、「甲州征伐」(こうしゅうせいばつ)は、天正10年(1582)、織田信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政が長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。武田征伐とも言われる。戦いの序章、甲斐武田氏は武田信玄後期に徳川領の遠江・三河への本格的侵攻である西上作戦を実行し、それまで同盟関係にあった織田信長は徳川氏の同盟者であったため武田氏と織田氏は手切となり、敵対関係に入った。西上作戦は元亀4年(1573年)に信玄の急死により撤収され、勝頼期には東海方面で徳川家康が反攻を強めた。天正3年(1575)5月には三河の長篠城を巡って武田勝頼軍と織田・徳川連合軍との間で長篠の戦いが発生し、武田氏は主要家臣を多く失う大敗を喫し、武田家領国は動揺した。長篠合戦の後、武田氏の外戚である木曾義昌(武田信玄の娘で勝頼の妹・真理姫の夫)は武田勝頼より秋山虎繁(信友)が守る美濃岩村城の支援を命じられたが、財政的な理由で勝頼に反抗した。虎繁は織田軍に敗れ処刑され美濃方面の橋頭堡を失い、逆に美濃からの織田氏の脅威にさらされることになる。長篠合戦後に勝頼は外交関係の再構築を試み、北条氏政とは妹の桂林院殿との婚姻によって甲相同盟を固めた。しかし御館の乱を契機に後北条氏を敵に回してしまう。上杉景勝には妹を娶らせて甲越同盟を結ぶも、上杉家は内乱後の深刻な後遺症により上杉領国外への影響力を失っていた。対北条には特に上野戦線では有利に進むも、織田・徳川・北条と三方を敵に囲まれた中で過度の出兵とそれに伴う支出で領国は疲弊を深めていく。織田氏は畿内や北陸における一向宗との戦い(石山合戦)や西の毛利氏との戦いに忙殺されていたため、しばらく軍を東へ向けることはなかったものの、信長の同盟者である三河の徳川家康は長篠の戦い以降武田氏に対し攻勢を強め、勝頼はたびたび出兵を余儀なくされた。そうした窮状の中で信長とは人質として武田家に寄寓していた織田勝長を返還し、また常陸国佐竹氏との同盟(甲佐同盟)を通じて和睦を試みるが(甲江和与)、信長との和睦は成立せず、織田・徳川連合軍の武田領国への本格的侵攻が行われることになる。殊に天正9年の高天神城の落城に際し後詰を送れなかった事は、武田氏の信望を致命的に失墜させた。織田・徳川家などに対する相次ぐ出兵や新府城築城にかかった費用を穴埋めすべく、尋常ならざる割合の年貢や賦役を課しており、人心が徐々にではあるが勝頼から離れつつあった。木曾義昌もその1人であるが、勝頼の側も秋山支援に動かなかったため木曾に不信感を抱いており、両者の関係は急速に冷却化しつつあった。天正10年(1582年)2月1日、新府城(韮崎市)築城のため更に賦役が増大していたことに不満を募らせた木曾はついに勝頼を裏切り、信長の嫡男信忠に弟の上松義豊を人質として差し出し、織田氏に寝返った。勝頼は、真理姫から木曾の謀反を知らされるとこれに激怒し、従弟の武田信豊を先手とする木曾征伐の軍勢5000余を先発として木曽谷へ差し向け、さらに木曾義昌の生母と側室と子供を磔にして処刑。そして勝頼自身も軍勢1万を率いて出陣した。信長は2月3日に武田勝頼による木曾一族の殺害を知ると勝頼討伐を決定、動員令を発した。信長・信忠父子は伊那から進軍。信長の家臣金森長近が飛騨方面から、同盟者の徳川家康が駿河方面から、進軍することに決定した。北条氏政へは甲州征伐の詳細は知らされなかった。情報収集の末、氏政は駿豆方面から侵攻を開始した。織田側の編成、天正元年(1573年)以降、織田信忠を筆頭に池田恒興、森長可、河尻秀隆らを主力とするいわゆる「信忠軍団」が編成されており(池田は後に軍団を離脱、摂津へ)、主に東美濃に勢力を張っていた武田の影響を排除する戦いをしていた。〇武田征伐時には以下のような陣容であった。*大将:織田信忠・先鋒:森長可、団忠正、木曾義昌、遠山友忠*本隊:河尻秀隆、毛利長秀、水野守隆、水野忠重*付属:織田長益他織田一門衆、丹羽氏次他*軍監:滝川一益この出陣に当たり、信長は「今回は遠征なので連れていく兵数を少なくし、出陣中に兵糧が尽きないようにしなければならない。ただし人数が多く見えるように奮闘せよ」と書状を出している。また、後から続く信長直率の軍団は以下のような陣容であった。ルイス・フロイスの「日本史」には、この信長本隊は兵6万を率いる予定だったと書かれている。*信長・明智光秀、細川忠興、筒井順慶、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、蒲生賦秀、高山右近、中川清秀他「武田軍団の崩壊」22月3日、まず森長可、団忠正の織田軍先鋒隊が岐阜城を出陣。若い両将の目付けとして河尻秀隆が本隊から派遣された。2月6日、先鋒隊は森、団の両名は木曽口から、河尻は伊那街道から信濃に兵を進めている。伊那街道沿いの武田勢力は恐れをなし、織田の先鋒隊が信濃に入った同日、岩村への関門・滝沢(長野県下伊那郡阿智村・平谷村周辺)の領主であった下条信氏の家老・下条氏長(九兵衛尉)が信氏を追放して織田軍に寝返り河尻の軍勢を戦わずして信濃へと招き入れると、2月14日には松尾城(飯田市)主小笠原信嶺も織田軍に寝返った。2月12日、本隊の織田信忠と滝川一益がそれぞれ岐阜城と長島城を出陣し、翌々日の2月14日には岩村城に兵を進めた。
2024年04月25日
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「信長公記」にある武田軍の動きは、「長篠城へ武将7人を向かわせ、勝頼は1万5千ほどの軍勢を率いて滝沢川を渡り、織田軍と二十町(約2018m)ほどの距離に、兵を13箇所ほどに分けて西向きに布陣した」というものである。武田のこの動きを見た信長は、「今回、武田軍が近くに布陣しているのは天の与えた機会である。ことごとく討ち果たすべきだ」と思い、味方からは1人の損害も出さないようにしようと作戦を考えた(『信長公記8巻より」』)。相手の油断を誘ったという面もあるが、鉄砲を主力とする守戦を念頭に置いていたため、武田を誘い込む狙いであった。「鳶ヶ巣山攻防戦」5月20日深夜、信長は家康の重鎮・酒井忠次を呼び、徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた兵2000ほどを選び出して酒井忠次に率いさせ、これに自身の鉄砲隊500と金森長近ら検使を加えて約4000名の別働隊を組織し、奇襲を命じた(『信長公記』)。別働隊は密かに正面の武田軍を迂回して豊川を渡河し、南側から尾根伝いに進み、翌日の夜明けには長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦を後方より強襲した。鳶ヶ巣山砦は、長篠城を包囲・監視するために築かれた砦であり、本砦に4つの支砦、中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君が臥床砦という構成であったが、奇襲の成功により全て落とされる。これによって、織田・徳川連合軍は長篠城の救援という第一目的を果たした。さらに籠城していた奥平軍を加えた酒井奇襲隊は追撃の手を緩めず、有海村駐留中の武田支軍までも掃討したことによって、設楽原に進んだ武田本隊の退路を脅かすことにも成功した。この鳶ヶ巣山攻防戦によって武田方の動きは、主将の河窪信実(勝頼の叔父)をはじめ、三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、飯尾助友など名のある武将が討死。武田の敗残兵は本隊への合流を図ってか豊川を渡って退却するものの、酒井奇襲隊の猛追を受けたために、長篠城の西岸・有海村においても春日虎綱の子息・香坂源五郎(諱は「昌澄」ともされるが不明)が討ち取られている。このように酒井隊の一方的な展開となったが、先行深入りしすぎた徳川方の深溝松平伊忠だけは、退却する小山田昌成に反撃されて討死している。そもそもこの作戦は20日夜の合同軍議中での酒井忠次による発案であったが、信長に一蹴された。ところが、軍議を終えてすぐに信長は酒井を密かに呼びつけ、作戦の決行を命じた。武田軍の諜報を案じて、軍議ではあえて採用しなかったのが理由であるという逸話が『常山紀談』に載せられている。「設楽原決戦」5月21日早朝、鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が決したと思われる頃の設楽原では、武田軍が織田・徳川軍を攻撃。戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)が、織田・徳川軍から追撃された武田軍は10000名以上の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出した。織田・徳川軍の勝利で合戦は終結した。織田・徳川軍には主だった武将に戦死者が見られないのに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、譜代家老の内藤、山県、馬場を始めとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣や指揮官にも及び、被害は甚大であった。勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、一時は菅沼定忠に助けられ武節城に篭ったが、信濃の高遠城に後退した。上杉の抑え部隊1000を率いていた海津城代春日虎綱(高坂昌信)は、上杉謙信と和睦した後に、勝頼を出迎えて、これと合流して帰国したという。長篠における勝利、そして越前一向一揆平定による石山本願寺との和睦で反信長勢力を屈服させることに成功した信長は、「天下人」として台頭した。また、徳川家康は三河の実権を完全に握り、遠江の重要拠点である諏訪原城、二俣城を攻略していき、高天神城への締め付けを強化した。武田氏は長篠において、重臣層を含む多くの将兵を失う大敗を喫し、領国の動揺を招いた。武田氏は長篠の敗退を契機に外交方針の再建をはかり、相模後北条氏の甲相同盟に加え、越後上杉氏との関係強化や佐竹氏との同盟(甲佐同盟)、さらに里見氏ら関東諸族らと外交関係を結んだ。天正6年(1578年)には越後において上杉謙信の死後、ともにその養子であった上杉景勝と上杉景虎との間で家督を巡る御館の乱が起こり、勝頼は北条氏の要請で出兵するが、武田方と接触していた景勝と同盟を結び(甲越同盟)、両者の調停を図る。勝頼の撤兵後に景勝が乱を制したことで、北条氏との関係は手切となった。勝頼は関東諸族との同盟により北条氏を牽制し、武田家に人質としていた織田信房を織田家に返還して信長との和睦を試みるが(甲江和与)、天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍による武田領国への本格的侵攻が行われ、武田氏は滅亡した。長篠城主・奥平貞昌はこの戦功によって信長の偏諱を賜り「信昌」と改名)し、(もともとそういう約定があったが)家康の長女・亀姫を貰い受け正室とした上、家康所有の名刀「大般若長光」も賜るという名誉を受けた。さらにその重臣含めて知行などを子々孫々に至るまで保証するというお墨付きを与えられ、貞昌を祖とする奥平松平家は明治まで続くこととなる。また、武田に処刑された鳥居強右衛門は後世に忠臣として名を残し、その子孫は奥平松平家家中で厚遇された。
2024年04月25日
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10,「長篠の戦い」「長篠の戦い」長篠の戦い(ながしののたたかい)、長篠の合戦・長篠合戦とも言う。戦国時代の天正3年(1575)5月21日、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため、長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。甲斐国・信濃国を領する武田氏は永禄年間に、駿河の、今川氏の領国を併合し(駿河侵攻)、元亀年間には遠江国・三河国方面へも侵攻していた。その間、美濃国を掌握した尾張国の織田信長は足利義昭を擁して上洛しており、当初は武田氏との友好的関係を築いていた。しかし、将軍義昭との関係が険悪化すると、元亀3年には反信長勢力を糾合した将軍義昭に挙兵される。そこで将軍義昭に応じた武田信玄が、信長の同盟国である徳川家康の領国である三河へ侵攻(西上作戦)したため、織田氏と武田氏は手切れとなった。しかし信玄の急死によって西上作戦は頓挫し、武田勢は本国へ撤兵を余儀なくされた。一方の信長は、朝倉氏・浅井氏ら反信長勢力を滅ぼして、将軍義昭を京都から追放。自身が「天下人」としての地位を引き継いで台頭した。武田氏の撤兵に伴って三河の徳川家康も武田領国に対して反攻を開始し、三河・遠江の失地回復に努めた。天正元年(1573)8月には、徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が、秘匿されていた武田信玄の死を疑う父・貞能の決断により一族を連れて徳川方へ再属すると家康からは、武田家より奪還したばかりの長篠城に配された(つまり対武田の前線に置かれた)。武田氏の後継者となった勝頼は、遠江・三河を再掌握すべく反撃を開始。奥平氏の離反から2年後の天正3年(1575年)4月には大軍を率いて三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲した。これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の衝突に至った(長篠の戦い)。「長篠城攻城戦」1万5000の武田の大軍に対して、長篠城の守備隊は500人の寡兵であったが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、また周囲を谷川に囲まれた地形のおかげで武田軍の猛攻にも何とか持ちこたえていた。しかし兵糧蔵の焼失により食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められた。5月14日の夜、城側は貞昌の家臣である鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)を密使として放ち、約65キロ離れた岡崎城の家康へ緊急事態を訴えて、援軍を要請させることにした。夜の闇に紛れ、寒狭川に潜って武田軍の厳重な警戒線を突破した鳥居が、15日の午後にたどり着いた岡崎城では、既に信長の率いる援軍3万人が、家康の手勢8000人と共に長篠へ出撃する態勢であった。信長と家康に戦況を報告し、翌日にも家康と信長の大軍が長篠城救援に出陣することを知らされた鳥居は、この朗報を一刻も早く長篠城に伝えようと引き返したが、16日の早朝、城の目前まで来たところで武田軍に見付かり、捕らえられてしまった。最初から死を覚悟の鳥居は、武田軍の厳しい尋問に臆せず、自分が長篠城の使いであることを述べ、織田・徳川の援軍が長篠城に向かう予定であることを堂々と語った。鳥居の豪胆に感心した武田勝頼は、鳥居に向かって「今からお前を城の前まで連れて行くから、お前は城に向かって『援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ』と叫べ。そうすれば、お前の命を助け、武田家の重臣として召し抱えてやろう」と取引を持ちかけた。鳥居は表向きこれを承諾したが、実際に城の前へ引き出された鳥居は、「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。これを聞いた勝頼は激怒し、その場で部下に命じて鳥居を磔にして、槍で突き殺した。しかし、この鳥居の決死の報告のおかげで、援軍が近いことを知った長篠城の城兵たちは、鳥居の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、見事に城を守り通すことができたという。「信長軍団の到着」信長軍30000と家康軍8000は、5月18日に長篠城手前の設楽原に着陣。設楽原は原と言っても、小川や沢に沿って丘陵地が南北に幾つも連なる場所であった。ここからでは相手陣の深遠まで見渡せなかったが、信長はこの点を利用し、30000の軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努める。これは、川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面とし、さらに三重の土塁]に馬防柵を設けるという当時の日本としては異例の野戦築城だった。海外の過去の銃を用いた野戦築城の例と、宣教師の往来を理由として信長がイタリア戦役を知っていた可能性に言及されることもある。つまり信長側は、無防備に近い鉄砲隊を主力として柵・土塁で守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術を採った。一方、信長到着の報を受けた武田陣営では直ちに軍議が開かれた。信玄時代からの重鎮たち、特に後代に武田四名臣といわれる山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らは信長自らの出陣を知って撤退を進言したと言われているが、勝頼は決戦を行うことを決定する。そして長篠城の牽制に3000ほどを置き、残り12000を設楽原に向けた。これに対し、信玄以来の古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり酒(水盃)を飲んで決別したとも言う。
2024年04月25日
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上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。信玄は、24日に兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。実際には長野盆地南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま膠着状態が続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることもでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたが、攻めることはなかった。攻めなかった理由は不明だが、この海津城の存在が戦場で意味を持つことになる。更に膠着状態が続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍が勝っても負けても山を下るため、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた。9月9日、深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。政虎は、甘粕景持、村上義清、高梨政頼に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。政虎自身はこの間に、八幡原に布陣した。10日、午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。政虎は、柿崎景家を先鋒に、車懸り(波状攻撃)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死するなど、劣勢であったと言われる。乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉政虎であると知ったという。頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570)である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、確実な史料上からは確認されない。なお、上杉側の史料である『北越太平記』では一騎討ちが行われた場所を御幣川の家中とし、信玄・謙信ともに騎馬で信玄は軍配でなく太刀を持ち、信玄は手を負傷して退いたとしている。また、大僧正・天海の目撃談も記している。江戸時代に作成された上杉家御年譜では、斬りかかったのは荒川伊豆守だと書かれている。また、盟友関係にあった関白・近衛前久が政虎に宛てて、合戦後に送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前10時頃)には八幡原に到着した。予定より遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走し、信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた兵3000と合流して、越後国に引き上げた。この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した。信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。信玄側にも2通の感状が確認されているが、柴辻俊六を始め主な研究者は、文体や書体・筆跡等が疑わしいことから、偽文書であると推測している。
2024年04月25日
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晴信は市河氏への救援に塩田城の原与左衛門尉の足軽衆を派遣させているが間に合わず、塩田城の飯富虎昌に対して今後は市河氏の緊急時に際しては自身の命を待たずに派兵することを命じている。長尾方では武田領深く侵攻し長野盆地奪回を図り7月には尼飾城を攻めるが武田軍は決戦を避け、景虎は飯山城(長野県飯山市)に引き揚げた。武田方では7月5日に安積郡小谷城を攻略すると北信・川中島へと侵攻し、8月下旬には「上野原」において武田・長尾方は合戦を行う。景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に越後国へ引き揚げ、晴信も10月には甲斐国へ帰国した。一方、このころ京では将軍の足利義輝が三好長慶、松永久秀と対立し近江国高島郡朽木谷(滋賀県高島市)へ逃れる事件が起きている。義輝は勢力回復のため景虎の上洛を熱望しており、長尾氏と武田氏の和睦を勧告する御内書を送った。晴信は長尾氏との和睦の条件として義輝に信濃守護職を要求し、永禄元年(1558)正月16日に晴信は信濃守護、嫡男義信は三管領に補任されている。晴信の信濃守護補任の条件には景虎方の和睦が条件であったと考えられており、信濃への派兵を続ける晴信に対し義輝は晴信を詰問する御内書を発しており、同年11月28日に晴信は陳弁を行い正当性を主張し長尾方の撤兵を求めている。なお、義輝は晴信の陳弁に対して、景虎に信濃出兵を認め、前信濃守護である小笠原長時の帰国を後援するなど晴信の信濃守護補任を白紙へ戻そうとしていたと考えられている。晴信の信濃守護補任は武田氏の信濃支配を追認するもので信濃支配への影響は少ないことも指摘されており、晴信の信濃守護補任はあくまで政治外交上の影響力にとどまっていたものであると考えられている。一連の戦闘によって北信濃の武田氏勢力は拡大し、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地中野(長野盆地北部)を失って弱体化する。このため、景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになる。「第四次合戦」永禄3年(1560年)11月には武田氏一族の「かつぬま五郎殿」が上杉謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたとする逸話を記している。勝沼氏は武田信虎の弟である勝沼信友がおり、信友は天文4年(1535)に死去しているが、『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を信友の子息としているが、一方で天文8年頃には府中今井氏の今井信甫が勝沼氏を継承して勝沼今井氏となっている。信甫の子息には信良がおり、謀反を起こした「かつぬま五郎殿」はこの信良を指すとする説がある。川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語のみである。そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『勝山記』や上杉氏の感状や近衛前久宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書は残存しているほか、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることから、この年にこの地で激戦があったことは確かである。現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。「合戦の背景」天文21年(1552)、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年(1559)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。永禄3年(1560)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。永禄4年(1561)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた(小田原城の戦い)。北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。同年8月、政虎は越後国を発向し善光寺を経由して妻女山に布陣した。これに対する武田方は茶臼山(雨宮の渡し、塩崎城、山布施城等諸説がある)に対陣する。
2024年04月25日
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一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。晴信も10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。この戦いは川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで行われており、長野盆地の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、長野盆地進出は阻まれたものの、小県はもちろん村上氏の本領埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡の制圧を進めている。なお、最初の八幡の戦いにも景虎自らが出陣したとする説がある反面、武田氏研究者の柴辻俊六は、布施の戦いに関しても景虎が自ら出陣したとする確実な史料での確認が取れないとして、疑問を呈している。「第二次合戦」川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年(1555)に行われ、犀川の戦いとも言う。武田晴信と長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した。天文23年(1554)、晴信は南信の伊那郡を制圧すると同時に、同年末には関係改善が図られていた相模国の後北条氏、駿河国の今川氏と三者で同盟を結び、特に北関東において上杉方と対峙する北条氏と共同して上杉氏と対決していく(甲相駿三国同盟)。その上で、長尾氏の有力家臣北条高広に反乱を起こさせた。景虎は北条高広を降すが、背後にいる晴信との対立は深まった。この年中信地域で小笠原氏と共に武田方に抵抗していた二木氏が小笠原氏逃亡後になって赦免を求め、これを仲介した大日方氏が賞されている。天文24年・弘治元年(1555)、信濃国善光寺の国衆・栗田永寿(初代)が武田方に寝返り、長野盆地の南半分が武田氏の勢力下に置かれ、善光寺以北の長尾方諸豪族への圧力が高まった。晴信は同年3月、景虎は4月に善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣した。栗田永寿と武田氏の援軍兵3000は、栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城する。景虎は旭山城を封じ込めるため、そして前進拠点として葛山城(長野県長野市)を築いた。晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる。兵站線(前線と根拠地の間の道)の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだとされる。長尾軍の中でも動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めている。長尾軍に呼応して一向一揆の抑えとして加賀に出兵していた朝倉宗滴が亡くなったことで、北陸方面への憂いが生じたこともあり、 閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信国衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。これにより長尾氏の勢力は、長野盆地の北半分(犀川以北)を確保したことになる。その後、晴信は木曽郡の木曾義康・義昌父子を降伏させ、南信濃平定を完成させた。第二次川中島の戦いにおいては武田・長尾双方に複数の感状が現存しており、両者とも抗争の舞台を「川中島」と認識していることが確認される。「第三次合戦」第三次合戦は、弘治3年(1557)に行われ、上野原の戦いとも言う。武田晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。弘治2年(1556)6月28日、越後では宗心(景虎)が出家隠遁を図る事件が起きている。景虎は長尾政景らの諫言、家臣団は忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっている。晴信は長尾氏との和睦後も北信国衆や川中島方面の国衆への調略を進めており、同年7月には高井郡の市川氏にも知行宛行を行っている。8月には真田幸綱(幸隆)・小山田虎満(備中守)らが東条氏が拠る長野盆地東部の埴科郡尼飾城(長野市松代町)を陥落させ、同年8月には景虎家臣の大熊朝秀が武田方に内通し挙兵する事件が起きており、朝秀は同月13日に越後駒帰(新潟県糸魚川市青梅)において景虎に敗れると武田方に亡命し武田家臣となっている(『上越』)。弘治3年(1557)正月、景虎は更科八幡宮(武水別神社、長野県千曲市)に願文を捧げて、武田氏討滅を祈願している。同2月15日に晴信は長尾方の前進拠点であった水内郡葛山城(長野市)を落とし落合氏を滅ぼし、高梨政頼の居城である飯山城に迫った。晴信はさらに同3月14日に出陣し、北信国衆への褒賞などを行っている。長尾方でも攻勢を強め、4月18日には景虎自身が出陣し長野盆地に着陣した。4月から6月にかけて北信濃の武田方の諸城を落とし、6月11日に景虎は高梨政頼を派遣して高井郡の市河藤若(信房か)への調略を行い、同16日に晴信は藤若に対して援軍を約束しており、同18日には北条氏康の加勢である北条綱成勢が上田に到着し、同23日に景虎は飯山城へ撤退した。
2024年04月24日
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武田氏では天文11年(1542)に晴信への当主交代があり、晴信期には諏訪氏との同盟関係が手切となる。なお、天文11年には関東管領上杉憲政が佐久郡出兵を行っており、諏訪氏は同盟関係にあった武田氏や村上氏への通告なく佐久郡の割譲を行っており、武田氏ではこれを盟約違反と捉えたものと考えられている。武田氏は諏訪郡を制圧し信濃侵攻を本格化させ、相模後北条氏との関係改善を図る外交方針の転換を行う。それまで武田氏と友好的関係にあった山内上杉家は関東において北条氏と敵対していたため、北条氏との同盟は山内上杉氏との関係悪化を招き、信濃国衆を庇護した山内上杉氏と対立していく。その後も信濃国への出兵を繰り返し、信濃の領国化を進めた。これに対して、佐久に隣接する小県方面では村上氏が、諏訪に隣接する中信地方では深志を拠点とした信濃守護家の小笠原氏が抵抗を続けていた。武田氏は、高遠氏、藤沢氏、大井氏など信濃国人衆を攻略、天文16年(1547)には佐久に影響力を残していた関東管領上杉憲政を小田井原で破り、笠原氏の志賀城(佐久市)を落として村上氏と対峙する。天文17年(1548)の上田原の戦いでは村上義清に敗北を喫するが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を撃破して、天文19年(1550)には小笠原長時を追い払い、中信地方を制圧する。同年、村上義清の支城の戸石城(砥石城とも)を攻めるが、敗退する(砥石崩れ)。しかし、翌天文20年(1551年)、真田幸隆の働きにより、戸石城を落とすことに成功。また屋代氏などの北部の与力衆の離反もあって村上義清は本拠地葛尾城に孤立し、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がる事になった。対武田では村上氏と協力関係にあった長野盆地以北の北信濃国人衆(高梨氏や井上氏の一族など)は、元々村上氏と北信の覇権を争っていた時代から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあり、村上氏の勢力が衰退し代わって武田氏の脅威が増大すると援助を求めるようになった。特に高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、父長尾為景の実母は高梨家出身であり、越後の守護でもあった関東管領上杉氏との戦いでは、先々代高梨政盛から多大な支援を受けていた。更に当代の高梨政頼の妻は景虎の叔母でもあり、景虎は北信濃での戦いに本格的に介入することになる。「川中島」信濃国北部、千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が広がる。この地には信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。長野盆地の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる地を川中島と呼ぶ。当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がるものの洪水堆積の土壌は肥えて、米収穫高は当時の越後全土を上回った。鎌倉時代から始まったとされる二毛作による麦の収穫もあり、河川は鮭や鱒の溯上も多く経済的な価値は高かった。古来、交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば信濃国府のあった松本盆地に至る要地であった。この地域には栗田氏や市川氏、屋代、小田切、島津などの小国人領主や地侍が分立していたが、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていった。これらの者達は、武田氏が信濃に侵攻を始めた当初は村上義清に従っていたが、村上氏の勢力が衰退すると武田氏に応じる者が出始める。「第一次合戦」川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553)に行われ、布施の戦いあるいは更科八幡の戦いとも言う。長尾景虎(上杉謙信)が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信(武田信玄)と戦った。天文22年(1553)4月、晴信は北信濃へ出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、長尾氏と縁戚につながる高梨氏を通して景虎に支援を願った。5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現千曲市八幡地区、武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、武田軍は再び北信濃に侵攻し、村上方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、3日には青柳城を攻めた。武田軍は、今福石見守が守備する苅屋原城救援のため山宮氏や飯富左京亮らを援軍として派遣し、さらに荒砥城に夜襲をしかけ、長尾軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡まで兵を退く。
2024年04月24日
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劣勢に追い込まれた家康は浜松城に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と決戦し敗退している(三方ヶ原の戦い)。しかしここで(信玄は)盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしなかった。信玄は軍勢の動きを止め浜名湖北岸の刑部において越年したが、元亀4年(1573)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。3月6日、岩村城に秋山虎繁を入れた。「信玄の最期と遺言」信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈する(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検の時に喀血が再発したとも)など持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にて4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する。享年53歳。臨終の地点は小山田信茂宛御宿監物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。信玄の遺言については、遺骸を諏訪湖に沈めることなど事実で無いことが含まれているが(『甲陽軍鑑』によれば、重臣の協議により実行されなかったという)、三年秘匿や勝頼が嫡男信勝の後見となっている可能性も指摘され、文書上から確認される事跡もある。信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、甲府の円光院では安永8年(1779)に甲府代官により発掘が行われて、信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられている。天正3年(1575)3月6日には山県昌景が使者となり、高野山成慶院に日牌が建立される(『武田家御日牌帳』)。同年5月21日に武田勝頼は長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗しているが、『甲陽軍鑑』品51によれば、この直前にあたる同年4月12日には恵林寺において勝頼による信玄三周忌の仏事が行われている。この時、恵林寺住職の快川紹喜が大導師を務め、葬儀が行われたという(『天正玄公仏事法語』)。上野晴朗はこれを「3年喪明けの葬儀で天正4年(1576)4月16日に本葬を行った」としている。天正4年(1576)4月16日には勝頼により恵林寺で信玄の葬儀が行われている。 9、「川中島の戦い」「川中島の戦い」(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年)から10日)を指すことが多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある(柴辻俊六による)。*第一次合戦:天文22年(1553)*第二次合戦:天文24年(1555)*第三次合戦:弘治3年(1557)*第四次合戦:永禄4年(1561)*第五次合戦:永禄7年(1564)戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略を目的とした。武田氏の支配地は着実に北上している。なお、上記の「五回説」が現在では一般的であるが、異説も存在する。特に明治期には田中義成が軍記物の信憑性を否定し、上記第二次と第四次のみを確実とする「二回説」を提唱した。1929年には渡辺世祐がはじめて五回説を提唱し、戦後は小林計一郎以来この五回説が支持されている。二回説は直接両軍が交戦した二回までは記録が残っているが、他の戦いは交戦を避けたりしている場合が多いため、1932年の北村建信ら「二回説」を主張する研究者の理屈にも一定の説得力があるといえるが、一般的とは言いがたい。「戦国期東国の地域情勢と川中島合戦」室町期の東国は鎌倉公方の分裂や鎌倉公方と関東管領の対立などの影響を受けて乱国状態にあったが、戦国期には各地で戦国大名化した地域権力が出現し、甲斐国では守護武田氏、越後国では守護代の長尾氏による国内統一が進んでいた。甲斐国は信虎期に国内統一が成され、対外的には両上杉氏や駿河今川氏、信濃諏訪氏との和睦が成立し、信濃佐久郡・小県郡への侵攻を志向していた。
2024年04月24日
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永禄3年(1560)5月には桶狭間の戦いにおいて、駿河の今川義元が尾張国の織田信長に敗死。当主が今川氏真に交代したものの、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する美濃においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上、武田との関係改善を模索。こうした経緯から諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に信長養女が迎えられている。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じ、永禄10年(1567)10月には武田家において嫡男義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)。永禄11年(1563)12月には遠江での今川領分割を約束した三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始し、薩垂山で今川軍を破り(薩埵峠の戦い)、今川館を一時占拠する。信玄は駿河侵攻に際して相模北条氏康にも協調を持ちかけていたが、氏康は今川方救援のため出兵して甲相同盟は解消された。北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し、翌永禄12年5月に家康は今川氏と和睦し、侵攻から離脱した。この間、織田信長は足利義昭を奉じて上洛していた。信玄は信長と室町幕府に就いた足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、 同年8月には上杉氏との和睦が成立した。さらに信玄は越相同盟に対抗するため常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北・東関東の反北条勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加え、同年10月には小田原城を一時包囲。撤退の際には三増峠の戦いで北条勢を撃退した。こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じ、同年末には再び駿河侵攻を行い、駿府を掌握した。また、永禄年間に下野宇都宮氏の家臣益子勝宗と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に感状を贈っている。「遠江・三河侵攻と甲相同盟の回復」永禄11年(1568)9月、将軍足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。元亀2年(1571年)10月3日、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去。跡を継いだ嫡男の北条氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を回復するに至った。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。「西上作戦」尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し、外交関係が始まっており、永禄8年(1565)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立している。織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより権僧正という高位の僧位を元亀3年(1572)に与えられた。また、元亀2年には甲相同盟が回復している。元亀3年(1572)10月3日、信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景と秋山虎繁の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め入った。信玄率いる本隊は、信長と交戦中であった浅井長政、朝倉義景らに信長への対抗を要請し、10月13日に徳川方の諸城を1日で落とし、山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流した。一方11月に信長の叔母のおつやの方が治める東美濃の要衝岩村城が秋山虎繁に包囲されて軍門に下った。これに対して、信長は信玄と義絶するが、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に佐久間信盛、平手汎秀らと3000の兵を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している(一言坂の戦い)。12月19日には、(武田軍は)遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。
2024年04月24日
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天文14年(1545)4月、上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放した。父・信虎時代は対立していた後北条氏とは天文13年(1544年)に和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に大きな「貸し」を作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで大勝し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。今川・北条との関係が安定したことで武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対する。天文16年(1547)には関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻め、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。また、領国支配においても同年には分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定めている。天文17年(1548)2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原合戦において武田軍は村上軍に敗れ、宿老の板垣信方、甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍を撃破した。天文19年(1550)7月、晴信は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時には既にに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清の下へ逃走した。こうして、中信地方は武田の支配下に落ちた。勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫した。だが翌天文20年(1551)4月、真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(1553)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎(上杉謙信)の下へ逃れた。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、晴信は北信地方を除き信濃をほぼ平定した。「川中島の戦い」天文22年(1553)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)は本格的な信濃出兵を開始し、以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。この時きは景虎方に武田軍の先鋒を布施・八幡にて撃破される。景虎は武田領内深く侵攻するも晴信は決戦を避ける。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。同年8月には景虎の支援を受けて大井信広が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。晴信は信濃進出に際して、和睦成立後も緊張が続いていた駿河今川氏と相模北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554)には嫡男義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。今川と北条も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲相駿三国同盟が成立する。三国同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。天文24年にも川中島において長尾景虎と対陣している。弘治3年(1557年)には室町幕府将軍足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている。『甲斐国志』に拠れば、永禄2年(1559年)2月に晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている。出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大飢饉を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている。「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や、臨済宗妙心寺派の開山である関山慧玄の一字を授かったとする説、唐代の僧臨済義玄から一字を取ったとする説などがある。信玄は北信侵攻を続けていたものの、謙信の上洛により大きな対戦にはならなかったが、永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である武田軍副将武田信繁をはじめ武田家重臣諸角虎定、足軽大将の山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。第四次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化し始める。永禄7年(1564)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている(第5次川中島の戦い)。「外交方針の転換と今川・北条との戦い」川中島の戦いと並行して信玄は西上野侵攻を開始したものの、上杉旧臣である長野業正が善戦した為、当初は捗々しい結果は得られなかった。しかし、業正が永禄4年(1561年)に死去すると、武田軍は跡を継いだ長野業盛を激しく攻め、永禄9年(1566)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化した。
2024年04月24日
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8、「武田信玄」「武田 信玄」(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野および遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。「出生から甲斐守護継承まで」大永元年11月3日、甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曾祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を排斥[4]するなど、国衆勢力を服従させて国内統一が進む。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したという。幼名は太郎。傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。大永3年(1523)、兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。大永5年(1525)、父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったと言う。信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。天文2年(1533)、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信との仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している。天文5年(1536)3月、太郎は元服して、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名を「晴信」と改める。官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑視もされている(柴辻俊六による)。信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する。「信濃国を平定」信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行う。天文11年(1542)6月に晴信は諏訪氏庶流である伊奈の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している。諏訪領においては同年9月には高遠頼継が武田方に対して挙兵しているが、武田方はこれを撃破して諏訪領を掌握する。武田方はさらに天文12年(1543)には信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて、自害に追い込んだ。
2024年04月24日
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「追放後の活動」天文12年(1543)6月には上洛し「京都南方」を遊覧している。晴信は今川氏、後北条氏と甲相駿三国同盟を形成すると信濃侵攻を本格化させ越後国の上杉謙信との川中島の戦いを展開しているが安定した領国支配を行っており、この頃に信虎は出家して「無人斎道有」を名乗っていることからも信虎は甲斐国主への復権を諦め隠居を受けいれていたと考えられている。天文12年の上方遊歴においては京都から高野山・奈良を遊歴し、国主時代から交流のあった本願寺証如も使者を派遣して挨拶している。さらに信虎は武田家と師檀関係にあった高野山引導院を参詣し(なお、晴信は実弟・信繁を介して謝礼を行っている)、さらに奈良へ赴き同年8月9日には多聞院英俊が信虎の奈良遊歴を記している。信虎は奈良を遊歴すると同月15日には駿河国へ戻っている。天文19年(1550)には今川義元の室になっている娘が死去している。その後は上方における消息もみられず駿河国で過ごしていたと考えられているが、その後も上洛した在京奉公が確認される。今川家では永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いにおける当主義元が討死すると氏真へ当主交代する。武田家では、翌永禄4年の第四次川中島の戦い以降、北信を巡る越後上杉氏との抗争が収束し、永禄7年(1567年)には義元娘を正室とする晴信嫡男の義信が廃嫡される義信事件が発生し、これらの情勢の変化を背景に甲駿関係は悪化し、甲駿同盟は手切となり永禄11年(1568年)には武田氏による駿河今川領国への侵攻が開始される(駿河侵攻)。『武田源氏一統系図』において信虎の再上洛は桶狭間以降としているが、公家の山科言継、義元生前の永禄元年(1558)から例年にわたり信虎への年始挨拶などを行っており、信虎は京に邸をもち継続的に在京奉公を行っていたと考えられている。信虎は在京前守護として将軍・足利義輝に仕候し、言継は永禄2年(1559)において信虎の身分を「外様」「大名」と記しており、儀礼的には高い席次であり、信虎は上洛していた同じ甲斐源氏の一族でもある南部信長ら諸大名と交流しており、飛鳥井雅教や万里小路惟房ら公家との文化的交流もしており、永禄3年(1560)には菊亭晴季に末女を嫁がせている。永禄7年(1564)から永禄10年(1567)、信虎は志摩国英虞郡の地頭の一人である甲賀(こうか)氏のもとに身を寄せていた。この間、九鬼氏が志摩を追われ織田氏の配下となっているが、信虎は少なからずこの事件と何らかの関わりをもったものと考えられる。この事が、のちの近江国甲賀(こうが)郡派遣と関連があるのかは定かではない。永禄8年(1565)には将軍・義輝が三好三人衆に討たれる永禄の変が発生する。『言継卿記』においては信虎の動向が記されず不明で、一時的に駿河国に戻っていた可能性も考えられている(丸島)。永禄10年(1567)には在京であることが確認され、その後も在京活動を続けている。永禄11年(1568)には尾張国の織田信長が三好政権を駆逐して上洛し、足利義昭を将軍に奉じている。武田氏は信長と同盟関係にあり信虎も将軍義昭に仕候しているが、信長と同盟関係にあった三河国の徳川家康とは敵対しており、元亀年間には信長との関係も手切となり、信玄は将軍・義昭が迎合した反信長勢力に呼応して大規模な遠江・三河への侵攻を開始する(西上作戦)。元亀4年(1573)3月10日に義昭は信長に対して挙兵するが、義昭の動向は信長に内通した細川藤孝により知らされており、信虎は義昭の命で甲賀郡に派遣され、反信長勢力の六角氏とともに近江攻撃を企図していたという。義昭の挙兵は、同年4月12日に信玄が西上作戦の途上で死去し武田勢が撤兵したことで失敗し、反信長勢力は滅ぼされ義昭も京から追放されている。甲斐国では信玄側室との間に生まれた勝頼が家督を継いでおり、天正2年(1574)に信虎は三男・武田信廉の居城である高遠城に身を寄せ、勝頼とも対面したという。同年3月5日、伊那の娘婿・根津松鴎軒常安(根津元直の長男)の庇護のもと、信濃高遠で死去した。享年81。葬儀は信虎が創建した甲府の大泉寺で行われ、供養は高野山成慶院で実施されている。没後、平成になってから、躑躅ケ崎館に居館を移して甲府の町の基礎を作った人物としての観点から再評価の動きがあり、平成31年(2019)の「甲府開府500年」に先立って前年の平成30年(2018)に甲府駅北口に武田信虎の銅像が建立された。)
2024年04月24日
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『勝山記』によれば、甲駿同盟に際して武田家中でも反発が起こり、同年6月に甲斐国内に亡命していた反義元派を支援した前嶋一門が切腹させており、これに対して反発する奉行衆が甲斐を退去する事件も発生している。また、今川氏の同盟国であった後北条氏も甲駿同盟に対には反発し、北条・今川間で抗争が発生する(第一次河東の乱)。第一次河東の乱では甲駿同盟は軍事同盟として機能し、信虎は駿東郡へ兵を派遣し今川氏を支援している。一方の後北条氏は天文7年に甲斐都留郡へ侵攻し吉田を襲撃しているが、天文8年(1539)に北条氏綱は武田氏と和睦し、乱は収束する。信虎は両上杉氏と同盟関係を持っていたが、天文6年(1537年)に扇谷上杉朝定が家督を継いだ頃には扇谷上杉氏はすでに本拠地の川越を失い没落していた。天文7月(1538年)10月には信虎と外交関係を持っていた小弓公方の足利義明が滅亡。これで関東における信虎の同盟者は山内上杉氏のみとなった。天文5年(1536)11月に信虎は信濃佐久郡に出陣しており、これが嫡男晴信の初陣となる。天文9年(1540)には今井信元を浦城(旧北巨摩郡須玉町)で降伏させる。『塩山向嶽庵小年代記』によれば、同年4月に諏訪頼重と同調して信濃佐久郡へ出兵し、はじめて甲斐国外における所領を獲得する。同年11月には諏訪頼重に信虎の娘・禰々が嫁ぎ、諏訪氏との同盟関係が強化される。『神使御頭之日記』によれば、12月9日には頼重が甲府を訪れ、12月17日には信虎自身が諏訪を訪問している。天文8年(1539)11月には幕府内談衆の大館晴光が信虎に使者を派遣しており、将軍義晴に近い大館氏と交流があったことが確認される[46]。『証如上人日記』によれば、天文9年(1540)から本願寺証如と信虎との交流が記録されている[46]。信濃では諏訪氏のほか村上義清とも結び、『高白斎記』によれば、天文10年(1541)5月25日には武田・村上・諏訪三氏と共同で信濃佐久郡への遠征を行っている。この遠征に信虎は晴信とともに出陣し、小県郡(長野県東御市)で起きた海野平の戦いで駆逐された海野棟綱が上野へ亡命して関東管領・上杉憲政を頼ると、憲政は佐久郡へ出兵した。信虎は同盟国である山内上杉氏と衝突することを避け撤兵し、6月4日に晴信とともに甲斐へ帰国する。帰国した信虎は6月14日に今川義元訪問のため駿州往還を駿河へ向かうが、この最中に晴信が甲駿国境に足軽を派遣して路地を封鎖し、信虎を国外追放する事件が発生する。「信虎の甲斐追放」天文10年(1541)6月14日、信虎が信濃国から凱旋し、娘婿の今川義元と会うために河内路を駿河国に赴いたところ、晴信は甲駿国境を封鎖して信虎を強制隠居させる。板垣信方・甘利虎泰ら譜代家臣の支持を受けた晴信一派によって河内路を遮られ駿河に追放され、晴信は武田家家督と守護職を相続する。信虎は今川義元の元に寓居することになり、正室・大井夫人は甲斐国に残留しているが、信虎側室は駿河国へ赴いており、同地において子をもうけている。信虎追放については同時代の記録資料のほか『甲陽軍鑑』にも見られるが、「堀江家所蔵文書」年未詳9月23日付の今川義元書状では、義元は晴信に対して、信虎の隠居料を催促している。晴信と義元により隠居料など諸問題を含めた協定がおこなわれていたと考えられている。信虎の駿河時代の給分は武田家からの隠居料のほか今川家からの支出もあり、給地も存在していた。この義元書状を天文11年(1542)に比定し、文中に見られる「天道」の語句から、信虎追放は「天道思想」に裏付けられた行為であるとした。一方で、平山優は「天道」の語句は晴信が信虎女中衆を駿河へ派遣する時期を易筮(えきぜい)により占い、「天道」はこの易筮の結果を指すものとして、これを否定している。事件の背景には諸説ある。信虎が嫡男の晴信を疎んじて次男の信繁を偏愛し、ついには廃嫡を考えるようになったためという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがある。さらには信虎の可愛がっていた猿を家臣に殺されて、その家臣を手打ちにしたためというものまで伝わっている。いずれにせよ、晴信や家臣団との関係が悪化していたことが原因であると推察される。また、『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたという。しかし、信虎の悪行伝説はやはり荒唐無稽でそのままでは信じられない面があることが指摘される。また、『勝山記』なども近い時代の史料ではあるが、年代記であり後に改変や挿入の可能性も指摘される。信虎の悪行を具体的に記した一次史料は殆ど無く、在地の信虎の伝承や記録には信虎を悪くいう内容はない、とする意見もある。信虎の悪行は『甲陽軍鑑』に萌芽が見られ、『甲陽軍鑑末書』や『竜虎豹三品』の「竜韜品」、『武田三代軍記』といった甲州流軍学のテキストの中で次第に作り上げられていった。信虎に悪役のイメージを付加したのは、信虎追放を正当化するために武田氏や軍学者たちが印象操作を行ったとも考えられている。
2024年04月24日
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大永6年(1526)には梨の木平で北条氏綱勢を破っているが、以後も北条方との争いは一進一退を繰り返した。『勝山記』によれば、大永6年には信虎上洛の風聞が流れたが、これは実現していない。翌大永7年(1527)2月には将軍足利義晴と細川高国が京都を脱出して近江国へ逃れる事件が発生し、信虎は京へ使者を派遣している。将軍義晴は諸国の大名・国衆に上洛を促しており、信虎に対しても4月27日付の御内書で上洛を要請し、6月16日付の御内書では上杉憲寛・諏訪頼満・木曽義元に対して信虎上洛への助力を命じている。同年6月3日には信濃佐久郡の伴野貞慶の要請により信濃へ出兵する。『勝山記』によれば信虎の出兵に対して佐久郡の国衆・大井氏らは和睦を受け入れたという。7月には駿河国で今川氏親が死去し氏輝が家督を相続すると、今川氏と一時的に和睦する。享禄元年(1528)に信濃諏訪攻めを行うが、神戸・堺川合戦(諏訪郡富士見町)で諏訪頼満・頼隆に敗退する。『勝山記』によれば、信虎は享禄3年(1530)には扇谷上杉氏の当主・上杉朝興の斡旋で山内上杉氏の前関東管領・上杉憲房の後室を側室に迎えた。憲房の後室は朝興の叔母にあたり、これは扇谷上杉氏との関係を強化する縁組であると考えられている。年次は不明であるが、信虎は両上杉氏と関係の深い下総国の小弓公方・足利義明とも外交関係を持っている。こうした信虎と両上杉氏との関係強化は、相模国の後北条氏(伊勢氏が大永3年(1523)に北条改姓)との対立が激化し、上杉朝興が後北条領の江戸へ侵攻すると、信虎は小山田氏の関東派遣を企図するが、小山田勢は甲相国境の都留郡八坪坂(上野原市大野)で北条勢に敗退し、扇谷上杉氏との連携に失敗する。一方で、武田家中では上杉憲房の娘を武田家に迎えることに対する反発が起こり、享禄4年(1531)正月21日には栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌らが甲府を退去して御岳(甲府市御岳町)において信虎に抵抗し、韮崎(韮崎市)へ侵攻した信濃諏訪郡の諏訪頼満と同調する。さらに西郡の大井信業も国人勢に呼応するが、信虎は2月2日の合戦で大井信業・今井備州らを滅ぼし、4月12日には河原部合戦(韮崎市)において栗原兵庫ら国人連合を撃破した。さらに天文元年(1532)9月には今井信元に対して攻勢を強め、本拠である獅子吼城(浦城、北杜市須玉町)を明け渡させた。『勝山記』によれば、享禄元年(1528)には甲斐一国内を対象とした徳政令を発している。この徳政令は発令時期が不明だが、東国の戦国大名が発令した初めての事例である他、土一揆の勃発以前に発令されている点からも注目されており、『勝山記』では同年夏からの自然災害の頻発が記録されていることから収穫期の秋に発令されたものであると考えられている。『勝山記』によれば、享禄2年(1529年)には小山田氏との関係が悪化し、信虎が郡内への路地封鎖を行う事件が発生する。このときは小山田信有の生母が遠江国に姉のもとを訪ねて周旋し、路地封鎖は解除された。天文2年(1533)には嫡男・晴信の正室に上杉朝興の娘を迎え、天文3年(1534)11月に輿入れした。これにより武田氏と扇谷上杉氏は一時的に重縁関係となるが、朝興の娘が死去したため、これは解消された。天文4年(1535)には今川攻めを行い、甲駿国境の万沢(南巨摩郡南部町万沢)で合戦が行われると、今川と姻戚関係のある後北条氏が籠坂峠を越え山中(南都留郡山中湖村)へ侵攻され、小山田氏や勝沼氏が敗北している。同年には諏訪氏と和睦する。「諏訪・今川氏との和睦」信虎は天文4年(1535)9月17日、信虎は諏訪頼満と甲信濃国境の堺川で対面し、諏訪大社上社の宝鈴を鳴らして和睦し、同盟関係が成立した。天文5年(1536)、『歴代土代』によれば、正月の除目(じもく)で、嫡男の太郎は従五位下・左京大夫に叙せられている。三条西実隆『実隆公記』では欠損部があるものの、信虎が従四位に叙せられたことを記していると考えられている。『後鑑』によれば、同年3月には嫡男の太郎が元服し、信虎は将軍義晴に対して偏諱を求め、太郎は「晴」の一字を拝領して「晴信」と名乗る。なお、晴信は天文10年(1541年)の信虎追放後に官途名を「大膳大夫」に改めている。同年3月17日には、駿河国で同年4月10日に当主・今川氏輝と弟の彦五郎が同日に死去し、氏輝の弟である善徳寺承芳(後の今川義元)と玄広恵探の間で家督を巡る花倉の乱が発生する。信虎は北条氏綱とともに善徳寺承芳を支援し、同年6月14日に玄広恵探が自害することで善徳寺承芳が勝利する。新たに当主となった義元と信虎の間では同盟関係が結ばれており、信虎は早い段階から義元自身や後見人の寿桂尼らと接触していたと考えられている。『勝山記』によれば天文6年2月10日には信虎長女・定恵院が義元正室となり、婚姻関係が結ばれた。嫡男晴信の正室・上杉朝興の娘は天文4年に死去しており、これ以降に信虎は義元の斡旋により、晴信正室に公家の三条公頼の娘(三条夫人)を迎えている。正確な時期は不明であるが、『甲陽軍鑑』では天文5年の晴信元服の直後であるとしている。
2024年04月24日
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大永6年(1526)には梨の木平で北条氏綱勢を破っているが、以後も北条方との争いは一進一退を繰り返した。『勝山記』によれば、大永6年には信虎上洛の風聞が流れたが、これは実現していない。翌大永7年(1527)2月には将軍足利義晴と細川高国が京都を脱出して近江国へ逃れる事件が発生し、信虎は京へ使者を派遣している。将軍義晴は諸国の大名・国衆に上洛を促しており、信虎に対しても4月27日付の御内書で上洛を要請し、6月16日付の御内書では上杉憲寛・諏訪頼満・木曽義元に対して信虎上洛への助力を命じている。同年6月3日には信濃佐久郡の伴野貞慶の要請により信濃へ出兵する。『勝山記』によれば信虎の出兵に対して佐久郡の国衆・大井氏らは和睦を受け入れたという。7月には駿河国で今川氏親が死去し氏輝が家督を相続すると、今川氏と一時的に和睦する。享禄元年(1528)に信濃諏訪攻めを行うが、神戸・堺川合戦(諏訪郡富士見町)で諏訪頼満・頼隆に敗退する。『勝山記』によれば、信虎は享禄3年(1530)には扇谷上杉氏の当主・上杉朝興の斡旋で山内上杉氏の前関東管領・上杉憲房の後室を側室に迎えた。憲房の後室は朝興の叔母にあたり、これは扇谷上杉氏との関係を強化する縁組であると考えられている。年次は不明であるが、信虎は両上杉氏と関係の深い下総国の小弓公方・足利義明とも外交関係を持っている。こうした信虎と両上杉氏との関係強化は、相模国の後北条氏(伊勢氏が大永3年(1523)に北条改姓)との対立が激化し、上杉朝興が後北条領の江戸へ侵攻すると、信虎は小山田氏の関東派遣を企図するが、小山田勢は甲相国境の都留郡八坪坂(上野原市大野)で北条勢に敗退し、扇谷上杉氏との連携に失敗する。一方で、武田家中では上杉憲房の娘を武田家に迎えることに対する反発が起こり、享禄4年(1531)正月21日には栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌らが甲府を退去して御岳(甲府市御岳町)において信虎に抵抗し、韮崎(韮崎市)へ侵攻した信濃諏訪郡の諏訪頼満と同調する。さらに西郡の大井信業も国人勢に呼応するが、信虎は2月2日の合戦で大井信業・今井備州らを滅ぼし、4月12日には河原部合戦(韮崎市)において栗原兵庫ら国人連合を撃破した。さらに天文元年(1532)9月には今井信元に対して攻勢を強め、本拠である獅子吼城(浦城、北杜市須玉町)を明け渡させた。『勝山記』によれば、享禄元年(1528)には甲斐一国内を対象とした徳政令を発している。この徳政令は発令時期が不明だが、東国の戦国大名が発令した初めての事例である他、土一揆の勃発以前に発令されている点からも注目されており、『勝山記』では同年夏からの自然災害の頻発が記録されていることから収穫期の秋に発令されたものであると考えられている。『勝山記』によれば、享禄2年(1529年)には小山田氏との関係が悪化し、信虎が郡内への路地封鎖を行う事件が発生する。このときは小山田信有の生母が遠江国に姉のもとを訪ねて周旋し、路地封鎖は解除された。天文2年(1533)には嫡男・晴信の正室に上杉朝興の娘を迎え、天文3年(1534)11月に輿入れした。これにより武田氏と扇谷上杉氏は一時的に重縁関係となるが、朝興の娘が死去したため、これは解消された。天文4年(1535)には今川攻めを行い、甲駿国境の万沢(南巨摩郡南部町万沢)で合戦が行われると、今川と姻戚関係のある後北条氏が籠坂峠を越え山中(南都留郡山中湖村)へ侵攻され、小山田氏や勝沼氏が敗北している。同年には諏訪氏と和睦する。「諏訪・今川氏との和睦」信虎は天文4年(1535)9月17日、信虎は諏訪頼満と甲信濃国境の堺川で対面し、諏訪大社上社の宝鈴を鳴らして和睦し、同盟関係が成立した。天文5年(1536)、『歴代土代』によれば、正月の除目(じもく)で、嫡男の太郎は従五位下・左京大夫に叙せられている。三条西実隆『実隆公記』では欠損部があるものの、信虎が従四位に叙せられたことを記していると考えられている。『後鑑』によれば、同年3月には嫡男の太郎が元服し、信虎は将軍義晴に対して偏諱を求め、太郎は「晴」の一字を拝領して「晴信」と名乗る。なお、晴信は天文10年(1541年)の信虎追放後に官途名を「大膳大夫」に改めている。同年3月17日には、駿河国で同年4月10日に当主・今川氏輝と弟の彦五郎が同日に死去し、氏輝の弟である善徳寺承芳(後の今川義元)と玄広恵探の間で家督を巡る花倉の乱が発生する。信虎は北条氏綱とともに善徳寺承芳を支援し、同年6月14日に玄広恵探が自害することで善徳寺承芳が勝利する。新たに当主となった義元と信虎の間では同盟関係が結ばれており、信虎は早い段階から義元自身や後見人の寿桂尼らと接触していたと考えられている。『勝山記』によれば天文6年2月10日には信虎長女・定恵院が義元正室となり、婚姻関係が結ばれた。嫡男晴信の正室・上杉朝興の娘は天文4年に死去しており、これ以降に信虎は義元の斡旋により、晴信正室に公家の三条公頼の娘(三条夫人)を迎えている。正確な時期は不明であるが、『甲陽軍鑑』では天文5年の晴信元服の直後であるとしている。
2024年04月24日
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『勝山記』によれば、都留郡においても同年12月に吉田山城(富士吉田市)を拠点とした今川勢と郡内衆が戦い、永正14年(1517)1月12日に吉田山城が陥落すると、郡内衆と今川氏の間で和睦が成立した。この頃、今川氏は遠江国において大河内貞綱・斯波義達が引間城攻めを行っていたため今川氏親は信虎との和睦に転じ、『勝山記』『宗長手記』『宇津山記』によれば、武田・今川間は連歌師の宗長が仲介し3月2日に和睦が成立し、今川氏は甲斐から退去した。なお、永正15年は今川氏の間でも和睦が成立している。永正17年(1520))に信虎は大井氏とも和睦し、信達の娘(大井夫人)を正室に迎える。甲斐国の守護所は信昌・信縄期には石和館(甲府市川田町・笛吹市石和町)に置かれていたが、『王代記』によれば、信虎は永正15年(1518)に信虎は守護所を相川扇状地の甲府(甲府市古府中町)へ移転する。『高白斎記』によれば、信虎は永正16年(1519年)8月15日から甲府に居館である躑躅ヶ崎館の建設に着手し、城下町(武田城下町)を整備し、有力国衆ら家臣を集住させた。『高白斎記』によれば、詰城として躑躅ヶ崎館東北の丸山に要害山城(甲府市上積翠寺町)を築城した。永正16年4月には今井信是が信虎に降伏し、甲府移転は信是の降伏を契機にしていると考えられている。『高白斎記』によれば、有力国衆は甲府への集住に抵抗し、永正17年(1520)5月には「栗原殿」(栗原信重か)・今井信是・大井信達らが甲府を退去する事件が発生し、信虎は6月8日に都塚(笛吹市一宮町本都塚・北都塚)において栗原勢を撃破し、さらに6月10日には今諏訪(南アルプス市今諏訪)において今井・大井勢を撃破している。『塩山向嶽庵小年代記』によれば、永正18年/大永元年(1520)27日に今川氏配下の土方城主・福島正成を主体とする今川勢が富士川沿いに河内地方へ侵攻した(福島乱入事件)。同年8月頃には今川・武田両軍の間で合戦が発生しており、この間に空白期間があることから、穴山氏当主・信風が今川方に服属していたと考えられている。『勝山記』によれば、同年8月下旬に信虎は河内へ出兵すると、今川方の富士氏を撃破している。これにより穴山氏は武田家に降伏し、信虎は駿河にいた「武田八郎」(信風の子・信友か)の甲斐帰国を許している。9月には今川勢が攻勢を強め、9月16日には大井氏の居城である富田城(南アルプス市戸田)を陥落させた。信虎は要害山城へ退き、10月16日に飯田河原の戦い(甲府市飯田町)で今川勢を撃退し、勝山城(甲府市上曽根)に退かせる。さらに11月23日に上条河原の戦い(甲斐市島上条一帯)で福嶋氏を打ち取り、今川勢を駿河へ駆逐した。この最中に、要害山城では嫡男・晴信が産まれている。信虎は穴山氏も服属させるが、福嶋勢は翌年正月の武田・今川間の和睦まで甲斐国内で抵抗を続けた。大永元年には信虎自身の左京大夫への補任と叙爵を室町幕府に対し申請し、『歴名土代』によれば、同年4月に政所執事の伊勢貞忠が伝奏の広橋守光とともにこれを奏し、信虎は従五位下に叙せられる。武田家では信重・信守・信昌三代が「形部大輔」の官途名を名乗っていたが、信虎は自身の官途を改める意志を持っていたことが指摘される。また、嫡男の晴信の幼名も歴代の「五郎」に対して「太郎」を用いている。今川勢を撃退した大永2年(1522)に信虎は家臣とともに身延山久遠寺へ参詣し「御授法」を受けている。また、『勝山記』によれば、信虎は身延山参詣の後に富士山への登山を行っている。信虎は富士山頂を一周する「御鉢廻り(八葉、八嶺)」を行っている。「お鉢廻り」は富士山頂の高所を八枚の蓮弁に見立て「八葉」と称し、後には富士山頂の八葉を廻る御鉢参りの習俗が成立する。信虎の富士登山は御鉢参りの習俗が戦国期に遡る事例として注目されている。信虎の身延山参詣と富士登山については、甲斐一国の平定を成し遂げ駿河今川氏、相模後北条氏との緊張関係が続いている情勢から、自身の地位を確立するための宗教的示威行為であると考えられている。また、大永2年には前年に信虎が甲府における菩提寺として建立した大泉寺に国内の僧侶を集めて夏安居を開催したのも、その一環とされる。「両上杉氏との同盟と対外勢力との戦い」大永年間には対外勢力との抗争が本格化する。信虎は両上杉と同盟し伊勢氏(後北条氏)と敵対する信縄期の外交路線を継承し、大永4年(1524)2月には両上杉氏支援のため都留郡猿橋(大月市猿橋町猿橋)に軍勢を集め、相模国奥三保(神奈川県相模原市)へ侵攻する。同年3月にも武蔵国秩父へ出兵し、関東管領の上杉憲房と対面している。なお、憲房は3月25日に死去し、家督相続を巡り混乱が生じている。『高白斎記』によれば同年7月20日には北条方の武蔵岩付城(埼玉県さいたま市岩槻区太田)・太田資高を攻める。信虎は遠征から帰国すると翌大永5年(1525)にかけて北条氏綱と和睦する。まもなく氏綱は越後国の長尾為景と連携して上野侵攻を企図し信虎に領内通過を要請するが、信虎は山内上杉氏に配慮してこれを拒絶し、和睦は破綻する。『勝山記』によれば、信虎は山内上杉氏の家督を預かった上杉憲寛とともに相模津久井城(相模原市緑区)を攻撃している。『神使御頭之日記』によれば、同年4月1日には諏訪頼満に追われた諏訪大社下社の金刺氏と推定されている「諏訪殿」が甲府へ亡命し、信虎はこの「諏訪殿」を庇護して諏訪へ出兵し、8月晦日に諏訪勢と甲信国境で衝突するが、武田方は荻原備中守が戦死し大敗した。
2024年04月24日
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7、「武田信虎」「武田 信虎」(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。信虎の出生と生年、明応3年(1494年)もしくは明応7年(1498)1月6日、武田氏の第17代当主・信縄の嫡男として生まれる。初名は信直(のぶなお)。生年の明応3年説は江戸時代前期に成立した軍記物『甲陽軍鑑』に天正2年に81歳で死去したとする記述から逆算されたもので、江戸後期に編纂された地誌『甲斐国志』では武田氏に関する記述の多くが『甲陽軍鑑』に拠っており、これを追認している。また、昭和戦前期には広瀬広市が信虎の菩提寺である甲府市古府中町の大泉寺過去帳・位牌に記される「天正2年3月5日逝去81歳」から逆算して明応3年を生年としている。明応3年説は昭和戦後期に磯貝正義、上野晴朗、笹本正治、小和田哲男らによって支持されてきたが、2006年には秋山敬が『高白斎記(甲陽日記)』や『大井俣神社本紀』に記される明応7年正月6日であった可能性を指摘している。「武田宗家の統一」室町時代の甲斐国では、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に守護・武田信満が加担して滅亡したことをきっかけに守護不在状態となり、河内地方の穴山氏や郡内地方の小山田氏らの国人勢力や守護代の跡部氏らが台頭し、乱国状態となっていた。寛正6年(1465)7月には守護・武田信昌が跡部景家を滅亡させると甲斐国内の実権を握り、明応元年(1492)には信昌の嫡男・信縄が家督を相続した。信昌は山梨郡落合(山梨市落合)において隠居すると、信縄の弟である油川信恵に家督を譲る意志を示し、家中は信昌・信恵派と信縄派に分裂した。信縄・信恵間の抗争は両者に甲斐国人が属したほか対外勢力とも関係し、伊豆国の堀越公方では内紛が発生し、駿河国の今川氏親と、将軍足利義澄の命を受けた伊勢宗瑞(北条早雲)により足利茶々丸が追放されると信縄は茶々丸を支持し、さらに上野国の山内上杉氏とも結んだ。対して信恵は駿河国の今川氏親・伊豆国の伊勢宗瑞と結び対立した。明応7年(1498)8月25日に発生した明応地震の影響により信縄・信恵間には和睦が成立し、『王代記』によれば甲斐都留郡の吉田(富士吉田市)に亡命していた足利茶々丸は伊勢宗瑞に引き渡されて切腹した。信縄が家督を継承し、永正2年(1505)9月16日に信昌が死去し、『高白斎記』によれば永正4年2月14日には信縄が続けて死去する。これにより信直(信虎)が家督と甲斐守護職を継承し、再び信恵派との抗争が再開される。信直の叔父にあたる信恵は弟の岩手縄美・栗原昌種(惣次郎)や都留郡の国衆・小山田弥太郎のほか、河村氏・工藤氏・上条氏らと結び、信直に対抗した。永正4年(1507)に信縄が没すると、信恵派は挙兵するが、永正5年(1508)10月4日の勝山城の戦い(笛吹市境川町坊ヶ峰)において信恵方は大敗し、信恵自身のみならず岩手縄美や栗原昌種・河村左衛門尉、信恵子息の弥九郎・清九郎・珍宝丸らが戦死した。これにより信直による武田宗家の統一が達成される。「甲斐国衆との戦い」信恵の滅亡後に、小山田弥太郎は国中侵攻を行い敗死する(坊峰合戦)。都留郡では工藤氏や小山田一門・境小山田氏の小山田平三が伊勢氏(後北条氏)のもとへ亡命する。永正6年(1509)秋に信虎は都留郡へ侵攻し、翌永正7年(1510)春には小山田氏を従属させる。『勝山記』によれば、信虎は弥太郎の子・小山田信有(越中守信有)に実妹を嫁がせている。また、都留郡へ近い勝沼(甲州市勝沼町)には実弟・勝沼信友を配した。この頃には甲斐北西部においても戦乱や信濃国諏訪郡の諏訪氏の侵攻が起こり、『高白斎記』によれば、永正6年10月には今井氏(逸見氏)の本拠である江草城が小尾弥十郎により攻略された。また、『一蓮寺過去帳』によれば、同年12月には現在の北杜市須玉町若神子の「テウガ城(丁衙城か)」における合戦で諏訪頼満(碧雲斎)による攻勢により今井信是の弟である平三(武田平三)とその侍者である源三(谷戸源三)が戦死したという。『勝山記』によれば、永正10年(1513)5月27日には甲斐国河内領の穴山氏当主・穴山信懸が子息の清五郎により殺害される事件が発生する。『菊隠録』によれば信懸の息女は信虎の本拠である川田館(甲府市川田町)近くに居住しており、信虎と友好な関係を築く一方で、今川氏親や伊勢宗瑞とも関係の深い両属の立場にあり、信懸の暗殺の背景には穴山氏家中における帰属を巡る対立があったとも考えられている。穴山氏当主となった信綱(信風)は今川氏に帰属し、永正12年(1515)には今川氏は甲斐へ侵攻する。『勝山記』『宗長手記』によれば、さらに西郡の国衆である大井信達・信業親子も今川方に帰属し、同年10月17日に信虎は小山田信有とともに大井氏の本拠である富田城(南アルプス市戸田)を攻めるが敗退し、小山田大和守・飯富道悦・飯富源四郎らが戦死した。この合戦の際にも今川氏が介入する姿勢を示し、甲駿国境を封鎖している。『王代記』『高白斎記』によれば、永正13年(1516)9月28日に今川勢は甲斐侵攻を行い、信虎は本拠の川田館に近い万力において敗退し、今川勢は中道往還沿いの勝山城(甲府市上曽根町)を占拠すると、各地を放火した。
2024年04月24日
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6、「戦国時代の武田氏」信重の復帰以降も国内の有力国人や守護代である跡部氏の専横や一族の内紛、周辺地域からの侵攻に悩まされたが、16代信昌の時には跡部氏を排斥して家臣団の統制を行い国内を安定化に向かわせるが、後継者を巡り内乱となる。*「武田 信昌」(たけだ のぶまさ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名(戦国大名)。甲斐守護。本姓は源氏。家系は甲斐源氏の嫡流武田氏で武田宗家である甲斐武田氏第16代当主。武田信玄の曾祖父。第15代当主武田信守(弥三郎)の子。正室は河内領主穴山信介の娘(兄弟に穴山信懸)。子に信縄、油川信恵、岩手縄美、松尾信賢、帰雲軒宗存、娘(小笠原清宗妻)など。『寺記』によれば諸角昌清(虎定)と山梨県甲斐市竜王の有富山慈照寺開山の真翁宗見は庶子であるとされるが、真翁宗見に関しては武蔵国の岡部氏の出自であるため、誤伝であることが指摘される。通称は五郎、落合殿。官位は刑部大輔、従五位下。父の早世により、康正元年(1455)に幼くして家督を継ぐ。父も若年での相続だったこともあり、信昌期の武田氏は守護代の跡部明海(駿河守)・景家(上野介)父子の専横を許していた。長禄元年(1457)には小河原合戦、馬場合戦において一門の吉田氏や岩崎氏らを失い(『一蓮寺過去帳』)、寛正5年(1464)に明海が死去すると、翌年には信濃諏訪領主諏訪信満の援助を受け夕狩沢合戦において明海の子の景家を撃破し、小田野城で景家を自害させる。これにより跡部氏は排斥したが、甲斐国内では有力国衆の台頭や対外勢力の侵入に悩まされた。寛正6年(1465)に室町幕府の指令で今川義忠と共に関東出陣を命じられたが、信昌がこれに従ったかは不明(享徳の乱)。文明4年(1472)、信濃佐久郡の国人大井政朝が甲斐八代郡へ侵攻してきたため、花鳥山(山梨県笛吹市)で合戦を行った(『勝山記』)。後に信昌は大井氏の弱体化を見て逆に佐久郡へ侵攻したが、同じく佐久に侵攻していた村上氏のためにこれを阻まれた。『勝山記』などによると、信昌期に飢饉や疫病の蔓延、一揆の発生などの記事が散見している。こうした中、延徳2年(1490)には穴山氏・大井氏(武田大井氏)が合戦を始めるなど、穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏といった国内の有力者が自立の動きを見せるようになる。明応元年(1492)に長男の信縄に家督を譲って隠居した。矢坪(山梨市矢坪)の永昌院を創建して菩提寺としている。また「落合御前」と呼ばれていることから、万力郷落合に館を構えていたと考えられている。しかし、家督を信縄に譲ったにも関わらず、信昌は次男の油川信恵への家督相続をのぞみ、信昌・信恵方と信縄の内訌が双方を支持する甲斐有力国衆・対外勢力との争いと関係し、甲斐は乱国状態になったという。明応7年(1498)に一度和睦し、伊豆の伊勢盛時の介入に対抗したが、盛時の脅威が去ると再度信縄と抗争した。信縄との抗争の最中、永正2年(1505)に59歳で死去。法名は永昌院殿傑山勝公大禅定門(『甲斐国志』に拠る)。信昌は長期にわたり国主の立場にあり、国人勢力や対外勢力を撃退し、後代の譜代家臣層のなかに「昌」の偏諱を持つものが多いことから甲斐の国内統一を進展させたと評される一方で、晩年には国内を二分する内乱を招き、武田氏の戦国大名としての飛躍を果たすことができなかった。この内乱は永正5年(1508)に孫の武田信虎が信恵を討ち取るまで続く。子息のうち帰雲軒宗存(きうんけん そうぞん)は、『武田源氏一統系図』によれば信昌の子とされる。生没年不詳で、出家した事実のみが知られる。なお、甲府市上曽根に所在する曹洞宗寺院の竜華院の四世住職には大用宗存がいるが、大用宗存は大和国高市郡出身で竜華院住職のほか末寺である三星院(中央市木原)の中興となった人物で、帰雲軒宗存とは別人であることが指摘される。)18代信虎の頃には国内はほぼ統一され、積極的に隣国である信濃国に侵攻して家勢を拡大し、武田信玄の時には大名権力により治水や金山開発など領国整備を行い、信濃に領国を拡大した。
2024年04月24日
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第6代将軍・足利義教の頃には永享の乱で鎌倉府が衰亡し、信元の死後に信満の子の武田信重が同じく幕府の支援を受け甲斐へ派遣されると、結城合戦で功績を挙げ再興のきっかけをつかんだ。 *「武田 信重」(たけだ のぶしげ)は、室町時代中期の守護大名。甲斐武田氏の第14代当主。元中3年/至徳3年(1386年)、第13代当主・武田信満の長男として甲斐国都留郡に生まれる。室町時代に甲斐国は関東8か国を支配する鎌倉府の管轄下に置かれていたが、応永24年(1417)に鎌倉公方の足利持氏と前関東管領の上杉氏憲(禅秀)の対立から発生した上杉禅秀の乱で守護信満は縁者である禅秀方に味方し、持氏の討伐を受けて敗死する。乱に際して在京していた信重や叔父の信元はともに剃髪して高野山に入り、信重は光増坊道成と号している(『鎌倉大草紙』)。当時、甲斐国の守護は他の東国諸国と同様に鎌倉府の支配下にありながら、その任免は京都の室町幕府によって決定されるという複雑な構造になっていた。持氏は甲斐守護に武田有義系の子孫と伝わる逸見有直を望むが、鎌倉府と対立する幕府は武田氏の守護復帰を企図したため、信元は応永25年(1418)に還俗し甲斐守護に任じられ、信濃国守護小笠原政康の後援を受け入国する。信元は守護代跡部氏の援軍を得て反武田勢力の逸見有直と対抗するが、信元は応永27年(1420)に死去(戦死か)、甲斐は守護不在状態となる。信元の死後、跡部氏に補佐された信重の弟・武田信長の子・武田伊豆千代丸と逸見氏や反武田勢力との抗争が、やがて伊豆千代丸と対立した跡部氏が武田信長を国外へ駆逐し、跡部氏の専横が強まっていく。応永28年(1421)に幕府は信重を新たに守護に任命する方針を鎌倉府に示すが、持氏はこれに抵抗したため、実際に任命人事が発令されたのは応永30年(1423年)6月5日のことであった(『満済准后日記』同日条)。ところが、信重は逸見氏・穴山氏の抵抗を理由に甲斐への帰国を拒否[2]し、それが受け入れられなければ就任を拒否する姿勢を示した。そのため、任命は中止され、信重は四国への隠棲を余儀なくされた。逸見氏や穴山氏の件は表向きの理由であり、本質的な拒否理由は在倉制にあったとみる。関東など鎌倉府管轄下の諸国の守護は鎌倉に出仕して鎌倉公方に奉仕する義務を負っていた。だが、それは同時に鎌倉公方が自分の敵対する可能性のある守護を粛清する好機でもあり、実際に幽閉・殺害された守護も存在した。信重は上杉禅秀の乱への加担者に対する報復を進めていた持氏によって自分の命を奪われることを危惧して帰国を拒否したが、室町幕府(足利義持)としては信重の拒否理由は情においては理解できたものの、在倉制は守護としての義務であり、これを拒絶した信重を幕府に対する抗命として京都から追放、事実上の配流にせざるを得なかったのである。この状況を見た足利持氏は応永33年(1426年)に甲斐国に出兵して、武田信長を降伏させて鎌倉に出仕させた。持氏は伊豆千代丸を守護と認めることで信長父子を懐柔する一方で、実質においては幼少の伊豆千代丸に代わって甲斐の直接統治に踏み切ったのである。この流れが変わったのは、足利義教の征夷大将軍就任後である。義教は再度、信重に甲斐守護就任を命じ、更に隣接する駿河国駿東郡の佐野・沢田両郷を与える提案が出されるものの、信重は再度拒否するが、義教は信重を許して京都に呼び戻した上で摂津国溝杭荘の一部を与えたのである。これは持氏との対決が近いと考えた義教が信重を庇護する姿勢を示したものであった。永享5年(1433年)には跡部氏による輪宝一揆によって甲斐における勢力を失った武田信長が鎌倉を出奔し、永享6年(1433年)に入ると跡部氏が室町幕府と極秘に交渉を行い、管領細川持之や満済の説得を受け入れた跡部氏が信重を守護として迎える姿勢を示した。永享7年(1434年)3月には京都において信重と跡部氏の対面が行われるとともに、跡部氏は幕府に対して信重を守護に擁立することを約束したのであった。永享10年(1438)信重は小笠原氏や跡部氏の援助を得て入国する。信重の帰国した時期は幕府と鎌倉府の対抗が最大限に達しており、永享の乱では信重も出兵要請を受けているが、このときは出兵した形跡が見られない。続く結城合戦や嘉吉の乱では信重も出兵しており(「足利家御内書」)、信重期には鎌倉府や逸見氏の没落により甲斐国内も収束に向かっていると考えられている。なお、結城合戦においては結城持朝(結城氏朝の子)の首級を挙げている。文安3年(1446)、信濃守護・小笠原政康の死後に発生した争いでは幕命により小笠原光康擁立に尽力している。領国経営では3点の文書が現存し、文安2年(1445)には塩山向嶽寺への寺領安堵を、文安3年(1446年)の甲府一蓮寺再興を行っている。また、信重期には譜代家臣団が形成されはじめていることも指摘されている。宝徳2年(1450年)、信重は黒坂太郎を討伐中に穴山伊豆守(実名不明)に殺害された。享年65歳。伊豆守は穴山満春の実子とされ、信重が次男の信介を養嗣子として穴山家に送り込んだため、それを恨んで引き起こしたもので
2024年04月24日
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元弘3年(1333年)閏2月には後醍醐天皇が隠岐を脱出し伯耆国船上山(鳥取県琴浦町)で挙兵するが、『太平記』金勝院本に拠れば、武田政義は石見守護代盛信を討ち、船山本に馳せ参じたという。同年4月、幕府方から援軍として送られた足利高氏が丹波篠村(京都府亀岡市)において後醍醐方に通じ、京の六波羅探題を滅ぼす。甲斐源氏では5月25日に千早城攻城参加していた南部武行が敗走する途中で三河矢作宿において足利方の仁木氏・細川氏、「武田十郎」から尋問を受けているが(「南部時長等重陳状」)、この「武田十郎」は政義に比定される可能性が考えられている。鎌倉幕府滅亡後、元弘3年6月に成立した後醍醐天皇の建武の新政においては六波羅に味方した武田信武に代わり甲斐源氏一族の総領となり、建武元年(1334年)10月14日の北山殿における笠懸においては小笠原貞宗(信濃守)、秋山光助(孫四郎)、小笠原長俊(孫四郎)、小笠原宣貞(二郎四郎)らとともに、射主交名として見られる。建武政権における守護補任は不明だが、建武2年に足利尊氏が建武政権から離反して後醍醐方と敵対すると政義も尊氏方に属し建武3年正月には信濃守護小笠原貞宗とともに信濃諏訪郡へ侵攻しており、この時点では甲斐守護となっている。南北朝の内乱における甲斐源氏では安芸守護武田信武が尊氏方に加担しており、甲斐では建武3年5月5日に後醍醐方の初雁五郎が挙兵し大善寺を焼き討ちしているなど反足利勢の活動が見られるが、政義はその後南朝方に転じ、康永2年(1343年)には幕府方の守護代に攻められ討死している。) 5、「南北朝時代・室町時代の武田氏」その後南北朝時代には安芸守護であった信時流武田氏の武田信武が、北朝・足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、観応年間には南朝方の政義を排して甲斐国守護となった。信武の子孫の信成・信春も甲斐守護を継承したと見られている。*「武田 信武」(たけだ のぶたけ)は、南北朝時代の武将。武田信政の子信時にはじまる信時流武田氏の生まれ。甲斐源氏嫡流甲斐武田氏の第10代当主。『甲斐国志』によれば、「生山系図」を引用し室を足利尊氏の姪とする。室町幕府の引付衆にも任じられた。父・信宗の後を受けて当主となる。安芸国守護であったが、自身が安芸に直接赴いたかどうかは不明である。元弘2年/正慶元年(1332年)9月、元弘の乱に際して鎌倉幕府方として出陣。そのため、鎌倉幕府滅亡後に発足した後醍醐天皇の建武政権においては討幕軍に従い戦った甲斐国守護・石和政義の後塵を拝していた。建武政権より離反した足利尊氏の軍勢催促に応じ、建武2年に挙兵し、熊谷蓮覚の本拠矢野城(広島市)を攻略している。翌年には上洛し、足利勢と合流し主に畿内を中心として宮方と戦い、また安芸国内の沈静化にも務めている。鎌倉時代後期には、安芸守護として本拠を移した信時流武田氏に代わって甲斐守護は北条得宗家と結びついた庶流石和流武田氏が継承しており、政義は建武政権に加わり甲斐守護を安堵されたが1343年に戦死している。政義の死後には甲斐への介入を強め、貞和2年(1346年)に一蓮寺へ行った寄進をはじめ甲斐国との関係を示す史料が見られる。将軍尊氏と実弟直義の対立から発生した観応の擾乱の最中には甲斐守護への補任を示す史料が見られ、直義追討のため甲斐へ入国したと考えられている。尊氏の信頼が篤く、尊氏が天竜寺を造営しようとした際には信濃守護小笠原氏らと造営に協力している。没年は甲府市の法泉寺の位牌によれば延文4年(1359年)であるが、一蓮寺過去帳や傑翁是英語録によれば康安2年(1362年)であるという。翌年に死去し、跡を子の信成が継承し、安芸守護職は次男の氏信が継承した。和歌に優れた教養人でもあり、『新千載和歌集』には信武の作品が修められている。)信武の子の代で武田氏惣領家は3家に分かれた。甲斐武田家・安芸武田家・京都武田家がそれである。甲斐国は鎌倉府の管轄であったが、室町時代の応永23年(1416)に鎌倉府で関東管領の上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻し、上杉禅秀の乱が発生する。武田信春の子である武田信満は甲斐守護を継承しており、信満は女婿にあたる禅秀に味方したが、幕府の介入で禅秀は滅亡し、信満は鎌倉府から討伐を受けて自害する。これにより甲斐は守護不在状態となり、甲斐国人である逸見氏が鎌倉公方・足利持氏の支持を得て守護職を求め台頭した。一方、室町幕府では高野山で出家した信満の弟である武田信元を還俗させ、信濃守護・小笠原氏などに助力させ甲斐へ派遣する。 *「武田信元」生年:生没年不詳室町時代前期の武将。甲斐国(山梨県)守護。信春の子。信濃守,陸奥守。応永24(1417)年,上杉禅秀の乱に連座して兄信満が自害すると,高野山に逃れ剃髪して空山と号した。鎌倉府の推す逸見氏の守護補任を好まない幕府により,同年守護に任じられ,甥で信濃国守護の小笠原政康(母は信満・信元の姉)の後押しを受けて、25年甲斐入国を果たす。しかし逸見氏の力はなお強く、守護代に任じた跡部氏の発言力も次第に強まり,その統治は安定しなかった。同28年以前には死去したものとみられ,跡は甥信重の子伊豆千代丸が継いだ。なお信元の名は多くの系図にみえず,現在では信満の弟穴山満春と同一人物とする説が有力である。)
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